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比翼の鳥 その5

全体公開 5932文字
2021-08-30 16:00:57

その4
https://privatter.net/p/7845095
その6
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「鶴峰様。お出かけですか?」
 その日の朝、今年上山したばかりの雲水が、廊下を渡る矢代に声をかけた。
 木桶に水を張り、手には絞った雑巾を持っている。一番東の部屋の襖が開かれており、しばらく主のいないその部屋の中まで、秋の涼やかな風が吹き通っていた。
「──ああ。今日は、外回りに」
「そうですか、よかった! 今日、お一人こちらの西鸞寮にお入りになられますので、掃除などで少々音がしますから……お帰りになる前に済ませておきますね!」
 若い雲水は、そう言いながら、また絞った雑巾を持って部屋に入っていった。
 もう、寮の移動の時期になったのか。
 この僧院では、十一月の半ばに、僧坊の移動がある。上山して厳しい修行に耐え、徳を積むと、東棟の東雲寮から始まって南棟の南瑛寮、西棟の西鸞寮、北棟の北辰寮へと部屋が移動する。
 通常は、それぞれの寮で約三年を過ごすことになるが、ほとんどの入山者は一年後には下山してそれぞれの寺院に戻ってゆくので、東雲寮以外の寮の定員はせいぜい五、六名だ。
 矢代は、一年半を東雲寮で過ごしたのち、南瑛寮には入らずに西鸞寮に移った。これは大変異例のことであったが、当時の住職が矢代を渉外に引き抜いたため、役職に合わせて部屋も移動になったのだった。
 これだけの規模の僧院であれば、維持するために必要な財施の額も大きくならざるを得ない。渉外の仕事は、他の寺院や他宗派との折衝が主な内容だが、もっとも大切な仕事の一つに大口の喜捨をする会社や団体への挨拶回りがある。
 そして、矢代が先代の住職に拾われた理由も、そこにあった。
「近頃は監査だのなんだのと色々煩くてな。以前なら、わしの一存でこの程度の金は一晩で動かせたんだが。ああ、心配はいらんよ。これはきちんと会計を通った金だ」
 一日歩き回って、本日最後の訪ね先である神島建設に着いたころには、時刻は既に午後五時を回っていた。神島建設が所有するビルの最上階は、フロア全てが現会長の住居だ。
 暫く会社の事務室で待たされたのち、その会長宅のリビングに通された矢代は、コーヒーテーブルの上に置かれた分厚い封筒に視線を遣った。
 こうして、各企業や団体を回り布施を集めてくるのが、今の矢代に与えられた役目である。
「お預かりさせていただきます」
 財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満。
 布施とは、喜捨した側が修行の一環として行うものであるから、受け取る時には礼を言ってはいけない。代わりに、喜捨をした人物の修行がはかどるよう、施財の偈を唱える。
 矢代がその言葉を口の中で小さく唱えて、膝をついたときだった。
 目の前の視界を、男の影が遮った。
「随分と久しぶりではないか。もう一度、別の坊主を寄越したら、援助は打ち切るところだったぞ?」
 ……誰もが、純粋な喜捨の心で財施を行うわけではない。
 矢代は、冷めた目で神島を見上げた。
 こうなることがわかっていたから、この訪問先を最後にしたのだが。
「半年も待ったのだからな、今日は存分に楽しませてくれるのだろう?」
……毎回申し上げておりますが、喜捨とは見返りを求めぬものです。金品の代償を私に求めれば、会長の修行にはなりませんが、よろしいか」
「かまわん。もとから、仏の手を借りる気もないのでな。このご時世、どうせ寄付するなら神社仏閣より社の宣伝になる社会活動に、と株主や役員会の声もある。なかなか、こちらの意向を通すのも難しい。多少の見返りは望んでもよかろう?」
……寄付と布施は、そもそもの思想が違いますが」
 矢代は溜息をついた。本来なら、その誤解について、きちんと説くのが坊主の仕事なのだろう。
 だが、この男にそのような言葉を連ねても、心に届くとは思えなかった。
 坊主に風俗まがいのことをさせるなら、せめて金は自分で払えば良いものを。
 膝で躙り寄り、目の前の男のズボンのベルトを外した。スラックスのジッパーを下ろし、下着の上から膨らんで熱を帯びているものに唇を這わせる。耳を掴まれて、仰け反るように引っ張られた。神島が荒い息を吐いて、下着からむき出しにしたものを矢代の口に押し込んだ。
「まずは五分で、イかせてみせろ。歯を立てるなよ」
 今だ会長として会社に強い影響力を持ち、ぎらぎらとした野心をみなぎらせているとはいえ、体は七十過ぎの老人だ。五分で、とは。矢代は内心で嗤った。まだそんなに若いつもりなのか。
 強く吸い上げて、顔を前後に動かす。掴まれた耳が痛い。この男には、舌技を使ってやる気も起きない。どうせ……
「──っ──!」
 掴んだ耳を大きく揺さぶられて、無理矢理顔を股間に叩きつけられた。この男は、イマラチオが好きなのだ。喉に塊がぶつかり、息苦しさに涙が滲む。そういうのを見るのが好きなのだろう。
 二度、飲み干せ、と要求されて、三度目は顔と法衣にかけられた。
 結局、五分ではどうにもならず、漸く解放されたのは、部屋に入って一時間半が過ぎた後だった。
「その襟の染みは、拭うな。寺まで送ってやる」
 赤線地区にいた頃にも、そうして人の体を汚して悦に入る客がいた。自分が誰かのものであるか、そうでないかなど、どうでも良い。
 ただ、自分の体から別の匂いがするのが嫌だった。


 山院に戻ったのは、丁度薬石(夕食)の時刻だった。外回りの日は、普段から、矢代は予め食事を断っている。薬石に間に合うこともあるが、間に合わない日も少なくない。間に合わなければ、貴重な食物と典座の心づくしが無駄になる。
 今日は、わざとその時刻に戻った。他の僧に見られるわけにはいかない姿だからだ。
 誰もいない境内をわたり、西鸞寮の入り口までたどり着いて、矢代はほっと溜息を吐いた。自分の役目に先刻のような奉仕が含まれていることを、現住職は知らない。
 天を仰げば、また、満月の美しい夜だった。草の陰で、蟋蟀の声が聞こえていた。
 そういえば、百目鬼が上山したのも、丁度四年前のこんな満月の日だったか。
 大きな身体でも、不思議と存在感のない男だった。何か武道でも修めていたのか、美しい姿勢で、ただ石のようにじっと控えている姿が心に残った。
 一ヶ月間、そばに置いて寺院の決まりを教えてほしい、と監寺に頼まれ、自室の隣に部屋を与えた。百目鬼力、という俗名と、上山した動機以外、己のことは殆ど語らず、感情を塗りつぶされたような思いつめた目をしていた。
 その瞳が、自分のそばで、日々の移ろいを眺め、他愛もない会話をするうちに、ゆるやかに、子供のような純粋な色を取り戻していった。
 これこそ、仏の慈悲の為せる技だろう。
 そう分かっていても、嬉しかった。
 こんな自分にも、人の浄化の過程を助けることができるのか、と思えたからだ。
 けれど、その記憶は、あの満月の夜を境に途切れる。
 ──自分が、百目鬼を誘惑した。
 あの瞳の持ち主に、抱いてはならない感情を抱いた。この浅ましい身体は、その感情に即座に反応した。
 それに呼応するように、百目鬼の瞳にも、執着の炎が灯った。
 世俗を離れ、この山院で、漸くかの魂は美しく浄化されつつあったというのに。
 それを穢した自分が許せなかった。
 それからは、百目鬼から逃げて、ただの一言も言葉を交わすことなく、四年が過ぎた。

 百目鬼がまた今年も下山しない、と知ったのは、三日前のことだった。
 殆どが三年のうちには修行を終えて下山する中で、四年を超えて僧院に残ることはごくまれだ。進道の戒名の示す如く、真面目に修行につとめている百目鬼は現在の上層部の覚えもめでたく、外の寺院への出向の推薦がないとも思えなかった。
 ……やはり、わざと残っているのか。
 お前は、まだ、私のことで懊悩しているのか?
 その想像は、矢代をひやりとさせる。このような自分に囚われることなく、自分の人生を生きて欲しい、と願う。四年もの間、その執着を断ち切れないのだとしたら、それは辛いことだ。
 その一方で、どこか、そのことにほっとしている自分を矢代は自覚していた。
 遠くから、修行に励む百目鬼の姿を見かけるだけで、慰められている自分がいる。
 思い切れないのは、お互いさま、なのかもしれない……
 一体、あとどれだけ、こんな月日を重ねてゆくのだろう?

 溜息とともに雑念を払い、僧坊の前の廊下に足を踏み入れた、その時だった。
「──鶴峰様、お久しぶりです」
 突如かけられた声に、矢代の身体は硬直した。
 なんと迂闊に物思いに耽っていたのだろう。声の方を振り返れば、そこには、百目鬼が立っていた。
「──お前──何故」
「本日から、この西鸞寮に移動になりました。──また、どうかご指導をお願い致します」
 百目鬼は、まだ五年目だ。西鸞寮に上がる年数ではない。
 だから、今朝若い雲水に声をかけられたときも、その可能性は全く考えなかった。
 だが。
 自分も、たった一年半で、西鸞寮へ移動になったではないか?
 では、百目鬼は、何故?
 蟋蟀の声がひととき止んで、秋の風が廊下を吹き抜けた。
 自分は風上に立っている、そのことに矢代が気づいたのと、百目鬼の表情に驚きが走り、すぐに険しさを増したのが、ほぼ同時だった。
「──鶴峰様、そのお召し物は、どうされたのですか」
「──────」
「──噂は、本当だったのですか? あなたが、渉外の務めのさなかに、──戒律を」
 矢代の胸に、鋭い痛みが走った。
 百目鬼が、あの噂を知っている?
 そうして、すぐに、当然だ、と思い直す。四年もこの山院にいたのだ。当然、八年前の出来事について、何かしら聞いてはいるだろう。
「──お前は」
 もはや、しらを切り通すことは出来ない。
 矢代は、咄嗟に脳内を巡った弁明の言葉を放棄した。
 自分でも気分が悪くなるような匂いと、この月の明るさ。襟元を汚す白い染みがなんであるか、男ならば気付かない訳がない。
「──どんな噂を、聞いた? 私が前住職に色仕掛けで取り入り、渉外の立場を利用して、外出する度に男を漁っている、と?」
 矢代の口元に、薄い笑みがひらめいた。
 八年前、上山してたった一年半で異例の昇進をした自分に、同期がどのような噂をたてていたかを知っている。
 鶴峰は、前住職の通玄方丈の色で、渉外の立場を利用して、外では相手を問わず姦淫に耽っている、と。
 予想外に強い語気をはらんだ矢代の言葉に、百目鬼は一瞬怯んだ様子を見せた。矢代は苦笑し、更に言いつのった。
「そうだな、あながち間違いでもない。だが、前住職の名誉のために付け加えれば、私と前住職との間に姦淫があったというのは事実ではない。──通玄殿とは、取引をした。私をこの山院に置いてもらうかわりに、多少強引な手を使っても財施を集めてくる、と」
「──取引──」
 当時、男娼上がりの人間を男ばかりの山院に匿うことには、かなり強い反発もあった。修行の邪魔になる、間違いが起きかねない、と、幹部僧侶数名が反発し、下山する事件も起きた。
 それでも、戦後の混乱の最中、目に見えて減った檀家からの布施の穴を埋めるには、積極的な企業や団体の支援の獲得以外に道はないと、前住職は組織の大改革を断行した。その結果新設された渉外の一人に、矢代を抜擢したのだ。
「しかし、それは!! ──もっとも恥ずべき行為ではありませんか! なぜあなただけが自分の身を犠牲にして、この寺院を守らなければならないのですか!」
 突如激昂した百目鬼に両腕を掴まれ、矢代は目を見張った。
 月明かりの薄闇でも隠しようのない怒りが、百目鬼の眉間に浮かんでいた。
「俺は──このことを、住職に報告します。──最初に、あなたについての調査を命じられた時には、正直、信じられなかった。あなたが、そんな罪を犯しているなんて。でも、取引だというなら、それはあなたが好んでしていることではない。あなたの犠牲のもとに、この寺院の存続が保障されているなんて、そんなことがあって良いわけがない!」
 調査。成程、異例の出世はそのためか。
 西鸞寮は、役職付きの人間が入る寮だ。おそらく、百目鬼は直歳あたりに任命され、それと同時に、鶴峰を監視するという任務を現住職から与えられたのだろう。
 潔癖な性格の現住職に知られれば、当然、このような悪習は取りやめになるに違いない。
「──私が好んでしているわけではないと、いつ言った?」
 掴まれた両腕が、熱い。
 その部位から熱を灯されたように、矢代の胸の中で、ある感情が育っていた。
 百目鬼の、この怒りを、もう少し見ていたい、と。
 自分はどうかしている。百目鬼は義憤に燃えて怒っている。そんなものは、辛いだけで、何の役にも立ちはしない。
 それならば、一刻も早く、その怒りの感情から解放してやるべきなのに。
「私が何をして生計を立てていたか、お前は知っているだろう? 嫌々やっていたわけではない。むしろ天職だと思っていたよ。そこで、人の心を弄んで……結果、三人の命が奪われた。そのうちの一人、諍いを止めようとした若い警官は、三日後に結婚式を控えていた」
 あの頃の自分は、本気で愛を囁く客を軽蔑していた。そんなに言うならば。どちらが本物の愛か、証を立ててみろ、と焚きつけた結果の惨事だったのだ。
 自分は、三人の死に、責任がある。
……残りの人生は、償うために生きる、と思い定めても、私にはなにもなかった。神仏に祈りを捧げて、誰が救われる? 自分が心の平安を得られるだけだ。そんなときに、自分が奉仕すれば、多くの雲水の修行の場所を維持できる、と言われた。……布施は、かならずしも、企業や組織の会長から奪わなくてもいい。私の行いで、その金額が寺院のものになるならば、私が働いて喜捨したと思えばいいだけのことだ。それの何が悪い?」
「──鶴峰様──」
 ああ、この瞳だ。
 百目鬼が、痛いほど強い眼差しで、自分を見ている。
 矢代は、自分の記憶が、四年前のあの夜に舞い戻るのを感じた。
 あのときと同じ、気遣うような、もどかしいような、焦燥。
 この四年間で、徹底的に百目鬼を避けることで、どうにかして、記憶から抹消することが出来た、と思っていた、あの瞳。
 何も変わっていない。何も消せていない、と思い知る。

 この身の内で、荒れ狂う熱も。


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その6に続く
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