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「王宮の孤児たち」(3)

全体公開 110 61169文字
2022-01-18 14:06:19

「王宮の孤児たち」第21話〜

「王宮の孤児たち」(1)/ (2)

もくじ
2≫ 021 王族たち
3≫ 022 天使
4≫ 023 鷹通信タヒル
5≫ 024 二対についの翼
6≫ 025 石封じダグメル
7≫ 026 侍女
8≫ 027 衛兵
9≫ 028 再会
10≫ 029 同盟の子供たち
11≫ 030 ジョットたち

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021 王族たち

 ギリスは疾走した。
 足の速い長身のデンに追いつくにはそれしかなかった。
 ジェレフは穏やかそうに見える割には、ずいぶん足の速い男だ。
 それでもギリスが追いつけない相手ではない。格好構わず走って追うと、途中で追いつき、ジェレフがぎょっとしていた。
 こちらがそこまで俊足とは思っていなかったのだろう。
「ギリス」
 走りながらジェレフは前方を顎で示した。
 通路にばたばたとヘスの衛兵が倒れたままだ。
「お前がやったのか」
 言わずもがなのことをジェレフが確かめてきた。
 死んでないはずだが、衛兵はギリスが倒した時から少しも動いていなかった。
「馬鹿! 警備ががら空きだ。この間にもし何かあったら、お前のせいだぞ」
 ジェレフがそう叱責し、ギリスはなるほどと思った。その考えは無かった。だってレイラス殿下が自分で命じたのだ。出て行けと。
「どうすりゃあ良かったんだよ?」
「どうもこうもあるか。普通は護衛を倒したりしないんだ。交代の兵が来るまでお前が見張るか、侍女に応援を呼びに行かせるべきだった」
 ジェレフの話はもっともだった。次はそうしようとギリスは思った。
 もちろん次があればの話だ。
 もしも新星スィグル・レイラスが運つたなく、この僅かの間に誰かに仕留められていたとしたら、そんな気苦労はいらない。
 もしもそうならスィグルは新星じゃない。養父デンの見込み違いだった。そういうことになる。
 養父デンはかつて言った。族長リューズ・スィノニムは常に先陣に立ったが、一度も負傷したことがない。
 あの族長はひどく運の強い男だ。
 イェズラムのような射手を得たのも、その強運のひとつだった。
 新星は強運なものだ。殺しても死なないぐらい。ギリスはそう思っていた。
 それでも、その運を補強して助けてやるのが射手だ。
 晩餐の席では助けてやった。
 それに応える稀なる強運を、ギリスは見たかった。あれが皆の仰ぎ見る星になるのだと、自分も信じたかったからだ。
「殿下」
 倒れた衛兵の横を通り抜け、ジェレフは遠慮なく王族の居室に入っていった。
 いつも礼儀にうるさい癖に、入り口で叩頭しない。そんなことをギリスがやろうものならガミガミ怒鳴ってくる癖に、自分はしないのだからデンは身勝手だった。
 ずかずかとジェレフは居室に入っていき、耳を澄ましたようだった。
 言い争う声がする。奥の方から。
 その声を感じると、デンは躊躇わずに奥へと進んでいった。
 王族の居室はまず来客応対用の居間に始まり、奥には寝室や日中の時を過ごすための個室がある。
 ギリスも図面では知っていたが、自分の目で見たことはない。
 侍女でもないなら、その部屋の主人である者以外が居間より奥へ行くのは無作法だ。よほど親しい者でも、会うのは居間でのことだ。
 そんなところに勝手に入って良いのか、ギリスですら迷ったが、ジェレフは迷わなかった。
 その後を追うしかないと思え、ギリスは自分が一生見るはずがないと思えた王族の居室の奥に足を進めた。
「レイラス殿下」
 いつも呼び捨てだった癖に、ジェレフは他人行儀に呼びかけ、通路の奥にあった扉のない部屋の、入り口の幕を払いのけた。
 その中に、大きな寝台とうずたかく積まれたきらびやかな枕が見えた。
 子供が喜びそうな、お伽噺の部屋のようだった。天井には黒い天鵞絨の天蓋が張られ、月や星の形の鏡の装飾や、群れ飛ぶ色とりどりの鳥のおもちゃが見えた。
 それを見た時、何故か分からない衝撃でギリスの心臓が跳ねた。
 驚いたのだ。
 自分たち魔法戦士が小英雄と呼ばれ、子供時代を過ごす部屋には寝室しかない。十数人でひとつの寝室に詰め込まれた大部屋だ。
 隣り合う寝台で寝る奴の寝息が聞こえるような部屋だった。
 ある夜、呻き声がうるさい奴がいて、皆がうるさいと怒って枕を投げてきた。ギリスは隣の寝床だったので、とばっちりの枕を投げつけられて迷惑した。
 隣の奴は声を堪え、やがて皆眠ったが、朝のりんを王宮の念話者たちが告げる頃、そいつは寝床で冷たくなっていた。
 それがギリスが初めて見た死だった。
 いつか自分もそうやって死ぬのだと思っていた。
 それが英雄たちの一生だ。
 それに何を思えばいいのか、ギリスは分からなかった。今も分からない。
 あいつはなぜ死んだのかと、思い出すたび胸が悪くなった。吐き気がする。
 その頃見ていた大部屋の天井は、こんなふうじゃなかった。もっと質素で、つまらない、ありきたりの部屋だった。
 月も星も、鳥のおもちゃも無い。
 なぜなんだとギリスは思った。
 スィグル・レイラスと弟の寝室には小さな銀の船が天井にかかっていて、まるで死後に行くという楽園の船のようにも見えた。
 そんなもの、ギリスは今まで見たことがない。小英雄は子供ではなく、ただの小さな英雄だったからだ。
「スフィル、手を離せ。頼むから……
 はっと気づくと、ギリスには新星の声が聞こえた。
 ずっと聞こえていた騒ぐ声だったが、最初の驚きに気を取られてギリスの耳には届いていなかったらしい。
 やっとその切羽詰まった声に気づいて、ギリスは寝室の中の騒ぎに目を向けた。
 双子の王子が寝台の上で揉み合い、夜着のはだけた痩せたほうが、血塗れで短刀を握っていた。
 黄金の柄のある、王族が正装の帯につけているものだ。
 その柄を弟の方が握り、スィグル・レイラスが刃の方を持っていた。
 それに驚き、ギリスは唖然とした。
 あいつも痛くないのだろうか。自分と同じで。
 普通のやつは刃物の刃の方を持ったりはしない。手が切れるじゃないか。
 それがどの程度痛いものなのか、ギリスには見当が付かなかったが、スィグル・レイラスは弟が喉を突こうとする短刀の刃を握りしめて止めていた。
 ジェレフが寝台に飛び乗って、弟の方の首を締めるのが見えた。
 殺す訳じゃないだろう。
 気絶させるだけだ。
 絹布も使わず、ジェレフはスフィル・リルナムの首を絞め、気絶させた。首の血管を押さえれば、人はすぐに気絶する。ジェレフも治癒者だけに、それを心得ているのだろう。
 弟の殿下の痩せた体がぐったりと崩れ落ちるのを支え、ジェレフは低く悲鳴を上げたスィグルが寝台に蹲るのに屈み込んでいる。
「殿下、手を。手を診せて」
 ジェレフは蹲る殿下から、もぎ取るように手を掴んだ。
 治癒術で治すんだろう。
 ギリスは心配はしていなかった。
 ジェレフは傷を治せる。もしも指が全部取れてても、ジェレフは繋げる。
 ギリスもヤンファールで守護生物に馬ごと吹っ飛ばされて足がもげたが、ジェレフが馬で追いついてきて繋ぎ直した。今も何の違和感もない。誰よりも早く走れるほどだ。
 スフィル・リルナムの気絶した体を寝台に横たえながら、ジェレフは新星の手を握っていた。
 スィグルは真っ青な顔で震え、見開いた黄金の目がまるで光っているようにも見えた。
「痛い」
「大丈夫。もう傷は塞いだ。痛みは気のせいだ、殿下。すぐ消える」
 ジェレフが教えると、スィグルは青ざめたまま頷いていた。滴るほど汗をかいている。
 王族が汗をかくのをギリスは初めて見た。
 そんな機能はない、お人形なのかと思っていたが、スィグル・レイラスは違うらしい。
「たぶん骨も折れてた」
 やっと顔を顰めて、ジェレフが言った。
 ジェレフはいざとなると冷静な奴で、ギリスはデンが戦場で動転しているのを見た覚えがない。急場であればあるほど根性が据わるような奴だ。
「大丈夫か……何があった、スィグル」
 やっと心配気にデンがスィグルに声をかけていた。
 何があったか説明したのにと、ギリスは思った。その後に起きた事なら今見たじゃないか。
 なぜ、スィグルの弟が自決しようとするのか謎だったが、こいつが死にたくなるのも当然だとギリスには思えた。
 生きていても見込みのない一生だ。遅かれ早かれ死ぬのだし、さっさと片付こうと思ったのだろう。
 殊勝な心がけだ。
 生きていても誰かの役に立つような奴ではない。
 ギリスにはそう思えた。
 さっさと死んだ方が兄貴のためだ。それが弟にも分かるのだろう。いい弟じゃないか。
「そいつが!」
 まだ血塗れのままの手で、突然叫ぶように言ったスィグル・レイラスがギリスを指さした。
 部族ではものすごく無礼なことだ。指先を相手に向けるのは、死ねという意味だ。
 死ねという顔で、スィグルがギリスを見ていた。
 スィグルはぶるぶる震えていたが、顔は怒っていた。怒りながら怖がってるのか、器用な奴だなとギリスは思った。
「そいつがスフィルを殺そうとしたんだ。それでスフィルは……また気がおかしくなって、死ななきゃならないって言って……この有り様だ。僕の短剣を奪って、喉を突こうとしたんだ」
 早口にそう訴えるスィグルは、告げ口する口調だった。ジェレフに?
 ジェレフに言ってどうなるんだ。俺の派閥のデンだし、ジェレフは俺の味方だろう。ギリスはぽかんとして二人のやりとりを見た。
「大丈夫だ。スフィルは怪我してないよ、殿下。後で気の休まる薬をやる。しばらくゆっくり眠らせてやって、落ち着かせれば大丈夫だ。大丈夫……
 わなわな震えているスィグルにジェレフは声をかけ、まだ晩餐の正装のままだった結髪けっぱつの頭を撫でてやっていた。
 餓鬼かよ。ギリスは呆れて眺めた。
 しかしジェレフは至って真剣だ。まるでスィグルがもう死ぬみたいに、じっと見守っている。
「なんで僕がこんな奴と関わらなきゃいけないんだよ、ジェレフ」
 泣き言としか思えない口調でスィグルはジェレフに文句を言っている。
 デン眉間みけんしわを寄せ、深刻そうにそれを聞いていた。
「ギリスは殿下の射手だ。エル・イェズラムが遣わした」
 ジェレフが説明すると、スィグルが怒ったようにがばっと顔を上げた。
「もう来るなって言ってくれ。僕はこいつと口も聞きたくない」
 そう言った癖に、スィグルはキッと睨む目で寝台の脇に立っていたギリスを見て怒鳴った。
「どのつら下げて来た。もう一発殴られたいのか、この馬鹿! 二度とその顔を僕と弟の前に見せるな! お前が父上の英雄エルじゃなかったら、ただじゃ済まさないところだ!」
 ギャンギャン吠える犬みたいに、スィグル・レイラスは怒っていた。
 よくそんなに怒れるなと、ギリスは感動した。自分にはそこまでの強い感情はろくに無かったからだ。
「ギリスは殿下の英雄だ。族長のじゃない」
 ジェレフが静かに訂正した。
「は?」
 スィグルは呆れたという顔で、ジェレフの顔を見上げた。
「なんだよそれ。こんな奴いらない」
「殿下には選べない。竜の涙のほうが、自分が仕える星を選ぶ。そういう伝統だ。今、殿下に仕える英雄はギリスひとりきりだ」
「ジェレフは……?」
 スィグルはずいぶん悲しい顔でジェレフに聞いていた。俺はいらないのにジェレフは欲しいのかよ。ギリスは呆れて自分の新星を眺めた。
「俺は違う。君の父上に仕えてる。俺が選んだ玉座のきみだ」
 観念したようにジェレフが言うのを、やっぱりそうなんだと思ってギリスは聞いた。
 なんでか知らないが、デンたちは皆、リューズ・スィノニムに骨抜きにされてる。
 死ぬか生きるかの瀬戸際に酔わされた名君の連戦連勝が、よっぽど脳天に来たのだろう。
 族長はデンたちの命の恩人だった。多くの英雄を死に追いやった族長だが、全部が勝利のための死だった。死んだ英雄ひとりひとりの英雄譚ダージを聴き、族長は泣いてくれたらしい。
 平気で死ねと命じるくせに、族長はいちいち悲しいらしいのだ。
 ひどく涙もろい男だ。
 それが仲間の死に泣いたという、ただそれだけのことで、デンたちはあの、玉座の男に忠誠を捧げている。
 でも、それがなぜなのか、ギリスにも今日は分かる気がした。
 そんな気がするのは初めてだ。
 新星が俺を、こんな奴いらないと言った。そしたら俺は死ぬしかない。
 玉座が求めるから、英雄たちは生きているのだ。いらないと言われたら、もう、生きている意味がない。
「君の父上は、そんなこと死んでも言わないぞ。スィグル、竜の涙の忠誠を得ずに、玉座に座ることはできない。この王宮は、族長と、それを守ってる魔法戦士の家なんだ。君の家じゃない」
「僕は族長リューズ・スィノニムの息子だぞ」
 驚いたようにスィグルはジェレフに言った。デンは心苦しいらしく、スィグルと向き合い苦々しい顔だった。
「俺たち竜の涙は族長の兄弟だ。君より偉い。ギリスと和解してくれ」
「何言ってるんだよジェレフ」
 裏切られたという顔で、スィグルが震えて言った。
「殿下に謝罪しろ、ギリス」
 何を?
 ギリスはぽかんとしてデンを見た。
叩頭こうとうしろ!」
 気絶している弟のほうの殿下にはばかってなのか、ジェレフは抑えた声で怒鳴ってきた。
「なんでだよ……
「お前は殿下の英雄でありながら、殿下の命令なしに私闘した。重罪だぞ、ギリス」
 そんな決まりがあったのだろうかと、ギリスは驚いた。
 魔法戦闘には族長の攻撃許可がいる。もしくは族長が任命した指揮官の許可が。
 だがギリスはさっき、魔法を使っていない。衛兵は体術で倒したのだ。そんなことデンも知っているはずだ。
「叩頭して、殿下のお許しをえ」
 デンの口調は厳しかったが、どことなく頼み込むようだった。とにかくやれと、デンの目がギリスを睨んでいた。
 派閥でも、デンの命令は絶対だ。
 ジェレフは頭ごなしに命令してくるようなデンではないが、目上は目上だった。
 ギリスは諦めて膝を折った。
 ふかふかした上物の絨毯が敷かれている寝室の床に座り、黙って叩頭した。
 叩頭礼は王宮ここではありふれた行為だ。深い意味はない。ギリスはそう思おうとした。
 納得はいかなかったが、納得がいくことなど、この世にそう多くはない。
「許してやってくれ、殿下。ギリスは悪気のない奴だ。こいつは……他の英雄エルとは違うかもしれないが、忠実だ。今は殿下に仕えるたった一人の英雄なんだ。それを従えられないのなら、殿下に玉座は無理だ」
 スィグルと向き合って話すジェレフは、辛抱しんぼう強く説得する口調だった。
「これがもっとまともな奴なら、僕だって喜んで従えるよ」
 ギリスが叩頭から顔を上げると、スィグル・レイラスは悔しげに唇を噛んでいた。
「殿下も知ってるだろうが、俺たちは皆、まともじゃない。殿下の父上は、それでも俺たちを従えてる」
「僕に狂人の群れを率いろというのか」
 スィグルは怒っているようだったが、えらく察しのいいことを言った。
 ギリスはそれが可笑しくて、くすっと笑った。
「何が可笑しいんだ!」
 地団駄じだんだ踏みそうな顔で、スィグルが激怒していた。それを眺め、ギリスはまた笑った。
「やめるか。スィグル・レイラス。族長は大変だぞ。俺みたいなのが何百人もいる」
 ギリスが教えると、スィグルはまた殴ってきそうな目つきで、ギリスをにらんだ。
「やめられる訳ないだろ。もう始めたんだ。お前のせいで!!」
 新星の物分かりの良さに、ギリスはつい大笑した。
 その時だった。スィグル・レイラスがまた殴りかかってきたのは。

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022 天使

 これも避けてはいけないのか、と、ギリスは難しく思った。
 スィグル・レイラスは本気で殴りかかってきたようだが、それを避けるのはギリスには別に難しくなかったからだ。
 痛みを感じないとはいえ、そう何度も顔を殴られるのは困る。
 顔はかばえとイェズラムも言っていた。英雄の顔が、そう度々見る影もなくなると、格好がつかない。
 養父デンの言うことはもっともだ。
 ギリスも、怒りっぽい同輩と喧嘩になり、勢いで殴り合いになると、その度に自分の顔が腫れ上がるのに衝撃は受けた。
 お前はせっかく面相めんそうは良いのだから大事にしろと、養父デンはいつも苦笑していた。
 顔も大事なのだ。英雄には。
 容姿は問題ではないと言う癖に、この部族では誰も彼もが面相風体めんそうふうていの良い英雄を好む。
 ジェレフなどは生来の能力も高いが、誰よりも見栄えがいい。そのせいで族長もこいつを気に入っているのだ。自分の横にはべらせるときに、絵になるからだ。そうに違いない。
 ギリスはそう信じていたし、たぶん間違っていないはずだった。
 養父デンも他にはいないような、長身の男前だった。
 それは関係ないと養父デンは呆れていたが、そんなことが本当とは思えなかった。
 ギリスもなるべく背が高くなりたいと願っていた。そのほうが絶対に格好がいいからだ。
 しかし未だ期待したほどの長身にはならず、ギリスは焦っていた。人は永遠に背が伸びるわけではないらしいからだ。
「なんで殴るんだよ……
 避けたい気持ちを噛み締めたまま、ギリスは殴られた。
 それからスィグルに文句を言ったが、乱れた礼装のままの王子は怒った顔で息をするだけで、何も言わなかった。
 養父デンはなぜ避けるなと言ったのだろう。王族が顔を殴ってきた場合に、具体的にはどうするか、そういえば詳しく聞いていなかった。なぜ聞き忘れたのか、迂闊うかつだった。
 そういう時に相手に顔を殴らせずに、なおかつ素直に殴られるなんて、曲芸ではないか。
 大人しく殴られたギリスを、ジェレフが驚いた顔で見ていた。まさに唖然だ。
 まさかギリスが避けないとは、ジェレフも思わなかったのだろう。
「殿下……
 言葉が出ないという顔で、ジェレフはやっとそれだけ言った。
 新星は自分の手を押さえて屈み、わなわな震えていた。
「くっそ……痛い! まただ、この馬鹿! ぼけっとしやがって、僕が殴ったらちょっとは痛がれ!」
 乱れ髪のスィグル・レイラスは黄金のかんざしを振り落としながら、そう怒った。
 痛いふりをするとは、ギリスは思いつかなかった。
 そうか、痛いふりすればいいんだと、ギリスはまた同じ側を殴られた自分の左頬を押さえて、びっくりしていた。
 スィグル・レイラスは右利きだ。利き手で殴ってくるのは当然だが、ろくに拳も固めずに殴るので、自分の手のほうが壊れるだろう。
 戦闘の出だしでいきなり利き手を壊すとは、馬鹿なのかと、ギリスは新星を危ぶんだ。
 こいつ、拳術は使わないんだな。人を殴ったことがない。
 たぶんまた指が折れてる。そういう感触がした。
 たった今、ジェレフが治癒術で直したのに、また骨折したぞ。
「殿下……手を……
 スィグル・レイラスの痛がりようで察したのか、ジェレフは呆れを隠した声で、手を診せるように王子に促していた。
「もういい。施療院から人を呼ぶから。ジェレフが治すようなもんじゃない。くそ……なんて固いつらだ。お前のせいでしばらく筆も持てなくなったぞ!」
 ギリスを黄金の目で見て、スィグル・レイラスは憎々しげに言った。
 何言うんだ、お前が自分で殴ったんだぞ。ギリスは呆れたが、言うとまた殴られそうな気がした。
「筆なんか持てなくても別にいいだろ。何に使うんだよ。学院からも締め出されてるくせに」
 代わりにそう言うと、スィグル・レイラスはいつかギリスが猛獣の檻で見た、黒雷獣アンサスが怒った時のような顔をした。目が金色で体は真っ黒の、でかい猫みたいなやつだ。可愛いが、うっかりしていると人を食う。
 まるでスィグルみたいだ。王族が殴りかかってくるのを、ギリスは初めて見た。
「うるさいな。そんなことまで知ってるのか」
 スィグルはがっかりしたように、寝台の端に腰掛け、ぐったりとした。
 手が痛いのか、新星はまた苦悶するような顔だ。
「殿下。手を治させて。施療院はもう夜勤だ。眠れる時に眠らせてやってくれ」
 ジェレフはそう言って、肩を落としているスィグル・レイラスの右手を取り、もう一度、治癒術で治したようだった。
 スィグルはそれを拒まなかった。ジェレフに治させたほうが自分には楽なのだから、拒むわけはない。
 治癒術はジェレフにとってはそう難しいものでもないだろう。瀕死の怪我だって治せるのだから。
「俺の顔も治してよ」
 ギリスは大人しく順番を待っている顔で頼んだ。当然そうなるのだと思っていた。
「知るか。自分で治せ」
 うんざりしたようにジェレフが答えた。
「え!? なんでだよ。殿下そいつは治してやるのに、なんで俺はダメなんだよ!?」
 不当だと思ってギリスはデンに食いついたが、ジェレフは冷たかった。
「お前のつらがぐちゃぐちゃでも俺は困らん。ほっとけば治るよ、ギリス。大丈夫、前より男前だ。惚れ惚れするよ」
 明らかに嘘だと思うことをデンは平気で言った。
「殿下、ギリスを殴る時は親指は中にしまって、指はしっかり握りこみ、ここを当ててください」
 ジェレフは新星の手を握り、正しい殴り方を教えていた。
 スィグルは興味深そうに真剣に聞いている。
 なに教えてんだよと、ギリスは焦った。そのせいで今後、殿下が気軽にちょいちょい俺を殴ってきたら、どうしてくれるんだ。
「殿下。王宮の学院にはお戻りにならないのですか」
 いかにも王族に対するように、ジェレフが恭しくスィグルに聞いた。
「戻りたいけど、僕にはもう席がないらしい。博士の部屋を訪ねても、皆、僕のことは知らないという」
「それは困ったね」
 ジェレフも困ったという顔で、スィグルの話を聞いてた。
「わかりました。ギリスが何とかします。それで罪滅ぼしをさせてやってください」
 交渉する口調でジェレフが提案した。それをスィグルは横目で見上げ、きっぱりと言った。
「いやだね。そんな程度で許せるような事じゃない。弟は死ぬところだったんだぞ」
「お前が短剣持ったまま側に行くからだろう」
 ギリスは黙っていられず指摘した。
 スフィル・リルナムが自決しようと握っていた短剣はスィグルのだったのだ。
 どういう経緯かは知らないが、こいつは弟に短剣を奪われている。帯についているさやが空なのだから、それは絶対に間違いない。
 自分のせいじゃないか。お前が武器をらせなければ、いくらイカレた弟でも、自分で自分の首を締めて死ぬわけにはいくまい。手段を与えたお前の落ち度だ。
 そういう意味で言ったのだが、ギリスはそこまでは言わなかった。だが新星が察したのだ。
「自分のやったことを棚に上げて、よくもそんなことを僕に言えるな! 恥を知れ、エル・ギリス……
 そのまま言い返させてほしいようなことを新星ははっきりと言った。
「な……何言ってんだよ。俺はなにも恥ずかしいようなことはしてない」
「そうか? 新星のめいを得ず私闘して、叛逆はんぎゃくしたんだろ」
 ジェレフがギリスの耳元にかがみ込んで、静かに言った。
「地獄に落ちるぞ、ギリス」
 低い声で言うデンの囁きに、ギリスは青ざめて見上げた。
 ジェレフは真剣味のある伏目でギリスを見ていた。
「知らないのか。レイラス殿下は天使ブラン・アムリネスの御使みつかいとして王都にお戻りになったんだ。しかもお前の新星なんだろ。それにそむいて、ただで済むとは思うなよ」
 デンの声に、ギリスは震え上がった。
 それは大変なことだが、どうしていいかわからず、ギリスは動転した。
 叛逆はんぎゃくなどしてない。天使が本当に全能なら、そんなこと分かってるはずだ。
 地獄ってあるのか、ジェレフ。
 そう聞きたかったが、聞けばデンがあると言うのは間違いなかった。
 そういう目を、デンはしていた。
「そんなの……関係ない。天使なんか持ち出しても、俺は怖くないぞ。天使が俺に何をやれるっていうんだ」
「お前をさばける」
 笑い飛ばそうとしたギリスの言葉の終わりを待たず、スィグル・レイラスがさらりと言ってきた。
「は?」
「僕は猊下げいかにいつでも手紙を書ける。そうだ、ちょうどよかった。猊下げいかに聞こう。帰郷後の様子もまだ連絡していないし。夜明けに鷹通信タヒルを飛ばそうじゃないか、ギリス。贖罪しょくざいの天使に聞けばいい、お前がゆるされるかどうか、天使が決めてくれる。シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネスが!」
 ギリスをまた指差して、スィグル・レイラスは間違いもせずにその長い名前をすらすらと言った。
 まるで、お前はもう死ねと言うように。
 そんな馬鹿な。
 ギリスはそれに、今までの一生で一度も味わったことのない衝撃を受けた。

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023 鷹通信タヒル

 スィグル・レイラスは弟を頼むとジェレフに告げ、ギリスを連れて居間に向かった。
 大人しく付いていくしかない気がして、ギリスは新星の後に従い、絢爛けんらんな装飾で満たされた王族の居室の居間に戻った。
 その部屋の隅には美しく螺鈿らでんを散らした黒い文机があり、天板にはぐるりと周囲を取り囲むように花が咲き、はちが飛ぶ意匠が描かれている。
 殿下の紋章の雀蜂スズメバチをあしらったものと思われたが、雀蜂スズメバチは肉食の蜂で、花の蜜は吸わないはずだ。花なんかあってもしょうがないはずなのにと、ギリスは不思議に思った。
 しかし今はそれを言うのは止した。
 スィグルがもうインクにペンをひたしていたからだったし、机の上に鷹に持たせて飛び立たせるための薄紙が広げられていたからだった。
「何と書いて欲しい、ギリス。天使にいたい慈悲はあるか」
 嬉しげに微笑して、スィグル・レイラスは背後に座っていたギリスを振り返り、薄赤い唇で言った。
「お前をゆるして従えるべきか、僕は天使に聞こうと思う。神聖なる猊下げいかにご裁定をあおぎ、猊下げいかゆるすと言えば、僕もお前を許してやってもいい。この世界で最も神聖な種族の裁きを受けろ」
 ギリスをビビらせようと思っているのか、スィグル・レイラスは物々ものものしい口調で言った。
 ギリスはそれに素直にビビっていた。
 頭が真っ白になり、息ができない気分だった。
 もしかしてこれが、皆の言う恐怖ってやつではないかと、ギリスは薄らと思った。
 それが分かったところで嬉しくはない。何と答えたらいいのか、ギリスには全く分からなかった。
 天使に裁かれる時にどうすべきか、賢かった養父デンもあいにく教えてはくれていない。ギリスも聞かなかった。そんな機会があるなどと、想像すらしなかったのだ。
 この世に天使がいることは、聖堂の司祭たちも口うるさく言うので知っているが、そんなものは地獄と同じで、ギリスにとってはほとんど実在の怪しいものだった。生きているうちに目にすることはないものだ。
 もし、こうなると分かっていたら、たぶん養父デンに詳しく聞いただろうが、イェズラムはもう墓の中だ。
 今すぐ墓所に行って、養父デンひつぎすがりたい気がした。
 イェズラム、やばい。もしも天使が死ねと返事してきたら、俺は死ぬのだろうか。それはどんな死だ。
 月と星の船に俺は乗れるのか。
「天使に言ってくれ。俺は部族の英雄で、もう立派に戦ったんだって。ヤンファールで。何なら英雄譚ダージも聴いてもらってくれ」
 嫌な汗をかきながら、ギリスはスィグル・レイラスに頼んだ。
「そんな長い文章は送れない。鷹通信タヒルだぞ」
 冷たく拒んでスィグル・レイラスは言った。
「じゃあ一番良いところだけでも!」
 ギリスはおがみたい気分で頼んだが、スィグルは意地悪そうに片眉を上げ、どうしようかなという顔をした。
「良いところって何だよ。悪いけどお前の英雄譚ダージを本当に知らないんだ。つまんで話せ」
 スィグルはペンをゆらゆらさせて見せて、本当に憎ったらしい顔で言った。
 こんな奴が新星なわけがあるかとギリスは確信したが、今はそれどころじゃない。
「ヤンファールで守護生物トゥラシェを十四体倒した。一気にだ。俺が魔法で全部やった。初陣ういじんだったんだぞ」
「嘘だ。それは詩人の誇張表現だ。そんな英雄譚ダージ聴いたこともない」
「本当だって!」
 ギリスは困って、なんで信じないんだよと情けなくなった。
 スィグルも本当は同じ場所にいたのに、こいつは穴蔵あなぐらに埋められてて見てないせいだ。
 もし見てたら今も、俺に感謝してたはずだ。ジェレフにじゃなく。
 ヤンファールでは守護生物トゥラシェの防衛が厚く、それまで誰もそこを突破できずにいた。見渡す限りの平原で、隠れる場所もない。
 守護生物トゥラシェには、何か分からない石礫いしつぶてを撃ってくる奴もいて、当たれば兵の体が溶けた。
 皆、恐ろしがって突撃できない。
 それでイェズラムが、俺に先陣を切れと命じた。それについていけと魔法戦士隊に命じ、皆で馬で駆けたのだ。
 その隊の何人かは死んだ。よく憶えていない。
 走れるかぎり駆けて、殺せる限り殺せと命じられた。だから一度も振り返らずにギリスはそうした。
 目隠しをした馬にむちを振るい、戻ることなど考えず突撃した。
 この一戦限りで死んでもいい。必ず英雄譚ダージに歌われる戦になるだろう。
 だが。
 生きて戻れと、イェズラムはギリスを送り出す時に言った。
 それは命令ではなかった。
 そして、お前は嫌なら行かなくていい。代わりに自分が行くとイェズラムが言ったので、ギリスは引き受けることにした。
 イェズラムは歴戦の勇者で、既に頭の中の石がえており、次に戦えば恐らくその一戦で命が尽きるのではと思えた。
 自分の死より、養父デンのいない世の方が、ギリスには耐えがたく思えたのだ。
 そのことは、あいにくギリスの英雄譚ダージには載っていない。詩人は書かなかった。
 族長リューズ・スィノニムの命令を受け、エル・ギリスは忠実に戦ったことになっている。
 嘘ではないが、族長に命じられてもギリスは行かなかっただろう。
 そもそも族長はダメだと言っていた。イェズラムが族長と王宮で作戦を話し合っていた時、その場にギリスも呼ばれたが、族長はギリスはまだ幼すぎると言っていた。
 魔法戦士の初陣ういじんは十六と、とうの族長が決めていたのだ。
 昔は元服すればすぐ戦線に投じられていたようだが、それはむごいと族長が拒んでいた。
 イェズラムももちろん知っていただろう。
 それでも養父デンはギリスが十六歳だと族長に嘘をついた。
 族長はギリスの本当の歳を知っていたはずだ。あの男はえらく英雄たちに詳しい。
 それでも、あの時、族長は撃破したかったのだ。敵を。
 あと二年、ギリスの成長を待てない理由があった。
 ヤンファールの地下の穴蔵の中に。
 族長はギリスを殺してでも、息子を二人、救い出したかったのだ。
 だからギリスに魔法戦闘の攻撃許可を出した。
 それ以来ギリスはあの男が嫌いだった。
 なのにイェズラムを嫌いにはなれない。それがなぜなのか、ギリスにも分からなかった。
英雄譚ダージは本当だ。お前とあのイカレた弟の命を助けたくて、族長は俺を使ったんだよ。お陰で助かったんだろ。お前が生きてるのが何よりの証拠じゃないか。本当じゃないと思うなら、そこらの奴に聞け。ヤンファールで戦った奴は皆知ってる」
「ギリス……
 青ざめてスィグルはこちらを見ていた。
「お前、その戦闘のせいでおかしいのか」
 スィグルは悲しい顔をして、ギリスの額にある石を見ていた。
 氷の欠片のような白濁した石がギリスの額から生えている。
 ギリスは目を瞬いた。
「いや? 実はあんまり石がデカくならなかったんだよ。イェズラムも族長も俺がヤンファールの初陣で死ぬと思ってたらしいが、そんなことなかった。次の日からしばらくベロがしびれてたけど」
「ベロが……
 青ざめてスィグルが言った。
 そんなことで同情するなんて、案外優しい奴なのかなとギリスは思った。
「気にすんな。もう終わったことだしな。今はベロもしびれてな……いや気にしろ! 天使に俺は命の恩人だって書け! 何もかも本当だって」
 途中で気づいてギリスは話を変えた。それを新星はなんとも言えない表情かおで青ざめて見ていた。
「お前、ヤンファールで死ぬかもしれなかったんだぞ」
 ギリスを見つめて、スィグルは怒ってるみたいに言った。
「そうだよ。有難ありがたがれ」
「そんな価値が僕にあると思ってたのか」
 にらむ目で新星はギリスに問うてきた。
「いいや……
 少し迷ったが、ギリスは正直に答えた。
 そんなこと思うわけがなかった。全然知らない王子だったし、どんな奴かも記憶になかったほどだ。
 イェズラムの命令でなければ、ギリスにはどうでもいい相手だった。助かろうがどうなろうが、知ったことではない。
 そんなことを教えたら、またスィグルが怒って殴ってくるかと思ったが、新星はただ項垂うなだれて目を伏せただけだった。
「なんでだよ。それならなぜそんな滅茶苦茶な命令を聞いたんだ。お前、その時、十四歳だろ。今の僕と同じ年だ。父上が本当にそんなことをお命じになったのか」
 文机で肩を落としてそう言うスィグルは、確かに小柄で、とても部族の命運を背負う戦をするようなたまには見えなかった。
 王宮のそこらじゅうにいる竜の涙のジョットたちを見ても、元服したばかりの彼らはギリスには子供に見えた。
 そんな奴に助けを乞うた族長も、イェズラムも、正気ではなかったのかもしれない。
 だが、あの時、唯一の手だった。
 ギリスにはそう思えた。
 幾万の兵を費やして進撃するのでも良かっただろうが、それよりもまず、やってみる価値があっただろう。
 小僧一人を石につぶさせて、それで大勢が生き残るなら、やってみる価値があった。
 そのおかげで、この新星も救い出せたのだ。
 そう考えると何かが胸苦しく、スィグル・レイラスの側に胡坐こざしたまま、ギリスは自分の膝を覆う長衣ジュラバすそを握りしめた。
「ヤンファールは撃破しなくちゃならなかった。あの平原の向こうまで敵を押し返すことができれば、族長の親父の代で失った領土を回復できたんだ。それはこの部族の悲願だと、お前の親父は言ってた」
「だから戦えって父上がお前に命じたのか」
「お前の親父は俺に何も命じてない。ただ、約束はした。もし生きて戻れたら、なんでも俺の自由にしていいって」
 その時のことを思い返しながら、ギリスは話した。
 そう言えば族長はそう言った。なんでも自由にしていい。戻ったら、お前は自由だ。もう戦わなくても良いと、約束した。
 だからこの一戦、皆を救ってくれないか。
 そう言う族長が考えていた、皆というのが誰のことなのか、ギリスには分からない。
 虜囚だった双子の王子、スィグル・レイラスとスフィル・リルナムのことだったのか。
 それとも、あの時、族長リューズ・スィノニムの戦陣にいた幾千幾万の兵のことだったのか。
 それとも、あの男自身のことだったのか。
 図々しい頼みだと、ギリスは思った。そんなものがどこまで大事か、ギリスには分からなかった。
 でも、ただ自分は、イェズラムを助けたかったのだ。
 その戦を最後に養父デンが死せる英雄となり、輝かしい英雄譚ダージまれる、その瞬間を、少しでも先に延ばしたかった。
 ただその一心で戦場を駆け抜けた。
 それを天使はもう、ゆるしたはずだ。ギリスは生きて戻った。
 天使が全能だというなら、ブラン・アムリネスはこの世のどこかで、それを見ていたはずだ。俺の勇姿を。そうじゃないのか?
「スィグル。俺には良く分かんないけど、英雄には戦うべき時がある。俺にはそれがヤンファールだったんだ。死ぬのは嫌だったけど、戦うのは嫌じゃなかった。それだけだよ。別にお前やあの弟を助けに行くから戦ったんじゃない。俺にも俺のいくさがあるんだよ」
「魔法戦士らしいね」
 めているわけではなさそうな口調で、スィグルはぐったりと皮肉に答えてきた。
 何が気に食わないのか、ギリスには分からなかった。
 気の毒な王子を助けるために、魔法戦士隊に決死のいくさを戦ってほしかったのか?
 そんな古い英雄譚ダージみたいな話が、本当にあるわけないだろう。
 ギリスもなぜか元気が出ず、ぐったりとして肩を落とした。
「手紙を書くよ。猊下げいかに。僕は困ったら相談していいんだ。ブラン・アムリネスに。いつでも鷹通信タヒルを飛ばしていいって、トルレッキオで別れる時に約束した」
 すぐに大きなデンに告げ口するきもの小さい小英雄のように、スィグルはぶつぶつと言っていた。
 ギリスはもうそれ以上、言うことはなかった。
 天使は知っているはずだ。俺のことを。生きて帰りたいという望みを聞き届けたのだから。
 ギリスの石は奇跡的に、あまり成長しなかった。振るった大魔法の割にはだが。
 それを皆は奇跡だと言った。奇跡。それなら天使の領分だっただろう。
 ブラン・アムリネスかどうかは分からないが、その一員だった天使が、俺を見捨てるはずがない。
 ギリスはそう信じることにした。
 スィグル・レイラスはギリスが見ている前で、おそろしく小さい字を書いた。鷹通信タヒルに使うペンは、まるで幼児の髪の毛のような細い線で書くことができるものだが、それにしてもスィグルの書く字はものすごく細密だった。
 一体どんな長い告げ口を天使にしているのか。
 ギリスはそれを読みたかったが、読ませてもらえなかった。
 卑怯だぞ、お前。ギリスは内心で悪態をついたが、言っても無駄と思えた。
 相手は王族だ。我が儘な連中なのだ。
 あの族長にしたってそうだ。自分の息子ほどの歳の魔法戦士に、泣いてすがり付けるような男なのだから。
「まだ夜明け前だけど。鷹通信室に行こう。トルレッキオまで飛べる鷹をお前にも見せるよ」
 書き終えて、吸い取り紙でインクを押さえた後の手紙を、スィグルはくるくると器用に小さな巻物にしながら、居室へやを出るようギリスを誘った。
 そんなところに付いていく必要があるのかと、ギリスには疑問だったが、新星が命じるのだ。行くしかない。
 薄灰色の長衣ジュラバすそを払い、ギリスは立ち上がった。

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024 二対についの翼

 王宮の通信室には沢山の鷹が飼われている。
 鷹が運ぶ手紙は速報用で、余程の用途に限られていたが、その中でも特に重要な、族長からの通信文を運ぶ鷹には全て、シェラジールという名がついていた。
 族長がかつてどこかでもらってきた鷹の子孫で、初代のシェラジールは隠居して王宮で無駄飯を食っているが、シェラジールの子や孫は鷹匠たかじょうに大切に育てられ繁栄した血統となっていた。
 スィグルが使おうとした鷹は、その中でも殿下がトルレッキオに人質としておもむく時に同行したという、当地の空を憶えた鷹だった。
 それもシェラジールの子孫で、シェラジール十八号という札をつばさにつけられている。
 なぜ族長は鷹に同じ名前しか与えないのか、ギリスは不思議だった。
 どれがどの鷹か、憶えるのが面倒なのかもしれないが、族長は英雄たちの名は全て知っているような博覧強記の男だ。
 銀の矢シェラジールという名を余程気に入っているのかもしれなかった。
「元気だったか、シェラジール十八号」
 スィグルは止まり木に止まっている精悍な鷹に向き合い、十八号と彫られた銀の札をつけているその翼をそうっと撫でてやっていた。
 とてもギリスを殴ってきたのと同じ手とは思えない、優しい手つきだった。
猊下げいかに手紙を届けて欲しいんだ。分かるだろ? 今回はもう一羽、お前のジョットを連れて行くんだ。向こうから手紙を送りたい時に使えるだろ?」
 スィグルは優しい声で鳥に話した。
 鳥に話が通じるのか、ギリスには分からなかったが、シェラジール十八号は忠実そうな目でスィグルを見つめ、短い声で鳴いた。承知したというように。
 スィグルはシェラジール十八号が足に取り付けられて持っている銀の筒に、しっかりと収まるように巻紙の手紙を入れた。
「なるべく早く戻ってきてくれ。悪いんだけど、このエル・ギリスが天使からの返事を待ってる。猊下げいかの返事が遅かったらかして」
 それも承知したのか、鳥はうなずくように何度か頭を下げていた。
 それにスィグルはにっこりとして、腕に鷹を止まらせるための革製の手甲を付けた。
「ギリスもこれ付けて。もう一羽連れて行くから、僕だけじゃ重すぎる」
 ギリスにも手甲を差し出して、スィグルは腕に付けろと促した。
 ギリスは日頃、そんなものを扱ったことがなく、支度に少々手間取るうちに、スィグルはもうシェラジール十八号を腕に乗せて待っている。
「どの鷹にしようか。十八号に選ばせよう。相棒だもんな」
 機嫌良くスィグルが言うと、鷹はまるで何もかも分かっているように、スィグルの腕から飛び立ち、通信室の止まり木に何羽も飼われている沢山の鷹の中から、部屋の奥にいる別の鷹の止まり木のほうへ音もなく飛んでいった。
 空中をすべるような鷹の滑空を見て、ギリスはそれが好きになった。
 一度だけ、ギリスも鷹通信タヒルを飛ばしたことがある。
 ヤンファールでの戦勝を告げる鷹を、出撃の褒美として族長に所望した。
 リューズ・スィノニムは二つ返事で、一番速い鷹をギリスに貸してくれた。
 王都で待つデンに勝利を知らせるために。
 その鷹がどのシェラジールだったのか、ギリスにはもう分からない。
「五十二号か。これはお前の兄弟? それとも孫?」
 スィグルはそばに行って鷹に尋ねたが、そんなことを鷹が答える訳がなかった。
 それでも殿下は満足げだった。
 どうもスィグル・レイラスは生き物が好きらしい。そうしていると殿下は本当にまだ子供に見えた。
 王族だと思って、期待もしたが、何のことはないただの子供だと、ギリスは少しがっかりした。
 ジョットどもの子守と大して変わらない。
 だが、ギリスは子守は好きだった。菓子でもくれてやって、一緒に遊んでやれば、子供には文句がないからだ。
「馬で上がるのは時間がかかるから、鷹匠たかじょうの昇降機を使おうよ」
 鷹を腕に再び乗り移らせて、スィグルはギリスが予想もしなかったことを言った。
「昇降機?」
「奥にあるよ。ギリスは五十二号を運んでやってくれ」
 そう言って自分の腕の鷹をスィグルが渡して来たところを見ると、そっちが五十二号らしい。
 ギリスは鋭い爪のある足で腕に乗り移ってきた鷹の意外な軽さに驚いた。
「乗ると怒られるんだけどね」
 苦笑して言い、スィグルは自分の腕にシェラジール十八号を乗せに行ってから、さらに部屋の奥へと進んでいった。
 通信室にはもちろん鷹匠たちがいた。これも官僚だ。
 王宮に雇われた文官で、身分は案外高い。
 族長のちょくを乗せて飛ぶ鷹を扱うのだから当然だ。代々、同じ家柄の者が務めている。
 鷹匠は王族の服装をしたスィグルにうやうやしく立礼をしたが、忙しそうだった。
「ギリスが先に乗って」
 スィグルがそう促したのは部屋の奥に幾つか並んでいた細長いおりのようなものだった。
 大人が一人入れる程度の大きさで、堅牢に作られており、ギリスにはそれが刑罰用のおりに見えた。
「嫌だよ」
 入ったら檻の扉を閉じられそうで、嫌な気分だったので、ギリスは断ったが、スィグルは遠慮なくぐいぐい押してきて、ギリスと一緒におりに入ってしまった。
「これすごく怖いんだよね。スフィルは絶対乗らないって昔、言ってたよ。無理矢理乗せたら泣いちゃってさ。僕だけが怒られた」
「何で?」
 ギリスが尋ねると、スィグル・レイラスはうふふと笑った。
 そして檻の扉を閉めた。
 驚いてギリスが見ると、スィグルは鷹のいないほうの腕を伸ばし、檻の天辺から吊るされていたかねぜつに結ばれた紐を掴んで激しく鳴らした。
 うるさい音にギリスが首をすくめると、スィグルは鐘を打つのをやめて、早口に言った。
「手を引っ込めておかないと、千切れちゃうよ」
 おりを掴んでいたギリスの手を、スィグルがそでを引いて退けさせた。
 それと同時だった。おりが急に動き出した。真上に向かって。
 ものすごい速さでおりの外の壁が下へ下へと降っていった。
 経験したことのない出来事に、ギリスは頭が真っ白になったが、鷹たちは平然としており、スィグル・レイラスは歓声を上げている。
 けらけら笑う王子と鷹を乗せて、おりはどんどん上に昇っているようだった。
 ギリスはぐうの音も出なかった。全身の血が足の方に下がるような感覚がする。
 軽く吐き気もした。目が回るような感覚が。
 それがやがて宙に放り出されたような感覚に変わり、おりはガクンと止まった。
 天辺につけられた鐘が反動で鳴り、ギリスは檻に頭をぶつけた。
 くらくらする。
 余程楽しかったのか、スィグルはまだ笑っている。
 とんでもない奴だ。
 ギリスもデンたちに普段そう言われるが、ギリスにも、そう言いたい気持ちが少し分かった。
「面白かっただろ」
 同意しろという口調で言うスィグルに、ギリスは顔をしかめて見せた。
「あれ。怖かった?」
 意地悪く言って、スィグルはおりの扉を開けた。
 そこは天井の高い広い空間だった。壁も床も石造で、やけに寒い。
 いつでも適温に保たれている王宮の中とは思えなかった。
 岩石が剥き出しになっている壁には、絵や花もなく、足元の石畳には細かい砂が吹き溜まっていた。
「ここ……どこだよ」
 ギリスは尋ね、そのだだっ広い部屋にも驚いた顔の鷹匠の一族の者や、甲冑を着た兵士がいるのを眺めた。
「第一階層だよ」
 平然とスィグルは言った。
 ギリスはさらに顔をしかめて、いつか見せてもらえた王宮の絵図面のことを思い出した。
 こんなものは、そこに載っていなかったぞ。
「鷹を上の階に運ぶための昇降機だ。でも人が乗れないこともないだろ?」
「乗れないこともないだろ?」
 人が乗るもんじゃないのかと、ギリスは唖然あぜんとしたが、レイラス殿下は笑って答えた。
「大丈夫、鷹匠は乗ってるよ」
「ここ、王宮の中じゃないな」
「いいや。王宮の中だよ。出櫓でやぐらだ」
「でも第一階層なんだろ」
 王宮は地下都市タンジールの第七階層に位置し、そこは王宮しかない階層だ。一番下に王宮がある。
 第一階層のすぐ上は地上だ。ほぼ地上みたいなものだ。
 ギリスは生まれ落ちて物心つき、十二歳の元服式まで一歩たりともタンジールの外に出たことがなかった。
 出たいとも思っていなかった。
 故郷を遠く離れてよそへ行ったのは、ヤンファールの戦いの時だけだ。その一度きりだ。
 タンジールこそが故郷で、何不自由ない場所だった。
 地上がこんなに近かったとは、ギリスは考えたことがなかった。考える必要もなかったのだ。
「鷹を飛ばすんだから、地上へ出なきゃ」
 嬉しげにスィグルはそう言った。ギリスはそれを呆れて聞いた。
「お前、イカレてるぜ。王族は外へは出ないもんだ。いくさでもなきゃ」
「出たことないの?」
 不思議そうにスィグルが聞いてきた。
「ないわけないだろ。元服してるし従軍もしたんだ」
 ギリスが答えると、スィグルもそうだろうなという顔で頷いた。
「じゃあいいじゃないか。行こうよ」
「行こうよ、って……
 何の連絡も受けていなかった第一階層の者たちは、慌てているように見えた。
 壁から生えている伝声管から、今さら何かを騒いでいる声が届いていたが、スィグルは全く気にしていないようだった。
 兵はもちろん殿下を止めた。のこのこ出ていけるわけがなかった。
鷹通信タヒルを飛ばすだけだよ。この鷹を放ったら、すぐ戻るから。いいだろ?」
 頼み込む目で兵士を説得しようとするスィグルは、しばらく甲冑の連中と押し問答をしていたが、護衛つきでなら出て良いと話をつけていた。
 王族の命令は絶対で、もう子供でもない殿下が行くと言うのなら、兵たちには行かせるしかないのだろう。
 しかし地上へ出る都市の開口部は決まった時刻にしか開かない。
 どうやって出るつもりなのかと、ギリスにも分からなかったが、スィグルは歩哨ほしょうが立つための見張りやぐらがあるのを知っていた。
 砂の上に突き出した、小さな塔だ。交代で兵士が詰めているはずだ。
 スィグルは困っている兵たちには構わず、鷹を連れて遠慮なく塔の螺旋階段を上がっていき、ギリスはその後を追うしかなかった。
 夜の空気はひんやりとしており、地上は見渡す限りの砂だった。
 まだ夜明け前だ。
 恐ろしいほどの星が見えた。本物の星が。それに月も。
 弓のように痩せた月が、微笑む誰かの唇のように暗黒の空にかかっていた。
「星が見えるね」
 見ればわかるようなことを、スィグルは口に出して言った。
鷹通信タヒルの鷹は夜目が効くんだ。不思議だよね。ほとんどの鳥は夜は眠ってるのに」
 爛々らんらんとした黄金の目の鷹が、ギリスと同じように星を見ていた。
「僕らと同じで、暗視ができるんだよ。太祖と射手がこの地に辿りついた時から、このタンジールの地下に棲んでた鳥なんだ」
「知ってる」
 ギリスは説明するスィグルの話を聞いてから、そう教えた。
「なんだ。知ってたのか。案外、馬鹿じゃないな」
 歯を見せて笑うスィグルは悪気があったようだが、可愛げがあった。
 こまっしゃくれたジョットだ。
 それがずいぶん可笑おかしい気がして、ギリスは笑った。
「鷹を飛ばそう。シェラジール十八号、よろしく頼むよ。お前と別れるのは寂しいけど、猊下げいかによろしく」
 スィグルが腕の上の鷹にそう告げると、鷹は甘えた声でピュィ、と鳴いた。
「僕は元気だって猊下げいかに伝えてくれ。手紙に書くのを忘れた。それから……
 スィグルは何か言おうとしたが、その声はすぐに薄れた。
 鷹に伝言してもしょうがないと、さすがに思ったのだろう。
「元気でね。シェラジール。必ず戻るんだよ」
 そのスィグルの言葉に、鷹が頷いたように見えた。
 しかしそれは気のせいだ。鷹は飛翔するために、身を屈めただけだった。
 スィグル・レイラスの腕を蹴って、鷹は舞い上がった。音もなく、風を切る翼の風圧だけを後に残して。
 その兄貴分デンを追い、ギリスの腕にいたほうの鷹も、力強い跳躍の感触を残して飛び立った。
 天使のもとへ。
 その二対の翼が連れ立って、星の降るような夜空に消えていくのを、ギリスは黙って見送った。
「月と星の船って、どこを飛んでるんだろうね」
 スィグルが急にそう言った。まだ空を見上げたまま。
「僕も乗れると思う?」
 自分の首に触れて、スィグルは少し困ったように微笑んで言った。
 そんなものは分からない。
 ギリスはそう思ったが、そうは言わなかった。
「今までに死んだ奴が皆乗ってるんなら、めちゃくちゃ大きい船だよな。それがどうやって飛ぶんだろうな」
 代わりにギリスが口にした言葉に、なぜかスィグルは笑っていた。
「そうだよね。おかしいよ。僕も小さい頃からそう思ってた」
「俺もずっと思ってた。そんな船、嘘なんじゃないか。もし、そんなものなかったら、俺たちどうなるんだ」
 ギリスが真剣に聞くと、スィグルはふふふと面白そうに笑った。
「司祭が言ってたけど、そんな話は神殿の教えにはないんだ。博士たちは言ってた。その船は部族の古い例え話で、実在してるんじゃなく、いつか作られる楽園のような国のことで、概念上の存在なんだ」
「概念上の存在」
「つまり、僕らの心の中にある船だ」
 スィグルはそう説明したが、ギリスは納得できなかった。
 そんな考えはつまらないと思ったのだ。
いつか自分が死んだら、養父デンたちが皆乗っている船が迎えにきてくれるほうがいい。
 そうじゃないなら、俺はいったいどこへ行けばいいんだ。
「船を探そう。僕らが皆で乗れる船を。天使とそう約束したんだ。僕が新星だっていうなら、お前もそれを手伝ってくれないか」
 そう語るスィグル・レイラスの黄金の瞳に、たくさんの星が見えた。
 新星とは何か、ギリスには分からなくなった。
「殴って悪かったよ」
 スィグルはそう言って、砂漠の夜気に冷えた手を、ギリスの左頬に押し当ててきた。
 腫れていた頬に、その冷たい指は心地よい気がした。
 第十六王子は治癒術を使う。ギリスもそれは教えられて知っていた。
 しかし、その魔法はジェレフのような奇跡の技には程遠く、朝までかかりそうだった。

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025 石封じダグメル

 鷹はすぐには戻らない。
 風のように飛ぶ銀の矢シェラジールにも、第四大陸ル・フォアを北上する旅は短いものとは言えなかった。
 それでも、早ければ七日、遅くとも十日の後には天使の返事が届くという。
 歩けば三月みつきはかかる旅路だと、いかにも遠いようにスィグル・レイラスは言っていた。
 トルレッキオは地図上ではそう遠くは見えない場所だが、峻厳な山々が連なる先にある。そこへの行程の多くが山道だ。
 鷹の翼だけが、その距離を縮めてくれる。風向きが良いことを祈ろう。
 新星はそう言うが、天使の返事が早い方が良いのかどうか、ギリスにはわからなかった。
 それが天使からの死刑宣告でないと良いが、天使が何と言うかなど、結局のところギリスには見当もつかない。
 何しろ背中に翼が生え、天空を舞い、一撃で街を消し去るような武器を使う奴らなのだ。
 ギリスの魔法がいかに強大でも、そんな天使には到底敵わないだろう。
 あきらめるしかない。
 ギリスはいさぎよくそう思った。
 考えても分からないことを考えると疲れる。
 そんなことに時を費やすよりは、他にやるべき事が今のギリスには沢山あった。
 新星はその後ギリスを殴ってはこない。
 鷹を飛ばした夜、スィグル・レイラスは歩哨ほしょうの塔の上で延々と自身の治癒術を振るったが、殴られたギリスの顔は期待したほど治らなかった。
 れは引いたが青いあとが残り、魔法でいくらかは治ったんだか、それとも治ってないんだか分からない程度だった。
 しばらく使っていなかったからと、スィグル・レイラスは青ざめて言い訳をしていた。
 魔法は使っていないと鈍るものだ。
 だから魔法戦士は死を覚悟しながらでも、日々の鍛錬たんれんを欠かさぬようにしている。
 元々大したもんでもない、頭に石のない魔導士が、しばらく怠けた後にできることなど、たかが知れている。
 ギリスがそう言うと、スィグルはまたあの殴る時の目をしたが、殴らなかった。
 その代わりにスィグルは、お前のせいで寒いとギリスに文句を言い、もうじき夜明けだから眠る暇がないと文句を言った。
 そして、このままの乱れたなり玉座の間ダロワージ朝議ちょうぎに出て、父上に挨拶するわけにはいかないので、急いで戻って風呂に入らねばならず、朝飯を食う暇がないと文句を言った。
 それが全部、ギリスのせいだと新星は言っていた。
 そうなのか。ギリスはそう悩んだが、いちいち反論していてはらちが開かない。
 朝議ちょうぎまでの時間がないのは間違いなかった。
 帰りも鷹匠たかじょうの昇降機を使おうと言うスィグルを説得し、ギリスは第一階層の兵に命じて王族が乗っても良さそうな馬を引いてこさせた。
 あいにくそういう馬の用意は無かったが、王族の礼装で歩いては帰れない。
 幸いタンジールには王宮に向かう王族や貴人専用の道がある。そこなら着崩れた王族の王子が兵士の馬で駆け抜けても、ギリギリ誰にもバレないだろう。
 ギリスはそう思い、兵士の馬のくらが硬いのどうのこうのと、つべこべ文句を言うスィグル・レイラスが乗る馬の尻にむちをくれた。
 まさか落馬はしないだろうと心配したが、この新星は乗馬が上手かった。
 馬は軍馬で、よく訓練されていたが、王族用の大人しい名馬ではない。
 むちに従い、馬はめちゃくちゃに走ったが、スィグルは笑うだけで、振り落とされそうには見えなかった。
 なかなかだな。
 ギリスは満足して新星の乗馬を見たが、手綱たづなさばきがずいぶん荒っぽいのでひやひやした。
 臆病なのか度胸があるのか、さっぱりわからない奴だ。
 予定外の朝駆けとなり、砂じみて汗まみれの帰投となったが、王宮の門で思いがけず足止めされた。
 出て行った記録のない者が馬で駆け戻ったのだから、偽物か、死霊でも出たかと思われたのだろう。
 ギリスは自分の所属を伝え、ついでに門の兵士に自慢の氷結術も見せて好評を博したが、呼び出されて迎えに来たジェレフは怒った顔をしていた。
 デンとはこんなに怒るものかとギリスは驚いた。
 ジェレフは朝議に出るためか正装姿だったが、それでも殴ってきそうだった。
 デンが指輪をしていたので、もしそれをデンが外したら絶対避けなければとギリスは身構えた。
 ジェレフは指輪をした手でジョットどもを殴るような鬼畜ではなかったが、素手なら無いとは言い切れなかった。迎えに現れたジェレフは、そういう目をしていた。
「殿下、居室にお戻りください。護衛も付けず勝手に王宮を出るとは、自殺行為ですよ」
 それでもスィグルには穏やかな声でジェレフはしゃべった。
「僕は王宮からは一歩も出てはいないよ。ギリスが無理矢理、僕を連れ出したんだ」
 スィグルはしれっとそう言った。
 なんだって、と、ギリスは耳を疑ったが、そういえばそうだった。
 第一階層にあった出櫓でやぐらは、スィグルに言わせれば王宮の中だったらしい。
 そこを出て都市の螺旋貫道らせんかんどうに行くには、一旦その出櫓でやぐらの外へ出なくてはならない。王宮の外へ。理屈ではそうだ。
 昇降機で降りるというスィグルを強引に連れ出したのはギリスだった。
 だってあれは危なすぎるだろう。王族が乗るもんじゃないという以前に、人が乗るものじゃないのだ。
 横着おうちゃくをする鷹匠たかじょうの手足がちょん切れるのはいいが、次代じだいの新星がそれでは困るとギリスは判断した。
 間違ってはいないはずだ。
 しかし、ジェレフは自分が連れてきたレダの衛兵が、スィグルを王族の居室のほうへ連れて行くのを見送ってから、急に腕でギリスの首を捕まえてきて、ぎりぎりと締め上げた。
「何を考えてるんだ、お前は。王族なんだぞ、殿下は! お前の遊び仲間じゃないんだ。気軽に連れ歩くんじゃない」
「俺があいつに連れ出されてんだよ。知ってるだろ、ジェレフも」
 引っ捕まえられながら、ギリスは反論した。
「そんな話が王宮で通用すると思ってるのか。少しは自重じちょうしろギリス。お前をかばえる者も、今はそう多くはないぞ」
 小声で教えて、ジェレフはギリスを放り出し、後ろ頭をてのひらでばしんと叩いた。
 そう強くはなかったが、デンこらえている怒りがこもった一撃だった。
「痛えな、ジェレフ」
 ギリスは文句を言った。
「嘘をつくな嘘を! お前が痛いわけないだろ。自分の個人房へやに戻れ。玉座の間ダロワージにはしばらく顔を出すなよ」
 念を押すように言うジェレフの言葉に、ギリスは困った顔をするしかなかった。
 派閥のデンの命令は絶対だが、でもギリスには役目もある。
「それは無理だよ。俺はあいつを守らなきゃいけないんだ。族長の命令だしさ」
「はぁ!?」
 奇怪なものでも見せられたように、デンは呆れて軽く叫んでいた。
「そんなわけないだろ。リューズ様がそんなことお前に命じるわけがない」
 デンはよっぽど自分の考えに自信があるようで、ギリスを全く信じていないようだった。
 でも本当だ。族長は晩餐の後にそう言っていた。
 お前が張り付いて息子を守れと、確かに命じられた。
 族長はこの部族でもっとも位の高いデンなのだ。
 それを凌げるのは族長の射手であり、乳兄弟の兄でもあったイェズラムだけだった。
 つまり、族長の命令があれば、ジェレフの言うことを聞く必要はない。
「本当だもん。嘘だと思うなら朝議で族長に聞けよ」
「族長が認めたということか。お前がレイラス殿下の射手だと」
「別にそうは言ってないけど」
 族長にそんな話をしたか、ギリスには覚えがなかった。ただ隣で飯を食っただけだ。
「リューズ様は察しのいい方だ。あれで十分だよ」
 やれやれと言うように重いため息をつき、ジェレフはなぜか気が重いようだった。
 ギリスは黙ってデンを見つめた。デンが何を嘆いているのか、ギリスには分からなかった。
「何がいけなかった」
 仕方ないので、ギリスは聞くことにした。わからないことは聞くに限る。
 ジェレフはそれにまた、うるさそうなため息をついた。
「そりゃ、いけないだろ。リューズ様がご健在のうちに、次の玉座の話など不敬だ。ご気分が良いはずはない」
「族長のご気分を気にするのは俺の仕事じゃない」
 ギリスが安心して応えると、デンは苦々しい笑い方をして、すでにくしゃくしゃの束髪のギリスの頭を撫でた。
「じゃあ、お前はせいぜい頑張って長生きして、新時代の英雄になるんだな」
 礼服のふところを探って、エル・ジェレフは何かを取り出しギリスに見せた。
 小さな薬箱だった。
 経口の薬や、あるいは毒を持ち歩くために英雄たちが使うものだ。
 意匠を凝らしたものを王都の職人たちが作り、竜の涙に売りつける。
 ジェレフが持っていたものは、貝の殻でできていた。淡く光る白い貝殻を伸して、丸みのある箱の形にしたものだ。縁取りと掛け金は金細工でできていて、異国情緒のあるものだった。
 綺麗だなとギリスは思った。海やら船やら、部族の物語には出てくるが、ギリスは自分の目で海を見たことはない。
「持っとけ。ちゃんとむんだぞ」
「なにこれ」
 毒でもくれたのかと思って、ギリスは顔をしかめた。
 竜の涙は自決用の毒を持っているものだ。石の症状が悪化して、もう生きていられない気がしたら死ねるように、誰も彼もが持ち歩いている。
 しかし、ギリスは持っていなかった。そんなものが必要と思えなかったので。
「毒?」
「馬鹿。違うよ。石封じダグメルだ。施療院から預かってきた」
「こんなのみたくないよ。すごく不味いんだぜ。知らねえんだろジェレフは」
美味うまい薬なんかないよ」
 ふふふと可笑おかしそうに笑い、ジェレフはその小さい薬箱をギリスのふところに勝手に入れてきた。
個人房へやに戻ったら、さっそく一粒め。毎日一個だぞ。忘れるんじゃない。お前の魔法はちょっと抑えるぐらいでも十分だろ」
「お前もそうだろ」
 ギリスが不満の声で言うと、ジェレフは困ったようだった。
 そしてデンは急に神妙な顔になり、ギリスに言った。
「ギリス。長く生きてもあと十数年だ」
「嫌だ」
 急に突きつけられたその話に、ギリスは思わずうめいた。
「大丈夫だ」
 ギリスを宥めるように、ジェレフは言った。
「お前はきっと他の竜の涙より長く生きる。だからエル・イェズラムはお前を射手に選んだんだと俺は思う。お前は強い。でも、それだけでは、何かを成し遂げるのに俺たちの一生は短すぎる。少しでもいい、その薬で時間を作るんだ」
「ジェレフ。お前が服め」
 ギリスは薬を返そうと懐に手を入れたが、取っておけという仕草でジェレフがそれを止めた。
 ジェレフはギリスより、とおも年上だった。
 その計算は単純で、ギリスは考えたくなかった。
「あいにく治癒者に休みはなくてね。けどお前は休んでろ、ギリス。またお前の魔法が必要になるまで」
「嫌だ」
 心底嫌で、ギリスはぼやいたが、デンが気にするとは思えなかった。
 ギリスが少々ごねたところで、死の天使ノルティエ・デュアスはいつも容赦がない。
 時が来れば、ジェレフも連れ去っていくだろう。イェズラムの時のように。
 皆そうやって、この王宮からいなくなってしまうのだ。
「殿下によくお仕えして。ああ見えて優しい子だよ」
「どう見たら優しい子なんだ」
 ギリスのそのぼやきには、ジェレフは励ますように肩を叩いてきた。
「俺はもう行かないと朝議が終わっちまう。族長に出立しゅったつの挨拶をするんだ」
出立しゅったつってなんだよ」
「巡察だよ。次はタンジールより西へ行く。王都を出るのはまだ少し先だけど、旅程が整ったんで族長に報告する」
 ギリスはしかめっつらで押し黙った。
 ジェレフがいないんじゃ、怪我には気をつけなきゃいけないだろう。魔法であっという間に治してくれるデンがいないんじゃ、うっかり大怪我をしたら死ぬかもしれない。
 嫌だなと、ギリスは内心で思った。王都には本当に誰もいなくなってしまう。
「いつ帰るんだ」
「ひと月かふた月したら」
「そんな先じゃあ、スィグルの帰還式に間に合わないだろ」
 ギリスが驚くと、ジェレフは頷いていた。
「そういうことだよ。それが派閥の結論だ。もうちょっと王都にいられると思ったんだが」
 ジェレフは追い出されたのだ。
 派閥の皆はジェレフを、スィグル・レイラスの帰還式に関与させたくないのだろう。
 本来なら派閥を挙げて協力してくれたってよさそうなもんだ。イェズラムの遺志なんだから。
 皆はイェズラムが選んだ星を信じていないのだろうか。
 養父デンが生きてた時には、皆あんなに忠実だったくせに。死んだぐらいでイェズラムを忘れるなんて、卑怯な連中だ。
 裏切られた気持ちで、ギリスはジェレフに渡された薬入れを、懐に感じる違和感とともに握りしめた。
「ギリス。行列に参加する魔法戦士を集める策はあるのか」
「ないよ、そんなもん」
「わかった、俺も何か考える」
 ジェレフはあっさりとそう言って、またギリスの頭を撫でた。
「大丈夫だから、お前も風呂入ってこいよ。臭いぞ、エル・ギリス」
 はっきりとそう言うジェレフの言葉に、ギリスは衝撃を受けた。
「え!? 臭いの!? 俺!?」
 ジェレフは真面目な顔で頷いている。
 派閥では、身だしなみにうるさい。デンたちは大抵どんな時も、きりっとしている。
 それはデンだったイェズラムが洒落者しゃれものだったからだ。派手に着飾るわけではないのに、養父デンはいつも格好がよく、誰かがだらしないなりをしていると、いつも無言で眉をひそめた。
 養父デンはいつも王宮の竜の涙の手本だったのだ。
 俺は今、だらしないんじゃないか。ギリスはそれにやっと気づき、少しおろおろしてきた。
 その目を見て、ジェレフがにやっと笑って言った。
「風呂に入って薬飲め。それからちょっと寝ろ。殿下にはレダの護衛を手配した。安心しろ」
「ジェレフ。行かないでよ」
 ギリスはやっと言うべき言葉が見つかった気がして、そう言った。
「悪いな。悪党ヴァンギリス。お前にそう言われると俺は気色悪い」
 ジェレフは満足げに言うと、ギリスの肩を叩いて去った。
 デン玉座の間ダロワージに行くのだ。そして近々、王都からいなくなる。
 誰を頼れる訳でもないのだ。
 そう思うと、胃のあたりがもやもやとした。
 おそらく腹が減っているのだろう。ギリスはそう思った。
 だが、しばらく眠って、飯を食ったら、きっと忘れられる。そんなことで立ち止まっている暇はもうないのだ。
 懐にある貝の薬入れを握ると、そこに時間が詰まっている気がした。
 時間が欲しい。早く皆が見上げるような英雄になりたい。
 だが、それは自分の死に近づくことでもあり、どうすればいいのかギリスにはわからなかった。
 どうすれば。そう悩みながらギリスは自分の個人房へやを目指して、王宮の廊下を足早に歩き出した。

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026 侍女

「また朝帰りでございますか」
 考え事をしながらギリスが侍女に髪をかせていると、いつも無言のはずの、その部屋付き女が急に文句を言った。
 ギリスは驚いて目を開いた。
 風呂に入って髪を洗い、自分でくのは面倒なので侍女を呼んだ。
 身支度を手伝ったり部屋を片付けたり、食事の上げ下げのために、王宮の部屋には少なくとも一人は担当の侍女がいる。それ以上いる場合もあるが、ギリスの部屋には一人だ。
 侍女は部屋にではなく主人に仕えるもので、長老会に部屋替えを命じられた時、この女も一緒についてきた。
 ギリスがそう命じたわけではなく、黙っていてもついてくる。
 侍女には侍女頭じじょがしらがいて、特に主人たちからの要望がなければ、女たちが勝手に配属を決めている。ギリスは別に誰でもよかったので、部屋替えについてこいとは特に言わなかった。
 それでも別の部屋にも、同じ侍女がしれっと付いてきていて、いつもと変わらず仕えている。便利なので、ギリスには文句はなかった。
 もともとはイェズラムに仕えていた女で、ついでに隣室のギリスの世話もしていたが、養父デンの死後はギリスが貰い受けた形だ。
 無愛想な侍女だが、ほとんど口を利かないのがいいところで、何が良いわけでもないが、悪くもなかった。
 文句があるとしたら、やけに背が高い女で、長身だった養父デンは平気だったのだろうが、ギリスはまだ背丈でこの侍女に負けていた。
 まさか追い越せないのではないだろうなと、薄らと思う。
 そのくらい、やけに背の大きい女で、体つきもなよやかとは言い難い。
 男装している女英雄たちのほうが、余程よほどまだ女らしい。
 侍女も、やはり姿形すがたかたちの美しい者から順に玉座の近くに仕えるものだ。
 英雄たちに仕えるのも、この王宮では大きな名誉ではあるが、王族の部屋に仕える女たちが薔薇ばら百合ゆりだとすれば、この侍女はあざみだった。
 だが一応、花ではある。花のような服を着ていた。侍女のお仕着せの宮廷衣装だ。
 その花のような透ける薄紅の袖が、恐ろしく似合わない女だった。
 ギリスは浴用の布をかけた背もたれつきの椅子にぐったりともたれたまま、くしを握る侍女を見上げた。
「何か言ったか」
「申しました。失礼ながら、悪い噂を聞きました。エル・ギリス」
 女はにこりともしない真顔で、上からギリスの顔を覗き込んで言ってきた。
「わたくしの同僚のある侍女が、あなた様を恐ろしいお方だと。わたくしはそうは思いませんので、大層困惑しております」
 女は臆する気配もなく、ぺらぺらと話した。
 普段、無駄口は一切しゃべらない女なので、これでひと月分か、下手をしたら一年分ほどもしゃべったのではないかと、ギリスはあんぐりとした。
しゃべれんのか、お前」
「当たり前でございます。私は舌を抜かれるようなヘマはいたしません」
「抜かれる奴いるのか」
 うんざりしてギリスは尋ねた。
「後宮の奥底にはそんな者もいるらしいですよ」
 無表情に言う女はまたギリスの髪を梳き始めた。
「あなた様からおとがめがあるのではと恐れている侍女がおりまして、相談を受けました」
「えっ誰……
 本気で心当たりがなく、ギリスは悩んだ。その眉を寄せて考える有り様を侍女はじっと見ており、二度三度くしを通してから、ギリスが変わらないのを見て言った。
「お忘れなので心配無用と伝えておきます」
「何の話か言ってくれ」
 そうでないと気になってしょうがない。ギリスは懇願する気持ちで侍女を見上げた。
「お怪我なされましたよね。昨夜。一番良い長衣ジュラバに血が」
「もしかして俺を刺した女か」
 その女の青ざめた顔が急に脳裏にひらめいて、ギリスは納得した。間違いない。
 しかしぐしの女はうなずかなかった。
「他にもお心当たりが?」
 何を考えているのか全く読めない無表情で、長身の侍女は言った。
 ギリスもよく無表情だととがめられるが、この女ほどではない。
 こいつに比べたら自分にはまだ、にっこりと笑う時もあれば、怒っている時だってあろうと思えた。
「他は無い。あったら教えてくれ」
「まさしく、その侍女でございます」
 しれっと女は答えた。
 ギリスは天井を見上げて渋面じゅうめんになった。
「何でそんな遠回しな言い方するんだよ。やめて」
「他にも刺されておいでかもしれませんので」
 ぐしでギリスのほほを示してきて、侍女は真顔で言った。
「いや、これは王族の殿下に殴られたんだよ」
「急にご苦労様でございますね」
 しみじみと無表情に女は言った。
「お前……何が言いたいの」
「侍女におとがめが無いのであれば無いと、お伝えくださいませんか。おびえてずっと寝床で泣いておりますので」
 それがうるさいという口調で女が言うので、ギリスはびっくりした。
「一緒に寝てんの⁉︎」
「侍女は大部屋でございます」
 きっぱりと侍女は言った。
「え……そうなのか。何で王族の部屋の女が、お前と同じ部屋なんだよ。全員が同じ部屋なのか?」
 ものすごく広い大部屋に寝台がずらっと並び、そこに花のような服装の女どもがぎっしり寝ているのを空想して、ギリスは鼻白んだ。そんな部屋がこの王宮のどこかにあるのか。
「いいえ。違います。私とその侍女が大部屋におりますのは、申し上げにくいですが、あまり期待されていないからでございますね」
 さらりと他人事のようにぐしの女は言った。
「英雄にお仕えするのは名誉なお役目ではございますが、あまり旨味うまみはないのです。あなた様方は婚姻もなさいませんし、外にご親族もいらっしゃらない。戦いで亡くなられることも多いので、せっかくお仕えしても無駄になることも。野心のある者がやるお役目ではございません」
 ずいぶん率直に女は言った。
「それと何の関係がある」
「その侍女も、見込みのないお方にお支えしております。それで私たちは同じ部屋に」
 ギリスは侍女の話に納得がいって、髪をかれながら小さくうなずいた。
「スフィル・リルナム殿下か」
「さようです」
「実は新しい侍女が要るんだ。誰に頼めばいい」
 ギリスは髪をき終えたらしい侍女が、くしに絡んだ抜け毛を取り除いて、それを手布にはさんで仕舞うのを横目に見た。
「何やってるんだ、それ」
 ふと不思議に思ってギリスが聞くと、女も不思議そうな顔をした。
「商人に売ります」
「え……
 驚いて言葉がなく、ギリスは唖然とした。貧窮して髪を売る者が市井にはいると習ったことがあるが、ギリスは自分がそこまで貧窮しているという自覚はなかった。
「なんで髪の毛が売れるんだ」
「英雄の御髪おぐしなので」
 侍女は真顔で、さも当たり前のように言った。
「イェズラムのも売ってたのか?」
「はい」
養父デンはそれをお前に許してたのか」
「いいえ。ご存知ありませんでした。お尋ねにもなりませんでしたし」
 たまたま聞いたから判明したらしい、養父デンも知らなかった事実に、ギリスはひたすらあんぐりとした。
「新しい侍女をお求めとか。わたくしでは何か不足がございましたでしょうか」
 侍女は無表情なりに、いくらか済まなそうに言った。
 だが、そう思うのはギリスの気のせいだったかもしれない。そうに違いないと思っただけで、女の顔はずっと同じだった。
「いや……お前はよくやってる。たぶん。その髪は誰が買うんだ」
「市井の者たちです。英雄の御髪おぐしはお守りになるのです。あなた様のも」
「抜け毛だぞ、だだの」
 それを誰かが買っていると思うと気味が悪い気がして、ギリスはまだ驚いていた。
 それを見て、侍女が急にふふっと笑った。
「ご存知なかったんですね。やっぱり。あなた様は部族の英雄です。エル・イェズラムはもちろんですが、ギリス様もヤンファールの英雄ではないですか。玉座の間ダロワージからの朝帰りはお控えください。昨晩のように、お役目ならよいのですが、誇りある英雄には品行も大切です。痛飲なさるのがお体に良い訳はありません」
 女はすらすらと百年分ほどもしゃべった気がした。
「え……
英雄譚ダージに恥じるような行いは、どうぞおつつしみくださいませ」
「はい……
 絹糸でギリスの髪を束髪にくくっている侍女に言われて、おとなしくギリスは答えた。反論の余地がなかった。
「お前の名前ってなんだっけ」
「キーラと申します」
 侍女はてきぱきと適当な髪飾りでギリスの頭を仕上げた。
 何を身につけるか細かく指示する者も魔法戦士にはいるらしいが、ギリスは面倒なので侍女に任せていた。そもそも、身につけるものなど、自分が何を持っているのかもほとんど知らない。
 この侍女のほうがよく知っているだろう。
「キーラ、レイラス殿下をどう思う。弟のほうよりマシな侍女を見繕みつくろえるか」
「無理でございますね。あのお方は侍女を食うと言われています。そんな殿下にお仕えしたい者などおりません」
「食うわけないだろ」
 呆れてギリスは言った。
 これだけ食い物がある王宮で人を食うなら、あいつはよっぽどおかしいのだ。スィグル・レイラスはそうは見えない。
 実際にはむしろ血肉にならないようなものばかり食っていて、身体はひょろひょろだ。もっと食わせないといけない。
 ギリスにはそう思えたが、皆、知らないのだった。誰もまだ新星レイラスを知らない。
「万が一ということもございます。そうでなくても皆、既に主人あるじがおりますので、そこをしてまでレイラス殿下にお仕えするのは……
「キーラ」
 ギリスは人にものを頼み込む時の目をした。
「誰か探してきてくれないか」
「嫌でございます。わたくしはあなた様の衣装係です。それ以上のお役目がないのが、わたくしがあなた様にお仕えする理由です」
 きっぱりと侍女は断ってきた。
「お菓子を買ってきてくれたじゃないか」
 すがり付く目で、ギリスは言ってみた。
 人にものを頼むときはその顔をしろと養父デンが言っていた表情かおだ。
 それを見てキーラは少し嫌そうな顔をした。
「それぐらいはおおせつかります。わたくしも味見をして良いとおおせだったでしょう」
「新しい侍女にやるお菓子も買いに行っていい。見た目なんかどうでもいいから、頭がいいか、腕が立つか、その両方いけるのを集めてくれ。必ず、恩に報いる」
 この侍女に叩頭こうとうしてもよい気持ちで、ギリスは頼んだ。
 それ以外にはギリスには宛てがなく、また長老会のエレンディラに叩頭するしかない。それも度々たびたびとなると良くない気がしたのだ。
 自力で手配しようと思えば、ギリスには、一面識もない侍女頭じじょがしらを探し出して、直談判するより他になかった。彼女らが王宮のどこで何をしているのかも、ギリスはよく知らない。
 でも、侍女なら目の前にいると、たった今気付いたのだ。この女が話しかけてきたお陰で。
「近々、レイラス殿下は部屋替えだ。それまでに、まずは数人集めて欲しい。お前が行くなら、お前も数に入れていい」
「一体、人喰いの殿下にどんな旨味うまみが」
 キーラは全くもって嫌だという顔だった。
 そこまで嫌がられるとは、新星もよほど人望がない。
「あいつが次の族長なんだぞ」
 ギリスが真顔で断言すると、キーラはギリスの予想外に青ざめた。彼女がなにも言わないので、ギリスはさらに押した。
「玉座に仕えられる。名誉の極みだろ?」
「それはかなり恐ろしいお話でございますね」
「なんでだよ」
 色良い返事をしない侍女に、ギリスは肩透かしを食った。宮仕みやづかえの女なら喜んで飛びつくと思ったのだが、計算違いだ。
「その殿下は英雄のほほをお打ちになるようなお方なのですよ。そんなお方がリューズ様のような名君におなりになるでしょうか」
「ああ、いや。それは……
 なんでスィグルは顔の青痣あおあざを治せるところまで頑張らなかったのかと、ギリスは悔やんだ。
「わたくしは嵐から遠いところで、穏やかに務めたいのでございます。そういう場所も、王宮ではそうそうあるものではございませんのに」
 ため息をついて、侍女はやれやれというようにギリスを見た。
「わたくしを、あなた様のお側から他所よそへはおやりにならぬとお約束くださるなら、お手伝いいたします」
「お前、俺が好きだったのか」
 驚いて、ギリスは長身の女を見上げた。
「はい。お役目が少ないので」
 女は真顔できっぱりと言った。
「それに御髪おぐしも高値で売れます」
 それがとても良いことのようにキーラは言った。
 ギリスは自分が毛を刈られる羊か砂牛にでもなった気がした。
「お前、もしかして俺の髪を売って自分がもうけてるのか」
「いけませんか」
 女は不思議そうだった。
 いけないのかどうか、ギリスは検討した。
 でも養父デンもこの女をずっと野放しにしていたのだ。それなら、それで悪くはないということだろうか。
 それとも養父デンも本当に知らなかったのではないか。あらゆることに精通していた養父デンだったが、この侍女の商売には気付いていなかったのでは。
 そう思うと、ギリスは混乱で訳が分からなくなりそうだった。
「王宮でのお役目からの俸給が少ないのを、補うものが何か必要です。ごみになるものが利を産むのなら良いことでございましょう」
「わかった。好きにしていい」
 ギリスはそれ以上考えるのが無理な気がして、侍女を許した。
「結構でございます。知る限りの者に声をかけてみます。レイラス殿下が次代の玉座の君と、皆に話してもよろしゅうございますか」
「話せ」
 ギリスは軽率に許した。それにキーラは無表情に頷いた。
「しばらくお待ちを」
 手早く髪結かみゆいの道具類を片付けて、侍女はさっそく奥に消えるようだった。
「あっ、ちょっと待って」
 ギリスははっとして、キーラを呼び止めた。侍女は不思議そうに振り返って、ギリスを見た。
「正直に言ってくれ。俺って臭い?」
 ギリスが尋ねると、キーラはさらに不思議そうに首をひねっていた。
「いいえ? 何故でございますか」
 真顔で答える侍女を、ギリスは信用することにした。信用に足る女に違いない。そうでないと困るのだった。

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027 衛兵

 ギリスは新星の尊顔を拝しに行った。
 主君の顔は毎日見るものだと養父デンは言っていた。
 毎日見れば、それが名君の顔か、暗君の顔か、分かるようになるのだという。
 族長リューズは日によって違う。養父デンはそう言っていたが、ギリスにはその違いが分かったことはない。
 玉座の間ダロワージで見る族長リューズは、いつも同じ顔をしていた。
 先祖伝来の美しい顔が浮かべる優雅で不敵な笑み。眼光鋭い黄金の蛇眼じゃがん。老いを知らない快活な姿。常勝不敗の名君の顔だ。
 それでも毎日違うと、養父デンは言っており、治世の始めには朝夕拝んで新星の機嫌をとった。それが射手の仕事だとイェズラムは言っていた。
 それなら、そうなのだろう。賢いイェズラムがそう言うのだからと、ギリスは頭から丸呑みに信じていた。疑う余地がない。
 ならば自分も、養父デンならい、新しい星の尊顔を朝夕拝んで確かめねばならない。それが今日も輝いているかどうかを。
 ギリスが自分の個人房へやを出て、新星スィグル・レイラスの住む王族の子供部屋があるほうへ向かうと、そこはずいぶん遠い。朝夕通うにしては、やはり不便だった。
 部屋替えさせねばならない。
 大体、もう元服もして、早二年になるという王族の男子が、おもちゃが吊るしてある部屋で寝ているというのは、いかがなものか。それを見ている者は部屋付きの侍女くらいだが、女どもはおしゃべりだ。
 あの殿下がどうしたこうしたという話は、まことしやかに後宮から漏れてくる。王宮は、それくらいしか娯楽のない世界だ。まことしやかな嘘や真実が渾然となって玉座の間ダロワージを行き交う。
 新星にまつわる悪い噂は枚挙まいきょいとまがない。
 人を食うというのもそうだし、敵と通じているというのもそうだ。
 それにあの全く屈強さのない姿体。すぐに死ぬのではないかと言う者もいた。
 長命は名君の誉れであったが、しかし、アンフィバロウ家には短命の者も多い。
 太祖アンフィバロウは驚くほど長く生きたと伝えられているが、その子孫には長命の恵みを残さなかった。
 当代の父親だった族長デールも、今の族長の年齢より少々生きたあたりで死没した。それが寿命なのか、それとも何事かの不運だったのかは、ギリスには分からない。とにかく死んだ。
 そしてイェズラムの新しい星だった名君リューズ・スィノニムの、輝ける時代が始まったのだ。
 その星がいつ落ちるのか、ギリスは知らなかった。
 族長には幸い、多くの治癒者が仕えている。当代の奇跡と族長自らがめそやすエル・ジェレフを始め、この代には優秀な治癒者が多く輩出している。
 それは偶然だろうが、族長の持つ強運だと言えた。
 自分の命を投げ打ってでも族長を生かそうとする施療院せりょういんの英雄が幾人もいる。
 だから、あの星は当分は落ちないだろう。皆もそう思っている。
 太祖にも案外、そういった、惜しみなく命を分け与えてくれる献身的な英雄が何人もいたのかもしれない。
 彼らの英雄譚ダージは伝えられてはいないが、全ての英雄の行いが英雄譚ダージに記録されている訳ではない。当代はそれに熱心だが、過去にはほとんど詩人に飯をやらないケチな族長もいた。
 記録はない。
 それでも、新星の寿命は、治癒者の命であがなうことができる。これは事実だ。
 良い治世を行えば、族長はその分、長生きするものなのだ。
 だからギリスは心配はしていないが、皆は心配なのだろう。短命の族長は部族に混乱を引き起こす。
 皆の信用を得るには、新星スィグル・レイラスの健康さを、皆に知らしめねばならない。
 しかし。どうやって、と、ギリスは思案しながら王宮の廊下を足速に歩いた。
 考えるべきことは多く、自分の知恵はいつも足りなかった。
 それでも、何か手はあるだろう。あきらめるのは愚か者のすることだ。養父デンもいつもそう言っていた。いつも。
 ギリスは足を止めて、到着したスィグル・レイラスの居室の扉を見やった。
 レダの衛兵が四人、そこを守っている。
 それを見てギリスは満足し、にっこりとした。
 王族の居室の警護の、正しい有様だ。
 後ろ盾が強権であれば、常に六人、八人と大勢立たせている殿下もいる。
 衛兵を管理しているのは、王宮の武官たちだ。彼らに顔が効くかどうかが、そこに現れる。
 衛兵にも等級があり、最上級のアスハは族長の警護しかしない。
 その下のレダが、名前に殿下とつく者たちが使える最上の護衛兵だ。
 それより下位の者がアンフィバロウの血族を守ることはない。ヘスは一番下の門の番兵だ。
 舐めるんじゃねえぞと、ギリスは内心に独り言ちた。
 誰の差金かは知らないが、新星レイラスの周囲には、ふさわしくない者が仕えている。
 先ほど聞いてきた侍女の話にしてもそうだ。王族の側仕えをするような者ではない侍女が回されて来ているのだ。
 正気を失っているスフィル・リルナムが王宮で不遇なのは致し方ないが、まだ正気を保っているスィグル・レイラスが、大人しくその待遇に甘んじることはない。
 ジェレフも言っていたように、スィグル・レイラスはアンフィバロウの直系にしては健康だ。
 それに乗馬も上手かった。
 ギリスは他の殿下が馬に乗るのを見たことがあるが、あいつらは優雅に並足でしか走らない。王族は危険を冒さないものなのだ。
 だから族長リューズが戦場でいつも兵と共に先陣を切るのに、皆が度肝を抜かれ、心を掴まれた。
 民も兵も詩人たちも、次代以降の族長には、同じものを要求するだろう。奥に引っ込んでいられない以上、あのクソ度胸は新星の必要条件だ。スィグルも先陣に立たねばならぬ。
 それにギリスを殴ってきたあの拳骨げんこつは、不慣れだったとはいえ、なかなかのものだった。
 まだ弱いだけで、あいつは俺を殺す気で殴ってきていた。
 ギリスにはそれは、新星の好ましい要素に思えた。
 部屋付きの侍女キーラも言っていたではないか。
 あの新星は、英雄を殴るような恐ろしい殿下だと。しかも人を食う。
 今はまだ、それは悪い噂だが、舐められるよりはいい。
 この王宮では、弱いと思われた者は果てしなく落ちるしかない。見くびられるのに比べたら、恐れられてでも、一目置かれるほうが何倍もマシだ。
 それはギリスの考えだが、そのような思考によって、ギリスは王宮での英雄暮らしを生きてきた。
 殴ってくるやつには、殴り返さねばならない。もし黙って殴られていたら、今日には一発だった拳骨が、明日には二発になる。それがこの世の掟だ。
 俺を殴ったあいつは正しい。それを知っているスィグル・レイラスは、まず合格と言えた。
「スィグル・レイラス殿下にお目通りしたい。エル・ギリスが来たと申し伝えよ」
 ギリスはレダ徽章きしょうの衛兵の前へ言って、そう口上を述べた。
 衛兵たちはギリスより上背があり、よろいまとっていても、その下の肉体は屈強そうに見えた。
 戦っても、四人いるとなると、ギリスには勝てないだろう。魔法が使えないのであれば。
 兵は儀仗礼ぎじょうれいをとらず、じろりとギリスをにらむ目で見てくる。
 おいおい俺は英雄エルだぞと、ギリスは胸を張って見返したが、衛兵たちは気にしないようだった。
 さすがはジェレフが手配した連中だ。
 氷の蛇と英雄譚ダージうたう、当代随一ずいいちの氷結術者、英雄エルギリスを恐れないとは、馬鹿ではないとしたら、只者ではない。見上げたものだ。
「殿下にお伺いして参ります。しばしお待ちを」
 衛兵は帰れと言う声でそう言った。
 四人のうちの端の一人が伝声管のしまってある小さい戸を開き、中の侍女にエル・ギリス来訪を知らせた。
 管にしゃべる合間にも、そいつはギリスを見ていた。
 ヘスの衛兵をギリスが蹴り倒したのが、こいつらはよっぽど気に食わないのだろう。
 ヘスジョットでもいたのか。蹴り返されないようにしないとと、ギリスはにやにやして待った。
 やがて扉が開き、中の玄関から侍女が青ざめた顔で現れた。
 彼女はひそやかに、レダの兵に主人の意向を告げ、またすぐ扉の向こうに身を隠した。
 衛兵はギリスに向き直り、迷惑そうな声で主人の返事を告げた。
「レイラス殿下がお目通りをお許しになりました」
 その重苦しい声に、ギリスはにっこりとした。
「役目ご苦労」
 ギリスがねぎらうと、衛兵たちは渋々のように、美しい所作でやりを構え儀仗礼ぎじょうれいをとった。
 英雄たちは、たとえ幼少であっても王宮の序列では準王族だ。
 ギリスももちろん、儀仗礼ぎじょうれいで迎えられるご身分だった。
 額の石がよく見えるように、ギリスはあごをあげて衛兵の横を通ってやった。

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028 再会

 ギリスが部屋に入ると、スィグル・レイラスは文机で絵を描いていた。
 それでも入り口で叩頭こうとうしない訳にもいかず、ギリスは床に絵の散っている部屋を見て驚きながら、戸をくぐってすぐの床の敷物の上で跪拝叩頭きはいこうとうした。
 それを受けるべき主人のための上座かみざには誰もいないが、そっちを向くべきか、それとも居間のすみしつらえられた文机のほうを向くべきか、ギリスは困って、その中間あたりに叩頭した。
 なぜ主人の座で出迎えないのか、ギリスは内心唖然として、まだ描いている新星の背中を見た。
「おはよう。良く眠れたか、ギリス」
 こちらを見もせずに、スィグル・レイラスは筆を持ったまま言った。
「寝てない。昨夜ゆうべはお前と第一階層で夜明かしだっただろう」
 憶えてないのかと危ぶんで、ギリスは新星の正気を疑った。実は弟同様、こいつもおかしいのだろうか。
「僕も寝てない。お前のせいだ。ものすごく眠い」
 怒った声でスィグルは言っていた。
 朝議には出たのか、スィグルはもう居室で過ごすための普段着の長衣ジュラバを着ていた。
 普段着と言っても、王族が身につけるもので、庶民ならひと財産になるような華麗なものだが、朝議に臨席するための宝物ほうもつのような宮廷衣装と比べれば、まだ不自由なく日常を過ごせる程度の華美さだ。
 英雄達の普段の宮廷着とさほど変わらない。
「間に合ったのか、朝議には」
「間に合った。僕は末席なのでね。玉座の間ダロワージに入る順番が遅いんだ。第一王子じゃなくて良かったよ」
「十六番目だもんな」
 ギリスが納得して言うと、新星はムッとした顔でこちらを振り返った。
 見る限り、その顔が怒っているようだったので、ギリスは何故、何を怒られているのかと身構えた。
「朝議は僕一人で針のむしろだったぞ、ギリス。なぜ来ないんだ、お前は。今まで何してた」
「えっ」
 予想外の叱責を受けて、ギリスはぽかんとした。新星は怒っているようだった。
「父上までが僕に、お前の氷の蛇はどうしたと仰せだったぞ」
「えっ、俺のことだよな、それ」
 ギリスは素直に驚いて答えた。昨夜ゆうべの今朝で、もうそんな話になっているとは。
 玉座の間ダロワージではもう、英雄エルギリスは新星スィグル・レイラスに付いたのだと、皆が理解しているらしい。話が早い。察しのいい連中で良かった。
 しかしスィグルは喜んではいないようだった。
「知らない、たぶん部屋で寝ているとお伝えしたら、皆、笑っていた」
 それが途方もない屈辱だというように、スィグルは苦々しく言ったが、ギリスも可笑おかしかったので笑った。皆が笑うなら、笑うところかと思ったのだ。
 でも違っていた。
 新星が物を投げてきたので、それが分かった。
 まだ濡れているすみかたまりが飛んできて、ギリスはサッと避けた。
 避けないと、また一着、ギリスの長衣ジュラバが駄目になるではないか。
 服は大事にしろと養父デンが言っていた。
 王宮ではありふれた物に見えるだろうが、どれも市井の者から見れば高価な品だ。つつましい庶民が一月、一年と家族を食わせられるような金額が、その一着と引き換えられている。粗略そりゃくには扱うなと言い含められていたので、ギリスは今もその教えを守っているつもりだ。
 昨夜のように、時々は守れない時もあるが、その時も本当に養父デンには済まないと思っている。
 二日続けて服を駄目にしたら、さすがにイェズラムに顔向けがしにくい。
「避けるな。お前に当ててやろうと思って投げているのに。墨はそれ一個しかないんだぞ。次は文鎮ぶんちんを投げる」
「そんなもん当たったらまた怪我してジェレフを呼ぶ羽目になる」
「では止すよ。ジェレフに悪いからな。でも、気持ちの上では僕は今、文鎮ぶんちんを投げて、お前の脳天に当てたから、お前もそのつもりでいろ」
 架空の鈍器が新星レイラスから投擲とうてきされ、ギリスに当たったらしい。
 その放物線を空中に想像して、ギリスは妙な気持ちになった。妙なことを言う殿下だ。やっぱりおかしい。
 他にこんなことをギリスに言う者はいない。
 滅多にいないと言うべきか。
 新星の話振りはどこか、亡きイェズラムを思わせたのだ。
 養父デンは族長の乳兄弟で、育ての親みたいなものらしいが、新星はその養父デンが育てた弟、族長リューズ・スィノニムの息子なのだから、それで似ているのか。
 そんな訳はなかった。赤の他人だ。
 ただ単に、どちらも皮肉屋なのだろう。良く似ていた。
「スィグル。族長はお前にいつ話しかけた」
「朝議の席でだ。決まってるだろ」
「十六番目にか」
 ギリスが尋ねると、もう怒りながら筆を動かしていたスィグル・レイラスは、筆を止め、また振り返った。
「いいや。最初にだ」
「それならお前が第一王子だ」
 ギリスがそう言うと、新星は沈黙した。そういう考えはなかったらしい。
 朝議に行けばよかったかと、ギリスは後悔した。
 ジェレフが個人房へやに戻って寝ろなどと言わなければ、そうしたのかもしれなかった。
 新星はしばらく考えてから、険しい顔でギリスに答えてきた。
「違うね。まだ僕の席は末席だし、第十六王子だ。皆には大勢取り巻きがいるけど、僕は玉座の間ダロワージで一人だったぞ、エル・ギリス」
「済まなかった」
「分かればいい」
 まだ怒っている声で、新星は答えた。
「族長は、他には何か言ったか」
「何もおっしゃらなかった。氷の蛇はどこかとお尋ねになっただけだ」
「今夜の晩餐から、お前の席に側仕えとしてはべる。それでもいいか」
「いいわけないだろ。お前がずっといると思うと食事が不味まずくなる。なんでお前なんだ」
「どうせ味しないんだから、いいじゃん」
 ギリスは悪気なく言ったつもりだったが、新星は今度こそ実在する文鎮ぶんちんを投げてきそうな目で振り返った。
 ギリスはそれを覚悟して、身構えて話した。
「ジェレフは頼んでも来ないよ。あいつはお前の味方じゃないんだ。あいつも、他の皆も、全部がお前の親父のもんだ。俺しかいない、お前にはまだ」
 ずっとそうだと困るが、新星には他に、宮廷で頼れる英雄も、官僚も、将軍もいない。
 他の殿下には、それがいる。スィグルはそれを気にしているのだろう。
 宮廷の者たちは、自分がどの殿下を推挙しているのかを族長に示すため、朝議や晩餐のときに王子たちの席に側仕えとしてはべる。そういう習慣だ。
 王族の席の背後にある場所に、ただ座って居るだけだが、そうすれば信奉する主君との蜜月の関係が誰の目にも明らかなので、根付いた習慣なのだろう。
 座る席はそう広くはない。主君が格別に許した、特に信を置く者だけが、そこに座れる。
 新星レイラスの席は空っぽだ。それどころか昨夜までは、席そのものが無かった。
「今夜、晩餐の呼び出しが来るかもわからないんだぞ」
 不安げに新星が言うので、ギリスは思わずくすっと笑った。
 英雄に平気で文鎮ぶんちんを投げる割には、自分のこととなると気の弱いジョットだった。
「来るさ。来なかったらまた族長の隣で飯を食えばいい」
「そんなこと何日も許されるわけがない」
「そうだな。だからお前の席はあるさ」
 ギリスが確信して言うと、スィグルはまた苦々しい顔でギリスを見た。
「それをお前はちゃんとその頭で考えてやっているのか、エル・ギリス」
「どうだろうな。自分でも分からないんだよ。でも晩餐には出られたし、一緒に飯食う英雄も手配できただろ」
「その英雄っていうのはお前だろ。お前がお前を手配できても当たり前だろ」
 英雄ギリスが気に食わないのか、スィグルはまだにっこりとは笑わなかった。
 可愛げのない、しかめっ面だ。
 ギリスは困って、遠い戸口に座ったまま、スィグルに両手を広げて見せた。
 英雄たちにとっては、それは降参という意味だ。
「知らないなら、詩人を呼んで俺の英雄譚ダージを聞けよ。イェズラムが死んだ今、一撃で守護生物トゥラシェを殺せる魔法戦士は、この宮廷で俺だけだ。お前はその主人あるじなんだぞ」
「もういくさはない。お前がいくら強くても、僕には関係ないんだ」
 スィグルはきっぱりと言った。
 その言葉に、何か答えようとして、ギリスは自分の頭が真っ白になった気がした。
 なんと答えていいか分からない。
「何を言ってるんだ……お前」
 そうとしか言えず、ギリスは困惑した。
「来い」
 新星は短く呼んで、ぞんざいにあごでギリスを招いた。
 そのような態度をとられる筋合いではないと思うが、これも王族だからなのか。
 ギリスはうっすら渋面になったが、主君が来いというのだ。側に行かねばならなかった。
 仕方なく立ち上がり、ギリスは床に落ちている絵を踏まないように歩いた。
 白い紙には墨の線だけで、建物やら人の絵が描かれており、上手かった。
 まるで宮廷絵師の絵のようだ。それ以上かもしれなかった。
 ギリスは不思議な気持ちでそれを眺め、新星の脇にあった僅かの合間に座った。
 円座もないただの床だが、そこにしか座るところがない。
「見ろ」
 新星は一枚の絵を摘み、ギリスの眼前にひらりと下げた。
 薄紙の上に、イェズラムがいた。
 ギリスはそれに言い知れぬ衝撃を受けた。文鎮ぶんちんで脳天を殴られたような。
 紙の中のイェズラムは、武装しており、馬に乗っていた。しかし、くつろいで煙管きせるを吸っており、遠くを見るような目をしていた。
 その背景に、ギリスには見慣れない、尖った山のようなものが簡略化して描かれている。
 墨一色の線で描かれていたが、ギリスには絵の中の色が見えるような気がした。
 養父デンが着ていた、その鎧の色を知っている。火炎術師らしい、燃えるような赤だ。
「似てるか」
 スィグルはムッとしたような顔のままで、ギリスにそう聞いた。
 黙って頷き、ギリスは絵を見続けた。まるで養父デンが悪い魔法で、紙の中に囚われているようだ。
 イェズラムの遺骸は王都に戻らなかった。だた頭の中の石だけが戻り、遺体はどこかもわからぬ異郷に埋まっているという。
 それを思い出すと、ギリスは気が狂いそうだと思った。
 なぜ養父デンの石だけが戻ったのか。それも無ければ、今も養父デンが絵の中で生きてるように、その絵は見えた。
「どうした」
 黙り込むギリスを、スィグルは不思議そうに見ている。何か答えないといけないのかと、ギリスは何かを堪えながら考えた。
 寝ていないせいか、もう個人房へやに戻って眠りたかった。
 何をしに自分はここに来たのだったか、全てがどうでもよく思えた。
「似てる……
 ギリスはやっとそれだけ答えた。新星は満足げに頷いていた。
「そうだろ。僕は絵が上手いんだ。その腕を信じて、次はこれを見ろ」
 そう言って、新星はイェズラムの絵をギリスに押し付け、わきから別の紙を取り出してきて、それに重ねた。
 そこには、やはり墨一色で、ギリスの知らない異民族の絵が描かれていた。
 食卓につく、不機嫌そうな少年の絵だった。肩ほどに切りそろえた真っ直ぐな髪と、高い鼻筋の通った山エルフの顔をしている。ずいぶん質素な服装だった。異国の庶民の姿なのか。
 それにしては、睥睨へいげいする視線の、えらく風格のある少年だった。まるで王族か何かのような。
 筆をとり、新星はその絵の人物の額に、小さな点を描き加えた。
「これが天使ブラン・アムリネスだ」
 新星は絵を摘み上げ、そう言ったが、ギリスには意味が分からなかった。
 絵の中の少年は、聖堂の立像の天使とは全く似ていなかったからだ。
「僕は天使と約束した。故郷に戻って族長になれたら、もう二度と戦わない。四部族フォルト・フィアの和平のために、この先の一生の全てを尽くすつもりだ」
 ギリスはその話を黙って聞いた。
「ギリス、もしお前がそれに納得できないのなら、僕らは一緒には行けない」
 この殿下は狂ってると、ギリスは思った。これが新星だというイェズラムも、もう正気ではなかったのかもしれなかった。
「エル・イェズラムがお前になんと言ったか僕は知らない。僕に仕える英雄になるか、お前が自分で決めるんだ」
 そう言って新星が眼前に突きつけてきた天使の絵を、ギリスは食い入る目で見つめた。
 これが天使か。
 翼もなく、都市を焼く天の槍も持たない、ただの子供だ。
 ギリスにはそう見えた。精々が自分と同じ年頃の子供だと。
 それをどう理解していいのか、ギリスには全く分からなかった。
「子供だ……天使じゃない」
猊下げいかはまだ十五歳だ。でも間違いなくブラン・アムリネスだ」
「何でわかる」
 ギリスが問うと、スィグル・レイラスは眉間にしわを寄せて難しい顔をした。
「天使は転生するんだ。何度も死んでよみがえる。今は子供の時期なだけだ」
 まるで誰かが盗み聞きでもしているみたいに、新星は声を潜めてギリスの耳に教えた。
「機会が有ればお前も会えるよ、いつだか分からないけど。お前が僕の英雄なんだったらだけどな」
「それじゃないのか……イェズラムがお前を選んだ理由は」
 ギリスはそう言いながら、自分の声が震えている気がした。
 何かも分からないような胸騒ぎがした。聖堂の石の天使が急に動いて、自分に話しかけてきたような。
「そんな理由で、なぜ族長になれるんだ」
 大したことではないように、スィグルは不思議そうに聞き返してきた。
 なぜと言われても、ギリスには言葉がなかった。
 大陸の民の義務として、部族長は神聖神殿への服従を誓うため、その正神殿に巡礼するが、その時にも天使に謁見が叶うのは族長ただ一人だけだ。神殿種と会う権利があるのは、本来は族長だけなのだ。
 部族長の叙任を行うのも天使達だ。族長リューズを本当の意味で戴冠させたのは、イェズラムではなく天使たちだ。神殿からの認可がなくては、いかに民が望もうとも、誰も族長にはなれない。
 そんなふうに、神殿の天使達に支配されていても、大陸の民が本物の天使を直に目にする機会はないに等しい。
 天使を見ると目が潰れるのだと信じている者もいる。
 その光輝に打たれ、善良でない者は気が狂うとも言われている。
 スィグル・レイラスはその天使に会ったのだ。現実味はないが、間違いなくそうだった。
 それでも目も見えているし、気も狂ってはいない。それとも狂っているのか?
 たとえ狂ってるとしても、天使がスィグル・レイラスを選んだのだ。この部族の次の族長に。
 それに一体、誰が逆らえるというのか。
「俺、天使には会えない。善良じゃないし……
 ギリスはまだ、自分の声が震えているのを感じて、それを妙な顔をして見ているスィグルと気まずく向き合った。
「怖いのか、お前。怖いものはないって言ってたくせに」
「分からない。これが怖いってことか?」
 ギリスが尋ねるとスィグルは急に、気味良さそうに吹き出して笑った。
「いや。知らないよ。お前が何を感じてるのかなんて。僕は読心術は使えない」
 機嫌良く、くすくすと含み笑いして、スィグル・レイラスはギリスに天使の絵を手渡してきた。
 押し付けられて、やむなく受け取ったものの、ギリスはその紙に触れるのも悪いことのように思えた。絵は薄紙に描かれており、もしうっかり破きでもしたら、天使に罰を与えられそうだった。
猊下げいかは怖くないよ。優しいとは言わないけど。お前が思ってるような理不尽な相手じゃない」
 ギリスの手が震えているのが面白いのか、スィグルはその指の震えを確かめるように、二枚の絵を握っているギリスの手を握ってきた。冷たい手だった。
「この世界も、もうお前が思ってるような世界じゃないんだ。ギリス」
 哀れむように新星はギリスを見つめ、じっと目の奥を推し量るような視線で言った。
「戦うことがなくても、僕の英雄として仕えてくれるか。僕と行くなら、お前の英雄譚ダージを捨ててくれ」
 スィグル・レイラスが握る自分の手を、ギリスは見下ろした。

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029 同盟の子供たち

「お前はどんな世にしたい。ギリス。僕を玉座に座らせて、お前は一体どうしようと思っているんだ」
 スィグル・レイラスは王家に伝わる黄金の目で、じっとギリスを見つめて言った。
 その目が玉座から皆を見下ろす日のことが、ギリスには想像がつくような気がした。
 今も同じ目が、玉座の間ダロワージから皆を見ている。壁画に描かれた太祖たいそアンフィバロウと同じ、たかごとくと英雄譚ダージうたわれる黄金の目。族長リューズ・スィノニムも同じ目をしている。
 別にアンフィバロウの血族ではなくても、部族には同じような明るい鳶色とびいろの目をした者はいくらでもいた。王家の者だけが黄金の目をしているわけではない。
 イェズラムも族長とよく似た黄金の目だった。
 それを養父デンに問うたことがある。別に王族だけが格別の血を持っているわけではないのではないかと。
 それに養父デンは笑って、それでは射手は務まらぬと答えた。
 そして、玉座の間ダロワージに行って、族長の目を見ろと、ギリスに勧めた。
 ギリスは養父デンに言われた通りにしてみたが、よく分からぬままだった。
 族長リューズは確かに美貌の男で、美しい目をしているが、ただそれだけだとギリスには思えた。
 それが星のように燃えていると思えたのは、確か、いつか見た、遠いヤンファールの平原でのことだ。
 勝利か死だと、族長は皆に言った。勝利か死。その声を聞く時、ギリスには族長の目の中に、遠い火矢のような光が見え、その火が全軍に燃え移るようだった。
 自分にも。そうだったのかどうか、あの頃の自分は今以上に鈍かったのだと思う。
 皆が戦意に燃える中、ギリスは一人ぽかんと戦陣に立っていた。
 戦うとは何か、勝利とは、死とは何かも、あの頃のまだ十四歳だったギリスには何も分からなかったのだ。
 それでも、死ぬまで戦えという族長に、誰も逆らわなかった。
 まるで戦場に降臨する死の天使のように、リューズ・スィノニムが皆に死闘を命じると、全軍が熱狂し、勇んで死闘した。
 それが何だったのか。ギリスには今も分からない。
 だが、族長とはああいうものだと、ギリスは無意識に思っていた。皆に死を与える。まるで天使のように。
 だから、そのようであれと、無意識に求めていたかもしれない。新星、スィグル・レイラスにも、あの父である族長と同じものを持っていてほしいと、そう求めていたのかも。
 しかし、これは新しい星なのではないかと、ギリスは思った。
 今、あの玉座の間ダロワージで燃えている当代の星は、やがて燃え尽きてち、自分はその後の闇夜を照らすための、全く別の新しい星を天に撃ち上げねばならぬのではないか。
 かつて部族の決死の脱出行を導いたという、千里眼のディノトリスのように。それが射手の役目だ。
 新しい星とは何なのか、ギリスには分からなかったが、自分を見ているスィグル・レイラスの目の奥に、何かの答えがあるような気がして、ギリスはしばし新星と見つめあった。
「分からない。俺はどうしたらいいか、考えたことがなかった」
 ギリスは素直にそう白状した。新星は怒るか、あるいは、がっかりするのかと思ったが、スィグル・レイラスはただうなずいただけだった。
「僕もだよ、ギリス。考えたことがない」
「それでどうやって族長になれるんだ」
 驚いて、ギリスは思わずそう聞いた。
 するとスィグルはまた吹き出すように笑って、握ったままだったギリスの手を面白そうに揺さぶった。
「そうだろ? 博士を手配してくれ。部族領の先行きの相談をしたい」
「な、な……なんて? お前、今から? 今から考えるってことなのか……
 驚きのあまり、ギリスは自分の舌がよじれるような気がした。うまく言葉が出ない。
 まさか新星が何も考えていないとは、想像もしなかったのだ。
 イェズラムが選び、天使が即位を求めたという新星が、まさか無策だなどと誰が思うだろうか。
 アンフィバロウの末裔なのだ。部族を隷属の身から救い出し、この壮大な都を打ち立てた男の子孫だ。
 それが無策の只人ただびとであるわけがない。自分はそう思っていたのだ。
 何か物凄い、魔法のような奇跡を秘めた、星のような王子なのだと。
 そうでなければ、一体何をもってこれを新星と称するのか。
 腰が抜けそうな気がして、ギリスは自分の身が傾くのを感じたが、座っていたおかげで、なんとか持ちこたえた。
「うん。今から考える。お前も良案があれば、いつでも言ってくれ。僕は話は聞くつもりだ。他にも、何かいい案がある者がいたら、いつでも聞くって言っといて」
「誰に!?」
 ギリスは心底驚き、もう自分の腹の中から驚きの種が払底ふっていするのではないかと思えた。
「誰にって、お前の友達とかだよ」
「友達……
 震える声で自分が言うのを、ギリスは遠くの出来事のように聞いた。
「あ、そうだ。友達で思い出したけど、お前にも僕の友人たちを紹介しておく」
 忘れるところだったという調子で、スィグルはギリスの手を放し、文机の周りにあった紙の中から別の絵を取り上げて、ギリスに示した。
「イルス・フォルデスだ。僕の盟友。海エルフの族長ヘンリック・ウェルン・マルドゥークの息子で、次の族長になる」
 すらすらと言ってから、スィグルはそれがいかにも面白い冗談だというように、けらけらと笑った。
「予定だけどね。僕と同じで。猊下げいかにそう約束させられただけで、イルスは嫌だと言ってる」
 ギリスは紙の上にいる、海エルフらしい少年の絵をまだ内心、震えて見た。
 新星のきつい冗談に呆れたように、絵の中の少年は苦笑して見えた。
 額冠ティアラをしている。王族である証だ。それは海辺の部族でも同じだったはずだ。
 しかし、絵の中の少年は気さくな友のようで、王族のようには見えなかった。
「それから、これがシェル・マイオスだ」
 別の絵をギリスの手にあった絵に重ね、スィグルは事もなげに言った。
 新しい紙の上には、墨色で描かれた巻毛の少年がいた。天使に似ている。聖堂にある立像の天使と。
 輝くような長い巻き毛が頬を取り巻き、その絵の人物は満面の笑みだった。
 頭に花冠をかぶっていて、ギリスにはそれが森エルフに見えた。
 部族の敵は、髪に花を挿していると、教えられたことがある。
 守護生物トゥラシェの乗り手たちは、その怪物の体のどこかにあるのうに隠れていて、姿は見せないが、倒した守護生物トゥラシェのうを破ると、その中でまだ生きており、夜会から迷い出てきたような美しい出立いでたちをしている。
 武装はしておらず、髪に花をしていると、ギリスはそう教えられた。
 ギリスがヤンファールで倒した十四体の守護生物トゥラシェにも、こうした乗り手がいたのかもしれない。
 そののうを破り、自分の手で敵を取り出したことはなかったが、おそらくは凍りついた死体がその中にはあったはずだ。
 戦場には花冠を被った敵の首がさらされていた。族長リューズが、生け捕った敵の首を打たせるせいだ。
 ギリスも幾つもの、しおれた花で飾られたさらし首を見た。
 その首の顔が、この絵のように、微笑んでいたことはない。
「森エルフだ」
 憎しみの声でギリスは言った。
「そうだ」
 スィグルは押し返すように答えた。
「シェル・マイオス・エントゥリオだ。シャンタル・メイヨウの息子で、お前の敵だった」
「今もそうだ」
「今は違う」
 きっぱりと言う新星の言葉に、ギリスは言葉がなく、唇を開いても、もう息しか漏れ出てこなかった。
「僕の盟友だ。お前に、分かってくれと言うつもりはない。でも知っておいてくれ。シェル・マイオスは僕の友人だ。もう戦わない。ヤンファールで倒した守護生物トゥラシェが、お前の最後の英雄譚ダージだった」
「嘘だ……
 嘘とは思えない新星の言葉に、ギリスはそう言うしかなかった。
 与えられた絵の重さに、支えきれない何かを感じ、ギリスは紙のように軽いそれを持つ手を、座る自分の膝に落とした。
「これが四部族フォルト・フィア同盟だ。ゆっくりでいい。理解してくれ、ギリス。これが天使のご意思だ」
 そう言って、新星は心配そうにギリスの顔を見た。
「聞いてるのか、お前?」
 唖然としすぎて、ギリスには声もなかった。
 ぼんやりとしてきた頭で、新星の目を見たが、そこには今も、渦巻くような星が見えた。
 ちょうと昨夜ゆうべ見た、夜空の銀河か星雲のように、スィグル・レイラスの目がきらめいて見え、ずっと揺るぎないように見えた。
 これが玉座の目か。
 もしそうなら、この世はどうなってしまうのか、ギリスには少しも見当がつかなかった。
 確かに、これはただの鳶色とびいろの目ではない。王家の黄金の目だ。
 皆が苦しみ悶えて死ぬようなことを、平気で命じる悪魔の目なのだ。
 そんな王子が当代に他にいたか、ギリスには分からなかった。
 いつも並足で馬を走らせるような優雅な奴らだ。スィグル・レイラスのように、暴れる馬に鞭打って、平気で笑っていたりはしない。
「聞いてる。でも、悪いんだけど、俺には本当にわからない。時間をくれ」
「いいよ」
 スィグルはあっさりとギリスを許した。
 また、馬鹿と怒鳴って殴ってくるのかと思えたが、新星はただ、にっこりとしただけだった。
「分からなくてもいいよ、ギリス。考えるのは僕の仕事だ。お前はただ、僕に忠誠を誓えるか、それだけ決めればいい」
 そう言って、スィグルはさっきギリスが見せてやったのと同じ、両掌りょうてのひらを広げて見せる降参のポーズを見せた。
「どうする? 僕と行く?」
「わかんないよ、本当に」
 ギリスは首を横に振って、答えを拒んだ。
 そんなことは養父デンも教えてくれなかった。王宮にいるどんな師も、博士も、派閥のデン達も、そんな話は一言も言ったことがない。
 敵を殺すために、ギリスは生きてきたのだ。この先もそうだった。額の石が自分を押しひしぐまで、それは続く。そのはずだったのに。
「わかんない……俺には何も。どうしたらいいのか」
 ギリスは途方に暮れて、スィグルに言ったが、それはひどく滑稽こっけいに思えた。
 自分より二つも年下の相手に、そんな泣き言を言うとは、デンにあるまじきことだ。
 それをギリスは恥じたが、新星は気にしないようだった。
「そうだよね。僕もそう。それじゃとりあえず、お前が何か決めるまでの間だけでいいから、博士の手配はしてくれない? 毎日、暇でさ……何もしないなら、せめて勉強でもしようかと思うんだ」
「博士の手配……
 その考えに自分が縋り付くのをギリスは感じた。
 それはとても簡単なことに思えたのだ。
 天使の思惑を理解しろというよりは、王宮にいる博士のどれかに、新星に教授するよう求めるのは、ギリスにはひどく簡単だった。
 それをやっているうちは、考えなくても良い。天使がどうとか、森エルフとか。
「わかった。やる」
「済まないね、ギリス」
 にっこりとして、スィグルは満足したように答えた。
「その絵、いらないから、よかったらお前にやるよ。猊下げいかのは他所よそかないでくれ。神殿に怒られたら、僕は火炙ひあぶりかもしれないから」
 笑いながら言う新星の言葉に、ギリスは顔をしかめ、自分に与えられた絵を持って立ち上がった。
 居室へやにある暖炉だんろのほうへ。
 そんな危ない絵を持っておくわけにはいかない。もしも新星が即位できずに火炙ひあぶりにされたら困るではないか。
 天使の絵を焼いて、罰を与えられたら困るが、自分が死ぬほうがましだとギリスは思った。
 星のない夜を皆が生きるよりは、そのほうがいいのだ。養父デンはそう言っていた。派閥のデンたちも皆。
 この世を生きていくために、自分たちには新星が必要なのだ。玉座に輝くアンフィバロウが。
 煙管を吸うための火口ほくちから、火の絶えた暖炉で絵を燃やし、ギリスは燃え上がる同盟の子供達を見つめた。
 しかしイェズラムの絵だけは焼き捨てる気になれず、ギリスはそれを折り畳んでふところに仕舞った。
「エル・ギリス。また来るつもりか」
 まだ文机の前で見ていたスィグル・レイラスがギリスに尋ねた。
晩餐ばんさんの前に来る。正装して待ってろ」
「お前って変わってるよね」
 ギリスが言い置くと、スィグル・レイラスはめるように言い、輝く星のように笑っていた。

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030 ジョットたち

 新星の居室へや辞去じきょすると、ギリスは目眩めまいがした。
 軽く足元のふらつく青い顔のギリスを、居室の扉を守っていた衛兵たちは、胡散臭うさんくさそうに見ていた。
 それが物言いたげでも、ただ見守るだけで何も言わないので、ギリスは立ち去ることにした。
 王族が行き来する界隈の通路に敷かれた柔らかな絨毯じゅうたんの感触が、なおいっそう酔うようだった。
 吐き気がする。軽く。
 何に酔っているのか分からないが、とにかく、めちゃくちゃに暴れる馬に振り回されたか、浴びるほど火酒を飲んで足元が揺れるような気がした時に、どこか似ていた。
 胸が焼け、軽く天井が回るような心地になって、ギリスは恐らくはよろよろと歩いていた。
 それでも何とか王族向けの絨毯じゅうたんが果てる辺りまで行き、角を曲がったところで、左肩に王宮の通路が触れるのを、ギリスは感じた。
 もしかして、施療院せりょういんに行ったほうがいいのではないかと、壁にもたれながら思った。
 まっすぐに歩いているつもりだったのに、自分の歩いている道筋がだんだん広い通路の脇へ寄って行き、ついに壁にぶち当たった。
 それでも歩みを止めるわけにいかない気がして、ギリスは数歩、壁に長衣ジュラバそでこすりながら歩いた。
 だめだ。壁に触れてはならない作法だった。そう思い当たり、ギリスは足を止めたが、その頃には猛烈に視界が狭かった。
 暗く落ちかけた視界の中に、蔓草つるくさ紋様もんようで飾られた錆色さびいろ絨毯じゅうたんが見えている。
 王宮の通路はどこも似ているので、敷物や、壁の飾り物で場所が表されていた。
 ギリスは勉強熱心な新星の用向きを知らせるため、博士たちの住む区画へ行きたかったが、この道でよかったのか。ぐるぐる回るような鈍い頭で、ギリスは考え込んだ。
「大丈夫ですか、兄者デン
 ぼんやり壁にもたれていると、すぐ側から、まだ声変わりしていない子供の声で呼びかけられた。
 その声にはっとして、ギリスが目を向けると、ぼんやりしていた王宮の風景が、急にまた鮮明になった。
「エル・ギリス」
 並んで立っている子供たちが、木枠に金の縁取りのある蝋板ろうばんをそれぞれ抱え、ギリスを見上げていた。
 六人いる子供の群れで、こっちを見ているその顔の、額のひとつひとつに、それぞれの色合いの石が生えていた。
 小英雄たちだ。
 ギリスには見覚えのある顔だった。かつて自分がいたのと同じ大部屋にいた子供らだったからだ。
兄者デン
「大丈夫ですか」
「施療院から人を呼びますか」
 心配げに言う小英雄たちは、ギリスの具合が悪いのだと思っているようだった。
「いらない。大丈夫だ」
 ため息をついて、ギリスは少年たちに言った。
 背はちびっこいが、もう子供達とは言えない。並んで立っている連中の何人かは、すでに元服後の姿で髪を結われていたし、肌の色も日に焼かれて大人の色合いをしていた。
 中の一人はまだ皮膚ができあがっていないらしく、首に包帯を巻いていて、いかにもかゆそうにしている。
 タンジールでは、地下都市に閉じこもる暮らしのため、日にあたることがない。それゆえ子供達は部族の幼年期に特有の、白蠟はくろうのような透ける肌色をしており、元服するまで育った十二歳の祝いに地上に出て、日に干される。そうするとまたたく間に日焼けして、大人の肌色に変わるのだ。
 ギリスも元服式のあと、皆で並んで地上に連れて行かれ、強烈な砂漠の日光に当てられた。
 その夜から体がかゆくてたまらず、いて一生残る傷にならぬよう、施療院の看護師に包帯でぐるぐる巻きにされた。
 ほんの四、五日のことゆえ我慢しろと、デンたちにも包帯姿を揶揄からかわれた。
 体の見える場所にき跡が残ると、根性がないと一生言われるのだそうだ。
くな」
 包帯の上から指で首筋をいていた子供に、ギリスは注意してやった。
 びっくりしたように、その子供は手を引っ込めた。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいけど、とにかくくな。もうちょっとだろ」
 そう教えると、もうほとんど大人の顔色をしているその少年は、うんうんとつらそうにうなずいた。
 素直で可愛げがある。ギリスはそう思った。
 特にあの人食いレイラスを見た後では、この素直なジョットたちはものすごく可愛く見えた。
 本来、こういうものだ。王宮の兄弟関係とは。
 なぜあいつは年上である俺を平気で殴るのかと、ギリスは悩んだ。
 スィグル・レイラスはいろいろとおかしい。
兄者デン、派閥が決まりました。兄者デンと同じです。皆もそうです」
 嬉しそうに、小鳥がさえずるような声をした一人がいった。
 どれがしゃべっているのか、ギリスは分からなかったが、こいつだろうと思う奴の顔を見て微笑んでおいた。
「そうか。よかったな。頑張るんだぞ」
「派閥には怖い先輩デンがいますか」
 心配げに聞くジョットたちにうなずいて、ギリスはにこにこした。
「怖い先輩デンしかいない。とりあえず叩頭こうとうして、何でも言われたとおりにしろ。なるべく部屋の端の方にいろ。戸口の近くに」
「どうしてですか」
「すぐ逃げられるように」
 ギリスは親切心で教えた。派閥の新参者は戸口のそばに座るのがしきたりだ。
 奥の方に行くに従い、年長で古株の地位の高いデンたちがいる。そういう決まりだ。
 自分の後見をするデンの地位が高ければ、それにくっついて、部屋の奥の方の席へ行ける。ギリスがイェズラムにくっついて、長老会でもどこへでも出入りができたように。
 しかし、普通はそんな大物が、こんなチビどもの世話役デンに任じられたりはしない。
 子供の世話は皆、嫌がる。そこそこ成長して、使い出がでてきたのを自分のジョットとして引き抜く者が多い。優れたジョットがいるのも、デンたちの権勢のうちだからだ。
 英雄たちの兄弟関係は、そのような水物だったが、ギリスにとってはイェズラムが唯一のデンだった。
 最初に引き合わされたデンは別にいた気がするが、あっという間に戦で死んで戻らず、その次やその次のデンたちは、ギリスには我慢がならぬと言って放置した。
 そのせいで、誰も面倒を見る者がおらず、仕方なしに派閥のデンだったイェズラムがギリスを引き取ったのだ。
 以来、死に至るまで、イェズラムは一度もギリスを見捨てはしなかった。
 このジョットたちも、そのような良いデンに恵まれたらよいが、それは運だった。
 あいにくイェズラムほどの良いデンは滅多にいるものではない。
 皆、なぜか自分のデンのことは、ギリスと同じように自慢に思っているようだが、それはイェズラムを知らないからだろう。養父デンは本当に他に類を見ないような大英雄だった。ギリスはそう思っていた。
「嫌なことがあったら俺に言え。誰でもぶん殴ってやるから」
 ギリスは笑顔で大部屋のジョットたちに請け合った。
「そんなの無理ですよ。ギリスの兄者デンは僕らの後見じゃないんだもの」
 口を尖らせて、子供達は言った。
 いや子供達ではない。もう大人なのだが、とてもそうは見えなかった。餓鬼どもだ。
 包帯のやつはまだ十二歳なのだろう。
 それでも、大部屋に詰め込まれていた頃と比べれば、皆よく生き延びた。この年齢まで生きられることが、小英雄たちにとっては、まずは幸運なのだ。
「ギリスの兄者デンがよかったなあ」
 渋々と子供達は可愛げのあることを言った。
「無理だよ。俺もまだ餓鬼がきだもん」
「そんなことないでしょう。兄者デン英雄譚ダージも持っているんだから。一廉ひとかど英雄エルですよ」
「そうかな」
 ギリスはいかにも立派そうに言う子供に目を向けて尋ねた。
「そうですよ!」
 チビどもは口々に同意して、ギリスを見上げた。
 さすがは大部屋の頃からちょいちょいお菓子をやって手懐けていたジョットどもだ。忠誠心がある。
 やはりジョットというのは、こうでなくてはおかしい。
 デンが白と言えば白、黒と言えば黒というのが、ジョットというものだ。
 英雄譚ダージを捨ててくれだと?
 急にまた、先程の新星の話が脳裏によみがえり、ギリスは吐き気がした。
 考えたこともないようなひどい話だった。
「どうしたんですか兄者デン、大丈夫ですか」
 おたおたと暴れて、ジョットどもが心配していた。目の前で吐かれるのが嫌だっただけかもしれぬ。
 長衣ジュラバそでの中の肌着で口を押さえて、ギリスは吐き気をこらえた。
「大丈夫だって言ってるだろ」
 正直、胃液が込み上げてきたが、ギリスは我慢した。我慢強さには自信がある。
 それにジョットたちの前で無様はさらせないのだ。英雄とはそういうものだ。
「お前ら、蝋板ろうばんなんか持って、どこ行くんだ」
「史学の師父アザンのところです。勉強の時間なので」
 話す機会を待っていたらしい一人が、やけに意気込んで大声で答えた。
 ああそうかと、ギリスはそれにうなずいた。
「俺も行く」
「えっ」
 ギリスが同行を伝えると、ジョットたちは驚いたようだった。
兄者デンはもう修了されたんでしょう」
「でも師父アザンに用事があるんだよ」
 どうせ同じ方向へ行くのだ。別々に歩くのも妙だと思い、ギリスは弟たちと一緒に行くことにした。
 チビどもはそれに嬉しそうにしていた。
 英雄たちが徒党を組んで王宮を歩くのはいつものことだ。ここには厳しい序列があるし、競い合う派閥もあるため、チビどもは自分たちだけで歩き回るよりも、より強いデンについて歩くほうが安全だと知っている。
 英雄が皆、英雄らしく高潔とは限らず、よその派閥の小さいのや、まだ大部屋にいるようなチビどもを平気でいじめるような不心得な者もいた。
 そういうことは禁じられているが、常に派閥のデンや長老会が見張っているわけではない。
 バレなければいいし、チビなど黙らせておけると思っている馬鹿もいた。
 それがいつまでもチビだとは限らないのに、先のことも考えず、自分より強大になる恐れもある魔法戦士の卵をいたぶる馬鹿もいるのだ。
 ギリスはそういう愚を犯したことはない。決してやるなと養父デンが命じていたのもあるが、そもそもギリスは自分より小さい者のほうが好きだった。
 デンたちは偉そうだし、大した業績もないくせに、大抵は居丈高いたけだかだったからだ。
 イェズラムや、せめてジェレフぐらい立派な英雄譚ダージがあるなら、頭を下げてやってもよいが、ギリスがそう納得できる相手もまれだった。
 それがお前の至らなさだと、養父デンにはいつも叱られたが、生来の本性は額の石と同様、努力だけでは如何いかんともし難い。
 そんなわけで、ギリスはデンたちには恨まれている。生意気だとか、目つきが気に食わんとかいう理由で、さんざん殴られてきた。よくぞ面相めんそうが崩れなかったものだ。
 それも恐らくイェズラムのお陰だろう。最大派閥のデンで、長老会でも強い権力を持ち続けたイェズラムが目をかけているジョットだと知れ渡っていればこそ、それを殴るのにも、炎の蛇と恐れられていたエル・イェズラムの顔がちらつくのだ。
 デンとはそのように、ありがたいものだ。自分もそのように、小さいジョットたちを守らなくてはならぬと、ギリスは常々思っていた。
「このまえ師父アザンからヤンファールの戦いのことを習いました」
 ギリスに付き従って歩きながら、六人いるジョットどもの誰かが嬉しげに言った。
「そうなの? じゃあ、お前らももうすぐ修了だな」
 ヤンファールはたったの二年前の出来事だ。歴史というには最近すぎた。
「いいえ。師父アザンは話したいことは先に話しておしまいになるので。修了はまだ先です」
 笑って、弟たちは史学の教師のいいかげんさを語っていた。
師父アザンはお好きな話は何回もします」
「族長の即位式に出た話なんて、もう十二回は聞きました」
「それは爺さんのただの思い出話だろ」
 ギリスが感想を述べると、ジョットたちは口々にそうだそうだと言った。
「僕らも早く、ギリスの兄者デンのような立派な英雄譚ダージが欲しいです」
 歩きながら話す途中に、誰かがそのようなありきたりの話をした。
 それにもジョットたちは皆、そうだそうだと和やかに同意していた。
 いつもなら、そうなるといいなと生返事をする、その話に、ギリスは遠い目になっていた。
 英雄譚ダージを捨てよと話していた新星の顔が、どうしても脳裏にちらついたのだ。
 もし、そうなったら、俺はそれでも良いがと、ギリスは思った。
 英雄譚ダージなど持っていても、自分は別に嬉しくもなんともないと思っていたのだ。
 自分の初めての英雄譚ダージが宮廷詩人によってまれ、玉座の間ダロワージで晴れがましく詠唱えいしょうされた時にも、それ自体には何も感じなかった。
 だが、その詠唱えいしょうでギリスの初陣ういじんでの活躍を知ったイェズラムに、よくやったなとめられ、お前はこの部族を救ったと感謝された時に、養父デンのその少ない言葉が自分には何よりの英雄譚ダージだったのだ。
 それを王宮で生きて待っていた養父デンに聴かせられたことが、一番嬉しかった。
 それがない今、ギリスが守護生物トゥラシェを何体倒そうが、誰が喜ぶというのか。
 イェズラムはもう死んだ。最後の英雄譚ダージを残して、今はもう、養父デンは地下墓所の石でしかない。ギリスの新しい英雄譚ダージまれても、もう聴くことができないのだ。
 新星も、英雄譚ダージがあれば民が喜ぶと、初めにはギリスに言っていたくせに、結局あの殿下はそれを民から取り上げようとしている。
 果たして、そんな非道が許されるのだろうか。
 スィグル・レイラスは史上稀に見る悪虐な王族なのかもしれぬ。
 それを博士に正し、さとしてもらえたら、スィグル・レイラスも少しはまともになるのではないかと、ギリスには思えた。
 考えてみれば、新星はまだ、この蝋板ろうばんを運んで師父アザンのもとに通うジョットたちのような年頃だ。
 元服から二年、敵の虜囚であったり、同盟の人質であったりで、新星はまともな教育を受けてはいない。
 それをあわれみ、しばしの猶予ゆうよを与えたほうがいいのではないか。
 ギリスは歩きながら、自分にそう言い聞かせてみた。
 ジョットが少々馬鹿でも、頭ごなしに叱ったり、まして殴りつけたりするのは、立派なデンにあるまじきことだ。
 かつて養父イェズラムがそうだったように、ギリスもあれを辛抱強くさとし、理解するまで待ってやらねばならない。
 それでこそ新星の兄、射手ディノトリスというものではないか。
 そう納得すると、ギリスの気分はずいぶん良くなった。
師父アザンにさしあげる甘いものは持ってきた?」
 蝋板ろうばんを抱えているジョットたちが、博士の住む学房の扉を前に、お互いに向き合って言った。
「甘いもの?」
 ギリスはジョットたちに聞いた。
「はい。ここの師父アザンは甘いものを食べないと、やる気が出ないんです」
「は?」
 ギリスは心底呆れて、弟たちの顔を見回した。
 弟たちはそれに気まずそうな笑みをして、皆で選んで持ってきたらしい小さな紙の菓子箱を見せてきた。


──つづく──

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