最終話かと思った?もう1話だけ続くんじゃ。透輝さんと薬師さんお借りしています。冬の長い話、その4。
@san_ph7
4.破滅への渇望
今にも燃え落ちそうなホールの中に飛び込んではみたが、人の気配は全くしなかった。火の回りが早い。敷地内には複数の建物が存在しているが、彼が今いるのは一番大きな建物だ。延焼を確認するまでもなく、他の建物からも火の手が上がっている。過失の可能性は全くないだろう。
この建物も複数箇所で火をつけられているようだ。吸い込んだ空気が熱い。
木の焼ける匂いの中に違和感を感じた。階段にもたれるように倒れた人を見つけて駆け寄る。血の匂いだ。使用人らしい若い女性は喉を掻き切られていた。すでに相当な量の血を流したらしい。彼が見ても分かる。もう助からない。
彼は今まさに意識を途絶えさせようとしている彼女に問うた。
「他に生きている者は!?」
女性は不可思議なものでも見るような顔したが、その問いの答えを指し示そうと震える手を動かそうとわずかに身じろぎをし――その身体から力が抜ける。彼の視界の端にあった薄く細い光の糸が、途切れた。
強く下唇を噛む。薄く開いたままだった瞼を下ろして、胸の前で手を組ませた。彼には、その魂を送ってやることはできない。
立ち上がると、入り口から丁度透輝が入ってきた。彼もそちらの方へ戻る。
「君、来るの早いな。それにしてもとんだ災難だ……! ろくなことにならないと思ってたけど、まさかこんな派手にやるとは」
「透輝、君は外にいろ。喉を焼くぞ。詠唱ができなくなる。それから、何があっても僕の身の保証はしなくていい。何を聞かれても知らないと答えろ。その代わりに薬師のことは任せた、彼女ああ見えて黙って無茶することがあるんだ」
「ちょっと、何の話をして」
彼は胸元から黄緑色の宝石を取り出してそれを透輝に押し付けた。
「使え。僕の予備の魔力だけど、君なら扱える。お釣りがくるくらいには貯めてあるから、存分にやってくれ」
「……詠唱に時間かかるよ」
「構わない。君は自分の立場を守れ」
何か言いたげなまま苦い表情をした透輝に、彼は――魔法を行使するとき以外では使うことのなかった古い言葉でこう言った。
『頼む』
透輝は一瞬目を見開いて、頷き、外へと出て行った。
彼は炎と火の粉で照らされた視界の中、薄く光る糸を掴んだ。ゾラの糸だ。まだ、途切れてはいない。生きている。
彼は階段に向かって走り出した。その半ばにある踊り場まで跳躍すると、着地した足元がぐらりと揺れる。間髪入れず上階に向かって飛ぶ。僅かに飛距離が足りない。手を伸ばし、崩れ落ちた床の端を掴んだ。階下に落ちた瓦礫が火の粉の混じった粉塵を巻き上げる。ああそうだ、せめて遺体を運び出してやればよかった……。
彼は体を引き上げると糸に導かれるまま、火と煙の中を進んでいく。喉が焼ける。途中で何人か既に事切れた従者を見つけるが、彼はもうひとりひとりには構っていられなかった。この糸が消えてしまわないうちに、ゾラを見つけなければ。
糸は猛々と燃え上がる扉の向こうへ続いていた。隙間から炎が吹き出している。内側から燃やしたらしい。人の声が聞こえる。躊躇なく蹴破る。熱風が顔を焼いた。
舞い上がった火の粉の向こうはやはりほとんどが炎に包まれていた。壁を伝い、天井まで燃え始めている。壁にかかった絵画、天蓋付きの寝台、美しい木目のテーブル、足元は精緻な紋様の刺繍された絨毯が広がる格調高い夫婦の居室は、もはや全てが台無しになろうとしていた。
その奥、煙を逃すためか開け放たれた大窓の近くに人間を見つける。ひとりは浅黒い肌に黒い髪をした男だ。夜着は乱れ、腕からは血を流している。その男と対面しているのは白く長い髪をもった少女。手にはナイフが握られている。炎に照らし出された赤い瞳は、愛する者を見る目ではない。ただ、殺意と呼ぶには気迫が足りない。その瞳に宿るのは、決意だけだ。
「ゾラ!」
彼が声を張り上げる。ふたりは彼に気づいてこちらを見た。訝しげに眉をひそめる男と、少し困ったようにこちらを見つめるゾラ。どうして。彼女の唇が小さくそう動いたように見えた。
「何者であるか! ……いや、賊の類ではないな。自分で火をつけた邸に舞い戻ってくるほど愚かな人間には見えなかった」
そういうと、目の前で凶器を構えたまま体制を崩すことのない自分の妻を皮肉げに笑う。
「まさか己の細君に蜜月も終わらぬうちに命を狙われる日がこようとはな。内通者はお前であったのか? それとも、ロアンか?」
「両方よ、王子様。ロアンは陛下から頂いた王国兵としての役目も、殿下から仰せつかった従士としての任務も全て守ったわ」
「なるほど! 父上の差し金だったのか! いや、それだけではあるまい。我が兄弟もか? ああしかし、最早関係がない。お前にとっては」
「ええそうよ。もう関係ないの!」
赤い瞳が焔のように光り、目の前の存在を睨みつけた。ゾラがエリディムレへにじり寄る。
「待て!」
彼は駆け出す。だがその時、壁に掛けられていた巨大な絵画がこちら側へ倒れてくる。反射的に飛び退いてしまった。燃え上がりながら床に叩きつけられたそれは、火の粉と炎を撒き散らしながら粉々に砕け散った。それらに視界を遮られ、一瞬ふたりの姿を見失う。
「ゾラ……!」
焼ける喉の痛みに耐えながら彼は必死に彼女の名を呼んだ。燃え盛る炎の向こうで、ナイフを握った腕をエリディムレに捻られ、苦悶に顔を歪める彼女の姿が見える。
「この細腕で俺を殺すというのか。武勲の誉れ高い我が父の血を引くこの俺が、お前のような小娘に遅れを取るとでも? 愚かな女よ」
掴まれたその細い手首が一層強く締め上げられたのか、ゾラは小さく呻いた。ついにナイフを取り落とす。しかし、その口元は――薄く笑っている。
「賊も俺の始末をこんな女に任せるとは。何を勘違いしていたのやら。まさか本当に殺せるとは思っていなかっただろうに」
ぐいと顔を彼女に近づける。
「何が目的だ?」
「あなたには……関係のないことよ」
「そうか。しかしお前にはまだ聞きたいことがある。この調子ではロアンを呼び戻しても戻らぬだろうしな。何、死なれては困るのだ。お前には生きていて貰わねば。生きているなら、どの様になっても構わぬ」
嗜虐的な笑みを浮かべた男が妻を見つめ、次に彼の方を向いた。
「そこのお前! 誰かは知らぬが、おおよそこの女や俺に危害を加えにきたわけではなさそうだな。案ずるな、俺は可愛い我が妻を殺したりはせん。賊は派手に火を付けて回ったようだが、いずれにせよ俺を殺害する計画は破綻している。俺が生きているなら、いかようにでもできる。いささか手駒は減ったがな。さぁ、この女を焼き殺したくなければ、ここから出るのを手伝え」
この男のことだ、会話を聞いていた彼のことも始末するつもりだろうが、彼とて黙って殺されるつもりはない。だが、今は目の前のふたりの命を優先すべきだろう。
炎を避けてそちらへ慎重に移動する。ゾラには生きていてもらわなければならない、というのは、恐らくクリスタルとしての利用価値を認めているからだろう。しかし、この様子では恐らく透輝はまだこの事実を伝えていない。つまり、彼女がクリスタルの機能を有しているのであれば、それは不完全なものであると。その選択は正解だった。無価値になってしまえば、その瞬間に手のひらを返すだろうことは容易に想像できる。
「手を離してやってくれないか」
完全にはふたりに近づかない距離から、彼はそう言った。
「ふむ。だそうだが、どうだ? 気が変わり、俺と一生添い遂げるというのなら離してやろう」
問われたゾラは固く唇を結んだままだった。
「強情だな。見上げたものだ」
「ゾラ、どうしてこんな」
彼が掠れた声で彼女に向かってそう呟くと、ゾラはやっと顔を上げた。橙色の炎に照らされて、血のように赤く輝く瞳が彼をじっと見つめている。
「これは、私の望んだことよ」
「……ダニカも? 君の双子の妹も、君がこんなことをするのを望んでいるというのか!?」
彼女はこれには答えない。ただ、顔を伏せることはなかった。そこには絶望も希望も浮かんではいない。決意だけが、ある。焔のような、油断すればすぐに掻き消えてしまいそうな、しかし強い思いがある。
――彼女はまだ、何かを……?
次の瞬間、轟音と共に入り口付近の天井が崩れ落ちた。揺れと音に一瞬気取られたふたりの隙をつき、まずゾラはその掴まれていた手を振りほどいて、そのままエリディムレを思い切り突き飛ばした。彼女が床に落ちたナイフをサッと拾い上げたところで、転倒した王太子が憤怒の形相で立ち上がり飛びかかる。これを横から止めに入った彼の鋭い拳が捉えた。そのまま窓の方へよろめいて倒れる。
「武勲誇る剛勇王が長子とは、名ばかりだな……!」
それからゾラを見る。ナイフを携えたまま身動きしない彼女を。
「ゾラ、君にずっと聞きたかったことがあるんだ。だけど、もう無駄なことだというのは分かった。僕はこうなってしまう前までは、君が幸せならそれでいいって思ってたんだ。でも、違うんだろう?」
「……そうよ。ねぇ、どうして来てしまったの? こんな」
ゾラはちらりと昏倒させられた夫だった男を見た。
「こんな、ことをして。ただでは済まないわ」
「それは君も同じだ。きっとヤナギだって、大変なことになる……。でも、いいんだ。起きてしまったことは覆らないから。これからのことを考えよう。君が、どうしたいか教えて。できるだけ、君の意に沿うような形でこの事態を決着させたい。僕にはその助力ができる。……全部元通りには無理だ、でもきっと、まだ何とかなる」
教えて、と彼が強く尋ねた。ゾラはヤナギという名前を聞いて困ったように目を伏せかけたが、それも本当に一瞬のことだけだった。
「いいえ、もう無理。あなたは起きてしまったことは覆らないと言ったわね。その通りよ。覆らない。もう、元には戻れない。これを始めてしまったときから。私は、たくさんのひとを巻き込んだ! ロアンまで唆してしまった! でも、これは全部私の選択よ。全て私が望んだこと! もう駄目なの!」
悲痛な叫びだった。助けを求める、哀れな少女の魂からの叫びだ。彼にはそう聞こえた。
「君の望みは、何だ! 言ってくれ!」
「優しいひと。だからこそ、あなたにはそれは絶対にできない」
ゾラは悲しそうに微笑むと、その刃を自分の首元へ向けた。
「破滅を望んでしまったときから、それだけが救いだとずっと信じてきたの。今更それ以外に方法があるだなんて、ねぇ、信じられる? もう遅いの。ああでも、もっと早く、あなたが来てくれていたなら……いいえ、それもこうなるまでは、きっとあなたに分かってもらえることはなかった。でも、あなたは悪くないわ。どうか、誰も恨まないで。私のお父さんも、きっとそう言っていたのでしょう?」
「待て――」
「お願い――死体は残さないで」
それから、ヤナギに伝えて欲しい、と彼女は思い切り笑った。妹とは対照的にいつも控えめで、花がほころぶようにふわりと柔らかく笑う彼女が、彼も初めて見る、心からの喜びを発露させた笑顔だった。
「折角怪我を治してもらったのに、こんなことになってごめんなさいって。こうなることが分かってはいたけど、あなたに黙っていたことを許して欲しいって。それでも、あなたの心が嬉しかったって、伝えて」
「ゾラ、待って――」
炎が反射し揺らめく刃の先が、彼女の喉元へ突き刺さる。手を伸ばした。間に合うはずだった。届くはずだった。
突如、床が崩れ落ちる。炎が激しく吹き上がり、彼らは階下へと落下していく。瓦礫と炎に飲まれ、体中を荒れ狂う熱風が舐めていく。声を出そうとするが、喉を震わせることすらできない。延焼による崩壊は進み、彼は支えを失った柱の下敷きになった。太い材木の表皮を炭化させながらも未だ燃え続けるそれを乱暴に引っ掴むと、力任せに押しのける。
目を焼かれて不鮮明になった視界で、彼は彼女を探した。そして、ついに小さな手が瓦礫の下から伸びているのを見つけたとき、彼はその場で呆然と立ち尽くした。
頬を伝うものがある。それは次々と彼の顔へ、肩へと降りかかる。やがて次第にその粒は大きくなり、季節外れの大雨が地面や炎を強く打ち始めた。ほんの少しだけ温かいそれが、彼の体を流れていく。慰めのような雨は、しかし彼の心に深く残った悲しみを洗い流すことはなかった。
――どうして。
渦巻く悲しみと疑問に、彼は心囚われたまま、その場から動くことができなかった。
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「……えーっと。生きてる?」
聞き覚えのある声に彼は顔を動かした。どれくらいぶりか、彼は意識を取り戻した。声を発そうとするが、出ない。返答するために、彼は右手を僅かに持ち上げた。金属音が鳴る。右目はぼんやりとした風景を映し出している。焦点が全く定まらない。どうやら、暗い場所にいるらしい。床や背は固く、冷たい感触を伝えている。石のようだ。これではまるで、魔界の獄に繋がれたどこかのお人好し勇者のようではないか? 笑いたかったが、口が上手く開かない。
「本当に生きてるの? その状態で?」
「静かにしてください。危険を承知で申し出た提案をあなたがぶち壊しにするつもりなんですか」
また聞き覚えのある声だ。ガチャン。錠の外れる音。それから鉄格子の扉を引き摺るような音と振動が彼にも伝わった。誰かが近づいてくる。すん、と鼻を鳴らしてみたものの、匂いすら感じ取れない。
「私が見えますか?」
ヤナギの声だった。目の前で手を振られたようだが、それもぼやけてしまってうまく視認できない。彼は頭を横に振った。また金属音が響く。どうやら首枷までつけられているらしい。
「口、開けてください。少しでいい……そんなに大きく開けないで、血が」
口内に流れ込んできたのは自分の血液と、それとは違う何かとろみのある液体だった。彼はそれを飲み下す。カラカラになった喉へ痛いほど染み渡った。
「私の声、聞こえてる?」
僅かに頷く。こちらは男の声。透輝だろう。
「えーとね、まずは現状から説明するよ。君の言うとおりには、した。いいかい?」
問われ、もう一度頷く。ふたりの勇者はこの牢にある火傷まみれの罪人とは無関係なまま、ということだ。少しだけ安心した。とはいえ、彼らはこの場所にくるために何らかの取り引きを行ったようである。
「ここはね、実は神殿の地下なんだ。罪人を捕らえておく施設が何故ここにあるかはさておき、現状を伝えるよ。私はあの後、倒れている君と王太子を見つけた。ああ、王太子だけど、生きてるよ。残念なことにね」
ヤナギに睨まれたのか、透輝は一瞬黙った。
「もう大変だった。君も見ている通り、これは襲撃だ。幸い、邸の敷地内におらず、生き残った従士たちも多数いたから、壊滅ってわけじゃない。で、君は知らんぷりしろっていうから、生きてるんだか生きてないんだか分からない状態の君は、とりあえずここに繋がれることになった、ってわけ」
当然だと彼は思った。誰も彼の身の証明ができないならば、真っ先にこの襲撃への関与を疑われることになる。こういう事態を見越して、彼は透輝に彼と無関係であることを証明するための行動を取り、自分の立場を守れ、と行ったのだ。透輝はそれに相応しい立ち回りをしたようだ。
「安心してよ、王太子は生きてはいるけど、まだ意識を取り戻してはいない。彼は運がいいのか、火傷は大したことないみたい。瓦礫で腹を殴打でもしたのか、直前で気絶してたようだから……アー、もしかしてそれ君の仕業なの?」
彼は引きつる痛みを無視して笑ってみせる。
「……よくやるよ」
「無茶しないでください」
ヤナギは彼の左目を覆っている眼帯を取り外したいのか、彼の後頭部を探っていたが、結び目が硬いのかそれとも溶けてしまっているのか、ため息をついた。切っても構いませんか、と一応聞いてくれた。彼は頷く。
覆われていたお陰で左目の周囲に火傷は及んでいないようである。だが、この左目が開くことはない。
「王太子が不在ってことで、今は彼の従士たちの長が代わりにいろいろと指揮を取っている、みたい。というのも長は襲撃で命を落としているらしく、今の長は繰り上げの繰り上げぐらいの立場の男だよ。あれは可哀想に。まぁ、私たちはその可哀想な男を丸め込んでここに来ているわけなんだけど。具体的にいうと、王太子の意識が戻ったときに現場で何があったのか証言がとれる人間を殺してしまうのはまずいでしょ? みたいな」
軽口のようにぺらぺらと説明をする透輝をよそに、ヤナギはどうやら火傷の具合を詳細に確認したいらしい。頬にそっと手を添えられ、少し上向きにされる。
「君と王太子だけじゃなく、負傷者は大量に出た。それもみんなこの神殿に運ばれてきている。彼女、大忙しだよ。でもいくら私たちが勇者だっていっても、王太子には流石に接触できなかった。ま、有事だからね」
目覚めたら、王太子は真っ先に彼の首を刎ねにくるだろう。それから、どうなる。
「考え事はいいですが、自分の身を少しは省みて下さい」
何度言ってもあなたたちはちっとも分かってくれない、とヤナギはいつも通り不満げにそうぼやいた。そのいつも通りが、ひどく辛い。
「や、なぎ」
掠れた、声にもならない声が出た。それを耳聡く聞き取ったのか、ヤナギは顔をしかめた。
「今飲ませたものは、そんなに即効性のあるものではないはずです。無茶をしないで」
「ぞら、が、ごめ、んなさいって、でも、うれし、かった、って」
「……聞こえませんでしたか。無茶をするなと言っているんです。あなたよく知っているでしょう? 火傷の治療って時間がかかるし、大変なんですよ」
この目がもっとはっきり見えたなら、そこにいる彼女にどんな言葉を掛けるべきだったのか、正しく理解することができただろうか。
ごめんね、と声に出さずに小さく唇を動かす。手間を掛けさせていること、ゾラを救うことができなかったこと、その最期をうまく伝えることができないでいること。後悔が溢れる。あの時何かひとつでも違っていれば、結果は変わっただろうか。彼は、終生この自問自答から逃れることはできないように思われた。幾度悲しみに塗りつぶされても、どれだけ結末が変わらないことを思い知っても、彼はついに掴むことのできなかった可能性を諦めることができないでいる。
「明日、また薬を調合してきます。……すみません、包帯も薬草も足りなくて。回復には時間がかかるかもしれない」
大丈夫だよ、というつもりで頭を左右に揺らしてみる。大人しくしてください、と瞬時にヤナギに怒られた。それから、と彼女は足元に何か柔らかくて温かいものを置いてくれた。
「あなたの、その、ハトです。主人を探してうろうろしているところを見つけました。私たちには何も話してくれなかったので……」
イヴ、と唇を形作ると、数度彼の脚がつつかれたようだった。よかった。彼女は彼に頼まれたお使いを果たしたのだ。
彼らはそれだけ伝えると、その日は牢から立ち去った。誰もいなくなったことを確認すると、にわかに足元にいたはずの存在から膨れ上がるような質量を感じた。のしのしと誰かがこちらへ近づいて、顔を寄せた。
「へいか、わたしの顔が見えるか?」
「みえ、る」
「嘘をつくな。そんなに濁っていて見えるわけがない」
なら、聞くんじゃない。
イヴはそれから彼の喉をぺちぺちと叩いた。
「ヤナギはああ言っていたが、あなたは人外の最たる存在、魔王だ。この程度で死んだり、回復に手間取ったりするわけがない。だから、まずは治す気を持て。余計なエネルギーは消費せず、全て回復分に注げ。ヤナギの薬が助力になってくれる」
イヴはそれから、彼の負傷に遠慮することなく、体勢を整えてその脚の間に収まった。
「お使いの結果を報告する。相槌はうたなくていい。私もへいかに何か問うような真似をしない」
続けて、へいかの言っていた写本は存在した、と彼女は言った。
漆黒の経典。または、その冒頭の文句から”過ぎし星霜の物語”と呼ばれることもある。初版は女神教の総本山である大神殿が所有しているという。また、この本にはいくつかの写本が存在する。書館の勇者治めるビブリオテカにあるその名はリヴロアツ写本。曰く、リヴロアツなる人物が転写したものらしい。
内容は、純白の神とともに世界を作ったとされる漆黒の神にまつわる話だ。基本的に世界創生譚を中心に書かれているものだが、聖界に複数存在する写本のいくつかは転写の際に記述が追加されているものがある。
リヴロアツ写本に書き加えられていた内容は、魔術による魂の継承儀式。魂の帯びた役割を破壊することなく魂ごと受け継ぐことを目的としたもので、その魂を移す対象は魔道具へと限られていたようだ。複雑な手順を踏んでいるらしいこと、あまりにも古く記述の多くが失われており、写本の全容を把握するのが不可能であることから、儀式の再現は困難と言われている。
「それから、妙な紋章を見つけた。一度家まで帰って調べたんだぞ。魔界の古い魔族の印だった。もう滅んでいるが」
こういうのだ、と彼女は彼の手のひらに指を使って描いてくれた。
「学者がそう言っているように、漆黒の経典自体は恐らく魔界で製作されたものだろうな」
これで助けになったか、とイヴは問うた。彼は頷く。
恐らく、その儀式の背景になったのは魔王の継承儀式だろう。彼は知識の上で魔王という魂に刻まれる宿命を血族、或いは自分の世界の魔族に継承させる魔王がいることを知っている。詳しく聞いたことはないが、恐らく尋の魔王などもそうだ。何らかの意図があり、儀式を転用させたのだろう。だが、魔王継承の儀は本来秘中の秘であり、その方法を知る者は限られている。もしかしたらこの儀式を持ち出した者のせいで、魔界は滅んだのかもしれない。
村には、恐らくこのリヴロアツ写本の内容を知る者が過去いたのだろう。ともすると、件の魔族そのものがそこに住んでいた可能性すらある。
問題は、転用の仕方にある。写本の中身にあるのは魂を魔道具に対して継承させる方法のみだ。魂から魂へ、とは書いていない。ただこれを読み解き、儀式の根源的な役割、つまり魔王の魂を別の魂へと継承させる儀に近づけることはできただろう。そして人間の魂を別の魂へ継承させていく方法へと、再転用した。その結果がゾラだ。
ゾラは破滅をずっと前から望んでいた、と言った。彼が微睡みの中で聞いた助けを求める多くの人の叫びとは、継承の儀を繰り返した結果、転生することも消滅することもできずに囚われていた魂の叫びだったのだろう。本来、魔王に対して運用される儀式だ。これを人間の魂が同じように耐えられるわけがない。ゾラはきっと、継承され続けてきた魂の悲哀をずっと聞きながら生きてきたのだ。
では何故魂の継承を繰り返す必要があったのか。
儀式や呪術には、役割がある。無意味な行為を繰り返していたはずはない。とはいえ、黒と白の神の話ですら既に朧気にしか伝わらぬほど時が経っている、と首長が語っていたこともある。儀式は最早本来の意味を失って久しいのかもしれない。だがこの儀式を転用しようとした時代には何か明確に目的があったはずだ。
今彼が考えていることは、何もかも推測でしかない。ゾラ本人は死んでしまっている。その上、ゾラはそもそもクリスタルとしての機能を果たせてはいなかった。しかし、もし彼女が本当にクリスタルであったなら、継承儀式が繰り返された理由も説明がつく。彼らはクリスタルを任意の人間に継承させるべく、儀式を行ってきたのだ。
その場合、次に疑問に思うことは、何故対象が人間であったのか、ということだった。リヴロアツ写本には魂を魔道具へと継承させる方法が記述されているのだ。いつか死んでしまう人間に継承させるよりは、一度クリスタルの役目を魔道具として継承させてしまう方が手間がない。彼らが人間にクリスタルを継承させ続けることにこだわったのなら、特別な理由が必要だ。
「へいか、何か考えているようだが、今は治療に専念しろ。この状態では回復を待たないと、安全に元の姿へ戻ることも難しいだろう」
ぺち、と額を叩かれる。だがその手は、しばらく額から離れなかった。
「ど、したの」
「へいか、熱が。回復してるせいかな」
ともかく大人しくしろ、と言って彼女は黙った。
彼は暗闇で静かに思考する。忘れ去られた二柱の神々と春の女神。決まった時期に発生する疫病。クリスタルを魂として継承していく儀式。ロアンのことも、彼には気がかりだった。ロアンは首長から何を聞いて、ゾラから何を請われたのか。
『破滅を望んでしまったときから、それだけが救いだとずっと信じてきたの』
――僕だって、ずっとそう思ってたんだ。
あんな笑顔を残して逝ってしまった。ゾラは幸せだったんだろうか。こんなに、悲しいのに。
考えねばならないことは山ほどあるというのに、にわかに頭蓋の中が沸き立つように熱を持ち始めた。渦巻く炎に思考をかき乱され、やがて彼の意識は落ちた。
5話(http://privatter.net/p/3180120)