玉屑って読めないよね、わかる。薬師さんお借りしています。冬のちょっと長いお話、の、その1。
@san_ph7
1.冬の花嫁
ちらちらと、玉屑舞う空模様である。
彼は息を吐いた。白い靄が風に拭われ、霧散していく。雪空の雲が低く垂れ込め、朝だというのに辺りは薄闇に包まれていた。彼は森の中にいるのだ。
天までそびえ立つ険峻な山脈のすそ野には北方の高原が広がっている。そのほとんどは森林地帯で、古来よりこの地に住まう人々は森を焼き払い、土地を確保してきた。だが森は深く、昼なお暗い。この暗闇の中で感じられる密やかな気配は、姿見えぬものの脅威を人間の本能に訴えかけるには十分だったのだろう。その暗がりに、しばしば人間は魔物や精霊を見た。秘されたものたちは、彼らに森という恵みと自然の恐ろしさという形を持って立ち現れる。
しかして未だその闇の中に孕んだ神秘の全てを人間によって暴かれたわけではなく、森は人間の生活の糧ではあったが、一方では触れざるべきものの住処として今もあった。周辺の住人は、森を切り拓く”刈り月”の頃でもなければ積極的にそこへは入ろうとしない。
彼はというと、弦を張った弓を背負い、締まった雪の地面を歩きながら獲物を探していた。いわば朝の任務である。
人の姿を保ってしばらく経つが、左目を厳重に封印したことにより、こうして外から魔術をかけてしまう分にはそれが却って安定に寄与した。我流で無理やり魔力の出力を抑えていた頃に比べれば、この重い体にも慣れたものである。姿を偽ったときに体にかかるこの負荷は、もしかすると人間がいつも感じている体の重さそのものに近いのではないか、と彼は感じている。おかしなことに、聖界で人に紛れて活動することも多かった彼がこれに気づいたのは、ごく最近のことである。
重みに耐えられなくなったのか、そこここで枝葉から雪の滑り落ちる音がする。鋭敏に感覚を研ぎ澄ませながら、彼は慎重に森を歩いた。
黒々とした木々の間に猪のようなそれを見つけたのはそれからすぐのことだった。幹に体を隠し、体勢を低くする。それが魔獣であることに彼は何の疑問も抱かなかった。魔力濃度の不安定な土地柄であることは調査済みだ。周辺で見かける獣が尽く変異しているのは、この土地では珍しくないことなのだ。
いつだか彼を崖下に突き飛ばしてくれたものと比べれば大分小さいが、それでも十分な大きさだ。彼は矢をつがえた。ギシ、と弓が軋む。
次の瞬間、獲物は断末魔を上げて倒れた。木立の間隙をすり抜け放たれた射撃は、的確に急所を射抜いたようだ。彼はほっとして、肩の力を抜いた。片目を完全に遮ってしまうと距離感が鈍ることに気がついたのも、最近のことだ。
倒れた魔獣に近づく。突き刺さった矢を抜いて、携帯していたナイフで喉を掻き切り血抜きをする。一息ついていると、冷たい空気のせいか急に冷静になった。もしかすると、思ったより大きかったかもしれない。ひとりで運べるだろうか。
思案していると、背後からサクサクと雪を踏む音が聞こえた。振り向けば、厚手の防寒着の上から皮の胸当てをした兵士がこちらへ向かってきている。
「ロアン!」
彼が大声で呼ぶと、少し驚いたような顔をした男は早足になった。近くまで来て、彼の仕留めた獲物の大きさを見ると、頭を掻いた。
「でかいな」
「でも君と僕なら運べる。手伝ってくれる?」
承知した、とロアンは答えると、手早く魔獣の足を縛り上げる。彼はその間に、積雪によって折れてしまった太い枝を見つけてきた。彼らは枝にロープを引っ掛けると、同時にそれを持ち上げ、肩に担ぐ。
「ありがとう」
「礼を言わなければならないのはこちらの方だ。この間の一件といい、今日といい、お前がただの勇者の付き人だというのが、俺には理解できん」
「ただの付き人だよ」
くすんだ赤い髪をした男が少し首を傾げる。彼らはゆっくりと歩き出した。
森林地帯で薬師の勇者と彼が魔獣に襲われていた兵士をひとり助け出したのは、彼らが北の地にあるという王国を目指していた、その途中のことであった。ロアンは王国の兵士を束ねる部隊長だ。ロアンから礼がてらに聞かされた話では、彼らは通年に渡って市壁外で王国隷属化にある集落の「守護」をする為に遣わされる兵士なのだという。
やがて森を抜けて、彼らは開けた場所へと出た。切り出された材木で組まれた簡素な建物が見えてくる。王国兵士の使う屯所だ。この地に住む人間の知恵か、見た目よりこの住居が風雪を凌ぐことに優秀であることを彼は身を持って知っていた。
彼らふたりが戻ると、外で火を焚いていた若者がひとり駆け出してくる。
「お疲れ様です。後ろのそれは……」
「見ての通りだよ。解体やってみるか?」
ふたりが広場の真ん中へそれを降ろすと、待機していた兵士にロアンはナイフを渡した。この間襲われていたのは彼である。怪我はしていたものの、薬師の勇者の手当を受けて今は元気だ。
「ふたりでやるの?」
「何、内蔵抜きまでさ。皮剥ぐのは手伝ってくれ」
「わかった」
覚束ない手元で、ロアン指導のもと兵士は毛皮の下へ刃を入れた。
彼はそれを火のそばでぼんやりと眺めている。駐留地では現在十数人の兵士が勤めに当たっていた。食料の支給は越冬分ぐらいしかなく、また冬季の彼らの仕事といえば森の中へ入って村に近づく魔物を退けることぐらいだったので、うまくいけば肉にありつけることも、ままあるらしい。彼はここへ世話になることを決めたとき、こうした森の巡回と食料調達をかって出た。
「肝を傷つけるなよ」
ナイフの切っ先を慎重に扱う若者に向かってロアンはそう言った。肝を食そうというのではない。魔獣たちは体内に魔力を溜め込む器官を持っている。この部位は、食用には適さない。しかし、薬師の勇者がたまたま解体を見ていた際に、普段なら廃棄するその部位をもし良かったらとっておいて欲しい、というので、彼らは大した労力も要しない恩人の願いを聞き入れた。連日、森で獲物を仕留めてくる彼のおかげもあり、魔獣の肝を乾燥させるため、今も軒にいくつかがぶら下がっている。
ロアンの手ほどきと手助けを受けながら、若い兵士は自分の仕事をやり遂げたようだ。彼は火のそばを離れ、自分の持っていたナイフを手に作業の手伝いへと入る。
3人がかりで作業を終えるころには、太陽が昇り、空はいつの間にか晴れていた。切り分けられた肉の量はかなり多く、半分程度は保存に回すことになるだろう。冬が長いおかげで、食料を腐らせる心配をしなくていい。彼はちらりと、まるで勲章のように風に吹かれているそれらを見た。張り切りすぎたのは確かだ。
この間に、別方向を探索していた兵士たちも続々と帰還してくる。今日は怪我をしたものもなく、また彼以外に獲物を仕留めてきたものもいなかった。ロアンは兵士たちから報告を受けた後、彼を呼んだ。
「ウィル、少しいいか」
ロアンは解体し、保存した肉のいくらかを村に届けてもいいか、と彼に問うた。確かに、その半分以上は彼の手柄だった。
「お祝いごとでしょ、君たちが困らない程度に分けてあげたらいい。それに、僕の許可もいらない。それはもう君たちのものだ」
「そうか。ありがとう」
ロアンはそういうと、村まで一緒に行こう、と彼を誘った。夜までは特に用事もないので、何も考えずに承諾する。
駐留兵といえど、彼らときたら気ままなもので、朝の巡回以外に特別なことは剣の訓練をしたりすることぐらいだ。普段やることの少ない上、比較的若い兵士の多い部隊をまとめる長としては、ロアンは規律に厳しいわけではなく、かといってだらしないわけでもなかった。彼にはロアンがこの立場に収まらなければならないほど無能な人物には見えなかった。何だか妙な話だったが、精悍で真面目そうな顔をした男が「閑職というやつさ」と苦笑いをするので、彼も深くは聞かなかった。事情があるのだろうが、素知らぬふりをして他人の心を探る厚かましさを彼は持てずにいる。
白樺の道をずっと進んでいくと、森を抜けることができる。白銀の平原の上、森と接するように丸太の柵で囲まれた土地が、彼らの目指す村だ。
中は屋根を藁で葺いた木造の住居と、家畜小屋、風呂小屋等、何棟かの建物があり、中心には共同で使える井戸がある。建物の数に比べて、住人の規模はさほど大きくはない。村の住人が一番多かった時代に合わせて上物を増築したために、使っていない棟もあるらしい。
村人たちはもはや見慣れた来客を笑顔で迎え入れた。ロアンが祝い事だから、と保存していた干し肉を渡す。任に着いて長いのか、ロアンは村人たちとは親交が深い。お陰で彼と薬師の勇者も珍しい冬季の旅人として、違和感なく受け入れられた。
首長に呼ばれた、とロアンがその場を後にすると、彼は瞬く間に子どもたちに取り囲まれた。背に負っていた弓を見てしきりに騒いでいる。村ではかつて狩猟も行われていたが、開拓が進むに連れて農業や牧畜の割合が大きくなったらしく、今では高齢の村人以外に弓を扱ったことがあるものがいないのだ。
戯れに子供たちに弓を預けて遊ばせてみる。弦を引くのに思ったより力がいることに驚いたり、矢をつがえてみて取り落としたりしている。丸太の柵に背を預け、彼はしばしその様子を眺めていた。たぶん、この子たちの母親はこの時分に弓を担ぎ、森へ入って狩猟をすることを良しとはしないだろう。彼も、それでいいと思っている。
ロアンたち王国駐留兵が村の守護にあたっているというのは、土地柄のせいだ。魔力濃度の不安定な土地はそれだけで魔界へと繋がるゲートを生成しやすい。しかし、ロアン曰く、この数十年間で野良ゲートの存在が確認されたことはないらしい。村人が消えていなくなるような事件も起きていないのだ。
だが、それでも森は危険な場所であり、聖域だ。駐留兵たちの存在が容認されていることが不思議なぐらいには。ゲートによる直接の被害が遡れる限りないのであれば、村は平和なのだ。だが村人たちの中には、その必要性を疑問視している者はいないように思える。
「ねぇ、何してるんですか?」
横から話しかけられて、彼はそちらの方を見た。薬師の勇者だ。
「……何その顔」
「いや」
彼は口角が釣り上がるのを隠すために手を口元へやった。
いつもの東の国の装束ではなく、村に住む若い娘たちと同じ衣装を着ている。袖や襟に繊細な刺繍の施されたシャツの上から、赤いスカートを被るように着ている。足元はニレで編まれた、この地方独特の靴を履いていた。寒いのか、肩には自分の手持ちの外套を羽織っている。髪は編み込まれて、更に花冠を乗せられていた。頬が染まっているのは、多分寒さのせいではないのだろう。
「似合ってるよ」
「絶対うそだ」
「お世辞なら、もっとうまいこと言うって」
口元は隠したが、目を細めたのを見咎めたヤナギは、恥ずかしいやら腹立たしいやらで顔を真っ赤にしている。その後ろから、ひょいと白い髪をした少女が現れた。
「ねぇ、ウィル! そんなのってないわ、今日は誰もみんな可愛い格好しているでしょう? 特別な日なのよ! お世辞でもなんでもいいから、もう少し褒めるべきだわ! ヤナギだってそりゃ最初はちょっと嫌がったけど、ウィルに見せてあげたらって言ったら」
「ちょ、ちょっとダニカ!」
そう言われて、彼は少し思案した。真っ赤な顔でダニカと呼ばれる少女に抗議を上げるヤナギの手を握って、膝を折りひざまずく。ヤナギが何か言う前に、彼は即座に、
「可愛いですよ、お嬢さん。花嫁が嫉妬しそうだ」
にこやかに微笑みながら、そう言い放った。発言の意味を一瞬飲み込めなかったヤナギの唇がわなわなと震え、声にならない叫びを上げながら彼の脳天に強烈な手刀を叩き込んだ。痛い。何度かものすごい勢いでべしべしと繰り返し攻撃を加えた後、その場から逃走しようとして、その手の片方がまだ彼に握られたままであったことに気がつく。手をぶんぶんと乱暴に振るも、笑みを浮かべたままの彼はその手を解放してくれなかった。
やり取りを見ていたダニカは、若干眉間に皺を寄せながらこう言う。
「花嫁は言いすぎよ」
「そうだね。ダニカがいるのに軽率だったよ」
制裁を受けきった彼が立ち上がると、ダニカはふふんと得意げな顔をしてこう言った。
「今日は姉さんがこの村、いえ、どんな神々よりもいっとう美しく可愛い日よ! だからヤナギよりもちょびっと可愛いわ! ちょびっと!」
随分冒涜的な発言をしたものである。神をも恐れぬとはこのことか。
「ゾラはどうしてるの?」
「”こもり”の日だもの。夜まで出てこないわよ。私とみんなとでお世話してるの」
こもり、と彼が呟くと、ダニカは説明してくれた。花嫁は婚姻の儀が行われる数日前から、呪術や悪いものから身を守るために、家にこもりきりになるのだそうだ。
村はこの冬に、ダニカの姉であるゾラという娘ひとりを北方に位置する王国へ嫁がせる。今日はその前日ということで、本来の順序からいけば正しくはないのだが、花婿なしで祝の宴が行われる予定だ。
「ま、王太子がこんな辺鄙な田舎の村くんだりまで来るわけないわよねぇ」
ダニカはカラカラと笑った。花婿が不在なのは、輿入れ先がその王国の王子、その人であったからだ。婚姻に際しての取り決めは仲人であり、ゾラとダニカの祖父である首長自身が行ったそうなので、他の村人もダニカも、その詳しい内容を知らない。慣例より外れた儀礼の手順に戸惑いも当然あっただろうが、そこはお互いの異なった文化を譲歩した結果だ、と思われる。何より、婚姻は仲人が取り持つとはいえ、双方の同意が必要なのである。ゾラは王子との結婚を望んだ、ということだ。
その出会いもまた唐突なもので、王国へ出かけたゾラを偶然に王太子が見初めたというものらしい。つまりは王子側の一目惚れである。
おとぎ話みたいだな、と彼は思う。たぶん村中の若い娘たちは絵に描いたようなラブロマンスに大騒ぎしたのだろう。……ヤナギはどう思っただろうか。彼は不満そうな顔を崩さない彼女の方を見る。
彼女が旅の薬師だと名乗れば、是非村に滞在してくれ、と請われ、彼女は可能な限り自分の求められた技術を提供した。村に滞在することを強く勧めたのは、他ならぬ彼だ。請われているのであればすぐに王国へ移動することなどできないことは察していた。彼は彼で森の調査がしたかったのだが、男所帯の屯所に彼女を連れてくるのは、何というか彼が嫌だったのである。
他人に対しての適切な距離感を保っているこの勇者は、彼とここへ来るまでだって、大きく感情を発露させることは少なかった。だから、一共同体としての意識が強い村の中で過ごすことは、ともすると彼女にとっては強いストレスを覚える経験だったかもしれない。他人との距離が否が応でも近くなるのだ。けれども、今の彼女の様子を見るに、そんなに悪いことではなかったのだろうと思える。
「何ですか」
「本当に似合ってるよ」
今度は勢いよく顔を背けられた。普段なら、そうですか、と無愛想に答えそうな彼女の珍しい反応が拝めて、彼は今とても機嫌がいい。
しばらくダニカはニヤニヤと笑みを浮かべていたが、やがて彼の弓で遊んでいた子どもたちに宴の準備のための指示を飛ばして、自身もまたヤナギを連れて仕事をしに戻っていく。ぽつんとひとり残された客人は、ぼんやりと空を眺めている。このまま晴れが続くなら、夜は冷え込みそうだ。
「ウィル」
声をかけられ、彼は視線を戻した。くすんだ赤い髪をした兵士が、彼の目の前に立っている。
「……どうしたの」
「いや、何もない」
そうは言ったが、戻ってきたロアンは、どう形容したらよいか、あえて言うならば些か疲弊しているように見えた。首長と何の話をしたのだろう。村と駐留兵たちの関係は、彼から見ても平和なもののはずだった。それに、短い付き合いではあるが、ロアンのこのような表情を彼は初めて見る。ロアンは、一種沈痛とも呼べそうな雰囲気をぱっと変えて、いつもの事務的な口調に戻った。
「首長がお前を呼んでいる」
「僕を?」
彼は首を傾げた。この村を初めて訪ねたときでさえ、彼は首長の姿を見ることなどなかったのだ。一体どうしたことだろう。ロアンのことといい、何かまずいことでもしただろうか。
しかし断る理由もさして思い浮かばず、彼は首長の家へと向かった。”こもり”をしているゾラと鉢合わせになるのは良くないのではないかと思ったが、彼女の世話をしている若い娘が彼を首長の家へ招き入れる際に、別室にいるために問題ない旨を教えてくれた。しかし彼女は彼と入れ違いに外へと出ていく。首長は人払いをさせたらしかった。
中へと入る。この村の中にある、他の住居棟とほとんど変わらぬ作りだ。天井には太い梁が掛かり、様々なものが吊るしてある。野草、野いちご、干した肉。室内の暖かさを維持しているのは、大きなかまどだ。暖房と調理を兼用する優れたもので、時折中で蒸気を発生させて風呂にしたりもするらしい。
入って左手の方へ目を向ける。食卓であろう長いテーブルの奥、禿頭の老人がそこへ座っている。落ち窪んだ眼窩の下には、濁った赤い瞳がある。彼が簡単に挨拶を済ませると、老人は座ったまま客人を出迎える非礼を詫び、それから椅子にかけることを勧めてくれた。
老人から見て、左手の方へ彼は腰かけた。老人の背後には祭壇がある。この祭壇も、他の住居棟に見られる共通のものだ。ただし、大きく異なる点がひとつだけある。
「いつ、ここを経つおつもりかね」
それを眺めていると、首長は唐突に彼に話しかけてきた。
「ゾラが明日の朝に王国へ向かうとのことでしたので、それに合わせようかと思っていました。平原を徒歩で渡るには広すぎますから」
高原の天気は予測がつかない。見える位置に市壁があるとはいえ、移動途中に吹雪に襲われることは避けたかった。確か、ゾラには王国からそりの迎えがくる手筈になっていたはずだ。また、村からは見送りと買い出しのための定期そりを出すつもりだとも聞いている。彼らはそれに乗るつもりでいた。
首長はそれを聞いてしばらく黙った後、ご遠慮願いたい、と小さく呟いた。
「……そりを出さないつもりなのですか?」
「変に里心がついても仕方なかろう。普通の輿入れではない。ゾラがあちらへ行ってしまえば、ここへはそう簡単に戻っては来れぬ。余計に寂しさを煽る必要もない。村から出すそりは、日を1日ずらそうと思う。客人にこのようなことを強いるのは心苦しいが、どうか黙って承諾して欲しい」
老人はそう言って、部屋の奥、右手側にある扉の方を見つめた。
彼は、何をか言おうとして、しかし恐らくそれらを希望したのは老人ではなくゾラ本人であることを察した。
「承知しました。こちらもお手間をとらせて申し訳ありません」
「すまないな」
老人はそう呟くと、ため息をつき、押し黙った。用事とは、それだけだったのだろうか。彼は沈黙で時間を消費するぐらいなら、と思い切って背後の祭壇について尋ねてみた。
「お聞きしたいのですが、こちらにある祭壇は他の住居のものとは違うように思われます。僕は春の女神を祀るものだと、村の方から教えられました。ですが」
彼は再び祭壇の方を見た。この村が、聖界で一般的に知られている女神を崇拝しているのではないことは予め知っていたのだ。異教の神を祀ること自体は珍しいことではない。他の地域では、女神とその土着の神が独立したまま信仰されているようなところもある。
祭壇の上には、春の女神を象る像がある。そこまでは同じだ。その像の置かれた棚の両脇に、見慣れない黒と白の彫像が置かれている。摩耗か風化か、単純に時を経たためか、あるいはそのどれもによってか、その細部は尽く失われており、もはや何を象っていたものなのか、色以外には判別がつかない。
老人はしばし考えた後、こう語った。
「もはや、我々のような家系にでさえも、朧気にしか伝わらぬ神話の片鱗のようなものだ。何しろ……気が遠くなるほど時を重ねてしまった」
それは、口伝でのみ伝わる創生の神話だった。
曰く、はじめに世界は世界としてなく、そこにはただ広い水たまりが広がるのみだった。それから、黒と白の神が現れ、その水たまりの底から泥をすくい上げ、それによって今ある世界を形作った。
二柱のうち、白の神は生と幸福を司った。黒の神は死と不幸を司った。世界の禍福の天秤を保つため、彼らは様々な神を生み出した。そのうちの一柱が、春の女神だという。
「伝わっているのは、それだけだ。黒と白の神は世界を平定した後に争いはじめ、それに破れた黒の神は地の国へ引っ込んだとも言われるが、それは多分後世の創作だろう。でなければ、こうしてここに像が祀られてはいまいて」
彼は黙った。驚くべきことだった。創生にまつわる真偽はどうあれ、この二柱は、邪神と女神のことを指しているのではないか? もし、真実そうだとするならば、聖界に邪神の存在が伝わっていることもそうだが、人間が邪神を崇拝していることなど、他に聞いたことが無い。彼らが何故このような過酷な地で暮らしているか、その理由にも関係しているのだろうか。興味をそそられたが、残念ながら彼は学者ではない。この仮説を証明できる手立てもなければ、理由もない。
沈黙が満ちた。やはり、件の話だけが目的だったのか。人払いをさせてまで? しかし、彼がいくら待てども、老人は貝のように押し黙ったままだった。
大変貴重なお話をありがとうございました、と述べて、彼はその場を辞そうとした。がたりと席を立ったとき、老人はこう言った。
「お客人よ、どうか、我々が――」
夕刻にかかり、宴が始まった。
首長宅周辺には人が集まり、住居の中でも外でも賑やかになりはじめた。婚礼は、元々冬の時期に行われることが多いのだそうだ。だから、春に向けて食料が少なくなる頃であっても、彼らは祝い事のために食料を出し惜しみすることはなかった。
テーブルには白パンが並び、スープや肉料理、木苺のデザートまである。お祝いと称してそれらが他家からもどんどん運ばれる。婚姻家だけでなく、村ごと巻き込んだ祝宴である。もちろん酒も用意される。
歌が聞こえる。村にはいくつかの古い歌が伝わっており、主に娘たちの間で歌われた。結婚を祝う歌、春を呼ぶ歌……。彼女たちは数人で輪をつくり、時折入れ替わったりしながらくるくると回る。円には、呪術的な意味合いがある。乙女が輪をつくるのは、円の中に悪しきものを封じるためだ、という。それよりも、彼が気になったのは歌に繰り返し出て来る「春の女神」だ。彼女たちは、まるで親しい友人に話しかけるように春の女神を歌う。手を繋いだその隣にいるものが、まさにそうであるかのように。
酒を手に、彼は戸外へ出た。エールよりもずっとアルコールの薄いこの酒は、慣れないとなかなか美味しいとは感じられないかもしれない。見上げれば、星空が美しい。人々の歓喜する様にでも酔ったのか、こんなに寒いというのに体は熱かった。
井戸のそばで黙って立っていると、そのうちにロアンがやってきた。この日ばかりは全員でこの祝宴に加わることを許したようで、彼が森の屯所で共に過ごした仲間たちが酒を片手に楽しそうにやっているのをあちこちで見る。ロアンもまた、昼間の出来事は嘘だったのではないかと思われるぐらいに、機嫌がよかった。
「酔ってるの?」
「どうかな」
生真面目そうな顔ばかり作る男が、今は自然にそうなるに任せて、にこにこと笑っている。もしかすると、これが本来のロアンなのかもしれない。
「僕ら、明後日に経つことになった」
「そうか。世話になったな」
「逆だよ、僕が世話になったんだって……いろいろありがとう」
彼がそういって、ちらと横目で見やる。ロアンが――あからさまに寂しそうな顔をするので、彼は驚いて、さては本当に酔っているな、君はエールを飲んじゃ駄目だからなと、いろいろを誤魔化してしまいたい気分でそう言った。
酒の勢いで、昼間の首長の件も聞いてみたい気もした。しかし、ロアンの反応からすると、彼とロアンとでは首長から言われた内容は恐らく違っている。村の娘に引っ張り回される若い兵士を目を細めて見つめている男の横顔は、平穏と幸福を噛み締めているようにも見えて、やはりそのことについて尋ねるのは、はばかられた。
ロアンが空になった器を彼から取り上げて、何か取ってこようと家の中に入っていく。
歌が聞こえる。春の女神が森の小川を飛び越え、うさぎを飛び越え、村へ春を運んでくる。残った冬の残りを箒で掃くと、地は緑に満ちる……。
不思議な歌だ。口ずさんでみる。地に光が満ち、暖かな陽光が降り注ぐ待ち遠しき季節。厳しい冬の寒さを乗り切れますように。どうか春の女神に、届きますように。
しばらくすると、ヤナギがロアンを連れて戻ってきた。彼女は困ったように彼へ訴えた。
「あなたも何とか言ってください。この人、お酒に強くないのに」
「言ったよさっき。ロアン、中で飲まされてきたな?」
戻ってきたそのひとは顔が真っ赤だった。足元はしっかりしているが、これ以上飲ませるのはまずそうだ。
「隊長殿、明日もありますからお控えくださいよ」
「わかってる」
彼らはそれから星の下で、これまでのことを話した。それはロアンや村人たちとの出会いだけではなく、ヤナギや彼が辿ってきた道程の一部分のことも。夜話が紡がれる中、首長の家から大勢の人間が出てきた。
その後から若い娘たちに手を引かれ、出てきたのは花嫁だ。豪奢な刺繍を施した帽子をかぶり、毛皮のコートを纏っている。ドレスの裾を引きずらぬように、わずかに浮かせたその足元から見える靴もやはりニレで編まれたもので、こちらもビーズが織り込まれた可愛らしいものだ。
照れ笑いを浮かべるその顔は、ダニカにそっくりだった。
ゾラを支えるようにそばにダニカもいた。まるで鏡合わせのようだ。彼女たちは双子なのだ。何となく、横のロアンを見る。ぼーっとした顔で、そちらの方を眺めていた。熱に浮かされた患者のような瞳をする。そんなに感じ入ることなのだろうか。ロアンが任について長いのなら、ダニカやゾラとの交流もまた長いものだったのかもしれない。
村中を挨拶して回る途中で、彼女たちは彼らのいる井戸の方へ近づいてくる。
ゾラはたおやかに微笑み、ダニカはその横で声を上げて笑っている。
顔は似ているが、その印象は全く対象的なふたりである。
「王太子妃様!」
彼が声を上げると、ゾラは手を振った。彼がその場で恭しく礼をすると、ゾラはダニカに何かを呟いて、こちらへ歩み寄ってくる。
「やめてちょうだい、まだ嫁いでないわ。その、恥ずかしいの」
もじもじしているゾラを見て彼が口角を上げると、ダニカの拳が彼の脇腹を叩いた。
めっ、とダニカに何故か怒られてから、彼は改めてゾラに向き直ってこう言う。
「結婚おめでとう、ゾラ。綺麗だよ」
嬉しさに頬を染めながら、彼女はありがとうと笑った。ゾラはそれからヤナギの前に立った。若干身を引いたヤナギの身体を捕まえて、ぎゅっと抱きしめる。ゾラの小柄な身体と、彼女がまとう、ふわふわした毛皮の感触。どうしたらいいのか分からずヤナギは困惑していたが、村に滞在して薬を処方したり、怪我の手当をしてくれたこと、自分たちと一緒に過ごしてくれてありがとう、とゾラが耳元で感謝を述べると、目を細めた。
「……おめでとう」
ゾラがヤナギの身体をそっと解放すると、ついでとばかりに今度はダニカが抱きついた。勢いがよすぎて井戸の方へのけぞって、落ちるからダニカ! ダニカ! と、揉み合いになっている。
ゾラはまた、ぼんやりしたままのロアンの方へ近づいて、少しかがんだ彼へ耳打ちした。それを聞いた瞬間、何とも言えない表情を作ったロアンは、顔を離したゾラが、お願いよ、と微笑むのを見て小さく頷いた。
それから、彼女たち彼らのそばを離れて、また村の人々の挨拶へと戻っていく。
着飾る、ということに対していまいち具体的な感想を持てない彼ではあるが、隣の彼女がゾラをじっと見つめているのを見れば、美しいというよりは、本当は何か、もっと慕わしい感情を抱くのが正解なのではないだろうか、と思う。それをどう言葉にしたらいいものか、分からなかったが。ゾラは今、幸福なのだろう。例えその心に故郷や家族と離れる寂しさを抱えていたとしても。それは多分、衣装のせいではないはずだ。だが、その感想は無粋だろう。少なくとも、彼女の横でそれを口にするべきではない。
しかし、その一種羨望のように見えなくもない熱い眼差しに、彼はつい、ヤナギにこう尋ねてしまった。
「着てみたい?」
「え?」
問われ、彼女は竜胆色の目を大きく見開いて、数回瞬きをして、それから、
「……」
黙った。
何とも味気ない反応を彼は少し残念に思いながら、花嫁衣装に女性すべてが憧れるわけでもないか、と心の中でひとりごちた。彼が再び星を見上げたとき、隣の彼女は真っ赤に染まった頬を酔いのせいにするために、器で顔を隠しながら必死に酒を飲んでいた。
次の日の朝、ゾラは迎えにきた馬ぞりに乗って村を後にした。見送りを拒んだ彼女だが、ただひとり、双子の妹にだけはそれを許していた。固く抱き合った後、ゾラは満面の笑みを浮かべてこう言った。
――愛しているわ、ダニカ。
2話(http://privatter.net/p/3131833)