@zerozero_daily
「王宮の孤児たち」(1)/ (2)/ (3)
もくじ
2≫ 031 博士
3≫ 032 飴玉の恩
4≫ 033 銀狐たち
5≫ 034 髑髏馬たち
6≫ 035 兄たち
7≫ 036 弟の役割
8≫ 037 英雄の絵
9≫ 038 女英雄とお菓子
10≫ 039 花簪
11≫ 040 エレンディラ
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031 博士
博士は菓子を見ると大変機嫌が良かった。
弟たちが皆で一箱用意してきた菓子の紙箱を差し出して叩頭し、ご教授いただきたい旨の口上を述べると、年老いた官服の博士は頷き、にこやかにしていた。
本や巻物がそこかしこに積まれた部屋の中央に博士のための文机と円座があり、その下座にいくつかの客座が用意されていた。戸口で叩頭したあと、ギリスは弟たちと並んで、その客座に座っていた。
博士は英雄たちの石のある顔を、満足そうに見回している。
「皆、元気そうで何よりだね。君たちはいつも賢く、礼節を弁えているから、きっと立派な英雄になるだろう」
何度も頷きながら博士は弟たちを褒め、遠慮なく包みを開いて菓子の箱を開けた。
「商業区のアットワースの菓子ではないか。遠いのにご苦労さんだったねえ」
「いいえ師父、派閥の兄から師父にお持ちするようにと頂きましたので、僕らは持ってきただけです」
弟たちは控え目にそう答えた。博士はそれにも鷹揚に頷いていた。
「そうかそうか。君らの兄上はどなただったかな」
「エル・ユーレランです師父」
「英明なる紺碧のユーレラン!」
師父は円座に胡坐した自分の膝を叩き、やけに大声で言った。
「君は良い兄上を引き当てましたよ。良かったですね」
「はい……兄が僕の詩を気に入ってくださって」
恥ずかしそうに弟の一人が言い、それがどうも、この六人の親玉だった。通路で最初に声をかけてきたのも、この弟だった。
子供部屋にも序列がある。誰が誰より強いか、この王宮では厳格に定められているのだ。
こいつがこの場でギリスの隣に座れるのも、この弟が六人の中で一番強いからなのだった。
ギリスはぽかんとして、やけにもじもじしている弟の横顔を眺めた。
「君は詩作もするのかね。結構結構。今度持ってきたまえ、私も読んでみたい」
「いいえ、まだまだ全然、師父のお目にかけるようなものでは」
恐縮する弟を好ましそうに頷いて見て、博士は箱の中の赤い菓子をぽいっと口に放り込んでいる。
サクサクと軽い音がして、果物の匂いがした。
「これは美味い。エル・ユーレランによくよくお礼を申し上げておいてくれよ」
「はい。兄も師父にお懐かしいとお伝えしろと」
弟がそう言うと、博士は菓子を食いながら頷き、軽く涙ぐんで、官服の長い袖で目頭を押さえていた。
「そうかそうか。君の兄上は良い生徒でしたよ。英雄譚も素晴らしい。氷結術師でねぇ……」
涙声で話す博士に、ギリスはそうなのかと驚いた。
エル・ユーレラン。そんな奴が同じ派閥にいたか。
しかも自分と同じ氷結術師とは。
知っていても良さそうなものだが、ギリスにはその英雄の記憶がなかった。
このチビどもの兄なのだから、ギリスよりは年上の魔法戦士のはずだが、そんな先輩は派閥にいくらでもいて、いちいち憶えていられない。ギリスにはこれまで興味がなかったのだ。
しかし、今後はそうも行くまい。新星の帰還式の行列に参加してくれる英雄を集めねばならない。
その数、百名と、スィグルの出立式の時の記録にはあった。
同じく百名を揃えねばならないのだ。
晩餐で帰還式を命じる時に、族長は出立式と同様にと言った。
玉座がそう言うのなら、それは絶対なのだ。今さら半分でいいかと聞くわけにもいかない。
「師父、そのエル・ユーレランていうのは、どんな英雄なんですか」
ギリスは横から口を挟んだ。
客座の中では一番良い、博士の向かいの席にいたギリスを、左右に座る弟たちがじっと見上げた。
「エル・ギリス」
菓子の箱を膝に持ったまま、師父は急に怪訝な顔になった。
「なぜ来たのだね? 君には遠に修了を言い渡したはずだ」
「ちょっと用事があって」
ギリスは率直に言った。その方が話が早い。無駄な長話は嫌いだと養父はいつも言っていた。話は単刀直入に限る。
「手土産は?」
博士は難しい顔で言った。
「手土産?」
「久しぶりに会うのに手ぶらで来たのかね」
「博士に会うのにお菓子がいるなんて聞いたこともない」
びっくりして、ギリスはつい大声で言った。
「そうだろうね。君は一度も持ってきたことがなかった」
非難する目で博士が言ったので、ギリスはあんぐりとして、左右にいる弟たちを見回した。
皆、気まずそうに笑っている。何が可笑しいのか。
ギリスは顔を顰めた。
「お菓子がいるならいるって言えばよかった」
「君はもういいんだよ。君の兄上が良くできた人で、いつも私の居室に良いものを送ってくれていた。まことに惜しまれる英雄だったよ」
博士は自分の言葉に何度も頷いていた。
イェズラムのことか?
イェズの死が惜しまれることにはギリスは異論がなかったが、まさか養父が博士にお菓子を送っていたとは、ギリスはそんなことは想像もせずに、この学房に通っていた。
それももう、ヤンファールよりも前のことになる。ギリスがまだ子供の声だった頃のことだ。
「私はこれから、君の聡明な弟たちに史学の講義をするのだが、その貴重な時間を割いて君と話すべき、どんな用があるのかな」
「スィグル・レイラス殿下が博士の講義をご所望です」
とりあえず単刀直入にギリスは言った。
「それは私の仕事ではない」
博士もきっぱりと答えた。
「なぜですか」
なぜそんな即答で断れるのかとギリスは呆れた。
別にタダでとは言わない。欲しいならお菓子を持ってくるじゃないか。そういう目でギリスは博士と睨み合った。
しかし氷の蛇が睨みつけても、博士は一向に怯まなかった。
「レイラス殿下はご幼少のみぎりに、史学はもう修了なさっておいでだ」
「は?」
ギリスは自分の知らない事実に驚き、そんな話は聞いたことがないと思った。
王族も英雄たちも、宮廷の博士たちの講義を受けるのは元服後のことだ。それまでは別の、子供用の教師がいる。読み書きや弓術、算術や乗馬などを教える先生だ。
部族では、ちゃんとした学問は元服した者の特権と考えられている。
「スィグル・レイラス殿下だろう? あの殿下はここにも勝手にお入りになり、私の蔵書の多くを勝手に読破なさっている。教える必要はない」
「何だよそれ」
ギリスは驚きのあまり非難がましい声になっていた。
それなら史学の博士にお菓子をやる必要などない。あいつは博士に何の用があったんだ。
この博士じゃなかったのかと、ギリスは自分の選択の誤りを悔やんだ。
とんだ時間の無駄だ。今夜、晩餐の席で新星に博士の手配を知らせるつもりだったのに。
「大抵どの学房でも同じだよ、エル・ギリス。あの殿下はご幼少の頃より頭抜けて聡明な方なのだ。それゆえに後宮に疎まれて、挙句は人質に選ばれたのだから、もっと慎重になるべきだったね」
博士はしたり顔で、いかにもそれが当たり前という口調だった。
「宮廷の博士たちには皆、あの殿下には教えるなと、後宮の方からきつい便りが来ているはずだ。スィグル・レイラス殿下は敵に与した裏切り者ゆえ、部族の貴重な知恵や知識を与えるにはふさわしからずと、お妃様方はお考えだそうだ」
「は?」
ギリスは心底から耳を疑い、身を乗り出して博士の顔を見た。
髪には白髪が混じり、顔には皺がある。同じ種族と思えなかった。
英雄たちには老人はいないせいだ。
兄たちは皆、若くして死ぬ。年老いた英雄はいないのだ。
だからギリスには分かりかねた。そんなに長く生きたくせに、今さら後宮の女どもが怖いのかと。
その高齢では、もはや惜しむ命など、ありもしないだろうに。
「恥ずかしくないのか。師父……いやもう師父なんて呼ぶかよ。爺い、スィグル・レイラス殿下は新星だ。次の族長になる殿下だ。それに部族の知恵や知識を与えられなくて、お前ら博士は何のために王宮で禄を食んでる」
ギリスが啖呵を切ると、ほほっと博士は気味よさそうに軽くのけぞって笑った。
「そりゃすごいね、君。実にすごい」
「すごいんだよ、実に」
ギリスは険しい顔のまま同意した。それにも博士は面白そうに笑い、箱に残っていた赤い菓子を食べた。
サクサクと菓子を噛む音がする間、博士は微笑のまま黙っていた。
それが赤い舌で乾いた唇についた菓子の粉を舐め、ギリスの顔に目を戻してきた。
「君には言ったか忘れたが、私はリューズ・スィノニム殿下の戴冠式にも列席したのですぞ。この学房からの筆頭の席で」
「一番爺いだからだろ」
「そうではない。スィノニム殿下の師父だからだ」
甘いものを食いながらのくせに、爺いは渋い尊大な顔で言った。
ギリスは顔を顰めた。
「族長は博士とは縁遠かったと聞いてる。イェズラムから」
俺を騙せると思うなよというつもりで、ギリスは養父の名を出した。それで大抵の者は恐れ入る。
これまではそうだった。
しかし博士はしれっと答えた。
「そうとも。あのお方も殿下の頃には、誰ぞ高貴なお方から、リューズ・スィノニムへの教授は一切無用と学房にお達しがあったのでね」
ギリスはさらに顔を顰めた。
養父もそう言っていたので、その話は嘘ではないのだろうが、親子二代にわたってアンフィバロウの子らを愚弄するとは、今すぐ蹴倒してもいいような爺いだと、ギリスは少々の殺意に目を細めた。
それでも博士はまだ嬉しげに菓子の残る箱を見ているばかりだ。
「そう険しい顔をするんじゃない。それでも当代はああして玉座に座しておられるのだから、君の殿下が新星というなら、少しはお知恵を見せられてはどうかね」
「どういう意味だ」
持って回った言われ方をするのはギリスは嫌いだった。意味が分からないからだ。話は単刀直入にしてもらいたかった。
「ちょっと聞いてごらん。私に。リューズ・スィノニム殿下が、なぜ私を戴冠式で学房の筆頭の席をお与えになったのか、知りたいだろう、うん?」
さあ聞けという顔で、博士は胸を張っていた。
何かの謎かけなのか、爺いの得意顔の意味が分からず、ギリスは黙って困惑した。
「兄者、師父のお好きなお話ですよ。お伺いした方がいいですよ」
ギリスの横にいた弟が、ひっそりと忠告してきた。うっすらと笑った顔で。
「なぜか教えろ」
「そんな聞き方では教えられんな」
菓子食い爺いは偉そうに答えた。ギリスはムッとした。聞けと言ったくせに、どういう了見だ。
「師父、僕らにも今一度お聞かせください。当代の黎明の物語を」
急に叩頭して、弟たちが言った。皆、平伏して口々に、お教えくださいと爺いに強請っている。
それに顎を撫でて、爺いは上機嫌だった。
「良かろう。そう乞われては話さぬわけにもいかん。リューズ様と私には格別の繋がりがあったのだ」
早く言えよとギリスは苛立って爺いを見た。
それに爺いは差し招くような動作をし、それから頭を下げろと指で示してきた。
低頭しろというのか。どういう事だ。
ギリスは帰りたくなったが、それでも新星のためだ。ここで帰らぬ方が良い気がした。
それで渋々、学房の絨毯に叩頭することにした。
「お教えください、師父」
長老会仕込みの厳かさで、ギリスは頭を下げて爺いに頼んだ。
「良かろう。ヤンファールの氷の蛇のたってのご所望とあらば。この老官、そなたに分け与える知恵を惜しみはいたしませぬぞ」
「さすが師父」
弟たちが口々に小声で言った。
「早く言えよ」
ギリスは困って言った。
それに咳払いして、それでももう話したいのか、博士は結局言った。
「スィノニム殿下は仮面劇と英雄譚に目のないお方でな、ご幼少のみぎりより玉座の間での上演によくお出ましだった。柱の陰にな」
険しい顔で、老博士は語った。
「私も英雄譚には目がなくてね。子供の頃より部族の古い物語が好きであった。それゆえに今も史学の学房の座を温めておる。殿下はよく、私に英雄譚の意趣をお尋ねになり、私は気の毒な殿下に書物をお貸しした」
「族長は字が読めなかったはずだ」
「その通り」
老博士はもう笑ってはいない顔で、じっとギリスを見てきた。
「そう仰った。字が読めぬゆえ読んで聞かせよと。私は殿下への教授は斬首と仰せつかっておりまするとお断りした」
「断ったんじゃないか」
「私も命は惜しい」
いっひっひと爺いは笑った。
「だが、共に英雄譚を聴くのならば教授ではない。皆が楽しんで聴くものだ。私は詩作が趣味でね。あいにくのヘボ詩人で宮廷詩人にはなれなかったが、詩人の友がいる」
「師父は部族の歴史書十八巻を全て詩篇に訳され、詩人に詠唱させて殿下にお聞かせされたのです。リューズ・スィノニム殿下はそれによって博士の知恵を授かられ、今や並ぶもののない名君におなりです」
我慢しきれぬというように、急に後ろにいた弟が興奮した大声で言ってきた。
「これ……君、先に全部言う奴があるか……」
ひどくガッカリしたように、お菓子の爺いは上座で肩を落とした。
「歌ったの……十八巻ぶん?」
「全てではない。通史の要所要所をな」
箱に残っている菓子の最後の一個を食べ、博士は美味そうにそれを噛んだ。
食い終えて紙箱を脇へやると、爺いはまた意地悪そうな狡猾な顔でギリスを見た。
「レイラス殿下はお父上とは違い、書物はお読みになるのだろう。それにご自身で歩くこともおできになるはず。それなのになぜ君がここに来た」
爺いの嫌味ったらしさにギリスは口を尖らせた。そんなのわざわざ聞くようなことか?
「なぜって、俺が殿下の遣いだからだ。王族がいちいち自分で来たりしないだろ」
ギリスはもっともなことを言っているつもりだった。王族が博士の講義を受ける時は、博士の方が王族の居室を訪ねる。叩頭するのは爺いのほうだ。
それなのに、この爺いは何を言っているのか。
そういう目で見返すと、老博士はまた、いっひっひと笑った。
「その殿下のお父上は、王族でありながら、教えを乞うためご自身でこの老官に叩頭なされたのだぞ。そのお子である殿下が、手ぶらの君ひとりを遣いによこして済ませようとは、玉座に対し不敬であろう」
面倒くせえ。
ギリスは王宮の空気を噛み締めた。
ここはそういうところだ。
「あんた、後宮の女どもが怖いんだろ」
「ああ怖いとも。私も命をかけるのだから、殿下もご自身で向学心をお示しになるべきだ。そうでなくては、王宮で人を動かすことなどできないよ」
「そう言っていいのか、あいつに。俺はそのまま言うぞ」
「好きにするがいい」
ふふんと笑って、博士はギリスの脇にいた弟たちに目を向けた。
「悪いね。君らの学問の時間を長々と無駄にして」
「いいえ師父、僕らにも良い勉強になりました」
「君らにとっては今日のことは未来の歴史となるやもしれないね」
老博士がそう言うと、弟たちはにこにこしていた。
「ところで君の兄上、英明なる紺碧のエル・ユーレラン。君は彼の英雄譚を知っているだろうね」
「はい。勿論です。僕の兄ですから」
当たり前だと言うように、ギリスの脇にいた弟が答えた。
「彼はね、とても苦労したんだよ。生来の魔法がそれほど強くはなかった。氷結術を使い放題のヤンファールの氷の蛇のようにはね」
ギリスを前にして、老博士は悪口を言っているようだった。
「彼の英雄譚に、慧眼なる灰色のエル・ダージフが登場するね」
「僕の兄です」
ずっと物静かだった弟の一人が、恥ずかしげにギリスの背後から老博士に伝えた。
「そうかそうか。それは大変結構だ。彼も賢明な英雄ですよ。透視術師だ、そうだね?」
「はい。そうです。僕も同じです」
恥ずかしそうに小声で答える弟の顔に、ギリスは見覚えはあったが、子供時代の大部屋でのことだった。何の術を使う奴なのか、今初めて知った。
「そうかそうか。それは良かった。エル・ユーレランは氷結術師だが、魔法の射程がずいぶんと限られていた。それゆえ彼の友、透視術師のエル・ダージフは魔法の目によって敵の守護生物の乗り手の位置を見定め、エル・ユーレランはそれを友から教えられ、一撃必中の氷結術で敵の乗り手の息の根を止めたのです。でも守護生物に登らないといけないんだよ。怖いよねえ。でも君たちの兄上は賢く勇敢だった。それゆえに友情を讃える英雄譚に詠まれた。君たちもそのようでありなさい。個々の魔法がどんなに強くとも、一人が独力で行えることには限りがある。それを皆に教えるのが、詩人たちの詠う英雄譚なのだよ」
いつ息をしているのかと、ギリスは老博士の朗々たる長台詞に驚きながら聞いた。
一息でこんなに長く話せる爺いがこの世にいたとは。
エル・ユー何とかの氷結術がしょぼいらしいことも分かった。だからギリスは知らなかったのだ。
魔法戦士の序列はおおよそは年齢で決まるが、それは宮廷での建前で、一歩戦場に出れば魔法の強さが序列を決める。ギリスの前を走れる者は誰もいなかったのだ。おそらく、イェズラムの他には。
「エル・ギリス。君はもっと仲間の英雄譚を聴くべきではないか? 新星の射手なのだろう」
さらっと当たり前のように老博士が言うので、ギリスは目を見張った。
言ったっけ、それ?
誰が射手かというのは一応、魔法戦士の間だけの秘密で、長老会が人選して決めている。そんなものがいるとは、石のない連中は知らないはずだった。
「なんで知ってる」
「知ってるわけはない。当てずっぽうだよ。エル・イェズラムが君に万事をよく教えるよう私に頼んでいた。君は良い生徒ではなかったがね?」
「そんなことないだろ。史学十八巻、全部憶えた」
「そんなことは馬鹿でもできるのだよ」
いっひっひと笑って、爺いは気味が良さそうに言ってきた。
「君がもう一度、私から習いたいなら、菓子を持ってきて叩頭するのだな。その後、ここで聞いた私の話を君が誰に話そうと、私は知らんよ。英雄に教授するのは私の役目で、後宮からお指図のあることではなかろう」
そうだろうと言うように目配せしてきて、老博士は催促するように手を差し出してきた。
「美味い菓子を持って来たら考えてやるぞ、エル・ギリス。また一から学び直しなさい」
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032 飴玉の恩
「兄者、申し訳ありません。大事なお話があったのに、僕らのせいであまり話せませんでしたね」
博士の学房を出るなり、弟たちは申し訳なさそうに謝ってきた。
しばらく博士の講義とも言えない話を聞いて、今日はこれまでにしようと放りだされ、深く叩頭して出てきたところだ。
ギリスは途中で去るつもりだったが、爺いが最後まで聞けと引き留め、誰の英雄譚がどうやら、千里眼のエル・ディノトリスがどうやらという話を延々と聞かせてきた。
それに何の意味があるのか、ギリスには分かりかねた。
どれもこれも、ギリスが既に知っている話であったり、聞いてもしょうがないような存命の英雄たちの英雄譚であったりした。
博士が自分の好む英雄譚について喋っているだけだ。
こんな話にお菓子を支払って、毎週通っているという弟たちが哀れになり、ギリスは呆れて、まだ幼さの残る六人の弟のにこやかな顔を見下ろした。
「俺がお前らの勉強の邪魔をしたんだよ」
ギリスは少々反省して言った。急用という訳でもなかったのだから、自分は待てばよかった。
そう気づくのは、もう言ってしまった後でだ。
なんでも思いつくとすぐ実行してしまう癖があり、堪え性がないといつも兄や教師たちにも怒られてばかりいた。
お前は行動が早いなと褒めてくれたのはイェズラムだけだ。
しかしそれも、時と場合によるだろう。
いつがその時かを分かりかねるだけで、ギリスにもさすがに、ものごとに時機があるのは分かっていた。
「僕らも勉強になりました。本当です。そんな大事な用なら、最初から言ってくださったらよかったのに」
にこやかな筆頭の弟が、学房から歩み去る通路を行きながら、ギリスより半歩遅れて付き従い、妙に大人びてそう言った。
ギリスはその顔にある石が、緑がかった乳白色で、翡翠に似ていると思い、そいつが誰なのかを思い出した。
「お前、飴食って死にかけたやつだな」
思い出した驚きで、ギリスは相手を指差して聞いた。
それに弟も驚いたようだった。
「えっ!? まさかお忘れだったんですか」
「いや……誰だっけ、お前」
苦笑して、ギリスは仕方なく聞いた。顔には見覚えがあったが、誰なのか分からなかったのだ。
子供部屋にいた、たくさんの顔のうちの一つでしかない。
先程の学房での話によれば、こいつもギリスと同じ氷結術の使い手で、魔法戦闘の修練の時には一緒にいたのではないかと思えた。
王宮の中に魔法使用が許されている修練場があり、魔法戦士はそこで控えめに自分の術を使って、死なない程度の訓練をする。
そういうことにギリスは興味がなく、義務だから渋々行くだけで、そこで誰とも親しくならなかった。
ギリスに話しかけてくる者もいないし、魔力の計測や記録をする者たちが恐る恐る働いているだけで、それが結構でございますと言えばギリスは自分の個人房か派閥の部屋にさっさと帰るのが常だった。
計測用に出される課題はギリスには簡単すぎたのだ。魔法の精度や射程を測るための的を凍らせるだけの簡単なもので、ギリスは訓練なしでも高い精度を誇っていた。まだ幼かった子供部屋の頃からそうだ。
いつだったかギリスの魔法を見に、長老会の重鎮たちが大洞窟のような訓練場にぞろぞろ来たほどだ。
その時、おそらくはイェズラムもいたのだろう。それすら幼少だったギリスは記憶していない。
誰がいようが、どうでもよかったのだ。
幼い頃の自分にとって、大事なことなど何もなかった。いつも、次の飯は何かなと、そればかり考えていた幼年時代だった。
だから皆もそうなのだろうと、ギリスは信じてきたのだ。
しかし現実には、自分以外の者たちは実に様々なことを考えて生きている。
「忘れるなんて酷いです……兄者」
さすがに苦笑して、翡翠の石の弟が言った。
「まあ仕方ないですけどね。兄者の記憶に残れるような何かが、僕にはないんですから」
「お前が飴食って死にかけたのは憶えてるぞ」
ギリスがそう教えると、弟たちは可笑しかったのか爆笑した。
「ありがとうございます」
弟は軽く腹を抱えて笑っていた。
その身長はもうギリスの顎に迫るほどだったが、思い出した記憶の中で、この弟は子供のギリスでも足を持って逆さに吊れるほど小柄だった。
ひょろりとした白蠟のような細い足が生えていたのを憶えている。
それがいつ頃だったのか。
ギリスが長老会の部屋で菓子をもらって、好きにしろと言われたので、自分が寝起きしている子供部屋に持ち帰り、弟たちにくれてやった。
日頃、子供部屋では甘いものは出ない。それは褒美として使われており、功労がなければ与えられないものだった。
身体を作るための食事は毎日食わせてもらえたが、菓子や果物は珍しかったのだ。
持ち帰った菓子をばら撒くと、弟たちは狂喜した。
その、飢えた魚の池に餌をばら撒いたような饗宴が楽しく、どんどん食えとギリスは弟たちに許した。
それが良くなかったのか、がっついて食った一人が飴玉を喉に詰めたのだ。
窒息して苦しんでいるのに周りが気づいた時には、そいつはもう青い顔をしていた。
ギリスは咄嗟に弟の足を持って宙吊りにし、そばにいたチビどもに思い切り背を叩かせたのだ。
それで偶然、飴玉が喉から転がり出てきて、死んでた奴が息を吹き返した。
そいつはしばらく施療院に連れて行かれたが、戻ってきてギリスに叩頭した。命の恩人だと。
でも、もしギリスが飴を与えなければ、死ぬこともなかったのだ。
だからまあ五分五分だ。死の天使が引き返してくれてよかったなと、ギリスは弟の幸運を褒め、そいつはしばらく長衣の裾にまとわりつく綿埃のように、子供時代のギリスに付き纏っていた。
そういう弟はたくさんいた。
なにしろ修練場でギリスが大魔法をふるうものだから、皆、恐れをなし、ある者はその袖に隠れたいと願うのだ。
強い兄と徒党を組めば、いじめられない。揉め事があればギリスに泣きつき、代わりに乱闘してもらうことで、弟たちは身を守ってきた。
その誰が誰だか、ギリスは感知していなかった。
いちいち憶えていられるほどの興味もなく、どうでもよかったからなのだが、そうしていると皆だんだんと遠巻きになっていく。
この弟も、そうしてギリスの裾に纏わりつくのをやめた手合いなのだろう。
最近では見なくなっていた。
ギリスが元服して個人房に移り、ギリス自身が養父であるイェズラムの裾にまとわりつく綿埃に化けたのだから、さすがに長老会の長であるイェズラムにギリスと共に追従するには、子供部屋の弟たちは幼すぎたのだ。
なにしろ既に幾つも英雄譚を持っているような大人の兄たちが、イェズラムの腰巾着だったのだから、それに子供が混じっていては、邪魔だと怒鳴られて蹴り出されるのがオチだ。
ギリスはそれを気にしなかった。とにかく養父のそばにいたかったのだ。
いつかは自分も養父のような大英雄に。そうなりたい一心で常に養父に張り付いていた。
そしてそれをイェズラムも面白がって許したのだ。
派閥の兄たちは皆、内心ではそれを嫌がっていたようだが、それも皆の長だったイェズラムが許すのだから、その下っ端たちが嫌だと言えるわけがなかった。
そのうちイェズラムも他の兄たちにするのと同様に、ギリスに用事を言いつけるようになり、長の伝令として顔を知られるようになったのだ。
そうなるとギリスは長老会の、あるいは派閥の重要な任務を負う魔法戦士だった。
チビの弟たちから見て、日用の庇護を求めて徒党を組むべき相手ではなかったのだろう。
おそらく同じ理由で、ギリスには同い年の知り合いもいない。皆、ギリスを嫌ったからだった。
それでもなんの不自由もなくギリスは王宮での時を過ごしてきた。
ずっと年上の派閥の兄たちが、度々怒り罵りながらでも、ギリスの世話をしたせいだ。
いつかは自分もそのように、年下の者たちの面倒を見るのだと、ギリスは漠然とは思っていた。
だが、具体的にそれが誰なのかを、まだ考えたことがない。
「兄者、僕も元服し派閥に属しましたので、いつでもお力になります。いつか教えていただいた氷結術の極意は今も忘れていません」
翡翠の石のやつが、さも感謝しているように言ってきた。
「お前にそんなもん教えたか?」
全く記憶にない。それを隠してもしょうがないと思い、ギリスは正直に言った。
それに弟は何とも言えない顔になった。笑っているような、怒っているような。
そしてギリスの袖を引いて立ち止まらせ、廊下に生けてあった花瓶の花を指差した。
ギリスがそれに目を向けると、バァンと派手な音を立てて花瓶が弾け飛ぶのか見えた。
中の水が凍り、急激に膨張して花瓶を割るのだ。
そこに生けられていた花までが、自身の身の内の氷に裂かれてばらばらと落ちてきた。鋭い棘のような氷の結晶がいくつも生えている。
「うわぁ……」
ギリスはぼんやりと呟いた。驚いたのだ。
花瓶を割るぐらいのことは、精度があれば誰でもできるだろうが、この刺々しい氷結術はなかなか良かった。
ギリスは思わず満面の笑みになり、自分より背の低い弟を見つめて、抱きしめて褒めたい気持ちになった。
しかし、そういうことは大人はしない。
そこでやむを得ずギリスは笑顔で弟に頷いて見せた。
翡翠色の石を額に生やし、弟は得意げに照れていた。
「いい感じ」
「エル・サリスファーです」
褒めたギリスに差し出すように、弟は名乗ってきた。あいにく記憶にない名だった。
「サリス……」
ギリスは顔をしかめて名前を覚えようとした。今日はたくさんの名前を聞きすぎた気がする。
そういえばさっきの博士の名も思い出せぬ。どうでもいいことと思いすぎた。
「もうそれでいいです」
弟は妥協したとしか思えぬ顔で頷き返してきた。
「兄者は、名前を忘れても、魔法は忘れない方だ。技を磨きます」
「エル・サリス」
「サリスファーです!!」
それで良いと言ったくせに、弟は念押しした。
だがこれは、忘れにくい名前と言えた。サリスファーとは、翡翠の子という意味だったせいだ。
英雄の命名に飽きた名付け係が、こいつの見た目から適当に付けた名だったに違いない。
「サリスファー、頼みがある。お前の英明なる紺碧の兄に、話がしたい」
「レイラス殿下の帰還式ですね」
打てば響くとはこのことだった。ギリスは感心して、飴食って死にかけた餓鬼だったものを見た。
「承知しました」
何も言わないのに、そいつはギリスの目を見ただけで承知した。
これが弟かと、ギリスは静かに驚いていた。
これが魔法戦士の派閥というものだ。
「ご報告はどうやって」
「どうとでも。俺は派閥の部屋か、さっきの爺いの学房か、自分の個人房にいる。どこかに遣いを出せ」
「はい」
歩き出したギリスに付き従って、弟は頷いた。
「朝夕は新星のところにいて留守だ。遠慮しろ」
「わかりました」
深く頷いて、翡翠の子は言った。いい返事だ。
ギリスはこの弟を気に入った。連れて歩いてもいい。
「兄者、功労があったら弟分にしてください。お約束を」
「英明なる紺碧の何とかは?」
翡翠の子には兄がいるはずだ。ついさっきそういう話だったではないか。
ギリスは首を傾げて、真面目な顔をしている弟の石のある横顔を見た。
「その兄はもうすぐ亡くなります」
弟が言う剣呑な話に、ギリスは顔を顰めた。
翡翠のやつの後ろを歩いていた、もう一人別の弟を、翡翠のやつが視線で示した。
「エル・ジェルダインがそう言っています。僕の兄はもう永くないと」
「何でわかる。予知者なのか、お前」
「ジェルダインは透視術師ですよ、さっきそう言ったじゃないですか!」
翡翠の子はびっくりしていた。その背後にいるジェルなんとか驚いたのか、傷ついた顔をしていた。
「気の毒だけど、僕の兄は石の成長が早かったのです。ジェルダインの見立てでは一年保ちません。それに……」
翡翠の子は困った顔で、少々青ざめ、ギリスを見上げて言った。
「それに、ギリスの兄者のほうが強いでしょう」
「そうだろうか」
疑問に思って、ギリスは答えた。
惚けるつもりはないが、本当にこの弟の後見になったという氷結術師を知らなかった。
記憶に残るような術者ではなかったのだろう。それが英明で、紺碧でも、ギリスにはどうでもよかった。
「僕らは兄者がいいんです。名前を憶えてください」
「分かったよ。お前だけだぞ、サリス」
別に忘れてはいなかったが、ギリスがそう呼ぶと、エル・サリスファーは屈辱だという顔をした。
でも仕方がないのだ。魔法戦士にとって年長の兄のやることは絶対なのだから。
あとの名前の半分は、こいつがちゃんと仕事をしてから思い出すことにする。ギリスはそう決めた。
「派閥の部屋に戻られますか、兄」
さっそく舎弟面して弟どもが聞いてきた。
まさかこいつら、ゾロゾロ付いてくるつもりかと、ギリスはまだちびっこい連中が自分について歩くのを見やった。
中にはまだ包帯巻いてるチビもいるのだ。格好つかない。
ギリスは渋い顔になり、どうやって断ろうかと思った。
まだ用事がある。新星の新しい居室の手配をしなくてはならない。
その仕事はこの弟ども言いつけるには荷が重すぎる気がした。
部屋をお願いしますと誰かに言えば、はいはいと言って部屋がもらえる訳ではない。餓鬼の使いでは無理なのだ。
「いや……俺はまだ用事がさ」
ギリスが言い訳しながら通路を曲がると、そこから先は英雄たちの棲家がある方へ向かう立体交差だった。
大階段を行き交う人の群れがいくつかあり、そのうちの一つは美しく着飾った女英雄たちの群れだった。
美しいと言っても皆が男装しており、ギリス達と同じだが、それより少々刺繍が華やかな長衣に、玉やら金銀の揺れる髪飾りや華麗な耳飾りをいくつも着けている。
群れの先頭を行く二人の女英雄は大人で、目尻に赤く光る粉で化粧をしていた。
その目が甘い流し目でこちらを見てくる。
「ご機嫌よう、エル・ギリス。昨夜はご活躍でしたわね」
「今宵もまた玉座の間で」
くすくす笑いながら女英雄はギリスに挨拶をした。
すれ違うと、えも言われぬ良い匂いがした。
女派閥の部屋で焚かれている室内香の匂いだ。その匂いを嗅げば、どの部屋の女か分かる。
エル・エレンディラの妹たちだ。
年頃からしてエレンディラの直の妹ではなく、そのさらに下に属する者たちだろうが、ギリスにはにこやかに振る舞っていた。
これまで王宮の廊下ですれ違っても、こういう姉たちが挨拶してくることは無かった。
どういう風の吹き回しかと、ギリスは花のような匂いのする女英雄たちの香気にくしゃみが出そうになったが耐えた。
「ご機嫌よう兄上」
「ご機嫌よう」
二人の姉たちの荷物を持って付き従っていた背の小さな娘たちも、すれ違い様に立ち止まり、ギリスに略礼をしてから姉を追って行った。
その四、五人いる娘たちの額にも英雄らしい石があり、皆ひどく複雑な髪型に髪を結いあげていた。
同じ匂いだ、全員。
エル・エレンディラの派閥の娘たちに違いない。
その殿の一人が、ふと思いついたように立ち止まり、ギリスを振り返って言った。
「姉上が、お茶にお誘いするよう仰せでした。エル・ギリス。夕刻お待ちしておりますと、ご伝言です」
「姉上て誰だよ」
ギリスは尋ねたが、娘は真顔で、知らんふりをした。
「ご機嫌よう」
くるりと踵を返して姉たちを追っていく男装の少女の小走りを、ギリスは弟たちと見送った。
その姿が軽やかに階段を降り、飛び去る蝶のように下の通路へと消えていくと、弟たちが深いため息をついた。まるでずっと息を止めていたかのように。
「すごいですね、兄。女部屋の連中に挨拶してもらえるなんて」
「僕らなんて、すれ違っても気づいてももらえません。完全に無視です」
まだ包帯を巻いてるような連中が、うじうじと言った。
「美人だったな」
今さら驚いて、ギリスは感想を述べた。
女英雄たちは侍女とは違う。侍女も玉座の間に行けば美貌の者がいくらでもいるが、その弱々しい花のような風情は、女英雄たちの持つ独特の華やかさとは別種のものだ。
「俺、この格好でお茶に行っていいと思う?」
「絶対、着替えてください」
即答で弟たちが反対していた。
「なんでだよ」
「だって朝から着てるんでしょ、それ。昼飯食った後、着替えてください。風呂にも入ってから行ってください。靴も新調してください」
矢継ぎ早に弟たちが注文を付けてくる。
「どんだけ汚ぇんだよ俺は」
「礼儀ですよ、それは」
初めて聞く礼儀だった。
「いいよ、ジェレフに聞くから」
お菓子も持っていけ、花も持っていけと口々にうるさく言う弟どもの勢いに困りながら、ギリスはここら辺でチビどもと別れることにした。うるさくてしょうがない。
可愛げのある連中だが、こういうのと四六時中一緒にいたいという気がしなかった。
兄というのも苦労だなと、ギリスは疲れた。
先程の女英雄たちも妹たちをぞろぞろ引き連れていたが、王宮では皆そうだ。誰かの後を追うか、誰かに追われて歩くしかない。
「まったくクソ忙しい日だぜ」
ギリスは歩きながらボヤいた。
新星に目通りした朝がもう、遠い過去のことに思えた。
ひどく眠く、そして腹が減っている。そういえば朝飯も食っておらず、それなのに、もうすぐ昼時だ。
あの新星と出会って以来、ゆっくり飯も食えない。
ギリスはもう心が折れそうだった。
「もっと忙しくなるよ」
ギリスが階段を上がろうとるすると、中二階の回廊の手すりを掴み、階段の下を見下ろしている別の一団がいた。
その中の誰かが返事をしたようだった。
ギリスはそれを見上げ、知っている顔があるか確かめた。
知らない連中だった。
「兄、銀狐閥です」
耳打ちする声で、弟がギリスに教えた。
聞いたことある。
ギリスはそう思った。
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033 銀狐たち
「こんにちは。エル・ギリス。長く話せない。顔を貸してくれ」
誰に向かって口をきいているのか、中二階の回廊にいる者たちはこちらを見ないで話していた。
名を呼んでくるのだからギリスに言っているのだろうが、回廊を手すりを掴んでいる先頭の誰かは、階段の折り重なる空間の、あらぬ何処かを見ている。
まるで、何もない空中に何かが見えているみたいだ。
そいつが見ている方をギリスも見てみたが、何もなかった。
それだけでも妙だが、先頭の一人は髪も結わず、今起きたような垂れ髪で、その長い黒髪も乱れて絡まっており、しばらくろくに櫛も通していないようだった。
そんな格好で廊下を歩いていたら、ギリスの属する派閥では兄たちから拳骨を喰らう。
栄光ある王宮では、英雄は常に身なりも立居振る舞いも英雄然としていろというのが、派閥の掟だ。
それはそういうものだと、ギリスは疑問に思ったことはなかった。
面倒くせえなと思いながら、朝起きれば風呂に入り、髪に櫛を通し、結い上げてからしか個人房を出ない。英雄とはそういうものだからだ。
でも、よその派閥では違うらしい。
見たこともない誰かが、乱れた風体でいるのをギリスは顔を顰めて見上げた。
そいつは輿に乗っていた。足腰の立たない者を運ぶための荷台のようなものだ。
この王宮の、英雄たちの暮らす界隈では、石の症状の悪化で急に気を失ったり、歩けなくなる者もいる。そういう者を運ぶときに使う道具だ。
歩けないのかもしれなかった。
その垂れ髪の誰かは、四方を人に持たせた輿の上からギリスに話しかけてきていた。
輿を運んでいるのも、頭に石のある連中だ。その者たちは英雄らしく髪も結い、乱れなく長衣を着ていた。
剣帯に毛皮の飾り房をつけており、それが尻尾のように見えた。
弟たちはそれを見て、彼らの派閥を判断したのだろう。
自分たちの所属を示すものを身につける連中もいる。
ギリスの派閥にそういう習慣がないのは、身を証す必要のない大派閥だからだ。
銀狐はそう大きな派閥ではない。でも英雄には違いない。
その英雄に輿を運ばせるのだから、乗っている者はよほど序列が高いのか。
それでも、呼びかけてくる声はギリスよりも幼い、少年のような高い声だった。
「聞こえないの?」
非難するように声を顰め、中二階の誰かは尋ねてきた。
「無視しましょう、兄。無礼です」
「あいつが誰か知ってるか」
翡翠の石のやつに、ギリスは小声で尋ねた。
「知りません。見たことない奴です」
緊張した顔で、エル・サリスファーは答えた。
英雄の中には、知らない者もいるだろう。実際、子供も入れれば王宮には何百人もの竜の涙がいた。
その中で皆が名の知れた英雄ということではない。幾つもの英雄譚に詠われる大英雄もいれば、ずっと日の目を見ない者もいる。仕方のないことだ。
同じ年頃の小英雄どうしなら、それぞれの魔法に従い、訓練場で顔を合わせたり、大部屋で同室であったり、読み書きの教師に同じ部屋で習ったりすることで、知り合うこともある。それでも全員を知っている訳はない。
弟たちが敬遠しているのは、それが異なる派閥の者たちで、しかも向こうは自分たちより年上の者が四人いるせいだ。
輿を運ぶ英雄たちはギリスと同じぐらいの年頃に見えた。
向こうは四人、こちらは一人だ。普通に考えると部が悪い。もし喧嘩となれば、こちらの弟たちは戦わないつもりらしい。年長者に逆らってはならないせいだろう。
面倒な話だった。たとえ年上だろうが、殴れば気絶すると思うが、皆はギリスと同じ考えではないらしい。
殴った後のことを弟たちは恐れているのだろう。王宮での私闘は罪だからだ。
「エル・ギリス。一人でいいよ。こっちに来て。何にもしないよ」
笑っているような声で、また輿の誰かが言った。
英雄なのかもしれないが、髪に隠れて石は見えない。
だが、英雄でもない者が、王宮のここ界隈にいるわけがない。
王宮にいる子供は、英雄か、そうでないなら王族だ。ギリスは王族の顔は知っている。絶対に違う。
誰もない誰かが、英雄が運ぶ輿に乗ってくる訳はないのだ。
「名前は」
仕方なく、ギリスは階下から尋ねた。
「アイアラン」
何かの遠吠えのように、中二階の誰かは吹き抜けの空中に向かって名乗った。
「エル・アイアラン?」
ギリスは弟たちが何か知っているかと思い、彼らに尋ねる気持ちで答えた。
六人もいる連れは、ギリスに知らないというように首を振って見せている。
「ただのアイアランだよ。僕はまだ英雄じゃないんだ」
歌うような声色で、銀狐は答えた。
「君が僕を英雄にしてくれるんだよ、エル・ギリス。永遠に部族の英雄譚に詠い継がれる英雄になれる」
それがもう決まったことのように、アイアランは言った。
まるで何かに酔っているような、正気が疑わしい声だ。
ギリスが顔を顰めて弟たちと顔を見合わせると、弟は自分の顳顬のあたりを指でつついて見せてきた。
あいつ、おかしいですよという意味だった。
「派閥の部屋まで送る」
ギリスは心なしか青ざめて恐れているらしい弟たちに約束した。
他所の奴らが何かの気まぐれで、派閥の年少者を襲うことはある。そういう行いは卑怯者の誹りを受けるが、誹りなど恐れない者も中にはいるのだ。
何がどうなってどんな恨みを受けるやら見当がつかないのが王宮だ。
ギリスは弟たちを引き連れて階段を登り始めた。
その階段を上り切った、すぐ横に銀狐たちは居たが、輿を抱えている四人はこちらを見るものの、名乗ったアイアランはまだ欄干の向こうの空中を見ていた。
目が見えないのかと、ギリスは訝った。
生まれつき盲目の者もいるだろうし、英雄の中には石のせいで視力に難のある者もいる。養父も晩年は石のために隻眼だった。
「行かないでよ。どうして無視するんだ」
そっぽを向いているくせに、アイアランは悲しげに呼びかけてきた。見当違いのほうを向いたまま。
「エル・ギリス!」
大声で呼びかけてきて、輿の上のアイアランは自分の手で両目を塞ぎ、通り過ぎようとするギリスのほうに這い寄ってきた。
「僕は……未来視だよ。未来を知りたいだろ?」
縋り付くようにアイアランは言い、ギリスは足を止めたが、両目を塞ぐアイアランは未来どころか今ある目の前すら見えてはいなさそうだ。
「何言ってんだよ。うるせぇ。とっとと消えろ」
気味が悪く、ギリスはむっとして怒鳴った。それでも相手に恐る気配はなかった。
「新星の未来だよ。君は必ず来る。僕は知ってるんだ。待ってるから……エル・エレンディラの後でいいよ」
息切れしたような荒い息で言って、アイアランは輿の上で苦しげに蹲った。
その様子を輿を抱えた四人が無言で心配げに見ていたが、誰も介抱する様子はない。
ぜえぜえ息をして、アイアランは気が遠くなったらしかった。もう何も言わない。
ギリスは最後にそのぐったりと伸びたような痩せた風体を一瞥してから、歩き出した。
石がない。髪に隠れているのか。
ギリスに足早についてきた弟の一人が、気味悪そうに振り返りながら、小声で言った。
「兄、あいつの頭の中、石でいっぱいだよ。きっとすぐに死ぬ」
なんて名だったか忘れた。透視術師だ。人の頭の中を覗き見するのは悪い癖だった。
ギリスは厳しい声を作り、弟を叱ることにした。
「馬鹿、つまんねえこと言うな。そういうのはお前が決めることじゃない」
死の天使が決める。
派閥では昔からそう言われている。
石がデカくても死なない奴もいれば、まだまだ生きそうだったのに食い物に中って死ぬ奴だっている。
死んでみるまで分からんものさ。
養父もそう言っていた。
たとえ分かったとしても、自分の死期など知りたい訳がない。誰しも同じだ。
明日など分からないから、皆、平気で生きていけるんじゃないか。
「未来視って本当にいるのか」
「石のない予知者はちょいちょいいますけどね。でもほとんど当たらないって」
翡翠の石のやつが、ギリスの横を歩きながら、まだ来た道を振り返って答えた。
「そんな精度じゃ魔法じゃないな」
「確かに」
笑うサリスファーを見て、ギリスもやっと笑う気になった。
「でも当たるんじゃないですか、竜の涙の未来視なら。エル・ディノトリスみたいに」
首に包帯を巻いてる奴が、不安そうに口を挟んできた。
ギリスは何も答えなかった。
あいつがもし本物の未来視でも、いい予言を持ってきたとは限らない。そんなものを聞いて、良い結果になるのかどうか。
それでも、覗き屋の弟の見立てが正しいなら、あのアイアランという奴が何かの魔力を使ってきたことは、石が証明している。
魔法を使わない奴の石はあまり育たないものだ。個人差はあるが。
あいつが石を肥やした魔法が、何かあるはずだった。
「派閥の部屋で飯食おうっと。腹減って頭回らなくなってきた」
「ご一緒します」
ギリスが誘ったと思ったのか、弟たちは嬉しそうだった。
「何言ってんだよ。お前らは別で食え。俺はジェレフと話す」
ギリスが突っぱねると、弟たちは図ったように声を揃えて、えぇ、と不満の声を上げた。
何で一緒に飯を食いたいのか、可愛げはあるが、小うるさい弟たちだった。
それを置いて逃げようにも、行き先の派閥の部屋が同じでは逃げようがない。
仕方がなく、ギリスは弟どもを引き連れて、通い慣れた派閥の部屋まで行った。
部屋と言っても一室ではなく、そこは王宮の一角に広がる幾つかの広間の集まりだ。続き部屋もあれば、通路で繋がれた別棟もあった。
壁には骨になって駆ける馬が何頭も描かれている。それがこの派閥を象徴する旗印だからだ。
それゆえこの派閥は髑髏馬閥と称されるが、その中にいる者はただ派閥と呼んでいた。
外から見た時、髑髏馬閥の英雄は勇猛で、攻撃的で、死を恐れぬ、無敵の突撃部隊とされている。
だが、この派閥がそのような印象を持って、特に他の派閥の追随を許さぬほど多くの強力な英雄を擁するようになったのは、恐らくイェズラムが長を務めるようになってからだろう。
族長リューズは明らかに髑髏馬閥を重用した。
戦時において、それは過酷な攻撃任務を意味したが、その役割を果たして華々しい死を英雄譚に記録されることを、英雄たちは自ら望んだのだ。
それは迫り来る病苦と死からの逃避と言えた。王宮の片隅で病み衰え、苦悶して孤独に死ぬよりは、英雄性を讃えられながら戦場に散るほうが、いくらかマシな一生だと兄たちは思ったのだろう。
髑髏馬閥に籍を置けば、割りの良い死と英雄譚が与えられた。民が喜んで繰り返し詩人に詠唱を求めるような、美しく熱い物語になって、永遠の眠りにつける。
骨の馬に乗って。死の天使の元へ。
ギリスはこの壁の馬が好きではなかった。
馬には肉がついているほうが良い。
骨張った馬になど乗りたくはなかった。
だが、派閥に籍を入れて間もない弟たちには、この栄えある髑髏馬閥の旗印には胸がときめくようで、どこかうっとりした目で通路の壁画を眺めている。
ギリスは目指す一室の戸をくぐり、慣習通り、室内にいる兄たちに戸口の敷物の上で叩頭した。
「エル・ギリスです、兄上」
額付いてそう挨拶したものの、入ってすぐの部屋には目指す相手はおらず、人も疎らだった。
「ジェレフは?」
部屋の隅で本を読んでいた年上の魔法戦士にギリスは尋ね、相手は無言で顎を上げて奥の間を示した。
もう昼時であり、部屋には食い物の匂いがしていた。
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034 髑髏馬《ノルディラーン》たち
鼻を蠢かせて、ギリスは奥の間の宴会の気配を悟った。麦酒の匂いがする。
ギリスは遠慮なく、勝手知ったる派閥の部屋を進み、奥の間の戸を開いた。
中には大人ばかりがいた。皆、車座で膳を囲み、飯を食ったり酒杯を持っていたりした。
ギリスは中を見回して、目当ての相手がいるか確かめた。
ジェレフは部屋の奥で何人かの魔法戦士と話していた。
「入っていい?」
ギリスは誰にともなく大声で聞いた。
すると酔っ払っているらしい兄たちがギリスと、たじろぐ弟たちに気付き、銀の箸やら野菜の切れ端やらを投げてきた。
「餓鬼は帰れ」
誰かがそう言ってきたが、ジェレフではないだろう。兄は話し込んでいて、こちらには気づいていないようだ。
ギリスは気にせず入った。
叩頭した方が良かっただろうが、どうせ誰も見ていない。
腹が減った。
膳に盛られている宴席の料理を見て、ギリスはまだ箸がついていないらしい一席をジェレフのそばに見つけた。
少し遠いが、声が届かぬ程ではないだろう。
座る兄たちの背後の床を拾い歩いて、ギリスはその席まで行き、すとんと腰をおろした。
膳にあった箸をとり、とりあえず腹が減っていたので二口三口、料理を食べた。鶏と豆と果物を炒めたもので、冷めていたが美味かった。
それを堪能してから、いつまでも話し終わらないジェレフにギリスは大声で話しかけた。
「ねえジェレフ、女英雄にお茶に来いって言われたんだけど、俺どうしたらいい? 初めてだから分かんないよ」
ギリスが鶏を食いながら尋ねると、酔っ払っていた兄たちが、なんだと、と驚いた声で言ってきた。ジェレフよりも先に。
「生意気だぞギリス。なまっ白い餓鬼のくせに」
「どんな女だ」
兄たちはギリスの膳の酒杯に麦酒を注いで聞いてきた。
「めちゃくちゃ美人で、二人」
「お前みたいな馬鹿がなぜモテる。世の中おかしい」
深く嘆く声で兄たちは口々に悔やんだ。
戸口ではまだ、入りそびれた弟たちがオロオロしているのが見える。
「風呂入っていった方がいい?」
ギリスはジェレフに聞いたつもりだったが、素焼きの麦酒壷を持ってきた別の兄が、ギリスの頭に麦酒を注いできた。
「好きなだけ入れ」
「やめてよ! まだ食ってるんだから」
箸先まで麦酒が滴るほどかけられた。酷い兄ばかりだ。
「ジェレフの送別会だぞ、ギリス。女は諦めて一緒に朝まで飲め」
「嫌だよ。他にも用事があるんだ。朝まで付き合うほど暇じゃないんだよ俺は」
「うるせぇ下っ端のくせに」
誰かも分からぬ泥酔した兄が、ギリスの隣に座ってきて肩を抱き、びしびしと頬を叩いてきた。鶏が食えない。
「ジェレフ、ねえ」
別の兄に絡まれながら、ギリスは大声で聞いてみた。
「銀狐のアイアランて奴、知ってる? ジェレフ、なあジェレフ!」
ギリスがうるさく呼びかけると、他の誰かと話していたジェレフが、むかっとした顔でこっちを振り向いた。
「うるさいぞ、ギリス。今こっちで話してるだろ」
「銀狐のアイアランだよ。未来視か?」
「なんだって?」
ジェレフは険しい顔で、宴席の上座からギリスを見てきた。
兄は近々また巡察に出ると言っていた。
派閥にはジェレフを慕う者も多い。ちょっと出かける程度のことで、皆が集まって酒を飲んでくれるのだ。
そのせいで、ジェレフの席の周りにはギリスよりも丈高い年嵩の英雄たちが屯していた。
どれも英雄譚で肥やした石をこれ見よがしに頭に飾り、屑石しか持たないチビとは口もきけないという面構えだった。
普通の小英雄であれば、それだけで小便もらして叩頭するような連中なのだろう。
それでもギリスは兄たちを近寄りがたいと思ったことはなかった。
かつてヤンファールの平原で、そういう作戦だったとはいえ、守護生物が放つ酸の弾丸から、兄たちは皆、身を挺して突撃するギリスを守ったからだ。
ジェレフもそうだ。
ジェレフが死ななくてよかったと、ギリスは心底思っていた。
いざとなれば兄たちは皆、優しい。いざとならない時には殴ってくるのだが。
その矛盾が、どうしてもギリスには理解できなかった。
今もジェレフは、もう一言でも口をきいたら殴ってきそうな顔をしている。
「銀狐と話すな。あそこは頭のおかしい奴ばかりだ」
ジェレフはさも当然そうにギリスに忠告する口調だった。
「ここだってそうじゃない?」
ギリスは部屋を見回して言った。もう酔い潰れて倒れている兄もいる。
「馬鹿を言うな」
麦酒壺から直に酒を飲んでいた隣の兄が、真面目腐って言い、飲み残した麦酒をさらにギリスの頭にかけた。
これがまともと言えるのか、ギリスは疑問だった。
派閥の宴席には行くなと、養父も控えめにギリスに提案していた。
だが、宴席ではいつにないご馳走が食えるので、ギリスは養父の言いつけを守れなかったのだ。
「誇りを持て、ギリス。お前はこの派閥の弟だろ」
「まあそうだけど」
栄光ある髑髏馬閥の英雄たちが酔い潰れている床をギリスはまた横目に見た。
兄たちは今夜の晩餐には出ないつもりか。それとも半日程度でこの酔いを醒ます魔法でも知っているのだろうか。そんなものがあるのならギリスも習いたかった。
夜の玉座の間で火酒を喰らうと、翌朝決まって吐いたからだ。
「どうやって知った。銀狐閥のアイアランを」
まだ険しい顔で、ジェレフが離れた席から聞いてきた。
「さっき階段で会った」
「あいつと口を聞くな、ギリス。死を予言する」
ギリスがその話に口を尖らせると、ジェレフは反抗したと思ったのか、もっと厳しい顔になった。
「本当だぞ。それで何人も自決してる。あいつは銀狐でも蟄居の扱いのはずだ。どうせそう長くも保たない」
死を予言するなと自分で言ったくせに、ジェレフがアイアランの死を予言していた。
ギリスはますます不満顔になった。
「そいつに後で来いって言われたんだけど、どこへ行けばいいんだ?」
「お前、聞いてるのか、俺の話を……」
ジェレフは頭を抱えて、自分の膳の酒杯を上げた。
見た目には分からなかったが、たぶん兄は酔っている。いつものように、にこやかじゃないし、ギリスの後見でもないくせに、えらく高圧的だった。まるでギリスに命令できるみたいな口ぶりだ。
「知ってるんだろ、アイアランの居所を」
「知ってる。あいつは施療院の預かりだ。ずっと具合が悪いしな」
「なのに、なんでずっと生きてるの」
ギリスは不思議で、ジェレフに尋ねた。
小英雄たちは健康でなくては生きていられない。
本当の意味で健康な者など竜の涙にはいないが、まだ武功がなく、これといった見込みもなければ、ほどほどのところで生涯を閉じることになるのが常だ。
部族のために命を捧げた英雄であった。そう詩人たちがお決まりの歌を歌い、玉座の間で定期的に、まとめて何人かの英雄の名が詠み上げられる。
その葬式がある日には、英雄たちは玉座の間には行かない。気が滅入るせいだ。
聞くものの少ないその英雄譚は『小英雄の歌』と呼ばれていた。無念で、そして無為な生涯の証だ。
ギリスはそのような不幸からはもう、永遠に免れていた。イェズラムと、認めたくはないが、あの偉そうな玉座の男のお陰で。
ヤンファールの勲は、ギリスにとって、天国を確約する割符のようなものだった。
いつ地獄に落ちるのかと恐れて生きる必要がない。
兄たちはよく、地獄とはどういうものか話して、小英雄を脅すのだ。
そこでは鎮痛する薬もなく、絶え間なく石が痛む。眠ることも死ぬこともできず、ただ永遠に苦悶する暗闇だ。
それがどんなものか、ギリスには見当もつかないが、故人がそんなところへ逝かないことを願わずにはいられない。
もしイェズラムがそんなところにいるのなら、ギリスは代わってやりたかった。死も痛みもない楽園にいてもらいたい。
「あいつは死ねないんだ。未来視だからな」
「どうして?」
ギリスはそれについて聞いたことがなく、ジェレフに話を求めた。
未来視の魔法は、最初の英雄であるエル・ディノトリスの伝説にも登場するので、存在することは広く知られているが、実在する竜の涙の中に術者はいない。いないのだとギリスは思っていた。
でもまさか当代の王宮にそんな珍しい者がいたとは。なぜもっと知られていないのかと、ギリスは不思議だった。
「未来視の英雄は滅多に現れないから貴重なんだ。だがあいつは、まともな未来を予言しないんだよ。生かしていても、役には立たない」
ジェレフにしては辛辣な話ぶりだった。兄は何かに怒っているようだ。たぶん、アイアランにだろう。
誰にでも優しいジェレフを怒らせるとは、よほどの悪党なのか。
自分も悪党ギリスと呼ばれて、悪ふざけを咎められてきたので、ギリスには他人事とも思えなかった。
「あいつ、何か予言したの?」
誰にともなくギリスが聞くと、離れた席で煙管を吸っていた兄の一人が答えた。
「ヤンファールの勝利を」
「じゃあ当てたんじゃん!?」
驚いて、ギリスは麦酒の滴る箸で掴んだ鶏肉を膳の上で落とした。
無作法だぞといつも咎める兄たちも、今はなぜか難しい顔で何も言わない。
叱られるかと身構えたのに、損をしたと思い、ギリスはその肉を手で拾って口に入れた。
「それが当てたことになるか? 戦は勝つか負けるかだ。いつ、どのように勝つかを事前に当てるのでないと、意味がないだろう。魔法としては」
麦酒の壺を抱いている隣の兄が、額を覆う薄紅い色の石を煌めかせながら、苦笑して言った。
「勝利だけなら俺だって予言できる。族長は常勝無敗の名君だ。あの方が戦えば、必ず勝つ。この名君の時代にはな、そんなもんは予言じゃないんだ」
ギリスは肉を噛みながら、何かがおかしい気がして、顔を顰めた。
しかめっ面で鶏を食っているギリスを、兄たちは物言いたげに黙って見ていた。
「わかったか、悪党ギリス?」
麦酒壺の兄が、理解しろという口調で返事を促してきた。
「いいや、分からない。アイアランはなぜヤンファールの英雄譚に出てこないんだ」
「魔法戦士じゃないからだ」
「魔法戦士だろ」
「王宮で寝て、夢見てるやつが戦士か。お前や、俺たちが戦場で守護生物に突撃してたとき、あいつはどこにいた。隊にいるのを見たか、エル・ギリス。ヤンファールの氷の蛇よ」
詠う口調で言って、麦酒壺の兄はよしよしとギリスの頭を撫でてきた。
「俺はアイアランと会う。あいつは新星の未来を予言すると言ってた」
「やめろ」
鋭い声でジェレフが叱責してきた。明らかに怒っている声だ。
「未来視は伝説上の魔法だ。エル・ディノトリスだけが使う。古い英雄譚に登場するだけの嘘だ」
「言い過ぎだジェレフ」
激して言うジェレフに、その隣にいた暗い青の石をした兄が静かに諭した。
誰だか見覚えはないが、ジェレフと親しそうだった。
座る距離も近いし、年頃も近かった。ギリスにも子供時代の大部屋仲間がいるように、ジェレフにもいる。おそらくその一人だろうと、ギリスは見当をつけた。
子供部屋の繋がりは、派閥ごとの結束や、兄と弟の絆とも違う、また独特のものだ。
「嘘じゃない。未来視の魔法はあるんだけど、精度が低いんだ。伝説の射手、エル・ディノトリスは偶然、王都タンジールへの脱出行を未来視した。その予言が太祖アンフィバロウに脱出を決意させたんだ。でも、皆がついていったのは、ディノトリスにではない。アンフィバロウのほうだ。予言ではなく、太祖のお人柄を皆が信じた」
「そうだ」
渋々と酒杯をあげて、ジェレフが同意した。
ジェレフでも他人の意見に同意することがあるんだと、ギリスは感心した。
「予言だけあってもしょうがないんだ。名君リューズ・スィノニムは予言など必要としない。それがなくても、皆が閣下を信じている。今も……」
どことなく遠い目で、喋っていた青い石の兄は押し黙った。
それが何を言おうとしていたのか、ギリスには分からなかった。
青い石の男はふと気づいたふうに部屋の戸口を見て、何かに気づき、にっこりとした。凛々しいが優しげな兄だった。
「やあ。サリスファー。何やってるんだ、そこで。腹が減ったか」
そいつが戸口にいた弟たちに声をかけるのを、ギリスは横目で見た。
さっきまでギリスにまとわりついていた弟たちは、まだそこにいて、大先輩だらけの広間に入る気合がなかったようだ。
優しく声をかけられて、兄に差し招かれてやっと、彼らはぞろぞろと来た。
それを車座の中に座らせ、空になっていたジェレフの酒杯に酌をさせてから、青い石の兄は言った。
「ジェレフ。俺の弟だ。エル・サリスファー。まだ若年だが、俺と同じ氷結術師だ。俺より出来がいい。お前もよろしく目をかけてやってくれ」
「ユーレラン」
ジェレフは複雑そうな顔で、隣の兄の名を呼んだ。
その名にギリスは聞き覚えがあった。
しかし考えないようにした。
英明なる紺碧のユーレランだ。
そういえば、その隣にいる兄も、ジェレフと似た穏やかそうな立ち居振る舞いで、灰色の石をしている。
これが慧眼なる灰色のエル・ダージフだ。
ダージフは心配げに友を見ていた。同じ英雄譚に詠まれる兄弟で、同じ部屋の天井を見て眠った仲間なのだろう。ジェレフもそうだ。
お前は俺より十歳も若いのだからと話していたジェレフの声が耳に蘇り、ギリスは箸から逃げ回る最後の鶏肉を突き刺した。
生きるのだ。なんとしても長く生きて、新星を夜に放つ。
それがどんな星であるべきか、ギリスは考えていた。今朝、第十六王子スィグル・レイラスに問われてから、ずっと。
皆を栄光に導く星でなければ、玉座を与えたくない。だが栄光とは何だ。
栄光とは。
「兄、スィグル・レイラス殿下の帰還式に列席していただきたいのです」
意を決したように、膳の前に跪いていた翡翠の子が、青い石のエル・ユーレランに言うのが聞こえた。
あいつは馬鹿か。なぜ今言うんだ。時機ってもんがあるだろうと、ギリスはそう思った。
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035 兄《デン》たち
「帰還式……」
弟の急な懇願を受けて、英明なる紺碧のユーレランはぽかんとして見えた。
その隣で酒杯をあげていたジェレフも、彼の友、慧眼なる灰色のダージフも、ぽかんとして弟たちを見ている。
ギリスは麦酒壺を抱いた隣の兄が眠りはじめ、自分に寄りかかってくるのを重たく感じながら、遠目にジェレフたちの席を見つめた。
急な話だ。
ジェレフは昨晩のうちに皆に話して、もう断られたようだった。
終わった話だ。おそらく、兄たちの間ではそうだったのだろう。
ぽかんとした後、皆いっせいに暗い顔をした。場違いな汚物でも酒席で持ち出されたような。
「サリスファー。なぜお前がそんな話をここでするのか、俺にはわからないが。場を弁えろ。エル・ジェレフの旅の無事を皆で祈るための席だ」
真面目くさった顔で、英明なる紺碧のユーレランが言った。
穏やかで優しい声だったが、そう言われて、気の毒な弟は言葉に詰まったようだった。
おそらくは、先ほどギリスが頼んだことを、さっそく実行に移そうとしたのだろう。
この席で英雄たちが帰還式への列席を二つ返事で引き受けたなら、それは話が早い。そうであればギリスには何の文句もなかったが、今は笑顔で飲んでいる兄たちにも、腹に抱えるものはある。
それぞれ、思惑は違うが。
「いや。いいよ、ユーレラン。皆で飲んでるだけじゃないか」
苦笑して、ジェレフがいかにも構わないというふうに気さくに言った。
ジェレフも、ここで皆が万が一、うまく懐柔されれば都合がいいと思ったのだろう。
甘い兄だ。そんなものがタダで買えるとは、ギリスは思っていなかった。
「ジェレフ。俺の弟だ。口出し無用に願うよ」
硬い表情でユーレランは答えた。
見たところ、その英明な兄の額の石は、そう大きくは見えなかった。
ジェレフのほうが症状がひどく見える。額の半分を覆い、側頭にも現れた薄い紫色の水晶のような石が、ジェレフの頭を貫いているように見える。
それで生きているのは不思議だと思うが、年長の英雄たちは案外平気で生きている。
エレンディラも頭部のあちこちに赤い石を生やしているし、亡き養父も、片目を奪うほどの重たげな石が、まるで祝祭の仮面のように横顔を隠して見えた。
はっきりとは誰も言わないが、英雄は、石が外に向かって生育した者のほうが長生きする。
いくら魔法を使っても、表面上は石が大きくなって見えない者のほうが、着々と石に命を奪われているのだ。
ヤンファールの後も、養父は王都に帰還したギリスをすぐ透視術師に視させた。
見かけ上の額の石が、さほど育っていなかったからだろう。
養父はギリスの頭の中が、氷のようにも見える乳白色の竜の涙でいっぱいになっている悪夢を見ていたのだ。
でもそれはただの悪夢だった。現実ではなかったのだ。
ギリスは我が身には些少の被害だけで、イェズラムに匹敵する大魔法を振るったことになる。
それを皆は様々に受け止めた。
養父は喜んだが、でも、皆はどう思ったか。それをギリスは身をもって知ったが、養父には言わなかった。
王宮の狭い通路で理由もなく殴りかかってくる者たちが、皆の出したギリスへの答えだ。
お前を許さないと、皆は言っている。
わずかの魔法を振るっただけで、石に押しつぶされて死ぬ者がいるのに、どういうことだと言いたいのだろう。ごまかした代価を体で支払えと。
そんなことは、ギリスには知らぬことだった。理由を知りたいなら、死の天使に聞いてほしい。ギリスのせいではなかった。
しかし、この英明なる紺碧の兄も、ギリスには言いたいことがあるだろう。
エル・ユーレランの石は小さく見えた。品よく形の良い濃い青の暗い石が、王族の額飾りのように、額の真ん中にぽつんとあるだけだ。残りの石は全て、彼の頭の中にある。
「サリスファー。昨夜のことで、お前にはまだ教えていなかった。済まなかったよ。だが、この派閥からは、殿下の帰還式に列席を希望する英雄はいなかった。俺もそうだ。なぜかは聞かなくても分かるだろう。お前は人よりずっと聡明な子なのだから」
聡明だと兄に褒められて、翡翠の子は暗い顔をした。
さっきはギリスに氷結術を褒められて、あんなに嬉しそうだったのに、気の毒なことを頼んだなと、ギリスは反省した。
これも弟たちには、まだ荷の重い役割だっただろう。英名なる兄がどんな奴だか、ギリスは知らなかったのだ。
まさかスィグルを恨んでる奴とはな。
「申し訳ありませんでした、兄上。軽率でした」
「軽率に何を考えたんだ。話してみろ」
すぐには許さず、英名なる兄はサリスファーに説明を求めていた。
弟がただ平伏して引き下がるかと、ギリスは思い、食膳に添えられていた野菜を食っていた。まだ腹が減っている。隣の前にあった別の料理も食おうかと思案していた。
「兄上の英雄譚に添える新しい物語になるかと思ったのです。スィグル・レイラス殿下は、人質におなりになるとき、大英雄イェズラムの先導で王都を出立されました。エル・イェズラム亡き今、その帰還を迎えるにふさわしい、亡き長に匹敵する英雄はいません。その役目を仰せ付かるのは名誉なことです、兄上。後の世にはきっと、エル・イェズラムと並び称される英雄になれます」
悲壮に青ざめた顔で、翡翠の子が兄たちに力説していた。
その考えはなかったな。ギリスは香辛料と塩の効いた油で和えてある、しゃきしゃきした野菜を噛みながら、弟の聡明さに感動していた。
それは確かに大した名誉だ。行きはイェズラム、帰りは別の大英雄と、詩人は歌うかもしれぬ。いい塩梅だ。
英雄譚とはそういうものだ。宮廷詩人たちが作る、虚構の歌だ。
だが民は、大抵はそれを真実と受け止める。
それに気づいたのは当代の族長なのだそうだ。養父がそう言っていた。
英雄譚は嘘で良い。事実を超える美しい嘘ならば、それで良いと、リューズ・スィノニムが言ったと、養父はギリスに話していた。
だが、英雄譚は嘘であってはならぬと、イェズラムは言っていた。
嘘の話には、民は涙を流したりはしない。まして命懸けで戦う兵士を鼓舞する歌は、本物でなくてはならないのだ。
だから英雄譚は血を吸っている。英雄たちの。あるいは王族たちの。
ほとんどが華々しい戦場の物語で、そこでは次々と敵が斃れ、味方も斃れた。
「サリスファー」
苦笑した表情で、英名なる兄は弟の顔を眺めて言った。
弟の顔の、一体何を見ているのだろうかと、ギリスは不思議に思った。
「お前みたいなチビでも、英雄なんだな。英雄譚が欲しいのか」
「もちろんです!!」
勢い込んで、翡翠の子は答えた。兄たちの座る膳に膝が当たりそうに詰め寄り、それが当然だと強く訴える気配だ。
それに英名なる紺碧のユーレランは、ふと、可笑しそうに小さく吹き出して笑った。
「ジェレフ。俺の弟に英雄譚を得る方法を教えてやってくれ」
もう自分では言わない気なのか、エル・ユーレランは箸をとって、自分の膳に残っていた料理を口に入れていた。
話に巻き込まれ、ジェレフは困った顔をしている。
つくづく何かにつけ、人に言われると嫌とは言えない兄だった。
そんなことだから、ジェレフは無駄に英雄譚と石を肥やすのだ。
ヤンファールの時も、ジェレフは王子二人の救出は命じられたが、ギリスを生かして連れ帰れとは命じられていなかった。主だった司令塔の守護生物たちを、ギリスが氷結魔法の射程内に捉えるまで、援護しろと命じられただけだ。
ギリスがその後、死のうが生きようが、兄には関係がなかったはずた。
それでもギリスが化け物に蹴っ飛ばされて吹っ飛ぶと、兄は血相変えて馬ですっ飛んできて、自分の命を削る治癒術で、ギリスのちぎれた足を繋いでくれたのだから、まさしく命の恩人だった。
そこで終わる命だったとギリスは覚悟していた。
それでも良かったのだ。もう守護生物を十四体も倒した。
これで自分も、炎の蛇と並び称される英雄譚を得られるだろう。
楽園に逝くのだ。そこで兄たちを待つ。
逝く順番が狂ったが、死の天使は気まぐれなものだ。
しょうがないのだと、その時は思った。
しかしジェレフは死の天使の上前をはねるので、きっと天使は怒っているに違いない。
それとも、よほど兄は死の天使の寵愛を受けているかだ。人の死を左右する魔法を与えられて生まれてきた。
ジェレフはひどく言いにくそうに、年少の後輩に喋っていた。
「エル・サリスファー。名誉を求める気概は見事だ。しかし、殿下の帰還式はおそらく英雄譚には詠まれない。君の兄上は立派な男だが、亡きエル・イェズラムに匹敵するなどと思い上がる者は、あいにくこの派閥にはいないはずだ。長は名君の射手にふさわしい、稀有なお方だった。君は知らないのかもしれないが……」
「知っています」
驚いたようにサリスファーは口を挟んだ。イェズラムを英雄譚で知っているのだろう。
さっきの学房の爺いも、好んでイェズラムの少年時代を語る。イェズの師父だったことも、爺いにとっては自分の勲に思えるらしいのだ。
だが、イェズラムの真の偉さは、英雄譚が詠わない、王宮の片隅にあった。
ギリスがどこぞの狭い通路で誰かも知らない兄たちに殴られて戻ると、イェズラムは苦笑して、顔は庇えと言った。
相手が王族なら別だがな、避けてもいいんだぞ、兄の拳骨は。
派閥では兄に逆らうなと習うだろうが、あれは嘘だ。ギリス。
死ぬほど殴り返してやれば、年少のお前にやられた恥で、相手はただ黙って施療院に行くだけさ。俺もずっとそうしてきた。
イェズラムは笑ってそう話していた。
イェズラムが笑っていると、何か可笑しいのかと思えて、ギリスも笑えたのだ。
確かに可笑しい。なんで部族のためとか、気の毒な王子のために命懸けで戦ったのに、王宮に戻って兄に殴られてるんだ、俺は。馬鹿なのか。
殴り返してやる。
それからギリスが王宮の序列を無視して、不埒な兄たちを頻繁に絨毯に寝転がすので、悪党ギリスと渾名されるようになったが、養父は気にしなかった。
今日は何人、伸したのだ、ギリス。ただそう聞くだけで、養父はギリスの武勇伝を日々の楽しみにしているようだった。
体術のよい師父も付けてくれた。
その話は、養父の英雄譚には詠まれていない。詩人たちの知らぬことだからだ。
「戦がいるのだ、サリスファー」
ジェレフに話を引き取らせて、自分は食っていたはずの英名なる兄が、急に言った。強い声で。
もう穏やかとは言えない口調の兄にびくりとして、弟は青ざめていた。
兄が怒って見えたからだろう。
「戦無しには、英雄は活躍しないのだ。お前も知っているだろう。英雄譚とは主に、何の物語だ」
「部族の英雄や王族の偉業を称える物語です……」
もはや小声で弟は答えていた。
「戦の話だ!」
英名なる兄はもう明らかに怒鳴っていた。
英雄たちの穏やかさなど、晩餐用の長衣の房飾りのようなものだ。本体ではない。
ギリスは戦場で見た兄たちを知っているせいで、そう思っていた。
こいつらは皆、平気で人を殺す連中だ。
守護生物に人が乗っていると、ギリスも頭では知っていた。
だが、族長が斬首を命じた敵の首級が杭に晒されるのを見ると、それは人ではないのかと思えた。
確かに髪の色も、肌の色も違う。死んで曇った敵の瞳は部族の者のような蛇眼ではないし、大抵は緑色だ。
それが大陸公用語で命乞いすると、宮廷でその言葉を学んだギリスには意味がわかった。敵は同じ言葉で話すのだ。
それでもリューズ・スィノニムは命乞いは聞かず、敵を屠る。今日食う鶏の首を切り落とし、血を絞るように、平気で敵の首のない遺骸を逆さに吊るす。
戦陣で使う荷物運びの砂牛が、なぜか人の血を好んで飲むせいだ。
穏やかそうにモウモウ鳴いて、首のない死骸に集る砂牛の一群を見た。
ギリスは天使に祈った。俺は楽園に行けるのか。兄たちは。ジェレフは。イェズラムは。
あのリューズ・スィノニムですら、死ねば楽園に逝けるのか。月と星の船に乗って。
そうだろうかと、ギリスは疑問だった。天使がそれを許すのかどうか。
戦う勿れと、聖典にはある。
第四大陸の民はあまねく、原初の竜の末裔たる神殿種の家畜なのだ。
それが相争うことを、良き牧者たる神殿種たちは好まぬ。
戦う勿れと、天使はそれゆえに聖典に記した。
天使ブラン・アムリネスからの鷹通信の返事は、本当に来るのだろうか。
もし天使にもっといろいろ聞けるのなら、ギリスには聞いてみたいことが沢山あった。
俺の養父は楽園にいるのか。自分もそこに逝けるのかと。
「スィグル・レイラス殿下はお前から英雄譚を奪ったお方だ。お前たちの年頃には、ここにいる兄たちは皆、戦場で戦っていた。俺もそうだ。その結果が英雄譚だ。王宮を出て、また戻るだけの行列のことを詩にする詩人などいないさ。族長は……リューズ様はそんなお方ではない。あの方は、戦いの申し子なのだ」
熱弁を振るう英明なる兄の手は、食膳を掴み、震えて見えた。
「ユーレラン、落ち着け」
ジェレフが嗜めて、青ざめて見える隣の英雄に、吸い付けて火を入れた自分の煙管を渡した。
紫煙蝶だ。鎮痛薬だが、気持ちも落ち着く。
族長が英雄たちに与える、王宮での嗜みだ。
「済まない、ジェレフ。ただ俺は……弟たちが可哀想だ」
涙するのかと思うほど、震えた声で、英名なる紺碧のユーレランは嘆いた。
「大丈夫だ。ユーレラン。族長は賢明なお方だ。必ず、部族のために良いような治世を行ってくださる」
「俺たちが死んだ後もか」
項垂れていたユーレランは、ジェレフの顔を見上げて聞いた。
それにジェレフは言葉に詰まったようだった。何も言わなかった。
「ジェレフ。お前は治癒者だ。戦うしかない俺たちの心はわからん」
素直に煙管を受け取り、大人しく鎮静の煙を吸っているユーレランは、ジェレフにそんなことを言った。
それに治癒者の兄は黙っているだけで、何も言い返さなかった。
ギリスはそれに内心、舌打ちをした。俺なら、殴り返すぞ。ジェレフ。なぜ黙るんだ、お前は。
「サリスファー。いずれ来るべき戦に備え、氷結術を鍛えろ。お前は魔法戦士だ。それを忘れるな」
膳の前にもはや無言で座る弟の肩をつかみ、英名なる兄は強く励ますように言った。
それは祈りだ。自分が生きた生涯の続きを、弟たちに押し付ける。
英雄譚の第一巻で活躍した兄が死に、第二巻ではその弟が戦う。よくある話だ。
ギリスもそうだと思っていた。今朝、新星のあの黄金の目を見るまでは。
救国の大英雄、守護生物殺しの炎の蛇、エル・イェズラムと並び立つような大英雄に自分も。
「よく分かりました、兄……、思慮が足りず、申し訳ありませんでした」
なぜか平伏し、翡翠の子は兄に詫びていた。
お前は何を謝ってるんだ。サリスファー。
確かに、あいつは俺の弟になったほうがいいと、ギリスは思い直した。
さっき王宮の廊下で見たサリスファーの氷結術はとても良かった。
それを褒められて嬉しげだった時の顔でいたほうが、あいつには良いだろう。
仕方ない。面倒見るかとギリスは覚悟した。
面倒だが、自分にも弟を世話する時が巡ってきたようだ。
「サリスファー。女部屋に行くし付いてきて」
ギリスは項垂れている小さな背の弟に声をかけた。
「へっ?」
馬鹿かと思うような声で、弟は振り向いて答えた。
「一人で行くのビビるし、お前も来て。とりあえず風呂入って、他は何すればいい?」
ギリスが聞くと、サリスファーは心底からぽかんとした顔だった。
「ギリス。そういうことは自分より年少の者に聞くようなことじゃないだろ」
酒杯を舐めていたジェレフが呆れたふうに笑って言った。
「ジェレフはすぐに服を脱がせるからさ。そういうのはまずいだろ」
「そんなことしてないだろ!? 見たのか、お前は!?」
血相変えてジェレフが喚いた。何を見られたと思っているのだろうか。
その兄が呑気なので、皆、笑っていた。
苦笑だろうが、暗い顔で喚きあっているよりはいい。
「借りてもいい? サリス……」
「サリスファーです!!」
誰も忘れたとは言っていないのに、追い被せるように弟が訂正した。
まったく、頭の回りすぎる、せっかちな奴だ。兄のように紫煙蝶でも吸うがいいが、あいにくそれは石が深刻に痛み始める年嵩の者たちの特権で、チビ共はまだ真似事だけの、軽い薬を与えられるのが常だ。
サリスファーはまだだろう。
弟たちにはまだ、時間がある。
「ギリス。俺の弟に何の用だ」
穏やかだが、気に食わないふうに、英名なる紺碧のユーレランが尋ねてきた。
早くも紫煙蝶が効いたのか、うっとりと蝶を追うような静かな目だった。
「お前のチビの弟に、俺が氷結術の極意を教えるよ」
「氷の蛇よ」
詠うように兄は答えた。揶揄っているのかもしれなかった。
聞く限りでは、このユーレランも氷結術師だ。ギリスはその技を見たことがないが、学房の爺いの話では、大したことがない。
ヤンファールの英雄、エル・ギリスに比べれば、どんな氷結術師も大したことはない。
「そうしてくれるか。無念だが、お前に託すしかない。エル・ギリス。お前ももう兄になってもよい年頃だ」
「無茶だろ、ユーレラン」
ジェレフはそう言って笑ったが、皆も笑っていた。
それでもユーレランは首を横に振り、気は変わらないようだった。
その決断に、ギリスはこの英名なる兄の英名さを見たような気がした。
どうも、死期を悟っているらしい。ユーレランは。死者は何者をも後見することはない。
「エル・サリスファー、エル・ギリスについていけ。そいつは詩も詠まぬ馬鹿だが、ヤンファールの氷の蛇だ。お前に戦い方を教えてくれる」
「兄上」
青ざめてサリスファーは怯んだようだった。
自分から、ギリスに乗り換えたいと言ってきたくせに、この詩を詠む英名な兄に未練があったらしい。
「失礼をお許しください」
縋り付くような声色で、サリスファーは兄に額ずき詫びていた。
「気にするな。別にお前を見捨てた訳じゃない。ギリスに付いていってやれ。女部屋で煮て食われないように」
遠慮するなと言うように、行け行けとユーレランは弟に手で示した。
ギリスはまだ食い足りなかったが、夕刻までにまた入浴するなら、のんびり食ってる場合でもないだろう。
まず女部屋にいって、それからアイアラン、そして晩餐に間に合うように新星のご機嫌伺いと迎えに行かねばならない。
その調子で、今夜までにスィグルの新しい居室の用意ができるのか?
やっぱり今日も子供部屋で寝てくれと言うか。
そうも行くまい。もう引っ越せと言ってきている。
ギリスは麦酒の匂いのする袖で、麦酒に濡れた顔を拭った。
「煮て食うなら麦酒がかかったままのほうが美味いんじゃないか?」
ギリスは半ば本気で誰にともなく問うた。個人房に戻って着替えるのは諦めて、このまま行けば、新星の居室の手配も何とかなるのではないのか。
「ギリス。風呂に入れ。手土産は食うものにしろ。菓子とか。花はやめとけ。お前が花を持ってくるのは可笑しい。笑われるぞ」
心配げに、気の毒な者を見る目でジェレフが忠告してきた。
またお菓子かと、ギリスは辟易した。
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036 弟の役割
派閥の部屋を出るなり、翡翠の子が泣き始めた。
それを引き連れて歩きながら、しゃくりあげて泣く弟にギリスはぎょっとしたが、当人はよほど辛いのか、誰が見ていても構わずに涙を流していた。
「どうしたんだよ。お前の望み通りだろ?」
ついさっき、俺の弟にしてくれって言ったよな。
功労を見てからという約束だったが、英名な兄にガミガミ言われるサリスファーが可哀想になり、思わず救ったつもりだったのだ。
なのに何でサリスは喜んでいないのか。嬉しいから泣いているのか?
ギリスは思い出しても自分が泣いた記憶がなく、人がどういう時に泣くものなのか、今ひとつ分かりかねていた。
嬉しい時にも泣くのだ。人は。それなら弟は泣くほど嬉しいのかもしれなかった。
「喜んでるの? お前?」
ギリスは小声で聞いてみた。
「悲しんでるんです!!」
怒った声でサリスファーがギリスに怒鳴ってきた。
「だから何が悲しいんだよ。兄はもう永くないから、お前を引き取れって、ついさっきお前が自分で俺に頼んだんだぞ」
そうだったよなと、学房から派閥に戻る道での会話を反芻して、ギリスは確認した。
それでもサリスファーが怒っているのは間違いない。少なくとも今は、幸せそうに笑ってはいなかった。
「今日じゃないですよ! 誰が今日なんて言いました!? 兄は……エル・ユーレランは、ご病気なんです!」
噛み付くように言いながら、弟は遠慮なくおいおい泣いて、長衣の袖で頬を何度もぬぐっていた。
「俺たち、皆、病気じゃない? 生まれつき……」
「そういうことじゃないんです。隠しておられますけど、兄はずっと具合が悪いんです。僕は……兄のただ一人の弟なんだから、兄の最期のお世話をするのが義務でした」
「そうなの?」
ギリスは困って顔を顰めた。
たった一人しかいない弟を引き抜いてきたわけか。
一人だけとは思わないじゃないか。
ジェレフには何人か、施療院で世話を焼いている弟がいるし、派閥でも何かと面倒見てやってるのがいるらしい。
かく言う自分も、ジェレフの弟と言えなくもない。ジェレフがイェズラムの弟だったようなので、そのさらに年下の弟である自分は……。
とにかく複雑だった。
ジェレフがもし今すぐくたばるというなら、もしや自分が面倒見てやるのかと、ギリスは思案した。
そんな話は聞いてない。
ジェレフはまだ全然、死にそうではないから、そんなことを言ってこないだけなのだろうか。
それとも、もっとマシな弟たちがいて、それに任せるつもりなのか。
英雄の、最期の世話とはつまり、葬式の手配のことだ。死んだ者を墓所に片付ける手配だ。
英雄達の肉体の、死後の行き場は決まっている。王宮の、さらに地下に墓所があり、英雄達の墓がある。そこに名の入った落ち着き場所がもう決まっている者も多い。
大体は派閥ごとのまとまりで、仕えた玉座の治世ごとの時代でまとめられ、たくさんの石と骨が闇の中の回廊で眠っている。
死後の英雄達は施療院で頭の中の石を取り出され、それとは二つの身に分かれて眠るのだ。
死後までも石に苦しめられぬようにという事らしい。
ギリスにはそれは妙な気がしたが、石が痛む者たちは、そうしたいのだろう。魔法とともに生きた生涯から解放されて眠りたいのだ。
それでも石を一緒に葬るあたり、英雄たちの未練と言えた。
痛みと短命を別にすれば、石は悪いものではない。
ギリスの頭の中の石も、いくつかの不足と引き換えに、只人にはない大魔法をふるう力を与えてくれた。
それと死後に別れたいか、難しいところだ。ジェレフはそうしたいだろうか?
あの、英明なる兄も、死んだらサリスファーに頭の中にある紺碧の石を取り出してもらいたかったのか。
それをやるには、この弟はヤワな気がして、ギリスには良い考えと思えなかった。
一体誰が、死んだ兄の頭をかち割って、石を取りたいと思うだろうか。辛い任務だ。
必ずしも弟がやる訳ではない。誰もいなければ長老会の重鎮がやったり、親しかった友がその任を引き受けたりする。
誰でも良いのだ。サリスファーでなくとも。気にすることはない。
魔法戦士の兄弟関係は、特に何かの契約を交わすわけではない。庇護を与える兄と、それに付き従う弟たちの関係性を周りが知っており、自分たちもそうだと思っていれば、それだけで成立するものだ。
だから兄とは別れてもいいのだ。実際、気に食わない弟を放逐する兄もいるし、兄を見限って、あるいは別の者や派閥に引き抜かれて、兄の鞍替えをする者もいる。頻繁にいるのだ。
サリスファーは義理堅いのかもしれないが、皆がそうとは言えない。
兄と弟の間柄もいろいろだ。
常に付き従って、毎度一緒に飯を食うほど親しい間柄の者もいれば、兄に呼ばれた時だけ働く程度の者もいる。
ジェレフなんかは、もう年嵩であるし、常にイェズラムに張り付いて影を追うように付きまとったりはしていなかった。
それでも必要な時、兄が呼べばいつでも来るのが弟というものだ。
生涯仕えてもよいと思う相手でなければ、気楽に叩頭などできない。
サリスファーにとって、エル・ユーレランがそうであったか、ギリスは知らなかった。
もしもそうなら、勝手に引き離してまずかったのではないか。
そうは思うが、あいにくもう、やってしまった後だ。
エル・ユーレランはこの泣き虫の弟をギリスに託すと、もう皆の前で言ってしまった。
「兄上が旅立たれた後にと思ってたんですよ! でないと卑怯でしょう。最後までお仕えしたかったです! これまで何かと目をかけていただいて、派閥にも兄のお陰で入れたんですよ。髑髏馬ですよ!? そんな御恩があるのに僕は……」
急に言い淀んで、今まで威勢よく喚いていたサリスファーは、糸が切れた操り人形のように、がくりと項垂れた。
それでもギリスが歩くのに付いて来てはいた。
魂がないのに歩いてるみたいな、よろめく足取りだ。
「最低だ……」
穴の底から響いてくるような陰鬱な声で、サリスファーが呟いた。
「えっ、俺が!?」
非難されているのかと思い、ギリスは驚いた。そこまで言われねばならない事なのか。
「違いますよ!! 僕がです!!」
ぎゃんぎゃん吠える子犬のように泣いて、サリスファーは自分を責めていた。
「そんなことないよ」
ギリスは適当に返事をしておいた。
もしや最低なのかもしれなかったが、そう言ってもしょうがない。
サリスファーもギリスの安易な返事に納得はしていないようだ。
「いいえ絶対、皆もそう思っています。だってさっき、後を付いてこなかったじゃないですか!? ジェルダインだって、子供部屋の頃からずっと僕と一緒だったのに、追って来なかったでしょう。僕を見捨てたんだ」
うわあ、と弟はまた堰を切ったように泣いた。
ギリスは呆気にとられて、弟を眺めた。
ジェルダインて誰だ、と、ギリスは内心首をひねったが、たぶんこいつの友達だ。
学房からついてきた六人いた連中の内の一人で、確か、透視術を使う。
慧眼なる灰色のエル・ダージフの弟だという奴だ。
あいつも、その兄、エル・ダージフも、さっきは一言も喋らなかった。
透視術師とは、ずいぶん物静かな連中らしい。
友が怒り、あるいは叱られていても、すぐ横にいて一言も発さないとは。
そんな薄情な奴らと縁が切れるなら、それはそれで良かったよとギリスは思ったが、サリスファーはまだめそめそ泣いていた。よっぽど子供部屋の友が大事らしい。
その萎れた様子を見ていると、ギリスはサリスファーが可哀想になってきた。
だいたい自分は昔から、めそめそ泣いている貧弱なチビに弱い。放っといてはいけないような気分になるのだ。
「いや……あのさ。サリス。嫌だったら戻っていいよ。戻って、兄にごめんねって言えよ。別にいいよって言うかもしれないだろ」
「言う訳ないでしょう。そんな馬鹿みたいなこと本気で言ってるんですか」
怒っているのか、サリスファーは噛み付くような早口でギリスに言った。
それから、急にくしゃくしゃっと嘆く顔になり、低く呻いて顔を覆っていた。
「すみません、失礼な口をきいて。僕のこと見捨てないでください。この上、ギリスの兄者にも捨てられたら、僕は行くところがありません」
嗚咽をもらして、サリスファーはギリスの後を追ってきながら、自分の袖に顔を擦り付けていた。
「髑髏馬閥からも追い出されるでしょうか……」
今それに思い至ったという表情で、弟はハッと顔を上げ、自分を踏み潰す守護生物を見上げる時の兵士のような顔つきをした。
ギリスはそれも、ただ唖然としてぼんやり見るしかなかった。
なんと言ってよいかも分からない。
「サリス。とりあえず俺は個人房に戻って着替えるか何かするしさ、お前はどうする。さっきはああ言ったけど、別に女部屋には俺一人で行くつもりだったし、お前はどこでも自分の好きなとこに行け」
「嫌です。追い出さないでくださいよ」
しがみつくように弟が言い募った。そして実際に袖にしがみつかれた。
傍目にかなり、じろじろと奇異の目で見られているのを、ギリスはさっきからずっと感じていた。
王宮の廊下には自分たちだけが歩いている訳ではないせいだ。
「仕事をください」
断固としてサリスファーは要求してきた。
「無いよ、お前に頼める仕事なんて」
「僕、何でもします。あっ……お菓子を買ってきます。持って行くのに要るでしょう」
簡単な仕事だった。確かに必要だったかもしれない。
だがギリスはそれを侍女のキーラに頼むつもりだった。
最初に新星の部屋を訪ねる時にも、ギリスがそのための着替えの手伝いを命じたら、手土産は何になさいますかとキーラが聞いて来た。
それで、どうしようかと相談したら、スィグル・レイラスの居室の侍女たちが好む菓子にせよとキーラが言い、買って来てくれたのだ。
頼れる。気の利く女だ。ギリスは侍女キーラのことをそう思っていた。
泣きじゃくっているチビの英雄よりは、侍女キーラの方がよほどの英傑に見えた。
「別にいいんだけど……他に頼める奴がいるし」
ギリスが控え目に断ると、サリスファーは怪訝な顔をした。
「兄には誰か他にも弟がいるのですか?」
「いないけど?」
いるとしたら新星スィグル・レイラスだけだ。ギリスが射手で、あれが新星なのだとしたら、この部族では族長は竜の涙の弟だとされている。
伝説上の魔法戦士、エル・ディノトリスが族長アンフィバロウの兄だったせいだ。
名目上のことだが、それに則るなら、スィグル・レイラスはギリスの弟だった。
全く可愛げのない、言うことを聞くわけでも、兄のために雑用をこなすわけでもない弟だが、年下なのだけは間違いない。
それでもサリスファーとは立場が違う。あれは王族なのだから、兄弟関係は名目だけのことだ。
「じゃあ! 僕にお命じください。それが当たり前でしょう。買って持っていきますね、お菓子。何がいいですか」
「女英雄にうけるやつにして。何でもいいから」
「無理難題じゃないですか。行って来ます」
文句も言わずとは行かないが、サリスファーは袖で最後の涙を拭い、たった今泣いたような顔で、ギリスとは別のほうへ四辻を曲がっていった。
間に合うように戻ってくるのかどうか。
やはりキーラにも頼んだほうがいいだろう。ギリスには弟は宛にならぬように見えた。
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037 英雄の絵
個人房に戻るとキーラはちゃんと居た。いるに決まっている。
控えの間に続く伝声管で呼ぶか、紐を引いて鈴を鳴らせば、誰かは来る。ギリスの部屋ではほぼ同じ侍女、つまりキーラが現れるものだった。
「どうなされたのですが、そのお姿は」
麦酒で濡れいてるギリスに、叩頭から顔を上げた侍女は驚いていた。
それでもほとんど表情の変わらない女だ。
「兄に麦酒をかけられた。この後、女派閥の部屋に行かなきゃならない。お茶に誘われたから」
「お茶でございますか?」
キーラは不思議そうに首を傾げていた。
今までギリスにそのような用事は一切なかったせいで、キーラにも急なことに思えたのかもしれない。
「お誘いくださったのは、どちらの女英雄でいらっしゃいますか、エル・ギリス」
「わかんないけど、たぶんエル・エレンディラのところの誰かだ。違っても、どうせ俺もエレンディラに話がある」
相当に濡れている長衣を脱ぎたくて、ギリスが帯を解くと、キーラが脱ぐのを手伝ってくれた。
「悪いけど、もういっぺんお菓子を買って来てくれないか? エレンディラに持って行くから」
「エル・エレンディラは甘いものは召し上がりませんよ」
さも当然のように、キーラが教えた。
ギリスはそんなことは知らなかった。侍女や、学房の爺いすらお菓子を食うのに、女英雄が食わないということがあるだろうか。
だが、そういえばイェズラムも菓子を食わなかった。長く生きて、幾多の英雄譚に詠われるような大英雄たちは、もしや菓子など食わないものなのか。
ギリスは動揺して侍女と向き合った。
「え。じゃあ、どうするんだ……何を持っていけばいいの?」
困っているギリスを、キーラは脱がせた濡れた長衣を引き取り、畳みながら見ている。
その彼女が、ふと何かに気づいた顔になった。
「これは何でございましょう」
脱ぎ捨てたギリスの長衣の懐から、折り畳んだ紙が出て来た。
少々、麦酒で濡れている。
その酒の滲んだ紙を見て、ギリスはハッとした。つい忘れていたが、大事なものだった。
新星が描いたイェズラムの絵だ。ギリスは忘れていた自分に驚き、その事実に少々打ちのめされた。
絵をもらった時には、確かに嬉しかったのに、その後、いろいろな考えで頭がいっぱいになって、つい忘れていた。何よりも大事だったはずの養父のことを。
「返せ」
絵をキーラからひったくり、ギリスは顰めっ面になった。
キーラが悪い訳ではないのに、なぜか腹が立った。彼女が絵を粗略に扱った気がして、嫌だったのだ。
でも自分の方がよほど粗略だっただろう。せっかくの大事な絵が濡れてしまった。
絵が駄目になっていないか心配しながら、ギリスはそうっと紙を広げた。絵の四隅に、淡く麦酒のシミが残っている。がっかりだった。
「まあ。イェズラム様」
驚いた声でキーラが呟いた。
「勝手に見るな」
むっとして絵を隠すギリスに、キーラは顔を背けて平伏した。
「失礼いたしました。お許しください」
「勝手に見るな」
一度では気が済まず、ギリスはもう一度、侍女に言い渡しておいた。
絵を見ても構わないが、もしもこの先、見てはならぬものをキーラが見たら、生かしておくのが難しい。
この先にはおそらく、そういうこともある。侍女は容色の良さよりも、賢い者を置けと、養父も言っていた。
キーラがそうであるのを祈るしかない。ギリスはこの無口な侍女を既に気に入っていた。手放すつもりはなかった。
「その絵をお持ちになってはいかがでしょうか。エレンディラ様への手土産に」
目を背けたまま、キーラはそう言ってきた。それにもギリスはぎょっとした。
「嫌だよ。なんでエレンディラにくれてやるんだ。俺がもらったんだぞ」
「どなたからですか。また描いていただけばよろしいのでは」
それがさも簡単かのようにキーラは言うが、ギリスにはとても簡単とは思えなかった。
「これを描いたのはスィグル・レイラス殿下だ。簡単には頼めない」
「まあ」
キーラはひどく驚いたようで、またギリスを見上げてきた。
「王族の殿下が、こんなお上手な絵をお描きになるのですか。宮廷絵師にお命じなったのかと……」
言いかけて、キーラはそれが無礼だと気づいたらしかった。
知らなかったとはいえ、王族を官僚の身分である宮廷絵師と同じように扱うのでは、不敬と言われかねない。
「何事にも秀でたお方がいらっしゃるものですね」
キーラは無表情に言った。王宮の者らしい、いかにも無難な言葉だった。
「そうだな」
絵を見て考えながら、ギリスは今朝、スィグル・レイラスが何枚も描いていた絵のことを思い返した。
ギリスは芸術には興味がないが、新星はとても絵が上手い気がした。度を超えて上手い。
何につけても頭抜けているお方なのだと、そういえば学房の爺いも言っていた。
そのせいで、あいつは後宮に疎まれた。いずれ息子の強敵になる者を、そうなる前に先んじて摘んでおこうと、後宮の妃たちは考えたのだろう。
今なら確かに、新星を始末するのは簡単だ。だが、もしも殺せば、即位した者が同族殺しの誹りを受ける。この部族ではもっとも不名誉なことだ。
それゆえ、自分ではない別の者が敵を始末し、その汚名を負って死んでくれるほうがよい。その計算によって、皆、なかなか直には手が出せないのだろう。
そのせいでスィグル・レイラスはいつも、敵によって殺される羽目になる。
先の継承争いの時にも、新星であった王子アズレル・レイナル殿下は、戦陣で死んでいる。敵の暗殺に斃れたと、イェズラムは話していた。
殿下の死を看取ったのは、当時、殿下の射手であった側仕えのイェズラムだ。
毒死だったと聞いている。戦陣に投げ込まれていた森の毒蛇が、運悪く殿下の足を噛んだのだ。
そういう時の対処法も、ギリスは万一に備えて習った。
傷より心臓に近い側を強く結紮し、即座に傷を切り開き、毒を吸い出せば助かるかもしれない。
手足であれば切り落としてもいい。命があれば、玉座には座れる。養父はそう言っていた。
では、イェズラムはなぜ、そうしなかったのか。アズレル・レイナル殿下が蛇に噛まれた時、なぜ。
養父は治癒術も使う。蛇の噛み傷を切り開いて毒を吸い出してやり、また治してやれば、殿下は助かったかもしれない。
だが、これには治療にあたる者にも死の危険がある。毒蛇の強烈な毒を口に含むのだから、代わりに死ぬ覚悟がなくては、噛まれた者を救えない。
俺は死を恐れたのだろうなと、イェズラムは言っていたが、ギリスは養父が後悔しているとは見えなかった。
養父が恐れたのは自分の死ではなく、弟の死だろう。
燦然と輝いていた新星アズレル・レイナルが死ねば、まだ好機があった。他の星たちにも。
どの星を選ぶのか、それを決めるのが射手だと、イェズラムはギリスに教えていった。
絵の中の、凛々しく武装している養父を眺め、その表情が満足げに微笑んでいるのを見て、ギリスは思い出した。
今日は何人伸したのだ、悪党ギリス。そう尋ねてくる時、養父はこの顔をしていた。
新星レイラスにも、養父はこの顔を見せたということだ。あいつがそれを、絵に描けるのだから。
その事実に、ギリスは悩んだ。
養父はなぜあれを、次代の星だと思い定めたのか。
自分には分からない何かが、大英雄であった養父の目には明らかな光として見えていたのか。
「エレンディラ様はきっと、絵をお喜びになると思います」
キーラが話しかけてきたので、自分の考えに沈み込んでいたギリスはハッとした。
いつも無口な女なのに、やけに喋る。どうしたんだと不満に思って、ギリスはキーラを睨んだ。
「なんで?」
ギリスが尋ねると、キーラは面食らった顔だった。
なぜ分からないのかと、侍女に不思議がられている気がした。
キーラはしばらくギリスと見合っていたが、やがて小声で教えてくれた。
「エレンディラ様は、エル・イェズラムとは、その……親しかったからです。幼い頃から長老会でご一緒だったとか。その後もずっと、親しくなさっておられましたでしょう」
「そうだっけ」
ギリスは養父の生前の様子を思い出そうとした。
養父はよく、エル・エレンディラとは揉めていた。喧嘩というほどではないが、派閥同士のことで、長老会の件で、人前でも平気で言い争う様子が見られた。
養父がエレンディラと格別仲がよいとはギリスは思っていなかったが、良かったのかもしれぬ。
養父には時々、ギリスの知らない移り香がした。
それと同じ匂いが今もするか、エレンディラに会って確かめてもいい。
あの女が味方につくなら、それは好都合だった。いちいち頭を下げて頼まなくてもいい。
「麦酒がついててもエル・エレンディラは喜ぶと思う?」
「お許しいただけましたら、わたくしが何とかいたします」
キーラはそう約束して、ギリスの入浴の支度をしに行ったようだった。
風呂には配管があり、小さな浴槽にはすぐに湯がたまる。
キーラは白い長衣を持って戻って来た。
確か昨晩、侍女に刺されて穴が開き、べったりと血もついたものだ。
薄灰色の布地で仕立てられていて、養父が縫うよう命じたものだ。
ギリスは他の兄たちのように、宮廷でずっと流行している暗い色調の服がよかったが、養父はギリスに、お前には喪服みたいな衣装は似合わないと言った。
これからはもう、皆が服喪して生きるような時代であってはならないと。
その血を吸ったはずの白い服が、昨夜のことが嘘だったように、すっかり元通りになって戻って来たのに、ギリスは驚いた。
服を元に戻す魔法でもあるのか、この王宮の針子には。
「これ、昨夜、穴が開いたやつだよな?」
「はい。仕立て替えいたしました。ご身長が伸びた時のためにと、イェズラム様が布地はたっぷりお与えになりましたので。でもこんなに早く仕立て替えとは。もっと大事になさってください。お衣装も、その中身も」
キーラは嘆かわしそうに言い、ギリスの肌着を取りに行くようだった。控えの間に引っ込んでいった。
濡れた肌着では寒かった。ギリスはもう、さっさと浴室に行くことにした。
養父がそんなものを準備していたとは。よほど長身になるかと思われたのだろうか。
なぜそんなことが分かるのか、ギリスには不思議だったが、確かに身長が伸びて養父がくれた礼装が着られなくなるのは惜しいことだった。
白地の衣装を、花嫁かと、真っ黒い服装の兄たちは揶揄ったが、ギリスは気に入っていた。
養父が似合うというのだから、似合うのだろう。
一人だけ、やけに目立つのは確かだが。
目立っても良いと、ギリスは気にしていなかった。
自分は特別な存在だ。養父と同じ、一代に一人きりしか現れない、新星の射手なのだ。
玉座に座す者に、戴冠する。この手で。
ギリスは養父に射手になるよう命じられてからずっと、その自分の手が部族の族長冠を握る時のことを空想していた。
玉座の後見となるのに、ふさわしい英雄にならねばならない。
そうでなくては、養父が守ったこの玉座の間の栄光も、英雄たちの幾多の英雄譚も、全てが再び砂塵へと帰す。
そのような気がして、ギリスは風呂で自分の手を丁寧に洗った。
この手も、もはや自分のものではないような気がする。
新しい栄光の歴史を生み出すための、誰かの手だ。
養父の、そしてエル・ディノトリスの、代々の射手が担ってきた重責が、そこに乗っている気がした。
しかし今は考えても仕方がない。誰が次の星なのか、ギリス自身には皆目わからなかったせいだ。
それでも、なぜ自分はあの凶暴な人食いレイラスのために、あくせく働いているのだろう。
学房の爺いに頭を下げたり、今もこうして、エレンディラに取りいる訪問のため、入りたくない風呂にも入っている。
なぜなんだ。
嘆息する気分で、ギリスは息を吐き、風呂から上がった。
キーラが衣装を用意しており、着付けのためにまた髪を梳かせねばならない。
いつもの身支度用の椅子に、まだ汗ばんだ肌着姿でどさっと腰を下ろし、ギリスは自分の頭を侍女の櫛に委ねた。
「正装なさいますか」
もうそれを用意している癖に、キーラは聞いていた。
そんな無駄口は聞かない女だったがなと、ギリスは昨日までの侍女の沈黙を惜しく思った。
「何で聞くの」
「失礼いたしました」
ギリスが尋ねると、キーラは無表情になり、口をつぐんだ。昨日までの彼女の顔だった。
それにギリスはなぜか、気が咎めた。
この女は別に、無口ではなかったのではないか。ギリスが喋らないから、ずっと黙っていたのではないのか。
「キーラ。絵はどうなった?」
反省して尋ねると、キーラは一旦櫛を置き、支度用に持ち出していた床几台にあった、絹で包まれた四角いものを取って来た。
キーラがそのすべすべした包みの布をとると、額装された絵が現れた。
四方にあった麦酒のシミは、紫の水晶と花を意匠とした刺繍で隠されており、もともと四隅にそういう装飾をするために描かれた絵に見えた。
ギリスが紙を折り畳んでいた皺までは消えないが、丁寧にのばしてあり、絵は十分に見栄えがした。
「えっ……何これ。どうしたんだ一体」
これもまた何かの魔法かと思え、ギリスは呆気に取られて聞いた。
それを見て、侍女は珍しく、くすくすと楽しげに笑った。
キーラがそんなふうに笑うのを初めて見た。
薊と思えた長身の侍女が、咲いている時の薊のように見えた。
「針子に長年の友人がおりますので、無理を聞いてもらいました」
「一瞬で刺繍できる女なのか」
「いいえ。針子は普段からこういうものを作り、腕を鍛えているのでございます。英雄の魔法と同じでございます」
針子も訓練しているとキーラは言いたいのだろう。ギリスにもそれは分かり、ただ頷いて聞いた。
それにしても、エレンディラにくれてやるのに、彼女の英雄譚に登場する赤い花と、イェズラムの石に似た紫水晶があしらわれた、すぐに使える習作が偶然あるとは、あまりにも幸運が過ぎるのではないか。
ギリスはそのことも、キーラに尋ねた。まるで奇跡ではないかと。
それに侍女はギリスの髪を梳きながら、また、くすくすと笑っていた。
「偶然ではございませんよ。友人はずっとイェズラム様のお衣装を仰せつかっていましたし、エレンディラ様のも。腕がいいのです」
「腕がいいだけで、偶然そんなもの作ったりするか?」
「違いますわよ。エレンディラ様がご注文なさるのです。靴下留めやら、見えないところにですね」
「なんで?」
ギリスが尋ねると、キーラは侍女の薄絹の袖で顔を隠し、やけに高い声で笑った。
「いやですわギリス様、これ以上は申せません。部屋付きの侍女にお喋りは禁物でございますゆえ」
唖然として、ギリスは髪を梳く侍女を椅子から見上げた。
「どのようにお結いいたしましょうか」
ギリスがじっと見ると、にやにやしていたキーラはまたすぐ無表情になって聞いてきた。
「イェズラムみたいにして」
「絶対に似合わないと思います」
強く断言する口調で、侍女が拒んできた。
なんでだよとギリスは困った。髪の毛なんて誰のでも同じだろう。キーラは生前の養父の髪を結っていたのだから、できないはずはなかった。
「およしになったほうがいいですよ。わたくしがエレンディラ様なら、あなた様が亡き大英雄と同じ髪型でお茶にいらしたら、すぐにお帰りいただくと思います」
「なんで!?」
「滑稽だからです。イェズラム様は、当代においても、歴代を紐解いても、まさに唯一無二の大英雄でした。英雄の方々は皆、あの方のお衣装やら何やらの真似をなさいますけど、わたくし達から見れば馬鹿馬鹿しいですわ。ちっとも似ていません。余計に差が目立つだけです」
「キーラ……」
侍女の厳しい口調に、ギリスは何かいたたまれない気持ちになった。
しかもやけに滔々と喋る。
無言で働く侍女達が日頃、自分たちを見て何を考えているのか、ギリスは想像したことがなかった。
「イェズラム様のようには誰もなれません。エレンディラ様もきっとそうお思いですわ」
「お前、イェズの何だったんだ」
知らない事実があるのかと思い、ギリスは念のために聞いた。まさかということもある。
女英雄エレンディラは玉座の間随一とも言われる美貌の女英雄で、キーラは背の高すぎる地味な女だが、養父は顔は関係ないといつも言っていた。女は、頭の良さで選べと。
「わたくしはイェズラム様のお衣装係の侍女でございました。ギリス様のところと同じですよ」
「養父はお前が髪を結う時、黙っていろって言ってたか」
ギリスは念のため聞いた。確認したかったのだ。
キーラはそれに取りすまして首を振った。
「いいえ。わたくしには、話が面白いから好きに喋れと仰せでした。いつもお優しい方でした」
侍女の言葉尻に、お前は違うがな、という含みがあるのを感じ、ギリスは慌てた。
「キーラ。今からは俺にも喋れ。養父にしたように」
「また真似事でございますか? およしください、ギリス様は、イェズラム様とは全く少しも似ておられません」
キーラのはっきりした話に、ギリスは鉄槌で頭を殴られたような気がした。
子供の頃からの夢が、侍女の一撃で粉々に砕け散り、即座に風に吹き散らかされて消えていったような。
その冷たい砂漠の風までが、ギリスの頬に感じられるようだった。
「それで、どのような髪型にお結いしますか。いつもと同じで?」
キーラは罪のない野の花のような顔をして、ギリスに聞いてきた。
「いつもより格好よくして。エレンディラに出来る男と思われたいから」
「あらまあ。畏まりました」
そう言って、侍女はギリスの髪を手早く結い上げたが、仕上げに見せられた鏡の中にいた自分が、いつもの晩餐の時と同じだったので、ギリスはがっくりとした。
「お前、俺の命じたことを聞いてるのか」
「そのお姿で十分、格好良くていらっしゃいますよ」
「ぶちかますんだぞ、今日は。お前は知らないだろうけどな、玉座の間で新星の晩餐の席にも侍るんだ。王族の席にだぞ。いつもと同じでいいわけないだろ」
ギリスは困って、キーラに頼み込みたい気持ちになった。
しかし侍女は笑っており、もうさっさと髪結いの道具類を片付けにかかっている。
「いつも、格好良くていらっしゃいますよ、ギリス様は。王族の殿下にも、決して見劣りなさいません」
侍女に笑顔でそう言われて、ギリスはたじろいだ。
そんなことを女に言われたのは初めてだった。
何やら胸がどきどきした。それが急なことで、ギリスは施療院に行くべきか悩んだ。
何かの発作ではなかろうか。そういえばジェレフにもらった石封じも、まだ服んでいない。
「兄者! エル・サリスファーです!! まだ個人房においででしょうか! お菓子を調達してきました!」
部屋の外から続く伝声管から、弟の声が大声で言った。
翡翠の子が駆け戻って来たらしかった。
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038 女英雄とお菓子
「兄者、大変お待たせいたしました」
ギリスの個人房の入り口の敷物に深々と叩頭し、翡翠の子は挨拶した。
その脇の床には、絹に包まれた菓子箱ほどの荷物を持っている。二つも。
大きさの違う二つの包みを、ギリスはまだ侍女に身支度させながら見た。
「待たされてない。風呂入ってただけだ。着替えたら出かける。お前も来るのか?」
「お供します」
戸口にいるサリスファーは意気込んで断言していた。
何も着替えの最中に入ってこなくてもいいのにと思いつつ、サリスファーはギリスが逃げるとでも思うのか、何がなんでも来る構えだった。
絶対に張り付くという顔で、戸口に張り込んでいる。
そうする気分がギリスにも分かった。自分もいつぞや、そうだったからだ。
まだ元服したての頃、どの兄にも放逐され行き場がなかったギリスを、長老会のイェズラムが拾ってくれたので、もう二度と捨てられたくないと思い、養父がどこに行くにも悪質な鳥餅のように張り付いていた。
イェズラムは本当は困っただろうが、ギリスが離れないので諦めたのだろう。
サリスファーもそういう、行き場のない気分なのだろうか。
そう思うと可哀想で、帰れとも言いにくかった。
「特にお前にやってもらうことないんだけど」
「お荷物をお持ちします」
サリスファーはそれが当然というように言った。
確かに荷物はある。絵も持っていかないといけないし、サリスファーが何か二箱も買ってきている。
「それが良うございます、エル・ギリス。立派な英雄には、立派な弟がいらして、付き従うものですわ」
跪いている侍女キーラがギリスの晩餐用の飾り帯を仕上げて、励ますように、そう言った。
そう言われれば、そうかもしれぬ。イェズラムも常に一人ということはなく、最低でも二人三人は連れがいた。派閥の兄たちが入れ替わり立ち替わり、いつもイェズラムの側に仕えていた。
自分にもそういうものが必要か、ギリスには分からなかった。
今までは、誰とも徒党を組まなくても、ギリスは不自由していなかった。
いつも一人で王宮をふらふらしたり、付いて歩いても良い時にはイェズラムの影を追い回していたせいだ。
そもそも大人ではないものと一緒にいたことが近年にはない。
まだ日に焼ける前の、子供部屋の頃ならいざ知らず。
ギリスはふと、その頃のことを思い出した。あの頃は、ギリスが歩き回ると小さいのがうようよと後追いしてきていた。
「弟……と言えば、お前はまだ子供部屋の連中とは連んでるのか?」
ギリスはキーラに髪に飾りを挿されながら、横目でサリスファーを見た。
「はい、何人かは」
「みんな元気か」
ギリスが何気なく聞くと、サリスファーは複雑な表情だった。
「生きてるのは元気です」
その返事に、ギリスは頷いた。
「そうだよな。お前は元気で良かったよ」
「はい。長生きしたいです。いっぺん死の天使にお会いしてるんで」
苦笑して、サリスファーはさらりと答えた。
「え⁉︎ 会ったの⁉︎」
ギリスは一瞬、震えるほど驚いた。天使に会ったことがある奴が、新星レイラスの他にもいるのか?
「いえ……ほら。飴玉の時ですよ。兄者。僕はいっぺん死にかけてますから」
「不死身だなお前」
「はい。不死身のエル・サリスファーです」
にこにこと答えるサリスファーに、急に可笑しくなって、ギリスは笑った。サリスファーも嬉しげに笑っていた。
「そりゃ景気がいいよな。詩人にそう書いてもらえ」
「僕の英雄譚はまだ無いです」
サリスファーは恐縮したように戸口で小さくなって言った。
「でも、兄者のお側にいたら、何かのチョイ役で登場するかもしれませんよね」
苦笑して言うサリスファーは、本気なのか冗談なのか、ギリスには分からなかった。
「そんなことある?」
「ありますよ。史学の師父にお聞きしてみてください。英雄譚には一本の物語に何人も英雄や王族や、将軍が出てくるでしょう。名前はないけど、兵士も出てきます。ほら、族長と戦陣で兵糧の鍋を囲んだ兵士とか」
「何それ……」
ギリスは本気で知らなくて聞いた。
族長の英雄譚はたくさんありすぎるし、胸糞悪くて聞かないようにしていたせいで、細かいところは忘れた。
別にそれでも困らないはずだ。有名なところだけ知っていれば。
ギリスがそう言うと、サリスファーは青ざめて答えた。
「陣鍋はすごく有名な場面ですよ……大部屋のチビでも知ってます」
驚く不安げな弟の目から、ギリスは目を逸らした。
これが新星スィグル・レイラスでなくて良かった。きっと馬鹿呼ばわりされる。
「今度、聴きに行きます? ご一緒に……玉座の間で詩人の詠唱が聴ける日がありますから」
「えぇ……なんでそんなの聴きに行くんだよ。よっぽど暇だな、お前」
ギリスが感心して言うと、身支度の道具を片付けていた侍女が、ひどく鋭い咳払いをした。
「なんだよ」
ギリスはキーラにたじろいで聞いた。
「嗜みでございます。エル・ギリス。嗜み!」
鋭い小声でキーラが刺すように言った。嗜みだと。
「イェズラムはそんなの全然行ってなかったよ?」
ギリスは言い訳する口調で言ったが、控えの間にさがろうとするキーラを見ても、戸口の弟を見ても、呆れるのを通り越して悲しげな表情だった。
「エル・イェズラムは詩伝の皆伝者ですよ、兄者」
「は⁉︎」
心底驚き、ギリスは開いた口が閉じられないほどだった。
「本当です。エル・イェズラムが戦場で即興で詠まれたという詩が英雄譚に引用されて伝わっています。原文の鷹通信が、宮廷詩人たちの詩殿に黄金の額装で飾ってありました」
「そんな……」
ギリスは目眩がして、軽く震えた。
「宮廷随一の教養がおありだったんですよ。族長閣下の義兄上で、エル・ディノトリスの化身でいらっしゃったので」
キーラが道具類を運んで控えの間に消えながら、切々と語っていた。
英雄ディノトリスの化身。まさに射手のことだろうが、それは詩まで詠むもんなのか。養父から何も聞いてない。
「絶対か、それは? 絶対詠まないといけないのか⁉︎」
ギリスは震えて弟に聞いた。サリスファーは不味いもんでも食ったような顔になっていた。
「兄者……射手なんですか。師父がそうだって」
「はぁ?」
菓子を食っていた学房の爺いの顔を思い出して、ギリスは弟の話に首を傾げた。
「師父が、兄者に従うようにと、僕に忠告なさいました。きっと新星の射手だからって。スィグル・レイラス殿下がそうなんですか? 本当に?」
「何で学房の爺いがそんなことお前に言うんだ」
「仰ってましたよ、さっき。兄者が、族長閣下のことを師父に頼みにいらした時のエル・イェズラムに似ていると仰って」
「え……?」
博士の官服を着た爺いが、急に微笑んでギリスの脳裏に現れた。
そんないい事を言う爺いだったとは。もしや当代随一の賢人かと、ギリスは危ぶんだ。
今からでも遅くないから、学房の爺いにお菓子を持っていくべきだ。
「ちょっと待て、いつ聞いた? あの爺いはさっき、そんなこと言ってなかったぞ、サリス」
ギリスは、ハッと気付いて弟を見た。嘘をついているのかと。
それにサリスファーはにやあっと面白そうに笑った。
「いつだと思います?」
「勿体ぶるな、馬鹿」
ギリスが強請ると、サリスファーは得意げに笑って言った。
「さっきです! 女英雄が喜ぶお菓子が全く分かりませんでしたので、師父に叩頭して教えを乞いました。エル・エレンディラの派閥ならばこれであると、師父がお菓子をお分けくださったのです!」
二つある包みをギリスに捧げ持って示し、サリスファーはにこにこと上機嫌に答えた。
「間違いないです。師父が仰るのだから、これ持っていきましょう、兄者」
「お前……なんで俺がエレンディラに会うってわかった?」
「え? 違いました?」
サリスファーは慌てた様子で青ざめて聞いた。
「いや。違わない」
「匂いで……。すれ違った時、みんな同じ匂いだったでしょう。姉も、妹たちも。それに茶会と言えばエル・エレンディラですよ。聞茶の名手なので」
「そうなの⁉︎」
ギリスは初めて聞いた。それにサリスファーが仰天していた。
「何で知らないんですか⁉︎ 英雄譚に出てくるでしょう! 出陣する族長に勝利を祈念するお茶をお出しして、族長がエル・エレンディラに、戦場の花よ、これは何の香りかってお尋ねになる場面ですよ」
「知らない」
「馬鹿かと思われますよ、兄者‼︎」
弟の立場で言って良い限界までサリスファーは肉迫してきた。
事実なのでギリスは何も言い返さなかった。
「やばいな俺」
「逆にそれでエル・エレンディラからの招待だって気づけた兄者が凄いです」
泣きそうな顔でサリスファーが言っていた。
「ありがとう」
「褒めてません」
サリスファーはもはや、きっぱりと言っていた。
正直なやつだった。
正直さは何物にも優る美德だとイェズラムも言っていた。きっとそうなのだろう。
不死身で正直ものの泣き虫、サリスファー。ギリスはこの弟をまた気に入った。
「よし、行くぞ。サリス。出撃だ、付いて来い」
「お供します」
ギリスは宝剣を儀礼用の剣帯に突っ込んで、ずかずかと個人房の広間を横切った。
戸口にいた弟は急いでギリスに道を開け、お菓子の箱を持ったまま扉を開けてくれた。
いいな。兄になると、扉まで勝手に開くとは、面倒がなくて良い。
ギリスは満足して戸をくぐろうとした。
「エル・ギリス。お忘れ物ですよ」
背後から声をかけられて、ギリスが振り向くと、控えの間に引っ込んだはずのキーラが呆れた顔で、部屋に置かれたままの、絹に包まれた額装の絵を指差していた。
「うわ」
ギリスは思わず呻き、走って絵を取りに戻った。
「大丈夫なんですか、兄者」
一緒に王宮の廊下を歩きながら、ギリスはサリスファーに軽く問い詰められた。
弟に一人で大荷物を持たせるのも可哀想な気がして、絵は結局、ギリスが持ったままだった。
サリスファーはそれも持たせろと言ってきたが、大事なものでもあるし、ギリスが運ぶことにした。
それを小脇に抱えて歩きながら、ギリスはため息をついた。大丈夫なのか。
「わかんない俺も、わからなくなってきた」
「射手なんですか……」
子供部屋時代を思い出すほどの白い顔になって、サリスファーが小声で先ほどと同じ質問を繰り返してきた。
「たぶん」
ギリスは断言しなかった。たぶんそうだと思うが、自信がなかった。
養父がなぜ自分を射手に選んだのか。
確かに命じられたと思うが、まさか夢でも見たのだろうか。
キーラもギリスのことを、イェズラムに少しも似ていないと言っていたし、もちろん即興の詩は作れない。
「重責じゃないですか」
腹に矢でも食らったかのように、サリスファーは抱えた箱で腹を押さえていた。
「重責かな」
ギリスは顔を顰めて考え込んでいた。
だが、考えたところで何も分からない。今は、自分がやれることを、やるしかないではないか?
そういう目でサリスファーを見つめると、弟はどんどん死にそうな顔になった。
「僕、なんでこうなったのか、わかる気がします。さっきまで、なんで急に兄者の弟になってしまったんだろうって、くよくよ考えていましたが、きっとこれは天使のお導きなんです」
青ざめた顔のまま、弟が難しいことを言った。
なぜここでまた天使が出てくるのか、ギリスは分からず、さらに顔を顰めた。
「兄者お一人では心配すぎます。せめて僕一人でも、お側にいたほうが役に立ちます。エル・ユーレランは、僕には良い兄でした。詩才もお持ちで、教養もあるし勇敢で、まさに英雄でした。本当に。兄は僕に、英雄として求められる嗜みを全部、教えてくださいました。でも僕を必要とはしておいでじゃなかった」
「俺もしてないけど」
ギリスが教えると、サリスファーはそれを無視した。
「聞茶できるんですか」
冷たい氷をギリスの懐に突っ込んでくるような声で、サリスファーが聞いてきた。
さすがは氷結術師だ。にこにこしてる時からは想像もしないほど冷たい。
「できない……」
「やっぱりですよね。やっぱり。何やってたんですか、兄者は今までこの宮廷で」
聡明なる不死身のエル・サリスファーが喚いていた。
ギリスは笑うしかなく、ただ笑った。
確かに、忙しくなりそうだ。昨日までと同じ調子では、とても追いつかないだろう。
あの、銀狐のアイアランの言う通りじゃないか。
「聞茶は茶の銘柄や産地をあてる遊戯です。茶葉に銘があって、それぞれに曰く由来があるのです。いろんな形式がありますが、いくつかの茶葉の銘を組み合わせて、何かの意味を作ってるんです。その意趣を言い当てる趣向です」
「ごめん、全くわからない」
ギリスは自信をもって答えた。
サリスファーもそれに頷いていた。
「エル・エレンディラも教養高いお方です。子供部屋時代に長老会の姉上に見出されて、長老会でお育ちになったようなものです。普通の女英雄とは違います。見かけに騙されないでください」
「見かけって?」
「お美しい方ですよね。優しそうだし」
「美人だし優しいよ、エレンディラは」
会うたび、にこにこしている美貌の女英雄を思い出して、ギリスは保証した。
それでも弟は深刻そうな顔つきで、首を横に振っている。
「とても戦績の高い英雄です。他の女英雄は、可憐だとか優雅だとか詩人は詠っていますが、エル・エレンディラの英雄譚は違います。一つぐらいは兄者もご存知ですか?」
「一つだけでいいし教えてくれない?」
ギリスは素直に教えを乞うた。
弟は鋭い石でも踏んだような顔をして、目を伏せて頷いた。
「詩人は、エル・エレンディラのことを、雷撃の地獄に咲く花と」
「雷撃術師だもんな」
「そうです。でも、エル・エレンディラの雷撃術では守護生物は絶命しないんです。気絶するだけみたいです」
「だめじゃん」
ギリスは感想を述べた。それにも弟は頷いていた。
「それが、エル・エレンディラが戦場での功績においてエル・イェズラムに勝てなかった理由ではと言われています。でも、女英雄は血飛沫の従者たちという名前で英雄譚に出てくる、側仕えの妹たちを連れていて、その娘たちが、敵の乗り手を探し出して殺すんです」
「血飛沫なの……?」
ギリスが確認すると、サリスファーは悲しい顔で頷いている。
「エル・エレンディラの英雄譚の、血の花冠っていうのは、あの赤い石のことじゃなくて、本当に血なんだそうですよ。敵の返り血です」
「お菓子食うと思うか、そんな女が?」
「わかりません……」
自分が運んでいるお菓子を、サリスファーは青ざめて見下ろしていた。
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039 花簪
「大丈夫ですか、兄者。エル・エレンディラと会ったりして」
サリスファーはさも恐ろしそうに言っていたが、ギリスはそのビビりきった弟の顔がおかしく、ふふんと笑った。
エレンディラのことを、怖いと思ったことはない。
恐れなければならない相手ではあるが、ギリスにとっては、恐ろしかったことはない相手だ。
長老会の美しい女長だ。以前はイェズラムの好敵手であったらしいが、今はもう争う理由がない。
イェズラムが死に、エレンディラもギリスと同じ、養父に遺された者だ。
「血飛沫の従者のほうがヤバくない?」
「雷撃の地獄に咲く花のほうがヤバいです」
そうこう言い合ううちに、ギリスは良い匂いのする界隈まで来た。
この広い王宮の中でも、ギリスが滅多に足を踏み入れぬ区域だ。
女英雄たちの縄張りで、そこの絨毯には可愛げのある小花の模様やら、星々の模様が織り込まれていた。
可憐な室内香が香る空気が、ふわりと優しく撫でるように漂っている。
歩くと簪がしゃらしゃら鳴るような連中が、目尻に化粧して歩き回っていた。
誰も彼も英雄ではあるのだが、同じ石を持つ身とはいえ、すれ違う誰もがあまりにも違う気がした。
これと比べれば、銀狐閥の連中のほうが、よほど兄弟みたいだ。
明らかに警戒した、敵意のような目で、女どもはギリスとサリスファーを見てきた。
その中でも、一体どこにエレンディラがいるのか、廊下にいる娘たちに聞かなくてはならない。どこへ行けばよいのかも分からないせいだ。
こっちをじろじろと見てくる、薄絹を長衣の袖口から垂らしている娘たちに、ギリスは目を向けた。
美しく結い上げた髪に、皆同じ花簪を挿している。白い花弁に黄色い花芯があるもので、本物の花かと思ったが、見れば花芯は黄水晶だった。手の込んだ装飾品だ。
「エル・エレンディラのところに行きたい」
「どうぞお行きになって」
一番年上に見える背の高い女英雄《エル》に、これが長姉と目算をつけて尋ねたら、冷たくあしらわれた。
「どこにいるか教えてくれないか」
「何のために」
重い石でも投げ渡すように、女英雄はギリスに尋ねてきた。
それに何と答えたらよいのか。ギリスのやや後ろに立つサリスファーは、既に無言で小さくなり、青ざめて黙っていた。何か相談できそうには見えない。
「俺は新星の遣いだ。エル・エレンディラに呼ばれた。次の戴冠の話をしに行く。長老会の女長がどこにいるか教えてれ」
ギリスは用件を述べた。単刀直入に。
それを真顔で聞いて、花簪の娘たちは、黙ってじっとギリスを見た。
「おやまあ」
驚いているのか怪しい口調で、長姉らしき女英雄が答えた。
「可愛い妹よ、私のために走ってくれる?」
長姉は隣にいた娘に話しかけたらしいが、そちらを見もしなかった。
「はい。我が姉上よ。喜んで。風のように駆けますわ」
そう言ったくせに、花簪の妹は、裾から真珠色の薄絹が揺らめく長衣の乱れない歩調で、しずしずと廊下を歩いていった。
そして消えた。
消えたように見えた。
ギリスは驚きすぎて、ぎゃっとか、ぐわっというような声を自分が発した気がした。
それもサリスファーの声だったのか。とにかく二人揃ってビビっていたのは間違いなかった。
「すごいでしょ。転移術よ。現れるのは英雄八千人に一人というわ」
自慢げに長姉が言ってきた。
「それで? あなた達は? どんな魔法なの」
「氷結術です……」
サリスファーが小声で答えていた。声が出るとは、なかなか根性のある弟《ジョット》だ。
花簪の女英雄たちは、そろってくすくす可笑しそうに笑った。
「いやだ。普通ね。よくある技よ」
馬鹿にしたふうに娘たちが言うので、ギリスはむっとした。
「兄者はヤンファールの氷の蛇ですよ!」
怒った口調で弟が喚いていた。
「死に損ないね、エル・ギリス」
くすくす笑って嘲るように、花簪の娘たちの長姉が言った。
「そういうお前はどうなんだ」
ギリスは喧嘩を売られている気がして、赤い唇で笑っている女たちを睨んだ。
「私たちもそうよ。皆、死に損ない。お互い、生まれる時を間違えた。死ぬ時は間違えたくないものね」
「どういう意味?」
ギリスは本当にわからず聞いた。
女英雄たちの長姉は、ギリスとそう変わらない年頃に見えたが、ギリスを嫌っているような、憎しみのある暗い笑みでこちらを見返してきた。
「生きてても、もう無駄よ。そう思わない? いつ死ぬか皆で相談しなくちゃ。そうでしょ?」
「なんでだよ」
「あんたの新星が、皆を地獄に堕とすから」
白い歯を見せて、花簪の女英雄はギリスに言った。
「そんなことしないよ」
「そうかしら。英雄譚なく死す者は地獄の門をくぐるのよ」
暗い目で言う娘は本気のように見えた。その死を覚悟しているような。
「そんなことさせない」
ギリスはこちらをじっと見てくる女英雄の目を見て答えた。
黄色の蛇眼だった。花簪の黄水晶のような。
その目がじっとギリスを見て、にこりともしなかった。
「新星レイラス? あなた馬鹿よね」
娘は殴りつけるようにギリスに言ってきた。
それをギリスは避けなかった。黙って殴られるのがもう習い性だ。
「よく言われる。俺は馬鹿かもしれないけど、でも、なんであいつじゃ駄目なんだ。誰ならいいんだ」
ギリスは本当に教えてほしくて、黄水晶の娘に聞いた。
娘は嫌な顔をして答えた。
「星が誰でも、もう同じよ。天使が相手では、どうしようもないでしょ。守護生物は魔法で殺せても、天使は無理よ。そんなことしたら、皆、地獄に落ちてしまう。私の可愛い妹たちも……」
無表情に長姉を見ている妹の白い顎を指先でくすぐって、黄水晶の長姉は少し微笑んで見せていた。
「せめて皆で死ぬわ。地獄でもずっと一緒にいられるように」
「そんなの駄目だろ」
「何がよ」
うるさそうに女英雄たちはギリスを睨んだ。
「エレンディラがそう言ったのか」
「私たちの女長を呼び捨てにしないで。失礼よ、あなた」
黄水晶の娘は怒った顔をした。洞窟の闇に潜んでる、黒豹みたいな目だ。
この娘たちの袖から漂う匂いは、エル・エレンディラの派閥の娘たちの香りとは違うが、それでも皆、エレンディラに仕えているようだった。少なくとも、女長が侮辱されたら怒る程度には。
「エル・エレンディラがそう言ったのか」
ギリスは訂正した。
「いいえ。女長がそんなことおっしゃるわけがないわ。そうでなければ皆もう死んでる」
「悲惨すぎるだろ」
ギリスは嫌な気がして、顔を背け、イェズラムの絵を抱えなおした。
養父は死にたかっただろうか。そんなはずはないのに、この女どもは死に急ぐ話をしてる。
「そっちだってそうでしょ」
「そうって、何が?」
「銀狐閥よ。また玉座の間で葬式よ。やめてもらえない?」
ギリスは黄水晶の娘が何を言っているのか、本当に分からなかった。
玉座の間で葬儀が行われるのは珍しいことではない。日々、誰かが死んでいる。
それに、銀狐のことで、なぜ自分たちが文句を言われねばならないのか。
「俺たちは髑髏馬だ。銀狐じゃない」
「関係ないわ。男でしょ」
「お前もそうだろ」
英雄たちに女はいない。部族ではそう言われているが、もちろんそれは建前だ。黄水晶の娘はどう見ても女だった。
しかもちょっと可愛い。
その顔で蔑むように見られて、ギリスはがっかりした。
花簪を挿しているのに、花のようには笑わないのか。
それも女派閥じゃ仕方がないが。
そう思って睨み合うギリスと黄水晶の娘の間に、またさっきの風よりも早く駆ける娘が現れた。微かな残像とともに。
「姉上」
何もない空中から現れ出た娘が、まるで死霊のようにギリスには思えた。サリスファーも驚いた様子でのけぞっている。
「お連れするようにとのことです」
「ありがとう。お疲れ様。皆で歩いて行きましょう」
そう答えて、長姉らしい娘は転移術師をまた自分の妹の群れに戻らせた。
「付いてきて」
ギリスに言って、黄水晶の娘が先に立ち歩き始めた。案内するつもりらしい。
案外親切だなと、ギリスは思った。可愛げのない連中だが、この際は助かる。
「あ、ちょっと待って。エル・ギリス。それは割れるもの?」
ギリスが脇に抱えて持っている荷物を指さして、黄水晶の娘が聞いてきた。
「いいや。絵だよ」
「そっちの子の荷物はなに?」
サリスファーの方も指さし、娘は荷の中身を聞いてくる。
偉大なるエル・エレンディラに拝謁する前に、危険な荷ではないか、中身を改めたいのだろうか。
忠実な妹たちとしては、もっともな話だった。
「お菓子です。アットワースの。砂漠の薔薇っていう」
こちらの弟も素直に箱の中身を教えてやっていた。
その名を聞いて、娘たちは皆、もっともな荷物だというふうに頷いている。
「手土産? 美味しいわよね。壊れたら台無し」
深刻そうに言ってから、黄水晶の娘はギリスに向き直った。
「あなただけでいいわ」
娘が確信をもって言い、ギリスを見つめた。
何がいいのか、ギリスは首を傾げようとしたが、その瞬間、黄水晶のような娘の目が変わった気がした。人ならぬものの目に。
そう気づいた時にはもう、ギリスは見えない大きな手に払い除けられたように吹っ飛び、軽く宙を舞って通路の壁に背中から打ち当てられていた。
頭がごつんと壁を打つのが感じられた。
相当ヤバい。くらっと来るような熱い衝撃が、頭の中を通り抜けていった。
「兄者⁉︎」
青ざめてサリスファーが叫び、壁に向かって吹っ飛ばされたギリスを振り返っていた。
生来、鈍い体のことで、別に痛くはないが、頭がくらくらする。
壁で強打したせいか、それとも何か急な力を浴びせられたせいなのか。
「卑怯じゃないですか‼︎」
サリスファーが果敢にも、自分より年上の長姉に噛みつきにいっている。
それでも女どもにサリスファーを恐れる気配はなかった。
「何が?」
「許可のない魔法使用は厳罰に処されます」
サリスファーは険しい顔でそう教えた。王宮に住む竜の涙ならば、誰もが知っていることだ。
「あら。使ってないわ、魔法なんて。あの人が勝手に吹っ飛んだの」
くすくす笑い、黄水晶の娘はまだ背中を王宮の壁に預けて立っているギリスをじっとりと見てきた。
「ごめんなさいね。何かぶつかったかしら?」
「念導術か……」
この女は最初からそのつもりで集中していたのかもしれないが、早撃ちの女英雄だった。
せめてスィグルもこのくらい装填の早い念動術師であれば良かったのに。
「大したことないのね。ヤンファールの氷の蛇よ」
残念そうに女英雄はギリスを見て言った。
何を期待されていたのか知らないが、こいつもまた、歌う宮廷詩人のような口調でギリスの異名を呼んでいる。
英雄譚は嘘だ。本当のギリスのことが詠まれているわけじゃないのに、なぜか皆、あのヤンファールの勲のほうが、本物のギリスだと信じているのだ。
必勝を信じ、我が身を顧みず突撃する少年兵。死を恐れない、ヤンファールの氷の蛇。無痛のエル・ギリスだ。
それが哀れで無力な双子の王子を救出するためだったと、詩人は詠っている。
ギリスはもちろん、そんなつもりではなかった。
あいつは双子だが哀れでも無力でもないし、自分も死を恐れないわけでもない。
勝つか負けるかなど、もちろん知らなかった。今も、あの時も。
そして守護生物どころか、花簪の娘にも吹っ飛ばされる体たらくだ。
まったく、どこが英雄なのかと思うが、気の良い弟にはまだそうであるらしく、サリスファーは女英雄たちと戦う構えだった。
「無礼だぞ! 兄者が魔法を使ったら、お前ら皆、すぐ死んじゃうんだからな」
サリスファーが控えめに凄んで見せている。それも吠える子犬のようで、まるで凄みがない。
花簪の妹たちが、それを見てころころと鈴を振るような声で笑った。
「あら、こっちの台詞よ。私たちの姉様の方が速いわ。本当ならもう骨まで粉々よ」
口々に言う娘たちを引き連れて、長姉は満足げだ。笑いながらギリスをじっと見ている。
その目がこちらを見逃さないのに、ギリスは感心した。
もしもギリスが迎撃してきたら、次は骨まで砕くつもりと見えた。
「妹たち。あんまり脅すと可哀想よ。か弱い連中なんだから。この小さい子が泣いたらどうするの?」
長姉が言うのは明らかにサリスファーのことだったが、こっちの弟はムッとして心外そうだった。
さっき泣いてたじゃないかと、ギリスは内心思った。
だが言うべきじゃない。こちらにも、弟にも、英雄としての面子があるのだ。
「お前、教えられる? スィグル・レイラス殿下に念導術を」
まだ胃の辺りがぐったり重く、ギリスは吐き気がしながら相手に尋ねた。
「どうして?」
歩き出そうとしていた花簪の長姉が、ギリスを見て怪訝な顔になった。
「護身用にだよ」
絵に害がなかったらしいのを包みの布越しに確かめて、ギリスは娘についていくことにした。
案内はするつもりだったのか、ギリスが後を追ってきても、女英雄は嫌がりはしなかった。
サリスファーは今にも泣きそうな悔しげな顔で、菓子の箱を捧げ持ってついてきた。
「そんなこと聞いてないわよ。なぜ殿下が念導術を?」
念動術師のその娘は、興味深げに聞いてきた。
「生まれつき持ってるんだ。魔法を。強さは竜の涙みたいにはいかなくても、発動の速さは同じだろ。とりあえず襲ってくる目の前の敵一人を吹っ飛ばせればいい。殿下に教えてくれ」
「誰が殿下を襲ってるの?」
ギリスと並んで歩きながら、花簪の娘は不思議そうにしていた。
並ぶと少しだけ、彼女のほうが背が低い。切りそろえた前髪の合間から、瞳と同じ色の黄色い石が見えた。
揺れるごとに良い匂いがする髪だ。とにかく女英雄たちは常に、驚くほどいい匂いがする。
「誰って……分からないけど、みんなだよ。あいつが最も玉座にふさわしいから、何度も命が危うくなるんだ。他の殿下が誰か死んだか?」
ギリスが伝えると、黄水晶のような目で、娘はじいっとギリスを見てきた。
「女長の派閥の部屋に案内するわ。その頼み事はエル・エレンディラにしてくれる? 私には決められないわ。魔法使用の許可がいる」
さっきは無断で使ったくせに、娘はお堅く言った。
それにギリスは思わず笑った。食えない奴だなと思って。
「わかった。エル・エレンディラに頼んでみるよ。お前の名前は?」
「エル・フューメンティーナ」
もったいぶった口調で、娘は名乗った。それが芝居がかって見え、ギリスはまた笑った。
「舌噛みそうな名前だな」
「噛めばいいわ」
にやりとして黄水晶の娘は言った。
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040 エレンディラ
花簪の娘たちに案内されて連れて行かれた女派閥の部屋には、別の良い匂いのする娘たちがいて、黄水晶の娘は、そこの戸をくぐることもなくギリスを引き渡して去っていった。
よその派閥に立ち入らぬのは、英雄たちの男も女もない文化らしい。
二言三言、小声で戸口の相手と言葉を交わし、形ばかりの一礼をギリスに見せてから、とっとと消えた。転移術ではなく、歩み去ったのだが。
エル・エレンディラの派閥の部屋の戸口で待っていた女たちは、美しく化粧しており、皆、にこやかだった。
「ようこそ、エル・ギリス。歓迎しますわ。わたくしたちの女長がお待ちかねです」
中に入れと奥を示して、ギリスたちを引き入れた割には、叩頭して入った奥の客間はからっぽで、誰もいない上座に赤い花の刺繍がされた美しい円座の空席があるだけだった。
そこの下座に座らされ、ギリスとサリスファーはしばらく待った。
その間に、小さな茶器で一杯の熱い茶が振る舞われた。
サリスファーはそれを作法があるらしい、独特の所作でちびちび飲んだが、ギリスは喉が乾いていたので一口でがぶっと飲んだ。
おそらく舌を焼いた。おそろしく熱かった。
「兄者……一気に飲んで平気なんですか」
驚いた小声でサリスファーが聞いてきた。
平気なわけがない。ギリスは茶器を持ったまま、舌を出して外気で冷ました。
サリスファーはそれを苦笑で眺め、自分はちびちび飲んでいた。
「美味しいですよね。このお茶。さすがだなあ。調度品も上品だし。この茶器も、すごく古いものですよ」
「新しいのを買う金がないのか、この派閥には」
「冗談で言っているんですよね?」
サリスファーは真顔で確かめてきた。
ギリスは押し黙った。ここではなるべく何も言わないほうが賢い気がした。
「英雄来たる、ですよ」
サリスファーが小声でギリスに教えた。
「誰が来たんだ?」
「そういう茶の銘柄の名前ですよ。これ。派閥で定番のやつです。とりあえず歓迎されています」
「そういうこといちいち考えてて、疲れないのかお前?」
ギリスは感心して弟に聞いた。
サリスファーはなんとも言えない顔をしていた。
英明なる紺碧の兄のことでも懐かしく回想しているのかもしれなかった。
気の毒なことをした。こいつにはエル・ユーレランの死水をとる任務のほうが合っていたかもしれないのに、こんなことに巻き込んでしまった。
さっき王宮の廊下で、花簪の奴らに笑われていた時のサリスファーの悲壮な顔を思い出し、ギリスは弟が可哀想になった。
ああいうのにサリスファーは全く向いていないだろう。茶を飲むのは上手だが。
「遅いですね、エル・エレンディラ」
「暇な女じゃないんだよ」
ギリスは退屈で、古い茶器に残っていた熱っぽい歓迎の茶の匂いを嗅いだ。
麦を焼いたような、香ばしい匂いがする。花のような匂いも。
それがなぜ 『英雄来たる』になるのか、ギリスには全く分からないが、とりあえず憶えるしかないだろう。
ギリスは鼻が利くほうだった。必要なら憶えられるだろうと思った。
即興で詩を詠むよりはまだ、やってやれないこともない。
そのまましばしの時が過ぎ、やがてサリスファーがそわそわと焦れ始めた。
待つのは苦手らしい。
「どうしたんだよ。じっとしてろ」
「すみません。足が痺れて。それにお腹も空きました」
「昼飯食っただろう」
ギリスが呆れて言うと、空腹だという弟は惨めそうにギリスを見た。
「食ってませんよ。兄者について派閥に戻ったけど、何も食べていません」
「なんで食わないんだよ。そこらじゅうに食い物があっただろう」
「そんな雰囲気じゃなかったでしょう。偉い兄上ばっかりだったし」
「食い物より大事なことなんか無いぞ、サリス。それだけは憶えとけ」
ギリスは心底から弟のためを思って言った。
それは大英雄イェズラムも言っていたことだ。どんな時でも飯だけは食えと。
「そんなことないでしょう。食い物以外にも、大事なものだらけですよ。食べていいような雰囲気じゃなかったんです」
口を尖らせてサリスファーは言い、確かに飢えたような青い顔色だった。
やれやれとギリスは思った。
「お菓子、二箱あるんだし、一個食えば?」
「冗談ですよね」
サリスファーは鋭く小声で聞いてきた。
「いや本当に。お前がエレンディラの部屋で飢え死にしたら悪いだろ」
「死にません。不死身ですから」
サリスファーはきっぱりと言った。それにギリスはふふふと笑った。面白い奴だ。
そうしてギリスが笑っていると、部屋の扉が急に開いた。
先触れもなく、いきなり女派閥の女長、英雄エレンディラが現れた。
「ごめんなさいね、エル・ギリス。お待たせして」
平服の長衣の裾を翻して、エレンディラは部屋に入ってきた。
誰にも叩頭する必要のない、エレンディラはこの派閥の頂点にいる者だ。戸口で立ち止まる気配もなかった。
こちらが叩頭して出迎える立場だ。
ギリスは教えられた通りの深い座礼でエレンディラを迎え、サリスファーも慌てたように深々と叩頭した。
「お連れがいたとは」
花の刺繍の円座に座り、エレンディラは踊るような軽い身のこなしだった。まるで体重などないように見える。
それでも、ギリスが顔をあげると、重たげな赤い石の花冠を、結い上げた髪のつややかな頭のぐるりに帯びていて、エレンディラは長老会の重鎮らしく見えた。
それにしては、ずいぶんにこやかな重鎮だが。
「お友達?」
サリスファーを見て、エレンディラは軽やかに聞いた。
「いいえ……弟です。今日から……エル・サリスファーと申します、女長」
美貌の女英雄に気圧されているのか、サリスファーはやけに訥々と喋った。
さっきまで青い顔をしてたくせに、赤い顔をしている。何に照れているんだとギリスは訝った。
「弟なの! びっくりしました。まあ。エル・ギリスに弟が!」
それの何が可笑しいのか、エレンディラは急に円座で仰反るほど笑っていた。
「面白いわ。よかったですね、ギリス。弟ができて」
「そんなのいいから、さっそく要件から話してくれるか」
ギリスは困って、エレンディラに頼んだ。もうずいぶん待たされた気がする。
この後、銀狐閥のアイアランを探して会い、それから新星のところに行かねばならぬ。
女英雄に使える時間がどのくらいあるのやら。
「まあそう言わず。食事をしてもいいかしら」
にっこりとしてエレンディラは聞いてきた。
ギリスは呆れた。今は、昼でも晩でもない。飯を食う時間じゃないはずだ。
「お菓子持ってきたから、腹減ってるなら、これ食っとけば? こいつも腹減ってるらしいから、食わしてやって」
ギリスが顎で隣の弟を示すと、サリスファーはまた青ざめ、豪奢な敷物をはさんで向かいの座にいるエレンディラはにこにことして見えた。
「悪いのですけど、わたくしお菓子はいただかないことにしています」
「なんで」
「習慣です。わたくしが嫌いなある人物が、いつも馬鹿みたいに着飾って皆で菓子など食っているから戦に出遅れるのだと言ったので、腹が立って、それ以来お菓子を食べない誓いを立てています」
「それ誰」
「あなたもよく知っている人です」
イェズラムとしか思えなかった。
ギリスは自分が座る円座の脇に置いて待たせている絵に、そのイェズラムが描かれていることを思った。
大丈夫なのか、この女にその絵を見せて、本当に?
怒り出したりしないだろうな。菓子も食わないと言っている。
そういう理由で菓子を断っている奴のところに菓子を手土産に持ってきたのは、馬鹿だったのではないか。
不殺の料理しか食わない誓いを立ててる奴に肉を出すようなものだ。
「でもせっかく持ってきていただいたのだし、見てもいいかしら。わたくし、お菓子を見るのは大好きよ」
にっこりとして、エレンディラはギリスの横に座るサリスファーを見た。
菓子の包みを開けて見せろという意味だろう。菓子の箱がサリスの脇にあった。
サリスファーは箱を開けていいのかと、戸惑う目でギリスに目配せしたが、開封するしかない。この場で一番序列が高い女長が、お菓子を開けろと言っているのだから、逆らう理由はなかった。
サリスファーは厳かに菓子箱の包みを開き、まず大きい方の箱を開いて女長に見せた。
おそらく、アットワースの砂漠の薔薇だ。菓子が赤い花の形をしていた。
「あらぁ、アットワース」
よっぽど有名な菓子商なのか、女英雄もその名を知っていた。嬉しげな声を上げたエレンディラは喜んでいるように見えた。
「ありがとう、エル・ギリス。妹たちが喜ぶわ。甘いものが好きだから」
「俺じゃない、こいつが用意した」
ギリスが横にいるサリスファーを視線で示すと、菓子を引き取ったエレンディラは箱の蓋を閉めながら、うふふと笑った。
「あなたの弟なんでしょう。いい子がいて良かったわね」
エレンディラはギリスに言ったが、サリスファーが恐縮していた。
褒められたと思ったのだろう。エレンディラはその弟にも気さくに微笑んでやっていた。
「もうひとつは何?」
サリスが持っていたもうひとつの小さな包みの方を、エレンディラは興味深げに見ていた。
砂漠の薔薇が詰められていた箱と比べると、小さな箱で、包みを解くとずいぶん質素だった。
サリスファーがその箱を開いて見せると、ギリスには黄土色の細かい砂のようなものが入ってるのしか見えなかった。
一瞬、本当に砂が入っているのかと思えた。
エレンディラは真顔になり、その箱を受け取った。
「懐かしいわ。これを食べるの面倒なのよね。散らかるし……」
エレンディラは美しく塗られた爪で、つつくように箱の中の砂を探っていた。
そして女英雄が摘み出した指先に、砂色の小石のような、小さな塊があった。
エレンディラはそれを躊躇なく自分の口に入れた。
食べないと言ったくせに食っている。
「お菓子じゃないのか、それは」
ギリスが聞くと、エレンディラは白い手で自分の口を覆って、もごもごと答えた。
「市井の駄菓子よ……」
喋ると砂塵のような粉がエレンディラの口元に吹き出し、無作法と思ったのか、エレンディラは笑いながら長衣の懐の隠しから小布を取り出して口元を隠した。
その布切れの隅にも、赤い花の刺繍があり、紫水晶の欠片が添えられている意匠だった。キーラの言う通りだ。
「失礼しました。これ、食べると飲み込むまで話せないの。食べる?」
エレンディラは気さくにギリスに箱を差し出してきた。
「昔、流行ったのよ、この宮廷で。食べながら粉を吹かずに好きな人の名前を言えたら、想いが通じると、派閥の皆が言っていました」
可笑しそうに、エレンディラは教えて、ギリスが食うのをじっと見ていた。
「好きな人の名前を言ってみて」
命令としか思えない口調でエレンディラが要求した。
「いない……」
ギリスは正直に答えた。その話にも口から粉が噴き出した。
味わってみると、煎った豆の粉だ。それを水飴で固めた塊が埋めてあり、噛むと歯にくっついた。
「変わった名前の方ね」
エレンディラは微笑みながら意地悪そうに言った。
「いないって。好きな人はいない。女長は誰の名前を言ったの」
「あいにく私もいませんでした」
「嘘だろ」
ギリスは指摘したが、エレンディラは動揺もなく完全に無視した。
「でもこのお菓子が好きだったの。味がね! あなた史学の師父に聞いたのね?」
エレンディラは含みのある表情でサリスファーを見た。弟は何故わかったと思っているのか、青ざめてこくこくと頷いていた。
「師父は私たちが長老会から出向くと、しつこくこのお菓子を買っておいてくださって、わざとらしく仰るのよ。これを食べながら意中の者の名を言えたら恋が実るそうですぞぉ、試しに言ってみなさいって要求なさるので、本当に嫌でした。師父は私が誰の名を言うとお思いだったの?」
「イェズラムだろ」
ギリスは堪えきれず言った。
それを女英雄がじろっと見た。
「あなたの養父もその時、いないと言ったわ」
「俺に怒らないで……」
ギリスはまだ噛み終わらぬ水飴を噛みながらエレンディラに頼んだ。
「何の用なの」
微かに苛立った様子でエレンディラは聞いてきた。ギリスは困惑した。
「あんたが呼んだんだろ」
「そうだったわ忘れてた」
真っ赤な顔になり、エレンディラは頭痛がするのか片手を額に添えて苦しんでいた。
長老会の重鎮だし、石の病状が重いのかとギリスは心配になった。
「施療院に行く?」
「うるさい子ね、わたくしは元からこうなのです!」
エレンディラはきっぱりと言った。
「動揺して本題を忘れていました。あなたと相談したいことが。それで呼んだの。スィグル・レイラス殿下の帰還式の件です。もちろん承知でしょうね」
エレンディラは派閥の女長らしい口調できびきびと言った。
──つづく──
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