TRPG DX3rdにおける自PCの龍巳クリフと、もにゃさんのPCの久方菜乃花さんのお話です。全3節構成。
第一節:ここ
第二節:https://privatter.net/p/9553259
第三節:https://privatter.net/p/9556606
@nariheiheTRPG
「―――あれ……?」
拍子の抜けたような声と共に、その場に膝をつく。
自分自身の身体の芯が重く、冷たくなっていくのを知覚する。
膝をついても、全身を蝕むような苦しさは少しも収まる気配がなく、そのままコンクリートの地面に倒れ伏す。
顔から伝わるひんやりとした感触も、今は身体を底冷えさせるようで気持ちが悪かった。
「あんまりにもしつこいからよ。ちょっと"抑えさせて"貰ったぜ。って……」
頭上から声が聞こえてくる。たった今自分が対峙していた仮面の男から発せられた声だ。
もう少しで捕まえられそうだったのに。手が届きそうになった瞬間、相手の背中から突如飛び出してきた影でできたような腕に不意を突かれた。
それでも大したダメージはなかった。この身体の内側から蝕まれるような苦しさが、あの影の攻撃の本当の狙いだったんだろうか?
でも、なぜか今のこの身体の状態は初めての気がしない。それどころか、どこか懐かしい。
「なんだお前、"持病"もちかよ」
"持病"。そういわれた瞬間、全てを理解した。
突然降ってわいた幸運に、何の準備もなく手のひらの上に乗せられた"当たり前"の前に、自分の中に蔓延る"理不尽"は跡形もなく消え去ったと、そう思っていた。
でも、そうじゃなかった。
その"理不尽"は降ってきたものに覆われて抑えられていただけで、今までずっとこの身体の中に息を潜めていたのだ。
それを裏付けるように、今まで体内で息づいていた"幸運"は何も力を発揮してくれない。
今まで、この"理不尽"を抑え込み、無くなったと錯覚させてくれていたその力は、まるで夢か幻かのように、始めから無かったかのように手のひらから消え去り、代わりにそこには遠い未来に押しやったと思っていた"その時"を握らされている。
「まぁいいや。てめぇが倒れれば残りの奴を撒くのは簡単だ。あばよ」
補足目標はそれだけ言い残して走り去っていく。彼が自分にした事は、多分この力を抑えることだけだったのだろう。そこから倒れたのは自分の問題だ。
なんとか動けないかと身を捩っても、思うように力が入らない。
路地裏の中、左右に立ち並ぶビルの間から見える青空は、あの日病院を出て見上げたものよりずっと狭く、低く見えた。
「こちらチームN。先行していた"
こちらに駆け寄ってくる複数の足音と共に聞こえてくる声を耳にしながら、ぐったりと目を閉じた。
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第一節 失ったもの
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脳裏をチリチリと焼くような焦燥の中で、その赤髪の青年――龍巳クリフはUGN管轄下の病棟をひた走っていた。
受付で言い渡された病室番号を反芻するごとに、腹の奥底で冷たい液体が溜まっていくような感覚に陥る。
このような感覚を、以前にも二度ほど味わったことがあるなと頭の片隅でクリフは無意識に考える。
その正体が迫りくる死の予感であると気付き、昔心を通わせた幼馴染と、少し前に別世界で縁で結ばれた少女が脳裏に浮かんだところで、無理やりに思考を中断させた。
病棟には今もFHと交戦した負傷者が何人も搬送されてきており、医師や看護師が忙しなく動き回っている。その合間を縫って進んでいくと、目的の病室番号の札が視界に入ってきた。
「菜乃花っ!!」
名前を呼びながら勢いよく扉を開けると、そこには一面の白が広がっていた。
清潔に保たれた白い病室だった。白い壁、白い天井。白いカーテンが緩やかにそよぐ窓際からは、夕日のオレンジ色が差し込んで室内をグラデーションに染め上げている。染み一つないベッドとシーツに包まれて横たわり、呼吸器の取り付けられた菜乃花の顔色は、記憶とは違う白磁のような白さだった。
絵画から飛び出してきたような、映画のワンシーンを切り取ったようなその光景を、少しだけ綺麗だと思ってしまった自分に、怖気が走った。
「あ、クリフくん……」
菜乃花の目がゆっくりと開いてクリフに向けられる。そこには普段の溌溂さや快活さは欠片も感じられず弱々しい。
今にも消えてしまいそうなその様子にクリフは我に返ると、急いでベッドまで駆け寄る。
「菜乃花、どうした? 何があったんだ? 誰にやられた?」
一体何があったのか。戦闘やその後の任務にキリが付いた時「久方菜乃花が危篤状態である」との知らせを受けて飛んできてみればこの状態だ。
外傷はほぼないのに、普段から見られるような活力が全く感じられない。まるで重篤な病気にでもかかっているかのような……。
「来たのね、龍巳君」
「椿さん……」
背中からかけられた自分を呼ぶ声にクリフが振り返ると、病室の入り口ではクリフもよく知るUGNの教官である玉野椿が深刻そうな顔をしていた。
「私から話すわ。その状態の久方さんに喋らせるのは酷だから」
「あ、あぁ……」
椿に促されるままにクリフは病室から退出する。病室から少し離れた広間で立ち止まった椿に対して、動揺に急かされるようにすぐにクリフは問いかけた。
「椿さん、あれは一体? 菜乃花のチームはFHの中でも脅威度の低い奴を追跡していたんじゃ……」
今現在、クリフ達UGNはFHとの抗争に身を投じている。
FHによる中規模なテロの情報を掴み、それを防ぐために多数のチームからなる部隊を構成して任務にあたっていた。
計画を始動したFHに対して準備を予め整えた状態で迎撃を行った結果、至る所で発生した戦闘はどれもUGNが優勢でテロを未然に防ぐことができた。
しかし捕縛できた実行犯は多くなく、劣勢と判断したFH構成員たちの多くはその場を離脱・逃走して体勢を立て直そうとしたため、任務は自動的にその構成員の追跡と捕縛へと移行していた。
菜乃花が所属していたチームはそのFH構成員の中でも後方支援を主とし、戦闘能力が低そうだと判断された人物の追跡を任されていたはずだ。
「えぇ、確かに久方さん達の追っていた男の脅威度は低かったわ。ただ随分と逃げ足が速くて、追っていたチームは素早く身軽に動ける久方さん以外は遅れを取っていたみたい」
「じゃあ! なんで菜乃花は怪我もなくあんな瀕死の状態に――」
「落ち着きなさい、ここは病院よ。順を追って話すから」
椿の凛とした叱責に、声を荒げかけていたクリフは口をつぐむ他なかった。
「仮面をしていたから実際に被害が出るまで判断が付かなかったけど、久方さん達が追っていた人物は特殊な能力を持っている構成員だったみたいね。UGNにも資料があるわ。私たちは"レネサプレスト"と呼んでる」
「"レネサプレスト"……?」
「えぇ、シンドロームはウロボロス。彼が出す影のような手腕の攻撃を受けると、レネゲイドによる力の発現がほぼ抑えられてしまうという報告が上がっているわ」
「力が抑えられる、だけ?」
「そう、まさしく"だけ"よ。侵食率が下がるわけでも、ジャームを元に戻せるわけでもなく、ただ表に出なくさせるだけ。それでもその身体は力を持たない普通の人間と大差なくなってしまうけど」
「それだけならどうして……」
クリフは思わず病室の扉に、その向こうにいる菜乃花に視線を向けた。今しがたクリフが見た菜乃花の様子は、ただレネゲイドの力が抑えられているという言葉では到底説明できないものだった。
「あの久方さんの症状は、"レネサプレスト"によるものではないわ。あれは"久方さん自身によるもの"よ」
―――もうすぐ死ぬんだって
飲み込んだ唾がやけに冷たく感じる中、クリフはある日の菜乃花の話を思い出した。
―――あ、夢の『私』の話ね。私は生きてるでしょ。だから夢の話
―――すごく綺麗で……なんて言うんだろうなぁ。そんな夢を見ている私は、それが『正しい』って思っちゃうんだ
―――きっと何か一つでも違ったら、私は夢の中の『私』みたいに、死んじゃってたと思う
あの日、あの話を聞いて、菜乃花が本来は余命わずかで、レネゲイドウィルスによって命を助けられたのだろうという事はクリフにも察しがついていた。
そして、少し前に"別の菜乃花"からも同じ話を聞いて、それは確信に変わっていた。
例え世界が変わっても、まるで運命かのようにその病魔は菜乃花に襲い掛かる。レネゲイドの側こそが、その運命を捻じ曲げた異物だとでも言うかのように。
なら、そのレネゲイドウィルスがなくなったら……?
クリフの背中に悪寒が走った。
「……完治してたわけじゃなかったってことすか」
おそらく答えなのだろう自分の考えを口にして、胸に穴が開いたような心持ちになる。
「久方さんの症状は、彼女がオーヴァードとして覚醒する前に罹っていたものと一致しているわ。毒を持って毒を制す……。久方さんの先天性の病を、より大きな"病"で抑え込んでいただけだったみたいね」
「……何が起こっているのかは、分かりました」
状況は理解できた。だが、一番重要な事が確認できていない。
「それで、菜乃花は助かるんですか? その"レネサプレスト"の能力を解く方法は?」
食いつくように聞くクリフに対して、椿は視線を斜め下に落としながら口を開く。
「……能動的に能力を解除する方法は見つかっていないわ」
「なっ……!」
「通常であれば三日も経てば問題なく能力の影響は消え去って力を使えるようになるから、今までは能力を食らった人は数日療養を取れば事足りてたの。本人の殺傷力も低くて大した被害も出たことなかったから、対策にリソースを割いたことがなかったのよ」
「……じゃあ、菜乃花が三日間生き残るしかない……?」
「そうなるわね。でも……」
椿は視線を落としたまま言葉を続ける。その表情を見ればクリフにもその先が予想できて、足元がぐらつくような感覚を覚えた。
「……本来の寿命を過ぎてしまっているのか、それとも病巣を抱えたままレネゲイドの力で元気に動いていたからかは分からないけれど、衰弱のスピードが速すぎるわ。日付を越えられるかも怪しい状態よ」
「……」
「このままでは、久方さんは間違いなく助からないわ」
「なら! その"レネサプレスト"を捕まえて解除方法を吐かせりゃいい! 元々取り逃した相手なんだろ!」
「えぇ、私もできるだけ手を回すよう手配をしてるわ。でも……でもね、あまり多くは期待できないかもしれない」
「え……?」
「今回の作戦で捕縛できなかった敵は彼だけじゃない。むしろほとんどが早々に撤退して今も逃亡している現状よ。主犯格や幹部、凶悪なジャームも含めて、重要な構成員を今も総力を挙げて捜索している状態。そんな中で、大した脅威でもない"レネサプレスト"を探す優先順位は……組織にとってはかなり低いわ」
それを聞いたクリフは思わず声を荒げそうになり口を開いたが、拳を握り込んで抑え込み俯いた。
クリフも長くUGNとして活動してきたエージェントだ。椿の言葉は何も間違ってはいないと分かる。ここで敵のトップ層を取り逃せば、この先の未来で大量の命が犠牲になるかもしれない。
今回の戦いで命を落としたUGNエージェントだっているのだ。菜乃花一人の命が組織全体の都合を上回るほどの余裕など、どこにもない。
自分たちは、表の世界で何も知らずに過ごす善良な市民の日常を守るために戦っているのだから。
"久方菜乃花が死ぬ"。その現実が目の前に迫ってきている事を理解した瞬間、心臓が握りこまれるように痛み、頭から血と熱が下がって行くような感覚をクリフは覚える。
UGNにいる以上、常に別れの可能性は付きまとう。親しい間柄である菜乃花とそうなることを、全く考えたことがなかったわけではない。
それでも、菜乃花が居なくなろうとしている今この時、自分の心は予想していたよりも遥かに大きな悲鳴をあげている。
いつの間にか、あの能天気で騒がしい少女は自分が思っていたよりもずっと心の中の大部分を占領していた事を今更になって実感する。
しかし、今はその感情の定義付けに時間を割いている状況ではなかった。
居ても立ってもいられず、クリフは足早に病室まで歩くと扉を開いた。
中ではいつの間にか医師と看護師がベッドの傍らに立ち、菜乃花の容態を診ているようだった。
それに構わず、クリフはベッドまで歩み寄って菜乃花の顔を覗き込んだ。
「菜乃花、おい、菜乃花……!」
「クリフくん……」
呼びかけに応じた菜乃花と目が合うが、それ以上どう声を掛ければいいのか分からなかった。
生きろだとか、しっかりしろだとか、あと三日だとか、そのどれもが無理な事くらいは、目の前の少女が一番分かっているだろう。
「そんな顔、しないで……」
そのばずなのに、菜乃花は静かに、穏やかに笑顔を浮かべた。いつもの元気の溢れるようなものではなく、儚く繊細で、触れれば砕けてしまいそうな、そんな笑顔だった。
「私、こうなってね、やっぱりなぁ……って思ってるんだ」
「やっぱり……?」
「うん……やっぱり、私はずるかったんだな……報いが、来たんだなぁって……やっぱり、こうなるのが正しかったんだな、って」
クリフの目の前の少女は、自分の死を確信しているかのように言葉を紡ぐ。
降ってわいた不幸に将来を奪われ、降ってわいた幸運に命を救われ、そして今度はまた降ってわいた不運に幸を取り上げられ、先延ばしにされた死が突然目の前に迫ってきている。
それでも、菜乃花は幸せそうに笑顔を浮かべていた。今までの人生で悔いなどなかったかのように。十分満足しているかのように。
「私は、できないと思ってたこと……たくさんできたから。だからだいじょぶなんだよ……だからクリフくんも……そんな顔しないでよ」
「ふざけんなよ……」
菜乃花の言葉を受けても笑えるはずもなく、逆にクリフの表情は一層険しくなっていく。
「なにが大丈夫だよ。なにが正しいだよ。お前が死ぬのを誰が望んだ? 誰が報いを受けるべきだって決めたってんだ? お前はずるくなんかないし、例外でもないんだよ! それに……」
「クリフくん……」
「なんでお前"も"、こんな時になっても笑ってんだよ……!」
どうして、自分の周りの人は死に行く時にそんなに満足そうな笑顔を浮かべるのか。死ぬことに笑えるような要素なんて、何一つないはずなのに。
「あはは……長年の強がりの成果なのかもね……病気が治った時は何のためだったんだろうって……思ったりもしたんだけど……今、笑うためだったのかもなぁ……」
「なに諦めてんだよ。なに受け入れてんだよ……! クソッ、お前が助かった時まで、絶対笑ってやらねぇからな」
「もう、頑固だね……クリフくん」
「あの、すいません。申し訳ないんですが点滴を変えますので一旦離れて貰えると――グッ、うぅ、あぁ!」
突然、クリフに声をかけようとした看護師が胸を押さえてうめき声を上げ、痙攣しだした。
唐突ではあってもエージェントは素早く反応し、病室の入り口まで来ていた椿は医師の目の前に、クリフは菜乃花のベッドの前に位置どって看護師を警戒する。
しかし看護師は痙攣とうめき声をすぐに収めると、虚ろな目で俯いたまま口を開き始めた。
「ごきげんよう、皆さん。私は"マスターマインド"」
「なっ!?」
「"マスターマインド"……!」
部屋の中が一気に緊迫感で満たされる。
"マスターマインド"天船巴。FHのマスターエージェントとして知られるその人物は、人心の操作・攻撃を得意とする者としてUGNにもよく知られている。
関わった結果精神崩壊を起こしたUGNエージェントも少なくはなく、非常に危険なFH構成員として名高い。
確かにそのような人物ならば、いきなり病室の看護師の精神を乗っ取って接触を図ることも可能だろうが……。
「何が目的? いえ、どちらにせよ、あなたに喋らせる気はないわ」
「あらあら、連れないですわねぇ。強引に塞ぐようでしたらこの方の精神はもう戻ってきませんよ? それに拘束されたら今度はそちらのお医者様のお口を拝借する事になるだけです」
「ひ、ひぃっ!」
医師があげた悲鳴を聞いて、看護師を拘束しようと動き出していた椿の手が止まる。それを良い事に、身体を借りたマスターマインドは言葉を続けた。
「安心してください。今回に限っては悪いお話ではないはずです。特にそこの久方菜乃花さんにとってはね」
「っ! ……FHが今の菜乃花に話だと?」
クリフが警戒の色を強める。菜乃花をこんな状態に追いやった当の組織だというのに、一体何の用でわざわざこんな真似をしているのか。
「えぇ、えぇ、そうですとも! そちらの方、もう今晩にでも亡くなってしまいそうなのでしょう? まだまだ未来も希望も持てるような歳のはずなのに、うちの者が多少粗相をしただけで……かわいそうに」
「煽りに来ただけなら帰ってもらえるかしら? あなたの無駄話に付き合うほど暇じゃないの」
椿から冷たく鋭い声色を浴びせられても、"マスターマインド"の余裕を湛えた口元は何も堪える事なく喋り続ける。
「せっかちな方は嫌われますよ? まぁいいでしょう。私は取り引きに来たのです。久方菜乃花さん、あなたとね」
「わたし……?」
もう喋るのも辛いのが感じ取れるような弱々しい声で菜乃花が答える。どこか楽しげな"マスターマインド"の声とはどこまでも対称的だった。
「えぇ、私はあなたを助ける事ができます」
「は……? 菜乃花を助ける!? 本当か!?」
「龍巳君、落ち着きなさい。罠にしか思えないわ。方法も言わずにそんなこと聞かされてもね」
「本当にあなたは話を待てない方ですね。簡単ですわ。"レネサプレスト"はFHで、私は"マスターマインド"。私が彼に能力を解除するよう一言いえばそれで済む事ではないですか」
「……どういうつもり? あなたがUGNの久方さんを助ける道理なんてないはずよ」
「その通りです。可能であれど、FHが"UGNの"久方菜乃花さんを助けるなどということはあり得ない。同じFHのメンバーだったら話は違いますけれどね」
「……まさか、あなた……!?」
行きついた考えに目を見張る椿に呼応するように、"マスターマインド"の口角が吊り上がった。
「久方菜乃花さん、UGNを離反して私の下に来てくださらないかしら? そうすればあなたの命を助けてあげます。これが取引の内容です」
「菜乃花が、FHに……?」
予想外の交渉内容にクリフが振り返った先では、感情の読めない顔でぼうっと天井を見上げる菜乃花がいた。
菜乃花がFHの一員になるなど、クリフは想像したこともない。それでも……。
「随分とふざけたマッチポンプね。UGNの目の前で引き抜きの交渉なんて、舐められたものだわ」
視線だけで射殺さんとするかのように、怒りの混ざった鋭い視線を椿は向ける。
「うふふ。それでも、あなたは止めようとはしないんですよね。"シルクスパイダー"のあなたなら」
「……」
険しい表情のまま、椿は視線を落とす。
いくらUGNの立場があるとしても、もうほとんど時間の残されていない女の子に対して頭ごなしに生きる道を否定するような事は椿にはできなかった。
「それにそちらが承諾してもしなくても、この病棟から女の子一人を連れ去るくらいは造作もありませんわ。ここで重要なのは彼女の意志」
"マスターマインド"はゆっくりとその顔を菜乃花へ向け、優し気な口調を作って語りかける。
「さぁ、久方菜乃花さん、死にたくはありませんよね? まだ生きていたいという"欲望"を、当然お持ちですよね? ならば応じるのです。"はい"と言うだけで、あなたの未来はずっと先まで開けるのですよ」
「……久方さん」
椿がベッドの傍まで寄り添い、顔を覗き込みながら語り掛ける。
その表情からは、本気で菜乃花の事を案じる気持ちが見て取れた。
「あなたの人生、あなたの命よ。あなたがどちらを選択しても、私に止めることはできない。でもね、"マスターマインド"の下に行くのだけはダメだと私は思うわ。何をされるか分からない。死ぬよりも辛い目に遭う可能性だって決して低くはない。できれば私は……行って欲しくはないって思ってる」
「菜乃花……」
クリフが菜乃花の傍らに腰を下ろす。その目には覚悟を決めたかのように、真剣な光が宿っていた。
「FHに行け、菜乃花」
「龍巳君……」
椿の複雑な感情の入り混じった声を聞き流しながら、クリフはまっすぐに菜乃花の目を見たまま言葉を続ける。
「死んだら全部……全部終わる。そこで途切れる。どんな事になっても、死ぬよりはずっといい。可能性がゼロにならないなら、それでいい」
もう時間が残されていないこの状況で、確実に助かる方法があるのなら……。
例え自分から離れたとしても、例え敵に縋ることになったとしても、喪わない道があるのなら、クリフが迷う事はなかった。
「大丈夫だ。お前がFHに行っても俺が絶対に連れ戻す。何があっても取り戻すから――」
「いかないよ」
弱々しいはずなのに、凛とした芯のある声が菜乃花から発せられた事と、そしてその内容に、クリフは目を見開いた。
菜乃花は天井を真っすぐに見上げたまま、満足そうな笑顔さえ浮かべて、しっかりとした口調で言葉を続ける。
「私、もう十分幸せだったから、いいんです。大事な人たくさんできて、色んなやりたい事ができました」
本当に、夢のような時間だったと菜乃花は思う。
病室に押し込められて、窓枠にはめられた青空を眺めながら終わりの時を待つしかなかった自分が、冗談のようなウィルスで自由を手に入れて、それまでとは比べ物にならないくらい色鮮やかな経験ができた。
「多分、ボーナスステージだったんです。もう、一生分の幸せ、貰えました」
「待て、菜乃花!」
学校。街。支部。学友に同僚。世界の表から裏側まで、あの頃の自分には決して想像もできなかったような思い出が、それこそ数えきれないほど胸の中で輝いている。
「みんなを裏切って、この思い出に傷が付いちゃうのが一番嫌だから……」
それは、きっと死ぬよりも辛い事だから。最後にそんなことをするために、この夢のような時間を貰えたわけじゃないと思うから。
「だから"マスターマインド"さん、あなたの所へは行けません。ごめんなさい」
菜乃花の言葉の後に、沈黙が訪れる。
唖然とするクリフと、神妙な面持ちをした椿。それに対して"マスターマインド"は、能面のような感情の読めない、つまらなそうな表情をしていた。
やがてその表情のまま、口だけが動き出す。
「そうですか。どうやら見込み違いだったようですね。生きる意志すらもないような子を迎え入れたところでどうしようもありませんし。残念ですわ。さようなら」
それだけ言い残すと、"マスターマインド"に乗っ取られた看護師の身体は糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。それを見て医師と椿が急いで看護師の容態を確認する。
「えへへ……断っちゃった」
「えへへじゃないだろ! 生きられる道があったんだぞ! なんでそれを……!」
「ごめんね……でも、嫌だったんだぁ。これが……この道が、私の望みだから」
「それじゃあ、俺の……」
菜乃花の手を握りこむ。続く言葉を口に出すことはできず、頭を俯けた。
(お前に、何が何でも生きていて欲しいっていう願いは、俺だけの我が儘なのかよ)
強引に人の心の中に踏み入って、いつの間にかその中心に居座るようになっていたこの少女は、置いて行かれる側の気持ちを知らないまま、思い出を命よりも優先している。
「椿教官、お父さんとお母さんを……呼んであげてください。ずっと私の事育ててくれた……大切な人、だから……会っておかないと」
「久方さん……分かったわ。この後、連絡する」
「菜乃花……」
本当に、全部受け入れてしまっているのか。本当に、生きることを完全に諦めてしまっているのか。
生きろと言う事が、本当に菜乃花の意志にそぐわないのか。そうじゃないのなら、せめて。
「一回で良い。一回で良いから、生きたいって、死にたくないって、そう言ってくれ」
嘘はつかせない。そんな意図を伝えるかのように、クリフは菜乃花を見つめ続ける。
そんなクリフの視線を受けて、菜乃花は観念したように初めてその表情を曇らせた。
「……生きてたいよ。死にたく、ないよ……。でも……みんなを裏切るのはどうしても嫌だったの……ごめん、ごめんね……」
「謝んなよ……」
それは、今まで気丈に笑顔を浮かべていた菜乃花が見せた、たった一度きりの心の柔らかい部分。
クリフが強引に引き出した、菜乃花の弱音だ。
「お前は何も、悪くないだろうが……!」
それでも、それだけ聞ければ十分だった。
クリフは立ち上がると、病室を出ていこうとする。いきなりの事に、思わず椿が呼び止めた。
「龍巳君! どこへ行くの?」
「"レネサプレスト"を探し出す。さっき"マスターマインド"が一言いえば解除できるって言ってたんだ。能力の解除は"レネサプレスト"の思い通りのはずだ」
「一人で探す気? 可能性は……低いと思うわよ」
「それでも、ゼロじゃないんなら、俺はやる」
「クリフくん……」
菜乃花の声を背に、クリフは病室を後にする。最後の「今までありがとう」という言葉は、クリフの耳には届かなかった。
第二節「喪ったもの」( https://privatter.net/p/9553259 ) に続く