カルみと 『大嫌いな日』 おまけ
シナリオネタバレあり
@popo_trpg_ss
先日投稿した
『大嫌いな日』https://privatter.net/p/9861786
の続編です。
今日も、東京に居座る温帯低気圧は性懲りも無く町に雨を注いでいる。
制服のフードを深く被り、マンションまでの道を一気に走った神無は、息を整えながら合鍵を使ってエントランスを通り抜けた。
エレベーターを押して数秒の沈黙に安堵し、再び扉を開いた先から聞こえる音に緊張を覚えた彼は、早足で目当ての部屋の前へと向かう。
手に持っていた合鍵でそのまま扉を開くと、神無は隙間から室内に身を滑り込ませた。
「おじゃま、します…っと……」
家主とその相棒に聞こえるように声だけ掛けて、神無はひとまず玄関先で制服を脱いだ。
濡れてしまった髪もこのまま制服で拭いてしまおうかと手を伸ばすと同時に、部屋の奥からひょこりと見慣れた白のアンドロイドが顔を出す。
彼…アサギリは濡れた神無を上から下まで眺め、不思議そうに首を傾げながらタオルを手に玄関へと歩いてきた。
「お疲れ様です、神無さん。傘はどうされたんです?」
「あー…差すとうるさくてさ、すぐだし濡れないかなって思ったんだけど……」
差し出されたタオルを受け取って、素直に礼を言いながら髪を適当に拭う。見兼ねたアサギリがそんな神無の手からタオルを取り上げると、丁寧に水気を取り始めた。
「髪を痛めてしまいますよ。」
「わ、わ、ありがと、ごめんアサギリ。」
「慣れていますので、お気になさらず。」
呟いて髪をそっと拭う指先からは、確かに手慣れた様子と、普段彼に込めているらしい親愛が神無にもお裾分けされているような気がした。心地良い感覚に小さく微笑んでいると、そんな彼らの耳に寝室から声が届く。
「…神無ちゃん?」
扉が僅かに開き、そこから顔を覗かせたのは家主である縞斑狩魔だった。
会話が聞こえたのだろう、玄関先に立っている神無の姿をみつけると、彼は安堵したように表情を緩めて口を開く。
「おかえり、神無ちゃん。」
「お邪魔します…って……起きて大丈夫?」
「そろそろ動かないと筋力が衰えるから。アサギリちゃん、代わるから珈琲とココアをお願い。」
神無のそばに歩み寄った縞斑は、言いながらアサギリの手からタオルを取り上げる。
慣れない力加減と手つきで神無の髪を拭い始めた彼を見上げ、指示にこくりと頷いたアサギリは呟いた。
「…その感情はちゃんと抑えてください。」
「おっと、不本意だけど耳が痛いな。」
苦い笑顔を不器用に浮かべて返事をする彼に、アサギリは内心安堵を覚えながらキッチンへと足を向ける。
相変わらず勘のいい相棒にパンチの効いた皮肉を言われた縞斑は、彼の成長するユーモアが一体誰に似たのかと首を捻った。
そうしてふと、縞斑の手の中でされるがままに髪を拭かれていた神無へと視線を落とす。
「っと、ごめん神無ちゃん、痛くない?」
「………ない、」
黙って俯いている神無に声を掛けるが、そこに覇気はない。不思議に思った縞斑がそっとタオルの隙間から彼を覗き込めば、覗く耳先が真っ赤に染まっていた。
「……神無ちゃん、顔」
「赤くない」
「…赤」
「くない」
「赤く」
「ないっ!!!」
白い!!!と混乱した様子で叫ぶ神無の様子に、思わず縞斑は笑い声を上げる。不服そうに唸り声を上げる神無だが、久しぶりに聞く縞斑の笑い声に強く抵抗できない様子だった。
これ以上続けたらそのまま帰ってしまいそうだと思い直した縞斑は、名残惜しいがタオルを取り去って部屋の奥へと促す。
「上がってよ。今日はリビングで話す?」
「まだ寝てないとだめ。ベッドに戻れ。」
「心配性だなぁ。」
きっぱりと言って廊下を歩く神無の様子に、抵抗することなく縞斑は頷いた。
廊下を歩いて間も無く辿り着いた寝室の扉を開けると、縞斑は神無を中に促してベッドに戻った。そばの椅子に座ろうとする神無を見上げた彼は、ベッドの縁をぽんぽんと叩く。
「ここ、座ってもいいよ?」
「………遠慮しとく。」
赤い顔をふいと逸らして呟くその姿が愛おしく、かと言ってこれ以上揶揄えば本当にへそを曲げてしまうに違いないと踏み止まった縞斑は、それ以上は言及せずに大人しくベッドの上に座った。
しばらくして寝室の扉をノックして現れたアサギリは、赤い顔の神無とにやにやと笑っている縞斑の顔を交互に見ると、小さくため息をついてふたつのマグカップをそれぞれの手に渡す。
「マスター、どうぞ。」
「ありがとう、アサギリちゃん。」
「神無さんも、こぼさないように気をつけてください。」
「あぁ…ありがと。アサギリ。」
受け取ったココアは、自分が作るものよりも少しだけ甘さが控えめだった。
毎日通う神無に、通常摂取する砂糖を注ぐのは躊躇われたのだろう。心の底から理解ができないという表情で溶けていく砂糖を見つめていた当時のアサギリの姿を思い出し、神無は小さく笑う。
「どうかしましたか?」
「いや…あ、そうだ。明日は非番だから、今日は俺が朝までここにいる。メンテナンス行ってきていいよ。」
毎日縞斑の元に顔を出す神無は、翌日が非番や公休の日はそのまま泊まっていく。そばを離れられないアサギリがメンテナンスのタイミングを逃さないように、泊まりの日は決まって神無はアサギリにそう声を掛けていた。
しかし、いつもならばすぐにこくりと頷くアサギリは、数秒間思案するように神無の顔をじっと見つめる。首を傾げて笑みを作れば、彼は納得した様子で目を伏せて頷いた。
「…分かりました。マスターのことを見張っていてください。」
「やだなぁ、もうどこにも行かないって。」
「………………。」
見張っていても強引にどこかへ行こうとした前科持ちの縞斑を、アサギリは無言で見下ろす。その瞳は、まるで氷のように冷たい。
神無も助け舟を出さずに黙ってココアを啜っている辺り、アサギリの肩を持っているのだろう。観念した縞斑は、素直にアサギリへと謝った。
「あー……ごめんよ、俺が悪かったからそんな目で見ないでくれ。」
「……反省してくださっているなら、いいですけど。」
呆れたように溜め息を吐いたアサギリは、隅にまとめられていた洗濯物を抱えると部屋の外に足を向ける。
そうしてふと、彼は神無を振り返った。首を傾げる神無に歩み寄って腰を折った彼は、神無にだけ聞こえるように呟く。
「昼には帰りますので、ごゆっくり。」
「ん、ぐ…げほっ」
飲んでいたココアが逆流した神無は、その場で思わず咽せてしまう。慌てて顔を上げた神無の姿を見下ろして、穏やかな表情で二度三度柔らかく彼の髪を撫でたアサギリは、すぐにいつもの無表情に戻ると踵を返した。
ぱたんと閉められた扉を見つめ、神無は口元を拭いながらぽつりと呟く。
「……今の多分バレてたな…」
「何話してたの?」
「えっと……いや、なんでもない、」
会話が聞こえなかったらしい縞斑は、誤魔化されたことに若干不服そうな表情を浮かべるが、深く言及はせずに諦めると珈琲を傾けた。
椅子に座った神無がそれに倣ってココアを傾ける様子に、縞斑は気を取り直すと、いつものように口を開く。
「さて……今日はどんな話を聞かせてくれるの?」
あの事件から、三ヶ月が経過した。
スパローが襲撃され、EMCに連れ去られた彼は、感情抑制剤を大量に投与されたことによって一時的に感情の全てを失ってしまった。
一ヶ月の療養の後奇跡的に回復した縞斑だったが、まだ本調子とは言い難いため、引き続き自宅にて療養を行っているのだ。
そんな彼の元に神無は毎日足を運んで、その日あったことを話していた。それは縞斑の感情が回復しつつある今も日課として続いている。
縞斑に促された神無は、思い出した様子で顔を上げると笑みを浮かべて明るく話し始めた。
「今日、ディーノと調査に行ったんだけどさ、結局猫の仕業で捕まえるの手伝うことになって……」
「この前は犬で…その前はカラスじゃなかった?そのうち動物コンプリートしそうだね。」
「ほんとだよ…ドロ課に回す前に一回所轄が確認してほしいくらいだな……」
EMCに関する事後処理も落ち着いて、穏やかなドロ課には今日も今日とて所轄警察の請け負うような仕事が回ってきた。
仕方なくその調査に向かった神無たちは、調査先で逃げ回る飼い猫を追い掛けることになったのだ。苦笑いを浮かべながら神無が猫に引っ掻かれた手のひらを見せれば、縞斑はおかしそうに小さく笑みを漏らす。
「でも捕まえたんだ?流石じゃない。」
「まぁね。ディーノが猫の登った木ぶん殴って、落ちてきたところを俺がキャッチ。」
「あはは、ディーノちゃんは案外そういうところ脳筋だなぁ。」
神無の話を聞いて楽しそうに笑う縞斑は、当初に比べて随分感情表現が豊かになった。
元々感情を広げて見せるような性格ではなかったが、彼はその心の内に人間らしい様々な感情を抱えていたのだ。
療養中のため、スパローのリーダーという肩書きを一時的に下ろしている彼は、張り詰めた空気が薄れて穏やかに過ごしているようだった。
「ディーノがさ、最近俺以外とも積極的に交流するようになって…複雑だけど、嬉しいんだよな。」
「あぁ、それはちょっと気持ちが分かるなぁ。俺もアサギリちゃんのときそうだったから。」
新しい環境と仲間に囲まれる相棒の姿は、神無や縞斑にとって少しだけ寂しいけれどそれ以上に嬉しいと感じる成長だった。
特に有馬の事件の直後は、ディーノは何をするにも神無にべったりで、後をついて歩いていたのだ。親離れに似たような感覚を覚えながら、神無は嬉しそうに今日あったことを縞斑に話す。
「今日なんか、青木とメンテナンス終わってからロボットアニメ観る約束したんだってさ。俺まで誘われたもん。」
「それって…小さい頃に君たちが見てたっていう、例のアニメ?」
「そうそう。青木の話聞いてるうちに色々思い出して、再熱してるらしい。メンテナンス中ずっと青木とその話してるんだって言ってたよ。」
神無の次に懐いている青木とは、特に話が合うらしく度々二人はメンテナンス後スリープモードに入る前に話をしたり、ゲームをしたりと盛り上がっているらしい。
仕事の後にも関わらずディーノに付き合ってくれる青木に先日礼を伝えた神無だったが、彼は嬉しそうに、むしろ俺が付き合ってもらってるんですよ、と笑っていた。
青木はディーノのことを弟のように可愛がっているらしく、ディーノも青木のことを兄のように慕っている。
そんな彼らの姿を見て思うところはあるが、どうかそんな二人の穏やかな時間が続いてほしいと神無は願うばかりだった。
「……君はいいの?二人と一緒に観て来てもよかったのに。」
その時、ぽつりと漏れた縞斑の声は、少しだけ不安げに聞こえた。
神無が驚いて顔を上げれば、同じように自身の声色に驚いているらしい縞斑が口を押さえている。そんな彼を見て、思わず神無は口元を緩めると揶揄うように縞斑の体を突いた。
「なに?ひょっとして先輩、俺がそっち行くんじゃないかって寂しくなっちゃったの?」
「……あー…そうだよ、最近自制が効かなくて困る。」
縞斑は現在、感情抑制剤を大量投与したことによる後遺症なのか、戻りつつある感情の制御を上手く行うことができないらしい。
時間と共に収まっていくものだとレミからは言われたものの、普段ならば表情ひとつ変えずに耐えていた感情が抑えきれないことは少しだけ恥ずかしいものだった。
ふいと目を逸らす縞斑の横顔を眺め、神無はくすくすと笑いながら縞斑の頭に手を伸ばして撫でる。
「素直な先輩、可愛げがあっていいと思うけどなー」
「男ならかっこいいって言われたいでしょ。」
不貞腐れているが神無の手を払う様子はない縞斑の様子に、更に笑みを深めた神無は宥めるようにぽんぽんと軽く叩いて手を離した。
「大丈夫だよ。また今度、あんたが元気になってから時間作って一緒に観る約束したから。」
「……そう。」
なら、もう少しこのままでも良いかもしれない。そう口走ろうとした唇を縞斑は自らの手のひらで慌てて押さえた。
アサギリにはスパローのリーダー権を一時的に移したままであり、自分には一刻も早い回復が必要なのだ。いつまでも彼らに甘えているわけにはいかない。
首を振って手を離す縞斑の様子に首を傾げた神無は、ココアを傾けながら小さく息を吐く。
途切れた会話の合間を埋める雨の音に、神無は胸の前で手のひらを握りしめた。意を決したように、彼が口火を切る。
「っ、あのさ……ひとつ、先輩に聞きたかったことがあるんだけど。」
緊張したその声音に、縞斑は顔を上げた。
珈琲をサイドテーブルに置いて、小さく首を傾げて言葉の続きを促せば、神無は恐る恐る話し始める。
「……どうして、あの日の通信で…俺に教えてくれなかったのか、聞きたい。」
神無の言葉を薄々予想していたらしい縞斑は、窓の外へと視線を逸らした。はぐらかすつもりは無いようだが、言葉に悩んでいるらしいその様子に、神無は口を噤んで言葉を待つ。
窓を叩く雨粒を眺めながら、彼はぽつりと口を開いた。
「…あの時点で、扉のすぐ前まで追手は来てた。」
ニトとリトを見送り、アサギリの体を隠した縞斑が端末を取り出したときには、既に扉の外で施錠された扉を破ろうとしている侵入者たちの動きがわかったのだ。
「君は聡い子だ。状況を話せばおそらく、応援は間に合わないと判断して一人で乗り込んでくるだろう。」
「……俺一人じゃ、役に立たない?」
縞斑ですら抵抗虚しく捕らえられてしまった相手に、神無が一人乗り込んだところで状況は変わらなかったかもしれない。
神無の戦闘の実力は本物だが、刀を扱うため接近戦となる神無は、銃撃戦になると不利な立場に置かれることが多かった。
俯く神無を見て、縞斑は首を横に振る。
「違うよ。俺がただ…君を巻き込みたくないと思った。俺の我儘だ。」
相手がEMCであると目星をつけた縞斑は、人間を探そうとするその立ち回りを見て、自身を実験のために探しているのだと察した。
研究がもし感情抑制剤であれば、運が良ければ殺されずに済むかもしれない、実験対象として一時的に感情を奪われる程度で済むかもしれないと考えたのだ。
俯いた神無は、唇を噛んで手のひらを強く握りしめる。また、自身のエゴで彼の心を傷つけてしまった。縞斑はそうして、言葉を続ける。
「アサギリちゃんに情報は託したし、神無ちゃんたちなら…絶対に俺に辿り着くことができるって信じてた。」
「……え…?」
神無を巻き込みたくなかったことは一番の理由だが、もう一つの理由は自分が生き残るためのものだった。
神無がここに駆け付けて捕らえられれば、ドロ課は神無三十一という貴重な戦力を失うことになる。そうなったとき、ドロ課やアサギリだけでは、二人を奪還することも難しくなることだろう。
「死ぬかもしれないって覚悟はあったけど、死ぬつもりは無かったよ。」
縞斑は咄嗟に自分が助かる可能性が少しでも高い方に賭けた。だから、神無に救助を求めることをやめたのだ。
「本当は、電話も掛けるべきじゃなかったんだけどね。」
縞斑が誤魔化しきれず、神無が異変に気づいて駆け付ける可能性も十二分にあった。より縞斑が生き残る確率を上げるならば、そもそも電話をかけるべきではなかったのだ。
ならば何故、と言いたげにじっと顔を見つめる神無から、少しだけ視線を逸らした縞斑は再び窓の外へと視線を向ける。
そうして彼は、らしくない小さな声でぽつりと呟いた。
「……怖くなったんだ。」
「こわ、く…?」
「君のことを好きだという気持ちを失うことが……怖くてたまらなくなった。」
感情抑制剤の投与ならば、時間と共に感情は共に戻るだろう。けれど一時的とはいえ、全ての感情の欠落は免れない。
この胸に抱く神無を愛しているという気持ちも消されてしまうのだと、そう自覚した瞬間に縞斑の全身を恐怖が舐め上げたのだ。
「忘れてしまわないように、海馬の奥にその記憶を焼き付けるために……君の声が聞きたくなった。」
口にしてから縞斑は、あまりに身勝手な自分の行動と理由に苦笑いを浮かべてしまう。
これでは、最期に通信を寄越した元相棒と変わらないではないか。あれほど別れを告げられる時間が苦痛だったのに、縞斑は後一歩で神無にも辛い記憶を刻みつけるところだった。
縞斑の言葉を聞いて、俯く神無の握りしめた手の甲の上に雫が落ちる。サングラスを外して深く息を吐く彼の様子に、呆れてしまっただろうかと縞斑は言葉を詰まらせた。
「……そんなんさぁ、怒れないじゃん。」
「やっぱり怒ってたんだ。」
「そりゃ怒るだろ、あんな別れ方されたら。」
縞斑とアサギリが全ての情報を消して警察から姿を眩ませた時ですら、神無は不満を抱えて日々を過ごしたのだ。
「…でもなにより、気付けなかった自分に腹が立つ。」
拠点に乗り込んで虚な瞳の縞斑を目にした時、神無は心の底から後悔した。もっと早く彼の異変に気づいていれば、もっと早くこの場所を見つけ出せていれば、そんな絶望の底に沈んで、呼吸の仕方を忘れそうになったのだ。
神無が助けに行っても、状況は変わらないどころか悪化していたかも知れない。それでも、足手纏いだと思われていたわけではなかったことに安堵している自分が、神無は嫌だった。
ぽたぽたと落ちる涙に、身を起こした縞斑が手を伸ばす。指先に掬った温い雨を伝って、縞斑の手のひらがそっと神無の頬に触れた。
「泣かないで。」
「むり。あんたが泣かせたんだから、諦めて見とけ。」
頬を包まれた神無はそう呟くと、紫の瞳に再び涙を滲ませる。彼が瞬きをするたびに、目尻に集められた雫が真珠のように零れ落ちた。
泣き止む気配がない神無の手を縞斑が緩く引く。大人しく席を立って中腰になった彼を引き寄せた縞斑は、その目尻に唇を寄せた。
塩の味を舌で転がして、もう片方の目尻にも口付ける。ゆっくり顔を離せば、そこには目を丸くして頬を赤らめる神無の姿があった。
「なに、して、」
「何もせずに見てろとは言われてない。」
「ッ、今のは反則だろ…!!」
「お触り禁止ってルールがあるなら、先に言っておいてよ。」
驚いて泣き止んだ瞳を覗き込んで安堵すると、そんな縞斑の表情を見て強く言い返せなくなった神無は顔を逸らす。
席に戻ろうとした神無の手を掴んで、縞斑はそのまま彼をベッドの縁に招いた。
ぽんと軽く縁を叩いて笑う縞斑と、しっかりと掴んで離さない手のひらを交互に見た神無は、諦めたようにため息を吐くと腰を下ろす。
きしりと小さく軋むベッドに体を預けて、少しだけ距離の近付いた縞斑の顔を見上げた神無は首を傾げた。
「俺も、神無ちゃんに聞きたいことがあるんだよね。」
「…なに?」
「あの日の、俺の告白の答え。」
その言葉に、神無の顔がこれ以上ないほど熱くなる。咄嗟にその場を離れようと腰を浮かせた神無だったが、そんな彼の手を縞斑は掴んだまま離さなかった。
逃さないと言いたげなその熱に、神無は思わず首を横に振る。
「……………いや、いやいやいや、だって聞いてただろあんた。」
縞斑に感情が戻った日、神無は確かに縞斑に『今度は好きだと伝える』と告げた。聴覚は変わらず機能していた彼は、確かにその言葉を聞いているはずだ。
そう言葉を連ねて再度逃げ出そうとする神無だが、より一層がっちりと掴まれた縞斑の手が離れる気配はない。
「ちゃんと正面から聞いてないし、俺もその言葉に何も返せていない。よって俺たちの関係はまだ何も変わってない。」
違う?と首を傾げる縞斑に、神無はひくりと顔を引き攣らせた。
まさか、この男は告白の返事を聞いたつもりではいなかったのだろうか。毎日ここに通っている時点で、今までからは考えられない甘い触れ合いがある時点で、答えを受け取っていると思っていた神無だが、どうやら違うらしい。
「変わったつもりで…いたんだけど…」
「確かに俺は懐に入れた相手には甘いけど、恋人相手ならより一等大切にするつもりだよ。」
試してみる?と笑顔で手を伸ばそうとした縞斑にぶんぶんと勢い良く首を横に振ると、彼は面白そうに笑みを漏らしながら大人しく手を下ろした。
完全にもてあそばれている、相変わらず彼の手のひらの上だ。悔しげに奥歯を噛む神無は、今日こそは丸め込まれないように声を上げる。
「そもそも!!電話の時に、実質の返事みたいなこと言っただろ!!!」
「おぉ、開き直った。でもその後に君は、会った時に直接言いたいとも言ったはずだよね。」
「だから、俺ここで言って…!!」
「あの時も、今度はちゃんと好きって言うから、って言っていたよね。つまりまだ返事は伝えていないことになる。」
「しっかり覚えてんじゃねぇか!!!」
追い詰められた神無は、必死に言葉を探してぱくぱくと口を開く。
しかし、次の言葉を撃ち落とすつもりしかない余裕の表情を浮かべる縞斑の顔を見上げた神無は、諦めて息を吐いた。
縞斑に口で勝てる人間など、そうそういないのだ。神無が特別口論に弱いからではない。断じてない。
「…一度しか言わないからな。」
「どうぞどうぞ。」
縞斑の手が、神無の手をゆっくりと離した。今更逃げ道を与えることも、もう逃げ出さないことを分かった上でやっていることも、相変わらず意地が悪い。
神無は浅く息を吸うと、顔を上げて薄く開かれた翡翠の瞳を見つめた。
「…先輩が、好き。ずっと好きだった。」
想いを一言口にすれば、途端に抱いていた感情が堰を切ったように溢れ出す。
「あの日、怒りで我を忘れて…俺はあいつらを殺そうとした。…けど、あんたの言葉で止まれたんだ。」
もしもあの時縞斑の言葉がなければ、間違いなく神無はアンドロイドたちも遠宮も殺していただろう。あの瞬間、神無を突き動かしていたのは殺意という感情だけだった。
黙っている縞斑の顔を見上げて、神無は胸の前で自らの手のひらを握りしめる。
「…俺の手が人を救えるのか、わからないけどさ。まだ…信じてみたい。諦めたくない。」
縞斑も、感情を失った意識の中で神無が自分のために怒り、遠宮に刀を向けたことを覚えていた。
それを耐えた神無に向けて遠宮が浴びせた言葉は、感情があったならば彼を蜂の巣にしているような酷い言葉だった。ディーノが神無の側にいて良かったと、心の底から安堵したのだ。
縞斑と視線を合わせて、神無は笑う。その笑みは、彼らが事件の日に見た穏やかな太陽の日差しによく似ていた。
「あんたのこと、好きでいさせてくれて、また俺のこと好きになってくれて…ありがと。」
おかえり、そう言って笑う神無に手を伸ばして、胸の前の手を取る。抵抗無く指先を絡めたその手を辿り、神無の顔を覗き込んだ縞斑は口を開いた。
「…キスしていい?」
「……さっきしただろ。」
「口にしたい。」
「目にしたのに、今更許可いる?」
返事をする神無は、赤い顔を隠すように片手で覆いながら縞斑から視線を離そうとする。
当然そんな逃げ道を縞斑が許可するはずもなく、彼は空いていた手を伸ばして、神無の頬にそっと触れた。絡んだ視線の先で神無の瞳が期待するように揺れる様に、思わず笑みが深くなる。
「なんだよ、」
「言い方を変えるよ。君に、許されたい。」
「そんなこと言って、言わせたいだけだろ。」
神無はそう呟いて呆れるが、これでも縞斑は至って真面目に許可を求めたつもりだった。
日頃の行いの成果として甘んじて受け止めて苦笑いを浮かべた縞斑は、神無の頬と手を解放する。
そうして彼の手が下ろされかけた時、俯いた神無がぽつりと口を開いた。
「…待ってんだから、早くしろよ。ばか。」
思わず縞斑は、小さく息を呑んだ。
伸ばした指先で顎を掬えば、緊張にこくりと唾を飲んだ神無が目を閉じる。まるで吸い寄せられるように、縞斑は僅かに身を屈めて彼と唇を重ねた。
触れるだけの口付けは、数秒の間二人の体温を共有して離れていく。柔らかい唇に揺れた理性をどうにか押さえて縞斑が顔を離せば、目を開いた神無がふいと目を逸らした。
「今のだけで足りる?」
「………君、誘ってる?」
「別に。あんたが足りたならいいけど。」
言いながら手を解いて離れようとした神無を、縞斑は咄嗟に引き寄せる。後頭部に手を回して見下ろすと、その意図に気付いたらしい神無が焦ったように息を呑んだ。
自分から誘っておいて初々しいその反応を喉で笑いながら、縞斑は神無の唇に喰らいつく。
「ん、ぅ……」
鼻から抜けるような小さな声に目を開けると、同じように羞恥に堪え兼ねて薄目を開いた神無と視線が絡んだ。
途端、更に顔を赤くして身を離そうとした神無だったが、そんな彼の腰を固定して縞斑はより一層彼を貪る。
「…ふ、ぁ……っ、ぁ」
驚いて逃げようとする舌を捕まえて絡め取れば、ぞくりと背を駆けた快感に神無の体が跳ねた。戯れに腰を指で撫でると、神無の喘ぎ声が二人の口の中に消えていく。
「ん…ッんー…!!んーっ!!」
上手く酸素が運べないらしい神無が、必死で訴えるように縞斑の胸を叩いて髪を引く。
唇を解放して飲み込みきれず顎を伝った唾液を舐めとれば、小さな声を溢した神無が気まずげに顔を背けた。
可愛く煽って見せた愛しい人に、念を押すように縞斑は耳元で言葉を落とす。
「全然足りない。」
「っ…今日は!売り切れ!!」
「そっか、じゃあまた明日。」
「明日の入荷は未定!!!」
今度こそ逃げるように身を離した神無は、感触の余韻が気になるらしく、指先で自らの唇を撫でていた。
それすら縞斑を煽っていることを、きっと純情な彼は知らないのだろう。回復したばかりの理性を総動員して、彼を喰らい尽くしたい欲望を抑えると、縞斑は改めて口を開く。
「俺はあの日、君に救われたよ。」
声が聞こえた。
冷たく動かなくなった心にぽたぽたと、温かい雨がいくつも降ってきた。
その雨は固まった縞斑の心を溶かし、差し込む光が自身の戻るべき場所へと導いてくれたのだ。
目を開けて、温かい手のひらを辿った先で、神無が泣いていた。
泣かないでほしい、そんな感情が声を上げて、気が付けば下手くそな笑みを浮かべていたのだ。
「返事、ありがとう。すごく嬉しい。」
今すぐ抱きしめたい衝動に駆られる縞斑だが、これ以上照れた神無が逃げ出してしまったら困る。大人しく言葉だけで思いを伝えると、神無は嬉しそうに笑ってこくりと頷いた。
窓の外の雨音が、勢いを増していく。
その音に気が付いた様子で顔を向けた神無が、ぽつりと口を開いた。
「今日さ、雨…夜まで止まないんだって。」
「あぁ…そうらしいね。」
今朝、目を覚ました時にアサギリが同じ話をしていたことを思い出す。思えば彼が目覚めに天気予報を行うことは、これが初めてのことだったかもしれない。
窓の外を見つめる神無に視線を向けた縞斑は、彼がその景色を見ているようで見ていないことに気が付いた。緊張を紛らわすように視線を彷徨わせる彼が、小さく唾を飲むと空元気に話し出す。
「あんたのせいで、雨がもっと嫌いになっちゃってさ。雨音が耳の中でうるさくて仕方ないの。」
神無にとって、雨は呪いの前触れだ。
大切なものを奪い取る不吉の象徴だ。
縞斑の一件でより一層雨に恐怖を覚えるようになった神無は、傘を差すことが苦手になった。弾く雨音が耳の中に木霊して、嫌でもあの日の記憶を蘇らせるのだ。
「それは…うん、全面的に謝るよ。ごめん。」
縞斑はその言葉に、思わず眉を寄せて素直に謝罪した。
かつて恭雅に告げられた最後の別れを、自分も彼に行おうとしたのだ。自分がされて嫌だったことをする趣味はない、などと怪異に巻き込まれた山頂で宣言していたが、いざ窮地に陥ればこの始末だ、何も弁解の余地がない。
苦笑いを浮かべて頭を掻く縞斑を見上げた神無は、機嫌が治るどころか更に唇を尖らせて顔を背けてしまった。怒らせてしまっただろうかと心配する縞斑の耳に、神無の独り言が小さく届く。
「………なんでそういうところだけは鈍いんだよ…」
刑事時代も現在も、人を見極める力は持っていると自負している縞斑は、神無のそんな呟きに目を瞬いた。
どうやら自分は現在、彼の気持ちを汲み取れていないらしい。目を合わせようとしない神無の顔を覗き込むように首を傾げれば、薄暗い部屋の中でも分かるほど赤くなった顔を神無がゆっくりと上げた。
じっと自分を見つめる潤んだその瞳に映るのは、期待と不安と、そして。
「……だから、夢中にさせてよ。」
雨音が一瞬、彼の言葉によって途切れた。
ごくりと唾を飲んで、緊張した様子で浅く息を吐く神無の、今にも張り裂けてしまいそうな心音が、こちらまで聞こえたような気がしたのだ。
「雨音なんか聞こえないくらい……あんたに夢中にさせて。」
純粋とは言い難い欲を映す紫の瞳が、窓の隙間から差し込む街の明かりに反射してぼんやりと輝く。
縞斑は気がつけば、腕を伸ばして神無の体を抱き寄せていた。
固まる華奢な体を閉じ込めて、首筋に額を押し付けて息を吐く。思った以上に熱い吐息が漏れてしまったらしく、腕の中の神無が小さく声を漏らした。
その音ひとつでたまらなく欲を煽られる自分がいることに、縞斑は苦笑する。
「それは…俺の都合の良いように捉えるけど、いいの?」
逃げるなら今だと言外に伝えるためにそう囁けば、神無の両腕が縞斑の背に伸びた。ぎゅうと抱き締め返すその腕は、僅かに震えている。
「…いいよ。そっちのほうがきっと、俺の都合もいいから。」
「あーー……もう、狡いなぁ。」
呟いた縞斑は、深くため息をついて神無を強く抱きしめた。余裕を上手く崩せたらしい神無は、彼の腕の中でそっと胸に耳を押し当てる。
「はは、心臓の音やば。」
「……うるさいな。」
雨の音を掻き消すように、自分と同じ速度で脈打つ心臓の音を聞いて、彼は小さく笑った。
終
続くよ、そのうちエロが