志々雄事変直後の明治11年の京都にタイムスリップした巴さんと、何も知らずに出会った薫ちゃんのお話。連載中。
剣薫、清巴前提の、巴さんと薫ちゃんの交流をメインにしてますー!
@tachik_k
「花に願ふ 1(1〜9話)」↓
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◆10話◆
「それは本当か」
「はい」
ゆらゆらと揺れるろうそくの灯りが、物が散乱する屋内の様子をぼんやりと浮かび上がらせていた。
元は寺だったのだろうが、その面影も今はほとんどない。ただ、所々穴の開いた板張りの床があるだけだ。
そしてその中に、20人ほどの黒装束の男たちの姿。
不安定な灯りに、男たちの影が伸びては縮む。
「あの赤い髪は抜刀斎で間違いないかと」
頭を垂れた部下の報告を受け、部屋の中央でひとり立った男は忌々しげに舌打ちをした。
「志々雄様が亡くなったと耳にした時はまさかと思ったが……」
話は本当だったかと、唇を噛みしめる。
しかも抜刀斎は重傷ではあったものの命は取り留め、回復に向かっているのだと言う。
京都大火計画の際、男とその小隊は志々雄が率いる本隊に召集されることはなかったが、その勝利を疑っていなかった。
我らが志々雄様が負けるはずがない――そう思っていた。
それなのに――――
握りしめたこぶしがギリギリと音を立てる。
志々雄が倒れ、十本刀もいなくなった今、志々雄の強烈な求心力の下に集まっていた兵士たちは急速に瓦解。そこに政府の残党狩りが拍車をかけた。今はどの隊が残っているかすら分からない。
そんな中、男は自分の小隊を引きつれて京都に足を踏み入れた。
目的は――言うまでもない。
情報を持ってきた部下を見やる。
「詳しく話せ」
ニィ、と。
灯りが届かない闇の中、男の口角が弓のようにつり上がった。
「恵さん!」
奥野診療所へ向かうために白べこを出た恵は、聞き慣れた声に足を止めた。
振り向けば、案の定、こちらに向かって小走りに駆け寄って来る薫の姿。
「恵さん、今から奥野先生のところに行くんですか?」
「ええ、そうよ。あなたも?」
昼のかき入れ時が終わり、夕方の忙しくなるまでの間、薫が奥野診療所へ通うのはすでに日常の光景になりつつある。
「はいっ。それで、よかったら一緒に行きませんか」
問いかけてくる薫に、小さく笑いながら「好きにしなさい」と返す。
ここで素直に了承ができないのが恵らしいと言えば恵らしい。しかし薫もそのあたりはすっかり慣れたもので、「ありがとうございます」と笑って恵の隣に肩を並べた。
奥野診療所までは、おおよそ四半刻ほど。
特別に趣味の合う二人ではないが、それでも話題は尽きることがない。
日常の何でもない話から奥野診療所の話になり、薫は恵の横顔を見やった。
夏の太陽が容赦なく照りつけていると言うのに、恵の表情は涼しげだ。正直、うらやましい。
「恵さん、ちょくちょく奥野先生とお話されてますよね」
「まぁね。奥野先生は西洋医術にもお詳しいから、話を聞くだけでもためになるわ。こんな機会そうそうあるものでもないし、できる限り話を聞いておきたいのよ」
そう告げる恵の目は、強く前を見据えている。
現在、剣心の主治医は恵が務めているが、瀕死の重傷だった剣心を持ち直させ、闘いから戻ってきた直後の左之助や蒼紫、そして弥彦の治療をしたのは奥野だ。医師としての力量はかなりのものだろう。
そんな腕のいい医師に話を聞ける機会を逃したくはない。
恵の視線がちろりと薫に向けられた。
「あんたは巴さんでしょ」
「えーと……はい」
「ずいぶんと懐いてるじゃない、巴さんに」
照れたような薫に少しばかり呆れながら、恵は巴の姿を思い浮かべた。
恵自身、巴には何度か会ったことがある。
艶やかな黒髪と、冬の夜のように静かな漆黒の瞳が印象的な女性だった。
あまり感情が表に出ないようで、恵は彼女が笑った顔を一度も見たことがない。もっとも、診療所で働き始めた理由が理由なだけに、心配事も多いのだろうが。
ただ、今まで薫の周囲にはいなかった類いかもしれない。
「巴さんてどういう人なの」
尋ねたのは興味本位。いったい薫は巴のどこに懐いたのだろう。
とたん、えへへーと薫が笑った。
「すっごく優しいんですよ! 巴さん!!」
よくぞ聞いてくれました! とばかりの薫の勢いに気圧されて思わず顎を引く。
――えっ。何この勢い。
恵は切れ長の目を幾度も瞬かせた。
そんな恵に気づいているのかいないのか、薫はいっそう顔を輝かせ、
「私がどんな話をしてもちゃんと聞いてくれるし! それにこの前、私ちょっとドジをして指を怪我しちゃったんですけど、とても気にかけてくれて!! 細かいところにも色々気が付くし、気が回るし、すごく素敵な人なんですよ、巴さん!!」
あ、診療所に来る子供たちとよく遊んでるんですけど、それも優しいと思いません? 思いますよね! 巴さん、笑うのが苦手らしいんですけど、そんなところも可愛くて! それから……――――云々。
「……」
飛天御剣流の剣閃もかくやな勢いと速さで巴のことを語る薫に、二の句が継げずに口を噤む。
なんだろう、これは。
なんだかすごく――のろけられているような気がする。
『懐いている』とは思っていたものの、これはすでにその域を超えているのではないだろうか。
それに楽しそうに巴のことを話す薫を見ていると、なんだか胸の奥がモヤモヤする。
恵は顔を顰めた。
……なんだかおもしろくない。
無意識に胸に手を当てた恵の耳に、「それに」と続ける薫の声が聞こえた。
「巴さんって、剣心に似てるんですよね。剣心がウチの食客になった頃もあんな感じだったなーって」
ここは自分の居場所ではないのだと、周囲から距離を置いていた剣心。巴からはそれと同じ雰囲気を感じる。
「だからなんか、放っておけなくて」
「……まったく、あんたって子は……」
ふ、と恵は息をついた。
呆れとも感嘆とも言えない感情が胸に迫る。
そうだ。これが薫だ。
自分が気にかけた相手を放っておけず、あけっぴろげに心を差し出し、手を差し伸べる。
――恵には到底できないことだ。
しかし、楽しそうに話していた薫の表情が不意に曇った。
「どうしたの?」
「それが」
返す口調も、先程と比べてまったく元気がない。
「……ここ3日くらい巴さんに避けられてるみたいで」
「……そうなの?」
ためらいがちに薫が首を縦に振った。
そう言えば、ここ数日は薫が白べこに戻るのがずいぶんと早かった。巴に会えていなかったのかと、妙に納得する。
「私、何かしたのかなって気になって……」
今にも重いため息を零しそうな薫を見やった恵は、ぱさりと髪を掻き上げた前を向いた。
こんなのガラではない。ガラではないが――あまり落ち込んだ薫の様子は見たくない。
「まだ三日でしょ。そういうこともあるわよ」
大きな瞳が瞬いて、恵を見上げる。
薫の視線が面はゆい。
前を向いていてよかった。真正面からは恥ずかしすぎる。
「そうでしょうか」
「……知らないわよ。でも、今日は会えるといいわね」
――ふわりと、薫が笑った。
「……はいっ」
戻ってきた薫の笑顔に、恵はふっと口元を緩めた。
自分も案外単純なものだ――――……認めたくはないけれど。
「ね、翁。薫さん知らない?」
ばったりと出くわした操に開口一番に尋ねられ、翁は目を丸くした。
「薫君なら、診療所だと思うがのう」
「あー、そっかぁ……」
操の肩ががっくりとおもしろいように落ちる。
それもそのはず。忙しそうにしている薫とは、最近はすれ違ってばかりだ。もっと薫と遊びたい操としては、少々寂しい。
「……明日は診療所に一緒について行こうかな。あー、でも明日は蒼紫様のところにも行きたいし……」
「ひょっひょっ、薫君を取られて悔しそうじゃのう、操」
操の唇がむっ、と尖る――が、反論はない。図星なので言い返せないらしい。
だって仕方ないではないか。緋村の怪我が落ち着いたらたくさん京都を案内しようと思っていたのに、それができないのだから。
「まあ、薫君も責任感が強いからの」
感慨深く、翁は髭を撫でつけた。
自分が助けた相手を放っておけないのだろう。聞けば、緋村や弥彦も同じようなものだったらしい。
「それは知ってるけどぉ」
ぶつぶつと呟く操にひょっひょっと楽しげに笑った翁だったが、不意にその笑みを消して二階に視線をやった。
ここ一ヶ月近く、怪我で療養している青年のことを思う。
かつて人斬り抜刀斎と呼ばれた、流浪人の青年。そして。
「……どうしたもんかのう」
「翁!」
翁の小さな呟きは、慌ただしい足音にかき消された。
……なんだか今日はよく呼び止められる日だ。
ひょいっと廊下に目をやれば、慌てた様子で駆け寄って来るお増の姿。今日、彼女は白べこで給仕の手伝いをしていたはずだが。
「こんな所にいたんですね……!」
「なんじゃ、ずいぶん慌てて」
「翁、これを……!」
差し出された手紙を面倒くさそうに受け取った翁だったが、手紙に目を通したとたん、その表情を厳しいものへと変えた。
「操」
「なぁにぃ?」
相変わらずぶつぶつと管をまく操に、先ほどとはうって変わった真面目な声で告げる。
「薫君と恵君を迎えに行きなさい。志々雄残党の一部が京都に入ったらしい」
つづく→
※愛され薫ちゃんが好きです…!!←
◆11話◆
「じゃあね、お姉ちゃん」
「ええ。気を付けて」
「また遊ぼうね」
手を振って参道を下って行く子供たちに、巴は静かに頷き返す。
診療所からほど近い神社の境内は、子供たちの恰好の遊び場だ。午後の診療が落ち着いてから陽が沈むまで、ここで子供たちの相手をするのが、ここ数日の巴の日課になっている。
子供たちがいる時は賑やかだった境内も、今はとても静かだ。
空はすっかり茜色に染まり、遠くでカラスが鳴く声が早く帰れと促している。
巴は足元に視線を落とした。今日、薫は奥野診療所に顔を出しただろうか。
――また、逃げてきてしまった。
ここ数日、薫の顔を見ていない。理由は単純。巴が薫を避けているのだ。
今はどうしても薫に会いたくなかった。
唇を引き結び、胸元で手を握り締める。
もうずっと、胸の奥がざわざわと煩い。胸に渦巻く感情が治まってくれない。
この時代に来た時、胸に渦巻くざわめきは不安だった。けれど今は……――――
洛中で緋村抜刀斎――いや、緋村剣心の姿を見かけてから、今日で3日。
その間、自分の知る彼と、この時代で剣心と呼ばれる彼は別人なのだと何度も自分に言い聞かせた。けれどどんなに言い聞かせても、心はそううまくできていない。
まるで――裏切られたような気になっている。
彼に屈託なく笑いかけていた薫に。
見たことのない笑顔を薫に向けていた男に。
――愚かなことを。
裏切者は、他の誰でもない自分だと言うのに。
腹の奥に溜まった重苦しい澱のようなものをやり過ごすように、何度か呼吸を繰り返す。
夏の生ぬるい空気が肺を満たしていく。
もう戻ろう。きっとそろそろ薫も諦めて帰路につく頃だろう。
奥野から「今日も来ていたよ」と薫の話を聞くのは心苦しいが、今はまだ時間が欲しかった。
――時間だけでどうにかなるものとも思えないが。
ふと目に入った空にうっすらと浮かぶ白い月。
ツン、と鼻の奥が痛んだ。
――帰りたい。
強烈に思う。
――でも、どこへ?
その問いに答える術を、巴は持っていなかった。
いつの間にか辺りはすっかり薄暗くなっていた。
重い心を引きずりながら、人気のない神社の参道をゆっくりと下っていく。
昼間であればたまに地元の住人とすれ違うこの参道も、この時間になれば誰かとすれ違うこともない。
――だから、油断していたのだ。
「……っ」
「きゃっ」
参道の出口に差し掛かった時、横から走ってきた人影にぶつかりそうになった巴は、小さく息を飲んだ。
相手も驚いたのか、短く悲鳴があがる。
その声に――巴は再度息を飲む。
「ご、ごめんなさいっ、私、急いでて……」
慌てた様子で頭を下げる相手に、しかし巴は言葉を返すことができない。
それは、見知った相手だった。
艶やかな黒髪と、それを結う桜色のりぼん――――
薄暗い黄昏時だからと言って、見間違うはずがない。
――薫だ。
まさか――こんな所で会うなんて。
衝撃と動揺で彼女から目をそらせないでいると、顔をあげた薫と視線があった。ただでさえ丸い大きな薫の瞳が、さらに大きく見開かれる。
「……巴さん……」
ずっと避けていた薫が目の前にいる――その気まずさから、巴はとっさに目をそらした。
痛みを堪えるように、薫が一瞬、顔を歪めるのが分かった。
――傷つけた。
今の態度は間違いなく薫を傷つけた。その事実にずきりと胸が痛む。
だが、だからと言ってどうすればいいと言うのだろう。今の自分には、薫にいつものように接することすら難しいのに。
途切れた言葉の合間を縫うように、湿気をはらんだ夏の風が隣を通り過ぎていく。
早く立ち去って欲しい。
早く立ち去りたい。
「あ、あの……っ」
そう思った時、薫が言いにくそうに、しかし懸命に口を開いた。
「さっき、診療所に伺ったんですけど……巴さんは不在だと言われて、帰るところだったんです」
「……そうですか」
返す言葉の抑揚のなさに自分が嫌になった。
なぜ自分は、もっと気の利いたことが言えないのだろう。
「……今日はもう巴さんに会えないと思っていたから、会えてよかったです」
わずかに哀しそうな顔をした薫は、それでも巴に向かってにこりと微笑んだ。
――無理をしているのが分かる笑顔。
しかしその笑顔がこちらの負担を軽くするためのものだと分ってしまうから、巴はますます自分が惨めになる。
「……お忙しいのに、いつも来てくださってすみません」
「そんなこと」
「気にかけて頂けるのはありがたいのですが、薫さんも大変でしょう。幸い、私の体調も戻りましたし、もう大丈夫ですから」
――もう来ないで欲しい。
暗にそう告げると、明らかに薫の顔が強張った。
ああ――また、傷つけた。
まるで心臓を直接握りつぶされたように息が苦しくなる。
なんてひどい女だろう。薫は何ひとつ悪くないと言うのに。
こんなことを言うつもりなんてなかった。けれど、一度出た言葉は取り消すことができない。
本当は、薫の笑う顔を見るのが好きだった。
楽しそうに日々の出来事を話す彼女を見ていると、つかの間でも不安を忘れられた。
だが今は――薫の顔を見たくない。
彼女を見ていると、胸の中をどろどろとしたものがわき上がってくる。
怒りや憎悪に似ているようで、けれどそれらとは違う感情。
それが何なのか、巴は気が付いていた。
――これは、妬心だ。
この3日間、何度も何度も思い出していた、洛中を並んで歩く二人の姿がまた脳裏をよぎる。
楽しそうな薫の笑顔に応える、穏やかで優しげな笑顔。
あの村でいつの間にか向けられるようになっていた、幼い照れた笑顔とは違う彼の表情。
どうして。
どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう。
自分は彼を憎んでいるはずだ。憎まなければならないのに。彼は明良の仇なのだから。
「……っっ」
次から次へと湧き出してくる大きすぎる感情に、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
もうワケが分からない。
陸に打ち上げられた魚のようにうまく息ができない。
苦しくて苦しくて、心が悲鳴を上げる。
なぜこの時代に来てしまったのだろう。
こんな想いをするためだとでも言うのか。
心に決めた仇を討つこともできず、それどころか、憎むべき相手の笑顔ひとつでこんなにも心がかき乱されている自分を、まるで何かが嘲笑っているようだ。
本来のいるべき時代での村での暮らしは、先のことなど考えられなかった。
考えたくなかった。
先のことなど、知りたくなかった――――
「……すみません。薫さんには色々助けて頂いたのに……私、もう戻ります」
もうこの場にいることに耐えられそうになかった。
纏まらない思考に吐き気すらしてくる。
早くこの場から立ち去ってしまいたい。
これ以上薫の顔を見ることもできずにうつむきがちに告げ、巴は彼女の横を通り過ぎようとした。
しかし。
「待って、巴さん!」
呼び止める薫の声の強さに、思わず駆け出しかけた足を止める。
薫の声は巴の態度に戸惑い、傷ついていた先程までのものとは明らかに違っていた。
巴は知らなかったが、鋭いとすら言えるそれは、間違いなく、薫の剣士としてのもの。
「……薫さん?」
そう、巴が薫の名を口にした次の瞬間――巴たちがいる横の茂みががさりと音を立てた。
何が起きているのか分からずに動けない巴をかばうように、薫が迷うことなく巴の前に出る。
そうして、薫の背中越しに巴は見た。
黄昏の薄闇に溶けこむように、茂みの中から数人の黒装束が現れるのを。
→12話
◆12話◆
「私たちに何か用?」
背中越しの薫の声がひどく硬い。顔は見えないが、きっと表情も見たことがないくらいに固いのだろう。
それもそのはず――繁みの中から現れた2人の黒装束は、明らかに普通の出で立ちではなかった。
全身を黒で覆い、顔も口元まで隠している。
黄昏時の薄暗さも相まって、表情がまるで分らない。
そんな男たちが2人も現れれば、薫でなくても不審に思わない方がおかしい。
そして全身を覆う黒装束――その出で立ちに感じる既視感に、思わず喉が鳴った。
先ほどとは違う理由で胸が震えた。動揺が足元から這い上がってくる。
彼らの姿は、巴を人斬り抜刀斎への間者に仕立てあげた闇乃武を思い出させた。
まさか、この時代にも闇乃武がいるのだろうか。
――この、平和なはずの新時代にも。
薄闇の中、男たちが2人に向かって一歩足を踏み出す。
途端に増す威圧感。
薫がじり、と一歩後退する。
薫の背中に庇われた巴もまた、同じように一歩後すさった。
二人の正面にいる男の顔が薄闇の中でも分かる程、にやりと笑った――いや、歪んだ。
「数日前に抜刀斎と一緒にいた女だな」
ぴくんと、薫の肩が跳ねた。
「何のこと」
「とぼけるならそれでも構わん――どうせ結果は同じだ」
「何者なの、あなたたち」
ふん、と黒装束が鼻で嗤う。
そして続いた言葉に、薫の身体が明らかに強張った。
「我らは志々雄様の忠実なる僕――そう言えばわかるだろう」
生ぬるい風が頬を撫でていく。
いつの間にか空に昇った月はおぼろで、輪郭をぼんやりと滲ませていた。
陽が沈み、すっかり人通りの絶えた道の真ん中で、薫は嗤う男の顔を射殺さんばかりに睨みつけた。
心臓がどくどくと早鐘のように鳴り響いている。
『志々雄の僕』――――考えるまでもない、志々雄の残党だ。
黒装束が『抜刀斎』の名前を出した時に、もしかして、とは思ったけれど。
その志々雄の残党が2人とは言え薫の前にいる。その意味が分からない程、薫は愚かではない。
――志々雄の仇討ち――いや、むしろ仕返しに近いのではないかと思う。
薫の前に現れたのがいい証拠だ。
志々雄が剣心と闘ったことは、志々雄の兵なら当然知っているだろう。剣心の容姿を知っている人間がいたところで、なんらおかしくはない。
数日前、と黒装束は言った。もしかしたら、剣心と洛中を歩いていたのを見られたのかもしれない。
思わず歯ぎしりをしたくなった。
油断――していた。
志々雄が斃れたとは言え、その残党がいると言うことを失念していた。
それなのに剣心を連れまわしてしまった。もう少し気を付けておくべきだったのに。
剣心の怪我の状態を黒装束たちが知っているかどうか分からないが、剣心に対して害意があるのは間違いない。
せっかく怪我がよくなってきたと言うのに、このままでは彼を危険にさらしてしまう。
「……私はあなたたちに用はないんだけど」
「そっちに用はなくても、こっちにはあるんだよ」
巴を背に庇いながら、薫は素早く周囲に視線を走らせた。
相手は今のところ二人。
以前、十本刀と闘った時に見た下級兵と同じような恰好をしているところからして、おそらく実力はそう上ではない――はずだ。
自分一人だけなら、なんとかなるかもしれない。
もちろん、油断はできないが。
けれど……――――
背中に感じる巴の存在に、薫の心に焦りが募る。
まさか、何の関係もない彼女を巻き込んでしまうことになるなんて。
立ち居振る舞いからして、巴が士族出身だと言うのはなんとなくわかっていた。だが武道の経験はないだろう。
木刀どころか、武器になるものが何もないこの状況――しかも動きづらい着物で、巴を守りながら逃げる自信はない。
その上、相手はただのゴロツキではない。私兵とは言え、ある程度の戦闘訓練もしているはずだ。
剣心に対して人質にするつもりなら即殺される事はないだろうが、どちらにしても状況はかなり悪い。
ちらりと背中の巴に視線を向ける。
彼女はこの状況に戸惑い、緊張はしているようだったが、その表情に怯えの色は見えなかった。
せめて――巴を先に逃がすことができれば。
そう薫が考えた時、黒装束の一人がざらりとした声で嗤った。
「本当はひとりの時を狙うつもりだったんだが――まあ、運が悪かったと諦めてくれ」
それが巴に向けられた言葉だと薫が気が付いた直後――――
――ザザッ
二人の背後の繁みが音を立てた。
闇よりもなお黒い影が、繁みの中から飛び出てくる。
「……っっ」
――しまったっ、三人目……っ!
予想をしていなかったわけではない――だが目の前の黒装束に気を取られて、一瞬反応が遅れる。
もっともすぐに反応できていたとしても、結果は変わらなかったかもしれない。
伸びてきた黒い腕が、巴を薫から引き離し、絡め取る。
「っ!」
「巴さんっ!」
とっさに伸ばした薫の手は、彼女に届かないまま空を切った。
背後から羽交い絞めにされた巴の顔が、苦しそうに歪む。
どうにか逃れようと巴が身体をよじるが、黒装束の腕はびくともしない。
「――ッ! 巴さんは関係ないでしょ! 離しなさいよ!」
噛みつく薫に、巴を捕らえる黒装束が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「有効手段を逃すわけがないだろうが」
ニヤつくその顔をきつく睨みつける。
だが、相手にとっては痛くもかゆくもないと思うと、腸が煮えくり返りそうな程悔しい。
どうする。どうする。どうする―――――
頭の中、同じ言葉がぐるぐると浮かんでは消えていく。
どうにかして黒装束を巴から引き離さないと――――刹那、捕らわれたままの巴がはっと目を見開いた。
「薫さん!!」
切羽詰まった巴の叫び声。
次の瞬間、首筋を強い衝撃が襲った。
ぐらりと視界が揺れる。
いつの間にか背後に近づいていた黒装束に、手刀を落とされたのだと気が付いたのは、その直後。
「薫さん! 薫さ……っ」
薫を呼ぶ巴の声が唐突に途切れた。
極端に狭くなった視界の中にかろうじて映ったのは、くずおれていく巴と彼女を受け止める黒装束の姿。
――巴さん――
呼んだはずの声は、音にならないまま闇の中に吸い込まれた。
早く彼女を助けなけないと――そうは思うものの、身体がまったく言う事を聞いてくれない。
どうにか保っている意識ももう限界だった。
落ちていく意識の淵。
薫の名前を呼ぶ巴ではない声が聞こえたのを最後に、すべてが闇に沈んだ。
→13話
※お約束展開が! 好きです!!!←
◆13話◆
操が診療所を訪れた時、薫はすでに診療所を出た後だった。どうやら入れ違いになってしまったらしい。
志々雄の残党のことを告げると、奥野と、そして一緒にいた恵も表情を強張らせた。
聞けば、今、ここで働いている巴と言う女性もまだ帰ってきていないと言う。
巴はここ数日、近くの氏神の境内で子供たちの遊び相手をしているそうだ。いつもなら陽が落ちる前に帰って来ていたのに、どうしたのかと思っていたところだったと。
「……残党が関係しているかどうかはともかく、早く見つけるに越したことはないな」
巴は薫と途中で出くわしたのかもしれないと、奥野は言った。立ち話をしている可能性も十分にありうる。
それを聞いた操は表情を険しくして奥野を見やった。
「先生、あたし、薫さんたちを探してきます」
「ああ、頼むよ」
「恵さんはあたしが戻ってくるまで、待っていてください」
緊張した面持ちでうなずく恵に頷き返し、操は診療所を飛び出した。
向かうのは、先程奥野の話に出てきた氏神だ。
どこに行ったか分からないなら、いちばん可能性が高いところに行くしかない。もしすれ違ったとしても、薫や巴が無事でありさえすれば、それでいいのだから。
白い月がおぼろに照らし出す小路をひた走る。
洛中とは言え洛外に近いこの辺りは、小路を選んでいると言う事もあり、まだ夜の早いこの時間でも行き交う人影は見かけない。
地面を蹴り続ける自分の足音だけが、妙に耳につく。
そして、心臓の音も。
……薫の実力は知っている。おそらく、下級兵程度であれば問題ないはずだ。それに、残党が動き出すにはまだ早すぎるのではないかと思う。
けれど――――
嫌な予感に胸がざわつく。
操は走る速度をさらに上げた。
奥野診療所から氏神まではさほど距離はない。小路を出て、川にかかる橋を越えればすぐだ。
橋を渡り、参道へと入る道の手前に差し掛かった時、視界に飛び込んできた光景に操は息を飲んだ。
無意識に走る速度が上がる。
夜のはじめの暗がりの中で蠢く、さらに黒い人影。
そして、その人影の前に倒れているのは……――――
「薫さん!!」
思わず叫んでいた。
あれは――間違いない。薫だ。横たわっているもう一人は、奥野が言っていた巴だろうか。
そしてあの黒装束。どう考えても、そこら辺のゴロツキ風情のものではない。
走り続けただけではない理由で、心臓が大きく跳ねた。
翁のところに残党の情報が入ったのが夕方。
――まさか、もう動いてる……!?
黒装束たちは操にちらりと視線を寄越したようだが、薫と巴のことを優先することにしたらしい。すぐに操から視線を外し、二人を担ぎ上げて反対の方向へ走り出す。
その間、薫たちが暴れる様子はない。気を失っているのか。
「くぉの……っ」
ギリッと歯を噛みしめ、懐に隠し持っているクナイを探る。
このまま行かせてたまるもんか……!!
「薫さんたちを離せっっ!!」
ひゅっと風を切って、放たれたクナイが黒装束の背後へと迫る。
――倒せるとは思っていない。けれどせめて、足止めをすることができれば。
だが、薫たちに当てるわけにはいかないと言う無意識のためらいが出たのか、クナイは黒装束には届かず、走り去る黒装束の手前で地面に突き刺さった。
当然、黒装束たちは止まらない。
「あーもぉっっ!!」
頭を抱える代わりに、再度クナイを懐から取り出す。
それに気が付いたのか、三人の内で唯一手ぶらだった黒装束が足を止めて振り返った。
操の足止めをするつもりだ。
どうする。
立ちはだかる黒装束越しに見える、すでにかなり遠くに離れてしまった薫たちの姿。
この黒装束を無視して、薫たちを追いかけることもできなくはない。
洛中は操の庭のようなものだし、走る速さには自信がある。きっと今からでも追いつけるはずだ。
しかし、それを目の前の黒装束が許すかどうか……――――
だが操も、隠密御庭番衆のくノ一としての自負がある。
操は構えたクナイをぐっと握り締め――――
彼女の背後から、突然黒い影が飛び出したのはその時だった。
大柄な野犬のようなその影は一足飛びに黒装束に近づくと、そのまま一気に黒装束の懐に飛び込んだ。
操が驚く暇もあればこそ――――
「……ぐっ」
「……へ……?」
身体を二つ折りにして呻く黒装束の声に、操の間抜けな声が重なった。
思わず、クナイを構えたまま硬直する。
操も――そしておそらくは黒装束も、いったい何が起こったのかすぐには理解できなかっただろう。
倒れる黒装束の隣に立ち上がる、大型の野犬――いや、人影。
それは、操のよく知る人物だった。
ぱちくりと目を瞬かせる。
半ば呆けた声が漏れた。
「……奥野先生?」
人影の正体―――それは診療所にいるはずの奥野だった。
その奥野が今、なぜか操の目の前に立っている。
しかも、黒装束を見事に沈めると言うおまけまでつけて。
確かに、奥野が元々隠密御庭番衆だったと言うことは知っている――――だがもしかしなくても、今でも十分、現役で通じるのではないだろうか。
唐突な奥野の登場にしばらく呆然としていた操だったが、やがてはっと我に帰った。
「――って、あぁ! 薫さん!!」
慌てて、他の黒装束たちが走って行った方を振り返るが、すでにその姿は影も形も見えない。
どこかで曲がったのだろうが、その『どこか』が分からなければ、さすがの操も追いつくのは難しい。
「ずいぶん足が速いな」
「ちょ……! 先生!! 落ち着いてる場合じゃなくてっ!! 早く薫さんたちを助けないと……!!」
あまりにのんびりした奥野の言い様に、慌てて言い返す。
どうしてこんなに落ち着いていられるんだろう。薫たちが攫われたと言うのに。
しかし、奥野の態度は変わらない。
「今から追いかけても時間の無駄だよ」
「でも……っ!!」
もし、危害を加えられるようなことがあったら。
取り返しのつかないことになってしまったら。
焦る操に、奥野は医者の顔で柔らかく笑った。
「安心しなさい。すぐに殺すつもりなら連れ去ったりはしないよ。それに――――」
ちらりと、倒れたままの黒装束に視線を落とす。
「せっかくの情報源だからね。存分に吐いてもらおう」
「……」
奥野の瞳の奥がギラリと凶悪に光った気がしたのだが――操は懸命にも口を噤んだ。
→14話
◆14話◆
「……う……」
ズキズキと体中が痛む。
我慢できない程ひどい痛みではないが、無視するのは難しい――そんな痛み。
その痛みに、揺蕩っていた薫の意識がゆっくりと浮上する。
何度か目を瞬かせた瞳に映ったのは、傷んで所々剥がれてしまった木の床。
夜の闇の中、その荒れた様子が差し込んでくる月明かりに黒々と浮かび上がっている。
そんな場所に無造作に転がされていたら、そりゃあ、身体も痛くなって当たり前だ。
――と、薫はふと眉を寄せた。
どうしてこんな所で寝てるんだっけ。
なんでお布団ないの?
しかもすごく埃っぽいし、嫌だなぁ……
ぼんやりとした意識の中でツラツラと考えながら寝返りを打とうとした薫は、まったく思い通りにならない身体にハタと動きを止めた。
「……」
目を見開いて沈黙すること、およそ3秒。
「……っっ!!」
慌てて起き上がろうとしたが、結局、上半身が陸に打ち上げられた魚のようにびくんっと跳ねただけだった。
――両腕を後ろ手に縛られているのだから、当然と言えば当然である。
……そうだ。
少しずつ蘇る記憶に、薫の表情がだんだんと険しくなっていく。
自分は巴と一緒にいるところを襲われたのだ。首筋に手刀を落とされて、そして……――――
気を失う直前に見えた、倒れていく巴の姿を思い出して、薫の顔からさっと血の気が引く。
巴はどうしただろう。
おそらく一緒に捕まったはずだが――――
どうにか自由になる首を巡らせて、巴の姿を探す。
見つからなかったらどうしようかと思ったが、意外にあっさりと巴は見つかった。
少し離れた場所に同じように後ろ手に腕を縛られて床に横たわっている。
ほっとしたのもつかの間、ぴくりとも動かない巴の様子にぎくりと心臓がすくんだ。
すぐに気を失っているだけだと気が付いたが、胸のざわめきは治まらない。
夜の暗闇にぼんやりと浮かび上がる白い顔。小袖の白さも相まって、今にも巴が消えてしまいそうに見えた。
何より、どう考えても安心できる状況でない。
「……くっ」
不自由な身体でどうにか半身を起こし、薫は這いずるように巴に近づいた。
床に積もっていた埃に着物が黒く汚れる。
「巴さん、巴さん……っ」
何度か呼びかけると、きれいな稜線を描くまぶたが微かに震え、ゆっくりと持ち上げられた。
「……かおるさん……?」
密やかな声が、それでもはっきりと薫の名前を口にする。
「巴さん……よかったぁ……」
薫は泣きそうに顔を歪めた。
きっと無事なのだと分ってはいても、こうして声を聞くと、やはり安心する。
「巴さん、怪我とかしてないですか? あの、どこか痛いところは……」
安堵から矢継ぎ早に問いかける薫。巴は幾度か瞬きを繰り返すと、ぼんやりと周囲を見回した。
「……わたし……」
身体を身じろがせた巴は、薫と同じように後ろ手に拘束されていることに気づいたらしい。
ほぅ、と息を吐いて、ぱたりと力を抜いた。
「……捕まったんですね、私たち」
妙に落ち着いたその様子が気になったが、それよりも申し訳なさが胸を突いた。
「……ごめんなさい……」
零れ落ちる謝罪の言葉。
黒装束たちは『志々雄の僕』と名乗っていた。『抜刀斎と一緒にいた女』とも言っていた。
――彼らの狙いは、どう考えても薫だ。
巴はただ、偶然あの場所にいただけ。
まったく無関係な巴を、一緒にいたと言うだけで巻き込んでしまった。
そんな自分が不甲斐なくて、心底情けなくなる。
哀しそうに歪んだ薫の顔が月明かりの中に浮かび上がって、巴はそっと瞬いた。
薫は隠しているつもりかもしれないが、下から見上げる巴の目には、はっきりと映っていた。
事態はまったく呑み込めないが、薫がこうなった理由を知っているのは理解できた。それを彼女が悔やんでいると言う事も。
薫の様子に、いつか小萩屋で見た『彼』の姿が重なった。
自分がしでかしたことに――巴に刃を突きつけたことに、ひどく傷ついていた。まるで叱られた子供のようだと思ったことを覚えている。
……あの時、自分は彼にどう告げただろう。
「薫さん」
そっと名前を呼んだ。
「私は、大丈夫ですから」
はっと顔をあげた薫の瞳が、大きく見開かれる。
ついで、今にも泣き出しそうに歪んだかと思うと、ぎゅっと目が閉じられた。
巴の言葉に涙が零れそうになって、薫はきつく目を閉じた。
涙が零れないよう、腹にぐっと力を入れる。泣くのは後でもできる。
その代わり「巴さん」と噛みしめるように名前を呼んだ。
「巴さんは、絶対私が守りますから」
――暗がりの中、漆黒の瞳が激しく揺れたが、すでに前を見据えていた薫は気が付かなかった。
――そもそもここはどこだろう。
焦る心を深呼吸で落ち着かせ、薫は自分たちが転がされていた場所を見回した。
夜の暗闇が広がってはいるが、格子窓から降り注ぐ月明かりのおかげで、視界はあまり困らない。
広さはあまりなく、10人も入ればいっぱいになるくらいだろうか。
おそらくは先ほどの氏神と同じ、元は御堂なのだろう。けれど、かつては住人の信仰の対象だっただろう場所も、今は荒れ果ててその面影はほとんどない。
今、中には薫と巴の二人だけ――だが、御堂の外には明らかに複数の気配があった。
複数と言うか――多数。いったいどれほどいるのか、薫には分からない。剣心だったら分かっただろうか。
相手の数も分からない中、巴をつれて逃げる――かなり無謀だ。
助けが来るまで大人しくしておいた方がいいだろうか。けれどそれがいつになるか、想像もつかない。
何より、自分たちが捕らえられて監禁されていると言う事実を、誰も知らない可能性もある。
巴を見やる。黒い瞳が静かに薫を見つめた。
――自分は、彼女を守ると約束したのだ。
何もない――月明かりも届かない、部屋の隅の暗闇を見つめる。
やはり、どうにか脱出の手段を考えよう。助けがいつになるか分からない以上、じっと待つなどできない。
まずは縛っているこの縄をどうにかしなければ。試しにぐっと引っ張ってみるが、手首がギリギリと擦れただけだった。やはりそう簡単に解けるような縛り方はしていないらしい。
その時、不意に外の気配がざわりと揺れた。まるで波紋のように広がっていく緊張。
「……」
何が起こったのかは分からなかったが、半ば反射的に巴をかばうように自分の位置をずらした。
薫さん、と名前を呼ばれたが、応えずに御堂の入口を睨みつける。
息を詰めるような沈黙がどのくらい続いただろう。
睨みつける薫の目の前で、がたんっと観音開きの戸の片方が音を立てた。
唇を引き締め、薫は震えそうになる身体を叱咤する。
軋んだ音を立てて開く戸の間から流れ込んでくる、夜の湿った空気。そこに立つ、黒い影――黒装束だ。
「なんだ、目が覚めてたのか」
睨みつける薫を意に返すことなく、黒装束は言った。
手を縛られた女二人、恐れることなどないと思っているのだろう。
……そもそも、そんなこと思い付きもしないのだろうが。何より、それが事実であることが悔しい。
「起こす手間が省けたな」
薫に無造作に近づいてきた黒装束は「来い」と薫の二の腕を掴みあげた。
「……っ」
「薫さんっ」
「大丈夫だから!」
無理矢理ひっぱりあげられる痛みに、小さく呻いた薫は、けれど悲痛な巴の声を強く遮った。
背後で息を飲む巴を振り返り、安心させるように笑いかける。半ば強がりではあったけれど。
「私は大丈夫ですから、巴さんはここで待っていてください」
「分かってるじゃないか。大人しくしてればすぐに終わるさ」
ニヤニヤと笑う黒装束にぐいっと引っ張られて、精一杯身をよじる。
「乱暴にしないで。自分で歩けるわ」
――ついて行くからと言って、思い通りになるつもりはない。
ちっと黒装束が舌打ちをする。
それを無視して、薫はまっすぐに前を向いた。
御堂から出ると、おぼろだったはずの月は、いつの間にかはっきりとその姿を現していた。
その月明かりの下に照らし出された光景に息を飲む。
割れて所々めくれ上がった石畳と、散乱した鳥居の破片らしきもの。その荒れ様は、ここが予想通り打ち捨てられた神社であることを薫に教えた。
そしてそこに集まった、30人近い黒装束。
ごくりと喉が鳴る。
――まさか、こんなにいたなんて。
そして薫は、自分が連れ出された理由を知った。
黒装束の視線が向かう先――元々鳥居があったと思われる場所に、黒装束とは違う人影があった。
背後にある楠が、黒々とその人物に影を落とす。
月の下でも分かる赤い着物。小柄な体躯。珍しくかぶった編み笠の下から覗く、長い赤毛。
――あれは。
「剣心!!」
→15話
◆15話◆
――時間は少し遡る。
それは、薫と巴が御堂の中で気を失っていた頃の白べこでの出来事。
……遅すぎる。
白べこの2階。与えられた部屋で、剣心はざわつく胸中を持て余していた。
いつもは心を柔らかく落ちつけてくれる澄んだ風鈴の音色も、今はただ焦燥を駆り立てる。
――薫が、まだ戻ってこない。
彼女が出かけたのが、日暮れ前。
今はもう、白い月が空に昇ってからかなりの時間がすぎている。
階下の『牛鍋 白べこ』からは、客たちの騒がしい声が聞こえていた。
そこに――薫の声はない。いつもなら時折客を案内する薫の声が聞こえていたが、今日はまったく聞こえてこない。
普段はどんなに遅くても、白べこが忙しくなる夜の営業時間までには戻っていたのに。
――いったい、何があったのか。
嫌な予感が胸に広がる。
せめて少し落ち着こうと剣心が大きく息を吐き出した時、部屋の外が急に騒がしくなった。
軽快で大きな足音と、まだ軽い子供の足音。
二つの足音は部屋の前でぴたりと止まる。
「剣心、入るぜ」
「左之、弥彦」
顔を見せたのは、案の定、左之助と弥彦の二人。
弥彦はむっすりと眉を寄せ、左之助もいつもより真面目な顔つきをしている。
「どうした」
「いや、弥彦がよ」
「薫殿でござるか」
まだ戻って来ていないようだがと訊ねると、弥彦がうなずいた。
「薫のヤツ、いくらなんでも遅すぎだ。……絶対、道に迷ってるんだぜ、アイツ」
相変わらず素直になれない弥彦は、不機嫌に唇を尖らせる。
「俺の仕事もひと段落ついたし、薫のヤツを探して引っ張ってこようと思って」
「まだ遅いって時間でもねぇけどよ。あの真面目な嬢ちゃんが連絡もなく仕事ほっぽり出すとは思えねぇ。
何もなけりゃ、それでいいしな」
ガシガシと頭をかく左之助に、剣心は言った。
「拙者も行こう」
左之助の眉が軽く跳ね上がる。
「剣心、おめぇ、身体はいいのかよ」
「ああ、問題ないでござる。薫殿のことは拙者も気になっていた。それに探すなら人数が多い方がよかろう」
「そーいや、恵のヤツもまだなんだ。一緒に――――」
弥彦の声が途中で止まった。
腰を上げかけていた剣心の視線が、襖へと向けられたからだ。
その視線の厳しさに、左之助と弥彦の視線もそちらへと向かう。
直後、それを待っていたかのようにすらりと襖が開いた。
現れたのは長着姿の蒼紫と――隣にはなぜか恵の姿。珍しい組み合わせに三人は揃って目を丸くした。
「蒼紫、恵殿も……なぜここに」
恵はともかく、蒼紫が剣心の間借りしている部屋を訪れるなど、初めてではないだろうか。
驚きを胸中に押し込め、剣心は上げかけていた腰を下ろして姿勢を正す。ここに蒼紫が来ると言う事は、用があるのはどう考えても自分だ。
「翁から伝言がある」
静かに剣心の前に膝を折って座った蒼紫は、いつものごとく単刀直入に告げた。
「神谷薫のことだ」
剣心たちの間に緊張が走る。まさか、蒼紫の口から薫の名前を聞くことになるとは思わなかった。
蒼紫はやはり淡々とした口調で続けた。
「神谷薫が居合わせた市井の娘と一緒に、志々雄の残党に攫われた。一刻程前のことだ」
あまりに静かに告げられた言葉に、衝撃よりも戸惑いが先に来た。
ことの重大さが飲み込めたのは、数瞬後のこと。
「ちょ……ちょっと待ってよ! 薫が攫われた!? どーゆーこったよ!」
「そのままの意味だ」
我に帰って噛みつく弥彦に、蒼紫の冷静な声が返す。
思わず絶句する弥彦。
「……残党は、明治政府が追ってるんじゃなかったのかよ」
「まだ時間が浅い。すべて追い切れていないのが実情だろうな」
やはり冷静な蒼紫に、ちっと左之助が舌打ちをする。
「狙いは拙者でござるか」
蒼紫は感情の見えない視線を剣心に向けると「そうだ」と静かに頷いた。
「――落ち着け、抜刀斎」
刹那、逆刃刀を掴んで立ち上がろうとした剣心を、抑揚のない蒼紫の声が諌めた。
ぐ、と剣心の動きが止まる。
「実行犯の一人はすでにこちらで捕らえてある。聞き出した情報を元に翁をはじめ、御庭番衆も動いている。
――そもそも、お前はまだ闘える状態ではないだろう」
剣心は逆刃刀をきつく握りしめる。その通りだった。
蒼紫は「御庭番衆が動いている」と言った。
つまり、事態が発覚した後、ある程度の準備を整えてからここに来たと言う事だ。
――剣心を闘わせないために。
知っているはずの情報を、先程からロクに口にしないのもそのためだろう。
「剣さんは」
今まで黙っていた恵が口を開く。
その声色は固く、彼女が必死で感情を押し殺そうとしているのが分かった。
なぜ恵が蒼紫と一緒にいて事情を知っているのかは分からないが、彼女もこの現状に焦燥を感じているのだろう。
「私が止めました。まだ激しい動きができる状態ではありません。闘いの場に行くなどもっての外です」
「敵もそれを狙ったのだろうな」
――たとえ最強と言われていても、手負いの抜刀斎ならば倒せるだろうと。
ギリ、と膝の上で拳を握りしめる。
「……っ」
それを完全に否定できるほど、剣心は己の身体を過信していない。
生死の境をさまよった怪我から目覚めて一月足らず。外を歩く許可が出てからは、まだ数日。身体の調子がまだ完全に戻っていない自覚はある。蒼紫や恵の言う事は間違っていない。
「おい」
沈黙した剣心に代わり、不機嫌も露わに左之助が口を開いた。
「剣心はケガが治ってねぇってのはわかるが、何で俺たちには声かけなかった」
左之助は右手以外は回復しているし、弥彦はすでに全快している。
その自分たちになぜ声をかけなかったのか。のけ者にされているようで気に入らない。
「――お前たちは目立ちすぎる」
蒼紫の返答は予想外のモノだった。
「ああ?」
凶悪と言っても差し支えのない表情で、左之助が眉を跳ね上げる。
「敵の狙いは抜刀斎ただ一人。そこにお前たちのような目立つ人間が加われば、下手に刺激しかねん」
それでは人質である薫たちに危険が及ぶ可能性がある。
「……」
まったく否定ができず、左之助はむっすりと黙り込んだ。
苦りきったその表情には、反論したいができないと書いてある。
「抜刀斎」と、蒼紫は剣心に視線を戻した。
「……これは事前に手を打てなかったこちらの不手際でもある。
今回は御庭番衆に任せてほしいと翁から言伝を預かっている。俺も同意見だ」
そうして訪れた沈黙に、剣心がまぶたを伏せる。
風鈴の微かな音色。
階下から聞こえる客たちの喧騒がひどく遠い。
やがてまぶたを開けた剣心の瞳がまっすぐに蒼紫を見つめ、蒼紫は静かにその視線を受け止めた。
「……わかった」
「剣心!!」
納得がいかないと、弥彦が叫ぶ。
しかし剣心の視線は蒼紫を捉えたまま、そらされない。
「……お主が嘘を吐くとは思えん。ならば真実なのでござろう。何より、翁殿は約束を違えるお人ではござらん。さすれば、拙者たちは翁殿の言葉通り、大人しく待っておくべきなのであろうよ――――だが」
低く抑えられていた剣心の声が、打って変ったように鋭さを増す。
「それは日付が変わるまででござる。それを越えて薫殿が戻っていなかった時は、拙者も勝手に動かせてもらおう」
それは問いかけでも確認でもなく、決定事項を告げるだけのものだった。
この男にとって、それがギリギリの妥協点なのだろう。
ほんのわずか、蒼紫の口元が微かに持ち上がる。
「……承知した」
蒼紫の返答に、二人の間の空気がわずかに緩んだ。
その時、襖の外から微かに聞こえてきた擦るような足音に、部屋の中の視線が襖へと向かう。
「緋村はん」
廊下の前で止まった気配が剣心を呼んだ。白べこの看板娘である冴だ。
「今、大丈夫ですやろか」
「……ああ。かまわんでござるよ」
応えると同時、すらりと襖が開く。
顔を覗かせた冴は相変わらず東京の妙とそっくりで、ここが京都でなければ間違いなく妙と呼びそうだ。
冴は部屋の中に剣心以外の人間がいることに驚いたようだが、すぐ剣心に向かって三つ折りに畳まれた手紙を差し出した。
「お話し中、えろうすんまへんなぁ。これ、店の子が預かりましたんよ。ここにいる赤毛の剣客さんに渡してくれ言うて。緋村はんのことですやろ?」
剣心の瞳に一瞬緊張が走る。しかし彼はすぐにいつも通りに微笑むと手紙を受け取った。
「忝い、冴殿」
「いいえ。それじゃ、確かにお渡ししましたさかいに」
部屋の中を軽く見回した冴は、剣心に向かって軽く微笑みかけた。
「……」
無言で軽く頭を下げる剣心。
――冴の微笑みは、何もかも察している笑顔だ。そんなところまで妙によく似ている。
再び襖の閉められた部屋の中、遠ざかっていく冴の足音が聞こえなくなったのを確かめて、剣心は手紙を開いた。
その表情が厳しさを増す。
「抜刀斎」
名を呼ばれ、剣心は無言で蒼紫に手紙を差し出した。
同じように目を通し、蒼紫が小さく息を吐く。
「どうやら向こうも、予定より早く動くことにしたようだな」
好都合だと、無表情のまま蒼紫は言った。
「――剣心っ!!」
掴まれて不自由な体勢のまま、黒装束に囲まれる剣心に向かって薫は叫んだ。
誰かが来てくれればと思ったのは確かだ。けれどまさか、剣心が来るなんて。
だがそこにいるのは、どんなに目を凝らしても、赤い髪、赤い着物の見慣れた姿。
いつもの剣心なら、この圧倒的な数の差の中でも難なく闘うだろう。けれど、今はまだとても刀を握れる状態ではない。それなのに。
もし怪我をしたら……しかもそれが、また命にかかわるような怪我だったりしたら……――――
薫の声が聞こえていないはずはないのに、剣心は何も言わずに佇んだまま。
「ははっ」
薫がいる場所から少し離れた場所にいる黒装束が嘲るように笑った。
あれがこの黒装束たちの頭目だろうか。
「自分の女の為とは言え、よくも馬鹿正直に一人で来たもんだな。貴様がまだ満足に動けないのは分ってるんだ。今こそ、志々雄様の仇を取らせてもらおう」
仇を取ると言いながら、その実、卑怯としか言いようのないことを堂々と口にして嗤う様は、顔を顰めたくなるほど厭らしく、そして矮小な男に見えた。
剣心は何も言わない。相変わらず何の言葉も発しない。
そして。
「かかれ!! 抜刀斎を殺せ!!」
「剣心!!」
黒装束の勝ち誇ったような声と、薫の悲痛な声が重なった。
→16話
※………………うん?←
◆16話◆
――前にも同じようなことがあった。
あれは黒傘と言われた人斬り、鵜堂刃衛と剣心が闘った時。
薫は攫われ、剣心をおびき出すための餌にされた。
けれどあの時と違うのは、今回の黒装束たちの目的は剣心と闘うことではなく、ただ剣心を殺すつもりだけだと言うことだ。
きっと剣心がわずかでも反撃すれば、黒装束たちは薫を傷つけ、殺そうとする。
――剣心の動きを封じるために。そのための人質だ。
ギリギリと奥歯を噛みしめる。
どうして来たのかと、理不尽に罵ってしまいそうになる。
剣心にだけは来てほしくなかった。
痛いほどに脈打つ心臓。
細い糸が張りつめるように緊張が高まり、そして――――ぷつんっと言う音を薫は確かに聞いた。
黒装束たちが一斉に剣心に向かって襲い掛かる。
拘束されていることも忘れて、薫は身を乗り出した。
「――けん……っっ」
刹那、赤い影がひらりと高く飛び上がった。
その動きに、薫の、そして黒装束の視線が釘付けになり――――
「……っ!?」
薫の頭上から音もなく何かが降ってきたのは、その瞬間だった。
直後、薫を捕らえていた黒装束の身体がぐらりと傾く。
そのまま頭から地面に倒れるかに思われた黒装束は、いつのまにか背後にいた影になんなく受け止められていた。
それらすべてがあまりに一瞬の出来事で、薫には何が起こったかまったく理解できない。
弾かれるように背後を振り向いた薫は、大きく目を見開いた。
「白さん!?」
「ええ」
そこには、忍び装束でいつも通りの人のいい笑顔を浮かべる白の姿。
「何でここに……」
いるんですか、と言いかけて、はっと口をつぐむ。
衝撃のあまり現状を忘れていた。もし今のやり取りを黒装束たちに聞かれていたら。
しかし、黒装束たちは剣心に気を取られていて薫の様子にまったく気づいていない。
剣心は圧倒的な数の差をものともせず、相変わらず身軽な動きで黒装束たちを翻弄している。
ほっと胸を撫で下ろした薫の脳裏を、ふと疑問がかすめた。
――あれは、本当に剣心だろうか。
見た目と状況で剣心とばかり思っていたが、あれは――――
「あれはお嬢だよ」
……………………
「…………ふぇっ!?」
草笛を吹き損ねたみたいなおかしな声が出た。
思考がついて行かない。
今、白はなんと言った?
そう、確か『お嬢』と……
白がお嬢と呼ぶ相手と言えば、それは……――――
「操ちゃん!?」
その時、たんっと剣心らしき影が高々と地面を蹴った。そのまま、ひらりと背後にあった楠の枝に飛び上がる。
「……」
今ならはっきりと分かる。その動きは確かに剣心のものではなかった。
何度も見て来た剣心のものでは――――
気を失った黒装束を手早く縛り、薫を拘束する縄を切りながら心底楽しそうな声で種明かしをする白。
「……翁にちょっとの間誤魔化せればいいからって言われたんですよ。……上出来だな」
――剣心の特徴と言えば、小柄な体躯と赤い着物。そして赤く長い髪。まず目に付くのはそれだ。
逆にそれを真似てさえいれば、誤魔化すことはそれほど難しくはないと言うことでもある。
ましてや、今は夜。
いくら月が明るくても、色は暗く沈む。細かい判別もつきにくいはずだ。しかも思い込みは判断を鈍らせる。
剣心のことをよく知っているはずの薫ですらそうなのだから、よく知らない黒装束など覿面だろう。
「……ったく」
高い枝に難なく飛び乗った小柄な影が初めて口を開いた。
その声はどう聞いても甲高い少女のもの。間違っても成人した男の声には聞こえない。
黒装束たちの間に戸惑いに満ちたざわめきが広がっていく。
「この程度で騙されるとか、単純すぎ」
「キサマ……っ! 抜刀斎はどうした!!」
事態の理解できずに声を張り上げる黒装束に向かって、抜刀斎のニセモノ――操が馬鹿にしたように言った。
「あんたなんかに教えるわけないでしょ」
次の瞬間、黒装束の中から「ぎゃっ」と言う短い悲鳴があがった。
手から零れ落ちた短銃が、どさりと地面で音を立てる。
その右手と肩には、深々と突き刺さった数本のクナイ。投げたのは枝にいる操ではない。
その事実に、黒装束たちの間に動揺が漣のように広がる。
「言っとくけど」
操が腰にあった逆刃刀――実際は竹光だろう――を放り投げる。
次に顔を隠してあった編み笠。特徴的な三つ編みが現れると同時、代わりに赤いしっぽのようなつけ毛が編み笠と一緒にずるりと取れた。
最後にばさりと脱ぎ捨てた赤い着物の下は、薫もすっかり見慣れた忍び装束。
月明かりを背に、操は声を張り上げた。
「あたし、怒ってるんだからね!!」
「操ちゃ……っ」
「大丈夫ですよ」
枝から黒装束に向かって飛び降りた操を見て慌てる薫に、白が笑った。
「黒尉に増髪、近江女もいますからね、心配する必要はありません」
え、と驚いて白――白尉を振り返る。
では、葵屋の御庭番衆がここに集まっているのか。
目を凝らせば、黒装束の中に白尉が言ったように、確かに操以外の葵屋の面々が見える。
いったい今までどこに潜んでいたのだろう、さすが隠密と言ったところか。
混戦になっているためか、操もクナイではなく体術で闘っているようだった。黒尉はもちろんだが、増髪や近江女も体術らしい。
剣心や、たとえば蒼紫と言った圧倒的な強さではないが、彼らは確実に黒装束たちを沈めていた。
ぶつっと音をたてて、薫の手首を戒めていた縄が切り落とされる。
自由になった薫の手に、白尉は縄を切ったクナイを握らせた。
「薫さんは中にいる女性を頼みます。私もそろそろ行きますので」
「……わかりました」
強くうなずくと、白尉は満足そうに笑って踵を返した。
薫もまた、すぐに踵を返す。迷っているヒマはない。
いくら操たちが引きつけていると言っても、いつ黒装束たちがこちらに気づくか分からない。
念のため、白尉が縛った黒装束から刀の鞘だけを抜き取る。木刀とまではいかなくても、多少の代わりにはなるはずだ。
それをしっかり握り締めて、薫は先ほどまで閉じ込められていた御堂へと駆け出した。
「巴さん!」
扉を開け放って御堂に飛び込む。
「……よかった、薫さん、ご無事だったんですね……」
駆け寄った薫にそう告げた巴の表情は、変化そのものは乏しかったが、今にも泣き出しそうに見えた。
「仲間が来てくれたんです! 早くここから出ましょう」
巴の背後にまわり、白尉から預かったクナイで巴の手首を縛っている縄を断ち切る。
呆気ないほど簡単に外れた縄の下には、手首についた痛々しい縄の痕。
痛かったはずだ。それを思うと、ふつふつとした怒りが込み上げてくる。
けれど今は、怒りをぶつけている場合ではない。
早くここからでなければ……――――
「お前ら!!」
狭い御堂の中に響いた怒号に、薫は弾かれたように振り向く。
そこには――外の淡い月明かりを遮る、暗い影が立ちふさがっていた。
→17話
※実はこういうことでした!!
◆17話◆
――しまったっ!
巴を背に、薫は身体ごと声の方を振り返った。
開けっぱなしにしていた御堂の入口には、案の定、黒装束の姿。しかも一人ではない。三人もいる。
扉が開いているのを不審に思ったか、もしくは再度人質にでもしようとしていたか――どちらにしろ、間が悪すぎる。
せめて巴だけでも安全な所へ逃がしたいが、あいにく唯一の出口は黒装束たちの背後だ。
――見逃してくれるわけ……ないわよね。
手に持っていた鞘を握り締める。
念のためと抜き取った鞘だが、どうやら念のためでは終わらなそうだった。
「てめぇ、どうやって縄を……! ちくしょう、せっかく抜刀斎のヤツを殺せる機会だってのに……!!」
忌々しそうに吐き棄てる黒装束。
胸の内にフツフツと沸きあがる怒りを感じながら、それでも薫は無言を貫いた。
何を言っても火に油を注ぐだけだ。
もっとも、答えなかったところで結局は同じなのかもしれないが。
「くそっ、外のヤツラはお前の何なんだっ」
案の定、別の黒装束がイライラとした声を上げる。
それでも答えない薫に脅しのつもりなのか、黒装束の一人が刀を抜いた。
月明かりを白々と反射する刃に、薫は目を眇める。
目はそらさないまま、薫は揺るぎのない、はっきりとした声で告げた。
「悪いけど」
……幕末の頃。時代を切り開くために使われていた刀が、今はこんな脅しのために使われている。
そのことに怒りを覚えた。
「あなたたちに答える義理はないわ」
しっかりと鞘を握りしめ、その場に静かに立ち上がる。
鞘を木刀のように構え、ひたりと黒装束たちを見据える。
まっすぐに伸びた背中。構えられた鞘の先端はほんのわずかも揺るがない。
それは紛れもなく、一介の剣士の構えだ。
黒装束がわずかに怯む――が、それも一瞬。
すぐに黒装束たち三人は馬鹿にしたような笑い声をあげた。
したような、ではない。間違いなく馬鹿にされている。
彼らにとって自分など、ただのか弱い女でしかないのだ。それが粋がっている様子はさぞかし滑稽だろう。
「は、ははっ、抜刀斎の女はずいぶんと気が強いらしい。……ちょっとは痛い目を見ないと分らんようだ、なっ」
「薫さ……っ」
まるで遊びのついでのように振り上げられる刀。
巴の引きつったような声。
薫は目をそらさない。
――次の瞬間。
御堂の中に響いたのは、刀が落ちる派手な音と黒装束の悲鳴。
そして――右手首を押さえて蹲る黒装束の姿。
「……な!?」
残りの黒装束二人に、動揺が走る。
彼らにしてみれば、蹲り、怯えているのは薫だったはずだ。
そうでなければならなかった。
しかしいざ蓋を開けてみれば、仲間の方が蹲っているのだから、動揺するのは無理もない。きっと何が起きたのかすら理解できていないだろう。
「……こ、小娘……っ」
手首を押さえたまま、黒装束が呻く。
薫に向けられた視線には、明らかな憎悪。
刀を叩き落とした際に、もしかしたら手首の骨にひびくらいは入ったかもしれない。
それにはあえて視線を向けず、薫は静かに前を見据えた。
戸口にいた二人の黒装束が、気圧されたようにわずかに後ずさる。
――あたし、怒ってるんだからね。
先ほどの操の言葉が蘇る。
本当にその通りだ。黒装束たちの、卑怯を卑怯とも思ってもいないやり方に。
何より、不甲斐ない自分自身に。
低く抑えた声で薫は黒装束たちに告げた。
「……私、怒ってるのよ」
目の前で起こったことがよく理解できず、巴は幾度か目を瞬かせた。
――あっと言う間だった。
黒装束が刀を振りかぶったかと思うと、次の瞬間には右手を押さえて蹲っていた。
巴の目の前には、鞘を刀のように構える薫の姿。迷いのないその立ち姿は、剣術に明るくない巴にも彼女が素人でないと言う事が分かる。
「下がってください、巴さん」
いつも聞いていた年相応の薫の声よりも低く落ち着いた、抑揚に乏しい声。
「巴さんは、私が守りますから」
先ほども聞いた言葉だった。それはまるで、彼女の誓いのように。
その背を――その背中によく似た姿を、どこかで見たことがある気がして息を飲む。
あれは――そう、あれは。
今とは真逆の季節。
白く染まる息。
凍りつきそうに冷えた空気。
雪に覆われて色の消えた冬の森で、巴を守ろうとしてくれた人がいた。
あれは、どこだった?
あれは、誰だった?
あれは……――――
「なめるな小娘ぇっ!!」
記憶の中の幻が形を取ろうとした刹那、呆気に取られていた黒装束の一人が我に帰ったように叫び、刀を抜き放った。その顔は月明かりの中ですらはっきりと分かる程、歪んでいる。
しかし、薫は怯まない。
彼らが知っているかどうか知らないが、薫もそれなりに修羅場は経験している。
「舐めるな? それはこちらのセリフよ。女だからって舐めてると、痛い目を見るわよ」
「……この……っ」
怯える様子もなく言い放った薫に、黒装束たちの怒気が膨れ上がる。
それはそうだろう。見下していた相手から見下されたのだ。驚きが怒りに変わるのも無理はない。
このまま冷静さをかいてくれた方が、こちらとしてはやりやすいのだが。
少し離れた場所にある巴の気配に、薫は唇を引き締めた。
――必ず、守りますから。
再度、強く思う。
「……こ、の……っ」
ぎちぎちと黒装束の刀が揺れている。
怒りで刀を握る手に力が入りすぎているのだ。
「小娘ぇえええ!!」
単に怒りで我を失っているだけか、それともマシな言葉を持ち合わせていないのか――同じようなことを叫びながら振り下ろされた刀を、薫は迷うことなく鞘で受け止めた。
「……っ」
驚く黒装束を尻目に、受け止めた刃を難なく跳ね上げる。
力任せに振り下ろされただけの刀を受けるくらい、薫にはそう難しいことではない。
黒装束の実力はゴロツキよりは上のようだが、出稽古で世話になっている道場の師範や師範代には遠く及ばない。
油断はできない――が、実力は間違いなく自分の方が上だと、薫は目星をつける。
だが、こちらの武器は木刀ですらない刀の鞘。あちらは真剣。
正直、分が悪いのはこちらだ。
時間がたつ程こちらが不利になるのは目に見えていた。
ならば。
――たんっ、と。
刀を跳ね上げられ無防備になった黒装束の懐に、薫は躊躇なく飛び込んだ。
「……ぐぁっ!」
鞘の先端で、黒装束の鳩尾を容赦なく穿つ。
ならば――できるだけ早く決着を着ける。
くぐもったうめき声をあげて、その場にくずおれる黒装束。
――まずは一人。
「貴様ぁっ!!」
それを見ていた三人目が上ずった声で叫ぶ。
怒声と共に振り下ろされた刀には、明らかな焦りが見えた。
それを薫はなんなく躱し――――――
「薫さん!」
巴の声と、薫が身体をひねるように振り返ったのはどちらが早かったのか。
強く、床を踏み鳴らす音。
そして。
「……っ」
手に伝わる重い衝撃。
横薙ぎに振り下ろされた刀を、鞘がかろうじて受け止めていた。
刀を振るったのが、先ほどまで右手を押さえて蹲っていた黒装束だと気が付いたのは、一瞬後のこと。
薫の目の前で、向けられた刃が凶悪に煌く。
あとほんのわずかでも遅かったら、どうなっていたか。
「舐めるなよ、女。抜刀斎が来ないのであれば、お前など用はない。即殺してやる」
歯をむき出しにして嗤う黒装束の目が血走っている。
ギチギチと拮抗する力。
――薫が先ほど潰した右手は使えないのだろう。左手のみで握り締められた刀の力は、それほど強くはない。おそらく、このまま振り払うことも可能だ。
だが、今の薫の体勢で鞘を振り上げれば……――――
「ははっ」
直前に薫と対峙していた黒装束が勝ち誇ったように嗤う。
「そう言うことだ、小娘っ!」
動けない薫に向かって、黒装束は手にした刀を振り上げ――――
「うぉっ!?」
どんっとぶつかってきた影に、黒装束が体勢を崩す。
――その影は、今まで大人しくしていたはずの巴だった。
→つづく
イメージは薫ちゃん的には刃衛戦。巴さん的には辰巳戦。
◆18話◆
夜はすっかり更けていた。
白べこの営業時間も終わり、酔った客たちの声ももうまったく聞こえてこない――そんな時間。
店の裏手にある井戸端で、夜の闇にまぎれて弥彦は膝を抱えてうずくまっていた。
夏の生ぬるい空気が体にまとわりつく。
それがひどく不快で――しかし、その不快さをどうすることもできず、きつく目を閉じる。
「おい、弥彦」
「あんだよ」
ふいに頭上から聞き慣れた声が降り注いだ。左之助だ。
「おまえ、いつまでここにいる気だ。部屋に戻ったらどうでぇ」
弥彦は答えない。
左之助はガシガシと自分の頭をかいた。
「……ま、嬢ちゃんが心配だってのは分かるけどよ」
その口調があまりにいつも通りで、弥彦はイライラと左之助を睨みつけた。
どうして左之助は、こんなに落ち着いていられるのだろう。蒼紫が、先ほど薫が攫われたと告げに来た時は今にも噛みつかんばかりに目をつり上げていたのに、もうすっかりいつも通りではないか。
「左之助は」
「あん?」
「左之助は心配じゃねぇのかよ」
「ンなわけんぇだろ」
ぺしん、と頭をはたかれた。
「心配に決まってるさ。……だがな」
左之助はちらりと白べこの2階に目をやった。そこには剣心のいる部屋がある。
日付が変わるまで待つと、そう判断したのは剣心だ。
弥彦には心配ではないのかと問われたが、そんなわけはない。
ただ――すでに御庭番衆が動いていることの意味を、多少なりとも理解しているだけの話だ。……納得しているかと言われれば、それはまた別の話だが。
弥彦もそうなのだろう。理解しているから、ここに残っている。納得できないから、苛ついている。
そして何より、薫を助けに行けない――まだ思う通りに刀を振るうことのできない自分の体を、いちばん歯がゆく思っているのは剣心のはずだ。
――待つ時間は苦痛だ。焦燥ばかりが募る。
だからこそ「日付が変わるまで」と言う条件をつけたのだろう。
期限をつけて、そこまでは、と自分を抑えつけるために。
――それならば、と左之助は思う。
「ちょ、何すんだよ!!」
ワシワシと弥彦の頭を乱暴になで回す。
「ま、意地張ってここでいるのもいーけどよ。剣心が動くときは俺らも動く時だぜ」
「……っ、んなの分かってらぁ!」
「ははっ」
ぱしんっと手を払いのける弥彦の強気にひとしきり声を上げて笑い、左之助は高く夜空に浮かんだ月を見上げた。
白く、輝く月を。
ちりん――と、かすかな風に風鈴が涼やかな音を立てた。
明かりのない部屋の中を、月明かりがほの暗く浮かび上がらせる。
先程から微動だにせず、剣心は窓の隣に逆刃刀を抱え込むように座っていた。
その姿はまるで、黒い岩のようだ。
目を閉じて、深く自分の思考を沈める。
胸に渦巻く焦りを、ただひたすらに抑えつける。
蒼紫が白べこから姿を消したのには気づいていた。
それからどのくらいたっただろう。
今は翁を、蒼紫を――そして、薫を信じよう。
信じなければと思っている。
それでも。
ギリッと、剣心は逆刃刀を指が痛くなるほど強く握りしめた。
ああ――待つことがこれほどまでに苦痛だとは思わなかった。
薫の背後で、どんっと言う音が上がる。
「……なっ!?」
巴と言う思わぬ伏兵に不意を突かれ、なすすべもなく床の上に倒れ込む黒装束。
いくら女の力と言っても、体当たりなどされたらたまったものではない。
そしてそれは、薫と相対している黒装束も同じだった。
思いもよらない展開に、一瞬、薫から意識がそれる。
その一瞬――薫はわざと腕から力を抜いた。
拮抗している力の支点をほんの少しずらす。
上段から体重をかけるように刀を押しつけていた黒装束の体勢を崩すには、それだけで十分だった。
がくりと崩れる力の均衡。
「……っ!?」
たたらを踏む黒装束の脇をすり抜け、無防備になった首筋に薫は躊躇いなく鞘を振り下ろした。
今度こそあっけなく昏倒する黒装束。
これで二人目。
残るのは――――
「キサマぁっ! よくも……!」
巴に邪魔をされた黒装束が、怒りに顔を真っ赤にして声を張り上げる。
その手に握られた抜身の刀が巴に向けられるのを見て、薫は思わず叫んだ。
「巴さんっ!」
ふたりの間に割って入るのは間に合わない。
それなら――――
「んなっ!?」
今度は薫から体当たりをされて、またもや突き飛ばされる黒装束。
「このアマ……ッ」
悪態をついて立ち上がるが――遅い。
刀を構える時間すら与えず、伸び上がるように飛び込んだ薫の鞘尻が黒装束の顎先を見事に捕らえた。
どさりと言う音が響き――そして、御堂の中に静寂が訪れた。
「……」
巴が我に返った時、御堂の中で立っているのは薫だけになっていた。
黒装束たちは完全に昏倒していて、ぴくりとも動かない。
真剣にひるむことなく、鞘だけで黒装束に立ち向かった薫。
それはまるで、薄布を隔てた世界のように巴には思えた。
けれど、あの瞬間――薫が殺されてしまうと思った瞬間、体は勝手に動いていた。
あとはもう、無我夢中で。
「……薫さ……」
半ば無意識にその名前を口にする。
瞬間、薫ががばりと――音すらしそうな勢いで振り返った。
「巴さん!!!」
弾かれたように駆け寄って来た薫に、のけ反りそうな勢いでがっしと両肩を掴まれた。
月明かりですら分かる程青褪めた薫の顔は、今にも泣き出しそうだ。
「けがは! 怪我はないですか!?」
あまりに切羽詰まった薫の表情にとっさに声が出ない。
すると、薫は何か勘違いしたのか「もしかして怪我を!?」とさらに迫ってきた。
「いえ、あの……怪我は、ありませんので……」
「本当に!?」
「……ええ」
どうにかうなずく巴に、薫はそれでも信じられないらしい。
巴の上から下まで執拗に眺める。そしてようやく納得したのか、薫はずるずるとその場にへたり込んだ。
「あの、薫さん……」
その様子に、むしろ薫の方が怪我をしているのではないかと心配になる。
だいいち、闘ったのは薫の方だ。怪我をしていてもおかしくない。
その可能性に気づき、巴が薫をのぞき込もうとした瞬間。
「きゃ……っ」
まったくの不意打ちだった。
ぶつかるように抱きついてきた薫に、巴は小さく悲鳴を上げた。
「か、薫さ……っ」
抱きつかれる、などと言う経験は弟である縁にしかない。
どうしていいか分からず戸惑う巴をよそに、薫はますます腕に力を込めてくる。
その強さは、息苦しささえ感じる程。
「かお……っ」
「……ったぁ……っ」
――耳元で小さく声がした。
不思議に思って、どうにか首をひねって薫の横顔を見やる。
その時になってようやく、巴は薫の身体が小刻みに震えていることに気がついた。
すんっと鼻をすすりあげる音。
……泣いている。
薫が、泣いている。
「よか……っ、よかったぁ……」
そうして、何度も繰り返される「よかった」。
ああ――――と、巴は目を細めた。
抜身の刀を持った男たちに一歩も引かない程気丈でありながら、こんな弱さもあるのだ。薫は。
胸の奥から、何かがわき上がってくる。
抱きついてくる彼女の背に、巴はそっと腕を回した。
ふと、弟の縁のことが頭をよぎった。
基本的に気の強い弟ではあったけれど、時にはこんな風にすがりつくように抱きついてきたこともあった。
そんな弟を慰め、元気づけるのは、姉である自分の役目だった。
先ほど、黒装束たちと闘っていたとは思えないほど華奢な背中を、とんとん、と優しくたたく。
「大丈夫。私は、大丈夫ですから」
大丈夫。大丈夫――――
そう繰り返しながら、巴はそっと目を閉じた。
あたたかな薫の体温に、ほっと息をつく。
その時になってようやく、巴は自分たちが助かったのだと言う事を実感した。
安堵が胸に満ちる。
それと同時に、自分の声がだんだんと遠くなっていくのを感じた。
落ちていく意識の底で願う。
どうか薫の涙が、早く止まりますように。
どうか薫が、いつものように笑ってくれますように……――――
→19話
◆19話◆
「どうやら終わったようだな」
参道から続く林の中からことの成り行きを見守っていた翁は、背後から掛けられた声に振り向かないままうなずいた。
「ああ。もうあらかた片はついておる」
その言葉通り、境内は黒装束たちのうめき声で満ちていた。
倒れ伏す黒装束たちを白尉と黒尉が手早く縛っていく。
数は多かったが、個々の実力がそれほどでもなかったのは幸いだった。もっともその場合は、こちらもそれなりの対処はする手はずになってはいたが。
「わざわざ足を運んでもらったのに、すまんな、蒼紫」
翁は声の主を振り返った。
夜の林の中から隠密御庭番衆の装束を身に纏った蒼紫が姿を現す。
その姿の蒼紫は本当に久々で、翁は少しだけ目を見開いた。
――きっと蒼紫なりのけじめなのだろう。
「かまわん」
答える蒼紫の声は、相変わらず簡潔だ。
「残党狩りを担当している政府機関には、すでに連絡を入れてある。今夜の内にこの件は処理されるだろう」
「それがええ。何しろワシらは善良な一般市民じゃからの」
聞く人間が聞けば何をふざけたことを、と言われそうなセリフを口にしつつ、翁は満足そうにうなずいた。
しかし、再度口を開いた時、その顔から先ほどまでの笑みは消えていた。
「……緋村君たちはどうかね」
「一応の理解は得られた。今は白べこにいる」
「そうか」
ふ、と翁は息を吐き出した。
彼にしては珍しい、安堵の吐息だった。
だが――――
「巴さん!!」
御堂の中から聞こえてきた悲鳴にも似た声に、翁の表情が一瞬にして険しくなる。
その声は紛れもなく――――
「神谷薫か」
蒼紫の視線は、すでに御堂へと向けられていた。
「蒼紫」
「ああ」
林の中から御堂の入口へと回り込む。
死角から中を伺うが、中からは薫の声が聞こえてくるだけだ。
それ以外動く気配がないことを確かめ、二人は御堂の中へと足を踏み入れた。
御堂の中は、格子窓から差し込む月明かりで意外な程明るかった。
まず目に飛び込んできたのは、ぺたりと座り込んだ薫の姿だった。ぐったりと力の抜けた巴を抱えて何度も呼びかけている。
そしてその周囲には昏倒した三人の黒装束の姿。
状況からして、黒装束を倒したのは薫だろう。
蒼紫は軽く目を見張った。多少話は聞いていたが、思っていた以上に薫の実力が高いことを知り、少し驚く。
しかし大の男を三人も倒したはずの薫は、今はただの小娘のように泣きじゃくるばかりだ。
「薫君」
翁が呼びかけると、薫がはじかれたように振り返った。
大きな瞳がさらに大きく見開かれる。
見知った顔が現れたことに安心したのだろう。ただでさえ涙でグシャグシャな顔をさらに崩して、薫はえぐえぐと子供のようにしゃくりあげた。
「お、翁、さ……っ、巴さんっ、巴さんがっ、目を、さまさなくて……っ」
薫の膝の上にぐったりと横たわった巴は、呼吸はしているようだが、ぴくりとも動かない。
瞳は深く閉ざされ、今にも消えてしまいそうな儚さは、薫が心配するのも無理はなかった。
「ふむ」
翁は二人の隣に腰を落とし、巴の手をとった。手首に指を当てて脈を測る。
「……大丈夫じゃよ、薫君。脈は正常じゃ。心配することはない」
「ほん、ほんとっ、ですかっ」
「ああ」
翁の太鼓判に、崩れ落ちるように薫の肩から力が抜けた。
「よかった、よかったぁ、巴さん……っ」
「恐らく、気が抜けたんじゃろう」
再びボロボロと泣き出す薫の背中を翁の手が何度も優しく叩いた。
「よくがんばったのう、薫君。本当によくがんばった。巴君は奥野診療所に運ぼう。――蒼紫」
蒼紫が小さく首を縦に振る。
自分の膝の上から蒼紫が巴の体を軽々と抱き上げるのを見て、薫は慌てて立ちあがった。
「あのっ、私も一緒に……!」
巴を巻き込んだのは自分だ。せめて巴が目覚めるまで傍についていたかった。
しかし翁は穏やかに笑い、
「君は白べこに帰りなさい」
「でも」
「……抜刀斎がずいぶんと心配していた」
そう言ったのは蒼紫だ。
思いがけない声に、薫は驚いて蒼紫を振り仰ぐ。
静かな彼の視線は、感情がよくわからない。
けれどその声は、確かに柔らかかった。
「え……」
「早く戻って安心させてやることだ」
思いがけない相手からの言葉に戸惑う薫の肩に、翁が静かに手を置いた。
「蒼紫の言う通りじゃ。君は操や増髪たちと先に戻りなさい」
それがよかろうと、翁は好好爺の顔で薫に向かって微笑んだ。
――ちなみに、巴を抱き上げた蒼紫の姿を見た操が、衝撃を受けてしばらく落ち込んでいたと言うのは……また別の話。
日付が変わるまで、あと少し。
先触れに訪れた近江女にもうすぐ薫が戻ってくると聞かされた剣心は、暖簾を下ろした白べこの前で薫の姿が見えるのを今か今かと待っていた。
左之助や弥彦はもちろん、恵や白べこの冴もいる。
近江女が言うには、巻き込まれた女性も無事と言うことらしい。
彼女が件の「ともえ」と言う女性だったと言う事に、剣心は少なからず衝撃を受けた。
皮肉なことだと思う。
けれど――その人が無事で本当によかった。身勝手な話だが、少し救われた気がした。
そして何より。
「……薫殿」
ぼんやりとした月明かりに浮かぶ影を認めて、剣心は小さく呟いた。
こちらに向かって歩いてくる三つの影。
あれは増髪と操と――間違いなく薫だ。
ぎゅうっと心臓が引き絞られ、息が苦しい。泣きたくなるほどの安堵が胸にわき上がる。
隣の恵がほっと小さく息をつくのが聞こえた。
「どうやら――怪我をしている様子はなさそうですわね」
それが自分に向けられて言葉だと気づき、剣心は無言で首を縦に振った。
何か言おうとしても、うまく言葉が出ない。
「薫!」
あと少しの距離を待ちきれなかったのか、弥彦が薫の名前を叫んで飛び出す。
「弥彦」
と、薫の声がした。
変わらない、薫の声。
「おまえなぁっ!! 何やってんだよ! どんだけ心配したと思ってんだ!!」
「うん、ごめんね、弥彦」
弥彦の怒声に、薫が柔らかく返す。
隣で「ははっ」と左之助が笑った。
「あれだけ嬢ちゃんのこと心配してたってのに、素直じゃねぇなぁ、弥彦のヤツ」
それは本当にそう思う。剣心の口元に思わず苦笑が浮かんだ。
薫もそれは気づいているのだろう、弥彦の文句を先ほどから静かに聞いている。
なんだかんだと、あの二人はいい師弟だと思う。
その時、隣にいる操が何か言ったらしく、弥彦が何やら大声で言い返した。
今は真夜中と言うことを、完全に忘れてしまっているようだ。近所に響いてなければいいのだが……無理かもしれない。
その様子に、くくっとひとしきり喉を鳴らした左之助は、
「よし、俺もいっちょ行って来るか!」
「おろ」
すれ違いざまにばしんっと背中を叩かれて、剣心は思わずよろけた。
発破を掛けられているのだろうが、ちょっと強くし過ぎだ。背中が痛い。
しかし剣心が文句を言うよりも早く、大股で薫に近寄った左之助が、いつも通りの気安さでぽんぽんと薫の頭を叩くのが見えた。
その様子はまるで仲のいい兄妹のようで、思わず目を細める。
ふと、増髪が薫に何か耳打ちをするのが見えた。薫はこちらに視線を向けたが、すぐにほんの少し恥ずかしそうに顔を俯けた。
弥彦が呆れた顔をして、左之助がにやにやと笑う。
……一体増髪は何を吹き込んだのだろう。
「おら、行って来いよ、嬢ちゃん」
左之助がとんっと薫の背中を押されて――薫が小さくたたらを踏む。
戸惑うように左之助たちを振り返るが、にやにやと笑う相手に諦めたらしい。
いつもに比べて緩い歩調で近づいて来る薫を、剣心は目をそらさずに見つめた。
そして。
3歩ほどの間をあけて、薫が立ち止まる。
手を伸ばしても、微妙に届かない距離。
「あの、えっと……」
いつもの元気のよさがどうしたことか、手を組んだり解いたりを繰り返す薫。
そんな薫の様子に、剣心も何を言ったらいいのか分からなくなる。
何か言わなければと思うし、言いたいこともある。しかし、そのどれもがしっくりこない。
すまないと謝るか、左之助たちのように心配したのだと言うべきか。
でも、それよりも今、自分がいちばん言いたいのは……――――
剣心はふと息を吐くと、薫に向かって微笑んだ。
「……おかえり、薫殿」
驚いたように薫が目を瞬かせる。
だが、その表情が満面の笑顔に変わるまで、時間はそれほどかからなかった。
「うん。ただいま、剣心」
→20話
※巴さんをお姫様抱っこする蒼紫が、なぜかどーしても書きたかったんです……美男美女!!!!
20話以降はこちら↓
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