その3
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その5
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@KuloeAkikawa
***
「……今日の日没を以って、お前は正式にこの僧院の雲水となる。東棟に部屋が与えられるから、日没までに身の回りのものを片付けておくように」
翌朝。
朝の読経のつとめが終わった後、矢代の居室に呼びつけられた百目鬼は、まったく予想もしていなかった矢代の言葉に顔色をなくした。
「お待ちください、自分は、まだ──」
呼ばれたのは、昨夜の出来事についての話のためだと思っていたのだ。
しかし、そんな百目鬼に、矢代は厳しい言葉を投げた。
「甘えるな。私が決めたことではない。もともと、新人が古参の元で見習いをするのは、月の満ち欠けが一巡するまでと決まっている。……お前は、ここで修行を積むために出家したのだろう? その名を授かったときの志を、忘れてはいけない」
それだけ言い終えると、矢代は深く伏せていた眼差しを上げ、ふと口元に淡い笑みを浮かべた。
「……この1ヶ月、楽しかったよ。久々に、人と他愛もない事を語らうのも悪くはないと、思い出した。……昨夜のことは、悪かったと思っている。お前に要らぬ心配をかけてしまった。汚してしまった衣は、今日洗って明日お前の部屋に届けさせる」
「いえ……! それは、自分が。今日の日が沈むまでは、あなたの世話係です。どうか今は、あなたに仕えさせてください」
百目鬼は、再び畳に手をついて頭を下げた。
始めから、いつまでも矢代の側にはいられないことは、わかっていた。
この僧院では、およその在院年数にあわせて居室が与えられる。入山したばかりの自分は、若い他の雲水との相部屋だ。
それでも、百目鬼は、矢代のそばを離れることに痛みを感じていた。
何も、与えられなくてもかまわない。ただ、そばにいて、この美しい人を見つめ続けることができるのならば……
「……それは、執着だ。悟りを得たいのなら、捨てねばなるまいよ」
まるで百目鬼の心を読んだかのような矢代の呟きに、百目鬼ははっとして顔を上げた。
矢代の口元から、笑みが消えている。
その瞳は謐然として、なんの感情も読み取ることはできなかった。
不意に湧き上がってきた息苦しいほどの感情に翻弄され、百目鬼は無礼を省みる間もなく、胸に迫ったその問いを口にした。
「……鶴峰様は、捨てられたのでしょうか……その、かつてただ一人想われたという方への執着を……」
矢代は、両手を畳の上に揃えたまま、じっと自分を見上げる百目鬼のふたつの瞳を見つめた。
この男は、半殺しにした親や、己が傷つけた妹にすら執着できないことを苦にして上山したのではなかったのか。
それは、裏を返せば、俗世にありながら、百目鬼が既になにものにも囚われない心を会得していたことにほかならない。
ならば、この男は、仏門に入り自分と出会ったことで、かえって迷いを抱いてしまったことになる。
昨夜、凍えていた自分を抱きしめた強い腕を思い、矢代はそっと目を伏せた。
お互いに、お互いの身体の反応がわからぬような距離ではなかった。
矢代が百目鬼の昂りに気づいたように、百目鬼もまた矢代の身体の兆しに気づいただろう。
けれど、それを口にすることは許されなかった。ここは、そういう場所ではない。
「……いつか、悟りの境地に至るために、ここにいる。それは、お前も私も、変わらない。そうだろう?」
──あれは、牽制だ。
百目鬼は、問いかけへの答えとともに、強い意志を持ってこちらを見つめ返してきた矢代の瞳を思った。
これ以上は、お互いに、決して踏み込んではならない、と。
昨夜。
凍りつくような冷気を潜ませていた身体に体温が戻るにつれ、百目鬼は、頰を寄せた矢代の耳裏の肌に、目眩がするような甘い香りを感じたのだ。
それは、まるで固い蕾が花開いたかのような、密やかで魅惑的な香りだった。
この匂いは知っている。いつも、この人の後ろを歩く時、微かに鼻腔を擽る香りだ。けれど平時は、その香りはもっと仄かで、法衣から薫る香の匂いに紛れていて、百目鬼はそれも香の一部だと思っていた。
身体が温められて、ようやく彼の人の四肢が自由に動くようになったとき、その両腕が百目鬼の背中を抱いた。その瞬間、百目鬼は悟ったのだ。
この腕の中の人に、自分が、決して抱いてはならない感情を抱いていること、そして、彼の人もまた、禁忌の熱に苛まれていたことを。
あの水垢離は……。
彼もまた、身の裡に潜む熱を持て余していたのだろう。
ちょうど、今の自分のように。
百目鬼は、今日から部屋を分け合うことになった若い雲水を起こさないよう、そっと床を抜け出して僧坊の外の庭に降り、遠くに矢代の住まう西棟の屋根が見える石段に腰掛けた。
昨夜から一夜分だけ欠けた月は、まだ十分に明るく、夜の境内を青白く照らし出していた。
あの人は、今宵はきちんと休めているだろうか。
別れ際に、ひとつだけ、願い事をした──どうか、夜半の水垢離はやめてほしい、と。彼は微笑って、もうしない、と約束してくれた。
自分がいなくなったことで、心安らかに眠れていればいい。
そう願いつつも、百目鬼は、それが的外れであることを、心の裡で知っていた。
蒼い闇の中に浮かんでいた、ほの白い姿を想う。
きっと、今宵も、あの人は月の光を浴びているだろう。
水は被らなくても、またじっと、あの物憂げな瞳で、天を見上げているだろう。
同じ、月を、見ている……
あの甘やかな香りの記憶が、また鼻腔をくすぐって、百目鬼は、堪えきれずに上半身を深く折った。
己の昂りが、夜気の前を汚していた。
もう何年も、こんなことはなかった。自分はどこか感情が欠けていて、そういう情熱がないのだとすら思っていた。それなのに、今はあの人のことを想うだけで、体の裡を荒れ狂う熱を止められない。
冷たく湿ってしまった夜着の裾を割り、まだ熱を帯びているその部分に触れた。
瞳を閉じれば、夢想の中の時刻は一日前の未明に戻る。
縋るように、この背中に回された腕。どこか切迫した色を滲ませて、呼吸をするたびに大きく波打っていた、滑らかな肌に包まれた胸。
微かに聞こえたように思えた、吐息だけで紡がれる自分の俗名。
「──────っ…………」
大切な存在を、想像の中で穢している……。
わかっていても、止まらなかった。
己の劣情をまとわりつかせた指を眺め、百目鬼は、深い溜息とともに顔を腕の中に埋めた。
***
「結局、お前の方にしたんだ? 矢代サンの方がエロエロになって面白かったのに!」
「……当然だろう……あの人のそんなシーンなんて、他人に見せられるわけがない」
「で? これが、お前の4年間?」
自棄っぱち、というのは、こういう心境を言うのだろうか。
百目鬼は、その問いには答えずに、グラスに残っていたウィスキーを一気に煽って、そのグラスをそのまま久我の方に突き出した。毎度、と久我が笑う。
「どこまでがお前の作よ?」
「こんな淫靡なモノを書いた覚えはない。……その、例のゴーストライターが、何があったかを教えろというから……メールで、箇条書きのメモを送っただけだ」
オナってるシーンはお前が書け、とバトンを押し付けてきた久我に、小説なんて絶対に書けない、と散々抵抗したら、では直接ゴーストライターと話をつけろ、と久我にひとつのメールアドレスを渡されて、その場で連絡をとらされたのだ。
ゴーストライターの名前は浅井ひよりと言った。
『大丈夫です‼️ ちゃんと物語に見えるように脚色しますから‼️ なので、別れてた4年間、どうしてたのか教えてください‼️ あと、矢代さんのどういうところにゾクゾクしますか⁉️❤️』
簡単な挨拶文を送ったら、速攻やたらテンションの高い返事が返ってきて、流石にすぐには返答できず、3日後にようやくいくつかのメモを送った。
自分が矢代の肌の甘い香りや、吐息の音に強く衝動を呼び覚まされる傾向があって、時折抑制が効かなくなること。
会えなかった四年の間は、窓から見える空を仰いで、同じ空の下で生きていることを想いながら慰めていた、などなど。
その結果が、コレである……。
まあ、いろいろ違うと思う部分もあったから、随分手直しはしたが。
「……やっぱり、まずいんじゃないか? この企画」
はあ、と一つ大きな溜息をついて、百目鬼はグラスの中の氷を揺らした。
「なんで?」
「……どう考えても、実名で、ポルノはまずいだろう……」
「実名、顔バレのポルノだったら、あの人が一番垂れ流してるじゃんかよ、しかも脚色ナシの実録ルポだぜ?」
「……」
それはまあ、そうなのだが。
あの人が納得してくれるなら、と半ば諦めて始めたことだが、些か、というか、かなり、誰得なのかわからない状況にハマりつつある。
と、久我が、カウンターに片肘をつき、やや真面目な表情で百目鬼の顔を下から覗き込んだ。
「──俺は、大分お前のこと分かった気がするけどな? いや、矢代さんも最初はこれ誰だよ? とか思ったけど、だんだんあの人の本質突いてる気がしてきたわ。オマエにあの人がどう見えてるのかもな。俺の思ってた矢代サンとは全然違っててビックリだわ! 結構、一途で、いい感じじゃん?」
お互いの情熱をわかってるくせに、容赦無くバッサリ切り捨てるところとか。
たぶん、百目鬼よりも先に、百目鬼に惚れたところとか。
そういや、影山は最初の頃かなり警戒していたが、以前矢代が久我にちょっかいを出してきたのは、単に使える手下が欲しかっただけだったんだろう、と久我は思う。
矢代は、自分にとってどうでもいい人間ほど、自分の近くへの侵入を許すのだ。
本当に大切だと思った人間には、厳然と一線を引いてそれ以上は近づかない。その警戒心たるや、まるで傷ついた野生の猫だ。
だが、百目鬼はその程度では止まらない。噛まれても引っかかれても、シツコク追いかける。
はっきり言って面白いから(そして影山を妬かせたいから)始めたことだが、コレ、意外に悪くないアイデアだったかもしれん、と久我は思った。
ゴーストライターの寄越してくる文章は、まあ、女子が喜びそうなキラキラしい文章ではあるが、実はここまで熱は籠もっていない。
それが、百目鬼が手を入れると、途端に真夜中の夢想っぽい空気が漂うのだ。
とくに、作中の百目鬼が坊主の矢代を見る眼差しがエロい。
微に入り細に入り……そんなに見られたら穴が開くわ!
よく矢代サンこの密度のすげえ視線に耐えてるな!
……と、ちょっとだけ、作中の「見られて恥じらう矢代」の気持ちが分かったような気がする久我だった。
「で、この後のプロットだけどさ。鶴峰と進道はこの後4年間、同じ僧院で過ごしててもほとんど交流がないわけ。鶴峰は僧院の運営に関わる地位につくことになって外回りで忙しいし、進道は修行で忙しいし。でも、進道は鶴峰に近づきたい一心で、4年でなんとか上に認められて、鶴峰と同じ寮に入る地位を手に入れる」
「……まだ続くのか……(溜息)」
「何言ってんのオマエ。BLだろ? ガッツリヤるとこまで書かないでどうするよ?!」
「いや、それは、さすがに……あの人も気を悪くするだろう」
「しねえよ! むしろ、喜んで赤ペン入れてくんじゃね? 色気が足りねえとかなんとか」
自分が恥ずかしいから嫌だ、とかじゃねえんだwww
百目鬼は自分自身のことに関して極端に執着が薄く、プライドはゼロどころかマイナスまで振り切っているようなところがあるが、自分の性生活を赤裸々に暴露されても気にしないとしたら大したモンだ、と思う。
ま、そのくらいでないと、自分のオナニーシーンとか、普通は書かねーわな。
「ああ、そういや、表紙の絵描いてくれる子もつかまったから!」
忘れるとこだった、と呟いて、久我は空になった百目鬼の皿にアーモンドと干しナツメを継ぎ足した。
「表紙? 小説の表紙に絵が必要なのか?」
百目鬼は、昔学校の課題図書で読まされた本の装丁を思い返して首を傾げた。文庫本といえば、岩波文庫のようなシンプルな文字と色帯の装丁しか思い浮かばない。
ああ、カバーには多少絵がついているものもあるか?
「文庫装丁は金がかかるんだと。値段が手頃で見栄えがいいのはA5サイズで、表紙は裏表フルカラー、ってのが定番らしい。なんでも、浅井サンの友人で、芸大の美術卒の子がすごい上手い絵を描くらしくて、その子に頼んでみるってさ!」
芸大の美術系?
なんとなく、嫌な予感がする。
まさか……まさかな。
「ってことで、次はいきなり4年後、再開のシーンからだから。ヤマなしオチなしイミなし、に背景とか要らねえんだと!」
その5に続く
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