@KouSyuuka
《フェルディナンド》
「クラリッサ、コレを貴女に贈ります」
「まぁ!光栄ですわローゼマイン様!!コレは何ですか?」
「ハリセンといって、相手に怪我を負わせることはありませんが、それなりの衝撃を伴う武器です。身内への叱責などに適しているのですよ。今から此処にハルトムートを呼び出しますから、合図をしたらコレを用いて全力でハルトムートの顔面をひっぱたいてくださいませ。こう、横に振り抜く形にすると良いですよ」
「かしこまりましたローゼマイン様!!必ずやご期待に応えてみせます!!」
『何かもわからないうちから何かもわからない物を貰って喜ぶな』とか、『仮にも星を結んだ夫を相手にそれで良いのか』など、クラリッサには思うところがあるが。口出しできる雰囲気でもなく、私はローゼマインとクラリッサのやりとりをただ後方から眺めていた。
あの後、ローゼマインは声を上げて泣き続けた。私の身体にしがみつくようにして、幼な子のように声を上げて泣き続けた。
だが、ローゼマインには元よりさほど体力がない。大声を上げるにも体力を消費する。しばらくすると徐々にローゼマインの声は小さく、大人しくなっていった。そして完全に静かになり、ピクリとも動かなくなり、数拍ほど経過する。私は「泣き疲れて眠ってしまったか?」と一瞬思ったほどだった。
だが、ローゼマインは急に私から体を離すと徐に立ち上がり、ツカツカと部屋の扉へ向かって歩いていった。
「ローゼマイン?」
思わず呼び止めようとしたが、ローゼマインの纏う空気が私の声を遮断した。そう思える気迫があった。
ローゼマインは背筋を伸ばし、迷いのない様子で歩を進める。
向かった先は、なんということはない、孤児院だった。
先触れなく孤児院に押し入り、そしてそのままツカツカと奥の厨房へ向かったかと思えば……
「エラ!クリームを作ってください!食べないので砂糖は使わなくて良いですよ」
何故か声高にそのような指示を飛ばしたのだ。
驚いたように一瞬ギョッとしてエラが振り返ったが、
「食べないのですか?何に使うのです?泡立てるのも大変なのですよ」
と気安い様子で口答えした。
後で聞いた話だが、この織地ではローゼマインは孤児院を完全に私物化していた。私は孤児院になど直接足を運ばなかったから全く知らなかった。だからこそローゼマインも孤児院でやりたい放題を謳歌したのだろうが。
まずこの織地で、私は記憶がなかったとはいえ、ローゼマインにフランを付けなかった。ローゼマイン、いや、当初はただのマインだった彼女のことも、すべてハルトムートに任せていた。そうなるように二人が仕向けていたのだろうが。
『上級貴族の息子が、暇潰しの戯れに、同世代の平民の娘にちょっかいをかけている』程度の認識だったため、そのようなことに私のフランを貸す道理はなかった。
ハルトムートはフランの代わりにフリッツを召し上げてマインに付け、マインは孤児院に工房を入れて孤児院長の座を手に入れた後はデリアとギルとヴィルマを召し上げて自分の側仕えとした。かつて横暴な青色神官に付いていたフリッツは、フランほど上位者の態度を窘めたりなどしない。ヴィルマもそれは同じこと。ロジーナを付けなかったのは、ロジーナならばマインに上位者としての態度を求めて口出ししてくると考えたからだろう。ギルとデリアは歳が幼いこともあり、ローゼマインが懐柔することは容易かった。
我々が孤児院に滅多に足を運ばないことを理解した後は、私の知る記憶よりも、ローゼマインは孤児院を自分にとって過ごしやすい空間へと変えていった。有り体に言えば、孤児院の者や孤児院に出入りする者には、気安く言葉を交わせる関係を築かせていた。特にエラとフーゴには様々なレシピについて直接話し合いができるように、何年も掛けて親しい関係を築いてきたらしい。
『この織地では【シャルロッテのお姉様】の地位を放棄したのですもの、このくらいの王国がないとやってられません』
と、据わった目で一喝されたが、意味が分からない。
だがとりあえず、ローゼマインはエラからの返答を受けてブツブツと何かを呟くように考え始めた。
「ハルトムートの顔面に投げつけようと思ったのですが……そうですね……ハルトムートのため(そのため)に泡立てるのも手間ですわね……じゃあ卵とか」
「ローゼマイン、流石にそれは」
ローゼマインが発した代替案と思しき単語に、私は思わず口を挟んだ。『ハルトムートの顔面に投げるもの』の代案として、クリームの代わりに卵、と聞こえたが。想像して、それはあまりに侮辱的ではないかと考える。何というか、美しくない。だが、
「ハルトムートはわたくしがヴァッシェンすると喜ぶので大丈夫ですよ」
と返されて、思わず「えぇ……」と、自分らしからぬ声が口から漏れた。
「あぁそうですね、ハルトムートは喜んでしまうのでしたね……それなら……フェルディナンド様、食べ物以外で投げつけられるもので、大怪我をしないものって何かありませんでしたか!?」
「……ハリセンで良いのではないか?」
どうしても何か投げつけたいのか?叱責ならば名捧げの効能を用いてしばし無理難題な命令をすればそれなりに苦しめることが出来るだろうが。
私はどうにもこの主従に関する問答に関わることを忌避し、おざなりな答えを返した。だが、ローゼマインは満足したようだ。
「ギル!一番堅くて大きな紙を持ってきてくださいませ!!わたくしが買い取ります!!」
「かしこまりました!!お買い上げありがとうございます!!」
即座に動ける瞬発力は、流石ローゼマインの側仕えだが、ギルも商人気質に毒されてきていないか……?
そうしてローゼマインは手製のハリセンを作り上げると、名捧げ石に命じてクラリッサを孤児院に呼びつけた。ここで話は冒頭に戻る。私はあくまでローゼマインが叱責を行うものと考えていたが。執行はクラリッサに託したあたり、私が思っていた以上にローゼマインは怒っているらしいということをこの時ようやく理解した。ローゼマイン曰く、一度名捧げの効力でハルトムートに人払いを命じ、数拍をおいてからオルドナンツでハルトムートを呼び出した。
「ハルトムート、ローゼマインです。話し合いは終わりました。沙汰を言い渡しますので、今すぐ孤児院に来てください。初手でクラリッサをけしかけますが、決して避けないように」
名捧げの効力を使えば、声を出さずとも連絡が可能になる。ただしそれは『命令』の形を取っていなければならない。『フェルディナンド様との話し合いは終わった』という情報も告げなければ、命じて呼ぶだけでは今のハルトムートは来ないだろう。そのための連絡手段としてはオルドナンツでなければならなかった。本来ハルトムートより上位者であることを周囲に隠しているローゼマインは、ハルトムートの今の状況を把握しないままに先程のようなオルドナンツは送れない。そのために事前に人払いさせたとのこと。周囲を欺く言い方で孤児院に呼ぶことも出来ただろうが、今ローゼマインを取り巻く怒りはそのような物言いを許せる余裕はなかったという。そしてクラリッサのことを告げずに呼べば初手でハルトムートが避けるかもしれないため敢えて予告を入れたと言うが。攻撃が来ることをわかっていて避けることを禁じられるというのも、恐怖が増して罰に加算されることだろうな……
程なくして孤児院の扉が開き、
「ローゼマイン様、お呼びにより……
「クラリッサ、GO」
「はっ!ハルトムート!覚悟!」
ハルトムートが入ってきたが、その言葉が最後まで言い終わる前に、ローゼマインはクラリッサに合図を送った。
クラリッサは迷いのない大きな歩幅で一歩躍り出ると、後ろに残した足が身体の位置に戻る勢いに乗せてやや水平にハリセンを振り抜いた。
クラリッサがハルトムートのほぼ真横に並ぶのと、ハルトムートの顔面にハリセンが衝突したのはほぼ同時だった。
スパァァァァァァッッン……
と、余りに大きな音が響きわたり、外で木々の鳥たちが慌てて飛び去っていく音が聞こえる。孤児院の外にまで、この音はけたたましく響いたらしい。
ハルトムートは両手で顔を押さえながらその場にしゃがみ込んだ。
……ハルトムートの働きに、思うところはあるにせよ、その選択には少なからず感謝はしている。だが何故だろうか、ハルトムートのその様子に、僅かに胸がすく思いがした。これが日頃の行いというものだろうか。
ローゼマインは、しゃがみこむハルトムートの前にツカツカと歩み出ると、その正面で自身も膝を折って屈みこんだ。淑女がそのように屈むものではない、と言いたかったが、ここは孤児院、彼女の王国であり、口出しは叶わない。何より、部屋を出た時からずっと、ローゼマインの背には『話しかけるな』という気迫を感じる。
「ハルトムート?わたくしは怒っているのですよ?」
そう言ったローゼマインの声には、怒気は感じられない。あどけなさすら感じる声色だったが、だからこそ恐ろしく感じた。ローゼマインが『わたくし怒っているのですよ!!』とぷひぷひ鳴いて聞こえるうちは、まだ可愛いものなのだと理解する。最初から凪いでいる水面をどのように鎮めろというのか。これはそういう難題だ。
「ですから、罰として当分、わたくしは貴方に魔力を使いません。祝福も贈りませんし、癒しもかけません。なので、当分は大きな怪我をしないように気を付けてくださいませ。どうしてもという時はクラリッサや側仕えに頼むなどしてください」
なるほど、今のハリセンは単なる腹いせであり、正式な罰はこちらか……確かにハルトムートには堪えるだろう。
「ぐっ……あぁ、やはりローゼマイン様はお優しい……命を持ってして償う覚悟もございましたが、やはりローゼマイン様の御心の深さは……」
「元気そうで何よりです。此処まで来られたのは貴方の協力あってのことですから、感謝もしているのですよ?ですからオーバーキルは避けたかったのですが、どうやら大丈夫そうですね」
まだ片手で顔を押さえながら、ハルトムートは口元にのみ笑みを浮かべて主人に言葉を返す。声の震えは痛みに依るものか、祝福を得られないと知った心的ショックか。
ローゼマインはやはりそれを最後まで聞くことはせず、冷たく言葉を遮ると立ち上がり、私の方を振り返った。
「フェルディナンド様、もう卒業式まで時間がありません。そちらの打ち合わせをさせていただいてもよろしいですか?」
「あ、あぁ」
「ではエスコートしてくださいませ。お部屋へ参りましょう。クラリッサ、後はよろしくお願いいたしますね」
「かしこまりました、ローゼマイン様」
そう言うと誰の言葉も許そうとはせず、片手を宙に置いた姿で開かれたままの扉の奥を見つめていた。もうその瞳に目の前のハルトムートは映っていない。
『此処まで来られたのは貴方の協力あってのことですから、感謝もしているのですよ?』
その言葉は真実だろうが、主としてハルトムートの謀反を許せぬ心も真実なのだろう。私はローゼマインをエスコートしながら、隣を歩く女神の顔を伺い見た。取り繕うような表情を手放している一方で、白い肌の下に静かな怒りだけが感じられた。
《ハルトムート》
ローゼマイン様はやはりお優しい。
なんとかローゼマイン様の卒業式を保護者席から見届ける許可は頂けて、クラリッサと共に式の素晴らしさを語り合い、かなり推敲に推敲を重ねてクラリッサと語り合った感想を三分の一ほどに要点を纏めてローゼマイン様本人にも感動を伝えさせていただけた。
それだけで、今までの苦労のすべてが報われたというもの。
しかし、卒業式を過ぎてなお、ローゼマイン様からの『罰』は継続している。
……恐らくだが、ローゼマイン様も止め時を掴めずに困っていらっしゃるのではないだろうか?
『恨み』の持続は容易だが、『怒り』の持続はそうでもない。
私のしでかした行いを思えば、そう簡単に許すことは出来ないのだろうが。元々お優しいローゼマイン様が、『怒り続ける』ということも難しいのではないだろうか。
ならば、何かきっかけがあれば良いだろう。
ローゼマイン様の祝福を頂けるに値する、何か新しい出来事が起これば……
「クラリッサ、エントリンドゥーゲ……その前にバイシュマハートか……新しい命を願い、神々の加護を祈っても良いだろうか」
「!」
「ローゼマイン様とフェルディナンド様が婚約し、近々星を結ばれるだろう。お二人の御子がいつお生まれになるかわからないが、ローゼマイン様にとってのアンゲリカ、ダームエルにあたる護衛騎士が居た方が良いと思わないかい?」
「!確かにそうですわハルトムート!ローゼマイン様のお子様をお守りする上で、重要なことですわ!!」
言ってみた提案にクラリッサは忌避感もない様子で賛同してくれたため、私はにこやかに微笑んだ。
少し前の織地でローゼマイン様がクラリッサの名を縛る前に高みに上ってしまったため、クラリッサには直近の三枚分ほどの織地の記憶しかない。クラリッサが覚えていない、更に前の織地で、一度我々は子を作ることをローゼマイン様に止められている。『禁じた』つもりはローゼマイン様にもなかっただろうが。
あれはローゼマイン様が『リフレッシュ休暇』と呼んだ用途に費やした織地だった。
一度、エーレンフェストのこともユルゲンシュミットのこともフェルディナンド様のことも度外視し、自分たちの精神を癒すためだけに使おうとした織地でのことだ。ローゼマイン様を中央貴族とし図書館司書にするために我々は動いていた。そのためにはローゼマイン様は貴族院を卒業している必要があり、私とクラリッサも当然、星を結んで数年が経っていた。
どうせこの織地を、ローゼマイン様のお心を癒すためだけに使うというのであれば。私とクラリッサの間に子が生まれれば、それもローゼマイン様の癒しになりますか?と、お訊ねしたことがある。ローゼマイン様は自分より年下の子供が、特に幼い子供が好きでいらっしゃったから。中央に移籍すればソランジュとも同僚となり親しく接することが出来るとはいえ、シャルロッテや孤児院の子供たちを引き離すことはローゼマイン様にとって癒しの損失となられただろう。それをお慰めするものとして、身近に幼子が居ればローゼマイン様も気が紛れるだろうかと思ったのだ。
だが、ローゼマイン様は一瞬だけ、本当に一瞬だけパッと表情を明るくしたが、すぐに眉を下げて切なく微笑み、静かに首を横に振った。
「この織地は最後ではありません。織り直しは起こります。……我が子を抱いて、織り直しが起こって、我が子が腕から消えてしまったら……そんな喪失感を、貴方たちに味わってほしくはありません」
あぁ、なんということだろうか。私は我が子と成り得る命さえ、ローゼマイン様に捧げる道具としか考えていなかったのに。ローゼマイン様は近しく生まれる命を尊び、私たちが傷つく【可能性】すら憂いてくださった。ご自身も十分すぎるほど傷つき、本来であればご自分の目的以外を気に掛ける余裕などなくなるはずのこの期に及んで!
ローゼマイン様の御心は、慈悲は、どれほどまでに深いのだろう。
私は、あの日……幾重もの人生を重ねてもこの方にお仕えすると誓ったあの日の、悲しいほどに美しい祝福を見た時の衝撃を思い出した。
そして、もう何十、何千、何万となるかわからぬ誓いを改めて立てたのだった。命の糸が潰える日まで、私の全てをこの方に捧げようと。
故に、ローゼマイン様が悲しまれぬよう、織り直しの可能性が残るうちは、クラリッサと何度星を結ぼうと、子を作ることは今までなかった。
だが、ローゼマイン様もこの織地を最後にするつもりで動いてらっしゃった。
私もそのつもりで、フェルディナンド様に事情をお伝えし、ローゼマイン様を幸せにしてほしいと願ったのだ。
この織地が最後となるなら、織り直しを予期しなくても良いのなら、クラリッサとの子を望んでも良いだろう。
仮に私がこのまま生涯ローゼマイン様の祝福を賜れなくなったのだとしても、血を分けた我が子が女神の祝福に肖れるのなら、それも良いかもしれないからな。
《ローゼマイン》
「私とクラリッサの子です。名付け親になってくださいますか?」
ハルトムートの言葉と共にクラリッサが僅かに腰を屈めて腕を斜めに差しだし、抱いていた小さな命を私に見せてくれた。
ふわふわの白いおくるみに包まれたその子は、赤くてしわくちゃで、生まれたばかりのカミルを思い出させた。
でも、私が【初めて見る子】だった。
何十、何百というループを繰り返して、ユルゲンシュミットに住まう様々な人たちを今まで見てきた。そんな私が、【初めて見る子】だったのだ。
今まで一度も存在することがなかった、今新しく生まれた命だ。頭の中で、カチリと錆び付いていたはずの秒針が動くような、そんな感覚があった。
そして同時に気が付いた。『あぁ、今までこの子を、この幸せを、この二人に禁じていたのだ』と。
あの織地で私が言った言葉は単なる提案だった。でも、上位者の提案やお願いは下位の者にとっては命令だ。ましてや、私の言葉なら、ハルトムートは従うだろう。
織り直しが続く中、ハルトムートとクラリッサが星を結んだことは何度もあったけど、一度も子供は作らなかった。
それが今、目の前に居る……
私がそっと指を伸ばすと、小さな、とても小さな、けれどとても暑い手が、私の指をきゅっと握った。
「ぁ……」
思わず声が震えて、ポロリと涙が零れ落ちる。
「ローゼマイン様!?」
「いかがなされました!?」
クラリッサたちの、ぎょっとしたような声が聞こえる。私は首を振りながら、空いている方の手で顔を覆った。
「ちが、違うのです、」
嫌だったわけじゃない。むしろ本当に嬉しくて……こんなに暖かな存在を、今まで二人に禁じていたのかと思うと……
「ハルトムート……クラリッサ……ごめんなさい、ごめんなさい」
本当に、ずっと、ずっと、長い間、二人は私に付き合ってくれていた。
クラリッサは何度か記憶が途絶えても、それでもいつも純粋な瞳で私に憧れの眼差しを向けてくれた。
「……ありがとう……今まで……ありがとうございました……っハルトムート」
忠臣の献身を改めて思い知る。ポロポロと涙が溢れてきて、両手で顔を覆ってしまいたかったけど、片手はまだ小さな赤ちゃんに捕まれたままだった。振り払うことは簡単だっただろうけど、どうしてもそれはしたくなかった。ハルトムートたちが、自分たちの望みよりも私を想って、今までずっと私に付いてきてくれたように。
不意に、目の前に刺繍の入ったハンカチが差し出された。ハルトムートは、困ったように微笑む声で、「本当にローゼマイン様は、慈悲の泉が枯れ果てることはありませんね」と呟いた。いつだったか、『闇落ち』について説明した時のフレーズだ。私の涙を泉に例えてそう言ったのなら言い得て妙だ。私はハンカチを受け取って、少し間抜けにへにゃりと笑う。
そうして涙を拭いて気を落ち着けると、顔を上げて……
目の前の、家族三人に、私は心からの祝福を贈った。
《ハルトムート》
フェルディナンド様との御子を抱きながら、ローゼマイン様は決まりが悪そうにこう言ってくださった。
「最後の最後に裏切られはしましたけど、感謝はしているのですよ」
それを聞いて、私はただニッコリと微笑んだ。
ローゼマイン様は、私が『最後の最後に裏切った』と思っておられるらしい。
ならば僥倖。この秘密は最後まで隠し通そう。
私が、最初からずっと、ローゼマイン様を裏切り続けていることは。
あれは初めてローゼマイン様が私に『ループ』の話をしてくださった織地。
私は貴族院を卒業し、ローゼマイン様は四年生として貴族院へ赴かれている冬のこと。
不意に「あ、」と思う瞬間が来た。
身体の中の魔力の流れが止まり、息を吸うことも吐くことも出来なくなる。血も魔力も一瞬で凝固したかのように感じられ、内側から血管を傷つけるように全身を痛みが苛む。息苦しさに加えて、全身の血が頭に登るような、スァッと血の気が下がるような、気持ち悪さ。
数秒か、もっと長いか、もしくはほんの一瞬のことだったかもしれないが。その痛みを、苦しみを、屈辱を。過去に戻されるその瞬間まで、余すところなく感じ尽くそうと、意識を保つ。
震える指で腕を握りしめ、……唇は、弧を描く。
あぁ、これがあの方の苦しみか。
これがあの方の痛みか。
これがあの方の無念か。
聖女の素晴らしさを理解したいと、貴女のどんなことでも知りたいと望む私の心が満たされる。
満たされると、溢れたそれが汗となり頬を伝い、涙となって雫が落ちる。
こんな苦しみを、あの方が感じる必要はないのに。
こんな痛みに、あの方が苛まれる謂れはないのに。
あの方を満たすのは喜びと幸せであるべきなのに。
あぁ、見ていろよ、必ず、必ずだ。
あの方が守ろうとするものがあの方を守る未来を。
あの方が救おうとするものがあの方を満たす未来を。
必ずや、必ずや……
その願いだけを不屈と共に握りしめて、時を解かれ、過去に目覚める。
気がつくと貴族院のエーレンフェスト寮のホールにいた。
さっきまで青色の神官服を着ていたはずなのに。今は黒を基調とした貴族院での服装。
程なくしてローゼマイン様が騎獣でお戻りになり、コルネリウスたちが「ローゼマイン様」「どうでしたか」「神の意志は」と言って駆け寄っていった。なるほど、ローゼマイン様が一年生で神の意志を取り込んだ時間まで解かれたらしい。
ローゼマイン様は騎獣から降りると不安そうな、何かを試すような顔で私を見上げ、「どうでしたか?嫌になりましたか?」と聞いてこられた。
私は、ニコリと微笑んで右手を胸元に当てて事もなげに答えてみせる。
「気付いたら一瞬で戻っていたので少し驚きましたが、何度か繰り返せばきっと慣れるでしょう。それより、失敗したらやり直せるというのは得ですね。後ほど反省会をして前回の失敗を考察しましょう」
何のことかわかっていないコルネリウスたちが首を傾げる中、ローゼマイン様は少し驚いたような顔をなさり、そして微かにホッとしたような顔をなさった。
やはり、孤児にすら心を砕くローゼマイン様は、私にまで気を配ってくださる。
ならば織り直しの度に感じる私の苦痛も屈辱も、聖女が知る必要はない。
「あぁそうだ、」
この時分まで戻されたなら、確か在るはず。そう思って記憶に在る箱を探して取り出し、再度貴女の前に差し出した。
それが“名”であるとわかるとコルネリウスたちはギョッとしたようだったが、私がローゼマイン様に名も忠誠も捧げることは、何も驚くことではない。
だから私はただ、事も無げに微笑めばいい。
「また一緒に頑張りましょう、ローゼマイン様」
そこに苦痛も屈辱も痛みも葛藤もないように、何でも無いことのように。
聖女に嘘を吐き続け、貴女が報われるまで私も決して諦めまいと、ただ胸の内に誓いと決意と願いだけを降り積もらせ折り重ねた。そんな覚悟の重さも嵩も、優しい貴女が優しいからこそ、永遠に知る必要は ないのです。
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