@Alpha_arpA
柔らかな笑みを浮かべ、「おやすみなさい、先輩」と告げて自動ドアの向こう側に消えていくエイヤフィヤトラを見送って、男は粗末なアルミ椅子へと歩いていく。
若い研究者に接していたときの、淡々として穏やかな凪のごとき態度は脱ぎ捨てた上着と共にばさりと抜け落ちた。乱暴な様子でどさりと硬い椅子に腰を落として右の肘を右膝で支え、額の重みを手のひらに預けるようにして。それは言葉にするなら、正しく“頭を抱えている”と言い表せるような姿。
海溝のごとく深いため息は、そのまま体中の空気を吐き出して萎んでしまわんばかりに一人きりの殺風景な執務室に響き渡る。
心なしか、先刻よりも2,3度ほど室温が下がったような気すらしてくるのだから。エイヤフィヤトラの存在感というのはこのバカげた仕事部屋に想像以上の温かみを齎していてくれたのだろう。
ロドスの艦壁を叩く吹雪の風音が、先ほどよりも強く聴こえて来ていた。明日にはウルサスの国境を離れることになるから、今夜一杯の辛抱だろう。
自動航行モードに設定されたロドスは、あらかじめ専属のトランスポーターたちが熟慮を重ねたルートに従って移動している。重ねてプロヴァンスをはじめとした戦闘可能なオペレーター達が館外の監視を24時間体制で交代しつつ行い、異常があればほぼタイムラグ無しでドクターかアーミヤ、ロドス三首脳のうち二人どちらかに直通の報告が為される仕組みだ。
ちなみにケルシー医師は道中で回収した負傷感染者の外科手術にあたっているため、今日は運営トップとしての業務から完全に外れていた。オペは医療チームをいくつかの班に分け、ケルシーは複数のオペ室を反復横跳びのように移動しつつ手術の難所を捌いていくというもの。
ケルシー本人の技量、体力、集中力は言わずもがな。しかし彼女の段取りに数秒の狂いなく追従できる彼女肝入りの医師チームの、尋常ではない結束とチームワークが無ければ成し得ない業だ。
言葉だけ聞けば、おおよそ常軌を逸した成功率皆無な段取りのようにも思えることだろう。だがこういった方式のオペは割と頻繁に行われており、ケルシーらが陣頭指揮を執る医療チームはそれらを一度も失敗することなく完遂し続けていた。
ロドスがロドスたる所以。命を救い、絶望を掬い、こうして前に進み続ける象徴。
この企業で最も厳格、且つ最も優秀な人材が集まる部署の、不可能を可能にする最高効率の仕事だった。
閑話休題。
ドクターは顔を上げ、机の上に備えられたラップトップのディスプレイに目を向けた。
開かれたメーラーの受信箱には新着が数件。それらは、数日前に行われた作戦の“損害総額”と物資補給スケジュールの見直し提案書だったり、オペレーターからの個人的な私信が数件であったり。
その中には、とある企業からロドスに“業務提携”という名目で転向してきた研究者兼オペレーターからのメールも含まれている。それ一件だけが他のメールとは違い暗号化されていて、自動的に迷惑メールフォルダに振り分けられるような処理が施されている。他人が見れば完全に恣意的なもので、只のスパムと気にも留めずに終わるようなものだ。
ドクターは身体を起こすと、机の引き出しからシガーケースとライター、灰皿を取り出した。
慣れた手つきで取り出した紙巻に火を付け、机にマスクを置いて銜え、吸い、吐き出す。机の中に散らばる“理性回復剤”と銘打たれたシリンジの箱には目を向けないようにして、引き出しを押し戻した。
それから滑らかな手つきで、いくつかのメール達に軽く目を通しては優先度順に作成したいくつかのフォルダに分類していく。いくつかの例外を除き、業務メールは黄色。私信メールは緑。武力を伴う任務に関するものは、赤。
迷惑メールフォルダに入っていたドロシー・フランクスからのメールは、動かさずにその場で開封して内容を熟読したのち、直ぐに削除した。
口から吐き出した煙草の煙が、ディスプレイから射す光に照らされて青白く光っていた。
そのままドクターは携帯端末を手に取ると、メールの差出人に電話を掛けた。
『──あら、ドクター! どうしたの? こんな時間に電話なんて』
『遅くに悪い、ドロシー。取り込み中だったか』
『いいえ。今日はちょっと早寝しようと思って、仕事は早めに切り上げたの。だから今はゆっくりお話しできるわ。どうしたの?』
『“スマラグドス”のことで、話がある。どこかで待ち合せないか』
『……』
スピーカーの向こうに僅かな静寂が降りた。彼女の柔らかな声色が、微かに強張ったように感じられる。
『第5研究区画のカフェで待ってるわね。あそこはセルフサービスだし、今の時間は人も来ないから』
『ああ、直ぐに向かう』
『ねえドクター。あなた大丈夫? なんだか声の様子がおかしいわ』
『会ってから話すよ、ドロシー』
心配する彼女を否定も肯定もせずそう言った男の様子に、今度はそう間も置かずその甘い声をさらにゆっくりと、子を寝かしつける母のように和らげた女が通信の向こうで微笑んで頷くような気配と共に応じる。
『……そうね、分かったわ。待ってるわね』
△▼
「……」
第五研究区画は、とうに終業時刻を過ぎていた。
暗い廊下に、非常灯の緑色が僅かに反射するばかりのフロア。その廊下の突き当りに、職員が自由に利用してよいカフェスペースがある。各種飲み物や菓子の類は全てセルフサービスで、飲食は無料。衛生面を鑑みて保存のきくような食べ物しか置いてはいないがそれでもスタッフ達にはかなり好評で、全ての研究フロアに同じような場所が用意してあった。
普段は明かりが消えている筈のそこが、今日だけは明るい。
イートインスペースに腰かける二人は先ほどから言葉を交わさず、ただ静かにコーヒーの入ったマグを傾けている。男は片手で、女は両手で包み持つようにして。
皿に乗せたサンドイッチはスペースに備えられていたものではなく、女が持ち込んだものだった。閉まる直前の売店に寄って買ってきたものらしい。
「ご飯を食べるの、また忘れちゃってたのよ」と恥ずかし気に女は笑いながら、いくつか包まれていたサンドイッチを一切れ皿に乗せ、男に分けた。
ドクターが苦いコーヒーを二人分淹れ、言葉少なに席に着く。
それから、数分は閑かな沈黙が続いた。時折ドロシーが小さな口を開いて上品にパンと野菜を食む小さな音と、マグを置くことりという音が聴こえてくる。それ以外はひとの気配などない、寒々しくも見える夕食。
けれど、互いが互いに気を遣うことも、気まずくなるような気配もなく。ドクターはただ今日何杯目かも分からないまずいコーヒーを飲み、ドロシーは今日目覚めてから初めて胃にものを入れる。
ふたり、隣り合ってそうした人間らしい活動をし、それを互いに確認する。
「──エイヤフィヤトラが、少しな」
「……うん。ナウマン夫妻の息女でしょう?」
「ああ。怖がっていて、少し」
「また、背負うようなことを言ったのね」
「言わなければならなかった。ああ」
「それで?」
ドロシー・フランクスが粗末な食事を終える頃、ようやくドクターはその口をひらきぽつぽつと言葉を吐き出す。それに穏やかな調子で相槌を打ちながら、彼女は男の淹れたコーヒーを飲んだ。普段から飲みなれているのか、苦さに眉を動かすこともない。
話の続きを促す彼女に、ドクターは低い声で唸るように、エイヤフィヤトラとの出来事を話す。凄まじく重たい疲れの滲むその声を、ドロシーは隣で受け止める。
話を聞くにつれ、彼女の長い睫毛が伏せられていく。軽く俯けた顔が、黒いコーヒーの水面に揺らいだ。
「……彼女の余命、もう分かっているのね」
「上手くいって、数年。どのタイミングで聴力と視力が喪われるかは、環境次第だ」
ただ出来事と経緯を話すだけで、聡明な女は男が胸の内に潜めていた事柄を難なく透かしてしまう。それを男も驚くことなく受け止め、隠すでもなく素直に言葉にして伝えた。
「辛いわね」
「ああ、あの子が例え恐怖を受け止められたとして、命のリミットが伸びるわけじゃない。俺たちは、あの子に希望を教えてやることしかできない。それが、あまりにも哀れで」
「ううん、違うわ。今辛いのはあなたよ。ドクター」
喉を絞るようにして話していた男は、そこで少し驚いたように顔をあげて、隣にいる女の方を向いた。
それを予期していたかのように、くりくりと大きなトパーズの瞳と目が合う。
それが明かりの落ちた研究フロアの一角でなければ。それが苦いインスタントコーヒーや、ぽそぽそとした粗末なサンドイッチでなければ。隣り合って座り見つめ合う二人の男女はそれなりに絵になる端正さで、ロマンチックなシーンであると言えるのかも知れなかった。
「俺が?」
「だから、話したかったのでしょう。 違う?」
端的に、ごく道理的に解明される。辛かったから相談したかったのだろう、と。
男は数舜考えて、
「……そうだな」
そしてあっさりと認めた。二人は、その程度には心を許し合った同士だった。
「そうだな。辛かった。本当はあの子を救ってやれる理由や根拠や、それが何日後なのか。そういうちゃんとした未来を全て示してやるべきなのに。
あの子は賢いから、煙に巻かれたとすぐに気付く。曖昧な精神論しか振りかざせない俺は、未熟だ」
自分をひどく責める修道者のように、男の厳しい言葉は全て自分に向けてのものだ。口調こそ荒立ってはいないものの、そこには凄まじく青熱した怒りが込められている。
ドロシーは言葉を止め、マグを傾けて口を濡らしてから自らの手袋の指を摘んだ。するりと抜けた手袋の下から、白くほっそりとした指と手が現れる。
そのままその手を、男の肩に置いた。言葉は掛けず、ただ男の裡に燃え上がる怒りが少しだけ収まるまで、隣には自分が付いていると彼に示すように。
男は怒っていた。放っておけばそのまま自らの手で自分の首を絞めてしまうのではないかと、不安になってしまうほどに激怒していて、かつそれを誰にも悟らせはしないようにしている。
研究者としてのそんな彼を、ドロシー・フランクスは痛々しいほどに理解することができた。実際のところは“自分も同じような気持ちを味わったことがある”だけで、真に彼を理解することはできていないのかも知れないけれど。
それでも、的外れではない筈だった。
大人二人でこんな乾いた時間を過ごし、弱さを見せる。それが、男が女へ見せた信頼の証であったから。今ここで余計な言葉をかければ、それこそその信頼に背くような結果になってしまうから。
だから、ドロシーは言葉をかけることはしない。この男は見た目よりもずっと強く、研究者としてドロシーよりもずっと狂っていて、諦めることをしない。できない。
だから、ただ少し、数分こうして待っていれば、彼は必ず顔を上げるのだ。
「……“スマラグドス”の臨床を一刻も早く進める必要がある。力を貸してくれ、ドロシー」
かつて、女は夢を見た。それは他者からすれば悍ましい過ちで、けれど美しい一途な夢だった。
「ええ、準備はできているわ。私の研究と夢の全てを、貴方に託します」
ドクターだけが、彼女の研究を否定しなかった。彼女の罪を罪と認めたうえで、より正しく独りよがりではない、誰かが望んだ未来を描き出す善き翠玉をと。
オペレーター・ドロシー。ロドス勤務、準エリートオペレーターにして第五研究区画主任。
その希望と未来に満ちた光を見、ドクターはようやく少しだけ。
「ありがとう、助かる」
「私、なんにもしてないわ。あなたの隣でご飯を食べてただけよ」
「……私が言えたことじゃないが、食生活、もう少し直せよ」
「ふふっ。じゃあ代わりに、あなたは理性回復剤とか言うロドス謹製の怪しい薬。やめてくれる?」
「うぐ」
ほんの少しだけ、いつもの笑みを浮かべた。