@zerozero_daily
「王宮の孤児たち」(1)/ (2)/ (3)/ (4)
もくじ
2≫ 041 新星昇る
3≫ 042 忠誠
4≫ 043 栄光あれ
5≫ 044 予言
6≫ 045 星を拾う
7≫ 046 運命
8≫ 047 約束
9≫ 048 宴を待つ
10≫ 049 戦場の美味
11≫ 050 念動術師
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041 新星昇る
「俺もその件で来た」
「話が早いわ」
そう言って、エレンディラは帯にある煙管入れから自分の煙管をとり、円座のそばに用意されていた煙草盆から火を吸った。
女英雄が優雅に吐く薄紫の煙からは、ギリスも知る紫煙蝶の匂いがした。
「行列の先導をする英雄が必要です。あなたがやる? やらないのなら、わたくしが務めます。リューズ様はそれが良かろうと仰せよ」
「は?」
考えてもみない話で、ギリスは驚いた。
だが改めて思えば、考えてもみない話でもなかった。深く考えていなかっただけで、ギリスはその役目を自分がやるのだと思い込んでいたのだ。
だって、スィグル・レイラスは新星で、自分はその射手なのだから、帰還式には同行するだろう。
殿下の行手を先導するのは当然自分だと思っていた。
「俺じゃないの⁉︎」
ギリスは驚くままに声を裏返して聞いた。エレンディラは煙管を吸いながら、じっとりとギリスを見てきた。
「あなたみたいな若輩者が、イェズラムと対になる役目を請け負えると思うのですか? イェズラムは出立の行列を先導した時も、長老会の長だったのですよ。全ての魔法戦士の長でした。わたくしはその役目を長老会でイェズラムから引き継いでいます。どういう意味かわかるわね?」
「ジャンケンで決める?」
ギリスは最大限に譲歩したつもりで言った。
サリスファーが隣でビクッと震えた。
そして何か言いたそうに口を開けてギリスを見たが、何も言えなかった。
「いいわね。運を試す?」
蛇と鷹と将軍。
皆が子供時代にやる遊戯だ。将軍は鷹に優り、鷹は蛇に優り、蛇は将軍に優る。
それぞれの型が決まっており、出した姿勢で勝敗を決する遊びだが、普通は大人はやらない。酒席で泥酔でもしていない限りは。
エレンディラは煙管は吸っているものの、吸い慣れた紫煙蝶ごときに腰を砕かれるようには見えなかった。
だが、やると言うなら立たねばならない。座っていてはできない遊びだ。
ギリスが円座から立とうとするとエレンディラが鋭く言った。
「冗談です。本当にやるわけないでしょう。そんな大事なことを蛇や鷹や将軍が決めていいと思っているのですか」
ビシビシ鞭で叩いてくるように女英雄が言い、ギリスは座から尻を浮かせた中腰でそれを聞いた。
「英雄が決めるのよ、エル・ギリス」
眉間に皺を寄せた厳しい顔で、エレンディラはギリスに言った。
やむを得ずギリスはまた円座に腰を落とした。
ギリスは蛇を出す気でいたが、エレンディラは一体何だったんだろうか。
「先導役はあなたがやりなさい。理由は二つです。今この状況では、長老会の長として、わたくしは殿下のご帰還を喜んでお迎えする意思は示せません。皆の心情があります。それがまず第一の理由です。第二の理由は、これはあなたが殿下の射手であることを皆に示す良い機会です。抜かりなく務めなさい」
エレンディラはすらすらとギリスに教えた。
「行きは炎の蛇、帰りは氷の蛇よ。リューズ様も文句はないでしょう」
「でも族長は、あんたがやれと命令したんだろう。叛いていいのか」
ギリスは尋ねた。女英雄は涼しい顔をしていた。
「叛いてなどいないわ。わたくしは魔法戦士である以上、族長の姉です。リューズ様がお間違えになったら、お諌めするのが役目なのです」
「族長はお間違えになってんのか」
「今はね。長老会が殿下のなさりようを公に認めるのはまだ早いわ」
ふぅ、と細く煙を吐いて、エレンディラは言った。
「まだね」
微笑んで念押しするエレンディラに、ギリスは顔を顰めた。
「どういう意味」
「あなたっていちいち説明されないと分からないのね。大丈夫なの、それで? イェズラムみたいになれそう?」
エレンディラがさらりとキツいことを言うので、ギリスは鉄塊に押しつぶされた気分になった。
「教えてください……」
史学の師父も言っていたように、ギリスは叩頭してエレンディラに頼んでみた。
それを女英雄は苦笑して見ていた。
「私たちは皆、死ぬわ。いずれ皆が美しい伝説に変わる。死せる英雄は便利なものよ、永遠に死んでいて、玉座にも何も文句を言わない」
エレンディラは煙管の吸口を噛みながら、静かにその話をした。
「あと十年待ちなさい、うるさい連中はきっともう死んでるわ」
吸い終えた灰を煙草盆に打ち落として、エレンディラは捌けた様子であっさりと言った。
「イェズラムもそうでしょ。あの人はもう英雄譚の中にしかいない。いずれ私もそうよね。戦いの英雄譚を残し活躍した竜の涙は、すぐに過去の存在になるわ」
エレンディラは微笑み、煙管の先でギリスとサリスファーを交互に指した。
「けど、あなたたちはまだ生きてるんじゃない? どの星がいいか、あなたたちが決めたらいいのよ」
頷いて、エレンディラは納得しているように言ったが、ため息をついていた。
女英雄にも何かの心残りがあるのだろうか。
「ところで、それは何を持ってるの、エル・ギリス」
ギリスの横にあった包みを煙管で指してきて、エレンディラは好奇心の強そうな目で聞いた。
本当はずっと気になっていたらしい。
ギリスは包みを解いて、額装の絵をエレンディラのほうに向けて渡した。
「おやまあ」
あまり驚いていない口調で言って、エレンディラは絵の中の養父を見ていた。
「似てるわね」
びっくりしたと目を丸くした顔で、エレンディラはギリスに同意を求めてきた。
その通りだったので、ギリスはエレンディラに頷いて見せた。
「これ。殿下がお描きになったのよね。スィグル・レイラス殿下が」
エレンディラがそれも言い当てたので、ギリスは驚いた。
なんで何もかも知ってるんだろう。この女は。
そう言う顔で見るギリスにくすくす笑って、女英雄は少し待つように指先をあげてギリスを座に留まらせ、客間と思われた派閥の部屋の壁にあった、錦の布の壁飾りの方へ行った。
美しい布地が飾られているのだと思っていたが、それは絵の覆いだったらしい。
エル・エレンディラが錦の覆いを取ると、その下から墨色の線だけで描かれた簡素な絵が現れた。
その絵にも一度折り畳まれた折り目がついており、それを丁寧に広げて額装したものだった。
あいにく美しい刺繍は四隅になかったが、ギリスがよく知る人物が描かれていた。
エル・イェズラムだ。
円座を枕に昼寝をしている。
服装も平服で、特に華麗でもなく、勇姿でもなかった。
いつも派閥の部屋や自分の居室で寝ている時の養父だった。
背景にかすかに描かれた壁画の意匠から、そこが髑髏馬閥の部屋だと分かる。絵の中にも骨の馬が走り回っていたからだ。
「似てるでしょう。これも。あの人が子供時代の殿下から頂戴したそうよ。元服なさるより前のことです」
「これ、派閥の部屋だよね。王族の殿下が、どうやって入ったの」
見ないで描いたとは思えないほど養父に似ていた。
「どうやって入ったんだと思う?」
エレンディラは謎かけのように聞いた。見当がつかず、ギリスは首を振った。
「簡単なのよ。控えの小間から奥に侍女が通る通路が続いているでしょう。そこを通れば部屋に入れるの。でも、なんでバレないのかしらね。変わった殿下なのよ」
「髑髏馬に忍び込んだの?」
「どこへでも忍び込む子なのよ」
ギリスは新星にそんな性癖があるとは知らなかった。
そういえば鷹匠の昇降機のことも知っていたし、今も案外、この部屋に王族の殿下がいるのかもしれなかった。
「あの殿下をお守りするのは大変そうね。部屋でおとなしくはなさっていないから、警護するには張り付くしかないわ」
席に戻ってきて、エレンディラはギリスが座の中央に差し出したまま置かれていた、新しい絵を伏目に眺めた。
「いい顔してるじゃない?」
「イェズが男前だってこと?」
「違うわよ、表情のこと。あの人、こんな顔するの?」
エレンディラは見たことがないのか、不思議そうに絵の中のイェズラムを見ていた。
「するよ。イェズラムは褒める時、いつもこういう顔するじゃん」
「あいにく、あの男はわたくしのことは褒めないの。ずっと憎まれ口ばかりよ」
「嫌いなの、イェズラムのこと」
ギリスはそうなのかと心配して聞いた。イェズラムが嫌いだという者に会ったことがないが、この世に一人ぐらいはいるのかもしれない。
だが女英雄は面白そうにギリスを見て、そして絵の中のイェズラムを見た。
「そう思う?」
エレンディラは絵を受け取って、自分の膝に乗せ、しげしげと眺めている。
「いい絵ね。この人も死んでさえいなければ、もっといい男なんだけど。わたくしは死せる英雄は大嫌いです。イェズラムも生きていた時のほうがずっと良かったわ」
「俺もそう思うよ」
ギリスは女英雄に同意した。
養父は優れた男だが、唯一の欠点が、もう死んでいることだ。
「この絵はわたくしがもらうわ。ありがたく自分の個人房に飾ります。あなたは欲しかったら新星の殿下にまた描いていただきなさい」
エレンディラはそそくさと絵を自分の座の背後に引っ込めた。
いい絵だったのに惜しいことをしたと後悔しながら、ギリスはそれをエレンディラにやることにした。
誰でも褒める男だったイェズラムに褒められたことがないなんて、気の毒な女英雄だ。せめて絵ぐらいあってもいいだろう。
「イェズラムは今どこにいると思う?」
ギリスはエレンディラなら知っているのではないかと思い、試しに聞いてみた。
「どこ、って? 墓所にいるでしょう」
「そうじゃなくて、楽園に逝ったと思うか。まさか地獄に堕ちてないよな」
ギリスは心配して聞いたのだが、エレンディラはまた仰け反って笑っていた。
「楽園にいるに決まってるでしょう」
それを僅かも疑っていない様子でエレンディラが言うので、ギリスは首をかしげた。
「そうかな」
そうだといいがと思うが、ギリスは不安だった。養父は天使に叛いたのだから。
生涯、戦い続け、部族に多くの英雄譚を遺した。
でもそれは、神殿の天使が求めるものとは違ったのではないのか。
「ギリス。あの人が楽園に逝けないのなら、誰も逝けないわ。あなたも、わたくしも、きっと無理でしょう。でも、イェズラムがいつも望んでいたのは、死後に楽園に逝くことではなく、生きてこの世に楽園を築くことよ」
「生きてこの世に? その楽園てどこにあるんだ」
ギリスは不思議で、エレンディラに聞くしかなかった。
「たぶんここよ。麗しのタンジール。あなたがイェズラムのその仕事を引き継ぎなさい」
エレンディラが話し終わると、戸口から目配せしていた女派閥の妹たちが、女長に食事の膳を持ってきた。
それには丸めて作った団子のようなものが、ころころと五つ乗っていた。
ギリスはそれに見覚えがあった。砂牛の乳のチーズと、炒った豆の粉と、蜂蜜などを混ぜて団子にしたものだ。
本来は乾かしてあってカチカチだが、蒸すか湯に通すかして温めて食う時もある。
味は決して美味くはなく、甘さと塩気が同時にあって、なんとも言えない。
王宮の美味に慣らされていると、噛んで飲み込むのも辛いような食い物だ。
ギリスにはそうだった。
しかしエレンディラはそれを嬉しそうに食っていた。
ギリスとサリスファーにも同じものが振る舞われ、弟はよほど腹が減っていたのか、黙ってそれを食っていた。
「美味しい?」
とにかく、作法の許す範囲でがつがつ食っている弟に、エレンディラは嬉しそうに聞いている。
「美味いわけないよ。これ兵糧だろ」
「あら。不味い? 皆そう言うのよ。わたくしは好きなのだけど。わたくしの亡き姉上が考案なさったのよ。火を使わなくても食べられるし、行軍中にももってこいでしょう」
「食えないよ。乾いてる時のこれ、水なしで食ったら死ぬような食いもんだ」
「おかしいわね。すごく栄養があるのに」
エレンディラはもぐもぐと団子を噛み締め、神妙な顔をしている。
「なんでこんなもん食べてるの。何かの誓いを立ててる日なのか?」
「わたくしの夕食はいつもこれよ」
「晩餐まで我慢できないの?」
びっくりしてギリスは聞いた。こんな細っそりした女が、夕食に兵糧を食って、さらに玉座の間のご馳走を食っているとは、信じがたい。
「晩餐はなるべくいただきません。ご馳走に慣れると戦場が辛いでしょう」
微笑んで言うエレンディラの話に、ギリスはぐっと来た。
確かに戦場は辛かった。美味い飯など一度も出なくて。
それでも文句を言うまいとヤンファールではギリスは耐えたが、戦は好きではなかった。
王宮で美味い飯をたらふく食らっていたい。
しかし英雄たるもの、耐えるのみだと思って、ヤンファールでは毎日を耐えた。
耐えている時点で自分は弱かったのだ。エル・エレンディラは不味い飯をものともせず笑顔で食っている。
「ずっとこうなの?」
「ずっとこうです。姉上の教えだったので。姉上は寝る時にお布団も着なかったの。わたくしは寒くて無理でしたけど、そのせいで行軍中は寒くて辛かったわ。姉上の教えに叛いた罰ね」
懐かしげにエレンディラは言って、何もない空中に死せる英雄たちを見ている目をした。
おそらくギリスは一目も見たことがない、英雄譚の中にしかいない誰かだ。
エレンディラの妹たちが、蒸された兵糧の団子にも難儀する客人を憐れんでか、新しい茶を運んできてくれた。
エレンディラはそれをゆっくり飲むようギリスに勧めた。
その茶はあまりにも熱いのでと、女英雄は言って、ギリスは横で飲むサリスファーの作法を見様見真似でちびちび飲んだが、来訪の歓迎に出されたお茶とは別の味がした。
甘く、そして微かに渋くもあり、最後に清涼な香草の爽やかな匂いがした。
兵糧の団子でぱさぱさになった口の中が癒されるような味だ。
ギリスはこのお茶を気に入った。
サリスファーも気に入ったのか、なぜか泣きながら飲んでいる。
泣くほど美味いだろうかとギリスは気味悪く弟を横目に見た。
こいつも英雄である以上、まだ若年でも少々おかしいのかもしれなかった。
それを憐れむ目で見るギリスに、熱い涙目の弟は怒った顔をした。
「新星昇るです!!」
弟が急に低く抑えた声で怒鳴るように言ったので、ギリスはぽかんとした。
「ぼけっとしないでください。このお茶の銘ですよ! 兄者は殿下の射手なのですよね。エル・エレンディラにお祝いのお礼を申し上げてください」
「どういう意味?」
ギリスが弟に聞くと、エレンディラは快活に声を上げて笑った。
「いいのよ、賢い弟さん。エル・ギリスにはそんなの期待してなかったから。詩人に詠ませる時には、これもきっと良い歌になっているわ」
エレンディラはこの出来事が後日、宮廷詩人によって詩に詠まれるだろうと言った。
この場に詩人は誰もいないのにと不思議に思ったが、偶然にも詩作をする弟がギリスの側にいた。
歴史はそうやって記録されるものだとエレンディラは言った。
誰かが語り伝え、詩人が詩に詠むものだ。
去り際、エレンディラは今日振舞ったお茶をスィグル・レイラス殿下に献上せよと言ってギリスに持たせてくれた。
エレンディラが今宵の晩餐の席で、族長にも献茶するという。
昨夜の今宵でそれとは話が早い。電光石火の女英雄の、なかなかの急襲と言えた。
もちろん族長が、その茶の銘を知っていればだが。
「殿下にエレンディラがよろしくと申していたと伝えてちょうだい。絵のお礼を申し上げて」
ギリスに言伝を念押しして、エレンディラは自分ではスィグルに会うつもりがないようだった。
「感謝の印に、殿下に念動術師をひとり貸してもらえないか?」
ギリスは部屋を辞す前に、ふと思い出してそれを頼んだ。
だが、どうしてもあの黄水晶の娘の名前が思い出せない。
いくら考えても思い出せなかった。
「エル・フューメンティーナです、兄者」
ずっと黙っていたサリスファーが、やっぱりなという暗い顔で伝えてきた。
「多分それだ! お前よく一回聞いただけで憶えられるよな」
心底感心して、ギリスは弟を褒めた。
「ほんとね。あなたには必要な弟だわ。世の中うまくできてる」
エレンディラも感心したようで、しきりに頷いていた。
「念動術師は手配しましょう。エル・サリスファー、あなたもギリスを手伝ってあげてね。玉座もきっと、あなたの尽力に深く感謝なさいます。新星の御世の、黎明の英雄の一人におなりなさい」
そう言ってエレンディラがサリスの肩をぽんぽんと叩くと、弟は電撃に痺れたようになった。
顔を紅潮させ、心なしか足がよろめいている。
エレンディラの雷撃の攻撃範囲に入ってしまったみたいだ。
部屋《サロン》を辞すなり、サリスファーは緊張の糸が切れたのか、まためそめそ泣いていた。
「お優しい女長ですよね! お優しい方だ……美人だし……僕のこと名前で呼んでくださいました。聞きましたよね? 黎明の英雄って……お優しい方だ……」
エレンディラの優しげな美しい容姿にだまされぬよう言っていたのは、確かこの弟のはずだったが。
まあいいかとギリスは笑った。
女英雄のくれたお茶の爽やかな甘い味は、その後、長くいつまでもギリスの口中に残った。
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042 忠誠
「サリスファー、よくやった」
女どもの屯する区画を抜けて帰る途中、ギリスは荷物を持ってついてくる弟を褒めた。
エレンディラが寄越した新星への献上品だ。
新星昇る。そういう銘らしいが、サリスファーがいなかったら、ギリスにとってはおそらく、何だか分からないただの美味い茶だったものだ。
同じ茶の贈り物でも、それとこれとは大きな違いだった。
「それ、なんで新星昇るっていうの?」
ギリスはそれを新星にくれてやる前に聞いておきたくて尋ねた。
サリスファーは絹に包まれた茶入れを抱えて歩きながら、きょとんとして見えたが、ギリスが知らなくても、もう怒って驚きはしていないようだった。
諦めたのだろう。物分かりの良い弟だった。
「当代の族長が即位された折に調合されたお茶です。とても有名なものですけど、普通は玉座にまつわるお祝いの席でしか飲まれないものです」
「普通じゃない席って?」
「ですから聞茶です。茶会で闘茶をする時に、銘柄の組み合わせに出てくることがあります。僕もそこで偶然知ったんですから」
「運があるな、お前」
ギリスは弟を褒めたつもりだった。
英雄に必要なのは運だ。養父もそう言っていた。
そして運とは、どう足掻いて努力をしても、無い者には無いものなのだと。
天使からの授かり物だ。
そういう意味で言ったのだが、弟は分からないのか、困った顔で苦笑していた。
「そうですね。たまたま知らなかったら、兄者のお役に立つことはなかったです。僕は聞茶は習い始めたばかりで、正直なところ、お茶もまだ主だった銘柄しか知りません。エル・エレンディラが僕の知らないような珍しいお茶を振る舞ってくださっていたら、きっとわかりませんでした」
「知ってたんだから、それでいいよ。十分だ、サリスファー」
ギリスが微笑んで褒めると、弟はやっと理解したのか、照れたように茶入れを揉んで微笑んでいた。
「兄者もやっと僕の名を憶えてくださったんですね」
「明日には忘れるけどな」
ギリスがしれっと言うと、サリスファーはそれに衝撃を受けていた。
「えっ、今日だけなんですか!?」
「今日だけだ。もしお前が毎日新しい功労で俺を驚かせてくれたら、毎日お前の名前を憶えてると思うよ」
「ひどいな……」
笑いながら、サリスファーはよほど可笑しいのか、軽く身を揉んでいた。
ギリスはその笑う弟を、淡い笑みで見つめた。こいつを今後どうしようかと思って。
「サリス、俺はこの後、銀狐閥のアイアランと約束がある。たぶん、その足で、晩餐に向かう新星の居室に迎えに参上するから、派閥や個人房には戻らない。だから、できればお前に用を頼みたい」
「できればって何ですか。何なりとお命じください」
怪訝な顔で、学房帰りの平服のままの弟がギリスを見上げていた。
「僕は兄者の弟なんですから、用事を任されるのは名誉です」
黙っているギリスに何か感じるのか、慌てたふうに言い添えるサリスファーは勘の良い子だった。
しかし、まだ学房通いの餓鬼では、できる用も限られている。
ギリスは頭の中で考えをまとめる間、じっと黙ってサリスファーを見ていたが、考えてもしょうがないことだった。
頼める相手が今はこの弟しかいないのだから。
「新星の新しい居室を用意する。晩餐が終わるまでに。殿下は未だに子供部屋にお住まいだ。それでは成年の王族としての威厳を示せない」
ギリスが用件を話すと、サリスファーは真面目な顔で頷いて聞いた。
「お前は今から派閥の部屋に走って、ジェレフを探せ。兄たちは、たぶんあのまま飲んでるはずだ。ジェレフが酔い潰れてなきゃいいが」
「エル・ジェレフは酒豪なので大丈夫と思います。いくらでも飲むと僕の兄が……エル・ユーレランが話しておいででした」
気まずそうに言い直す弟ににやりとして、ギリスはサリスファーの肩を叩いた。
「それだけど。英明な兄のところに戻りたければ、戻っていい。派閥の部屋に戻って、エル・ユーレランに叩頭して頼め。詩も詠まない馬鹿には懲り懲りしたから、戻らせてくれって、お前が泣いて頼めばきっと拒まない。お前は頭もいいし、礼儀もちゃんとしてる。側に置いて困ることはない弟だったはずだ。戻ると言えば、ユーレランは二つ返事で引き取るよ」
おそらくそうなるだろうと思えることを、ギリスはサリスファーに教えた。
それでも納得いかないのか、サリスは淡く顰めた顔で、返事もなくギリスを見ている。
本当にまだ餓鬼みたいな面だった。
これがあと何年かして、戦場で守護生物に追い回されれば、英雄の面構えになるのかもしれなかった。敵を憎む戦士の顔に。
でも、この弟たちには、そんな機会は永遠にないのかもしれない。ずっとこの幼い表情のままで生き、そのまま死ぬのかもしれないのだ。一生ずっと、一度も天使に叛かぬまま。
「行け。派閥の部屋で、ジェレフに頼むんだ。スィグル・レイラス殿下の居室を今夜中にだぞ。酔っ払ってたら頭から水をかけてやれ。お前の氷結術でギンギンに冷やしたやつを」
ギリスがそう言うと、冷水を浴びせられた泥酔の兄たちを想像したのか、サリスファーは堪えきれない抑えた笑みになった。
「嫌です。そんなことして、叱られるのは僕なんだから」
サリスファーは抜け目なく言い、ギリスに持っていたエレンディラの茶入れを掲げて見せた。
「熱い茶を浴びせてやりますよ。新星昇る。これを長老会の女長から頂戴したって、皆に大声で話してから、用意したレイラス殿下の新しい居室にお届けしておきます」
サリスが幼い顔で微笑んで、意地悪く言うので、ギリスは驚いて嘆息した。
こいつ怖いな。
おそらくこれが怖いという感情なのだろうと、ギリスは見当をつけた。
ヤンファールで銀色の守護生物の群れを視界に捉えた時、ギリスは同じ気持ちがした。
あれが楽園への門だ。自分は死ぬのだと思って、身が震え、えもいわれぬ高揚感に包まれた。
それは死だ。皆が恐ろしいと言っている。
それが自分にも怖くない訳はないと、ギリスは思ったのだ。
茶入れを見せて微笑むサリスファーの顔を見て、なぜか同じ気持ちがした。
「かまいませんか、兄者」
「好きにしろ」
ギリスは頷いて許した。サリスファーが己の意思でやることに、何の文句がつけられるだろうか。
しかしその意味を弟が知っているか、ギリスは気になり、もう走っていこうとしているサリスファーの背を引き留めた。
「おい待て、サリス。お前、今言ったこと、本当にやったらその後どうなるか、分かってるんだよな?」
ギリスが尋ねると、茶入れを持った弟はまたきょとんとした。
「どうなるんですか?」
不思議そうに聞いてくるサリスファーに、ギリスは痛恨の表情になった。
おそらくこれが痛いという感情だろう。自分の様子が、いきなり足を踏まれた時の兄たちと似ている。
「どうって……お前、その茶入れを持って派閥に行ったら、お前は女英雄エレンディラの一味だし、新星の一味で……」
「僕はギリスの兄者の弟です。子供部屋の頃に一度、命を救っていただきました。御恩に報います。もう死んだ者と思って好きにお使いください」
サリスファーは真面目腐ってギリスにそう言った。
それが少々、詩を詠む者の芝居がかった台詞に思え、ギリスは参った。
うまい答えを思いつかない。詩伝を極めた養父とはまだ、雲泥の差なのだから。
困るまま自分の首を揉み、ギリスは困って首を振った。
「やめてくれ。そういうの。無理しなくていい。無理だったら言わなくていいんだからな? とにかくジェレフに新しい居室の件だけ、なんとかして頼んでくれ。あいつが腑抜けてなけりゃ、スィグルのために寝床ぐらいは作ってくれるはずだ」
「はい。承知しました。その後、どうしたらいいですか」
その後?
ギリスは弟に問われて、さらに困った顔になった。
自分がどうしたらいいかにも日々、苦慮しているというのに、弟がどうするかまで考えてやらないといけないのか?
頭の中が何かで溢れそうになる。
「どうって……その後はもう晩餐だろ。時間的に……」
そう言ってから、ギリスはハッとした。今、何時なのだ。
アイアランは、エル・エレンディラの後でよいと言っていたが、それが何時とは言わなかった。
どこで待っているのかも分からない。どうやって会うのか。
それを考えると、こうしてはいられない気がした。銀狐の連中を探すところからなのだった。
「サリス。お前もちろん礼装は持ってるんだよな?」
「持っていますよ。エル・ユーレランが仕立ててくださいましたので」
「諸々終わったら、礼装して玉座の間に来い。お前にその意思があるなら、お前を新星に目通りさせる」
「その意思って?」
無表情に、サリスファーは問い返してきた。
やけに鈍いなと思い、ギリスは首を傾げた。
「その意思ってなんですか。はっきり言ってください、そういうことは」
真顔のまま、サリスファーは小突くような口調でギリスに求めた。言葉にしろと。
ギリスはため息をついて顔を顰めた。何で急に面倒臭いやつになったんだよ、サリスファー。
「お前に新星スィグル・レイラス殿下にお仕えする意思があるなら来い。殿下に紹介する」
「帰還式の行列に兄者の筆頭の弟として、お側に置いていただけるなら」
ギリスがまだ考えてもいなかったことを、サリスファーは口にした。
それが新星に仕える条件ということなのか。
抜け目がないなと、ギリスは吹き出して苦笑した。
「筆頭もなにも、弟なんかお前しかいないんだよ。そのお前がそうかも、俺は今聞いてるんだぞ」
「兄者は射手なんでしょう。それが本当なら、いずれはエル・イェズラムのように、この王宮の全ての英雄に君臨なさるかもしれません。その時に僕のことをお忘れだと困ります。毎日お側に仕えて、名前を憶えてもらいます」
「サリスファー」
憶えてるだろと示す意味で、ギリスは相手の名を呼んでやった。それにサリスはにやりとした。
「その程度では信用できないですよ、ギリスの兄者は。僕の命を救ったこともお忘れだったわけですから。僕は忘れたことないですけどね?」
「馬鹿で悪かったよ」
「本当にそうですね」
サリスは笑って答え、もう行くようだった。
「では晩餐のお席で。時機を見て、殿下にご挨拶にうかがいます」
そう言い残して、サリスファーは足速に去っていった。
走ってはならぬと躾けられる王宮の廊下を行くにしては、最大限の早足だった。
あいつも時がないことを承知しているのだろう。
ここでのんびり歩くようでは、使い物にならなかっただろうが、確かに聡明な良い弟だった。
ギリスは胸がもやもやした。
たまたまギリスと廊下で久しぶりに会った程度のことで、サリスファーは新星の星図の中の星のひとつとして、今まさに組み込まれようとしている。
それがすぐ堕ちるような儚い星か、それとも永遠に輝く燦然とした英雄の星になるのか、今はまだ全く予想もつかないが、とにかくそこにあることは、もう間違いがない。
あいつは来る気だ。今夜の晩餐に正装して現れ、新星に忠義を約束して叩頭するだろう。
それがもし、今朝の王宮の廊下でギリスに出会わず、声をかけていなければ、どうなっていたのか。
それを思うと、あまりにも不思議だった。
自分も子供の頃、ついてくるかと声をかけてくれたイェズラムに頷いていなければ、おそらくもう生きてはいなかった。
大人たちはギリスを殺す相談をしていた。
どこか抜けており、反抗的で制御がとれないが、使う魔法は強すぎる。
育てても幼少のうちに石が育ちきって死ぬかもしれぬし、手を掛ける甲斐があるのかどうか。
そういう話をギリスの値踏みをする係の誰かが長老会の者たちにして、ギリスを直に預かったことがある者たちは、こいつは手に負えぬ、殺したほうがよいと魔法戦士の重鎮たち話した。
過ぎた魔法は身を滅ぼす。従わねば部族の災いにもなりかねないと、皆、暗い顔で相談していたが、イェズラムがギリスを預かると言った。その意思がギリスにあるならば。
お前はどうしたいと、イェズラムはギリスに聞いてきた。
忠誠か死だ。
お前がもし今、氷結術で抵抗しても、お前の装填は遅い。勝てないぞと、イェズラムはギリスに指先に灯した魔法の火を見せて言った。
死だ。それがギリスが見た、初めての自分の死だった。
お前に忠誠心がなければ、今ここでお前の身を焼く。痛みはない。一瞬のことだ。
俺は守護生物だって一瞬でこんがり焼けるのだ。
どうする、エル・ギリス。英雄になりたいか。それとも英雄の火で死んで、今すぐ楽園に行くか。
養父は笑顔で幼いギリスを脅し、選ばせた。英雄としての一生のほうを。
そうする以外にギリスには生きる道がなかった。
やんわりと何も言わず、顔を顰めるだけの大人たちより、イェズラムの話は分かりやすかった。
どんなに優しく言われたところで、状況は変わらない。忠誠か死。それが英雄たちの一生だ。
自分はそういう星のもとに生まれついたのだ。嫌だろうが、嬉しかろうが、天使の決めたことだ。
ギリスはイェズラムについていくことにした。叛いたことは一度もない。
それが養父が自分を焼く魔法を知っているからではなかったと思いたい。
たまたまだ。
イェズラムはギリスにいつも優しく、居所と寝床を与えてくれた。時々はお菓子も。
そして養父は様々な役立つことをギリスに教え、最後には身をもって示した。忠誠と死を。
その意味をいまだに飲み込めないが、今も噛み続けている。
長い咀嚼を続ける日々の中で、ギリスにも何となく飲み込めてきたものがある。
忠誠とは愛だ。理屈ではない。
ギリスがイェズラムに逆らわなかったのは、その必要がなかったからだ。
養父はいつも優しく、ギリスが理解するまで待った。
そういうエル・イェズラムを、自分はおそらく深く尊敬していた。他の気短で高圧的な大人たちとは違う者として。
皆が心ならずも死ぬこの王宮で、死ぬか生きるかさえ、ギリスに自由に選ばせてくれたではないか。
そういうイェズラムのことが、ギリスは単純に好きだった。
好きだったのだ。
ギリスは新星のことも、好きだった。
なぜかは分からないが、人好きのする弟で、納得のいかないことは多いのに、側にいると楽しかった。
あの一夜、自分が殴ったギリスの頬の打撲を治癒術で直しながら、新星レイラスは暇だと思うのか、どうでもいいような話をずっと喋っていた。
夜空に見えていた星の名前とか、伝説に名だたる竜たちのこととか。
全ての民を故郷へ導くという母なる星は、海辺の民の言葉では竜の目というのだとか。
砂漠の砂って何個あるんだと思う?
新星がそう言うので、ギリスは困惑した。
喋りながら下手な治癒術をふるうせいで、新星が施術に集中せず、一向に治らないことにも動揺したが、砂漠の砂を数える奴がいるというのにも動揺した。
そんなもの、一生かけても数え終わるはずがないではないかと思う。
しかし新星は概算できると言っていた。
まず決まった小さな箱に詰めた砂の数を数える。しかるのちに砂漠地帯全土の測量をして、透視術師に砂の深度をはからせ、全ての砂漠の砂の容積を割り出せば、砂粒の数も凡そわかるというのだ。
でもそんなものは正確ではない。厳密には、個数は数えてみなければわからないではないか。
ギリスがそう言うと、新星レイラスは輝く黄金の目でにやにやして、得意げにギリスに命じた。
それじゃあ、僕の計算が間違っているかどうか、お前が砂漠の砂粒を全部数えて確かめてみてくれ。
もし間違っていると判ったら、僕は潔くお前に叩頭して降参するよ、と。
それが何百年先のことか、分からないけどねと言って笑う新星レイラスのいけ好かない顔が、ギリスはなぜか好きだった。
それが忠誠かといえば、今はまだわからない。
あれが本物の星か、確かめられるのはまだ先のことだろう。
しかし今日一日を仕えるのも嫌だということはない。今日の忠誠は今日、もう尽くした。今も尽くしている。
それなら自分は今日は、新星レイラスの英雄だろう。
それも毎日問えばいい。お前は今日も新しい星かと、第十六王子スィグル・レイラスに。
それが自分の一生の役目ではないかと、ギリスには思えた。
そうでなくとも、どうせ、忠誠か死だ。死ぬよりはマシだ、あの我儘で凶暴な殿下に仕えるほうが。
生きている英雄になるほうが、死んでいるより、ずっといい。
「アイアラン……」
ぼんやり考えに沈み込んでいた自分に気づき、ギリスはハッとして、その名を呟いた。
銀狐たちを探さねばならない。
彼らの派閥がどこに部屋を持っているのか、ギリスは知らなかった。
それも賢い弟に聞いておくべきだったのに、サリスファーはもう用事に走らせた後だ。
抜かったなと、ギリスはため息をついたが、行く宛がないわけではない。
ジェレフは、アイアランは施療院の預かりだと言っていた。さっきも気を失っていたのだから、施療院に行ったかもしれない。
とにかく施療院の者たちが、何かは知っているだろう。
ギリスは足速に王宮の廊下を去った。
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043 栄光あれ
ギリスが足を向けると、施療院に向かう通路は軽い騒ぎになっていた。
慌てた口調で喋る怒ったような連中が、玉座の間のあるほうから駆けてきて、その後を追うように輿を担った王宮の侍従や英雄たちが駆け込んできていた。
急病の者か怪我人でも出たのか。
それが施療院に駆け込んで行くのを横目に見て、ギリスは広間の壁を飾るための薄絹らしき赤い布を被せられた、輿に倒れている誰か見送った。
魔法戦士だ。おそらく。
その帯に、ギリスも見覚えのある毛皮の房飾りが下がっており、まるで長い尻尾のある者のように見えた。
銀狐だ。
それに気づいて、ギリスはハッとし、慌てて走る足取りで輿の後を追いかけた。
施療院の入り口にはいくつもの輿が先を争うように到着していた。
そのどれもに、毛皮の尻尾を下げた者たちが横たわっている。
見るからに、輿 にあるどの身体も力なく、ぐったりとしていた。
中には一つ、まだ激しく震えているものがあり、施療院の者たちがその中ほどの輿を先に通せと怒鳴っている。
「エル・ジェレフを呼べ」
ギリスも見覚えのある術医が施療院の真っ白な扉のところで怒鳴っていた。
顔を顰め、ギリスはそれを眺めた。
あいにくジェレフは派閥で酔っている。それでも兄は施療院の勤めではないはずで、今は役目としては族長の侍医のままのはずだ。
族長がジェレフを地方への巡察に出す間も、当代の奇跡と名高い治癒者であるジェレフは、その大任から解かれていない。
「必要ない。もう死んでる」
輿を運んできた者たちが、疲れた様子で捨て鉢に叫び返す。
彼らが施療院に押し込んできた輿のひとつひとつを、ギリスはそれに被せられていた赤い薄絹をはがして中身を確かめた。
あのアイアランという少年がいるのかどうか。
遺体はどれも正装しており、絢爛な宮廷衣装を身に纏った等身大の人形のように思えた。
それがどれも蒼白な顔で、悶絶の跡を死顔に残しているのでなければ、本当に皆、美しい英雄の人形のようだ。
「診察する!」
術医が通路の奥から怒鳴り返してきた。
ギリスは連なる輿の下を潜り、床を這うようにして施療院の扉まで行った。
そして押し問答している術医の袖を引き、その注意を自分に向けさせようとした。
「なんだ!?」
血相を変えた顔で、術医は恐慌してギリスに向き直った。
「アイアランは?」
「知るか、夜の庭にいるだろう。何の用だ」
血走った目で、術医がギリスを睨んで答えた。
死屍累々の戦場でも、当代の奇跡と詠われる兄の目はいつも澄んでいたが、この術医は違うらしい。
「ジェレフは忙しい。あいつを宛にするな。お前らだけでやれ」
ギリスが教えると、術医は唖然としていた。呆然としたのかもしれなかった。
だが見たところ、ギリスの見立てでも銀狐たちは死んでいた。自決したのだ。
皆、まだ晩餐の時でもないのに正装だし、赤い薄絹をめくって見た時、まだ手に薬入れを持っている者もいた。
英雄がその小箱を開く時が、命の終わりだ。死ぬときを自分で決めてよいことになっている。
皆、それぞれ自分が死ぬ時に使う毒を持ち歩いており、いざとなれば服毒する。そういう慣わしだ。
義務ではないが、皆、その小箱を持っていると安心するのだそうだ。
もしも石が暴れて、いくら紫煙蝶を吸ってもまだ、死にたいような痛みが続いたら、最後はその小箱を頼ってもいい。速やかな死が、全ての痛みを止めてくれるだろう。
皆はそう言っている。
ギリスにはまだ、その死の小箱は持ち合わせがない。
そんなものは必要ないという気がして、まだ用意していないだけだ。
いずれはそんな日も。
眠るように死んでいる誰かが、輿の上でまだ虚ろな目を開いているのを、ギリスは通りすがりにまぶたに触れて閉じてやった。
楽園に逝けるのか。この兄弟たちは。
この中にアイアランはいない。
一体なにが銀狐たちに起きているのか。
それをアイアランに聞かねばならない気がして、ギリスは夜の庭を探すことにした。
さっきの術医が教えてくれたその場所が、どこにあるのかギリスには分からなかったが、この王宮のどこかにあるのならば、必ず誰かが知っている。
殺到してきた輿をまた抜けて、ギリスは死者の行列の末尾にいた、尻尾のある連中に聞くことにした。
もちろんまだ生きている銀狐たちだ。
死せる兄弟たちを施療院に送ってきたが、輿を運ぶ任にはあぶれた者たちだろう。
これから彼らの兄弟たちは、死を確かめてから、頭の中にある竜の涙を取り出す手術を受けるはずだ。
それが終わるのを待ち、墓所への埋葬と葬儀を執り行うため、身近な者たちは服喪する。
「旅立つ兄たちに栄光あれ」
ギリスはお決まりの葬式の挨拶をした。銀狐の誰かに。
背の高い男が、どことなく呆然として立ち尽くしていたのだ。
そいつは灰色がかった紫の目で、じっとギリスを見た。
「兄ではない。弟だった。まだ十五だったのに」
驚いたように、銀狐の英雄は言った。
「早い旅立ちだ」
「あぁ……お前ぐらいだった。今朝まで一緒に乗馬を……」
まだ馬に揺られているように、その兄の体は揺らいで見えた。
「アイアランに会いたい。夜の庭にいるのか。それはどこだ?」
ギリスが強い声で聞くと、どこか朦朧としたようなその男は、ギリスの腕を急に掴んできた。
宮廷では普通、親しくもない他人の体には、みだりに触れたりはしない。
なぜ腕を掴まれたのか、ギリスは鳥肌立って、その男の顔を見上げた。
唖然と向き合うまま、男はギリスの袖口に手を入れて、肌に触れてきた。
その瞬間、何かが見えた気がした。頭の中で。
幻視術か、それとも念話の一種なのか。
ギリスの脳裏に王宮の廊下を走るような高速の絵が流れ、やがて、いくつかの辻を曲がった先にある、幻覚の大扉の前に着いた。
その扉が開くと、中に噴水と池があり、暗い室内の高い天井には輝く翼の鳥たちが飛び交っているのが見えた。
夜光鳥 だ。
それが飛び交う下の四阿に、絹と毛皮を敷いた寝床のようなものがあり、誰かが寝ていた。
長く乱れた黒髪を結いもしていない、痩せて小柄な誰か。
寝床の四方に置かれた香炉から、もうもうと白い煙があがる中、それがゆっくりと起き上がり、幻覚の中でギリスを見た。
青い目だった。虹色の虹彩をまとった、やけに大きな蛇眼だ。
アイアラン……。
囁くような幻覚の声が、ギリスの頭の中に響き、その声が自分の耳を破りそうで、ギリスは驚いて男の手を振り払った。
「エル・ギリス。アイアランが待っていると伝えてきた」
まだ幻の中で目を合わせたアイアランが眼前にいるような気がして、ギリスは頭を振った。
「普通に言葉で教えてくれない?」
「言葉は虚しい。弟も今朝までは、大丈夫だと言っていた」
答える男の顔は悲しそうだった。涙を流している。
ギリスは気の毒になり、その見も知らぬ兄を励ましたくて言った。
「きっと今ごろはもう楽園にいる」
「英雄譚もないのにか……」
男は絶望したように言って、ギリスに背を向けた。
まるでもう用事が済んだように、よろよろと歩み去っていく。
今あの幻視術師が見せたものを信じてよいのか。
ギリスは悩んだが、他にアイアランの居所に心当たりがないのも事実だ。
行ってみたって構わないだろう。幻の導くとおりならば、その夜の庭はそう遠い場所でもなかった。
いくつかの辻を曲がり、少しの階段を降りて、地下都市タンジールの王宮の中に位置する、人工的な空洞の庭に行く。
そこは工人たちの作品で、もとは岩盤だったものを掘って作られた空間だ。
タンジールには地下遺跡として、もともと太祖と射手の時代から存在していた空間もあるが、それ以外の多くの部分は必要に応じて工人たちが掘ったものだ。
ギリスが住む英雄のための個人房もそういった人工的な場所で、おそらく夜の庭もそうだ。
幻の中で見た限りでは、縦に長い円筒形の空間で、鳥を飼うための庭に思えた。
大きな鳥籠のような形をしている。
そこに夜光植物や菌類が植えられ、泉が作られ、そこにも光る魚がいた。
おそらく暗闇を楽しむための庭園なのだろう。
人工的な光で照らされているタンジールでは、朝も夜もない。
都市部は夜には光が落とされ、朝にはまた照らされる仕組みだが、王宮だけは常に眠らない明るい区画だった。
そのせいで、光に疲れた者が、のんびりと闇を楽しむための部屋があるのだ。
アイアランはそこで寝ているらしい。なぜそんなところに居るのか。
聞けばわかるだろうと、ギリスは人気の絶えた通路を歩き、その途中にあった幻視したのと同じ大扉を見つけた。
黄金の飾り板が扉の上に掲げられて、夜の庭と記されている。
そのような庭園が王宮のそこかしこにあり、ギリスにはまだ経験はないが、恋人との逢引に使う者もいるらしい。庭園には鍵がかけられるせいだ。
しかし夜の庭の鍵は開いていた。誰かが中から鍵を開けたのか、初めから開いていたかだ。
ギリスは重たい扉を開いた。
中からは、小さく囀る鳥の声と、胸を突くような濃厚な煙と花の匂いがした。
「エル・ギリス。よく分かったね、ここが」
ギリスが庭に足を踏み入れると、待ち構えていたように声が聞こえた。闇の中から。
高い丸天井に残響がして、声はあちこちから聞こえるような気がした。
声の主はアイアランだろうと思えたが、ギリスは自分の目が夜の庭の光量に慣れるまで、扉のそばに立って待った。
「エル・エレンディラにお茶をもらえたかい」
アイアランは訳知り顔の微笑が目にうかぶような、高揚した声でギリスに尋ねてきた。
それをギリスは薄灯にうかぶ中央の四阿の寝床の上に探したが、アイアランはそんな所にはいなかった。
すぐ横にいたのだ。扉の脇の木立の中に。
鬱蒼と茂る羊歯のような樹が植えられていた。
わずかな光量でも育つ、タンジールの闇の植物たちだ。
この都市の外には存在しない、稀少な種だが、あいにくタンジールでは珍しくはなかった。
硬くごつごつした樹皮のある闇羊歯の木に寄り掛かり、アイアランはこちらを見ていた。
見ているのだと思っていたが、ギリスの目が闇に慣れるにつれ、アイアランには何も見えていないのが分かった。
目隠ししている。
薄暗がりで目隠しとは、一体どういう意味かとギリスは呆れたが、アイアランは目が見えないのではなかったのか。
「何か喋ってよ。いるんだろ?」
面白そうに、アイアランはギリスに呼びかけてきた。
黙っていてもしょうがないのだろう。ギリスもアイアランに用があって来たのだから、ずっと無視しているのも変だ。
諦めて、ギリスは扉を閉めたその場で話した。
「お前の派閥の葬式を見てきた」
「まだ葬式じゃないよ。ついさっき死んだばかりだろ。玉座の間で死ぬって言ってたよ、皆。そうすればきっと、玉座にもこの無念がわかるだろうって」
この庭園にいても、アイアランは銀狐に起きたことを知っているようだった。
さっきも幻視術を使う銀狐がいたし、誰かがアイアランに外の出来事を伝えているのかもしれない。
妙な奴だが、魔法戦士とは皆、妙なものだ。気にしてもしょうがなかった。
銀狐に何が起きているのか、もう聞かなくても済んだ。
それ以上、詳しく聞いたところでギリスにはどうしようもないことだった。
英雄たちが皆、この停戦に絶望していることは分かった。
それが皆に死の小箱を開かせるほどとは、正直思っていなかったが。
「俺に何の用だ」
ギリスはアイアランに尋ねた。わざわざ呼びつけるには用件があるはずだった。
それにアイアランがくすくすと忍び笑う声がした。
「君はせっかちだよね。まだ初対面なんだよ。まずはお互いもうちょっと知り合おう」
「何のために」
ギリスは自分のつっけんどんな口調が、さっきどこかで道を聞いた花簪の娘とよく似ている気がした。
あいつも、急に現れたギリスを警戒していたのだろう。
いきなり出会った魔法戦士に、やあやあこんにちはと愛想良く語りかける気はしないものだなと、ギリスは納得した。
しかし、お互い用があって会いに来たのだろう。アイアランの用件はまだ聞いてはいないが、最初から牙を剥きあっていてもしょうがない。
「髑髏馬閥のエル・ギリスだ」
「知ってるよ。氷の蛇だ。僕は銀狐閥のアイアラン。未来視だよ」
それもギリスはもう知っていた。
さっき聞いた。最初に出会った時に。
そう思ってギリスが暗闇の中でため息をつくと、何か可笑しかったのか、アイアランは目隠ししたままでくすくすと笑った。
「僕が何歳かわかる? 当ててみて。それとも知ってる?」
ギリスは知らなかった。なぜそんなことを聞かれるのかも分からない。
「十二? 十三?」
見たところアイアランが元服しているのかも怪しかった。
しかし派閥に属しているのだから、子供ということはないだろう。
それでも、背格好はサリスファーやスィグル・レイラスと同じぐらいに見えるものの、アイアランの肌色は元服前の餓鬼のようだった。
生っ白く透けるような顔色で、手も足も虚弱そうだ。
自分の足で立っているのが嘘のような、折れそうな骨張った細い足だった。
それでも立っている。
最初、輿に乗って現れた時には、こいつは歩けないのだと思えたが、そういう訳ではないらしい。
「僕、君と同い年だよ。エル・ギリス。もうすぐ十七歳になる。もしかしたら僕のほうが兄かな?」
そう言われて、ギリスは顔を顰めた。
英雄たちの誕生日とは命名日のことだ。出生日は記録されないので分からない。
それで多少先に命名日が来るからといって、自分のほうが兄だと言われても心外だった。
「叩頭してよ、エル・ギリス」
揶揄うような声で、アイアランが求めてきた。
「嫌だよ。どう見てもお前はチビだ。どうせ嘘ついてる」
ギリスはアイアランの求めには応じなかった。もしかして本当に何日かは年上なのかもしれないが、見た目にアイアランは幼かった。もし本当に同い年なら、相当に発育が悪い奴だ。
それが石のせいなのか、何なのか、ギリスには分かりかねたが、アイアランが健康ではないのは間違いがなかった。ただ立っているだけでも、呼吸が苦しげだ。
「悪いんだけど、横になって話してもいいかな。立っているのが苦手でね」
「好きにしてくれ」
また気絶されても困ると思い、ギリスはアイアランに許した。
のろのろと庭園の羊歯の積もる床を歩き、アイアランはまるでもう老人のような足取りだった。
そう遠くもない庭園の真ん中にある四阿に行くのにも、のんびりと時間がかかる。
よく見れば杖も突いている。蛇が巻き付いた装飾のある白木の杖を、アイアランは左手に持っていた。
その難儀そうに歩く姿を見ると、ギリスはアイアランが気の毒になった。
同じ竜の涙といっても、病状はさまざまで、ギリスのように平気で駆け回り、乗馬や体術を習う者もいれば、アイアランのように生きるのがやっとという風情の者もいる。
天使は常に不公平だ。死の天使が誰もに平等に訪れると皆は言うが、死の天使は依枯贔屓をする。特に愛している者を、早めに連れ去ろうとする天使だ。
そういう意味では、アイアランは死の天使に愛されているように思えた。
いつまで生きていられるか分からない。
「君もこっちに来てくれない? 大声で話したくないから」
四阿の寝床に億劫げに横たわり、アイアランは焦れたような声で呼びかけてきた。
まさかこの王宮の庭に、特に危険もないだろう。
アイアランが派閥の助っ人を羊歯の森に潜ませていて、ギリスを袋叩きにするとも思えなかった。
闇の溜まった庭のそこかしこにいるのは鳥だけで、そのほかに動く者はいない。
「君に相談がある。断らないで欲しい」
毛皮の寝床のそばに行くと、そこに寝そべったアイアランは目隠しをしたままでもギリスを見ている様子で、前置きなく話し始めた。
ギリスはそれを居所がなく、四阿の柱をつなぐ低い石造の段に腰掛けて聞いた。
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044 予言
「未来視したんだ。殿下がまだ王都にお戻りになる前のことだ。タンジールにお戻りになる行列と、それが玉座の間に入っていき、族長閣下が出迎えるのが視えた」
「それが未来視だとなぜ分かる」
ギリスは疑わしく思って聞いた。
スィグル・レイラス殿下の帰還式の話が出たのは昨夜だが、それを今になって予言されてもお粗末だった。
全てが起きるより前に教えてくれていれば、ギリスも予言を信じられたかもしれないが、確かに髑髏馬閥の兄たちが言っていたように、これでは予言とは言えない。
予言が成就した後になら、誰にでも言えることだった。
でもアイアランは疑われて、困った顔をしているようだった。
「なぜって……そりゃあ、わかるよ……。君は氷結術師だろ? 魔法を使う時、なぜそれが魔法だってわかるの?」
「わかるだろ。冷えるし……氷が出てくるんだから」
「僕もそうだよ。未来が視えるんだ。普通は見えないよね? 君には視えるの?」
ギリスにとって、自分が普通だと言われるのは珍しいことだった。
でも、もしアイアランが本当に未来を視ているのなら、それは普通のことではない。
「いいんだ、別に信じなくても。僕は君に信じてくれと頼んでるんじゃない」
「何が言いたいんだ」
「レイラス殿下の帰還式の行列に加えて欲しい。僕と、それから銀狐閥の英雄たちも」
ギリスは即答できなかった。
しかしそれは、ずいぶん良い提案に思えた。
これから帰還式の行列に加わる英雄たちを百人も募らねばならないのだ。
アイアランと銀狐たちを足して、一体何人になるのかは分からないが、今のままだとギリスとサリスファーの二人きりになる。
それと比べれば、このひょろひょろのアイアランでも居ないよりはマシだろう。
三人のほうが、二人よりは多いのだし、百人に近づく。
それでもギリスは困って、相手に自分が見えないのを良いことに、がっくりと項垂れた。
「どういう提案なんだ、それは。なぜ殿下の行列に加わりたいんだ」
「殿下が次の族長閣下だからだ。必ず黎明の英雄譚に名が挙がる」
その未来を視てきたかのように、アイアランは確信めいて説明してきた。
ギリスはそれに、なぜか驚きを覚えて、四阿の石段から落ちそうになった。
「次の族長だって?」
「そうだよ。君が殿下の射手だろ?」
そう言って目隠しのアイアランは、何か環状のものを両手で支え、誰かの頭に載せるような仕草をして見せた。
戴冠式だろう。アイアランはそれを未来視したというのか。
「視たのか?」
ギリスは自分が食いつくように尋ねるのを聞いた。
未来視など信じないと言いながら、それは今、最も欲しい予言だったからだ。
ギリスが聞くと、アイアランは首をかしげたようだった。
「エル・ギリス。知らないかもしれないから、いいことを教えよう。当代の竜の涙で、天使から未来視の魔法を授かったのは、僕一人だけなんだよ」
アイアランが目隠しをした顔でにやにや笑っている。
それが何を意味するのか、ギリスには咄嗟に分からなかった。
「僕の話が嘘か本当か、実際、誰にも分からないんだよ。君が疑っている通り、僕は何とでも言えるんだ。でも君には正直に言うよ」
その話が嘘か本当かもわからないのに、アイアランはもっともらしくギリスに語った。
「僕はレイラス殿下の戴冠式を未来視したわけじゃない。次の族長の御世の、英雄譚を詠唱する詩人が視えただけなんだ。いつ頃のことか良く分からない。とにかく、今じゃない。玉座の間の色が違うんだ。白と青の広間だ。そこで宮廷詩人が詠唱している、族長の黎明の英雄譚に、タンジールに帰還する行列にいた英雄の名がいくつも出てきた。君の名もあったよ、氷の蛇、ヤンファールの英雄、無痛のエル・ギリス」
アイアランは寝床に半身を起こしたまま、ギリスに恭しく頭礼してみせた。
「サリスファーは?」
ギリスが聞くと、アイアランは寝床に側臥したまま、知らないというように肩をすくめた。
「誰、それ? 全部は憶えてないんだ。だって百人もいるんだろ? 何もかも視るわけじゃないし、見たからって全部は憶えていられないんだよ」
「お前も人の名前を忘れちゃうほうなのか」
ギリスは同情して聞いた。アイアランは笑っていた。
「そうでもないけど、だって知らない名前を百人分てさ、憶えられる? 僕は子供のころからずっとこういう病状だから、他の子たちと遊んだことがないんだよ。兄だって、自分の派閥の何人かしか知らない」
「そうなのか……大変だったな」
何と言ってよいか分からず、ギリスは曖昧に同情を示した。それにもアイアランは笑っていた。
「でも僕、千里眼も使えるんだ。知ってる? 千里眼の魔法は、部族の黎明の英雄譚にも出てくるだろう? エル・ディノトリスも使えたんだ」
その最初の英雄の名を、アイアランはまるで自分の兄のように、誇らしげに言った。
「僕は同じなんだ、黎明の英雄と。全く同じだよね。未来視と千里眼が使えて……病弱だ」
それは残念なのか、アイアランは残念そうに最後のところを言った。
「でも視えるんだよ。今起きている遠くのことも。未来だけじゃなくてね。魔法の目で、どこでも見に行ける」
「すごいな」
千里眼はそう珍しい魔法ではなかった。王宮には他にも使える者がいる。
未来視は存在が怪しまれるほど珍しいが、千里眼はありふれている。
そのため、太祖の兄も通常は千里眼のエル・ディノトリスと呼ばれている。
太祖の兄が視たのが、隷属の森を脱出してタンジール遺跡に到達した自分たちの未来視であったのか、それとも、遠くにある遺跡そのものを視た千里眼であったのか、そこは部族でも意見の分かれるところで、ギリスは深く考えたことがない。
そんなことは今となってはもうどうでもいいし、そもそも確かめようがないのだ。
「王宮の外も視えるよ。タンジールの街中や、農耕層や……砂漠も見えるよ! それに比べたら王宮はつまらないよね……外に比べたら。そう思わない?」
「俺はあんまり外には行かないから」
ギリスは困って答えた。アイアランがいかにも楽しげに言うもののことは、ギリスにはあまり興味のないものだった。
アイアランはギリスの気の無い返事に、がっかりしたようだった。
「どうして? 君も殿下と出かければいいよ。スィグル・レイラス殿下は、ずっとはこの王宮にいないよ」
アイアランがさも当然そうに言うので、ギリスはまさか今、スィグルが王宮にいないのかと思い焦った。
その様子が分かるのか、アイアランは悪戯が成功した子供のように、けらけら笑っている。
「違うよ。未来の話だよ、エル・ギリス。レイラス殿下はそのうちタンジールを出て行くよ」
「嘘だ。勝手なこと言うな。王族が……新星が玉座の間を出て行ったりしない」
ギリスは驚いて教えた。王族はよほどの戦でもないなら、王宮からあまり出ないものだ。
タンジールの街中にさえ、暗殺を恐れて出ていかない。
王宮の中でなら、それこそ千里眼の魔道士たちが魔法の目で見張っている。
しかし都市部では、何かの事故に見せかけて殺されたとしても、誰も視ていないかもしれない。
そんな場所で、まんまと兄弟たちから消されては一大事だろう。
そういった蛮勇も、実際の歴史にはそうそう無いものだったが、その恐れがあれば王族の足を王宮内に引き留めるには十分だった。
アンフィバロウの血族が王宮を出ることはないのだ。それが常識だ。
ギリスもそう思っていた。昨夜までは。
しかし、スィグル・レイラスなら、やりかねない。
昨夜の昇降機がもしも街まで続いていたら、きっと平気ですっ飛んでいったのだろう。面白いよね、などと言って。
ギリスはそれを思って、険しい顔になった。
アイアランはそれにも、くすくすと訳知り顔で笑った。
「いいや? 殿下は出て行くよ。そもそも殿下は長く王都からお留守だっただろう? トルレッキオにいたよね。その時だって殿下が新星だったはずだろう? 運命ってものがあって、それが生まれつき決まってるとしたら、君たち髑髏馬がヤンファールで殿下を救出した時にも、殿下はもう新星だったんだ。そうだろう?」
アイアランはだんだんと真剣味のある声になり、それをギリスに教えた。
ヤンファールで命を賭けた突撃を自分や派閥の兄たちが試みた時、第十六王子スィグル・レイラスは地下の穴蔵を這い回る飢えた虜囚だったが、それでも、未来の族長だった。
そういうことになる。もし本当にあれが次代の星なのであれば、そういうことだ。
「今はまだ、あの殿下の値打ちを知ってる者は少ないよ。君と、僕と……他に誰が?」
アイアランは自分の胸とギリスがいるほうを交互に指差してきて、うっとりと微笑みながら、そう言った。
「今のうちに二人で分けよう。あの金の麦を」
スィグルの名は部族の言葉で、金の麦という意味だった。
「麦が実ってからなら、誰にでもその値打ちがわかるだろうけど、蒔くべき時に価値をわかっている者だけが、実りを収穫できるんだ。馬鹿は蒔かずに飢えるものだよ。エル・ギリス。君は賢い男だろ?」
そう聞くアイアランは賢いのだろうか。
ギリスには計りかねた。ただの狂人にも見えた。狂っていないようにも。
それを言うなら自分のほうがおかしいのだろう。
未来が視えるわけでもないのに、あいつが新星だと、馬鹿みたいに思い込んでいる。
「僕を殿下に会わせてほしい。できれば僕が生きてるうちに、さっさと忠誠を誓いたい。できれば殿下に気に入られたい。黎明の英雄として、殿下が僕を長く憶えていてくださるように」
「せいぜい頑張ってくれ」
知ったことかと思い、ギリスは投げやりに返事をした。
「じゃあ、かまわないよね?」
アイアランは弾む声で尋ねてくる。ギリスはアイアランの目隠しした顔を見た。
「何がだよ」
「僕が殿下の本当の射手でも、かまわないだろ」
あっさりと言うアイアランに、ギリスは耳を疑った。
何を言っているんだ、こいつは。射手は長老会が選ぶもので、もうギリスが任命されている。
かつて生きていた大英雄イェズラムが命じ、つい先ほども、エル・エレンディラがギリスを射手として遇した。殿下を支えるようにと、あの女英雄もギリスを励ましたのだ。
それがなぜ、こんな殿下と一面識もないひょろひょろのやつに交代されなきゃいけないんだ。
射手は殿下の側仕えの護衛も兼ねている。自分の足で立って走ることもできず、攻撃も迎撃もできないような奴を、魔法戦士と呼べるのか。これが殿下を守れるか?
急につらつらとそう思い、ギリスは気分が悪かった。
王族が射手を選ぶ訳ではない。アイアランがいくら殿下に取り入ったところで、スィグルの我儘で射手になる魔法戦士が変わるわけじゃない。
そんなはずはないのだ。
「馬鹿。お前なんかに務まらない」
ギリスは悪態をついた。それにもアイアランは笑っていた。
「そうかな? エル・ディノトリスは太祖アンフィバロウを守って戦ったりしてないよ。逃避行の最中だってずっと半死半生で、砂牛に乗って運ばれてるじゃないか。英雄譚ではそうだろ?」
「だからタンジールに着くなり黎明のディノトリスはくたばってる」
ギリスが教えると、アイアランは何かが余程おかしかったのか、甲高い笑い声をギリスに聞かせた。
「そうだよ。何もせず未来視だけして、すぐ死んでもいいんだったら僕にもできそう」
ギリスは呆れてアイアランを睨んだ。
何を言ってるんだ、こいつは。何を。俺が射手だ。
つい先刻までは心のどこかで逡巡があったのかもしれなかった。
なぜ自分のように至らない者を、養父が射手に選んだのかと困惑していたが、でもたった今、ギリスの腹は決まった。
こいつより俺のほうが射手にふさわしい。
そうでなければ、養父の命じたことも、エレンディラに託された思いも果たせない。
俺はもう射手なのだ。何でこんなやつに。
ギリスは訳がわからず、四阿の石段から立った。
胸がむかつく。もう帰ろうと思った。
こんな目隠ししたひょろひょろの馬鹿と関わりあって、時を無駄にしていられない。
新星の居室の用意があるし、それに晩餐も近い。
その前にスィグル・レイラスと会って、エレンディラからの伝言を伝えなくては。
あのお茶も、スィグルに教えたら喜ぶかもしれない。
そうだといいと思った。
こんな奴と話している暇など、最初から自分には無かったのだ。
「殿下によろしく。今夜、晩餐の席でご挨拶するね。よろしく伝えて」
「歩いたら死ぬような奴が玉座の間に来れるのか」
「行けるよ。歩かなければ大丈夫。僕は英雄なんだ。君にも、誰にも、玉座の間の晩餐に加わる僕の権利を奪えない。素直に協力したほうが賢いよ、エル・ギリス」
目隠しの布越しにも、やはりギリスが見えているのか、アイアランは立ち上がったギリスを見上げている。
「僕たち、同じ主君に使える仲間だろ? 僕の未来視ではそう出てる。仲良くしよう」
「断る」
ギリスが即答で断ると、アイアランはまた笑った。
「僕の未来視を信じないなら、この目隠しを取ってもいいかな? そうすると僕には君の死が視えるかもしれない」
脅す口調でアイアランは自分の目隠しに人差し指だけをかけて、それをずらす仕草をした。
嫌な気分だ。
「好きにしろ。お前を信じない」
脅しに乗らないつもりでギリスは答えたが、アイアランはにやりとして、本当に目隠しを外した。
長い絹の布の輪が、首元に落とされ、それを巻いて寝床にいるアイアランは、まるでこれから首を吊られる罪人のように見えた。
色の落ちた薄暗がりの中で、アイアランはじっとギリスを見上げている。
その目が、ひどく大きく見え、痩せて落ち窪んだ顔の中でやけに目立った。
美しい顔立ちだった。髪はぼさぼさで、痩せ衰えているが、アイアランは可愛げのある顔立ちだ。
もっと食って、普通に生きられれば、こんな暗闇の中で伏せっていなくてもいいのではと思えた。
額にある石もとても小さい。それが乱れた髪に隠れてしまうと、アイアランは魔法戦士ではない、ただの病弱な少年に見えた。
「君、ものすごく長く生きるよ。僕と比べたら、呆れるぐらい」
「そりゃどうも」
ギリスは信じないなりに、ほっとして答えた。
「ほんとに天使って不公平だよ。君には大魔法と長命が。僕にはこれっぽっちの命しかなくて、誇れる魔法も未来視ぐらいしかない」
アイアランは悔しげに言い、ギリスから目をそらして唇を噛んでいた。
「それでも僕も英雄になるんだ。君とは違う意味で、殿下が永遠に忘れない英雄になる。詩人たちもちゃんとそれを英雄譚に詠むよ。君は僕に協力する。もう知ってるんだ。仲良くしようよ、エル・ギリス。どうせなら楽しくやろう、もう長くは生きない一生なんだから」
「アイアラン」
残念そうに肩を落として言われると、ギリスは気が咎めた。
それでつい同情的な声を出したが、扱いにくい相手だった。
アイアランがもう長くは生きないことは、間違いがない。ジェレフも長くは保たないと言っていたし、サリスファーの友の透視術師も、こいつの頭の中が石でいっぱいだと言っていた。
それを聞かなくても、アイアランの弱りようは、これまで多くの仲間や小さい弟たちの死を見てきたギリスには、良い予感がするはずのない、死の天使の訪れの兆候だった。
「エル・ギリス。この先で言う暇がないと困るから、今もう言うけど、僕は君には感謝してる。どんな結果になっても、君が僕に示してくれた同情には、本当にありがたいと思っているんだ。それを忘れないでくれ」
長年の友のように、アイアランはギリスの目を見て言った。
その中にも星雲が渦巻いて見え、ギリスは恐ろしくなった。
恐れというのが自分の中にもあるのなら、きっとこれがそうなのだろう。
昨夜、新星の目の中にもあったのと同じ、見れば身の慄くような何かが、アイアランの暗い目の奥にもあって、ギリスはしばしそれを見つめた。
まるで夜空の暗い星雲のように、アイアランの目の中には暗い魔法が凝って見える。
「殿下に伝える。お前が会いたがっていることだけは」
「それでいいよ。ありがとう、ギリス」
馴れ馴れしく呼び捨てで、アイアランはギリスを呼んだ。
同い年で、こちらも呼び捨てなのだから、別にいいのだろう。
その親しげな声が不可解で、気味が悪く、それでも何もおかしくない気がして、ギリスは身震いした。
未来視などと関わるものではない。ジェレフの言うとおりだ。
自分も兄の言いつけに叛いたから、罰があたったのだろう。
戻ってジェレフに謝ろう。そして尋ねなくてはならない。
銀狐のアイアランとは何者かと。
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045 星を拾う
しかしジェレフは居なかった。
ギリスは夜の庭から派閥の部屋までかけ戻り、礼装の長衣の裾を乱したが、そこにはもうエル・ジェレフの姿はなく、宴会で酔い潰れた兄たちが幾人か伸びているだけだった。
弟どもの姿もない。サリスファーもだった。
主だった者たちは誰もおらず、それもそのはずで、晩餐の身支度をするべき時刻なのだった。
皆まさか、あの泥酔のまま玉座の間に侍るつもりだったのか。
大人とは恐ろしいものだとギリスは思った。
飲みすぎて前後不覚になると、ギリスは何も覚えていなかった。
そんな状態で玉座の間に行くのが栄光ある髑髏馬閥の伝統なのか。
呆れたが、それに関わり合っている暇はギリスには無かった。
サリスファーを探している暇もない。
スィグル・レイラスの居室の準備ができるのか、確かめる術はなかったが、もう時間がない。
王族たちの区画は遠い。そこへは正装で走っていくわけにもいかず、もう向かわねばならない。
ギリスは迷ったが、諦めて王族の居室があるほうへ向かった。
英雄たちの区画には、もう正装の着付けが終わった者たちが、揺れる髪飾りをつけて通路に屯していた。
玉座の間に入る順序は序列で決まっている。
序列の低いものが先に到着して待ち、兄のために席をとる。
序列の高いものは、後からゆっくり来る仕来たりだ。
王族の殿下がやってくる前に官吏や将軍や博士たちが侍り、魔法戦士も居並んで王族を迎える必要がある。そして最後に族長が現れれば、晩餐が始まる。
族長リューズは気さくな質で、即位後に大幅に儀礼を簡略化している。
晩餐の初めには序列があるが、途中で抜け出したり、途中でやって来るのは咎められなくなった。
昔は臣は全員居並んで、三跪九拝して族長とその一族を出迎えた。あらゆる儀式が、いちいちそうだったらしい。
今でも出陣式や、重要な法令の発布のような場合にはその習慣が残っているが、日常の儀礼は一度叩頭するだけで良いことになった。
当初はそれに太祖以来の宮廷の儀礼に反するとして、強く反対した者もいたと養父は話していたが、時が惜しいと族長リューズが押し切ったらしい。
さっさと食い、さっさと話し合うべきことが当時は今以上に多かったのだろう。
タンジールが陥落しようかという時に、何度も立ったり座ったりして頭を下げている場合ではなかった。
一礼に敬意をこめられぬ者に、三度跪かれても無意味だと、族長リューズは言ったとか。
それを聞くとギリスには納得しか湧かなかったが、癪なので同意せぬことにしていた。
養父や他の者が語る名君リューズは、あまりにも出来過ぎなのだ。
たとえ太祖アンフィバロウの末裔とはいえ、そんなに出来る男がいるわけがないとギリスは思っていた。
きっと何か裏があるに違いない。
第十六王子スィグル・レイラスにしても、確かに容貌は美しく、博士が言うには賢いのだろうが、魔法はまだまだだし、背もちびっこい。王族でなければ、ちょっと出来のいい弟に過ぎない。
魔法戦士の弟たちと、何かが大きく違うはずはないのだ。
崇め奉ってはならぬ。
ギリスはそう腹を据えて、深呼吸して、スィグル・レイラスの居室の前に立った。
もちろん相変わらず紅の衛兵がいた。ジェレフが手配したのだから、いつの間にかいなくなったりはすまい。
「今日は殿下に何もお変わりはなかったか」
俺は射手だぞという態度で、ギリスは胸を張って衛兵に尋ねた。
四人いる紅の徽章の者たちは、儀仗礼はとったものの、体格に恵まれた長身から、冷ややかにギリスを見下ろしていた。
「何も」
「誰か来たか」
「詩人が参りました。殿下の御所望で」
「詩人……?」
「宮廷詩人です。ご心配には及びません。一曲奏で、すぐ去りました」
無表情に伝えて、兵の一人が室内に続く伝声管に、エル・ギリスの来訪を知らせた。
侍女が現れ、朝と同じ青ざめた顔で、怖々のようにギリスを通した。
新星は、ギリスがやってきたら通せと命じていたようだった。侍女は部屋に聞きに戻らなかった。
扉をくぐり、玄関の控えの間から中の広間に通って、ギリスは居間にいた新星スィグル・レイラスに叩頭した。
もちろん一度だけだ。三跪九拝を受けられるようになるのは、正式には族長として即位した後だけだ。
「エル・ギリス」
新星はもう正装して待っていた。
王族の衣装を着るには時間がかかる。早めに着付けさせたのだろう。
今回は文机ではなく、ちゃんと客を出迎えるための主人の座にスィグル・レイラスがいた。
背後の壁には二人分の弓と矢が飾られ、美しい衝立と花瓶も飾られていた。
名を呼ばれたら近づいてよい作法だ。
ギリスは一度立って、主人の座のそばまで行き、そこにあった客座に座ってもう一度叩頭した。
新星レイラスはなんとも言えない表情で苦笑していた。何を笑っているのか。
「ちょっと見ない間に、えらく窶れたな、エル・ギリス。まるで三日も寝ていないみたいだぞ」
スィグルも千里眼なのか、そんなことを言った。
そういえばその通りだ。このところ、酔っても疲れても、ろくに寝付けず、眠ると嫌な夢を見た。
どんな夢かも憶えてはいないのに、ひどく苦悶する夢で、息苦しさで目覚めるほどだったのだ。
もう死ぬのかもしれないなと内心思っていた。それでもしょうがないと、どこか投げやりな気持ちでいたかもしれなかった。
死ねば楽園に行けるだろう。養父もそこにいるだろうという思いで、ギリスはもうこの世に未練がなかったのだ。
唯一の心残りは新星のことだった。
射手になれというのが養父の最後の命令だったからだ。
それをまだ果たしてはいない。
死んでちゃまずいだろうと、今はそう思えた。
「腹が減ってるだけだ。それに昨夜から一睡もしてない。それは殿下も同じでは?」
ギリスが尋ねると、王族の赤い礼装を着たスィグルは含み笑いした。
殿下の額冠には赤い石が元々下がっていたが、簪にも耳飾りにも多くの血の雫のような紅玉が使われていた。
その零れ落ちそうな宝飾と、金糸と極彩色の刺繍に彩られた目も眩むような衣装を着ていても、スィグル・レイラスの顔立ちは衣装に呑まれない絢爛さだった。
平服の時は感じないが、王族の衣装を着ると、えらく有難い。華やかな殿下だった。
「お前には悪いけど僕は昼寝をしたよ。宮廷詩人を呼んで、お前の英雄譚を聴いたんだ。ヤンファールの勲だ。聴いてるうちに寝ちゃって、久しぶりに嫌な夢を見たよ」
スィグルは笑ってそう言ったが、ギリスは複雑な気分だった。
人の英雄譚を聴いておきながら途中で寝るのかという気持ちと、なぜ新星が悪夢を見るのかが気になって、結局、心配が勝った。
「悪夢って?」
「虜囚の時のことだよ。恐ろしい夢なんだ。もう思い出したくないけど、スフィルも僕も未だに怖い夢を見るよ」
スィグルは空中のどこかを見ている目線で、ギリスにそう教えた。
夢を見ず眠れる薬がいるのではないかと、ギリスは案じた。眠れなきゃ辛いだろう。
新星の健康もギリスが預かるところだった。
侍医が必要なら手配し、新星がいつも健康であるよう気遣うのも射手の勤めだ。
養父も族長リューズが飯を食うの食わないので最後まで気を揉んでいた。
そんなの放っときゃ食うだろうと思うのに、族長があまり食わないと、胃に優しいものを出せだの、体が冷えるゆえ氷菓を控えさせろなどと指示していた。
まるで子供でも世話するようだった。
しかし今となると養父の気持ちが分からぬでもない。
族長リューズ・スィノニムが養父の新星だったのだろう。
それがいつまでも強く輝き皆を照らし続けるように、養父は常に心を砕いたのだ。
自分もそうしなくてはならないだろう。自分の体以上に、このひょろっとちびっこい殿下の身が大事なのだ。
「殿下はよく寝て、よく食べた方がいい。そんな弱そうな体じゃ戦えない」
「僕は戦わない」
頑固そうに新星レイラスは言った。
そういえば、そういう話だった。
それでも王宮での戦いもあるだろう。とにかく、新しい星がいつも頑健であることが部族のために必要だった。
それをどうやって伝えればいいのか。ギリスはぼんやりと悩んだ。
それを眺めて、スィグル・レイラスは暗い顔をしていた。
「ギリス。今日の晩餐に行く前に、お前に詫びたい。僕はお前が思うような殿下じゃないだろう。それについては僕の自由だ、謝らない。だけどお前は僕と弟の救出のために、ヤンファールで命をかけたみたいだね」
さらりと言って、新星レイラスはそれが大したことではないような態度に見えた。
ギリスは答えを思いつかなかった。
「賭けてない。お前のためには。俺は魔法戦士で、部族のために戦うのが義務だ。他にできることはない。戦うべきだったから戦ったまでだ。お前の救出はついでだった。ヤンファールの攻略に価値があった。何百年も奪われていた土地を取り戻せたんだから」
スィグルは頷いてギリスの話を聞いていた。
「そうだな。でも今はヤンファール平原の半分は森エルフ領だ。お前が命賭けで取り戻した土地は、今また部族領の外にある。お前も僕に腹が立つだろう。なぜ助けてくれるんだ」
ギリスは思いがけない話に、顔を顰めてスィグルを見つめた。
なぜ?
そんなことは、こっちが聞きたい。
「お前はずっと僕に怒っているだろう。最初に会った時からそうだった。詫びて済むなら何度でも謝るよ。でも僕は変わることはできないんだ。僕の他の兄弟たちとは違う。気に入らないなら、諦めて他へ行け。僕は止めないし恨みもしない。お前が僕の敵になっても、感謝する。ヤンファールで僕と弟を救ってくれてありがとう。お前がくれた命だ。生きてる限り大切にするよ」
スィグルが言う話は、ギリスの頭の中を素通りした。どう思っていいか分からなかったのだ。
何を言っているのかと、何となく呆然とした。
ずっとろくに眠れず飯も食えていないので、疲れて朦朧としたのかもしれなかった。
とにかく手が冷たい。もう半分、死んだような気分だった。
黙っていると、新星レイラスが勝手に話した。
「でもお前の好むような新星とやらには、僕はなれないよ。それでもいいのか、ギリス。後悔していないか、ヤンファールで戦ったことを」
「後悔? してない。お前は何を言い出すんだ。英雄譚を聴いたんだろ? どこまで聴いた? いい話だっただろう」
「お前が守護生物に蹴り上げられて馬ごと吹っ飛んで足が取れるところまで聴いた。ジェレフが助けに来て、そこらへんから聴けてない。でもお前の足は両方ついてるけど、あれは本当の話なのか?」
青ざめた顔で新星レイラスが聞いてきた。ギリスは頷いた。
「本当だ。全部取れたんじゃない。まだちょっとくっ付いてた。でないとジェレフが取れた足を探さないといけないだろう? そんなもんが簡単にすぐ見つかるような状況じゃないんだ。何もかもがぐちゃぐちゃで、誰の足かなんか分からない」
「その足は本当にお前のなのか」
スィグルは暗い顔で聞いてきた。
「えっ……そうだと思うよ?」
ギリスは心配になって答えた。
本当のところ、ジェレフが助けに来たところまでしか記憶はないのだ。気づいたら陣に戻っており、足は両方そろっていて無傷で、生きていた。
ジェレフはもう、再出撃した後だった。双子の殿下を救いに行ったのだ。
ジェレフは命の恩人じゃないか?
ギリスは今さらぼんやりと思った。
いつもそういうことに後から遅れて気づくのだ。自分はもっとジェレフに感謝すべきだったのではないのか。
「ごめん。冗談だよ。悪い冗談だよね。僕の悪い癖だ」
スィグル・レイラスは後ろめたそうにもじもじして言った。
「言いにくいんだけど、僕にとっては今はお前だけが頼りだ。他にあてがない。お前が求めるような新星ではないし、そうなるような努力もできないが、僕なりの頑張りで妥協してくれないか。僕に尽くしてくれ。父上みたいに、お前に新しい英雄譚を与えることは出来ないかもしれないが……僕はお前のヤンファールの勲を無駄にはしない。お前があの時、命賭けで助けた甲斐があったと思えるような……族長に、なりたい」
訥々と語る新星レイラスの長広舌に、ギリスはただ頷いた。
なんと言うべきか、やはり分からない。
養父にはあったらしい、詩作の才は自分には無さそうだった。
うまい台詞は出てこない。
仕方なく、ギリスは自分の心のままに語った。
「良かったよな。助かって。お前も……あの弟も。生きてて良かったよ」
ギリスがそう言うと、スィグル・レイラスは言葉を失ったように、ただ頷いていた。
「よく考えたんだけど、俺も別に戦は好きじゃないかもしれない。兄も死ぬし、弟たちも死ぬ。そうじゃない方がいいんだろうな。お前が何を思ってるのか、俺は知らないけど」
ギリスが話す取り留めもない話を、スィグルは黙って聞いていた。煌めくような黄金の目で、じっとこちらを見つめながら。
「でも、俺たち魔法戦士には、英雄譚がいる。そんなもんいらないって思ってたけど、やっぱりいるみたいだ。皆そう言ってる。俺も……英雄譚があるから楽園に逝けるんだ。そんなものいらないって思ったのは、間違いだった」
ギリスが話ても、スィグルは困った顔で俯いただけで、もう頷かなかった。
頑固そうな弟がその場限りの空約束で騙そうとしないのを、ギリスは好ましく思い、淡く笑った。
「何かは要るよ、スィグル。それをお前の賢い頭で考えてくれ。仕事がいるんだ、俺たちには。戦いがないなら、百年かけて砂漠の砂粒を数えるのでもいいんだ。それを英雄譚に記録してくれ。皆が楽園に逝けるように」
ギリスが思いつくまま言うと、スィグル・レイラスは意味が分からないのか、顔を強張らせてギリスをまた見つめてきた。呆れてるのか、驚いているのかも分からない表情で。
「今日、玉座の間で何人かの魔法戦士が自決した。まだ生きられたような奴もいた。皆、英雄譚がないまま死んで、地獄の門をくぐるんだって思っている。それでも生きてられないぐらい絶望してる。お前のせいだ、スィグル・レイラス。だからお前が何とかしろ。天使に頼め。皆が楽園に逝けるよう、天使に鷹通信で頼んでくれ。皆が可哀想だ。そう思わないか?」
「思うよ」
ギリスが頼み込む気持ちで言うと、新星レイラスは頷いた。
「分かった。何か考えよう。まだ思いつかないけど、お前たちの命を無駄にはしないよ、ギリス」
スィグルは約束するように言って、そして言い淀んだ。
でも結局、ギリスの目を見て、新星レイラスは言った。
「だからお前も自分の命を大事にしてくれ。戦って死んでもいいとは思わないでくれ。なるべく長く生きて、部族と僕に仕えて欲しい。僕にではなくていいけど……」
スィグルは自信がないように、俯いて言い淀んでいた。ギリスはその気弱な様子が可笑しくなった。
まるでアンフィバロウの末裔らしくない。特にあの族長リューズとは、スィグルは全く似ていなかった。
「仕える、お前に。俺はお前の射手だ。運命とかいうのが本当にあるなら、俺がお前のためにヤンファールで死闘したのも、死にぞこなってここに居るのも、何かの運命だろう。お前に仕えるために生き残ったんだって、俺が思えるような男になれ」
「父上みたいに?」
「いや、お前みたいにでいいよ」
ギリスがそう請け合うと、新星レイラスはほっとしたふうに笑っていた。
「なぁんだ。それでいいなら出来そうだよ。ありがとうギリス。とりあえずお前の功労に毎日感謝することにしよう」
「なんで?」
なぜそうなるのか分からず、ギリスは虚を突かれた。
新星レイラスはふふふと含み笑いした。
「だって僕に言ったろ? あと百回ぐらい感謝されたいって」
「言った⁉︎」
ギリスは憶えていなかった。
「言ったよ。昨夜の晩餐の後に。とりあえずそのぐらいは叶えよう。一日一回で百日だろ? 今日はもう言ったよね、さっき」
照れ臭そうにスィグルは言っていた。
冗談のつもりなのかもしれなかった。
笑って良いのか、ギリスは全くわからなかった。
「とりあえずその百日、僕に仕えてくれないか。僕なりの努力でお前に信頼されるような殿下になろう」
スィグルがしたり顔でそう言うので、ギリスは笑った。
何が可笑しいのか自分でも分からなかったが、この殿下といると、何かが訳もなく可笑しかった。
このところ、ずっと鬱々としていた気分が晴れる気がした。
暗い砂漠を彷徨う夜に、急に落ちてきた星を拾ったような気分だった。
そう思い、ギリスはそれが自分にしては詩的な考えではないかと思えた。
拾ったこの星を守って、それを育てて生きても良いのではないか。
自分もいつか、養父のようになるかもしれない。
ならないのかもしれないが、それはそれでも良いのではないか。
新星レイラスはリューズ・スィノニムとは違うし、この射手もエル・イェズラムのようにはならないだろう。
でもこの星は、違うふうに輝いてもいいのではないか。
それを守る任務がある限り、自分も生きていける気がした。
新星スィグル・レイラスの射手として。
「で? 今日はどんな忠義を尽くしてくれたんだ、ギリス? 内容によってはもう一回分、ありがとうって言ってもいい」
憎ったらしい高慢な態度で、新星レイラスが聞いてきた。
なんだと、この野郎。ギリスは笑ってそう思ったが、笑って返事を待っているスィグル・レイラスの顔は、満足げな笑みで、やけに輝いて見えた。
「ゆっくり話してもいいか。とても一口に言えないぐらいだ」
「それはいいね。どうせ晩餐は長いんだから、いくらでも聞こうじゃないか」
頷いてスィグルは許した。
それにギリスが満足した時、居室の呼び鈴が鳴った。
「殿下、晩餐の呼び出しの侍従が参られました。どうぞ玉座の間へ」
まだ青ざめた顔の侍女たちが、新星レイラスを呼びにきた。
スィグルはギリスの顔を見て、驚いたように目を開き、それからにっこりと笑いかけてきた。
「ありがとう、ギリス。玉座の間へ僕を連れて行ってくれ」
「仰せの通りに」
満足して微笑み、ギリスは叩頭した。
それは今までにしたどんな叩頭よりも、ギリスの心に叶うものだった。
栄光の玉座の間へ。
これから続く幾千の夜の、最初の一夜として、ギリスは立ち上がった。この新しい星を導くために。
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046 運命
「予言?」
お仕着せの官服を纏った玉座の間の侍従たちに先導され、ギリスと並んで歩きながら、新星レイラスは眉を顰めて言った。
「未来視の英雄だという奴に会った。そいつがお前の即位を予言してる」
ギリスは聞いたことをそのままスィグルに伝えた。
歩きながら話すようなことでもないが、玉座の間で王族の席についてから言うようなこととは、もっと思えない。
行く道で聞いている者がいるとしたら、行列を率いる侍従たちだけだ。
彼らは無言で歩き、こちらに背しか見せていない。
だが聞こえてはいるだろう。構うものかとギリスは考えていた。
彼らは秘密は守るよう躾けられている。もちろん表向きは。
「ずいぶん調子のいい奴だな。その魔法戦士の名前は?」
「アイアラン」
「エル・アイアラン?」
知らない名だったらしく、スィグルはさらに顔を顰めた。
知るはずがない。ずっと王宮にいたギリスでも知らなかったのだから、つい最近まで異郷の囚われ人だったスィグルが知るわけはないのだ。
「ただのアイアランだ。これから英雄になるらしい。今夜の晩餐に来ると言ってた。あいつの目を見るな」
ギリスは手短に用件を伝えた。
夜の庭でアイアランの目を見た時、何かを奪われた気がした。魂を抜かれるような。
もちろん錯覚で、魂などというものが実際あるのか、ギリスには分からなかったが、とにかく尋常の感覚ではなかった。
その瞬間、アイアランは魔法を使ったのだろう。ギリスの未来を視るために。
それであいつは目隠しをしていたのか。魔法の使用を控えたくて?
晩餐にも目隠しして来てくれればよいが、それも異様な出立だ。
「目を見るとどうなるの」
スィグルは胡散臭そうに横目で見てきた。
「死を予言する」
「お前もされたのか」
「された。長生きするって」
ギリスが教えると、スィグルは可笑しかったのか、あははと声を上げて笑った。
「いいね。いい予言じゃないか? そのアイアランに感謝しろ」
「信じるのか」
ギリスが尋ねると、スィグルは十数歩行く間、悩んだ顔で思案していた。
「そいつが未来視かは分からないけど、この世に未来視の竜の涙は本当にいるよ、ギリス」
「なぜそう思うんだ」
「トルレッキオで会った」
前を見て歩きながら、スィグルは小声でギリスに教えた。
「は?」
ギリスはあまりの話に言葉を失った。
「トルレッキオに? 異郷じゃないか。なんでそんなところに魔法戦士がいるんだ」
「魔法戦士じゃない。でも未来を視る能力を持ってる」
スィグルは大したことではないような口調で言ったが、ギリスは思わず渋面になった。
こいつはそんな大事な話を、他の誰かにしただろうか。たとえば父親である族長リューズ・スィノニムに。
言っていないのではないかという予感がして、新星がなぜもっと族長と話さないのかギリスは悩んだ。
知っていれば族長は手を打ったのではないのか。そんな話は、長老会でも、噂のひとつさえ聞いていない。
ギリスが知らないだけなのかもしれなかった。
「そんな奴が本当にトルレッキオにいるなら殺さないといけない」
ギリスは深く考えもせずに、そう答えた。
魔法戦士は部族の守りだが、もし敵方にもいるのなら脅威だ。
ギリスが知る限り、エルフ四部族で竜の涙の魔法戦士を擁するのは、この部族のみで、異民族は石の制御ができないのだ。
長年の友邦である海エルフ族でも、石を持った子供が産まれたらすぐ殺すという。
養父が、野蛮な奴らだと話していた。養父はかつて湾岸地帯を訪れたことがあるのだ。
ギリスも養父も、もし生まれ間違って、領境の向こうにいる母親の腹に天使が落としていたら、今頃もう生きてはいない。湾岸の野蛮人どもに石打ちにされ殺されている。魔法戦士の仲間たちも、ことごとくそうだ。
それを思うとギリスは身震いがした。
タンジールに生まれ落ちたことを、改めて聖堂の天使に感謝しないといけない。
諸々のことが落ち着いたら、また礼拝堂に行こうと、ギリスは思った。
大抵の日には、夜中にうっかり死んだ時に備え、ギリスはその日の贖罪はその日のうちに済ます習慣だった。
赦しの天使ブラン・アムリネスに祈って罪の赦しを請えば、天使は大抵は赦すはずなのだ。
聖堂の者たちはそう言っている。あらゆる罪を赦す慈悲深い天使が、ブラン・アムリネスで、それに存在を許されて皆が生まれてくる。
だから生まれ落ちた以上、竜の涙も天使に許されて誕生しているはずだ。
それを赤子のうちに石打ちにして殺す連中がいるなど、ギリスには許しがたかった。
「殺さなくていい。お前の敵にはならない」
侍従の背を見て歩きながら、スィグル・レイラスが念押ししてきた。
ギリスは納得がいかず、深いため息をついた。
「そいつは何を予言したんだ」
「いろいろ。楽園の到来を。でも魔法戦士じゃないんだ。予言するために生きているんじゃない。他の役目がある」
「他の役目って?」
そんな壮大な魔力を与えられながら、他の役目などあるわけがない。
アイアランも、あんなに弱っていて病弱でも、他の子供達のように見切りをつけられたりはせず、未来視の魔法のゆえに生かされているぐらいだ。
未来視は、何ものにも優先される魔法のはずだ。だって滅多に生まれないのだから。
そいつが本当にトルレッキオにいるなら、今も自分の部族のために未来を視ているかもしれない。
アイアランも、おそらくそうだろう。そのために生かされている。
「お前に関係ないよ、ギリス。とにかく未来視を使う竜の涙は実在するんだ。そのアイアランも本物かもしれない」
興味深げに新星レイラスは言った。
「もう晩餐の席にいるだろうか? 見つけたら教えてくれ。会って話す」
命じるようにスィグルは言い、もちろんそれは命令だった。王族なのだから、命じる権利がある。
しかしギリスは不承知だった。それで不満顔をしていたのかもしれない。
「なんだよ。言いたいことがあるなら言え」
スィグルも不満そうに口を尖らせて聞き返してきた。
「言いたいことはない」
「嘘だろ。顔を見ればわかる」
なぜバレたのかと、ギリスはため息をついた。
表情を読まれるほど、顔には出していないはずだ。
いつも誰からも無表情だと言われる。自分ではそのつもりはないのに。
しかし新星には慧眼があるようで、誤魔化せないらしい。
「アイアランと会うのは賛成できない。あいつが来るというのを止めることはできないし、英雄たちは王族と会える建前だ。でもお前が拒めば無理には会えない」
「お前には許可したっけ。会いにきていいって僕が許したか」
ギリスの言葉に、スィグルは淡々と反論してきた。
そうだっけとギリスは悩んだ。射手が新星に会うのに許可がいるのだろうか。
毎日会うのに、いちいち目通りの許可がいるとなると面倒この上ない。
「だめなのか?」
動揺してギリスが聞くと、新星は可笑しそうに、けらけらと笑った。
「だめじゃないよ。そのアイアランてやつが、僕の衛兵を蹴倒すんじゃないなら」
「そんなことしないだろ。あいつは体が弱ってる。玉座の間まで歩けるかも怪しい」
ギリスが答えると、スィグルは深刻な顔をした。
「具合が悪いのか。どうして?」
「竜の涙で」
ギリスは肩をすくめた。新星はなぜそんなことを聞くのかと思った。
「お前はこんなに元気そうなのにな」
驚いているのか、残念がっているようにも見える顔つきで、スィグルは呆れたようにギリスを見て言った。
何に呆れられているのか全く分からない。
「天使に感謝してる」
ギリスがそう言うと、スィグルは意味ありげにふふんと笑った。
「天使も喜ぶだろう」
苦笑して答え、スィグルはまた先導の列の行先に目を向けた。
もうすぐ玉座の間だ。別の殿下の列と行き合うことはなかった。
それもそのはずで、出会わないように配慮されている。
もし王宮の通路や辻で列が出会えば、どちらが先行して、どちらが道を譲るか、その場で決めねばならなくなる。
大抵は年長の者を先に行かせる決まりだが、当代の息子たちには生まれた年の順が無いに等しかった。同日に生まれた者さえいる。
誕生したのが朝か昼かで、一生道を譲らねばならないとなると、高貴なる殿下がたも揉めるのだ。
そのような面倒がないよう、列は生まれ順に呼び出される決まりだ。
今宵、スィグル・レイラスより先を歩く王族はいないはずだった。
年下の者が先に玉座の間に到着して年長者を待つしきたりだ。
列が遭遇すると年長者が先に行くのに、そうでなければ年下の者が先に行くのだ。妙な決まりだとギリスは思っていた。
「ギリス、僕は会いたいという者には誰とでも会う。もちろんお前もだ。なんでも話を聞く」
「限度はある」
ギリスは反論した。害意を持つ者とは会えない。
「でも天使がそうしろって」
しれっと言う新星に、ギリスはまた絶句した。
それがものの例えなのか、本当の話なのかも、こいつの場合分からない。
ちょっと話すだけでも疲れる。
新星は派閥の弟のサリスファーと同い年ぐらいのはずだが、明らかに何かが違った。
それが何かはわからないが、これが王族というものだろうか。
「天使が……?」
ギリスは困って聞いた。新星は頷いていた。
「そうだ。広く皆の言葉に耳を傾けるべきだと、猊下が僕にも勧めていた。でも生憎、我が部族には族長が民の声を直に聞く機構はない。そうだろう。戦場以外では」
滔々と新星は話した。そのように聞こえた。
実際には短い話だったと思うが、ギリスは苦労して聞いた。
こいつが何を言っているのか、分からない。
「戦場では族長は民の声を直に聞くか?」
そんなことあっただろうかとギリスは自分の記憶を手繰った。
族長は戦場でも陣の幕屋で厳重に守られており、絨毯の上を歩き、王宮と変わらない豪華な寝台で寝ている。
兵士が粗末な天幕で震え、布一枚を地に敷いて眠る時でも、王族は絹の布団で寝ている。
「聞くだろ、英雄譚にもある。父上が兵士と兵糧を煮た鍋を囲み、故郷の母は壮健であるかとお尋ねになる場面がある」
新星は真面目にそう言っているようだった。
ギリスは何と答えるか、困って目を瞬いた。
陣鍋か。サリスファーも言っていた。よほど有名な歌らしい。
「嘘だ。それは。いつも食っているわけじゃない。ヤンファールでは俺は見てない」
「嘘じゃないだろう。英雄譚は事実をもとに詠まれるものだ。嘘を書くのは冒涜だ」
「お前の父上に聞いてみろ。いつも民の声を聞いているかどうか」
「不敬だぞ、ギリス」
ぴしゃりと鞭で打つような声で、スィグルが叱りつけてきた。
声は平板で、その横顔は怒っているようではなかったが、スィグルの黄金の目は列を先導する侍従たちの煌びやかな宮廷服の背を見ていた。
もう玉座の間の扉が目の前だ。
そこは王族が使う出入り口で、豪華な大扉の上には、絡み合う二匹の蛇の紋様の、巨大な浮き彫りが掲げられている。アンフィバロウ家の永遠の蛇の紋章だ。
一匹の白い蛇はアンフィバロウを、もう一匹の暗く翳った蛇は、英雄ディノトリスを表している。アンフィバロウは星で、ディノトリスはその影だ。その二匹の蛇が、輝く珠で表される玉座を支えている。
族長の額冠にも、それと同じ紋章が意匠として施されている。
この部族の民がもっとも敬意を払うべき紋章が、この永遠の蛇だ。
スィグル・レイラスは作法通り、その絡み合う二匹の蛇に深く一礼をした。
ギリスもそれに倣うしかない。これは風習なのだ。
ギリスは生きたアンフィバロウを見たことはない。ディノトリスもだ。
彼らがどんな王族で、どんな魔法戦士だったのか、本当のところは分からない。
それを無条件の敬意で迎えるのはどうかと思うが、太祖と射手は、この部族の誇りであり、皆をひとつにまとめるための箍なのだ。
永遠の蛇の故に、民は玉座を崇め、その号令に従う。
その星に従うことで、奴隷の身から解放された祖先たちと同じく、今も皆が正しい方向に導かれると信じて、民は皆、アンフィバロウ家の血筋を引く族長に服従している。
皆を正しいほうへ導くからこそのアンフィバロウだ。そうでないなら誰も玉座の星を崇めはすまい。
「民の声を聞くなら民に会うしかない」
ギリスは困って教えた。それでも新星はけろりとしていた。
「だから会うって言ってるだろう。お前や、そのアイアランという奴にも。誰でも僕に会いたい者には会う」
「王宮の中でか。ここに入れるのは博士か官僚か将軍か侍女だけだ」
民はここにはいない。
ギリスはそう説明したつもりだったが、スィグルはまだ平然としている。
「そうだよ。魔法戦士もいるだろ? お前たちはこの部族の民の象徴なんだ。王族の兄弟であり、臣民の代表だ」
スィグルは少し苛立ったように、当たり前のことだという口調で言い返して来た。
ギリスはそれを聞き、少々言葉に詰まった。
「俺、実は、王宮の外にいる者と口をきいたことがない」
ギリスは白状した。
新星と話していて急に気づいたが、そういえばそうだ。
戦場でも兵士と話したことがない。誰もギリスに話しかけてこなかった。
行軍中も魔法戦士の兄たちが厳重にギリスを守っていた。
ヤンファールに到着してそこで死ぬまで、ギリスは決して死ねない身だったせいだ。
部族の命運をその魔法に賭けると養父が皆に命じており、それが玉座の意思とも言われた。
だからギリスはその時、族長リューズの次に守るべき、生きた決戦兵器と見なされていたのだ。
生きていないと役立たない。
誰とも会わず誰とも口をきくなと命じられていた。いつも兄たちから離れるなと。
そうして行って帰ったヤンファールは遠い戦場だったが、思い返せば日頃よく知る者としか話していない。
滅多に口も聞かぬ相手と話したといえば族長ぐらいだ。
玉座の君はヤンファールでは、直にギリスに作戦を伝えた。
今日を限りにお前は死ぬかもしれぬ。本当に良いのかと、あの永遠の蛇の額冠の男は、何度もギリスに確かめた。出陣も自ら号令した。
それに見送られてギリスは突撃したが、そんな者に、そこらの一兵が気軽に話しかけてくる訳がない。
準王族という扱いは本当だった。
絹の布団とはいかないが、英雄たちにも休むための幕屋は与えられた。簡単な寝台もあったし、地に横たわれとは命じられていない。
それでも寒かったとエレンディラも言っていた。それはタンジールの快適な寝室と比べてのことだ。
「俺は臣民を代表してない。知らない奴をどうやって代表する」
「エル・ギリス。滅多なことを言うんじゃない。ここをどこだと思っているんだ」
心なしか青ざめて、スィグル・レイラスが言ってきた。
玉座の間だ。この部族の宇宙の中心と言える場所だ。
「お前たちは民に代わって部族の声を届ける者として、この王宮にいるんだぞ。言葉を慎め」
チビのくせに叱りつける口調で言ってくるスィグルに、ギリスはやむを得ず頭を下げた。
「お許しを」
「悪いと思ってないだろ、お前。ゆっくり話そう。お前が心から詫びるまで僕は何時間でも同じことを言うからな」
牙を剥く黒雷獣のような顔で言い、新星は広間からの呼び出しを待っていた。
それは堪らんなと思い、ギリスは新星に従い苦笑した。
こんなチビに説教されながら、この先の長命を生きるのは堪らん。
そう思うと笑えたが、不快ではなかった。
養父もよく説教する男だったので、その空白が埋められて丁度良い。
今はもうギリスを真面目に叱るものもいない。いつまでも諦めの悪い、深情けのエル・ジェレフぐらいだろう。
「第十六王子スィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下のご来臨。太祖アンフィバロウのお血筋にして偉大なる族長リューズ・スィノニム・アンフィバロウ閣下のご嫡子。高貴なる殿下を者皆、跪拝をもってお迎えせよ」
轟くように響き渡る侍従の美声が玉座の間から聞こえ、厳かにスィグル・レイラスを呼んでいた。
それにスィグルは顎を上げ、いかにも高貴の血筋のものらしく皆を見下ろす目つきになったが、じっと脇で見ているギリスに一瞥をくれて、べえっと嘲るように舌を出した。
驚いてギリスが唖然とすると、スィグルはくつくつと押し殺した笑い声を立てた。
「行こう、ギリス。もっと英雄らしい顔をしろ」
スィグル・レイラスが指輪をした手の拳でギリスの飾り帯を締めた腹を叩いてきた。
つくづく殴ってくる殿下だ。
ギリスは呆れて、華麗な絹の靴で広間にに歩み出した新星レイラスの後を追った。
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047 約束
玉座の間はまだ閑散として見えた。
王族のための席の一番末席に案内され、十六席ある殿下の席にギリスはスィグル・レイラスの側仕えの英雄として同席を許された。
王子たちの席は広間の最前列にあり、壇上に玉座を見上げる位置の、階のすぐ側にある。
階段のすぐ脇の場所が上席だ。族長リューズにもっとも近い。
そこから徐々に序列を下げながら両翼に王子の席が続き、十六番目はもう王族の席の終わりだ。
むしろもう、その後ろに迫る英雄たちの席に近い。
王子たちは互いに目を合わせず口もきかなくても良い程度に、離れて座すことができるよう配席される。
仲が良いわけではないのだから当然と言えるが、その席には王子一人が座るのではなく、小間ほどの広さがあるそこに、側仕えの官僚や将軍などが座る客座も設けられる。互いの席が遠いのはそのせいだ。
晩餐の間、王子たちも気に入りの者と歓談する。
そこで共に食事をとるのは友誼の証だ。強い結びつきがあることを皆に示すのに良い機会だった。
スィグル・レイラスの席の客座に座ると、ギリスはすぐ脇から始まる英雄たちの席の方を見た。
「子供ばかりだ」
ギリスは驚いて、思わずスィグルに言った。
「そうか? 皆、元服しているように見えるけど」
同じように英雄の座を見渡して、スィグルは不思議そうに言った。
確かにスィグルの言う通り、元服してそう間がない若年の者たちが、まだ着慣れぬ風な礼装を着て、派閥の席にいる。
兄たちが来るのを待つ席取りの弟としか思えない。
やけに英雄たちの到着が遅い。
髑髏馬の席もまだ疎らにしか居らず、ジェレフたちもいなかった。
ギリスは渋面になった。
英雄たちは遅れて来ても良いしきたりだ。族長リューズがそう決めた。
堅苦しく宴席の最初から最後まで侍ることはない。
来て食って帰れと族長は気さくにそう決めたが、それは、厳しく呼び集めなくても族長リューズの晩餐には皆がこぞって来るからだ。
今はまだ続々と王子たちの集まる時刻で、英雄たちは皆、末席のスィグル・レイラスを出迎えるために早々と来て、玉座の間で跪拝叩頭して待つ気はないということだ。
ギリスはむすっとした。新星もずいぶん軽く見られたものだ。
仮にも王族で、高貴なるアンフィバロウの血筋に子には違いないだろうに。
「そんなもんだよ、ギリス」
喉が渇いていたのか、スィグルは女官が持って来た果実水を銀杯に注がせて飲んだ。
「最初からそんな、皆が大歓迎で叩頭してくれるとは僕も思ってないよ。昨夜は席もなかったのに、大した進歩じゃないか。焦ることない。父上はご壮健だし、僕はまだ十四歳なんだよ?」
そう言うスィグル・レイラスは確かに幼い顔をしていた。ギリスはそれにため息をついた。
「俺は焦ってるんだよ。長くは生きない竜の涙だ」
「でも未来視のやつがお前の長生きを保証したんだろう? それを信じて落ち着けよ」
「アイアランを信じるのか」
ギリスは自分が咎める口調になるのを感じた。
新星はそれに笑っていた。
「まだそいつに会ってもないよ。信じる信じないは会ってから決めることにしよう」
俺はアイアランは信用できない。ギリスはそう言いたい気持ちを抑えた。
信用できない根拠がなかった。
太祖アンフィバロウにしたって、なんの根拠もなく、確かめようもないディノトリスの未来視だか千里眼だかで視たタンジールの幻影を目指して、部族を率い砂漠越えの決死行に出発しているのだ。
その結果がこの玉座の間だというなら、アイアランを信じない理由などないだろう。
スィグルがアンフィバロウの血筋の末裔というなら、尚更そうなのかもしれなかった。
「誰か来るよ、ギリス」
銀杯の縁ごしにスィグルは玉座の間を見ている。
ギリスはスィグルの黄金の目が見ているほうを見遣った。
サリスファーだった。
暗い緑色の礼装を纏った弟が、なぜか五人の子供部屋の仲間を引き連れて、広間の英雄たちの席からこちらに向かって来る。
ギリスはそれに虚を突かれた。
こんなに早く来られるものだろうか。
ジェレフに言伝を頼んだはずだ。ちゃんと伝えて、用は済ませたのか。
ギリスがそれを問う目で唖然と見上げる中、殴り込みにでも来たのかという目でサリスファーは新星の座の前の床に座り、連れの者たちと共に深々と跪拝叩頭した。
「誰……?」
潜めた声で、新星がギリスの耳に聞いてきた。
ギリスが新星に教える間もなく、弟が気合に満ちた声で言い始めた。
「髑髏馬閥のエル・サリスファーと申します、レイラス殿下。この度、初めてお目通りが叶い、無事ご帰還のお祝いを申し上げます」
「エル・サリスファー」
新星はそれだけ答えた。
まだぽかんとしている新星に向かって、サリスの横で叩頭していた奴が喋った。
「エル・ジェルダインと申します、殿下。同じく髑髏馬閥より参りました、透視術師でございます。殿下にお仕えいたしたく、どうぞ我らを帰還式の隊列にお加えください」
確かサリスファーの友達だ。学房からついてきたうちの一人だ。
そいつが、やけにキリッとして喋っていた。
暗い灰色の、えらく趣味の良い礼装の長衣を着ている。
ずいぶん着映えする奴だ。礼装用の髪型もかっこいい。
兄の教えが良いのか、こいつの能力なのか分からないが、平服でぼうっとして見えた時には薄かった印象が、まるで別人のようだった。
本番に強い奴なのか。平伏する姿まで絵になる。
スィグルがそれを見て、感激した顔をしていた。
「エル・ジェルダイン。ありがとう。よろしく頼むよ。行列にちゃんと誰か来てくれるのか実は心配していた」
サリスファーとその格好いいやつの顔を交互に見て、スィグルはほっとしたように言った。
それに微笑み返し、サリスが勝手に話した。
「ご心配には及びません、殿下。ご出立の時と同じように、英雄百名が、殿下のタンジールご帰還にお供いたします。僕らにお任せください」
サリスファーが熱い声で断言していた。
ギリスはそれを聞き、さすがに黙っていられなくなった。
「ちょっと待て、待てサリスファー、勝手に喋るな」
「兄者……」
サリスファーはきょとんとして、ギリスにも叩頭した。
玉座の間では、とりあえず頭を下げろとでも思っているのか。
「これはお前の弟たちか、エル・ギリス。まだ挨拶の途中だ。そちらの者は名はなんと?」
にこやかに新星は小英雄の名を聞いた。首に包帯巻いてた奴だ。今も巻いてる。
何歳なんだお前は、日焼けの治りが遅すぎるだろうとギリスは情けなく思った。
「エル・パラルディンと申します、殿下。お声がけいただき光栄です。火炎術師でございます、お見知り置きください」
深々と頭を垂れて、包帯の奴が言った。
そんな名前だったのか、エル・パラなんとか……。
「エル・パラルディン」
にっこりとして、新星レイラスはまた一発で英雄の名を憶えた。
普通憶えられるもんなのか?
そう思うギリスの横で、新星はいかにも利発そうに、すらすらと弟《ジョット》たちと話している。
「火炎術は髑髏馬閥の誉だと聞く。英雄譚にも君の偉大なる兄たちが数多く出てくるな」
「はい。先の派閥長、エル・イェズラムも火炎術の使い手でいらっしゃいました。魔法戦士の放つ火炎は忠誠の火と申します。殿下をお守りいたします」
熱っぽく包帯の奴は言った。
その首の包帯を見て、スィグルが痛そうに眉を寄せている。
「それは訓練で負傷したの? 痛むか」
まるで自分の首が痛いみたいに、新星は王族の飾り襟に包まれた自分の首に触れていた。
それをエル・パラなんとかが感激した目で見ていた。
「いいえ、殿下。かすり傷でございます」
弟がそう言うので、ギリスは驚いた。
日焼けの後の爛が悪化してんだろ、お前が堪え性なく掻くからだとギリスは絶句したが、場の勢いでかすり傷ということになった。
新星はもう別の奴に目を向けている。よもや一人ずつ名を聞く気なのか。
こいつら、サリスファーとその一味で十分ではないのか?
しかし新星は残る三名にもいちいち直言を許した。
エル・なんとかが名乗り、その術法を聞き、それをいちいち新星が誉めた。
皆それに熱っぽく答え、王族の殿下を前にして申し分のない行儀作法だった。
ギリスはそれを眺め、ただ驚いていた。
こいつら……頭が良さそうだ。
殿下もさすがは王族の殿下だが、他の連中も、さすがはサリスファーの友達だった。
だが、その歓談に気をよくしたのか、サリスファーは膝を進めて、殿下に強請った。
「殿下、ご不快でなければ、我らも晩餐のお席に側仕えいたしたく、お許しいただけますでしょうか」
その話にギリスはびっくりした。
そこまでこの弟どもに求めていない。許した憶えもなかった。
「ここには七人も座れないよ、遠慮しろ」
ギリスはスィグルの王族の座に客座が四つしかないのを示して、派閥の弟どもを止めた。
それには新星レイラスが、明らかにがっかりした顔をした。
「賑やかでいいじゃないか。大勢で食べるのもいいものだよ。僕は魔法戦士は好きだ。皆、まだ小柄だし、詰めれば座れるよ!」
スィグルは屈託なく言うが、詰めて座るような席ではない。
ギリスは不承知の顔をした。
しかしスィグルは全く気にしなかった。
「あと三つ円座を持ってきたら座れるよ。あっちに沢山あるから持ってくれば?」
英雄たちの区間を指差して、スィグルが命じた。
命じたつもりではないのかもしれないが、王族が言うなら命令だ。
「行ってこい」
サリスファーが後ろにいる三名に自分の座を取りに行かせた。
座る時に後ろにいるということは、あいつらは序列が低いのだ。英雄たちの序列は厳格なものだ。
ではこの首に包帯巻いてるかすり傷は、この中で三番目なのか?
痒いのを我慢できない程度の根性の奴が?
ギリスは黙ったまま唖然と弟たちを眺め、それが遠慮なく派閥の席から円座を持って嬉しげに駆け戻り、殿下の席にぞろぞろ入ってくるのを新星の隣の席から見上げた。
六人いる。
数えるまでもない、その人数を見て、ギリスは複雑な気分になった。
新星の帰還式の行列が、さっきまで三人だったのに、今はもう八人だ。あと九十二人。
昨夜までは自分一人だけだった。一日で八倍になったのだ。
万が一この調子で毎日八倍に増えれば、明日には六十四名、明後日には五百十二名だ。
そんなはずはないが、絶対ないとも言い切れない。
もしスィグル・レイラス殿下が本物の新星であれば、いずれはそのくらいの数の英雄を配下に従えることになる。
これは即位の前祝いだ。心してかからねばならない。
ギリスは急にまた、そう思った。
楽しげに席を詰めてくる無礼な弟たちに押されて詫びられながら。
帰還式は一月後の段取りだ。まだあと二十九日ある。
新星の帰還式の成功を諦めるのは一ヶ月後まで取っておこう。その時でも十分間に合う。
「皆、何歳なの?」
スィグルは不思議そうに、自分の背後に侍る、ちびっこい英雄たちに半身を振り向き、尋ねた。
「十四歳です。一人は命名日が来週で、今はまだ十三です」
サリスファーが皆を代表して答えた。
包帯のやつが十三なのだろうとギリスは目星をつけ、そちらを見たが、別の奴が照れたように新星に頭を下げた。
えっ、じゃあ、包帯のやつはもう二年も日焼けが治らないのか。
それはさすがに一遍ちゃんと施療院に言えとギリスは心配になった。
「命名日って、君たちの誕生日みたいなものだよね。お祝いしないと」
祝い事が嬉しいのか、そう言うスィグルはにこにこしていた。
「殿下にそう仰せいただき、ありがたき幸せ」
名前のわからない十三歳の奴が、感激したふうに答えた。
「祝いの品を取らせたい。何が欲しい?」
スィグルが気さくに聞くと、名前の分からない奴も、他の連中も、戸惑った顔をした。
王族から命名日の祝いが届くなど、まるで大英雄みたいだからだろう。
スィグルは宮廷のはみ出し者で、この英雄たちもチビだが、王族は王族、英雄は英雄だ。
真似事みたいな命名祝いでも、栄誉は栄誉だった。
「遠慮せず何でも言ってくれ。僕が与えられるものならだけど」
スィグルは何を言われるのか緊張している顔で、でもどこか嬉しそうに言った。
弟たちは少しの間、押し黙っていた。
まだ十三歳だという奴は、しばらく考え、意を決したふうに言った。
「英雄譚が欲しいです、殿下」
「タイユーン」
サリスファーがさっと青ざめて、そいつを止めた。
さすがにサリスはまともな奴だ。でも十三歳も言ったからには、もう黙りはしなかった。
「英雄譚を賜りたく、どうかお与えください、殿下。今年でなくても良いのです」
熱心な嘆願に、スィグルもさすがに言葉を失ったようだった。
どうするのかと、ギリスはあんぐりして新星を見た。
さっき居室でギリスに詫びたように、お前には英雄譚をやれないかもしれないがと、このチビどもに頭を下げるつもりか。
そう思って見守る中、新星は華麗な王族の衣装の懐から、懐紙を取り出した。
「誰か筆を持ってるか」
スィグルは一同を見回して聞いたが、いつでも筆を持っている奴がなぜかいるものだ。
サリスファーが礼服の帯に煙管入れとともに、立派な銀の矢立を下げていた。
携帯用の文筆具で、旅中の書物などに使うものだが、そんなものを王宮でも持ち歩いているのは宮廷詩人か宮廷絵師ぐらいだ。
サリスファーは詩人のほうだった。
「お使いください殿下」
墨を含ませた筆をスィグルに差し出して、サリスファーはまた新星ににっこりされていた。
「ありがとう。ちょっと借りるよ」
そう言ってスィグル・レイラスは懐紙にさらさらと何かを認めた。
よもや即興の英雄譚ではないだろうなと、ギリスは慄いた。
まさか誰でも詩を詠むのか、この宮廷では。即興詩は当たり前なのか。
しかし、そうではなかった。
「これはね、誓約書だよ。今すぐには難しいけど、約束する。君に英雄譚をあげる方法を、僕はこれから懸命に考えるよ。待ってくれるか」
紙には新星の書いた端正な文字で、いずれ必ず英雄譚を与うと誓約文が書き記されていた。スィグル・レイラス・アンフィバロウと署名もあり、今日の日付も記されている。
「エル・タイユーン」
最後に宛名を書き、スィグルはそれを十三歳のやつに見せた。
いかにも聡明な殿下が書きそうな、綺麗な字だった。
「血判を捺す?」
王族の衣装の帯にある宝飾で飾られた短剣を抜いて見せ、スィグルは本気みたいに聞いていた。
それに十三歳は青ざめて首を横に振った。
「いいえ。殿下のお言葉だけで十分です」
「悪いんだけど、長生きしてくれ。努力はするけど時間が必要だ」
「はい……」
懐紙の誓約文を受け取りながら、エル・タイユーンはどこか上の空のようにスィグルに返事をした。
「何もなしじゃ残念だろうから、今年の命名日には代わりの祝いを何か遣わす」
苦笑して、新星スィグル・レイラスは約束した。
何をもらえるのか分からないが、ツイてる奴だった。
英雄譚を約定する証文をもらったのは、この部族の長い歴史を紐解いても、この十三歳の奴が初めてだろう。
詳しいところは、史学の師父にでも尋ねなければならないが、ギリスはそんな話は聞いたことがなかった。
約束などないものだ。戦場で活躍しても、英雄譚にならない者もいる。
そこは宮廷詩人や、それに詩作を命じる族長か、長老会の意向で決まるのだ。
偉大なる族長リューズ・スィノニムは多くの英雄たちに英雄譚を与えたが、それは約束のないものだった。
「よかったな。十三歳」
ギリスは嬉しげに証文を懐にしまう弟を褒めた。
「エル・タイユーンです、兄者」
さっそくサリスファーが怒った声で教えてくれた。
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048 宴を待つ
王族の席に侍るのを許された弟たちは口々に遠慮なく喋った。
新星スィグル・レイラスが気さくだったのを良いことに、今まで興味があるのを隠していたのか、サリスファーはトルレッキオの学院はどんなだったかを尋ね、いかした衣装の透視術師は道中のエル・イェズラムはどんな様子だったのかを控えめに尋ねた。
ギリスは少々苛立ちながら、それを黙って許したが、新星の受け答えは、このチビの弟どもが知っても障りのないことだけを選んで話しているように聞こえた。
学院は遠く野蛮な寒い土地で、道中のエル・イェズラムは立派だった。英雄たちの随行に今も感謝していると、新星は借りてきた猫のようにしおらしく話した。
その控え目で敬意に溢れた様に、弟たちは感銘を受けたようだが、ギリスは目を細め、暇なので煙管を吸って待った。
別に吸う必要はないが、喫煙は英雄の嗜みだ。とにかく長く待たされ暇だった。
侍従たちはよほど早くにスィグルを呼び出しに来たらしい。
他の王族の殿下は序列の順にゆるゆると玉座の間に現れ、まずスィグルの向かいの席が埋まって、その次は隣の席が赤い宮廷衣装の王族の殿下で埋まった。
彼らはこちらの席の前を通ったが、一瞥すら無く、こちらの叩頭にも気づかぬようだった。
チビの英雄たちなど無視するというのでも良いが、異腹とはいえ仮にも兄弟であるスィグルに答礼もしないのは、無礼じゃないかとギリスは内心思った。
こちらの殿下が頭を下げるのなら、向こうにも下げてほしい。末席に近い者たちは確実に同い年のはずだ。
「お前の兄弟は礼儀知らずだ」
ギリスは通り過ぎた者たちには聞こえない小声で、隣のスィグル・レイラスに耳打ちした。
殿下はそれに声なく笑っていた。同感なのだろうが、それを敢えて口にはしなかった。
「あと十三人、無礼者が通る。我慢してくれギリス。兄たちとは子供の頃から口も聞いたことがないんだ」
「確かに子供部屋で寝てる弟のほうが可愛い」
ギリスが認めると、それにはスィグルは堪えた声を立てて笑った。
「よく言うよ。スフィルはもう二度とお前と会いたくはないだろう」
「俺も別に会いたくはない。余計な愛着は捨てたほうが身のためだぞ」
「余計な愛着なんかないね。必要な愛着だ」
スィグルは頑固そうに言った。譲る気はないようだった。
「もし……先々、継承指名となったらどうする気だ。万が一、族長がお前の弟を指名したらどうする」
「そんなことあるわけないだろう。父上は賢明なお方だ。馬鹿も休み休み言え」
「本当におかしいのか、お前の弟は。狂ってるふりをしてるのかもしれないぞ」
「そんなことしてスフィルに何の得があるんだ」
スィグルは笑みのままだったが、不愉快そうだった。
「お前の祖父さんは頭がおかしかったけど、あの席に座ってた」
ギリスがまだ誰もいない玉座を顎で示すと、スィグルははっきりと不愉快な顔になった。
「撤回してくれ。お祖父様は体が弱かっただけで、賢いお方だった」
「なんでそう思う」
ギリスは不思議で聞いた。自分の身内だからそう思いたいのかもしれないが、族長リューズの先代は暗君だったと言われている。それが当代の父なのだから、不敬を恐れて、今さら敢えて言うものはいないが、当の族長自身が先代は暗愚だったと誰の前でも言って憚らない。
その代で部族の戦いは大敗北を喫していたし、タンジールが位置する砂漠地帯まで森の守護生物が索敵に侵入していた。
それでも暗君は連日この玉座の間で宴を催し、祖先たちや英雄たちの古い英雄譚を延々と詩人に詠唱させたという。
過去の幻影に縋っても、守護生物がタンジールの真上をうろつくようでは、終わりは近い。皆そう思い死を覚悟したそうだ。
ジェレフも話していたし、イェズラムもその時代の話は暗い顔で語るものだった。
「詩伝にお祖父様の詠まれた詩がある。建築にも造詣がおありで、タンジールの拡張計画をお持ちだった」
「拡張する前に陥落するだろ」
「そうだ。お祖父様は戦が下手だった。それだけだ」
「それが全てだよ、スィグル」
祖父を庇っているスィグルに、知らないのかと思い、ギリスは控えめに教えてやった。
族長は戦上手でなくてはならぬ。
特に守護生物が部族領奥深くの町々を襲うほどの時代の族長は、誰よりも強くなくては困るのだ。
その点、名君リューズは戦上手で、民の求める族長と言えた。
連戦連勝で父親の代の屈辱を雪ぎ、さらに祖先の代の負けも一代で取り返したのだから。
勝利に酔いしれたタンジールの民の戯言とはいえ、名君リューズはいずれ森の者たちの都である、イル・エレンシオンにも到達すると言われていた。
もちろん、天使がその戦いを止めていなければの話だ。
ヤンファール占領はなぜか天使の怒りに触れ、今は全てが止まっている。
「民を富ませるときだ、ギリス。せっかく戦いがないんだから」
スィグル・レイラスはいかにも知性派の王族という横顔でギリスに話した。
「そうだな。いずれまた軍費が必要になる」
頷いてギリスが答えると、新星の顔は苦笑になった。
「そういう意味じゃないよ。民の幸福のためにだ」
幸福とは勝利のことだ。ギリスにはそうとしか思えなかった。
戦線を、できうるかぎりタンジールから遠くに押し返すのだ。部族の民の、全ての都市から遠く。
まるで戦いなどないかのように、民が安心して眠れるように。
養父はそう言っていたが、今はその戦線自体が存在していない建前だ。
だが実際にはヤンファール平原の中央に天使が決めた境界線があり、今も兵は駐屯している。
英雄たちは皆、王宮に帰された。それが天使が求めた停戦の条件だったせいだ。
族長リューズはその条件を呑んで戻った。
それには反論もあったが、天使の定めたことだ。
天使は森の者どもにも、守護生物を撤退させるよう求めた。
一部の怪物たちは森に引き返した。それでも一部はヤンファールに居座っている。
なぜなら、それらは樹木の形をしており、動けないからだ。森の連中はそう主張しているらしい。
そんなものは詭弁だろう。動かなくても守護生物は守護生物だ。
でも確かに樹木に見えるらしい。
ギリスはそんなことは信じていない。
ヤンファールに根を張り、背後に迫る森林地帯を守っている銀色の樹木の砦だ。
魔法を浴びせれば動くに違いない。
それでも、戦いは止まっている。
民は幸福なのだろうか。今は。
新星の言葉を聞いて、ギリスは急にそれが気になった。
英雄が戦うことがなくても、民が幸せなら、自分たちは何のためにここにいるのか。
それを思案するギリスの前を、何人もの無礼な王族の殿下が通りすぎ、それに次々と叩頭して、また待たされ、そしてまた叩頭を繰り返した。
玉座の間の赤い絨毯に額づくこと、十四度。
「腹が減ったか、ギリス。ずいぶん長く待たされるよな」
ギリスが押し黙っているのを、空腹のせいだと新星は思ったらしい。
煙草盆に置いたまま、もう煙の絶えた煙管を、帯につけた煙管入れに仕舞い、ギリスは王族の最後の一人が来るのを待った。
勿体ぶって現れる序列第一位の殿下も、ただ最初に生まれたというだけの、スィグルより一歳年上の少年でしかない。
族長の妃たちは、後宮で族長の寵を競ったものの、皆ほぼ同時期に孕み、一斉に産んだに等しかった。その勝負はまだついていない。
今は年齢順でしかない殿下たちの宮廷での序列は、いずれ覆される。
継承争いが本格化すると、玉座の間の席替えも頻繁に起きるものらしいからだ。
誰がどこに座るかは呼び出しの侍従が決めている。
もちろん、彼らに配席を命じることができる諸々の勢力が決めているのだ。
今後その宮廷内の砦をひとつひとつ攻略していけば、いずれ、スィグル・レイラスがあの階段の脇の座に呼ばれ、側近くで玉座を仰ぎ見る時も来る。
そのためには、この場に侍る赤い無礼者たちの、十五階ぶんの序列を全て乗り越えさせなくてはならない。
極めて難儀と言える。
王子たちの権勢とは、要するに取り巻きの力だ。
将軍たちはスィグル・レイラスを好きではないだろう。
停戦によってレイラス殿下は彼らの顔を潰した。空前の大勝利という餌を眼前で奪ったのだから。
将軍たちが本気でイル・エレンシオンを攻める算段だったのか、ギリスは知らぬが、もしも叶えば結構な名誉だっただろう。千年来の森の宿敵の殲滅は。
官僚たちはどうだか分からない。
彼らは主に王都で粛々と軍費を整え、民から年々の税を集め、工人たちに命じて都市や街道の管理をしている。ギリスのよく知らない人々だった。
英雄たちは考えるまでもなく、レイラス殿下を憎んでいる。少なくとも、今日は。
スィグル・レイラスに生きながら地獄に堕とされたと考えている者もいる。
だが今、この席に侍る派閥の弟たちは、和やかに殿下と話していた。
戦闘経験がなく、まださほど石が痛まないせいで、地獄とは何かを知らないせいだ。
かつてヤンファールの英雄の天幕で、悶絶する兄たちの声を聞いた後では、身をもっては苦痛を知らないギリスも、地獄を知らぬとは言い難かった。
確かに、耐えかねて自決する者もいた。
耐えたところで、末期の症状が極まると、もう戦うことはできない。
兄たちはその苦痛のために味方の足手纏いになるのを嫌った。
耐え抜いたところで、最後には育った石が頭を割ると言われていた。そんな死に方をしたい者はいないだろう。
ギリスも気をつけなければならないと思っていた。苦痛はなくても、死に方は同じなのだろうから。
「こんなに待たされるものなんですね。僕らはあまり晩餐には来ませんし、兄のお供で始まる頃に来るだけでしたので」
いつもは来て食って帰っていた英雄たちの弟どもが、空きっ腹を抱えて苦笑していた。
「王族は待つのが仕事だ」
しれっとしてスィグルは言っていた。
確かに、重たげな衣装にもめげず、居住まいを崩すこともなくスィグルは座っていた。
王子たちは皆揃い、そろそろ族長が来るはずだった。
ひときわ豪華な衣装を着た呼び出しの侍従が広間の壇上に現れた。
族長は自分専用の呼び出し係を持っているのだ。特に声の良い者を選んで着任させる。
あの男は、衆目を自分に注目させることにおいて、右に出る者のいない演出家だ。
「玉座の間よ、聞け」
轟き渡る美声で、呼び出しの侍従が広間に告げた。
「族長、リューズ・スィノニム・アンフィバロウ閣下のご来臨。平伏せよ」
極めて簡潔な決まり文句を、声の良い男が朗々と告げた。
族長は長い話を嫌う。
元は太祖アンフィバロウから代々の族長名を連ねていた長い長い口上を、族長リューズは即位後に全て消した。
そのようなものは、名君には無用だったのだ。
族長の名を聞いて、広間が一斉に平伏した。
すでに与えられた席のほとんどが埋まり、見遣るとそれは絢爛な宮廷服の背中を踏んでいけそうな、輝く衣装の海のようだった。
ギリスはそれに目が眩んだが、一人遅れて平伏した。
あの男がやってきて、一人だけ目を上げていたら、さすがにまずい。
族長の来臨を告げ知らせる銅鑼の音が、歌う雷のように鳴り響いた。
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049 戦場の美味
晩餐が始まった。
ギリスはスィグル・レイラスの席から、壇上の席にいる族長リューズ・スィノニムを見上げ、自分たちの席に料理が運ばれてくるのを待った。
女官たちが袖の優雅な薄絹をたなびかせ、次々に膳を運び込んでくる。
玉座の間の女官はどれも皆、絵から抜け出てきたような美貌の者ばかりだ。
どう見ても、それが族長の側に仕える女官の条件だった。
賢ければ容色は問わないと養父は言っていたが、それならば、こんなに多くの才色兼備の者が部族領には生まれてくるということだ。ギリスですら驚くほどの絢爛さだった。
それを陶然と見上げ、王族の席には居慣れぬ弟たちは、女官の持ってきた食膳にどよめいた。ご馳走だったからだ。
王族の席の飯はうまい。英雄たちにも粗食とは言えない食事が出されるが、王族の席の料理はただ食えればいいという食べ物ではない。
領土各地の味覚が揃い、それを取り揃えることができる輸送力や財力を誇示するための道具でもある。
王族の席に侍る側仕えは、毎日それを食えるのだ。
美味い話だった。ギリスもそれは射手の役得と心得ている。
それでも、昨夜あの高段で食った料理とは違う。
何がとは言えないが、恐らく何かが違うのだ。
族長が、ただの殿下と同じものを食っているはずがない。
それはギリスの妄想だったが、族長リューズは美食家だと養父は言っていた。宮廷では美味いものしか食わない男だ。
アンフィバロウにそっくりな顔も、宮廷絵師の傑作から抜け出てきた魔物のように美しいが、族長は舌も肥えており、料理が不味いと食わないらしい。
好き嫌いも多い。胃腸も虚弱で、妙なものを食わせると、すぐに腹を壊す。
養父はそう言っていた。
そんなふうには見えないが、そう聞いて眺めると、族長リューズは確かに宴席ではほとんど飯を食わない。
高段の食卓にある食い物は、族長の好物ではなく、その日に招ばれる者たちが好む食材が載っているのだ。
もてなすための料理で、自分が食うためではない。
昨日はおそらく、エレンディラとジェレフのための料理が食卓に載っていた。
華麗な花のような包丁遣いの野菜とか、珍しい果物であるとか、女の好むような料理と、兄が好む鶏肉だ。
ジェレフはやたらと鶏が好きな男で、派閥の宴席にも鶏の料理が出ていた。
あの兄の奇跡の治癒術を鶏肉で贖えるなら、それは族長も何羽でも雌鳥を絞め殺して食事に出そうというものだった。
今日は食卓に花が飾られている。赤い花だった。
それを見て、ギリスは族長がエレンディラが来るのをもう知っているようだと思った。
お仕着せのように赤い伝統衣装を着ている王子たちと違い、族長は毎日着替える。
今宵は族長は夜に染まったような黒い服を着ていた。喪服のようにも見えたが黒糸で黒い石が縫い付けられており、ところどころが星のように煌めいた。
それでも普段よりは質実剛健に見え、まるで養父のようだとギリスには見えた。
もしや、それがエレンディラの好みなのかもしれなかった。
それともこの場で今日、自決した英雄たちに哀悼を示しているのか。
それにしても豪華な衣服と言えた。
族長リューズは部族の針子や工芸士に新しい服を作らせて、それを着てくる。
時にはそれを家臣に下賜する。
族長の衣装には金銀や宝石が使われており、一着でももらえばひと財産だ。
そのまま着ることは許されないので、下賜された者は一生着られもしないその衣装を大切に保管するか、もしくはバラして別の服や工芸品にする。
武具やら、武器の装飾として、身につけて戦うと武運を授かれるという信仰があり、族長リューズは難題を与えた家臣には気合を入れさせるために衣装を下賜することも多い。
だからリューズ・スィノニムにはたくさんの服がいるのだ。養父も呆れた様子でそう話していた。
族長は金遣いの荒い男で、領土は回復したが、軍費も相当使った。
資金を惜しまず戦うからこそ勝てたのだ。
その借財がある。
養父の話では、それは主に貿易を行う商人たちが族長に貢いだ金で、ギリスはいくつかの豪商の名を聞いた。
イシュテムとか、テルパミランとか、トゥランバートルとかいう。中には部族領の外の者もいる。
それと会ってみるのも良いかと、ギリスは高段の花を見て思った。
彼らが新星にも貢ぐ気があるか、早めに確かめても害はないだろう。
恐らく金の無心はここにいる王族たちの全てが、一度はしに行っているはずだ。
スィグルも商人たちに顔を売るべきだった。
王族たちの資金源は直轄の領地からの税収と、王宮の予算からの割り当て分もあるが、それ以外は他人の金だ。
王子を支援する後ろ盾の外戚の者や、将軍や博士や官僚が、あるいは商人たちが貢ぐお陰で、殿下はいつも絹に包まれ宝石のついた靴で玉座の間を歩ける。
それは規模は違っても、族長になってもずっと同じだった。
部族領で随一と名高い豪商イシュテムと、族長リューズはずっと懇意だ。
族長が可愛がっている鷹通信の鷹も、初代のシェラジールは確か、イシュテムから献上されたものだったのではなかったか。
イシュテムはなぜか族長を深く愛しており、軍費も宝物も鷹も人も、一切合切を惜しまず貢ぐ。
それに見合った見返りを族長が与えているからだろう。
それが何かを商人に聞いてみてもいい。同じものを与えると新星にも約束させる。
誰が族長リューズ・スィノニムの一番お気に入りの息子か、その上でイシュテムに聞いてもいい。
あるいはテルパミランに。トゥランバートルにもだ。
彼らがスィグル・レイラスだと言ってくれれば、族長も仲良しの商人たちの声を聞き、継承指名の腹を決めてくれるかもしれない。
どうなるかは分からないが、やらない手はなかった。
殿下がイシュテムに会えない訳はない。彼らは天使というわけではないのだし、スィグル・レイラスは天使にすら会った男だ。
そうは見えない可愛い面だが、せめて舐められないように、あと二、三年は新星の成長を待つほうがよいか。
嬉しげに飯を食っている弟たちと歓談している、スィグル・レイラス殿下の子供のような顔を見て、ギリスは思案した。
エレンディラはまだ来ない。
来るはずだった。族長の席の横は空のままだし、食卓には赤い花がある。
そう思いギリスも驚くほど美味い鶏の料理を食っていると、英雄たちの席がざわつき、皆が叩頭しはじめたので、誰か偉い奴が来るのは間違いなかった。
エレンディラだろう。
そう思ってギリスが目を向けると、エレンディラだけではなかった。彼女が長老会の、石で頭の重たそうな重鎮たちを数人引き連れてきていた。
彼らは病状も重く、億劫がるので玉座の間には滅多に来ない。
それでも歴戦の勇だ。英雄たちの座は生きた英雄譚をみる目で高揚し、大先輩の来臨を皆喜んでいるようだった。
スィグル・レイラスの席の弟たちも例に漏れず、慌てたふうに膳に箸を置き、裾を整え叩頭した。
ギリスの前を通るとき、長老会のエレンディラは甘い目配せを送ってきた。
さっき一緒に茶を飲んだのでなければ、自分に気があると思うところだった。
どういう意味かと、スィグル・レイラスが眉をひそめた不可解そうな顔で、ギリスを見た。
それがあまりにも良い気味で、ギリスは王子の客座で控え、笑いを噛み殺していた。
「リューズ様、遅くなりまして失礼いたしました。慣れない料理に手間取ってしまいまして」
エレンディラは広間の最奥まで行くと、高段を見上げ、一人で人待ち顔だった族長リューズに気さくに挨拶をした。
族長は英雄たちに友であることを許し、もちろん常に直言を許した。
叩頭すら省いて良い。そう族長は許したが、長老会は許さず、エレンディラも他の重鎮たちも、高段にかかる階の下で跪き、深々と叩頭した。
「席が足りぬぞ、エレンディラ。連れがいるとは聞いていない」
族長はエレンディラに文句を言った。
「皆も参りたいと申しましたので。いけなかったでしょうか。リューズ様と二人きりとは、わたくしの身が心配でございます。男子でありながら閣下のお子を授かっては一大事でございますゆえ、皆に頼んで付いてきてもらいました」
エレンディラがにこやかに言うと、族長は笑った。広間も笑っていた。
女英雄エレンディラは美貌で名高く、族長と良い仲なのだと疑う者も多いらしい。
おそらく大人たち古い世代の冗談だろう。
ギリスにはエレンディラが族長と寝ているとは思えなかった。
妻が十二人もいる男が、まだそこら辺の女官や女英雄と戯れたいだろうか?
そういうものかもしれないが、エレンディラはそういう類の相手ではない。
「もう子はよい。息子も娘も十分に授かっただろう。まだ必要か、エレンディラ」
「いいえ。聡明な殿下ばかりが、こうも大勢、玉座の間にお揃いになっては、わたくしも、次は一体どの座に侍ればよいやら目が眩みますわ」
エレンディラの連れの長老会の者たちは、余程おかしいのか、女英雄の冗談に笑っていた。
「口を慎め」
珍しく族長が不快そうに咎めた。しょうがない奴だというように。
それでもエレンディラも、長老会の者たちもにこやかにしていた。
「上がってきて飯を食え、エレンディラ。話があるのだろう」
「皆も同席してよろしいでしょうか?」
長老会の仲間を手で示し、エレンディラは族長に求めた。
それに頷き、族長が許すと、高段に仕える侍従たちが速やかに椅子を持って現れる。
まるで魔法だ。リューズ・スィノニムは魔法は持たぬが、ただ頷くだけで椅子を出せる。
長老会の者たちはぞろぞろと階段を登っていった。まるで物見遊山にでも来たような、寛いだ足取りだ。
英雄たちの中では、彼らは最も長くこの玉座の間で時を過ごした者たちだ。
ここが彼らの家で、帰るべき場所だった。他に寛ぐべき場所などないのかもしれない。
「リューズ様。今日はこのエレンディラがお食事を作ってまいりました。殿下がたにも差し上げたく、お許しいただけますでしょうか? もちろんこのエレンディラが毒味はしておりましてよ」
「それではそなたが毒を入れない限りは無毒であろう」
ほがらかに言うエレンディラに、族長は面白そうに言っていた。
二人とも、恐ろしいほど通る声だ。
戦場で号令しなくてはならず、王宮でもこうして皆に聞かせるのだから、上に立つ者たちの喉はまるで魔法のごとき声を出す。
皆も静まりかえってそれを聞く。まるで芝居でも見ているようにギリスには見えた。
「無毒でございますよ。閣下が食べてみてお確かめくださっても結構です」
エレンディラが真面目くさって言うと、リューズ・スィノニムは吹き出して笑っていた。
族長に毒味をさせる女も珍しい。
エレンディラは立ち上がって、広間の英雄たちに向かい、大声で言った。
「ごめんなさいね、皆の分はないの。そこのご飯を食べていてくださる? わたくしの非力な腕では、王族の皆様のぶんを作るので精一杯でした」
祈る乙女のように胸の前で手を組合せ、エレンディラは心から詫びているようだった。
それに英雄たちが笑い、かまいません姉上、遠慮いたしますと口々に答えさえした。
エレンディラはもしや料理が下手なのではないか。皆がほっとしている気配がした。
もしも全員分の飯があったら、エレンディラの手料理を食わされたのだろうか。
非力でよかった。
「俺は嫌だぞ、エレンディラ。何を作ってきた」
不味いものは食わないという族長が、高段で隣に座すエレンディラを警戒している。
「リューズ様の大好物でございますよ」
エレンディラが目で指図すると、広間の中程の入り口から、礼装で着飾った女英雄たちが膳を持って入ってきた。エレンディラの派閥の者たちで、女長と似てにこやかで、皆、愛想がよく可愛げがあった。
その膳に載っているものを見て、ギリスはぽかんとした。兵糧の団子だ。さっき食ったやつだ。
あんな不味いものを族長が食うのかと、ギリスは不思議だったが、高段の男も笑っていた。苦笑のようだった。
「これがお好きでございましょう、リューズ様」
「お前の姉が考案した不味い団子だ!」
憎たらしいように、族長リューズは自分の食卓にもやってきた膳を指さし、エレンディラに言った。
「まあ酷い。美味しゅうございますよ。戦場で火を使わず飢えをしのぐには、もってこいでございましたでしょう」
すねた口調でエレンディラは反論し、それに英雄たちもそうだそうだと言った。将軍たちの席からも笑いが漏れている。
英雄と将軍の席は別だが、同じ戦場で不味い団子を食った仲だ。
美貌で愛想の良いエレンディラは、兵にも絶大な人気がある。
特に将軍職につくような年配の者にとっては、戦場に舞う彼女は若き日の夢だ。
「まったくだ。お前の姉の不味い団子には何度となく命を救われた」
「では今宵は我が姉上を偲び、その名を英雄譚でしかご存知のない殿下がたにも、ご賞味いただきとうございます。このお団子も、我が部族の戦歴の誉れでございますゆえ」
「わかった。ありがたく食うとしよう。大英雄エレンディラ。我が戦場の花よ」
笑って許し、族長はまさに花のように微笑んでいるエレンディラと、長年の恋人か、まるで姉と弟のように見つめあって、手掴みで兵糧の団子を食った。
「うん。美味い」
族長は褒めたが、エレンディラは隣の席で美しく笑っていた。
「嘘つきな閣下。でもたくさん召し上がってくださいね。閣下にはしっかりお召し上がりいただき、明日も明後日も末長く戦っていただきますので」
「わかったわかった。息子たちも女英雄の手料理をありがたく食うがよい。これこそ戦場の美味だ」
族長は品よくガツガツと食った。滅多に人前だは食べないが、食うときは早飯の男だ。
それも養父には好ましかったらしい。養父は誰であろうと、だらだら飯を食う奴が嫌いだった。
さっさと食い、さっさと戦うのだ。
高貴なる弟にも、イェズラムはそのように躾けたのだろう。
派閥の弟たちにも、そうだったように。
英雄たちと居ると、族長リューズ・スィノニムは王族というより、まるで派閥の兄たちのように見えた。
そう思うのは玉座に対し不敬かもしれないが、ギリスにはずっとそうとしか見えなかった。
族長は軍人だ。さらに言えば魔法戦士みたいだった。
頭に石はなく、代わりに永遠の蛇の族長冠を戴いているが、それもまた、竜の涙と似て、一生消えない死の呪いに近い。
即位前にはアンフバロウの血筋を証す王族の額冠を常に帯び、新しい星でなければ死ぬ定めだった。
王家の血の呪いだと、養父も話していた。
英雄たちよりも儚い命だ。
王族は、死ぬ時すらも自分では決められない。玉座から死ねと命じられたら、いつでも死ぬ定めなのだ。
その証拠に、スィグル・レイラスも自分の膳に配られた、クソ不味い兵糧の団子をおとなしく食べた。
蒸してあるようで、パサパサの乾いたやつを食わされるよりはマシだが、決して美味くはない。
食えないことはないだろうが、食わずに済む王宮でまで食いたいという奴は稀だ。
毎日食っているというエレンディラがおかしいのだ。
族長も喜んで美味そうに食っているみたいに見えるが、あの男もおかしいのだろう。
戦場の申し子たちだ。
ぐふっという声が王族の席から聞こえ、スィグルの隣の殿下が食ったばかりの団子を吐き出していた。
それを眺め、スィグル・レイラスが団子を噛むのをやめて青ざめている。
吐き出していいのかと思ったらしい高貴なる殿下がたが、次々に団子を吐いた。
袖で隠して優雅にやっても、無作法なことには変わりない。
慌てて果実水を飲む赤い衣装の連中を見て、ギリスは嫌な予感がし、スィグルの膳から団子を一個取って食ってみた。
まさか毒殺か。エレンディラが発狂したのかと、ギリスは疑ったのだ。
しかし団子はただ不味かっただけだった。
派閥の部屋で出されたものより、もう一段不味い。
何か妙な匂いがする苦い粉が入っている。人の食うものと思えない味だ。
「お前の工夫はないほうがよいぞ、エレンディラ。偉大なる姉上の処方に戻すのだ」
平気な顔でエレンディラの団子を食いながら、族長は女英雄を諭している。
「どうしてでしょうか。お腹の調子を整える薬草を少しだけ入れました。これで兵も戦地でお腹を壊しません」
「薬臭いのだ!」
族長は端的に間違いを指摘した。
「でも閣下は美味しそうに召し上がっていたではないですか」
エレンディラは口を尖らせ、怒ったように可愛らしく言っていた。
「優しいお前を傷つけまいと耐えているだけだ。だがこれは不味い。お前から施しを受けた兵は、これを食って泣いているぞ」
「でも、レイラス殿下は平気で召し上がっていらっしゃいますよ」
エレンディラは朗々と響く声で良い、赤く塗った爪の指で、末席のスィグルを指差してきた。
ギリスと並んで大振りの団子を手に持ったままだったスィグル・レイラスを。
「美味いか。息子よ。エレンディラの姉を偲び、戦場の美味を食してやれ」
諦めたように言って、族長リューズは黙々と団子を食った。
一度は団子を吐き出した王子たちも、偉大なる父が我慢して食っているものを、不味いとは言えないのだろう。
赤い服を着た兄弟たちに劣らぬよう、青ざめた顔で団子を食っている。
その必死の様を見て、ギリスは笑った。堪えたが笑わずにおれない。
新星レイラスはギリスの隣で、何やら決まりが悪そうに、黙々と不味い団子を食った。
それも美しい行儀作法でだった。胃薬入りのを、よくも平気な顔で食えるものだ。
末席ゆえ、英雄たちからも、よく見えただろう。
その奥の将軍たちの席からも、なんとか目にできたのではないか。
王宮の美味に慣らされ、兵糧を食えない王子たちとは、新星レイラスは一線を画すのだと。
「レイラス殿下はお気に召したようですが、もしやこの味をご存知だったのですか?」
エレンディラがにこやかに高段の席から聞いてきた。
この距離で声を届けるには、かなりの声量で言わねば無理だ。広間に響き渡るような美声だった。
スィグルはそれに頷いて答えたが、ずいぶん小さな声だった。
「聞こえませぬ、殿下!」
叱りつけるような声で、エレンディラが答えてきた。
高段の食卓にいる長老会の者たちは、女長の叱責にびりっと痺れたように慄き、苦笑して見えた。
「そのような小さいお声では、兵に号令できませぬ。立ち上がって仰せください、皆に聞こえるように!」
族長も苦笑するだけで、女英雄に玉座の高段での大声を許していたが、赤みがかった紫の宮廷服に身を包んだエレンディラは、まるでそこに君臨する花のようだった。
命じられたわけでもないのに、スィグルは仕方なくのように立ち上がり、族長に一礼をして見せた。
それに答礼した族長リューズは、答えろというように、優雅に手で示した。
玉座の間が聞いている。このやりとりを。
ギリスは足が震えているらしいスィグル・レイラスの横で、銀杯の果実水を飲みながら聞いた。
「ヤンファールで……いただきました。同じものを」
「まあ、ヤンファールで。激戦の地でしたわね。よくぞご無事で。それは殿下の飢えを満たす美味だったでしょうか」
エレンディラはにこりともしない真顔で、問いただしてきた。
「はい。ありがとうございます。本当に……。命を繋ぐ美味でした。父上と、皆の大勝利のお陰で、今もこうして生きてここに」
新星の声が沈黙に途絶えるのを、ギリスは見上げた。足が震えている。声も。
もう喋らないほうがいい。
ギリスは銀杯を持って立ち上がり、それで殿下の口を塞いだ。
「お帰り、スィグル・レイラス。お前が助かってよかったよ。俺もヤンファールで死ぬほど戦った甲斐があった」
ギリスが果実水の銀杯を傾けると、スィグルは青ざめて飲んだ。飲まねば溺れる。
「この先の一生で、俺に借りを返してくれ。割賦でいい。でも早くしろよ、俺は長生きできないし、死ぬほど利息をとるからな?」
ギリスが大声で言うと、将軍たちの次の座にいる官僚たちが笑った。
常日頃、王宮で族長の金庫の金を数えているような連中だ。
「わかった、やめろ。必ず借りは返す!」
溺れたくない一心か、新星レイラスは約束した。
ギリスは新星を許し、空になった銀杯で高段のエレンディラに乾杯をしてみせた。
「返すって言った!」
ギリスが伝令すると、長老会の女長は大きく頷いていた。
「結構! お帰りなさいませ、スィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下。王家の金の麦よ。実りある生涯となられますよう、エレンディラがお茶を差し上げましょう」
エレンディラは花のような笑みで言い、約束のとおり、高段で族長に献茶を取り行った。
美しい女英雄の自慢の茶道具を女官が用意し、その場で淹れた熱い茶を族長に献じる。
王族の席にはエレンディラが淹れた同じものが、彼女の妹たちによって配られ、英雄たちや将軍、官僚や博士の席にも、別のどこかから女官たちが同じものを運んできた。
玉座の間に甘い茶の香りが満ちた。
ギリスもエレンディラが淹れたのをもらったが、派閥の部屋で味見したものと同じだった。
英雄来たる。新星昇る。
小さな二杯の茶器を以って、エレンディラはスィグル・レイラスだけでなく、ギリスにも花を持たせてくれたらしい。
ありがたい女長に押し頂いて、ギリスはその熱い茶を飲んだ。
まったく、えらい雷撃をいきなりブチ込んでくる女だぜ。また忙しくなる。
ギリスは舌を焼くその茶の味に、心から舌を巻いたが、隣にいた新星レイラスはまだ青い顔で震えながら、その茶をちびちび飲んでいた。
「スィグル、お前、その茶の名を知ってるか?」
ギリスは小声で新星の教養を試した。
スィグルは呆然としたような青い顔で、ギリスに答えた。
「銘? え……英雄来たると、新星昇るかな? ……それが何?」
それが何、と新星はとぼけた面だった。
気楽なもんだなとギリスは呆れ、そして笑った。
これが新星の黎明の第一日目だった。
いずれ詩人がこの日の出来事を記録するのかもしれない。
その時にはきっと、もっともらしい物語として詠われることだろう。
そうだといいと、ギリスは心から祈った。
●応援&コメント:Web拍手 / マシュマロ
050 念動術師
茶を飲み終えた新星レイラスは完全に腑抜けだった。
薬入りの兵糧も全て平らげ、それで腹がいっぱいになったらしく、もう他の晩餐の料理には手をつける様子がない。
一番不味いもので腹を満たすとは、なんという愚かしいことかとギリスは呆れた。
もったいないので食ってやろうと思い、新星の膳にある中からも、自分の好物はギリスが片付けておいた。
殿下の席に侍ると、本当に王族と同じものが食えるらしく、スィグルの膳とギリスの膳の料理は全く同じだった。
役得を得た弟どもも同じものにありついている。
何をしに来たのかも忘れ、弟どもは黙々と食べていた。英雄は腹が減っているものだ。
その忘我の食いっぷりを見て、ギリスはサリスファーたちを信用することにした。
他のは知らないが、サリスは一応、エレンディラのところで兵糧を食っている。その後でもここまで腹が減る奴というのは、信用できるとギリスには思えた。
たくさん食う奴は長生きするのだ。養父の教えの通りであれば。
それに比べて新星の食の細さは問題と言えた。
族長位には、一に体力、二に体力だ。
なにしろ朝から晩まで政務があり、そのあと玉座の間で家臣たちと酒食を共にし、さらには後宮でも一戦交えねばならない。
いつ寝ているのかと不思議でならない。
それでも族長リューズが朝議に遅参したことはないらしい。
もし遅れたら養父が怒るせいだ。
ヤンファールでは族長はそう言っていた。
ギリスが必勝の秘訣を族長に聞くと、負けるとお前の養父が怒るからだと言っていた。
負ければ恐ろしくて王都に戻れぬ。ここで戦って死ぬと、族長リューズは言っていた。
冗談なのかもしれないが、ギリスには冗談には見えなかった。
お前もそうだな、と、ギリスのことをよく知っているふうに、族長リューズは言い当てていた。
そうではないとギリスは思ったが、その時は言わなかった。
俺はイェズラムに褒められるために戦っている。叱られるのを恐れている男とは同じじゃない。
イェズラムはギリスに怒ることは無かった。皆無とは言わないが、いつも優しい養父だ。
しかし族長はイェズラムを恐れているようだった。
よほど悪い弟だったのだろう。あの忍耐強いイェズラムを度々怒らせるというのだから。
養父は苦労してそれを玉座に押し上げたのだろうが、並大抵のことと思えなかった。
射手の苦労というのは、おそらく並大抵でないものだ。
「もっと食えよ、スィグル。これ食えるだろ。好き嫌いするな」
食膳に小さく並ぶ美しい盛り付けの料理を箸で指して、ギリスは肉気がなさそうな料理をスィグルにすすめてやった。
でももう呆然としており箸も持っていない。
「早く帰って寝たい。疲れたよギリス」
もう傾きそうな座り方で、スィグルが弱音を吐いていた。
「何言ってるんだよ。子供部屋で英雄譚を聴いて途中で昼寝してただけの奴が、何に疲れたっていうんだ」
「さっきので疲れた。エル・エレンディラに」
「エレンディラなんて全然疲れるような相手じゃないじゃん」
ギリスは呆れて聞いた。
「そんなことないですよ、兄者、そんなことないです」
黙って聞いていたはずのサリスファーが、後ろのほうから囁いてきた。
食ってる割に聞き耳は立てていたらしい。油断ならない弟たちだ。
「帰る?」
よれよれになっている新星が可哀想になり、ギリスは尋ねた。
「無理だ。王族は刻限まで退出できない」
スィグルは青い顔で首を振っている。
なんて不自由な連中かと、ギリスは新星がさらに気の毒になった。
「時間の無駄としか思えないな」
食いもせずご馳走を眺め、青い顔でふらふらしながら我慢して座っているだけとは、新星の第一夜はとんだことだった。
「待つのが王族の仕事だ」
さっきも言っていたようなことを、スィグル・レイラスはまた口にした。
「お前が族長になったら変えればいいよ。飽きたら帰れるようにさ」
ギリスがスィグルの膳の肉をつまみ食いしながら言うと、新星はやっと淡く笑った。
「そうだな……」
「やる気が出るだろ」
「戴冠できたらそう命じるよ。飽きたら晩餐から帰ってよいと」
新星がもっともらしく笑って言うので、ギリスも面白くて笑顔になった。
こいつが即位したら玉座の間はめちゃくちゃになりそうだ。
父親のほうも、まあまあ無茶だが、それでも養父が牛耳っていた分、玉座の間の威厳は保たれていた。
今後はそれと同じことを自分がやるのかと思うと、ギリスは気が重かった。
自分も食ったらさっさと帰りたかったからだ。
いつまでも家臣と長話をする族長リューズは気が長い。今もまだ高段で、懐かしげに長老会の者たちと語り合っている。
「兄者、あいつが来ますよ」
新星の横にいるギリスの袖を後ろから引いてきて、サリスファーが慌てた声で言った。
弟が指し示すほうをギリスが見ると、英雄たちの席のほうから、煌びやかな薄布を裾にちりばめた礼装の女英雄たちが、一団となって近寄ってくる。
礼装をしても、結いあげた髪に黄水晶の花芯のある花簪を挿しており、その人数は昼間に見た時よりも多かった。
徒党を組んで来やがった。
ギリスも一瞬身構えて、それを見た。
まさかまた吹っ飛ばしに来たのかと思ったのだ。
「エル・フューメンティーナですよ、兄者。エル・フューメンティーナ!」
背後から低い声で、気の利く弟が伝えてくる。
俺が忘れてると思ってんのかと、ギリスは弟の気遣いに呆れたが、少々助かった感は否めなかった。
「フューメ……」
膳の前に膝をついて跪拝しようとした、年若い女英雄たちの一団に、ギリスは先に声をかけた。
そこで叩頭しかけていた女英雄が、じろっと怖い目でギリスを睨んだ。
「呼び捨てにしないでくれる?」
「エル・フューメ……」
黄色い目で睨まれてギリスは言い直したが、舌を噛みそうで口籠ってしまった。
ふん、と怖い声でフューメはため息をつき、深々とスィグル・レイラスに叩頭した。
「殿下、星園閥のエル・フューメンティーナと申します。こちらは同じ派閥の妹たちでございます。一同、殿下のご無事の王都ご帰還にお祝いを申し上げます」
非の打ちどころのない礼儀作法で、フューメは新星に挨拶をした。
廊下ではスィグルの悪口を言っていたくせに、そんなところは少しも見せない。
フューメが淡い笑みで可愛い顔をしていたせいか、スィグルは安心したらしく、にこりとして答礼した。
いつ吹っ飛ばしてくるかもわからない女なのに、用心しろとギリスは言いたかった。
「わざわざ挨拶に来てくれて、ありがとう。エル・フューメンティーナ」
「フューメとお呼びください、殿下。エル・エレンディラより殿下のお側に仕え、御身をお守りするよう仰せつかっております。どうぞ私と妹たちをいつもお側にお置きください」
「こんな人数どうやって置くんだよ……後宮か……」
ギリスは姉と同じ淡い笑みの妹たちを見渡し、思わずそう言った。
すると白い花簪をさした妹たちも、姉と同様の危険な目でじろっと一瞬ギリスを睨んだ。
妹は姉に似るものだ。この中の誰が念動術師か、確かめておかないと、いつ吹っ飛ばされるかもわからない。
「無礼ですよ、エル・ギリス。髑髏馬はお帰りを。私たちが殿下をお守りします」
女英雄は冷たい声で言ってきた。
氷結術師であるギリスでも、骨まで凍りそうだった。別に寒さに耐性があるわけではない。
「いやいや。俺は殿下の射手なんだ。帰るわけない」
ギリスは参って答えた。女たちが本気に見えたからだ。
「そうは聞いておりません。そうなのですか、殿下?」
フューメは新星に聞いた。スィグルは困った顔で、しばし目を瞬いていた。
「ギリス。お前、実は偽物か?」
「そんなことありません! 兄者は本物です、殿下!」
びっくりしたようにサリスファーが背後から叫ぶように言っていた。
「証がある訳ではありません、殿下。射手が誰かご存知なのは長老会だけです」
フューメは馬鹿にしたような目でギリスを見ていた。何を言うんだこの女は。
「その長老会から言われて来てるんだよ!」
ギリスは困ってフューメに詰め寄った。
「そうかしら。エル・エレンディラは私に殿下をお守りしろと」
「俺が頼んだんだよ、お前を借りられるように。知ってるんだろ。卑怯だぞお前」
叫ぶわけにいかず、ギリスが声を潜めてフューメと顔を付き合わせて言うと、女英雄は嫌そうな目で顔を背けた。
「近いわよ、エル・ギリス。気持ち悪いからやめて」
「非礼だぞ、ギリス……星園の英雄なんだから」
スィグル・レイラスが気をつかったように気まずそうにギリスに言った。
星園は女ばかりの派閥だ。
その事実を口にはできないとスィグルは思ったらしい。だが、そういう意味だ。
何が違うんだ、髑髏馬と。ギリスはそう思ったが、フューメは違う考えだったようだ。
「お優しい殿下」
廊下で悪口を言っていたくせに、フューメは平気で新星レイラスに甘い声で取り入っていた。
廊下で悪口を言っていたくせに!
ギリスは思わず歯噛みしたが、黙っているしかなかった。そのほうが都合が良いからだ。
その予想に違わず、フューメは厳かに新星に申し出た。
「実は私たちも殿下のご帰還式の隊列にお加えいただきたいのです」
フューメは長い睫毛の伏し目で、極めて控えめにスィグルに言った。
「正直に申しまして、私たちは戦闘経験もない弱輩でございます。殿下の行列にふさわしい英雄ではございませんが、どうぞ末席にお加えください。派閥の姉上が、新しい殿下には新しい英雄をと仰せで、及ばずながら私たちが星園を代表して殿下にお仕えいたします」
「こんなチビばっかり送ってきたのかよ」
ギリスは心底驚いてフューメに聞いた。お前の姉を連れてこい。まともな戦闘経験のある女英雄を。
そう言うギリスをスィグル・レイラスまでが、非難するような横目で見て来た。
「ギリス。非礼だぞ。言葉を慎め」
ぴしゃりと偉そうに言って来て、スィグルはさっきまで震えていたくせに、急に主人みたいな態度だった。
「エル・フューメンティーナ。あなたの姉上たちにお礼を申し上げてくれ。僕は戦うために隊列を組むわけじゃない。王都に戻るだけだ。戦闘経験はいらないよ」
「抜かりなく護衛を勤めますゆえご安心ください」
「姉上の念動術は星園でも一、二を争うものです」
まだ餓鬼みたいな声の小娘がフューメを褒めていた。
まだ新星に挨拶もしてないのに喋るなとギリスは驚いたが、娘たちは個々に名乗る気はないようだった。
確かに十人ぐらいいる娘っ子にいちいち名乗られても憶えられない。
エル・フューメとその一味でギリスには十分だったが、誰が新星に直言して良いと許した。
そういう目でギリスは睨んだが、スィグルはにっこりとして、自分より年下らしい、その元服したての少女の英雄に頷いていた。
「そうなんだね。ありがとう」
優しげに言うスィグルに、餓鬼みたいな花簪の連中が、うっとりと照れていた。
まるで星を見るような娘たちの態度に、こいつすぐ殴ってくるし人を食う殿下なんだぞと、ギリスは呆れた。
それでも確かにスィグル・レイラスの容貌は良い。いかにもチビの女英雄が好みそうな綺麗な殿下だ。
それに心が動いたのかどうか、フューメンティーナは冷静そうな真顔でスィグルに申し出た。
「僭越ですが、殿下に念動術の指南をするよう、エル・エレンディラから仰せつかっております」
「エレンディラにそこまで話してないぞ」
ギリスはフューメの申し出に驚いて言った。なぜエレンディラにその用件が分かったのか。
だが、フューメは尋ねたギリスをうるさそうに見て来た。
「ごちゃごちゃうるさいのよ、あなた。どうでもいいでしょ!」
これが本性としか思えない顔で、フューメが凄んできて、ギリスは黙った。
抵抗してはならない何かがフューメの目の奥にあった。
「念動術」
スィグルが不思議そうに聞き返している。
「殿下は念動術をお使いになるとか」
「英雄に習うほどの魔力ではない」
確かめてきたフューメに気後れしたように、スィグルはぶつぶつと答えた。
それにフューメはにっこりとした。
「大丈夫です。魔力は使うほど伸びますし、特に念動術は使いようでございます、殿下。ただ馬鹿みたいに力が大きければ良いという、氷結術や火炎術とは違います」
氷結術のところをフューメは明らかに強調して言った。たぶん火炎術のところも。
ギリスの背後でサリスファーと包帯巻いてる奴が呻いていた。氷結術と火炎術だ。
髑髏馬には特にその辺りの魔法を使う者が多い。
「賢き者が正しく使えば、念動術は千倍にも万倍にも役立つ魔法です。聡明なる殿下に相応しい技でございますね」
「そうか。わかったよ、ありがとう、エル・フューメンティーナ。あなたの指導を受けよう。でも……」
暗い顔をして、スィグル・レイラスは言い淀んだ。フューメが何事かと首を傾げている。
「でも、あなたが魔法を使うのは止して欲しい。使うと石が痛むんだろう? 僕は魔法を使っても疲れるだけで済むけど、あなたは命が縮むのだから、もっと大事な時のために取っておくべきだ」
ジェレフには魔法で小怪我を治させるくせに、新星レイラスは女に優しかった。
ギリスにはそう見えた。それで隣であんぐりとしていた。
「そんなに驚くな、ギリス……何だよ」
気味が悪そうにスィグルがこっちを見ていた。
だが仰天していたのはギリスだけではなかった。
フューメンティーナも両手で口を覆って驚いていた。
「お優しい殿下……!」
今度は本気で驚いているらしく、フューメは微かに涙目だった。
「私の身のことはお気になさらないでください。英雄は日々魔法を使うものです。訓練いたしますので。それに殿下のために振るう魔法をフューメは惜しんだりいたしません」
いつの間にそんな忠臣になったのか、エル・フューメンティーナは熱く約束した。
廊下で悪口言ってたくせに……!
ギリスもそう言いそうになり、思わず片手で自分の口を押さえた。
「感動してるのか、ギリス……お前も?」
不可解そうに新星レイラスが尋ねてきて、ギリスは首を横に振るので精一杯だった。
「この男は放っておきましょう殿下。フューメがおります」
膳ににじり寄ってスィグルの気を引いて、フューメンティーナは美しい顔で微笑んで言った。
「ありがとう、エル・フューメンティーナ。千軍を得た気分だよ」
スィグルも相当な玉なのか、にっこりとしてフューメに感謝している。
いかにもお育ちの良い殿下という風情だった。
すぐ殴ってくる癖に……?
ギリスは押さえたままの口の中で、その言葉を噛み締めて飲み込んだ。
飲み込んだ言葉で腹が膨れそうだ。
射手にこんな苦労があるとは予想外だった。
思ったことを自由に口に出すこともできないなんて。
ギリスは膳の銀杯を取って、果実水で言葉を流し込もうとしたが、その杯すら空っぽだった。さっきスィグルに飲ませたせいだ。
くそ……。
ギリスは空の杯を見つめ、震えてそう思ったが、その背をサリスファーがバンバン叩いて来た。
「兄者、叩頭してください、叩頭!」
小声でうるさく言う弟に、ギリスはムッとした。今度は誰が来たと言うのか。クソ忙しい夜だ。
苛立って目を上げると、そこに見たことがあるような礼服の裾が見えた。
フューメが恐れるように慄き、腰を抜かして見上げている。
「エル・ギリス」
ギリスは怒ったような声で呼ばれて、趣味のよい紺地の長衣の者の顔を見上げた。
「兄に叩頭しろ」
長身から見下ろして来て、その男は言った。黒塗りの盆を持っている。
「ジェレフ……」
なぜ兄がここに来たのかも一瞬忘れ、ギリスは唖然と長身の兄を見上げた。
「呼び捨てにしないでよ、不敬でしょう!!」
噛み付くようにエル・フューメンティーナがギリスに言った。
なぜお前が怒る。
そう思ってギリスが星園の連中に目を向けると、なぜか全員が怒った目でギリスを睨んでいた。
いつ吹っ飛ばされても不思議ではない状況だった。
──つづく──
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