@tachik_k
桜鬼ーはなおにー 2話↓
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3話
なぜ、とか、どうして、などと言う疑問は出てこなかった。
現実か夢かも分からない――ただ、目の前に『抜刀斎』がいる。
それがすべてだ。
抜刀斎は目を軽くすがめ、嘲笑うように唇を吊り上げた。
「あんたは、俺がそう見えるのか」
「……どういうことだ」
問い返す声は、自分のものとは思えない程、掠れていた。
剣心は抜刀斎を睨みつける。
その口振りでは、目の前の少年は『人斬り抜刀斎』ではない、と言うことになる。
抜刀斎はくつりと喉を鳴らし、
「俺は――おまえが思う罪の形だ。縛り付けるもの、と言うべきかもな」
「縛り付けるもの……」
オウム返しに繰り返して、それを凝視する。
生まれ変わった今でさえ、彼を縛り続ける罪の記憶。その記憶が形をとるとしたら、確かにそれは自分にとっては『抜刀斎』に他ならない。
「この桜に」
満開の桜を見上げて、抜刀斎はぽつりと言った。
「あの娘は想いを残した」
少年の幼さを残した指先が、桜の幹にふれる。
それはよく見知った――いつも彼女が彼を待っていた桜だった。
他の桜よりも一回り大きな幹、四方に伸びた枝には数えきれない程の花。
――そう言えば、去年はほとんど花を咲かせなかったと神谷が言っていたのも、この木だった。
それが、目を見張るほどの満開の花を咲かせている。まるで――これが最後だとでも言うかのように。
指先が桜から離れる。
夕陽を受けて紅く染まる瞳から、目がそらせない。
「その想いが、彼女をここに縛り続けている。それこそ、俺のような存在が生まれるほどにな。
――言っただろう、繰り返すつもりか、と」
聞き覚えのある言葉に、息を呑んだ。
半月ほど前、彼女と別れた後に出会った人影。
あれは――『コレ』だったのか。
繰り返すつもりかと――その言葉が今さらのように胸に刺さった。
――ふと思う。
今の状況と、明治の頃と、いったいどれほどの差があるのだろう。
結局、どちらも同じだ。
彼女を幸せにすることもできず、ただ、自分の都合で振り回しているだけに過ぎない。
「そもそも」
と抜刀斎は言った。
「あの娘は咎人だ。此岸と彼岸の狭間で、未練がましくとどまり続けている存在でしかない」
カッと怒りが沸き上がった。
叫ぶ。
「彼女に罪なんかない!」
あのきれいで優しい人が罪人と言われるなど、赦せるはずがない。
けれど、
「ここに留まることこそが罪だ」
「……っ」
二の句が継げず、愕然とそれを見やる。
とどまることが――願うことが罪だと言うなら、自分は。
彼女の罪は、自分が背負うべきものだ。
自分が――あの日、彼女の元にとどまってしまったから。
「俺が――彼女に逢ったから」
力のないつぶやきがこぼれ落ちた。
「俺が、彼女に出会わなければ」
「出会ったことに罪などないさ。そうして、輪廻の輪に戻ったおまえが、前世の罪を背負う道理もない」
そうでなければ、この世は咎人だらけになってしまう。
抜刀斎の唇が、緩く弧を描く。
それは、親が泣きわめく子供に向けるような、どこか困ったような微笑だった。
――ああ、確かに、目の前のコレは抜刀斎ではないのだろう。
抜刀斎は――あの頃の自分は、こんな風に笑ったりなどしなかった。
「もし」
抜刀斎の姿からはとても想像もできないような柔らかい口調で、彼は言った。
「過去の罪がおまえに残っているとしたら――それは、自分の行いを後悔するあまり、娘の願いをくめなかったことだ」
「ねがい……」
身体が朽ちてなお、彼女の魂をこの世に留まらせたほどの願い。
「おまえを想う故に、あの娘は心を残した」
子どもに言い聞かせるような口調で、それは言った。
「もう、解放してやれ」
解放……?
ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「もう限界なんだ。彼女が心を残したこの桜は、花を咲かせるのも今年で最後になるだろう。そうして、彼女も消える」
輪廻の摂理にはずれた魂の行く末は決まっている。
――出逢いさえしなければ、希望など抱くこともなく、静かに消えることもできただろうに。
「あの娘があの娘であるうちに、逝かせてやれ」
意味が分かるまで、しばらく時間がかかった。
それは。
それは、つまり……――――
もう、彼女に逢えないと言うことだ。
「いやだ」
気が付けば、口に出していた。
せっかく逢えたのに。
また、彼女に逢えたのに。
もう、逢えないなんて――そんなのは、いやだ。
認めない。
認めてたまるか。
「彼女はどこだ!」
殺意すら込めて、抜刀斎の姿をしたものを睨みつける。
しかし、それは静かな瞳を剣心に向けただけだった。
「……逢うつもりか。逢ってどうする。近くにいるように見えても、所詮、おまえたちがいるのは此岸と彼岸だ。
ともにいられる訳もないだろうに」
息を呑む音が、やけに大きく耳に響いた。
分かっていた――いや、気づきなくなかった事実を突きつけられて、呼吸が止まる。
――おまえには、彼女といることを望む資格さえないと言われているようで。
でも、いやだと思った。
資格があろうがなかろうが、彼女に逢いたい。
思えば明治の頃、罪人である自分が彼女の手を取った時点で、自分の罪を彼女に背負わすことなどわかりきっていたのに。
それでも。
過去も――そして今も。
自分でも呆れるほど傲慢に、ただひとつのことを望んでいる。
逢いたい。
彼女に、逢いたくてたまらない。
明治の昔からそうだった。
彼女に対しては、自分はどこまでもわがままで、自分勝手になってしまう。
いつから自分はこれほどわがままになったのだろう。
出会って間もない頃は、彼女を傷つけたくなくて離れたことすらあったのに。
ああ――違う。
あれもまた、自分が傷つきたくないだけだった。
本当に――自分はどこまでも傲慢で――そうして、どうしようもないほど、彼女を。
ふ、と抜刀斎が何かに気づいたように顔をあげた。
刹那――風が吹く。
花散らしの風。
「……うわ……」
花びらに覆われて、目の前が淡い桃色に染まっていく。
花嵐の向こうから、抜刀斎のあきれた声が聞こえた。
「まったく――どちらも救いようのない愚か者だな」
――あざけるような言葉。
しかし、それを紡ぐ声は、柔らかな愛おしさを含んでいるような気がした。
風がやむ。
視界を遮っていた花嵐が消えていく。
目を開けた剣心は――しかし、その視界が変わっていることに気づいた。
瞬時に悟る。
これは、明治を生きた『緋村剣心』の記憶だ。
おそらくは――最期の。
――力の入らない体が、まるで何かに引っ張られるように前へと足を踏みだす。
景色はいつしか、よく見知った通りへと変わっていた。
あの頃、何度も何度も二人で通った道。
夏は道沿いの川で子供を遊ばせて。
秋は赤や黄色に色づく桜の紅葉を愛でて。
冬は白く染まった道を、並んで足跡をつけて歩いた。
そうして、春。
満開の桜並木。
ぼんやりとにじむ視界に、そこだけははっきりと浮かび上がる女の姿。
どこかおぼつかない足取りは、今にもよろけて倒れてしまいそうだ。
だが、倒れ込むよりも早く、その頼りない足取りが止まる。
彼女の視線が、こちらの姿を捕らえたのがわかった。
ゆっくりと見開かれた瞳から、みるみる溢れ出す透明な滴。
今までの足取りが嘘のように、両手を広げ、もつれるように駆け寄ってくる彼女。
涙に濡れた顔は、しかし、抑えきれない喜びに溢れていた。
俺は笑った、のかもしれない。
ただ、駆け寄ってくる彼女の姿が愛しくて。
彼女の笑顔が、あまりに愛しくて。
それを手放したくなくて、思うように動かない腕を彼女に向かってのばす。
指先が彼女に触れた――刹那。
俺は、懐かしい温もりに包まれていた。
記憶よりも細くなってしまった身体を、力の限り抱きしめる。
「ただいま、――――……」
「――おかえりなさい、心太」
涙混じりの声が、約束の言葉を紡ぐ。
そうか。俺は。
俺は、ようやく、君に。
ぶつり、と目の前が暗くなった。
暗転。
そして。
再びの、桜並木。
けれどそれは、遠い記憶にある桜並木ではなく、この二ヶ月弱の間に何度も訪れた桜並木だった。
おかえりと、そう言って彼を抱きしめてくれた温もりは、すでに気配を感じることすらできない。
震える唇を開く。
しかし、言葉が紡がれることはなく――ただ、音のない吐息だけがこぼれ落ちた。
最期の時、自分は確かに彼女の名前を呼んだ。
呼んだはずだ。
それまでだって数え切れないほど、その名を紡いだのは間違いない。
なのに、どうして。
どうして、思い出せないのだろう。
彼女の名前がどうしても思い出せない。
こんなにも、彼女の名前を呼びたいのに。
喉がひりひりと痛む。
胸の奥が苦しい。
「……っ、お、……っ!」
叫びが口をついでほとばしりそうになった、その瞬間。
「……っ!?」
愛しいぬくもりが、彼を抱きしめていた。
* * *
身体に伝わる衝撃に目を見開く。
背中に細い腕の感触。艶やかな黒髪が視界を横切る。
その髪を飾る、藍色のリボン。
優しい香りが鼻先を掠めた。
――彼女、だ。
「……っ、あ……」
喉が詰まる。
想いばかりが溢れて、声が出ない。
逢いたくて逢いたくて――気が狂いそうなほど逢いたかった彼女が、腕の中にいた。
「けんしん」
「……っ」
名前を呼ばれ――けれど、呼び返す名前がないことが苦しい。
苦しさに耐え切れず、すがりつくように細い体を抱きしめた。
こんなにも柔らかくて温かい彼女が、この世でものでないことが信じられない。
信じたくない。
彼女が何者でもいい。
そばにいたい。
離したくない。
――繰り返すつもりか。
先程の言葉がよみがえる。
ああ――間違いなく、自分は繰り返すのだろう。
たとえ彼女がヒトでなかったとしても。
彼女を、不幸にするとわかっていたとしても。
何度でも。
何度でも、自分は――彼女の手を取らずにはいられない。
そうして、その度に恋をする。
きつく抱きしめていた体はそのままに、至近距離でその瞳をのぞき込む。
「――また、逢えた」
彼女が笑っていた。
けれど、泣いていた。
それがどうしようもなく哀しくて、剣心はそれを振り払うように彼女の唇をふさいだ。
きっと、本当はわかっている。
そばにいたい。
離したくない。
それは紛れもなく本心で――けれど、それがけっして叶わないことも。
ひたりひたりと近寄ってくる別れの予感を振り払うこともできず、ただ、何度も何度も唇をあわせる。
数え切れないほど口づけを繰り返し、甘い吐息を貪る。
彼女は涙に濡れた顔で、それでも微笑んだ。
すり、と剣心の胸に頬をすり寄せる。
「剣心」
彼女が、彼の名前を呼ぶ。
こんな時ですら、その響きはとてもとても優しくて、鼻の奥がツンと痛んだ。
白い指先が頬を――左の頬を、優しくなでていく。
かつて十字傷があった、その場所。
今はもう、その傷はどこにもないけれど。
「私、あなたに聞きたいことがあったの」
――どうしても、聞きたいことがある。
日記に書かれていた、最後の言葉を思い出す。
これは――あの日記の続きだ。
彼女が、夫『緋村剣心』に尋ねたかったこと。
「剣心、あなたは――――」
「あなたは、幸せだった?」
息を呑む。
それは、きっとあの頃――彼女が何よりも聞きたかった問い。
――ねぇ、剣心。
遠い過去の、彼女の声がよみがえる。
――私、幸せよ。
二人きりの縁側で星を見上げながら、彼女はそう言って笑っていた。
微笑む彼女が好きだった。
心の中に降りつもった雪が、少しずつ溶けていく感覚。
しかし、幸せを感じる度に、胸の中にじわりじわりと滲みだしてくるような罪悪感。
多くの幸せを奪った自分が、幸せを感じることは罪だと思っていた。
けれどその想いは、いちばん幸せにしたい人を何より哀しませていたのだと、今さらのように気づく。
それにも関わらず、傍らでずっと微笑んでくれた人に、自分は。
「……幸せだった……」
ひ、と、みっともなく喉が鳴った。
涙で視界がにじむ。
今は遠くなってしまった、幕末。そして、明治。
かつての自分が生きた時代。
多くの人を殺め、いくつもの幸せを奪い、そうして、拭い切れない罪に濡れて。
それでも、間違いなく自分は。
言葉があふれる。
衝動のまま、剣心は叫んだ。
「俺は幸せだったんだ、――薫……っ!」
ああ、そうだ。
薫。
それが、彼女の名前。
大切な、大切な、たったひとつの名前。
ようやく――ようやく、思い出せた。
「幸せだったんだ……かおる……っ」
もう一度叫んだ唇に、柔らかな少女のそれが触れた。
「うれしい」
ほろりと、薫が笑う。
「うれしい、剣心」
頬に白い指先が触れ、そっと涙の筋を拭った。
「かお……」
名前を呼ぼうとして、剣心は息を呑んだ。
彼女の着物の裾が、ほろほろと崩れていく。崩れたそれは、淡い桜の花びらに姿を変えて風に舞った。
「私、幸せだったわ」
柔らかく細められた目の端から、ころりと涙の粒が転がり落ちた。
その滴すら、花びらに溶ける。
「あなたと出会って。あなたを好きになって。あなたと、ともにあることができて」
「あなたを――待つことができて」
薫を形作っていたものが、花びらになってはらはらと流れていく。
消えていくその姿に、それでもほほえみを浮かべた薫の唇が、柔らかな言葉を紡いだ。
「ありがとう、私に出会ってくれて。
ありがとう、私にお帰りなさいと言わせてくれて。
ありがとう、私の家族になってくれて」
ざっと桜が音をたてる。
――ありがとう、愛しているわ。
唇に触れた温もりは一瞬。
刹那、ばさっと音をたてて、視界が薄桃色に染まった。
「かお……る……?」
応える声も、姿ももうどこにもなく。
呆然とする彼を慰めるように、ひらひらと幾千、幾万――那由多の桜の花びらが降りそそぐ。
桜色に染まる世界の中で、ふいに現れた別の色彩。
無意識に伸ばされた剣心の手の中に、ふわりと舞落ちてきたもの。
それは、彼女の髪を飾っていた藍色の――――
「……っ」
喉が詰まる。
嗚咽がこみあげる。
リボンはまるで慰めるように彼の指先をかすめ――捕まえるよりも早く、やはりほろほろと桜の花びらになって桜色の世界に溶けていく。
「……かおる……薫……っっ」
その場にひざを付き、ただひとつの名前を繰り返し呼び続けた。
どこかが壊れてしまったように、涙が止まらない。
――君がそうしてくれたように、いつか生まれ変わってくる君の幸せを、自分は願うべきなのかもしれない。
でも身勝手な自分は、どうしたって願ってしまう。
いつかまた、生まれ変わった君に逢いたい。
どうか、俺に出会ってほしいと願う。
そうして、今度こそ――君が呆れるほどの愛しさを込めて、君の名前を呼びたい。
――そうすれば君は、出会った頃のように笑ってくれるだろうか。
* * *
彼の前に、一本の桜があった。
優美とすら言える幹から四方へと枝を伸ばし、見事な花を咲かせた、見惚れるほどに美しい桜。
見上げれば、はらりはらりと舞い落ちる花びらが視界を埋める。
誰に言われるまでもなく、彼は知っていた。
これは――記憶だ。
彼の中にある、薫の記憶。
それが、散っていく。
音もなく、留まることもなく、ただ、静かに。
こみ上げる嗚咽を、彼は懸命に飲み下した。
この桜がすべて散ってしまったら、きっと自分の記憶は……――――
前世の記憶。
そして――胸を焦がすような、早春の出会い。
分っている。
前世の記憶と、それに付随する早春の記憶は、現世を生きる自分が持っていてはいけないものだ。
けれど――本当は忘れたくなんかない。
彼女がいるかいないかもわからない世界で、自分に残されたのは、その記憶だけなのに。
どんなに苦しい記憶でも、どんなにつらくても、そこにあった出会いも別れも――切なさも愛しさも、なにも失いたくない。
しかし、彼の想いに反して、桜の花びらが一枚、また一枚と風に舞う。
記憶がはらはらと消えていく。
だから――せめてと、桜に願った。
せめて、春をまとう暖かな気配だけは残してくれないかと。
自分からすべて奪っていかないでくれと。
桜の面影だけは、どうか。
――幸せよ。
そう言って笑った、彼女の面影だけは。
――いつか再びの春を迎えるその日まで、どうか。
道着に着替えて、がらりと道場の引き戸を開ける。
すっかりなじんだ木のにおいが、剣心の鼻をくすぐった。
まだ陽が昇ったばかりの時間。道場には誰の気配もない。
早朝の道場は、彼の好きなもののひとつだ。
まだ三月になったばかりの早朝の空気はキンと冷えていて、気持ちがぴんっと引き締まる気がした。
剣心は道場の奥の神棚に向かって敬礼をすると、板張りの床に、静かに素足を置いた。
剣心が東京で暮らすようになって十年。
就職を期に一人暮らしをするようになったものの、下宿をやめたと言うだけで、道場には頻繁に通っていたので、下宿の時と大きく変わった感じはしない。
今では師範代と呼ばれるようになり、稽古時の指導もずいぶん任せてもらえるようになった。
まったく不満がないわけではないけれど、世間一般の認識としては、充実した日々……なのだろう、たぶん。
けれど――何かが足りない。
十年前――神谷家に下宿を始めた頃の記憶は、実は曖昧な部分が多い。
大学の入学式直前に高熱で数日間寝込んだことが原因かもしれないが、よく分からない。
ただ、足りない何かが自分の中に確実にあって、それが彼をせかす。
どうか、早く。早く、逢いたいと。
誰に、何に、と自らに問いかけたところで、いつも思考は止まってしまう。
――そんな時、剣心は道場の裏手にある桜並木を眺める。
夏の葉桜。
秋の紅葉。
冬の固いつぼみ。
そして――満開の春。
季節ごとの桜の表情を見ていると、胸に巣食う焦燥が少し落ち着いた。
そうして今も――道場から見える桜並木に、剣心は稽古の手を止めて目を細める。
その中でも、ひときわ剣心の目をひく桜があった。
他よりひときわ大きな、桜の古木。
十年前、翌年は無理だろうと言われていた桜は、人間たちの心配をよそに、この十年、毎年満開の花を咲かせている。
まだ花を咲かせるには早いが、今年ももう少ししたら、満開の桜並木を見ることができるはずだ。
ほっと息を吐いた彼の胸を、桜色の面影が過ぎる。
剣心は無意識に口元をほころばせた。
いったん目を閉じ、唇を引き結ぶ。
そうして、まずは道場の床を磨くべく、剣心は更衣室の引き戸を開けた。
……だがしかし。
木刀を振り続けていた手を止めて、剣心は肩を落とした。
道場に誰もいないのをいいことに、大きく深いため息をつき、乱暴に頭を掻きむしる。
今日の落ち着かなさは異常だ。
会社が休みの日は、道場で朝稽古をするのが剣心の習慣になっているのだが、今日は掃除にも練習にもまったく集中できない。
それと言うのも――ふ、と彼は息をついた。
今日は道場に――と言うか、神谷家に客がある。神谷の親戚の女の子で、この三月に高校を卒業したばかりの彼女は、大学進学のためにこの道場に下宿するそうだ。
話を聞いた時、剣心は懐かしさに笑ってしまった。
十年前の自分とまったく同じだ。
剣道も小さい頃からしていてね、とやたらうれしそうに彼女のことを語る神谷が印象的だった。
彼女の出迎えは、家主であり、道場主の神谷が対応する予定だったのだが――急用で対応できなくなったのが三日前。そこで、剣心に白羽の矢がたった。
剣心自身が数年前まで下宿をしていたので、勝手がわかっていると言う事らしい。
それ自体は構わないのだが……
「失敗したな……」
ぽつりと剣心はつぶやいた。
実は神谷から、その客人に対して何も聞いていないのだ。
神谷の親戚だとか、ずっと剣道をしていると言う話は聞いたが、肝心の――それこそ、名前とか、いつ来るかと言うことはいっさい聞いていない。
完全に失念していた。仕事なら始末書モノの失態かもしれない。
念のため、神谷に電話はしてみたものの、まったくつながらない。
今日は昼過ぎから道場の稽古があるから、たぶん、それまでにはやってくるとは思うのだが。
本当に失敗した。
息をつく。
しかも、一昨日にこの話を聞いた時から、なんだかものすごく落ち着かない。
ソワソワするような、胸が苦しいような感覚が、もうずっと続いている。今日は特にひどい。
……型の練習でもして、集中すれば治まるかもしれないと、木刀を手に取ったものの、頭の中は集中以前の雑念だらけ。
いったいどうしたのか。
正直、今まで経験のないことで、ため息が出まくってしまうのは、もうあきらめた。
そう自分に言い訳をして、本日何度目かのため息をついた剣心の耳に、インターホンがなる音が聞こえた。
流れ落ちる汗をあわてて拭い、道場を出て門へと向かう。
「すみませーん!!」
門の向こうから聞こえてくる、高い少女の声。
「今開けます!」
門越しに返して、剣心は江戸時代からあると言う木製の扉に手をかけた。
昔ながらの門は、頑丈な分、少し重い。
ぎぃ、と音をたてて、観音開きの扉が開く。
「お待たせしまし……た……?」
彼女を迎え入れるために門から出て――剣心は動きを止めた。
門の外にいたのは、長い黒髪をポニーテールにした少女だった。
艶やかな黒髪を、藍色のリボンが飾っている。
澄んだ大きな瞳が、剣心をきょとん、と見つめていた。
その瞳に吸い込まれそうになって、慌てて顎を引く。
――前にも、こんなことがなかっただろうか。
振り向いたら彼女がいて、大きな瞳がまっすぐに自分を……――――
「あの、私、今日から神谷先生に……」
不思議そうな彼女の声が、剣心を現実に引き戻す。
「えぇっと……はい、神谷師範からは聞いてます。ちょっと今は急用でいなくて、俺が留守を預かってるんだけど……」
訳もなく、口調がしどろもどろになってしまう。
十も年下の少女におかしいが、なんだか胸が騒いで思考がうまく繋がらない。
それは、ひどく不思議な感覚だった。
彼女には初めて逢うはずなのに、なぜか――懐かしいと思う。
「え……と、名前を聞いてもいいかな」
彼女はにこりと笑い、
「薫です。神谷薫。よろしくお願いします!」
かおる。
その、響き。
剣心はまじまじと少女を――薫を見つめた。
ふつりふつりと、胸の奥から沸き上がるもの。
懐かしい――とても、懐かしい笑顔。
どんなに時間を経ても、ずっと彼の中にある、春色の……――――
かちりと、何かが音をたてた。
ああ――――
彼はまぶしそうに目を細めた。
そうか――君は、還ってきてくれたのか。
彼女の前に道を開けながら、剣心は柔らかく微笑んだ。
先ほどまでの落ち着かなさは、きれいに消えていた。
「師範は昼までには帰ってくるから……ああ、よかったら、道場に来る? 剣道をしてるって聞いたけど……」
緊張のためか、やや強張っていた薫の表情が、ぱぁっと輝く。
「はい! ぜひ!」
自分の記憶とあまりに重なるその姿に思わず吹き出しそうになって、慌てて自制する。ここで笑ったら、彼女が気を悪くしてしまうのは明白だ。それは避けたい。
「喜んでくれてよかった。
そうだ。俺は、緋村剣心。よろしく」
「はい、よろしくお願いします、緋村さん」
――緋村さん。
彼女には気づかれないよう、苦笑した。
ものすごく、むずがゆい。慣れなさすぎる。それにやはり、少しさびしいと思った。
――まあ、仕方がない。今はこれでいい。時間はたくさんあるのだから。
草履や下駄ではなく、ブーツを履いた足が道場の門へと向かう。
その後ろ姿に、剣心はそっと声をかけた。
「……お帰り、薫殿」
長い黒髪が翻った。不思議そうな瞳が彼を振り返る。
「……今、何か言いました?」
「いや? どうして?」
「なんか聞こえた気がしたんですけど……気のせいかなぁ……」
最後はつぶやくように言って、薫は今度こそ門をくぐる。
剣心は静かに微笑むと、その背中を追いかける為にゆっくりと足を踏み出した。
焦ることはない。
自分たちは、今、始まったばかりなのだから。
end