カルテット学院編〜新星の武器庫のつなぎの話。手探りで執筆中です。
カクヨムとpixivにもログを置いています。
@zerozero_daily
もくじ
2≫ 001 目覚め
3≫ 002 浴室
4≫ 003 施療院
5≫ 004 長老会
6≫ 005 帰郷
7≫ 006 礼拝堂
8≫ 007 英雄
9≫ 008 射手
10≫ 009 悪面
11≫ 010 スフィル
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001 目覚め
頭の中で血が脈打つ音がしたような気がして、エル・ギリスは目を覚ました。
したたかに汗をかいており、見上げると知らない天井だった。
急に胸の奥から込み上げる何かを感じて、ギリスは枕元にあった水差しを冷やすための氷入りの桶を取り、水も氷も床にぶちまけて、空になったそれに吐いた。
何も食っていなかったようで、嘔吐すべきものは大してなかった。
吐いたものにはまだ酒の匂いがした。
だったら、そう長くは眠らなかったのだろう。
そう思い、ギリスは水差しに直に口をつけて冷たい水を飲んだ。その刺激に、また何かが込み上げそうな感覚があったが、荒い息で待つうちに、それはどこかに引いていった。
ただの飲み過ぎだ。とびきり強い火酒を浴びるほど飲んでみたので、腑が煮え繰り返ったのだろう。
それでも特に苦痛は感じなかった。
そもそも、苦しいとか痛いといった感覚がどんなものか、ギリスには分からないのだ。
小さな子供の頃から、竜の涙の魔法戦士となるべく厳しく鍛えられ、血の滲むようなことも何度となくあったが、ギリスは泣かない子だった。骨が折れても、施療院に運ばれて医師が縫わねばならぬような傷を負っても、熱さは感じたが、それだけだった。
無痛のエル・ギリス。
それは天使のお恵みだろうと施療院の医師は言っていた。
竜の涙たちは生まれつき、額に宝石のような石を持って生まれてくるが、魔法を使うとその石が成長して、ひどく痛む。成長とともに石も育ち、最期には、いっそ死にたいと思うほどの痛みに襲われ、皆、耐えかねて自決するのだ。
その痛みから解放されているのだから、素晴らしいことじゃないか。
医師はそう言うが、ギリスは不満だった。
歴戦の勇者が泣きながら悶えるという、その苦痛なるもの。それに耐えたことがないせいで、自分はいつまでも半人前だ。
皆はそう思っている。
竜の涙を持つ、王宮の同じ一角に住まう兄弟たちのはずが、皆、ギリスには思うところがあるようだった。
なぜ、お前はそうなんだという、暗く問う目で皆、ギリスを見る。子供の頃には意味のわからなかったその視線の意味を、ギリスは最近悟った。
敵意だ。
もはや齢十六ともなると、そうと悟らぬわけにもいかなかった。
リリリ……と小さく鈴を振るような空耳が聞こえた気がした。
王宮の時報だ。念話を使う者たちが、一刻ごとに時を知らせる。
玉座の間にある時計が、毎日時を刻んでおり、その時刻が王宮のどこにいても知れるよう、念話者たちが時をつぶやく。
何時なんだ、今は。ここはどこだ。
眠気と酔いに朦朧としてギリスは起き上がり、乱れた部屋を見回してから、ようやく気づいた。
そこは自分の部屋だった。
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002 浴室
寝床から這い上がり、出かけようと鏡を見たら、ひどい有様だったのでギリスは風呂に入った。
元結の緩んだ長い黒髪は乱れて絡まっていたし、青ざめた顔の頬には、何があったか記憶のない女の紅がべったりと付いていた。
しかも反吐まで吐いたのだから、そのままの姿で王宮を歩き回るのは不敬だろう。この王宮は常に煌びやかなところだった。
幸い、自室には小さな浴室がついている。
広い王宮とは言え、自室に風呂がついているのは、準王族として遇される竜の涙ならではの特権だ。
あいにく、この部屋は少々、手狭だが。
自分の浸かる、馬の水飲み場かと思うような質素な浴槽を見て、ギリスはそう考えたが、それは前にいた部屋と比べて、ここが見劣りするせいだ。
ギリスは最近になって、この部屋に移された。竜の涙を統率している長老会の命令によって。
それ以前にいた部屋は、長老会の長であったエル・イェズラムの住まいの隣にあったのだ。
イェズラムはギリスの後見人で、子供の頃からの養父だった。
イェズは権力に見合わず質素な住まいを好み、青年時代から寝起きしていた小さな房から終生引っ越さなかった。
養父はただのものぐさで、引越しが面倒だっただけだろうが、それは族長と乳兄弟の間柄だったイェズラムが、その権威を借りて私服を肥やしていると見られるのを嫌ったせいだと考えている者もいる。
長は高潔だったのだと思いたい者たちが、今もイェズラムを崇拝しているのだ。
その長が寝起きした聖地の隣を、ギリスがいつまでもせしめているのは納得がいかないという者もいる。そういうことだろう。
死者は何者をも後見することはできない。
イェズラムは死んだ。まだうまく飲み込めないそれを、ギリスは反芻した。
長老会からは、身の丈にあった場所に引っ越せという指示だった。
なんという無駄な指令かとギリスは呆れたが、選択肢はなかった。逆らえば叛逆ということになる。
そんなことで血を見るのは御免だ。
馬鹿馬鹿しい。そう思うと、ギリスはひどく疲れた。
青く彩色された陶板で装飾された狭い浴室には、湯気とともに養父の不在が立ちこめており、ギリスはそれを噛み締めながら、濡れた顔を拭った。
イェズラムは死せる英雄になった。
それは、死して部族の伝説となるべく戦う竜の涙たちにとっては、祝い事であるはずだった。
養父はとうとう本懐を遂げたのだ。
それを喜べない自分のやり場がなく、ギリスはただ不満だった。
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003 施療院
湯気と薬の匂いが室内にこもっていた。施療院の白壁には、なんの装飾もない。
壁を埋め尽くすほどの華麗な装飾が当たり前の景色となっているタンジールの王宮では、この部屋は異質に見えた。
ギリスは待てと言われた患者用の円座に胡坐し、医師が戻ってくるのを待った。
今日会うのは術医のはずだ。特にしげしげと診られるような不調もないし、ギリスは定期検診のためにここに来た。
竜の涙には検診の義務があり、王宮にいるときには身体の健康を確認された。
それは、弓兵が弓の調子を見るようなものだ。
魔法戦士たちは族長が使う武器であり、この王宮は武器庫だ。そこに仕舞ってある槍を拭いたり、弓弦を張り直したりするように、族長は魔法戦士たちの手入れをし、その余命を知りたがっている。
もう古びたと思われる者は廃棄されるのだ。使い物にならない剣が溶かされ、打ち直されるように。
戦えない者には生きている価値がない。
医師は忙しそうだった。
遅れてやってきたギリスも悪かったが、訪れた時、医師には先客がいた。
施療院では軽い騒ぎになっており、ギリスは寝台で痙攣する子供を見た。
そういうものは自分が子供の頃から、何度か見てきた。
あれはもう助からない。
魔法戦士たるもの、王都にあっても戦時に備え、魔法の訓練をしない訳にはいかず、魔法を使えば頭の石が育った。それの当たりどころが悪かった者は、自分の石に殺されることになる。
敵ではなく。
王都で死んでも名誉はない。
しけた話だが、そう珍しくもなく、明日は我が身と言えなくもなかった。
英雄性とは運だ。ギリスはそう思っていた。
たまたま強かった奴が名声を得て、死後までその名を称えられる。
そんなもののために自分たちは生きているのだ。
「やあ、お待たせしました。英雄ギリス」
袖捲りしていたのを戻しながら、長衣の裾を翻す早足で術医が戻ってきた。
「さっそく視ましょうか」
術医はどさっとギリスの前に座すと、白い両手を広げて見せ、こちらの頭を掴む仕草を空中でして見せた。
術医は魔法で頭の中を透視するのだ。
何がどれだけ見えるのやら、透視術に覚えのないギリスには想像もつかないが、この医師や、透視術を使う者たちには、目に見えないはずの物の中身が見えるらしいのだ。
着飾った玉座の間も、こいつらの目にかかれば真っ裸というわけか。
だが、透視者にも魔法の長短があるようで、どこまで見通せるのかは術者による。この術医は手で触れたものしか上手く透視ができないらしい。
それでいつも、頭を掴もうとする。
竜の涙の頭に触れる者など、普通は滅多にいないわけだが、施術となれば仕方ない。
ギリスはおとなしく頭を差し出した。
「さっきのやつ……」
冷たい指で触れてきた術医に、ギリスは話しかけた。
「死ぬのか?」
そう聞くと、施術中の術医は淡い笑みを崩さなかった。
「それは我々が決めることでは。長老会の仕事です」
「なんと報告した」
ギリスは聞いてみた。聞く権利がある訳ではなかった。
知らない子供だったし、たとえ同じ大部屋で育った子供だったとしても、どうにかできるものでもない。
ギリスの弟分ではない。
「透視した病状を報告しましたよ」
「俺のもするんだろ」
ギリスが不平を言うと、術医は苦笑いだった。
「あなたのも報告しますよ。それが私の仕事ですから。エル・ギリス」
「どうだった」
ギリスは淡々と聞いた。死ぬときは死ぬのだ。もはやこれは日常茶飯事だ。
子供の頃には検診の前の日に、めそめそ泣き出す者もいた。
死が何なのか、ギリスには良く分からなかった。子供の頃も、今も。
「あなたは幸運な方です、エル・ギリス。戦場での活躍は英雄譚に記録されていますが、あなたの石はそれを知らないようですね」
術医は詩でも詠うように言ったが、ギリスにはその話の意味が分からなかった。
「は? どういう意味?」
ギリスは眉間に皺を寄せて聞き返した。すると医師は苦笑した。
「石は育っていません。あまり。まだしばらく生きられます」
「どのくらい」
ギリスは無表情に聞いた。
医師は少し答えに悩んだようだったが、やがて答えた。
「それをお決めになるのは族長です」
医師の答えは遠回しだったが、それの意味はギリスの頭でも分かった。
ギリスをいつ使い尽くすか、決めるのは族長だ。
族長には、魔法戦士が石に殺されるまで死闘するよう命じる権力がある。
残り少ない寿命と引き換えに、大魔法をふるって戦えと命じられれば、そうするしかない。
誉れだからだ。
「わかった。族長に聞こう」
ギリスは答えた。
「やめてください」
慌てたような青い顔で、医師は立ち上がるギリスを止めようとした。
それを見て、ギリスは笑った。中腰で慌てる術医が面白かったのだ。
「今聞きに行くわけじゃない。まあ、そのうちな」
医師はどっと冷や汗をかいたような顔つきで、また座った。
「そうですか。そうしてください。石のほうは大丈夫ですが、あなたの健康状態には問題がありますよ。顔色が悪いです。眠れていますか」
それに酒臭いぞとは、医師は言わなかったが、そういう顔をしていた。
「いいや全然」
それがどうしたという思いで、ギリスは答えた。医師はいかにも問題だというふうに難しい顔で睨んできた。
「寝なきゃいけないもんなのか?」
「そりゃそうですよ。当たり前でしょう。それに、石封じの使用量も減っています」
咎めるように言う医師の顔に、ギリスは首を傾げた。
「義務じゃないだろ?」
石封じというのは薬の名前だ。本来は老人が飲むものだ。ギリスはそう思っていた。
魔法戦士の額に埋まっている石の成長を遅らせる薬効があると信じられているが、気休めだ。石の機嫌は石にしかわからない。
それに、服むと魔法が鈍るとも言われている。本当かどうか知らぬが、もしあるとしたら、魔法戦士にとっては好ましい効果ではなかった。
それでも、死期を少しでも引き伸ばしたいと願う晩年の魔法戦士が服用したりする。
もちろん、こっそりとだ。それは恥だからだ。
ギリスはそれを子供の頃から服まされていた。そうしろと養父が命じたので。
だがもう養父は死んだのだし、ギリスに何も命じることができない。
長く生きろと命じたところで、だから何だったというのだ。
ギリスはもう死にたかった。
どう生きていけばよいかも分からぬこの世は、難しすぎる。それに比べてまだしも死は簡単に思えた。
いずれ部族の英雄として華々しく死ねと教えられてきたし、実際、養父もそうしたではないか。
ギリスにとって、それが今日でも、別に問題はないはずだ。
「あの子が死ぬかどうかは、誰に聞けばいい」
先ほど見た、寝台で痙攣する細い足を思い出して、ギリスは尋ねた。
「あの子、とは?」
「さっきの餓鬼だよ。そこで寝てた」
とぼけて見える術医に顔をしかめて、ギリスは尋ねた。
医師もそれに顔をしかめた。淡く。
そして、ためらってから答えた。
「小英雄はもう旅立ちました」
そう言われた言葉の意味を、ギリスはしばし、反芻した。
自分には関係のないことだった。知らない餓鬼だったし、俺の弟分でもない。
だった自分はなぜ怒っているのだろう。
これが皆が言う、怒りという感情なのではないのか。
養父が戻らなかった時から、自分の腹の中でずっと続いている。煮え繰り返るような何か。
この世は恐ろしく難解で、ギリスには分かりかねた。
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004 長老会
ギリスはゆるゆると王宮の長廊下を行った。
地下に建造されたタンジール王宮には窓もなく、陽の光などもう何日も見てはいないが、それを懐かしいとも思えないほどの絢爛さがあった。
特に玉座の間周辺の部屋部屋には、部族の代々の職工が技術の粋を尽くした装飾が凝らされ、自分がまるで一枚の絵に囚われたような気分になる。
長老会の鈍色の部屋は、そこからやや離れた場所にあり、いつも薄暗くほの灯りが揺れていた。
ギリスは子供の頃からこの部屋に出入りしてきた。長老会の長だったイェズラムの伝令として、あるいは従者として付き従うのが慣わしだったし、弟分が兄貴分に仕えるのは当然のことだった。
竜の涙に家族はいない。赤子の時に親から引き離されて、王宮に囲われ、同じ境遇の仲間とともに生きるのだ。
そこでは自分を後見してくれる兄貴分と、それに仕える弟分の繋がりだけが絆と言えるものだ。
部族の長である族長への忠誠を別にしたら、それは至上のものだった。
しかし養父を喪ったギリスにとっては、もはや、長老会に出入りする理由がない。そこには自分を待っている者がもういないのだ。
それでも、ギリスはあくまで当然という顔で、その組み木細工の装飾が施された重い扉を押し開いた。
焚かれた香木の薫る暗い室内。
見慣れた車座の円座が置かれた、長老会の鎮たちが座る席には、もうイェズラムの姿はなく、いつも厳しく泰然として見えた養父のいた席には、長い髪を華麗に結い上げた女が座っていた。
女英雄エレンディラだ。
なぜかたまたま他の重鎮たちは居らず、エレンディラだけがそこにいた。
ギリスは一瞬、それに面食らったが、突っ立っている訳にもいかぬ。戸を潜り、長老会の広間に踏み込んだ床に座して、エル・エレンディラに叩頭した。
床に額をつけるほどの深い座礼だ。この宮廷では、目上の者に対する当然の礼儀だった。
「エル・ギリス」
まだ若さの残る声で、大英雄エレンディラは言った。
イェズラムと同世代の英雄で、彼女も竜の涙としては晩年と言える年頃のはずだった。
だが豊かなまつ毛に縁取られた大きな双眸は美しく輝き、まだ死の影を寄せ付けぬ女だ。
「長」
複雑な思いで、ギリスはエレンディラにそう答えた。
自分の長ではない。それでもどうやら、イェズラム亡き後、この女英雄が長老会の円座を巡る遊戯に勝ったようだ。
信じ難いことだ。
竜の涙に女はいないと言われている。女を蔑むこの部族では、女は英雄になれない。竜の涙として生まれた時、その娘は女であることをやめるのだ。
エレンディラもしきたり通りに男装していた。しかしそれで彼女の美貌を隠せるものではない。
「何の用です。お前を呼んだ覚えはない」
「施療院に行って来ました」
睥睨する目線のエレンディラに、ギリスはどう話したものか、探りながら話した。
エレンディラの美しい顔面の額より上には、花冠のような赤い石がびっしりと埋まっていた。それが死をもたらすものでなければ、美しいと言えなくもない。
実際、宮廷詩人たちはこの女英雄の活躍を愛で、雷撃のエレンディラの血の花冠を、彼女の英雄譚の中で何度も褒め称えている。
彼女も自分の脳を押し拉ぐこの石を、誇りに思っているようだった。
「そなたは息災でしたか」
くすりと笑う唇になって、エレンディラはギリスに尋ねてきた。
「ええまあ」
「それは良かったこと。イェズラムはそなたに目をかけていました。亡き長に代わり、そなたが玉座に仕えるのです」
諭す口調で言うエレンディラに、ギリスは淡い渋面になった。
「族長にはもう仕えています。元から」
「そうですね」
何が面白かったのか、エレンディラはギリスの顔を見てくすくす笑った。よく笑う女だった。
「ところで、来たついでです。そなたの新星はどうなりましたか」
微笑んでギリスを見下ろし、エレンディラはそう聞いた。まるで何かの謎かけのような口調だ。
「新星」
「そうです。イェズラムはそなたに何も言い残さなかったのですか?」
ギリスは渋面のまま内心きょとんとして、養父が言ったかも知れぬ何事かを思い出そうとした。
思い出の中に、養父から聞いた話は山ほど詰まっていたが、エレンディラが言っているのが何のことか分からぬ。
ギリスは、エレンディラの下問に黙っている訳にもいかず、何を言うかも決めぬまま唇を開いた。
「新星……を、次の世の新星を放てと。射手として」
ギリスが言葉に詰まりながら答えると、エレンディラは小さく頷いて聞いていた。
「そう。それがわたくしたちの任務です。次代の星を選ぶこと」
新星とは長老会が使う、次代の族長になる王族の隠語だった。
タンジールでは、次の族長を選ぶのは族長の役目で、継承争いに名乗り出た王族の中から、指名によって継承者が決まる。
だが族長リューズは次の王子を選んでいない。族長はまだ若く、王子たちは幼いため、そのような決断には早すぎるということだろう。
だからといって争いが始まっていないと考えるのは甘すぎる。
継承争いに名乗りを挙げて敗れた者は死を賜わるしきたりで、名乗り出なかった者も結局は政争の中で葬られることが多かった。
王族にとっては命懸けの争いだ。
英雄たちは、その争いを勝ち抜いた新星に族長冠を与える。その戴冠をさせる役目の魔法戦士を、部族ではずっと射手と呼び習わしてきた。
それがこの部族領の最初の族長の兄の名で、彼は竜の涙だったのだ。
エル・ディノトリスになり代わり、新星に戴冠させろと、養父はギリスに命じていた。
その新星とは。
「スィグル・レイラス殿下はとっくにお戻りです。会いましたか」
会っただろうなという口調でエレンディラは言った。
「いいえ」
「なぜ」
不思議そうに聞くエレンディラの美しい目と、ギリスは困って見つめ合った。
なぜ?
会ったこともない相手だ。
どんな奴かは知っていた。
族長リューズの十六番目の息子で、人食いレイラスだ。そういう悪名が陰で囁かれている、傷物の王子だ。
かつて敵の虜囚となり、死んだと思われていたが、敵地から救い出された。
その時、敵であった森の者たちは、スィグル・レイラスとその双子の弟を、飢え死にさせるつもりで奴らの墓所に閉じ込めていたのだ。
それは墓だったのか。誰の墓なのかもわからぬ。とにかく地下の穴蔵で、そこにいたのは二人の幼い王子だけではなかった。
食料は与えられなかったが、飢えて死ぬはずだったスィグル・レイラスは生きていた。
何が起きたか推して知るべしだ。
部族では、同族殺しは重罪とされている。
それにそもそも、高潔なる王族たるもの、敵の手に落ちるよりは死を選ぶべきだった。
族長リューズは息子を人質に取られ、森の者たちから脅迫と辱めを受けた。それは部族への辱めでもあったのだ。
スィグル・レイラスは死ぬべきだったと考える者もいる。
だが、その時、族長の二人の息子は十二歳になったばかりだった。
やむを得まい。養父はそう考えたようだった。
ギリスもそう思った。
王宮育ちの甘っちょろい王族の餓鬼が、自ら命を絶てるわけがない。
そのように見えた。
玉座の間の晩餐に集まる、母親に連れられた綺麗なお人形のように着飾った王子たちが、そんな気骨を持っているようにはギリスには見えない。
その中から新星を選ぶのは難しい。それは確かだ。そこに部族の命運を預けるとなれば尚更だ。
族長リューズは、その優しげな美貌に似合わず、戦略に優れ残酷な男だった。異民族には砂漠の黒い悪魔と呼ばれ、恐れられている。
その性質を受け継いだ王子が一人でもいれば御の字だ。
それについてはイェズラムはこう言っていた。リューズのような者は、あと千年待っても、もう現れぬと。
「そなたの新星に目通りしなさい、エル・ギリス。これは命令ではありませんけど、イェズラムの命令ではあるのでしょう?」
「イェズがそんなこと言ってただろうか」
動揺して、ギリスは思わず独り言を言ったが、エレンディラはふふふと鷹揚に笑っていた。
「あら。忘れたの? 馬鹿な子ね」
優しげな声で言うエレンディラの言葉はきつかったが、敵意が感じられなかった。
「考えてもごらん。イェズラムがなぜ死んだか。誰のためにあの人は逝ったのですか?」
また謎かけのようにエレンディラは問うてきたが、考えるまでもないことだった。
イェズラムは、再び敵地に人質として送り出された王子、スィグル・レイラスを救出するために死んだのだ。
二度までも死にぞこなった王族の餓鬼を、イェズはなぜ助けに行ったのか。
新星だからか?
そんなこと、なぜ分かるんだ。
たとえ何かの魔法でそれが分かったとしても、ギリスにとっては養父が生きているほうがよかった。
王族の子はまだ他に何人でもいるが、イェズラムはこの世に一人しかいなかった。
何者にも代え難い大英雄だったのに。
「何でそうなる。俺がそいつに何の義理があるんだ。その王族の死にぞこないを戴冠させろって、イェズラムがそう言ったのか」
「いいえ。わたくしは聞いていません。でも、もしもあれが新星であるならば、イェズラムはそのために死にました。それがもし次の名君であったならば、あの人は後の世、何のために死んだと詩人たちに詠われるのでしょうね?」
エレンディラはもう笑っていない顔で、ギリスにまた謎かけをした。
その言葉の意味は、ギリスには分からなかった。分かるのが嫌だっただけだ。
「ギリス。長が何のために死んだか、そなたが決めなさい」
命令ではないと言うくせに、エレンディラは命令口調だった。
ギリスは叩頭する他なかった。人を額づかせる力を持った女だ。
もしも死に損ないの王子が新しい星でなく、ただの臆病者の屑だったら、イェズラムは無駄死にだ。
そんなものを救って戦ったところで、詩に詠んでくれる詩人なんていないだろう。
大英雄の死が、そんなつまらない一幕だなんて、皆がっかりするだろうな。
俺はずっとそれに、がっかりしてる。悔しくてたまらない。
養父は無駄死にだと言う者がいて、悔しくてたまらないだけだ。
王族の王子なら、皆が命懸けで助けてくれるのに、なぜイェズは、自分は、あの施療院で見た誰かも知らない餓鬼は、救い出されず殺されるのか。
誰かが養父を助けて、王都で待つ皆のところに連れ帰ってくれたらよかった。
ギリスは本当に心からそう祈っていた。今も祈っているのかもしれなかった。それを一体誰が聞いてくれるんだ。
そう思うと惨めで、ギリスは拳を握って耐えた。
「さっき施療院で石が暴れた子供を見た。そいつも生きて英雄になりたかっただろう。誰がそいつを殺したか知ってるか?」
ギリスは誰かにそれを言ってやりたくて、エレンディラに尋ねた。
女英雄は頷いて、真正面からギリスを見た。
「わたくしです。助からないなら眠らせるよう命令書に署名しました」
「それが俺でも、あんたの命令は同じだったんだよな」
「そうよ」
あっさりと響くエレンディラの声に、ギリスはどう思っていいか分からず、目を瞬いた。
「ギリス。それがわたくし自身でも、わたくしは署名しました。英雄の一生は短いの。迷っている暇はないわ」
それがどのくらい差し迫った話か、ギリスは分からず、エレンディラの煌めく目と見つめ合った。
女英雄は赤い血の冠をかぶって、じっとギリスを見た。
答えは分からなかったが、ギリスはもう一度深く叩頭し、長老会の部屋を辞去した。
時間がない。
急にそんな気分に襲われ、王宮の中のどこへ行けばいいのか、ギリスは道に迷った。
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005 帰郷
スィグル・レイラスが王都に帰還してから、もういく日も過ぎていた。
特に指折り数えたつもりはないが、ほぼひと月ほども過ぎた計算にはなる。
計算するまでもない。
自分がこの宮廷で放置されているのは明らかだ。
スィグルは自室の文机に向かい、何をする訳でもなく、ただじっと座ってそう考えた。
晩餐への呼び出しがかからないことでも、それは分かった。
息子の帰還を、父である族長リューズ・スィノニムが喜んだことは間違いない。帰着してすぐに謁見を許され、玉座の間で会った。
その時の父の顔にあった喜びの色が嘘とは、スィグルには思えなかった。
息子が戻って嬉しいと父の顔に書いてあった。しかし、こうも書いてあった。
お前の扱いに苦慮している、と。
一切の魔法らしい魔法を使えないはずの父が、まるで念話でも使えるように雄弁に、スィグルと同じ王家の黄金の目で伝えてきた。
お前は歓迎されていない。しばし、自重せよと。
スィグルはそれに平伏し、引き下がる他なかった。
父を困らせるような息子になるつもりはなかったが、十二歳で元服して以降ずっと、自分は父の苦悩の種だっただろう。
ふう、と深いため息をついて、スィグルは目を閉じていた。
腹が減った気はしないが、かと言って食べない訳にもいくまい。
飢え死にするまで自室に篭っていろと言われた訳ではない。
王宮では、朝餉と昼餉は部屋に運ばれてくる。皆で集って食べる習わしの晩餐に食いっぱぐれているだけだ。
普通なら然るべき刻限になると、玉座の間にお出ましくださいと侍従が呼びにやってくるが、それが来ない。
しばらく留守の間に第十六王子スィグル・レイラスは故郷の宮廷で忘れ去られたのだろう。
来るなということだった。皆の前に顔を出すなと。
それももっともな事かもしれない。
もともと不本意であった四部族同盟を、皆いずれは反故にするつもりだっただろうが、そのための捨て石として人質に差し出したはずのスィグルが、同盟の監視者として戻ってきてしまった。
一度破られた同盟は、天使ブラン・アムリネスの名において再び締結され、人質だった王子たちは故郷に帰された。もう人質が必要なくなったせいだ。
もしも再び同盟を破る者があれば、四部族を皆殺しにする天の槍を発動するとブラン・アムリネスは宣言している。
今や全土の一人一人の命が質にとられており、皆、武器を置くしかなかった。
戦いの時代は終わったのだ。天使に跪くしかない。
とは言え、この大陸はもともと天使たちの支配地だったはずだ。改めて不戦が命じられたというだけで、この大陸に棲む自分たち一人一人にとって、何が変わったわけでもない。
もう戦わないというだけのことだ。少なくとも、天使の意に叛いた戦はできない。
天使ブラン・アムリネスは四部族の和平を願っている。従うしかないだろう。
それは天使の意向であって、スィグルのせいではない。天使の命令書を持ち帰ったというだけで、裏切り者呼ばわりされるのは心外だ。
臆病者呼ばわりされていた頃のほうがましだった。それはまだしも真実だったからだ。
和平など、戦いに比べたら難しいことではないと、スィグルは思っていた。戦いたい者などいないだろう。
積年の恨みのある森の者どもと和解すれば良いだけだ。あのシェル・マイオスと兄弟の抱擁を交わし、僕たち友達ですよねと、恥じらいもなく友誼を交わせば、万事はそれで済む。
あいつらは敵か? 信用できないか? あの森の白い豚どもと握手するぐらいなら、いっそ死んだ方がましなのか?
そんなことがあるかと思うが、自分もそう思っていた。以前、この部屋を同盟の人質として出立する前は。
自分は確かに、トルレッキオで別人に作り替えられて戻ってきたのだろう。
故郷に厄災をもたらすために?
スィグルには、そんなつもりはなかった。
「お食事をお持ちいたしましょうか」
女の声に呼びかけられて、スィグルは座ったままびくりとした。
振り返ると、気まずそうな顔をした宮廷服の女官が、部屋の戸口から心配げにこちらを見ていた。
目が合うと、彼女は慌てて再び叩頭し、俯いたまま言った。
「お部屋にお食事をお持ちいたしましょうか」
どうも、何度か呼びかけられていたようだが、スィグルは気づかなかったのだろう。女官は、これで返事がなければもう引き下がろうという気配を見せていた。
晩餐にお呼びがかからない部屋の主人を憐れんだのだろうか。
病人か、人前に出るのが憚られる狂人でもなければ、晩餐は玉座の間でとるのが王族の男子のしきたりだ。
なぜならそこに参加していることが、王族の成年の証で、族長や臣下と食事を共にするのは王位継承権を持つ者の権利だからだ。
そこに席がないとは、いかなることか。
自分にも飯を食わせろと、こちらから父に直談判しなくてはならないのか。
故郷でそんな目にあうとは、スィグルは想像もしていなかった。
言葉は出ず、スィグルは首を横に振って、女官に答えた。
腹は減っているのかもしれないが、餌をもらって食う気はしない。
いらないと答えたつもりだったが、女官はまだ心配げに去りがたくしていた。その目がいかにも不遇の王子を憐れむようだったので、スィグルは腹が立った。
「もう退がれ。グズグズしてるとお前を食うぞ」
腹立ちに任せてスィグルが語気を荒げると、女官はこちらが思った以上にびくりとした。
悪い冗談だっただろうが、どうも本気に取られたらしい。
女官は薄紅の薄物をひらめかせて、逃げる獲物のように走り出ていった。
しまったな、とは勿論思ったが、やってしまったものはもう手遅れだ。
スィグルは深くため息をついた。
女官に詫びるべきだろう。食いっぱぐれの王子を気遣ってくれたのに、脅しつけられて心外だっただろう。
気は進まないまま、スィグル・レイラスは立ち上がり、女官が退がった方へ歩いた。
王宮にある王族たちの居室は、生活用に使う幾部屋かの続き部屋と、そこで仕える女官や侍従が控えて待つための小部屋がそれぞれに付いている。
女官が逃げ込んだのは、その小間のほうだ。
スィグルが丈の低い扉を開くと、中には観賞魚の群れのような薄紅色の透ける袖をした女官たちが数人いた。
皆、床に座り、車座に寄り集まっている。
どれがさっきの女官だったかと、スィグルが顔を見ると、皆一様に青ざめており、震えさえしてこちらを見上げていた。
「怖がらなくていい。誰もお前たちを食ったりしないよ」
スィグルは作り笑いで言ったつもりだったが、それもまずかったのか。
女たちは青ざめて袖で口元を覆い、泣くような悲鳴を上げた。
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006 礼拝堂
なぜこんな事になったのかと、スィグルは自分の一生を省みていた。
幼い頃には神童の誉高く、宮廷でも皆がスィグルを褒めそやした。
玉座は近いと値踏みして、自分や母に阿ってくる者も一人や二人でなくいたはずだ。
その当時は母方の祖父である地方侯も客分として王宮にいて、スィグルは強く優しい祖父を頼りにしていた。
しかし祖父は死に、そもそもその祖父も、宮廷でスィグルの後ろ盾となれるような身分ではなかったのだ。
高貴な血筋は確かでも、すでに領地を敵の侵攻に呑まれており、領地なき地方侯だった。
祖父は族長に嫁がせた娘が産んだ息子である、第十六王子スィグル・レイラスに期待していた。その双子の弟だったスフィルは母親に似て気が弱く、勝気で優秀だったスィグルに祖父が期待を寄せるのも無理はなかった。
母は繊細で優しげな弟の方を内心可愛がっていたかもしれぬが、それでもスィグルが頼りだったはずだ。
息子の栄達のほかに、母に頼れるものは無かった。
族長とは政略結婚で、父は部族の主だった高貴な血統の娘と全員同時に結婚し、今日に至るまで、特に誰を寵愛することもなかった。
父にとって結婚は玉座にまつわる義務でしかなく、妻たちを大切にはしたものの、愛しはしなかったのだ。
しかし父は息子たちは愛した。族長リューズは子煩悩で有名だ。
スィグルのことも、父は愛おしんでいるだろうが、それは十七人いる息子全員を等しく愛す父の、十七分の一の愛でしかない。
父はスィグルだけを愛する訳にはいかないのだ。
それで公平と言えるのかどうか。スィグルは不満だった。
兄弟たちには後宮での政治に長け、出身領地の有力な後ろ盾や、軍や官僚に懇意の派閥を持つ母親がいて、日々の政争を戦うための援護射撃を矢衾のように放ち続けているというのに、スィグルには何もない。
それを恨んでも仕方がないと思うが、恨まずにいられるだろうか。
そもそも、自分の凋落は十二歳の折の、元服祝いの里帰りに起因している。
帰る実家など敵地に呑まれて存在していなかった母は、どこへ向かっていたのか。
形ばかりの行事として、王都近くのそれらしき縁者のいる都市に行き、すぐ戻るだけの真似事の旅だったはずが、親子ともども何者かに略取されて敵地に投げ込まれていた。
裏切り者というなら、それを画策した者がスィグルの敵であり、父リューズを窮地に陥れた元凶ではないか。
今もって、それが誰か分からぬ。
父は知っているだろうが、その女と今も平気で寝ているのだ。
父はそうするしかあるまい。スィグルはもし自分が父の立場でも、そうするしかないと思った。
族長冠を争う者にとって弱さは無能さだ。
弱さゆえに敗北する者を救うことは、玉座に座す父でさえ不可能なのだ。
それでも父リューズは、敵の虜囚となった自分たち母子を救い出しに来た。
父の軍はそのために来たわけではないが、ヤンファールの東に侵攻した父の軍が勝った結果として、スィグルと弟は救い出された。母も。それは自分たちには過分の愛だったはずだ。
父は失った息子と妻を、もう死んだものとして諦めることもできた。
そのほうが良識的な判断だったと言える。
当時、ヤンファールの東の失地回復戦に勝てると思っていた者は少なかったかもしれない。それでも戦上手の父には勝算があったのか。
部族の子供とその母親を敵に捉えられ、ゆるゆる拷問されるという辱めは、父には好機だったのかもしれない。
救出のため、あるいは復讐のために、部族には奮起して戦う理由があった。
息子を救い出そうと必死で戦う族長には、誰の目にも単純な説得力があっただろう。
妻子を殺され、やられっぱなしではないのだという父の気概は、謀った通りに民の胸を打ったか。
部族の軍勢は脅威の奮闘をし、スィグルは救出された。ただそれが自分にとっては新たな転落の始まりだったというだけで。
それでも自分は父に感謝すべきだろうか。助かって良かったと思うべきか。
救い出された後も、母と弟は拷問の恐怖ゆえに正気を失ったままだ。スィグルは宮廷での地位を失い、挙句に神殿に命じられた同盟のための人質としてまた敵地にやられた。
死んでいれば良かったと、父も本音ではそう思っていたのだろうか。皆と同じように。
自分は何をしに故郷に戻ったのだろうか。
いずれ起きる玉座の継承争いに敗れて、王族らしい刺繍入りの絹布で絞め殺されるためにか?
それとも、そんなものは待たずに、誰とも知れない何者かに、さっさと始末されるのかもしれぬ。ありうる話だった。
スィグルは歩き疲れて、気付くと礼拝堂にいた。
部屋で女官たちの悲鳴を聞いて、急に恐ろしくなり、その足で居室を出てきてしまったのだ。
本当に女の悲鳴というのは耐えがたい。拷問された時の母の悲鳴を思い出す。
スィグルは王宮の廊下を歩き回り、自分が何から逃げているのか、それともどこかへ向かっているのか、分からなくなった。
どこへ行けばいいのか。
そう思うくせに、いつの間にか王宮の礼拝堂にいて、子供の頃によく見上げていた天使ブラン・アムリネスの白い彫像の足元にいた。
大きな翼を広げて仰け反り、心臓を矢で射られた姿で天使の像は静止している。長い巻き毛を頬に乱れかからせた断末魔のような悲しみの表情で。
ちっとも似ていない。トルレッキオでスィグルが見た本物の天使の姿とは。
むしろ森エルフのシェル・マイオスと似通った面差しだ。
それもスィグルには、学院で共に過ごした友人たちを思い出させた。
「現実は甘くないよな……」
声に出して言うつもりはなかったが、スィグルは彫像の石の素足に触れて、誰かと話したい気持ちで言った。
そう言うと、天使の像が答えるのではないかと思えた。
甘えるなレイラス。そんなこと、初めから分かってただろう。
答えたとしても、どうせそんなところだ。
別に慰めを求めてるつもりはないが、何というか……。
ここは、孤独すぎる。
かつて、森の地下の穴蔵に閉じ込められた時でさえ、まだ弟のスフィルがいた。暗闇で抱き合って耐えた。
でも今のあいつはもう、生きながら遠くに行ってしまった。
自分と心の通じる相手など、ここにはもう誰もいない。僕は一人だ、猊下。
それでどうやって戦うんだ、故郷で。
そう思って、恨みがましく見上げた天使の像は、もちろん何も答えなかった。
ただ、今にも死にそうな顔で静止しているだけだ。
「スィグル」
しかし急に、そう呼ぶ声が聞こえて、礼拝堂に残響が響き、スィグルはぞっとした。
天使像の声が聞こえたのかと思ったのだ。
だが、そんなはずはなかった。
慌てて振り向き、スィグルは暗い礼拝堂の入り口の明かりの中に、すらりと背の高い誰かの輪郭を見つけた。
その人影は部族の習わしに従い、華麗な宮廷服を身につけていた。
礼拝堂の闇に慣れていたスィグルの目には、地下に棲む部族の者が持つ暗視の視界に切り替わっていたせいで、王宮の通路の灯りさえひどく眩しく見えた。
「スィグル……」
確かめるように、その人物は呼びかけながら礼拝堂に入ってきた。
ちょうどその姿が闇の領域に踏み込んで来た時、スィグルにはやっと相手の顔が見えた。
「エル・ジェレフ」
記憶の中にあったのと同じ顔に、スィグルは呼びかけた。
彼は、ヤンファールの東で囚われていたスィグルを、命懸けで助けに来た英雄だった。
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007 英雄
「久しぶり。元気そうで良かった」
ジェレフはそう言った。ほんのしばらく会っていないだけの友人のようだった。
晩餐のために正装したらしいジェレフは、長い黒髪を王都にいる魔法戦士らしく結い上げており、すらりと丈高く凛々しく見えた。
まさに英雄然とした出立ちで、エル・ジェレフは見た目だけでなく、数々の英雄譚に当代の奇跡と詠われる、稀代の治癒者だ。
どんな傷でも治癒術によって立ち所に治してしまう。
その奇跡の力で、スィグルも癒されたことがあった。ヤンファールの東で救い出された後、スィグルと弟の治療にあたったのはジェレフだ。
その頃と変わらない優しい笑みで自分を見ている英雄を、スィグルはしばし無言で見た。
「なんで晩餐にいないんだ。探したよ」
困ったようにジェレフが聞いてきた。
「席がないからだよ」
「そんなの用意させればいい」
ジェレフは至極当たり前のように言った。いとも簡単なことのように。
そうなのかもな。スィグルはそう考えてみたが、それでも一向に、そうだという気はしなかった。
「いなかっただろ……ジェレフは、このひと月ほど。ちっとも見かけなかった」
スィグルは俯いて尋ねた。
近づいてこないジェレフが数歩先から自分を見ているのに、嫌な記憶を呼び覚まされていた。
かつて、墓所に現れた時も、ジェレフはこんなふうに少し離れたところから、自分たち兄弟に話しかけてきた。
お父上の命により、救出に参りました。と、ジェレフは言ったが、スィグルは初めそれが幻覚だと思った。助かりたい一心で自分は狂ったのだと恐れ、ジェレフが怖かった。
怯えて逃げようとするスフィルと自分を、ジェレフは抱え上げて墓所から連れ出したが、その時にジェレフは傷を負ったはずだ。自分たちが抵抗したので。
助けられているのだと分かっていたはずだが、なぜ抗ったのか、よく分からない。本気ではなかったのに、ジェレフを負傷させた。
それでもジェレフが大丈夫だよと微笑んで救い出してくれたから、今も自分と弟は生きているのではなかったか。
エル・ジェレフは終始、優しかった。今もそうかもしれない。今もこの宮廷で、自分の力になってくれるかも。
そう思うのが、なぜか今も恐ろしかった。
ジェレフがまだ自分たちの味方なのか、自信がなかった。そうじゃないなら、彼を信じて、傷つきたくない。
「俺は王都にいなかった。族長の命で巡察に出ていたから。殿下の帰還を出迎えられず、済まなかった」
ジェレフは本当に済まなそうに言って、また一歩二歩、ゆっくりとスィグルに近づいてきた。
「大丈夫か」
心配げに聞かれ、スィグルは言葉に詰まった。
自分が大丈夫なのかどうか、こっちが聞きたいぐらいだよ。
そう言いたいのを呑み込んで、スィグルは頷くことも、首を振ることもしなかった。
どちらが正しいかも分からないせいで、できなかったのだ。
「殿下。まずは休むことだ。今は急な動きをするべきじゃない。部族領は新しい態勢に動揺している。族長はこれから軍を解体しなくてはならない。竜の涙たちも、今は行き場を失っている」
「それが僕のせいだって言うのか!」
慎重なジェレフの説明にも、思わずカッとして、スィグルはすぐ反省したが、また何も言えなかった。何も言えない。
「殿下のせいじゃない。でも注意したほうがいい。一人歩きはしないほうが。礼拝堂も……一人で来ないほうがいい」
危険だから。ジェレフはそうは言わなかったが、そういう意味だろう。
ここには出入り口が一つしかない。逃げ場がないだろうとジェレフは言いたいのだろう。
「一人じゃなきゃ誰と来るのさ。女官について来てもらうのか? 僕にどうしろって言うんだ」
気づくとジェレフから後退って逃げて、スィグルは天使像の台座に身を寄せ、その石の足を掴んでいた。
これが助けてくれるはずはないと良く知っているはずなのに、まだ天使の足に縋っている自分が情けなく、それでも退路が無かった。ジェレフの言う通りだ。
「ごめんよ……急に言いすぎた。あまり時間がなくて。俺はずっと王都に居られるわけじゃないんだ」
「どうして?」
スィグルは驚いて聞いた。もう戦も無いのに、なぜジェレフは王都を出撃するのか。
「巡察だよ、殿下。族長は魔法戦士を民に与えることにしたんだ。まずは治癒者から」
微笑んで言うジェレフに、スィグルは唖然とした。魔法戦士を民に与える。
「どういう意味。ジェレフが……何をするんだ、戦でもないのに」
「戦がなくても民は怪我をするし、病気にもかかる。治癒者には仕事があるさ。他の連中と違って……」
「何でもない奴らをジェレフが治療するのか? 魔法で?」
魔法を使えばジェレフの命は削られていくのに、なぜそんな事を。
部族の命運をかけた戦場でこそ振るうべき魔力だったはずだ。
「何でもない奴らなんて居ないよ、殿下。皆、生きてる。君もそうだろ」
そう言われて、スィグルはよろめくような衝撃を感じた。
自分もジェレフの命を浪費して、彼の石を肥やした一人だ。生きている意味もないのに、ただ生きるためにジェレフを使ったのだ。
そう思うとジェレフに済まない気がした。
しかも自分は彼から戦場を奪った。
戦って死にたい奴などいないだろう。
だが、魔法戦士たちには、戦って華々しく散る他に、英雄譚に詠われる一生を生きる手立てがない。
彼らには戦場こそが生きるための場所だったのではないのか。
たとえ戦場で死と隣り合わせでも、彼らの一生はどうせ、どこに居ようがずっと死と隣り合わせだ。
それならせめて英雄譚におくられて死にたいというのが、彼らの願いなのではないのか。
自分もそれを、本当は知っていたはずだ。
「王都に居てよ、ジェレフ」
「俺もそうしたいよ、殿下」
ジェレフは頷いて、微笑んだが、彼は嘘をついているとスィグルは思った。
ジェレフも本当は、王都にいるのが辛いのではないか。
そんな居つかない気配がジェレフから感じられた。王都の住人ではなく、たまたま立ち寄った旅の途中の誰かのような。
「済まない」
ジェレフが何を詫びているのか分からない。
「まだ何日かは王都にいる。殿下の旅の話を聞かせてくれ。トルレッキオはどうだった」
ジェレフは努めて明るく言っているようだった。スィグルも苦笑した。それでも笑みには違いなく、ジェレフはほっとしたようだった。
「酷いところだったよ。王都とは比べようがない。けど……そうだな……景色は良かったかな」
スィグルは友たちのことを言うのは止した。ジェレフには理解されないかもしれない。
「景色か。どんなだろうな。そうだ殿下、絵に描いてみたら?」
ジェレフの提案に、スィグルはきょとんとした。そういえば自分は以前、絵を描くのが好きだった。子供時代の落書きだったが、それでも好きだった。
「描いたら見せてくれるかい」
ジェレフは励ます口調だった。それに素直に励まされている自分が、スィグルは恥ずかしかった。
自分はもっと罪を問われるべきなのかもしれない。ジェレフにも、他の大勢にも。
それが当然の報いだったか。
それなのに自分は何を嘆いていたのか。
「見てくれる?」
「もちろん。ぜひ……ここをもう出よう、殿下。部屋まで送るよ」
ジェレフはこちらの腕を取り、礼拝堂の入り口へと導いた。
礼拝堂に何が居るわけでもない。聖像の天使しかいないのに、ジェレフはまるで何かを恐れているみたいだった。何かの襲撃を。
ジェレフに連れられて、スィグルは足早に礼拝堂の扉まで歩いた。
ジェレフが扉に手を伸ばしかけた時、両開きの大扉が急に、こちらを叩く勢いで開かれ、目が潰れそうな眩しさをスィグルは感じた。
ジェレフが咄嗟に自分を背後に庇うのに、足がよろめき、スィグルには扉の向こうにいる何者かの足だけが見えた。
平服の長衣の質素な裾から、革を巻かれた靴が見えた。
晩餐のためにジェレフが身につけている華麗な宮廷衣装と比べ、影のように質素だ。
まだ眩しさに顰めた顔のまま、スィグルはそれが誰なのかを確かめた。
黒に近い濃紺の長衣に身を包み、結いもしない長髪をした少年が立っており、スィグルは少したじろいで、それを見上げた。
魔法戦士だった。
氷の欠片のような石を額に生やし、冷たい両目の虹彩の色までが、凍ったような淡い灰色をしていた。その中に宿る蛇眼の細長い瞳だけが、くっきりと暗く際立って見えた。
「何でお前がここにいるんだ、エル・ジェレフ」
出会い頭に、その少年は言った。
「いてはまずかったか?」
「晩餐の最中に礼拝か」
皮肉めかして答えたジェレフに、相手は無表情に質問を浴びせた。
「用があってね。お前こそ何してるんだ、ここで。祈りに来たのか、エル・ギリス」
ジェレフと話しながら、その少年はじっとこちらを見ていた。ジェレフの後ろに留め置かれているスィグルのほうを。
「そいつに会いに来た。人食いレイラス」
好ましからぬ渾名で呼ばれて、指まで指され、スィグルは眉間に皺を寄せた。
「不敬だぞ、殿下に」
驚いた声でジェレフが咎めたが、その相手は無表情だった。仮面でも被っているように。
「殿下。俺はエル・ギリス。貴方の射手です」
淡い色の目でじっと見て来て、氷の色をした魔法戦士はそう言った。
射手だと。
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008 射手
「晩餐に行けば会えるかと、玉座の間に行ってみたけど、殿下はいなかった。探したぞ」
エル・ギリスはまるで晩餐で会う約束でもしていたように、スィグルを咎めた。
礼拝堂の入り口でジェレフに守られながら、スィグルはそれと対峙していた。
相手は記憶にない顔だった。親しく会ったことがある相手を見忘れない自信がスィグルにはあったが、この顔は知らない。
会っていれば忘れはしないだろうと思える相手だった。
エル・ギリスはただならぬ様子だった。他の誰とも纏っている空気が違う。表情からも、何を考えているのか全く読めず、にこりともしないが敵意も見せない。
心を隠しているというより、まるで心がないように見えた。
さっき見た礼拝堂の天使像が生きて動き出したら、こんな感じだろうな。
スィグルはそう思ってギリスを見た。
エル・ギリスの容色は悪くなかった。まだスィグルより少し年上なだけに見えたが、成長すればいずれはエル・ジェレフのような美丈夫として詩人たちが讃え、民に愛される英雄になるのだろう。
もちろん、それにふさわしい魔法と、能力を持っていればだが。
「なぜ黙ってるんだ」
ギリスが不思議そうに聞いてきた。
答えるべきなのかスィグルには分からなかった。
「叩頭しろ」
呆れた調子でジェレフが答えた。
知らぬ間柄ではないようだった。ジェレフの声には気安さがある。
「叩頭? ここでか。廊下じゃないか」
「初対面なのにこんなところでお前が声をかけるからだ」
「初対面じゃないだろ、お前とは」
分からないという表情を見せて、ギリスはジェレフを見上げている。
「俺じゃない、殿下だ! 王族に対する礼儀も知らんのか、お前は……!」
声を荒げてから、ジェレフはすぐ困ったようだった。
場所も礼拝堂の戸口であるし、スィグルにも礼儀を欠くと思ったのだろう。
ジェレフは小さくため息をつき、小声でギリスに言った。
「殿下に会いたいなら時を改めろ。今は帰れ」
「叩頭すればいいのか?」
諭す口調のジェレフにしれっと答えて、ギリスは納得したようだった。
彼が一歩引き下がったので、スィグルはほっとした。通してもらえるらしい。
そう思った矢先、エル・ギリスはその場で王宮の通路に座った。
叩頭礼だ。
王宮では見慣れた作法だが、どこでもやって良いものではない。最下級の女官でさえ、通路では略式の立礼で済ます。
よほど公式の何かが通路を行くときに叩頭礼で送ることもありうるかもしれないが、それは族長の出陣か、国葬に相当する葬列でも見送るような時に限られる。
廊下で座る奴がいるか。
とにかく呆気に取られる行為だったが、ギリスの叩頭礼はまるで作法の教師の行儀見本のように美しかった。
「初にお目にかかります、殿下。お話があります」
叩頭はしたが、それでもギリスの話は単刀直入だった。
スィグルもさすがに顔を顰めた。
不快ではなかったが、不可解だったからだ。
「何の用だ」
スィグルは思わず答えたが、振り向いたジェレフが首を振っていた。相手にするなという意味だろう。
王族と竜の涙は、兄弟だ。宮廷ではそのように考えられている。
対等に口を聞いてもいい。族長に対してすら、そうだ。
しかし儀礼的に、それは王族のほうが近しい付き合いを認めた場合に限る。律礼にそう定められてはいないが、習慣だ。常識と言うのか。
彼ら竜の涙は、軍団にいる時は一兵卒の友であり、玉座の間にいる時は族長の友で兄弟だ。そう定められてはいるが、それはそれとして、日常の礼儀があるではないか。
対等の鉄則を体現するような振る舞いのギリスに、スィグルは呆れたが、咎めることはできない。ギリスのほうが正しいせいだった。
「殿下の即位について相談を」
ギリスの話に、すぐ側にあるジェレフの背が、電撃でも食らったようにびりっと緊張するのをスィグルは感じた。
自分もそうだったかもしれない。空腹のはずの胃がずしりと重かった。
「帰れ、ギリス。殿下は帰郷間もなくお疲れだ。お前と話などなさらない」
ジェレフは有無を言わせぬ重い声で伝えた。しかし相手は意に介さないようだった。
「戻ってひと月も経ってんだろ。何に疲れてんだよ」
ギリスはジェレフにそう答えたが、スィグルの胃はさらに重くなった。石でも呑んだように。
ジェレフはさらに言い返そうとしているようだった。
スィグルは彼の正装の重たい袖を引いて、それを止めた。
心配げに顔を顰めたジェレフが少しだけこちらを振り返って見た。
ジェレフがこんな怖い顔をしている時もあるのだなと、スィグルはどこか心の片隅で驚いていた。
ジェレフはいつも優しかったが、それがジェレフの全てではなかっただろう。皆、そういうふうに、自分には良いところだけを見せていたのかもしれない。王族への気遣いとして?
だが、それが現実だっただろうか。
ジェレフの優しさに頼るのは、自分にとっては、礼拝堂の天使像の足に縋るようなことだったかもしれない。
甘えてもよかっただろうが、そうしているうちは、どこにも歩き出せない。
「疲れてない。もう。何の用だ、エル・ギリス」
スィグルはもう一度、同じことを尋ねた。
エル・ギリスは氷のような目で、こちらを見た。
両目を通して頭の奥まで見通そうとするような、強い無表情な視線だった。
「エル・イェズラムが貴方を新星に選んだ。俺は貴方の射手です。即位させます、殿下」
「どうやって」
こちらの表情まで凍り付かせるような、冷たい目だなとスィグルは思っていた。自分も彼と同じ、笑みも怒りもない顔で答えていた気がする。
ギリスは少し首を傾げたようだった。考えているというより、不思議そうに彼は見えた。
少しの思案の後、ギリスは迷いのない声で答えた。
「どんな手を使ってでも」
ギリスの答えは端的だった。
ジェレフは物言いたげに息を呑んでいたが、何も言わなかった。
スィグルも沈黙した。簡単な答えを返すには、奇妙で難しい話だった。
よろしく頼むと答えるのは、狂人のすることだろう。
そもそもこの少年は誰なのだ。そんなことを自分に提案してくるどんな義理がある。頭がおかしいとしか思えない。
「へえ。そりゃいいね。やってみせてくれ」
そう自分が答えたので、スィグルは自分が狂ったのだと思った。まともな神経なら、そんなこと言いはしないだろう。
だが、狂ってもいいような経験はしてきたはずだ。僕には発狂する権利がある。
母も弟も、遠の昔に正気を手放している。次が僕の番でも、誰も不思議とは思うまい。
「わかった。お前は俺の新星だ。明日の晩餐の前に行く。着替えて待ってろ」
ギリスはそう言うと、くるりと踵を返して、去っていった。
辞去の礼はなかった。
呆れと驚きで、スィグルもジェレフもそれを無言で見送るしかなかった。
あいつがどこで聞きつけて、礼拝堂に会いに来たのかもわからぬ。
今さら何もかも不可解で、スィグルは呆然と立っていた。
「申し訳ない、殿下。あいつは……派閥の弟分で、少し、その……変わってる」
これ以上は和らげようのない説明をジェレフがした。
そうだろうなとスィグルは思った。
ギリスは晩餐の刻限というのに、玉座の間の儀礼にふさわしい正装を纏っていなかった。
あいつも広間から締め出され、食いっぱぐれているということだろう。
つまりは、病人でないのなら、狂人だということだ。
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009 悪面
エル・ジェレフはスィグルを居室には送っていかなかった。
スィグルにその後の予定がなにもないのを知ると、ジェレフは魔法戦士たちの派閥の部屋に寄っていかないかと聞いた。
晩餐の最中なら、皆、玉座の間に出かけていて留守だろうし、殿下は食事をしたほうがいいとジェレフは心配げに言った。
魔法戦士の部屋を訪ねたことは、スィグルには無かった。王族が日常的に出入りする場ではない。
しかし、全く足を踏み入れない場所でもなかった。
魔法戦士たちの派閥は、宮廷ではある種の勢力だ。
彼らは幾つかの派閥に分かれて王都での生活を過ごしている。それぞれの派閥は長い伝統のあるもので、各派閥が彼らの詰所にあたる共同の部屋を持っていた。
派閥の勢力を誇示するべく、贅を凝らした広間と、幾つかの客間がある。
魔法戦士たちは、そこで寝起きするわけではなく、各自に別の居室が与えられているが、その個人房が彼らにとっての寝床だとしたら、派閥の部屋は共同の居間だ。
彼らはそこで共謀して他の派閥と争い、時には王族を招いて王位継承の謀を巡らす。
だが普段はただ、皆で寄り集まって寛ぐための場所だ。
親兄弟がいない魔法戦士にとって、派閥は家族のようなものだ、とジェレフは言った。
彼らはそこで同じ派閥の者同士で協力し、支え合って生きている。
誰かが病みつけば看取り、死んだ際の葬儀も派閥が資金を出して取り仕切るものだ。
どの派閥にも属していない魔法戦士は存在しない。そこから切り離されては、宮廷では生きていけないからだ。
ジェレフが属する派閥は古い歴史のあるもので、つい先ごろまで、その長はエル・イェズラムだった。
イェズラムは長老会の長として魔法戦士全体にも君臨したが、一派閥の長でもあったのだ。
そこは彼にとっては家族のようなものだった。彼にもっとも忠実な者がいた場所だ。
ジェレフは、自分もそうだったとは言わなかったが、スィグルを案内するとき、ここはエル・イェズラムの派閥だと教えた。ここではまだ、死者が生きている。その名を忘れない者たちの心の中では。
スィグルは小さめの客間に通され、ジェレフは部屋にいた者に、客に食事を持ってくるよう言いつけていた。
その誰かはジェレフに叩頭し、すぐ立ち去った。王宮の厨房に指示を伝えに行ったのだろう。
見たところ、スィグルとそう年の変わらないような少年だったが、魔法戦士らしく、額には小さな石を生やしていた。
「あの子は晩餐には行かないのか」
出て行った伝令の魔法戦士が平服だったので、スィグルは不思議になってジェレフに聞いた。
「全ての魔法戦士が玉座の間の晩餐に出るわけじゃない。行きたい者や、行く必要がある者だけだ。あんなところで毎晩、正装して飯を食いたいやつがいると思うか?」
居馴れた場所に戻ったせいか、スィグルと卓越しに向き合って円座に座るジェレフは、いくぶん寛いだ様子だった。笑って軽口を言う。
「君たち王族はそうはいかないだろ。正装して何時間も、あそこに座ってないといけない。大変だ」
労うようにジェレフは言ったが、スィグルはじわりと苦笑するしかなかった。
「王族には、あそこに座れないほうが大変なんだけどね」
自嘲して言うと、ジェレフも笑っていた。淡く。
「そのことだけど。殿下は玉座の間の晩餐に戻りたいだろうか。戻れば継承争いに復帰したことになる。今は幸い、君は誰の敵でもないだろう。大人しくしている限りは」
ジェレフの話を、スィグルは驚いて聞いた。
「そうだっけ? 僕は自分が皆の敵なのかと思っていたよ」
「悪名を馳せてるという意味では、そうかもな」
ジェレフは否定しなかった。苦い笑みでそう言うだけだった。
スィグルはそれに何と答えて良いかわからず、ただじっと座って黙り込んだ。
「君は争いには向かない。死にに行くようなものだよ、殿下」
「死を恐れない竜の涙がそんなことを言うなんてね」
ジェレフに何を止められているのか分からず、スィグルは内心動揺して言った。
「君は違うだろ。竜の涙じゃない。うまくやれば俺の何倍も生きられるはずだ。たとえ最期は同じでも」
ジェレフは暗い目でそう言った。
「なんとかして君を助けられないかな」
思案する目線を床に落とし、ジェレフは考え込んだようだったが、その話は居心地の悪いものだった。
ジェレフがしているのは、逃げる算段だ。逃がすよりほかに、スィグルには生きる道がないと考えている。
だが、スィグルも知らない訳ではなかった。継承権から逃亡した王族がどうなったか。
彼らは、運が良ければ何者かにいつの間にか殺されて終わるが、運が悪ければ一生、幽閉される。
王宮の地下にある、一条も陽のささない地底湖の上に檻を吊るされて、終生そこで生きた者もいた。
死よりも酷い待遇だ。
その檻は地底湖に今もある。王族の子なら、一度は見るものだ。
あれを見れば、自分にとっての道はひとつだけだと王子たちは理解する。
玉座に続くのが、生きることを許された唯一つの道だ。
だから自分も、疑う余地もなく、それを目指していたかもしれない。名君への道を。
「僕を助けたいなら、玉座に座らせるしかない」
スィグルが淡々と伝えると、ジェレフはまだ思案する顔のまま、小さく頷いていた。
「そうだね」
「さっきのあいつ」
頷いているジェレフに、スィグルは小声で聞いた。
「誰なの」
「ギリス?」
ジェレフはため息と共に確かめてきた。スィグルはそれに頷いて見せた。
「ギリスはエル・イェズラムの弟だった。今もそうだ。長の伝令として長老会にも出入りしていた。射手だという話は聞いていないけど……でも、そうなのかもしれない」
「射手?」
「族長冠の継承にまつわる仕事をする竜の涙だ。誰がそうだというのは仲間内でも明らかにはされないけど、エル・イェズラムもそうだった。長が君の父上を即位させただろう。理屈上は今も同じ役目の者がいるはずだ。王族を監視して、族長位にふさわしい器を持った者を、選ぶ者が」
「魔法戦士が即位を支援するっていうこと?」
「まあ、そうかな」
歯切れ悪く、ジェレフは肯定した。
「あいにく俺は詳しくないんだ、殿下。俺は派閥はここだけど、治癒者だから、施療院にも属している。長老会は施療院を信用しない」
「どうして?」
彼らの社会の仕組みがわからず、スィグルは首を傾げた。
彼ら竜の涙は、常人以上に施療院とは切っても切れない間柄のはずだ。
ジェレフは困ったように笑っていた。
「君の父上が治癒者をお嫌いだからだよ」
「そんなことはないよ、父上はいつもジェレフのことは褒めるじゃないか」
スィグルが心外で、早口にそう言うと、ジェレフはさらに苦笑していた。
「そうだね。でも、前の族長は……君のお祖父様にあたる方だけど、宮廷で治癒者を重用したんだ。先代の射手が治癒者だったからだ。その時代、部族は森との戦いに大敗していた。君が生まれる前だけど、皆、もうすぐ死ぬんだと思ってたんだよ、俺ぐらいの年の連中は。タンジールが陥落するんだと思っていた」
歴史の書物の中でだけ知っている、その話を、スィグルは黙って聞いた。
「その敗北が、治癒者だった射手のせいだって、皆は思ってたんだよ。施療院が王宮を支配してたんだ」
「信じられない」
その時代の空気がスィグルには想像できなかった。父の前の代の宮廷でのことだ。
「だろうね」
ジェレフは可笑しそうに笑って言った。
「でも、そうだったんだ。その頃のことが元で、長老会は君の父上が即位してからずっと、施療院を排除してきた。施療院に属している者が射手に選ばれることは当分はないだろう」
「ジェレフが僕の射手だったらよかったのにな」
スィグルは半ば冗談で、気安く言ったが、ジェレフはよほど可笑しかったらしい。笑いを堪える顔をしていた。
それは幾分、自嘲の笑みだった。
「治癒者じゃなくても、俺は射手には向いてないよ。俺には君を玉座に座らせることはできないと思う」
「そんなことないよ。それに……こんなの冗談だろ」
微笑むジェレフの目が暗かったので、スィグルは心配になった。
軽口を言うような話ではなかったのかもしれない。
「ギリスは悪面だ」
ジェレフはほとんど息だけの声で言った。
そして、帯に持っていた煙管入れから、銀の煙管を取り出していた。
そこには魔法戦士が鎮痛に使う薬効の葉が詰められており、見ればジェレフは額に軽く汗をかいていた。
「噂だ。俺は信じてなかった。信じたいような話じゃなかったし、俺にはずっと関係なかったからな」
派閥の卓上に置かれていた煙草盆の火口から、ジェレフは馴れた様子で煙管に火を入れていた。
吸ってよいかと聞かれなかった。だめだと言われても困るからだろう。
英雄たちには、どこでも喫煙する権利がある。そうしないと生きていられないからだ。石による苦痛のために。
スィグルから顔を背けて麻薬の煙を吐くジェレフの物憂い横顔を、スィグルは見つめた。
話しかけても良いのかどうか、少し迷い、それでも聞かざるをえない。
「悪面って、あれのこと……? 死刑執行人がかぶるお面だろ」
部族では昔から、死者の断末魔の一睨みには、呪いの力があると言われている。事実かは知るよしも無いが、ひどく不吉なものとして忌み嫌われている。
だから死刑執行人は、その同族殺しの呪いから自らを守るために、悪面と呼ばれる、一つ目の怪物の顔を描いた素焼きの面をかぶり、仕事を終えた後にそれを地に叩きつけて割るのだ。呪いを我が身から引き剥がすために。
ジェレフは煙管からもうひと息吸いながら、小さく頷いていた。
「エル・イェズラムがギリスを重用するのは、あいつが悪面だからだと言う者がいたんだ。長にはギリスにしか命じられない用事があるのだと」
それが何を意味するのか、ジェレフはそれ以上は説明しなかった。
「ギリスはちょっと……変わってるだろう。だから皆は、長がそれを可愛がっている分かりやすい理由が欲しかっただけかもしれない。だけど殿下、気をつけてくれ。長亡き後、ギリスが誰に仕えてるのか俺は知らない」
「あいつが僕を始末しに来たってこと?」
スィグルがそう言うと、ジェレフはまた苦笑いしていた。正解ではないのかもしれないが、否定もしなかった。
「さあ。そうかもしれないな。でも、そうじゃないかもしれない。ギリスはエル・イェズラムに忠実だった。今もそうかもしれない。もしそうなら、殿下は、よく考えたほうがいい。あいつの手を取るかどうか……他に生き残る道はないのか、よく考えてみてくれ」
ジェレフは話の核心を避けている。
はっきりとは見えない、彼の言おうとしていることを、スィグルは顔を顰めて考えていた。
だが、ジェレフは結局、教えてくれた。言わないでおくのも狡いと思ったのだろうか。
「スィグル、君は本来、優しい子だと思うよ。ギリスと手を組めば、今後は君には相応しくない道を行くことになるだろう」
一体、何が自分に相応しい道だったとジェレフは思っていたのだろうか?
スィグルはいつも優しかった英雄の目と見合って、それを考えていた。
ジェレフだって、戦場では敵を殺しただろう。いつもいつも、治癒術で味方を救うばかりで、誰も傷つけたことはないのか。本当に?
それにしたって、優しかったと言えるのか。ジェレフが助けなければ、僕はたぶんもう死んでて、ここでこうして考えていることもなかった。どうやって自分の兄弟たちを始末すればいいのかと。
「ジェレフは、何で皆が僕を人喰いレイラスって呼ぶか知らないのか?」
答えながら、スィグルはジェレフを安心させたいのか、傷つけたいのか、自分でも分からなかった。
「僕は自分が生きるためなら何でもするような奴だよ。同族殺しを恥じて悪面をかぶる奴の方が、僕よりずっとマシだと思う」
礼拝堂で見た、あのエル・ギリスの冷たい目を思い出していた。
ジェレフはいつも優しいけど、あいつなら、僕が何をやっても傷ついたりしないんだろう。
そうだといいなとスィグルは思った。
「何がどうなっても、君のせいじゃないよ。今までも、これからも。俺はそう思ってる。幸運を祈るよ、殿下」
困ったような笑みで、ジェレフはそう労ったが、スィグルはそれを真に受けようとは思わなかった。
これから何が起きても、全部が自分のせいだ。今までも、これからも。そうでないなら玉座は遠いだろう。
「ありがとう、ジェレフ」
スィグルは感謝したが、ジェレフはそれを首を振って断った。甘い煙の匂いがした。
「次の星が誰であろうと、俺がそれを見ることはないと思う。でももし君なら、俺も見たかったな」
ジェレフはそれが遠い先のことと思っているようだった。
代替わりは族長の死を意味する。ジェレフはスィグルの父、族長リューズ・スィノニムの英雄で、いつも父に忠実だったのだ。
「できるだけ君の即位を遠くしよう。それが俺にできる一番の手助けだ」
スィグルは頷いた。
ジェレフが僕に時間をくれる。
その間に自分は、人喰いレイラスの異名にふさわしい者にならねばならない。
派閥の部屋に、食膳を持った女官が現れ、スィグルに食事を与えた。
膳はひとつだけで、ジェレフは食べず、魔法戦士は食事をする王子をただ見ていた。
食事には何の味もなかった。いつからそうだったか記憶はない。ジェレフにヤンファールで助け出された時からずっと、何を食べても味がしない。
そのことを侍医だったジェレフも知っているはずだったが、食膳には子供の頃のスィグルが好んだ料理が乗っていた。
美味いかと、ジェレフは訊いた。助けた子供の傷がもう全て治ったのかを、ジェレフは知りたかったのか。
それにスィグルは嘘をつき、振る舞われた食事を全て腹に収めた。
宮廷のどんな美味も、まるで砂を噛むようだ。
それは自分への呪いで、罰なのだと、スィグルは思っていた。
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010 スフィル
スィグル・レイラスは居室に篭り絵を描いていた。
子供の頃から絵が得意だった。見たものをそのまま記憶して描き写すことができる。
それが誰にでも出来ることでは無いと知ってからは、得意げにあれこれ紙に描き写して、褒められようと玉座の父に見せたりもしたが、全てはまだ呑気だった子供時代のことだ。
そんなことに意味はなかった。王族に趣味や特技があっても良いが、そこで奮ったところで何の役にも立たない。
絵は絵師が描くもので、宮廷には高級官僚の待遇で取り立てられた宮廷絵師たちが大勢いた。
彼らはスィグルの絵を見て、お上手です殿下、と言ったが、絵師になれとは言わなかった。
当たり前のことだ。
王族の一生は最初から決まっていた。選ばれて族長になるか、それとも選ばれず墓に入るかだ。
ふう、とため息をついて、スィグルは文机の筆置きに筆を預けた。
紙の上にはトルレッキオで見た学院の風景が墨一色の線で描き出されている。
我ながら、そっくりに描けていた。
今からその場に行って、絵と実在の景色を重ねても、ぴったりと重なるのではないかと思った。
だが、それを誰が喜ぶ訳でもない。
ジェレフに見せようかと、スィグルはうっすら考えていた。
昨日話した時に、学院の景色を見たいと言っていたし、とりあえず会いに行ける相手もスィグルには他にいなかった。
こんなことに意味はない。ただの虚しい暇つぶしだった。
何もしないでいるには、王宮の一日は長すぎるのだ。
文机から立って、スィグルは広い居間を横断し、幾つかの扉を潜った奥にある暗い寝室に向かった。
居室はどこもかしこも、しんと静まっていて、誰もいない。自分以外に動くものの気配はなかった。
それでも、この部屋は一人用ではない。それも子供の頃からずっとそうだった。
寝室の奥に赤い天蓋のかかった丸い寝台があり、そこに堆く枕が積まれている。
天鵞絨や絹に刺繍をしたもので、部族の手工芸品だ。
その山に埋もれて、寝具を被った小さな塊がある。人型の。
それがゆっくりと上下しているのを眺め、スィグルは自分の目が暗闇に慣れるのを待った。
布団から白い手が少しだけ出ている。
弟の手だ。
スフィルは眠っている。
大抵の時間を弟は眠って過ごしていた。本当に寝ているのかは分からないが、寝室に篭り、布団をかぶって出てこない。
枕で防塁を築き、そこに隠れて怯えて寝ているか、じっと身動きもせず息を潜めている。
無理に連れ出そうとしたり、部屋を明るくすると、弟は恐慌して暴れた。
弟はいつも、何かが恐ろしくてたまらないらしいのだ。
おそらく弟は今もまだ、子供の頃に敵に囚われていた地下の穴蔵にいるのだろう。暗闇に潜み、何かに捕まるのを恐れて眠っていた頃のことが、あいつには忘れられないのだ。
救出されて王都に戻ってすぐの頃には、弟の病状はそこまで酷くはなかったと、スィグルは過去を悔やんだ。
自分が同盟の人質にとられてトルレッキオにいた間に、弟はこの部屋にずっと一人でいて、気の病を重くしたらしかった。
自分の身に染み付いた恐怖に寄り縋るようにして、弟は生きている。
「スフィル」
寝ていると思ったが、スィグルは声をかけてみた。小声で。
返事はなかった。
「昨日、ジェレフに会ったよ。好きだろ、ジェレフ。お前も会えばいいのに」
弟に聞こえないよう、スィグルは囁く声で話した。
「スフィル。元気になってくれよ」
そう頼んだが、弟が回復するはずがないのは分かっていた。侍医たちもそう言っていた。ジェレフでさえも。
できるかぎり優しくしてやって、スフィルの望むようにしてやり、残りの日々を心穏やかに過ごさせてやるのが一番だと、皆そう言っていた。
それでも、スィグルはまた子供の頃のように、スフィルと王宮を遊び歩いたり、話したりしたかった。
自分たちは助かったのではなかったのか。
眠るスフィルの様子を見ていると、いつか地下の暗闇で見た弟と、何も変わっていない気がした。
今にも死にそうだ。恐怖で痩せ衰え、今では双子といっても、スィグルとは一見あまり似ていなかった。
元通りの弟に戻してやりたいと、見るたび思ったが、もしスフィルがそうなったら、自分は不幸だろう。弟も。
そうなればいずれ、族長位を巡って、同じ顔をした双子の兄弟で殺し合うことになるからだ。
双子を引き離すのは不吉だという迷信から、今も幼年期の名残りとして二人まとめてこの居室にいるが、どちらかが出て行く必要があるだろう。
自分の身を脅かす者と一緒に寝起きしたい者はいない。
弟が正気じゃないお陰で、まだしばらく一緒にいられる。
弟がずっとそうだといいとスィグルは思った。心がなく眠っているだけの弟なら、ずっとここで飼ってもいいんじゃないか。
そして、時々こうして話しかける。兄弟みたいに。
それが一生続くのを空想すると、気が滅入った。
弟も自分も、本当はさっさと死ぬほうが幸せだったのかもしれない。
どうしたら幸せになるのか、未来に何を願えばいいのかすら、今は分からない。
「スフィル……今日、お前の知らない奴が居室来るかもしれない。僕の客なんだ。許してくれ」
スィグルは弟に詫びた。
王族ならば、もうじき晩餐の支度にかかる刻限だ。風呂に入って髪を結い直し、正装の重く絢爛な長衣を侍女に着付けさせて、侍従からの呼び出しを待つ。
故郷に戻って何度かはスィグルもそうした。王宮の暮らしとは、そうしたものだったので。
特に命じずとも、居室に仕える者たちが刻々と必要な支度を整える。
しかし幾日も、正装で待ちぼうけを食わされると、わざわざ時をかけてそれを解き、寝支度をするのが馬鹿らしく思えた。
それで、もう支度は要らぬと侍女に申し付けてある。
なぜでしょうかと誰も聞かなかった。
スィグル・レイラスの王宮での凋落は、聞くまでもないほど明らかだったのだろう。
病身の弟が玉座の間にとても顔を出せないのと同じで、自分もその必要はないと皆に思われているのだ。
だが今夜は着替えて待てと射手が言うので、支度をせざるを得ない。
あの魔法戦士にからかわれているだけだったら惨めだが、もう今さら惨めさの一つや二つを上塗りしたところで、大差がない。部屋付きの侍女たちにも、きっと良い噂話になるだろう。
「おやすみ」
少しも動きはしない弟の影にスィグルは挨拶をして、そうっと扉を閉じた。
居間に戻ると、緊張した面持ちの侍女たちが数人待っており、主人の着替えの準備をしていた。
見覚えのある暗い赤の宮廷衣装が衣桁に掛けられ持ち出されている。王族のための正装だ。
束髪を飾るための簪も盆に整然と並べられていた。かつて元服の祝いとして亡き祖父より贈られたものだ。
「湯浴みをなされますか、殿下」
小声で聞く侍女は、こちらがいつ飛びかかってきて食いつくのか恐れている顔をしている。
なぜそうなるのか、スィグルには理解しかねたが、とにかく恐れられている。
「よろしく頼む」
気まずい思いでスィグルは答えた。
子供の頃からの馴染みの侍女はいない。
皆、死んだからだ。スィグルと親しかった者は、あの元服祝いの旅に随行して、皆もういない。
知らぬ顔ばかりだ。
助かったのは、母と自分たち双子の兄弟の、三人だけだったのだ。
女たちが恐れるだけのことはある。
侍女は主人と命運を共にするが、主人は侍女と生死を共にはしない。
無能な主人に仕えれば、割りを食うのは下々の者のほうだ。
その恐れる目に答える言葉を、スィグルはまだ持たなかった。
──つづく──
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