@Alpha_arpA
「クライオニクス……ですか?」
エイヤフィヤトラの整った眉が僅かに顰められ、聞き覚えの無い単語を念のためと聞き返す。
それは若き研究者のこれまでの人生の内には見かけることの無かった単語で、また日常生活でもそういった言葉を目にする機会は記憶の限りは無かったはずだった。
膝の上で行儀よく握り合わせた両の手が、その手の甲を落ち着きなさげに撫でる。知らない単語ではあったが、どうにも心のざわつく、耳に触りの悪い単語だった。
ワルファリンはエイヤフィヤトラに向かって頷きかけ、聞き間違いではないぞと肯定する。湯気を立てるブラックコーヒーを二つのマグに入れて戻ってきて、一つをエイヤフィヤトラに手渡した。
唇を飾り気の無いマグにつけてため息を吐くと、言葉を続けた。
「ああ、知らないのも無理はなかろうな。ミノスの古語が語源で、寒さとかそういった意味だ。終末医療の分野で一時期論文が発表されて騒がれていたものの、技術的な問題や倫理的観点から批判を浴び、次第に忘れられていった技術論の一つなのだ」
医師の細く白い指が、デスクにあったペン立ての中から一本のボールペンを選んでつまみ取った。その手で横に置いてあった再生紙のメモ用紙を一枚剥がすと、「ちょい、もうちょい近う寄れ」とエイヤフィヤトラに手招きする。
「あ、はいっ」
慌てて頭を寄せ、机の上のメモ用紙をのぞき込む彼女の様子。ワルファリンはさらさらとボールペンで人型のモチーフを描くと、それを縦長の六角形の枠で囲んだ。遺体を収めるような棺のマークだ。
「例えばここに、余命宣告され死を待つばかりの患者がいたとする。この患者は現時点で治療法の確立されていない難病に冒されており、これ以上の治療は不可能と判断。本人と周りの同意もあり“終末医療”に移行しているところだ。終末医療については知っておるか?」
「はい。病気を治すための治療行為ではなくて、残りの生を患者さんが痛み無く、穏やかに過ごせるように努めるために、外科的な治療を減らしたり、身体に負担の少ない薬を使ったり、自宅で過ごせるように環境を整えたり……そういう医療の方法、ですよね」
「うむ。よく知っておる。で、この終末医療だが。
病に対してもう現代の医療で打てる策が無い、また患者の体力が治療に耐えられない、あるいは患者自身がこれ以上の治療に伴う苦しみを望まないなどと……色々理由はあるものの、最終的に患者は必ず命を落とす。程度の差異はあれど、そこは織り込み済みで行う行為なのだ。
患者の痛みと恐怖をぎりぎりまで和らげ、ヒトとしての尊厳を保ったままで送ってやる医療。現代医療としては、文句のつけようが無い敗北だ」
「これは当たり前の話だが。患者が程度を越えた苦しみを受けず、命を落とさないのならそれに越したことは無い。
ヒトの技術は進歩する。今は治療法が確立されておらずとも、5年、10年、50年先には画期的な方法が発見されているかもしれぬ。そこまで患者の命を長らえることができれば、終末医療のほかに選ぶ道の無い患者はいなくなる。
“死を待つほか無いならせめて楽な生き方をさせてやろう”などという苦し紛れの情けない策をとる必要は、無くなるわけだ」
エイヤフィヤトラはこっそりと横目で説明を続けるワルファリンを盗み見た。彼女の言葉には所々が刺々しく、自ら説明している事柄を嫌悪している様子が窺える。だがその表情はその言葉と打って変わって淡々としており、内側に収まった人型ごと棺の内側を黒く塗りつぶす彼女の手もまた、淡々と涼しげだった。
「想像は付いているだろうが、鉱石病もまたこのケースに当てはまる。我々は現状あの病に対する治療法を持たず、せいぜいが進行を可能な限り抑え、症状の痛みを和らげる程度だ。だが」
ワルファリンはそこで、棺の内側を塗る手を止めた。紅玉の瞳が、塗りつぶした黒を見つめ続けている。
「クライオニクスは患者の人体を特殊な方法で凍結し、病を進行させないままに長期間保存し、治療法が見つかる希望を未来に託すことができるのだという。いつかそのときが来たら、凍結した身体を解凍し、蘇生した上で、打つ手の無かった病を治すことができるのだと」
棺の下から右へと矢印を伸ばし、その先に新たな棺と人型が描かれる。
棺は塗りつぶされておらず、人型には簡単な笑顔が描かれており、その下には。
100years after? と小さな文字が書き込まれていた。
「身体を凍結して、保存……不治の病でも、死を待つばかりでいなくても、よくなるんですか?」
「うむ。理論上はな。当然のごとく超技術だ、実用化などお伽噺より難しきことよ」
エイヤフィヤトラはまるで雷に打たれたかのように硬直し、目の前のワルファリンを見つめていた。
もし彼女が説明したことが、今ドクターが押し進めているというその医療法が本当に実現するのだとしたら……。
自分がそのような問いを口にすること事態が信じられないというように、言葉をそっと押し出して質問する。
「それは……鉱石病にも、有効な方法なんですか?」
ワルファリンもその問いを予想していたのだろう。エイヤフィヤトラの質問に対する答えは、直ぐに帰ってきた。
「勿論今までは不可能だった。言った通りクライオニクスそのものが様々な技術的問題を抱えていた上、また鉱石病ともなれば凍結中も体内で源石の融合が進む可能性が高かったゆえ。だが」
「ドクターはそれらの全てを解決した。ライン生命の元アーツ応用課主任、ドロシー・フランクスとの合同研究によってな。
かの研究者が開発し、ドクターが改良した伝達物質を体液と入れ替えた上で凍結すれば、細胞の破壊はナノマシンによって治療しつつ、血中源石による融合率の上昇をほぼ完全に近いかたちで抑えられる。
人体が凍結された際に水分が膨張し細胞が破壊される問題も、時間経過に応じて組織が劣化する問題も、解凍時に有効な蘇生法が確立されていない問題も解決される。
それが“スマラグドス”。翠玉の名を冠する、まったく新たなクライオニクス医療。
鉱石病は今……治る病気にはならずとも、死なない病気になろうとしているのだ」
医師の話を神妙な表情で聴くエイヤフィヤトラの中で、ドクターの言動やワルファリンの話や、散乱していた疑問や不可解が一つ一つ音を立てて正しい場所に収まり、ひとつの理解となって完成していく。
彼女の理解と驚愕を代弁するようにして、ワルファリンはそれを言葉にした。
「さあエイヤフィヤトラ、そなたに先の問いの答えを渡そう。
そなたの余命はあと数年──ではない。
スマラグドスを使えばそなたの命は数十年、ともすれば数百年先まで生き延びることができよう。
ドクターがそなたに余命を告げない理由。それは先も言ったとおり、そなたを気遣い希望を持たせることが三割。そして残りの七割は……そなたとの約束を、上辺だけでなく確たる真実として示すため」
「ドクターはな。エイヤフィヤトラ」
「『鉱石病を治す』というそなたとの約束を守るため、世界を救う術を編み出してしまったのだ」
そう言葉を締めくくって、ワルファリン医師は手に持っていたボールペンをデスクに置いた。
『恐怖して良い。そして希望を持って良い』。ドクターが言った言葉がエイヤフィヤトラの耳の中でこだましている。膝の上で組み合わせた手に痛いほど力がこもって、気付かぬうちに自らの呼気が浅く、速くなっていることに今更気が付いた。
心臓がどくどくと早鐘を打つ。自らの陥った病という名の袋小路を彼はいつだっていとも簡単に、平然とした顔で打ち破り、未だこの先に道はあるぞと手を差し伸べてくる。
これが、ドクターが本当に見せたかったもの。言葉よりも後に伝えたかったこと。
死ぬ必要は無いと、未来に希望を託して良いと、たとえ百年先に目覚めることになったとしても、君の生きる意味は君の病に重複されはしないと。させはしないと。
誰もが諦め気にも留めない、当たり前のようにそこに或る絶望を打ち壊す。己の人生の何もかもを捧げ尽くして、誰にあざ笑われようと探求を辞めず、ただ独りでも立ち止まりはしない。
これは、そんな研究者が造り出した成果だ。それは世界を冒す病を治すことは叶わずとも、それでも間違いなく歴史に刻まれる偉業であることは疑うべくもない。
その気持ちは、エイヤフィヤトラがあの大学の図書館で感じたものと同じだ。初めてドクターの論文を目にして、ドクターという研究者の存在を知ったときに感じた想い。
ただただ真っ直ぐに、狂気的なまでの一途さで到った名の無い研究者の魂の輝きだ。ヒトが生きて行くにはあまりにも厳格なこの大地にあって、それは眩しすぎるほどの人間賛歌だ。
それを若き研究者は恐怖し、欽慕し、憧憬し、そして目指した。
エイヤフィヤトラは男の真意とその目的を理解して、ぽつりと呟いた。
「……ああ。やっぱり、格好良いなあ」
エイヤフィヤトラは目を閉じる。長い睫毛を伏せて。
憧れた。その背を追い、自分も遺された研究を携え同じように生きたいと思った。その傍に身を置き共に働くようになったとて、彼が放ち続ける輝きは何一つ変わらない。
彼女が『先輩』と呼びかけるとき、彼はその淵のような瞳を細め、顔をほころばせる。彼が『後輩』と呼んだとき、彼女はほんの少しだけ男の背に近付けたような気がして、心が浮き立つ。
隣に座って彼の講義を受けるときは、聴こえない耳を必死に集中する。彼は真剣な表情で、身を乗り出すように彼女の未熟な論文に向き合ってくれる。
彼が必要とするとき、彼女はその身のうちに流れる熱をアーツと成して振るう。
彼は決まって、彼女が戻ると礼を言い、その後で『悪かった』と謝った。
「そっか。私──」
治ったら伝えようと思っていたこと。彼は待っていると言った。でも、もうそんなことでは遅いのだ。
目を開く。光をともしたローズグレイの瞳が真っ直ぐに前を向き、顔を上げ、唇をひき結ぶ。
「──嬉しく、ないんですね」
だからこそ。
だからこそ、エイヤフィヤトラはおそらく、これまで生きてきた短い人生の中ではおそらく、どんな事柄にもまして激怒している。
怒っている。烈火の如くとんでもなく。当然怒りの矛先はドクターだ。
これはもう、ちょっとやそっとのことでは収まるはずも無い。己を火山に例えるとするなら、もう噴火の臨界点をとうに超え、エネルギーを溜めに溜めて噴火の時を待っているかのよう。
ドクターは今、エイヤたち感染者の為一つの偉業をなそうとしている。けれどそれはたった一つの致命的な勘違いの上に成されていることで、それをエイヤフィヤトラはどうにか彼に教えてやらなければならなかった。
なんとしても、彼に伝えてやらなければならない。彼がしている壮大な勘違いと間違いを突きつけて、その後で私は、エイヤフィヤトラはもう一言だけ言ってやらなければならない。
まだ伝えないでおこうと隠していた想いを、しっかりと刻んでやらなければならない。ドクターが己の間違いを認めるまで、懇切丁寧に説明してやらなければならない。
オペレーター達のために自分の執務室のものを片端から売り払ったり、研究と仕事の為に幾晩も徹夜を強行したり、栄養剤を注射してなお動き続けようとしたり、仕事のために痛めつけた身体を医者に見せるのを厭がったりと……等々。
よくよく考えてみれば、ドクターは研究者として素晴らしく尊敬できる一方で、その至上目標を遂げるために己のためにあるあらゆるものを棄てすぎるのだ。端から見ていても痛々しいやら心配やら格好悪いやら、もうどうしようも無い。
次から次へと怒ってやりたい事柄が湧き出してきて、どうして自分は今までそういったことに腹を立ててあげられなかったのだろうと疑問に思う。何だかもう本当に伝えたいこととはさっぱり関係の無いことにまで腹が立ってきて、エイヤフィヤトラは心の片隅でそんな自分に困惑する。
耳が熱い。燃えるみたいに。
でもこれが病気の所為などではないことは、自分でもはっきり分かる。
だから、会いに行きたかった。話をしたい。彼の許へ。
「ふふっ。さあ、エイヤフィヤトラよ。話はこれで終わりだ。
先に言った通り、これまで通りではいられまい。なれば其方はこれから、どうする?」
答えは当然。
エイヤフィヤトラは立ち上がり、ワルファリンに頭を下げた。
「先生。私を、ドクターのところに連れて行って下さい。お願いしますっ!」