その1
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その3
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@KuloeAkikawa
***
冷たく月の冴え渡る、冷え込みの厳しい夜であった。
矢代は、身の裡に火照る熱を持て余し、夜半に褥を抜け出して庭に降りた。
これ以上、彼に近づいてはならない……
ひと月前にこの僧院の山門を叩いた百目鬼は、進道の法名の示すが如く、ひたすらに仏道に邁進しているように見えた。
結構なことだ。ここは、つとめを真面目に果たしさえすれば、俗世の煩悩から逃れて静かな心境を得られる場所だ。それで幸せになれるなら、そうすればいい。
事実、矢代自身、この5年間そうして心の平安を得てきたのだ。
……それなのに、今の矢代は、百目鬼の後ろ姿を見かけるだけでも心がざわめく。あの、なんの感情も映していないようでいて、時折、一瞬だけ強い光を放つ瞳に見つめられるだけで、体の奥底に押し込めていた、身の裡を焦がすような熱が目覚める。
矢代は、自分の業をよく理解していた。
赤線地区に生きる者の多くは、生きる為に仕方なく身体を売っている。しかし、矢代はそうではなかった。快楽に身を委ねることに躊躇いがなく、一人に縛られることがないこの仕事を、天職だと思っていた。そして、自分に溺れる男たちの狂態を、むしろ面白がって見つめていた。
しかし、本気で矢代に惚れた男たちが命を張った斬り合いをした挙句にどちらも絶命してしまい、更にそれを止めようとした若い警官の命まで奪ってしまったのを見たときに、己の業の闇深さを思い知ったのだ。
どれほど愛を誓われようとも、己は実を結ばぬ徒花に過ぎない。
美しく着飾り、女のように扱われようとも、子は成せない。
お前のせいで家が断絶する、と、幾度も得意客の家族に怒鳴り込まれた。
たかだか、数年の狂熱のために、命を捨てる価値など、己にはない。
百目鬼を初めて見たとき、かつてただ一人だけ本当に心から欲しいと願った相手に似ていると思った。
一番似ているのは、あの感情を映さない瞳だった。また、この瞳の近くで生きるのか、と思った。
けれど、自分は今は仏門にある。百目鬼も、仏に帰依する覚悟で出家したのだから、以前のようなことにはなるまい。
そう思っていたはずなのに、ほかでもない自分が、これほどまでに強く百目鬼の存在に惹かれている……。
矢代は中庭に降り、その片隅にある井戸の手押しポンプに手をかけた。
古い真鍮のポンプは、触るだけで凍りつくような冷気を纏っていた。
蛇口の下に木桶を置き、ポンプを押すと、月明かりの中にきらきらと光る水柱が木桶に吸い込まれていった。
ひとつ深い息をついて、歯を食い縛る。
頭からその水を被った。
冷たい水の流れは、全身の肌を伝い、熱に倦んだ四肢の痛みを和らげた。
月明かりに慣れた目で辺りを見渡せば、枯れ草の上に薄く氷の結晶が光を弾いていた。霜が降りているのだ。気温は零度を下回っている。
すぐに、水に濡れた肌で、そのことを思い知った。
地下水は、どれほど地上の気温が下がろうとも、年間を通じて十五度程度を保っている。今の矢代には、むしろ、井戸の水は暖かい。
何度も、何度も。
矢代は、井戸の水を汲み上げては、頭から被ることを繰り返した。
身の裡に籠もった熱を洗い流すように。
「──鶴峰様。もうやめてください……お体に障ります」
不意に、背後からかけられた声に、矢代は弾かれたように振り返った。
百目鬼が、真新しい手拭いと夜着の替えを持って立っていた。
「ほかでもないあなたのなさることですから。……黙って見ているつもりでしたが、今宵は殊の外冷えます。これ以上は、どうか……」
時は半刻ほど遡る。
百目鬼は、ふと、夜半に目覚めた。冷え込みの厳しい夜だった。
すうっと冷気が襟元に忍び込み、百目鬼は小さく身震いした。
と、その時、襖を開け、廊下の板を踏む微かな音が百目鬼の耳を捉えた。
隣の矢代の部屋だ。
そう気づいて、百目鬼はそっと、音を立てぬように、自室の襖を細く開けた。
矢代は、月明かりの中で、じっと天を仰いでいた。
白い夜着が蒼い闇に浮かび上がり、ほのかに彼の人の全身を照らしているかのようだった。
なにを思っているのか。
人影はじっと動かず、ただ、吐く息が白く凍り流れてゆくさまだけが、時間の流れを証している。
──美しい人だ。
初めて会ったときから、その印象は変わらない。むしろ、彼の人となりを知るほど、その輝きは内から滲むように思えた。
と、そのとき、矢代の身体が動き、中庭の端に据えられた小さな古井戸の前に立った。
こんな夜更けに何を、と思う間もなく、彼の人は手押しポンプを操り、木桶に水を張った。
水垢離。
そんな言葉が脳裏に浮かんだときには、すでに、その水は矢代の全身を濡らしていた。
そのような行があることは、もちろん百目鬼も知っている。
しかし、今宵はすでに霜も降りて、気温は零度を下回っている。
願掛けなのか、何か仏に祈らねばならないことがあるのか。
邪魔をすれば、祈願成就しないかもしれない。
百目鬼は、息を殺し、その矢代の荒行をじっと見つめていた。
カタリ。
木桶に伸ばした矢代の手が、桶のふちに当たって、小さな音をたてた。
何度も冷たい水を浴び、夜の冷気に晒された身体は、冷たくこわばって激しく震えていた。
これ以上は。彼の人の命を奪いかねない。
咄嗟に、乾いた自分の夜着と、手拭いを数本携えて、百目鬼は庭に駆け下りていた。
間近に見れば、水に濡れた白い衣に透ける肌は、月明かりの下でいっそう青ざめて見える。
その、思いのほか、薄くともしっかりとした筋肉が全身を覆う姿に、百目鬼はしばし言葉を忘れ、雫の煌めきに縁取られた矢代の姿に見入っていた。
透けた肌に感じる視線に、矢代は小さく息を飲んだ。
冷たく凍えるようだった肌が、内部から熱く高まっていく。
たったいままで、この身体は冷たく痺れていたはずだ。
それなのに、こんなにも簡単に、また熱を呼び覚まされてしまうなんて。
自分は、女ではない。衣を着た見た目がどれほど華奢に見えようとも、身体は男のものであるし、たとえ交合ができても子は成せない。
多くの男は、肌を見せればそこでその事実に気づく。だが、ごく一部、それに気づかぬ者、気づいていても執着を見せる者がいる。
……お前も、そうなのか?
その道には、一時の享楽以外には、なにもない。
ましてや、自分たちは、その享楽すら許されない身だというのに。
これ以上は、いけない。
吐く息は白く凝ってふたりの間に揺蕩い、百目鬼の全てを見透かすような瞳から逃れるように、矢代はその霧の中に身を隠して顔を背けた。
「見る…な……っ!」
熱を奪われた身体から絞り出した声は、しかし、掠れて小さな喘ぎにしかならなかった。
手にした木桶が石畳に落ち、からん、と澄んだ音を立てた。
その音に呪縛を解かれたかのように、百目鬼の身体が動き、立ちすくんだ矢代の身体を乾いた衣で覆った。
「……こんなに冷えて……! あなたは、死にたいのですか?!」
「……っ……触るな……!!」
ほとんど力のこもらない、弱々しい抵抗を封じ込め、百目鬼は矢代の身体を抱え上げると、そのまま矢代の居室へと駆け込んだ。
僧坊の暮らしは質素を極める。部屋に暖房器具はない。
百目鬼は自室からありったけの衣を持ち出し、急ぎ矢代の部屋に戻った。矢代は、土壁に身を凭せかけて俯いていた。
もう、まともに立っていることすらできないのだ。
なぜこんなになるまで、あのような荒行を続けてしまったのか。
百目鬼は唇を噛み、一瞬躊躇ったあと、矢代の身体に張り付いている衣の腰帯に手をかけた。
「お体が冷え切っています。……どうか、しばらく辛抱を」
「……いい……自分で……」
「あなた、今動けないでしょう」
問答無用で水に濡れた衣を剥ぎ取り、なるべくその肌を見ないようにしつつ、自分の衣をかける。乾いた衣はすぐに水気を含んで重くなった。
二、三度それを繰り返し、ようやく衣が湿らなくなったところで、ほっと息をつく。もう、床に入ってお休みください、と声をかければ、矢代は自力で床に向かった。
向かおうと、した。
しかし、その瞬間に、足がもつれた。
「──矢代さん!」
耳を打った咄嗟の悲鳴に、矢代は、呆然と自分の身体を抱えた百目鬼を見上げた。
「──お前──今…なんて」
「──すみません、鶴峰様。やはり、このまま放っては戻れません」
倒れ込む身体を咄嗟に抱え上げて、百目鬼はその冷たさにひやりとしたのだ。
このまま、この身体は体温を失って息絶えてしまうのではないか。
その想像は、狂おしく百目鬼の胸を焦がし、ひとつの決意をさせた。
父親が死ぬかもしれない、と診療所で伝えられたあのときでさえ、自分の心には波風が立たなかったのに。
どうして、今は。
「──やめろ、進道…!」
「なにもしません。見るなというなら、目を閉じていますから」
百目鬼は、躊躇わず矢代に着せかけた衣を剥ぎ取り、自分の衣の腰帯を解いて、腕の中の身体をその内側に抱き込んだ。直接肌に触れた矢代の身体は、まるで氷のようだった。そのまま、褥に向かい、まだ緩慢な動きしかできない冷たい身体を横たえて、その上に覆いかぶさって布団を被る。
ぎり、と、矢代が歯を食いしばったのが聞こえた。
……あなたには、屈辱かもしれませんが。
いまは、この身体を手放すことなど、考えられない。
肌から伝わる体温と、自分の上にかかる慣れ親しんだ重みに、目眩がした。
百目鬼は、そういう相手ではない。
そう心で言い聞かせても、身体の隅々までが覚えている期待を鎮めることができない。
凍えた頰から、百目鬼の頰の熱を感じる。その熱に、心をかき乱される。
はやく、この夜が明ければいい。
矢代は、目を固く閉じて神仏にそう祈った。
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その3に続く
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