@Alpha_arpA
「先生。私を、ドクターのところに連れて行って下さい。お願いしますっ!」
エイヤフィヤトラの剣幕は、普段穏やかで取り乱すことも殆どなく、誰に対しても物腰柔らかな普段の彼女を知っているものが見れば驚愕に目を見開いたことだろう。
勢い込んで頭を下げたため、彼女の牧獣のように柔らかな髪がふわりと宙に浮き、そして垂れる。急に動いたための立ち眩みだろう。ほんの少しだけ身体がよろけ、しかしエイヤフィヤトラはお構いなしに踏ん張って耐えた。
──若いな、と思った。
ワルファリンは紅玉の瞳を細め、エイヤフィヤトラに見えないところで人知れず、慈しむようにその薄い唇を柔らかく曲げる。
この子はきっと今、ただ身の裡に巻き起こった衝動に突き動かされ、脚を踏み出そうとしているだけだ。
ドクターは、クルビアのライン生命と関わりを持つようになってからこちら、アーミヤやケルシー、勿論ワルファリンもそうだが……そう言った者たちの理性的な反論や代案、そう言ったものの悉くを説き伏せてきた。
プロジェクトそのものの危険性や、ドロシー・フランクスが進めてきた研究を使うことの意味、ドクター自身が被るリスク、ロドスの未来についてに至るまで。
そのたびにドクターは、傍らから見ていて恐怖すら感じるような執念でもって、指摘された問題点を技術的、或いは運用法やそのほかの方法で克服してきた。
強行はせず、しかし誰にも邪魔をさせない。全ての手続きは合法的に進められ、理論武装は完璧で、彼らが推し進める新たな医療技術はいまや何一つ文句のつけようもない。
完成すればそれはまさしく人類の進歩となって、この地球に生きる感染者たちを救うための希望の夢となる。それは、目の前の少女も例外ではない。ドクターの研究を止めること、咎めることはそれ即ち、鉱石病研究に対する反逆とすら感じられてしまうだろう。
そうなってしまえば、最早彼を説得などできはしない。感染者を救うという命題に於いて、義は常に彼の側にあるのだ。
ワルファリンすらも、ドクターからそれらについて説明を受けた時、一度はこの世界の革新に立ち会う時が来たのかと感激したものだ。
それはまさしく、ロドスが追い求めてはつかみ取れずにいた鉱石病に対する明確な対抗策そのものであったために。
だが、今は違う。ワルファリンはこのエイヤフィヤトラという少女に、ドクターとドロシーが進めるかのプロジェクトを批判し、そして中止させてほしいと願っていた。
……確かに、夢のような話ではあるだろう。
今は例え治すことができなくとも、己の命は完全な形で保存され、鉱石病など最早治る病となった先の未来で再び目覚めることができるというのだ。
ただ病に喰われ、理不尽に喪われるはずだった生を、存分に謳歌することができる。
だが、本当にそうか?
家族も知り合いも、暮らしていた街や国も、今月の給料も、明日の夕食も、何もかもがまっさらに無くなっているかもしれない未来に目覚め、いったい何を己の意味として生きるのか?
生まれてから今この瞬間までに得て、失い、積み上げ崩れた全ての人生を置き去って眠り、ただ命だけを永らえた不死者のごとき、動く死体のごとき生に、ヒトはいったいいかな意味を見出せばよい?
ワルファリンはシステムチェアから「どっこらせ」と腰を上げると、隅に置かれたコーヒーメーカーにインスタントの粉末を適当に放り込み、スイッチを押した。黒い液体が抽出されるのを白衣のポケットに両手を突っ込んで眺めながら、「顔を上げて座るがよい、エイヤフィヤトラ」と未だお辞儀の姿勢のままだった少女に声かけた。
燃えるマグマのような、感情的にひた走る若さ。「簡単に反駁されてしまう感情論であったとしても、ただ何かが違う気がする」という感覚的な不安感をこそ、ワルファリンたちはもっと重視すべきだったのだ。
ドクターに響き、その顔を上げさせるのは。
チェルノボーグで彼が目覚めたその瞬間、いやさそのもっとずっと前から、そういったモノだけだったのだ。
ワルファリンは、己の中の不安を彼に吐露することができなかった。彼の狂気と執念の前では、一人のブラッドブルードの懸念など、砂粒の如き些事に思えてしまったから。ゆえに、もう彼女にドクターは止められない。
だが、少女は違う。
「VTOLは第8発着場に待たせてある。必要だと思ったゆえな、実は既にひとり、協力者に声を掛けてある。妾も共に行き、手を貸す。だが、ドクターはそなたがひとりで止めねばならぬ」
「っ!! ワルファリン先生、じゃあ!」
「手ごわいぞ、あやつは。ま、失敗しても死ぬわけでも怪我をするわけでもない。胸を借りるつもりで気楽に挑むがよい。いつもそうしているのだろう? エイヤフィヤトラよ」
「あ……はいっ!」
その心地良いまでの若さと一途さはきっと、ドクターを救うたった一つの冴えたやり方。たとえ己に遺された生が短く儚いものだったとしても、それは人間を老成させ諦観の裡に乾かす理由にはならない。
つまらない健康診断の担当医をきっちりまじめにこなすのも、たまには良いものだなと、帰ってくる頃には冷めているであろうコーヒーメーカーの中身を見ながら。
ロドスに身を置く乾き切った不死者は、小さく苦笑した。
時は現在に戻る。
──空から火山が落ちてきた。
嗚呼、それは絶望の象徴。
我らヒトが畏れてやまない、やまなかったものたちの原型。
我らは畏れ、ゆえにこそそれらを解き明かそうと知識を接ぎ、継ぎ、注ぎ足してここまで来た。
神秘という名の死。決して逆らうことのできない死の波。太刀打ちできないもの。
それは海。
それは雷。
それは飢え。
それは……火。
無限の時を積み重ね、培った技術で克服したはずのものはいとも簡単に覆された。火は消えず、水は引かず、風は収まらず、病は治らない。
愛するものも、愛したものも塵となって最期には風に攫われ消える。そんな世界が嫌いだった。
ヒトは襲い来る厄災に抗えない。抗えないままにあまりにも多くの命が失われてしまったから、何時しかそれに抗うことすら忘れてしまった。そんな世界が異常だと、狂っていると声をあげることすら忘れてしまったようだ。
そんなヒトが嫌いだった。どうかしているとすら思う。身近にいる大切なひとが、明日の朝には黒い石となり果てて、友を殺す毒となっているかもしれない世界。
そんな狂った世界にあって、やれ差別が何だ、戦争がなんだと見当ちがいな憎しみを振りかざしては傷つき、その数を減らしていく人々が堪らなく嫌だった。それを救えず見守り続けるだけの自分のことは、最早殺してしまいたいくらいに憎らしかった。
だから、反逆しよう。
お前のような、抗いようもなく襲い来る熱は鋼鉄のシェルターでやり過ごしてやる。
やり過ごした後で、お前の熱を使って引かない海を干上がらせてやろう。
冷やされた熱が作った石の壁で、吹きすさぶ風などそよ風にも感じない場所をつくろう。
そうして作った楽園で、ただ眠って時を待てば病が治せる日が来ると、全ての人々を安心させてやろう。
反逆しよう。世界に。
この日この瞬間、いま再びそれに反逆せんとする男の業に、それが襲い掛かった。
“カトラの火よ。”
耳元でごうごうと風鳴りが爆ぜている。
体中を剛風が打ち付け、ゴーグルをしていても目元に風を感じるかのようだ。
“エルドギャゥを割り、ヨークトルを割り、その姿を現そう。”
彼女──栗色の髪のキャプリニー。エイヤフィヤトラは落ちていた。
クルビア郊外の乾いた星空から、廃墟となった359号基地の施設が墓標の如く立ち並ぶ地上へ向かって墜ちていた。
上空にはVTOL輸送機。視線の先には明かりの消え、黒くいびつなシルエットだけが立ち並ぶ建物たち。
そこに居るはずのドクターやフランクス博士は、彼女の弱った視力では捉えきれない。
だが、彼女はその記憶に叩き込んだデータを思い出した。味方と敵の戦闘地域、その移動予測線。それを信用していれば、絶対に大丈夫。
それは世界でいちばんか、二番目くらいには信頼できる情報だと断言できる。何故ならそのデータの作り方は、彼女が世界でいちばん信頼している男に教えてもらったものだからだ。
予測地点に目を向ければ、その一区画だけはぼんやりと、いくつかの建物に灯りが灯っているのが見えた。
“土を割り、氷を割り、その姿を現そう──。”
降下装備もつけていない彼女では、十秒も経たないうちに地面に激突してしまうだろう。それでも少女は言葉を紡ぐ。彼女にとってその詠唱は、精神を集中させ、アーツの収束効率を高めるためのおまじないだった。
何かの呪文というわけでもない、ただ彼女の精神を安定させるためのルーチンワーク。
彼女は近づく地面に構うことすらなく、自らが移動都市に轢かれてぺしゃんこになったオリジムシのようになるかも、という危機も厭わず、父の研究室で読んだ旧い詩編に見たリターニアの自然の叙景詩、お気に入りの一篇の朗読を優先する。
なぜなら彼女──エイヤフィヤトラは。
「いきますっ。アンジェさん!」
≪降下地点に反重力展開中! いけるよエフィ、ドクターに見せてやろうよ!≫
すさまじい圧迫感をもって近づいてきていた地表が、ふと遠くなる。吹き付ける風が弱まる。
ふわり、暖かなアーツのにおいに包まれる。
身体が軽くなったような感覚。気を抜くと空中で宙返りしてしまいそうな軽さで、けれどきっとそんなことはない。エイヤフィヤトラは、彼女の友人のアーツのことも信頼していた。
──彼女は落ちているのではなく、これから飛ぶのだ。
≪アーツ起動、着弾まで5、4、3……指定地点に高エネルギー反応! 対アーツシールドだよあれ! 建物を護ってる……だめだ、ひとつだけ破壊できてない!≫
≪ま、当然防がれるだろうな。だがこれで目標ははっきりしたぞ。二人とも、あの建物が“スマラグドス”に利用する伝達物質を最終調整している建物だ。つまり≫
「あれを壊せば、ドクター達の計画はっ!」
濃紺の星空を赤黒く焦がして、無数に放たれた──ように見えて、実は綿密な計算のもとに全弾がエイヤフィヤトラの照準通りに着弾している火山弾が、明かりのついていた実験場の残滓を完膚なきまでに破壊する。
だが、その内の一棟だけはその火の中に在ってなおも健在だった。六重に重ねられた対アーツシールドが彼女のアーツを土壇場で防ぎきり、直後には小さな爆発音とともに装置が破損しシールドが消失する。
通信機から大音量で聞こえてきた声にエイヤフィヤトラが施設の破壊を問うと、ワルファリンからは直ぐに静止の声が飛んできた。
≪現状での破壊は禁止だ。これ以上の攻撃、戦闘行為はロドスの理念に反する。あれを破壊すればドクターの歩みは一時留まるが、同時に多くの感染者たちの死を確定させる結果にも繋がる。
優先順位を間違えるでないぞ。我らはドクターと話をせねばならんのだ。武力で押さえつけては、我らはドクターに勝利したとは言えんぞ≫
≪エフィ、間もなく地上だよ。すぐそこにドクターもいる!≫
アンジェリーナの通信が入るのと丁度同時に、エイヤフィヤトラもそれに気が付いた。
黒いフードの男が、燎原の火の只中に立ち尽くしている。
燃える荒れ地の枯れ草が夜の平原を照らす中、男の周りだけが不気味なほど暗く沈んでいた。それはエイヤフィヤトラのアーツ制御の賜物であり、彼女がドクターやドロシーがアーツに巻き込まれるようなことが絶対にないよう慎重に計算と照準を行った故の光景であったが、彼女はまるで、男が自分からあらかじめその安全地帯の中に移動して待っていたかのようにも感じられた。
男はじっと、アンジェリーナのアーツの力を借りてゆっくりと降下してくるエイヤフィヤトラを見上げていた。手をコートのポケットに突っ込み、いつものように淡々とした感情を外に滲ませない様子でただ待っている。
一棟だけ残った実験施設を背にするその様子は、今この状況にあっては逆に異様で。
エイヤフィヤトラはつと、そこに立っているだけの男に言い知れぬ恐怖を感じた。それは、誰かが命の如く大切にしていた宝物を壊してしまったときのような。
絶対にするなと何度も言い含められていた禁を破ったかのような、そういう恐怖。
決して超えてはならない一線に近づいているのを、大いなる庇護者に見られているかのような。
そんな、感覚だった。
「──随分と大胆にやるじゃないか。私が最重要施設を防御する手段を持っていなかったら、どうするつもりだったんだい? エイヤフィヤトラ後輩」
地に降り立つ少女に掛けられた声も、いつも通り飄々と、淡々としている。相変わらずエイヤフィヤトラには、彼が今何を感じ考えているのか、推し量ることはできなかった。
彼の許まで、あと十五歩。走れば駆け寄れるはずなのに、こんなに遠い。
「……先輩のこと、信じてますから」
「はは、随分重たい信頼だな。私如きが抱えきれるかどうか」
男は渇いた笑いを最後にして、その表情からゆっくりと色を消し、そしてエイヤフィヤトラに問いかけた。
「エイヤフィヤトラ。それじゃあ、用件を聞こう。何をしに来たんだ?」