@shiminus
180103@shiminus
ああ、疲れた。真っ暗な部屋に明かりもつけずベッドへ倒れ込んで、僕は溜め息と悲しみとを一緒くたに吐き出した。右手でネクタイを緩めながらすぐそばのローテーブルに左手を伸ばしたら、手の甲に空き缶がぶつかって床へ転がり落ちた。カランという空虚な音で悲しみが倍になった気がした。
「おかえり、社畜。また終電まで残業?」
部屋の明かりがぱっと点いて、僕は眩しさから逃れようとベッドに顔を埋めた。ただいま、と返したかったけれど、次になにか喋ればきっと嗚咽が漏れるだけなんだ。どうして僕はこんなにも、惨めな気持ちでいるんだろう。
「ねえねえ、ご飯食べないの? しおとしょうゆとしーふーど、どれにする?」
カップ麺かと思いきや、後頭部に枕が落ちてきて、衝撃で目に涙がにじんだ。
「ごめん、しのぶ……今はそういう気分じゃない……」
「えーっ、お腹空いてないの? お風呂入る? もう寝ちゃう? お着替えしないとスーツしわしわになるって、ママに叱られるよ」
「……かあさん、来てたの?」
そういえば昼間オフィスで作業をしていたら、昼休みを待っていたかのようにタイミングよく電話が鳴った。煩わしさと嫌な予感とでとっさに電源を切ったけど、まだ怖くて再起動すらしていない。きっと着信履歴には同じ名前がずらりと並んでいるんだろう。
「うん、すごくイライラしてた。電話かけてもそうめいが出ないって、携帯に向かってなんか吠えてた」
「……はぁーッ」
うちに来てなにがしたいんだ。勤め先が決まり、独り暮らしを始めて三年、さすがに生活サイクルも土地勘も頭に入っている。確かに掃除や洗濯は溜め込みがちだが、勝手に入ってきて許可もなく、片付けという名の家捜しをされると迷惑だ。息子である以前に、ひとりの成人した男なのだと、何度訴えたかわからない。
「……しのぶ、怖い思いさせてごめんな。どうしたらいいか、解んなくってきた」
シーツと顔の間で眼鏡のフレームが食い込んできて痛い。けれどそれを取り払うために手指を動かすことすら億劫で、このままシーツと一体化して消えてしまいたいなんて思ってしまう。
「……ねぇ、デンシるにお返事きてたよ。見ないの?」
「だれ、から……?」
「穂希と吹雪姫、それとスザク」
僕はそこでようやく顔を上げた。鞄は玄関に投げ出してきたが、スマートフォンと充電器は日頃の癖のおかげか、ベッドの下まで引きずってきていたらしい。手探りで薄く冷たい端末を引っ張り上げ、デンシるのホーム画面を開く。見慣れたアイコンからの通知が2件とメッセージが1件、確かにあった。
穂希 @iamai1130:出た、デメキンさんの新作!! 今回も綺麗でカッコいい!!
投稿時間 06:54
吹雪姫@ちょっと憂鬱 @p_jet8blizzard:ちょ、なにこれすごい! 即保存しました。透明感があってすごく好き!
投稿時間 14:30
昨日の夜、数週間かけて仕上げたイラストを掲示板にアップしたことへのレスポンスだ。通知の文章は冷ややかな活字でしかないが、画面の向こうに僕の拙い作品を気に入ってくれる人たちがいると知れるだけでもとても嬉しい。
メッセージ一覧を開くと、お馴染みの赤いアイコンが目に飛び込んできた。火炎と雷光の中に翼を広げる鳥の絵だ。頻繁にコメントや閲覧足跡を残していってくれる相互フォロー、SUZAKUさんのアイコンだ。
SUZAKU @SUZA9_Y:さきほどのイラスト拝見しました。毎回すごい力作ばっかりで、水彩もとてもお上手で、やっぱりデメキンさんは俺の憧れです。俺なんて美術の成績2だから、真似してやってみようにも全然です。コツとかあったら教えてほしいです!
受信時間 22:19
僕は冷たい機械を胸の前へ抱き寄せるようにして、ベッドの上で転げ回った。呼吸を持つひとつのコメントは、具体的な応援の声は、それがたった一文の短いものでも、何十何百の「いいね」よりクリエーターを勇気づける。偉そうなことは言えない、趣味の範疇でファンアートを描くばかりの僕だけれど、絵を描くために割いた時間を、構図や色合いがうまく決まらず悩んだ時間を、作品のために書き損じたりもした絵具や画用紙を、それらが決して無駄じゃなかったと励ましてくれる声があるだけで、どれだけ製作者の心が救われることだろう。たとえそれが定型文の褒め言葉だったとしても、それがお世辞でなく本心から出た言葉だというならなんだって構わない。素直な感動が、率直で前向きな意見が、煩悶の中で仕上げた愚作を名画に変えてくれる。次またどれだけ苦心しても、新たな一枚を描いてみようという気にさせてくれる。皆が背中を押してくれるから、僕はまた自らの心を絞り出して、絵を描こうと思えるのだ。
そういえば、と掲示板の一覧を開くと、こんな夜遅くにひとつだけ活気のあるエリアがあった。二次創作の交流掲示板が、数分おきに新規書き込みと閲覧記録が追加されているのだ。イラストの投稿や写真のアップロードがなく、文字だけのやり取りに特化したエリアなだけあって、掲示板を開くとおびただしい量の活字が目に飛び込んできた。
タイムラインを遡ると、午後十時頃から同じ投稿者が交互に長文を投稿し続けているのが分かった。SUZAKUさんが土星さんというフォロワーとリレー小説を書いている。設定は、……
「えっ、……電波戦士?」
僕が驚いたことが気にかかったのか、画面の端にしのぶが乗っかってきた。緑色の雲形アンテナに少し遮られて画面が見えにくくなったが、構わず小説を追っていく。
「そうめい、何て書いてあるの?」
「僕たち人間と、しのぶと同じ電波人間とがコンビを組んで戦うんだって。……ふーむ、なんだかすごいバトルシーンだなぁ」
舞台は現代。モンスターが世界各地に出現し、人々を困らせている。電波人間と人間が協力しあってモンスター退治をしていく組織が存在し、主人公たちはそのメンバーとして戦っていく傍ら、敵の親玉を追っている。そしてついに、アジトを突き止め、ボスとの最後の戦いが始まろうとしていた……
「へえ。ボクらと一緒だね」
彼にとっては無意味な文字の羅列を眺めて、しのぶが笑った。
それにしてもよくできた設定だ。あまりにも真に迫った描写と世界観で、まるで「こちら側の人間」が書いたかのようだけれど。
「……まあ、こっちのはそういうのを知らないひとたちの純粋な二次創作で、たまたま名前が被っただけなんだろう。あれは門外不出の極秘事項、掲示板に書き込もうものなら即刻『凍結』されるって噂だし」
「トーケツって、何?」
「デンシるのアカウントが使えなくなるってことだよ。投稿も掲示板への書き込みも、他の人に話しかけることもできなくなって、特殊な記事も見れなくなる。デンシるっていう建物から追い出されるってことさ」
「ふーん、そうめいが書いたら出禁だけど、こっちのひとたちがおんなじこと書いてもなんにも叱られないってこと? ずるーい」
厳密には違うんだけど、と僕は苦笑しつつ、小説の続きを読むことにした。SUZAKUさんの文章は荒々しくも勢いがあり、設定をどんどん付け足しながら物語の輪郭を創り上げている。土星さんの文章は簡潔に書かれていて読みやすく、SUZAKUさんの設定にうまく合わせながら足りない要素を補っている。
まるで連携技だ。想像がかき立てられる。例えばもしこのふたりがタッグを組んで、本当にモンスターと戦うとしたら。例えば彼らのパートナーとなる電波人間は。例えば彼らが戦いの中で開花させる能力は。例えば、バトルスーツを彩る装飾品の色や形は……。
「しのぶ、絵の具どこにしまったっけ?」
散らかったままの本棚に手を突っ込んで、一番上の棚を探った。大きなスケッチブックと濃いめの鉛筆を三本、それからねりけしが入ったプラスチックのケース。
「そうめい、寝ないの?」
「……あとにする!」
今しかない。今しか描けない。この衝動のまま真っ白な画面に鉛筆を走らせて、意識の奥底に顔を出した新芽に、鮮やかな水を注いでやりたいのだ。
おおまかな構図、光が当たるだいたいの向き。風はどこから吹いていて、彼らはどこに注意を向けている? うっすら絵の外観が分かったら、細かな部分を書き込んでいく。途中で鉛筆が一本折れたけれど、構わず次の鉛筆に手を伸ばした。
「あったよ。左の棚の一番下」
黒く横長のバッグに画材全てが入っていた。バケツに水道水を突っ込んで、勢いに任せて色を塗っていく。パレットは昨日イラストを仕上げたときのままだったが、構わず上から同じ色を足していった。
「しのぶ、レモンイエロー取って。それからマゼンタ」
しのぶはバッグの中に入り込んで、自分の背丈より大きいチューブを抱えて持ってきてくれた。字が読めないしのぶはチューブ側面の色と、僕の言葉とを照らし合わせて記憶していて、けれど指示を間違えたことは一度もなかった。
「ここ、何がいいかな……黄緑? いや、赤紫とか……」
色彩は、真っ白な無の世界に命を宿してくれる魔法だ――小学生のとき、図画工作の授業で先生がそう言っていた。画用紙の中で眠っている彼らはまだどこか頼りなさげで、色のない世界で不安そうな顔をしている。僕は、きっと彼らのように強くはなくて、大きな敵を前にすればしり込みしてしまう臆病者だ。それでも、わずかな希望を信じて剣を抜く彼らを、助けてやりたいと思う。一緒に前を向いて、戦いのサポートをしてやりたいと願う。僕の水彩という魔術が、色を与える能力が、彼らに新たな力を貸すきっかけとなるのなら。
「……っ、新規投稿?」
端末が小さな音を立てて、僕は手を拭いながら掲示板の更新ボタンをタップした。SUZAKUさんがバトルシーンの続きを書いたらしい。主人公をかばったヒロインが消滅の呪いを受けている。体が徐々に透けていくヒロインを助けようと、回復魔法の使い手があれこれ呪文を試すが、タイムリミットがすぐそこまで迫っていて……。
「……しのぶ、青を取って」
書き手も読み手も、主人公たちと同じ気持ちでいるはずだ。複雑な過去を持ち、それでも仲間のために戦おうと決めたヒロインを、全てなげうって主人公を守ったヒロインを、こんな簡単に消してしまっていいものか! 僕は一番細い筆に青の絵の具を原色のまま取って、画用紙の中で笑うヒロインの瞳に塗りつけた。心を染める哀しみ、広大無辺な空、生命を育み地上へ解き放った海。どれをとっても彼女の色に相応しい。
掲示板という小さなコミュニティの中で他愛ない話ができる友達として、方法は違えど頭の中にある想像を形にして発信する創作仲間として、SUZAKUさんとはデンシるの中で毎日のように交流している。実際に顔を合わせたことはないし、どこの誰かも知らない関係だけれど、似た趣味と好みがあって出会えたことは、陳腐な言い方だけれども、やはり奇跡なのかもしれない。
本なんて教科書以上のものを読んだことがないし、ゼロから物語を書いたり考えたこともない僕だから、カッコよくて力強い物語を即興で書ける彼にはいつも驚かされる。
どうせなら、彼の作品に挿し絵を描いてみるのも楽しいだろうか……
再び端末が振動して、僕は手を拭いながら嬉々として画面を開いた。しかし次の瞬間違うアプリが起動して、僕は凍りついた。新規投稿があったんじゃない、デンシるの通知ですらない。無料通話とチャットのサービスが受けられるアプリに、大量の着信履歴とショートメールが入っていたのだ。
――どうして電話に出ないの? そんなに仕事のほうが大事なの?
画面を黒く染める無機質な重圧。途端に僕は氷水を浴びたみたいに心が萎んでいくのを感じた。
迂闊だった。携帯を切っていても家族グループのチャットにはいくらでも呪詛の履歴が残る。悪意と我侭を極めた長文が三つ四つと短時間に連投されていて、どれも返事をしない僕に関する苛立ちと不満の口撃ワードのオンパレードだ。そして悲しいことに、読まなければいいものを、僕は十八年分の調教に逆らえないまま全文をひととおり読んでしまい、ひどく打ちひしがれて動けなくなったのだ。
僕は何をしているのだろう。こんな不毛なことをして、何が残るのだろう。
きっとこの絵を掲示板に投稿したって、SUZAKUさんは迷惑に思うに違いない。彼の中には彼なりの、キャラクターのイメージや夢があるはずだ。僕が絵というゆるぎない設定を勝手に決めてしまえば、文字でしか説明できない彼は第三者の先入観に世界観を壊されて困るかもしれない。そもそも、あの小説はSUZAKUさんだけのものじゃない。土星さんだって、せっかくふたりで楽しく小説のやりとりをしているところに、見ず知らずの僕に水を差されたら気分を害するだろう。
僕は、何をしているのだろう。こんなものを描いたって、誰に見せるものでもないというのに。
「……そうめい、もういいの?」
完全に筆が止まった僕を見て、しのぶが首を傾げた。僕は返事もせず筆とパレットを片付けて、まだ乾いていない画用紙は本棚の一番空いている場所に置いた。まだ塗り残しはあるけれど、完成させるかどうかは分からない。そんな気力があったところで、だからなんだというのだ。こんな無駄な時間を過ごすくらいなら、明日のために眠るか、残業しても追い付かなかったノルマの消化をしたほうがよかった。
ああ、疲れた。
「寝ちゃうの? ご飯は? お着替えは?」
「……ごめん、やっぱいい」
皺になるとまずいから、と辛うじてシャツまで脱いだものの、洗濯が追いついていなかったせいで部屋着はどれも汗臭かった。癖の強いくしゃくしゃの髪をもっとグシャグシャにして、僕は部屋の明かりを消した。
***@REDWINDS
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