@taneimosiitake
カランカラン。
ドアベルが、優しい音を出しました。
「いらっしゃいませ」
階段の下から、コーヒー色の髪をして、エプロンを付けた店員、マルタが顔を出しました。
「お好きな席にお座りください。今メニューをお持ちしますね」
「あぁ……ありがとう」
ドアから入って来た老人は、ゆっくりと階段を降りてくると、隅の席に座りました。
老人はメニューを受け取り、しばらく眺めた後、ふと顔を上げました。
「……ちょっといいかな」
「はい。ご注文でしょうか?」
メモを持って来ようとするマルタを、老人は「いや……」と言って止めました。
「……ここで働いているのは君1人なのかい?」
「……いいえ。ですが、今日は僕1人です」
「そうか……。ありがとう」
老人は少し黙ってから、再び口を開きます。
「……昔、まだ私が子供の頃に、母とここに来たことがあるんだ」
マルタが老人を見ました。老人は、ゆっくりと優しい表情で語ります。
「幼い頃の記憶だから、本当にあったことなのか、それとも夢なのか曖昧だった。それでも私にとって、暖かくて、懐かしい母との大切な思い出だった」
老人はゆっくりと店内を見回して、呟くように言いました。
「……この店は今も、私の記憶の中にあるままだ……」
そして最後に、近くの壁にかかっている日めくりのカレンダーを見ました。そこには、7月9日の文字と、三日月のマークが書いてありました。
「……もちろん、少しは変わっているんだろうけれど」
老人はそう言うと目を閉じて、「すまないね、勝手に1人で話してしまった」と言い、メニューを指で指しました。
「このパンケーキを頂いてもいいかな」
マルタは再びメモを手に取り、注文を書き記しました。
「もちろんです。お飲み物はいかがなさいますか?」
「では……コーヒーを」
「かしこまりました。少々お待ちください」
マルタはキッチンの方へ向かいました。キッチンの方向から、パンケーキの焼ける音と、優しい甘い香りが漂ってきます。しばらくすると、マルタがパンケーキを持って戻ってきました。
「お待たせしました」
老人はお礼を言うと、少しの間パンケーキを見つめ、そして一口分を切って口に入れました。
「……母とこの店に来た時も、このパンケーキを食べたんだ……」
老人の話す様子は、思わず言葉が溢れ出してしまったというように見えました。
「あの時の、ままだ……本当は、母ともう一度来たかったんだ。でも、そうでなくても、今……」
老人は目をつむり、そしてどこまでも透き通るような紅茶色の瞳でマルタを見ました。
「何だか……母が、戻ってきたような気がしているよ」
マルタは微笑み、そして静かに目をつむりました。
誰も何も言わず、ただ優しい空気だけが、店内を流れていきました。
「……この世界で最も大きな力は、時です。誰1人として時の流れには抗えませんからね」
マルタが静かに口を開き、そして目を開けました。
「でも時が流れるからこそ、人は過去を愛し、今を楽しみ、未来に想いを馳せるんです」
マルタはそう言うと、老人とパンケーキを見比べて、再び優しく微笑みました。
「だからこそ人は、思い出を、大切な人を、守りたいと思うんです」
老人は優しく、しかしほんの少し寂しそうに微笑んで、パンケーキをまた一口、口に入れました。
2人からは見えない死角からその様子を聞いていたソネットは、ため息をついて呟きました。
「それだから、忘れられない思い出なんてものができてしまうんだって」
「貴方に、忘れたくない思い出をご提供できて、良かった」
静かで、優しくて、特別で。そしていつも通りの時間が、少しずつカフェの店内を流れていきました。