@Alpha_arpA
エイヤフィヤトラはふと、こんなことをしている自分が酷く恥ずかしい愚か者のように思えてしまった。
甘えてしまった。子供のように。
怖い夢を見たと父親に甘える、娘のように。関心を惹こうと意地悪な質問をしては父親を困らせる、年頃の娘のように。
甘えたの獣が主に爪を立ててしがみつくように、口を衝いて言葉が零れ落ちる。それはきっと、必ず、彼を傷つける言葉なのに。傷つけたい訳ではないのに。或いは傷ついてほしくて?
少女は、まっすぐにドクターの目を見つめた。黒い、淵のような瞳。何もかもを見透かされてしまうような瞳を“怖ろしい”と一部のロドス職員が形容するのを、彼女は聞いたことがある。そんなことを不意に思い出した。
陰の落ちたような瞳は動かない。揺れず、逸らさず、只何かを、恐らくは彼女に返す言葉を淡々と考えているのか。少女は結局、男のことが理解らない。
瞬き。マグを撫でる指。
彼の唇が小さく開いて、何か言葉を紡ごうとし、そして考え直すように閉じる。
風鳴りの音が少し大きく聞こえ、時計の秒針が彼女の大切なものを少しずつ削り取っていく。立ち昇る甘いミルクの湯気が消える度、飲み物と言葉の残影は褪めていく。
かっと耳が熱くなる。アーツを放つ時のように、熱いマグマが身体の中をぐるぐると渦巻いているかのようだ。怖れも甘えも、理性が全て冷やし固めて恥にする。
マグをこたつの天板に置いて、自分の顔を手のひらでぱたぱたと扇いで、気休めにもならない風を送る。自分の顔が勝手に動いて、困ったような笑みを創った。
計算の仕損じを消しゴムで消したがる子供のように、少女は言葉を紡ぐ。キャプリニーの耳を寝かせるように伏せて。
「……あ、えっと。えへへ、何言ってるんでしょうね私。突拍子もないこと言っちゃって。先輩の言う通り、疲れてぼーっとしちゃってるのかも知れないですよね」
「ごめんなさい先輩っ。わすれてくださ──」
「──たとえね」
「例え、明日君が音と光を失うことになったとしても」
「……へ?」
誤魔化すように言葉を重ねたエイヤフィヤトラを、柔らかく遮るような言葉が落ちた。
ドクターはゆっくりと少女から目を離すと、自ら持つマグの中身を見つめ、そしてその中の苦い液体を一口飲んで口を湿らせた。その表情は笑顔でも悲しみでも怒りでもない、どこか茫洋としたもの。
諭すでも、叱るでも、励ますでもなく。ただ漠然とそこに在る事実を少女に見せようとする大人の、思考の表情。少女はその表情に、思わず言葉を奪われた。
わずかな静寂が部屋を満たす。
「君は、何年でも研究者を続けていい。
そしてきっと、怖れていいんだ。眼や耳が不自由になることを怖れるなだなんて、誰も言えやしないんだから。
その二つは両立できる。怖れが君の歩む路を閉ざすことなどできない。
君の意味は消えず、君の背を支える者たち大勢が、君の存在を証明し続ける。
だからエイヤフィヤトラ。
たぶん、私たちは怖れていいんだ。そして、希望を諦めなくてもいいんだよ」
エイヤフィヤトラは澄んだローズグレイの瞳を見開いて、困惑の表情で男を見つめる。
小さく開いた唇が、なにかしらの言葉を紡ごうとして震え、何度か失敗する。ようやっとひねり出した言葉もたどたどしく「でも、わ、私……聴こえたり見えなくなったら、研究が……先輩が……」と要領を得ない呟きにしかならない。
手が震えていた。その手を必死にもう片方の手で押さえて、恐怖を押し殺そうとして、少女は唇をかみ、涙を堪え、息を殺し、声を殺し、耐えて耐えて耐えて、耐え続けていた。
自分が耐えていたことすら、何時しか忘れてしまった。
「エイヤフィヤトラ、君の両親は偉大な方々だ。彼らの研究を私も読んだよ。私は研究者として、彼らを心の底から敬愛している。
君はその研究を継ぐことを選んだんだ。このテラの大地とそして火山に対する君の姿勢を、私はもう何度も見せてもらってきた」
先ほどの授業で書き出した十数枚に渡るメモ用紙の束を持ち上げて、黒く深い瞳がそれを慈しむように撫でる。少女は喉が閊えたように声を出すこともできなくなり、ただ男の言葉の続きを待った。
「エイヤフィヤトラ。君はいずれ、君の両親をも超える研究者になるだろう。
あまりにも厳しいこのテラの大地で、ヒトが生きる意味をマグマの底から見つけ出し、この世界の本当の姿を垣間見て、そして」
「君の追い求めた知の結晶は、いずれこの世界に生きる全てのヒトを救う……かも、しれない」
断言はしないけれどね、私も研究者なのだし。と、男は小さな笑みを浮かべる。少女はそれに反応を返さなかったし、男もそういった少女の様子を予期していたように表情を真剣なものに戻して構わず言葉を続けた。
「エイヤフィヤトラ。その恐怖は、本当に君が独りきりで抱えて生きていかなければならないものなのかい?
君の眼が光を喪ったなら、私は君の手を取り望むところへと導くだろう。君の耳が音を喪ったなら、ロドスの皆は集って君の掌に文字をなぞり、目前へ広がる世界の色彩を君に伝えていくだろう。
エイヤフィヤトラ。君は君が思っているよりも、ずっと多くの人々の手を借りて、前へと進んでいくことができるんだよ」
ドクターはそこまで行って、再びマグを口許に運んだ。その横顔を、未だ見開いたままのローズグレイの瞳が見つめている。抑え込んだ手の震えは、いつの間にか止まっている。
ぱち、ぱち、と瞬き。
男の声に導かれるままに、少女の脳裏には彼女に接し、笑顔を向け、沢山の言葉をかけてくれた人々の顔が思い浮かんでいる。
一度研究に没頭すると無理をしがちな少女を窘め、厳しくも優しく研究と私生活の区別の仕方を教えてくれる同郷のあの人も。
ちびめーちゃんの面倒を見てくれたり、頻繁にお茶に誘ってくれる友人のあの人も。
“エフィ”とニックネームをつけてくれ、友達になってくれたあの人も。
作戦の後は真っ先に少女の体調を気遣ってくれる、あの人、あの人、あの人。
“みんな”。
そして、一点の曇りもない愛を注ぎ、願い、託してくれた二人。
そして、今目の前で静かに語るその男も。
あ、と小さな声が軽く開いた唇から漏れた。エイヤフィヤトラは気付き、そして驚愕する。
難しいと思っていた問いが、ほんの少しだけ視点を変えたらあまりにも呆気なく解けてしまったかのような、そんな拍子抜けするような、力の抜けるような感覚があった。
「悲観の井戸の闇に囚われてはいけない。君が生きて為すべきことを思い出し、それを心に決めた時のことを思い出すんだ。視野の裾野を広く取り、凝り固まった思考を解きほぐし、できることを探し続けなさい。
君は研究者だ。君の両親と、私が認めた研究者なんだよ。
だから大丈夫。君にならできるさ。やってみれば、存外簡単な解が導ける気がするだろう?」
「……っ!」
「そしてね。怖くなくなったなら、また私に君の研究を読ませてほしい。
好きなんだ。私も怖ろしくなった時、エイヤフィヤトラが頑張っているのを思い出せば、前に進むための勇気を貰えるからね」
ドクターは手に持ったコーヒーを飲み干して眉を顰め「やはり次からは、ミルクと砂糖を入れることにするよ」とばつが悪そうに苦笑する。
まるで、ちょっとした日常会話につける落ちのような自然さで。本当に何でもないことのように、楽しい語らいの最後の締めくくりのように、そう話し終えた男。
エイヤフィヤトラは理解する。そうか、「みんないるんだ」と。それに思い当たって、身体にかかっていた厭な強張りが水をざっと落とすように消え去っていく、と、同時に。
彼女はその端正な表情を、くしゃりと歪めた。
我慢していた恐怖も、抑えていた絶望もすべて許されて、暖かな何かが胸に満たされて、父に抱き上げられた迷子の子供のように堰を切ったように。
ぽろり、ぽろりと涙がこぼれた。止まらない、どんどん滂沱の雫は大きくなっていく。
そして少女はわっと泣き出し、目の前の男に縋りついた。うお、と少々頓狂な声をあげて、けれど大きな掌がエイヤフィヤトラを支えてくれる。彼が宣言した通りに。
失礼なのもみっともないのも、密かに想いを寄せる男にこんなことをするのがもうどうしようもなく繕いようもなく申し訳ないことなのも分かっていた。
けれど、もう止められない。
大きな滝のように、口からマグマが流れ出ていくかのように、吐き出す言葉が熱くて苦しい。
「研究を続けたいんですっ……死にたくない、目も耳も閉ざされていくのがたまらなく怖い、私ちっともしぶとくなんてないんです。ただ平気なフリをするのが上手いだけで」
「……うん」
「毎日、まいにち、 誰かの声を聴き逃してしまうたびに、自分に研究者としての終わりが近づいているような気がして、私の生きる意味が、お父さんとお母さんの生きた意味が、って思うと、苦しくて……!」
「そうだね」
泣きじゃくりながら、少女は男の腕に押し付けた顔を埋めるように小さく動かす。
ドクターはただ淡々と相槌を打ちながら、その背をひたすら撫でた。
「私に残っているもの、鉱石病がぜんぶ持って行ってしまう……! お父さんもお母さんも、生活も、先輩とお話する時間すら、ぜんぶぜんぶ無くなって、私どうしたらいいか分からなくて」
「『みんな』を奪われてしまうのが怖くて、忘れていたんだね」
「先輩……せんぱい……」
「私は此処に居るよ。エイヤフィヤトラ。
ええと……だから、泣き止むんだ。アデル」
「────ぁ」
「君が今此処に生きていること。それを、確かな“意味”だと言ってくれた人たちがいたはずだろう?」
どうして忘れていたんだろう。分厚い研究資料に混ざっていた母と父の手紙を。
其処に在った言葉を思い出して、エイヤフィヤトラは男の腕に顔を伏せ、また泣いた。
泣いて、泣いて、こんなにも泣いたことは人生で初めてかも知れない。
時計の長針がたっぷり半月を描くまで、少女は泣き続けた。とおい風鳴りが、不格好にしゃくりあげる声を覆い隠してくれる。外では、雪が降り始めているようだった。
エイヤフィヤトラが顔をあげる頃にはもう、声は枯れ、目元は熱く痛くて、酷く喉が渇いていて、おまけに少し頭も痛いと散々な有様だ。
きっと今、私はとんでもなくひどい顔をしていることだろう。こんな顔をドクターに見られるのだと思うと、腕に押し付けた顔を離すのはちょっとどころではなく勇気のいる作業だったけれど。
けれど、もう怖くはない。いや、恐怖はある。怖れと希望は、確かにそこに存在していた。
きっと。少女はこれから何度も何度も恐怖するだろう。でも、今はもうアデルは……エイヤフィヤトラは少女ではなく、どうにか一人の立派な研究者に戻ることができそうだった。
「先輩、あの……ご迷惑をおかけしてしまって」
「いいんだよ。むしろ、よくこれまで耐えてきたくらいさ。エイヤフィヤトラ後輩は少々我慢強さが過ぎるんだ」
「あはは……でも、こういうのはもうこれっきりにします。先輩が一緒に居てくれるのに泣いてばっかりなんて、勿体ないですから」
小さなタオルで顔を拭いて、ついでにこっそり鼻も拭って、若い研究者はにっこりといつもの笑顔を取り戻す。睫毛に残った涙の粒がきらきらと瞬き、ドクターは深い色の瞳を細めた。
「鼻、赤くなってるぞ。後輩」
「先輩っ!」
「ははは、冗談だよ」
「ケルシー先生とアーミヤさんに言いつけますよ……? ドクターにセクハラされたって」
「えちょっとそういう流れじゃなかったでしょ今? まってほんとにそれだけは全身骨折じゃ済まないしなんかもう仕事するだけのヤバい機械にされちゃうから。ねえ? エイヤフィヤトラ後輩? ちょっと!?」
「……ふふっ」
嗚呼。
この時間を終わりにしたくない。
ただとりとめもない会話を続けて、長く話していられそうな会話を続けて、このマグの中身がなくなってしまうのを一秒でも遅らせたい。
けれど、エイヤフィヤトラはドクターの真似をして、温くなったミルクを一気に飲み干した。
「ね、先輩」
「ん?」
「鉱石病、治ったら。先輩にお伝えしたいことがあるんです。
その時は、私のお話。聞いてくださいますか?」
「ああ、勿論。私も頑張って治してやらないとね。伝えたいことの内容、気になるし」
「ふふ……はい、約束です~!」