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そして、祈りが燃える 2

全体公開 ムゲンWARS 13060文字
2018-02-04 20:19:03

輓獣って読みづらいよね、わかる。透輝さんと薬師さんお借りしています。冬の長い話、その2。

Posted by @san_ph7

2.北の王国

 彼らが村を離れたのはそれから3日後のことだった。翌日の昼からにわかに高原の天気は荒れ始め、猛吹雪の為に一切の身動きが取れなくなった。止む無く出発を引き延ばし、天気が落ち着つくのを待った。
 今日は快晴である。雲ひとつなく澄み渡る空は気持ちのいい眺めだったが、空を塞ぐものがないためか朝の冷え込みは一段と厳しい。新雪が太陽の光を反射して強烈に輝くので、彼は目を細めた。どこまでも真っ白な平原の向こうに、市壁の影がうっすらと見える。ふかふかの雪の中へ足を突っ込むと、彼の体は僅かに沈む。どうやら堅雪の上に積もった雪は大した量ではなさそうだ。
 彼はヤナギを連れて、村まで見送りに来たロアンと駐留兵の面々や村人たちと別れの挨拶を交わした。ヤナギはダニカにいささか激しい抱擁をされ、尻餅をついて雪まみれになったりもしたが、惜しまれることはあっても引き留められることはなかった。皆、笑顔で彼らを見送った。
 馬ぞりを操るのは村の若者ふたりだ。冬の間に足りない物資を購入する為に、しばしば王国まで馬を走らせる。といっても、食料が緊急的に不足するだとかそういったことはあまりないらしく、村人の個人的な希望を叶えるような、小さな物の調達をするらしい。ただのお使いだよ、と青年は笑った。
 青毛の馬は輓獣に適した種類のもののようで、体高が高く、他の温暖な地方で見られる馬と比べて足は短く、胴が太い。馬は飼料に大量の草が必要となるので、冬の長い村では貴重な共有財産である。
「よろしく」
 彼が馬の首を優しく撫でると、僅かに彼の方に視線を寄越した。馬は人と馴染みの深い動物の中でも、特に気高い生き物であると彼は考えているのだが、向けられたそれはどこかのんびりとしたものだった。
 ヤナギと共に乗り込むと、そりはゆっくりと動き出す。村の入り口から多くの人々が、長い間手を振り続けていた。
 やがて、ヤナギの竜胆色をした瞳が、青い空と白い平原しか映さなくなったのを見て、彼はやっと彼女から目を逸らした。彼女はこの間、眉ひとつ動かさなかった。寂しいか、などと。口から出かかったそれを喉の奥へ押し込んだ。野暮だ。
 そりは順調に白銀の野を駆けた。太陽が高く上がると、いっそう辺りは眩いばかりに輝いた。珍しく風のない日だったが、雪上でもそれなりに速度のあるそりに乗れば、頰を冷たい冷気が撫ぜていく。手袋をした手で顔を両側から挟んだ。
「寒いですか?」
 ヤナギは彼に問うた。彼女は彼が少なくとも人間ではないことを知っているので、彼はこの言葉を気遣いとしてではなく、あなたでも寒いと感じるのか、という疑問だろうと考えた。彼はまだ、己が何者であるかを彼女には告げていない。
 若者ふたりはそりを走らせることに集中しているのか、こちらには目を向けていなかった。彼はにこりと微笑んで、彼女にだけ聞こえるようにこう言った。
「温度は分かるよ。冷たいのも、熱いのも。感覚は人のそれと変わらないだろう。だけど、そこから先はない。例えば、体が冷えると震えるだろう? あるいは熱いものに触ると、反射的に手をひっこめたりする。僕にはそれはない。ない、んだけど、それは影響を受けないこととは全く違う。僕でも火傷はするし、凍傷を負ったりもする」
「あなたは言い方がいつも遠回しなんですよ」
 ヤナギはじろりと彼を睨んで、その手をひっ摑んだ。手袋を外して、その指先を確認する。赤くなっている。
「朝、村の子たちと雪遊びしてたんだ」
「手袋無しでですか? 馬鹿なんですか?」
 ヤナギは呆れた表情をした後、顔を伏せて患部を観察している。艶やかな黒い髪がさらさらと揺れる。彼女の吐いた白い息が風に流されていく。
「痛みますか?」
「痛くはない、けど、かゆい」
 彼は突然思い出したかのように痒みを覚えた。ムズムズする。
 彼女は傍に置いてあった黒い箱をがさごそと漁り、小瓶を取り出した。彼女も手袋を外して、乳白色の液体がはいった瓶の蓋を取ると、ほんの少しだけそれを指先に乗せる。自分の手のひらに伸ばすと、彼の指先をマッサージし始めた。
「つまり、感覚神経から情報を受け取っても、受け取りっぱなしというわけですよね。あなたの中に、外的要因で受傷しそうなときや、したときに、『どう行動すべきか』の判断基準がないから。だからあなたは怪我に対する意識が低い。怪我をしても、それが命に関わるものなのか、そうでないのかが分からない。それは知識というよりは、意識の問題に見えます。あなたは」
 ヤナギは彼の指を強くさすりながら、少し言い淀んだ。
……あなたは、自分の身体に関心がない」
 いつだったか、灰色の庭まで彼女を導く直前のこと。彼は自分で言ったことを思い出していた。
――いつも誰かを傷つけることを気にしてばかりで、それで結果自分の身を切るようになる。死ななくても、自分が怪我したら誰か悲しむだろうなんて、その瞬間はちっとも考えないんだ。
 ヤナギの指摘は、的を射ているのだろう。彼の自分の身体に対する意識は、圧倒的に低い。それは、自分の肉体を自分を生かすものとして捉えているからではなく、目的を達成するための手段として見ているからなのだろうな、と彼は思う。彼という存在があるのは、彼という魂があり、その器として肉体があるからだ。存在の根源は魂にある。ならば肉体が魂を凌駕することはない。故に、彼から見た自分の肉体の価値は”容れ物”程度の認識だ。加えて言うならば、彼は自分が”人でなし”であるために人間より遥かに丈夫である、ということをちゃんと知っている。だから、彼は怪我に対する意識が低い。
 しかし、これほど喪失を恐れているのにも関わらず、自分の肉体の損傷に対しての関心がないのは、おかしな話しだ。彼は心の中で自嘲した。彼は魔王だ。勇者と違い、”殺されたら”死ぬのである。その勇者とて、人間であるからには自分の命を守るための本能が一切働かない、ということはないだろう。強者故の驕りであるということではない。これは、彼の中にある明らかな欠陥だ。
「大丈夫ですか?」
 深く考え込んだ彼を心配してか、下から覗き込むようにヤナギは彼を見上げた。
「いや、なんか指先がぽかぽかして気持ちよかったから、ぼーっとしてた」
 そういうと、ヤナギはぱっと彼の手を話して、そそくさと手袋をつけた。
「後は自分でやってください。ただのしもやけですから」
 ぶっきらぼうにそう言う。彼は言われたとおりにしばらく指先を摩擦させてみる。冷たかった指先が温まっていくのを感じた。たぶん、最初の質問も、彼のことを案じて聞いたことだったのだろう。だとすれば全く的はずれな答え方をしたことになる。怒らせたかな、と思う。
「ヤナギ、ありがとう」
 彼女は青紫の瞳で横目に彼を見ると、それきり黙ったままだった。
 白い平原の向こうに小さく見えていた市壁がどんどん近づいてくる。一行は門へと辿り着く。馬ぞりを一旦壁の前に留めて、若者ふたりは門番兵に近づいていった。顔見知りらしく、しばらく話しをした後、若者たちは彼らを手招きした。
「旅人の方ですね」
 それからいくつか質問をされ、問題がないと判断されたのか彼らは門を越えることを許された。若者のひとりは壁の前で馬ぞりと共に待つらしく、やはり彼らと手を振って別れた。
 さて、もうひとりの方がこの街に何があるか簡単に案内してくれるというので、彼らはその後に着いていくことにした。雪の残る泥濘んだ足元は、しばらく歩を進めると石畳へと変わった。周囲の建物はやはり木造が多いが、建築の技術水準が村とは違うだろうことが分かる。2階建てや3階建ての建物が多いし、屋根は藁葺きではなく木板で覆われている。市壁は範囲が限られているので、住人が多くなると彼らは狭い土地を埋めるようにして住居を増やしていく。土地が少なくなれば、必然的に建物は上に伸びる。上空に飛び上がることができたなら、葉脈のように複雑な細い路地が縱橫に伸びているのが分かることだろう。
 青年はその中でも大きな通りを選んで歩いているようである。やがて人の往来の多い道へと出た。どうやら市場になっているようだ。この場所は緩やかな下り坂になっており、その先は広場と、大きな建物が見える。
「あれは神殿」
 青年は指差した。どうやら女神教の神殿らしい。陽光に照らされ白亜に輝くその様は、立地も相まって人々の心に神の威光を感じさせるものであったが、木造の建築群の中に突如として現れたこともあって少し違和感を覚えるかもしれない。
 通りを広場の方へと歩みながら、青年は市場の中にあった刃物を扱う店の方へ急に近づいた。慌ててその後を追う。どうやらナイフを見ているらしい。
「ダニカがナイフをひとつ無くしたって騒ぐんだよ」
 口を尖らせてそう言う。青年が店主と交渉している間、彼は周囲の視線が気になった。行き交う人々の中には、彼らのような異国の人間の姿もちらほら見受けられるというのに、若者に対するそれは何故か強烈な拒絶を帯びているようが気がしたのだ。加えて声を潜めて、何事かを囁いている。何か誹りを受けているのなら、いい気分ではない。
 青年が代金と商品の受け渡しを終えて振り返ったとき、恐らく難しい顔をしていた彼に気づいたのだろう。
「気にしないでいいよ。たまにあるんだ」
 何でもないかのようにそういうと、青年は店を離れて通りへとまた戻った。彼と同じように何とも言い難い表情を作ったヤナギに、行こう、と声をかける。
 一行は神殿には近づかず、周辺にある建物の案内のために広場を大きく迂回した。神殿を中心としてざっくりだが区分けがなされており、彼らの通ってきた通りを含む商業区画、この土地を治める領主邸のある行政区画。またその他に居住区画もあるが、こちらは明確な線引はないものの富のあるなしである程度住んでいる地域が分かたれてはいるようである。
 神殿の位置からしても、女神教の影響が強い国だろうことは察せられた。すれ違う旅人の姿は様々であるが、そのほとんどが巡礼者だろうことが彼には分かった。特に、敬虔な信徒において、何故かは分からないが彼女の気配を感じることがある。それに、彼らは巡礼を主としない他の旅人、商人や傭兵、その他何らかの事情を抱えて移動しなければならない人々とは明らかにまとう空気が違うのだ。それは、彼らが聖地を目指して旅する巡礼者であることと、彼らは同胞と行動を共にしたがることが多いことにも起因する。
 したがって、この御大層な神殿にも何か大きな謂れがあるのだろうが、彼はこれに興味はない。現在伝わっている経典だって全てが彼女の言葉というわけでもないし、後世に至っては創作すら見受けられる。地上における女神への信心を表したものというのは、彼女と共に生きていた時代がある彼からすると、それらのほとんどがかなり懐疑的なものである。
 一通りの案内を終えると、青年は最後の挨拶をふたりにしたあとに帰っていった。
「どうする?」
 彼はヤナギに話しかける。もとより行商の旅である。ここで経済活動をするならば、商業区をまとめる商会にでも顔を出した方がトラブルは少ないはずだ。うまくいえば、そのまま仕事の話をもらえるかもしれない。
 彼らは集合場所を定めて、一旦ここで別れることにした。実際、彼女の仕事について彼が手伝えることはあまりない。付き人とは言っているが、結局のところ彼が勝手に付いて回っているだけなのである。
 さて。暇になった。今夜の宿の検討ぐらいはつけておこうと、彼は通りをしばらく歩く。ふと、ひとつの宿屋が目に入った。どうやら月峰亭、というらしい。表に出ている吊り下げ式の看板の、山の峰から月の上がる絵が描かれたそれを彼は気に入って、中へと入ることにした。
 1階は居酒屋になっているようで、この昼でもある程度の賑わいがあるのは、地元の人間も利用しているからだ。冒険斡旋所――例えば剣と鞄を背負った狐のマークのもの――がないような僻地では、こうして異邦者と土地の人が混ざる人間の交流地点である宿屋がその代わりを果たす。こういった場所では様々な情報が集まるし、助けを必要としている人も見つけやすいものだ。
 木製の長いカウンターの向こうには、黒い髪をきっちり結い上げた中年の女性が何やら台帳を確認している。彼には気づいていないようだ。
 道中気になったことだが、この国の人々は黒い髪をしていることが多い。彼らが滞在していた村の人々の多くは金の髪をしていたが、国に入ってからそれはほとんど見られなくなった。瞳の色でさえ似通ったところはない。単に文化の問題であの村だけがあの場所に残ったのかと考えていたが、それだけではないらしい。つまり、村人と王国の人々では辿ってきた血筋や人種が、恐らく違うのだ。
 女性が顔を上げ、黄緑色の瞳をした異邦人と目が合い、訝しげに眉をひそめた。
「ええと、お客さん? 何か声をかけてくれてもよかったんじゃないかい?」
「失礼。綺麗な髪だなと思って」
 一瞬きょとんとした顔をした女性であったが、すぐに大笑いし始めた。
「あはははは! 娼館なら裏手の道通った先の青い看板のとこだよ!」
「覚えておくよ。それより聞きたいことがあるんだけど」
「そうかい。そりゃもちろん、タダってわけにゃあいかないけどね」
 何か食っていけ、ということらしい。それはそうだ、と彼はたまいものスープを頼んだ。ところが、出されたスープは香辛料を山ほどぶち込んだような色をしていた。真っ赤だ。不思議そうな顔でそれを眺めていると、冷めるよ、と暗に促されたので一口含んでみる。予想していたような辛さは発生しなかった。美味しい、と彼が呟くと女主人は眼尻を下げた。聞けば、国内で流通しているたまいもの品種の中に赤いものがあるらしく、それを調理しているとのこと。所謂、郷土料理のようで、寒さの厳しい冬はこの赤いスープを飲んで乗り越えるのが習わしのようだ。
 ゴロゴロ入ったたまいもをスプーンの先で転がしながら彼は聞いた。
「1人で切り盛りを?」
「やだなぁ、旦那がいるよう。今は王都の方に出かけてるけどさ」
「王都か」
「お兄さん、どこから来たんだ? 国の中通ってきたんなら王都も見ただろう? まさかこの冬に山脈越えてこちら側に来るなんてことはないだろうし」
 彼は、少し思案して、ここに来る前はこの国の外で展開している駐留兵の屯所で世話になっていた、と伝える。その前は僻地の村落を辿りながら旅をしていた、とも。彼女は目をぱちぱちと瞬かせて、そうかい、あの場所にいたのか、と少し同情の目を向けてきた。
 首を傾げる。確かに厳しい寒さであったが生活に困ることはなかった。彼はそれから、駐留兵は近くにある村の守護にあたっていたようだが、自分はその理由をついに知ることはなかった、と伝えた。こちらは嘘だ。彼はロアンから魔力濃度の不安定な土地柄であるために、いつ発生するか分からないゲートとそれによる被害から村を守るためにいる、と聞いている。途端に女主人は店内をキョロキョロと見回して、彼に顔を近づけて小さな声で語り始める。
「お兄さん、私は別に気にしちゃいないが……それ以外で、特に宿の外でその話をするのはやめたほうがいい」
「何か、よくないことが起きる?」
「というか、よくないこと”そのもの”なんだよ。
 あの村は――疫病の村なんだ」
 今から17年ほど前、数名の村人が原因不明の病で亡くなったという。それだけではなく、この病は広い平原を越えてこの国まで届いた。手足の痺れから始まり、それから間もなく劇症化すると全身が石のように固くなり、死に至る。この街では特に、病により倒れたものは老人が多かったという。
 加えて、この病はある一定の周期を持ち、かつ必ず冬に発生する。おおよそ40年から50年ほどのサイクルを長い間繰り返しているらしい。いくつかの手段が講じられたが、そのどれもが役に立たず、結局王国としては疫病の発生を監視するために国外へ駐留兵を置き、発生した際には村人たちを入国させない、という対応を取ることにした、とのことだった。
 成る程、市場のある大通りで青年が差別的な眼差しを向けられていたのはこのためだったか。明確に周期があるとはいえ、彼らが疫病を運んできたという事実は間違いないのだろう。死を招き、あまつさえ彼らは異教徒である。歓迎などできようはずもない。
 それにしても、ロアンから聞いていた話と目の前の女主人が語る話は一致しない。だが一致はしなくとも、背反するものではない。つまり、駐留兵には村の監視と保護のふたつの役割が課されていた、と考えることもできる。その場合、いくらか疑問は残る。疫病の原因が村にあるのならば、これを保護する理由はない。この村人たちが疫病にかかることで感染が発生するのであれば、滅ぼしてしまえばよいのだ。でも、そうはならなかった。その上、リスクを冒して兵士を常駐させてさえいる。そうしなければならない別の理由があったのだろう。
 また、この話を聞いて彼が次に疑問に思ったのが、ゾラのことだった。
「僕は、王太子が最近妃を迎え入れたと聞いたんだけど、知ってる?」
「ああ、知ってるよ。どこか、遠いところから輿入れされたんだって話さ。婚姻の儀も神殿で行われたようだけど、まぁ私ら平民には関係ない話だ」
 すると、街の住人は妃が疫病の村の出身であることは全く知らないことになる。しかし、この土地柄では伏せられて然るべき事実であることは確かだ。王太子は余程ゾラのことを気に入っているのか。
……待って、神殿ってあの神殿? あの、大通りの先にある?」
「そうだよ」
「てっきり王都で式を挙げたのかと……
「そりゃあ、私らも最初はそう思ったんだけどねぇ。旦那はそれを見越して、もう随分前から王都に行ったっきりでさぁ。あのやどろく、仕事放り出してちょいと見てくるなんて言って、全く、酒飲んで遊びたいだけだろうに」
 ぶつぶつと愚痴を漏らし始めた女主人に彼は苦笑いをする。しかしこれで話を流されてはたまらない。まだ聞きたいことがある。
「そうすると、王太子は今どこに?」
「おや、それは知らなかったのかい。お兄さんも神殿の辺りまで見てるなら知ってるだろう、ほら、街で一番大きな邸。領主邸とは言うけどね、あれは離宮なのさ。だからお妃もそこにいるんだろうよ」
 分からないことがまた増えた。王太子は何故王都でなく、この地に居を構えているのだ。それについては、女主人も詳しいことを知らないようだった。
 いい方向へ捉えようと思えば、これらの疑問というのは、いくらだって希望を持たせた見方ができる。逆もまた同じことだ。彼は自身が杞憂を抱きすぎるきらいがあることを自覚していた。この胸のうちに湧き上がる不安は、単なる自分の性分のせいではないかと彼は強く感じている。だが、これらの疑問を本当に頭から振り払ってもよいのか、判別がつかない。それに、彼は今未来が視えないのだ。その結末から現在に至るまでのどのような要因が、どんな風に成立していくのか、全く把握ができない。
――よくないことが、起こらなければそれでいいとしよう。
 考えた末に、彼は出来得る限りのことを調べてみることにした。杞憂であったのならば、それでいい。手始めに、この街で何か不穏なことが起こっていないか探りたかった。
 彼はたまいもをかじって、スープを飲み干すと今晩世話になる宿泊代を含めての代金を支払う。連れがいるので二部屋空いてないかと尋ねれば、生憎と冬のために長期の逗留者が多く、一部屋が限界だと告げられる。ヤナギが怒るかな、と思いつつそれを承諾した。最近は能力も使っていないので、無理に睡眠を取る必要はないのだが、だからといってこの寒さの中、無用に夜の街をうろつくわけにもいかない。とはいえ、同室を拒まれることもあり得るだろう。最悪、女主人のいうように娼館で一晩過ごしてもいいかもしれない。
 それから、女主人を含めた店内にいる数名に話を聞いた。仕事を探している、何か困っていることや手伝えることはないか、と。そのうちのひとりが、困っているという程ではないのだが、と彼に話をしてくれた。見慣れない異邦人が、最近街をウロウロしていると。
 旅人は特別な移動手段や理由がない限りは、冬季間は帰郷するなり近くの国で春を待つなりするものだ。冬の移動は他の季節よりも、自然の脅威にさらされることが多い。この宿に長期の逗留者が多いというのはそれが理由だ。巡礼者たちも同じである。彼らは神殿に宿泊することができるのであれば、そちらで宿をとる。彼やヤナギのように、つてのない者たちは私営の宿屋に泊まる。宿屋には宿泊者の名を記した台帳があるし、長期滞在をしているのであれば、いくらなんでも顔と名前ぐらいは分かる。
 つまり、見慣れない異邦人というのは、そのどちらでもない、ということだ。頻繁に現れるのにどこの人間なのか全く分からない、というのは確かに住民の不安を煽るものだろう。けれども、別に何か大事件が起こったわけでも、その異邦人が何かしたわけでもない。
 だから、困っているというほどではない、仮に何か起こってあんたがそいつをとっ捕まえたなら、そのときは然るべきところから褒賞が出たりするかもしれないが、と男は語った。
 彼にとって特に気にしておかなければならない情報はそれぐらいだった。続けて、もうひとりの男から仕事を手伝ってもらいたいんだが、と声がかかる。
「俺は街から街へ荷物運んでる飛脚だ。この寒い時期だって例外じゃあねぇんだが、この通り」
 椅子にかけていた男は自分のズボンの裾を掴んで捲り上げた。皮膚が焼けただれたように真っ黒な色をしている。どうやら随分長い間、寒い場所にいたらしい。
「脚が動かねぇ。医者に見せたらもう駄目だ、切り落としちまえときた。ふざけたことを抜かしやがるぜ、この脚だって商売道具だ。そうそう簡単に切り落とせるかい」
「って言ってね、このひとずうっとここで飲んだくれてるんだよ。酒飲んだってあんたの脚は治りゃしないよ」
 カウンターの向こうで女主人が顔を上げてそう言った。まぁそういうなよ、と男はこれを意に介さず歯を見せて笑う。
「つまり、どうにも仕事する気にもならんってことで、こうしてるんだが……。女将の言うとおりだ、そろそろ腹くくったほうがいいだろうな。飛脚は廃業だ。何、脚が駄目なら手があるからそれはどうとでもなるんだが……
「やり残した仕事をどうするか、ってこと?」
 おうよ、と男はエールをあおった。
「ここに着いてよ、すぐに医者に見せにいったもんだから、頼まれもんはまだ届けてないんだよ。でもそもそもは俺の仕事だ、軽々しく誰かに頼んで荷物盗まれたなんてあっちゃならねぇし、誰に頼んだもんかなぁと」
 男は目を細めて、彼の頭のてっぺんから爪先までをジロジロ眺めた。それから満足そうに頷くと、
「あんたはなりもいい。仕事探してるなんて言ったが、本当は金持ってるんだろ? 金持ってるやつがちんけな手紙や配達物持ち逃げしたり、盗んで売っぱらったりはしねぇだろうな」
 そう言った。彼は頭を掻いた。
「事情は把握したよ」
「報酬は、そうだな、あんたの宿代と飯代肩代わりしてやる」
 それでどうだ、と男は問うた。彼はもちろん快諾した。

 
 昼過ぎから始まった仕事は、臨時の配達人である彼を街の様々な場所へと導いた。屋根裏に住む使用人に故郷の村から届けられた小包、貴族の屋敷が多く立ち並ぶ居住区で夫からの贈り物を連れ込んだ愛人と受け取った妻、街外れの墓場の近くに住むみすぼらしい身なりの老人には紙の手紙が届けられた。
 人間の複雑な営みを垣間見た彼は、最後に市壁の上で見張りをしている番兵の元を訪ねた。最初は当人へ渡してくれないか、と朝市壁を通り抜ける際に彼らへ質問をした兵士に頼んでみるつもりだったのだが、途中で気が変わった。この壁ほど高い建物は内側には存在しない。その全体像を確かめておきたくて、彼は地上にいる番兵のひとりに金貨を握らせてみた。困った顔をした兵士だったが、最後には彼をこっそりと壁の上へあげてくれた。
 冬の短い日が落ちようとしていた。西は広大な平原と小さな村の影、その向こうに手付かずの森林地帯が広がっているのが見える。北方にそびえる山脈の山肌は明るい紫色へと染まりつつあった。眼下には密集した住宅地がひしめきあい、視認できる大きな通りを辿っていくと神殿が目に入る。その向こうから東へ進むと一際大きな邸があるのが分かる。領主邸、この領地を治めている人間のものだ。
 市壁は思ったより広い地域を囲っていた。いくつかの農村や森を内包していることも分かったし、ここより南東へは恐らく王都へと続く街道もあることも把握できた。
 それから、彼は件の兵士を見つけると手紙を渡した。配達人であると名乗ると、色々と訝しげに彼を眺めていたのだが、彼が手紙を差し出すと、差出人を確かめて受け取った。兵士はその場で手紙を開封し、ゆっくりと白い息を吐いた。西へ沈みかけた太陽の方を向き、元気そうで何よりだ、と呟く。
……壁外の駐留兵に知り合いでもいるの?」
 ああ、と兵士は答えた。
「弟がいるんだ。いらんと言ったんだがな。紙だってタダじゃないんだ。でも必ず書くと言ってきかなかった」
 男は懐へ手紙を仕舞った。あんた旅人だろ、もしかして西を通ってきたのか、と問われた。首肯した後に、ではこんな若い男はいなかったか、と外見の特徴を説明される。彼はすぐに思い出した。彼とヤナギが森の中で助けた、あの若い兵士である。
 経緯を話すと、ではあんたは弟の恩人なわけだな、とこれを喜んだ。
「危ないのには変わりないが、ひとまずは安心だ」
「危ないっていうのは、疫病の村の監視だから、ってことかな」
 兵士は、これには顔をしかめた。
「知っているのか。まぁ、それもある。何十年か前に流行ったときは、駐留兵の中からも死亡者が出た。けどな、あの土地はもうどうにもならないんだそうだ。そういう土地だと思え、ってさ。でも、村の住人避難させるわけでもないし。陛下は何をお考えなんだろうな」
 それに関してはもう心配しても詮無いこったよ、と兵士はため息をつく。
「あいつ、新米のくせに無茶してロアン隊長に着いていったからな。何もあんな場所に配属の希望出さなくてもよかっただろうに。養成所の成績だって下から数えた方が早かったんだぞ?」
 どうやらこの兄は、弟の身を純粋に案じているらしい。それよりも、気になる名前が出た。
「ロアン、ってあのロアンか」
「あんたの知ってる人で間違いないよ。あの人も気の毒な人だ。本人の希望とか言ってるが、俺は間違いなくあの出来事がきっかけで」
「あの出来事?」
 彼がそう聞き返すと、兵士はバツの悪そうな顔をして、今のは聞かなかったことにしてくれ、とそっけなく返される。それ以上は詳しいことを聞くこともできなかった。
 市壁から降りる頃には辺りは夕方の薄闇に包まれていた。ヤナギとの待ち合わせ場所へと急ぐ。無用なトラブルを防ぐためにあえて路地裏を避けて通っていたのだが、ふとフードをかぶった人影をその狭い中へ見た。体格からして男性のようであるが、何だか動きが怪しい。それから、ほとんど魔法の普及していないこの街では感じられなかった、魔力の流れを感じ取って、気がつけば彼は路地裏に入りこんでいた。
 すえた匂いのする路地裏を男はスルスルと通り抜けていく。決まった道を通っているのだろうか。彼は迷宮のように入り組んだ路地裏で、男と適切な距離を保ってこれを追跡することが段々と難しく思えてきた。角を曲がったと思えばその姿を見失い、魔力の残滓を追いかけてこっちかと細い道に入ったところでゴロツキに絡まれた。これに、非常に面倒な気持ちが湧き上がって、
「悪いけど遊んでいる暇はないんだ」
 苦い顔でそういうとその場で真上に跳躍し、せり出した住宅の窓枠や梁を掴み屋根へと飛び上がった。これで障害物はなくなる。薄闇は彼の姿を隠してくれるだろう。
 急勾配な屋根の上を棟から棟へ飛び移りながら、男の後を追う。直線的な動きではないが、どこかで立ち止まったりすることは一切なかった。らちが明かないなぁ、と感じた彼は、ひと思いに男の進路を塞いでみることにした。屋根のへりへ立つと、そのまま落下する。
 どん、と重たい音を響かせて着地した拍子に、丸まって寝ていた猫が飛び起きて足元を駆け抜けていった。目の前の男は空から降ってきた彼に驚いていたが、彼の姿を確認するとくすりと笑う。
「なるほどねぇ、天使が空から落ちてくるのは必然というわけか」
 ゆっくりとフードを外したその姿に、彼も見覚えがあったから思わず眉根を寄せた。
 日に照らされた麦畑を思わせるごく明るい髪は、暗い路地の中にあっても僅かに萌木の色を帯びているのが分かる。瞳は淡い黄緑色をして、何か面白いものでも見つけたように悪戯っぽい雰囲気をたたえていた。
 彼は片眉を釣り上げた。そして己の失態を恥じた。この男から発せられている女神の加護の力に気づくのが遅れたことをだ。街でよくすれ違う巡礼者と勘違いしたのだ。
……透輝の勇者」
 呼びかけられて、男は黄緑色の石が嵌った手甲ごと手をひらひらと振った。
「久方ぶりだね。私に何かご用かな。いや、どんな目的でここにいるんだい、災の魔王? わざわざ姿を偽って人間に紛れているなんて。いやいやまさか」
 じり、と透輝の身体が一歩後退した。
――まさか、まだそんなことを続けているのか? 天より世界の遍く魂を導くはずだった灯台が、砕けて地に落ちたと聞いたときから、いつかこんな日がくるんじゃないかと思っていたが」
「待て、透輝。僕の目的は」
「いいや、私はそれに関わるつもりはないぞ。それに仕事中なんだ、おかげで路地裏を駆けずり回ったり天使と会うはめになったりしたけどね。しかしこれも女神さまの思し召しなるかな!」
 透輝はぐるりと身体の向きを変えて、もと来た道を全速力で戻るために振り返り――喉元に迫った金属の鈍い光にピタリと動きを止めた。両手を上げる。
「お嬢さん、ずいぶん物騒なものをお持ちですね……?」
 大ぶりな鋏の切っ先を突きつける薬師の勇者がそこにはいた。
「あなたが屋根へ飛び上がったから、付いていくのに苦労しました。この男、何者なんですか?」
 竜胆色の瞳を目の前の男から逸らさずに、彼女は彼へと問いかけた。彼は面倒くさそうに頭を掻いて説明した。その胡散臭い異邦人は勇者である、と。
 彼女は驚いて、すぐさま切っ先を退けた。
「ま……紛らわしいことしないでください! どうせまた面倒ごとに首を突っ込んで何かよくないものを追っているのだとばかり思っていたのに!」
「悪かったよ」
「大体あなたはどこに行っても!」
 憤慨したヤナギに今までのことを含めて彼はしこたま怒られた。その様子を不思議そうに眺めていた透輝の勇者だったが、やがて爽やかに微笑むと、
「じゃ、おにーさんはこれで失礼するよ」
 そう言って立ち去ろうとするので、彼は慌ててそのフードを引っ掴んだ。
「ぐぇっ」
「話がまだ終わってないぞ、透輝の勇者。僕がどんな目的でここにいるかだって? いいだろう、教えてやる。その代わりに君も今自分が何をしていたか洗いざらい吐くんだ」
「ううん? それなんか取り引きになってなくない? 私君のやってること知りたいとか1ミリも言ってないんだけど」
「いいからちょっと来い」
 透輝を半ば引き摺るように連れ、ぽかんとしているヤナギにおいで、と声をかける。そして一行は暗くて狭い路地裏から脱出することになった。





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