星霜編ベースの剣薫転生現パロ。
大学入学のために上京した剣心は、ひとりの不思議な少女と出会います。
※死を匂わせる描写があります。
※web再録は本編のみの予定です。ご了承ください。
@tachik_k
――静かに眠るその顔に、ぽたりぽたりと水滴が落ちる。
大好きな夕日色の髪は、記憶にあるより少しくすんでしまったかもしれない。
ねぇ。
その髪を指先でゆっくりと梳きながら、私はそっと語りかける。
私、ずっとあなたに聞きたいことがあったの。
あなたは……――――
小さな女の子が泣いている。
幼い体をめいっぱい使って、全身で寂しいと泣き叫んでいる。
土手沿いに並んだ、桜並木の下。
冬の寒い時期、桜はまだ固いつぼみのままで。
葉っぱの一枚すらない丸裸の桜は、とても寂しそうに見えた。
あの時、俺は女の子になんと声をかけただろう。
* * *
ゆっくりと瞬きを繰り返す。
頭が動き出すまで、しばらく時間がかかった。
目の前に広がる白いシーツ。そこに投げ出された自分の腕を、じっと見つめた。
薄暗い部屋の中は、まだ太陽が昇りきっていない証拠だ。
ごろりと寝返りを打った剣心は、腹の底から長く息を吐き出した。
見慣れない木張りの天井は、節が複雑な文様を描いている。
もう一度、息を吐いた。
暦の上では春とは言え、まだ二月。
暖房の切れた部屋は、少しだけ寒い。
――ずいぶん、懐かしい夢を見た。
あれは、何年前のことだっただろうか。
確か、大師範の葬儀の時だったから、自分が中学にあがった年で――――くつりと、小さく喉が鳴る。
ずいぶん昔に感じたが、たかだか五年前のことじゃないか。
「やっぱり、あの桜並木を見たからかな」
軽く気合いを入れて上半身を起こす。
まだもう少し寝ていたいが、早く起きないと朝稽古に遅れてしまう。
昨日、道場主で家主の神谷からは、疲れているだろうからゆっくりしなさいと言われていたが、初日だからこそ顔を出したい。
カーテンを開けると、窓は開けていないにも関わらず、たまっていた冷気が体を包んだ。
刺すような空気は、ぼんやりとした頭を一気に覚醒させる。
思った通り、外はまだ薄暗いままだった。うっすらと明るくなり始めた東の空が、冬の遅い朝の到来を告げている。
少し視線を横にずらせば、古い土壁の塀と、その向こうの土手沿いにある桜並木。
春になればすばらしい景色を見せるだろうそこは、今は冬の寒さに縮こまったままだ。
それは夢の中に出てきた、そのままの光景。
見慣れていないはずなのに、どこか懐かしい景色。
剣心は目を細めた。
東京の、下町。
今日から、彼が暮らす場所。
「おはようございます、師範」
道着に着替えて敷地内にある道場に向かう。
中ではすでに、師範である神谷が竹刀を手に素振り稽古を行っている最中だった。
……さすがに、神谷はずいぶんと早い。
明日はもっと早く起きようと、密かに誓う。
現れた剣心に、彼はにこりと笑い、
「ああ、おはよう」
確か、もう六十に手が届くはずだが、とてもそうは見えない。
黒々とした髪、しわも年齢の割にほぼ見当たらない。なにより、剣道を続けて鍛えられた体はとても若々しい。
彼がここ――明治の初期から続いている剣術道場の八代目だか、九代目だかの道場主で、剣心が昨日から下宿している神谷家の主だ。
「ずいぶん早いね。疲れているだろうから、ゆっくり寝ていてもよかったのに」
「下宿の身が、師範を差し置いてそれはできないですよ」
眉を寄せる剣心に、神谷はそうか? と、声をたてて笑った。
大学入学を控えて東京で暮らすことになり、住む場所をどうするか考えた時に剣心が思い出したのが、この神谷道場だった。
バイトはするつもりだが、仕送りもたかがしれているし、東京で一人暮らしをするのは学生には少々きつい。
ダメで元々と、亡くなった祖父の旧知で、剣術道場を営む神谷に相談したところ、あっさりと許可が出た。
神谷曰く、数こそ多くはないが、門下生が短期で下宿することもあるため、部屋数は多くしてあるそうだ。もちろん家賃は当然発生するし、道場の手伝いをすると言う条件もあるが、それでも、まったくの一人暮らしよりよほど楽だ。
なにより、知らない相手ではない、と言うのが剣心の背中を押した。
神谷の亡父が剣心の祖父の兄弟子にあたり、神谷自身にも、剣心は何度か会ったことがある。祖父から、何代か前――明治くらいらしい――は、親戚だったと言う話も聞いていた。
もっとも、剣心がこの道場を訪れたのは五年ぶり――以前の道場主だった、神谷の父親の葬儀の際につれてきてもらって以来だ。
剣心自身、小さな頃から剣道になじんできた。
だから、だろうか。
初めて入るにも関わらず、この道場の空気はひどく懐かしい気がする。
爽やかな木の匂い。
ぴんっと張って、緊張をはらんだ空気。
――知らないはずなのに、知っている気配。
それが、剣心の胸を満たしていく。
「君の父君からは、かなりの腕だと言うことは聞いているよ」
「ありがとうございます」
必要以上に謙遜するわけでもなく、剣心は素直に頭をさげた。
高校総体では、全国大会で決勝に進んだくらいの腕はある。
自分の実力を客観的に把握することは大切なことなのだと、祖父や、やはり剣道家の父からはいつも言われていた。
「さて、剣心くん」
神谷は傍らに置いてあった面と手ぬぐいをとった。
「せっかくだ。君の実力がどれほどのものか、手合わせを願いたいが、どうかな」
そう言って笑う顔は、どこかいたずらっ子のようだ。
確か神谷は、剣道に従事している人々の中で、一パーセントしかいないと言われる八段の持ち主のはずだ。
初日からなかなかハードな練習だなと、剣心は苦笑した。
うなずく。
「俺でよければ」
そんな風にはじまった、下宿二日目。
朝稽古のあとは、そのままになっていた荷物を片づけて、軽く部屋の掃除をするだけで、半日が過ぎてしまった。
そうして、昼からは必要なものの買い出しをして……――――
神谷はこちらで揃えると言ってくれたが、さすがにそれに甘えるわけにもいかない。
あれやこれやと買い物をしているうちに、すっかり太陽が傾いていた。
すでに立春はすぎたとは言え、二月はやはりまだ日暮れが早い。
夕焼け色に染まる空を眺めながら、道場の裏門へと続く土手沿いを歩く。
このあたりは、江戸やら明治やらの雰囲気を残している場所らしい。
神谷道場を取り囲む塀の一部に至っては、修繕を繰り返しているとは言え、江戸時代からあるのだと神谷が言っていた。
道場そのものは戦後に建て直されたらしいが、歴史のある道場には違いない。
そうして――この、桜並木もそうだ。
十本ほどの桜が、道に沿ってフェンス越しに植えられている。
すぐ隣は小さな川が流れていて、その土手に張り出すように桜は枝を伸ばしていた。
まだまだ寒いこの季節、桜が花を咲かせる気配はないが、桜の季節は本当にきれいだろう。
そういえば――あの女の子にあったのも、この桜並木だった。
夢の中に出てきた、懐かしい女の子。
ひときわ立派な桜の下で、小さな肩を震わせて泣いていた。
五年前が三歳くらいだったから、今は八歳――小学校二年生。
伸びかけた髪を、けっこう無理矢理ポニーテールにしていたな、と思い出す。あの髪は、まだポニーテールのままだろうか。
吐息のように、剣心は笑った。
今日はやけにあの子のことを思い出す。たぶん、あんな夢を見たからだ。
大師範の葬儀に来ていたと言うことは、この道場の関係者なのかもしれない。いつかまた逢えるだろうか。
もっとも、会った時にあの時の少女だと気づくとは限らないけれど。
そんなことを考えながら、まだ固いつぼみのままの桜並木を歩く。
夕暮れの太陽が、町を燃えるようなオレンジに染めていた。
桜や川面も同じ色に染まっている。
まるで、知らない世界に迷い込んだような……――――
「……?」
何かが視界の端に映った気がして、剣心は足を止めた。
視界と言うか――意識の端に引っかかるモノ。
無意識に違和感の正体を探そうと巡らせた視線が、一点で止まった。
桜の枝が張りだした、フェンス越しに見える土手の中。
まだつぼみのままの桜の枝に隠れるように、見慣れない少女がいた。
今時珍しいくらいの艶やかな黒髪を、後頭部の高い位置でまとめてポニーテールにしている。その髪を飾る藍色のリボンと一緒に、黒髪が風にさらさらと流れる様子に、思わず目を奪われた。
そして、着ているものは、こちらも珍しいと言わざるを得ない、きっちりとした和服。
ぴん、と背筋を伸ばした後ろ姿は、何かしらの武道をしているもののそれだ。
顔が見えないので正確にはわからないが、年齢はたぶん、自分と同じくらい。
何か――誰かを、待っているのだろうか。
特にそわそわしている様子でもないのに、そんなことを思う。
彼女の視線の先には、遠く沈んでいく夕日。
大きな緋色の太陽が、建物の陰に半分以上その姿を隠している。
やがて完全に沈みきった夕日に、その後ろ姿がほう、と肩を落とした。
――やはり、誰かを待っていたのか。
そう、剣心が思った直後――ふいに彼女が振り返った。
ふわりと黒髪が舞う。
かいま見えた横顔は、ひどく憂いを帯びていて。
――瞬間、沸き上がった衝動は、自分でも驚くようなもの。
彼女の、笑顔が見たい。
「あ……あー……」
どうやら、自分は彼女に見とれていたらしい。
そう気が付いたのは、彼女の姿が見えなくなったあとのこと。
なんとなく顔が熱い気がする。
剣心は口元を押さえた。
……一体なにを考えてるんだか。
名前も知らないどころか、まともに顔を合わせたいこともない――それ以前に、横顔しかしらない相手の笑顔を見たいだなんて。
けれど、彼女には――あんな憂い顔ではなくて、笑顔が似合うと思った。きっと、とてもかわいいに違いない。
今度は額を押さえる。
誰もいないにも関わらずなんだか誰かに見られているようで、顔がますます熱くなっていくのを止められない。
「……帰ろう」
誤魔化すようにつぶやいて、剣心は桜並木に背を向けた。
――後から考えると、文句のつけようもなく、一目惚れたったのだと思う。
その翌日も、そのまた翌日も。
気が付けば、桜並木の下に彼女の姿を探す自分がいた。
しかし、どんなに探しても彼女の姿はどこにもなく、その度に落胆を繰り返す。
どうしてこんなに必死になっているのか理由が分らずに、ものすごく居心地が悪い。
その日も、気が付けばいつの間にか彼女の姿を探していた。
少し、思いつめすぎかもしれない。
何しろ今朝など、とうとう神谷に彼女のことを口にしかけた。……どう尋ねたらいいか分らずに、結局ごまかしたけれど。
あの日、彼女を見かけた土手に降りて、ベンチに腰掛ける。
肌寒さのせいか、土手には誰の姿もなかった。
見上げた空では、真っ赤な太陽が建物の間に沈んでいこうとしているところだった。
にじむような朱色の空が、昼の名残の青空にとけ込んでいる。
そう言えば、彼女を見かけた日も、真っ赤な夕陽が空を染めていた。
くしゃりと髪をかきあげる。
「何してるんだ、俺は……」
別に、探そうと思っている訳じゃない。
ただ何となく――本当に何となく、視線がいってしまうだけで……――――
「……」
顔が、熱い。
何に対して自分は言い訳をしているんだろう。
彼女を見かけてから数日、そんな言い訳ばかりを繰り返している。
もう認めるべきだ。
理由とか理屈とか関係なく、彼女に会いたい。
目を閉じる。
刹那――脳裏を桜色の面影がよぎった。
もう、何度も思い出した横顔。
――逢いたくて。
ただ、君に逢いたくて。
春。
薄桃色の花弁が視界を覆いつくして。
君の白い腕が……――――――
「……大丈夫?」
ぱちん、と意識がはじけた。
勢いよく顔を上げる。
ほんのわずかな距離をおいて、見慣れない顔が――いや、忘れられない顔が、剣心を心配そうにのぞき込んでいた。
「え……」
思わず間抜けな声が漏れた。
自分の目が信じられない。
目を開けたら、そこに会いたかった彼女がいるなんて、そんな都合のいいことがそうそうあるはずがない。
だが、どんなに瞬きを繰り返しても、目の前の少女は消えたりしなかった。
マジマジと彼女を見る――見てしまう。
リボンでひとまとめにされた艶やかな長い黒髪。
あの日と同じきれいに着付けされた着物。
夕焼けにほんのり染まった白いうなじから目が離せない。
「大丈夫?」
もう一度同じことを尋ねられ、剣心は我に返った。
かぁっと、顔に血が昇る。
「あ、いや」
慌てて立ち上がろうとして、それもおかしいかとベンチに座り直す。他人から見れば、明らかに挙動不審だ。
そもそも、初対面の人間をじっと見つめ続けるとか、どうなのか。失礼すぎるだろう。
穴があったら入りたいと思ったが、そもそも穴などどこにもない。
内心の動揺を押し隠して、剣心は無理矢理笑顔を浮かべた。多少ひきつっていたかもしれないが、今はそこまで気にする余裕がない。
「……大丈夫。心配してくれてありがとう」
「そう? それなら、いいんだけど」
にこりと微笑む彼女に、目が釘付けになる。
安心した、と素直に顔に出す彼女の笑顔は、間違いなくかわいかった。
「あの――よくここに来るの?」
口にしてから、しまった、と思った。いくらなんでも、いきなり聞くような内容ではない。
ほとんどナンパだ。
もうツークッション……せめてワンクッションくらい置くべきだったと思っても、一度口にしたものは取り消せない。
それに、取り繕ったところで、結局は同じなのだろうとも思う。
何より、ここで言わないと、次はもう会えないかもしれないと言う焦りが、剣心を急かした。
だって、もうずっと――ずっと探していたのだ。
それでもどうにも気恥ずかしくて、彼女の藍色の瞳から逃れるように視線を彷徨わせる。
「えぇっと……三日前くらい前もここにいたから……」
藍色の瞳が剣心を見つめて、ほろりと笑った。
「……人を待ってたから」
やはり、と納得すると同時に、胸のどこかがずきりと痛んだ。
初めて彼女を見かけたときの、寂しそうな横顔がよみがえる。彼女の待ち人は、彼女にあんな顔をさせてしまう相手なのだ。
「……そっか」
返す声が、自分でもわかるくらいに沈んでいた。
どれだけショックを受けているのかと、自分でもおかしかった。
「でもね」
と、彼女が続けた。
「逢えるかどうかわからなくて。約束をしてたわけでもないし。私が一方的に待ってるだけだから……」
胸が、再び鈍い痛みを訴える。
先ほどのショックとはまた違う、胸の痛み。
そんな風に、無理に笑わないでほしい。
無理に、笑わなくてもいいから――だから。
「また、逢えないかな」
やはり、それは衝動だった。
不思議そうに見上げてくる彼女に、剣心は顎を引いた。
自分でも、自分の衝動が信じられない。
けれど今は、その衝動を抑える気にはなれなかった。
「君はこの辺りに住んでるの? あ、いや。住んでるところを教えてほしいとか、そういうわけじゃなくて、俺、つい最近ここに住み始めたから、まだこのあたりのこと全然知らなくて。……えーと……もしよかったら……あの、この辺りのことを教えてもらえると、その、ありがたいと、言うか……」
勢いのまま口にした言葉は、しかしどんどん勢いを失って、最後はしりすぼみのお手本のようになってしまった。
そしてついには、沈黙が訪れる。
……きょとん、と見上げてくる彼女の視線が、痛い。
これはない。いくらなんでも、これはない。
友人からは口八丁とよく言われるが、どうやら、肝心なところではまったく機能してくれないらしい。
絶対変なヤツだと思われてる。
ぜったい、思われてる……!!
不思議そうな視線に耐えきれず、剣心はとうとう目をそらし――ぼわ、と彼女の頬が赤く染まった。
「え」
予想外すぎる反応に、剣心の口から間の抜けた声が漏れる。
えぇっと……もしかして、照れてる……?
「あ、その……っ」
赤く染まった頬を隠すように俯く彼女。ポニーテールがぴょこんっと跳ねた。
「……ご、ごめんなさい……っ! なんか告白されてるみたいって……その、思っちゃって……えっと……」
「こく……っ!?」
絶句。
自分の先ほどの言葉を慌てて反芻し、剣心は頭を抱えたくなった。
確かにあれは――どう考えても告白だ。
初対面の女の子に何やってるんだ、自分は。
過去の自分の言動を反省したところで時間が戻るわけでもなく――結局、それ以上は何も言えずに、二人そろって顔を赤くしてうつむいた。
それはきっと、夕陽のせいだけではなく――――
ああ――居たたまれない。
これはもう、次がないのは確実だ。
そう確信し、剣心はますます顔をうつむけた――が。
「……ここで、よかったら」
「……へ?」
一瞬、何を言われているか分らなかった。
……今、彼女は何と言った?
顔をうつむけたままの彼女を見る。
耳が先まで真っ赤で、まるでイチゴのようだ。
白い手が、ぎゅうっと着物を握りしめる。
「だから!!」
次の瞬間、勢いよく――まるでふりおろされる竹刀のような勢いで――がばりと少女は顔を上げた。
相変わらず、これ以上は赤くなりようがないほどの真っ赤な顔のまま、なぜか剣心をにらみつけてくる。
「ここでなら!! 会ってもいいって言ってるの!!」
「……」
言われた言葉の意味を考える。考える。
考えて――剣心は、ぽかん、と少女を見下ろした。
視線が合う。
とたん、いかにも「しまった!」と目を真ん丸に見開いたかと思うと、首がもげるのではないかと心配になる程、ポニーテールを左右に勢いよく揺らして彼女は首を振った。
「あ! 違う! 今のなし!! 会ってもいいじゃなくて、会ってください……? あ、なんかそれもおかしいわね……えぇっと、そうじゃなくて……」
だんだんと小さくなっていく声。
そうして、先程の彼と同じく、最後は黙りこんでしまった。
その顔が先ほどよりも赤い気がするのは、けっして気のせいではない。
……と言うか、まだ赤くなれたのか。
ちょっとズレた感想を胸に浮かべつつ、剣心は無言で彼女を見つめ……――――
「ぶっ」
「ああっ! 笑った!!」
「ご、ごめ……っ」
謝罪の声すら、笑い声に消えてしまった。
最初のイメージががらがらと音を立てて崩れていく。
もっとおとなしい――と言うか、はかないイメージだったが、こんなに元気がいいとは思わなかった。
元気で――たぶん、恥ずかしがり屋。
うん。かわいい。
まだまだ笑いがこみ上げてくるが――さすがにこれ以上は、彼女が本気で怒り出しそうだ。
吐き出すばかりの息を無理矢理止めて、どうにかこうにか笑いを抑え込む。
「もぉ……教えてほしいって言ったのは、そっちでしょ……!!」
「ごめん」
きゅうっと眉を寄せた彼女ににらまれて、今度こそ剣心は謝った。
精一杯神妙な顔を装ったものの、微妙ににやけてしまうのは許してほしい。
「すごく、君がかわいかったから」
「……かわっ!?」
今度は彼女が絶句する番だった。
本当にどうしていいかわからないと言った様子で、目を白黒させている。
ひいき目でもなんでもなく、彼女は普通にかわいいと思うのだが、もしかして慣れていないのだろうか。
剣心はゆるりと目を細めた。
「ここでいいよ。君の都合でいい。俺は、君に会いたい」
自分の言葉に、そうか、と思う。
無理に理由などつけなくてよかったのだ。自分の気持ちを素直に口にすれば、それだけで。
少女は途方に暮れたように視線をさまよわせ、再びうつむいた。
その頭が、こくりと縦に振られる。
「毎日いるわけじゃないけど……だいたい、この時間くらいなら、いるから」
ぽそぽそと告げられた内容に、頬がゆるむ。
「……よかった。断られたら、どうしようかと思った」
彼女がそろりと顔を上げる。
目が合うと、赤く染まった顔にほわりとした笑顔が浮かんだ。
彼女の笑顔が見れたことがうれしくて、剣心は目を細めた。
――それが、出会い。
「ねぇ、名前を教えてもらってもいい?」
彼女に名前を尋ねられたのは、初めて言葉を交わした翌日――つまり、次に会った時だった。
頭上に広がる空は、今日もきれいな夕焼け色。
もうすぐ、陽が沈む。
今日は――と言うか、昨夜からの自分の浮かれ具合は自分でもどうかと思うくらい、すごかった。
どうやらずっとにやけていたらしく、神谷からはいったいどうしたのかと心配されてしまう始末だ。誤魔化しはしたが、本当に誤魔化されてくれたかどうかは分からない。
剣心は瞬いた。
教えていなかっただろうか。
記憶をさかのぼって首を傾げる。
――教えていなかったかもしれない。なぜか、すでに彼女は自分の名前を知っているような気がしていた。
「剣心、だよ。緋村剣心」
ちょっとだけ目を見開いた彼女は、ついで、うれしそうに破顔した。
「緋村さん」
……なんだ、この違和感。
別に彼女がおかしなことを言っているわけでもないのに、呼ばれた名前のあまりの違和感に、剣心は眉を寄せた。
「違う」
「……緋村さん?」
「そうじゃなくて」
まったく分っていないらしい彼女に、心持ち、口調がきつくなる。
「……剣心、でいい。いや、剣心って呼んでほしいんだ。
……だめかな?」
「私が呼んでもいいの?」
少女が瞠目する。しかし、その瞳はすぐにいたずらっぽく細められた。
「あなたの名前を呼んでくれる人、ちゃんといるんでしょ?」
「いない」
暗に彼女がいるのだろうとつつかれて、憮然と返す。
「嘘つかなくていいのに」
「本当だって」
実を言うと――数ヶ月前までいたのは確かだ。
彼女によく似た黒髪の、かわいい感じの子だった。
だが、受験が忙しくなるに従って会う機会も減っていって――お互い、すでに進学先も決まっているにも関わらず連絡もこないし、こちらからもする気が起きないと言うのは、そう言うことだろう。
いわゆる、自然消滅と言うやつだ。
未練もなにもない。
いないならいないで問題ない。
昔から、自分は執着というものが薄かったな、と思い出す。
女の子とつきあったことも何度かあるけれど、そのどれもが全部、告白されてつきあいだして、最終的にフられる、と言うパターンだ。
そういえば、誘うのも連絡も全部相手任せだったから、こんな風に自分から会いにくるのは初めてかもしれない。
軽くにらんでくるような彼女の顔をかわいいと思う。
会うのはまだ二回目だけれど、感情を素直に出す彼女がかわいい。
――好きなんだろうな、と思う。
俺は、彼女が好きなんだ。
かちりと、まるでパズルのピースがはまるように落ちてきた感情。
じわりと胸が暖かくなる。
「名前、呼んでほしい」
自然と口にしていた。
「君に、呼んでほしいんだ」
彼女はゆっくりと瞬き、いくらか迷うような仕草のあと、柔らかく口元をほころばせた。
「けんしん」
その響きに、息を呑む。
胸の中に沸き上がってくる感情。
それは――間違いなく歓喜だった。
名前を呼ばれると言うことが、こんなにもうれしいことだったなんて、知らなかった。
抑えきれない喜びに目を細めながら、再度ねだる。
「もう一回」
「剣心」
「――うん。やっぱり、いいな」
彼女の声が紡ぐ、その響き。
何度も――何度でも呼んでほしくなる。
何度でも、呼んでほしい。
――還りつくことができるように。
日を追うごとに、桜のつぼみが膨らんでいく。
それに並行して、剣心の周りもどんどんあわただしさを増していく。
大学の準備も本格的に始まった。
下宿をしている分、一人暮らしをする学生よりはマシなのだろうが、少し前から道場の年少クラスの指導を手伝うようになり、かなり忙しくなった。
最初に神谷からその話を持ちかけられた時はかなり驚いたが、それだけ期待されているのだと思うと嬉しかった。
自分本来の練習に、子供たちの指導。朝のランニングの最中に出会う人々。ちょっとずつ増えるお気に入りの店。
この街に縁のなかった自分が、こうして少しずつ馴染んでいく。
それは、すごく不思議な感覚だった。
いつか――自分はこの中で当たり前の日常を過ごすようになるのだろう。
そうして――その中に、彼女がいてくれれば。
どんなに忙しくても、桜並木の土手には毎日顔を出した。彼女はいることもいないこともあったけれど、行かずにはいられなかった。
空がオレンジ色に染まる頃から、日没までの――長くはないが、大切な時間。
――ちょっとずつ話すことが多くなって、少しずつ彼女のことを知った。
今はやめてしまったが、実は剣道をしていたこと。
料理が苦手なこと。甘いものが好きなこと。それから。
三月の頭、高校の卒業式に出るために実家に帰ると言う話しをしたら、「いってらっしゃい」なんて言ってくれるから、おもいっきり抱きしめたくなって、我慢するのに苦労した。
彼女はわかっているんだろうか。
いってらっしゃいと言う言葉が示す、その親密さに。
きっと、知らないのだろう。
知っていたら、こんな――土手で会うだけの男に、きっとそんなことは言わない。
でも、うれしかった。
うれしすぎて、思いっきりにやけていたらしい。
彼女に訝しそうに眉を寄せられて、さすがに苦笑したのは秘密だ。
彼女に逢ってからこっち――自分は浮かれていると思う。
どうしようもないほど、浮かれている。
――これが恋なんだと、そんな柄にもないことを思った。
「それでね」
彼女は本当によくしゃべる。
どちらかと言うと無口な自分は、だいたいいつも聞き役だった。彼女の声は聞いていて心地いいから、いくらでも聞いていたくなる。
たまに自分の名前が出てくるのも最高だ。
「剣心」
心の中でなぞった声と、現実が重なった。
目の前には、すねた顔の少女。
「もおっ! 剣心もなんか話してよ。私ばっかり話しててずるい!」
「え……俺は」
ずるい、と言われても。
そもそも、男の話なんて聞いたところで、おもしろくもなんともないだろうに。
しかしそんなことを言ったところで、彼女はきっと納得しない。
今も、唇をつんと突き出すようにして、こちらをにらんでいる。
その、くちびる。
艶々として、いかにも柔らかそうな、ほんのりと染まった紅色のくちびる。
――キスをしたら、どんな感じだろう。
剣心は顔を傾けた。
「んっ」
小さな声が鼓膜を震わせる。
彼女の体が震えたのがわかった。
驚いた彼女が正気に返る前に、肩を抱き寄せて逃げなくする。
「ちょ……っなにす……っんんっ」
離れた唇を追いかけて、再び口づける。
かなり強引なことをしている自覚はあった。
怖がらせるかもしれない。
けれど――嫌われるかもしれないと言う思いは、なぜかなかった。
ん、ん、と塞いだ唇から、苦しげな声が漏れる。
どん、と胸をたたかれて、剣心はようやく唇を解放した。
けれど、彼女を抱きしめる腕はほどかない。
こうやって抱きしめていると、彼女の小ささがよくわかる。
――あの頃に比べたら、自分もかなり上背があるから、キスをしやすい。
ふとそんなことを思って、違和感に内心首を傾げる。しかし、真っ赤になった彼女の顔を見ると、そんな違和感はすぐに霧散してしまった。
睨みつけてくる顔すらかわいいと思ってしまうのも、どうかしている。
「俺にこうされるの、イヤ?」
そんなことないと知っていて、わざと尋ねる。
あの頃も、慣れないうちはいつも真っ赤に顔を染めていた。
でも、どんなに恥ずかしがっても、自分の腕の中から逃げ出すことはなかったから――――……
ぷい、とほんのり赤く染まった顔が横を向く。
その細い肩を抱き寄せて、形のいい耳元に唇を寄せた。
「ねぇ、教えて」
大きな瞳がきゅうっと閉じられる。
「……ずるい」
震える声が剣心をなじった。
「……知ってる、くせに……っ」
それは、イヤではないと言うことでいいだろうか。
我慢しようとして結局はできずに、なんとも言い難い表情のまま、口元がにやけた。
「こっち向いて」
「……やだ」
「お願いだから」
「知らない」
言葉とは裏腹にこつりと額を寄せてくる彼女に、思わず顔が綻ぶ。
目の前にあるつむじに軽く口づけた。
甘やかしているようで、実は自分が甘やかされている。
その事実が少し悔しくて、でも、とても心地いい。
「……あのさ」
甘い香りのする髪に顔を埋めて、小さくねだった。
「名前、いい加減に教えてほしいんだけど」
「……勝手なことばっかりする人には教えない」
半ば予想していた答えに、剣心は喉を鳴らす。
「ずるいだろ、それは」
逢った回数は、まだ両手で数えれるほど。
しかも、場所はこの土手限定。
住んでいる場所はおろか、名前も知らない少女。そんな彼女に、こんなにも夢中になっている自分がおかしい。
でも、それでもいいかと思ってしまっているあたり、始末に負えないと思う。
今でなくていい。いつか、教えてくれれば。
至近距離で見つめてくる瞳が、柔らかく微笑む。
「いいじゃない、少しくらいずるくたって。剣心の方がずるいもん」
「……」
本当にずるいのはいったいどちらなのか。
もうどうでもいい、とばかりに、剣心は再び彼女のふんわりとした唇に自分のそれを寄せた。
「あ……もう、帰らなきゃ」
甘い余韻の中、聞こえてきた小さなつぶやきに、閉じていたまぶたを開ける。
彼女の視線の先には、ビルの中に沈んでいく赤い太陽。
時間だ。
自分に与えられた彼女との時間は、陽が沈むまで。
剣心は腕の中の少女を見る。
離したくない。
今、間違いなく腕の中にいるのに、どうして離さないといけないのだろう。
「剣心?」
胸の奥にこみ上げる何かに、抱きしめる腕に力が籠った。
肩口に顔を埋めて、彼女の香りを吸い込む。
細い指が、なだめるように剣心の色素の薄い髪をすいていく。
黒髪がすりっと剣心の頬にすり寄った。
けれど、その唇が紡いだのは、やはり先ほどと同じ言葉で。
「剣心、私、もう帰らなきゃ」
「……」
わかってる。
声にはせずに、心の中だけで返す。
彼女を困らせたいわけじゃない。
ただ、ほんの少しだけ。あと、もう少しだけ。
一瞬だけ、力を込めて細い体を抱きしめた。
腕をほどく。
あたたかな体が離れていく感覚に、胸が痛んだ。
――いつかも、こんなことがなかっただろうか。
そう確か――別れの予感に震える彼女をだきしめた。これで最後だからと、わがままを自分に赦して。
けれど本当は……――――――
「剣心?」
はっと顔を上げる。
不思議そうな顔が、彼をのぞき込んでいた。
「なんでもない」
笑って首を振る。
先ほど感じた不思議な感覚は、すでに消えてしまっていた。
なにを考えていたのかも思い出せない。
「そ」
よかった、と彼女の表情がやんわりと弛む。
その視線が再び、色を増す夕焼けに向けられた。
一瞬のあと、剣心に戻された彼女の視線が、まるで泣き出しそうに見えた。
思わず、剣心は目を瞬かせる。
しかしそこにあったのは、いつもの柔らかな彼女の笑顔。
「もう、行くね」
戸惑う剣心をよそに、彼女はあっさりとベンチから立ち上がった。
「それじゃあ」
「……っ、ああ、また」
柔らかい笑顔をひとつだけ剣心に残して、なんのためらいもなく離れていく、華奢な背中。
小走りに去っていく彼女の背で、ひとつにまとめられた髪が軽やかに踊る。
咄嗟に手を伸ばしそうになり――けれど、かろうじてその衝動を押さえ込んだ。
……彼女は、気づいているのだろうか。
次の約束をする言葉を、彼女は絶対に口にしない。
次を求める剣心の言葉に、頷くこともない。
いつも――そうだ。
自分たちの間には、ただひとつの約束すらない。
ここに来るといつも彼女がいて、彼を見ると笑ってくれるから――その曖昧な事実にすがっている。
彼女がいてくれるということに、ただ――――
すっかり消えてしまったきれいな後ろ姿に向かって、剣心は腹の底から絞り出すようなため息をついた。
「……好き、なんだ」
彼女の姿を思い浮かべて、小さくつぶやく。
思い出したいのは笑った顔なのに、なぜか去っていく彼女の背中しか思い浮かばなかった。
「好きだ」
もう一度、繰り返す。
――どうしようもないくらい、彼女のことが好きだ。
気がつくと、すっかりあたりは夜の様相に変わっていた。
今は何時くらいだろうか。
門限等の決まりはないとはいえ、下宿を始めて一ヶ月程度の今、遅くなりすぎるのは気が引けたし、三月半ばの夜はまだずいぶん冷える。さすがに厚手とは言え、シャツ一枚のままでは風邪をひいてしまいそうだ。
土手を上がり、神谷道場の裏門を目指す。
おおよそ、五十メートルと言ったところか。
門から少し離れた場所には外灯がひとつ、ぽつんと据えられていて、なんとも頼りない光をアスファルトに落としていた。
そこから少しだけ離れた暗がりに、人影があった。
黒い――まるで、闇を凝り固めたような影。
――反射的に、いやだな、と思った。
怖いわけではない。ただ、近づきたくない。
幸い、道場の門はその影よりも手前だ。早く入ってしまおう。
そう、剣心が考えた時。
「――また、繰り返すつもりか」
思わず足を止める。
その声は、明らかに自分に向けられていた。
見ないようにしていた影を凝視する。
道着……?
スカートと言うには長すぎるそのシルエットは、彼が慣れ親しんだ道着の袴に見えた。
暗がりの中で色はよく分からない。だが、黒っぽい色であることは、かろうじて分かった。
影は長い髪を頭の高いところでひとつにまとめていた。それほど背も高くないので、女の子だろうか。しかし、女の子にしては声が低い。
「……なんの話だ」
警戒を込めて尋ね返す。
しかし、影からの返答はなく――代わりに、じゃり、と言う足音が鼓膜を震わせる。
「……え」
あまりにあっさりと踵を返されて、剣心は思わず目を瞬かせた。
暗がりの中に、ゆらりと揺れる背中。
戸惑ううちに、夜の闇に黒い背中が溶ける。
――完全に見えなくなる直前、かちゃりと何かがぶつかる音がした。
「……なんだったんだ……」
一人きりになった夜の中で、剣心は小さくつぶやいた。
無意識に握りしめていた手をゆっくりと開く。
まだ寒さの残る季節にも関わらず、手のひらにうっすらと汗をかいていた。
それは夜の冷気にすぐに乾いてしまう。
腹の底から、大きくため息を吐き出す。
早く、帰ろう。
明日も朝稽古だ。あまり遅くなると明日に響く。
神谷道場の門をくぐろうとした剣心は、しかし、ふと足を止めて振り返った。
先ほどの影が発した声を思い出す。
――あの声は、自分のそれに似ていなかっただろうか。
2話→
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