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取り込んだ賢者の杖は周りの支柱と同様の白色に変化し、地に突き立っていた。
杖がある以外は辺りはすっかり俺と青年が出会った場所と変わりなく、無機質な支柱が立ち並んでいる。
紛い物とは言え馴染み深い建築物が無くなったことで、早くこの何もない世界から抜け出したいと望みは強まった。
前回と同じように体を解す様伸びをしたり身を捻って体の調子を調べる。
青年も隣で同じように屈伸をして異常がない事を確かめてから俺たちに向き直った。
「エデンの欠片もあと一つだ。次は面倒なく手に入ればいいんだが…」
「今までの事を思えば、すんなり手に入るとは思えないがな」
「せめて次の欠片の在処だけでも、すぐ分かれば良いんだけどなぁ…」
それぞれ思いを口にして、3つ深いため息の音が重なった。
今一度巨大な壁を目指し、エデンの欠片に通じる痕跡を探す。
ぐるっと一回りするにも相当な距離がある。
疲れこそ感じないが風景は変わらず、白一色の世界を探索するのは苦痛もいいところだ。
円を描くように、中心の一番高く聳える支柱に向かって見て回る。
男と出会った場所や林檎を掘り返した支柱も、鷹の目で探ったが何の手掛かりもない。
また振出しに戻ってしまったようだ。
これまでの道中で本当に見落としがないのか確認をし合い、今度は逆ルートでもう一周回ろうかと話し合っていた時、やはり一人だけ落ち着き払った男が片手を上げて注目を促した。
「一つ、試してみたい事があるのだが…」
「何か見つけたのか?」
男がチラリと俺を伺い見る。
また何か不本意な事でも言うつもりかと厳しい顔で見返せば、一つ咳払いをしてから慎重に話し始めた。
「ずっと考えていたことだ。そもそも“エツィオ”が複数居ることが不自然なのだ。
しかもお前だけがエデンの欠片を操り、手に出来る。とすればお前だけが存在していればいい。
私とこの青年のどちらか、もしくはどちらもエデンの欠片の護り手の可能性がある。
…というか、護り手なのだろうな」
思いもよらない男の仮説に、隣にいた青年がビクリと体を揺らし、酷く動揺する。
思わず青年を振り返れば、蒼白な顔で口を引き結び、男を脅えた目で見つめていた。
そんな青年を睥睨するように見る男の眼差しは、隙無くそして鷹の目で確認するように青年を捕えていた。
その視線は青年の肩から掛けられた何かを辿る様に視線を滑らされる。
「…鷹の目で確認してみろ」
そう男が指示を出すと同時に、隣の青年が素早く反転し駆け出していた。
呆然とその後姿を見送る。
咄嗟に動くことが出来なかった俺の背後から、小さくため息を吐く音が聞こえた。
「見失うぞ」
「……アンタを鷹の目で視るのが先だ」
「ああ、そうしてくれ。こんな茶番はさっさと終えるに越したことはない」
飄々とした態度の男が両手を広げて俺に相対する。
鷹の目で男の正体を暴くように、頭の先から爪先までを見つめるが、そこに映るものはない。
この男は分かっていて言ったのだろう。
俺に足りないのはあの青年の頃の記憶なのだ。
自分が護り手ではないと分かっているから、容易に俺に確認をさせたのだ。
だがしかし、そうすると大きな疑問が残る。
青年が記憶を取り戻す鍵なのだとしたら、男の存在はいったい何だというのだ。
二人もいれば目眩ましになるとしても、男からの提案がエデンの欠片を手にする助けになった。
それならば、欠片の護り手は俺か青年になるのではないか?
「俺の事も鷹の目で確認はしたんだろ?」
「ああ、お前は2つのエデンの欠片を取り込んでいるからか、常に金色の光を帯びている」
「…では、」
「その光がもうひとつ見えたのだ。そうと見据えて確認しなければ気付けないほど弱々しい反応だったが」
淡々と告げるこの男の存在が恐ろしく感じる。
これこそ欠片の護り手として感じる、欠片を奪われないための恐怖ではないのか。
「何故、俺を存在していい“エツィオ”だと言えるんだ?」
「…エデンの欠片がお前を選んでいるからでは理由にならないか?」
「…ならば、アンタの存在は一体なんだというんだ!」
俺の問いかけに男は何でもないように肩を竦めて見せた。
始終泰然としてみせる男は、自分の存在が否定されるかもしれないと言う恐怖はないのだろうか?
それに男の仮説が真実とするなら、ここに存在できる“エツィオ”とは男の方ではないのか。
いくらエデンの欠片によって記憶を取り戻しているとは言え、俺は決定的に何かが欠けている。
記憶だけの問題でなく、俺自身、自分が本物の“エツィオ”だと思えなくなっていた。
この男こそが俺たちの還るべき“世界”で、本物の“エツィオ”ではないのだろうか。
3つのエデンの欠片を揃えて記憶を取り戻したら、この男の中に還り“本当の世界”に帰る。
それが自然のような気がした。
俺自身は家族の仇を討てたと知った今、全ての肩の荷が降りたと言っていい。
これ以上を望むかと問われれば、否だ。
男に取り込まれたっていいし、なんならいっそこのままこの世界に留まり続けたって良い。
しかし先ほど衝動的に逃げて行った青年は、おそらく納得しないだろう。
志半ばでこちらへと出現してしまった青年に、お前は存在しないのだと言ったようなものだ。
そのショックは察するに余りある。
説得する決意をし、俺は男に背を向けて青年が走り去った方角を見据えた。
「……俺があの子を説得する。アンタは手を出すな」
「そうか、お手並み拝見と行こう」
「…いや、俺一人で追う。アンタはここで待っていろ」
「何?」
「これは俺自身の問題なのだろう?アンタが一緒だと、あの子はより警戒して協力しなくなるかもしれない」
疑り深く値踏みするように俺を見つめる男の目をまっすぐ見て答えを待つ。
俺の意思が堅いと見たのだろう、男は諦めたように視線を外すと重々しく頷いた。
「良いだろう。だが時間がかかる様なら介入するぞ」
「……分かった」
*****
袋小路のようになっている支柱の影で、両膝を抱えて顔を伏せている青年を見つけた。
逃げるかと思ったが、俺が足音を立て近づいても微動だにせず蹲ったまま。
無言で青年の隣に腰掛け、どうしたものかと天を仰ぐ。
「……導師は一緒じゃないの?」
青年が顔を上げずに問いかける。
もし元々エデンの欠片の護り手の自覚を持っていたならば、返答次第で俺を襲うのかもしれない。
しかし俺はこの子にならそんな抵抗を甘んじて受けてやろうと思った。
「俺一人だ」
青年が静かに顔を上げる。
泣き濡れたような顔をして見上げる青年を無感情に見下ろせば、情けない顔をして再度俯いた。
「俺を殺すのか」
「さぁ?そもそもお前はエデンの布を持っているのか?」
「…信じてもらえないかもしれないけど、本当に知らないんだ」
「そうか」
何をするでもなく、無言で隣り合う。
暫くそうしていると、落ち着かなげに青年が俺の様子を伺い出した。
沈黙が恐ろしいのか、何か問いかけようと口を開きかけ、しかし何を言っても墓穴を掘りそうだと閉口する。
酷く不安そうにしている青年が気の毒になり、せめて彼が一番気にしているだろうことを伝えてやることにした。
「お前の許可がない限りは、お前を勝手に調べたりしないぞ」
青年が勢い良く顔を上げて俺を見た。
驚き瞠目して俺の真意を測りかねて困った顔をする。
我ながら表情豊かなものだと半分呆れながら、そして興味深く青年を観察した。
「なんで…」
弱々しく問いかけられるそれに、無性に庇護欲を刺激された。
この青年を暗く激しい憎しみと哀しみから、遠ざけ攫ってしまいたい。
「エデンの欠片がないと、元の世界に帰れないんだろ?」
「さぁ?そもそもエデンの欠片を集めたところで本当に戻れるのか?」
「…知る訳ない。俺、護り手の自覚なんてないし。ここがどういう所なのかもわからないのに」
「俺も同じだ」
もともと無理強いするつもりはないのだと伝えれば、ますます青年は困惑した。
「もし“エツィオ”が一人しか存在できぬというのなら、俺もお前も、あの男も皆一つになるのだろう。
お前だけが消えるわけではない。だがそれで本当に帰れるのかは分からないし、俺は無理強いするつもりはない」
「でも、俺……怖いんだ…」
辛そうな顔をして青年が俯く。
思いつめ、そして恐怖に身を震わせる青年が気の毒に思えた。
始終不安そうにしていた青年は、無意識のうちに護り手としてエデンの欠片を奪われる恐怖と戦っていたのかもしれない。
ああ成程。
どんなに抵抗をしてくる敵よりも、この青年の存在の方が何よりも厄介かもしれない。
思わずため息をつけば脅えたように大きく肩を揺らし、青年が絶望的な顔をして見上げてくる。
そんな青年を安心させるように優しく肩を叩き、そして真摯に向き合った。
「お前が嫌がるなら、俺は何もしない。約束する。だが、そうなるとあの男がどう出るかわからん。
一緒に逃げるか…それとも戦うか」
「なんで…俺が持ってる欠片を奪えば、アンタだけでも帰れるかもしれないのに…」
眉根を寄せて狼狽える青年の肩を抱いて引き寄せる。
何の抵抗もなく俺の腕の中に納まる青年が愛しく感じ、その額に口づけを落とした。
おずおずと見上げてくる青年の瞼や鼻先、そして頬に順に口づける。
「お前を護ってやる」
そう耳元で囁けば、瞬時に顔を真っ赤に染めて両手で顔を覆った。
「お、女の子口説くみたいに言うなよ!!」
「嫌か?」
「い、嫌じゃない、けど!」
嫌じゃないのか、と思わず失笑すると、非難するように胸を叩かれた。
どうやら元気は取り戻せたようだ。
俺があの男を信用していないように、あの男も俺の事を信用していないだろう。
だとすると、早々に介入してくるはずだ。
またあの男を説得するのも無駄だろう。
青年がエデンの欠片の保持者だと言い放った時、冷たく切り捨てるような物言いであったし、あの男自身、この世界にうんざりしているのだろう。
この空間は建物として広大ではあるが、この程度の広さではあの男から逃げ切る事は不可能だ。
だが戦うにしても経験の差と、俺たちの行動の予測が容易いだろう相手に、二人で掛かっても勝機は薄い。
一先ずは男から逃げ、場合によっては応戦しつつ時間を稼ぐしかない。
「本当に導師を説得できるかな…」
「その“導師”と言うのは何とかならんのか」
「でもしっくりくるし…俺が尻込みしてるだけで、導師は本当は敵じゃないんだろ?」
「……それは、俺にも分からん」
ぶっきら棒に言い捨てると、青年は困ったような顔をして俺の服の袖を引っ張った。
「最終的に俺もアンタも導師に取り込まれるってアンタは思っているんだろう?
でも、アンタは別にそれでも良いってさっき言ってたよな?
ならなんでアンタはそこまで導師の事を警戒してるんだ?」
青年の疑問も尤もだろう。
俺自身、あの男に還る事は納得しているつもりだ。
しかしあの男には得体のしれない恐ろしさがあるのも確かなのだ。
まるで取り戻していない記憶の中で、あの男が俺に良くない関わりを持っていて、その記憶の残滓に引っ張られているような…
調度記憶を無くして戦っていた、ロドリゴ・ボルジアに対して感じていた不快感、いいや、それ以上のような…とにかく碌なものじゃない。
「俺はエデンの欠片を2つ取り込んだ。だから俺も欠片の護り手だろう?
……きっとそのせいで、俺はあの男を警戒しているのかもしれないな…」
「…でも、アンタは…」
青年が何か言いかけたのを遮るように壁を駆け上がり、横っ飛びに高い支柱へと手をかける。
あの男が先導したように、道を選ばず真っ直ぐ進み続ける。
青年も慌てて俺の後に続くと、少しだけ息を弾ませて俺の前へと身を乗り出した。
「この逃避は、時間稼ぎにしかならないんだろ…?」
そこには先ほど見た絶望的な顔ではなく、事実のみを確認し思案する顔があった。
そんな青年に戸惑い言い淀んでいると、その様子を見た青年が可笑しそうに笑みをこぼした。
「俺、本当はアンタの事苦手だなって思ってたんだ。導師と違って気難しいし、なんか意地悪だし。
でも、俺の味方をしてくれたのがあんたでよかった」
「意地悪で悪かったな。お前を見てると、何故だか苛めたくなるんだ」
「酷っ!」
支柱の影に隠れつつ移動をし、小休憩を挟んであの男をどう説得するかを話し合う。
あまり長居をすれば追い付かれる可能性を考えて、小まめに移動を繰り返し、周囲への警戒も怠らなかった筈だった。
あの男は気配を消すのが本当に上手い。
最初に出会った時も、気配すら覚らせず、簡単に俺たちの死角を取って接触してきた。
不意に聞こえた足音も、わざと立てなければ本来その存在を知らせることはないのだろう。
音のした方を振り返れば、案の定その男が俺たちの直ぐ近くから姿を現した。
「こそこそと逃げ回って…護り手の説得は諦めたのか?」
青年と逃げると決めて、男が待つ場所からかなり遠くへと移動したはずだった。
常に移動をして一つの所に留まらないようにしていたのに、男は何食わぬ顔で追い付き、俺たちの前に姿を現した。
「私が追い付いたのが意外そうだな」
「…最初からつけていたのか?」
「まさか!真面目に説得して戻って来てくれるものと思っていたよ。裏切られるとは予想外だったな」
男の纏う雰囲気が変わり、まるで標的を前にした狩人のような鋭い殺気が放たれる。
青年を背に庇い睨み付ければ、男が忌々しそうに顔を歪めた。
「お前達には私の鷹の目がどういう風に見えているか、教えていなかったな。
私が人を探す場合、対象が通った道筋や、そこでどのような行動を取り、道中何をしていたか、全てその姿を視る事が出来る。まず私が標的を見逃すことはない」
そんな、それではどうやったって逃れることは出来ないではないか!
ジリジリと男から後退する。
冷めた目で俺と青年を見据える男が腕を組み、ゆるゆると頭を振ってため息を吐いた。
「で?望みは何だ?この期に及んで見逃してほしいとかそんなところか」
「少し、時間をくれても良いだろう。この子と、俺の覚悟が決まるまで」
男が片眉を上げ、小ばかにしたように流し見る。
端から無駄だと切り捨て、俺達に猶予を与える気などないのだろう。
「その子はともかく、何故お前に覚悟が必要なのだ?お前がエデンの欠片を必要としているのに」
「業と言っているのか?全ての欠片を取り込んだら、次はアンタが俺を取り込むのだろう?」
男は俺の言葉に僅かに目を瞠り、そして困惑した顔になった。
顎に手を当てて、思案するポーズを取る。
「一応聞くが、何故そんな結論になった?」
「アンタが欠片の護り手ではないからだ。勿論目くらましなどでもない。
だが無意味な存在でもないと感じた。それならば、未来の存在であるあんたが真のエツィオなのだと考えたまでだ」
「……成程な。半分は当たっている」
半分、とはどういう事だろうか。
というか、この男の口ぶりは、最初からここがどういう場所なのか知っている物言いだ。
いよいよ警戒が強まり、男に対する不信感が決定的なものとなった。
「私と敵対する覚悟で逃げ出す選択をしたのだろう?私もあまり時間を掛けたくはない。
君を取り込むつもりは毛頭ないが、実力行使はさせてもらう」
男が素早く左腕の仕込み銃の切り替えに手をやったのを見て、咄嗟に青年を突き飛ばし、転がる様にして男の凶弾を避けた。
想定していた最悪の状況だ。
きっと男は足手まといの青年を狙い、人質にして俺に選択を迫る筈だ。
青年は実戦に出始めたばかりの頃で、男の動きについていくのがやっとというところだし、なんとか逃がして俺と男との真っ向勝負に持ち込むしかない。
男の足元まで体を滑らせ足を払おうと、体全体で薙ぐ。
軽々と男は背後に飛び、即座に青年に向かって走り出した。
「行かせるかっ!!」
ロドリゴ・ボルジアと対峙した時のように、内に潜むエデンの欠片の力を解放させ、分身を作り出した。
分身たちにブレードの仕込み銃で男へと発砲させる。
7つの凶弾が四方から男に向かって打ち込まれたが、男は全ての銃弾をその身に受け、血を流そうとも構わず青年に向かって腕のブレードを突き出した。
咄嗟に青年が転がって攻撃を避けようとするが、男は抵抗を許さず青年のローブを踏みつけて、動きが止まったところで青年の裏腿目掛けブレードを突き立てた。
鋭い苦痛の叫び声が上がる。
さらに動けなくさせる為だろう、男はもう片方の足も同じように深く切りつけた。
怒りで頭の芯が熱を持ったように熱くなり、殺意をもって男にアサシンブレードを叩き込もうと駆け出した。
俺と連動するように、分身達も一斉に男に向かい駆け出す。
分身達が一斉に男を抑え込もうと掴み掛かろうとするが、舞うように男の腕から延びるブレードが分身達の首元を切り裂いていく。
切られた場所から血飛沫の代わりに白い光が雲散し、分身達が尽く消されていってしまった。
身体に疲労感がドッと押し寄せる。
エデンの果実を使用すれば、自身の体力が酷く消耗するようだ。
僅かに勢いの弱まった俺の剣戟を、男は交わすまでもないと正面から受け止め、受け流す様に滑らせて横に払った。
体勢を崩した俺へと容赦なく男の蹴りが襲い、地に倒れ伏した。
首元を踏みつけられ、男のブレードが俺の肩口に差し込まれる。
肉を裂かれる強烈な痛みに情けなくも叫び声を上げた。
何もかもが男に遠く及ばない。
エデンの欠片を以てしても、俺と青年の2人など、まるで子供の相手でもしているように男には通用しなかった。
「互いに傷つけ合う等、これ程愚かなことはない…そうは思わないか?」
男が猫の子でも掴み上げる様に、俺の首を掴み上げ、膝立ちにさせた。
腕の痛みに歯を食いしばり、男を睨めつける。
しかし男は俺を見ずにまっすぐと青年の方へと厳しい視線を投げていた。
「お前が素直にこの男に還れば、この男は苦しまなくて済むのだ。それとも、無様な未来の自分自身の姿が見たいか?」
酷く傷つけられた肩の傷をアサシンブレードでさらに抉られ、喉から酷い叫び声が漏れる。
それと同時に悲痛な青年の懇願が耳に届いた。
「やめろ!やめてくれ!!」
「ならばどうする?この男か、お前自身の意思がなければ一つにはなれない」
「わ、わかった…わかったから!その人を、これ以上傷つけないでくれ!」
地に這いつくばり、何とか此方に来ようと青年が 動かない足を叱咤して必死に這い寄る。
痛みに生理的な涙を流し、歯をくいしばって少しずつ進み、白い地に真っ赤な道を作った。
「いい、この男の言に乗る、な!」
「でも!見ていられない!こんなの……それに、死ぬ訳じゃないんだ!」
青年が震える足で立ち上がり、俺へと一歩一歩歩み寄る。
ジワリとローブにまで染みだしていた血が、まるで吸い上げられるように消えていく。
彼の肩から金色に輝くエデンの布がスッとその姿を現した。
それにともない青年の足取りは確りし、怪我など無かったかのように俺の前へと進み出た。
「もともと、俺も貴方も同じ人間なのだとしたら、一つになるべきだったんだ」
青年が意を決したように俺に向かって手を伸ばす。
それを見て男は押さえつけていた俺の傷付いていない方の腕を解放した。
この手を取れば、本当に元の世界へと戻れるのか?
分からない。
「さあ、早く欠片を受け入れろ!」
男が圧し殺した声で凄む。
青年はビクリと男の剣幕に肩を揺らすと、恐る恐る俺へと手を伸ばした。
青年が俺の胸に手を当てる。
すると、俺に触れたはずの青年の手は俺の胸に吸い込まれるように体をすり抜け、そして黄金の光を放った。
その光が青年の腕から肩へ、そして胸から胴を、足を、そして不安そうな顔へと伝播していく。
徐々に青年の輪郭がぼやけて、それに比例して悲しい過去の出来事が俺の中に流れ込んでくる。
その辛い記憶を呼び覚ます感覚は、青年にも伝わっているようで、泣きそうな顔で俺を見つめた。
『俺は、伯父上も喪ってしまったけれど…家族の仇を、とれたんだ…』
青年が泣き笑いの表情を浮かべる。
俺は、思わず青年の頬に手を伸ばしたが、その手は青年を通り抜けてしまった。
青年は驚き、最後に寂しそうに笑って、消えた。
そして、また記憶の濁流が俺を飲み込まんと押し寄せてくる。
心に、頭の中に、何度も何度も悲しい過去が繰り返し再生される。
その途方もなく膨大な記憶に飲まれそうになる。
3度目のそれを何とかやり過ごそうとするうち、唐突に一つの記憶が思い出された。
チェーザレ・ボルジアを塔の上から突き放した瞬間、目の前の風景が不自然に歪み、空中に引きずり込まれた。
その時の衝撃を思い出す。
まるで四肢を引き千切られるような苦しみが全身を襲う。
そして俺を引きずり込んだ、何者かの腕を掴んだ。
銅色の小手に、節くれだった指、そして灰色のローブに身を包んだ初老の男。
俺をこの世界に引きずり込んだ張本人。
何を考えているのか分からない男は、無感情に俺を観察していた。
そして頭に鋭いナイフを突き立てられ、抉られるような激しい痛みを感じて頭を抱えた。
あまりの苦しみに呻き、そして嘔吐する。
いっそ意識を失えたらと思うがどうにもならない。
地面に倒れ伏し、徐々に白み始める視界の先に、男の靴先が見えた。
頭上で男が何かを呟く。
全ての元凶であるこの男から今すぐ離れなければと思うのに、俺は耐え難い痛みに意識を手放した。
****
「面白い趣向だと思ったんだがな、目覚めなかったか…」
せっかくこの何もない世界にエツィオを呼んだのに…
折角掬い上げてやった私の一部は、未だ悪夢のループに囚われている。
この時間の異常さに気が付いてしまった私は、
永遠に繰り返す、どう足掻いても抜け出すことの叶わない“私の人生”から。
抑え付けられていた自我を受け入れた衝撃で、眠りについてしまった男を抱き上げ思案する。
体が不安定に薄れ、ともすれば今にも霧散してしまいそうだ。
私が与えた自我を拒絶しているこの器は、このままでは私の形を留められない。
仕方がなく、その自我をもう一度切り離す。
今度こそうまく書き込まなければ。
あまり私に残された時間は多くない。
「今度こそ目覚めさせよう」
冥府のように暗く冷たいこの場所で。
前の話 もくじ