「王宮の孤児たち」第11話〜
「王宮の孤児たち」(1)からお読みください。
もくじ
2» 011 英雄の訪問
3» 012 証明
4» 013 玉座の間
5» 014 枯れ谷
6» 015 乾杯
7» 016 英雄の形見
8» 017 狂人たち
9» 018 襲撃
10» 019 治癒者
11» 020 死霊
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011 英雄の訪問
晩餐の身支度には早くとも半刻はかかる。
長年仕えた者なら勝手がわかり気心も知れているため、そのぐらいで開放してもらえるが、今の部屋付きの者たちはそうではなかった。
王宮に仕えるのだから相応に教育された者たちだろうが、なにしろ主人に不慣れだ。
髪を結い、正装の長衣を着付け終わって、神妙な面持ちで一番年嵩の侍女がスィグルの髪に最後の簪を挿し終えたのが、普通ならばもう呼び出しの侍従が来ようかという刻限だった。
宴席の支度を毎日するとなると、大変なことだ。
そんなもの毎日でなくて良いというジェレフの話も、あながち冗談とは思えない。
「少し痛いんだけど、これはこんなものか?」
言うかどうか迷って、スィグルは支度用の腰掛けに座ったまま、結局言った。
侍女が挿した簪が痛い。少々頭にざっくりと来た気がした。
単に正装で着飾るのが久しぶりだったせいで、この服装に耐えられないだけか。それとも侍女の髪結いの腕が悪いのか。
「申し訳ございません」
青ざめて侍女が簪を直しに来た。震える手で位置を直されたが、次は別の場所が抉られる感じがした。
もう諦めた方が良さそうだ。そのうち慣れるだろう。
慌てて道具類を片付け、居間を整える侍女たちに腰掛けを明け渡して、スィグルは居間の主人が客を迎えるための上座に座りに行った。
美しい衝立や花を生けた壺などで飾り付けられた壁を背景に、主人がゆったりと座れる敷物と円座が設られており、家臣の叩頭を受けるにふさわしい場所だ。
居室の主人はそこで侍従が呼び出しに来るのを待ち、部屋を出立して玉座の間に続く通路を歩いて移動する。
なにしろ王族だけでも何人もいるため、廊下で鉢合わせたり、広間に入る入り口で行列が溜まって、順番などでごたごたと揉めないように、宮廷の侍従たちがうまく差配しているのだ。
そのように、宮廷暮らしとは、食事一つとっても決まり事がある。王族と言えど、たとえそれが部族で最高の権力を持つ族長でさえ、侍従が行けと言えば行き、戻れと言えば戻らねばならぬ。そうでなければ重々しく着飾った者の群れが、この入り組んだ地下宮殿の中を、日々滞りなく行き来することはできない。
だが今宵も侍従はやってこなかった。彼らが連れ出して広間に引き出していく王族の一人として、スィグルは予定されていないのだろう。
待っていても、それが今宵、急に変わるものなのか、見当がつかなかった。
あの、エル・ギリスとかいう少年が、何かの手配ができるということなのだろうか。
ジェレフの話では、あの少年は魔法戦士たちの長である長老会と縁のある者なのだそうだ。それが侍従たちの仕事に口出しできるものなのか、スィグルには分かりかねたが、晩餐に出ろというのだから、そうなのだろう。
何がどうなるのやら。
そう思って待つと、エル・ギリスがやって来た。
着替えの後片付けが済むか済まないかという、すぐの頃合いに、上座に座したスィグルに飽きる暇も与えず、慌てた様子の侍女がまた戻ってきた。
「ご来客でございます、殿下。英雄ギリスが御目通りを願い出ておられます」
本当に来たなと、スィグルは内心、少し驚いていた。来るはずがないような気も、どこかでしていたのだ。
「通せ」
侍女に命じると、彼女がそれを伝えに行くより早く、居間の戸を潜ってくる者がいた。
見覚えのある顔が、この前見たのと同じ、まるで表情のない顔でスィグルの居室に押し入ってきた。
入って良いと答えてないのに勝手に入ってくるとは。
無礼だが、先日よりはましだった。エル・ギリスは正装していたからだ。
英雄は白っぽい灰色の長衣を着ていた。もちろん礼装のだ。髪も結い上げ、魔法戦士らしい凛々しさのある髪型を、王宮の竜の涙らしく銀と宝石で飾っていた。
片耳にだけ、幾つもの紫の雫石を下げた意匠の耳飾りをしている。
スィグルには見覚えのあるものだった。
人質としてスィグルが王都を発つ時、行列の先導役として随行してくれた、エル・イェズラムが身につけていたものだ。
ギリスがあの亡き大英雄の息のかかった者だというのは、少なくとも嘘ではないのだろう。
形見の品を身に帯びる程度には。
スィグルが声もかけずにじっと見ていると、ギリスは戸をくぐってすぐの敷物の上で、黙って跪き、叩頭礼をした。
王族の血筋の者に対するのに相応しい礼儀だった。
「お迎えに参りました。殿下。玉座の間へ」
挨拶もせず、ギリスがそう言うのを、スィグルは困った顔で聞いた。
この少年は確かにその用事で来たのだろうが、それにほいほいと付いていくには、手順が略式に過ぎた。
そもそも、お互いまだ知り合いですらない。
こいつが、呼び出しに来た侍従ならば良いが、そうではないなら、スィグルを連れ出せる立場ではないはずだ。赤の他人なのだから。
「その前に、お前が何者なのか言ったらどうだ。エル・ギリス」
「殿下の射手です」
前も聞いたようなことを、ギリスは平然と言った。
侍女があたふたと謁見用に客用の円座を持ってきた。
そう言えば、ギリスが来ることを前もって侍女の誰かに言っただろうか。今夜は晩餐に行くから正装させるようには命じたが、客が来るのは伝えなかったかもしれぬ。
仕える者も不慣れだが、スィグルも主人として不慣れだった。
ギリスは慌てて客座を設る侍女を、不思議そうに見ていた。
「殿下、エル・ギリスより献上品でございます」
高い台座のついた黒塗りの盆に乗せ、侍女が控えの間から何かを見せに来た。
脇に置かれたそれに目をやると、小さな菓子のようなものが載っていた。砂糖菓子だろう。
透明な砂糖の容器に糖蜜を詰めたものに、糖蜜漬けの果物で飾り付けがされた、いかにも宮廷らしい精緻な菓子だった。
「手土産です。控えの間にも」
至極当然そうに、ギリスが説明した。
初対面の挨拶の品ということだろうが、まさか菓子を持ってくるとは意外だった。
そういえば宮廷はそういうところだったかもしれない。
もらったものの、返礼としてギリスに下賜するためのものを、スィグルは特に命じていなかった。
侍女も来客を知らなかったのなら、気を利かせて用意したりはしていないだろう。急なこととは言え、不調法だった。
「エル・ギリス……来訪ご苦労だったが、あまりにも急な話だ。お前と親しくするか、僕はまだ決めていない。まずは誰かを通じて、お前の意図を僕に話せ。正式な話はそれから……」
「ジェレフが話しただろう。俺が何者かぐらいは」
ぶつぶつと言い訳するスィグルに、ギリスはあっさりと言った。
スィグルは驚いて、押し黙った。
「ジェレフが僕とお前を引き会わせたのか?」
ギリスには気をつけろと言っていたのはジェレフだったではないか。あれは英雄の小芝居だったのかと、スィグルは不快な驚きを感じて、そういう顔をしたのかもしれない。
それを見て、ギリスが笑った。あははと、可笑しそうに。
まるで子供のような笑顔だった。
「ジェレフがそんなことする訳ないだろ。あいつは政治のわかんない男だよ。頭はいいけど、それだけだ。施療院で働くにはいいが、玉座の間への先導役は俺にしとけ」
「ジェレフと親しいのか」
「同じ派閥の兄だよ。ジェレフはいい奴だよな。殿下」
席に座って良いとは言っていないが、ギリスは面会を許されたと思ったらしく、立ち上がって客座まで歩き、すとんと円座に座した。
「それで。ジェレフは俺のことを何だって言ってた?」
「お前は悪面だと」
スィグルは聞いた話を正直に教えた。それにもギリスは面白そうな顔をした。
「違うよ。俺は氷結術師なんだけど、ジェレフはそれは話さなかったのか? 俺も一応、ヤンファールの戦いの英雄なんだけど」
にっこりとして、ギリスは教えた。
ヤンファールの。
スィグルは自分が救出された戦いの名を聞いて、にこやかなギリスと顔を顰めて見つめ合った。
「知らないんだな、俺の英雄譚を」
ギリスはがっかりしたような声だ。
「異郷暮らしが長くてね」
活躍を知らないことをギリスが無礼と思うかと、スィグルは言い訳をしておいた。
本音を言えば、スィグルはヤンファールの戦いのことを詳しく知るのを避けていた。そこで死んだ大勢のことを想像すると、気が咎めたからだ。
「まあいい、追い追い知っても遅くはないさ。とにかく、俺は殿下と無縁の英雄じゃないよ。殿下の救出のために突撃した魔法戦士隊の先頭にいたのは俺だったんだもん」
「お前はいなかった」
救出に来た者の中に、こんな子供はいなかった。それとも気づかなかっただけか。
スィグルはじっとギリスの顔を見た。
「いないさ。守護生物がいたんだ。俺はそれをやっつけるよう、イェズラムに言われて、忙しかった。俺のおかげでジェレフたちはお前を助けに行けたんだぞ」
守護生物。
スィグルはますます顔を顰めて聞いた。
それは、部族と敵対する森エルフ族が率いている巨大な生き物だ。乗り物といってもいい。
主人である森エルフの乗り手を身の内にある嚢胞状のものに乗せており、それの指示通りに動く。人を食う生き物だ。
戦場の悪夢だ。
スィグルは戦ったことはない。初陣もまだなのだから。
それでも子供の頃から、それがいかに恐ろしい悪魔か、繰り返し聞かされてきた。
火で倒せる巨獣で、無敵ではないものの、それでも味方には多くの犠牲が出る。
「イェズラムは守護生物殺しだ。それは知ってるだろ? 養父は火炎術を使うけど、俺は氷結術だ。でも同じだよ。守護生物を殺せる」
「お前、何歳なんだ」
ギリスの背格好を見て、スィグルは聞いた。自分より少し年上なだけに見える。ギリスもまだ少年だ。
「十六だよ」
なぜそんなことを聞かれるのかという顔で、それでもギリスは素直に答えてきた。
それなら、ヤンファールの戦いの時、こいつは僕と同じぐらいの歳だったということだ。
「なんでエル・イェズラムはお前みたいな子供を戦わせたんだ」
「そりゃあ、俺が一番強いからだよ。魔法戦士の中で」
いかにも当然だというように、ギリスは淡い笑みで言い、スィグルの背後にあった壺を指さした。
大輪の花が生けられている。
ギリスが何かしたようには見えなかったが、彼に目を戻したスィグルが、魔法戦士がかすかに半眼になったのを見つめた瞬間、激しい音を立てて壺が割れた。
飛び散った破片に驚いて、スィグルが身を引き振り返ると、壺があったところには氷の塊があり、その中に凍りついて霜のおりた花束が囚われていた。
「世の中の大抵のもんは水だ。守護生物もそうだ」
ギリスは淡い笑みのまま、そう言った。そしてスィグルを見つめた。
まるで、お前の血も水みたいなものだと彼が言っている気がして、スィグルは身構えていた。
「もっと自己紹介を聞くか」
「お前が僕の味方だと信じてもいい理由を知りたい」
スィグルが強ばった声で言うと、ギリスはきょとんとした顔をした。予想外の質問でもされたようだった。
「理由? お前が新星で俺が射手なんだ。それ以上何がある」
ギリスは自分の中では筋が通っているらしい、その話をした。
しかし、その答えにスィグルがますます険しい表情になるのを見て、ギリスは困った顔をした。
「お菓子を持ってきたのじゃ駄目なのか。嫌いなやつにお菓子を持ってきたりしないだろ?」
「馬鹿なのかお前は」
相手が何を言っているのか分からず、スィグルは聞いた。
ギリスは首をかしげた。
「そうかもしれない。皆はそう思ってるらしい。俺は馬鹿だって。でもイェズラムは違うと言っていた」
その話を聞いて、スィグルは自分が何かを期待していたのを感じた。
気づかなかったが、自分は昨日からずっと、この得体の知れない奴が自分の運命を変えてくれる救いの手なのではと期待していた。
何か奇跡的なことが起きて、今までの悲しい境遇を跳ね返せる好機になるのではないかと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
こいつはただの狂人で、大英雄の養い子ではあったのかもしれぬが、救いの手ではない。ただの魔法戦士だ。
その理解に、スィグルはひどくがっかりした。
変な夢を見ていた自分にだ。
「そうか……そりゃ、よかったね」
スィグルが褒める口調で言うと、ギリスはうんうんと頷いていた。
「スィグル」
ギリスは急に慣れたふうに呼び捨てにしてきて、スィグルをぎょっとさせた。
「俺も知りたい。お前が新星だっていう証拠を見せてくれ」
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012 証明
「何を言ってる、そんなもの分かるわけないだろう」
話の筋道が見通せず、スィグルが驚いていると、エル・ギリスは客座で立ち上がった。
そして自分の礼装の帯を解いている。
あぜんとしてスィグルはそれを眺めた。
ギリスは刺繍で埋まった帯の上に、薄絹の飾り布のようなものを巻いてきていた。
妙な格好だなと思ったが、スィグルはここしばらく留守にしていた宮廷の流行など知らない。そんなのもあるのだろうと、思うともなく見ていたが、他でそんな格好をしている者を見た覚えもなかった。
ギリスは解いた薄紫の薄布を両手で宙に広げ、スィグルに見せた。
そこには銀糸の刺繍が一面に施されており、文字のようなものもあった。
我が死を与う。この者の血は高貴なればなり。
そう書いてあった。華麗な刺繍の飾り文字で。
スィグルには初めて見るものだった。
それでも何かが分かり、身の奥深くが震えた。
「イェズラムが持ってたものだ。お前の親父の時に使ったんだ」
ギリスはひどく無礼な口ぶりだったが、スィグルには咄嗟にそれを咎める気が起きなかった。刺繍の文字に気を取られていたからだ。
「これが何か知ってるか?」
もしかして知らないかもしれないという口調でギリスは聞いてきた。
スィグルは頷いた。
「お前には誰か、これで首絞めてくれる奴が決まってるのか? ジェレフはそこまで長くは生きないぜ」
ギリスの言葉に、スィグルは沈黙した。
その長い布は、族長位継承のためのものだ。
継承権を主張するべき時が来たら、王子たちはそれを首に巻く。
継承争いに敗れた時に、その布で首を絞められる仕来りだ。
そんなことは恐れないという勇敢さを、継承者は玉座の間で皆に示さねばならない。
この世で最も高貴で華麗な死の形だ。
スィグルはまだ自分用に誂えさせてはいない。
「もう持ってた?」
軽い口調でギリスが聞いてきた。
スィグルは首を横に振った。
「お前が俺の新星なら、これをやってもいい。まだ未使用だし、縁起がいいだろ。お前の親父を玉座に押し上げた布っきれなんだから」
「なぜイェズラムが持っていたんだ」
その布が用済みになった後にどうするのか知らなかった。首を絞められた王子は布と一緒に葬られるはずだ。継承者候補であったという名誉を首に巻いたまま。
生き延びた者が布をどうするかは聞いたことがない。
「族長がイェズに持っておくよう頼んだんだ。名君じゃなかったらいつでも殺せって」
「そんな話、聞いたことがない」
もし本当の話なら、詩人が飛び付いて部族の英雄譚に詠みそうな話だった。
「秘密なんだろ、二人の」
「そんなことが……」
ある訳がないと言いかけて、スィグルはやめた。
ギリスはイェズラムの側近くに仕えて知っている事も多いのかもしれないが、スィグルは父をよく知らなかった。そんな重たい話を、今まで父とした事がない。
「俺もそうしていいか。お前がもし名君の器じゃなかったら殺す」
まだスィグルに布を見せたまま、ギリスはあっさりと言った。それが何でもないことのように。
違うと言ってたくせに、ギリスはやっぱり悪面じゃないか。
スィグルはいいかげんな彼の嘘を不満に思った。
「そうしてくれって言いたいところだけど……怖いよ」
答えに困って、スィグルは項垂れて言った。この場限りの嘘でもいいのだろうが、では今すぐ殺すと言われそうで、迂闊な返事はしたくなかった。
「怖いって何が?」
ギリスはまた不思議そうに言った。
「死ぬのがだよ」
スィグルが教えると、ギリスは色の薄い灰色の目を瞬かせていた。
「怖くないよ。俺に任せとけ。そんなもん一瞬だ。お前が自分が死んだ事も気づかないぐらい、綺麗に逝かせてやる」
ギリスがそう言いながら急に近づいてきたので、スィグルは上座に座したままのけぞって彼を見上げた。
背後は壁だ。それにしたって逃げるぐらいはできたのではと思う。
でも全く緊迫感のない動きでギリスが背後に回り、ひょいと薄布をスィグルの首に掛けた。
そして絞めたのだ。
本気じゃないだろうと、その瞬間にもまだ思っていた。
でも息が詰まり、ギリスが薄灰色の正装の長衣の裾を乱して、後ろからスィグルの首筋を膝で軽く押した。触れた程度だったが、叩かれたような軽い衝撃があった。
「ほらな? もう死んでるよ。お前の死なんてこんなもんなんだよ」
ギリスはしみじみと言って、布を緩めた。
「息が詰まって死ぬ訳じゃない。安心しろ。首の骨折ってやるから、すぐだよ」
布を手に巻き取りながら、ギリスは背後でそう言った。
まだ息ができないような気がした。口の中に苦い味が広がって、何の味も感じなくなったはずなのになと、スィグルは思った。
これが死の味か。
ギリスが本気だったら、自分はたった今、本当に死んでいたのだろう。
そう思うと同時に、急に耳が熱くなり、内耳に痛いほどの鼓動を感じた。
「何するんだよ……お前は……!」
腹が立って、スィグルは立ち上がり、ギリスの胸ぐらを掴んだ。
無意識だったが多少は持ち前の念動の魔力もぶつけたのかもしれなかった。
スィグルより上背があり、体重もありそうなギリスの体が一瞬軽く宙に浮き、衝立に背をぶつけていた。
そんな腕力が自分にあるはずはなかった。
「ふざけるな馬鹿! そんな簡単な事じゃないんだ、死ぬっていうのは!」
思わず怒鳴る声で言ったが、ギリスは抵抗もせず、見下ろす目でじっと無表情にこちらを見ていた。
「僕に分かったような口を聞くな! お前みたいな奴に殺されてたまるか!」
誰ならいいんだと自分でも不思議だったが、とにかく嫌だった。生き汚いと言われても、何が何でも嫌だった。
死んでしまえば、あとは無だ。誰かを守ることも、愛することもできず、何かを成し遂げることもない。
まだ何か、生きてやるべき事が自分にはある気がする。それが何かは分からなかった。
ただただ生きたいだけで、その一生には何の意味もないかもしれないが、それの何が悪いのか。
説明などできない。ただ生きていたいだけだ。
「何のために?」
こちらの読心でもできるのか、無表情なままでギリスが聞いてきた。
「は? 何がだよ。そんなことお前に聞かれる筋合いじゃない。天使が僕を許したんだ。生きてていいって。お前に関係ない」
噛み付くように言い返すと、ギリスはやっと、顔を顰めた。不愉快そうに。
「天使が? お前は王族で、天使が生きていいって言ったから、生きていくのか。じゃあ俺は? ジェレフや……イェズラムは、どうなんだ。天使が死ねって決めたから、さっさと死ななきゃならないのか」
ギリスが傷ついたのかと思って、スィグルは慌てた。
そんなつもりで言ったんじゃなかったが、相手は竜の涙だ。なぜかも分からない短命の呪いを受けて生まれてきている。
望もうが、長くは生きようのない一生だ。死など大したことじゃないと、彼らは思いたいだろう。今日や明日を正気で生きるために。
「違う……そうじゃないよ。お前だって同じだ。誰だって同じだ。生きてていいんだ。天使もきっとそう言う」
「どうかな。俺は今日死んでも、百年生きても、きっと似たようなもんだと思う」
ギリスは本気でそう思っているようだった。
「そんなことないよ」
なぜそう思うのか推し量りかねて、スィグルのほうが息ができない心地だった。
「本当に何で生まれてきたのかわからない。英雄譚のためだって皆は言うけど、俺には分からない。全然、嬉しくなかった。歌に詠まれても」
そんな事を言う竜の涙がいるとは予想外で、スィグルは困った。聞いてはいけない話のようで。
「俺にはもう歌を聴いて喜ぶ者もいない」
「民が喜ぶだろう」
「そんなのどうでもいい」
ギリスの目が、静かに絶望している気がして、スィグルはどう答えていいか分からなかった。
「そうだね……」
頷いて、スィグルは同意した。
知りもしない相手のために、命など賭けられない。
「イェズラムがお前を新星に選んだ。お前を即位させろって。長の望みだ。お前がなりたいなら手伝ってもいい。新しい星になりたいか?」
「なりたくない。正直に言うと。でも、そうするより他に生きる道が僕にはないんだ」
スィグルが言うと、ギリスはまだ胸ぐらを掴ませたまま、こちらを見て小さく頷いていた。
「死にたくないんだ。生かしてもらえるなら、僕は名君になれるよう努力する」
「お前は星じゃない。民に生かされてる、王宮の屑だ。それでも努力すれば、英雄になれる。俺やジェレフみたいに」
ギリスがそう言うと、そうだという気がした。スィグルも小さく頷いて聞いた。
「僕もそうだといいな」
できるのかと自問する気持ちで、スィグルは呟いていた。
「素直だな、お前。スィグル・レイラス」
褒めるように言って、ギリスは笑い、髪を結われたスィグルの頭を控えめに撫でた。なぜ撫でられるのか分からなかった。
「玉座の間に行くか。腹減っただろ」
ちょっと食堂にでも行くように、ギリスは軽快に言った。
そして何とも返事をしなかったスィグルの手首を掴み、ぐいっと引き立てた。
足が蹌踉けるほどの、ついて行くしかない力だった。氷結術の魔法戦士だというのに、腕を掴むギリスの手はやけに熱い。
「呼び出しが来てないぞ。行って席はあるのか」
引っ立てて行かれながら、スィグルは一応尋ねた。
「そんなの心配してんのか? お前は王族なんだろ。あそこで飯を食うのがお前の仕事だ。お前の言う、その努力ってやつを今からやれよ」
スィグルの部屋から玉座の間は遠い。それでも魔法戦士は飛ぶような早足で王宮の廊下を歩き、スィグルを子供時代の居室から連れ去った。
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013 玉座の間
席は無かった。
そんなことは遠目にも分かった。
王子たちのための席は既に全て埋まっており、空席はなかった。数えるまでもない。
それが玉座の間の入り口からも既に見え、スィグルは回れ右して居室に戻りたくなった。
晩餐はすでに半ばまで進んでおり、わざわざ遅参して入場するのは目立ちすぎる。
こっそり入ったところで座る席もないのでは、どうすることもできないではないか。
「今日はやめよう、ギリス」
まだこちらの腕を握ったままのエル・ギリスに、スィグルは必死で耳打ちした。
第一、このままぶらりと広間に入るのでは、全く王族らしくはない。
普通ならば、王子たるもの、侍従の列に先導され、衣装を整える侍女を引き連れて広間に到着するものだ。
それなのに、ギリスにひょいっと連れてこられたせいで、そんなものはスィグルに付いてきていない。
居室の侍女たちは、青ざめて唖然とするばかりで、誰一人、列を作って従おうとはしていなかった。
馬鹿なのか、あいつら。
今さら腹が立ってきて、スィグルはギリスに掴まれた自分の手がわなわな震えるのを感じた。
単に怖くて震えているのかもしれなかった。
玉座の間には宮廷の主だった者が大勢居合わせているし、なんと言っても族長である父、リューズ・スィノニムがいる。
いるはずだ。
広間の入り口からは見えなかったが、大広間の一番奥の一段高い席に、族長のための玉座があるはずだ。父はそこにいるだろう。
それを想像しただけで、なぜか手が震えた。
自分がこれから、取り返しの付かないことをしようとしているみたいで。
「第十六王子スィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下だ。しっかり伝えろ」
ギリスがまるで逃げるなというように、がっちりとスィグルの手首を掴んだまま、広間の入り口に控えている侍従の群れに伝えた。貴人の入場を告げ知らせる係の者だ。
一定の身分の者は皆が叩頭して出迎えねばならないために、支度をさせるため前もって広間に伝えるのだ。
「やめろ!」
考えるより早く、スィグルはギリスを止めた。
広間に入るなら、自分の名を告げ知らせる必要があったが、あまりにも目立つ。
走って帰りたいような気持ちにスィグルはなった。この宮廷でここまで所在ない気持ちになるとは、まるで想像もしなかったことだ。
「いいからやれ」
おろおろして見える伝令の侍従に、ギリスは凄んで見せた。
侍従はぺこりと略礼をして、広間に走って行った。
馬鹿かとスィグルは内心で地団駄を踏んだ。なんで侍従はこんな魔法戦士の言うことを聞くのか。王子である僕が、やめろと命じたのに、なんでギリスのほうを信用するのか。
そんなことを考える間にも、自分の名を伝える声が聞こえた。
驚くような美声だった。
さすがはその呼び出しの声を生業にしている者だ。
遠い気持ちで感心したが、そんなことを考えている場合でもない。
広間が一瞬、水を打ったように静まり返った。
「行け」
ギリスが手を離し、スィグルを広間に押しやった。
「一人でか!?」
心底驚いて、ギリスに聞くと、魔法戦士は不思議そうに首をかしげた。
「僕にどうしろっていうんだよ!? 席はないし、中に入ってどこへ行くんだよ」
「ああ、うっかりして肝心のところを話すの忘れてたな」
ギリスはけろりと言って笑った。
「付いて来て」
先導するつもりらしく、ギリスはすたすたと歩き出した。
それに付いていかない選択もあった。しかし、名が呼ばれたのに本人が現れなかったら、それはそれで父の宴席で不敬ではないか。呼び出しの侍従も間違いを咎められるのかもしれない。
第一、僕の名前でギリスだけが広間に入ったら、何事かと皆は思うだろう。
一緒に行った方がましだ。
さまざまなことを一瞬で考え、じりじり迷う足を叱咤して、スィグルは広間に入るギリスを追った。
絢爛な模様で彩られた玉座の間の絨毯。
それを一歩踏んだとたんに、体に電撃が走るような気がした。
皆の目が見ている。いくつもの凝視する蛇眼が、じっと無言でこちらを見ていた。
ギリスは数歩先をすたすたと歩いていく。廷臣の席を抜け、魔法戦士たちの横を通り、王族の居並ぶ場所へ。
そしてギリスはそこも通りすぎようとしていた。
スィグルは横目に兄弟たちを見た。誰かとは目が合った気がする。
恐れているような、怒っているような、悲壮な目。その王子たちと共に座る取り巻きや、着飾った侍女や、後宮から出張っている母親たちの目だ。
そこを通り抜けてどこへ行くのか、スィグルがギリスに目を戻すと、魔法戦士はちょうど、玉座のある高段につづくゆるやかな階段に足をかけたところだった。
スィグルはぎょっとした。
驚いて見上げた族長の席には、もちろん父がいた。
族長リューズ・スィノニムだ。
今夜も父は、最初の族長だったアンフィバロウもかくやという高貴な出立ちで、晩餐の食膳についていた。
広間の食事は、皆は部族の風習どおりに床に座り、低い膳から食べるが、族長の席だけは違う。椅子に座って食卓につく。
そのテーブルには様々な料理や果物が並び、とても一人で食べきれる量ではないが、父は大抵それを一人では食べない。
当代からの風習と聞くが、族長の席には椅子が何脚かあり、誰でもそこに座ることができた。族長と話をしたい者は、誰でもその席が使える。
そういう建前だった。
今夜は父の左隣に、先客がいた。
赤い花冠をかぶったような華麗な竜の涙を纏った、美貌の女英雄だ。
その隣には、驚きを隠した顔のジェレフがいた。
「族長」
階段の途中で、ギリスは深々と立礼をして見せた。
「エル・ギリス」
静かだが、よく通る声で、父が答礼した。
父がギリスを知っていることに、階段の下に突っ立ったまま、スィグルは衝撃を受けた。
父は大抵、誰の名でも知っているが、まさかギリスもかと意外だった。
「今宵は何の用だ」
面白そうに父がギリスに聞いていた。
「第十六王子スィグル・レイラス殿下の供で参りました。殿下と共にしばし、お相伴を」
ギリスが席を要求すると、父は頷き、空席だった自分の右隣の椅子を視線で指した。
椅子はちょうど二脚あった。
用意されていたのかと思ったが、偶然だろう。左隣にも二脚、右にも二脚というだけだ。
「息子よ」
父はまだ階段の下にいるスィグルに声をかけてきた。
父が何を考えているのかは全くわからなかったが、寛いだ声だった。
「スィグル。久しぶりだな。そなたは病身ゆえ公への臨席は遠慮していたと聞いた。もう息災か」
父は知らなかったのだ。なぜスィグルが玉座の間に来ないか、本当の理由を知らなかった。
知らないと言っている。少なくとも。今は。
「ご心配をおかけしました。もう元通りです、父上」
「では明日から晩餐の務めを果たせ。トルレッキオの話を聞こう」
上がってこいと、父が指でさし招いた。
それを広間の皆が見ていただろう。
ほんの十数段のゆるい階段が、無限の距離にも見えた。
途中で待っていたエル・ギリスは、事も無げに残りの数段を上がり、族長の隣の席の椅子を引いて待っている。
スィグルに、そこに座れということだろう。
そこは王族のための席ではない。
王子はいつでも父親である族長に謁見できる。晩餐の際にはその機会を家臣に譲って遠慮するものだ。
だから、そこに席があるとは、スィグルは考えたこともなかった。
「息子よ。やっと顔を出したな」
隣の席に座すと、リューズ・スィノニムは小声で面白そうに言った。
「見ろ、ここからの玉座の間を」
父に促されて、スィグルは目を広間に向けた。
広々と果てしなく思える大広間に列柱が並び、そこをたくさんの席が埋めている。
その席のひとつひとつに座る者が、こちらを見ていた。興味深げに、あるいは、忌々しげに。
その全てが敵に見えたが、皆同じ、長い黒髪と蛇眼を持つ同族の者ばかりだった。
かつて山の学院で見た晩餐の光景とはずいぶん違う。あの時は金髪の異民族ばかりだった。
どんなに敵だらけでも、この広間は故郷だ。
「ここだけの話だが、スィグル・レイラス。俺は戦場でハルペグ・オルロイの率いる山の軍勢や、シャンタル・メイヨウの放つ森の守護生物と対峙するより、ここから見る景色のほうが恐ろしいと思っている」
「父上にも恐ろしいものがあるのですか」
そんなものがあると思えなかったが、スィグルは尋ねた。
父はそれを面白そうに聞いてた。
父の向こう隣で聞いている女英雄エレンディラも、可笑しそうに笑う唇で酒盃を舐めた。
「恐れを知らぬ者は大馬鹿者だ」
族長リューズが目の前でそう言うのを、スィグルは感激をもって聞いた。
父はおそらく臆病な自分を励ましてくれているのだと、スィグルは思った。
それでも良いと許された気がして、胸が熱くなった。
「それじゃあ俺は大馬鹿者なんだ」
びっくりしたように、隣でギリスが驚いた声をあげ、スィグルは虚をつかれて飛び上がりそうになった。
「黙ってろ馬鹿」
思わず振り向いて叱りつけると、面白かったのか、父が珍しく声を上げて快活に笑った。
「息子が戻って嬉しく思うぞ、スィグル・レイラス。今夜は父の食卓から食っていけ」
間近に見た父の笑顔に息が詰まって声が出ず、スィグルは王侯の食卓を見つめ、ただ頷いた。
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014 枯れ谷
父はジェレフと話の途中だった。
遠慮せず食事をとるようスィグルに言い置いて、父リューズ・スィノニムはすぐジェレフとの話に戻った。
スィグルは慣れない席で所在なく感じたが、ギリスはそうでないのか、気にせず食卓の肉に手を伸ばしている。
絹を敷かれたテーブルの上には隙間なく皿が並び、それぞれに違う料理が少しずつ盛られていた。
族長と話したい者が晩餐の間、代わる代わる来る席なので、厨房の者たちが工夫して、誰かが箸をつけたものを次の者が食べる必要がないようにしたのだろう。族長の席の食膳は独特だった。
父は食べているようには見えなかった。
代わる代わる誰かしら話しに来るのでは、父上は食べる暇もないだろうとスィグルは思った。
父は食べながら聞く訳ではなく、ジェレフが話す時はジェレフの目を見つめている。
食膳には部族領各地の美味が並べたてられているが、それは父の口には入らないのだろうかと、スィグルは少し心配になった。
あまり間近にしげしげと父親を見た経験がなかったが、父は屈強というよりは、むしろ華奢な男に見えた。よく分からぬ気力が漲って感じられるが、それでも族長の長衣の中にある体が頑健であるようには見えない。
武人というよりは、父リューズは美貌の役者か吟遊詩人のようだった。
そう思うのは不敬だとスィグルは内心そう恐れたが、だが、すぐ隣に座って盗み見る父の首は白く、ほっそりと美しかった。隣にいる女英雄エレンディラの美貌と並ぶと、まるで絵空事の宮廷画のような美々しさだ。
その華麗な容貌も、代々アンフィバロウ家が血の中に受け継いできたもので、民は族長を飾り立てたがる。
自分たちは質素な身なりで砂にまみれていても、王族たちの贅を極めた宮廷衣装をありがたがり、それを部族の誇りとさえしているのだ。
容貌の華麗さは血統の証として重んじられる。
特に、父のように、鋭く細った弓月のような眼光のきつい美貌は、枯れ谷と称され王家の特徴だった。宮廷の墓所や、民が好んで読む英雄譚の絵巻物にも、最初の族長アンフィバロウがその容貌で描かれる。
父が民の思い描くその理想にあまりにも似た容貌なので、リューズ・スィノニムは太祖の再来として愛されてきた。
父が民衆の敬意を勝ち取ったのは、数多くの戦果のためだが、民に愛されている理由は、その枯れ谷の容貌にもあるのかもしれない。
族長は、族長らしくあれと、砂漠の同胞たちは望んでいるのだ。
食卓の銀杯に歪んで映る自分の顔を見て、スィグルは少々暗い気分になった。
自分は父に全く似ていない。母親似だった。
母は出身領地に特有の可愛げのある美貌をしており、目は大きく唇は赤かった。西の渓谷と称され、美人の素質として女には良いが、王子にはどうか。
幼いころは可愛いと侍女たちに愛されたものの、長じると役に立つものでもない。年齢より若く見えるせいだ。
不思議なことに、王家とは全く血縁のないエル・ギリスが、父と同じ枯れ谷の容貌をしていた。
部族の者の容姿にはいくつかの系統があり、それは建国の時から続いているものらしい。
祖先はもともと森エルフたちの奴隷で、その美しい容貌も森の者たちが作った。馬や猫の血統を重んじるように、敵どもは奴隷の美貌を愛した。
叛乱した祖先たちが森を脱出し、王都タンジールを建設して以降ずっと、この部族の者たちは己の美貌を隷属の時代の名残として忌み嫌いながら、同時に愛してもきたのだ。
祖先から受け継いだ容貌を今も大切に守っている。
たとえば王家と同じ枯れ谷の容姿を持つものは、誇り高く勇猛だと信じられている。
事実かどうかはともかく、そう看做されることは部族では重要だ。
実際、ギリスは誇り高く勇猛そうに見えた。
しかも父リューズとどことなく似ており、見る限りはスィグルよりよほど父の息子のようだった。
それに少しムッとして、スィグルは父の食卓から遠慮なく食っているギリスの足を、テーブルの敷き布に隠れて蹴った。
「なんだよ」
骨つきの鶏肉を齧っていたギリスが、不機嫌そうにこちらを見た。
「ギリス。お前はがつがつ食べ過ぎだぞ。誰も食べてないじゃないか」
熱心に話し込んでいる父リューズと英雄たちを視線で示して、スィグルはギリスの無作法を咎めたつもりだった。
しかしギリスは全く気にもしていない。
「そんなだから食いっぱぐれるんだよ、お前は。王宮では食える時に食え」
そう言って、ギリスは鶏の脂のついた手で、料理の乗った皿をとり、スィグルの前に置いて寄越した。
余計な世話を焼くなと思ったが、その皿に盛られていたのは故郷の瓜を乳で煮たものだった。
何かの願掛けや、あるいは罰として、不殺の誓いを立てた者が食べる。肉を使わない料理だ。
ギリスがたまたまそれを選んだのか、よく分からなかった。
おそらく族長の食膳には様々な者が侍るため、実にいろいろな都合の料理が並ぶのだ。
ただそれだけだろうと思うが、豚の足を寄越されるよりは良かった。
不殺を誓った覚えはないが、どうもヤンファールでの救出以来、スィグルは肉が喉を通らない気分だった。何を食べても味がないのだから同じだと思うが、それでも血の匂いがするような気がした。
「食え」
スィグルの前の皿を顎で示して、ギリスは小声で言った。
スィグルは大人しく、席に用意されていた絹で巻かれた箸をほどき、食べることにした。
空腹のはずだ。そういえばずっと胃が痛い。緊張のためと思っていたが、実は飢えているせいかもしれなかった。
「イェズラムが言ってた。どんな時も、食わない奴から死ぬ」
「お前は長生きしそうだな」
ギリスの旺盛な食いっぷりを見て、スィグルは思わずそう悪態をついたが、その言葉が口をついた瞬間にはもう、しまったと思っていた。
失礼ではないか。短命の英雄に対してそんな口を聞くのは。
そう思って、スィグルが箸を持ったまま気まずくギリスを見ると、ギリスは面白そうに笑っていた。
「ごめん、悪気はなかった」
「お前らはだいたいそうだよ。悪気なく無神経なんだ。謝るだけ、お前はマシだよ」
ギリスは気にしてないと示したいのか、食卓に並ぶ料理の皿を次々と取ってスィグルの前に並べた。
その全部が不殺の料理だったので、偶然ではないなとスィグルは思った。
「お前は僕のこと詳しいらしいな」
「いいや。まだ全然だよ。これから詳しく知る」
「僕はお前のことは何も知らないけどな」
スィグルの偏食を知っているのは、ごく身近な者だけのはずだった。料理を持ってくる侍女か、それを作っている厨房の料理人は心得ているだろうが、ジェレフは知らなかったのだ。
タンジール王宮では、誰もが知っている事実という訳ではない。
「これのこと、誰に聞いた」
料理の皿をつついて、スィグルは聞いた。どこで嗅ぎ回っているのかと。
「誰だと思う?」
「侍女か?」
「いいや。お前の部屋にいる女どもは馬鹿だよ。珍しいお菓子をやったのに、俺にそんな話をしたりしない。厨房のおっさんに聞いたんだ」
口が堅いだけで馬鹿呼ばわりされて、部屋付きの侍女も気の毒だった。あんな菓子ぐらいで懐柔されて、ぺらぺら喋る女どもじゃないのかと、スィグルは感心した。そんな忠実なようには見えなかったけどな。
「不殺?」
ギリスは不思議そうに聞いてきた。
「違うよ。ただの好き嫌いだ」
「厨房のおっさんはお前が罪の赦しを乞うため不殺の誓いを立ててるんだと思っている」
「罪ってなんだよ……」
舌の上で何の味もしない不殺の料理を噛み締めながら、スィグルはとぼけて悪態をついた。
味がないと、食事は苦行だ。ものを噛むのも案外疲れる。
「人喰いレイラス」
ギリスが歯に衣着せぬ言い方なので、スィグルはため息をつき、仕方なく箸を置いてギリスを睨んだ。
「何が言いたい」
「イェズラムは正しい。どんな時も、食わない奴から死ぬ。お前はそうじゃなかった。お前も長生きしそうだな、スィグル」
にやにやして、ギリスは嬉しそうだった。
「食えよ。瓜なんか、お前が食って生き延びたモンに比べたら、食いやすいほうだろ」
「よくもそんな話をここでできるな」
声をひそめて、スィグルは怒った。大人たちの話は横で続いていたし、ここでひそひそ言い争うのも不躾かと思ったが、どうしてもギリスに一言言いたかった。
「俺は気にしてない。気にしてない奴もいるんだよ、殿下」
思ってもみなかった話だったので、スィグルは思わずきょとんとした。
それを見て、可笑しかったのか、ギリスがふふふと抑えた笑い声をたてた。
「森のやつらはお前を殺したと思ってただろう。でも生き延びたんだ。誇りを持て。アンフィバロウの子をむざむざ殺させない。イェズラムもそう言ってた。お前が死ぬのは、この時だけだ」
ギリスは懐に入れていた例の絹布を取り出して、スィグルの膝に投げてきた。
長衣越しにでも、それに触れて、スィグルは一瞬息が止まった。
「それ以外で死ぬな」
ギリスは当然のことのように言った。
とんだことだなとスィグルは思った。
まだそんな覚悟も、本音を言えば自分にはなかった。
それ以外に道がないのは、ずっと知っていたつもりだが、どこか遠くの出来事のように思えていた。
継承について深く考えなければ、それは遠くで起きている火事のように、自分の足元が焼ける日は遠いのだと。
既に火中に立っているとは、自分では気づいていかなったのか。
「見ろよ。お前の兄弟たちを」
ギリスは銀杯をあげて、水を飲んでいた。果実水だ。水に果物の芳香をつけた、宮廷らしい飲み物だった。
促されて、スィグルは今まで見ないようにしていた王族の席に目を向けた。
そこに居並ぶ王子の席は十五人分。
どの席にも自分の敵がいた。宮廷衣装で着飾ったアンフィバロウの末裔たちだ。
中にはこちらを見ている者もいた。どれもこれもが、様々な地方から父に嫁してきた女たちの容貌を受け継いでいる。
父は多くの男子に恵まれたが、不思議なことに、枯れ谷の容貌の者はいない。
たまたまだっただろうが、それが皆に王統の途絶を感じさせ、不吉だと噂する者もいる。名君リューズの血を受け継ぐ王子が誰もいないのではないかと。
その中で、スィグルにはひとつだけ、父に似たところがあった。黄金の目だ。
太祖アンフィバロウは眼色が鷹の目のごとき黄金だったと、一族の英雄譚にも謳われている。
それと同じ目を、スィグルもしていた。
「睨んでやれ。皆、ビビってる」
ギリスが面白そうに言い、もう肉のない鶏の骨を舐めていた。
「ビビってるのはこっちだよ」
涼しい顔で、スィグルは正直に言った。兄弟たちが自分を憎んでいるのは明白で、その視線も恐ろしかった。
「馬鹿だな。お前のほうが強い」
「どうしてだよ」
「お前がエル・ギリスの新星だからだ」
そう言うと、ギリスは骨を咥えたまま、広間に目を向けた。
十五人の同じ血を分けたスィグルの兄弟たちが食膳につき、取り巻きたちに守られながら豪奢な円座に座している。
その席のどこにでも、ありふれた銀杯があり、注ぎ回る侍女たちから果実水がふるまわれていた。
その杯の中の水が、ばきんと音を立てて凍った。銀杯を割る勢いで弾けたものもあった。
皆、一様に驚き、食膳をひっくり返してしまう者もいた。
ギリスはそれを自分がやったというのを、隠す気はないようだった。
自分の杯にあった水も凍らせて、ギリスは立ち上がって乾杯と怒鳴り、中の氷を王族の席に向かってぶちまけた。
父と高段の魔法戦士たちも、驚いた様子でそれを見ていた。
スィグルは顔面蒼白になったが、父たちはそれほどでもない。またかという、呆れ顔だった。
「何をしている、エル・ギリス!」
強い声でジェレフが叱責してきた。
ギリスは空になった酒杯を卓上に戻し、また椅子に座った。
「退屈だ、ジェレフ。俺も族長と話したい。ずっとお前らだけ話していて、ずるい」
ギリスはまるで小さい子供のように奔放に言った。
ジェレフはそれに怒ったため息をついており、女英雄エレンディラも苦笑していた。
広間からも、なんという悪戯者かという悪態が聞こえた。
ギリスが馬鹿だと思われているのは本当らしい。この馬鹿者がという罵る声が魔法戦士たちからも上がっていた。
「馬鹿……」
青ざめたまま、スィグルは小声で言うのがやっとだった。
「玉座の間で魔法を使うな、エル・ギリス。お前を許してくれるイェズラムはもういないぞ」
淡い微笑のまま、族長リューズがギリスを咎めた。
「そういうことはまだ早い」
父は今度はスィグルの顔を見て話していた。何を言われているのかとスィグルは一瞬戸惑い、そして父の目が一瞬見つめた自分の膝の上を見た。
例の絹布がそこにあった。我が死を与う。
「兄弟喧嘩はまだ先にしておけ。俺はまだ死なぬ」
父が怒っている気がして、スィグルは身の縮む想いだった。
「かつて俺の父デールに仕えた魔法戦士がいて、名はシェラジムと言った。不戦のシェラジム。治癒者だ」
ため息をついて、族長は自分の杯から果実水を飲んだ。
リューズ・スィノニムは下戸で、酒は飲まない。玉座の間でも族長に遠慮して、酒を控える者もいるほどだ。
「シェラジムは俺の父を即位させるために、他の継承者を殺した。それで暗愚な父だけが生き残ったのだ」
スィグルはその話を父親から聞くのは初めてだった。
「民には他の族長を選ぶことができなかった。血筋を重んじるがゆえに。あくまでもアンフィバロウの末裔であるほうがよいと皆、望んでいる。その玉座に愚か者を座らせるな。スィグル・レイラス。それはお前の義務だ」
いつも優しかった父が、まるで敵に対するように話していた。
スィグルはそれに傷ついた。自分がこんなに簡単に傷つくとは意外だった。
「もっとも相応しい者が玉座に座るのだ。自分がそうでないなら、お前は死をもって民に仕えよ」
「申し訳ありません」
鉄槌で殴られた気分で、スィグルはじっと低頭した。父が怒っているのは明らかだ。
「兄弟殺しが玉座についても、民は受け入れない。事実上の空位だぞ。祖父と同じ愚を犯さぬよう、お前の肝に銘じておけ」
知らない話ではなかったが、スィグルは父の話を黙って聞いた。頷くしかない話だった。
小さくなって父の話を聞くスィグルの横で、ギリスがけろりとして答えた。
「そんな愚を犯す必要ない。こいつの兄弟を片付けるには、絹布が十六本あれば足りるだろ」
父は無言でギリスを見た。
もう何も喋らないでくれと、スィグルはギリスに祈った。
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015 乾杯
「今日は何の用だ、エル・ギリス」
族長リューズはため息をつき、食卓から銀杯を取って言った。
そして果実水を飲もうとした父が、妙な表情をするのをスィグルは間近で見た。
ギリスも涼しい顔でそれを見ていたが、父がそのギリスと目を見交わす視線に挟まれて、スィグルはただ困った。
父は長い腕でスィグルの前を横切り、隣の席に座るギリスの皿の上に、銀杯を傾けた。
中から杯の形の氷が転がり出てきた。薄赤い果実水が凍ったものだ。
ギリスが父の杯も凍らせていたのを知って、スィグルは青ざめた。自分の目の前にある銀杯の水面には、動揺した自分の目が映っていたが、その揺れる水面は凍ってはいなかった。
ギリスは狙ったものだけを凍らせることができるのだ。
「悪党ギリス。この悪戯者め」
父は叱る口調でギリスに言った。
それを聞いて、ギリスはあははと声をあげて笑った。
だが高段の食卓で、笑っているのはギリスだけだった。ジェレフは明らかに怒っていたし、エレンディラは呆れて見えた。
「族長。イェズラムは言ってた。玉座に座る者に必要なのは、能力ではない」
「またイェズラムか」
うんざりしたように、父は気さくに答えた。
「お前の養父は何と言っていた」
聞かなくてはならぬなら聞くという、嫌そうな態度で父が聞くのを、スィグルは不思議なものとして見た。
この玉座のある席にいる時はもちろん、その他の時でも、父はいつも優雅に微笑み族長然としていた。スィグルが幼く、まだ後宮の母の部屋で寝起きしていた頃にも、そこに通ってくる父リューズは威厳があり、族長のように見えた。
しかしギリスと話す時の父はもっと、寛いで見えた。
まるで本当の親子みたいに。
そう思うと何かがスィグルの胸をちくりと刺すようで、自分を素通りして交わされる父とギリスの言葉をただ聞くしかないのが、ひどく屈辱的に思えた。
「長は、玉座の者が求められるのは素直さだと言っていた。皆の声を聞く力がいるって」
「なるほど。それは正しい。ここは民の声を聞くための席だ」
父は指先で控えの侍女を呼び、空になった冷たい銀杯に新しい果実水を注がせた。
「俺もあんたの民だ、族長。話を聞いてくれ」
不躾に言うギリスを、族長は笑って聞いていた。その白い指が食卓の食べ物に手を伸ばすのを、スィグルは今夜、初めて見た。
ギリスは大した相手ではないから、エレンディラやジェレフと話す時のように、わざわざ向き合ってやる必要がないということなのか、ギリスと話しながら父は食卓に供されていた果物を食べた。
茘枝だ。父の好物だと聞いている。
後宮でも母が、族長の渡りがある夜には、嬉しげに手ずからその皮を剥いて待っていた。
美しく磨き彩色された爪のある細い綺麗な指で。
普段は爪が痛むといって、自分の手では何もしない姫君育ちの母だったのに。
そのことを思い出すと、スィグルの胸が騒いだ。
いつだったか森で、その母の綺麗な指が、切り落とされるのを見た。
母は泣き叫んだが、誰も助けには来なかった。父も。魔法戦士も。軍隊も。
父が母を助け出したのは、スィグルや弟のスフィルを救出した後、母がすっかり気が狂った後のことだ。
それでも生きていただけましだったのか。
いそいそと茘枝を剥く時の母親の顔を思い出すと、あの人はもしや、族長リューズ・スィノニムを愛していたのではないかとスィグルには思えた。
月に一度か二度の逢瀬を楽しみにしていた。母も、自分たちも。
この席に座り、族長と話す者がなにを言ってもいいのであれば、スィグルも父に聞きたい気がした。
母を愛していましたか。父上。
「この争い事は、不公平だ。族長。あんたは息子たちを殺し合わせてる。その結果として一番玉座に相応しい者が生き残ればいいが、そうでないなら民には損失だ」
「もっとも相応しい者が生き残る。そういう伝統だ」
喧嘩口調のギリスに、族長はやんわりと答えた。そつのない反論だった。
父はギリスと話す気がないのだとスィグルには思えた。
今更、部族の長年のやり方に異議を唱えたところで、代々の族長冠は同じやり方で何代も継承されてきている。
その末裔である父が一存で制度を変えることはできない。
族長冠の継承方法は、太祖アンフィバロウが定めたことだ。
「そうじゃない。もっとも相応しい者が生き残るべきなのに、こいつは殺されかけた。二度も。伝統に反してるだろ? 族長はなぜ放っておくのか、俺は聞きたい」
顎でスィグルを指してきて、ギリスはあけすけに言った。
ギリスは無表情だったが、父はテーブルの下でこっそり足でも踏まれたような顔をした。
「エル・ギリス。それは今ここでするような話か」
父は言いにくそうだった。たぶん、スィグルがすぐ横にいるせいだろう。
本人の前では言いにくい。そういう気配が感じられた。
「父上。お話の邪魔でしたら退がっております」
小声でスィグルが申し出ると、父はスィグルを見た。その無表情な黄金の目が、そうしろと言っているのかどうか、スィグルには計りかねた。
「お前は馬鹿か。スィグル。なんのために来た」
父が何か言いかけた瞬間に、そう言うギリスの声がして、スィグルはぎょっとした。一瞬、父がそう言ったのかと思えたのだ。
ギリスの声を聞いて、こちらに向き合ったままの父リューズがにやっと笑うのを、スィグルは見た。
「息子よ。あの悪党はお前の手下か」
父は興味深げに聞いてきた。
「いえ……昨日会ったばかりです」
「馬鹿! そうだって言え。何考えてんだスィグル」
小声で答えたスィグルの足を、ギリスがテーブルの下で蹴ってきた。
さっき自分もギリスを蹴ったので、何をするんだとも言いにくいが、何をするんだと思った。
僕は王族だぞ。いくら魔法戦士が王族には兄弟の扱いだと言っても、そんなのは建前だ。本当に蹴る奴があるか。
ムッとして、スィグルは隣を振り返り、ギリスを睨んだ。
「無礼だぞ、ギリス。僕を誰だと思ってる。血筋に敬意を払え」
「ご無礼を、殿下。その調子で血筋をお示しください」
ギリスが急に宮廷の言葉を話し、恭しくこちらに座礼をしてみせた。
畏れ入っていないのは明らかだ。
「これが魔法戦士だ。気をつけろ、息子よ」
楽しげに言って、父は笑いながら剥いた茘枝を口に入れた。
父がものを食べるのを間近で見たのは初めてだったかもしれない。
母はいつも嬉しげに果物を用意したが、父は食べなかった。
翌朝にはいつも、父がとっくに去ったあとの居間で、乾いた茘枝をスィグルが弟と分けて食べた。
その甘く汁気のある、どこか乾いた味を覚えている。
今はもう食べても感じないだろうが。
「その悪党しか殿下には味方がいないんだ。それでいいのか族長」
ギリスは率直にそう聞いた。
味方のつもりなのかと、スィグルは驚き、同時に呆れもした。
こんな奴しか味方がいないんだという自分への呆れだ。
いや、少しはギリスにも呆れたが。自分も彼もどっちもどっちだとスィグルは思った。
こんな惨憺たる会話をわざわざしにきた自分たちに、父も呆れただろうし、偶然同席していたエレンディラとジェレフも呆れているだろう。
そう思って、スィグルは気まずい横目で美貌の女英雄を見たが、エレンディラはにこにこと機嫌の良い顔でこちらを見ていた。
大英雄ともなると、こんなことでは呆れないのだろうか。
「何がだ。いいも悪いもなかろう。そういうことに玉座は関与しないものなのだ。お前らが何とかしろ」
「何とかって?」
即答で聞き返してくるギリスの話振りに、父はため息をつき、二個目の茘枝の皮を剥き始めた。
「お剥きしましょうか、リューズ様」
美しい声で、エレンディラが族長に尋ねた。父が面倒そうにしていたせいだろう。
「いいや、いい。俺に構うな、エレンディラ。自分で剥くのが好きなんだ」
「その割には随分、下手くそでいらっしゃるのですね。見ていて苛々いたします」
悪気のないふうにエレンディラが率直に言った。
確かに父は驚くほど不器用だった。苛々する。スィグルもそう思った。
「エレンディラ。お前は茘枝を剥くために居るんじゃないだろう。長老会の長だ。悪党ギリスを黙らせろ。お前のそのご大層な石でこの若造を脅し付けて、二度と口をきくなと命じてやれ」
「そんなことはできないとご存知のはずですよ」
エレンディラは族長の皿から新しい茘枝をひとつ奪い、自分も剥き始めた。白い指の中で魔法のように茘枝が硬い外皮を脱いでいく。
それを族長の皿に返して、エレンディラは果汁に濡れた指先を舐めていた。
「お前がこの悪党の親玉なのか」
「いいえ。まさか。わたくしはいつでもリューズ様の忠実なる臣ですわ。ですが勝負はどうぞ公平になさいませ。席も与えず戦えとは、それはちょっと酷いんじゃございません?」
「エル・ジェレフ」
エレンディラが言い終わるより前に、族長は彼女の隣で黙っている治癒者を呼んだ。
「はい」
ジェレフは困惑した顔で返事をした。
「お前はさっきからなぜ黙っている」
「特に申し上げることがないので」
「つまり、こいつらに賛成ということか」
族長はジェレフの意見を聞いていた。聞かれたジェレフは困った顔をしたが、答えを用意していなかったらしい。
かつんを硬いもので皿を打つ音がして、スィグルは驚いて音のほうを見た。
隣の席で、ギリスが銀色の長煙管を持ち出していた。
煙管に古い灰は詰まっていなかったが、ギリスは癖で灰を打ち出す動作をしたらしい。
「ここ煙草盆ないの? 前はあっただろう。なんで片付けたんだ、族長」
不満げに言って、ギリスは煙草入れに持っていた火口から煙管に火を入れていた。
英雄が喫煙するのを止める権利は誰にも無い。たとえ族長でも、太祖でもだ、と言われている。
だがそれは建前だろうとスィグルは思っていた。
でも本当だったみたいだ。
ギリスは長煙管から青白い煙をふかし、まるで英雄のようだった。
煙からは甘い匂いがした。その香りに覚えがある気がして、スィグルは記憶を手繰り寄せた。
確か、あの時も同じ匂いがした。この広間を出立してトルレッキオへ人質として赴く時。自分たちを先導した魔法戦士、エル・イェズラムはのんびりと長煙管をふかし、その煙からは今と同じ匂いがした。
今は亡き、大英雄の香気だ。
「そろそろレイラス殿下のご帰還式をなさってはいかがですか、族長」
エル・エレンディラがにこやかに提案した。
「レイラス殿下のご体調もすっかりご回復なされたようですし。めでたいことですわね。そうでしょう、エル・ジェレフ」
エレンディラが問いかける口調でジェレフに言うと、ジェレフはスィグルを見た。
じっと見るジェレフの顔が何か言いたげに思えたが、スィグルは頷いて見せた。
それにジェレフも頷いたようだった。
「はい。殿下はもうご健康です。むしろ年若い頃よりあれだけの強行軍に耐えたのですから、とても頑健なお方です」
「それは王族らしい資質か」
族長はジェレフに尋ねた。ジェレフは首を横に振って見せた。
「いいえ。アンフィバロウ家は血の巡りが虚弱なお血筋です。ご存知のはず」
「では俺に似ず、健やかな息子で幸いであったな」
「天使のお恵みかと」
ジェレフは苦笑して、族長に言った。
「まあ素敵。それではぜひ、殿下の守護天使、ブラン・アムリネスに乾杯を」
エレンディラが杯を上げて、乾杯を促した。
「天使の御恵みあるところに栄あれ」
ジェレフが銀杯を取り、長老会の女長に追従した。
ギリスはジェレフが政治をしないと言っていたが、そんなことはないなとスィグルは思った。ジェレフは積極的じゃないだけだ。
「迂闊に天使を持ち出すな。せっかくの茘枝が不味くなる」
銀杯を取って、女英雄の乾杯に答え、父が文句を言った。
高段で交わされる乾杯に玉座の間が気づき、ざわざわとした。
父リューズが立ち上がり、動揺する皆に笑顔を向けるのを、スィグルは横で座ったまま見上げた。
父の声は恐ろしくよく通る。大声で言うわけでもないのに、誰もが耳を傾けずにいられない、まさに玉座の声だ。
自分はまだそんな声は出ないなと、スィグルは族長冠を戴く父を見上げながら思った。
いつか自分にも、そんな声で皆に語りかけることがあるのだろうか。
「広間よ、聞け。息子が無事戻った祝いに、帰還式を執り行う。スィグル・レイラスが出立した時と同様の隊列をもって王都に迎え入れよ」
族長が命じると、エレンディラが立ち上がって拍手をした。
それを見もせぬうちに、玉座の間の英雄たちの席から、割れるような拍手があがり、それは玉座の間の火花だった。
誰もが一瞬で政治を行なった。
高段の席から見渡すと、誰が誰に仕えているのか、一目瞭然の絵図面のようだった。
雷撃の女神、エレンディラが放った火花は次々に広間を燃やし、皆が拍手した。
それを見てから、父は満足したような顔で、また席についた。
「見たか、スィグル・レイラス。息子よ。恐ろしい光景だっただろう。この広間で誰を隣に座らせるか、お前はよく選んだ」
父はそう言って褒め、エレンディラが剥いた、あとは食うばかりの裸の茘枝をスィグルの口に入れた。
驚いてスィグルはそれを噛んだ。
何の味もしない。
それでも、甘く芳醇な果物の匂いが、胸いっぱいに立ち込めた。
●応援&コメント:Web拍手 / マシュマロ
016 英雄の形見
玉座の間を退出すると深夜になっていた。
宴が終わる時刻は決められているが、その通りに事が進むとは限らない。
族長リューズが定刻通りにさっさと退出する日もあれば、話が長引き、いつまでも宴が続く時もあった。
それでも時が来れば王子たちは退出していくものだ。族長の子らが皆、まだ若年ということもあったが、宴の後の玉座の間は、叩頭すべき尊き血筋は抜きの無礼講となる習わしであり、殿下と呼ばれる者はさっさと出ていくのが作法だった。
重たい正装を解く寝支度もあれば、明日の朝にはまた同じ玉座の間で朝議がある。そこで一族の家長である族長に朝の挨拶をするのが王族の習慣だ。寝坊などできない。
子供時代にはそう言われてきたが、ギリスは一向に帰る気配がなく、帰れという話も一切出なかった。
晩餐への呼び出しが無いのと同様に、第十六王子スィグル・レイラスを居室に連れ帰るための行列も手配されていなかったのだろう。
それを急遽、用意して居室に引き戻すのか、誰も何も命じなかったということだ。それを判断することは、この一夜ではまだ誰にもできなかったのだろう。
そのお陰でスィグルは相変わらず族長の隣の席にいるまま、父のところに入れ替わり立ち替わり話しにやってくる者たちの歓談や、剣呑な話を横で聞いていた。
スィグルにはそこで初めて聞く話も多く、父の受け答えも軽快で面白かった。今までにはこんな機会は無かったが、それはここが王子のための席ではないせいだ。
それでも、悪くなかったなとスィグルは思っていた。ここから見下ろされる席の隅っこで小さくなっているよりは、今夜は随分気が晴れたし、族長の夜とはこういうものかと思えた。
それを面白いと言うと不敬かもしれないが、有り体に言って、スィグルには面白かったのだ。
それで帰りもせずギリスと高段に居座っているうちに、エル・ジェレフとエル・エレンディラはとっくに退席し、女英雄に至ってはもう玉座の間にもいない。
何か一言、彼女に礼を述べるべきかとスィグルは思ったが、個人的に話す機会はないままだった。
やがて父も族長の居室に戻る時が来た。
玉座の間に居残っていた者たちは、族長の退出を知らせる声を聞くと、皆一斉に居住まいを正し叩頭した。
高段にいたスィグルとエル・ギリスも、広間に降りて跪拝叩頭し、族長の列を見送ろうとした。
「スィグル、お前ももう居室に退がれ」
高段を降りてきた父が、付いてくるようスィグルを呼んだ。
そうなるとは思わず、スィグルは慌てて立ち上がった。
なぜかギリスも後を付いてくるが、父はそれを横目に一瞥しただけで、付いてくるなとは言わなかった。
「長居だったな。面白い話は聞けたか」
歩きながら、父リューズは後に付き従うスィグルに気さくに話しかけてきた。
スィグルは慌てて頷き、父リューズに同席を許されたことへの感謝を述べた。
帰り際にも通りすがりの者と話す父は、全く疲労を感じさせない声だった。
自分はひどく疲れていたので、スィグルはその父の快活さには畏れ入った。
「スィグル。しばらく身辺には注意せよ」
玉座の間が遠くなると、父リューズはそう言った。
「二度目のヤンファールは困るからな」
父の忠告を混ぜ返すように、ギリスが軽口をきいた。
それに父リューズはムッとしたようだったが、でも声もなく笑っていた。
「うるさい餓鬼め。お前が張り付いて息子を守れ」
「仰せの通りに」
歩きながらギリスは一礼したようだった。
「あの絹布だが」
父は小声でギリスに話していた。無言で付き従う侍従たちや、族長付きの侍女たちの群れに混ざり、スィグルも黙ってそれを聞いた。
「イェズラムがお前にそれを託したのか。その耳飾りもか」
父は自分の耳を飾っている赤い石がついた耳飾りをつついて聞いた。
族長が身につける装飾品は、アンフィバロウ家に代々伝わる由緒のあるものだが、その中でも父は特に涙型の雫石の下がったものを身につけているようだった。
それは悲しみの意匠で、特に喪に服する意味で身につけるものだ。
とかく嘆きの多い部族のことで、特に葬送用でなくとも日頃から身につけている者もいる。
長らく戦時であったし、亡き者たちを偲ぶ心が日常茶飯事となっているのだ。
父の乳兄弟であったエル・イェズラムも、生前は常に服喪中のような暗い色調の長衣をまとい、雫石の耳飾りをしていた。
子供の頃に見たイェズラムのことを、死の天使みたいだとスィグルは思ったものだ。
「イェズラムが王都を出ていく時、居室にあるものは全部、俺にくれるって言ったんだ。だから俺のもんだろ」
ギリスは言い訳のように答えていた。
「なぜ片方しか着けない。失くしたのか」
「片方は墓所にある」
咎める口調の族長リューズに、ギリスは珍しくしんみりと答えた。
「イェズラムが持ってる」
そう言うギリスに、父は深くため息をついたようだった。
「死者はもう眠らせてやれ。今後は生きている者だけでやっていくのだ。あいつはお前にはそう言わなかったか」
「イェズは王都を出て行く時、族長には何と言ったんだ」
「俺はもう死ぬ、あとは知らぬと」
王宮の曲がりくねる通路に岐路が現れ、族長リューズは立ち止まって振り返った。
「共はここまででいい。戻って休め、スィグル・レイラス」
淡い笑みで、父はスィグルの足を止めさせ、王家の血族が住まう辺りに行く道を示した。
「エル・ギリス。生きている者だけが道を決めることができる。お前も、自分の生き様を死者のせいにはするな。何事も自分で考え、自分で決めよ」
厳しい声でギリスに言う父を、スィグルは見上げた。
「そんなことしてない」
ギリスはムッとしたように答えた。
それを振り返って、父は珍しく、ふふんと意地悪そうに笑った。
「そうか。墓所の兄によろしくな。俺は長生きすると伝えておいてくれ」
父はひらひらと手を振って、大勢の侍従と侍女に傅かれて去っていった。
その赤く絢爛な衣装と、金銀を煌めかせた族長の行列は、生きて王宮を行き来する美しい絵のようだった。
一歩離れて見ると、自分がその中の一人になれるとは、スィグルには到底思えなかった。
自分がそこへ至る道はとても遠い。その道半ばで縊られて死ぬほうが、まだ現実的で、まざまざと想像できた。
それでも、今夜は一歩近づけた気がする。玉座にではないが、いつも遠かった父リューズ・スィノニムに。
そのことが、じわりと温かいように嬉しく、スィグルは久々に良い気分だった。
「俺さ……昔から、お前の親父が嫌いなんだよ」
行列を見送って立っていたら、ギリスが急にそんなことを言うので、スィグルは驚いた。
「どうしてだよ? 竜の涙は皆、父上が好きなんだと思ってた」
「まあ俺以外はな」
ギリスは不本意そうに頷きながら言った。
「お前は? 好きか、あの偉そうな親父が」
険しい顔で、ギリスは尋ねてきた。
それにどう答えるのが正解か、スィグルは分からなかった。
「父上は偉そうなんじゃなく、偉いんだよ。部族を存亡の危機から救った名君なんだよ? 英雄譚を聴いたことないの?」
もしや本当に馬鹿なのかと危ぶんで、スィグルは遠慮がちに言った。
族長リューズ・スィノニムの英雄譚は子供でも知ってる。もし知らないなら相当の馬鹿だ。
そうは思いたくなかったが、ギリスがどこまで馬鹿なのか知らなかった。
思わず憐れむ目で見上げると、ギリスは困った顔だった。
「お前、俺のこと馬鹿にしてるだろ」
いや全然、そんなことはないという顔をして、スィグルは肩をすくめた。
「ありがとうぐらい言えよ、スィグル・レイラス」
無礼にも肘で小突いてきて、ギリスが感謝を強請った。
ギリスのおかげなんだっけ、とスィグルは首を捻ったが、そうなのかもしれなかった。
「ありがとう、ギリス」
スィグルは作り笑いで感謝しておいた。
「玉座をくれてやろうっていうのに、お前の感謝はその程度なのかよ。せめてあと百回ぐらい言われたいね」
ギリスはそう言うと、不納得な顔のまま歩き出した。スィグルの居室のある方へ。
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017 狂人たち
「お前の部屋なんだけど」
先に立って歩きながら、ギリスは思案する声で言った。
それについて行きながら、スィグルは部屋まで送るつもりらしい英雄の話を聞いた。
「子供部屋のままだろ。引っ越したほうがいい。明日、手配する」
「明日?」
急な話に、スィグルは驚いた。
確かに今の居室は子供時代の王族が過ごすための部屋だった。
それで特に不自由ということはなく、日々の暮らしには十分だったが、王族は成人すると部屋を移るのがしきたりだ。
タンジール王宮には無数の部屋があり、砂漠の蟻塚のように、それらが通路で繋がれている。
全ての部屋に住人がいるわけではなく、使われずに閉鎖されているものもあるが、そこに住むべき主人が現れたら、部屋はまた開封されて使い始められる。
王族として数えられる者が、その代に何人いるかは分からない。行き場のない者が出ないようにか、王宮にはとにかくたくさんの部屋があった。
部屋にはそれぞれの格式があり、王宮の中心である玉座の間に近いものほど位が高い。族長の居室のそば近くで寝起きするのが王族には一番の名誉だ。
そういった部屋はもう埋まっている。
おそらく、今の子供部屋のほうが父の寝室には近い。
引っ越せば遠くなってしまうだろうとスィグルは思ったが、こういうものは早い者勝ちだ。
前に住んでいた者をよそに移してでも入居するという強権の者がいれば別だが、そこまでの荒事は王族の間では滅多に起きるものではない。
誰が誰より強いかは、生まれる前から決まっており、誰がどの部屋で日々を送るのかも、あらかじめ決まっているようなものだ。
「お前の部屋はある。工事は途中で止まったままだけど、住めなくはないだろう。いつまでもチビの寝床で寝起きしてるよりはいい。面目が立つ」
学院から戻って以来、スィグルが漠然と思っていたことを、ギリスはてきぱきと説明してきた。
そんなことはスィグルも分かっていたが、誰に何を命じればよいのかも分からなかった。相談相手もいない。
それに悶々として無策だったのは認めるが、それにしてもギリスは手際がいいようだった。
今までひと月もの間、ただ悶々とするだけだった自分のほうが馬鹿みたいだ。
スィグルはそう反省しながら、先に立って歩くギリスの後ろ姿を見上げた。
その背中は堂々として見えたし、背もスィグルより高い。
ギリスが腰の煙草入れに挿している銀の長煙管も、英雄然として見えたし、心強いような気がした。
こいつに任せて、よろしく頼むと言えばいいのか。
即答できない蟠りを感じて、スィグルは黙っていた。
「明日中に、住める程度に部屋を整えさせておくから、明日からそっちで寝ろ」
「それだと、急じゃないか?」
気が進まず、スィグルは俯いて答えた。
今更、見慣れた子供部屋の景色が惜しくなったのかもしれなかった。
「いいや急じゃない。本当ならもうとっくに、そっちで寝てるはずなんだ。お前がヤンファールで人食ってなけりゃ、もう二年はそこに住んでたはずだ」
指を二本立てて見せ、ギリスはそれが酷い遅刻だという顔で振り返って見てきた。
スィグルは顔をしかめてそれと向き合った。
「その話、しないでもらえないかな」
スィグルが怒った声で言うと、ギリスは不思議そうに目を瞬いていた。
「お前は気にしていないのかもしれないけど、僕は気にしてるんだ」
「二年ぐらい気にするな。大丈夫だ。必ず取り戻せる」
励ます口調で言うギリスの真顔に、スィグルは怒りを忘れて面食らった。
「いや……そうじゃないよ。そっちの話じゃない」
ふざけてるのかと、他の者なら思っただろうが、スィグルはこの年上の少年が他の者とは違うのを感じていた。
不可解そうにこちらを見ているギリスの顔には全く悪気がなさそうだった。
それが演技だとは、スィグルには思えなかった。
悪気なく人を騙すような奴なのかもしれないが、そんなことは、まだ分からない。
どうするか決めかねて、スィグルは歩きながら小声で話した。
「ギリス……僕がヤンファールでどうだったか、軽く話すのはやめてくれ。お前が気にしてないのは分かったよ。でも僕は思い出したくないんだ」
「どうして」
「怖いからだよ」
スィグルはうつむいて歩きながら、ギリスに答えた。
英雄だという少年は、しばらく答えず、ただ黙って王宮の通路を先導して歩いた。
「何が怖いのか、俺には分からない」
ギリスはやがて、ぽつりと答えた。
スィグルを非難している訳ではないようだった。
「俺はその、怖いっていうのが、分からないんだ。全然。皆、すぐに怖がるが、俺には分からない。戦いも、死も、森の守護生物も……」
「それほど勇敢だって言いたいのか?」
そうではないと思ったが、スィグルはそう言ってみた。ギリスがもしそう思っているなら、それでもいい。
「馬鹿だってことだろ。お前の親父に言わせれば」
ギリスがそう言うのに、スィグルは可笑しくなって、ふふふと笑った。
晩餐での父の話と、その時の突拍子もないギリスの声を思い出したのだ。
でも、振り返ったギリスの顔は真顔だった。
スィグルは淡い笑みのまま、その冷たい容貌を見上げた。
「父上は、僕を励ましたんだよ。僕が臆病だってご存知だから。それはいいことだって、僕を励ましたんだよ。恐れるのは良い事だって」
「臆病なのがいいことな訳ない。お前は王族なんだ。誰よりも勇敢でないと」
ギリスはきっぱりと言った。
それも可笑しくて、スィグルはふふふとまた笑った。
「まあ、そりゃあそうだけど。でもお前も、エル・イェズラムには馬鹿じゃないって言われたんだろ?」
「そうだよ」
「じゃあそれでいいじゃないか。お前は馬鹿じゃないし、僕も臆病じゃないんだ」
「お前は臆病じゃない」
ギリスはそれも、きっぱりと言った。
「イェズラムがそう言ってた。お前が生きて戻ったのは、勇敢だったからだ」
断言するギリスには、全く疑いがないようだった。会ったこともなかったスィグルのことを、まるでよく知っているみたいに。
「なんでお前はイェズラムの話ばかりするんだ」
スィグルは注意深く聞いた。ギリスはそれがおかしいとは思っていないらしかったからだ。
王宮には大勢の竜の涙がいるが、彼らは多かれ少なかれ病人だ。母親の胎内にいる時から、竜の涙という宿痾に冒されていて、それは頭の中で脳を食う病魔なのだ。
ほとんどの者はまともだが、それは彼らが厳選されているせいだ。
生まれ落ちてすぐ、英雄たちは全土からこの王宮に引き取られ、ここで育てられる。
だが成人まで生きている者は一握りだ。英雄として使い物にならないものには、幼いうちに死が与えられる。
英雄譚に称えられる大英雄になる者は、砂漠の中の一粒の砂だ。
それでも、ギリスは既に自分の英雄譚を持っていると言っていた。彼が強力な魔法を持っているという証だろう。
ギリスはその能力のゆえに王宮で生かされているが、でも結局は病人なのだ。
彼らは生来の病理の他にも、鎮痛のための様々な麻薬も吸う。それは薬効と引き換えに、彼らを壊しもする薬だ。
英雄たちは王宮で徐々に狂い、病み衰えながら戦うのが定めだ。
その強大な魔法で、この部族は戦い抜いてきた。彼らの命を消費して。
それを兄弟として王宮で生きるのが、王族である自分の定めだった。
ギリスにとって自分が新星だというなら、彼はスィグルの双子の兄だ。英雄ディノトリス。
太祖アンフィバロウはその双子の兄が持っていた千里眼の魔法によって、隷属の地だった森を脱出し、王都タンジールへの逃避行を成功させた。部族の始祖を語る英雄譚には、そう謳われている。
後の王都タンジールとなる最初の廃墟に到着したとき、エル・ディノトリスは末期的な竜の涙に冒されており、最期に双子の弟アンフィバロウを族長として戴冠させて死んだ。
ディノトリスとは、射手と言う意味の名だ。
ギリスは僕の射手になろうとしてる。イェズラムがそう命じたからというだけの理由で。
大英雄イェズラムは本当にこんな奴に、そんな大任を与えていったのか。
もしもそうだったとして、その時の彼はまだ正気だったのか。
エル・ギリスも、実は既に正気ではないのかもしれないではないか。
それを考えるべきかと、スィグルは思った。
新星と射手。それは多分、あっさりと信じて良いような話ではない。
「なんでって……イェズラムはいつも賢くて強い。俺が分からないことも全部知ってる。だから、なんでもイェズラムに聞けばいいんだ。答えを教えてくれる。イェズラムの言う通りにしていれば、俺たちは何も間違えたりしない」
ギリスはスィグルの質問に、困ったように答えた。
スィグルにはそれが、ギリスの考えとは到底思えなかった。
父がさっき、ギリスを諭していったのは、きっとこの事だ。
「イェズラムはもう死んだんだよ。ギリス。彼はもうお前に答えを教えられない」
スィグルがそう教えると、エル・ギリスは傍目にもよくわかるほど、苦痛の顔をした。
「なら、イェズラムは死ぬ前に、俺に答えを全部教えたんだろう。お前が新星だ、スィグル。それがイェズラムが俺に教えた最後の答えだ」
「イェズラムがそう言ってたから、ってこと?」
ギリスは頷いた。
「ギリス。お前はどう思うんだ。僕が本当に族長になれると思うのか」
「俺が戴冠させる」
「それがイェズラムの命令だからか」
スィグルが繰り返し聞くと、ギリスは混乱した顔をした。なぜ何度も聞かれるのか、分からなくなってきたのだろう。
「ギリス。僕はお前のこと、なんにも知らない。イェズラムのことも」
スィグルは歩きながら、今、自分の唯一の味方だという英雄を見上げた。
「族長の戴冠は、この部族のみんなの運命を変える出来事だ。さっき父上がおっしゃっていたように、僕はもっとよく考えよう、自分がどうするべきか。僕がただ生きたいがために冠を求めるのでは、玉座には座れないんだ」
「族長がさっきそんなこと言ったか?」
ギリスはまた不可解そうな顔をしていた。
それを見て、スィグルは少し呆然とした。
こいつはさっきも僕の横で話を聞いていたはずだけど、実は何も聞いていなかったのか。食っていただけで。
あんなところに僕を連れていっておいて、話も聞かずに、ただご馳走を食っていたのか。
そう思うと、スィグルは震えた。とんでもないことだ。
それを玉座の間にいた全員が見たのだ。僕の兄弟も、その取り巻きも、後宮の母親たちも。
あれは宣戦布告だった。自分はもう、その矢を放った後なのだ。
いつかはそうするつもりだったとはいえ、こんななし崩しに始めるつもりはなかった。
では、どんなつもりだったのかと言えば、無策だったのだが。
臆病者のスィグル・レイラスには実は、そんな勇気はいつまでもなかったのかもしれない。
恐れを知らない、この馬鹿のお陰で、僕は玉座の間に引き出されたんだ。ほとんど怖がる間もなく。
そう思うと急に可笑しさが込み上げてきて、スィグルは低く堪えた声で笑った。
ギリスは不思議がる目でこちらを見ていた。
どうやらこの馬鹿と、臆病者とで、助け合って行くしかなさそうだ。
他に味方らしい味方もいない。それが孤軍よりましなのかも、さっぱり分からない。
イェズラムがなぜ、こんな奴に射手になれと言ったのかも。
何もかもが分からないなりに、もう始めてしまったことだけは明らかだった。
「なんで笑ってるんだよ。やっぱりおかしいのか、お前」
気味が悪そうにギリスに言われ、スィグルは心外だった。お前に言われたくない。
「まあ、まずは自己紹介の続きを聞くよ、エル・ギリス。今日はもう遅いから、明日から追々。それでいいだろ?」
そう頼むと、ギリスは顔を顰めて不満そうだった。
しかしもう、スィグルの居室の扉が見えていた。扉の前に衛兵が二人。
ここでギリスと別れてもいいと、スィグルは思った。
もう部屋は目の前だ。
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018 襲撃
戻ってきた主人を見て、宮廷用の槍を持っていた衛兵が槍を上げ儀仗礼をした。それはスィグルを迎え入れるための一礼で、いつものことだった。
「見送りはもういいよ、ギリス。もう遅いし、お前も帰って寝たら」
ギリスも眠いものだと思い、スィグルは労ったつもりだった。
しかしギリスは首を横に振り、まだスィグルの先に立ったまま歩いた。
「まだ用がある」
ギリスはそう言い、儀仗礼の衛兵の前まで行って歩みを止めた。
「お前ら、所属は」
ギリスは自分よりも背の高い衛兵二人に、胸を張って聞いた。
衛兵は宮廷に仕える者たちで、軍に所属していない。こう見えて官僚なのだ。
武官である彼らは宮廷での階級を持っていた。
「緑二階であります」
「なんでだ。王族の警備は紅以上の者が務めるはずだ」
ギリスの声はのんびりと聞こえたような気がした。
そういえば、この扉の衛兵はいつも、鎧に緑色の徽章を付けている。その色が彼らの所属を表していたのだろう。
なるほど、とスィグルが思った矢先、ギリスが舞踊のようにくるりと身を翻し、晩餐用の礼装の靴の踵で、緑の衛兵の顎を振り向きざまに蹴り上げた。
短い呻きを上げ、片方の衛兵が昏倒し、それを見ていたもう片方の衛兵が、儀仗礼のままぎょっとしていた。
それが槍を構え直すより早く、ギリスがまたくるりと回旋して、衛兵の膝を蹴り払った。
鎧を鳴らして倒れた兵の首を、唖然とするスィグルの見ている前でギリスが締めた。
華麗な刺繍のある礼装の腕を首にかけ、もう片方の腕で自分の手を掴んで締め上げる。
衛兵の足がばたばたと暴れたが、それも僅かの間で、兵は自分より小柄なギリスに抵抗できなかった。
「やめろ‼︎」
スィグルがやっと声を出せたのは、衛兵がぐったりと無抵抗になった瞬間だった。
その時やっと、スィグルはどっと冷や汗をかいた。王族の衣装の中で。
この服装では走って逃げることもできない。そう思ったが、スィグルは咄嗟に廊下をはさんだ向かいの壁に後退り、力なく横たわる衛兵を廊下に打ち捨て立ち上がるギリスと向き合った。
「どういうつもりだ」
怒鳴る声で言い、スィグルは魔法の使い方を思い出そうとした。
念動が使える。ギリスの氷結術には敵わないだろうが、ギリスを突き飛ばす程度の力はあるはずだ。
それでも魔法戦闘には集中力がいる。
急な出来事に自分が情けないほど動揺しているのをスィグルは感じた。
殺さないと。
そう思ったが、なぜか力が出なかった。
どうもギリスが好きだったらしい。
何かの間違いだと、心のどこかで思った。殺したくない。
唯一の味方だったんじゃなかったのか。
そう思って見つめたギリスは、ひどく冷たい目で見返してきて、そんな感情など一欠片もないように見えた。
魔法戦士だ。早く殺さないと……。
そう決めて睨むスィグルの視線から、ギリスは平気で目を逸らした。
彼が衛兵のいない扉に手をかけ、押し開くのをスィグルは見た。
なぜそっちへ行くのか、スィグルには分からず、ギリスが礼装用の剣を抜くのを呆然と見た。
魔法戦士は武装している。剣は細身で華奢な宝剣ではあるが、ギリスが抜いた剣には刃があった。
「やめろ‼︎」
部屋に入っていくギリスの早足を追おうとして、スィグルは自分の足がまともに動かないのを感じた。
一人目の兵が蹴り倒されるのを見てから、どうも腰が抜けそうだった。
でもギリスを追わないとと、感覚の薄くなった足で自分の部屋に走ると、盛大な女たちの悲鳴が聞こえた。
その声に頭が痺れるような恐怖が湧き、スィグルは立ちすくんだが、立ち止まっている場合ではない。
宝剣を抜き、スィグルは後を追った。
ギリスは侍女たちがいる控えの小間の扉の前にいた。
そこは通りの間になっており、侍女だけが通る通路にも出口がある。そこを通って女たちは食事や衣装を運んでくるのだ。
ギリスはそれを知っていたらしい。
最初に謁見に来た時に中を見ていたのだろう。
「逃げろ、女ども」
抜き身の剣で扉を開き、そう言うギリスと向き合う侍女は数人いた。
皆、腰を抜かして青ざめていたが、慌てたように胸元を探り、震える手で次々に懐剣を抜いた。
その光景に見覚えがあり、スィグルはぞっとした。
いつか、これと同じものを見た。
元服の旅の行列が襲われた時。
侍女たちが懐剣を抜き、母と自分たち兄弟を守ろうとしたが、戦った者は死んだ。
「やめろ‼︎ 抵抗するな。早く逃げろ」
戦うしかないんだ。
スィグルは覚悟を決めた。
かと言って剣術に覚えはなかった。
いくらか習いはしたが、どうも得意とは言えない。せめて弓があればと思えたが、祖父から貰った立派な弓矢は、離れた壁に豪華な装飾具とともに飾られていた。
「俺と戦ったら一撃目で死ぬぞ、スィグル」
剣を構えもせず、ギリスはそう伝えてきた。
では念動しかない。
そう決めたとき、思いがけず甲高い声がして、懐剣を構えた侍女がひとり、ギリスにぶつかって行こうとした。
その顔に見覚えがあった。
晩餐にいつまでも呼ばれないスィグルに、食事を持ってくるか聞きにきた女だ。
ギリスはその足を簡単に払って避け、女はそのまま小間から転がり出てきた。スィグルの足元に。
「お逃げください殿下」
青ざめた侍女の決死の顔に、スィグルは衝撃を受けた。
なんの義理で助けてくれるんだ、この女は。そんな恩義もかけた覚えはない。名前も知らない相手だ。
「馬鹿、お前が逃げろ。居ても居なくても同じだ」
スィグルは咄嗟にそう叱責したが、何が可笑しかったのか、ギリスが急に笑った。声を上げて。
「そうだろ? 俺もそう思うよ、スィグル。同感だ」
小間にはまだ懐剣を構え泣いている侍女が数人いたが、襲ってくる気配はなかった。
ギリスはそれに背を向けて、抜き身の剣を提げた手で、スィグルの方を指して言った。
「その女が仮に俺に向かってくるとするだろ、そしてお前が逃げても、俺は女を斬ってすぐ追いつく。なんで来た。さっきなら逃げられただろ?」
「何をする気だ」
「お前の弟を殺る」
そう言うギリスに、結われた髪が逆立つような感覚がした。
なぜ。そう思うが、やはりとも思った。
なぜかは分からないが、スィグルを追わず部屋に入るのには、他に理由がない。
「邪魔だろ。居ても居なくても同じだ。さっさと一人減らそう、お前の敵を」
「おやめください‼︎ 殿下はご病気です。兄上様のお邪魔はなさいません」
悲痛な声で、床の侍女が叫び、スィグルを驚かせた。
彼女は血の気のない紙のような顔色で、スィグルを見上げた。
女たちがなぜ自分を恐れていたのか、スィグルはやっと察した。
スフィルだ。
この女たちは、自分にではなく、スフィルに仕えていたのだ。
この二年、ここで弟を生かしていたのはこいつらだ。
自分の部屋だと思っていたこの居室は、実は弟の部屋で、自分はこの王宮で宿無しだった。
バン、と鋭く弾ける音がして、ギリスのいる扉の側に矢が突き立つのを見た。
スィグルは呆然とした。
誰が射ているのか。
振り返って、スィグルは見た。弟が立っているのを。
「兄上」
震えながら弓を引き絞っているスフィルが、青ざめて息ができないという顔をしていた。
居間の入り口に立っている弟は白い夜着のままで、怖いほど痩せていた。
よくその腕で弓弦を引けたものだ。
そういえば弟は小さい時から弓が上手かった。たぶん、僕より。
でももう弟が弓を引くことはないんだと思っていた。
「スフィル」
驚いて、スィグルは弟の名を呼んだ。
恐ろしかったのか、スフィルは気が遠くなったような顔で、弓矢を持ったまま床に座り込んだ。
スィグルは思わずそれに走り寄った。
ギリスがどうするかなど、考えていなかった。
「スフィル」
痩せて骨張った弟を抱きしめて、スィグルは自分も床に膝を折った。
勝てるわけは無いのだと思った。
相手は魔法戦士だ。守護生物を一人で倒せるとギリスは言っていた。
あいつが本気なら、何度でも僕を殺せる。
「その弟、本当におかしいのか。噂ほどイカれてないように見える」
「本当に病気だ。本当だ」
スフィルはもう青ざめてがたがた震えるだけだった。息も切れ切れだ。弟が気絶するのではないかとスィグルは思った。恐怖の発作で、以前は時々そうなったからだ。
「本当だ。殺さなくていい。スフィルは敵じゃない。弟なんだ、僕の」
弟の震えが移ったように、自分も震えているのをスィグルは感じた。
戦わないと。スフィルが殺される。自分も殺されるのかもしれなかった。
生きないと。生きないと。弟とふたり。必ず生きて、帰らないと。
混乱してきた頭で、スィグルはゆっくりとそう思った。
いいや……ここはタンジールだ。しっかりしないと。
「もうやめてよ」
ギリスに頼んだ自分の声が、まるで懇願するようだったので、スィグルはがっかりした。
なぜもっと勇敢な血を持って生まれなかったのだろう。父上みたいに。
「お前がどうやって生きて帰ったのか不思議だ。敵に阿って生かしてもらったんだって思ってるやつもいる。森でシャンタル・メイヨウの足でも舐めたか、スィグル」
「そんなことしてない」
森の族長には会ったこともない。どうやってそんなことができるだろうか。
「そう言う奴もいるんだ。ジェレフはお前が戦いには向いてないと言ってる。それがどういう意味か分かるか」
「臆病だってことだろ」
スィグルは吐き捨てるように言った。震える弟にはもう意識がなく、それでも痙攣するように震える手に、スフィルはまだ弓を握っていた。
貸してくれよ、スフィル。ちょっとだけ。昔はお前の弓を隠してからかって、悪かったよ。今だけ、もう一度だけ、その弓を貸してくれ。
「お前が、怖いと震えるってジェレフが言うんだ。今もそうだろ。震えてるよな。お前が族長になったら、玉座で震えるのか? そういうやつは玉座には向いてない。お前には荷が重すぎる。お前もそう思うか」
ギリスの話を聞きながら、スィグルは抱き合った弟の弓を握る指を一本ずつ開いた。
ギリスはそれに気づくだろうか。気づかないといい。そう祈るしかなかった。
「お前の親父が、お前ぐらいの歳まで、字が読めなかったって知ってるか」
ギリスが急に言うので、スィグルはびっくりした。
「そんなわけないだろ」
「いや本当だ。イェズラムが言ってた。お前の親父は王族としての教育は受けてない。母后が後宮での争いごとに負けたんだ。お前と同じだよ。族長は自分の部屋もなかったし、読み書きもできなかった。玉座の間に席もなかった。それでも今は玉座に座ってる」
「そんなわけ……」
知らない話をされて、スィグルは動揺した。でっちあげにしては、あまりに酷い話だ。
スフィルが取り落とした矢が一本だけ、床に落ちていた。それはギリスからも見えているはずだ。
それを拾ったら、すぐに射なければならない。
だんだん力を失ったスフィルの手が、やっと弓を渡してくれた。
「なんで族長が玉座に座れたか、知ってるか」
ギリスは何かを知っているという顔で、小間の戸口からこっちを見ていた。
まだ抜き身の剣を握ってはいるが、構えてはおらず、開いた扉に背を預け、くつろいだ様子だった。
飛ぶ矢にとっては、ギリスの立っている戸口はすぐそこだ。この距離で射れば、絶対に外さない自信がスィグルにはあった。
心臓に一矢。それで勝てる。
「皆、知ってることだ。イェズラムが、不戦のシェラジムを口説いたんだ。お前の爺さんにリューズ・スィノニムを指名するように。族長はああ言うけど、本当なら族長になるはずだった族長の兄を殺ったのはイェズラムだ。アズレル・レイナル・アンフィバロウ。イェズラムの新星だった殿下だよ」
「嘘だ」
スィグルはその名の人物が系図にいたのは知っている。他ならぬ自分の一族の者だ。
だが、その人物は継承指名には参加していない。首に絹布を巻かれていない骨が墓所にある。
「本当だって。そいつがずっと、お前の親父を王宮で虐めてたのさ。飯も食わさず廊下で寝させて、読み書きも教えなかった。なぜか分かるか」
「母親が……弱かったからだろ」
王子たちの力関係は、幼いうちには後宮にいる母親の権勢で決まるのだ。実質的にそうだった。
彼女らと、その背後にある血筋の者たちの力が、王子たちの継承争いを支えている。
「いいや。弱い奴は虐められない。そんな必要ないんだ」
ギリスの話に、スィグルは顔を顰めた。そうだろうか。僕は十分、酷い目にあってる。
「王宮でやられるのは、邪魔な奴だよ。アズレル・レイナル殿下は将棋が好きだったらしい。強かった。でも、弟には一度も勝ったことがなかった。お前の親父は餓鬼の頃から一度も、誰にも将棋で負けたことがないんだ。一回もだぞ。今でも族長は不敗だ。イェズラムはそれを見て、お前の親父を即位させることにした」
「何が言いたい」
「お前に、そういうものがあるか、スィグル」
ギリスの質問に、スィグルはため息をついた。
「ないね。悪いけど。そんなものはないよ」
「これから作れ。怖かったら震えてもいい。俺が守る。でも、族長になるのはお前だ。お前が新星なんだっていう、証がいる」
ギリスが何を言っているのが、スィグルには分かりかねた。
そんなことは、今はどうでもいい。
スィグルは矢を拾った。
それをギリスも見ていたはずだ。
それでもギリスはただ扉に凭れて立っているだけだった。
スィグルは立ち上がって、弓に矢をつがえた。弓弦を引き絞り、ギリスの心臓を狙って躊躇なく放った。そのつもりだった。
だがギリスは宝剣で簡単そうに矢を払った。
そんなことができるとは、スィグルは考えてもみなかった。
矢は一本しかない。
壁にかけられた箙の矢を取りに走るか。それをギリスが許すだろうか。
そう迷った時、床に伏していた侍女が急に立ち上がって、懐剣をギリスに向けて走り寄っていった。
女は斬られると思った。ギリスは剣を持っていたし、侍女の動きはスィグルの目にも、ずいぶん遅かったからだ。
それでもギリスは刺された。平然と。
体当たりするように突進した侍女の懐剣がギリスの脇腹に突き立ち、侍女は驚いた顔で英雄を見上げた。
うまくいくとは、侍女も思っていなかったらしい。
ギリスは自分を刺した女を、何事もなかったように、じっと見つめていた。
「お前は合格だな。でも場所がまずい。刺すなら肋骨は避けろ。致命傷にならない」
侍女の握る懐剣から血が滴っていたが、ギリスは平然としていた。
まるで死霊でも刺したようだった。痛がる様子もない。
「スィグル。この部屋は引っ越そう。これじゃお前を守れない。もっと腕の立つ衛兵もいるし、侍女にも武術の手練れを置きたい」
懐剣が突き立ったまま、ギリスは嘆かわしそうに言った。
「その弟はどうするんだ」
床で丸くなって気絶しているスフィルを宝剣で示して、ギリスは聞いた。
「弱すぎるんだよ。お前は」
困ったようにギリスは言った。
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019 治癒者
とんとんと扉を叩くと、しばらく返事はなかった。
相手は中にいないのかもしれない。眠っているのかも。それでもギリスは辛抱強く待った。
個人房の扉には、外を見るための覗き窓がある。そこから小さな光が漏れるのが見え、すぐに消えた。
いるんじゃないかと、ギリスは安心した。
それでも中々扉は開かず、相手が嫌がっているのが感じられて、ギリスは扉の横の壁に腕で凭れ、注意深く待った。
壁を汚すと怒られるだろうと思い、血のついた手では触れないようにした。
脇腹の傷からは血が流れている。そう深傷でもないが、礼装の長衣が白っぽいせいか、やけに血が目立った。
扉が開き、夜着の上に袖を通していない長衣を纏ったジェレフが、既に怒った顔で立っていた。
「どういうつもりだ」
「邪魔した?」
「いいや」
長身のジェレフは嫌そうな伏目で、ギリスの血のついた脇腹を見下ろしてきた。
いつも身なりは整えている男だが、もう寝るつもりだったのか、髪はもう結っておらず垂髪で、珍しいなとギリスは思った。
「施療院に行きたくないんで、診てくれない?」
「ふざけるな」
ジェレフは眉間に皺を寄せ、腕組みして言った。
それでも扉は閉じずに、部屋の中に戻っていった。
入っていいということだろう。
扉を汚さないよう気をつけながら閉じ、ギリスは中に入った。
ジェレフの部屋も恐ろしく質素だ。派閥の兄だし、初めて来た訳ではないが、以前にも増して質素になった気がする。
飾り気のない、必要最低限の調度が置かれ、施療院ほどではないが、壁の装飾も地味な色合いで、いかにも静かな部屋だった。
長く留守だったのもあるのだろう。ジェレフは王都を出る時には、いつ死んでもいいように部屋を片付けていく。次に入る者のためということだろう。
その、あっさりとしたところが、魔法戦士らしいとギリスは思っていた。
兄弟たちの中にも、実際にはいろいろいて、王侯貴族なみの待遇の暮らしを満喫する者もいた。過酷な境遇の埋め合わせとして、ここでは贅沢ができる。特に尊い血筋でもないのに、食うにも着るにも、不自由がないという以上のものが望めた。
でも、ジェレフはそういうことには興味がないのだ。
誰に聞いてもジェレフは良い奴だと言った。誰の敵でもない。それも王宮では稀な事だ。
「座れ」
明らかに怒っている声で、ジェレフが寝台の側の背もたれのない椅子を示した。
「何でやられた」
「侍女の懐剣で」
「何をやってるんだ、お前は。玉座の間で遊んでるのか。まだ餓鬼のくせに」
ジェレフは忌々しそうに言って、部屋の奥から治療道具の入っている箱を取ってきた。
女と揉めて刺されたと思われたらしい。
晩餐の終わった夜の玉座の間では、政治的な調略を行う者も中にはいるが、一夜の恋の相手を求めて戯れる者もいる。英雄たちは忙しいのだ。
皆、そこで適当な相手を見つけて個人房にしけ込む。広間は派閥や所属を超えて人が混ざり合う場所だ。
貴人に仕える上級の女官もいるし、日頃は別々の派閥の部屋に屯している女英雄もいる。
ギリスもそういう年頃と思われたのだろう。
ジェレフがそう思うなら、それでもいいが。
「まったくエル・イェズラムが聞いたらなんと言うか。懐剣を振り回さない、まともな相手と付き合え」
怒っているのは自分のくせに、ジェレフはいかにも嘆かわしそうに言った。
そりゃあジェレフは懐剣を振り回さない相手を大勢知っているのだろうが、余計なお世話だった。
今夜も兄が一人でいるとは、ギリスは思っていなかった。ジェレフは巡察から王都に戻ったばかりだし、それでなくても、誰も彼もにいつもモテる。
しかし今日は食いっぱぐれたか。珍しいこともあるものだった。
「イェズは死んだし、もう俺に何も言わないよ」
「馬鹿」
身も蓋もない返事で、兄は怒っているようだった。
「治癒術は使わないからな。お前にくれてやる命はないぞ。傷が浅ければ自分で治すんだ」
そう言ってからジェレフはギリスの礼装の帯を解き、血のついたほうの脇腹を見るために長衣の片肌を脱がせた。礼装用の肌着にべったりと血がついている。
もう半ば固まりかけている血で張り付いた絹の肌着を、ジェレフはそうっと捲ったが、途中で気づいたようだった。
傷にくっついた布地を剥がしても、ギリスが痛くないのだということを。
それからは兄は容赦無くばりっと剥いだ。
痛くなかった。
それでも、寒かったせいか、体がぞわっとした。
出血したのだから、体は疲れているのだろう。痛くないからといって、不死でも無敵でもない。
「馬鹿だな、ほんとにお前は。なんで避けないんだよ」
刺された傷が兄の期待より深かったらしい。ジェレフは傷口を指さして怒っていた。
「今だったらジェレフがいるし、まあいいかと思って」
「殺すぞ」
きっぱりとジェレフは言った。
それでも、盥に水を汲んできて、亜麻布を浸し、それでギリスの傷口をそうっと拭いた。
相手が王族なら猫撫で声で話すくせに、ジェレフは同輩には案外口が悪いのだ。
こっちがジェレフの本性だとギリスは思っていた。
患者や女官にはにこにこと愛想がいいが、派閥の部屋で飲む時には、兄は身も蓋もない。
他の荒っぽい武闘派の兄たちと何も変わらないのだ。
「治してくれるの」
「施療院に行かないんだろ。縫わないといけない傷だ」
「縫ってよ」
「面倒くさい」
憎々しげに言って、ジェレフは生温い手でギリスの脇腹に触れてきた。傷のあるところを手で覆い、兄は細いため息のようなものを吐いたが、その一息をつく一瞬のことだった。
ジェレフが手をどけると、傷が塞がっていた。
「すごいね」
いつもながら、ジェレフの治癒術はまさに魔法と言えた。怪我をしたのが記憶違いだったように、傷が綺麗に消えている。
「もう二度とするな」
何度聞いたか分からないような説教だった。ギリスは曖昧に頷いておいた。
どうせまた怪我はするのだが、ジェレフにそう言うとキレられる。
「あの後、エレンディラと何か話した?」
「話すわけないだろ。女部屋の長だぞ」
「ジェレフ、女好きだろ」
ギリスが悪気なく言うと、ジェレフは吹き出すように噎せた。
「話してくれりゃあいいのに。スィグルの帰還式をやるんだし。相談しといてよ」
「俺はすぐ王都からいなくなる。手伝えない」
「なんでだよ」
当てが外れて、ギリスは口を尖らせた。
派閥の兄たちの中では、ジェレフは話しやすいほうだった。
あからさまにギリスを嫌っている者も少なくなかったが、ジェレフはいつも優しかったからだ。
この男は誰にでも優しいだけだが、そのせいで顔が広い。ジェレフが頼めば、ギリスが直に言うより、力を貸してくれる者も多いだろう。
「人を集めないといけないんだけど」
「まあな」
ジェレフは分かっている顔で、頷いていた。
「前はイェズラムがいたから、簡単だっただろう」
スィグルの出立式のことを、ギリスも憶えていた。王都を発って異郷の地、トルレッキオに赴く殿下を、皆が玉座の間で見送り、多くの儀仗兵と、華麗に着飾った魔法戦士の隊列が都市の出口まで送り出し、都市内部でも行列を見に、多くの市民が集まっていた。
人質に送られる殿下を見たいのもあったが、行列を先導するエル・イェズラムや、それに付き従う英雄たちの群れを見たくて来た者も少なくなかった。
部族では、特に戦功のない王族より、歴戦の魔法戦士のほうに民の信頼が集まりやすい。
それもそのはずだ。実際に戦場で民を守って戦っているのが誰かを、民はよく知っている。
「今回は? まさかエレンディラが妹どもを送り込んでくるつもりかな」
「それは別の意味で壮麗な行列だな」
寝台に座り、兄は寛いで言った。
「それで良いわけない。殿下を女どもに盗られてしまうぞ」
ギリスは小声で言った。
「皆、行かないと言ってる」
ジェレフも小声で答えた。
ギリスは顔を顰めた。
なんだよ。知らん顔してんのかと思ったら、もう派閥に声かけたのかと、ギリスは感心した。ジェレフは仕事が早い。やるとなったらやる男なのに、やる気がないのだ。
ギリスが属する派閥は、エル・イェズラムが長を務めていたもので、そこに群れ集う英雄は男ばかりだった。英雄に性別はないというのは王宮の建前で、女英雄は女だけの部屋に集まり、こちらはと言えば男ばかりだ。
それが混じり合うのは夜の玉座の間でだけで、日中はお互いに口もきかない。いがみ合っていることさえある。派閥の部屋がある区画さえ遠いのだ。
もし、新星スィグル・レイラスが女英雄どもの手に落ちたら、容易には近づけなくなる。
腕っ節は弱くとも、あいつらは魔法においては何ら変わらない。それに王宮では剣を振り回して殴り合うわけではないのだ。暗躍がものを言う。
エレンディラが長老会の首席に座ったことを見れば、それは明らかだ。
「なんでだよ」
「そりゃ仕方ないだろう。大喜びで推したいような殿下じゃないんだ。皆にとっては」
「ジェレフは」
ギリスが尋ねると、ジェレフはひどく重たいため息をついた。
「俺がどう思うかは問題じゃない。派閥の決定には従うしかないだろう」
「ジェレフは狙わないんだ。派閥の長の座は」
忌々しい気持ちでギリスは尋ねた。
イェズラム亡き後の派閥を誰が率いるかは確定していない。力のある者が自然とその座につくが、あいにくイェズラムがあまりにも強すぎた。その後を襲おうとしていた者が誰もおらず、イェズラムが優秀な駒をそろえていたものの、誰もが似たり寄ったりだった。
ジェレフもそうだ。馬鹿でもないくせに、野心がない。イェズラムに仕えた、忠誠心しかないような奴だ。
そんな案の定のことを兄はギリスに答えた。
「俺がそんな玉か。見りゃわかるだろ。俺は治癒者だ。派閥では代々、長は先鋒を率いる。何で俺が先頭を走るんだよ」
ジェレフが言っているのは戦場での話だ。もっともな反論だが、ギリスが言いたいのは、王宮での先鋒の話だ。
実際、治癒者が派閥を率いた実例がない訳ではない。
悪名高き、暗君の時代の支配者、不戦のシェラジムも派閥の長だった。
今はもう存在していない、治癒者だけの派閥を率いていた。
彼らは戦場でも、英雄たちの生殺与奪を握り、誰を癒し、誰を見捨てるかを選り分けていた。大きな力だったが、それゆえに憎まれたのだ。
ジェレフが長に据われば、皆、治癒者シェラジムを思い出すだろうか?
ジェレフは族長の信任も篤く、それを有力派閥の長として横に侍らせたリューズ・スィノニムを見たら、皆は嫌な気分になるのだろうか。あの時代の再来かと。
ギリスには分かりかねたが、子供時代にその当時を知っているジェレフが、そう思っていることは間違いなかった。兄は子供の頃に施療院で、タンジール陥落に備えて市民に配る毒を調合する手伝いをしたらしい。皆で心中するために。
それが兄にとっての、暗君と治癒者が支配した時代だ。
おそらく、それがジェレフが長老会に一度も呼ばれなかった理由でもある。
「けど皆、不戦のシェラジムは嫌いでも、ジェレフは好きだぜ」
ギリスが教えると、ジェレフは難しい顔だった。
「お前らに愛されて俺は幸せだよ」
そうは思っていなさそうな顔でジェレフが悪態をついた。
たぶん冗談なのだろうと思ったが、ギリスにはよく分からなかった。
「皆の気を変えさせるような何かが、スィグルにあればいいが。短期間では無理だ」
「親父と将棋でもさせてみる?」
ギリスが言うと、ジェレフは寝台に寝そべって、ふふふと皮肉に笑った。
「たぶん負けるし、万が一勝ったら反感を買う」
「誰の?」
「皆のだ。お前にはわからんのだろうけど、族長は特別なお方なんだ。俺たちにとっては。常勝無敗の名君なんだ」
「へぇ」
本気で言ってるらしいジェレフに、ギリスは少し面白くなって、にやにやした。
「皆、イカレてる」
「イカレてないお前がおかしいんだ」
ジェレフが寝台から椅子を蹴ってきた。
ジェレフが族長にイカレてるのは間違いない。
少年時代から側仕えの治癒者として信頼も篤く、族長が当代の奇跡と褒め称える英雄だ。治癒者嫌いとはいえ、リューズ・スィノニムはジェレフには旨みのある族長なのだ。
それを別にしても、ジェレフは単に族長を崇拝している。当代の星として。それが魔法戦士の忠誠というものだった。
族長は皆に多くの英雄譚を与えた。煌びやかな詩と、それが歌う、生きる意味を。
しかしギリスの新星スィグル・レイラスがトルレッキオから持ち帰ったのは、戦いの終わりを命じる天使の命令書だった。
あいつは、白羽の紋章がついた紙切れ一枚で、英雄たちの時代を終わらせたのだ。
「長期戦を覚悟しろ。今、急に、スィグルが頭ひとつ群を抜いたら、何が起きるかわからん。族長冠の継承はまだずっと先なんだ。殿下を守って盛り立てていける後見もなしに、名声だけ高めたら、身の危険がある。無害だと思われているほうが安全だ」
「もう玉座の間で一発やっちまった後だけど」
ギリスがにっこりして言うと、兄はまたギリスの膝を蹴ってきた。
「馬鹿野郎。エル・エレンディラも呆れていたぞ」
そう言われても、 驚いてひっくり返る王族を見たのは、ギリスにはいい気分だった。
貴重な種馬だ。殺すわけにはいかないが、それでも別に全部でなくていい。
金と宝石しかない大広間でちまちま争いやがって、くだらねえとギリスは思っていた。
いつでも殺せる。あれが輝く星でないのなら、なぜ命を削って守ってやらねばならないのか。
「エレンディラおばちゃんもビビったから、あの場で咄嗟に力を貸してくれたんだろ」
「まあな」
ジェレフは腹立たしそうに言い、寝台の枕元にあった煙草盆に手を伸ばして、煙管を取った。
それにはもう葉が詰めてあり、ジェレフは寝台に寝そべったまま、煙草盆の火口に火種を吸いにいった。
はぁ、と淡いため息のような微かな音がして、ジェレフが煙を吐くのを、ギリスは見つめた。
「頭痛いの、ジェレフ」
「いいや」
「じゃ吸うなよ」
ギリスが言うと、ジェレフは低く籠った笑い声をたてた。
「長生きしてよ、ジェレフ」
「嫌なこった。紫煙蝶はじきに効かなくなる。俺は痛いのは嫌いだ。さっさと逝く」
「紫煙蝶よりいいのが施療院にあるだろ」
当代が全土に禁令を発し、英雄たちにも麻薬の使用を制限している。
どの薬を使ってもよいか、それを決めたのはジェレフだ。
まだ大人とは言えない年齢の、稀な秀才だったこいつに、英雄たちの品位を保てる範囲の鎮痛薬を族長が選ばせた。
英雄はかくあるべしと、ジェレフは選んだのだろう。まだ石の症状の軽かった、少年時代の頭で。
薬が切れれば英雄たちは死ぬしかない。族長はそれを知っていただろう。英雄イェズラムに育てられたのだから。
それまでに殺す。そうなるまで生きてはいないのだから安心しろと、あの綺麗な男は皆に言っているのに、なぜ誰も気づかなかったのか。
戦時だった。鎮痛する暇もなく、皆、苦悶して戦い、すぐに死せる英雄になったのだ。そういう時代だった。
ジェレフも思ったのだろう。それが英雄の本懐だと。どうせ死ぬなら、せめて品位を保ちたい。
「あとに残っているのは、気が狂うような薬だけだ。戦えないんじゃ意味がない」
ジェレフはそれが嫌なように言っている。
「今だってイカレてんじゃん」
ギリスが悪気なく言うと、ジェレフは心外そうな顔をして、何を言いたいのか自分を指差して、しばらくあんぐりとしていたが、結局なにも言わなかった。
「用が済んだなら、さっさと帰って寝ろ」
ジェレフは諦めたように、先輩風を吹かせて言ってきた。
「それが、もうひとつ相談があるんだけどさ」
言おうかどうしようか悩んで、ギリスは結局言った。他に相談できそうな者の心当たりがなかったので。
ジェレフは寝台に寝そべったまま、不愉快そうにこちらを見ていた。
うるさい帰れとは、ジェレフは言わなかった。なら話していいのだろうと思い、ギリスは打ち明けた。
「俺、スィグルと喧嘩しちゃった」
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020 死霊
「喧嘩?」
ジェレフは盛大に顔を顰めて、ギリスの血塗れの肌着を見ていた。
そこにはもう傷がない。ジェレフが治した。
それでもジェレフが消えた傷口と、この相談事を結びつけたのは、透視術でジェレフの頭の中を見なくてもギリスにはわかった。
察しのいい兄だ。治癒者としてはジェレフは確かに当代の奇跡かもしれないが、ただの治癒者にしておくのは惜しい。打てば響く男だ。
長老会がなぜジェレフをあの鈍色の部屋に招き入れなかったのか、ギリスには分からなかった。
「何があった」
起き上がってギリスの腕を掴み、ジェレフは聞いてきた。
ギリスは何から話そうかと思案して、考える時間を作るためにのんびりと自分の長衣を着付けた。
イェズラムが誂えてくれた大事な礼服だったが、あの侍女のせいで穴が空いてしまった。王宮の針子に頼めば、元通りに直してくれるだろうか。
結局、そんな他所ごとに気が散って、何をどう話すか考えていないまま、ギリスは口を開いた。
「あいつが引っ越すのが嫌だって言うから、もっといい部屋に移れって説得したかったんだ」
ギリスが要点を言うと、ジェレフは真剣味のある顔で頷いた。
ジェレフもそう思うらしい。誰だって思う。あの部屋は王族の子供たちが住むもので、もうほとんどが空き部屋だ。
族長リューズは後宮に入れた女たちの人数分の男子を挙げると、それで満足したらしく、もう熱心に子作りしていない。あとは出遅れた末の何人かが元服を待っているだけで、幼年の王子たちが王宮に犇く時代は終わろうとしていた。
族長のことは嫌いだが、ギリスはあの男の合理性は買っていた。
王子たちの年齢がほぼ同じならば、年齢で差がつくことがない。継承権を持つほぼ全員が同時期に成人し、同時期に子を成すだろう。それによって皆は同じ条件で新しい星を選ぶことができる。
ある者には既に孫がいて、ある者はまだ幼児だというのでは、どれが玉座に相応しい星かわからず、実は稀代の名君であるべきものが、まだ幼少であるせいで、その光輝を示す機会もなく葬られるかもしれない。
もちろん、多少の取りこぼしはあるだろうが、王子は十七人もいる。もういいだろう。
そう思う気持ちも分かった。
だが、それなら、スィグルだけが不当に不利なのはいただけない。不公平だ。ギリスはそう思っていた。
同じ条件で競わせるから、この勝負には意味がある。そうではないのか。
「何をした」
ジェレフは長い付き合いのせいか、さすがに聞くところを心得ていた。
それが面白くて、ギリスは思わず笑っていた。
「ちょっとビビらせただけだよ。そしたら、あいつ、本気で怒りやがって」
ギリスは自分の左頬を撫でて、ジェレフの呆れた目と見つめ合った。
「殴ったのか。スィグルが?」
ジェレフがギリスの頬を見て、あんぐりとしていた。
触った感触では、頬は片側だけ少々腫れていた。笑うと引き攣るのでそれが分かる。
「聞きたくないが、お前が何をしたか具体的に言ってくれ、ギリス」
ジェレフはもう緊迫の表情だった。
そんな大したことでもないのに、まるでこれから敵陣に突っ込むみたいな顔だ。
「衛兵を二人気絶させて、それから侍女をビビらせただけだよ。あいつには何もしてない。触ってもないよ」
「当たり前だ。太祖アンフィバロウの末裔だぞ。もし何かしたらお前は地獄に落ちる」
ジェレフは真顔でそう言った。地獄などというものが実際にあるのか、ギリスは知らなかった。まだ死んだことがないし、死んで戻ってきた者もいない。
子供の頃から繰り返し聞かされたその話に、嫌な気がしたが、恐ろしいという気はしなかった。
ただ、そこには良い英雄は落ちないのだ。部族に尽くして英雄譚を得たものは、そこには行かない。
ギリスはもう英雄譚に詠まれたので、大丈夫だろうと思えたが、イェズラムはもちろん、そんな地獄には落ちていないはずだ。
ギリスは死後には養父と同じところに逝きたかった。
それがもし迷信でも、もし本当だったら困る。そんな愚は犯せないと思っていた。
ギリスは部族の伝承にある、死後に行くという楽園の船に乗りたかったのだ。月と星の船に。
そこではもう、石に苦しめられることもなく、兄たちは皆、生きていて、何でも好きなことができる。それが何かは、ギリスにはまだ分からなかったが。
「でも、でも、族長位の継承では、王子を殺すだろう。絹布で首を絞める。それをやる奴はどうなるんだよ」
ギリスは心配になって聞いた。
「大丈夫だ、それは。聖務だから。今は関係ないだろ」
ジェレフはムッとした顔で答えた。
「じゃあ俺のだって聖務だ。新星を昇らせるための仕事だ」
ギリスは顔を顰めて言った。
なんでそれが、あいつには分からないんだよ。
ジェレフは一瞬、不可解そうにそれを聞いていたが、次の瞬間、兄が青ざめて寝台から立ち上がるのをギリスは見た。
「何をしたか早く言え」
怒った顔をして、ジェレフが聞いてきた。
「俺、別に本気じゃなかったよ。あいつの覚悟を見たかっただけで……」
「馬鹿!」
怒声を浴びせてきて、ジェレフは羽織っていただけだった普段着の長衣にそのまま袖を通した。
寝台のそばの衣桁にあった帯と剣帯を取り、ずっと前にイェズラムから拝領したという剣をジェレフは身につけた。
「来い」
そう言ってジェレフはギリスを立たせ、自分は先に立って垂髪を紐で結びながら足速に行ってしまった。
「来いって……?」
ギリスは唖然として、兄がいなくなった部屋を見回し、ついていくべきか悩んだ。
だいたい、ジェレフはどこへ行く気なのか。
ぽかんとして椅子に腰掛けたままでいると、ジェレフが足音高く戻ってきた。
「来いって言ってるだろ、ギリス。ぼけっとするな」
ぼけっとしているつもりは無かったが、兄は相当頭に来ているようで、ギリスの肩を掴んでがくがく揺らすと、腕を引いて引っ立てていった。
長身のジェレフに引っ立てられると、まだ背の追いつかないギリスは走らねばならなかった。
王宮の廊下を走ってはならないと言われている。余程の時なら別だが。今は余程の時か?
ジェレフは長い足で、走らずとも速歩でいいのだろうが、こいつといると格好つかねえなとギリスは思った。
ジェレフはいつも格好がいいし、着るものや立ち居振る舞いの様子もよくて、他の派閥の兄たちも一目置く。
そのような英雄になれば良いのだろうけどなと、ギリスは残念に思った。
どうもそういうふうには、自分はなれそうにない。
それでもイェズラムは自分のほうを射手に選んだのだ。ジェレフでも、他の兄たちでもなく。
それはギリスの一生には珍しく、誇らしいことだった。
「どこ行くの、ジェレフ」
「頭を下げろ。とにかく」
こちらが質問に答えないと怒るくせに、ジェレフも質問に答えなかった。
「お前……本当に殿下の射手なのか」
夜の廊下で、ジェレフは声を潜めて聞いた。
「本当だよ」
隠すようなことなのか分からず、ギリスは戸惑って答えた。
ジェレフは王宮の廊下の、王族の群れるあたりに差し掛かる曲がり角で、急に足を止めた。
「何でお前みたいなやつが、星を選ぶんだ。ギリス。分かってるのか。誰が皆を幸せにする族長になるか、どうやって決める」
「俺が決めるんじゃない。もう選んだ。イェズラムが。スィグル・レイラスが次の星だ」
ギリスが当たり前のことを教えると、ジェレフは真面目な顔で頷いた。
それが何だと言ってスィグルは全く理解していなかったが、さすがジェレフは同じ派閥の兄だった。
「なぜ、長はスィグルを選んだ。他の王子と違う、あの子だけが持っているものは何だ」
「癇癪?」
立ち止まった岐路で、ギリスは考えて答えた。
さっき別れた王族の子供部屋で、ものすごい剣幕で怒っていたスィグル・レイラスのことを思い出すと、あそこまで怒る者が王族にいるとは考えにくかった。
他の王子たちは皆、上品で、しずしずとしていて、気は弱いものの頭が良さそうに見える。
スィグルも最初はそんな感じで、顔も可愛くて小柄だし、にこにこ楽しげに喋ったりして、可愛い弟分だなと思えたが、キレると違っていた。
弱すぎるんだよ、お前は。とギリスが断じて、だから今後はもっと体や武術を鍛えて、身辺を固め、己の弱点となるような邪魔な弟は始末するべきだと、ギリスが年長者らしく説いて聞かせたら、あいつはいきなりキレて殴ってきやがった。
あんな女みたいな可愛い面で、虫も殺さないようなのに、少々避けなきゃ鼻を折られただろう。
それはさすがに面相が変わると思い、ギリスは少しだけ避けたのだが、少しだけにしたのはイェズラムが、もし王族が殴ってきたら殴らせろと言っていたからだ。避けると不敬だし、それに後々面倒なものらしい。
実に養父はいろいろなことに精通していた。
スィグルも一発殴ったら早速気が済んだらしく、出ていけと絶叫したが、もう来るなとは言わなかった。
それでギリスはさっさと退散してきたのだ。
王族の命令は絶対だ。イェズラムも言っていたように。叛逆は重罪で、もちろん地獄行きだった。
ギリスはそんな愚は犯さないつもりだ。
「癪? スィグルが?」
何も知らない面で、ジェレフが言った。
「俺、なんであいつが死ななかったのか分かったぜ。あれが俺の隊の弟だったら、絶対に先鋒で突撃させる。さすがに根性あるよな、人喰いレイラスは」
ギリスは感心して言ったが、ジェレフは分からないという顔だった。
「長は、一体お前に何を託したんだ」
「長く生きて新星を戴冠させろって。でももし、あいつが駄目なら、俺が殺す」
ギリスが教えると、ジェレフは目眩がしたような惑う目つきをした。
「駄目とは?」
「即位には条件がある。イェズラムが決めた。俺はあいつが良い族長になるよう、仕えるだけだ」
イェズラムは族長リューズ・スィノニムを育てた男だ。だから養父の目には間違いがない。ギリスはそう信じていた。それを越えるものが、この部族になにかあるだろうか。
養父は名君の兄なのだ。生涯、リューズ・スィノニムに仕え、間違いがあれば諫め、迷いがあれば相談に乗った。それが射手というものだ。名君の兄なのだから。
それをギリスにもやれと、イェズラムは命じていったのだ。
簡単なことにギリスには思えた。名君とはいかなるものか、常々、養父はギリスに教えていった。
やり方は知っている。
スィグル・レイラスが正しい星である限り、間違いは起きない。
ジェレフはそう思って見つめるギリスと、困惑の顔で向き合っていた。
ジェレフが納得していないようなのを、ギリスは不思議に思った。馬鹿なのか、この兄は。
「ギリス。長は……まだいるな。この王宮に、お前を遺していった」
ジェレフは奇妙なことを言った。イェズラムは死んだという者ばかりのこの王宮で、そんなことを言う者をギリスは初めて見た。
やっぱりジェレフはイカれてるんだなと、ギリスはこの兄を好ましく思い、微笑んだ。
「エル・イェズラムの遺志を実行するつもりなのか。ギリス。それはお前の意思か」
「そうだよ」
深刻な顔の兄が何を心配しているのやら分からず、ギリスはただ微笑んで答えた。
「そうじゃないだろ。お前は迷ってるはずだ。石封じを服んでない」
いかにもお節介な治癒者の口調で、ジェレフは言ってきた。
ギリスは急に気を削がれて、奥歯を噛み締めた。
「そんなの関係ないだろ。勝手に覗くなよ、俺の記録を」
「施療院で相談を受けたんだ。お前が服薬の指示に従わないと」
今まで黙っていたくせに、ジェレフはいかにもずっと心配していたように言った。
「そんなの服んでたら魔法が鈍るんだよ。お前だって服んでないだろ」
「もう戦いはないんだ。ギリス。自分のために生きてもいいんだぞ」
小声で言うジェレフの顔に、ギリスは呆れた。お前に言われたくない。お前はどうなんだ。お前は……さっきも、自分はさっさと死ぬって言っただろ。
そうやって、兄たちは、次々と燃え尽きるように死んでいくのに、長く生きろとは、どういう命令だ。そんな難しいことをイェズラムに命じられても、ギリスには分からなかった。
どうやって生きればいいのか。
「うるせえ、ジェレフ。自分もできないくせに、偉そうに言うなよ。お前はいつだって、あの族長の言いなりのくせに」
ギリスが言うと、ジェレフは困った顔で笑っていた。
「そうだな。お前に何か言える立場じゃないけど。お前は俺より十も若いんだからさ、まだ諦めるな」
落ち着けよというように、ジェレフは恨んで見上げているギリスの肩をぽんぽん叩いてきた。
この兄は本当にいつも自分を子供扱いしてくると、ギリスは不満だった。
そう言うなら、兄もイェズラムも、自分で道を示すべきだった。長く生きて新しい星を見る。自分のために生きるっていうやつを。
俺は皆の真似しかできない。自分で考えるのは苦手だと、ギリスは心許なく思った。
イェズラムの言うとおりにしか、俺はできないんだ。
それでも養父はいつも、ギリス、自分で考えろと言った。
「誰か来る」
ギリスの腕を掴んで、ジェレフが言った。
通路の曲がり角の向こうから、曲がりくねった王宮の道を、誰かの駆ける足音がした。
廊下には絨毯が敷かれ、足音は小さかったが、ギリスには聞こえた。
動かぬように、ジェレフがギリスの腕を掴んだまま、その音に耳を澄ませていた。
女の足音だ。
小さな靴が絨毯を踏む、遅い足音が近づくのを感じ、ギリスはそう思った。
薄紅の透ける袖を振る姿が、曲がり角から躍り出てきた。
それが化粧した顔で驚き、紅をさした赤い唇で言った。
「エル・ジェレフ!」
驚いた顔で女は兄を見ていた。曲がり角で出くわすとは思っていなかったようだ。
向こうはこちらがこの場にいるとは想像もしなかったらしい。
それでも、兄の顔を見て、ほっとしたようだった。
白粉に泣いた跡のある顔で、女はまた泣きそうな目になった。
「お呼びしに参るところでございました……!」
女はそう言いかけてから、ジェレフのすぐ後ろにいたギリスに気づき、さっと青ざめた。
そして彼女がつんざくような悲鳴を上げて蹲るのを、ギリスは唖然と見た。
こいつ、知ってる。俺を刺したやつだ。
悲鳴を上げ続ける侍女を、ギリスはあんぐりとして見下ろした。
「静かに……」
ジェレフは困った顔で、女を宥めている。自分も床に膝をつき、震えている彼女の背を撫でて。
なんで兄は女に触っても怒られないんだろうかと、ギリスは不思議に思った。大体の者が同じことをしたら、女はもっと悲鳴をあげるに違いない。
王族の住む区画から、紅い徽章をつけた衛兵が二人、わざわざ見に来た。悲鳴を聞きつけたのだろう。
「大丈夫。何でもない。驚かせてしまっただけだ」
ジェレフが紅の衛兵たちにそう言うと、相手はジェレフの顔を知っており、それだけで納得したようだった。
持ち場に帰っていった。
なんでだよと、ギリスはそれにも唖然とした。
なんでジェレフは信用されるんだ。よっぽど人気があるんだなと、ギリスは感心したが、それだけに惜しい兄だった。
イェズラムはなぜこいつを射手に選ばなかったのか。
「どうした」
ジェレフは女に静かな声で尋ねた。
「この方が……! スフィル様のお部屋で暴れて、殿下が、また発作を」
「俺、暴れてないよ」
女が指差してきて、ジェレフが怒った顔で見上げてきたので、ギリスは説明した。
部屋では暴れてない。廊下では暴れたかもしれないが、緑の衛兵を倒す一瞬だけだ。
大体、緑を倒すのにギリスに一瞬以上の時間はいらない。兄も知ってるはずだ。ジェレフもギリスと同じ体術の師匠についてる。
「兄君が……レイラス殿下がエル・ジェレフをお呼びするよう仰せです」
女は叫ぶように言った。
それを聞き終わることもなく、兄が走り出した。
王宮の廊下を走るなと、常々言っているくせに、長衣の裾を翻して走っていく。
そんな馬鹿なとギリスは焦ったが、ついていくべきなのか。
どういう状況なのかと、ギリスはまだ蹲っていた女官に声をかけた。
それに女は、まるで人を食う魔物にでも襲われたかのように絶叫した。
──つづく──
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