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タイム・ブランチ(3)-1

全体公開 7 91 13213文字
2023-06-04 22:09:27

譲介タイムスリップ話の第三話前半。
いずれ譲テツになるけどまだまだTETSUはいないどころか譲介もあんまいない。

Posted by @alikiri

<<前話

 そわそわ。
 ウロウロ。
 ぐるぐるぐるぐる。
 そわそわ。
「落ち着け」
「そんなこと言われても……無理ス」
 ついに、帝都大学入試の合格発表日がやってきた。
 朝から何もかも手につかない譲介は、診療所内のあっちこっちをうろつきまわり、食事を作りに来たイシにも呆れられていた。
「そんなに気になるなら、自分で東京まで見に行けば良かっただろう」
「ひとりで!? 勘弁してください……
 そんな譲介と対照的に、落ち着き払っている神代を見て嘆息する。いまさらではあるが、弱冠十八歳にして肝が据わりすぎである。
 もちろん譲介だって、まさか神代が不合格かもしれないとはこれっぽっちも思っていない。
 この落ち着かない気分は、本格的に自分が居た未来ではない方向に進んでいくことへの憂患と、希望と、それから言葉にできない何かだ。
「だいたい、いつ来るか分からない郵便を待つっていうのがよくないですよ。ああもう……!」
「午後には届くだろう」
 焦燥感を誤魔化すように、合否を待つ緊張を口にした譲介に対して、神代は涼しい顔で論文誌をめくっている。今日が合格発表日だというのを村中が知っているからか、朝からだれも外来にやってこない。譲介が手持ち無沙汰なのはそのせいもある。
「自分の時はどうしたんだ。大学の掲示板まで見に行ったのか?」
「まさか。発表時間になったらスマホから確認して終わりですよ」
 もちろんこれは十八歳の時の話ではなく、アメリカの大学入試の話だ。
……そうか」
 神代がこの未来から来た男と一緒に暮らしはじめたのは夏の終わりのことだ。なので譲介が時折口走る『スマホ』が何のことかだいたい知っている。だが神代も、医学のことから一歩離れると片田舎の高校生に過ぎない。便利そうだと感じるよりも先に、本当にそんなになんでも出来る魔法の板のようなものが登場してくるのかと首を捻りたくなることも多い。これについては、情報通信はあくまで専門外な譲介による正確性に欠けた表現にも問題があった。最近はレセプトシステムの電子化は進んでいるものの、電子カルテの登場もまだしばしの時間を必要としている時代なのだ。
「ごめんくださーい」
「来た!」
 譲介は飛び上がると、診療所の玄関先に飛び出した。山道を登ってきた郵便配達員からレタックスを受け取る。診察室まで取って返して「先生、開けてください!」と封筒を押しつける。
「わかった、わかった」
 あくまで神代に開けさせようとする譲介に口角を上げながら、中身をとりだした。合格者番号の並ぶ紙に指を滑らせる。
「あったぞ」
「やった……! 先生、おめでとうございます……!!」
……ああ。ありがとう」
 喜ぶ譲介の隣で、神代はフフッと笑った。
 合格の事実以上に、自分の合格を知ってこんなにも喜色満面でいる人間が隣にいることが嬉しくて――いつのまにか、診察室まで入ってきた人間に気づかなかった。
――それで、医学部に行くのか。一人」
……!?」
「!!」
 譲介と神代は揃って驚き、振り向いた。
 そこに立っていたのは、神代と同じ年頃の青年。住人の限られたこの村において、譲介は見覚えのない顔だった。
 ――いや、違う。誰かに面影がある――
 譲介が記憶を手繰り寄せるより前に、神代が青年の名を呼んだ。
「俊介!? なぜここに」
「俊介――……あ、」
 その名で思いあたって、譲介は診察室の隅に目を向けた。そう、あの柱の傷をつけた片割れだ。
「一人が受験して村を出るって、この村に残ってるじいちゃんに聞いたんでな。……そっちは誰だ? 親父さんたちはどこにいる?」
 警戒の色がありありと浮かんだ目で見据えられる。神代が口を開く前に、譲介は進み出て右手を差し出した。
「和久井だよ。夏からここの診療所を手伝ってる。よろしく」
 譲介は氷室博士――氷室俊介と一度、面識があった。この診療所に住み込みはじめて三年目の夏のことだ。本人は十年ほど前に神代が執刀した白内障手術の定期検診だ――と嘯いてはいたが、実際には日本国内で開催される学会参加にかこつけて久しぶりに故郷に顔を出した、というのが正しい。白内障の眼内レンズの耐用年数は半永久的であるし、術後十年たって偏位もなく経過も良好で、検診の必要などまったくなかったからだ。
 在学中に祖父が亡くなって以降もう村に縁者は残っていないという氷室が、あのとき診療所に滞在したのはほんの数日だけだった。だが、著名な研究者でありながら明るい性格に、もともと顔見知りだった村井はもちろん譲介も麻上も親しみを感じたものだが――残念ながら、この時代では違うらしい。
 譲介の記憶にあるよりもずいぶんと若々しい顔で、じっと睨まれている。差し出した手も無視されて、宙に浮いたままだ。
 隣に立つ神代が、困ったような溜息を吐きだした。それに呼応するように、氷室は神代へ視線を移した。
「一人……! お前の一族は村から出てはいけないんじゃなかったのか!? この村で生き……死んでいくって……そう言ってただろう?」
 氷室の脳裏に、まだたったの十三歳だった頃の親友の目が浮かぶ。すべてを悟ったような目。何もかもを己の運命として飲み込んだような――そんな目だった。
 だから、そんな親友に代わってに世界に出て医者になるのだと誓ったのに。
「あの約束があったから、俺は――!」
 胸倉を掴まんばかりに言い寄る氷室の言葉を遮って、神代は首を振った。
「あの時の覚悟が消えたわけじゃない。ただ、あれから事情が変わったんだ。ずいぶんとな……
「なにぃ……?」
「親父が失踪した。母は……死んだ。三年前だ」
――!?」
 そこで神代はふいに、驚いて言葉を失った氷室をそのまま押しとどめるような仕草をした。そして診察室の扉のほうへ目を向ける。
 すぐに控えめなノックの後に扉が開き、「あのぉ……」と中年の女が顔を覗かせた。
「須賀さん。どうしました?」
「私じゃなくて娘なんだけど……ええと、いま大丈夫かい?」
「ええ、もちろん」
「どうぞ」
 譲介に続いて神代は頷いたあと、氷室に視線を送った。分かってるよ、とばかりに黙って肩をすくめた青年に気づいて、須賀が「あんれぇ!」と声を上げた。
「アンタ、氷室さんとこの……
「俊介です。お久しぶり」
「あーそうそう、俊介くんな! 元気そうだねえ」
 なおも話し続けようとする須賀の袖口を、背後にいた娘が引っ張って止める。その様子を見た譲介は、その中学二年生になる娘――香奈に向かってちょいちょいと手招きをした。自身も診察机に移動しながら、「どうぞ座って」と患者用の丸椅子を勧める。
「どうしたの?」
「えっと……、のどに、骨が刺さって……
「なるほど。ちょっと見せてね」
 喋りづらそうな香奈に頷いて、手早くマスクを付けると「あーしてください」と言いながらペンライトを向ける。
 喉奥の異物はすぐに見つかった。内視鏡を使うほどではないだろう。
……うん、大丈夫。すぐ取れるよ」
 そう安心させるように言いつつ、 とはいえコレ、苦手なんだよな――というのは表情に出さないようにしながら額帯鏡をつけた。早くLED式が出て欲しい。
 何も言わないうちから当然のように準備されていたライトと、同じく準備されていた異物鉗子を引き寄せて、あっさりと異物除去は終了した。
「はい、終わりです。どう、まだ痛む?」
「あーあー……ううん、平気。ありがとう和久井さん」
「いえいえ。でも、いつから刺さってたの? これ。お昼かい?」
「う、ううん。朝ご飯の時に……
「朝食? そう……次は、もっと早く来ていいからね。あまり放っておくと化膿することもあるから」
「はぁい。……あのぉ、ね? 聞いてもいい?」
 もじっ、と指を突き合わせた少女に、まだ何かあるのかと考えられる病状に思考を巡らせながら「どうしたの?」と促す。
「もう診療所にも郵便屋さん来たよね?」
 ウチにも来たから、と続ける香奈の視線が、背後に居たもうひとりの医者に向かう。すぐに合点がいった神代が頷いた。
「合格だった」
「えっ! あっ、おめでとう、先生!」
「おおそうかいそうかい、良かったね! 皆にも知らせないとねえ」
「はは……
 ――今晩中には皆が知ってそうだな。
 盛り上がる母娘を見て、譲介は頭をかいた。もともと、診療所に出入りしてもらっている何人かには電話で伝えようとは思っていたので、すぐにこうなるだろうと予想はしていたが。


 そうして患者が帰っていくと同時に、診察室の隅で黙って一連の様子を眺めていた氷室がふー、と溜息をついた。
「俊介まだいたのか」
「ずっといたよ! ったく……じいちゃんの話しぶりも、そうだったけどさ。この村の皆は、そいつが残って、お前が出ていくことを認めているんだな」
「ああ」
「だがさっきの……親父さんが居ないっていうのは、どういうことだ。それにオフクロさんも……
「実は――
 頷いた神代は、氷室にここ数年に起きた出来事を話して聞かせた。村の外で母が死んだこと。ほどなくして父が出ていったこと。この診療所を継いだこと。村井はしばらく残っていたが昨年、彼も村を出て代わりに譲介が来たこと。
 そういえば――と、青年たちの会話を聞きながら思う。譲介は氷室がいつアメリカに渡ったのかを知らない。確か、かなり若いうちからアメリカで研究をしているはずだが、臨床医でもあったということは医師免許はあちらで取ったのだろうか?
「氷室――くんは、村を出て他県の高校に下宿して通ってるんだっけ?」
……ああ。H県だ」
 氷室の告げた名門男子校の名前に、へえ、と片眉を上げる。高校受験時には進学に興味のなかった譲介ですら聞いたことがある。この先生、さすがだな。
「じゃあ、四月からは?」
「俺は来週から……アメリカに行く」
――!!」
「あっちの大学は九月からだから、入学は秋からだけど。高校の交換留学プログラムで一度アメリカに行ってから、決めたんだ。俺はアメリカの大学を出て、医者になる」
……そうか」
「もし、もっと早く一人が帝大を受けるって聞いてたら――いや。聞いてても変わんねえな」
「だろうな。お前はそういう奴だ」
 フッと笑った神代は、口の端を上げたまま「そういうことなら先輩がいるぞ」と譲介を振り返った。
「えっ」
「は?」
「なあ譲介」
「え、い、いや……
 まさかこの話題で話を振られるとは思わず、慌てる。
「どういうことだよ」
「譲介はアメリカ帰りだ。あちらの医科大学院に通っていた」
 確かに、それは嘘ではない。ギリギリ卒業はできていないし、通っていたのも三十年ほど未来の話だが。
 氷室からいぶかしげな視線を向けられてしまったので、「そうだよ」と頷いた。
……どこの?」
「クエイド。そちらは? もうどこの大学か、決まってるの?」
「俺は南カリフォルニア大学の混合プログラムに……
「へえ、Bacc-M.D.? なるほど。何年間?」
「七年……だけど」
「七年! ワオ、いいな。そういえば、昔はそれなりに七年や六年の学士・医学博士混合プログラムあったって聞いたことがあ――じゃない。ええと、僕の時はなかったので、僕は四年制大学を出たあと、メディカル・スクールに行ったんだ」
 口を滑らせかけたが、慌てて軌道修正する。そんな、アメリカ特有の事情に通じているらしい様子を見て、氷室もやっと態度を和らげた。
「ふーん。そんな人が、なんでココに?」
 怪しんでいるというよりは、純粋な疑問からでた質問のようだったが、譲介にとってこの質問が一番難しい。まさか理由不明のタイムトラベラーだとは言えないので、「村井さんとちょっと縁があって」と、村の人間にもしている説明を繰り返す。
「べつに僕は、この診療所を引き継ぐわけじゃない。先生が戻るまでの一時預かりだ。でも、先生が憂いなく外に出られるように僕の全てをかけている」
 自分の戻る場所が確かにあるというのは、征く先での何よりの助けになるものだ。
 ――かつての自分が、そうやって送り出されたように。
……そうか」
 譲介の覚悟が伝わったのか、氷室は「よろしく」と言うと、あらためて握手をするように右手を差し出した。


 ***


 三月末の夜、上京前夜。
 夕食後のシャドーを終えたあと、ふたりは診察室のテーブルに向かい合って座っていた。
 いつかのように、譲介の手元にはロックグラスが、神代の手元にはマグカップがある。
 ついに明日、帝大進学のため東京へ出発する晩であるが、ささやかな別れの会を持ちかけたのは神代のほうだった。
 いつもの六人がけの大きなテーブルの半分は、この一週間ほどで往診や外来のたびに山と受け取った餞別が小山を作っている。
「ありがたいが、食材の類は全部は持っていけんな」
「はは。僕が出発する時もそうでしたよ。まあ、イシさんやお仙さんに腕を振るってもらいますから」
「あまりカレーばかりをリクエストするなよ」
「ばっかり、ってことはないですよ……
 もういろいろ食べられるし、と反論してみるが、どうも言い訳じみてしまう。たしかに以前、神代には昔はカレー味のもの以外に食欲がわかなくて――ということを話してはいた。そして、この時代の村にも馴染んできて遠慮がなくなってきた自覚もある。
 でも出されたものに文句も言わずただ拒否していたあの頃と違って、いまはなんでも美味しく食べられる。ただ、カレーが一番美味しいと思うだけなのだ。
 神代も別に本気ではなかったようで、譲介の目の前に置いてあるスパイスが効いたつまみを見てフッと笑うに留めた。
「下宿先、見ずに決めちゃってましたが本当にいいんですか? ボロアパートらしいですよ」
「ボロなのは三十年後の話だろう?」
 合格後、東京での下宿先をどうするかという話になったとき、神代は大学生協から取り寄せた斡旋情報の書類だけで物件を見ずに決めてしまった。いや、正確には事前にある程度当たりをつけてから東京に出るつもりだったのだが、その中から譲介が聞き覚えのあるアパート名を見つけるとあっさりそこに決めてしまったのだ。
「まあそうですが……風呂もないんですよ?」
「問題ない」
「うーん……
 宮坂詩織が六年間過ごしたいずみ荘について、譲介は噂話でしか知らない。
 宮坂いわく、立地が良くて便利だった。同期の女性陣と集まってはよく鍋パーティーをした。銭湯通いも慣れると楽しい。東京の冬はN県育ちには大したことなかった。などなど。
 一也いわく、大家も高齢でセキュリティは皆無だった。隣室の生活音も筒抜けで防犯上の不安があった。夜道を歩いて銭湯へ行くのは大変危ない。エアコンもなく熱中症にならないか心配だった。などなど。
 度胸がありリアリストでもあるが確実に幸運ステータスに特効が付いている宮坂と、その宮坂のこととなると普段の冷静さがどこかに吹き飛んでいく一也の言うことなので、双方の言い分とも割り引いて聞いておく必要があるだろうが。
「いずれにせよ東京ですからね、村とは違います。玄関のカギはちゃんと閉めないとダメですよ」
「ああ」
「窓を開けっぱなしで寝るのもダメです」
「わかった、わかった」
「友達もちゃんと作って――……
 ――いやこれは、僕が麻上さんに言われたことか。
 そう気づいて、口を閉じる。高校での様子を直接見たことがあるわけではないが、村人から慕われ様々な悩みを打ち明けられている神代には野暮な話だ。
 恥ずかしくなってきた譲介とは反対に、神代はどうにも口の端が上がるのを止められなかった。
 ハタから聞けばまるで心配性というほどでもない、普通の親みたいなことを言われただけなのだが、自分の両親からそんな『普通の』ことを言われた記憶はない。共に暮らしていた村井も、村の誰かからもだ。譲介は自分では良い生育環境ではなかったと話しているが、そうであるならばその後に出会った人々や環境がよっぽど良かったのだろう。そこに未来の自分が含まれているらしいと思うと照れくさい――と、神代自身思わないでもないが。
「休暇になれば戻ってくるさ。飛行機が要るような距離でもない。それに……
「それに?」
「もし帝大で、KAZUYAさん――ドクターKと接触できる算段がついたら、その相談もしたいからな」
……!」
 目を丸くした譲介は、すぐに真剣な顔に戻ってこくりと頷いた。
「信じて貰えると思います? あなたのガンは全身に転移しますよ、だなんて」
「どうかな。まずは一度目の手術というのが既に過ぎた話なのかどうかだろうが、簡単に確認できるとも思えん」
「たしかに」
 既往歴や手術歴を、第三者にぺらぺらと喋る医療従事者などそうそういてはたまらない。
「話すべきはまず、俺の一族のことだろうな。西城の当主である西城頼介氏は神代の家系について知っているが、本家の一族であるKAZUYAさんは知らないはずだ」
「先生は、一郎先生が西城家とどう連絡を取っていたのか知らないんですよね?」
「ああ。村井さんも知らなかったからな……それにもう十年以上、この村には来ていない」
「そうですか……。あとは、KEI先生――西城KEIの話ですけど。事件のことは話半分に聞いといてくださいね、って言いたいところなんですが――だいたいホントらしいんで、そちらと接触することになったら十分気をつけてください」
…………。わかった」
 旦那はベタ惚れなんですけどねー、と、譲介は手の中のグラスを揺らしながら言う。
 とはいえ譲介自身、KEIとは『すっかり変わって』からしか会ったことはない。本人とは東京で数回。それに、アメリカに渡ってから縁があって旦那である磯永とも何度か。
 反対に神代は、西城KEIとは幼い頃に何度も顔を合わせたことがある。頭皮の裂傷を治療したことだってあった。あれからもう十数年が経過しており、KEIのほうはもう医大を卒業している年齢とはいえ、譲介から聞いたような国際事件を起こすような人間になっているとはどうにも想像できない。
「西城KAZUYAに、僕の話をどこまでするかは先生にお任せします。全部を話して信用されるのかはわかりませんけど」
「ウム……そうだな。一発で分かる物証があるわけでもないからな。だが――譲介は、いいんだな? 未来が大きく変わることになるぞ」
 神代の言葉に、グラスの中の氷から視線を外し、「さあ……」と溜息を押し出すように首を振る。
「それを言うなら、一人先生がこの村を出て医学生になる時点で、もう僕が生きた場所とはぜんぜん違う世界になったと思うんですよね。どうあってもK先生は僕にとってあなただけですけど、いまこの時代にいるドクターKが、病を乗り越えてもっと長く生きるのならそのほうがいい」
 ――それに。
 それに、きっとあの人にとっては、西城KAZUYAが生きている未来のほうがいい。
 いまどこに居るのか分からない男に向けたその思いは心にしまったまま、譲介は黙ってグラスの中の酒ごと飲み干した。


 ***


 帝都大学に入学した神代は、努めて目立たぬように振舞った。学生の本分に手を抜いたりはしないし、話しかけられたらそつなく受け答えする。だがコンパの類はのらりくらりと断るか、人数の多い集まりに顏だけ出して、周囲に気づかれぬうちに抜けるようにしていた。神代は知らなかったが、これは医学生時代のKAZUYAとほとんど同じふるまいだった。
 そんなふうに周囲を観察しながらすごした数ヶ月。神代が出した結論は『思ったより、直接ドクターKを知っている人間はいない』ということだ。
 もちろん大学病院の臨床医を探せばその数は増えるだろうし、研究所に篭りきりではあるが彼と同期であった磨毛などもいるのだが、あいにくピカピカの一年生である神代とは接点がない。KAZUYAの恩師である医学部長の柳川も同様だ。新入生が気軽に会いにいける立場ではない。
 だがそれでも、医学部内で教鞭をとる教授陣にも数名、明らかに神代の姿を見て反応した人物もいる。
 その中のひとりにあたりをつけた神代は、ある日の夕方に研究室を訪ねた。
「すこしお時間よろしいですか、内田先生」
――! え、ええ。何かしら」
 声をかけられた解剖学助教授、内田和歌子は息を飲んだ。深呼吸しながらゆっくりと顔を上げ、学生と視線を合わせる。
「一年生、よね。私の授業は受けていないはずだけれど、何か御用かしら?」
「まだ実習が始まってもいないのに、先生が私が医学部の一年だと分かったのと、同じ用件です」
……ではやはり、彼の……西城くんの? 兄弟がいるとは聞いたことがなかったけれど……
「ええ、神代一人と言います」
「神代、くん」
「KAZUYAさんの……遠い親戚のようなもので。彼と会って話さねばならぬことがあるのですが、内田先生はKAZUYAさんの連絡先をご存じありませんか」
 そう話す学生を前に、内田はしばし思案した。
 この青年は、『話したいこと』ではなく『話さねばならぬこと』と言った。
 西城KAZUYA――いまはドクターKと名乗る彼がかつて内田の教え子だったのは十年ほど前の話だ。そのKAZUYAといま目の前にいる神代は、確かに似ている。なにせ、春先に学内で遠目に見かけただけでまさかと目を疑ったほどなのだ。これがもう二十年も後であれば息子と思っただろうが、彼の年齢を考えればそれはない。では弟か、甥か――などと、考えていたのだが。
 だがこうして相対してみると、縁戚関係にあるという神代の言葉は、顔や体躯ではなくその眼差しが最も説得力を帯びていた。
 何か大きな使命を背負ったような、若者らしからぬ強い眼だ。
 内田は神代に背を向けると、自分のデスクに戻って引き出しを開けた。
「私も、彼の個人的な連絡先を知りません。ですが、知っている人を紹介しましょう」
 西城KAZUYAは帝大入学当初から学生とは思えぬ知識と技術を持った男だったが、親しい人間はそう多くない。というより、その立ち振る舞いから自然に親しくなれる人間が篩われていくような孤高の男であった。
 内田もどちらかといえば、篩われた側だ――少なくとも、彼女自身の認識では。
 ある医院の名刺を見つけ出し、メモ帳に住所と電話番号を写し取ると、そのまま神代へ差し出した。
……!」
「大垣くんといって、開業医をしているここの卒業生よ。だから彼もまたあなたの先輩に当たるわね。西城くんとはいまでも親しくしているはずです」
「ありがとうございます」
 そう言って頭を下げて研究室を出ていく神代の背中は、やはり内田にはただの一年生には思えぬほど大きく見えた。


 大垣蓮次という男について、神代の知ることはそう多くない。帝大医学部に通っていたわけではない譲介が、帝大に在籍していているであろうKAZUYAの関係者として上げた数少ない名前のひとつ。未来の神代とも知り合いのようで、何度か診療所にかかってきたオペ依頼の電話を取り次いだことがある、らしい。
 しかしいざ入学してみると、大垣の名は医学部教師陣の名簿に存在しておらず大学病院側にも籍がなかった。これはこの頃の大垣が大学を離れて診療所を開いていたからなのだが、もちろん譲介にはあずかり知らぬことだったので無理もなかった。
 だが、ここへ来て有力な名前を引いたことに変わりはない。そのことに弾みをつけた神代は、さっそくその週末に教えられた住所を訪ねてみることにした。
 手元のメモと、付近の電柱に掲げられた大垣診療所の表記を頼りに目的の場所へたどり着くと、ガラス張りの扉を開け「ごめんください」と声をかける。
「あら? すみません、今日はもう診療は終わりで――!?」
 白衣姿の若い女が、神代の顔を見て息を飲んだ。手に持っていたファイルを取り落とし、ドサドサと大きな音を立てた。
「やだ、ごめんなさい!」
「いえ……
 床に散らばった書類を一緒に拾って手渡すが、やはり視線は神代の顔をじいっと見つめたままだ。分かりやすい反応に、つい苦笑が漏れた。
「そんなに似てますか?」
「え、ええ……
 佐知子の脳裏をまずよぎったのは――数年前の、ドクターKを騙った獣医学生だ。その男があちこちで金を巻き上げたあげく、ヤクザ者に手を出したばかりに旦那も巻き込まれた事件。忘れられるはずもない。
 だが、この目の前の青年はどうだ。マントこそしていないが、あの時の学生よりもずっとKAZUYAに似ている。顔や体格だけじゃない。雰囲気も、眼差しも。
……あの……主人に御用で、いいのかしら?」
「はい」
 案内します、と頷いた佐知子が動き出すより早く、奥から「どうしたァ?」と野太い声が聞こえてきた。
「あなた! お客さんが――って、やだお名前聞いてなかったわね」
「客? 患者じゃなくてか?」
 どたどたとした足音と共に、娘を抱きかかえた大垣が待合室までやってきて――つい先ほどの妻と同じように、娘を取り落としかけた。もう三歳になる奈緒子が慌てて白衣にしがみ付く。
「パパァ!?」
「うおっ、悪ぃ奈緒子、って、いや、おまえは……!?」
 よく知る後輩にそっくりな――だがしかし確実に十は若い男に驚きつつ、なんとか抱えていた娘を下に降ろした。ずかずかと近寄って、神代の顔をじろじろと覗き込む。思い出すのは、佐知子と同じように数年前にKAZUYAを騙った獣医学生の事だ。
「大垣蓮次さんですね?」
……おう、そうだよ」
「帝都の学生で、神代一人と言います。もう察しているようですが、西城KAZUYAさんの遠縁のようなものです。彼と連絡を取りたいんですがあいにく連絡先を知らないもので……こちらによく顔を出していると聞いて来ました」
「帝都の学生だァ……? どうしてここに来た」
「西田先生に伺いました」
「!!」
 差し出されたメモをひったくって確認する。確かに、恩師の筆跡にそっくりだ。そっくりだが――
 そう、そっくりなのは目の前の自称学生とKAZUYAもそうだ。若くしてこの落ち着き払った様子は、あのニセKとは比べるまでもない。
 だが大垣としても、はいわかりましたとKAZUYAを紹介するわけにはいかない。彼の一族のことや彼が背負うものを、大垣も全て知っているわけではないが、察するに余りあるだけの付き合いもある。何があっても乗り越える強さのある男だが、だからといってほいほいと怪しい人間を紹介し、手を煩わせることもしたくない。
 ウムムム、と唸る大垣を前に、神代は内心困惑していた。この大垣夫妻の反応は、単純な驚きや警戒とは少し違うように感じる。まさか数年前にそっくりな顔をした人間がKAZUYAを騙ったことがあるなどと知りようもない神代にとっては、どうにも不可解な反応でしかなかった。
「学生証も見せますか」
……おう、貸せ」
 神代が懐から出した学生証を受け取った瞬間、ドンドンドンと表玄関の扉が強く叩かれた。
「先生、大垣先生いるかいー!? 大変なんだよォ!!」
「おいおい、なんだァ?」
「どうしました? ――まあ! 山田さん!?」
 佐知子が扉を開けると、左手に血まみれのタオルを巻いた男と、それを支える中年の女が立っていた。
「うおっ、どうした!?」
「この人、いっ……糸ノコで、指をやっちまって……!!」
「あぁ……救急車呼ぶより大垣先生んとこ来た方が早いかと思ってよォ……
――!! その指は!?」
 近所に住む山田は、苦悶の表情を浮かべてはいるが受け答えはしっかりしている。むしろその妻のほうが気が動転しているようで、ガーゼに包まれた切断指を大垣に差し出す手が酷く震えていた。
「佐知子! オペ室開けてくれ!! 奈緒子、ひとりで部屋に戻ってられるな!?」
「はいっ」
「う、うん!」
「手伝います」
 大垣が止める間もなく、神代は佐知子を追って手術室に急いだ。「っだあもう」と口の中だけで毒づいて、すぐに患者に向き直る。指の再接着は時間との勝負だ。幸い、まだ軽く診ただけだが切断面の状態は悪くない。
「大丈夫、これならくっつくぜ。山田さん、オペ室まで歩けるか?」
「あっ……ああ……
「すぐに麻酔をかけるがそんなに時間はかからねえよ。奥さんは待合室で待っててください」
「よっ、よろしくお願いします……!」
 安心させるように大きく頷いた大垣は、受け取った切断指を持って患者と共に手術室へ向かった。


 佐知子と共に先に手術室に入った神代は、手早く借りた術着に着替え、手術台や器具の準備を手伝った。
「ええと、あとは……指の縫合だからマイクロサージャリーも――
「マイクロの準備は私がやります。それより、奥さんは患者の準備とカルテを」
 もともと患者と顔見知りの様子だったので、おそらくもともと診療所に通ってきている患者だろうと当たりをつける。案の定、佐知子はそうだと頷いた。
 その佐知子が出ていくのと入れ違いに手術室の前まで来た大垣へ、扉の内側から膿盆を差し出して切断指を受け取る。
「大垣先生は着替えを」
……おうよ」
 大垣は手術室のなかをチラと覗き込み、その内部の様子に思わず口を尖らせる。しっかり着替えまでしている神代にも、器具から麻酔まで完璧に準備されていることにも、言いたいことは色々ある。だがすぐそばに患者もその家族もいるこの状況で、彼らを不安にさせるような事を大声でがなり立てるわけにもいかない。
「お前、一人つったな。道具出しくらいはできると思っていいんだな?」
「はい」
 食い気味の返事に「よし!」と頷くと、大垣自身も術着に着替えるため手術準備室に取って返した。


「な~~にが、『道具出しくらいはできる』、だよ……
 術後、一通りの始末を済ませて診察室に腰を落ち着けた大垣は、タバコに火をつけながらそうぼやいた。病室に移動させた患者には佐知子がついているが、麻酔から目覚めるまではもう少しある。
「だが、これでよーくわかったぜ。おまえがKAZUYAの身内だってのがな」
「身内、とは少し違うんですが……
「そうなのか? まあ、俺もアイツの一族の事情は多少聞いているくらいだから、詳しくは話さなくていい。ちょっと待ってろ」
 大垣はそう言うと、灰皿に吸いさしを押しつけて受話器を手に取った。手短な会話のあとすぐに通話を終えると、「日曜、つまり明日なら来れるってよ」と神代にあっさりと告げた。
――! ありがとうございます」
「明日、またココに来てくれ。まあ帝都の学生ってんなら、そんな遠くに住んでるわけでもねぇだろ?」
「ええまあ。本郷から歩ける距離に下宿してます」
「そりゃまた、便利なとこ見つけたなァ」
 とりあえずもう一服するか、と白衣のポケットに手を突っ込んだところで、指先の感触に気づいて慌ててそれを引っ張り出した。
「忘れてたぜ。そういやァお前の学生証、借りっぱなしだったな」
「ああ、そうでしたね」
 ちょうど急患が飛び込んできたこともあり、ろくに見ていなかった学生証をあらためて確認する。自分もかつて所持していた、帝都大学の学生証だ。――なるほど、『カズト』はこう書くのか。
「懐かしいな、昔とそんなに変わってな――っておい!」
「どうしました?」
「一人……お前……、まだ一年だったのかよ!?」
 手術室での立ち振る舞いから、てっきりとっくに臨床実習の始まっている学年だと思い込んでいたが――とんでもない。この時期の一年生であれば解剖実習すら始まっていないのだから、そこらの理系学生と変わらない。
「ったく……末恐ろしいっつーか、なんつーか……!」
 神代は、既に進学前から生家の診療所を切り盛りしていたことはもちろん腹の奥にしまったまま、頭を抱える大垣から学生証を受け取った。



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