連載です。志々雄事変直後の明治11年の京都にタイムスリップした巴さんと、何も知らずに出会った薫ちゃんのお話。
剣薫、清巴前提ですが、かぷ描写はほぼなしになる予定。
@tachik_k
◆1話◆
それは、深く暗い水の中に沈んでいくような感覚だった。
どんなに手を伸ばしても光には届かない。
唇から吐き出された泡が、こぽり、と小さく音をたてる。
ああ――と、ため息のように最後の息を吐いて、彼女は――巴は、意識を手放した。
京都はそろそろ本格的な夏を迎えようとしていた。
5月の終わりに京都に着いた時よりも、日中の日差しがずいぶんきつくなった。それでも、朝はまだ涼しさが残る。
緑の濃い川べりを歩きながら、薫は変わっていく季節に顔をほころばせた。
志々雄との闘いからおよそ2週間。
剣心が目覚めてからは10日程だろうか。忙しかったこともあり、日付の感覚は曖昧だ。
一時期は生死の淵をさまよった剣心だったが、東京から来た恵や薫の献身的な看護もあり、今では身体を起こせるまでに回復していた。
昨日からは食事も普通のものを食べられるようになった。
今朝、食事を持って部屋に行くと、「おはよう」と笑いかけてくれた剣心のことを思い出して、薫の顔が笑み崩れる。
剣心が闘いから帰ってきた時は、どんなに呼びかけても返事はもちろん、目も開けてくれなかった。それが今では、おはようと返してくれる。
これが嬉しくないはずがない。
今、薫が向かっているのは葵屋が懇意にしている診療所で、恵が到着するまで剣心たちを診てくれていた。かく言う薫も、葵屋襲撃の直後はお世話になっている。今も便宜を色々図ってくれるため、非常に助かっていた。
白べこから診療所までの川べりの道は、大通りかから外れていることもあって、人通りもまばらだ。
少し湿気を含んだ風が頬を撫で、薫の長い黒髪を揺らす。
ここ数日、恵の代わりに診療所へ薬や包帯を取りに行くのが、薫の仕事のひとつだった。
剣心をはじめ、多くの怪我人を抱えている今、薬も包帯もいくつあっても足りないのが現状だ。
それに、何かと忙しい恵はなかなかまとまった時間が取れない。恵が行かなければならない時はともかく、ただのお使いなら知識のない薫でも十分できるということで、彼女は自らこの仕事を買って出ていた。
剣心のためにも、自分にできることならとにかくなんでもしたかった。
しばらく行くと、小さな橋が架かっているのが見えた。あの橋を渡れば診療所までもう少しだ。
早く用事を済ませて帰ろう。
気が急くままに足を速めようとした薫だったが、直後、視界の隅に映ったものに思わず足が止まった。
緑が覆う川岸に見えた、あり得るはずのない色彩。
土手を見下ろし、目を凝らす。
しかし、初夏の風に柔らかく揺れる草むらも、穏やかな川の流れも、何も変わったところはない――気がする。あの強烈な違和感は気のせいだったのだろうか。
首を傾げた薫の瞳が、次の瞬間、今度こそ大きく見開かれた。
「あ……!」
川岸の草むらの陰――そこに見える、明らかに着物と思われるもの。
――もしかして……人……!?
慌てて土手を下れば、さっきは陰になって見えなかった場所に、軽く伸ばされた白い指先と、長い黒髪が散らばっているのが見えた。
もしかして、どころではない。間違いなく人だ。
「大変……!」
急いで駆け寄ろうとした薫は、しかし、目に飛び込んできたものにぎくりと足を竦ませた。
散らばった黒髪の下――そこに見える赤いものは血、だろうか。
一瞬、脳裏をよぎったのは、血だらけになって戻ってきた剣心の姿。腹部に巻いた布が、溢れ出した血で真っ赤に染まっていた。
赤く広がっていく血の染み――――いや。
違う。あれは……――――
薫の目が瞬く。
刹那、広がっていた赤が視界から消えた。
「……あれ……?」
思わず目を擦る。
血のように見えていたそれは、きちんと見れば、ただの薄紫色のショールだった。赤色ですらない。
水に濡れて色味を増したショールが、光の加減で血のように見えたのだろうか。
不思議に思わないでもないが、違うのであれば、今はどうでもいい。
今度こそ迷いなく駆け寄って、草むらの中からぐったりとした身体を引きずり出す。水を含んだ着物がひどく重い。どうにか引き上げて、草むらにあおむけに寝かせる。
倒れていたのは女性だった。
歳は薫より少し上くらい。白い小袖と薄紫のショール、白い頬に張り付いた濡れた黒髪。
整った容姿は、すれ違った人間が十中八九は美人と言うだろう。それだけに、青褪めた頬が痛々しい。
だが、思ったより脈はしっかりとしている。水を飲んだ様子がないのは幸いだった。
その時、身体を動かしたのが功を奏したのか、女性が小さく呻いた。
「大丈夫ですか!?」
慌てて彼女の顔を覗き込む。
女性の長いまつげが震えて、切れ長の瞳が開いた。
ぽかりと開いた瞳は、真冬の夜空のような美しい漆黒。
思わず息を飲んで、薫はその瞳に見入った。
ぴくりと、彼女の白い指先が震えた。そろそろと持ち上がった手が、薫の左頬をなぞる。
そこに、何かを探すように。
唇が、小さく言葉を紡いだ。
「……ごめんなさい、あなた……」
「……?」
誰かと間違えているのか――――その疑問を薫が口にするよりも早く、白い指先がずるりと滑り落ちる。
草むらに手が落ちる乾いた音。
やや呆然としていた薫は、その音ではじかれたように顔をあげた。
そうだ。ぼーっとしてる場合じゃない。早くこの人を安全な場所に――診療所に運ばなければ。
いくら人通りが少ない道とは言え、この頃になるとさすがに薫の様子に気づいた人々が周囲に集まり始めていた。
遠巻きにこちらを眺める彼らに向かって、大声で呼びかける。
「すみません! 誰か――誰か手を貸してください!」
→2話へ
◆2話◆
暗闇の中、幼さを残した優しい笑顔が浮かぶ。
それは彼女が求めた笑顔ではなかったけれど、確かに大切だと思った笑顔だった。
大切だと、思っていたことに気づいた。
穏やかな暮らしの中で、よく笑うようになった人。
けれどその笑顔を、きっと、私は。
許してとは言えない。それでも……――――
「……ごめんなさい、あなた……――――」
頬を滑り落ちる涙の冷たさに、眠りの淵を漂っていた意識がゆっくりと浮上する。
うねうねと複雑な模様を描く剥き出しの天井が、ぼやけた視界に映った。
ひとつ目を瞬かせると、目の縁に残っていた涙の滴がほろりと後を追うように零れる。
夢を見ていたはずだが、まったく思いだせない。泣くほどの夢とは、いったいどんな夢だったのだろう。
その夢を思い出そうとして、はたと気が付いた。
再び目を瞬かせる。
今度は一度では終わらず、何度も。
――ここは一体どこだろう。
意識がはっきりしてくるにつれ、頭をよぎる当然の疑問。
自分の置かれている状況が、まったく理解できない。
ひどく重く感じる身体を布団からゆっくりと起こして、手元に目を落とした。
ほどかれた黒髪が、白い寝間着の胸元にさらさらと落ちていく。
いったいいつ着替えたのだろう。寝間着に着替えた記憶も、布団に入った記憶もない。
のろのろと動く視線が、周囲を――部屋の様子をゆっくりと映し出していく。
彼女以外誰もいない部屋の中は、今まで見たことのないもので溢れていた。
畳ではなく、長椅子のようなものの上に敷かれた布団。
美しく磨き上げられてにぶい光を放つ、板張りの床。部屋の隅にある文机らしきものは、床に座って使うにはあまりに背が高すぎる。その前に置かれた、背持たれのある腰かけ。窓は外に向かって大きく開かれ、その両脇にかかった布が風に優しく揺れていた。
窓から入ってくる風はぬるく湿気をはらんでいて、なぜか強烈な違和感を覚えた。
遠くから――もしかしたらそれほど離れてはいないかもしれない――人の声が聞こえてくるが、ぼんやりとしていて何を言っているのかよくわからない。
取り残されているような感覚に、薄暗い不安が胸に迫る。
直前の記憶が、霞がかかったようになっていてよく思い出せない。
そのことが余計に彼女を不安にさせた。
ゆっくりと、今までのことを思い出そうと深く呼吸を繰り返す。
自分の名前――それは分っている。巴だ。雪代巴。
名前を皮切りに、思い出せる限りの記憶を少しずつ辿っていく。
江戸で暮らしていた時のこと。
許婚だった清里明良を殺されて京にやってきたこと。
明良の仇である、人斬り抜刀斎との出会い。
その抜刀斎と過ごす、農村での日々。
それから。
それから……――――どうしたのだろう。
得体の知れない不安に、手を胸の前で無意識に握り締める。
「……わたし、は……」
「ああ、目が覚めたんだね」
「――っ……」
思いもしなかった声に、びくっと身体が震えた。
まったく聞き覚えのない男の声。
驚いて振り向こうとした巴は、次の瞬間、背中を鋭い痛みに襲われて小さく呻いた。
鋭い刃に斬りつけられたような痛み。それはほんの一瞬のことだったが、呼吸さえ止まるかと思うような痛みだった。
荒くなった息を胸に手を当ててどうにか整える。
「ああ、すまない。驚かせてしまったようだ」
心配そうな響きを帯びた声にやや慎重に振り返った巴は、ぎくりと息を止めた。
視線の先、内側に開いた戸口から、見知らぬ男が部屋の中を伺っていた。
それだけであれば驚きはしなかった。声で男だと言う事はすでに分かっている。
巴を驚かせたのはそうではなく――――
男は年の頃は40程。穏やかな口調と笑みは、どこか江戸に残してきた父親に似ていた。
けれど――その姿は、巴が今までまったく目にしたことのない奇妙なもの。男が着ているのは着物……だろうか。それはひどく窮屈そうで、袴など脚の形が分かりそうだ。羽織の丈もかなり短く、その袖も袴と同じように細くぴったりと腕に張り付いている。
その足に履いているのは、草履のような――けれど、明らかに草履とは違う布製と思われる履物。
さらに男の頭に髷はなく、短く切り揃えられた髪を後ろに撫でつけて油か何かで固めていた。
――それはいわゆる『洋装』だったのだが、巴はそのことを知らなかった。
あまりに奇妙な男の格好に声を発することさえできない巴を、まだ体調がすぐれないと思ったのだろう。彼は「無理はしない方がいい」と巴に向かって穏やかに微笑んだ。
「君が目覚めたことを先生に伝えてくるから、君はもう少し寝ていなさい」
気遣う言葉を残して、踵を返す男。
後ろ手に戸が閉められ、男の姿が戸の外に消えた。ぱたりぱたりと言う、あまり聞いたことのない足音が遠ざかっていく。
そうして、再び、巴はひとりになった。
ざわりざわりと、胸が音を立ててざわつく。
耳鳴りが煩い。
先ほど鋭く痛んだ背中が、今度は染みるような痛みを訴えた。
いったい何がどうなっているのか……頭がまったくついていかない。
助けを求めるようにさまよった視線が、ふと、壁に掛けられた暦に止まる。
その暦は七月。
そして、日付よりも小さな文字で『明治十一年』と書かれていた。
→3話へ
◆3話◆
――……めい、じ……?
と、読むのだろうか。
十一年と続いているし、日付が書いてあるので暦には違いないのだろう。けれど『明治』なんて、見たことも聞いたこともない。
先ほどの奇妙な格好の男性といい、ここは一体……――――
こんこん、と言う戸を叩く音が聞こえて、巴ははっと我に返った。
誰だろう。先ほど出て行った男性が先生を呼んでくると言っていたから、その「先生」かもしれない。
「失礼。入ってもいいかな」
外から聞こえてきた声は、やはり男のもの。
巴は胸元を引き寄せ「はい」と小さく返事を返した。
蝶番を軋ませて開いた戸の間から姿を見せたのは、予想通り、先ほどの男と同じ年頃の男だった。
しかしこちらは巴も見たことのある着物――甚平――を着ていた。それだけで少し心が落ち着く。
だが頭に巻いた手拭いの下は、やはり髷を結っている様子はない。
「やあ。目が覚めたようで安心したよ」
巴に視線を向けて、男――間違いなく医師だろう――は、にこりと微笑んだ。
「どうだい、様子は。君は半日ほども眠っていたんだ」
背もたれのある腰かけをガタガタと引き寄せ、巴の脇に腰かける。
「……半日も、ですか」
「ああ。近くの川岸で君が倒れているのを見つけた人がいて、ここに運び込んだんだが……」
川。村の近くに川などあっただろうか。小川が流れていたのは知っているけれど。
「薫くんが――君を見つけた人のことだけど。君を見つけた時は全身ずぶ濡れでね。おそらく、足を滑らせたんじゃないかと思うが。それから、右肩から背中にかけて痣ができていたから、念のため手当させてもらった。体調はどうかな」
それでは、先程背中が痛かったのは、そのせいなのだろうか。
「体調は、少し怠さが……痛みも、少し」
「起きてすぐだから、まだ完全に回復していないんだろうな。背中の痛みも――しばらくは様子を見よう。あまりに痛みがひどいようなら痛み止めを処方するが」
「あの」
ん? と医師が首を傾げる。
「ここはどこでしょうか。私、よく思い出せなくて……」
一瞬眉をしかめた彼は、しかしすぐに元の穏やかな笑みに戻った。
「ここは京都の洛中にある奥野診療所。まあ、洛中と言っても、ほぼ洛外だけどね。私はこの診療所で医師をしている奥野と言う。ちなみに先ほどの男は私の友人で、君の様子を見に行ってくれと頼んだんだ。ちょうど君が目覚めてくれてよかったよ」
「京都……」
――『京』のことだろうか。京が『京都』と言われることも知っているけれど、あまり聞き慣れない地名だ。周囲の人々は『京』と言う方が多かった。
何より――ここが暮らしていたはずの農村でないことが、巴を混乱させた。
布団を握り締める手が白く染まる。
京の外れの小さな村で、彼と――緋村と共に暮らしていたのは覚えている。確か、季節は冬を迎えていた。
しかし、暦に書かれているのは『七月』。窓から入ってくる風も、目の前の医師――奥野の格好も、とても冬のものとは思えない。
これはいったいどういうことだろう。
何が起こっているのかさっぱり分からない。
確かに、今の自分が相当危うい立場にあったのは事実だ。
復讐のために『人斬り抜刀斎』と共に暮らしていた。
いつ、何が起こってもおかしくはない。それは覚悟していた。
けれど、何かが起こったと言うよりも、直前のことが思い出せない、何が起こったのか分からないと言う事が巴を追いつめる。
見たことのない着物。見たことのない調度品、家具。
いつの間にか変わっていた季節。
『京』ではなく、『京都』。
『明治』の文字。
それから――――
さまよった視線が、再び壁に掛けられた暦へと向かう。
先ほどから気になって――しかし、あえて見ないふりをしていたもの。
暦に書かれているのは『戊虎(つちのえとら)』。
六十個ある干支の中で、十五番目の干支。
『戊虎』は確か――正確な数は定かではないが、自分が暮らす元治元年よりも十数年先のはずだ。
それは、つまり……――――
「おいっ、君! 大丈夫か!」
奥野の声が遠い。
視界がすうっと暗くなってく。
何度も自分を呼ぶ声を聞きながら、巴の意識は闇に沈んだ。
→4話へ
※……少なくとも、江戸時代の人は実際はあまり元号を意識していなかったようで……
じゃあ、西暦の浸透していない当時、何で自分の年齢を数えていたかと言うと、干支(十二支ではなく、60個ある方)だそうです。
そんなわけで、巴さんが自分がいる時代が明らかにおかしいと分からせるためには、干支が最適かなぁ、と。
◆4話◆
「そう言えば翁」
白べこの従業員用のこぢんまりとした厨で夕食の下拵えをしていたお近が、通りかかった翁に声をかけた。
蒼紫との闘いで負った翁の傷もおおよそが癒え、今では元気に歩きまわるまでに回復している。最近は修繕中の葵屋と、間借りしている白べこを行き来する日々だ。
「今日、薫さんがずぶ濡れで帰ってこられたんですよ」
ひょ、と翁は目を丸くした。
しかし一瞬後、その表情がすっと厳しいものに変わる。
飄々とした料亭の隠居から、幕末を生き抜いた隠密御庭番衆のまとめ役の顔に。
「何かあったのかね」
京都を――明治政府を震撼させた志々雄真実を倒してから2週間。今のところおかしな雰囲気はないが、志々雄の残党がいないとは限らない。
志々雄を倒した元『人斬り抜刀斎』こと緋村剣心は、闘いの際に負った傷が癒えておらず、まだ動ける状態ではない。そんなところを襲われたらひとたまりもないだろう。
彼に限らず、何人もの怪我人を抱えている今は、不穏な芽は早く摘んでおくに限る。
そのことをお近も分っているから、どんな些細なことでも翁の耳に入れるのだ。
「それが」と前置きして、お近は言った。
薫がいつものように奥野診療所へと向かう途中、川岸で気を失っている女性を見つけたのだと言う。女性はそのまま診療所まで運ばれ、入院となったらしい。
薫もしばらくついていたのだが、長居をするわけにも行かず、女性が目覚める前に帰ってきたのだとか。
慌てていたのか着替えすらせずにずぶ濡れで帰ってきた薫が、せめて早く着替えなさい! と、恵に呆れられていたことを思い出して、お近は少しだけ笑った。
「ふむ……」
「どうします、翁。白か黒に様子を見に行ってもらいますか?」
話を聞いただけなら、怪しいところは何もない。
過敏になっていると言う自覚もある。
だが、たとえ取り越し苦労であったとしても、今は警戒しておくに越したことはない。
しばらく無言でいた翁は、やがて「いや」と首を振った。
「奥野君のところであれば大丈夫じゃろう」
すでに故人だが、元々診療所を営んでいた奥野の父親はかつて御庭番衆の一員だった。その息子である現診療所の主である彼も、言わずもがなだ。
数日程度であれば、そのまま任せておいても問題ないだろう。
「その内、折を見てワシが行って来よう」
「翁がですか?」
「ああ。ワシがいちばん適任じゃろう」
それはそうなのだろうが……――――
白や黒が行くよりも、逆に翁が動いた方が感づかれにくいのはわかる。何より、翁と奥野が将棋仲間であることは、薫の知るところだ。
最近の薫は剣心の怪我の世話に白べこの手伝い等、働きすぎだと思う。その上、自分が助けた相手が怪しまれている、と言うのを感づかせたくはない。
だが、しかし。
お近は胡乱な眼差しを翁へと向けた。
「……まさかその女性を一目見たい、とかじゃありませんよね、翁」
立ち去ろうとしていた翁の動きが止まる。
わずかに流れた沈黙は、三つ数えるかどうか。
振り返った翁が、にんまりと――しかし、口元を引きつらせるように笑った。
「………………まさかまさかじゃよ! ひょーっひょっひょっひょ!!」
「……」
お近が半眼になったのは、仕方のないことだった。
「こんにちは、奥野先生」
女性を助けて3日後。
いつものように奥野診療所を訪れた薫は、扉を開けてすぐに、あれ、と首を傾げた。
普段なら一人か二人は待ち合いにいるはずの患者が、今日は見当たらない。今日は休診とは聞いていなかったのに。
「ああ、いらっしゃい、薫君」
その時、診察室の扉が開いて、柔和な笑顔の奥野が顔を覗かせた。薫はほっと胸を撫で下ろす。
「入ってきていいよ、大丈夫だから」
よかった。休診と言うわけではなかったらしい。
促されるまま薫は草履を脱ぎ、室内履き(スリッパ)に履き替える。
その際、来客用の室内履きがひとつないことに気づいた。お客さん、だろうか。
「すみません、失礼します」
診察室に引っ込んだ奥野に続いて中に入り――――
「おお、薫君! 先にお邪魔しておるぞ」
「翁さん!」
予想もしていなかった人物に、薫は思わず素っ頓狂な声をあげた。
診療室で向かい合うように置かれた腰変えに座っているのは、間違いなく葵屋の翁だ。
将棋を指していたらしく、二人の間には将棋盤が乗った台が置かれてあった。
今朝から姿が見えないとは思っていたが、ここに来ていたのか。
「今日はさらし? 薬かな?」
「あ、両方お願いします」
訊ねる奥野の声に必要なものを告げた薫は、あの、とさらに言葉を続けた。
「ん?」
「今日も、巴さんと話してきてもいいですか?」
『巴』とは、薫が助けた女性のことだ。その日の内に目を覚ましたものの、体力の消耗が激しく、今もこの診療所に入院している。
彼女は表情の変化に乏しい人だった。診察している奥野の話によると、記憶の混乱も見られるらしい。
薫もこの3日間、来るたびに話しかけていたが、しゃべっているのはいつも薫で、巴が口を開くことはほとんどない。
無理に話しかけない方がいいのかもしれないとも思うが、薫には、彼女を放っておくことなどできなかった。漆黒のきれいな瞳が行き場を失った迷子のようで――出会った直後の剣心を思い出させるからかもしれない。
やはり放ってはおけない、おきたくないと思う。
ふ、と奥野が笑う。
「いいよ。行っておいで」
「はい! ありがとうございます!」
「その巴君とやらが、薫君が助けたと言う女性かね」
顔を輝かせた薫に向かって、翁が興味深そうに口を開いた。
ぱっと薫が顔を輝かせる。
「あ! そうなんです! すごくきれいな人で!」
「ほほぅ」
翁には彼女――巴のことはすでに話していた。白べこや葵屋に世話になっている以上、黙っていると言う選択肢はない。この診療所も葵屋が懇意にしている診療所だ。
だが、当日はまだ名前が分からなかったので、女性であることしか伝えていなかった。
「のう、薫君」
と、翁が言った。その瞳が好奇心にあふれている。
「ワシもご一緒してもよいかのう」
薫はぱちぱちと瞬いた。
腕を組んだ翁が、うんうんと首を縦に振る。
「薫君が助けた相手じゃ。この柏崎念至、挨拶くらいはしておこうかと思っての」
「……」
正直、翁の言動はどこまでが冗談で、どこまでが本気か分らない。
ただの興味なのか、それとも他に理由があるのか――――
それに、まだ回復していない巴に複数人でぞろぞろと会いに行くのは大丈夫だろうか。かと言って、初対面の翁だけを向かわせるわけにも……
薫の視線が困惑気味に奥野に向けられる。
その視線に、奥野は苦笑とともに「行っておいで」と翁同行の了承を返したのだった。
5話へ→
◆5話◆
大きく開いた窓から入ってくる風に、巴は目を細めた。
風を受けてひらひらと翻る薄い布は、窓かけ(カーテン)というらしい。それを知ったのは昨日のことだ。
巴が目覚めてから3日。
自分が知るよりも10数年後の京にいるなど、最初はただの奇妙な夢だと思った。
しかし、すでに3回も昼と夜を繰り返せば、いい加減これが夢ではないのだと――現実なのだということを認めなくてはならない。
自分は何らかの理由で、元治元年の冬から、明治11年の初夏へと時を渡ったのだ。
明治11年――暦に書かれていた干支から考えると、『今』から、おおよそ14年後――――
どうしてこんなことになってしまったのか、理由もなにもわからないが、それが現実なのだろう。
帰り方などわからない――そしてもし運良く帰ることができたところで……――――
心に浮かぶふたつの面影。
巴の静かな瞳に暗く影が落ちた。
震える手が、白くなるほどに布団を握りしめる。
どうせなら、もういっそ、このまま――――
沈んでいく思考が暗闇に捕らわれそうになった時。
「……巴さん? 起きてますか?」
戸を叩く音とともに聞こえてきた声が、覗き込んでいた暗闇を一瞬で霧散させた。
はっと顔をあげる。
もうすっかり聞き慣れた、女性の――いや、少女の声。
「……はい」
返事をすると、そっと開いた戸の奥から、予想通りの顔がひょこんとのぞいた。
自分と同じか、ひとつかふたつほど年下の少女。
頭頂部でひとつにまとめた黒髪が元気に跳ねる。飾られた桜色のりぼんが、彼女によく似合っていた。
彼女の名前は神谷薫。
倒れていた巴を助け、この診療所まで運んでくれたのは彼女なのだという。
最初、奥野が「薫君」と呼んでいたので、男だとばかり思っていた。なので、女性――しかも、自分より年下の少女と知った時は、少し驚いた。
巴と目が合うと、薫はうれしそうに満面の笑顔を浮かべた。
「こんにちは、巴さん」
明るい彼女の笑顔がまぶしすぎて目を細める。それはどこか、もう失ってしまった『彼』を巴に思い出させた。
「また来ちゃいました。巴さん、気分はどうですか?」
三日前に巴が目覚めてから毎日、薫は巴の様子を見にやってくる。
たかが三日。されど三日。
薫が自分を気にかけてくれていることが、ひどく申し訳ない。
だって、自分が彼女に返せるものなど何もないと言うのに。
そんな薫は、いつも巴の様子を一言二言訊ね、少しだけ巴と話してから帰っていく。
けれど今日は、薫の様子が少しおかしい。どこかソワソワしていると言うか……
巴が首を傾げると、薫が「あの」と身を乗り出した。
「巴さん――今日は会わせたい人がいて」
「かまいませんか」と問われて、巴は小さく頷いた。別に自分の許可などいらないのに。
巴の返事を聞いた薫が、「――翁さん」と、部屋の外に向かって呼びかける。
その直後、部屋に入ってきた人物に、巴は軽く目を見張った。
まったく予想外の人物だったからだ。
「会わせたい人」という薫の言葉から、男女どちらにしても薫と同年代か少し上くらいの人物かと思っていたのだが、現れたのは白い髭を蓄えた、かくしゃくとした老人だった。
「あの、こちら、私がお世話になってる葵屋の……」
「料亭葵屋の隠居じゃ。柏崎念至というが、知り合いからは翁と呼ばれておる」
ひょっひょっと笑う彼――翁と呼ぶことにする――を、巴はやや戸惑い気味に見上げた。
正直、どんな反応していいか分からない。
彼女の反応をどう思っているのか、翁は変わらぬ様子で巴に話しかけた。
「君が巴君かね。薫君から聞いておるよ。大変じゃったのぉ」
「こちらこそ、お世話になってしまって……すみません」
「気にすることはないぞ。まあ、しばらくはゆっくりしたらいいじゃろう」
陽気とすら言える翁に、しかし巴は目を伏せる。
「でも……いつまでもお世話になるわけには……」
ここに運び込まれて、もう3日になる。少しずつではあるが、体調も戻ってきた今、いつまでもここにいるわけにはいかない。
かと言って、今の自分には行くところも帰るところもないのだけれど。
うつむく巴に、柔らかな口調で翁が問うた。
「この後どうするかは決まっているのかね」
「それは……」
何も言えずに口ごもる。
江戸に――今は東京と言うらしい――帰ることも考えたが、十年以上たっている今、雪代家がどうなっているかまったく想像できないし、もちろん帰るわけにもいかない。
だから、名を訊ねられた時も雪代の名は名乗らなかった。
自分が3日前まで暮らしていたはずの村もどうなっているか。そもそも、あの村に『帰る』ことなど出来もしないけれど。
ふと、小萩屋に来たときのことを思い出した。
あの時も倒れたところを運び込まれた。しかし決定的に違うのは、今の自分にはまったく目的がないということだ。
それどころか、自分がここにいる理由すらわからない。
前にも後ろにも、右にも左にも進めない――それが、今の自分。
「翁さん」
それまで黙ってことの次第を見つめていた薫が口を開いた。
「あの、巴さんに葵屋で働いてもらうのはできませんか?」
翁と巴の視線が薫へと向かう。
「巴さんの気持ちももちろん大切ですけど……でも、このままなんて……」
退院したあと巴がどうするのか――そう遠くない内に東京へ帰る自分には、そのすべてに責任を持つことはできない。
けれど……――――
川岸で助け起こした時に偶然のぞき込んだ、巴の哀しそうな瞳を思い出す。
その哀しさの理由を薫は知らないけれど、せめて少しくらい力になりたかった。
「お願いします、翁さんっ」
「ふむ……そうじゃのう……」
勢いよく頭を下げた薫に、翁が思案顔で髭をなでる。
「しかし葵屋は今、修繕中じゃ。すぐにとはいくまい。それに白べこも――今は人手が多すぎるしのう」
「あ……」
薫が眉を下げる。
そうだった。今はどちらも外部の人間が入る余地がないのだ。
「薫さん、私のことは……大丈夫ですから」
「巴さん……でも……」
薫が自分を本当に心配してくれているのは分かっていた。優しい人だ。縁もゆかりもない自分を、こんなにも気にかけていてくれる。
でも、だからこそ、その優しさが苦しかった。
自分がそんな優しさを向けられる人間だとは思えなかったから。
翁が再度「ふむ」と髭をなでた。
「じゃが、薫君の言うとおり、このままと言うわけにも……――――」
髭を撫でる翁の手が止まる。その眉がひょ、と軽く跳ねた。
「そう言えば――この手があったのう。……巴君、アテがないと言うのなら、この診療所で働くと言うのはどうかね」
え、と巴は翁を見上げる。
「この診療所には奥野君しかおらんし、巴君がいればこのむさい男所帯にも潤いが出るじゃろう。
――のう、奥野君」
そう言って、翁は部屋の入り口を振り返った。
いつの間にそこにいたのか、静かにたたずんでいた奥野が「そうですね」とあっさり首を縦に振る。
「雑用をしてくれる人が欲しいと思ってたところですから、むしろ大歓迎ですよ」
翁がさもありなん、とばかりに頷き返した。
「どうじゃろう、巴君。もちろん、君がよければの話じゃが、しばらくここで働いてみんかね」
「……私……」
まったく思いもしなかった展開に、巴は心許なげに胸元を握りしめた。
◆6話◆
たとえ10年以上の時が経っても、夏の京の蒸し暑さは変わらないらしい。
流れ落ちてきた汗をそっと手に持った手拭いで拭って、巴は奥野から預かった買い物の書付に目を落とした。
頼まれた買い物は、あとひとつ。
早く終わらせて、診療所へ戻ろう。そして残してきた仕事をしなければ。
ふぅと息をついて、額にそっと手をかざす。
見上げた太陽はまだ午前中にも関わらず、どこまでも容赦なく巴の頭上に降り注いでいた。
――奥野診療所で巴が働き始めて10日程。
最初は体調が戻っていないこともあって与えられる仕事もそれほど多くはなかったが、5日も過ぎる頃には徐々に慣れ、複数の仕事を頼まれるようになっていた。
買い出しに掃除、食事の準備。時には治療の手伝いをすることもある。
目が回る――とまではいかないものの、それなりに忙しい日々。
最初は戸惑ったが、今ではすっかりこの生活にも慣れた。
何より、身体を動かしている間は余計なことを考えなくてすむ。
働き始めてから、自分のいる『京都』が自分の知る『京』とは違っていることを巴は実感した。
記憶の中の風景とまったく違っているわけではない。
町の風景は大きく変わった様子はないし、どこか見覚えのある景色もある――ような気がする。
ただ――――その中に紛れ込むようにある記憶にはないものが、彼女に強烈な違和感を与えていた。
例えば、町を歩く人々が着ているもの。
異国の衣装に身を包んで町を歩く人々の姿に、目覚めた時に見た壮年の男が着ていたものが洋装なのだと知った。
着物姿の人々もいるものの、髷を結っている者はなく、まして、刀を差して歩く武士の姿をまったく見ない。巴の知っている京は、あんなにも武士で溢れていたのに。
今、巴が暮らしている奥野診療所のある洛外に近いこの辺りは、以前はまったく訪れることのなかった場所だ。
小萩屋があったあたりに行ってみようかと思ったことはあったが、実際に足を向けたことはない。
行ったところで小萩屋は燃えてしまったから、もうないのだろう。
ただ、それを確かめる勇気はなかった。
今の巴にとって、奥野診療所と、それに関わる人々が彼女の世界のすべてだ。
そして――薫。
彼女は毎日のように診療所に顔を出した。
やってくるのは決まって夕方近く――診療所の仕事がおおよそ終わる時間帯だ。
最初の頃は薬や包帯を取りに来ていたようだが、ここ数日は巴の様子を見るためだけに来ているらしい。いつも四半刻程、巴相手におしゃべりをして帰っていく。
もっとも、しゃべるのは主に薫で、巴はいつも聞くばかりだ。
その日の出来事、好きなものの話。そして――彼女が想いを寄せる相手のこと。
今、彼女が京都にいるのは、その相手の療養のためらしい。どうやらかなりの怪我をしたらしく、長い間寝込んでいたのだとか。
でも、ずいぶんよくなったし、動けるようになったのよ、と語る薫はとても嬉しそうだ。
そんな薫の話を、巴はいつも静かに聞いている。
『好きな人』の話に胸が痛んだこともあったけれど、嬉しそうに笑う薫はかわいかった。
自分に妹がいればこんな感じだろうか。
一度だけ、薫の知り合いと言う女医が加わったことがあったが、その時の二人の会話が漫才のようで、思わず目を丸くしてしまった。
人の輪に加わることがあまり得意ではなかった自分は、同世代の会話に加わったことはなかったから、ぽんぽんと弾むような二人の会話に、少し驚いてしまった。
――薫はどうなのだろう。
気の利いた言葉ひとつ言えない自分と一緒にいて、薫が楽しいのかどうか正直分らない。けれど、おしゃべりをする薫は本当に楽しそうで、少しほっとした。
そして自分も、いつの間にか薫との時間を心待ちにしていた。
自分を助けてくれたのが、彼女だと言う事もあるかもしれない。
――奥野診療所で暮らし始めて、およそ半月。
それは、恐ろしいほど穏やかな時間だった。
胸の内に暗いものを抱えながらも、ずっと昔から巴がここで暮らしていたかのように、明治での時間が優しくすぎていく。
人々の笑顔は明るく、町の様子は平和で、争いの気配は微塵も感じられない。
――誰もが笑って暮らせるように。
そう、人斬り抜刀斎と呼ばれた少年が願っていたことを知っている。
この時代に来る前に暮らしていた、村での日々を思い出す。
京を離れた静かな村での暮らしは、とても穏やかで優しかった。
そんな日々の中、幼さを残した顔で照れたように笑っていた――笑うようになった彼。
巴の大切な人の仇。
――正直なところ、彼を恨んでいるのかどうか、自分でももう分らない。
だが静かな農村での暮らしは、巴の中に安らぎとそれ以上の焦燥感、罪悪感、そして虚しさを積もらせていった。
この時代に飛ばされたのは、そんな毎日に疲れ始めた時だった。
彼が望んだ、誰もが笑って暮らせる幸せな時代。
私は――それを見るためにこの明治へと来たのだろうか。
迷いを断ち切り、復讐などと言う愚かなマネをあきらめるために。
そこまで考えて、しかし引き絞られるような胸の痛みに巴はきつく唇を噛みしめた。
――でも、そのためにあの人の命は失われてしまったのだ。
大切な、たった一人のあの人は……――――
――と。
「はいこれ。頼まれていたヤツだよ」
店の主人の声が聞こえて、巴ははっと顔をあげた。
とたん、薄暗い店内の様子が視界に飛び込んできて、思わず目をしばたかせる。目が暗さになれるのに、少しだけ時間がかかった。
どうやらかなりぼうっとしていたらしい。柔和な顔の店主が巴に向かって風呂敷包みを差し出しながらにこにこと笑っていた。
そうだった。店主が買った品を包んでくれると言うので、待っていたのだ。
「……ありがとうございます」
丁寧にくるまれた包みを受け取り、頭を下げる。
「いやいや、奥野先生にはよろしく言っておいてくれ。先生、いい腕だからねぇ。助かってるよ」
買い物に出るようになって、何度も聞いた言葉だ。奥野はずいぶんと慕われているらしい。
確かに、診療所を訪れる患者は多い。よく一人で回せていたものだ。
早く戻ろう。世話になっている分、ちゃんと働かなければ。
辞去のために、巴はもう一度頭を下げた。
そして、店を出ようと暖簾に手をかけ――――その動きがぎくりと止まる。
たくさんの人々が行き交う通りの向こうに見えた、見知った顔。
――薫だ。
少し距離があるせいか、薫が巴に気づく様子はない。
長い黒髪とぴんっと美しく伸びた背筋が人目を引いた。薫が自覚しているかどうかは分からないが、薫はとにかく目立つ存在だった。自然とそこに目がいってしまうような。
その証拠と言うわけでもないが、明るい笑顔に、道行く人々――主に若い男――がチラチラと振り返る。
だが、巴が動きを止めたのは薫が理由ではなかった。
洛中で暮らしている薫と町中ですれ違ったところで、何らおかしくはない。
巴の目をくぎ付けにいたのは、薫ではなく――――
彼女のすぐ隣を歩く小柄な男。
その姿に気づいた瞬間、周囲の輪郭が一気に曖昧になり、ざわめきが消えた。
見たこともないほど穏やかな顔で笑っているけれど、あれは――あの横顔、あの赤い髪は――――
――間違いない。
ガクガクと足が震える。
心臓があり得ない程の強さで胸を叩く。
頬を滑り落ちた汗は暑さのためか、それとも……――――
溺れた人間が最後の息を吐き出すように、巴はその男の名前を呟いた。
「……緋村、抜刀斎……」
7話へ→
◆7話◆
「大丈夫かい? 何かあったんかね」
背後からかかった店主の声に、巴はびくりと肩を揺らせた。
一瞬――自覚もないまま気を失っていたのかもしれない。
唐突に町のざわめきが戻ってくる。
「……あ……」
唇から漏れる、掠れた声。
瞬きをすれば、いつもと変わらない人々の往来がそこにはあった。
通りを行く人々の中には、先程目にしたはずの姿はどこにも見当たらない。
幻だったのか。それとも……――――
動揺に心臓が煩い。
こくりと息を飲む。
喘ぎそうになる呼吸をどうにか抑え、巴は店主を振り返った。
「すみません……少し、ぼうっとしていたようです」
人のよさそうな店主は、軽く眉間に眉を寄せた。
「今日は格別に暑いからねぇ。気を付けて帰んなよ」
「……はい、ありがとうございます」
もう一度頭を下げた巴は、ふらつきそうになる足を叱咤しつつ、今度こそ店の暖簾をくぐった。
店から一歩外に足を踏み出せば、夏の太陽に白く浮かび上がった町が視界を焼いた。
まるで、目に映る世界のすべてが白昼夢のように。
買い物から帰った巴を一目見た奥野の眉間に見事にしわが寄る。
有無を言わさず部屋で休んでいるように告げられ、巴は焦った。
むしろ今は、なんでもいいから働かせてほしい。
「あの……私は大丈夫ですから……」
思わず訴えるが、奥野の眉間のしわはますます深くなるばかり。
「そんな顔色で言われてもまったく説得力がないよ。いいから、今日は休みなさい」
「……」
厳しい表情で睨まれてしまっては、それ以上反論することもできない。
肩を落とし、ふらふらと与えられた部屋に戻った巴は、帯を解いただけの姿で布団に横たわった。
……横になったとたん、ひどい疲労が巴を襲う。
自覚していた以上に、身体は悲鳴をあげていたらしい。
頭もぼーっとするし、身体がひどく重くて、寝返りをうつことすら億劫だった。
奥野が休めと言ったのは、巴のことを心配してだと言う事は分っている。
この状態では、まともに仕事ができるかどうかすら怪しい。奥野の言っていることは正しい。
だがそれが分っていても、今はとにかく動きたかった。
そうでなければ――色々思い出してしまう。
――あの、人斬りの少年のことを。
この時代に来て半月。
今の今まで、なぜ彼に出逢う可能性を思いつかなかったのだろう。
無意識に考えないようにしていたのかもしれない。
だが、ここは京都だ。
あの時代から14年が経ち、政の中心も江戸――東京とは言え、彼が生きているのなら何かの拍子に出会ったとしてもおかしくはない。
もちろん、自分が見かけたのはまったくの別人――もしくは、幻だった可能性もある。
ちらりと――しかし、確かに見えた頬の傷は、覚えのない十字傷だった。そもそも、薫が抜刀斎と一緒にいること自体おかしいではないか。
そして彼が生きていると言う事。それは……――――
――巴、と、耳の奥に蘇る幼さを残した声。
「……っっ」
唇を噛みしめて、巴はきつく目をつぶった。
耳を塞ぐように、両手で顔を覆う。
優しく呼ばれていた記憶を、思い出したくなかった。
――暗闇の中、白くふわふわとした光が視界を横切っていく。
何度も自分を呼ぶ、涙混じりの引きつった声。
それはまるで、自ら心を引き裂いていくかのような哀しさに満ちていた。
けれど、と、巴は思う。
どうかそんなに哀しまないでほしい。
泣かないでほしい。
だって……だって私は、こんなにも満たされているのだから……――――
ふいに何かに背中を押された気がした。
柔らかな光に導かれるように、揺蕩っていた意識がそろりと浮上する。
「あ、ごめんなさい、巴さん。起しちゃいました……?」
すぐ隣から聞こえてきた聞き覚えのある声に、巴はぼんやりとした意識のまままぶたを持ち上げた。
いつの間に眠っていたのだろう。
横たわったまま頭を巡らせれば、申し訳なさそうに巴を見下ろす見慣れた顔。
長い黒髪を後頭部で結わえて、りぼんを飾った少女。
それは……――――
「……薫さん……」
「奥野先生に巴さんが体調を崩したって聞いて、少し様子を見るだけのつもりだったんですけど……起こしてしまってすみません」
巴はゆっくりと瞳を瞬かせた。
頭がまだ夢の中を漂っているのか、イマイチ現実感がない。
何の反応も示さない巴に、薫は労わるように微笑んだ。
「私、もう帰ります。巴さんはしっかり休んでくださいね」
そう言って、薫が腰を浮かせる。
その瞬間、巴の脳裏に今朝の出来事が稲妻のように蘇った。
――抜刀斎によく似た赤毛の男と、その隣を楽しそうに歩いていた薫の姿――――
「待って!!」
考えるより先に、叫ぶように声を上げていた。
咄嗟に伸ばした手が薫の着物の裾を掴む。
「巴さん……?」
驚いたように振り返った薫の、丸く見開かれた瞳。
そこに至ってようやく、巴は自分のしたことに気づいた。
慌てて裾を掴んでいた手を離す。
行き場を失くした手が、胸の前できつく拳を作った。
「……すみません、急に……」
声が沈む。薫の視線が痛い。今朝見た話を、どうやって切り出したらいいかわからない。
きっと何も言わない方がいい。
でも――――……
薫の隣にいた赤い髪の男と、記憶の中の赤い髪の少年が重なる。
胸が詰まって息が苦しい。
薫と一緒にいた相手は、本当に――――
「あのっ、巴さんっ」
突然、薫が身を乗り出した。
驚いて顔をあげた巴に、薫が照れたように笑う。
「実は今日、お土産を持ってきたんです。よかったら、これから一緒に食べませんか」
「え……」
予想外の言葉に戸惑い、すぐに反応を返すことができない。
「井戸で冷やしてるので、取ってきますね!」
巴が目を丸くしている間にすっくと勢いよく立ちあがった薫は、返事も待たずに部屋から出て行ってしまった。
「……」
言葉が唐突なら、行動も唐突。
呆然とする間に足音も聞こえなくなり、部屋の中に巴がひとり、ぽつんと取り残される。
ぼんやりと視線をさまよわせた巴は、ふと、障子越しに差し込んでくる光がずいぶんと傾いているのに気が付いた。
いつの間にこんな時間になっていたのだろう。確かに、薫がここを訪れるのはいつも夕方近かったが、そんなに長い間、自分は眠っていたのか。
やがてそれほどたたず再び聞こえてきた軽い足音に、巴は閉じられた襖へと顔を向けた。
襖がからりと音を立てて開く。
「巴さん、お待たせしました!」
ガラスの器を乗せた盆を持った薫が、先ほどと変わらない笑顔で巴に屈託なく笑いかけた。
→8話へ
※そりゃー、巴さん、色々思うことあると思うんです…
◆8話◆
「はい」と手渡されたガラスの器は井戸で冷やされていたためか、ひやりと気持ちがよかった。
その中にトコロテンがちょこんと盛り付けられている。かかっているのは黒蜜だろうか。
「このトコロテン、翁さんのお孫さんの操ちゃんおすすめの甘味屋さんのものなんです。あ、翁さんて覚えてます?」
小さく頷く。この奥野診療所で働いてはどうかと勧めてくれた人だ。忘れるわけがない。
「よかった」と、ほっとしたように薫が微笑んだ。
「……操ちゃんにすごくおいしいって聞いたから。今日、巴さんと食べようと思って、来る時に寄ってきたんです」
無邪気な薫の笑顔がまぶしくて、巴は目を細めた。
薫の言葉は、幸せだった頃の記憶を思い起こさせる。
いつだったか、まだ明良が生きていた頃、評判の甘味屋に連れ立って行ったことがあった。
――君と一緒に食べてみたかったんだ。
そう言って笑っていた、大切な許婚。
そんな大切な時間があったのだ――ここ最近は思い出すこともできなかったけれど。
切なく疼く胸に気づかれないように、巴はトコロテンに目を落とすふりをして薫から視線をそらせた。
ガラスの器に盛られたトコロテンは、まるで氷のように涼やかだ。艶々とした黒蜜がとろりとかかる様は、素朴なのにとても繊細なもののように見える。
京ではトコロテンに黒蜜をかけるのは知っていたが、江戸で育った巴にとっては、初めて目にするものだ。
この時代ではない京にいた頃――夏にはすでに甘味を味わうことができる状況ではなかった。
「私、東京育ちだから、トコロテンに黒蜜って初めて食べるんです。巴さんはずっと黒蜜ですか?」
「いえ……私も、え……東の出身なので、黒蜜ははじめてです」
答えると、薫が目を丸くした。その瞳がきゅるんっと細くなる。
「じゃあ、私と一緒ですね、巴さん」
嬉しい、と薫は笑った。
薫の話に相槌を打ちつつ、しかし、思考はめまぐるしく変わっていく。
はじめて口にした黒蜜かけのトコロテンはほんのりと甘く、微妙に強張った巴の心をそっと宥めてくれた。
それでも先ほどのことを思い出すと、まるで喉を指で押さえつけられたようにひゅっと緊張が走る。
「待って」と薫を引き留めてしまったのは、軽率だった。
しかもそのまま黙っているなんて、いかにも話しにくいことがあると言っているようなものではないか。
間違いなく、薫もそのことに気づいているはずだ。
気づいていたからこそ、わざわざトコロテンの話題を持ち出したのだろう。
けれど、薫は巴に聞いてこない。
促すこともしない。
薫は――巴が話し出すのを待ってくれている。
もし巴がこのまま何も言わなくても、薫は何も言わないだろう。
思い返せば、薫は様々ことを巴に話したが、巴の身の上については必要最低限のこと以外は一切聞いてこなかった。それにしたってせいぜい名前くらいだ。
優しい少女だと思う。
何も聞かずに、寄り添ってくれようとしている。
その優しさに甘えている自覚はあった。相手は自分より年下の少女だと言うのに。
雑踏の中に浮かび上がった、赤い髪の男の姿を思い出す。
聞きたい。
確かめたい。
でも――どうやって。
だんだんと大きくなっていく焦燥に唇を噛みしめた時、聞こえてきた「今朝」と言う言葉に、巴ははっと顔をあげた。
「ようやく恵さんから外出許可が出たんです。それで……――巴さん?」
「あ……いえ……」
どこかあどけない薫の視線から、思わず目をそらしてしまう。
ひどく後ろめたいことをしているような気がした。
しかし――今こそが絶好の機会ではないか。今聞かなければ、きっともう聞くことはできないだろう。
「実は……」
震える唇をどうにか開き、巴は言葉を紡いだ。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。薫に不審がられてはいけない。
「今朝、薫さんが洛中で男の方と歩いているのを見かけて……」
本当に聞きたいのは別のことだったが、それを直接聞くのはさすがに憚られた。
薫が大きく目を瞬かせる。不思議そうに眉を寄せ、やがて「あ」と声を漏らした。
「巴さん、見てたんですか!?」
「……はい、買い物に出ていたので……」
「え、え――――っっ」
ぼわっと赤く染まった頬を、薫が勢いよく両手で押さえる。ばちんっとかなり大きな音が響いた。
あれは――けっこう痛いのではないだろうか。
痛みのためか、それとも別の理由か――わずかに潤んだ瞳が、恨みがましそうに呆然とする巴を軽く睨む。
「もうっ巴さん、声をかけてくれたらよかったのに……! 私、すごく舞い上がってたでしょ、恥ずかしい……」
「いえ、薫さんがとても楽しそうだったので……」
嘘ではない。
ちらりと見えた薫は、とても楽しそうだった。
声をかけなかった――かけることができなかった理由は、そうではないけれど。
「あの人が、以前薫さんがおっしゃっていた、大けがをして療養されている方ですか」
ぱちぱちと瞬きを繰り返した薫は、やがてふわりと顔をほころばせた。
「……」
それがあまりに嬉しそうで、巴は思わず息を飲む。
まるで蕾が花開くような柔らかな笑顔。
「そうなんです……! ようやく外出許可が出て! 今まで部屋の中は歩いてたんですけど……東京に帰るための体力も付けないといけないし、恵さんが今から慣らしておいた方がいいからって」
「……そうですか」
楽しそうに話す薫の口調からは、その相手が『そう』であると言う確証は得られなかった。
やはり自分の思い過ごしだろうか。
思い過ごしであって欲しい。
思い過ごしだと言う確証が欲しい。
薫にもっと詳しく聞こうか。いやでも……――――
巴が次の言葉に迷っていると、弾むような口調で話していた薫の声の調子が少し下がった。
「でも、今日は本当に久しぶりの外出だったから、私の方がはしゃいじゃって……剣心に無理させてないか、ちょっと心配なんですよね……」
「……っ」
何気なく薫が口にした名前に、息が止まった。
――けんしん、と、確かにそう聞こえた。
聞き覚えのある名前だ。
村で暮らす際、『抜刀斎』と言う志士名を使うわけにはいかないからと、緋村が名乗っていた名前と同じ響き。
偽名だとばかり思っていたけれど……――――
「……けんしん……」
知らず、声に出ていた。
「……巴さん? どうかしましたか?」
不思議そうに尋ねられ、巴は努めていつも通りに見えるように「いえ」と首を振った。
しかしその思いとは裏腹に、心臓はものすごい速さで胸を内側から打ち鳴らしている。
手のひらがひどく冷たい。するりと背中を汗が伝っていくのが分かった。
気づかれないように、巴はこくりと息を飲む。
「……その方の名前は『けんしん』さんと、おっしゃるんですね」
薫がますます嬉しそうに笑顔を深くする。
その顔は、今朝、赤毛の男の隣で見せていた笑顔によく似ていた。
首が大きく縦に振られ、彼女の髪を飾る藍色のリボンがふわりと揺れた。
「はいっ。緋村剣心って言うんです。剣の心で剣心」
――ひむら、けんしん。
どくりと、心臓が大きな音を立てる。
町で見かけた見覚えのない穏やかな微笑と、彼女の知る幼さを残した笑顔。
そうして――失ってしまった明良の笑顔が、一瞬の内に頭をよぎる。
襲ってくる眩暈を、巴は息を詰めて耐えることしかできなかった。
→9話
※夏だし、やっぱり食べるならこれかな、と←
◆9話◆
「あら」
所用を済ませて白べこに戻ってきた恵は、裏口付近で人待ち顔で立っている赤毛の男の姿を見つけて、切れ長の目を丸くした。
あんな目立つ男、彼以外にありえない。
かつてこの京都で人斬りとして恐れられた男。
そうして明治の世で流浪人として京都を守り――今はケガで療養中の緋村剣心、その人だ。
――志々雄との闘いからそろそろ一ヶ月。
一時は生死の境をさまよっていた剣心だったが、今では全快とは言わないまでも、不自由なく身体を動かせるまでに回復した。
軽く歩くくらいならと言う条件付きとは言え、外出許可も出したところだ。
傷の治りもずいぶんと早い。剣心の「治りたい」と言う意思が強いのだろう。
以前、そのことを指摘すると、彼は見たこともないほど穏やかに「一緒に東京へ帰ると約束をしたでござるから」と笑った。
誰と約束をしたかなど、聞くまでもない。
少し妬けないこともなかったけれど、それ以上にほっとしたのも事実だ。
この人は「生きて帰ろう」と思えるものを見つけたのだと。
外出許可後の今朝は、薫と二人で白べこの周辺を散歩していたはずだ。
だが身体の負担を考えると、待ち人の為とは言え、長時間起きているのは褒められたものではない。
内心眉を顰めた恵だったが、とりあえずいつも通りを装って剣心に声をかけた。
「剣さん、どうかされましたか」
「ああ、恵殿」
振り向いた彼の表情に驚きはない。
気配に聡いこの男のことだ。恵のことなどとっくに気づいていただろう。
「誰かお待ちですか」
答えが分っていながら、少し意地悪く聞いてみる。
とたん、剣心は居心地悪そうに視線をさまよわせた。
「あー……いや……」
恵を通り過ぎ、ここではない虚空へと向けられる剣心の視線。
そして降参したかのように、剣心は眉を八の字に情けなく下げた。
「薫殿がまだ戻らないようなので……」
予想通りの答えに、恵は苦笑とともに息をつく。
「……あの子、どうかしました?」
「大したことではないが……いつもならもう戻っている時間でござるから」
恵は夕暮れの迫る空を見上げた。
遠い西の空で、山と寺院の塔の間にうっすらと染まった夕陽が沈んでいこうとしている。
確かにいつもより少し遅いだろうか。しかし、まだ遅すぎると言う時間でもない。
それにこの時間ならたぶん……――――
「話が弾んでるのかもしれないですわね、あの子」
「えっ」
「あら、聞いてません? 夕方のこのくらいの時間でしたら、毎日奥野診療所に通ってるんですよ、薫ちゃん。今、巴さんと言う方が働いていて、彼女にずいぶん懐いたみたいで……剣さん、もしかして今、女性と分ってほっとしました?」
小さく反応した剣心に目敏く気づき、恵は意地悪く目を細めた。
恵は医者だ。観察眼にはそれなりに自信がある。
「え……っ、あーあー……いや、そんなことは……」
一瞬目を丸くした剣心は、情けない顔で笑った。
恵は内心目を見張る。
先ほどの件といい、この男がこんなにもわかりやすい反応をするのはおもしろ――ああ、いや。珍しい。
もう少しからかってみたい気もするが、自分自身、まだそこまで心の整理がついたわけではない。
ふっと肩から力を抜き、恵はきゅっと唇を引き上げた。
「まあ、今日は勘弁して差し上げますわ」
「はは……」
「薫ちゃんももうすぐ帰ってくるでしょうから、剣さんは無理をせずに部屋でお待ちになってください。
確かに外出の許可は出しましたが、怪我人がいつまでも外にいるのは感心しません」
「……手厳しいでござるなぁ」
「それが私の役目ですから」
そうでしょう、と軽く睨みつけると、剣心は「そうでござった」と柔らかな苦笑を浮かべた。
窓の障子を開けた剣心は、暮れなずむ空に目を細めた。
先ほどはまだ淡い夕陽色だったのに、ほんの少しの間に空がずいぶんと赤さを増している。
――先刻は少し動揺してしまった。
恵の口から零れた名前。
――ともえ。
久しぶりにその名を聞いた。
忘れていたわけではない。ただ、あえて思い出さないようにしていたのは事実だ。
『ともえ』と言う名前はけっして珍しいものではない。
実際、流浪人をしている間も何度か耳にしたことがある。
立ち寄った町の中で。人通りの多い街道で――その度に、動揺する心を宥めていた。
白い雪を鮮やかに染めた赤に囚われそうになるのを、何度振り切っただろう。
己がどれほど罪深いかを突きつけられた、あの雪の日。
今日も恵が口にしたその名前に心が揺れた。
けれど――あの赤は剣心を捕らえようとはしなかった。
「――ともえ」
小さく忘れえぬ名前を紡ぐ。
忘れたいわけじゃない。
忘れようとも思わない。
忘れてはならないと思っている。
ただ――――――
ふと、脳裏をかすめた思い出ではない笑顔に、剣心の唇がわずかにほころんだ。
彼を死の淵から呼び戻した笑顔。
もう何者にも心を動かされることなどないと思っていたのに。
「薫さーん!! おかえり!!」
外から聞こえてきた元気な操の声に、剣心は思考を止めて窓から下を見下ろした。
視線の先――ちょうど剣心が見下ろす窓の下。元気に跳ねる長い三つ編みと、そしてそれ以上に、小走りで駆けてくる薫の姿を認めて口元が緩む。
「どうしたの、今日はいつもより遅かったじゃん」
「ごめんねー操ちゃん。寄り道してたら遅くなっちゃった。もう時間だよね。すぐに準備するから」
昼と夕方から夜にかけてのかき入れ時に白べこの手伝いをしている薫は、このまますぐに店に立つようだ。白べこに厄介になっている身としては、このくらいはしないと、と薫が笑っていたことを思い出す。
世話になりっぱなしの自分としては、正直、立つ瀬がない。
その時、不意に顔をあげた薫と、剣心の視線が図らずもかち合った。
瞳がここからでも分かる程に丸くなり、嬉しそうに顔を輝かせた薫は、剣心に向かって大きく手を振った。
「剣心、ただいま!」
「お帰りでござるよ、薫殿」
穏やかに返すと、薫がさらに幸せそうに笑う。
そんな素朴で当たり前のやり取りに、胸の奥がふわりとあたたかくなる。
薫は「また後でね」と剣心に告げると、操とともに建物の中へと消えて行った。
耳を澄ませば、階下から「お帰り、薫ちゃん」と言う冴と、それに応える薫の声が聞こえてくる。
もう、ずいぶんと聞き慣れたやり取りだ。
――小萩屋でいた時はどうだっただろう。
「……」
ふと頭をよぎった疑問に驚き、そして苦笑する。
こんな、なんでもないことを思い出せる日がくるなんて。
顔をあげた先に、どこかの寺院の屋根が見えた。
そう言えば、ここから彼女を弔った寺までは、半刻ほどの距離だったはずだ。
……もう少し体力が戻ったら、彼女の墓を訪ねようか。
亡くなってからただの一度も手を合わすことができなかった彼女の墓に、今なら手を合わすことができるような気がした。
濡れたような夜の闇が視界を覆い尽くす。
纏わりつくような寝苦しさに、巴は何度目かの寝返りを打った。
もういったい、どのくらい眠れない日々を過ごしただろう。
明良が死んだと知ってから、よく眠れなくなった。
居ても立ってもいられず江戸を出てからは、心身の疲労で気絶するように浅い眠りを繰り返す日々。それはあの村での暮らしや、この時代の暮らしの中でも変わらなかった。
けれど、今夜はその浅い眠りすら訪れてくれないらしい。
身体も心もこれ以上はないと言うほど疲れているはずなのに、眠らなければと思うほどにどうしても目が冴えてしまう。
目を閉じるとまぶたの裏に蘇るのは、昼間に見た赤毛の男の姿。
赤毛の男――維新志士、緋村抜刀斎。
巴が本来いる時代で人斬り抜刀斎と呼ばれていた、明良の仇。
その男が今では緋村剣心と名前を変えて、徳川の次の世を生きている。
――やはり、自分は失敗したのだ。
明良の仇を討つことができなかった。人斬り抜刀斎を葬り去ることができなかった。
明良をむごたらしく殺しておいて、その仇がなぜ新しい時代をのうのうと生きているのかと怒りが湧いてくる。明良は新しい時代を見ることすら叶わなかったのに。
けれど――彼が新しい時代を生きていることを知って、心からほっとしている自分がいることにも巴は気が付いていた。
彼が、どれほどその時代を望んでいたか知っているから。
「……っ」
呼吸が乱れる。
飲み込んだ叫びに、喉がひりひりと痛む。
苦しい。
相反する想いに、心が引き裂かれそうになる。
ふと、彼の隣で笑っていた娘のことを――薫のことを思い出した。
……薫は彼のことを知っているのだろうか。
彼女が緋村剣心と呼ぶ男が、かつて数え切れない程の人間の命を容赦なく斬り捨ててきたと言う事実を。
いくつもの幸せを奪っていたということを。
――きっと知らないはずだ。
今は明治11年。
徳川の世が終わってから明治と呼ばれるようになったのなら、どんなに短くても10年以上の歳月が流れている。
巴が知る時代からは、すでに14年。
明治になるまで彼が人斬りをしていたとしても、その時点で薫は四つか五つ。……『人斬り抜刀斎』など、知るはずがない。
何より、もしそのことを知っていたとしたら、『抜刀斎』に対して笑いかけることができるとは思えなかった。
あんな――無邪気に笑うことができるなんて。
夏用の薄い布団の中にうずくまって、巴はぎゅうっと胸元を握り締める。
あの男は――今日、巴が見かけた赤毛の男は『人斬り抜刀斎』ではない。
明良の仇である緋村抜刀斎ではなく、薫の想い人である緋村剣心。
そうでなければいけない。
そうでなければいけないのだ――――――
→つづく
花に願ふ2(10話〜)↓
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