@Alpha_arpA
──■■■、■■■■■!!
何度叫んでも声にはならない。口は開かず、瞼は上がらず、指先をぴくりとすら動かすこともできない。それはまるで、眠りの裡に広がる悪夢そのもの。
だのに、ドロシーは“自分”がしていることも、ドクターたちのことも全て現実だと理解できる。それは今実際に外で起きていることで、その要因は自分その人なのだと。
トパーズ色に燐光を放つ、伝達物質の統合制御ユニットと化した彼女。
その肉体が取り込まれたインキュベータへと、無数のパワードスーツがそのカメラで写した映像情報が信号として送られてきて、車の車窓が切り取る景色の如く淡々と処理されていく。
ぶうん、と虫の羽音のような低い振動音が響き、インキュベータからの指令が来る。
生体CPUとしてドロシーの脳は情報処理を請け負わされ、エイヤフィヤトラたちとの戦闘オペレーションを構築して送信する。
──■■■! ■■■■■■■■■■!!
其処では、ドロシーの如何なる抵抗も最早無意味だった。
肉体は眠らされ、頭は自らの意志とは無関係に彼女らを排除する方法と対策を思考し、実行せよと指示を飛ばしている。
皆が傷つき、そして追い詰められていくその姿をはっきりと見せつけられる。目を逸らすことすら許されなかった。
今のドロシーは夢の中だ。既に目を閉じているのだから、それ以上の逃げ場はない。
少しずつ、少しずつエイヤフィヤトラやアンジェリーナや、ワルファリンやドクターの命が削り取られていく。
涙も流せない。泣き叫ぶこともできない。
謝ることも懺悔することも、何もかもがドロシーにはままならない。
彼女の中に流れる伝達物質と、ドクターと二人で改良した“OZ”が共鳴していた。
それらはただ一つの目的を据え、それ以外の全ての命令入力を自らデッドロックして暴走している。
目的とはつまり、“スマラグドス”の実行を阻害する対象を、全力をもって排除すること。
ドクターと共に編み上げたものを成就する。全ての人々を幸せにできるわけではない、世界に蔓延る差別と不和のうちの一つを、少しだけ均すことしかできない。それだけの医療技術。
けれど、私たちにとっては夢で、希望だった技術。それを遂行すべく、伝達物質は瞬間的に高まったドロシーの感情を過剰な刺激として暴走し、ひとりでに動き出してしまった。
繰り返し、くりかえしずっと、ドロシーの中に息づいている銀色が記憶をドロシーの脳内からメモリとして引きずり出して映像と音声信号の断片に変え、眠るドロシーに見せ続けている。
『これが主の望みだろう』と弾劾するように、ずっと。
違う、違うと否定し拒否するたびに、その拷問は繰り返し彼女に許されたわずかな脳の領域を蹂躙する。
彼の表情。彼の声。
彼の手。彼の願い。彼の苦しみ。
彼の笑い声。彼の絶望。
彼の歩幅。彼の好物。
彼の仕事。彼の隣。
『ドロシー。君は間違ってなんかいなかった。君が罪を犯したことが事実であったとしても』
『他人の人生は君のものじゃない。だが君という殉教者が自らを犠牲にしてでも誰かに見せようとした夢は、確かにこの世界に生きるヒトにとって、安らぎと平等のひとつを齎す楽園だった』
『手段の問題なんだ。皆が納得する方法を、皆と同じ歩幅で考えればいいだけの話だったんだよ』
『この世界に真なる平等なんてない。だが、悍ましい差別は星の数ほど多くある』
『俺は君ほど崇高な道は歩めない。せいぜいがそんな差別のうち一つを、どうにか均してやろうと足掻くくらいだ。だがそれでも、君の見た夢をほんの一部現実に変えてやるくらいのことはできる』
『ドロシー・フランクス。ロドスと一緒に歩んで欲しい。君は“狂った研究者”なんかじゃない』
再生される音声も映像も、全てドロシーが実際に言われた言葉、目の前で見た表情だ。
トリマウンツのあの切り取られた星空の下で。
359基地の地平線一杯に広がる星空の下で。
ロドスの甲板の、見る度その表情を変える星空の下で。
あなたは私の罪を証明してくれた。
あなたは私の夢を認めてくれた。
数えきれないほどの本当にたいせつなものを、あなたに貰った。
かつてあの荒野にも在った、幸せを。
だから、私はあなたを支えたかった。あなたの苦しみを和らげたかった。
感染者たちを希望ある眠りに導き、永遠に死を蒐めさせられ続ける彼を救いたかった。
笑って欲しかった。安らいでほしかった。護りたかった。
だって、だって、私はあなたに──。
──■■■、■■■、■■■、■■■ッッ!!
喉が裂け血を吐くほどに叫びたかった。
だって、関係ない。あの人が目指したものと、私が抱いてしまった想いは何一つ関係が無い。
ドクターはただただ善意で私を認め、救ってくれたのに、私が抱いていたのはこんなにも愚かな下心だったのだ。
だから、関係ないのに。ドクターと共に作り上げようとした夢とこの想いを結び付けてはいけなかったのに。
なのに私はドクターの痛みと苦しみに付け込んだ。あろうことか自分でも気づかぬまま、無意識のまま自らの想いを遂げようとした。
彼がくれたものすべてに、エゴで返そうとしていた。
私とドクターが作り上げた銀と金が見せる夢は、私が甘え委ねていいものなどでは決してない。それを理由にエイヤフィヤトラたちを害し、傷つけてよいものでもない。
全て身勝手なわがまま。星空のまたたく荒野で寄り添うドクターと彼女をこの目に映すなり胸に灯ってしまった、恐ろしい、熱い、灼けるようなみにくい感情。
嫉妬──。
微動だにせず、鉄の子宮の中で眠り続ける己の身体。自分の身体がこんなにも恨めしかったことはない。
もしほんの少しでも、ただ少しでもこの手が動いたなら。
腰のポーチにさしたペンを取り、この喉と心臓に突き立てて、この愚かな私の愚かな暴走を今すぐにも止められるのに。
ドロシーは泣いた。涙も出ないのに。声も出ないのに大声で、子供のように泣いた。
──■■■。
ドロシーは願った。誰にかなど、最早考えたくもなかった。
──■■■。
けれどそれが何よりも、この狂った研究者を止めるには合理的な方法なのだ。
ドロシーはもう何も分からない。今も自らの脳の大半が、体内でざわつく銀色にそそのかされてエイヤフィヤトラを排除する方法を模索し、山ほどいるパワードスーツへと指令を送り続けている。
“スマラグドス”を成就させる。ドクターを救う。そして、彼に寄り添ったキャプリニーの女への嫉妬。
怖ろしかった。自分が次は何をしてしまうのかが怖くて、ドロシーは一心に願う。
──■■■。
己の脳が伝達物質に使われるのを止めることも、自ら命を断つことも、ドロシーにはできない。
何もできない。ドクターがこちらに走ってくる。息を切らせ、脚をもつれさせながら。
施設の直掩に待機していたパワードスーツの動体センサーがそれを捉え、カメラに火が灯る。それを見せられてなお、ドロシーには何もできない。
結局、また間違えてしまったのだ。ドクターが隣に居てくれたのにも関わらず、ドロシーはまた間違え、罪を犯した。
そして今、もうこれ以上は取り返しがつかない所で、その最後で最悪の一線を越えようとしている。
パワードスーツがドクターに向かっていく。彼の目的はこのインキュベータの停止、パワードスーツを統括しているドロシーを止めることだ。なら、伝達物質はそれを止めようと動く。
攻撃司令が伝達される。ドロシーの脳が、ドクターを攻撃せよと命令する。
──■■■。
殺して。
──■■■。
殺して。
──■■■、■■。
殺して、私を。
ドクター。私を殺して。
そしてカメラからの映像送信が途絶える。
送信のラグか不具合か、最後の瞬間を見せつけられることは無かったのに、せめてもの慰めを感じてしまった。あの至近距離で、周りからの援護もない。
ドクターには、為すすべもなかったはずだ。
私はとうとう、ドクターをすら手に掛けてしまった。最後の最後に、私に残ったものだったのに。護りたいはずのものだったのに。
叫びたいのか、泣きたいのか、許しを乞いたいのか、今すぐ死にたいのか、絶望したいのか、もうそれすら分からない。
私の全ては渾沌に沈んでいく。どちらにせよ、なにを考えようが思おうがそれを行動に移すこともどうすることもできないのだ。
ドクターを自らの手で殺したのに、私は静かに眠り続けることしかできないのだ。
心が崩れていくようだった。
感情が急速に色あせ、悲しみとか後悔とかそういったものの痛みを感じなくなっていく。代わりに無力感とか諦めとか、そういう透明で感情を伴わない液体が心のあった場所を満たして埋めようと押し寄せてきて。
疲れた。
もういい。もうたくさんだ。
私は結局、狂った研究者だった。ヒトの心も、己の心も慮れない怪物だった。
あの日、ライン生命本社の会議室で言われた言葉は正しかったのだ。
夢の中で目を瞑る。
ドロシーは最後に残った脳の領域を。
俗説には“魂”とか、“心”とかそう呼ばれる領域を、己が創り己を満たすものらに、明け渡そうと──。
「ドロシーー!!」
インキュベータ棟の出入り口扉に身体を叩きつけるようにしてこじ開け、黒い上着を来た男が聞いたこともないような大声で叫びながらやって来るのを、施設に設置されたカメラが捉えた。
息が止まるほど驚いた。
なぜ? という疑問よりも先に、大波のような安堵が自らの心を満たすのを、ドロシーは感じていた。
ドクターは生きていた。何がどうなってあの状況を切り抜けたのかは分からないが、けれど生きていた。
映像から見た限り、大きな怪我をしている様子もない。
私は、最低な過ちのなかのほんの少しの幸いではあるものの……どうやら、失敗できたようだ。
いつも被っているフードは捲られ、マスクはなく、短く切った黒い髪と淵のような黒い瞳を晒した若い男だ。ぜえぜえと息を切らせながら、男は培養層に閉じ込められ眠っているドロシーへばたばたと駆け寄った。
「ドロシー、ドロシー起きろ! まだ諦めるな、絶対に助け出すからな!!」
強化ガラスで嵌め殺しになったのぞき窓に両手をつけてもう一度彼女の名を大声で呼ぶと、そばの制御用端末がまだ生きているのをすばやく確認し、躊躇なくそちらに駆け寄った。
そのまま機器のレスポンスが追い付かないほどの凄まじい速さでコンソールを操作し、管理者権限でのアクセス、培養層ハッチの開放、伝達物質の自己終了プログラム起動、機構の強制終了、と片端から考えつく限りの命令入力を試していく。
「アドミニストレーター更新、緊急用自壊コード、バックドアパス……ッチ」
舌打ちをひとつ。けれど男の手は止まらない。その瞳に宿った希望も消えない。
「メイヤー! ブルートフォースは?」
«やってる! “ルトラ”のリソース全部回して解析にあたらせてるけど、PINの後に要求される15桁のパスが1秒おきに更新されてるみたいで、普通の方法じゃあ追い付かないよ!»
間髪入れずに咽頭マイクからライン生命の技術者の一人へと通信を入れる。
メイヤーが来ているの? と疑問に思うドロシーは過熱し続けている脳の記憶を探れる限り探るが、そんな気配はどこにも無かったはずだ。
何かが起きている。ドロシーの知覚できない何かが。ドクターは理解している何かが。
「直接見たが、こいつらはドロシーを生体CPUとして外のパワードスーツと通信し、指令を送ってるらしい。急造の通信方式ならそう硬いセキュリティも用意できない。パケットを盗聴すれば暗号生成アルゴリズムを抜けるはずだ」
«了解! スニッフィングソフトを走らせてるよ!»
「頼む! ……ドロシー」
通信を終えたドクターは再び培養層へと歩み寄り、眠るドロシーにガラス越しに声を掛けた。
施設内を満たすトパーズの燐光が、彼の表情を照らし出している。
暫く、施設にはインキュベータが稼働する低い唸り声だけが響いていた。
どこか遠くで、遠雷のような爆音が響いている。
ガラス越しに、ブリキの子宮の内と外で私たちは目を合わせた。
彼はもう、全てを理解しているようだった。だからこそ、彼はここに来た。彼が来たのだ。
「俺たち、どうやら間違えてしまったな」
その口が開かれる。
ドロシーは首を振って否定したかった。違う、あなたは間違ってなんかいなかったわと。間違えたのは私だと。けれどやはり体は動かず、唇は開かず、瞼は上がらない。
男は悪戯がばれた子供が悪友とそうするかのように、静かにそう言って苦笑した。
「帰ったら、ふたりで一緒にケルシー医師とアーミヤに怒られてくれるかな。俺一人じゃ、怖くてとてもじゃないが顔を合わせられないんだ。
それが終わったら、ふたりで話をしよう。君が抱えて苦しんでいたものと、俺が自分には資格が無いと逃げ続けていたことについて。
俺も君も、こういったことには本当にノウハウや知識や耐性がないから。多分、きちんと話をするべきだと思ったんだ。そうだろ? 俺達は……本当に、どこからどこまでも、似た者同士だからさ」
こんな時なのに、心の中でほんの少しだけ笑ってしまった。
ドクターが怒られるのなら、私はいったいケルシー先生にどうされてしまうの? などと考えると、ほんの少しだけ面白い。
ドクターはこういう人だった。ドロシーが苦しければ苦しい時ほど、不器用にユーモラスで、へたくそな慰め方で寄り添ってくれた。
伝達物質が見せていた夢に罅が入り、泡が弾けるようにしてひとつずつ見えなくなっていく。
ドクターは目の前にいる。ドロシーはもう、見せ続けられたものを否定することをやめた。ゆえに、もう夢を見る必要はない。
私は、この男に恋をした。どうしようもないほどに、あのトリマウンツの星空の下で。
「でも、これだけは先に言っておくべきだと思う。それくらいは、俺にも分かるんだ」
施設内に、警報音が鳴り響いた。システムに侵入者──ハッキングを受けていることを示すエラーコードがコンソールに表示され、そしてすぐにディスプレイそのものの電源が落ちて画面が暗くなる。
メイヤーがドクターの指示を完遂したのだろう。伝達物質が起こしたデッドロックを解除しようとトランザクション再実行が行われ、処理が始まる前に管理者権限で伝達物質の強制停止コードと培養器のシャットダウン命令が発信された。
「俺なんかに恋をしてくれて、ありがとう。ドロシー。支えてくれて、護ってくれてありがとう。
俺の、一番大切な友人。俺は君の恋に応えることはできない。
でもさ……」
ぶつん、とラップ音が響き、低く響き続けていた振動音が消えた。
施設全体を包んでいたトパーズの燐光がゆっくりと消え去り、強制稼働させられていた機器たちがその役目を終えてインジケーター類の表示を消し、ひとつ、またひとつと電源を落としていく。
同時にドロシーの脳を占拠していた伝達物質も体外へと排出されていき、彼女の身体は自身へと変換されていった。ゆっくりと、徐々に意識が浮上していき、その指先人差し指が僅かに、ぴくりと動く。
培養器のハッチの施錠が解除され、気密ロックの解放される排気音と共に扉が開く。只の溶液となった伝達物質が排水されて床を満たし、外へと倒れ込んだドロシーの身体をドクターが抱き留めた。
「それでも俺にとって、君はやっぱり、大切なひとなんだよ。
君のみた夢に、俺も惚れこんでいたんだ」
「──私の、こんなに醜い恋を。
それでも、あなたは許してくれるの?」
身体に力が入らないまま、ドクターに抱き支えられてその温もりを感じている。そんな自分が滑稽で、どうしようもなく惨めで、幸せで、そして。
「嬉しかった。本当に嬉しかったんだ。
人を愛することすらままならないこんな不出来な人間に、その大切な感情を向けてくれてありがとう。
でも、すまない」
「いいの。謝らないで。
ドクター、あなたを好きになれて良かった」
「あなたにきちんと振ってもらえて、ほんとうに、よかった」
長く、緩やかな吐息の音が小さく響いた。
遠くで響いていた戦闘の音が止んでいて、荒野はいつか見たような静けさを取り戻していた。
初めて経験した失恋は、身を裂くような甘い痛みだった。
ぼんやりと、ようやく涙を流すことができたドロシーは呟く。
「ケルシー先生とアーミヤちゃんのお説教、どれくらい怖いかしら……」
「多分トラウマになるよ。暫くは悪いことできないな」
「ふふ、そうね」
照明の落ちた培養施設で、出入り口が切り取った星空は。
どこかで見たことがあるような無様さで、まるで私のようねと。
ドロシーは、そんなことを思った。