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桜鬼ーはなおにー 1話

全体公開 14752文字
2021-07-03 20:45:39

星霜編ベースの剣薫転生現パロ。
大学入学のために上京した剣心は、ひとりの不思議な少女と出会います。
※死を匂わせる描写があります。
※web再録は本編のみの予定です。ご了承ください。

Posted by @tachik_k

 ――静かに眠るその顔に、ぽたりぽたりと水滴が落ちる。
 大好きな夕日色の髪は、記憶にあるより少しくすんでしまったかもしれない。
 ねぇ。
 その髪を指先でゆっくりと梳きながら、私はそっと語りかける。
 私、ずっとあなたに聞きたいことがあったの。
 あなたは……――――






 小さな女の子が泣いている。
 幼い体をめいっぱい使って、全身で寂しいと泣き叫んでいる。
 土手沿いに並んだ、桜並木の下。
 冬の寒い時期、桜はまだ固いつぼみのままで。
 葉っぱの一枚すらない丸裸の桜は、とても寂しそうに見えた。

 あの時、俺は女の子になんと声をかけただろう。


*   *   *


 ゆっくりと瞬きを繰り返す。
 頭が動き出すまで、しばらく時間がかかった。
 目の前に広がる白いシーツ。そこに投げ出された自分の腕を、じっと見つめた。
 薄暗い部屋の中は、まだ太陽が昇りきっていない証拠だ。
 ごろりと寝返りを打った剣心は、腹の底から長く息を吐き出した。
 見慣れない木張りの天井は、節が複雑な文様を描いている。
 もう一度、息を吐いた。
 暦の上では春とは言え、まだ二月。
 暖房の切れた部屋は、少しだけ寒い。

 ――ずいぶん、懐かしい夢を見た。

 あれは、何年前のことだっただろうか。
 確か、大師範の葬儀の時だったから、自分が中学にあがった年で――――くつりと、小さく喉が鳴る。
 ずいぶん昔に感じたが、たかだか五年前のことじゃないか。
「やっぱり、あの桜並木を見たからかな」
 軽く気合いを入れて上半身を起こす。
 まだもう少し寝ていたいが、早く起きないと朝稽古に遅れてしまう。
 昨日、道場主で家主の神谷からは、疲れているだろうからゆっくりしなさいと言われていたが、初日だからこそ顔を出したい。
 カーテンを開けると、窓は開けていないにも関わらず、たまっていた冷気が体を包んだ。
 刺すような空気は、ぼんやりとした頭を一気に覚醒させる。
 思った通り、外はまだ薄暗いままだった。うっすらと明るくなり始めた東の空が、冬の遅い朝の到来を告げている。
 少し視線を横にずらせば、古い土壁の塀と、その向こうの土手沿いにある桜並木。
 春になればすばらしい景色を見せるだろうそこは、今は冬の寒さに縮こまったままだ。
 それは夢の中に出てきた、そのままの光景。
 見慣れていないはずなのに、どこか懐かしい景色。
 剣心は目を細めた。

 東京の、下町。
 今日から、彼が暮らす場所。



「おはようございます、師範」
 道着に着替えて敷地内にある道場に向かう。
 中ではすでに、師範である神谷が竹刀を手に素振り稽古を行っている最中だった。
 ……さすがに、神谷はずいぶんと早い。
 明日はもっと早く起きようと、密かに誓う。
 現れた剣心に、彼はにこりと笑い、
「ああ、おはよう」
 確か、もう六十に手が届くはずだが、とてもそうは見えない。
 黒々とした髪、しわも年齢の割にほぼ見当たらない。なにより、剣道を続けて鍛えられた体はとても若々しい。
 彼がここ――明治の初期から続いている剣術道場の八代目だか、九代目だかの道場主で、剣心が昨日から下宿している神谷家の主だ。
「ずいぶん早いね。疲れているだろうから、ゆっくり寝ていてもよかったのに」
「下宿の身が、師範を差し置いてそれはできないですよ」
 眉を寄せる剣心に、神谷はそうか? と、声をたてて笑った。



 大学入学を控えて東京で暮らすことになり、住む場所をどうするか考えた時に剣心が思い出したのが、この神谷道場だった。
 バイトはするつもりだが、仕送りもたかがしれているし、東京で一人暮らしをするのは学生には少々きつい。
 ダメで元々と、亡くなった祖父の旧知で、剣術道場を営む神谷に相談したところ、あっさりと許可が出た。
 神谷曰く、数こそ多くはないが、門下生が短期で下宿することもあるため、部屋数は多くしてあるそうだ。もちろん家賃は当然発生するし、道場の手伝いをすると言う条件もあるが、それでも、まったくの一人暮らしよりよほど楽だ。
 なにより、知らない相手ではない、と言うのが剣心の背中を押した。
 神谷の亡父が剣心の祖父の兄弟子にあたり、神谷自身にも、剣心は何度か会ったことがある。祖父から、何代か前――明治くらいらしい――は、親戚だったと言う話も聞いていた。
 もっとも、剣心がこの道場を訪れたのは五年ぶり――以前の道場主だった、神谷の父親の葬儀の際につれてきてもらって以来だ。
 剣心自身、小さな頃から剣道になじんできた。
 だから、だろうか。
 初めて入るにも関わらず、この道場の空気はひどく懐かしい気がする。
 爽やかな木の匂い。
 ぴんっと張って、緊張をはらんだ空気。
 ――知らないはずなのに、知っている気配。
 それが、剣心の胸を満たしていく。
「君の父君からは、かなりの腕だと言うことは聞いているよ」
「ありがとうございます」
 必要以上に謙遜するわけでもなく、剣心は素直に頭をさげた。
 高校総体では、全国大会で決勝に進んだくらいの腕はある。
 自分の実力を客観的に把握することは大切なことなのだと、祖父や、やはり剣道家の父からはいつも言われていた。
「さて、剣心くん」
 神谷は傍らに置いてあった面と手ぬぐいをとった。
「せっかくだ。君の実力がどれほどのものか、手合わせを願いたいが、どうかな」
 そう言って笑う顔は、どこかいたずらっ子のようだ。
 確か神谷は、剣道に従事している人々の中で、一パーセントしかいないと言われる八段の持ち主のはずだ。
 初日からなかなかハードな練習だなと、剣心は苦笑した。
 うなずく。
「俺でよければ」



 そんな風にはじまった、下宿二日目。
 朝稽古のあとは、そのままになっていた荷物を片づけて、軽く部屋の掃除をするだけで、半日が過ぎてしまった。
 そうして、昼からは必要なものの買い出しをして……――――
 神谷はこちらで揃えると言ってくれたが、さすがにそれに甘えるわけにもいかない。
 あれやこれやと買い物をしているうちに、すっかり太陽が傾いていた。
 すでに立春はすぎたとは言え、二月はやはりまだ日暮れが早い。
 夕焼け色に染まる空を眺めながら、道場の裏門へと続く土手沿いを歩く。
 このあたりは、江戸やら明治やらの雰囲気を残している場所らしい。
 神谷道場を取り囲む塀の一部に至っては、修繕を繰り返しているとは言え、江戸時代からあるのだと神谷が言っていた。
 道場そのものは戦後に建て直されたらしいが、歴史のある道場には違いない。
 そうして――この、桜並木もそうだ。
 十本ほどの桜が、道に沿ってフェンス越しに植えられている。
 すぐ隣は小さな川が流れていて、その土手に張り出すように桜は枝を伸ばしていた。
 まだまだ寒いこの季節、桜が花を咲かせる気配はないが、桜の季節は本当にきれいだろう。
 そういえば――あの女の子にあったのも、この桜並木だった。
 夢の中に出てきた、懐かしい女の子。
 ひときわ立派な桜の下で、小さな肩を震わせて泣いていた。
 五年前が三歳くらいだったから、今は八歳――小学校二年生。
 伸びかけた髪を、けっこう無理矢理ポニーテールにしていたな、と思い出す。あの髪は、まだポニーテールのままだろうか。
 吐息のように、剣心は笑った。
 今日はやけにあの子のことを思い出す。たぶん、あんな夢を見たからだ。
 大師範の葬儀に来ていたと言うことは、この道場の関係者なのかもしれない。いつかまた逢えるだろうか。
 もっとも、会った時にあの時の少女だと気づくとは限らないけれど。
 そんなことを考えながら、まだ固いつぼみのままの桜並木を歩く。
 夕暮れの太陽が、町を燃えるようなオレンジに染めていた。
 桜や川面も同じ色に染まっている。
 まるで、知らない世界に迷い込んだような……――――

……?」

 何かが視界の端に映った気がして、剣心は足を止めた。
 視界と言うか――意識の端に引っかかるモノ。
 無意識に違和感の正体を探そうと巡らせた視線が、一点で止まった。
 桜の枝が張りだした、フェンス越しに見える土手の中。
 まだつぼみのままの桜の枝に隠れるように、見慣れない少女がいた。
 今時珍しいくらいの艶やかな黒髪を、後頭部の高い位置でまとめてポニーテールにしている。その髪を飾る藍色のリボンと一緒に、黒髪が風にさらさらと流れる様子に、思わず目を奪われた。
 そして、着ているものは、こちらも珍しいと言わざるを得ない、きっちりとした和服。
 ぴん、と背筋を伸ばした後ろ姿は、何かしらの武道をしているもののそれだ。
 顔が見えないので正確にはわからないが、年齢はたぶん、自分と同じくらい。
 何か――誰かを、待っているのだろうか。
 特にそわそわしている様子でもないのに、そんなことを思う。
 彼女の視線の先には、遠く沈んでいく夕日。
 大きな緋色の太陽が、建物の陰に半分以上その姿を隠している。
 やがて完全に沈みきった夕日に、その後ろ姿がほう、と肩を落とした。
 ――やはり、誰かを待っていたのか。
 そう、剣心が思った直後――ふいに彼女が振り返った。
 ふわりと黒髪が舞う。
 かいま見えた横顔は、ひどく憂いを帯びていて。

 ――瞬間、沸き上がった衝動は、自分でも驚くようなもの。

 彼女の、笑顔が見たい。



「あ……あー……
 どうやら、自分は彼女に見とれていたらしい。
 そう気が付いたのは、彼女の姿が見えなくなったあとのこと。
 なんとなく顔が熱い気がする。
 剣心は口元を押さえた。
 ……一体なにを考えてるんだか。
 名前も知らないどころか、まともに顔を合わせたいこともない――それ以前に、横顔しかしらない相手の笑顔を見たいだなんて。
 けれど、彼女には――あんな憂い顔ではなくて、笑顔が似合うと思った。きっと、とてもかわいいに違いない。
 今度は額を押さえる。
 誰もいないにも関わらずなんだか誰かに見られているようで、顔がますます熱くなっていくのを止められない。
……帰ろう」
 誤魔化すようにつぶやいて、剣心は桜並木に背を向けた。
 
 ――後から考えると、文句のつけようもなく、一目惚れたったのだと思う。



 その翌日も、そのまた翌日も。
 気が付けば、桜並木の下に彼女の姿を探す自分がいた。
 しかし、どんなに探しても彼女の姿はどこにもなく、その度に落胆を繰り返す。
 どうしてこんなに必死になっているのか理由が分らずに、ものすごく居心地が悪い。
 その日も、気が付けばいつの間にか彼女の姿を探していた。
 少し、思いつめすぎかもしれない。
 何しろ今朝など、とうとう神谷に彼女のことを口にしかけた。……どう尋ねたらいいか分らずに、結局ごまかしたけれど。
 あの日、彼女を見かけた土手に降りて、ベンチに腰掛ける。
 肌寒さのせいか、土手には誰の姿もなかった。
 見上げた空では、真っ赤な太陽が建物の間に沈んでいこうとしているところだった。
 にじむような朱色の空が、昼の名残の青空にとけ込んでいる。
 そう言えば、彼女を見かけた日も、真っ赤な夕陽が空を染めていた。
 くしゃりと髪をかきあげる。
「何してるんだ、俺は……
 別に、探そうと思っている訳じゃない。
 ただ何となく――本当に何となく、視線がいってしまうだけで……――――
……
 顔が、熱い。
 何に対して自分は言い訳をしているんだろう。
 彼女を見かけてから数日、そんな言い訳ばかりを繰り返している。
 もう認めるべきだ。
 理由とか理屈とか関係なく、彼女に会いたい。
 目を閉じる。
 刹那――脳裏を桜色の面影がよぎった。
 もう、何度も思い出した横顔。

 ――逢いたくて。
 ただ、君に逢いたくて。
 春。
 薄桃色の花弁が視界を覆いつくして。
 君の白い腕が……――――――

……大丈夫?」

 ぱちん、と意識がはじけた。
 勢いよく顔を上げる。
 ほんのわずかな距離をおいて、見慣れない顔が――いや、忘れられない顔が、剣心を心配そうにのぞき込んでいた。





「え……
 思わず間抜けな声が漏れた。
 自分の目が信じられない。
 目を開けたら、そこに会いたかった彼女がいるなんて、そんな都合のいいことがそうそうあるはずがない。
 だが、どんなに瞬きを繰り返しても、目の前の少女は消えたりしなかった。
 マジマジと彼女を見る――見てしまう。
 リボンでひとまとめにされた艶やかな長い黒髪。
 あの日と同じきれいに着付けされた着物。
 夕焼けにほんのり染まった白いうなじから目が離せない。
「大丈夫?」
 もう一度同じことを尋ねられ、剣心は我に返った。
 かぁっと、顔に血が昇る。
「あ、いや」
 慌てて立ち上がろうとして、それもおかしいかとベンチに座り直す。他人から見れば、明らかに挙動不審だ。
 そもそも、初対面の人間をじっと見つめ続けるとか、どうなのか。失礼すぎるだろう。
 穴があったら入りたいと思ったが、そもそも穴などどこにもない。
 内心の動揺を押し隠して、剣心は無理矢理笑顔を浮かべた。多少ひきつっていたかもしれないが、今はそこまで気にする余裕がない。
……大丈夫。心配してくれてありがとう」
「そう? それなら、いいんだけど」
 にこりと微笑む彼女に、目が釘付けになる。
 安心した、と素直に顔に出す彼女の笑顔は、間違いなくかわいかった。
「あの――よくここに来るの?」
 口にしてから、しまった、と思った。いくらなんでも、いきなり聞くような内容ではない。
 ほとんどナンパだ。
 もうツークッション……せめてワンクッションくらい置くべきだったと思っても、一度口にしたものは取り消せない。
 それに、取り繕ったところで、結局は同じなのだろうとも思う。
 何より、ここで言わないと、次はもう会えないかもしれないと言う焦りが、剣心を急かした。
 だって、もうずっと――ずっと探していたのだ。
 それでもどうにも気恥ずかしくて、彼女の藍色の瞳から逃れるように視線を彷徨わせる。
「えぇっと……三日前くらい前もここにいたから……
 藍色の瞳が剣心を見つめて、ほろりと笑った。
……人を待ってたから」
 やはり、と納得すると同時に、胸のどこかがずきりと痛んだ。
 初めて彼女を見かけたときの、寂しそうな横顔がよみがえる。彼女の待ち人は、彼女にあんな顔をさせてしまう相手なのだ。
……そっか」
 返す声が、自分でもわかるくらいに沈んでいた。
 どれだけショックを受けているのかと、自分でもおかしかった。
「でもね」
 と、彼女が続けた。
「逢えるかどうかわからなくて。約束をしてたわけでもないし。私が一方的に待ってるだけだから……
 胸が、再び鈍い痛みを訴える。
 先ほどのショックとはまた違う、胸の痛み。
 そんな風に、無理に笑わないでほしい。
 無理に、笑わなくてもいいから――だから。

「また、逢えないかな」

 やはり、それは衝動だった。
 不思議そうに見上げてくる彼女に、剣心は顎を引いた。
 自分でも、自分の衝動が信じられない。
 けれど今は、その衝動を抑える気にはなれなかった。
「君はこの辺りに住んでるの? あ、いや。住んでるところを教えてほしいとか、そういうわけじゃなくて、俺、つい最近ここに住み始めたから、まだこのあたりのこと全然知らなくて。……えーと……もしよかったら……あの、この辺りのことを教えてもらえると、その、ありがたいと、言うか……
 勢いのまま口にした言葉は、しかしどんどん勢いを失って、最後はしりすぼみのお手本のようになってしまった。
 そしてついには、沈黙が訪れる。
 ……きょとん、と見上げてくる彼女の視線が、痛い。
 これはない。いくらなんでも、これはない。
 友人からは口八丁とよく言われるが、どうやら、肝心なところではまったく機能してくれないらしい。
 絶対変なヤツだと思われてる。
 ぜったい、思われてる……!!
 不思議そうな視線に耐えきれず、剣心はとうとう目をそらし――ぼわ、と彼女の頬が赤く染まった。
「え」
 予想外すぎる反応に、剣心の口から間の抜けた声が漏れる。
 えぇっと……もしかして、照れてる……
「あ、その……っ」
 赤く染まった頬を隠すように俯く彼女。ポニーテールがぴょこんっと跳ねた。
……ご、ごめんなさい……っ! なんか告白されてるみたいって……その、思っちゃって……えっと……
「こく……っ!?」
 絶句。
 自分の先ほどの言葉を慌てて反芻し、剣心は頭を抱えたくなった。
 確かにあれは――どう考えても告白だ。
 初対面の女の子に何やってるんだ、自分は。
 過去の自分の言動を反省したところで時間が戻るわけでもなく――結局、それ以上は何も言えずに、二人そろって顔を赤くしてうつむいた。
 それはきっと、夕陽のせいだけではなく――――
 ああ――居たたまれない。
 これはもう、次がないのは確実だ。
 そう確信し、剣心はますます顔をうつむけた――が。
……ここで、よかったら」
……へ?」
 一瞬、何を言われているか分らなかった。
 ……今、彼女は何と言った?
 顔をうつむけたままの彼女を見る。
 耳が先まで真っ赤で、まるでイチゴのようだ。
 白い手が、ぎゅうっと着物を握りしめる。
「だから!!」
 次の瞬間、勢いよく――まるでふりおろされる竹刀のような勢いで――がばりと少女は顔を上げた。
 相変わらず、これ以上は赤くなりようがないほどの真っ赤な顔のまま、なぜか剣心をにらみつけてくる。
「ここでなら!! 会ってもいいって言ってるの!!」
……
 言われた言葉の意味を考える。考える。
 考えて――剣心は、ぽかん、と少女を見下ろした。
 視線が合う。
 とたん、いかにも「しまった!」と目を真ん丸に見開いたかと思うと、首がもげるのではないかと心配になる程、ポニーテールを左右に勢いよく揺らして彼女は首を振った。
「あ! 違う! 今のなし!! 会ってもいいじゃなくて、会ってください……? あ、なんかそれもおかしいわね……えぇっと、そうじゃなくて……
 だんだんと小さくなっていく声。
 そうして、先程の彼と同じく、最後は黙りこんでしまった。
 その顔が先ほどよりも赤い気がするのは、けっして気のせいではない。
 ……と言うか、まだ赤くなれたのか。
 ちょっとズレた感想を胸に浮かべつつ、剣心は無言で彼女を見つめ……――――
「ぶっ」
「ああっ! 笑った!!」
「ご、ごめ……っ」
 謝罪の声すら、笑い声に消えてしまった。
 最初のイメージががらがらと音を立てて崩れていく。
 もっとおとなしい――と言うか、はかないイメージだったが、こんなに元気がいいとは思わなかった。
 元気で――たぶん、恥ずかしがり屋。
 うん。かわいい。
 まだまだ笑いがこみ上げてくるが――さすがにこれ以上は、彼女が本気で怒り出しそうだ。
 吐き出すばかりの息を無理矢理止めて、どうにかこうにか笑いを抑え込む。
「もぉ……教えてほしいって言ったのは、そっちでしょ……!!」
「ごめん」
 きゅうっと眉を寄せた彼女ににらまれて、今度こそ剣心は謝った。
 精一杯神妙な顔を装ったものの、微妙ににやけてしまうのは許してほしい。
「すごく、君がかわいかったから」
……かわっ!?」
 今度は彼女が絶句する番だった。
 本当にどうしていいかわからないと言った様子で、目を白黒させている。
 ひいき目でもなんでもなく、彼女は普通にかわいいと思うのだが、もしかして慣れていないのだろうか。
 剣心はゆるりと目を細めた。
「ここでいいよ。君の都合でいい。俺は、君に会いたい」
 自分の言葉に、そうか、と思う。
 無理に理由などつけなくてよかったのだ。自分の気持ちを素直に口にすれば、それだけで。
 少女は途方に暮れたように視線をさまよわせ、再びうつむいた。
 その頭が、こくりと縦に振られる。
「毎日いるわけじゃないけど……だいたい、この時間くらいなら、いるから」
 ぽそぽそと告げられた内容に、頬がゆるむ。
……よかった。断られたら、どうしようかと思った」
 彼女がそろりと顔を上げる。
 目が合うと、赤く染まった顔にほわりとした笑顔が浮かんだ。
 彼女の笑顔が見れたことがうれしくて、剣心は目を細めた。

 ――それが、出会い。





「ねぇ、名前を教えてもらってもいい?」
 彼女に名前を尋ねられたのは、初めて言葉を交わした翌日――つまり、次に会った時だった。
 頭上に広がる空は、今日もきれいな夕焼け色。
 もうすぐ、陽が沈む。
 今日は――と言うか、昨夜からの自分の浮かれ具合は自分でもどうかと思うくらい、すごかった。
 どうやらずっとにやけていたらしく、神谷からはいったいどうしたのかと心配されてしまう始末だ。誤魔化しはしたが、本当に誤魔化されてくれたかどうかは分からない。

 剣心は瞬いた。
 教えていなかっただろうか。
 記憶をさかのぼって首を傾げる。
 ――教えていなかったかもしれない。なぜか、すでに彼女は自分の名前を知っているような気がしていた。
「剣心、だよ。緋村剣心」
 ちょっとだけ目を見開いた彼女は、ついで、うれしそうに破顔した。
「緋村さん」
 ……なんだ、この違和感。
 別に彼女がおかしなことを言っているわけでもないのに、呼ばれた名前のあまりの違和感に、剣心は眉を寄せた。
「違う」
……緋村さん?」
「そうじゃなくて」
 まったく分っていないらしい彼女に、心持ち、口調がきつくなる。
……剣心、でいい。いや、剣心って呼んでほしいんだ。
 ……だめかな?」
「私が呼んでもいいの?」
 少女が瞠目する。しかし、その瞳はすぐにいたずらっぽく細められた。
「あなたの名前を呼んでくれる人、ちゃんといるんでしょ?」
「いない」
 暗に彼女がいるのだろうとつつかれて、憮然と返す。
「嘘つかなくていいのに」
「本当だって」
 実を言うと――数ヶ月前までいたのは確かだ。
 彼女によく似た黒髪の、かわいい感じの子だった。
 だが、受験が忙しくなるに従って会う機会も減っていって――お互い、すでに進学先も決まっているにも関わらず連絡もこないし、こちらからもする気が起きないと言うのは、そう言うことだろう。
 いわゆる、自然消滅と言うやつだ。
 未練もなにもない。
 いないならいないで問題ない。
 昔から、自分は執着というものが薄かったな、と思い出す。
 女の子とつきあったことも何度かあるけれど、そのどれもが全部、告白されてつきあいだして、最終的にフられる、と言うパターンだ。
 そういえば、誘うのも連絡も全部相手任せだったから、こんな風に自分から会いにくるのは初めてかもしれない。
 軽くにらんでくるような彼女の顔をかわいいと思う。
 会うのはまだ二回目だけれど、感情を素直に出す彼女がかわいい。
 ――好きなんだろうな、と思う。

 俺は、彼女が好きなんだ。

 かちりと、まるでパズルのピースがはまるように落ちてきた感情。
 じわりと胸が暖かくなる。
「名前、呼んでほしい」
 自然と口にしていた。
「君に、呼んでほしいんだ」
 彼女はゆっくりと瞬き、いくらか迷うような仕草のあと、柔らかく口元をほころばせた。

「けんしん」

 その響きに、息を呑む。
 胸の中に沸き上がってくる感情。
 それは――間違いなく歓喜だった。
 名前を呼ばれると言うことが、こんなにもうれしいことだったなんて、知らなかった。
 抑えきれない喜びに目を細めながら、再度ねだる。
「もう一回」
「剣心」
――うん。やっぱり、いいな」
 彼女の声が紡ぐ、その響き。
 何度も――何度でも呼んでほしくなる。
 何度でも、呼んでほしい。

 ――還りつくことができるように。





 日を追うごとに、桜のつぼみが膨らんでいく。
 それに並行して、剣心の周りもどんどんあわただしさを増していく。
 大学の準備も本格的に始まった。
 下宿をしている分、一人暮らしをする学生よりはマシなのだろうが、少し前から道場の年少クラスの指導を手伝うようになり、かなり忙しくなった。
 最初に神谷からその話を持ちかけられた時はかなり驚いたが、それだけ期待されているのだと思うと嬉しかった。
 自分本来の練習に、子供たちの指導。朝のランニングの最中に出会う人々。ちょっとずつ増えるお気に入りの店。
 この街に縁のなかった自分が、こうして少しずつ馴染んでいく。
 それは、すごく不思議な感覚だった。
 いつか――自分はこの中で当たり前の日常を過ごすようになるのだろう。
 そうして――その中に、彼女がいてくれれば。
 どんなに忙しくても、桜並木の土手には毎日顔を出した。彼女はいることもいないこともあったけれど、行かずにはいられなかった。
 空がオレンジ色に染まる頃から、日没までの――長くはないが、大切な時間。
 ――ちょっとずつ話すことが多くなって、少しずつ彼女のことを知った。
 今はやめてしまったが、実は剣道をしていたこと。
 料理が苦手なこと。甘いものが好きなこと。それから。
 三月の頭、高校の卒業式に出るために実家に帰ると言う話しをしたら、「いってらっしゃい」なんて言ってくれるから、おもいっきり抱きしめたくなって、我慢するのに苦労した。
 彼女はわかっているんだろうか。
 いってらっしゃいと言う言葉が示す、その親密さに。
 きっと、知らないのだろう。
 知っていたら、こんな――土手で会うだけの男に、きっとそんなことは言わない。
 でも、うれしかった。
 うれしすぎて、思いっきりにやけていたらしい。
 彼女に訝しそうに眉を寄せられて、さすがに苦笑したのは秘密だ。

 彼女に逢ってからこっち――自分は浮かれていると思う。
 どうしようもないほど、浮かれている。

 ――これが恋なんだと、そんな柄にもないことを思った。



「それでね」
 彼女は本当によくしゃべる。
 どちらかと言うと無口な自分は、だいたいいつも聞き役だった。彼女の声は聞いていて心地いいから、いくらでも聞いていたくなる。
 たまに自分の名前が出てくるのも最高だ。
「剣心」
 心の中でなぞった声と、現実が重なった。
 目の前には、すねた顔の少女。
「もおっ! 剣心もなんか話してよ。私ばっかり話しててずるい!」
「え……俺は」
 ずるい、と言われても。
 そもそも、男の話なんて聞いたところで、おもしろくもなんともないだろうに。
 しかしそんなことを言ったところで、彼女はきっと納得しない。
 今も、唇をつんと突き出すようにして、こちらをにらんでいる。
 その、くちびる。
 艶々として、いかにも柔らかそうな、ほんのりと染まった紅色のくちびる。
 ――キスをしたら、どんな感じだろう。

 剣心は顔を傾けた。



「んっ」
 小さな声が鼓膜を震わせる。
 彼女の体が震えたのがわかった。
 驚いた彼女が正気に返る前に、肩を抱き寄せて逃げなくする。
「ちょ……っなにす……っんんっ」
 離れた唇を追いかけて、再び口づける。
 かなり強引なことをしている自覚はあった。
 怖がらせるかもしれない。
 けれど――嫌われるかもしれないと言う思いは、なぜかなかった。
 ん、ん、と塞いだ唇から、苦しげな声が漏れる。
 どん、と胸をたたかれて、剣心はようやく唇を解放した。
 けれど、彼女を抱きしめる腕はほどかない。
 こうやって抱きしめていると、彼女の小ささがよくわかる。
 ――あの頃に比べたら、自分もかなり上背があるから、キスをしやすい。
 ふとそんなことを思って、違和感に内心首を傾げる。しかし、真っ赤になった彼女の顔を見ると、そんな違和感はすぐに霧散してしまった。
 睨みつけてくる顔すらかわいいと思ってしまうのも、どうかしている。
「俺にこうされるの、イヤ?」
 そんなことないと知っていて、わざと尋ねる。
 あの頃も、慣れないうちはいつも真っ赤に顔を染めていた。
 でも、どんなに恥ずかしがっても、自分の腕の中から逃げ出すことはなかったから――――……
 ぷい、とほんのり赤く染まった顔が横を向く。
 その細い肩を抱き寄せて、形のいい耳元に唇を寄せた。
「ねぇ、教えて」
 大きな瞳がきゅうっと閉じられる。
……ずるい」
 震える声が剣心をなじった。
……知ってる、くせに……っ」
 それは、イヤではないと言うことでいいだろうか。
 我慢しようとして結局はできずに、なんとも言い難い表情のまま、口元がにやけた。
「こっち向いて」
……やだ」
「お願いだから」
「知らない」
 言葉とは裏腹にこつりと額を寄せてくる彼女に、思わず顔が綻ぶ。
 目の前にあるつむじに軽く口づけた。
 甘やかしているようで、実は自分が甘やかされている。
 その事実が少し悔しくて、でも、とても心地いい。
……あのさ」
 甘い香りのする髪に顔を埋めて、小さくねだった。
「名前、いい加減に教えてほしいんだけど」
……勝手なことばっかりする人には教えない」
 半ば予想していた答えに、剣心は喉を鳴らす。
「ずるいだろ、それは」
 逢った回数は、まだ両手で数えれるほど。
 しかも、場所はこの土手限定。
 住んでいる場所はおろか、名前も知らない少女。そんな彼女に、こんなにも夢中になっている自分がおかしい。
 でも、それでもいいかと思ってしまっているあたり、始末に負えないと思う。
 今でなくていい。いつか、教えてくれれば。
 至近距離で見つめてくる瞳が、柔らかく微笑む。
「いいじゃない、少しくらいずるくたって。剣心の方がずるいもん」
……
 本当にずるいのはいったいどちらなのか。
 もうどうでもいい、とばかりに、剣心は再び彼女のふんわりとした唇に自分のそれを寄せた。



「あ……もう、帰らなきゃ」
 甘い余韻の中、聞こえてきた小さなつぶやきに、閉じていたまぶたを開ける。
 彼女の視線の先には、ビルの中に沈んでいく赤い太陽。
 時間だ。
 自分に与えられた彼女との時間は、陽が沈むまで。
 剣心は腕の中の少女を見る。
 離したくない。
 今、間違いなく腕の中にいるのに、どうして離さないといけないのだろう。
「剣心?」
 胸の奥にこみ上げる何かに、抱きしめる腕に力が籠った。
 肩口に顔を埋めて、彼女の香りを吸い込む。
 細い指が、なだめるように剣心の色素の薄い髪をすいていく。
 黒髪がすりっと剣心の頬にすり寄った。
 けれど、その唇が紡いだのは、やはり先ほどと同じ言葉で。
「剣心、私、もう帰らなきゃ」
……
 わかってる。
 声にはせずに、心の中だけで返す。
 彼女を困らせたいわけじゃない。
 ただ、ほんの少しだけ。あと、もう少しだけ。

 一瞬だけ、力を込めて細い体を抱きしめた。
 腕をほどく。
 あたたかな体が離れていく感覚に、胸が痛んだ。
 ――いつかも、こんなことがなかっただろうか。
 そう確か――別れの予感に震える彼女をだきしめた。これで最後だからと、わがままを自分に赦して。
 けれど本当は……――――――

「剣心?」

 はっと顔を上げる。
 不思議そうな顔が、彼をのぞき込んでいた。
「なんでもない」
 笑って首を振る。
 先ほど感じた不思議な感覚は、すでに消えてしまっていた。
 なにを考えていたのかも思い出せない。
「そ」
 よかった、と彼女の表情がやんわりと弛む。
 その視線が再び、色を増す夕焼けに向けられた。
 一瞬のあと、剣心に戻された彼女の視線が、まるで泣き出しそうに見えた。
 思わず、剣心は目を瞬かせる。
 しかしそこにあったのは、いつもの柔らかな彼女の笑顔。
「もう、行くね」
 戸惑う剣心をよそに、彼女はあっさりとベンチから立ち上がった。
「それじゃあ」
……っ、ああ、また」
 柔らかい笑顔をひとつだけ剣心に残して、なんのためらいもなく離れていく、華奢な背中。
 小走りに去っていく彼女の背で、ひとつにまとめられた髪が軽やかに踊る。
 咄嗟に手を伸ばしそうになり――けれど、かろうじてその衝動を押さえ込んだ。
 ……彼女は、気づいているのだろうか。
 次の約束をする言葉を、彼女は絶対に口にしない。
 次を求める剣心の言葉に、頷くこともない。
 いつも――そうだ。
 自分たちの間には、ただひとつの約束すらない。
 ここに来るといつも彼女がいて、彼を見ると笑ってくれるから――その曖昧な事実にすがっている。
 彼女がいてくれるということに、ただ――――
 すっかり消えてしまったきれいな後ろ姿に向かって、剣心は腹の底から絞り出すようなため息をついた。
……好き、なんだ」
 彼女の姿を思い浮かべて、小さくつぶやく。
 思い出したいのは笑った顔なのに、なぜか去っていく彼女の背中しか思い浮かばなかった。
「好きだ」
 もう一度、繰り返す。

 ――どうしようもないくらい、彼女のことが好きだ。



 気がつくと、すっかりあたりは夜の様相に変わっていた。
 今は何時くらいだろうか。
 門限等の決まりはないとはいえ、下宿を始めて一ヶ月程度の今、遅くなりすぎるのは気が引けたし、三月半ばの夜はまだずいぶん冷える。さすがに厚手とは言え、シャツ一枚のままでは風邪をひいてしまいそうだ。
 土手を上がり、神谷道場の裏門を目指す。
 おおよそ、五十メートルと言ったところか。
 門から少し離れた場所には外灯がひとつ、ぽつんと据えられていて、なんとも頼りない光をアスファルトに落としていた。
 そこから少しだけ離れた暗がりに、人影があった。
 黒い――まるで、闇を凝り固めたような影。
 ――反射的に、いやだな、と思った。
 怖いわけではない。ただ、近づきたくない。
 幸い、道場の門はその影よりも手前だ。早く入ってしまおう。
 そう、剣心が考えた時。

――また、繰り返すつもりか」

 思わず足を止める。
 その声は、明らかに自分に向けられていた。
 見ないようにしていた影を凝視する。
 道着……
 スカートと言うには長すぎるそのシルエットは、彼が慣れ親しんだ道着の袴に見えた。
 暗がりの中で色はよく分からない。だが、黒っぽい色であることは、かろうじて分かった。
 影は長い髪を頭の高いところでひとつにまとめていた。それほど背も高くないので、女の子だろうか。しかし、女の子にしては声が低い。
……なんの話だ」
 警戒を込めて尋ね返す。
 しかし、影からの返答はなく――代わりに、じゃり、と言う足音が鼓膜を震わせる。
……え」
 あまりにあっさりと踵を返されて、剣心は思わず目を瞬かせた。
 暗がりの中に、ゆらりと揺れる背中。
 戸惑ううちに、夜の闇に黒い背中が溶ける。
 ――完全に見えなくなる直前、かちゃりと何かがぶつかる音がした。

……なんだったんだ……
 一人きりになった夜の中で、剣心は小さくつぶやいた。
 無意識に握りしめていた手をゆっくりと開く。
 まだ寒さの残る季節にも関わらず、手のひらにうっすらと汗をかいていた。
 それは夜の冷気にすぐに乾いてしまう。
 腹の底から、大きくため息を吐き出す。
 早く、帰ろう。
 明日も朝稽古だ。あまり遅くなると明日に響く。
 神谷道場の門をくぐろうとした剣心は、しかし、ふと足を止めて振り返った。
 先ほどの影が発した声を思い出す。

 ――あの声は、自分のそれに似ていなかっただろうか。



2話→
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