@tachik_k
桜鬼ーはなおにー1話↓
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夢を見た。
――が笑っていた。
時に無邪気に。時にどこか大人びたように。うれしそうに、幸せそうに、すねたように、はずかしそうに。
――あきらめたように。
胸が痛い。
――。
俺は君に、そんな顔をさせたいわけじゃ、なかったんだ。
いつもの場所で彼女の姿を見つけた剣心は、きつく眉を寄せた。
「ずいぶん顔色が悪いけど、何かあった……?」
いつも桜色に染まっているはずの彼女の頬は、血の気が失せて、むしろ青白い。
思えば、数日前からどことなく彼女が疲れているような気はしていた。しかし、ここまでひどいのはさすがに見過ごせない。
「体調が悪いなら帰った方が……」
彼女は首を振った。
「大丈夫。……私が、会いたかったの」
にこりと微笑まれて、返す言葉に詰まる。そんなことを言われたら、なにも言えなくなってしまう。
自分だって、会いたいのは同じだ。だからこうして、ここに会いにくる。
そう、会いに来る、のだ。
それしか、手段がないから。
初めて言葉をかわしてから一ヶ月。
自分は未だに、彼女のことをなにも知らない。
――でも、それを自分から問う気にはなれなかった。
問うことが怖かった。
尋ねてしまえば、細い糸のようなこの関係が終わってしまいそうな気がしていた。
明らかに具合の悪そうな彼女をおもんばかって、ベンチに座る彼女の身体を、自分の胸に寄りかからせる。
少しは楽なはずだ。
艶やかな黒髪が、彼の肩の上でさらりと踊った。
ただでさえ細かった彼女が、さらに細くなってしまったようで、胸が針で突かれたように痛む。
こんな時まで彼女は着物だった。
春らしい淡い色合いの着物は、彼女にとてもよく似合っていたが、きちんと着るのは大変だろうと思う。
着物を普段から着ているような人種は、剣心のイメージではどこかのお嬢様だ。
もしかして、彼女は本当にお嬢様で、だから、なにも話せないのだろうか。
ここに来るのも、実は毎回抜け出してきているとか……?
そんな、今時なんの作り話だ、と言いたくなるようなことを考えていた剣心の視線が、ふと彼女の着物の柄に移った。
うす水色の生地に、いくつもの桜の花をあしらった、この時期らしい着物――今朝見た夢の中で笑っていた少女が着ていたものと、よく似ていないだろうか。
もう、ぼんやりとしか思い出せない、夢の記憶。
とても懐かしくて――とても切ない夢。
「……夢を見たんだ」
気が付けば、声に出していた。
不思議そうに少女が剣心を見る。
黒目がちの瞳が、ゆっくりと瞬いた。
「――君に、よく似た人が出てきた。よく笑う人で、それから……――――」
「剣心」
ひどく静かな声が、彼の名前を紡ぐ。
見ると、少女が微笑んでいた。
今にも泣き出しそうな笑顔。
違う。
反射的に思う。
自分は、こんな笑顔を彼女にさせたいわけじゃない。
あの頃のように、もっと屈託なく笑ってほしいのに……――――
白い手が伸びて、左頬にそっと触れる。
指先が何かを探すように頬をなぞり、柔らかく包み込んだ。
「剣心。それは……夢でしょう?」
「……っ」
目を見開く。
彼を映す藍の瞳が、不安定に揺れていた。
「君、は……」
頬にふれている手を思わず強く掴む。
まるで氷かと思うような、ひやりと冷たい手だった。以前にふれたときは、とてもあたたかかったのに。
「何か知ってるのか」
びくりと、掴んだ手が震えた。
――それが、なによりの答えだった。
最近、よく見る夢。
もしくは、頻繁に感じる既視感。
それはもしかして、彼女に関係あるのだろうか。
いや――関係あるはずだ。
知りたい。
いったい、彼女は自分の何なのか。
「そ……れは……」
長いまつげが伏せられ、藍色の瞳に陰が落ちた。
唇がかすかに震え、音のない声を吐き出す。迷うように剣心を見上げ――――それは、本当に何の前触れもなかった。
「あ……?」
ふっと、彼女の体から力が抜ける。
彼に寄りかかっていたはずの彼女の身体が、ずるりと滑り落ちた。
惚けたような表情をしていた彼女の瞳が、何かを悟ったようにひどくかなしそうに剣心を捉える。
しかし、それも一瞬。
直後、藍色の瞳はきつく閉ざされ――――
「おい……!?」
まるでスローモーションのようにゆっくりと倒れていく体を抱き止めようと、剣心が咄嗟に腕を伸ばした刹那。
「……っ!?」
それは、瞬きにも満たない時間だった。
まるで空気に溶けるように――彼女の姿がかき消える。
のばしたままの腕が、むなしく空を切った。
「……うそ……だろ……?」
呆然とこぼれ落ちた言葉。
想像をはるかに超えた出来事に、思考が考えることを拒否する。
人一人が急に消えるなんて、そんなバカなことがあるはずがない。
しかし、目の前には空っぽのままの自分の腕があるばかりで、何度瞬きを繰り返しても、その事実は一向に変わらない。
思考の追い付かない彼を置いてけぼりにするかのように、遠く、太陽がその日最後の光を放った。
花を咲かせる直前までつぼみを膨らませた桜が、ざわりと音を立てる。
目の前を流れる川の、小さな水音。
遠くから感じる、人々の生活の気配。
――先ほどまでと何も変わらない。
何も、変わらないはずだ。
彼女が、いないこと以外は。
そうして。
その日から――彼女は姿を見せなくなった。
――……と、言うんだ。
誰かの声が聞こえた。
――帰ってきたら、その名で呼んでくれるか。
紡がれた声に滲む愛おしさと、決意。
必ず帰るとは約束できない。
けれど、その約束があれば、何があっても彼女の元へ還ってくることができるような――そんな気がしていた。
と。
――どぷん。
耳元で音がした。
急速に視界が暗くなる。
体中にまとわりつくものが重くて、思うように体が動かせない。
なのに、体が沈んでいくのだけははっきりと分かる。
胸に満ちたのは、安堵。
これで――これで、やっと。
けれどふと、別れ際に交わした約束を思い出した。
ああ――そうだ。帰らなければ。
彼女のところに帰るのだ。
帰って――還って、彼女、に……――――――
は、と目がさめた。
薄暗い闇が視界を覆い尽くす。
どくりどくりと、心臓の音がうるさい。まるでそれ以外の音が消えてしまったかのような静寂の中、剣心はゆっくりと瞬きを繰り返した。
今のは夢――だろうか。
だが、夢と言うにはあまりに生々しく、記憶と言うには漠然としていた。
そもそも、本当に記憶だったとして、いったい誰の記憶だと言うのだろう。
誰の……――――
「え……」
頬をぬらす滴に気づき、剣心の唇から間の抜けた声が零れ落ちる。
それが涙だと――自分が泣いているのだと気づくのに、しばらく時間がかかった。
その間も、溢れた涙がどんどんシーツを濡らしていく。
「……っ、なんだ、よ……これ……っ」
どうにも止まらないそれに、両腕で顔を覆う。
訳が分からない。
子どもでもあるまいし、夢程度で何を泣く必要がある。
けれど――夢の最後。
何かを掴むようにのばした腕が、むなしく水をかいただけだったのを思いだして、それが、どうしようもなく哀しかった。
あの手は、何に――誰にむかってのばされていたのだろう。
パァン! と鋭い音が道場に響く。
おおっと周囲からあがるどよめき。
「面!! 一本!!」
稟、とした師範代の声が、道場の中に響きわたった。
「剣心くん」
神谷道場はこの辺りでいちばん大きな道場だ。
今も、下は小学生から、上は八十代の門下生三十人ほどが稽古に勤しんでいる。
神谷に声かけられたのは、活気に満ちた道場の隅で、流れ落ちる汗を拭っていた時だった。
「どうした、ずいぶん気もそぞろじゃないか」
「……申し訳ありません」
その通りなので、頭を下げるしかない。
「ああ、責めてるわけじゃない。謝る必要はないよ。環境が変わった直後だし、気づかないうちに疲れているのかもしれないな。……あまり無理はしない方がいい」
はい、と剣心はうなずいた。
この神谷道場で練習をするようになって一ヶ月と少し。
剣心の腕は、長年いる年上の門下生にも負けず劣らずのものだったから、今回、先輩とは言え、あきらかに実力が下の相手に簡単に一本をとられると言うのは、まったく集中できていないと言うことだ。
本当に、言い訳のしようもない。
原因はわかりすぎるほどわかっている。
――彼女の姿を見なくなって、すでに一週間。
文字通り、目の前で消えてしまった彼女のことが気になって、他のことがまったく手につかない。
そろそろ急がなくてはいけない大学の準備もまともにできていない。
竹刀を振っていれば気がまぎれるかと、普段は出ない時間帯の稽古に出たにもかかわらず、このザマだ。
その上、今朝の夢。
あの夢もまた、彼の心を乱す。
何の夢かはわからない。
けれどやけにリアルで――――……
「ところで」
と、思考の波に沈みかけていた剣心を、神谷の声が現実に連れ戻した。
神谷の視線は、開け放たれた道場の入口に向けられていた。
その先にあるのは、あの桜並木だ。
数日前から花を咲かせ始めた桜は、今では、塀の上から美しい花を覗かせている。
知らず、剣心の喉が軽く音を立てる。
そんな彼に気づいているのかいないのか、神谷はゆったりと微笑んだ。
「剣心くんは、あの桜好きなのか?」
「……え」
「いや。桜が咲き始める前から、ずいぶん頻繁に桜を見に行っていたようだからね」
「あぁ……え、と……」
邪な胸の内を、言い当てられたような気がした。
女の子――それも、名前を知らないどころか、人間でない可能性すらある――に逢いたくて、とはとても口にできない。
しかし動揺を胸の内に押さえ込んで、剣心は何食わぬ顔で笑った。
これでも、ポーカーフェイスは得意だ。
彼女の前では、あまり役にたたなかったけれど。
「……あの桜はかなり前からあるんですか?」
話をそらしたくて口にした質問に、神谷は穏やかに頷いた。
「ああ。道場の塀と同じでね、江戸のころからあるらしいよ」
剣心は瞬いた。そんなに昔から、あの桜並木はここにあったのか。
神谷の眼が柔らかく細められる。
「あの桜の中で、いちばん大きな桜があるだろう?」
――よく知っている。彼女がいたのは、いつもその桜の下だった。
他の桜に比べて幹も太く、たくさんのつぼみをつけた枝を、空に届けと言わんばかりに伸ばしていた。
花が咲くのを、彼女はとても楽しみにしていたことを思い出す。
「昨年、あの桜は極端に花が少なくてね……今年は無理かと思っていたんだ」
花を咲かせてよかったと、神谷は笑った。
「そう言えば――あの桜には、少々逸話があるんだ」
「逸話、ですか」
ちょっとした昔話なんだ、と神谷は前置きをした。
「明治の半ば頃、この道場の二代目の道場主は女性でね」
無意識に、剣心の喉が小さく音をたてた。
――なんだろう。急に喉が乾く。
「その夫は、理由は分からないが、大陸にわたって――行方不明になったらしい。けれど、彼女は夫の帰りを信じて、よくあの桜の下で夫を待っていたらしいよ。
だから、桜が咲かないと、二人が会えないような気がしてね。昨年はずいぶん落ち着かなかったな」
そういう神谷の瞳は、ひどく優しかった。
愛しいものを見るような瞳。
彼はずっとその話を聞いて育ったのかもしれない。
懐かしい昔話。
神谷にとってはそうだろう。けれど……――――
頭の隅がずきりと痛んだ。
心臓の鼓動が早くなり、息をするのが苦しい。
「あの――――」
からからに乾いた唇を引きはがすように、言葉を紡ぐ。
「その、道場主の名前は……――――」
しかし、神谷は困ったように眉尻を下げ、
「残念だが、四代目以前の道場主の名前は分からなくてね。何しろ、第二次世界大戦後の混乱で記録が紛失しているものが多いんだ」
「……そう、ですか」
剣心は声を落とした。
胸の中にぽっかりと穴が開いた気がした。
いつものベンチに腰かけて、彼女がそうしていたように彼女を待つ。
……来ないのは、分っていたけれど。
彼女が消えた日、まだつぼみばかりだった桜は少しずつ花を開かせ、今では八分咲きと言ったところだ。二、三日中には満開になるだろう。
どんどん膨らんでいく桜のつぼみを、うれしそうに見上げながら、
「もうすっかり春なのね」
と、幸せそうに笑っていた少女。
自分は、そんな彼女を見ているのが好きで。
見ているだけで、幸せで……――この時間がずっと続けばいいと……彼女に会う度に覚える違和感には気づかない振りをして。
……本当は――おかしいことには気づいていた。
着物に身を包んだ、この辺りでは見かけない少女。
黄昏のひとときしか逢うことはできず、名前も絶対に教えてはくれない。
おかしいと、思わないはずがない。
けれど、そんないくつもの不自然なものに目をつむっても、彼女に会いたかった。
しかしそれがまさか――ヒトですらないなんて。
でも、と、剣心は自嘲気味に唇をつり上げた。
彼女がヒトではないと分かった今でさえ、こんなにも逢いたくてしかたがない。
自分は本当に頭がおかしくなったのか。
それとも、コレこそが自分の見ている夢か。
――それでも、いい。
自分の頭がイカれていようが、彼女がヒトでなかろうが、たとえ夢だろうが、何でもいい。
彼女に、逢いたい。
ただ、逢いたい。
――ずっと、待っていたそうだよ。
ふいに、神谷に聞いた『二代目道場主』のことが頭をよぎった。
生死すらわからない夫を、ただひたすらに待ち続けたと言う女性。
……彼女は、夫に逢えたのだろうか。
* * *
ぎぃと軋んだ音をたてて、観音開きの扉が開く。
とたんに黴臭いようなにおいが鼻をついて、剣心は眉を寄せた。
神谷道場の裏手に建つ白壁の古い蔵には、もう使わないだろう道具や本が押し込められていた。
蔵の中は薄暗く、いろいろなものが雑多に積み重ねられ、打ち捨てられたように転がっている。
神谷本人でさえ、この中に何があるかなど把握していないに違いない。
しかし――目的のものを探すには、この中を探すのが手っ取り早い――はずだ。
剣心はふぅっと息を吐くと、蔵の中に足を踏み入れた。
――神谷が語った『二代目道場主』がどうしても気になってしかたがない。
いったいどんな女性だったのか。
彼女は、どんな一生を送ったのか。
戦前の神谷道場の資料については、ほとんどが紛失と神谷は言っていたが、少しは残っているものもあるかもしれない。それに、百年も前のものになれば、探すものもけっして多くはないだろう。
まずはこの蔵の中を探して――それでもだめなら、地区の図書館も当たってみよう。神谷道場はそれなりに古い家だから、地区の資料として何か残っているかもしれない。
それでもだめなら、そのときだ。
蔵の中に積まれているものに視線を移す。
奥に、本がぎっしりと詰まった本棚が五つほど。
その前にも、入りきらなかったらしい本の山が無数にある。
まずはあの本棚から攻めようか。
……その為には、雑多に積まれてあるものを多少なりとも片づけて、通路を作る必要がありそうだ。
探し物なら好きにしてもかまわないと、神谷に許可はもらってある。
だが、それにしたって。
「……一日仕事だな」
しかも、一日で終わるかどうか。
眉を下げて苦笑をこぼす。
まあ、どうせ大学が始まるまでは時間はあるのだからと、剣心はシャツの袖をまくりあげた。
――探しはじめて、どのくらいたっただろう。
床の片付けだけで半日近く。
積んである本にも目を通し、本来の目的である棚に手を出すことができたのは、昼を大幅に過ぎてからだった。
棚にある本を一冊取り出して、表紙を確認。目的のものでなければそのまま戻す。気になったものは表紙をめくって――その繰り返し。
……その本を見つけたのは、蔵の一角を埋め尽くしていた本棚の、最後のひとつに取りかかってすぐのことだった。
ずいぶん古そうな、和綴じの本。
――表紙には何も書いていない。
ぺらりと紙をめくると、古い本独特の、湿ったようなにおいが鼻をつく。
『明治三十年九月五日』と言う手書きの文字が目に飛び込んでくる。
日記だ。
それも――明治時代の。
息を呑む。
鼓動が跳ね上がる。
剣心は深呼吸を繰り返して無理矢理自分を落ち着かせると、続きの文字に視線を落とした。
明治三十年九月五日
今日はずいぶん体調がいい。剣路がついに師範になった。いつかあの子が道場を継いで三代目になってくれればうれしいけれど、あの子はどう思っているだろう。
――三代目、と言う文字に、目が釘付けになった。
文面からして、この日記はその『三代目』の母親だろう。
神谷は、あの話の女性を二代目の道場主だと言っていた。ならば、この日記はまさに、当の二代目が書いたものである可能性が高い。
どくりどくりと脈打つ心臓をどうにかなだめ、ページをめくる。
日記は、本当にただの日記だった。
たまに日付をとばしつつ、何気ない日常のことが綴られている。
――どうやら本当に、この日記は二代目のものらしい。
そう確信したのは、日記の中に道場についての記述が多かったからだ。
運営のこと、道場の様子。
彼女を取り巻く人々の名前。
それから、彼女はこの時点でかなり重い病気にかかっていたこと。
そうして――――『あの人』。
頻繁に出てくるにも関わらず、名前はいっさい書かれていない。
おそらくこれが、彼女の夫だろう。
体が自由に動かなくなっても、それでも夫を待っていた彼女。
ページをめくる指先が震えた。
彼女はいったい、どんな気持ちでこの日記を綴っていたのだろう――――
明治三十年十二月二日
今夜は星がとてもきれいだったから、星見をした。
よくあの人と一緒にお酒を飲みながら星見をしたことを思い出していたら、剣路に怒られてしまった。大丈夫なのに。
微笑ましい日常に、思わず笑いが漏れる。
なぜか、口をとがらせる『彼女』の顔が浮かんだ気がした。
だが、微笑ましいと思っていられたのは途中までだった。日が進むごとに日付のぬけが多くなり、美しかった字に乱れが見え始め、やがて。
冒頭の流麗さなど見る影もなくなった震える字で、それでも何かを訴えるように必死に紡がれる言葉。
明治三十一年三月十八日
最近はとても暖かい日々が続いている。門の外の桜のつぼみがずいぶん膨らんできたと、剣路が教えてくれた。
もうすぐあの人がいなくなって一年になる。詮無いことだけれど、あの人と桜をいっしょに見たかった。
明治三十一年三月二十八日
あともう少しで桜が満開になりそう。
今日はあの人の夢をみた。満開の桜の下で、いつものように笑っていた。
もしもいつかあの人に会うことができれば、どうしても聞きたいことがある。あなたは
日記はそれを最後にぶつりと途切れていた。
何があったのか、飛び散った墨が日記の白地を容赦なく汚している。
ひときわ目立つあとは、筆を取り落としたのかもしれない。
残った墨のあとが、まるで乾いて固まった鮮血のように見えて、剣心は息を呑んだ。
血。
白い雪の上に飛び散った――――
「……っあ……」
心臓が激しく音をたてた。
「っ、く、は……っ」
息が苦しい。
胸を押さえる。
手にあった日記が、ばさりと音をたてて土埃の舞う床に落ちた。
あれは彼女の想いのカケラ。
早く――はやく、拾わないと。
どうにか腕を伸ばそうとして、けれど、指先が本に触れるよりも早く、激しいめまいに体が揺れた。
急速に視界がせばまっていく。
意識が途切れる直前に見えたのは、彼の左頬に手を伸ばす彼女の姿……――――
夢を見ていた。
幕末から明治にかけて生きた、愚かで――けれどただひたすらにまっすぐな男の一生。
夢の最後、彼は――自分は、船の上から、遠すぎて見えるはずもない陸地を眺めていた。
逢いたいと――ただ、逢いたいと、訳もなくそれだけを願いながら。
それは――本当に一瞬の夢だった。
遠い過去。
生まれる前の記憶。
人斬り抜刀斎と呼ばれた『緋村剣心』の記憶。
血に濡れ、罪を重ね。
そんな自分が、安らぎを求めるなど赦されないことだと怯えながら。
それでも。
――ただ、君に逢いたくて、逢いたくて。
そのために自分は還ってきたんだ。
――ただいま、……る。
「……――い、おい! 剣心くん、おいっ」
「……っ!」
呼ぶ声に、はっと我に返る。
体がひどく重かった。蔵の床に座り込み、手をついたままの状態の緩慢な動きで、声の主を振り返る。
六十代ほどの男が、ひどく心配そうにこちらをのぞき込んでいた。
髪の毛はその年齢には思えない程黒々とし、鍛えられた体はまだまだ若々しく、年齢をあまり感じさせない。
彼は――――……
「大丈夫か、何があった」
「……――いえ、大丈夫です。少しめまいがしただけで」
胸に沸き上がった動揺を悟らせないよう、咄嗟に答える。
記憶が、混乱していた。
一瞬、自分がだれなのか――この時代がいつなのか分からなかった。
それでも、すぐに答えられたのは及第点だ。
しかしさすがに男――神谷はごまかされてはくれなかった。
凛々しい眉が盛大にしかめられる。
「大丈夫には見えないぞ、剣心くん」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
笑ったつもりではあったが、たぶん笑えてはいなかった。
神谷があきれた様子でため息をつく。
「……まったく、体調が悪いときはおとなしくしておかないとだめだろう」
まるで幼い子供に対するような物言いに、少しだけ笑う。
神谷のおかげか、思考が――『緋村剣心』としての思考が、少しずつはっきりとしてくる。
「とにかく、早く出なさい。ここはあまり空気もよくない」
掃除などずっとしていなかったからな、と神谷は言った。
たしかに、蔵の中のホコリはすごかった。今も、明り取りの格子窓から差し込む光に、ホコリがキラキラと輝いている。
いろいろ決着がついたら、蔵の掃除をかってでてもいいかもしれない。
「俺は――少し休んでから行きます」
「そうか」
神谷は顔をしかめたが、あまりしつこく言うのもどうかと思ったのだろう。
無理はするなよ、と言い置いた神谷が蔵を出ていったのを見届けて、剣心は大きく息を吐き出した。
壁に背を預けて座り、力なく足を投げ出す。
ホコリなど気にならなかった。
身体がだるい。
頭が重いのも相変わらず。
これはたぶん――前世を思いだした反動だ。
前世。
ナンセンスすぎる。
笑いたいわけでもないのに、は、と嘲るような声が漏れた。
そんなもの、誰が信じる。
だが――今、自分の中に確かにある記憶は、間違いようのない現実だ。
今の『緋村剣心』ではない。激動の時代を生きた『緋村剣心』の記憶。
そうして。
記憶の中でひときわ鮮やかに色づいた――彼女の記憶。
泣き顔、怒った顔、すねた顔。
何より――花のような笑顔。
そのどれもが、自分の中で鮮明に息づいている。
ふと沸き上がった自嘲に、剣心は頬をゆがませた。
つまり――彼女のことがあんなにも気になったのは、前世と言うものがあるからか。
彼女の笑顔が見たくて。
笑ってほしくて。
その笑顔を、自分だけに向けてほしくて。
それらすべてが……――――
ゆらゆらと揺れる視線が、隣に投げ出された本の上で止まった。
――彼女の、日記。
彼女。
ほとんどの記憶を思いだしたと言うのに、彼女の名前だけが思い出せない。
それはまるで、思いだしてはいけないと言う戒めのようだ。
開いて投げ出されたままの日記を拾い上げる。
彼女の想いが綴られた、彼女のカケラであり――今の自分にとっては、彼女そのもの。
それを愛しいと思ってしまうこの感情は、前世の彼のものか。
それとも――今の自分のものか。
わからない。
わからないまま、パラパラとページをめくり――その手が、不意に止まった。
「……っ」
色素の薄い彼の瞳が、ゆるゆると見開かれる。
はらり、とページの隙間から落ちてきたもの――それは、桜の花びらだった。
いつ紛れ込んでいたのか、かさかさになって茶色く変色した花びらは、剣心が触れるより先にほろりとくずれて、空気にとけるように形を失ってしまった。
まるで――彼の腕の中から消えてしまった彼女のように。
――逢いたいと――強く、思った。
彼女に逢いたい。
それは、衝動だった。
前世とか、現在とか、今はそんなものどうでもいい。
今。
この瞬間。
他の誰でもなく――【自分】が、彼女に逢いたいのだ。
重い身体になんとか力を入れて、よろりと立ち上がる。
開け放たれたままの観音扉から見える外には、夕暮れが迫りつつあった。
鮮やかな朱が、まだ青さの残る空を染めている。
その朱色でさえ、やがて夜の藍に包まれるのだろう。
――この一瞬の時間を、逢魔が刻とはよく言ったものだ。
あの世とこの世が交わる時間。
早く。
何かがせかす。
思うように動かない体がもどかしい。
――剣心。
そう呼ばれるのが好きだった。
十数年、呼ばれることのなかった名前を、なんのてらいもなく呼んでくれた人。
桜並木のある路は道場の裏門に面していて、蔵のある場所からは少し離れている。
一歩進むごとに、だんだんと駆け足になっていく。
身体のだるさも、もう気にならなかった。
彼女の笑顔が好きだった。
出会った頃は無邪気だった笑顔は、けれど、だんだんと憂いを帯びて――胸が痛かった。
心から笑ってほしかったのに、けれど、その方法を自分は知らなくて。
歯がゆくて、でも、離れることもできなくて。
自分は、どれだけ身勝手なのかと……――――
桜のつぼみの下で笑ってくれる君にどれだけ惹きつけられたか、きっと君は知らない。
でも、それが自分に見せてくれる表情だったら、たとえ笑顔でなくても……どんなものでも、愛しかった。
君がくれる想いが、ただ、大切だった。
何かに突き落とされるような勢いで門から飛び出した剣心は、瞬間、雷に打たれたように足を止めた。
飛び出した先の桜並木は、満開だった。
夕暮れの空がかすむほどに、薄桃色の花が咲き乱れている。
ここは、こんなにも桜が咲き狂っていただろうか。
どこまでも――どこまでも続きそうな、桜の海。
「……こ、れは……」
呆然とつぶやいた剣心の背後で、ざ、と何かを踏みしめる音がした。
何も考えずに、勢いのまま振り向いた剣心の身体がぎくりと強張る。
そこにいたのは、見覚えのある――どころか、よく知っている顔だった。
毎日のように鏡で見ている顔。
――いや、違う。それよりも少し幼く、緋色の長い髪を後頭部でひとつにまとめている。
そうして、濃紺の羽織と同色の袴。腰に差した二本の刀。
何より――その左頬にある大きな十字傷。
あまりにもよく知った姿。
剣心はあえぐようにその名前を口にした。
「……人斬り、抜刀斎……」
つづく→