@Alpha_arpA
「──ああ、そっか」
アンジェリーナはそして、不意にぽつりとつぶやいた。
呆けたように、けれどこれで間違いないと確信するように。どれだけ力を込めても解けなかった雁字搦めの結び目が、ふと何でもない拍子に解けてしまってぽかんと仰天するように。
彼女には、今相対するザラックの研究者とワルファリンの学術的な話はほんの少ししか理解はできなかった。前もってワルファリンから告げられていたことと併せても、正しい、正しくないの境を見極めることはできない。
けれどそれらの小難しい話とはまったく別の所に在る、ドロシーの奥底にある気持ちがふいに読み取れてしまった。
グローブを嵌めた手を目の前に翳して、荒れ狂う砂の壁を見上げる。
低く唸るような振動音と共に、ドロシーのアーツは決して二人をその先へは通すまいと、その向こうで何が起こっているのかすら見せはすまいと立ちはだかる。流動し、荒れ狂い、きっと無理に立ち入ればヒトの生身など絶対に無事では済まないだろう。
其処で起きているすべてが、ドロシーの瞋恚を雄弁に表しているかのようだった。誰もがドクターを蔑ろにした。感染者とそうでない者たちの安寧の為に、彼ただ一人だけがロドスという巨大なクジラの犠牲になり続けたのだと。
喉を嗄らして弾劾していた。あれだけ穏やかな雰囲気を崩さなかった彼女が、まるで別人のように。
それは、とても、どうしようもなく身悶えしたくなるほどに。
分かりやすく、単純なことだ。
「おい、安心院! それ以上近寄るな、今のあやつは近づくものを本気で排除しに──」
「ううん、先生。違うよ。そうじゃないの」
瞠目して叫ぶワルファリンに、けれどこの声は聞こえないかもしれないな、とアンジェリーナは思った。
自分はなぜここに来たのだろう。アンジェリーナは考える。
大切な友人であるエイヤフィヤトラを助けるために?
あるいはドクターが道を間違えてしまいそうでいるのを、説得するために?
はたまた大切な仲間である皆が仲良くこれまで通りに過ごしていけるよう、手を貸すために……?
そのどれもが正しく、そして全ては正鵠を射ない。
友人がドクターに、その身を張って伝えたいことがあるという。ならば私は全力で以てその手助けをしよう。彼女の背に翼を与え、空を舞わせ、彼女の前に立ちはだかる障害は打ち払わせよう。
エイヤフィヤトラが好きだから。ドクターが好きだから。
ドクターが、その責任感の余り過激な方法で感染者を救おうとしているという。ならば私は全力で以て、彼の間違いを正して見せよう。彼の心をふわりと浮かせ、重たい鎖から解き放とう。
ドクターが好きだから。ドクターの目指す平和が好きだから。
ロドスが好きだ。此処では誰もが笑っている。誰もが好きなように怒ってよく、心のままに悲しんでよい。好きなものを好きと、嫌いなものは嫌いと言ってよい。その上で、本来あるべき道徳によって、誰かを傷つけるかも知れないそう言った心を慎んでよい。
此処に、鉱石病によって捻じ曲げられた常識は存在しない。感染者だからと、健常者だからと、本来ある筈だった喜びや幸せや、怒りや悲しみを堪える必要はない。
ロドスは普通だ。ロドスには普通の生活がある。
それが、アンジェリーナは心の底から心地よい。
きっと、それらはドクターたちの血を吐くような努力と苦しみの果てにようやく出来上がった居場所だ。
決して無から生まれた拾い物などではない。犠牲は、確かにここにもある。
ドロシーはそれに、誰よりも早く気が付いたのだ。ずっと昔からロドスに居た誰もが見て見ぬふりをした痛みを、彼女は看過することができなかった。
感染者に齎された幸せが誰の犠牲によるものかを、声高らかに告発せずにはいられなかった。
安心院・アンジェリーナは感染者だ。そしておそらくこの場にいる誰よりも、ドクターとの関係は薄いだろう。
時折オペレーターとして召集されたり、トランスポーターの仕事を言いつけられたり、もしくは単に食堂や廊下や会議室で、彼の姿を見かけたり。
そうするたびにふと気になって目では追うものの、しかしそれ以上の行動を起こすことはない。
彼女はロドスに住まう、ただの感染者。ロドストドクター達の庇護のもとに生きていた、ただの少女。それが今、ドクターがどれだけの思いをしてこの場にいるのかを知り、只の感染者ではなくなったアンジェリーナだ。
だからこそ、目の前のザラックの研究者がどれだけの思いを抱えて其処に立ち、自分たちをしっかと睨みつけているのかが痛いほどに分かる。
新たな医療技術や、感染者の未来や、そういったあれそれを全て抜きにした後に残ったもの。
私たち“普通の感染者”が、ともすれば誰も皆がドクターに抱く想いと、それは実はさして変わらない。
後方でワルファリンが必死の形相で何かを叫び、しかし砂と暴風が彼女を阻み、押し戻した。アンジェリーナは己の周りに重力操作のアーツを走らせ、叩きつけるような砂嵐を和らげながら進む。
例えアーツを使ったとしても、唸りを上げる砂をわけて進むのは生半可なことでは無かった。砂粒の一つ一つが身体に穴を穿ち、削り、風化させ、崩壊させようとしてくるかのようだ。
ドロシーのアーツは、凄まじかった。
耳を聾する振動の唸りは、アンジェリーナの集中を乱しアーツを攪乱する。足が砂に沈みそうになるのを、必死に自らの力場を維持して己の体重に掛かる重力を減らすことで堪える。
吐き気と頭痛が凄まじい。脳が揺さぶられ、自らのアーツが散漫になる。ドロシーの力はどう考えても、砂を操るだとかそういったものとは違う。もっとずっと、根本的なものだ。
それでも、一歩。また一歩と彼女は進んだ。
なぜか。何故自分はそこまでするのか。“自分はなぜ、此処に居るのか”。
アンジェリーナは考え続ける。最早空気を震わす振動は彼女の意識をすら刈り取らんばかりに強くなっている。考えるのを止めれば、そのまま彼女は意識を失うだろう。
答えは出ない。彼女はドクターやワルファリン、ドロシーのように賢いわけではなく、エイヤフィヤトラのようにその命を懸けるマグマのような信念を持っているわけでもなかった。
けれどそれでも、今この状況が間違っているのだと。それだけは断言できる。
ドロシーに伝えなければならない。彼女はきっと、自らの想いに気が付いていないから。
「……なぜ? どうしてそこまで頑張るの?
あなたにも分かるでしょう? 逃れ得ぬ死を越えて、希望をもって眠りにつくの。それが、どれだけ幸せなことか」
「ううん、そうじゃないよ」
そして、アンジェリーナはボロボロになりながらドロシーの許に辿り着いた。
困惑した様子で、しかしドロシーはアーツの過負荷によってふらついた彼女に手を伸ばし、両手で腕をとって支えた。傷つけるつもりは毛頭なかったが、意識を奪うくらいはするつもりだった。
ドロシーは本気だった。が、アンジェリーナはここまで来た。それがザラックの研究者を深く混乱させる。
「鉱石病がどうとか、“スマラグドス”? がどうとかじゃないの。そうじゃなくて。ほんとはそのプロジェクトが正しいのか悪いのか、私には全然分かんないし。でも」
「でも私にも、ひとつだけ分かることがあったんだ。ドロシー博士は、きっと気が付いてないと思ったから。それを教えてあげたかったの」
そう言って、砂で擦りむいた頬に走る痛みに軽く眉を歪ませながらもにっと笑う。
ドロシーは困惑しきりだった。目の前の少女は、ワルファリンが厭うこともドクターとドロシーが推し進めることも関係のない所で、何らかの確信をもってここまで来たという。
「私が気が付いていないことって、なに……?」
だから、問うた。
「ドロシー博士はさ、ドクターに恋をしたんでしょ?
私、分かるよ。みんな知ってるんだ。だって彼、すっごく素敵なひとだもん」
「は、ぇ────?」
心臓が止まった。
いや、それはただの比喩表現というもので、実際にドロシーの心臓は確りと拍動を続けていたし、むしろ全力疾走でもしたかの如く爆音を奏でていたけれど。
ただイメージとして、心臓が止まったかのような衝撃があった。
「ちが、私……あれ……?」
言葉が出てこない。その先を続けて言葉にすることが、どうしてもできない。
有り得ない。あってはならない。
私が、ドクターのことを?
そのために私はずっと、ドクターの後押しを?
だめだ。
ぜったいにだめ。
だってそれは──。
夢からの覚醒の果てに押しつぶされかけた心を救われて。
自ら閉じた夢の続きを、誰もが笑顔で謳歌するかたちで魅せられて。
──『ドロシー。君を、準エリート・オペレーターに任命したい』
『どうして、私を……?』
『……恥ずかしいことだが、私は……俺は、君に似た者同士と言われたことが嬉しかったんだ。そんなことを言われたのは初めてだった。対等な、同じ地平にたつ友人同士のように。
一緒に働く仲間として、友人として、ドロシーになら俺の見ているものの全てを話したいと思った。かつてあのパーティで君が言った、ロドスの痛みと苦しみと絶望を。
俺と夢の続きは、ドロシーに託したいんだ。
頼む。俺と一緒に、地獄を見てくれ』
そして、自分を救ってくれた男が想像も絶するような地獄の火に焙られていることを知った。
ただ救うために。全ての感染者を救うために。
エイヤフィヤトラを。死期の近づく彼女を救うために。
私は、たった一人痛みにあえぐあなたを護り救おうと、あなたの隣に立ったのに。
その実、私の本当の目的はあなたへの恋心だった……?
だめだ。
ドロシーは首を振る。心臓が痛い。握りしめたタブレットには、男の健康状況が記録されている。
そんなのは、あまりにも酷い。
だめだ。
身勝手で、気ままで、まるで弱ったあなたに付けこむ不出来な映画の悪女のような。
彼の心を。意志を。痛みを無視して、ただ「恋をしたから」だ、なんて。
だめ──。
否定、できるわけがなかった。
「あ。あ」
それが、苦労して準備し並びたてた理屈も正当性も意味を為さない程にどうしようもなく。悍ましく苦しく、狂おしいほどに事実だからだ。
醜い。こんなにも、醜いことがあっていいのか。
そして、ドロシーは向こうに立つドクターにエイヤフィヤトラが歩み寄り。
美しい星月の照らす、青い青い荒野の空に抱かれながら。
背伸びをしてそのマスクを外し。
現れた痛みと悲しみと孤独にあえぐ顔に、「好きです」と。
伝える唇の動きを、見た。
嗚呼。
そうか。
私、あなたにこんなにも醜く。
恋をして、いたのね。
ドロシーのアーツが静止し、その場に満ちていた唸り声のような振動がぱったりと収まった。舞い上げられていた砂の壁がざああ、と埃を立てて落下し、あたりがもうもうとした土煙に包まれる。
「んな……あ、安心院! おい無事か!?」
ワルファリンが若干嗄れた声で叫び、不明瞭な視界の向こうから「だいじょうぶ!」と叫び返してくる彼女の声を聴いてほ、と息を吐く。
「まったく、意味の分からん無茶を。だがでかしたぞ、なんぞ知らんがドロシーのアーツが解除され──」
「──は?」