特殊な事情で審神者教育を一切受けないまま本丸に赴任した、熱心なキリスト教徒な主と神道仏教文化の刀剣たちが、絶妙にアンジャッシュしながら愉快にお互いの違いを許容し共存する話。
⓪始まり(大和守安定編)→https://privatter.net/p/11218082
②続編(鶴丸国永と祈りの旅路)→ https://privatter.net/p/11346386
③続編(大倶利伽羅と主の願い)→ https://privatter.net/p/11275650
④続編(長義と国広〜感動が繋ぐものたち〜)→https://privatter.net/p/11378888
⑤過去編 → https://privatter.net/p/11330710
⑥こぼれ話 → https://privatter.net/p/11345170
この本丸の主は多重加護者で、本人に不利になる行事や検査がことごとく中止になったり本人や検査人が原因不明の熱を出したりで、政府から軟禁を受ける審神者検査を全てすり抜けたリアルラックカンスト特殊事例です。
普通なら速攻で歴史修正主義者に誘拐されるのにそれもけろっとすり抜けて元服してから政府に発見され、初鍛刀で三日月宗近を高確率で呼ぶと試算されるほどの幸運さでどう足掻いても放置できず頭を抱えた役人が、「御伴散歩」と呼ばれる新制度の試験例として現世で保護できるように対応した、というあらすじ。
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《すり抜けキリシタン主と歌仙兼定編》
この本丸は、いわゆる『要人警護本丸』に分類される、『現世での主の警護が中心』となる本丸である。
現世で主の側に控えられるのは交代で一振りのみ。つまり、想定しうるあらゆる最悪の状況を、一振りだけで対応することが求められる。極めることは目標ではなく最低限。求められる強さの水準は非常に高い。
ところがこの本丸、設立時の特殊事情により主が帰って来るのは月に一度。故に他本丸に比べて出陣が極端に少なくなりがちである。
主が不在の間の出陣および行軍は条件付きで認められているものの、刀剣破壊リスクの低い低難度の戦場に限られる。行軍を一度に許可される出陣刀数も制限がある。
要は、経験値は稼ぐものではなく分配するもの。上限があり、迂闊に刀数を増やすと経験値が分散し十全に育たないまま待機する刀ばかり増えてしまうのだ。
故に、極力少数精鋭で回すのが最適解となる。
そのため、この本丸は、厳密には『要人警護専門本丸になる途中』といったところだ。
主の生涯を通してじっくりと鍛え上げ、天寿を全うした後は、本丸および刀たちは政府に帰属し、解体を行わずに別の要人警護を担当することとなっている。長期化する戦の足場を固める政府の施策の一つだ。
戦の最前線にいる本丸たちと違って、派手な報酬もなく表彰もない。故に華やかさはないが、これも重要な任務だ。
要人が全て暗殺され、政府が崩壊してしまえば、補給が断たれた烏合の本丸だけ存在しても無意味。仕組みの崩壊は必ず敗北を意味する。
いわば、一般的な本丸が矛だとすれば、要人警護本丸は盾。
この本丸は、未熟な主と人生を共にしながら、盾としてじっくりと鍛え上げられた刀たち、といったところである。
さて、限られた修行道具をやりくりするこの本丸、めでたくまた一振り、修行へ旅立っていった。
旅立ったのは、へし切長谷部だ。
「いつもなら、帰って来た長谷部くんに、呼びたい刀を聞く時期だと思うんだけど……」
執務室にて、燭台切光忠は腕を組んで考え込んでいた。
修行に出た長谷部に代わって、多大な事務業務を分担している内の一人である加州清光は、書類仕事の手を止めずに燭台切の言葉に頷いた。
「だね」
「不動くんも薬研くんも極めてるし、実休さんは今鍛刀シーズンじゃないからね、宗三左文字……とも思ったけど、彼は戦闘が少ないこの本丸は少し辛いかもしれないし」
「うち左文字がいないからね。戦わずに彼一人だけこの本丸にポツンってのは、確かにちょっとよろしくないかも。長谷部はなんか言ってた?」
「修行に行く前に一応聞いたんだけど、自分の縁者より、刀種派閥関係なく主にとって有益な刀を次に呼びたいって」
「長谷部らしいね」
加州は苦笑して頷いた。この本丸に長谷部が顕現したのは他の刀に比べて後の方だが、たびたび見え隠れする忠義心は古参刀にも引けを取らない、と加州は判断している。
遠征の編成を含め、本丸の刀たちが互いにぶつからず上手く回るよう細やかに配慮するのが、この本丸では古参刀の燭台切の役割だった。燭台切は思い悩んだ。
「となると、逆に難しいんだよね…余程呼びにくい刀でなければ、主なら誰でも呼べる気はするけど」
「鶴丸が呼びたいって言ったのが燭台切だったね。あの時も一発だったっけ」
「なんか凄く呼ばれてる気がして……主の鍛刀は不思議だよね」
「俺は初期刀で直に選んでもらったからちょっと分からないけど……見てるとまあ、不思議に思える場面は多いよね。多重加護者ってみんなそうなのかな、前例が少なすぎて分からないや」
加州の言葉にふと気付いたように、燭台切は振り返って話題を振った。
「加護といえばさ、ほら、僕たちやっぱり、神座に名を連ねてる以上、隣で『お祈り』があると少し力が流れ込んでくる感じがするよね」
「あー、あれ心地いいよね。主は当たり前に毎食毎晩お祈りしてくれるから、ちょっとした神職の隣にいるみたい。キリシタンの主ってみんなそうなのかな」
「祈りってほら、ちゃんと名指ししないと自分たちのところまで届かないものじゃない? でも、主の『お祈り』ってちゃんと僕たちまで届くから不思議だよね。主従の縁の影響なのかな」
「それもあるかもしれないけど、ちゃんと名前を呼んでくれてるのが大きいんじゃないかな」
加州はそう口にして、照れるように頬を掻いた。
「主、寝る前の祈りは、子どもの頃から『自分と自分の周りの大事にしたい人に幸せがありますようにって祈ってる』って話してくれたことあるよ」
「それって、毎晩全振りの名前挙げてお祈りしてるってことかい? そりゃ流れ込んでくるわけだ」
目を丸くした燭台切光忠は、納得してしきりに頷いた。
「そっか、キリシタン式の祈り方でも問題ないんだ。僕、宗派が違ったら、祈りも無効なんだと何となく思ってたんだけど、違うんだね」
「主が前に言ってたよ。どこの国、どんな宗教、どんな神様にも、突き詰めるとうんと上に《父なるかみさま》の概念はあるものだって聞いたことあるって。だから、自分の信仰と加州たちを大事にすることは矛盾しないって」
「ああ、そういう受け止めなんだ」
燭台切光忠は腑に落ちた顔をした。
「僕ら付喪神は神座に連なるものだからね。当然、末席に連なる僕らの上座の先の先の先のずっと先に、畏れ多くも尊き大いなる父なる神がおられる」
「他を介さずに直で祈って、主はその祝福が俺らにも降り注ぐように願い出てる。だから俺らにも等しく届くんだと思う」
「道理で」
ととと、と足音が駆け込んで、前脚で器用に襖を開けたこんのすけが「熊本城の任務が来ましたよ」と長谷部の代理である二人に報告に来た。二人は顔を上げた。
「ん? そっか、今年も熊本城の任務があるんだね」
こんのすけが咥えた辞令書を広げた燭台切光忠は素早く目を通した。
「そういえば去年もその前も、僕らは参加できなかったね。主の帰還と被らなかったから。今回は…?」
「今暦出すよ。ちょっと待って」
加州清光は暦表を出して照らし合わせた。
「お、今年の任務は主の帰還とちょうど当たりそうだ。少しなら参加できるよ」
「最後まで行けるかな」
「普通なら無理だろうけど、主が賽子を振るとだいたい六しか出ないから……多分、ギリギリ最奥まで辿り着けるんじゃないかな」
「細川家伝来の刀たちを支援する任務だね。長谷部くんが戻って来る前に編成を整えてしまいたいな」
「あれ、熊本城…? 細川家……?」
何か失念している気がして、加州清光は首を捻った。
熊本城、細川家伝来の刀たち。
思考を巡らせた加州の目の前に、光が走った。
「あっっっ!」
出し抜けに声を上げた清光に、光忠が「加州くん? どうかした?」と疑問符を漏らした。
「細川家のガラシャ夫人…!」
「あっ…!」
燭台切光忠もハッとして、失念していた事実に気付いた。
「そうだよ、細川家の刀たちは細川たま夫人──ガラシャ夫人を見届けた刀たちじゃないか」
ほとんどの刀剣男士たちは御神刀を中心に神道文化、あるいは元の主の影響で仏教文化だ。大半の刀にとって、キリシタンの風習に触れるのは今代の主が初めて。
正直、今の主に仕えるにあたって、文化に明るくないが故の手探りな覚束なさはどうしても目立った。
「ガラシャ夫人は、安土桃山時代にキリシタンとして生き抜いた女性だったよね。確か、えっと、洗礼、名だっけ…?」
燭台切光忠は記憶を辿った。加州清光は頷いた。
「うちには歌仙も左文字も居なかったから完全に失念してた…そうだよ、刀剣男士にも、彼女たちの歴史を見届けた──キリシタン文化に明るい刀がいたんだった」
「いつも主、居る刀の縁者ばかり呼んでたからね……僕も、うっかりしてたよ」
「ねえ、燭台切、今回は、細川家由来の刀たちを呼ぼう」
「うん、僕もそれが良いと思う。キリシタン文化は正直、僕ら全然わからなくてね……主が不自由してないか、ずっと気になってたんだ。彼らに聞けば色々わかるかもしれない」
燭台切光忠は、急いで立ち上がった。
「さっそく準備しよう。もうすぐ修行から長谷部くんが帰ってくる頃だから、そろそろ次の鍛刀を誰にするか内々に相談してる時期のはずだよ。鶴さんに通信を……」
そういった経緯で、呼び出された歌仙兼定は、事情を聞いてすぐ「そういうことなら早く呼んでおくれよ!」と眉を吊り上げた。
「昔の世も今の世も、この国のキリシタンは少なく立場が弱い。身を寄せ合って生きてるんだ。同胞がいなくては心細いに決まっている」
「面目無い…主があんまり自然に僕らを受け入れてくれたものだから、つい問題ないものと……」
最古参刀の一振りである燭台切光忠がそう肩を落とすと、歌仙兼定は神妙な顔で眉根を寄せた。
「ガラシャと違って生まれた時からキリシタンなら、風習は恐らく外つ国の方が近いだろう。つまり主は、外国からぽんとこの本丸に放り込まれたようなもの。彼女らの文化に明るい者が一振りいるだけで、心持ちがまるで違うはずだ」
「そうだよね。僕ら、きみには色々と教えてほしいことがたくさんあるんだ」
「任せてくれ。文系名刀として主の力になろう」
自信ありげに頷いた歌仙兼定は、次いで眉根を落として、声を低め、ひどく心配げな声を出した。
「僕らの主は……現世で、周囲からひどい目に遭わされてはいないかい?」
「え、どういうこと?」
「彼女らの信仰は赦しと愛だ。誰に対しても優しくひどく愛情深い反面、外敵に対しても過度に鷹揚で無抵抗、悪意ある者には良いカモなんだよ。周囲が露払いを務めてやらねばあっという間に食い物にされる。だから心配でね」
「そっか、主の警護、より一層気を付けなければならないね……」
「主は?」
「広間できみの引き継ぎが終わるのを待ってるよ」
「ならばすぐ向かおう。また後ほど色々と教えてくれるかい?」
「こちらこそ。これからよろしくね、歌仙くん」
燭台切光忠と固く握手を交わし合った歌仙は、衣を翻して素早く広間に向かった。
「歌仙兼定、ここに」
刀を自らの前に置き、背筋を伸ばし、頭を下げた歌仙兼定に、近侍を伴って定位置に座って歌仙を待っていたらしき主は、ぱっとかんばせを喜色に染めて、上座から素早く歌仙の近くに駆け降りてきてしまった。
歌仙は内心で苦笑し、その飾らなさに目を細める。キリシタンには上座と下座の概念が無く常に平等を教える。故にこういった振る舞いをする者は多い。それを歌仙は知っていた。
主は子供のように嬉しげに微笑んだ。
「よろしくね。来てくれて嬉しい」
「呼んでくれて光栄だよ。これからは僕もきみの刀として力を振るおう」
近侍らしき鶴丸国永は、背後で口を挟むことなく穏やかに見守るばかりだった。
愉快で酔狂だが周囲をよく見ている刀だと聞いている。そんな彼がこうなのだから、主のこういった振る舞いは、この本丸で当たり前に受容されているのだろう。型に囚われず寛容でおおらか、良い本丸だ、と歌仙は感じた。
「ところで、僕ら刀剣男士は皆、自分へ繋がる糸──縁を感じ取る力に長けていてね」
主のそばに片膝を付いて、じっと瞳の奥を見上げるように歌仙兼定は問い掛けた。
「実は、きみからガラシャに繋がる細い縁をかすかに感じるんだが、何か心当たりは無いかい?」
主はパチパチと目を瞬かせて、小首を傾げると、小鳥のように小声で歌仙の耳元にそっと囁いた。
「なんだって? ガラシャの?」
教育番長の加州清光は、歌仙兼定に本丸を案内しながら、目を丸くした。
「えっ、歌仙、主に祝福を?」
「少し言祝ぐ程度ではあるが……彼女、ガラシャを語り継ぐ人々に繋がる縁者の生まれだったんだ」
「ふーん、そっか、同じキリシタン同士だとそういうこともあるんだ」
「それで少しでも……と考えたんだが、あれは多重加護者だね。余計な真似だったかもしれない。すまない、軽率だった」
「あ〜……まあ、何とかなるよ。今さらだしね……」
加州清光は苦笑した。
本来なら、加護は重複しにくい。
新たな祝福を授かる時に古い加護が打ち消されるか、古い加護が新しい加護を弾いてしまうからだ。
だが、打ち消し合いが起きない体質の者もいる。この本丸の主は、その特異な例に該当する多重加護者。祝福同士が相互に作用して、予期せぬ派手な事象が起きやすいのだ。
この本丸が他と比べて特殊な体制を敷いているのも、この体質が大いに関わっている。
「今まで加護同士の衝突事故は?」
「ひどいのは起きたことないよ。ただ、うち、古参に物吉貞宗がいるんだけど、現世で近侍に付いたら騒ぎになっちゃったことはあったね……何だったかな、確か……通りがかりに無料で渡されたくじで数百万円相当の品を当てちゃったんだっけか」
「ああ、そういうタイプか……触れたものに自動で作用するタイプだね」
「賽子振ったら好きな目が出るし、くじは引く前に当たりが分かるらしい。花札や札遊びは負け知らずだね」
「そういうタイプは逆に危ないな……幸運を際限なく受け入れるタイプは、悪縁まで舞い込みやすい」
「そうなんだよね。俺たちもそれを心配してる」
加州の懸念に、歌仙は頷くと「心得た」と胸を叩いた。
「まあ、これぞ刀剣の本領だろう。文系とはいえ、まあ、知っての通り、斬り捨てるのは得意だ。僕からの加護は、悪縁断ちに寄せるようにしておくよ」
「ありがとう、助かるよ」
「キリシタンの子らはとにかく悪縁に悩まされやすいからね」
歌仙はそう言って眉根を寄せた。
「愛と赦しの教えが骨身に染み込んでいる者たちは、自分に害を与える存在に上手く反撃することができない。確かに赦しは美徳だが、危害を加えられたらやり返して良いのだと誰も教えないのは危ういことだ。悪意ある者は、そういう者にこそ蝿のようにたかる」
「歌仙が来てくれてよかったよ。もっと早く気付けばよかった。俺ら、どうしても目の行き届かない所もあるから、可能な限り助けてあげて欲しい」
「心得た。そうか、初期刀組の中で後から来たのは僕だけか」
「うちは少数精鋭で、新しく一振り極めるまで新しい鍛刀はしないんだ。新しく極めた一振りが次に呼びたい刀を主に具申するんだけど、こういう主だから、呼べなかった試しがなくてさ。事実上、指名制みたいなものだから、どうしても刀派が偏っちゃって。今後はちょっと考え直した方がいいかもしれないな…」
「まあ、まずは僕が役目を果たそう。練度を上げるのはもちろんだが、その辺りは古参刀にどう足掻いてもすぐは追い付けないからね。それ以外のところでも役に立てるように励むさ」
歌仙は気合を入れるように腕を捲った。
「取り急ぎは食事処を手伝わせてもらおうかな。食材の目利きは得意でね。この本丸の厨房は? 手は足りてるかい?」
「そこを真っ直ぐ抜けて奥。普段は古参刀の燭台切光忠が一手に担ってくれてる。人手を欲しがってたからありがたいと思うよ」
「それは良かった。さて、張り切っていこうか」
その日の食事は豪勢だった。
新しい刀を呼んだ日は、いつも燭台切光忠が腕を振るうのだが、こたびは主賓の歌仙も腕を振るったので、さらに豪勢なものとなった。
ずらりと並んだ出来立てのご馳走は、豪勢な燭台切の料理を見慣れた刀たちも「おお」と目を見張るもので、歌仙は自慢げに胸を張った。
「主が帰る日は遠征組も全員戻ってくるから。ここにいるのが全員だよ」
「なるほど心得た」
ずらりと食卓に並んだ者たちを前にして、そっと耳打ちした燭台切光忠に、歌仙は頷いた。
嬉しげに宴の場についた主は、食事の前に十字を切って、手を合わせて祈りの言葉を述べようとしたが、途中で「あっ」という顔をして慌てて歌仙の方を伺った。
歌仙がにこりと微笑んで「大丈夫、主のいつも通りで構わないよ」と保証すると、安心したようにふにゃりと笑って、もう一度十字を切って祈りに戻った。
歌仙はぐるりと見回したが、異教の祈り方に眉をひそめる者はおらず、憤慨する者もいないようだ。この本丸は本当におおらかだな、と歌仙はひどく感心した。
決して刀剣男士が全員そうなわけではない。この本丸に呼ばれた者が特別おおらかなのだろう。主は良縁を結べているようだ。歌仙はそっと胸を撫で下ろした。
刀剣男士たちの異教の捉え方は二極化してる。
神格を持つ付喪神である以上、正しい手順と正しい祈り方は願いを聞き届けるにあたって最低限の義務で礼儀だ。自分たちの形式以外は不敬と判断する者は多い。古くから在る刀ほどその傾向が強く、どちらかといえばこちらの方が多数派だ。審神者として就任する者たちは、ほぼ全員が政府でその教育を受けている。
反して、祈りの姿勢そのものを重視する者もいる。皆、神座に連なるものたちだ、形式に依らず祈りを受け取れば力が増すのは変わらない。永い時を経て型が形骸化している現代でも、その心根そのものを気に入れば、どんな祈り方でも力を貸す。そういう柔軟な者は若い付喪神を中心に少数派なはずだが、この本丸にはそういった者しかいないようだ。
そういえば、三条の刀派があまり見当たらない。古い刀は鶴丸国永と石切丸ぐらいだが、そのニ振りはどちらも主の姿勢を受容しているようだ。
鶴丸国永は何かと酔狂な刀だから面白がっているのだろうが、生粋の神道文化を背景とする御神刀の石切丸まで許容している様子なのは意外だった。
視線に気付いた石切丸がにこりと微笑んで歌仙に手を振った。
宴席の中、御神酒の盃を手に歌仙の側に腰を下ろした石切丸は、ゆったりと穏やかな声音で語った。
「ほら、主の加護はキリシタンの縁が中心に色々と絡み合ってるだろう? 無理に我々の形式に合わせさせるとバランスが崩れて良くないだろう、という話になってね。みんなで相談して、最初から主の形式に合わせようということになったんだ。だから私たちの型も教えてないんだ。すまないね」
「いや、僕こそ相談する前に言祝ぎを上乗せしてすまなかった。結界は張り直しかい?」
「あれぐらいなら少し綻びを繕うだけで大丈夫だよ。基本的に私が本丸に常駐して祈祷で払っているから、あまり心配しないで」
「ありがとう。きみのような穏やかな御神刀がついているのは、主にとって幸運だね」
石切丸は穏やかに微笑んだ。歌仙の盃に神酒を注いだ石切丸は、喉に盃の中身を流し込んでカツンと盃を置いた。
「受け継がれてきた型はもちろん大切だ。けれど」
「ああ。どんな形であれ、祈らぬ者より祈る者の方が良い」
「そうだね。どれだけ時代が移り変わっても、その本質だけは変わらないからね」
歌仙は、他の刀剣たちに囲まれて嬉しげに談笑する主へ視線を流した。
主はどれも好き嫌いなく良く食べ、目をきらきらさせている。
素直な幼な子のような気性らしき主の振る舞いは、歌仙にとっては好ましく映った。神座に連なる者はいつの時代も、穢れなきもの、純粋なもの、幼きものを好む。
多くの刀剣たちにとってキリシタン文化は馴染みの無いものだが、こういった純粋な気性を育む祈りの文化は、自分たちから見ても決して悪いものではないのだと、ガラシャを見届けた歌仙は思う。
非業の死を遂げたガラシャだが、彼女が殉じた信仰は、こうして現代の子らにも広く息づいている。彼女のように弾圧されることが無くなった現代こそが、彼女の願った未来なのだ。
キリシタンの女性は皆、同じ宗派の子らを自分の子と隔てなく愛すると歌仙は知っていた。いわば、彼女が愛した教えを継いだ子供たちなのだ、必ずしも血が繋がっていなくても、大切にしてやりたいと歌仙は思う。
ガラシャを失った元の主の嘆きは、どの歌仙兼定にとっても強烈に焼き付いて消えないものだ。彼女を目にしただけで三六人もの者たちを斬り捨てたほどに嫉妬深かったことから、歌仙兼定の名は付けられた。つまり歌仙兼定の名は、苛烈すぎる愛を意味している。
命懸けで護ることが叶わなかった最愛の人。生きている間に認めてやることができなかった彼女の愛した信仰。元主の愛と過ちと後悔を名に刻まれた歌仙兼定は、数奇なことに今再び、キリシタンの女性を護る任へと着くに至った。
本来ならば、どの審神者もキリシタン文化を矯正された上で赴任することになっている。
その定例をすり抜けた主を持つに至ったのは、これこそが縁だろうと、歌仙は感慨深く思った。
(主が──彼が愛したガラシャなら、きっと)
その数奇な巡り合わせを、喜んでくれるはずだ。
キリシタンの教えに身を捧げる女性は皆、他者の幸せを我がことのように喜んでやまないから。
ところで、石切丸からは、もう一つ興味深い話を聞くことができた。
「主はキリシタンだから、御神酒を目にする機会が全然無いらしくてね。口にしたこともなければ、奉納する手順も見分け方もさっぱり分からないらしい。というか、御神酒ってなんなのか、よく分かってないみたいだ」
石切丸は盃に満ちた日本酒をたぷんと緩くゆすった。
「けれど、私が御神酒を飲みたがってるって聞いて彼女なりに一生懸命考えてくれたらしくて、ほら、キリシタンは御神酒じゃなくて葡萄酒だろう? ミサで祝別されたワインを持ってきてくれたんだよね」
少しズレてるけど優しい主なんだ、と石切丸は穏やかに微笑んだ。
「さすがに初めて呑んだんだけど、あれはすごくいいね。不思議とキリシタンの祝福は異教を排斥しないんだ」
「それは初めて聞いたね」
興味深い話だった。神座に連なるものは皆、程度の差はあれ酒精を好む。歌仙も例に漏れず、永い生で一度も口にしたことのない酒の味と聞けば興味はそそられた。
「うん、私も驚いたんだけど……」
石切丸は穏やかに回想し、緩やかに語った。
「つ、鶴丸さん、鶴丸さん、ちょっと」
「ん? どうしたんだ、石切丸?」
ひっそりと人目を憚るように声を低めて鶴丸を手招いた石切丸に、鶴丸国永は立ち止まって首を傾げた。
「珍しいじゃないか、真昼間からワインなんか抱えて……ん? こいつぁ……」
目を止めた鶴丸は、石切丸が抱えた瓶に宿る多大な祝福の気配に、大きく目を見開いた。石切丸は、困惑したようにおろおろと視線を右往左往している。
「主が持ってきてくれたんだ。事情を聞いたら、私が御神酒を飲み足りないと言っていたのを聞いて善意で持ってきてくれたらしくて……どうしようこれ……」
それを聞き、鶴丸は目を丸くすると腹を抱えた。
「あはは! こいつは驚いた!」
噴き出した鶴丸は腹を捩って笑った。石切丸は「笑い事じゃないよ」と言葉を重ねたが、鶴丸は構わず笑い続けた。
「なぁるほどなぁ、話が読めたぜ。すまんすまん、原因はオレだ。この前、自分で飲めもしない酒蔵を覗きながら『御神酒ってなあに? どこに売ってるの?』と主が聞くもんでな。手近なところで分かりやすく教えてやるつもりで『ほら、きみの所の神職も、毎回祭壇に酒を供えてるじゃないか。要はあれと似たようなもんさ。おんなじ神の酒だろう』と答えてやったんだが……」
涙が出るほど笑っている鶴丸に、石切丸は弱り切った声音で「あああ……そういう……」と頭を抱えた。
「ははは、まさか、御神刀に直で神父の酒を供えにいくとはなあ! オレ達の主は相変わらず予想外、驚かせてくれるぜ!」
「ど、どうしよう鶴丸さん。ただのワインならたまに奉納されることもあるけど、さすがに他教の神事に使うお酒となると」
「弾かれるかもなあ。こればっかりは説明を端折らずちゃんと教えてやるんだったなあ」
鶴丸国永は、右往左往する石切丸の腕の中から、ひょい、とそのワインの瓶を抜き取った。
慌てた石切丸は「つ、鶴丸さん!」とあわあわと手を意味もなく上下させた。
「危ないよっ」
「さすがに責任取らないとな。ここはオレが毒味しよう。御神刀のきみよりはマシなはずさ」
「えっ!? いや、そういうつもりで呼び止めたわけじゃ…!」
「分かってる分かってる。だがまあ、主から供えられたもんを無碍にもできんだろう。オレならまだ、もし口の中を焼かれても『宴会芸の練習でスピリタス飲んだら腫れちまった』ぐらいの言い訳で通るさ」
ちょいと盃を借りるぜ、と断ると、迷わずコルクを抜いて、止める間もなくひとくち口に含んでしまった。
慌てた石切丸は、急いで癒しの加持祈祷をするか手入れ部屋の支度をすべきかとあわあわと焦ったが、鶴丸が大きく目を見開いてこくんと喉を鳴らし「……こいつぁ驚いた」というのでどちらも中途半端に思い留まることとなった。
「なあ、この酒、ものすごい甘露だぞ」
「え…!? ほんと…!?」
「ああ、嘘じゃないぜ。大丈夫だから呑んでみたらいい」
鶴丸が回した盃を、石切丸は恐る恐るこくんと煽って、鶴丸と同じように大きく目を見開いた。
「あれ…!? すごい美味しいね…!?」
「びっくりするぐらい美酒だな。十中八九弾かれるか、良くて舌が三日は痺れるだろうと踏んでたんだが」
「鶴丸さん、身体張りすぎだよ……心臓に悪いからああいうのはよして……」
「ははは、すまんすまん。いや、それにしても驚いた。まさかキリシタンの葡萄酒がこんなに美味いとはなあ」
「私もさすがに呑んだことなかったけれど、こんなに美味しいんだ……」
キュッとコルクを再封入し、ひょい、と石切丸の腕の中にワインの瓶を戻すと、鶴丸国永は鷹揚に笑って
「主の気持ちが無駄にならなくて良かったなあ」
と軽やかに肩を叩くので、石切丸もほっと安堵した顔を見せた。
「キリシタンの風習ってすごく不思議だね……異教をこんなに排斥しないなんて」
「だなあ。……ああ、異教といえば、主の教会に、寺の息子がちょいちょい遊びに来てたな」
鶴丸国永は思い出したように首を捻った。
「本気で改宗するでもなく、子供たちと相撲を取って仲良く遊んでたぜ。不思議なことに、見た感じ誰も咎めない。ありゃどういう扱いになるんだ? と主に聞いてみたんだが」
鶴丸は愉快げに膝を叩いた。
「主いわく、教会は誰が来てもいいし何を信じたままでも大丈夫なんだそうだ。一歩でも教会に足を踏み入れれば大事に祝福されて生涯ずっと守ってもらえるから、誰が遊びに来ても歓迎なんだと。オレも主と一緒にスルッと入れた」
「物凄くおおらかだなあ……」
週に一度、日曜には教会に通う主だと聞いている。
石切丸は本丸の守護の任と祈祷があるので、近侍として現世に着いて行ったことは無いのだが、てっきり門前で待機しているのかと思えば中まで一緒に入っていたとは。
「私もずいぶん永く生きてるけれど、まるで知らないことばかりだ」
「まったくだ。主といると退屈しないぜ」
鶴丸国永はそう楽しげに笑った。
「というわけでね」
「この本丸の近侍刀は、ちょっと無謀が過ぎるのではないかい??」
「そう思うだろう?」
石切丸は苦笑した。歌仙は話を聞いて、感心するなり呆れるなり、どう反応していいか分からない顔をした。
ここの鶴丸国永は、噂に違わず随分と酔狂らしい。
だが、さらりと仲間のために身体を張って黙っているようなところもあるのだと。恐らく石切丸が伝えたかった本筋はこちらではないかと歌仙は思った。
石切丸は、近侍の鶴丸国永がそういう刀であることを、新入りの歌仙に伝えたかったのだろう。
一つ一つの本丸の色とは、主と初期刀、そして近侍が作り上げていくものだ。
石切丸の話からは、主の人柄の長所と短所の両面、近侍がそれをどう補い許容しているのか、そういった本丸の運営の方向性を透かし見ることができた。
どうやら、主の無知に対して一切の修正を求めず、過保護なきらいのある本丸のようだが、近侍の方針は「驚きがあってそこがいい」ということのようだ。
確かに、そうでなければ、自分たちがキリシタンの酒など奉納される機会は、未来永劫来なかっただろう。未知のものを知るのは良いことだ。それが他者の文化ならより大切だ。それを学び合える機会というのは、互いに対する信頼でしか成立しない。
ほとんどの本丸では、審神者はキリシタンの風習を修正されてから赴任する。今まで多くの刀たちが、本霊から分霊へと流れ、そして本丸を経験してから再び本霊へ帰っていった。程度の差はあれ、そういった経験は全て本霊へと還っている。こうして数多くの歌仙兼定の内の一人として、ここに歌仙がいるように。
広い目で見れば、一つくらい変わり種の本丸があった方が、本霊へと還る経験が増えて良い、と鶴丸国永は悠長に構えているのだろうと歌仙は推測した。
なるほど、平安から現存する刀として、途方なく長存ゆえの大局観がどことなく透けて見える。
ならば、文系名刀たる歌仙兼定がすべきことは、主の無知を叱って矯正することではなく、自分たちも異教に無知なのだという姿勢で広く学び取り、信頼を壊さぬことだろう。
それはとても難しいことだが、ここにいる刀たちは、皆、それを成しているのだ。それは、宴の中心で屈託なく笑う主の笑顔が証明している。
元主とその妻、既存文化と異教のぶつかり合い、弾圧の歴史を見届けてきた歌仙兼定は。
この本丸の稀有な在り方とそれを成してきた刀たちの深い配慮を、実に尊敬すべきことだな、と考えた。
だから歌仙兼定は、しばし熟考してから、石切丸にこう訊ねた。
「キリシタンの葡萄酒、僕も一度口にしてみたい、と言えば、主は喜ぶだろうか」
石切丸は、とても穏やかに微笑んだ。
「きっと、とても喜ぶよ」
それは実に、素敵な未来だと歌仙は思った。
「よっ、おかえり、歌仙兼定。修行を終えて、いっそう頼もしくなったな」
近侍の鶴丸がそう言って明るく歌仙を出迎えた。
現世へと繋がるゲートの前、鶴丸がここに居るのは、修行を終えた歌仙と近侍を一時的に交代するためだった。
「初めての現世警護だな。必要事項は頭に入ってるよな。準備はいいかい?」
「ああ、もちろんだ。しっかり励むつもりだよ」
「そいつぁ良かった。そんな歌仙に、オレからちょっとしたアドバイス、ってやつだ」
鶴丸国永は悪戯めいたウィンクをひとつ、歌仙の耳元に、すれ違いざまに密やかに囁いた。
「主が寝静まったら、主の日記をこっそり覗いてみるといい。なあに、寛容な我らが主のことだ、バレてもきっと怒りはしないさ」
歌仙は応とも否とも言えず、怪訝にその言葉を聞いた。
現世に着いて、該当の物の所在はすぐわかった。
主の寝室のテーブルに、「毎日書くこと!」とでかでかと書かれたノートが、無防備にぽんと置いてある。
ナンバリングされたそれは、どうやら既に十数冊を超えているようだ。
どこまでも飾らず疑わない主の気性を反映するように、鍵をかけることも仕舞われることもなく、ぽんとテーブルの上に置きっぱなしだ。
主の日記を覗き見るなんて雅じゃない。歌仙はそう思ったが、同時に鶴丸国永の助言はとても大切なことのようにも思えた。
いつもたいへん愉快に引っ掻き回してくれる初鍛刀殿だが、同時に、彼はとても信頼のおける刀だ、とも思う。
主のことも周囲のこともよく見ている。そんな彼が、ただの悪戯心で、主からの信頼にもとるような行動を他者に勧めるだろうか。
彼の口癖を借りるなら、そんな驚きは彼らしくない。
歌仙はずいぶん悩んだが、最終的には助言に従ってみることにした。
歌仙の背を押したのは主の態度だった。寝静まる前、主がパジャマでそのノートに何やら一生懸命に書き込んでいたので、歌仙は「何を書いているんだい?」と訊ねたのだが、主は少しだけ照れくさそうに「歌仙が初めて一緒に来てくれて嬉しいって書いてる」と答え、隠そうとしなかった。それが決め手だった。
ぱらり。歌仙はいちばん最初らしきノートを開いた。
そこに綴られていたのは、本丸に急に赴任し右も左も分からないでいる主の、懸命な試行錯誤の証だった。
◯月×日、助けてくれる刀剣のことが何も分からない。来歴、歴史、どれもほとんど勉強したことがない。学生の頃は日本史ではなく宗教倫理を学んだ。
けれど、ネットの情報は何が正しいか分からないし、一生懸命探した本も書いてあることがみんな違う。どれが本当かよく分からない。どうしよう。
◯月△日、見かねた鶴るんが教えてくれた。伝えられている歴史は様々な人々の様々な主観で綴られていて、刀剣男士たちにとっての「ほんとう」とはいささか異なるのだと。
つまり、調べても調べても際限がないと。
だから直接訊いてみるといい。
せっかく顔を合わせて言葉を交わし合えるんだから、その方がずっといい、と。
もし直接訊ねにくいなら、近侍の自分が、彼らから聞き及んだ範囲でこっそり教えてやるから、もっと肩の力を抜くといい。
鶴るんは、笑ってそう教えてくれた。
だから、あれこれ調べて悩むのは今日でやめにする。
誰かの言葉ではなく、彼らの言葉だけを信じる。
そう決めた。
その代わり、優しく教えてもらったこと、ひとつも取りこぼさないように、大切に大切に、ぜんぶここに書いていこうと思う。
今日のお祈り→みんなのことがひとつでも多く分かって、もっと仲良くなれますように
◯月▽日、鶴るんの冗談をうっかり信じると騙されると分かった。
カシューナッツは加州の故郷で取れるナッツだからカシューナッツだって言ってたのに嘘だったし
「光坊はな、好き嫌いには厳しいぞ。包丁で三枚に下ろされて夕飯のおかずにされるぜ」って言った鶴るんの後ろでみっちゃんが「主にウソ吹き込まないで鶴さん!」ってお玉で小突かれてた。
鶴るんは冗談が好きで嘘もいっぱいつく。
でも、騙されるのも楽しい。だから、やっぱり信じるよ。
今日のお祈り→この先もずっと、鶴るんもみんなも疑わない自分でいられますように
◯月◻︎日、いつも助けてくれる鶴丸国永に訊いた。
刀剣男士のことを何ひとつよく分からなかった時に、ただ、もっと仲良くなれたらいいな、という気持ちを込めて呼んだ「鶴るん」のあだ名は、もしかして付喪神にとっては良くないことなんじゃないか。
どこかの国の祀られた神様は、名前を間違われるのをひどく嫌うとどこかで読んだ気がする。子供の頃に読んだ物語の中だったかもしれない。
おそるおそる訊ねてみたら、鶴丸国永は笑ってくれた。
確かに神座に名を連ねるものは迂闊なあざなを嫌う者も多いが、同時に、いつだって物は名付けを喜ぶものさ、と。
きみが呼ぶなら、オレは鶴るんがいいよ、と。
とても優しい刀だと思った。
じゃあ、どんなときは正しい名前で呼ばれたいか、と訊いた。
鶴るんは「そうだなあ」と首を捻って、「ああ」と今思い付いたみたいに軽く教えてくれた。
「祈りの場面だな。きみが強く祈る時は、ちゃんと届くように呼んでくれ」
だから今夜から、いつもの寝る前の祈りは
「私に優しくしてくれた鶴丸国永がずっと幸せでいてくれますように」と祈ることに決めた。
△月×日、みっちゃんが「おみきをずっときらしてる」と言って困った顔をしていた。バタバタして忙しそうだったから詳しく聞きそびれてしまった。
次に会うのは来月だ。どうしよう、私に何かできることあるかな。
みっちゃんは食材を自由に取り寄せられるはずだから、つまり多分、お金で買えないものだ。
おみき、ってなんだろう。聞いたことはあるような…?
メモしようと思って端末を開いたら、自動変換が教えてくれた。御神酒、と書くらしい。神様のお酒?
神様のお酒……神様のお酒……わからん……神社とかで貰うのかな……?
でも、神社のマナー何も分からない……どうしよう、行きにくいな、相談しにくいな、というか神社っていっぱいあるな、ど、どれだろう……?
わからん、超わからん……キリスト教式のマナーなら分かるんだけどな……
△月⚪︎日、鶴るんに聞いたら、ミサのワインと似たようなものだと教えてくれた。
!! ミサワインなら、わたしにも用意できる!
って思ったけど、どうなんだろう…?
ミサワインは洗礼を受けた人だけが飲んでいいものだけど、持って行っていいのかな。
分からなかったから、神父さまを訪ねて、訊いてみた。
自分を守ってくれる目に見えない存在に、感謝を込めてミサワインを供えてもいいのか、と。
聞いたら神父さまは、良いと教えてくれた。そうしたいと思った心が大切で、心から祈るのが大切だと、そう教えてくれた。
だから、ミサワインを頂いて、今日から1ヶ月、次に本丸に帰る時まで、いっぱいお祈りすることにした。
今日のお祈り→いつも守ってくれる刀剣たちが、このお酒を嬉しいって感じてくれますように。
△月◻︎日、鶴るんが「石切丸がキリシタンの酒をたいそう喜んでたぜ」と教えてくれた。嬉しい。嬉しい。よかった。
今夜のお祈り→かみさま、大好きなみんなのために、私にできることがひとつでも多く見つかりますように。
歌仙兼定は、綴られたエピソードに見覚えがあって、記憶を辿った。
確か、歌仙が本丸に顕現してすぐ、宴席で石切丸から訊いた話だった。
あの時は確か、おおらかな本丸の姿勢に感心しつつ、今代の主は随分と不勉強だな、と頭の片隅で思ったのを憶えている。
だが、歌仙はあの日の認識を素早く改めた。
そこには、本丸に生きる刀たちの言葉ひとつひとつに耳を傾け、懸命に彼らを知ろうとする勤勉な軌跡が綴られていた。
これは日記の体裁をしてはいるが、実際の中身は、刀剣たちへの限りない感謝と言祝ぎだ。
名を綴り、想いを綴り、祈りを綴る。自分たち神座に連なるものにとっては、奉納される手紙と変わらない。なるほど鶴丸国永が読むことを勧めるわけだ。これは主からの祈りの手紙なのだ。
中身はどのページも、ひたむきで懸命な祈りの言葉にあふれている。
膨大な記録の全てに目を通すのでは夜が明けてしまうだろう。時間は限られている。後ろ髪引かれるが、歌仙は先へと頁を手繰った。
歌仙は自分が顕現した日の記録を辿った。そこには、歌仙を想う無垢な祈りが記されている。
歌仙と過ごした時間、交わした言葉、嬉しかったこと、感謝、そういったものが大切に大切に書き留められていて
いつも記録の最後は、「優しくしてくれる歌仙兼定に幸せがありますように」という祈りで締めくくられていた。
現世の夜が明ける。
主はまだ夢の中だ。未顕現の状態では眠りを必ずしも必要としない歌仙兼定は、凛とした朝の空気を身に浴びながら、すうすう眠る主に向けて、ささやかな声音で言祝いだ。
「きみこそ、優しい僕らの主に、限りなく幸せがあらんことを」
夢の中で、主は嬉しげに微笑んだ。
翌朝、よう、と鶴丸国永が出迎えた。
「その顔は、オレの助言が役に立ったみたいだな?」
「ああ。……自分たちが、どれほど主に望まれ、愛され、祈られていたか、よくわかったよ」
次の近侍へと役割を引き継いだ歌仙は、本丸へと帰還した。
修行を終え、近侍の任を果たし、長い一日を終えた歌仙は、苦笑した。
「同時に、よくわかった。僕らの主、本当に戦に向いてない」
「だよなあ」
鶴丸国永はふはっと吹き出した。歌仙は苦笑いを向けて、まだ夜が明けたばかりの本丸の空を見上げた。空気は凛と冷え、大気は主の守護の祈りで満ちている。刀剣たちが主を護るように、刀剣たちもまた主に護られている。
「まあ、そんな甘っちょろい主がいても良いじゃないか。数ある本丸、その一つ、神も刀剣も在り方は一つじゃない」
「ああ、僕たちがここに来たことにも、きっと意味があるだろう」
空が緩やかに白んでいく。そろそろ目覚めるだろう現世の主は、きっと嬉しげに笑って今日の近侍を瞳に映すだろう。
そうして今夜もきっと、傍らの刀剣男士のために一つ一つ、心から祈るに違いない。
そんな幸福な嬰児が、明日も幸福におぼれながら祈れるように。
神座に連なる刀の一振りとして、今日もその力を存分に振るおう。
《現世にて警護の任〜鶴丸国永編〜》
本丸での任務が免除されているからといって、やることがないわけではない。
むしろ現世において主のやるべきことは多岐にわたる。近侍の重要な仕事の一つは、それらが全て間違いなく果たされているかを確認することだった。
一つ目。まず、邸宅に隠形香を焚き染めること。
絶大な霊力を持つ主が、歴史修正主義者や検非違使に襲われないようにするための隠匿処置だ。結界を張った家の中はもちろん、お守りや持ち物、服装、髪に至るまで、念入りに焚き染めて身を隠す。政府の役人に言わせれば、それらの処置を何もせずに元服するまで無傷だったことの方がおかしいのだという。まったくもって、自分たちが出会うまで無事でいてくれて何よりだ。
これからは自分たちが護ればいい話だが、敵さんに襲われてしまえば主の生活がめちゃくちゃになってしまう。となれば、戦うよりも見つからないようにするのが最優先だ。
近侍は護刃、最後の砦。抜かずにいられるならその方が良い。
ちなみに、この隠形香、実用化されたのはつい最近だが、開発されたのはもっと前で、量産体制が整うまでは政府の高官だけが使用していたらしい。いささか釈然としないが、いつの時代もそういう物だろう。
二つ目。風呂上がりに、刀剣男士の神気を通した香油を髪に塗ること。
絶大な霊力を持つ者は、今も昔も、霊力の宿った髪を悪用されやすい。
これを刀剣男士の神気で上書きすることで、悪用を防ぐのだ。
平安の世なら髪の悪用を防ぐための風習も残っていたが、現代ではそれらの習慣は絶えて久しい。現世で生活している主はごく普通に美容室にも行くし、髪が落ちればゴミ箱に無造作に捨てるし、職場にヘアブラシだって置きっぱなしだ。呪詛全盛期の平安の世を見届けてきた身としては、無防備極まりなくてヒヤヒヤさせられる。この娘が誰にも呪詛されずに生きてこれたとか嘘だろう。どう見ても馳走だぞ。生まれたのが現代でよかったなあおい。
三つ目。お守りを肌身離さず身につけ、万に一にも手放すことにならぬよう手入れを怠らぬこと。
封の中に未顕現の刀剣を模した無銘刀の先端と玉鋼が入っており、鍛刀と同じ要領で限界まで霊力が込めてある。これを顕現前の刀剣に見立て、依代として現世と本丸を繋いでいるのだ。鶴丸国永の本体は本丸に置いたままだが、これを依代に近侍の刀剣が一振りだけ現世に身を置くことができる仕組みとなっている。普段は付喪神として主のそばにふよふよと浮遊し、主が顕現を行った瞬間に現世でその身を得る仕組みだった。
主の霊力が浸透したこのお守りは、わずかな間でも霊力が絶たれると効力を失うため、主は防水対策をした上で風呂やプールにも持ち込んでいる。
ところで、主はいささか女子として羞恥のネジが外れているらしく、鶴丸国永が冗談のつもりで、
「髪にちゃんと神気が通ってるか、洗って見てやろうか?」
などと適当極まりない出鱈目な理屈を並べて風呂場の外から揶揄ってみた所、なんと驚かれるどころか「じゃあお願い」とスルーされ、「もーいいよー」と普通に浴室に招かれてしまった。
我らが主、どうやら自分たちのことを異性と認識していないらしい。こちとらどこまでいっても物なので、正しい認識ではあるのだが。
平安の時代から在るこちらとしても、ああも若い人の子は赤ん坊同然であるので、湯浴み姿などさして構いはしないのだが、後々、主のまったく悪気の無い「そういえば鶴るんたちは風呂を平気そうにしてるけど、水で錆びたりしないの?」
という疑問の声をきっかけに、うっかり鶴丸の適当な流言は本丸中に露呈し、極めた加州清光に鬼の形相でボコられる羽目となってしまった。
しばき回されて戦でも無いのに中傷を喰らってしまったのだが、この時ばかりは光坊も味方をしてくれなかった。
「鶴さん? 紳士じゃないよね?」
笑った光坊が一番怖い。
飯は薄いたくあんしか出されないわ、うっかり重傷一歩手前だったのに四日も手入れ部屋を使わせて貰えなかったわ、本丸中で視線が冷ややかだわでえらい目にあった。
短刀たちに正座で代わる代わる説教をされている主曰く、「目に見えなくても神様がいつも見てるのは当たり前のことだから、今さら恥ずかしがることじゃないと思った」だそうだ。ははん、なるほど信心深く育つとこうなるんだなあ、などと他人事で居たらキレた加州清光に首の骨をブチ折られそうになった。
ミルク色の入浴剤入りの湯に浸かったまま機嫌よく鼻歌を歌う主の髪を、洗ってやるのはなかなか楽しかったんだがなあ。
などと鶴丸が内心残念がっていると、反省の色無しと判断されて満場一致で二ヶ月も主の近侍を外されてしまったわけだが。
《現世にて警護の任〜へし切長谷部編〜》
「長谷部、こっち来て」
穏やかに微笑んで、ぽんぽん、と座布団を叩く主に、長谷部は「はい」と付き従った。
顕現している状態ではないので、本来座布団は不要のものだが、これは歓迎されていることや敬意を示すものだな、と長谷部は理解した。
「長谷部、一緒にやろう。好きなの選んで」
「将棋、囲碁は心得がございます。他は、主が望まれれば」
「じゃあ最初は将棋しよっか。今度他のもやろうね」
主は穏やかに微笑んだまま、将棋盤を取り出して、差し向かいに座った。
「他のみんなには、わざわざ意図を話したりしないんだけど、長谷部は最初に聞きたいんじゃないかな、と思って」
パチ、と歩を進める主は、始終、穏やかな口調で、緩やかに語った。
「いつもこうしてね、ゆっくり、楽しく遊びながら、聞くんだ。私が居ない本丸でどんなことがあって、どんなものを食べて、どんなことが好きで、どんな鍛錬を積んで、どんな戦場でどんな経験をしたのか。どんな過去があって、どんな体験をして、どんな未来が欲しいのか。楽しく一緒に笑いながら、聞くんだ」
パチ、パチ、と互いに交わす駒の音が、静かな部屋に、しんしんと降り積もっていく。
長谷部は、一言一句、聞き漏らさないように、耳を澄ませた。
「知りたいんだ。私は月に一度しか帰れないから、任務報告だけじゃなくて、相手の思うことを直接聞きたい。もっとあなたたち刀剣男士のことを知って、もっと好きになりたい。いつも私を助けてくれるみんなを、仲間を、長谷部を」
パチ、と進む駒が、また一歩、長谷部へ近付く。
「だからいつも、こうして、近侍と遊ぶんだ。真面目に語り合うのもいいけど、そうだなあ、お酒を酌み交わしながら笑って話すみたいな、そういう会話がしたいんだ。わたしはお酒が飲めないから、これがわたしなりの、主としてのコミュニケーション、ってとこかな」
主は柔和に微笑んだ。思慮深く、それでいて純粋な無垢さのある微笑みだった。
「だから、長谷部とも遊びたいよ」
「光栄です」
長谷部は心からそう伝えた。
主は、将として刀剣男士たちの上に立ちながら、常に刀剣たちに寄り添うように立ち回っておられる。
驕ることなく部下たる自分たちを知りたいと常に望まれる、そういった姿勢を維持できる主を持ったのは、仕える身としては僥倖なことだ。
「ねえ、長谷部。遊びって凄いと思わない? 長谷部ともみんなとも、私は何百歳も世代が違うよね。でも、将棋や囲碁だったら、平安から生きてる鶴丸とだってすぐに遊べたし、こっちのやつは三歳から九十九歳まですぐ一緒に遊べるってのが売り文句なんだ」
主は笑って、たくさん積まれた遊具たちを指し示した。見知ったものもあれば見たこともないものもある。
いつでも応じられるよう、後でルールを理解しておかねば、と長谷部は頭のタスク表にメモをした。
「ねえ、長谷部。わたし、みんなのこと好きだよ。優しいところも、面白いところも、刀を振るうかっこよさも好き。だから、刀剣男士の在り方を否定するつもりは全くこれっぽっちもないんだけど……」
小首を傾げるように、主は目を細めた。
「それとは別に、わたしね、思うんだ。戦うことじゃなく、一緒に遊ぶことで、戦が無くなったら良いのにね。殺し合いじゃなく、痛い思いも哀しい思いもない方法で、未来が決まれば良いのにね」
パチ、と指した手が、迷いを写して鈍る。
「そういう思いが強い私は、きっと、戦上手にはなれないと思う。長谷部の理想の主にはきっとなれない。だから、いつも頑張って仕えてくれてる長谷部に申し訳ないな、って思ってる、けど、それが私だから、変えられない。ごめんね。許してほしい。その分、たくさん、たくさん、長谷部もみんなも大切にするから」
「何も謝られることなどありません。既に主は、この長谷部にとって、かけがえのない主人です」
「……ありがとう」
主は少し哀しげに微笑んだ。
「たぶん聞いてるかもしれないけど、いつもはね、もっとはしゃいで遊ぶんだ。加州には甘えて、鶴丸とは悪ノリして、村正や亀甲とは腹を抱えて笑って、みんなそれぞれ、見せる私が違う。それは、信頼してるしてないの差じゃなくて、伝えたいメッセージが違うからなんだ」
長谷部は目を丸くした。てっきり、初期刀や初鍛刀、古参刀たちとは土俵が違うものだと思っていた。主は笑った。
「ただ、一緒にいたいんだ。隣にいたいんだ。同じ歩幅で歩きたい。永く存在するみんなと、限られた時間を、あっという間に過ぎる幸福な時間を、ただ、笑い合って一緒にいたいんだ」
主は長谷部に向けて微笑んだ。
「長谷部とは、どんなふうに笑い合って歩けるかな。そう考え続けることが、私にとっては、大事にするってことなんだ。長谷部にとってもそうだといい、って思ってやまない」
パチ、と差した手は王手だった。
一局を差し終えた長谷部は頭を下げ「感服いたしました」と負けを受け入れる。
主はふわりと微笑んだ。
「次は本気で来てね、長谷部。手加減無用だよ」
「……お見それしました」
長谷部はバツが悪げに苦笑した。バレていないと思ったのは長谷部の驕りだったようだ。
ありし日、審神者は近侍の鶴丸国永に訊ねた。
次にここに呼ぶ刀を選べるとしたら、誰を呼べたら嬉しいか、と。
鶴丸がこの少し特殊な本丸に赴任して、まだ間もない頃だった。鶴丸国永は、少し考えて、旧知の中から燭台切光忠の名を上げた。
三日月宗近も脳裏に過ったが、彼が来るまで資材を使い込んでしまう主も多いと聞く。
まだこの本丸が発足して間もない。そんな中で、迂闊に三日月の名を挙げてしまうのは憚られたし、大倶利伽羅は戦闘が極端に少ないこの本丸の生活には馴染みにくいかもしれないと思った。故に、旧知の中から燭台切光忠の名を挙げたのだ。人当たりが良くもてなし好きな、穏やかな気性の光坊は、きっとこの主と馬が合うだろう、そう鶴丸は考えたのだった。
主はにこっと笑って「わかった。鶴るんが知ってるその刀さんのことを教えて」と様々な話を聞きたがった。
案外聞き上手な主に乗せられて、鶴丸は酒でも入ったつもりで機嫌良くあれこれ語った。ひとしきり光坊について話を聞き尽したタイミングで、主はすくっと背筋を伸ばして立ち上がり、鍛刀場の前に立つと、しばらく目を閉じて手を合わせて何事かを熱心に祈っていた。
鶴丸国永は神座に名を連ねるものなので、実は隣の祈りは声に出さずとも聴こえている。だから、主が祈る「かみさま、かみさま、いつも私を助けてくれる優しい鶴丸国永が、大事なお友達と会えますように」という無垢な祈りが、実は筒抜けだったのだと、照れている間にうっかり言いそびれてしまったのだ。
(ああ、そうか、主は審神者の学校も政府の研修も通っていないんだったか)
神に名を連ねる者の隣で名指しで祈る、ということが、耳元でメガホンで大声出してるのと大差ない、ということを知らないのだ。
こりゃ驚いた、と鶴丸国永は、赤面をじわじわと苦笑に変えて、主が目を固く閉じて一生懸命祈っている隙に、何事も無かったようにすまして表情を取り繕った。
そうして、他の刀が来て同じことになる前にタネを明かして教えてやろうと、親切心で「なあ、きみ」と主に声をかけようとした、その時だった。
かと思えば主は、止める間もなくいきなり資材を引っ掴んで、最大数までフル投入しだした。999で一瞬で溶けてしまった資材に鶴丸国永は慌てた。
「ちょ、待て待て! 光坊は太刀だぞ、レア大太刀でもあるまいに、そんなに資材を入れんでもっ」
その瞬間、桜の香りが鼻に抜けるように、神気がさあっと流れたのを鶴丸は感じた。
見知った気配にはたと目を見開いた鶴丸国永は、まさかと思い鍛刀時間を見上げた。
ピッ、と表示された3:00:00の表記を見て、主はにこっと笑った。祈りが通じたことを疑わない、子どものような笑顔だった。
見事に現れた燭台切光忠に、主はにこっと笑い、鶴丸は「はは……こりゃ驚きだ!」と目を丸くした後、小気味良く天を仰いで「ははは!」と笑ったのだった。
そうして、鶴丸国永は、燭台切光忠と再会の喜びを分かち合った。
後に訊ねれば、光坊は「なんだか凄く呼ばれてる気がして」と顕現の理由を語った。
ひどく面白そうな予感がして、他縁を押し退けて飛び込んだ自分もそうだったが、今代の鶴丸国永の主は実に面白い。
だから驚かせてくれた礼として、いまだに彼女に『ほんとうのこと』を教えていないのだ。
相変わらず我らの主は、いつどこでも俺たちの隣で名指しで突然全力で祈ってくれるので、ここに来る新人は皆驚いて一度はひっくり返るのだが、まあ、相も変わらず、誰も彼女に『ほんとうのこと』を教えていないあたり、皆想いは同じなのだろう。
彼女の祈りは、ひどく愉快で心地良い。
この後、爆音の「大好きな加州清光の友達が来ますように!!!!!」のクソデカボイス祈りにひっくり返った加州清光が
「つ、つ、鶴丸国永〜!!!」
って絶叫して胸ぐら掴んで、腹抱えて爆笑してる鶴丸をガクガク揺さぶる。
「おま、おま、おまえ〜!!!!鍛刀!!鍛刀係だろうが!!!何で主に何も教えてないんだよ!!!?」
「ははは!いい驚きだっただろう?」
「馬鹿野郎!!!!このびっくりジジイ!!!!」
この後、政府から派遣されて赴任した山姥切長義が同じくクソデカボイス祈りの直撃にひっくり返って「鶴丸国永!!!!」って詰め寄って天丼するので鶴丸国永は指差して爆笑する。
「この本丸の近侍は仕事をしてないみたいだね!?」
「心外だぜ!元はと言えばきみたち政府の役人が何も教えずに彼女をこの本丸に放り込んだんじゃないか。おかげでたっぷり驚かせてもらって感謝してるんだぜ?
だから礼にきみたちも驚かせてやったんだ。ほら、いい驚きだっただろう?」
って悪びれもせず腹を抱えて笑っている。
ちなみにどんどんクソデカボイス化してった理由は、鶴丸国永が確信犯で主へ「こういうのは心の中で思いっきり強く、強く、強く!祈った方が届くってもんだぜ?」って余計なこと吹き込んだ結果である。
鶴丸国永は素知らぬ顔で主に訊ねた。
「いやあ、驚いたぜ。一発で光坊を呼んでくれるたあ、嬉しい驚きだね。なあ主、何かコツでもあるのかい? ……なになに、知らない相手はイメージできないから、できるだけ話を聞いて全力で祈る? ははん、なるほどなあ。こうして光坊も来てくれたことだし、きみの祈りの声は良く通るんだなあ」
通るんだなあも何も、耳元でメガホンで叫んでいるのと変わりない状態なわけだが、鶴丸は全力ですっとぼけながら、白々しくしらばくれて、わざと主にこう吹き込んだ。
「なるほど確かに、こういうのは強く、強く、強く!祈った方が、天に届くってもんだよなあ? そう、天高くどこまでも届くだろうさ。心の中で思いっきり!大声を出すつもりで祈れば、な?」
ドドドド、と真っ赤な顔で駆け込んできた燭台切光忠に、鶴丸は素知らぬ顔で「おー、どうした光坊?」としたり顔を向けた。
「つ、鶴さん!!!主に何吹き込んだの!?」
「ははは、光坊、さっそくアレを食らったか。なるほど次に来るのは貞坊で決まりだな。良かったじゃないか。愛されてるねえ、光坊」
「鶴さん!!!」
「はははは」
今日もこの本丸は愉快な出来事であふれている。
《物吉貞宗の幸運と幸福》
僕のあるじさまは、子供のように純粋な、幸運で心配な方でした。
「と、特賞〜!!!!!!」
がらんがらん、と激しく鐘が鳴ります。
この時代にも溶け込めるような装いをして、僕、物吉貞宗は、近侍としてあるじさまの今日の警護を担当していました。
この騒ぎは、街中で手渡されたくじ引きを、せっかくだからと回したあるじさまが、うっかり数百万円相当の品を当ててしまったからです。
僕は耳をすませました。裏側でスタッフの人たちが慌てて打ち耳で囁き合っている内容から推察するに、本来なら抜いてあったはずの大当たりが、偶然にも紛れ込んでしまったようです。
あるじさまは、それを見事に引き当ててしまったようでした。
すっかり騒ぎになって、僕と一緒に写真を撮られそうになったあるじさまは、急いで逃げ出しました。
なにせ、僕の顕現は『お忍び』なのです。
「びっっっくりしたね」
駄菓子屋の前でアイスを買ったあるじさまは、手元を見て「あっ、あたりだ」と笑いました。
「わたしも色々当たる方だけど、物吉っちゃんと一緒だと輪をかけてめちゃくちゃ当たるね」
笑ったあるじさまの横顔を、僕はじっと見つめました。
僕の今代の主は『多重加護者』といって、様々な加護が打ち消し合わずに一つの身に降り注ぐ体質の方です。
あるじさまが本丸に月に一度しか帰れないのも、僕らが現世で警護を続けているのも、この体質に依る部分が大きいです。
僕のように、存在そのものが幸運の加護となる刀から見ると、その特異性がとても際立ちます。
あるじさまは僕の加護が無くても物凄く幸運な方でしたし、僕が側にいるとそれがさらに輪をかけて激しくなるのです。
ですが、こんなにも幸運な方でありながら、僕らに出会うまで、とても御苦労されたご様子です。
他の刀剣の皆さま方は、それを不思議に思っている方もいるようですが、僕はその理由がとてもよくわかります。
幸運と幸福は別のものです。
僕、物吉貞宗がそう言うと、昔から不思議な顔をされることがよくありました。
「ふふ、嬉し〜!物吉っちゃんありがと!おかわり貰ってこよ!」
今代の主さまはどうでしょう。
その違いを、分かってくださるでしょうか。
ひどく幸運に恵まれた優しい方だからこそ、僕はとても心配でした。
少しくらい自分勝手じゃないと、人間はすぐに死にます。
「ねえ、あるじさま」
「んー?」
心密かに意を決して、僕はあるじさまに尋ねました。
「幸運と幸福の違いは、なんだと思いますか」
あるじさまは二度、ぱちぱちと瞬きした後、迷いなく破顔しました。
「アイスの棒が当たる。これが幸運」
あるじさまは、その『あたり』と書かれた棒を、僕にそっと手渡し、ぎゅっと僕の手を両手で握りました。温かな手のひらでした。
「これを物吉っちゃんと半分こ。これが幸福」
主の答えは、とても当たり前のように青空に溶けました。
僕はとても息を呑んで、凄く凄く嬉しくて一緒に破顔しました。
紛れもなく幸運な刀である僕が、強い幸福を感じるのはこんな瞬間でした。
僕の主は、幸運を分かち合う相手がいることこそが幸福なのだと、知っていらっしゃいました。その相手に僕を選んでくださいました。こんなにも嬉しいことはありません。
僕らは刀です。僕の幸運は、主人が腰に帯びて初めて生かされます。
僕だけが遺されても、幸運に意味はありません。そのことをちゃんと、あるじさまは分かってくださいました。
僕は、とても良い主に恵まれました。
このお方なら、僕を側に置いても、幸運の功罪におぼれることはないでしょう。
「行こ、物吉っちゃん!」
「はい、あるじさま!」
僕にとっては、そんな主と出会えたことが幸運で
そんな主を護れることが幸福でした。
《必殺勝負師、物吉貞宗》
あるじさまは、朝餉もまだの時間からわくわくと起き出して、辞書のように分厚い本を抱えて寝室から出ていらっしゃいました。
僕のあるじさまは、いつも子供のように元気なかたで、こんなに早い時間から「おはよう!!!物吉っちゃん!!」とたいへん元気に挨拶してくださいました。
「おはようございます、あるじさま。今日も朝からお元気ですね」
「物吉っちゃん!物吉っちゃん!!TRPG遊ぼ!」
僕は、聞き慣れない遊びに、目をぱちぱちさせました。
「てぃーあーるぴーじー…ですか? どんな遊びでしょう?」
「キャラを作って、サイコロ振って能力値割り振って、自由に物語を遊ぶんだよ。なりきって遊ぶの。ねえねえ物吉ちゃん、どんな主人公になってみたい?」
「主人公に、なる?」
「なにか物語作ってみようぜ! あっ、これとかどう? さすらいの勝負師!」
あるじさまはぺら、と本をめくりました。
「物吉ちゃんはトランプ強いから、ほら、酒場でポーカーするとめちゃくちゃ勝っちゃって、毎回悪い人が『イカサマだ〜!』って言い出して、その人を退治すると毎回街の人に感謝されちゃう、そーゆー西部劇水戸黄門みたいなのどう?」
あるじさまはとても楽しげにワクワクされていて、僕はただ目を丸くしていました。
「必殺仕事人的な感じで、『必殺勝負師、物吉っちゃん!』みたいな!」
「あるじさま、あるじさま」
「うん?」
「これは、御伽草子ですよね? 空想の…」
「うん、そういう遊び! 詳しくはこの本に書いてあって…」
「僕ら刀剣男士は、自分の逸話を語れども、自ら空想することは無いんです」
主は本を取り落とし、僕の言に目を丸くしました。
「そうなの!?」
「できないというか、そういう発想が無い、というのが近いというか……」
「物が語るゆえ、物語。ですが、僕らは与えられた物語を語るのみで、自ら逸話を作り出したりはしないんです。本来の逸話と混合されてしまうと弊害がありますから」
「……あ!?弊害!?そうなんだ!?」
あるじさまは慌てて、僕の手を両手でぎゅっと握りました。
「ごめん、ごめんね!!わたし、知らなくて!!悪いことした!?」
「いえ、大丈夫、びっくりしただけです」
僕が首を横に振って否定すると、あるじさまはホッとした顔をされました。僕はあるじさまに伝えました。
「空想するのも物語を与えるのも、全ては人間。あるじさまは、まるで息をするように、思い付いた空想や御伽草子を語られますが……どれほど同じように想像を巡らせたとしても、僕は何ひとつ頭に浮かびません。僕ら、そういうふうにはできていない、というのが近いかもしれません」
「そうなんだ…道理で誰を誘っても乗ってこないと思った…好みの問題じゃなかったんだ…」
「でも、嫌なわけじゃないんです。自分で想像できないだけで、あるじさまが想像してくださったことは、すごく嬉しく思います」
「そうなの?」
「はい。それは、『あるじさまの僕』だけの物語ですから」
物吉は照れ臭げに、ふわりとはにかんだ。
「嬉しいです。空想は僕の逸話にはなり得ませんが、ほんの少しでもほんとうだったらいいな、と思わずにいられないぐらい。それに…」
「それに?」
物吉は、両手で顔を隠しながら、耳まで赤くして小声で呟いた。
「…………一度でいいから、僕も『イカサマだ〜』って言われてみたいです……」
目を丸くした後、思いっきり笑い転げた主に、物吉は真っ赤なまま言った。
「あるじさまが悪いんですよ!僕に悪いこと教えるから!」
「あはははは!!」
あるじさまは笑いすぎて滲んだ涙を拭うと、まだ笑い足りないようで笑いを堪えておいででした。
「ふふ、ふふふふ。可愛い物吉ちゃんたっての希望だ。この主にまっかせなさい」
そう悪い顔をして笑うあるじさまのお顔は、悪戯を思い付いた時の鶴丸さんとそっくりでした。
あるじさまはそう言って、しばらく端末で何かを熱心に調べていたと思うと急に立ち上がり「よし、出かけよ、物吉っちゃん!」と素早く出支度を始めました。
あるじさまは電車を長く長く乗り継いで、お住まいの地域から遠く離れると、この場所に僕を連れて来ました。
「ようこそ、物吉っちゃん。ギャンブルコンセプトカフェへ」
「こんな明るい内から賭場が…? あるじさま、女性お独りでは危なくありませんか?」
「ふふ、大丈夫だよ。本物のカジノじゃないんだ。カジノ気分を味わう遊び場だよ。入り口で入場料払って飲み物貰ったらチップが貰えて、中で勝っても負けてもただチップ返して帰るだけ。お金じゃなく勝敗しか賭けない、安全で合法な場所だよ。ボードゲームカフェとか、メダルゲームのゲーセンと同じ仕組みだね」
あるじさまは、入り口で二人分の料金を払うと、二人分のチップを合算して僕に手渡しました。僕が「はい、お荷物お持ちしますね」と言って受け取ろうとすると、あるじさまは笑って「違うよ物吉ちゃん、ぜんぶ物吉ちゃんの分だよ!」と破顔して僕の手を引きました。
「僕、ですか?」
「物吉っちゃん、今日は思いっきり遊ぼう!イカサマじゃない!?って言われるまで!」
「!」
僕、物吉貞宗は、幸運の刀です。
ですから、刀剣男士として多くの主に使える中で、こっそり僕を伴って賭場に行かれる主は、実のところとても多いのです。多くの僕らは、主が賭博で身を滅ぼさない程度にお手伝いすることもあります。
ですが、僕のあるじさまは
自分が賭けるためではなく、僕が賭けるためにお金を払ってくださいました。
そんな主は僕の記憶にありません。
僕がポーカーのテーブルについた途端、ロイヤルストレートフラッシュと絵札のフォーカードが多発したため、程なくして僕は、ディーラー役の方に
「念のため、お手元を見せて頂いても…? その、あまりにも、」と言葉を濁されました。
僕は、ディーラーの方のチェックを素直に受けながら、当然仕掛けなど出てくるはずもなく、問題ないことが証明されるばかりで、ディーラーの方は首を傾げていました。
あるじさまは、そら来たとばかりに、「……イカサマ防止?」と慎重にバトンを投げ、ディーラーの方は「はい、その、イカサマじゃない、か、確認させて頂ければ、と」と仰いました。
見事に言質を取ったあるじさまは、爆発するみたいに笑って
「あははは!逃げよ、物吉っちゃん!」
と僕の手を引きました。
「イカサマじゃないです!けど、疑われるくらい強いんですよ!」と自信満々に僕を自慢されました。
あるじさまはピンッとお札を一枚、そのテーブルに投げ
「これは騒ぎに乗ってもらった御礼!みんなで好きな飲み物でも飲んで!いこ、物吉っちゃん!」
と妙に手慣れた様子でその場を後にしました。あるじさまは元々とても幸運な方なので、こういった対処は初めてではないのかもしれません。僕は騒ぎが大きくなる前に連れ出され、すっかり場を離れると、顔を見合わせてあるじさまと二人で吹き出して笑いました。
あるじさまは、とても悪い方でした。
僕にこんな愉快で悪いことを教える方です。
そんなあるじさまが、僕は大好きでした。
本丸に帰還すると、話を聞き付けた鶴丸さんが、畳を転げ回って爆笑しました。
「相変わらずオレたちの主は愉快だな!? 刀剣男士に物語とささやかな逸話を贈るなんざ、プロポーズより熱烈だぜ!?」
以来、刀剣男士の皆様と花札などに参加する際には、皆さま機嫌よくお酒が入っているような場だと、僕が非常に良い札を持ってるタイミングを見計らって、鶴丸さんを中心に「物吉、めちゃくちゃ良い手じゃないか。さては〜?」と前振りして、両手の指で僕を指して「イカサマかー!?」「必殺、勝負師!」「だはは!」と笑うのが定番になりました。
これは、あくまで酒の入った冗談の場でしか行われませんが、鶴丸さんたちが『あるじさまの僕』にだけ与えられたささやかな物語を大事にしてくださっている、という意味です。主人にも仲間にも僕は恵まれています。
僕らは刀剣男士、神座に連なるもの。関係性の基本の縮図は、人間が願い、それに応えることにあります。これは契約に近いものです。
僕ら物吉貞宗たちもまた、願われてそれに応える形でこの歴史を守る戦いに身を投じました。
ですが、あるじさまは、僕の希望を叶えるためにあそこに連れて行ってくださいました。
それは本来の形とはまるで逆で、多くの審神者の皆様は、そういったことは迂闊にしてはいけないと教育を受けると聞いています。神の要望を多くの場合、人間は拒めないからです。だから、人間の側は、僕らの希望を迂闊に『叶える』と言ってはいけません。
ですが、このあるじさまは、そういった契約の概念をお持ちではありません。
特殊な経緯で赴任された僕らの主は、受けるべき審神者教育の一切を受けていないからです。
ですから僕らもまた、無知ゆえにあまりに無防備な主に、一方的に契約を迫るようなことはしないと、僕ら自身が僕らに枷を掛けています。これはあくまで僕らの善意に頼ったもので、ご自身がとても危うい状況にあることを、あるじさまは自覚されておりません。そんな主を、僕らは慈しんできました。
あるじさまはそういった、この国古来から続く神と契約の概念をお持ちでない代わりに、外つ国を中心とした愛と赦しの文化をお持ちです。
その概念の中では、どんな相手であっても、対等に分かち合い、一つのパンを分け合い、喜びを共有することこそが美徳とされるようです。
ですからあるじさまは、ただただ、僕に笑って欲しいから、ああいった行動に出るのです。
それはまるで、右も左も分からない善良な子供のようです。
あるじさまは、自分の振る舞いが幼いから子供だと言われるのだと思っていらっしゃるようですが、僕らから見ると、その心根そのものが、純粋無垢な子供のように映るのです。
そんなあるじさまに与えられた物語とささやかな逸話は、僕の宝物でした。
《鶴丸国永と》
おや、珍しく主が黒の手袋をしている。
親指と人差し指、小指が長く覆われていて
中指と薬指は覆わないタイプのものだ。
「おっ、新しい装いだな」
とオレが何気なく声をかけると、主は照れたみたいに頬を掻いて
「鶴るんとおんなじのは見つからなかったから、ちょっとだけお揃い」
と笑った。
刀剣男士を不意打ちできるなんて、歴戦の戦士だってそうそう無いぜ。
敗北をきめたオレは目を覆って「きみって時々あざといよな!?」と照れ隠しする他なかったわけだ。
《加州清光と》
あれ、と俺は主の手に目を留めた。赤い色が視界をよぎったので、一瞬、まさか怪我でもしたのかと思ったのだが、なんてことはない、主の小指にだけ赤い爪紅が塗られている。
俺の主は視線に気付いて、ニコッと嬉しそうに笑って手を振った。
(あっ)
自分と同じ赤だと気付いてしまえば、季節外れの桜が舞うのも致し方ないじゃないか。
「えへへ、似合うでしょ」
「あー、あー……似合ってる、めちゃくちゃ似合ってるよ!」
《歌仙兼定と》
「主、入るよ」
そう断って執務室の襖を開けた歌仙兼定は、近侍の鶴丸国永と事務作業をこなす主に「歌仙!」と笑顔で迎え入れられた。
そろそろ八つ時だからと、茶菓子を差し入れに来たのだが、主は「やった!休憩!」と素早く仕事を中断して、書類を退けて嬉しそうにしている。
「お〜、いいところに。ちょうど一息入れようと思ってたとこだぜ」
と鶴丸国永も楽に足を崩した。近侍のお許しが出たので、歌仙は盆に乗せた茶と饅頭を、主の机に置いた。
覗き込んだ主は、ソレを見て「わっ」と表情を綻ばせた。
盆に添えたのは小ぶりの紫陽花だった。裏庭の奥で咲いていたのを摘んできたのだ。
月に一度の限られた時間しか本丸に滞在できない主に、この本丸の四季を感じてもらおう、という雅でささやかな気遣いだった。
「わ〜!きれい!嬉しい!」
「そうか、それは良かった」
主は紫陽花を掬い取ると、顔に寄せてすうっと大きく息を吸い込んだ。紫陽花は香りは強くないが、摘んだばかりなので強い緑の匂いがするのだろう。嬉しげに笑った主に、鶴丸国永が「こら、食うなよ?」などとからかって「食べないもん!」と主は頬を膨らませている。
「ふふ、それじゃあ僕は、厨房の手伝いがあるから」
主と近侍の仕事は山積みだろう。話したいのは山々だが、あまり長居は良くない。中座しようとした歌仙に、「歌仙歌仙、見てっ」と声が弾んだので、歌仙は顔を上げた。
左胸のポケットに瑞々しい紫陽花をそっと挿して、主は嬉しげに破顔一笑した。
「歌仙とお揃い!」
反射的ににやけてしまう口元を、慌てて隠した。
だらしなく頬杖をつきながら「ほう、季節外れの桜が雅じゃないか」などとニヤニヤする鶴丸国永の頭を叩き落したい衝動に駆られたが
それより先に「この前の鶴るんと一緒だね」と主が言うので、雅でない不届者は頬杖からずり落ちて「それはきみとオレの秘密にして欲しかったなあ!」などと悲鳴をあげていた。
人前でからかわれたら素早くからかい返せ、という僕の教えが活きてるようで何よりだ。
◇ ◇ ◇
鶴丸「歌仙〜!きみな〜!?きみが主の教育係になってから、主がどんどん可愛くなくなるんだが!?」
歌仙「わかってるくせに。雅じゃないね。近侍のきみにだけじゃないか。あれは甘えてるんだよ。受け止めてやるのも度量じゃないかい? まったく、のろけにしか聞こえないよ」
鶴丸「ぐぬぬぬ」
歌仙「で? どうやら僕の耳がおかしかったようなんだが? 僕らの主が? なんだって?」
鶴丸「鯉口切るな切るな」
歌仙「ん?(圧)」
鶴丸「くっそ、ああもう、まったく、オレたちの主は、少しひねても可愛いさ!」(ヤケ)
歌仙「素直でよろしい。初期刀に殴られずに済んだね。感謝してくれたまえ」
鶴丸「きみのそういう力尽くで何とかしようとするところ、主が似なきゃいいけどなあ」
歌仙「なるほど、昼食を抜かれたいみたいだね?」
鶴丸「おおっと口が滑った。退散退散」
《太郎太刀の楔と罪な人》
この本丸唯一の大太刀、石切丸は、御神刀として本陣の霊的な護りを担当している。
本丸創設初期こそ外に出ずっぱりだったが、練度が上がり修行を終えてからは、守護の任のため本丸に常駐することがほとんどとなったらしい。
だから今回、戦場中心の活躍を期待した、新しい大太刀を迎えることになった。
「ふんふん、そ〜こ〜で〜? やって来たのが、何を隠そうこのアタシ! ってわけかぁ! アハハ!」
酒瓶片手に一杯引っ掛けながら、次郎太刀はケラケラと笑った。
新しくアタシの主になったお嬢ちゃんは、なんでも政府の『特殊な事情』ってやつで、審神者としての教育をまったく受けないまま、この本丸の主になったらしい。
本当なら正しく辿るべき奉納の手順もバラバラ。真剣に祈ってるのは分かるんだけどねえ。なんでも、この子の場合、祈りの型は生来ずっとキリシタン式なんだってさ。
初期刀の加州清光が不安そうにこっちを見てたけど、ま、アタシは結局、笑いとばした。
「まっ、確かに手順はめっちゃくちゃだけどさ。そんなの酒飲んでりゃ大差ないって! あの子が捧げた酒は美味い! それだけで、次郎ちゃんは許しちゃうよ〜」
惜しいことに酒を飲めない主だが、酒盛りの場にいることは好む子だった。
機嫌よく酔っ払う次郎太刀の側で、お酌をしながらにこにこしていることの多い子だ。機嫌よく歌う次郎太刀に、手拍子で楽しげに合わせて一緒に歌う主は、次郎太刀から見ればなかなか愛らしかった。
「奇特だねえ〜、アンタ、飲めもしない酒宴にいても楽しめないだろうにさ〜」
「そんなことないよ。楽しそうなじろちゃんが見れて楽しい」
「んも〜、可愛いこと言うじゃん!」
酔いに任せてわしゃわしゃと猫可愛がりする次郎太刀に、髪をくしゃくしゃにされながら主は笑った。
今代の主は、歴戦の戦の将というより、神巫や巫女の方が合っているような気性をしていた。
よく祈り、よく笑い、よく寄り添う主だった。
兄ほどでなくても御神刀としての性質を反映している次郎太刀は、こういった気性の人間は嫌いではなかった。
何より、あの子が捧げる酒は美味かった。
御神酒に異国の葡萄酒とは変わり種だったが、彼女が供えるワインは、彼女の祈りがよく溶けた美酒だった。
酒とは常に、飲む者、捧げる者、いずれの本性もさらけ出させる妙薬だ。ただただ喜んで欲しいからと祈る彼女の裏のない気持ちを舌で味わえば、あの子を嫌う理由なんてアタシには無かった。
「ねえ、アンタ。物は相談なんだけどさ」
「なぁに? お酒もっと要る??」
「そうそう、次郎ちゃんもっと飲みたい〜、じゃなくて」
次郎太刀は破顔した。
「アタシの兄貴、ここに呼んでみない?」
「……おや。現世に呼ばれるとは」
視界を覆うほどの桜吹雪の舞う中、太郎太刀はそう独白しながら顕現した。
「私は太郎太刀。人に使えるはずのない実戦刀です」
故に貴方にも扱えないでしょう。そういった拒絶と諦観の意味合いを込めて名乗りを上げた次郎太刀の視界には、桜吹雪の消えゆく中、今代の主となるべき人と、弟である次郎太刀が笑顔で立っていた。
機嫌よく酔っ払いながら手を振る次郎の横で、主となる女性が嬉しげに微笑んでいた。
「ちょっと気難しいところはあるけど、そこはアタシが取りなすからさ」
次郎はそう言って朗らかに主に笑った。
「会ってやって欲しいんだ。きっとアンタにとっても、兄貴にとっても、良い結果になると思うんだよねえ」
「初めまして、太郎太刀。じろちゃんのお兄さん。会いたかった」
太郎太刀を顕現させた主は、そう言って無邪気に笑った。
弟である次郎が勧める祝い酒の酒盃を煽りながら、しばし無言で酒を煽った太郎太刀は、最終的には結局、主となる彼女の求めるまま、あれこれ語ることとなった。
そう、己を呼び出した彼女は、太郎太刀の語る話をとかく聞きたがった。
この本丸では、先に赴任した石切丸から、御神刀としての知恵を授かることはあまりなかったらしく、太郎太刀が様々な教えを授ければ、彼女はことごとく目を丸くして、熱心に興味深そうに耳を傾けていた。
「記念日や節目を大事にすることで、神威はよりいっそう高まるのです」
「そうなの?」
「ええ。付喪神は九十九神とも書きます。作られて九十九年経った物が、霊格を得るという意味です。しかし、付喪神は必ずしも、九十九年の時を境に霊格を得るわけではありません。この九十九とは、節目を指しているのです」
酒を煽り、いささか滑らかになった舌の赴くまま、太郎太刀は語った。
「節目を意識する、とは心に楔を打つ行為です。心に区切り、日を境に記憶する、という行為そのものが、刀剣男士にとっては存在を確かにするのです」
「存在を、確かにする?」
「そう、物語、逸話、どれも必ず人と在ります。流れゆくその時間を、ここと定めて楔を打ち、その身に記憶すること。節目を意識し、記念日を祝うことは、刀剣男士にとって最も重要な『逸話を得る』ということに近い性質を持っているのです」
くっと盃を煽り、かつんと太郎太刀は酒盃を置いて締め括った。
「環境や、経験、出会い、さまざまな出来事に影響を受けるのは、人も付喪神も一緒ですから」
次郎は機嫌よく拍手し、しこたま酔っ払いながら
「いーじゃん兄貴、先生役も意外と似合ってるねえ〜」
などと手を叩きながらケラケラ笑った。
弟のその言葉をきっかけに、彼女はいつからか自分を「たろちゃんせんせーだ」と呼ぶようになった。
そうして彼女は、気難しい太郎太刀の後ろをトコトコとひよこのようについて回り
その度に「たろちゃんせんせー、今日も色々教えて」と笑った。とかく、とかく、彼女は太郎太刀の話を聞きたがった。
とは言っても、太郎太刀が語れる逸話は、結局のところたった一人の男に帰結する。
人間にはとても扱えない大きさ故に奉納された太郎太刀は、ただ一人、唯一、その男だけが振り回すことが叶った、そういう刀であったから。
「その人がいなかったら、今のたろちゃんせんせーに会えなかったってこと?」
「……言われてみれば、そういうことかもしれません。私を実践刀として扱えたのは、あの男だけでした」
「じゃあ、今日のお祈りは、その人のために祈るよ」
彼女はそういって嬉しげに微笑んだ。
「たろちゃんせんせーに会わせてくれてありがとうって。どこかで聞いててくれるかもしれないから」
「…おかしなことを言いますね。貴女にとっては、見ず知らずの男でしょうに」
「え? だって」
太郎太刀の主は、嬉しげにパッと破顔一笑した。
「大事なひとを大事にしてくれた人だよ、じゃあ私の大事な人だもん」
「あ〜あ、兄貴もやられちゃったんだ」
主がととと、と走り去っていった後、酒に浮かれて兄の肩に腕を回した次郎太刀が、にやにやとそう零した。
「あれはねえ、とんだ刀たらしだねえ」
「……いつの時代も、逸話を語り継ぐは人。我らは語られる側。語り部を失えば消えゆくが定め」
太郎太刀はそう、ぽつりと呟いた。
「だが、彼女は、我らが語る逸話を聞きたいと。────私が、あの男を語り継いでも良いのだと言う。それを嬉しいと」
「うん、あの気性は生来だね。呑ませてみなくても分かるよ、ありゃあ嘘がない」
弟がしみじみ言うのを聞きながら、太郎太刀は深く考え込んだ。
奉納された御神刀であること以上に、太郎太刀は実践刀でありたかった。
しかし、それは叶わなかった。そんな太郎太刀にとって、この本丸で実践刀として自らを振いたいという彼女の求めは、自らの要望と合っている。
彼女は、戦わぬまま本丸に長居する太郎太刀に戦いを強制せず、どれだけ高い酒を浴びるほど消費せども困った顔もせず、他の刀にするのと同じように、自由に刀解と本霊に還る選択肢を与えたままだったが。
最終的に太郎太刀は、彼女の刀になることを自ら選んだ。
太郎太刀は、一度、存在意義を失った刀だった。
自らを実践刀として振えた唯一の男を、永久に失った刀だった。
────その人がいなかったら、今のたろちゃんせんせーに会えなかったってこと?
だが、彼女といると、不思議とただの喪失に意味があるように思える。
それは、太郎太刀にとって、かつて否応なく途切れた逸話の続きを、新たに刻むことだった。
「たろちゃんッ!!」
悲鳴に近い声が上がって、弟に肩を貸されながら、太郎太刀は重傷に近い手傷を抱え、何とか帰城した。
血みどろの兄をほとんど背負うようにして、次郎太刀が苦々しく
「妙に時間稼ぎされてると思ったら夜戦にもつれ込んじゃって。迂闊だったよ」
と主に伝えた。大太刀である太郎太刀も次郎太刀も、夜戦では力を発揮できない。この本丸では主不在時、進軍の判断が刀剣に委ねられている。血に酔うわずかな油断が命取りだった。
「たろちゃん、今手入れするから!」
かんばせを哀しみに染めて、主が泣きそうになりながら太郎太刀に肩を貸した。
小さな体はとても太郎太刀を支えきれる大きさにはなく、ほとんどは隣の次郎太刀が背負ったままだったが、不思議と、太郎太刀は体が軽くなったように感じた。
(ああ、そうか)
太郎太刀は、巨大な自分の重量を、人の子が軽くすることの意味を唐突に理解した。
それこそが、自分を扱うということなのだと、太郎太刀は悟った。それはまるで。
まるで、自分を軽々と振り回したあの男との、とうに途切れた日々の続きのようだった。
「……慌てることはありませんよ」
太郎太刀は、脂汗を滲ませながらも、主に向かって穏やかに微笑んだ。
「教えたでしょう。付喪神は永遠不滅ではありません。ですが、逆に言えば、覚えていますか?」
「……『求める声がある限り、決して滅びることはない』」
「ええ」
主は潤んだ瞳でぎゅっと太郎太刀の手を握ると「たろちゃん、たろちゃんせんせー、教えて欲しいこと、まだまだたくさんあるよ」と必死に太郎太刀の名を繰り返した。
名を呼ばれるたびに、太郎太刀は、浮き足立った自分の両足が、不思議と地につくのを感じた。
(現世に未練は無かったと思っていましたが…)
どうやらそれは、ただの思い込みだったらしかった。
現世寄りの弟と違い、自分はあまりにも天上寄り。どれほど刀を振り回しても、現世に居場所など、地に足が付くことなどないと思っていた。
だが、今の自分は、こんなにも、この現世に未練がある。
心に楔を打つこと。それそのものが、付喪神にとっては存在を確かにする。
彼女はいつの間にか、太郎太刀の心に楔を打った。
(私を無理やりにでも現世に寄せてしまう……貴女は本当に罪作りな人だ)
太郎太刀は、ふ、と笑いを零した。
手入れ部屋にたどり着くや否や、主は手伝い札を必死に握りしめ、過剰なほどに霊力を込めた。
重い穢れを纏った傷が、洗い流されるように優しく癒えていく。
「大丈夫、必ず帰って来ますよ」
主の霊力に包まれながら、太郎太刀は、まるで誓うようにそう告げた。彼女の涙が、ぽつん、と刀身に落ちる。
「ほんと?」
「ええ。貴女の太刀であることが、今の私の存在意義ですから」
後に、次郎太刀は軽やかに笑った。
「兄貴はなんつーか、扱いこなせる奴がいなくなったせいでぐれてただけじゃないのかなー?」
祈りの込められた葡萄酒を掲げ、次郎太刀は青空に高らかと声を上げた。
「兄貴とあの子の未来に、かんぱ〜い!」
◇ ◇ ◇
補足:
数ヶ月戦に出るって言わなかったり、高い酒を飲みまくったり、太郎太刀側としては割と迷惑かけてみたつもりだったが、なんだかんだと太郎太刀自身の根が善良なので主にはノーダメだった。悪意の乏しい行動はあまり主に刺さらない。
お酒を供えたら代え難い知恵を与えてくれた、という意味では等価交換、むしろ格安の感覚すらあるという受け止めだった。
この審神者からすると「みんなにあげてる猶予期間」で「酒代は博多に渡してる」なのでダメージがなく、どっちかというと頭悩ませてたのは長谷部や博多たち番長組の方。
博多「酒代、酒代が飛ぶばい…! 備蓄の小判に手を付けると…!?」
長谷部「おい待て、帰り提灯に回す分を減らすわけにはいかないだろう! 近侍を万全に整えるのはこの本丸の最優先事項だぞ!?」
加州「主はなんて?」
鶴丸「『好きなだけ呑ませてあげて』とさ。酒代が足りないなら、自分が現世で稼ぐからと」
博多「それを何度もさせたくないからこうして頭ば悩ませとるばい…」
加州「主、俺たちのためなら何でも売っちゃうからな…」
《太郎太刀、戦場に出る》
太郎「この度はご迷惑をおかけしました。自分で消費した酒代分ぐらいは己の手で稼ぐつもりです」
加州「良識的だ!良いやつだ!」
鶴丸「ははは、これで博多が泣かなくて済むな」
加州「えー、ごほん。改めて、ようこそ太郎太刀。俺たちの主の本丸へ」
太郎「歓待感謝します。しかし、顕現されてしばし、戦にも出ず酒ばかり。ご迷惑をおかけして申し訳無かった」
加州「あー、まあ、そもそも主が迷惑だと思ってないから……ま、その辺をカバーすんのも俺たちの仕事だからさ」
鶴丸「ここに来る連中は、みんなしばらく自由にさせる方針なのさ。戦に出たければ出る、遠征に行きたきゃ行く、畑だの料理だのやりたきゃ好きなだけ。そうやって希望と適正を見て、相手を知って、話をよく聞いて、残る気がある連中だけが残る。合わなきゃ自由に離れてもいいって考えだ」
加州「できるだけ、嫌なこと、合わないことはさせたくないんだって。うちの体制はちょっと特殊だから、本霊に還った連中も結構いるんだけど、そういう連中と少しの間交流するのも、主は好きなんだ。帰ったからって遺恨はないし、戦力外通知ってわけでもない。また会えたらいいね、っていつも嬉しそうに笑ってる。でも、残ってくれてすごく喜んでると思うよ。あんたに色々教えてもらうの、すごく楽しそうだった」
太郎「ええ、それは、伝わってきます」
亀甲貞宗は、誉を取った褒美に好きな希望を言うように、と主に告げられた。
まだ自分を従えてまもない主に、亀甲は打ち震えるように歓喜の声を上げた。
「ご主人さま、叱ってください!!!!!」
その時の初期刀の顔は見ものだったと、後に鶴丸国永は語る。
叱る、という行為には、人格の本質が現れる。
怒るではない。叱る、だ。誰もが誰かを叱る時、必ず仮面が剥がれて上下関係が絶対的に固定される。その束縛が堪らない。
圧倒的上位に立つ瞬間、というのは、どれほど取り繕っても本質がまろび出る。
どんなに取り繕おうとも取り繕えない、裸の感情。
そういう剥き出しの気持ちを、僕はぶつけられたかった。
亀甲は、心の底からワクワクと
ご主人様からのお叱りの言葉を待っていた。
今代の主は、一目で僕を気に入ってくれたらしく、心優しく褒めてくれるが、僕にはそれでは物足りなかった。
幸いなことに、レアと呼ばれる刀でありながら、僕はこの本丸では最初期に当たる時期に鍛刀された。
つまり、若く未成熟な主が率いるこの本丸では
まだ誰も、真剣に叱責された刀が居ない。
なんということだろう!
僕がご主人様の初お叱りを独占できる!!
初期刀の加州清光が周囲を叱っている場面は多々見かけるが、いつも主はその隣でニコニコしているばかりだ。
お叱りを部下に任せて微笑むとは、なかなかゾクゾクさせてくれる。
ああ、僕のご主人様は、どんな本音を隠しているのだろう。幼げな振る舞いで、どんな罵詈雑言を聴かせてくれるだろう。
想像するだけで、堪らない!
はっ、はっ、と興奮で呼吸を荒くする僕に、近侍の加州清光が物凄い顔をしている。
初期刀NGを出すか出さないか真剣に検討しているらしき彼の横で、僕のご主人様は悩ましげに「んんんんん?????」と首を傾げた。
ああ、あの眼で、あの声で、あの喉で、あの舌で!
僕をどう叱ってくれるだろう!
ご主人さま、あなたの亀甲は悪い子です!どうぞ!お叱りを!
祈るように両手を固く組んで目をキラキラさせ、正座で主を見上げる亀甲に、主はゆっくりと、その美しい唇を開いて、舌を揺らした。
「めっ!」
ご主人さまは、この僕だけに
そうお叱りをくださった。
めっ。
めっ。
めっ!!!!!!!!
僕の中にファンファーレが響き渡り
楽園のような花畑が華やかに咲き乱れ
この世の幸福が激しく僕を包み込んだ
まるで赤子にするようなそのお叱りが
僕をまさに幼児に変えてくれる
刀剣男士として生まれた年数を数えれば遥か歳上とも言える僕を
主がたった一言で無力な嬰児に変えてしまった
なんて、なんて、堪らないんだ!!
僕のご主人様は僕を悦ばせる天才だった
ぶるぶると震える僕を見て、ご主人様は困ったように小首を傾げた。
僕は、やっとの思いで舌を動かした。
「亀甲?」
「………の………」
「の?」
「──────罵ってください!!!!!!」
「初期刀NGーッ!!!!」
加州清光に全力で鞘でぶん殴られた僕は昏倒したが、後悔は微塵も無かった。
◇ ◇ ◇
鶴丸「亀甲と千子村正に挟まれて、加州が絶望したような眼で『禿げそう』と呟いてたんで、いや、さすがに哀れになってな。初期刀様をちょいと労ってやることにしたんだが、どうやら冗談のつもりのわさび詰めひよこ饅頭はお気に召さなかったらしく今物凄い勢いで追いかけられててだな、ハハハ、やばいマジで首落とされそう!!!光坊助けてくれ!」
※鶴丸国永編は移動しました
「鶴丸国永の旅路②」
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《長谷部の旅路〜斬れぬものを斬るために〜》
この本丸は日頃、古参刀を中心に運営されている。
近侍および現世派遣担当、初鍛刀、鶴丸国永
教育番長、初期刀、加州清光
厨番長、最古参、燭台切光忠
蔵番長、古参、物吉貞宗
勘定番長、古参、博多藤四郎
このように、近侍および番長は、初期刀や初鍛刀を始めとした古参刀で固められており、古参に対する信任の厚さが窺える構成となっている。
故に、へし切長谷部が新たに『総務番長』として大抜擢されたのは、この本丸においては異例と言えた。
古参刀よりずっと遅く顕現したにも関わらず、へし切長谷部は、新参と言える内から主の信任を得た。
そのことは、長谷部の誇りだった。
きっかけは、他本丸に比べて著しく書類仕事が多いこの体制を、長谷部が「非効率だ!!!」と声を上げたことに端を発する。
この本丸、主不在の間、出陣や行軍を含む多くの権限が刀剣に委ねられる代わりに、何をするにも政府に提出する書類書類書類の山である。
新しい刀が来るたび、教育番長である加州清光が、一振り一振り、書類の書き方を教える体制だった。
しかし、複雑な書類の書き方は多岐に渡り、古参でも分からなくなると、初期刀である加州に毎回聞きに行くことが多かった。
新人を育てている時期の加州清光は、面倒見の良さも災いして多忙を極めていた。その様子に長谷部が眉を吊り上げたのだ。
「おい、刀剣男士がいったい何振りいると思っているんだ! こんな小規模体制の内から全員貴様が面倒を見ていたら日が暮れる!」
そう言って長谷部はドサッと執務室に書類束を持ち込んだ。
几帳面にサインペンで書き込んだ手製のマニュアル、アクリルボードで挟んだ見本品など、ずらりと並べると、仕事場のホワイトボードに並べて貼って、加州にビシッと指を突き付けた。
「毎回いちいち番長が時間を割くな! わかりやすく参照できる見本を用意したから、教育番長らしく新人の練度上げだけに集中していろ!」
効率の悪さが我慢できない気性らしく、長谷部はこれを皮切りに新参の内から率先して事務的な改革を行なった。
幸いにして、その様子が主の目に止まることとなったのだ。
「博多の推薦通りだったね。『凄く仕事ばできる刀ばい、頼りにするといいと!』って」
主はそう微笑んで、長谷部の仕事部屋にやってきた。
にこにこと茶菓子を食べながら笑う主から直々に
「みんなから聞いたよ。長谷部、色々手伝ってくれてありがとう」
と長谷部は光栄にもお褒めの言葉を賜った。
いささか独断専行が目立つ自覚のある長谷部は、新人の自分が主人から直接このようなお言葉を賜れるとは思っておらず、「は、光栄です」と恐縮した。
この日、主は笑顔で色々なことを尋ね、長谷部もまた澱みなく答えたが、長谷部の印象に残ったのはこの質問だった。
「ねえ長谷部、書類いっぱい書くの面倒じゃない? しんどくない?」
「いえ、特に苦になりませんが」
「そうなの?」
「はい」
「仕事するの好き?」
「はい、嫌いではありません。運営の効率化を測るのは、手応えがあります」
包み隠さぬ本音だった。本能的に戦を求める刀剣男士の主流からは外れているかもしれないが、長谷部にとっては何より主命、主の役に立つことが至上だった。それが叶うのであれば極力手段は問わない。いかな汚れ仕事でも請け負う覚悟の長谷部にとって、硯の汚れなど問題にもならない。
「教育番長の加州清光、あれは多忙すぎます。新人教育はこの本丸の要。奴に鍛えられた刀が現世で主に侍るのですから、奴に雑務が集中している現状は、主の周囲に不要な雑務が集中するのと同じこと。そう考えます」
じっと見はるかすように長谷部を見つめていた主は、小首を傾げてこう聞いた。
「長谷部は、私のために加州を助けてくれた。そういうこと?」
「はい。主のお役に立てればと」
じっと黙り込んでいた主は、やがてパッと花咲くように表情を明るくした。
「長谷部、待ってて!」
と言い置いて素早く立ち上がった主は、廊下に顔だけ出して「鶴るん!」と近侍を呼んだ。確かに誰も居なかったはずの場所に、音もなく鶴が現れて、長谷部は内心戦慄した。刀剣男士である自分にも気配を悟らせずに、今までずっと側に侍っていたのか。
練度の差は歴然だった。
「鶴るん! あのね、お願いあるんだ」
「ん? なんだい?」
「長谷部の仕事ぶりが見たい。みんなと少し違うものが俯瞰で見えてるみたいなんだ。だから、近侍の仕事、手伝って貰いながら働きぶりが見たいな。いーい?」
「お、いいんじゃないか。きみがそうしたいなら、オレはもちろん構わないぜ」
「やった! じゃあ長谷部にお願いしてくる!」
くるりと長谷部を振り返った主は、とても嬉しげに「長谷部!」と声を弾ませた。
こうして近侍の事務仕事の補佐を務めるようになってほどなく、長谷部は主から正式に『総務番長』の命を受けることになる。
その理由を、主は長谷部にこう語った。
「長谷部は私のために加州を助けてくれたんだよね。みんなを助けることが私を助けることだから」
主は嬉しげに破顔した。
長谷部の主人は、自らの刀を大切にされると、自分のこと以上に、この上なく嬉しそうにする人だった。
「だから、もっといろんな刀を助けられるポジションをあげたかったんだ」
長谷部の近くに寄った主は、跪座する長谷部の手を取って、両手でぎゅっと握った。
手のひらを通して、主の祈りが伝わってくる。
「長谷部、みんなを助けてあげてほしいんだ。お願い」
「拝命致しました。お任せください。この長谷部、身を粉にして努める所存です」
こういった経緯でへし切長谷部は、新参刀の中から総務番長に大抜擢された。
これは、その後の話。
長谷部は、誰よりも真っ先に修行を願い出て主の側に侍りたい気持ちをぐっと抑え、主に与えられた『総務番長』の任を完璧にこなし続けることに注力していた。
この本丸、政府の特例制度に基づいて任務の一部が免除される代わりに、あらゆる場面で主の承認に代わる書類や決算が大量に必要になる。
それが僅かでも滞ると、主不在下での遠征、演練、出陣の特例許可が取り消されてしまう。再開可能になるのは月に一度の主の帰還の後、多大な追加の書類を主に書かせた上で、さらに次に主が来訪する月を待たねばならない。つまり、わずか一度の書類の滞りで、悪ければ二月近く、本丸の機能の完全停止を意味するのだ。
ただでさえ戦力が不足するこの本丸で、貴重な経験値を得る機会がごっそりと削れてしまうのだ。本丸で過ごす時間が限られている主にさらなる負担をかけ、なおかつ強くなれる機会をみすみす放棄するなど言語道断。
となれば、四日に渡って不在にするなど、長谷部からすればとても看過できることではなかった。
だが、長谷部の修行に先立って、勘定番長を拝命する博多藤四郎が帰還した。
商売を学び直してきた博多は、蔵番長と共に資材繰りを抜本から見直し、遠征サイクルまで含めて最も効率的なマニュアルを再作成。これによって、長谷部が担当していた業務が格段に楽に回るようになったのだ。
博多いわく、「商売は人ばい。数字だけ見ててもだめとよ。ただ全力で走ってもダメばい。いちばん稼げる休み方が肝心とよ」とのことだ。
博多が差配に手を入れると、一見無駄に見える空白がぴたりとハマる。
雑務は最小限に抑えられ、遠征は大成功が続くようになった。これには長谷部も唸らざるを得なかった。
「長谷部しゃん、俺、長谷部しゃんは早く修行に行った方がいいと思うと」
「だが、俺には主から拝命した仕事が……」
「昨日と同じことをしていても、明日は良くならんばい」
はっとさせられる言葉だった。博多藤四郎は、長谷部へ真剣に言い募った。
「考えてみんしゃい。俺の修行の順番が、みんな修行した最後──仮に一年とするばい。そう、一年後だったとして、今日稼いだ小判は、一年分が無かったことになるところだったばい」
空中でそろばんを弾く仕草をして、博多はそう損得を語った。
「逆に、俺の修行が一番最初だったら、ここにはさらに一年分の小判があったはずばい。修行で持ち帰る成果は、たとえ同じでも、早ければ早いほどたくさん役に立つと。遅きに失するのはそれだけで大損とよ」
実に明朗な主張だった。計算に基づいた博多の主張は明快で、長谷部は博多のそういった点を高く買っている。
「単に早く修行した方がいいって話とは違うと。長谷部しゃんは総務番長たい、剣はもちろん、頭ば使って主の役に立てる場面がたくさんあるはずとよ。だから、一番伸び代があるばい!」
博多は両拳を握って熱弁した。
「そのためには、早く違う場所の何かを見た方がいいはずばい。主の側で現世もたくさん見た方がいいとよ」
数字に強い博多らしく、感情論を挟まない理論的な指摘だった。
「だから、誰よりも早く長谷部しゃんが修行した方がいいと思うと」
「……だが……」
「長谷部しゃん。長谷部しゃんの代わりは居ないとよ。主はいつもそう俺らに言ってくれてるたい」
俯いていた長谷部は、はたと顔を上げた。
「長谷部しゃんにしか持ち帰れない成果があると。それを逃し続けるのは、主に大損させるのと同じばい。長谷部しゃんは、ほんとうにそれでいいと?」
長谷部はぐっと言葉に詰まった。
黙り込んだ長谷部に、博多は努めて軽やかに言葉を続けた。
「長谷部しゃんは凄か。俺がしたのはちょっと油を指す程度のことばい。総務番長の仕事の全部は、長谷部しゃんが差配するから上手くいくとよ」
博多藤四郎は、眼鏡の下で視線を鋭くした。
「だから、逆にそれが良くなか。長谷部しゃんが、遠征や出陣、内番に回ると必ず効率が落ちると」
「……わかっている。だから俺は、総務番長として主命を全うすべくだな」
「仕事の代わりと、長谷部しゃんの代わりがいるってことは別ばい。長谷部しゃん、それを間違ったらいかん」
「この前、初めて、主の現世警護に回ったと。身が引き締まる思いだったばい。ここには自分しかおらんと。主を助けられるのは自分だけ。兄弟たちはもちろん、初期刀も初鍛刀も他の古参刀もおらんと。今ここに襲撃があったら、自分だけで主ば護り切れるやろか。緊張したばい」
「けんど、主はちっとも気にしなかったとよ。加州しゃんも鶴丸しゃんもおらんとに、いつも通り楽しそうにしとったばい。不思議でしょうがなか」
「俺、主に聞いてみたばい。主は笑ったと」
「『信じてる』って笑ったばい。俺だけじゃなか、『みんな、必ず護ってくれるって信じてるから』って言い切ったと。そのあと、冗談めかしてウィンクしたとよ。『だから心配するだけ損だもん。博多も損は嫌いでしょ?』って」
「長谷部しゃん。主は長谷部しゃんのこともきっと信じとるばい。それに応えてあげて欲しいとよ」
長谷部は、本来ならここで
すかさず「何を。俺は誰よりも主のことを信じている」と言い切らねばならなかった。
だが、その言葉は喉に張り付いて、上手く言葉にならなかった。
そんな長谷部の様子に、博多は苦く笑った。
「長谷部しゃん、俺ば、長谷部しゃんがどうして修行を嫌がってるか、少しだけ分かる気がすると」
「だからこそ、長谷部しゃんは修行に行くべきだと思うとよ。主のためにも、長谷部しゃん自身のためにも」
博多が去った執務室で、その晩、長谷部は長谷部らしくもなく、必要な仕事の手をただ止め、長く長く、思い煩った。
この本丸で、長谷部はかなり後の方に顕現された。
古参刀たちは皆修行を済ませ、とても一朝一夕では築けないほど高い練度を誇っている。初期刀である加州清光、初鍛刀である鶴丸国永はおろか、博多を含む古参刀十五振りと長谷部の間にも、覆しようがないほどに、歴然とした力の格差がある。
この遅れを、この本丸では埋める手段が無い。
ここでは、主が不在の間に出陣できる刀数に限界があり、教育番長である加州清光が、新人を中心に叩き上げる仕組みを取っているからだ。既に長谷部はその体制から外れている。今この本丸で最も強くなるべきは、長谷部ではなく、より新しい新参刀だ。
長谷部は、決して、決して口にはしないが
主の最たる臣下の座を望んでいた。だが、それは叶わぬことであることも正しく理解していた。
初期刀や初鍛刀との差は、あまりに遠い。古参にすら勝てぬ自分に、何ができよう。
だが、主は、他の全ての古参刀を押し除けて、新参刀である長谷部を『総務番長』の座に置いてくださった。
『長谷部、長谷部がいい。お願いしたいな』
主はそう仰った。他の誰でもなく、この長谷部が良いと。
だから、長谷部は修行ではなく、この役割で主の最たる臣下の座を得られるように努力した。
固執と言っていいほどに。
本当は分かっていた。
総務番長の座に固執するのは、主のためではない。自分のためだと。
長谷部は、たった四日。たった四日であっても。
自分の代わりが誰かに務まるなどと、決して主に告げたくなかったのだ。
──── 主は長谷部しゃんのこともきっと信じとるばい。それに応えてあげて欲しいとよ
結論が出たのは、明け方だった。
折しも、月に一度の主の帰還の朝だった。
「主、大事なお話が」
長谷部は修行に出た。
結論から言うと、本当に博多の言う通りだった。
修行に出ることは、今、何より必要なことだった。
過去に囚われた長谷部にとっても、長谷部の帰りを待つ主にとっても。
かつて織田信長が、長谷部を直臣でもない男に払い下げたのは、卓越したその男の能力を誰よりも警戒していたからだった。
だからこそ、最大限機嫌を取るために、この自分を贈った。蓋を開けてみれば、それが突然長谷部が放り出された絡繰だった。
ならばこそ、大事にしていた俺である必要もあったのだろう。
長谷部が長く抱えていた元の主人へのわだかまりが解けた今、長谷部は自分がいかに狭窄した視野の中に居たか気付くことができた。
そう。長谷部は、ずっと主を疑っていたのだ。
どれほど尽くそうとも、いつか、主は自分に興味を失って、他の刀で構わないと思うのではないか、と。
かつて突然自分を手放した、元の主のように。
自分という刀の価値は、その程度なのではないかと、長谷部は長谷部自身をずっと疑っていた。
そう、自分を疑うことこそが、長谷部を信じる主を疑うことだった。
「俺は、あまりに不甲斐なかった」
そう痛感するばかりだった。
自分の出自を見つめ直し、自分が払い下げられた経緯を知り、眼前の霧が晴れたようだった。
長谷部は、今まで自分に取り憑いていた
疑いという名の呪いを断ち切ることに成功した。
そして、痛感したのだ。
ただ『信じる』というそれだけのことの、たとえようもないほどの難しさを。
頭を冷やしてみれば、あまりに簡単なことだった。たった四日、己の仕事の代わりが務まるからと言って、決して長谷部を放り出すような主ではない。
ただそれだけのことを揺るぎなく信じるために、長谷部は本当に長い間、足踏みしてしまった。
そんな不甲斐ない自分を、思えば主はただ待ってくださっていた。
他の者に比べて修行に出るのが遅れている長谷部を、主はただ「いつもありがとう」と両手を握って微笑むことこそあれ、急かすような素振りをしたことは一度も無かった。
今なら分かる。それは、強さに期待されていないからでは決して無い。
信じてくださっていたからだ。
信頼する長谷部の選択なら間違いないと、主はいつも信じてくださっていた。
呪いの解けた目で振り返り、思い返せば思い返すほど、主が与えてくれる言動の端々には、『長谷部を信じてるよ』というメッセージがあったように思う。
長谷部が振るう差配のどんなことも。じっくり耳を傾け、長谷部が選んだそれが最善なのだと、いつもいつもいつも、主は信じてくれていた。信じてくださっていたのに。
信じる。ただ、信じる。
その喩えようもない難しさよ。
そんな途方も無い信頼を、主は長谷部にずっと与えてくれていた。
主のその資質は、決して当たり前のものなどではない。
本丸の運営とは、主のように他に寄る辺の無い者にとって、正しく命綱だ。本来なら、疑いに疑いに疑いを重ねるべきものだ。
子供のような無邪気な振る舞いにわざと隠してはいるが、その意味を知らぬような、浅慮で無知な主では決して無かった。
だが、主は疑わない。信じる、と固く心を決めた者にしか、そのような振る舞いはできない。
それを長谷部は修行に出て初めて知った。
主は当時、まだまだ新参者だった長谷部を抜擢し、本丸の核となる運営を委ねてくださった。
その信頼に応える方法は、決して仕事を忠実にこなすことだけではなかったと今なら分かる。
「帰ろう。俺の主のもとへ」
そして、長谷部もまた、伝えねばならない。
与えられた信頼という金貨に吊り合うだけの
固い固い、決意の意思を。
信じるとは
疑わぬと心を決めること。
疑心を斬り捨てる勇気のことだ。
信用のおける相手だから信じるのではない、それはただの判断だからだ。
相手がどうあれ、信じたいから信じるのだと。
迷わない主の背中を見てきた長谷部には、今ならば分かった。
長谷部は帰って来た。
修行前は斬れなかったものを斬れるようになって。
「ただいま戻りました、主」
だが、問題はその後だった。
長谷部が切れ味を増して帰って来た頃から、主が時折、憂い顔を見せるようになったのだ。
なんと言えば良いのか、いつだって底抜けに明るい笑顔ばかり見せてくれていた主が、時折哀しげな笑みを見せるのだ。
長谷部は困惑した。どこか申し訳なさそうなその笑みに、長谷部は一切心当たりがない。
その答えを知ったのは、ずっと後になってからだった。現世で二人きりの時を見計らって、意を決して長谷部が尋ねたのだ。
主は、いつか訊ねられることを覚悟していたみたいに、泣きそうな顔でこう答えた。
「長谷部に、ずっと謝りたいことがあったんだ」
そう打ち明けた主に、長谷部は目を丸くした。
「この長谷部、謝られるようなことは何も無かったと思いますが……」
「正確には、これから謝らなきゃいけないこと」
自らの膝の上で、主はぎゅっと両拳を握った。
「この本丸は、要人警護本丸だよね」
「はい」
「だから、私が天寿を全うした後は、本丸は政府に帰属、知らない誰かに払い下げられる契約になっている。……もちろん、長谷部も」
皆が知るこの本丸の大前提を主から改めて口にされ、長谷部ははっと大きく目を見開いた。
「ごめんね、長谷部の願いを叶えられない主で」
ひどく申し訳なさそうに、主は唇を噛んだ。
「長谷部はきっと、もう二度と、他人に自分を払い下げられたくなかっただろうに」
長谷部は大きく息を呑んだ。
そのことを、ずっと主は申し訳なく思っていたのだと。
長谷部にとっての『払い下げられる』ということの意味を改めて知ってからずっと。
ずっと主は心を砕いてくれていたのだと、やっと長谷部は主の真意に気付いた。
点と点が繋がるように、長谷部はようやく主の意図に気付いた。
ずっと、長谷部のためだったのだ。
いつか直臣でもない誰かに払い下げられることが決まっている長谷部が
あの男の手を離れた日のように、思い煩わずに済むように。
思えば主は、長谷部にいつも言葉を尽くしてくれていた。総務番長に任じられた際も、なぜ新参の自分にそのような重要な任を任せてくれたのか、何を期待し、どんな意図があるのか。命令一つすれば十分だと常に態度で示す長谷部に対し、それでも、いつも丁寧に、包み隠さず伝えてくれた。
それは、主の飾らない気性そのものだと考えていたが、果たしてそれだけだっただろうか。
修行から帰ってからはなおのことだった。初めて現世警護を果たした晩も、主は、どんな意図で笑って皆と将棋や碁を交わしているのか、長谷部には事細かに、意図を最初から伝えてくれた。
あのとき主は言った。
『みんなそれぞれ、見せる私が違う。それは、信頼してるしてないの差じゃなくて、伝えたいメッセージが違うからなんだ』
全て、長谷部のためだったのだ。
いつか手を離れるその時に備え、自分が長谷部を大切にしていたことを常々伝えるために。
手放される日が来る長谷部が
決して自分の価値を疑わなくて済むように。
「ごめんね、長谷部、ごめんね」
「主、そのようなお顔をなさらないでください」
長谷部はハッと自分を取り戻し、慌ててそう答えた。
「充分です。主はこれまで、俺のためにずっと心を砕いて下さった。臣下としてこれほど幸福なことがありましょうか」
「……ちがう、ちがうんだ」
ぽた、と主の白い手に雫が落ちて、長谷部はぎょっとした。
「あるじ、」
「ほんとうは、みんながスムーズに次の主のところに行けるように、するべきなんだ」
主は決壊したみたいに、両手で顔を押さえてわっと泣き出した。
「でも、私以外の人のところへ行くみんなを想像するだけで、胸が張り裂けそうで」
長谷部は息を呑んだ。
ぽろぽろと宝石のような涙を落とす主は、哀しげにしゃくりあげた。
「私が居なくても大丈夫にしてあげなきゃいけないのに、ずっとその準備をしてるはずなのに、いざそう言われると思うと苦しくて」
「私、自分勝手だ。ごめん」
「泣かないでください、主」
茫然としていた長谷部は慌てて膝を立て、泣き震える主の肩を支えた。
「その涙で、この長谷部は報われます」
ひっく、としゃくりあげる主人を前にして、長谷部は、博多の言っていたことが今さら身に染みて分かった。
今、主の涙を拭えるのは自分だけなのだ。
その途方もない心許なさよ。
言葉を尽くすのは得意ではなかった。誰かを泣き止ませる、笑わせるとなると、とんと不得手だ。
だが、今ここには俺しかいない。俺にしかできないのだ。
「オレは幸せ者です。貴女はオレを、他の誰にも下げ渡したくないと仰った」
長谷部は必死に言葉を重ねた。
「お約束いたします。たとえこの先、貴女の手から離れる日が来ても。主が大切にしてくださった日々を決して疑わないと」
ですから、ですから、どうぞ、もう泣かないでください、主。
未来がどうだとしても
今この瞬間はあなただけの長谷部です
貴女のお役に立ちます。
なんでもいたします。
貴女の憂いを祓うためなら
何でも押し切ってみせましょう
どうか、ご命じください。
「この長谷部、不覚にも、他に貴女を笑わせる術を存じません。ですが、命令であれば叶えられます。命に代えても果たしてみせます。何でもおっしゃってください。貴女の願いを」
どうか、と長谷部は懇願した。
貴女を笑わせることができる主命を。
ぐす、と鼻をすすった主が、
「長谷部、私、誰一人損ないたくない」
と震える声で口にした。
「命を全うするその日まで、誰も失いたくない。誰も手放したくないの。そのためにずっと、ずっと力を貸して」
「お任せ下さい。その主命、何としても果たしてみせましょう」
長谷部は誓った。
この涙に報いると。
「ですから、どうか、この長谷部を信じてください。────主の願いが叶わない未来は、たった今この瞬間に斬り捨てられたのだと」
ぴた、と主はしゃくりあげるのをやめ、涙に濡れた顔を上げた。
「ほんと?」
「はい、誓って」
「……うん」
主は、雨の中で花が綻ぶように
涙でくしゃくしゃになった顔で、笑った。
「…………信じる。信じるよ、長谷部」
この時ほど、自分を誇らしく思ったことはなかった。
この方の憂いを斬る刀で良かったと。
「ふふ〜ん〜」
厨番長の燭台切光忠は、夕餉の仕込みを始めながらのんびりと鼻歌を歌っていた。
遠征を指揮しながら皆の相談役をしている燭台切を、この時間に来訪する刀は多かったが、今日は特に珍しい来訪者だった。
「おい、燭台切」
「あれ、長谷部くん、どうしたの? 厨に来るの珍しいね、お腹すいた?」
「いや、連絡だ。大和守の任務効率が落ちてる。貴様、そういうのは得意だろう。気にかけてやれ」
長谷部の口から出た思いもよらない言葉に、燭台切は目を丸くした。
「……珍しいね、長谷部くん」
「何だ、言いたいことがあるならはっきり言え」
「その、君は任務の効率や規律は重視するけど、そういうのは弱さや非効率だと思ってる節があると思ってたから」
「まあ概ね間違っとらん」
燭台切の言に気を悪くするでもなくあっさりと認めた長谷部は、こう続けた。
「だが、考えを改めた。俺も含め、本丸の刀は皆、他ならぬ主の持ち物であり財産だ」
長谷部は外に目をやった。
晴れやかな青空には、金色の優しい霊力が豊かに満ち、鳥が歌い、きらきらと輝いている。
「主があれほどまで俺にも心を砕くのだから、主の宝はどれもこの手で守らねば」
燭台切は、はたと瞠目した。
長谷部はぐるんと大きく振り返り、燭台切に不遜に言い放った。
「だが、何事も向き不向きというものがあるだろう。俺は向かん。博多と一緒に数字と書類を触っている方が性に合ってる。そういうのは貴様のような伊達連中が得意だろう。だから、さっさと何とかしておけ。いいな!」
ビシッと指をさして高慢にそう言い放ったかと思うと、長谷部は踵を返してきびきびと仕事に戻っていった。
厨の暖簾の向こうから覗き込むようにして、そんな彼の背を見送った燭台切は、一人呟いた。
「長谷部くん、変わったなあ」
「だなあ」
誰もいなかったはずの場所にふわりと音もなく降り立った鶴丸国永に、驚くこともなく「あれ、鶴さん聞いてたの?」と燭台切は穏やかに答えた。
「まあな」と答える鶴丸の神出鬼没はいつものことだ。
「こりゃ、あの石頭を変えたのは、我らが主の思し召し、ってとこかな?」
「彼女はすごいなあ」
「ま、大事だ大事だとああもニコニコされちゃあな。毒気も抜けるってもんだろ」
「ふふ」
「何だい光坊、こっちを見て笑って」
「いや、その筆頭が言うと重みが違うなあって」
「……皆まで言うなって。オレがいちばん驚いてるっての」
肩をすくめた鶴が白絹をくるりと翻した。
「大和守はオレが声をかけておくさ。立場がある加州清光には言いづらいこともあるんだろ」
「うん、僕も気にかけておくね」
「まったく、ここは良い本丸だな。主の気性を映して誰も彼も穏やかだ」
こきん、と肩を鳴らした鶴丸が、平穏な日々に一つ欠伸を落とした。
「ま、こんな日々が長く続くことを願ってやまんな」
「大丈夫さ。そのための僕らなんだから」
「だな。いいこと言うじゃないか光坊」
※大倶利伽羅の旅路は移動しました
※「大倶利伽羅と主の願い」編③
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誰かが自分の名を、強く強く呼び求めている気がして、膨大な縁の大河を辿って、太鼓鐘貞宗はその本丸へと顕現した。
「待たせたなぁ皆の衆! 俺が、噂の貞ちゃんだ!」
顕現の桜吹雪が舞い散る中、派手な掛け声と共に、太鼓鐘が目を開けると、そこには、強い祈りの気配を纏った、一人の女性が立っていた。
桜の向こうで、金色の瞳が輝く。
それがあまりに透き通った金色だから、それを太鼓鐘は一瞬、見知ったものに錯覚した。
澄んだ金色が細まって、微笑む。
「初めまして、太鼓鐘貞宗。会いたかったよ」
透き通るような金色の霊力を纏った、その女性。
その人こそが、数奇な縁で繋がることとなる、太鼓鐘貞宗の今代の主だった。
《太鼓鐘貞宗と金の瞳》
自分を呼び出した彼女の隣には、目を丸くした燭台切光忠が立っていて、太鼓鐘はわっと喜びを分かち合った。
「みっちゃん! 会えて嬉しいぜ!」
「貞ちゃん! すごいや、本当にこんなに早く会えるなんて!」
後々知ることになるが、彼女は驚いたことに、わずか一度の試みで自分を呼び出せるほど、卓越した鍛刀の才覚の持ち主だったらしい。
詳しく聞けば、この本丸はなんと初鍛刀に鶴丸国永を引き当て、鶴丸国永が物語った燭台切光忠を、燭台切光忠が語った太鼓鐘貞宗を順に、ただ一度の鍛刀で狙い通りに見事に引き寄せてみせたという。
太鼓鐘の主となる女性は、どうやらとてつもない才能の持ち主らしかった。透き通るような霊力に、多重に注がれている加護。それはこの本丸に絶えず流れている膨大な霊力からも感じ取れる。
燭台切と再会を分かち合う自分を、まるで我がことのように嬉しげに、にこにこと見つめていた彼女は、燭台切と太鼓鐘の会話の切れ目を待ってから、控えめに微笑んだ。
「あのね、わたしも貞ちゃんって呼んでいい?」
と笑った主に、太鼓鐘は
「もちろん構わねーぜ。これからよろしくな、主!」
と応じた。
ふわっと嬉しげに表情を綻ばせた主は、綺麗な女性でありながら素直な子供のようで、太鼓鐘貞宗は好感を持った。
太鼓鐘貞宗の今代の主は、わずかに赤の入った綺麗な黒髪に玉白の肌、幼なげな童顔に美しい金眼が映える、そんな、中々に派手な容姿をした女性だった。
(うん、なかなか着こなしが楽しくなるんじゃないか)
太鼓鐘の元の持ち主は伊達者の由来ともなった洒落者として有名で、その影響で自分もまた派手な服装や着こなし、主に似合いの布地を選ぶことを好んでいた。
女人は総じて程度の差はあれお洒落が好きなものだから、できればオレに色々選ばせてくれるタイプの主だといいな、と太鼓鐘はささやかな希望を持った。
嬉しいことに、その希望は叶い、彼女は結構おしゃれ好きな洒落者だった。
「主も結構派手好きだよな!」
「ふふ、いいでしょ〜!」
「おう!すごく似合ってるぜ!」
クローゼットからずらりと出された服装は、派手な色味や左右非対称なデザインが目立つが、いずれも良い布で仕立てられた良い品だ。主はなかなか衣装持ちだった。
「主は綺麗な黒髪だし、少し茶も入ってるから赤が似合うな! 服は赤と黒と、差し色で金がいいんじゃないか? 金が入ると派手だしな!」
「貞ちゃんは青と白が似合うから、並ぶとちょうど反対になるね」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ」
丁寧に手入れされている服を見るに、幸いなことに太鼓鐘の主はどうやら、日頃から物を大切に扱うタイプのようだ。服は周囲から見た自分を、周囲に見せたい自分を映す鏡。自分に似合うお気に入りの服をとびきり大切にする傾向のある女人は、他人に流されてころころと好みが変わらない。つまり、わずかな大切な人を変わらず大事にするタイプであるということだ。
太鼓鐘は幼い見た目と洒落者の気性を利用して、自分たちを顕現したばかりの主の気性を慎重に測っていた。そういったことは太刀の燭台切光忠や鶴丸国永より、短刀の自分の方が何かと都合が良い。
「アクセサリーはどうする?」
「これとかどう?」
「おっ、首飾りも赤か、いいねえ!」
衣装単体で見ればなかなか派手だが、元々の目鼻立ちがはっきりしている主が鏡の前で合わせると、さらりと馴染む。
迂闊に平凡なものを纏いすぎると逆に地味すぎるだろうから、このぐらい派手な方がバランスがいい。
どうやら太鼓鐘の主は、『自分』というものの形をよく分かっている人のようだ。
何事も身の丈が大切だ。審神者業のような閉鎖的で特殊な生業は特にそう。
太鼓鐘は両手を首の後ろで組んで、ニカッと笑った。
「いいじゃねえか、黒髪に赤に色白の別嬪さんだ。それに、金の眼がよく似合って、」
ビクッ、と突然、主の表情が強張った。
「……主?」
急に青ざめた主は、太鼓鐘の方を見て、唖然とした顔をした。
「金……色……?」
「あ、れ? 主、自分の瞳の色、鶴さんたちに見せてもらったことないのか?」
太鼓鐘は困惑しながらそう尋ねたが、主はどうやら、何を尋ねられているのか、よく分からないでいる様子だった。
(そっか、この人、本当に何も知らないまま本丸に来たんだっけ)
太鼓鐘は自分の失言に気付いた。彼女は審神者としての教育を何も受けていないのだ。ならば知るはずもないことだった。今さら気付き、太鼓鐘は「えっとな」と慌てて補足した。
「霊力って人それぞれ色が違うんだけど、それがいちばん出るのって瞳なんだ」
妙に青褪めた主を疑問に思いながら、太鼓鐘は戸惑いがちにこう教えた。
「オレたちを呼び出せるような強い力を持ってると、総じてみんな、瞳に霊力の色が移るんだよな。確かに主は赤茶の目だけど、俺たち刀剣男士から見ると、瞳の地の色より、霊力の色の方がよく見えるっていうか。主は、すごく綺麗な金色の霊力だから、────ほら」
太鼓鐘は、自分の短刀の刀身をかちりと半分ほど鞘から抜いて、青褪めた主に掲げた。
刀剣には真実の姿が映る。
白銀の刀身に写り込んだ鏡の中では
青褪めた主の大きな瞳は、元の赤茶色ではなく、透き通るような黄金に輝いていた。
ガタッと主は身を引いて、今度はもう見間違いようの無いほどに真っ青だった。
「え、主!? どうしたんだ!?」
「────なんでも、ない」
「なんでもないって、真っ青だぜ!?」
ヒュッと喉を鳴らし、主は青ざめた唇を手で覆って、カタカタと小さく震えている。
太鼓鐘は右往左往するばかりだった。
「どうした? オレ、なんか悪いこと言ったか?」
「なんでもないの、貞ちゃんのせいじゃ、ないから」
彼女は、楽しげ笑っていた先ほどまでが嘘のように、はっきりと表情を強張らせて踵を返し、太鼓鐘に背を向けた。まるで追及を拒むように。
「ごめんね、もう寝るね」
「え、」
まだ陽が落ちたばかりの時間だ。
パタン、とドアが閉じる。急に寝室に引っ込んでしまった主に、太鼓鐘はどうしていいか分からず、困惑する他なかったのだ。
その日、固く閉ざされた寝室の扉が開くことは、最後まで無かった。
「よっ、貞坊、おつとめご苦労さん。そろそろ交代の時間だぜ〜」
鶴丸国永が笑いながらゲートを潜ったのは、日付もとうに変わり、そろそろ夜が明ける頃だった。
夜の屋内で最も力を発揮する短刀から、昼の屋外で力を発揮する太刀へ。
主の生活に合わせて、この本丸では現世での近侍を事細かに入れ替えている。
軽やかな声音だが、実際の音量はとても密やかだ。
夢の中にいる主を起こさないよう、密やかな身のこなしでゲートから滑り込んだ鶴丸国永は
けれど、浮かない顔の太鼓鐘貞宗を見てとってすぐ、片眉を跳ね上げた。
「どうした、貞坊。何かあったのかい?」
「その、何かあったっていうか…」
その時、あえぐような短い悲鳴が、主の寝室から響いた。
鶴丸も太鼓鐘も、顔色を変えて身を翻した。
「今のは!?」
「主!?」
敵襲の気配はない。張られた結界に緩みはない。隠形香の効果も途切れていない。それを確認した二人は顔を見合わせた。
どうやら魘されているらしい。扉を挟んだ寝室の向こう側、何だか様子がおかしい。
ドアノブを素早く握るようにして、表情を曇らせた鶴丸国永が声を掛けた。
「どうしたきみ、入るぞ」
「ちょ、鶴さんダメだって! 女の子の寝床だぜ!? 鶴さんは外にいて!」
慌てて鶴丸国永を押し退けて、女性の寝床に置かれることの多い短刀の太鼓鐘だけが、急いで寝室に入り込んだ。神気をぶつけて触れずにドアノブを跳ね、扉を開け放つ。
ベッドに仰向けに寝ている主は、真っ青な顔のまま魘されて、「かひゅ」と細い悲鳴をあげて、夢現に自分の喉を必死に引っ掻いていた。
爪が、白い喉笛に刺さり、何度も何度も、赤い線を生む。
太鼓鐘は青くなってやめさせようとした。
「ちょ、だめだって、主、主っ!」
慌てて太鼓鐘は「起きて!」と声にしながら近付いたが、未顕現の状態では、喉を引っ掻く主の手を止めようにも、すり抜けてしまう。
急いで主を夢から揺り起こそうと、繰り返しかけられた太鼓鐘の大声に、主ははっと汗だくで飛び起きた。毛布を跳ね除けて飛び起きると、目の前の太鼓鐘が見えているのかいないのか、必死に手を伸ばしている。
「助けて、助けて!」
「大丈夫だぜ、敵襲もないし、どこにも怖いものなんて」
「こわい、殺しにくる、おかあさん、おかあさんが」
「お母さん? お母上が、どうしたんだ?」
明らかに錯乱した主の言葉に、太鼓鐘が困惑した時、ようやく主は夢現から目覚め、真っ青に青ざめた唇で「ひゅ」と短く息をした。
「どうした? 大丈夫か? 何があったんだ?」
「ゆ、め……? 貞、ちゃん…?」
ガタ、ガタガタ、と主は真っ青になって、自分の肩を抱いてがたがた震えた。
「そうだぜ、オレが貞ちゃんさ。どうした、主? 何があったんだい?」
「は、は、かひゅ、」
呼吸がおかしい。汗をぐっしょりかいた状態で、雪の中にでもいるみたいにガタガタ震えている。
あまりの様子に、ただ見ていることしかできない太鼓鐘は、触れられない手を主の両手に置いて、しばし辛抱強く主の呼吸が落ち着くのを待っていたが、落ち着く様子が無かった。
扉の外で、鶴丸国永が、全身全霊で聞き耳を立てて様子を伺っている気配がする。
彼女のあまりに蒼白な様子に、太鼓鐘はやはり自分だけでは手に余ると判断し、顔をあげ、「鶴さん、」と外にいる鶴丸国永を中に招き入れようとした。
その瞬間、まるで『鶴』の一言が引き金だったみたいに
主はハッと顔を上げて「嫌ッ!やめて!!」と鋭く叫んだ。
痺れを切らして中に突入しようとしていた鶴丸国永も、宥めようとしていた太鼓鐘も思わず固まった。
主は蒼白だった表情を泣きそうに歪め
「やだ…言わないで…」
と太鼓鐘に縋るように、投げ出した両手を布団の上で力無く握りしめた。
「あるじ…?」
「言わないで……鶴るんにも、かしゅーにもみっちゃんにも、言わないで…! 何も言わないで…!」
その声があまりに悲壮で、太鼓鐘はどうしていいか分からなくなった。
太鼓鐘は、外に繋がるドアへちらりと視線をやって、息を潜めた鶴丸国永の気配を確かめると、頷いた。
「わかった。オレは言わない」
だから、あるじ、どんな夢みたか、話せるかい?
太鼓鐘の優しい声音に背中を押されるように、主はぼろぼろと子供のように泣き出した。話の内容はめちゃくちゃで順序もバラバラだったが、太鼓鐘は根気強く耳を傾けた。
「猫みたいに金色に光って、気持ち悪いって、こんな子産んだ覚えは無いって」
ひぐ、ひくっ、としゃくり上げながら途切れ途切れに声が上がる。
「わたし、なんで殴られるのか、わからなくて…!」
涙声で上げる中身は、順番もなくバラバラで支離滅裂だったが
一生懸命聞き取って繋げれば、どことなく状況が読めてくる。
「あの日も、寝てたら、馬乗りになって、首を…首を絞められて…!」
喉を掻きむしると、あとはもう、しゃくり上げて泣くばかりだった。
「わたし、必死で逃げようとしたけど、びくともしなくて、」
「……そっか、そっかぁ」
太鼓鐘はできるだけ穏やかになるように心掛けながら微笑んで
「なあ、主。顕現の手順はおぼえてるか?」
と優しく尋ねた。
「な、今のままじゃ、背中さすってやることすらできないからさ」
彼女は太鼓鐘に促されるまま、身に付けたお守りに霊力を流した。
付喪神としてふよふよと浮遊するばかりだった太鼓鐘は、それでようやく床に足を付けることなった。
太鼓鐘は身を得ると、真っ先に主の肩を抱き寄せて、ぽすっと頭を抱え込んだ。
「ごめんなぁ、主。びっくりさせたんだな」
太鼓鐘はできるだけなんてことなさそうに、穏やかな調子で返した。ぽん、ぽん、と主の背を優しく叩いて、気が落ち着くまでゆっくり待つ。
「だいじょうぶ。ここには、こわいもんはなーんもないぜ。あったとしても、オレが全部追い返してやっからな」
やがて、泣きじゃくって荒かった彼女の呼吸が、少しずつ静まっていくと、慎重に微笑んでこう伝えた。
「なあ主、オレとお揃いは嫌かい?」
「……おそろい?」
「そうだぜ。オレと、みっちゃんと、鶴さんと、お揃い」
こつん、と太鼓鐘は主に額を合わせた。太鼓鐘の金色に、主の金色が合わせ鏡のように映り込む。
「こんなに綺麗な目なんだぜ、嫌ってやったら勿体無いじゃんか」
それを聞いて
ぼろ、とあふれるみたいに
輪をかけて主は泣いた。
「貞ちゃん…」
「うん」
「貞ちゃん…!」
「うん、ここにいるぜ」
「ほんとは、」
ひっく、としゃくりあげて、まるで決壊したみたいに泣いた。
「ほんとは、驚いたの……鶴るんが来た時……」
ただでさえ滅裂だった話題が急に自分へ飛んだので、息を潜めて聞いていた鶴丸国永は黙って肩を跳ねさせた。
「あんまり綺麗な金色だったから、だから……」
ぽろ、と透明な涙が、水晶のように床で弾けて割れた。
「おそろいの、ずっと欲しかった『かぞく』ができたみたいで…」
決壊したみたいに、わっと泣きじゃくった。
「そんなこと言って、また気味が悪いって言われたらどうしよう」
「な、鶴さんはそんな人じゃないぜ。だから、主、泣かないでくれよ」
「だから、だから言わないで、何も言わないで、お願い」
主は、何度も何度も、「言わないで」「内緒にして」と繰り返しながらしゃくりあげて
やがて、泣き疲れた様子で、明け方になってようやくことんと眠りに落ちた。
疲れ果てたような寝息が深くなる頃、最後まで扉の向こうでじっとしていた鶴丸国永は胡座を崩して無言で立ち上がると、ひどく小声で
「このまま朝まで主に付いてるといい」
と太鼓鐘に告げた。
「加州と光忠の奴はオレが上手いこと誤魔化しておくから、このまま彼女が落ち着くまで一緒にいてやるといい。その方がきっと気も安らぐだろう」
「おう」
太鼓鐘は神妙な顔でそう応じた。
毛布を自分に固く巻いて、ぬいぐるみの山に埋もれて両手で自らを抱きしめるように眠る主の寝顔に、鶴丸国永は口を開いた。
「なあ、きみ」
眠る涙の跡に、鶴丸国永は穏やかに語りかけた。
「オレはな、きみが望むなら、ままごとに興じてやってもいいんだぜ」
涙の跡を指先で拭うように、触れられない指先で目元をすくう。
「親でも、兄貴でも、叔父でも、じじいでも、好きに選ぶといい。短い人生の短い戯れさ、慰めになるなら好きにするといい。人の子の時間は短いんだ。泣くより笑うのが長い方がいいだろう」
密やかな声は、ゆっくりと積もる雪のように、しんしんと部屋に降り積もった。
「少しくらい歪でもいいじゃないか。誰だって少しの歪みはある。オレはそれを、気味が悪いなんて思わないぜ」
けど、それを伝えるのは
きみが陽の照る内にそれを言えたら、だな
まるでご褒美でもやる約束のように、そう穏やかに声を降り注がせた鶴丸国永は、次いで少しだけ苦笑した。
「うん、きみはちょっと、物覚えが悪いな。きみのためなら折れてもいいって、最初に教えてやったのになあ」
翌朝、泣き腫らした目で微笑んだ彼女は
太鼓鐘に「大丈夫かい?」と問われると
「なんだっけ、ごめん、あんまり覚えてないや」
と笑った。
太鼓鐘は主の嘘を正確に見抜いたが、「なんだ、そっか」と笑って追及しなかった。
「ん〜、良い天気だな!」と言いながら太鼓鐘が窓の外を見て大きく伸びをすると、主はまるで太鼓鐘の背中にぎゅっと懐くように身を寄せると、「あのね」と蚊の鳴くような声でささやいた。
「お揃いは嫌じゃないよ……」
「うん、オレもだぜ」
その後、幾度となく近侍を務めたが
彼女が魘されている場面に遭遇することは二度となかった。
◇ ◇ ◇
「あれっ」
修行を終えた太鼓鐘が現世で近侍を務めるのは久しぶりだった。
すると主の部屋はすっかり様変わりしていて、女の子らしいたくさんの可愛らしいぬいぐるみの山は消え、服や装飾品もぐっと少なくなり、家具や調度品も格段に減っている。
まるで引っ越したてのモデルルームのようだ。リビングには何もない。
驚くほどすっきりしてしまった部屋に、本丸設立初期の彼女の部屋を知っている太鼓鐘は目を丸くした。
「なんか、ずいぶんスッキリしたんだな?」
「うん」
主は穏やかに微笑んで「古いパソコンもテレビもDVDも手放したし、箪笥も本棚も食器棚も処分したの。服やアクセサリーも博多に手伝ってもらって売っちゃった」と言い添えた。
「ぬいぐるみもみんな里子に出したんだ。今頃新しい持ち主に可愛がられてると思うよ」
「え、あんなにたくさん集めてたのに? 布団にぎゅうぎゅうに入れてたよな?」
「夜中に怖い夢見なくなったから」
ピタ、と部屋を眺め回すのをやめて、太鼓鐘は目を丸くして振り返った。
主は広くなった部屋で微笑んで
「もう必要ないから。それに、もし見ても、貞ちゃんが怖い夢切ってくれるでしょ」
あのときはしんぱいかけてごめんね、と主は柔和に微笑んだ。
「あっ、でもね、これは売らなかったよ! 貞ちゃんがいちばん似合うって言ってくれたやつ!」
ぐんと物が少なくなったクローゼットから、お気に入りの服とアクセサリーを1セット取り出して、胸に当てて、主は踊るように笑った。
「貞ちゃん、久しぶりにファッションショーしよ! って言っても、これしか無いんだけどね」
太鼓鐘の前でくるくる回った主は、「あっでも化粧品は少しあるよ。せめてメイク変えて遊ぼっか」と笑った。
「たまにかしゅーがやってくれるんだ。アイシャドウはかしゅーが選んでくれたの」
指先でピッと目元に紅を引いた主が嬉しそうに笑う。
「貞ちゃんも遊ぶ? これね、ルージュなんだけど1本でチーク代わりにもなるんだ。これもかしゅーのオススメでね」
「オレも触って良いか?」
「いいよー。貞ちゃん赤似合うかな? ブルー系の方がいいかな」
顕現を受けて頬紅を手渡された太鼓鐘はにこっと笑って、主を手招いた。主は「?」という顔でにこにこ手招かれるまま、何にもない床の上にぺたんと座った。
「主はほんとに赤が似合うなー。だから初期刀と並ぶとよく映えて、加州さんが羨ましいぜ」
太鼓鐘は、主の髪をさらりとすくいあげて、自然な仕草で前髪をかきあげるとニカッと笑った。
紅を指ですくいあげて、主の唇にさっと差して、太鼓鐘は微笑んだ。
「うん、よく似合ってる」
その瞬間、華が綻ぶように笑った彼女の笑顔は
太鼓鐘が顕現してから、いちばん嬉しげなものだった。
「なあ、鶴さん。もしかしてさ、主に何か言ったのか?」
「んー?」
本丸に戻った太鼓鐘は、訳知り顔の鶴丸国永に尋ねたが、彼は笑ってはぐらかすばかりで何も答えなかった。
◇ ◇ ◇
こぼれ話
太鼓鐘「鶴さんが初鍛刀、って時点でもう誰も驚かねえけど、初めての短刀が俺ってのも、そこそこイレギュラーなんだよなあ」
物吉「僕ら貞宗三振りが、最初の六振りの内半分を占めていますし、だいぶ例外的ではありますよね」
太鼓鐘「改めて考えると規格外すぎるぜ。他所で言っても信じてもらえねーかもなあ」
亀甲「ふふ、こんな早い内にご主人様に迎えてもらえるなんて光栄だね」
博多「それを言うなら、最初の粟田口が俺って知ってだいぶ驚いたばい。本丸で俺が一番にいちゃんなんてそうないとよ」
後藤「俺がな〜、あとちょっとな〜、早く来てればな〜、俺が大将の最初の粟田口だったんだけどなあ〜」
信濃「たった数時間の違いとはいえ、やっぱり最初ってちょっと羨ましいよね」
静形「ふ、主の初めての薙刀は俺だな。俺の方が早かった」
巴形「ほぼ同時刻の顕現ではないか。たった数分の違いだろう。同時だ」
石切丸「まあまあ。主は、私たち古参刀の一振り一振りを、等しく頼りにしてくれているわけだから」
村正「huhuhu…他者と比べる順序に意味はありまセン。大切なのは、主から見た自分……主にどれだけ貢献するか、それのみデス」
後藤「おっ、村正、良いコト言うじゃん。だよなぁ、どれだけ他の兄弟が居ても、いちばん大事なのは、大将に最高に頼りにしてもらうこと、だよな!」
毛利「そういえば、前にあるじさまが仰ってました。この国の言葉だと『最高』は一つだけを指すけど、外つ国では最上を指す言葉はone of the most という意味だそうですよ。だからいちばん大切なものは一つじゃなくていいんだそうです」
石切丸「へえ、面白いね」
毛利「だから自分にとっては、毛利ちゃんもみんなも一人一人がいちばん大事、だそうですよ」
亀甲「ご主人様は愛のあるお人だからね」
石切丸「まったく、刀剣冥利に尽きるね」
巴形「ふむ、そうだな。どちらが先か、など些事であった。銘も逸話も持たぬ我らを、主が最も頼りにしている。なればそれに応えるのみよ」
後藤「そうだよな。あの頃と比べてだいぶ刀も増えたけど、どんだけ増えても現世で護れるのはたった一振りだもんな」
博多「現世で主が頼れるのは自分だけたい」
太鼓鐘「うん、そうだな。俺たち一振り一振り全員が、主にとって最高に頼れる刀じゃねーとな」
《宴の裏で》
この本丸では、月一の主の帰還に合わせて、盛大な酒宴が開かれる。
月に一度しか帰って来れない主は、早朝から仕事が山積みだが、この時間だけは別だ。
夜の宴では、第一部隊や内番組はもちろん、普段から遠征に出ずっぱりの第二部隊から第五部隊まで全員が一斉に本丸に帰還し、盛大に呑んで歌って食べて楽しむ。
主はその中心でいつも、とびっきり楽しげににこにこしている。
昼の書類仕事中にはなかなか話せない刀剣たちを中心に、嬉しげに交流するのだ。
そして、この宴の時、いつも彼女がする決まりごとが一つ。
酒を嗜まない主は、豪勢な食事をゆっくりと食べ終わると、宴がたけなわでも必ず一度中座して、厨番長の燭台切光忠、そして番長補佐の歌仙兼定を探しに来て「美味しかったっ!ありがとう!」と。
どんな時でも必ず律儀に言いにくるのだ。
そう、この日もまた、そうだった。わいわいと楽しげな笑い声が行き交う宴の中、彼女は歌仙の前に笑顔を弾ませて駆け込んできた。
「あっ、見つけた、歌仙! ご馳走様!」
「やあ、主、今日も宴は楽しめてるかい?」
「うん! 今日もね、すっごく美味しかった! ありがとう歌仙!」
主は満面の笑みで、あれが美味しかった、これも美味しかったと、好きなものを報告してくれる。こうまで無邪気に喜んでもらえれば、作りがいがあるというものだった。
「えへへ、美味しかった〜! お腹いっぱい! ありがとう!」
「それは良かった。腕を振るった甲斐があるってものさ」
「あのね歌仙、みっちゃん知らない?」
「燭台切なら少し前に厨に引っ込んだよ。洗い物をしてるはずさ」
「ありがと! みっちゃんにもお礼言ってくる!」
たたた、と駆けていく主を見送って、歌仙は酒盃を片手に微笑んだ。
「何回繰り返しても、日々の当たり前を決して当たり前にしない。僕らの主のああいうところは好ましいね」
「ええ、実に」
「うんうん、いいねえ、お酒がも〜っと進んじゃうねぇ!」
「貴方の酒はいつでも進むでしょうに、次郎」
そう笑った太郎に、次郎がケラケラと笑って酒を注ぎ返している。
歌仙は月を肴に一献やった。
この本丸では、いつも空気が穏やかに流れている。
「みっちゃん〜!」
「あ、ご飯終わったのかい?」
「うん! ご馳走様でした! 美味しかった! えへへ、いつもありがとう!」
「どういたしまして」
宴の明るい喧騒を離れ、少し早めに引っ込んで皿洗いをしていた燭台切光忠は、主を笑って迎え入れた。
もう少しすると、短刀たちが食べ終わった皿を下げて一緒に洗ってくれるのだが、その前に邪魔にならないよう、少し調理器具を片付けてしまいたかったのだ。
ちなみにこの本丸には、宴に「お粗末さまでした」という返事は無い。
そう返事をすると、彼女が必ず「粗末じゃないから変」と言いながらぷくっと頬を膨らませるためだ。まったく愛らしくて可愛い主だが、素敵な宴の最後に彼女のご機嫌が斜めになるのは本意ではないため、自然と消えていった。そんな優しい取り決めは、この本丸が重ねてきた刻の数だけ無数にある。
それもまた、自分たちが積み上げてきた彼女との時間の証だ。
「みっちゃん、私も一緒にお片付けしていい?」
「うん? みんなと話して来なくていいのかい?」
「もーちょっとしたら戻るけど、みっちゃんともお話ししたいから。だめ?」
「もちろんいいよ。じゃあ、お皿拭いてくれる?」
「わぁい!」
彼女は皿を布巾で拭きながら、あれが美味しかった、これが美味しかったと楽しげに口にして、何度も何度も繰り返し「嬉しい、いつもありがとう」と笑う。
燭台切が、笑った彼女の口から、楽しげな「みっちゃん」の呼び名の次に多く聞く言葉は「嬉しい」と「ありがとう」だと思う。
そんな主の気性は、初めてこの本丸に呼ばれた時からずっと変わらない。それは一見するととても当たり前のことだけれど、そんな『当たり前』をずっと変わらず持っていられる彼女の気性は素敵だと思うし、実のところ、少しだけ救われているところもある。
「うん、そろそろ短刀の子達がお皿持ってきてくれると思うから、ここは大丈夫だよ」
「わかった、そろそろ戻るね。みっちゃん、いつもありがと。あっ、最後のお皿だけ拭いちゃうね」
「……あっっ、ちょっと待って、そのお皿見た目より重、」
うっかり遅れた警告は間に合わない。
刀剣男士は皆揃って怪力なので、普段手伝ってくれる短刀とは違うのだと失念していた。
細腕には重すぎる皿に手を伸ばした彼女は、燭台切の忠告に気を取られてしまったのか、振り返りかけた瞬間に手を滑らせてしまった。
ガシャンッと皿が床で割れる。
「あちゃ、主、怪我は無……」
何気なく割れた皿から主に視線を移した瞬間、燭台切はぎょっとした。
主はその瞬間、瞬時に体を小さく丸めて、真っ青な顔で頭を庇っていた。
顔面蒼白で、小さな子供のように丸くなって、まるで何かに殴られる寸前みたいに、ガタガタ震えながら、頭を庇ってぎゅっと固く目を瞑った主に、燭台切の方が驚いて「あるじ!?」と手にしていたスポンジと洗剤を放り出した。
「どうしたの!?」
「……ぁ……」
脂汗をかいたまま、主はどこか呆然と、燭台切を見上げた。
「…ぁ…お皿……ごめんなさい……」
「そんなのどうだっていいよ、大丈夫、怪我してない?」
燭台切が肩にそっと慎重に手を置くと、叩かれたみたいにびくっと彼女は肩を跳ねさせて、燭台切の手の下で、やがてガチガチに固まっていた体の緊張をようやくほどいた。
「……ぁ……あはは、びっくりしちゃった。ごめんみっちゃん」
「大丈夫? 真っ青だよ」
「なんでもない、なんでもないよ、あはは、ごめんね! 今片付けるね!」
「でも、」
「平気平気、なんでもないの! ちょっとびっくりしただけだから。えっと、えっと……そう、音! お皿割れる音ちょっと苦手なだけ! ごめんねみっちゃん、なんでもないから、忘れて!」
「……」
まだ青い顔をしながら、ふら、と彼女が立ち上がってよろける。
片付けようと慌てて陶器皿の破片に素手で触れようとした彼女を、燭台切は後ろから抱え込んだ。
「……みっちゃん?」
「無理に笑わなくていいよ」
ぴくん、と彼女が無言で肩を跳ねさせた。
彼女の両肩を持って、くるんと踊るようにこちらを向かせた燭台切は、暗い表情をパッと明るくして微笑んだ。
「ここは僕が片付けとくから。ほら、みんな待ってるよ」
「あ……うん、ごめんねみっちゃん」
「気にしないで。さぁ」
駆けていく彼女の背中を見送って、光忠はしばし無言で立ち尽くした。
「……鶴さん、いるよね」
「……あー、すまん、立ち聞きするつもりじゃなかったんだが」
鶴丸が音もなく光忠に並んだ。近侍の彼は、たとえ本丸の中であっても、独りの彼女に危険が無いよう身を潜めて見守っていることが多い。
鶴丸は深く深く嘆息した。
「しまったな……光坊、きみ、うっかりした時、後ろ頭を掻く癖あるだろう。たぶん、引き金はそれだな」
鶴丸が痛恨といった声音で、白銀の髪をがりがりと掻いた。
「聞いた話だが、殴られ慣れてる子供は、頭を掻く動作を怖がるらしい」
「ああ……そっか、そういうこと……」
光忠は両手で顔を覆って深く深く呻いた。
「……そっか……お皿割ったくらいで殴られちゃうんだ……あんな条件反射ができちゃうくらい……? 何度も何度も………? あああ………」
悔恨を滲ませて、光忠は深々と嘆いた。
「失敗した……ほんと失敗した……僕、彼女のこと、知ってたのに……!」
「いや、オレが悪い。きみにだけは事前に忠告しとくべきだったな。迂闊だったぜ、すまない」
「僕こそごめん…」
沈んだ声を出した光忠は、やるせなく呟いた。
「すごく、もどかしいな…どうにかしてあげたいのに、何もできなくて」
「そうだな、彼女自身が手出しを拒んでる」
鶴丸は心配げに、ちらと視線をやった。
「悪い夢を見なけりゃいいが」
「あれ? 毛利、お前、今日は不寝番じゃなかったか?」
「それが」
毛利は、ちら、と視線を奥へやった。
どっと笑い声がして、後藤は襖の向こうに目を向ける。次郎太刀と太郎太刀、そして日本号、酒好き連中が徹夜で騒ぐ酒呑み部屋に、珍しいことに主がいる。
「あっれ、珍しいな、大将がこんな遅い時間に呑み部屋にいるなんて」
「うっかり食べすぎてお腹苦しいから、もう少しお腹がこなれるまで起きてると仰って」
「あー、歌仙が番長補佐になってからますます飯豪華になったもんなあ。わかるわかる、つい食いすぎるよなー」
ふわ、と欠伸を一つ落とした後藤は、「大将が寝床に着くまで代わってやろうか? 仮眠取ってきてもいいぜ」と親切に申し出たが、毛利は「いえ…」と歯切れ悪く断った。
「少し心配だから……」
「ん? なんかあったのか?」
「いえ、そうじゃないんですけど、なんだか、……うまく言えないんですけど」
後藤はもう一度、開けたままの襖の向こうを覗き込んだ。日本号の宴会芸に、主は楽しそうに腹を抱えて笑っていた。
「? いつもの大将に見えるけどな」
「そう、ですよね。僕の考えすぎかも」
ぐがー、ぐがー、と日本号が高いびきをかいている。
太郎太刀も空の盃をあぐらの中に落としたまま、柱に寄りかかってぐっすり眠り込んでいる。
次郎太刀は「あーあ、兄貴も号ちゃんも潰れちまったし、そろそろお開きかねえ」とぼやいた。夜半もとうに回り、どちらかといえば明け方の方が近いような時間帯だ。
「あんたはいいのかい? 明日も現世で仕事だろう?」
「あ…そうだよね」
笑ったまま少しだけ視線を落とした彼女に、次郎はちらりと目をやると、酒瓶を引っ掴んで、ぐいっと肩に腕を回した。
「次郎ちゃんまだ呑み足りない〜! はいあんた、ほら、おちょこ持って」
「あ、じろちゃん、わたしお酒は」
「ふりだよふり! きーぶーん! 独りで呑むの次郎ちゃんつまんなーい。ほら、ぐいーっと」
ケラケラ笑う次郎に促されて、空っぽのお猪口を覗き込んだ主は、ぐいーっと空の盃を煽った。
「よっ! お嬢さん、いい飲みっぷり! もういっちょ」
次郎が空の徳利を傾けて、主は笑ってもう一杯煽った。ケラケラ上機嫌で手を叩く次郎につられて、主は笑った。
「いいねえ、良い感じに酔いが回ってきただろ?」
「ふふ、ちょっとぽかぽかするかも」
「そうそう、いい調子だ。んじゃ景気付けにもう一杯! かんぱーい!」
なみなみと注がれた盃と、空のお猪口が高らかに音を立てる。
揃ってぐいーっと煽った次郎と主は、同時に「ぷは!」と声を出して笑った。
「あはは! 楽しい!」
「だろだろ〜? これぞ命の雫ってね! 魔法の万能薬ってやつさ」
次郎太刀は赤ら顔で、盃を高らかと掲げた。
「酒はなんにでも合う! 楽しい話もめでたい話も恥ずかしい話も、悲しい話も苦い話も、酒さえありゃイイつまみってもんさ。だろ?」
次郎はにんまり笑って、主の肩に腕を回してぐいっと抱き寄せた。
「ど〜れ、この次郎ちゃんが話を聞いてやろうじゃないのさ〜。酒飲んで忘れたい話のひとつやふたつ、あるだろ? なーんでも言ってみなさい」
「あ、えっと」
「んー? ほーら」
機嫌良さげに暴露話を待つ次郎に、主は迷うように少しだけ視線をうろりと彷徨わせた。
「その、」
「うん」
「えっと、」
「うんうん」
「…………えっと、その、……みっちゃん、に」
次郎の見ている前で、彼女は青褪めた唇を少しだけ震わせ、次の瞬間、にぱっと笑った。
「この前、鶴るんと一緒にこっそり麦茶とめんつゆすり替えたら、すっごく怒られちゃった!」
「だははは!」
腹を抱えて笑った次郎に、彼女はにぱっと無邪気に笑った。
「そろそろ眠くなってきちゃった。明日も仕事だし、さすがにそろそろ寝るね」
「うんうん、またアタシと呑もうじゃないさ」
「うん! ご馳走様! またね、じろちゃん! おやすみ〜!」
笑顔でぶんぶんと手を振って去っていった彼女を見送って、次郎太刀はいつまでもにこにこと手を振り返していたが、足音が完全に遠のいて消えると、ことん、と静かに盃を置いた。
ぱち、と日本号が、酔いの欠片も無いような目で瞼を開けた。
「逃げられちまったか」
「失敗しちゃったぁ〜、途中まで上手くいってたと思ったんだけどなあ」
「芝居がくせえんだよ。ありゃもうちっと空気に酔わせねえとダメだ」
「ダメかあ」
ゆっくりと静かに身を起こした太郎太刀が、慰めるように次郎の盃へ黙って徳利を傾けた。
彼女がとぼとぼと寝床までの廊下を歩いていると、曲がった角、渡り廊下の向こうに、見慣れた白い影が座っている。
あ、と足を止めた彼女は、顔を上げた鶴丸に
「よっ」
と軽やかに笑いかけられた。
「おっ、きみも夜更かしかい。これだけ月が明けりゃなあ」
真っ赤にのぼせた顔で、鶴丸が廊下を縁側代わりに座って酒を煽っている。強い酒の匂いが漂ってくる。
「良い月夜だな。十六夜を肴に月見酒ってわけさ」
きみも一緒にどうだい? と軽やかに誘われて、彼女はこくんと頷くと、すとんと鶴丸の隣に腰を落とした。
「ほら、ここからだと良く見えるだろ?」
鶴丸が視線をやった向こうには、少し欠けた望月が煌々と輝いている。
「ほんとだね」
「ふふん、実はもっと良く見える驚きの場所を知ってるんだが、気にならないか?」
「驚きの場所?」
「そら、お嬢さん、お手をどうぞ?」
悪戯めいたウィンクと共に、鶴丸国永が手を差し出した。
吸い寄せられるように手を伸ばし、次の瞬間、ダンスでもするようにパッと両手を掴まれた。
「そらっ」
「わっ!?」
両手を掴んだまま、鶴丸はぐるん!と踊るように体を回すと、そのまま主を背におぶった。
鶴丸は軽々と主を背負うと、駆け出して庭の樹を蹴って飛び上がった。宙を舞い、たちまち屋根の上に出た。
「ははっ、驚いたかい?」
「あはっ、びっくりした!」
「さすがに暗い上に足場が悪い、このままで。そら、西を見てみな」
鶴丸の銀の髪の向こうに目をやって、彼女は「わっ…!」と感嘆の声を上げた。
「絶景だろ?」
金色の月は煌々と輝き、山々とのコントラストが美しかった。
澄み渡る夜空にきらきらと月光が拡散している。
「なあ、そういえば、知ってるかい? 月の模様といえばうさぎの餅つきだが、蟹や獅子に見立てることもあるらしいぜ。ワニという話も聞いたなあ」
ことさらのんびりした調子で、鶴丸がゆったりと穏やかに、とりとめもない話を続ける。
「満月はほら、潮が満ちるだろう。だから月の蟹が満ち潮を起こしてる、って言われてるらしいぜ。まったく人間は次から次へと、面白い話を考えつくもんだなあ」
ゆら、ゆら、とさりげなく一定の調子で身体を揺する鶴丸に、自然と彼女の瞼が落ちていく。
「ぁ、れ…」
それを自覚するより前に、淡い眠りに引き摺り込まれた彼女は、うと、うと、と瞼を落とし、鶴丸の背で安心するみたいにくたりと脱力した。
すぅ……とやがて寝息が聞こえ始めると、鶴丸はしばらく、ただ月を見ながら黙って物静かに、彼女を優しく揺すっていた。彼女の眠りが深くなるまで。
行きとは逆に、ひどく密やかに庭へと降り立つと、軒下で待っていた毛利の前に現れて微笑んだ。
「ゆすられて眠気を誘われたんだろ。はは、思ったより上手くいって驚いたな」
ま、泣き子の寝かしつけはおぶるに限ると、昔から相場が決まってるしなぁ。
そう、とても密やかな声で、慈愛に満ちた表情を向ける鶴丸を、毛利と月光だけが見ていた。
「お酒、一滴も呑んでませんよね」
「おっ、毛利、きみ、よく分かったな。実は腹と胸にカイロを二十枚貼ってる。さすがに暑いっ」
まるで酒に上気したような赤ら顔で、鶴丸国永はニシシと笑った。色白の彼は血行の良さがよく目立つ。
「匂いのきつい酒を頭に被っただけさ。まさに浴びるように呑むってやつだなっ、驚いただろう?」
毛利が、手にした毛布を静かに広げる。
鶴丸は背を向けて身を屈め、毛利が彼女の肩に優しく毛布を掛けるのを黙って待っていた。
「あるじさま…」
「誰だって悪夢を見たくない夜の一つや二つあるさ。だが、生きてる限り、どれほど逃げても夜からは逃げられない。無駄なことと分かっていても、それでも、眠りたくない時もあるんだろう」
柔らかい毛布で包まれた彼女の背に、とん、とん、と絶え間なく緩やかに優しい振動を与えながら、鶴丸国永は穏やかに微笑んだ。
「はは、刀が揺籠代わりか。こうでもしなきゃ寝れないなんて、難儀で酔狂なもんだな。嫌じゃないが」
人の身は便利でいいな、と感慨深げに口にした鶴丸は、にこやかに毛利を振り返った。
「もう少し眠りが深くなったら寝所に連れてくさ。不寝番のきみは、そうだな、彼女の部屋の前で待っててやってくれ」
「わかりました。あの、鶴丸さん」
「うん?」
「あるじさまをお願いします」
「ん、任されたぜ」
ぺこりと頭を下げて立ち去った毛利の気配が遠のく頃、鶴丸は残月を見上げながら、静かに呟いた。
「みんな、きみを大事に思ってるんだぜ。けどきみは、笑顔以外はなかなか見せてくれないな。もっと別の表情で困らせてくれてもいいんだぜ」
その方が、驚き甲斐があるってもんだろ?
夜空の月しか聞いていない温かな優しさは、未明の空に静かに溶けて
宴の裏で静かに息を潜めながら、夜明けの時を待っている。
《光忠兄弟と薔薇の愛》
「みっちゃん、お兄ちゃんがいるの!?」
目を輝かせた主が、光忠の前に駆け込んできたのは、そろそろ皆におやつでも振る舞おうかと思っていた矢先のことだった。
小さな拳をぎゅぎゅっと握りながら、愛らしくきらきらと期待に満ちた瞳で光忠を見上げた主に。
煎餅を乗せた盆を手にしたまま、燭台切は、ひく、と頬を引き攣らせたかと思うと、バッと振り返って声を上げた。
「ねえ誰!? 主に余計なこと教えたの!?」
「号ちゃん!」
「俺だぜ」
「そうだった、きみがいるんだった…! 口止めしとけばよかった…!」
主の後ろからのっそりとついてきた日本号を見て、燭台切が「あああ〜…!もう!」と片手で顔を覆って頭を振った。
そんな様子を見て、日本号が空になった酒瓶片手に、愉快そうに笑い声を上げた。
「はは、うちの燭台切は『お兄ちゃん』って呼びたくない派かい」
「だって、みんなが見てる前で呼べ呼べってしつこくて…! 身内だけの席ならまだしも、短刀の子たちが揃って見てる前でだよ!? 粟田口の子たちに揃って生温かい目で見られる気持ちわかる!? ああ反抗期なんだな、みたいな目で優しく見守られるのほんと嫌だよ!? 格好付かないじゃないか!!」
珍しく本当にめちゃくちゃ嫌そうに顔をしかめて、重ねてそう言い募った燭台切に、日本号が指をさしながら「だはは!」と爆笑した。
日の本一の槍と名高い日本号は、豊臣家から共に福島家に渡って、黒田家に譲られるまでの間、同じ家に在った福島光忠と交流が深かった。故に、兄呼びして欲しがっては燭台切にあしらわれる、かの刀のことをよぉく知っている。
燭台切と福島の関係性は個体差が大きいようで、穏やかで良好な兄弟関係を結ぶ者から騒がしく言い合う者まで様々らしいが、どうやらこの本丸の燭台切に『お兄ちゃん』と呼ばせるのは至難そうだ。
格好の酒の肴を見つけた、そんな調子で笑う日本号の横で、光忠の大事な可愛い主が、とても嬉しそうな顔でニコニコと燭台切を見守っている。
はたと気付いた光忠は、慌てて彼女の両肩を持った。
「ちょっ、っと待って、確か軍議で、次に太刀の戦力を補充するって話が、もしかして」
「うん! 呼ぼうって号ちゃんと話したの!」
「でも季節行事は今、……あっ!? そういえばこの前のお知らせで初めて鍛刀時期に入るって…!?」
「みっちゃんのお兄ちゃん、会うの楽しみだなぁ!」
「待って、ほんっと待って、ねえ、考え直さない!? ねえ!? 長船の太刀なら他にもたくさんいるよ!? ね!?」
「みっちゃんのお兄ちゃんがいい!」
「ねえ待って、せめて彼じゃなく実休さんにしない!? きっと織田の子たちが喜ぶよ!?」
「だはは! 今鍛刀時期じゃねーだろ! どんだけ嫌なんだ!」
光忠はその後も、彼女の気が変わるようあの手この手で言葉を重ねたが、結局ニコニコと楽しそうに笑う主の意向を変えるには至らず、彼女は瞬く間に総務番長の長谷部や資材や予算を管理している博多にも話を通してしまって、光忠は「ああああ」と頭を抱えた。
もうすっかり彼女の頭の中では、新しい刀を組み入れた編成や計画が仕上がってるらしい。
こと一度決めると迅速で非常に思い切りの良い、自らの主人の実行力の高さを嘆く他なかった。
なにせ、これまで彼女が鍛刀で呼べなかった刀はいない。天下五剣ですら一発で呼び当てたのだ、間違いなく彼は来るだろう。
せめて、思慮深く人前であまり『お兄ちゃん』呼びを強要しないタイプの個体差で来ることを祈るばかりだった。
そんな光忠の様子を他所に、鶴丸国永が両手を裾に入れながら笑って寄って来た。
「はは、きみらしくもなく墓穴を掘ったな」
鶴丸がそう笑い声を上げたので、燭台切は意味が分からず「え?」と聞き返した。
「どういうこと?」
「なぁに、我らが主の例の鍛刀は、ちょっとばかし都合が良すぎるだろって話さ」
鶴丸がニッと光忠に笑いかけ、千年の深謀遠慮の一端を詳らかにするように片手を広げた。
「考えてもみろ。この本丸に呼ばれた連中は、どいつもこいつも穏やかで和を尊び、戦一辺倒にならず内政に目を配る思慮深い連中ばかり。宗派の違いから無作法になりがちな主の所作に眉をひそめる者もいないと来た。いくら個体差があるからって、妙に彼女に都合が良すぎるだろ?」
「それは、……確かに……」
「そこでな、今までのパターンを洗ってみると、絡繰が見えてくる。たとえば歌仙。キリシタンに詳しい刀剣男士を彼女が求め、それに応えた歌仙兼定は、他の個体より際立って和を尊び、他の連中と交流が豊かで、キリシタン文化に造詣が深い上に、礼儀に寛容なようだ。つまり彼女は、求める性質が強い刀剣男士を自ら引き寄せてる」
それを聞き、光忠は、自らの顎に手を当てるようにして考え込んだ。
「そっか、彼女の『幸運』が及んでる範囲って、単に呼んだ刀が確実に来るって範囲を明らかに超えてるんだ……言われてみれば、思い当たることがたくさん……」
「鍛刀する前に、必ず該当の刀剣男士について詳しく話を聞いてから呼ぶだろ? 彼女、こう言ったぜ。『イメージできないものは上手く引き寄せられないから、詳しく話を聞く』とな」
鶴丸が軽やかに片目を瞑って、パチンとウィンクして光忠に笑いかけた。
「つまり彼女、イメージにより近い気性や性格を備えた刀剣男士を無意識に引っ張ってるぜ。で、だ。今呼ぼうとしてるきみの縁者について、彼女が知ってる情報と言えば────?」
「……あ!?」
そこまで紐解けば、燭台切にも遅ばせながら結論が見えたらしく、慌てて踵を返して鍛刀部屋に走った。
「ちょ、主、ちょっとタイム!!」
駆け込んだ燭台切の制止も虚しく、ちょうど新しい刀が顕現された所だった。
新しい刀は、主に挨拶を済ませ、飛び込んで来た燭台切へ、にんまりと笑った。
「よーう光忠。お兄ちゃんが来たぜ?」
「あああああ〜……!」
燭台切が頭を抱えた。おっとりペースで後から追い付いた鶴丸が、必然の賽の目の結果を確かめて肩をすくめて笑った。
「そう、まさに『きみが嫌がる気性の福島光忠』が来る────って警告は遅かったらしいなぁ! はは!」
現れた福島光忠は、花を愛し薔薇を愛でる、実に穏やかで落ち着きのある刀剣男士だった。
長船らしく主に上品に一礼を贈ってみせる姿はなかなかに色男で、だが、こと燭台切を前にすると、にやっと笑って
「お兄ちゃんって呼んでもいいんだぜ、光忠?」
と、これなのだ。
「いやはや、うちの光忠がいつも世話になって」
「なぁに、世話になってるのはオレの方さ」
からりと笑った鶴丸を始めとした伊達の面々に、一人一人ことさら丁寧に挨拶回りをする福島に、燭台切がついに耐えきれなくなってベリッと割って入った。
「ほんっっっとやめてくれないかな!? というか、僕が嫌がるの分かっててやってるよね!?」
「お兄ちゃんとしては、こういうことはきっちりやっておきたくてな?」
「いざ僕が呼ばないとなったらこういう手で来るんだ…もうほんと嫌…!」
燭台切が呻いて、福島と鶴丸が揃って笑い声を上げた。
「可愛い弟だ、ついからかいたくなっちまってな?」
「ははは、気持ちは分かるぜ。いつも澄ました顔が振り回されてると可愛げがあっていいよな」
「鶴さん! そんなとこで意気投合しないで! お洗濯代わってあげないよ!?」
「わはは、こりゃ参った。光坊の機嫌が直るまで退散するか」
軽やかに身を引いた鶴丸が、踊るように主人に身を寄せて肩の上に肘を置いた。
「きみの望み通りの展開になったなあ」
と鶴丸が主人へ向けて、おかしげに笑った。彼女もニコニコと楽しげに笑顔を返した。
「光坊の別の顔も見たい、だったか」
「みっちゃんはいつも優しくて頼りになるから、そうじゃない一面も見せれる刀が来て、肩の力抜いてくれたらいいなって」
「で? 結果はお気に召したかい?」
「うん! とっても!」
「そりゃ重畳。光坊も報われるってもんだ」
ふっと微笑むと、次いでケラケラと鶴丸は笑った。
「本気でブチ切れた時の光坊はあんなもんじゃないからな。可愛いじゃれ合いだろ。光坊は不本意だろうが」
「ふふ」
「まっ、身内にしか見せない顔ってもんがあるよな。誰にでも」
何気ない鶴丸の言葉に、彼女は少しだけ目を見開いて
「身内にしか見せない顔、かぁ…」
と呟いた。
「恥ずかしがらないで素直にお兄ちゃんって呼んでいいぜ、光忠?」
「思うに、貴方も光忠じゃないかな!? このやりとり何度もしたよね!? そろそろ諦めてくれないかなあ!?」
「つれないねえ、いいじゃねえか」
いいなあ
ぼそっと呟いた言葉が落ちて
二振りは揃って主の方を振り返り、隣の鶴丸も含めて三振りから注目を浴びた彼女は、慌てて口を押さえた。無意識だったらしい。
「えっと、あの、今の無し」
福島は少しだけ瞬くと、すかさずにこっと人の良さそうな笑みを浮かべて、片膝をついて主に視線を合わせた。
「いいんだぜ? おにいちゃん、って呼んでも。なあ?」
「……おにい、ちゃん?」
「いいねえ」
その瞬間、目の色を変えた燭台切が、即座に割り込み、主を引っ張り込んで「ダメー!!」と言い出した。
「なんで!? 僕にも言ってくれたことないよね、そんなセリフ!?」
「あ、ごめんねみっちゃん、お兄ちゃん取られるのやだよね」
「違うそっちじゃない!! ねえなんで!? 最古参の僕にもそんなふうに甘えてくれたことないのに!?」
「はは、これが、あふれ出る『お兄ちゃん力』の差ってやつかな?」
「どこがポイントなの!? ねえ!?」
蓋を開けてみれば、福ちゃんこと福島光忠は、身内の燭台切の前でこそ、からかい慣れた少し意地悪な振る舞いが目立つものの、他の刀に対しては一貫して礼儀正しくて紳士的な、穏やかな振る舞いをする刀だった。
かと思えば、旧知の日本号の前でだけは、びっくりするぐらい甘えた態度になって、つまり福島光忠という人物は、気心知れた相手ほど素の出る、相手によって大きく振る舞いが変わる、そんな刀であるようだ。
「福島でも福ちゃんでも、好きに呼んでよ」
そう主人へ向けて微笑んだ福島の穏やかさは、無理に取り繕われたものではなく非常に自然なもので、つまりこの刀には、本当の自分というものがいくつも矛盾なく存在するのだろうな、と主は思った。
自らもそんな一面を持つ自覚がある彼女は、どこか親近感を感じた。恐らく向こうもなのではないかな、と心の中で密かに思っているが、確かめたことはない。
「福ちゃん」
「ああ、きみか」
福島光忠は、髪を風に遊ばせながら振り返って主人へ微笑んだ。
「薔薇園の増設、許可をくれてありがとうな、主」
本格的な温室を前に、福島光忠が穏やかに微笑んだ。
彼女は嬉しげに破顔して「素敵な薔薇園になって、私も嬉しい」と笑った。
顕現されてしばらく、空いた時間を使って、本丸の外れでひっそりと花壇を作っていた福島だったが、それがいつしか主人の耳に入ったらしい。彼女は土を弄る福島の横に一緒にしゃがみ込んで、にっこりと覗き込むように「福ちゃん、欲しいものない?」と笑って、福島は少し考えてから「温室を作る許可をくれないか」と打診したのだった。
「我が儘を言ってすまない。おかげで冬も楽しめそうだ」
寒さを遮る透明なビニールの向こうから、初冬の陽射しがきらきらと降り注いでいる。
美しく咲いた色とりどりの薔薇が温室に踊って、福島は一つ一つをよく見て熱心に世話をしながら、ひどく心安らかな微笑みを浮かべた。
彼女は、美しい薔薇よりもそんな福島を熱心に見上げ、嬉しげに微笑みを返している。
「薔薇ってちゃんとお世話したら一年中咲くんだね。知らなかった」
「四季咲きと言ってな、丁寧に剪定するとそこから新しい蕾が付いて咲くんだ。薔薇は花を咲かせたままにしておくと消耗する。だから鋏を入れた方が薔薇は輝くんだ。切り花も気兼ねなく楽しめる」
剪定鋏でぱちん、と薔薇を切り落とした福島が、指先で折るように棘を取っていく。
「刀剣男士の皮膚は頑丈だから棘は手摘みで構わないが、きみの場合は鋏を使った方がいい」
丁寧に棘を取り去った赤薔薇を、福島は主人にすっと差し出した。
ぱちんとウィンクした福島が「俺に薔薇を贈る栄誉をくれるかい?」と気取った調子で微笑む。
彼女は、差し出された薔薇を受け取ると、とてもとても嬉しそうに、香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
薔薇に顔をうずめた主が「懐かしい」と小声で呟いたので、福島は「懐かしい?」と聞き返した。
「あのね、ひいおじいちゃんが」
「? きみの?」
「うん。わたしがまだ二歳だった時、ひいおじいちゃんのお庭に、真っ赤な薔薇が咲いてたの」
主はひどく大切そうに、古い記憶を言の葉に載せた。
「わたしが生まれた日に植えたんだって。毎年、私の誕生日に咲くように」
「へえ、そいつは、素敵だな。一季咲きだな、そっちは年に一度だけ見事な花をつける」
「誕生日おめでとうって、わたしを薔薇が祝ってくれるように、植えてくれたんだって。すごーく良い香りでね、しわしわの大きなおててで頭撫でてくれて、嬉しくて」
多くの場合、幼児性健忘といって、三歳までの記憶は残らないことがほとんどだ。
けれど、頭の良い子供は、古い記憶を保持している傾向にある。
福島の主は、振る舞いこそ幼なげで無邪気だが、非常に智慧が回ると感じる場面が多かった。
彼女は、赤い薔薇の芳香を吸い込むと、ほろ苦い笑みを浮かべた。
「ひいおじいちゃん、その年の冬に天国に行っちゃった。ひいおじいちゃんの薔薇は、三歳の誕生日に、咲いた、けど……」
「……? 主?」
福島は、震えた唇が音を立てずに『おかあさんが』と紡いだのを読み取ったが、彼女はそのまま唇を固く噛んでしまって、パッと顔を上げると、妙に作り物めいた笑顔で、福島を見上げた。
「咲かなくなっちゃった。だから、それきり」
「けどね、薔薇の香りは、今でも大好き」
福島が渡した薔薇を、彼女は顔をうずめるように香りを深く深く吸い込んで、小さな声でこう言った。
「まるで、愛してるって言われてる錯覚を起こすから」
古い記憶を抱きしめて、いたく大切そうに、そんな言葉を吐く彼女に
福島は目を細め、どこか漂うやりきれなさを、柔和で色男な微笑みで包み込んだ。
「じゃあ、代わりに俺が贈ろう」
福島はしゃがみ込んで、ウィンクを一つ落とした。その申し出に、彼女は、ぱちくりと目を丸くしたまま瞬いた。
「『おにいちゃん』だからな。きみのひいおじいさんの代わりに、俺がきみに贈ろう」
彼女の瞳孔が、動揺するみたいに大きく開くのを、福島は見たが、指摘せずただ優しく微笑みながら、覗き込むように片目を瞑って笑いかけた。
「嫌かい?」
「うんん」
彼女は目を丸くしながら、首を横に振ると
まさに薔薇が綻ぶような、そんなふうに、幸せそうに笑み崩れた。
「嬉しい。嬉しいよ」
ありがとう、福ちゃん、と。
彼女は薔薇に顔を埋めながら俯いて、少しだけ声を震わせた。
福島はただ寄り添うように、主にそっと微笑んだ。
以来、彼女はこの薔薇園に、足繁く通うようになった。
ここの薔薇が好きだと、福ちゃんの薔薇が大好きだと、そう笑ってくれるようになった。
「また来てもいい?」とあどけなく小首を傾げる主に、福島はその度に「もちろん」と力強く答えた。
「いつでも薔薇を観に来るといい。ここは俺の場所だから、つまりきみの場所でもある。そうだろ?」
それから、幾度か目の夜のことだった。
福島は、光忠たち伊達伝来の面々と同室ではなく、日本号がいる酒飲み部屋で同室に構えている。
花の世話は朝が早い。日本号は夜な夜な他の酒好き連中と呑み交わすので、酒を飲まないと心に決めている福島はその時間、いつも通りぐっすりと眠っていた。
「すまん福島光忠、悪いが起きてくれ」
完全に夢の中だった福島は、いつの間にか忍び込んでいた鶴丸に窓越しに起こされ、怪訝そうに寝ぼけ眼を擦った。
「どうしたんだい鶴さん、今度は何の驚きだい?」
「これが良い驚きだったら良かったんだが…」
鶴丸がそう言って、弱り切ったような顔をした。
くいっと顎で指したのは、主人が寝ているはずの寝室の方向だった。
「それがな…」
どうやら、きみの薔薇園に入り込んで、泣いているようなんだ。
きみ、何か心当たりはないか。
真夜中に急に飛び起きた主が、夜闇の中を羽織り一枚でふらふらと抜け出して
薔薇園に入り込んで、「しばらく一人にして」と言ったきり戻って来ないという。
不寝番の短刀は困ってしまって
こっそり控えていた鶴丸が、福島を呼びに来たのだと。
夜闇の中、福島が薔薇園に足を踏み入れると
薔薇の影に隠れて蹲って泣いている主を見つける。彼女は息を呑んだようだった。
「福ちゃん、なんで」
慌てて涙を拭って隠そうとする彼女を、福島は目を細めてやんわりと「無理に擦ると赤くなるぜ」と告げながら指先で制止した。
黒手袋の指先をそっと目尻に沿わせて、痛々しい涙をすくう。
きみのことが心配で来たのだと口にする前に
福島は少し考えて、鶴丸が呼びに来たことは言わず
嘘にならない程度に言い回しを変えた。
「俺の花が気になって、様子を見に来たんだが」
そう福島はそっと、自らの小さな主人へと囁いた。
「どうしたんだい」
「その、……怖い夢、見て」
「夢?」
「うん、大事な薔薇が、」
じわ、と彼女の瞳に涙が浮かぶ。
「お、…」
彼女は、そう言いかけてから、ゆら、と目を泳がせた。
「お、…お、にが、」
「鬼?」
「えっと、そう、鬼、鬼が。ぜんぶ薔薇を抜いて、めちゃくちゃにしちゃう夢」
夜露に冷える彼女の肩が、小さく震えている。
福島は目を細めた。
主の唇が、音もなく紡いでいた言葉を思い出す。
『ひいおじいちゃん、その年の冬に天国に行っちゃった。ひいおじいちゃんの薔薇は、三歳の誕生日に、咲いた、けど……』
『……? 主?』
福島は、震えた唇が音を立てずに『おかあさんが』と紡いだのを読み取ったが、彼女はそのまま唇を固く噛んでしまって、パッと顔を上げると、妙に作り物めいた笑顔で、福島を見上げた。
『咲かなくなっちゃった。だから、それきり』
彼女の生まれ育ちが、あまり幸福なものでない様子なのは、光忠から少しだけ聞き及んでいる。
それを結びつけて考えれば、彼女の夢を荒らす『鬼』の正体は、どうやら推して知るべしといったところだろうな、と福島はすぐに察しがついた。
可哀想に。物心ついたばかりの幼い身で、優しい祝福を、踏みにじられてしまったのか。
本来なら、それを注がれるべき相手から。
そんなのは、お前など生まれてこなければ良かったと罵詈雑言を浴びせるのと変わらないだろうに。
「そうか」
福島は、彼女の隣に並んで座った。
「大丈夫さ、本丸に鬼は入って来れない。もし鬼が来たら、俺が追い返そう」
「……ほんと?」
「ああ。薔薇は咲く。何度でも」
福島は、できるだけ安心させてやれるように微笑んだ。
「何度枯れても、俺が新しく植えるよ。きみの誕生を祝う薔薇を」
彼女は、じわ、と浮かべた涙を隠すように、膝に顔を埋めた。
「……ありがと……福ちゃん……」
「さ、ここは冷える。戻ろう」
彼女の背中をそっと押して促した福島に
「……うん」
と彼女はごしごしと目を擦って、不器用に笑った。
温室の前で気を揉みながら待っていた前田藤四郎が、出てきた彼女に「主君!」と慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか…?」
「ごめんね前田ちゃん、心配かけたね」
みんなに心配かけたくないから、内緒にしてくれないかな
と言い添えた彼女に、福島は茶目っ気のある微笑みで
「いいぜ。きみがたまにお兄ちゃんって呼んでくれるなら、な?」
と笑って口にした。
翌日以降、福ちゃん、福ちゃんと嬉しげに付いて回り、懐き度合いが明らかに格段に上がっている主を目の当たりにして、光忠が手元の割り箸をバキッと片手で握り潰した。
「なんで!?」
「ハハハ、光坊、嫉妬かぁ?」
「嫉妬だけど!?!?」
からかう鶴丸に、光忠が納得の行かない顔をして「ああもう!」と天を仰いで、片手で目を覆った。
「大事に大事に育てた雛が、どことも知らぬ馬の骨に掻っ攫われた気分だよ…!」
「いやいやいや、光忠のところの馬の骨だろ」
「だから腹が立つんだよ!」
「きみ、なんでそんなに福島にだけ辛辣なんだ? 見ててだいぶ面白いな?」
そんな光忠に、福島はちらりと視線をやると、ははん、という顔をして顎を擦った。
「なんだぁ、光忠。寂しいのか。正直に『仲間に入れて、お兄ちゃん♡』って言ってみ?」
「◯×△!!!!」
「なるほど、こーゆーところか」
「可愛い弟はいじめたくなっちまってなぁ」
腑に落ちたらしく、したり顔の鶴丸に、福島が悪戯めいた笑みを返した。
燭台切の受難はまだ続きそうだ。
《光忠兄弟と薔薇の愛》end.
《閑散の厨にて二人〜燭台切と歌仙〜》
「ねえ歌仙くん、きみがこの本丸に来て、だいぶ経つけど。実はね、ずいぶん前から気になっていたことがあったんだ」
燭台切と歌仙はその日、二人揃ってゆったりと厨で洗い物に励んでいた。
この本丸で厨が最も忙しいのは、主が帰城する月に一度の宴の日。逆にのんびりできるのがその翌日だ。
今朝もこの本丸は、主人を安全に現世へ見送った。これは、そんな平和な昼下がりのことだった。
「少し、立ち入ったことを聞いても?」
「なんだい」
「お小夜ちゃんを。────きみと縁の深い、小夜左文字を、一向に呼ぼうとしないのは、どうしてなのかなって」
少しばかり洗い物の手を止めた歌仙兼定は、再びのんびりと仕事に精を出し始めた。
「そうだね。お小夜を呼ばないのは、確かに僕なりの考えがあってのことだけど」
歌仙はそう、殊更ゆったりと答えた。
晴れ空では小鳥たちが軽やかに歌を交わしている。
「別に隠していることではないからね、話すのはやぶさかではないんだが、その前に、なぜきみがそれを気にするのか、訳を聞きたいところだね」
「僕かい?」
「ああ。燭台切光忠、厨番長にして、初期刀と初鍛刀に続き呼ばれた、最古参が一振り」
そう歌仙は言葉を継いだ。
「加州清光が新人を叩き上げ、鶴丸国永が現世に派遣する体制を取っているこの本丸では、実質、きみが本丸内部の全てに目を配っている」
燭台切は、肯定の証に、控えめに微笑むだけにリアクションを留めた。
「皆の声に耳を傾け、悩みを聞き出し、良く支え、個性豊かな刀たちが無駄に衝突することがないよう、丁寧に気を配っている。この本丸に来てからいくらか経つが、感心するばかりさ。僕ではこうは行かないからね」
「褒めすぎだよ」
「事実さ。この本丸の柔和さは、もちろん主あってだが、きみの尽力が大きいのは見ていてすぐわかる」
歌仙はそう言って肩を小さくすくめた。
「僕もね、まあ叱り飛ばしてやるのは得意なんだが、きみのように、彼らの方から自然と口を開いてくれるように、というわけにはなかなかいかなくてね。勉強させてもらっているよ」
歌仙はそう告げた。彼らの思慮深さは実に雅だ。東北の田舎侍は雅を解さぬ者達の集まりだなどと、勝手に思い込んでいたかつての未熟さが恥ずかしいと今は思っている。
「知っての通り、僕は厨番長補佐の任を与えられているわけだが、単に食事処の手伝いというわけではないのは理解しているよ。彼女が真に僕に求めているのは、きみの負担軽減だ」
「苦では無いんだけど、主には心配かけちゃってるかな」
「主に一度訊ねたことがあってね。副番長でも番長代理でもなく『番長補佐』なのはどうしてだいと。彼女は微笑んでこう言ったよ。歌仙に助けて欲しいのは、厨ではなく厨番長だから、とね」
「彼女には勝てないなあ」
「まったくだ」
顔を見合わせて笑った彼らは、ゆったりとリズミカルな洗い物の音に身を任せていた。
「だから、せっかくの機会だ。きみの考えを聞いておこうかなと思ってね。ただの思い付きで立ち入ったことを聞くタチではないだろう」
「そうだね、歌仙くんがこんなに話してくれたんだし、僕が何も言わないのはフェアじゃないな」
燭台切はそう口にして、少し言葉を選ぶ仕草を見せた。
「この本丸に起きた四年間のことは知ってるよね」
「ああ、僕が来る少し前のことだったね」
ゲート障害によって、現世では五ヶ月、本丸では四年の間、主と本丸が断絶されたこの事件。それはこの本丸に、様々な爪痕を残した。
「あの時、僕は本当に思い知ったんだ。どんなに揺るぎなく頼りになるように見えていても、心揺らがない者なんていないんだ、とね」
「鶴丸国永か」
「同じ轍は決して踏めない。本来なら、いくら後方支援本丸だとしても、誰一人欠けることなく未来に行くのは難しいって分かってる。でも、彼女のその願いは、心から僕の願いでもあるから…」
「きみは、……いや、貴殿は少し、背負いすぎじゃあないかな」
「そうかもしれないね。僕は少し、記憶の個体差が強めだから、どうしても、ね」
苦笑した燭台切光忠は、「記憶にある『前』の本丸はあまり、良いところではなかったから」とぼかして言い添えた。
燭台切はすっと背筋を伸ばし、歌仙に向き直った。
「本題だけど、政府から彼が来るようになっただろう」
「山姥切長義だね」
「彼が教育係についたことで、今後この本丸の体制は変わっていくかもしれない。今まで主は、縁を辿った例の鍛刀方法以外はほとんどして来なかったけど、彼はその特殊性を隠すために『本来の鍛刀』をさせようとしているみたいだ」
「なるほど、それなら、短刀のお小夜がこの本丸に来る可能性はぐっと高くなる」
「うん、だから、何か理由があるなら、先に聞いておかなくちゃいけないと思ったんだ」
燭台切は真摯にそう言い継いで、ふっと柔らかに微笑んだ。
「もちろん、お小夜ちゃんがこの穏やかな本丸で、歯を見せて笑ったところを見てみたい、というのも本音だけどね」
「呼ばれる前からそう言ってもらえるお小夜は、幸せ者だな」
洗い物のシャボン玉がふわりと舞う中で、歌仙はふっと表情を綻ばせた。
「さて、僕はこの本丸に、キリシタン文化をよく知る文系名刀としての知恵を期待されて呼ばれたわけだが」
洗い物から手を引いて、タオルで手を拭いた歌仙は、顎に手を添えるように、思案する仕草をした。
「そうだね、これを機に伝えておいた方が良いかもしれない。彼女を見れば分かる通り、キリシタン文化は非常におおらかだ。だが、いくら寛容でも宗派である以上、禁足事項というものもある。キリシタン文化は時代を下るほど寛容さを増していく傾向にあるが、彼女の時代になっても残っている禁止事項の代表格────なんだと思う?」
興味深そうに歌仙を見やった燭台切に、歌仙は頷いた。
「『右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい』という言葉を聞いたことはないかい。つまり、キリシタンは仇討ちと復讐を禁止しているんだ」
「えっ、そうなのかい!?」
「想像できないだろう? お小夜ほどでなくても、刀の物語に仇討ちは付き物だからね。伊達家にも仇討ちの物語があるだろう」
そう、伊達政宗にも父親の仇討ちの歴史があり
一般に、刀剣男士たちは仇討ちの物語を比較的肯定する傾向にある。
「もちろん、僕たちの主なら、お小夜を疎んじたりはしないと信じているさ。でも、お小夜の方がね」
歌仙は、懸念するように苦く目を細めた。
「あの子はとても優しい子なんだ。武家文化において仇討ちは美徳とされることも多い。だから、自分を満たす復讐の物語を、あの子は勲章のように誇ることだってできた」
歌仙は目を閉じ、深く息を吐いた。
「でも、あの子は本当に優しいから、既に一度果たされた仇討ちを、他に広げることを好まない。その矛盾はあの子を苦しめる。そこに、復讐を禁じる教えに護られた主が現れたら、……お小夜は、彼女の優しさと自分の物語の狭間で、より一層苦しむんじゃないか、と懸念している」
「そっか、それで……」
「ああ、だからお小夜をここに呼ぶつもりは無かった」
すっと歌仙は顔を上げた。
「だが、もし呼ばれることとなれば、それは他ならぬあの子の縁だ。その時は、左文字の兄たちも一緒に呼んでやってほしい。そう主に進言するつもりだったよ」
「そっか……」
「それに、あの子は、ああ見えてとても芯の強い子だからね。目の前にいたら、つい甘えて頼ってしまいそうになるから」
そう歌仙は、少し照れくさそうに苦笑した。
「だから僕のことは心配無用。手の掛からないあの子と違って、叱り飛ばしてやらなくてはならない者がまだまだこの本丸には山ほどいるからね。まったく、あの子を見習ってもう少し手が掛からなくなって欲しいものだね」
「ふふ」
燭台切は柔和に微笑んだ。
「いつか、何の懸念もなく、お小夜ちゃんを呼べるといいね」
「そうだね。そう願おう」
《村正と主》
宴の最中、古参の刀たちは呑みながら自然と集まっていた。
古参刀たちは激動の本丸創設期を共に作り上げたが故に結束が固い。だからあの頃より刀が増えた今でも、刀派や所属を超えてそこそこ仲が良いのだ。
面子は三柱の創設メンバーである加州、鶴丸、燭台切に加えて、次に呼ばれた貞宗たち太鼓鐘、物吉、亀甲。そして大阪城ドロップ組の博多、後藤、信濃、包丁、毛利。
そして、刀種ごとに戦力拡充の必要があって次に呼ばれた村正、静形、巴形、石切丸までの十五振りだ。
このメンバーが集まれば、自然と本丸ができたばかりの頃の昔話に花が咲くというもので、この時に上がった話題は、主の特殊な鍛刀の由来についてだった。
「じゃあ鶴丸さんだったんだ」
「ああ。誰か自分に似た刀を呼んでみないかと、主にそう助言したのは確かにオレだな」
「確かになあ、そっくりだもんなあ、物吉と大将」
「うんうん、もちろん幸運なとこもだけどさ、気性っつーか心根っつーか、穏やかで優しいとこまで含めて、二つ揃いかってくらいそっくりだと思うぜ」
「嬉しいですが、少し照れくさいですね」
鶴丸が呼ぼうと提言したのが燭台切、燭台切が提言したのが太鼓鐘であるように。
この本丸は、ほぼ必中の確率で望んだ刀剣男士を引き当てる彼女の特殊な鍛刀により、事実上の指名制を敷いている。
そして、その指名制から外れた鍛刀産の刀は、実のところ、古参のたった五振りだけだ。
それが「物吉貞宗、千子村正、静形薙刀、巴形薙刀、石切丸」である。以降はずっと完全指名制だ。
あれはまだ、鶴丸と燭台切と太鼓鐘たち伊達刀が、たった三振りで本丸を仕切っていた時のことだ。
鶴丸が『自分に似た刀を呼んでみないかい』と主に告げたのは。
「うん、物吉っちゃんの時はね、自分とよく似た刀に会えますようにってお祈りしながら呼んだよ」
皆が赤ワインを煽る中で、酒が呑めない体質である彼女だけはぶどうジュースだ。彼女はニコニコと昔を振り返った。
あれは室内戦に有利な短刀か脇差を補充したい時期であり、まさに主の懐刀となる刀を呼ぶべきタイミングだった。
キリシタン出身であり刀剣男士や顕現の作法諸々に疎い主を受け入れてくれる刀が来る確率が少しでも上がるように、と鶴丸は一計を案じた。それが先のアドバイスだった。
「静ちゃんや巴ちゃんや石切丸の時は、自分によく似た刀っていうより、わたしのお祈りの仕方を嫌わないでくれる刀が来てくれますようにってお祈りしたかな。毛利ちゃんたちがそういうこともあるって教えてくれたばっかりの時だったから」
「ん? じゃあ村正は?」
後藤が不意に疑問の声を上げたので、皆の注目が村正に集まった。
物吉という『自分に似た刀』を願った時と、『異教の祈りを受け入れてくれる刀』を願った時の、ちょうど中間。
そのタイミングで呼ばれた千子村正は、実のところ、他の指名制の中でも一際ひどく異彩を放って浮いている。
物吉と主は確かに、誰が見てもそっくりだ。
なら、千子村正は?
「むらまっちゃんは」
ふにゃ、と彼女は眉根を八の字に落とした。
「両方だったよ。自分に似てて、わたしを受け入れてくれる刀が来てくれますようにって」
そこにいるメンバーが、揃って同時に首を傾げた。
「まあ物吉と大将はそっっくりだけどよ」
「村正?」
「んん? 似てるかぁ?」
腑に落ちずに首を捻った彼らの中で、疑問符が広がっていく。
我らが主の不可思議な鍛刀も、100%の絶対ではないということだろうか。
どう見ても似てるようには見えない二人だが
本人たちは顔を見合わせて笑う
「んーん、似てると思うよ。わたしが勝手にそう思ってるだけかもだけどね」
「いいえ、似てると思いマスよ、ワタシも」
微笑み合う主と村正に、周囲は一様に「???」という顔をした。
村正はいつも通り、どこか掴みどころの無い笑みを浮かべた。
「huhuhu…理解されずとも良いのデス。それは、ワタシと主だけが理解していれば良いことデスから」
酔っ払いたちの賑やかな宴に、何もかも戯言として騒がしく明るさに紛れていく。
後に村正は、そっと主に近付いて膝を折った。
「お互い、余計な声にずいぶん振り回されマシタね」
耳元で囁いた村正に、彼女はへにょっと眉を落として苦笑いを返した。
知ってマスか
古くから金色の眼は
不吉の象徴、人外の証と噂されるようデスよ
人の噂など当てにならないものデス
現に、ワタシたちの主は
誰が見ても『幸運に愛されたニンゲン』でショウ
デスが、彼女自身すら、ずいぶんと長いこと
心無い風聞に惑わされて生きてきたのでショウね
村正という刀が
妖刀伝説の在り方に長く振り回されていたように。
千子村正が記憶している顕現の祈りは
ひどく切実な願いだった。
どうか自分を見てくれる誰かが
外見や風聞に惑わされず、自分をまっすぐ見てくれる誰かが。
どうか、どうか来てくれますようにと。
そう願う声は、まるで寒空の下で震えるようにあまりに切実で、雪でかじかむ手に温もりを求めるかのようで。
その切実さに、どこか手繰り寄せられてしまったのかもしれないと村正は考えている。
あの日、彼女の溢れる霊力によって過剰なほど激しく舞った顕現の桜吹雪の中、村正は名乗りを上げた。
「huhuhuhu。ワタシは千子村正。そう、妖刀とか言われているあの村正デスよ。huhuhuhu……」
こうして千子村正は、顕現時に妖刀を名乗るも、主の反応は、瞬きを繰り返して小首を傾げる、という、いたく不思議そうなものだった。
彼女は一歩前に出ると、無邪気に村正の手を取って笑った。
「初めまして、ええっと、お名前」
「千子村正、デスよ」
「むらまさ……むらまさ……あなたのこと、なんて呼んだらいいかな?」
「huhuhu…好きに呼んでくだサイ。村正でも、妖刀でも」
「妖刀ってなぁに?」と首を傾げる主があまりに無垢なので、村正はいささか拍子抜けした。
「聞いたことありまセンか?」
「んんん? あんまり……ごめんね、わたし、刀のこと全然知らなくて」
本当によく分かっていないのだろう。
彼女の無垢な困惑が伝わってくる。
呼び出された祈りの形式が特殊だったことから見ても、どうやら事情がありそうだ。
それを村正は、この段階で素早く察した。
彼女は村正の手を取ったまま、ふにゃ、と無垢に笑った。
「たくさん教えて欲しいな。あなたが教えてくれたことだけを信じるから」
村正は赤みを帯びた瞳を静かに細めた。
妖刀の意味を問う無垢な主人に、村正は少し考えた後に、こう答えた。
「huhuhu…伝説的にカッコイイということデス」と。
それだけ。
たったそれだけだ。
それだけのために村正は
彼女のために力を惜しまなかった。
彼女は本当に村正のことを『伝説的にカッコイと呼ばれている刀』と認識していたし、それを疑うことをしなかった。
いや、疑わないと決めた、というのが恐らく正しかった。
たったそれだけのことで、村正は
初期刀に次ぐ練度を誇る打刀として
寝る間も惜しんだ過酷な特訓に身を投じ、深傷を負うことすらも惜しまなかった。
to be continued