図録『家康の遺産』『徳川美術館蔵刀剣・刀装具』と『詳註刀剣名物帳』『古今鍛冶名寄』『徳川家康・秀忠の甲冑と刀剣』論文「『物吉貞宗』の継承と権威化」の情報を使用。*注:最終頁に修行のネタバレあり。2022.8.13:大幅改訂
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記事の内容は以下の通り。
1頁:物吉貞宗の基本情報と由緒
2≫2頁:拵の変化
3≫3頁:物吉貞宗の封印について
4≫4頁:物吉貞宗の明治時代の史料
5≫5頁:物吉貞宗と不思議
6≫6頁:物吉貞宗のレガリア化
7≫7頁:刀剣乱舞の修行
(1)基本情報
先ずは、物吉貞宗の基本情報を記す。
種類:脇差(文化財登録は「短刀」)
銘:無銘(貞宗)
号:物吉
作刀時代:南北朝時代
刃長:33.0cm
反り:0.6cm
茎長:8.8cm
肌目:小板目
刃文:皆焼調で小沸え、飛焼あり、金筋かかる
目釘穴:2個(1つは鉛埋め)
茎:舟形
鑢目:勝手下がり
彫物:表裏に素剣・鍬形・蓮花・梵字
文化財:重要文化財(昭和28年11月14日)
著名な所有者:徳川家康、尾張徳川家
逸話:徳川家康がこの刀を帯びて戦に臨めば、勝利をおさめた。
(2)由緒史料
物吉貞宗の関連史料である。
刀剣は「号」が「名物帳」に記載されているものが「名物」とされる。
物吉貞宗も「名物」であるが、名物帳には幸運の由緒は書かれていない。
吉祥を記すのは尾張徳川家の史料なので、そちらから載せて訳す。
1、刀剣付属文書『物吉記』(尾張藩主:8代徳川宗勝撰)
「号物吉、初東照宮在参河、戦闘常以之、為備身臨陣、必帯毎獲捷云、因号物吉、邦語訓毛乃與之、猶言百事吉祥也。逮治平日嘱太夫人相応主(於亀の方。尾張初代義直の母)伝諸我高祖敬侯(義直)以至于予」
↓
※訳:「物吉」という号の刀は、はじめ、徳川家康公が三河にいるときから、戦のさいには常に身に付けて出陣されていた。帯びて出陣すると、必ず勝利をおさめたといわれる。よって、家康公はこの刀を「物吉」と名付けられた。読みは「ものよし」である。さらに、何事につけても良いことがあったという。家康公の側室であるお亀の方が、この刀を息子の義直公に受け継がれるように頼んだため、物吉は尾張徳川家にある。
「物吉貞宗」を継承した尾張藩の由緒書である。
『刀剣乱舞』の物吉貞宗は、台詞や回想からこの由来を設定として採用していると思われる。
『物吉記』以外にも家康が三河時代から物吉を所有していたとする逸話は存在する。
『物吉記』の内容が広まったのか、『物吉記』に関係なく「家康は三河時代から物吉貞宗を所有していた」という話が存在したのかは不明。
2、『名物扣』
物吉 同(貞宗) 一尺九分半 同(尾張殿)
百五拾枚
度々能切候故大納言光友卿物吉ト御名付被候由
申伝、表裏ニ鍬形梵字蓮華有之
↓
※訳:「何度もよく切れたので、大納言徳川光友様が『物吉』と名付けられたと伝わる。表裏に鍬形、梵字、蓮華の彫物がある」
『物吉記』以外は、「よく切れる(良いものなので)『物吉』」という名付け方である。
本来の号の由来はこちらなのだろう。
刀剣に「よく切れる」からと名が付くのはとてもありがちで、「蜻蛉切」も「へし切り」も「燭台切」も号は違えど、「切れ味」由来の号である。
下にも複数の名物帳を乗せておくが、名付ける人物の違いはあれど号の由緒は同じである。
3、『刀剣名物帳』
物吉 壱尺九分半 百五拾枚(三千貫)
尾張様家康公御秘蔵ニテ度々能切レ候故『古大納言様』物吉ト御名付之由申伝候
表裏鍬形剣梵字蓮華有之尾張殿御袋(於亀の方)常々右之様子御存故御取出シ被成大納言(義直)殿エ被進
↓
※訳:「尾張徳川様所有の家康公秘蔵の刀で、何度もよく切れたので、亡き大納言様が『物吉』と名付けられたと伝わります。表裏に鍬形、梵字、蓮華の彫り物があり、徳川義直殿の母様が常に家康公が秘蔵されているのをご存知であったため、取り出されて義直殿に進上された」
4、『古今鍛冶名寄』
無銘一尺九寸一分両クワ釼 尾州
梵字蓮華有 百五拾枚
「度々能切故尾州古大納言殿名付給」
↓
※訳:「何度もよく切れたので、亡き尾張徳川家の大納言が(物吉と)名付けられた」
5、『諸家名剣集』
尾張殿
物吉 同作 一尺九寸半 百五十枚 無銘
此刀度々能ク切レ之故故大納言殿物吉ト御名付被成
此表裏鍬形剣梵字蓮華有之
↓
※訳:「何度もよく切れたので、亡き尾張徳川家の大納言が(物吉と)名付けられた。この刀の表裏には、鍬形剣、梵字、蓮華の彫物がある」
6、『詳註刀剣名物帳』
「表裏鍬形剣梵字蓮華あり家康公御秘蔵にて常に御差し遊ばされ能く切れ申事度々あり物吉と名付候由御他界の砌尾張故大納言殿御袋常々右の様子御存し故、御取出しなされ大納言殿へ進ぜられ候故也」
↓
※訳:「表裏に鍬形剣、梵字、蓮華あり。家康公ご秘蔵の刀で常に腰に差されていた。よく斬れることが度々あったので、「物吉」と名付けられたそうだ。(家康公が)亡くなられるときに、徳川義直殿のお袋様(お亀の方:家康公の側室の一人)が常々家康公が腰に差されていたことを知っていたので、(物吉を)取り出して(息子の)義直殿に進上されたということだ」
以上のように「名物帳」と尾張徳川家の由緒は異なる。
「物吉」という号から「吉祥=幸運」の由緒が形成されていったと思われるが、詳細は不明。
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2頁:物吉貞宗の拵の変化
拵(こしらえ)とは、刀の「柄(つか)、鞘(さや)」など、刀を使用する際に必要な刀装具のことである。
刀身はそれだけでは握れないし、腰に差せない。
刀を使用する際には、必ず拵が欲しい。
そのため、所有者は「使う刀」には「拵」を用意するが、拵は完全には残りづらく、また、後世に取り替えられることもよくある。
物吉貞宗には使われた証拠として「拵」があるが、その拵(こしらえ)は、「→」で示した通り、変遷がある。
・柄:鮫皮を着せた黒漆塗り(蠟色)
・鞘:黒漆塗り
・目貫:銀の鷺→「金這龍」(後藤祐乗作?)
・小柄:なし→「鳳凰図」
・鍔:なし(合口拵:あいくちこしらえ)
・小刀:なし→則宣
・下緒:茶
・全長:50.0cm
もともとの目貫は「銀の鷺」であったのが、家康所有の由緒がある「金這龍=瞬きの龍」に代えられ、なかった小柄が付属するようになった。
目貫の「金這龍」には、家康が「見つめていると瞬きをするようである」と言ったため、「瞬きの龍」と呼ぶようになった、との話が尾張藩士が書いた『昔咄』他にある。
目貫の取り替えは、家康由緒の補強であろう。
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3頁:物吉貞宗の「封印」について
刀剣乱舞で「封印」といえば大典太光世の蔵であるが、物吉貞宗も尾張徳川家で「封印=使われない」時期があった。
物吉貞宗には、通常の「拵、刀袋、白鞘」以外にも複数の「付属品」がある。それが以下の物だ。
一、黒塗葵紋刀箱(黒い刀箱に金の葵紋二つ)
一、附鍵(上の刀箱の鍵)+鍵の包紙二つ
一、白木刀箱
物吉貞宗を「封印」したのは、8代藩主徳川宗勝(むねかつ)である。
『江戸御小納戸日記』によれば、元文四(1739)年三月十一日、宗勝は江戸市谷上屋敷において家臣らが居並ぶなか自ら「物吉貞宗」を見聞したのち、封印した。
物吉は上の「黒塗葵紋刀箱」に入れられて「鍵」をかけられた。
この鍵には大小2つの「包紙」があり、小さい方に「鍵」の一文字と「元文四年三月出来」が書かれている。
「物吉貞宗の「封印=使われない」状態は、14代の慶勝まで続いた?ようだ。
慶勝が尾張徳川を継ぐのは、嘉永2(1849)年。
物吉の「封印」は100年以上続いたことになる。
ただ、気になる点が1つある。
2つの包紙のうちのもう1つの方だ。
大きな包紙には「物吉之鍵」と「享保十六辛亥年三月十一日」の文字がある。
享保十六年は1731年で、7代藩主宗春の時期である。
この記述を信用するならば、鍵を作らせたのは宗春となる。
鍵だけを作ることはないので、「黒漆葵紋刀箱」も宗春の命による作成となるハズだ。
しかし『江戸御小納戸日記』には8代宗勝が「蠟色塗葵紋付刀箱=黒塗葵紋刀箱」を新調したとあり、「物吉之鍵」包紙の享保十六年と矛盾する。
論文「『物吉貞宗』の継承と権威化」でも脚注で「享保十六年〜」の包紙に触れていて、大きい外包に古い年号がある点に「理解に苦しむ」として、外箱の鍵の包紙の可能性を指摘している。
取り敢えず、日記と包紙の記述から、「宗勝」が物吉を封印したのは間違いない。
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4頁:物吉の明治時代の史料
徳川美術館発行の論文集『金鯱叢書45』の「尾張徳川家における世襲財産附属物」に明治時代の目録(世襲財産附属物目録)があり、所有刀剣の情報が載っている。
「世襲財産附属物目録」は明治19年に「華族世襲財産法」の制定により作成された。
尾張徳川家は明治26年に630点の什器を目録に載せて提出した。
その中には家康の書状や掛け軸、茶器、刀剣などがあり、物吉貞宗や南泉一文字の名がある。
物吉貞宗の部分を以下に記す。
(↓南泉は南泉用のベッターに)
https://privatter.net/p/3362684
○「世襲財産附属物目録」
・号数:601
・作品名員数等:短刀 名物物吉貞宗 無銘拵付 一口
・伝来:右ハ徳川家康ノ所持シタルモノニシテ数回ノ戦役ニ此刀ヲ帯シ出陣スルトキハ必ス凱旋ノ吉例アルニ由リ物吉ト名ケシトモ云フ或ハ能ク堅ヲ切断スルニ依リ名ケシトモ云家康秘蔵セシ品ナリシカ当家初代義直ノ実母かめ請フ所アリ義直ニ譲与セラレ以後当家世々相伝フルノ重宝トセリ
・保管場所:本所横網町
↓
*伝来の訳:右は徳川家康が所持していたもので、数回の戦にこの刀を帯びて出陣すると必ず勝利して帰ってきたという吉祥があったので、「物吉」と名付けられたという。または、硬いものを切断する良いものだから「物吉」と名付けられたともいう。家康が秘蔵していた品であったのか、尾張徳川家の初代義直の実母「かめ」が願い出て義直に譲られ、以後、尾張徳川家では代々譲り伝えられる「重宝」とした。
↓
※解説
物吉貞宗の「号」の由来とされる2つの由緒を併記している。
戦勝をもたらすから「物吉」と、良く切れるから「物吉」。
どちらが物吉の号の由来か不明であるため、併記したのだろう。
この記録で注目したいのは、「相伝フルノ重宝トセリ」の部分だ。
延享二(1745年)作成の『御腰物元帳』の「御譲御代々御頂戴被遊候尤」と一致する。
物吉貞宗は家康ゆかりの「重宝」として代々受け継がれた品との認識が示されている。
他の刀剣に「重宝」の表記はなく、「拵」も物吉のみに書かれている。
家康が作らせた「拵」があるのも、物吉の価値を高めているのだろう。
保管場所の「本所横網町」は東京での尾張徳川の屋敷があった場所である。
「世襲財産附属物目録」の番号595〜630が「本所横網町邸」に保管されている。
番号1〜594までは「名古屋大曽根邸」保管である。
どのような基準で保管場所を「本所横網/名古屋大曽根」と分けたのかはまだ不明らしい。
「名物」の刀剣類は大半が「本所横網」保管であるが、一部は名古屋である。
この「世襲財産附属物」は目録作成前に鑑査を受けており、「鑑査状」がある。
価値に応じて「等級」が付いていて、物吉貞宗のもある。
○「鑑査状一覧」
・等級:2
・番号:6586
・名称:刀 物吉貞宗作 無銘 一口
・指定日:明治24年8月1日
↓
*物吉貞宗の等級は「2」である。
等級「1」の刀は「来孫市郎作」と「正恒」の2振のみ。
物吉と同じ「2」には銘入の刀が6振、無銘が2振。
無銘で等級「2」は物吉貞宗と南泉一文字である。
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以上の史料はネット上でも確認できる。
下にリンクを張っておいた。
複数の論文が掲載されており、pdfでやや重めなので注意。
該当論文:http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f8b3e3319ed707936b7575e956800bc715095cda.pdf
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5頁:物吉貞宗と不思議
物吉貞宗には、二代藩主徳川光友が「こちら(尾張徳川家)にはないはずのものなのに、不思議にこちらに伝わった」と言ったという話がある。(『昔咄』)
この手の話はだいたい「盛られて」おり、信用していいのかどうか分からないものが多い。
しかし、家康所有刀剣とその継承先を総チェックしたところ、信用してよい可能性が出て来た。
残っている刀剣からの推測であるが、以下に根拠を記す。
明暦の大火でかなり焼けてはいるが、徳川家康の所有刀剣は数多く残る。
多過ぎて把握が困難なため、以前、総チェックを試みてみた。↓
徳川家康の所有刀剣:https://privatter.net/p/3925704
その結果、「不思議にこちらに伝わった」と合致するリストができたのだ。
下がそのリストになる。
●脇差
1:物吉貞宗(尾張徳川家)―蠟色塗合口拵
2:貞宗(久能山)ー黒鮫柄合口拵
3:行光(久能山)ー黒鮫柄黒漆鞘小さ刀拵
4:備前國住長船勝光・宗光(日光)ー合口拵
5:行光(徳川将軍家→日光)―合口拵
この「●脇差1〜5」は全て家康所用伝承がある拵(こしらえ)付きの刀である。
(*注:この場合の所用とは「所有して用いた」という意味になる)
全て「重要文化財」に指定されている。
「3」だけ拵の名称が違うが、全て「合口拵」で「鍔」がない。
「4」のみ長船派であるが、他は全て「無銘の相州伝」とされる。
徳川家康は「相州伝」を好んだとされるのが、よく分かる並びである。
( )内が家康没後の移動先。
「5」の行光は、4代将軍家綱が明暦2年に日光東照宮に奉納した将軍家所有の脇差。
翌年が明暦の大火なので、ぎりぎりで火災を免れている。
「5」の行光が途中で移動しているが、物吉以外は全て神社(東照宮)所有である。
家康所用の脇差は、家康を祀る「東照宮蔵」とすべしとの判断があったと思われる。
(これに対し、ソハヤと日光助真以外の打刀拵の刀剣は全て子孫が継承する逆パターン)
(なお、太刀は例外なく全て神社所有だが、1振のみ神社がなくなった後に個人蔵となっている)
現存する拵ありの家康所用の脇差は、物吉だけが子孫に受け継がれ、他は全て東照宮にある。
家康所用の脇差は東照大権現を祀る「東照宮入り」が基本で、物吉だけが例外となった。
東照宮入りした「5」の行光も最初は将軍家にあり、御三家ではない。
物吉は本来なら東照宮か将軍家に入るべき刀であった可能性が高いのではないか。
2代光友の「不思議にこちらに伝わった」を裏付ける推測ができる。
初代義直の母於亀の方が、「特に願って」or「取出=盗んだ?」という話が物吉に付属するのも「不思議にこちらに伝わった」と関係するのであろう。
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6頁:物吉貞宗のレガリア化
レガリアとは、それを所有することによって、正当な王や君主となったことを象徴する「物品」を示す。
物吉貞宗は尾張徳川家に受け継がれた当初はレガリアではなかったが、代々継承されるうちに「レガリア化」していく。
8代宗勝の時期には「物吉貞宗の継承=家督の継承」という形が成立しており、時代とともに物吉貞宗の「価値」と「扱い」も変わっていく。
その変化を、論文「『物吉貞宗』の継承と権威化」他を参考にして記していく。
ただ、尾張徳川は幕府との関係で、2人の藩主が隠居と家督の交代をさせられている。
宗勝の家督相続も、先代の宗春が幕府の命により隠居したためだ。
また、他の理由で死亡する前に隠居をして、次代に家督を渡している例もあり、必ずしも先代の死亡=次代の家督相続とならない点もご注意を。
家康の死亡時から開始する。
(*物吉以外の尾張徳川の刀剣も表記)
元和2年(1616)
1月21日 家康、田中城で体調悪化
(この間に、お亀の方が「物吉貞宗」を入手か?)
4月17日 家康、駿府城で病没
18日 家康の遺体が久能山へ
(「ソハヤノツルキ」は下の元帳作成以前に久能山へ)
11月26日 家康の遺品刀剣分配リスト『駿府御分物刀剣元帳』完成
(南泉,太鼓鐘,包丁,一期,鯰尾他の記載あり)
元和3年(1617)
12月18日 将軍秀忠が「太鼓鐘貞宗」を伊達宗忠へ=婿引出物
(南泉他の刀剣類もこれ以前に駿府城から江戸城に移動?)
寛永9年(1632)
1月24日 秀忠、病没:秀忠の遺品として「宗三左文字と豊後藤四郎」が家光へ
(一次史料で移動が確実なのはこの2振)
★『徳川実紀』では「不動国行の太刀、江雪正宗の御太刀」も、このときに秀忠→家光と移動。「宗三左文字と豊後藤四郎は大坂の陣で家康が腰に差した大小」ともされている。物吉貞宗には大坂の陣に関するエピソードはない。
●秀忠の没までに「南泉一文字」は義直に譲られるので、これ以前に義直のもとに「物吉、南泉、(大左文字)」と家康遺品刀剣が揃う。
寛永16年(1639)
9月21日 家光の娘千代姫が尾張徳川家の光友へ嫁ぐ
9月28日 義直と光友、千代姫が江戸城へ
(光友が家光から五月雨郷と「吉光の脇差(後藤藤四郎)」をもらう=婿引出物)
慶安3年(1650)
5月7日 初代義直(49歳)、江戸で没→2代光友(みつとも)【(物吉)貞宗継承】
★義直は片道1回で数えると、参勤交代は45回。毎年冬に江戸に行き、春に帰国。(例外あり)晩年は参府一年、在国一年。
●光友のもとに「物吉、南泉、五月雨郷、後藤(この時点では号なし)」が揃うが、五月雨郷、後藤、南泉は家督相続に関係なく綱誠へと移動する。また、慶安四年(1651)に作成された『御天守ニ有之候 御腰物御脇差帳』に「一期、鯰尾」の記載があり、この2振が名古屋城小天守にあることが分かる。
明暦3年(1657)
1月18日〜20日 明暦の大火:宗三左文字、包丁藤四郎、骨喰藤四郎他、が江戸城で焼ける
寛文7年(1667)
9月26日 綱誠(つななり)、広幡忠幸の娘と結婚
9月27日 光友が綱誠に五月雨郷と「吉光御脇差(後藤藤四郎)」を譲る
寛文12年(1672)
3月25日 光友が綱誠に「南泉一文字」を譲る
延宝9年(1681)
6月 綱誠が「本作長義」を本阿弥から購入
●綱誠のもとに「五月雨郷、後藤、南泉、本作長義」が揃う。物吉貞宗は光友所有で別。
元禄6年(1693)
4月25日 2代光友、隠居→3代綱誠
★光友の参勤交代は40回。幼少の将軍家綱補佐のため、幕命により7年の在府あり。補佐役終了後から隔年(一年おき)の参府。名古屋入り20回。隠居後、光友は尾張在住となる。物吉貞宗は光友が所有し続けており、暫く、江戸から離れる。
●綱誠のもとに「南泉、五月雨郷、後藤、本作長義」が揃う。ただし、綱誠が1699年に急死し、五月雨郷は綱誠の遺品として将軍家へ移動。
元禄11年(1698)
3月18日 将軍綱吉が尾張徳川綱誠邸に御成:「亀甲貞宗」を綱吉へ進上
●短期間だが、「亀甲貞宗」が尾張徳川の江戸屋敷で同居。尾張徳川家が亀甲貞宗を入手したのは、盛岡藩の『秘記』によれば、「元禄10年(1697)7月22日」である。ただし、このとき、物吉貞宗は光友所有で綱誠の所にはない。
元禄12年(1699)
6月5日 3代綱誠(47歳)、市谷屋敷で急死→4代吉通(よしみち)(10歳)
11月 光友が吉通に多数の所有刀剣を譲る。【物吉貞宗の継承】
★綱誠の参勤交代は6回。世子(=後継)時代から名古屋入りあり。父光友が存命中のため、綱誠は<物吉貞宗を継承しないまま>死亡。この5ヶ月後、光友は多数の所有刀剣を吉通に譲った。その中に「物吉貞宗」があり、帳面の<筆頭>に名がある。6年前の光友の道具帳では<3番目>であった位置が変わっている。尾張徳川における物吉貞宗の<位置付け>が上がった。
元禄13年(1700)
11月26日 2代光友(75歳)、没
●先の位置付けの上昇のためか、光友の死去後、吉通は「物吉貞宗を受け継ぐ儀式」を受ける。物吉貞宗のレガリア化の始まりである。ただし、既に吉通は家督を継承しているので、このときの儀式は尾張徳川の権力の移譲と見るべきであろう。4代吉通の代から「物吉貞宗」は「お大事の道具」となり、箱に入れられて中御座の間の床の上に置いていたようだ。火事などになったときは小姓衆が持ち出すことになっていたらしい。(物吉貞宗は他の刀剣と別置きとなる)
正徳3年(1713)
9月15日 4代吉通(23歳)、急死→5代五郎太【物】
★吉通の参勤交代は4回。幼少の将軍家継補佐のために在府が長い。名古屋入りは2回のみ。物吉貞宗の継承儀式などが不明だが、あったものとして【物】を記しておく。
元徳3年
10月18日 5代五郎太(2歳)、没→6代継友(つぐとも)【物】
★在位2ヶ月で死去したため、五郎太の参勤交代はゼロ。尾張徳川家の世子相続はここで途切れる。継友は綱誠の12男。物吉貞宗の継承儀式などが不明だが、あったものとして【物】を記しておく。
享保15年(1731)
1月5日 6代継友(39歳)、没→7代宗春(むねはる)【物】
★継友の参勤交代は14回。他の大名と同じ隔年参府。名古屋入り7回。継友に子はなく、綱誠の20男宗春が家督を相続。物吉貞宗の継承儀式などが不明だが、あったものとして【物】を記しておく。
元文4年(1739)
1月12日 7代宗春、将軍の譴責により、名古屋に隠居謹慎
1月13日 8代宗勝(むねかつ)、尾張徳川家を継承【物】
3月11日 宗勝、家臣らが居並ぶなか「物吉貞宗」を見聞したのち、封印
★宗春の参勤交代は8回。名古屋入り4回。宗勝は光友の庶子(正室以外の女性の子)の血筋。
●以後、物吉貞宗は鍵付の箱に封印され、継承時にのみ使用されるようになる。宗春の隠居謹慎による家督相続であり、特に「家督の継承」を強調する必要から、家康の愛刀『物吉貞宗』を家臣の前で見聞→封印したのだろう。宗勝の時期に史料上での<物吉貞宗のレガリア化完成>が確認できるが、吉通〜宗勝の間に「物吉貞宗の継承=家督の継承」が成立していた可能性は十分にある。また、以前は9代宗睦が作らせたとされてきた『物吉記』『南泉一文字記』も、宗勝が作成を指示したのが明らかとなっている。
宝暦11年(1761)
6月22日 8代宗勝(56歳)、没→9代宗睦(むねちか)【物】
★宗勝の参勤交代は23回。宗睦は宗勝の次男。
明和元年(1764)
10月28日 7代宗春(68歳)、没
寛政11年(1800)
12月20日 9代宗睦(67歳)、没→10代斉朝(なりとも)【物】
★宗睦の参勤交代は26回。名古屋入り13回。宗睦の没により、義直の血を引く男系が全滅。10代斉朝は将軍家斉の弟の子。「物吉貞宗を継承する儀式」史料あり。
文政10年(1827)
8月15日 10代斉朝、隠居→11代斉温(なりはる)【物?】
★斉朝の参勤交代は17回。斉温は11代将軍家斉の19男。「物吉貞宗を継承する儀式」史料なし。斉朝が物吉を所有か?
●文政7年(1824)の記録に物吉の記載がなく、「南泉、後藤、本作長義、鯰尾」があるため、「物吉」のみ江戸か斉朝所有で、他の刀剣は名古屋城小天にあったのが分かる。「南泉、後藤、本作長義」がいつ尾張に動いたかは不明だが、仁分類の刀剣は使わなくなれば名古屋に戻す取り決めがあるため、綱誠没後に移動したのだろう。
嘉永3年(1850)
3月30日 10代斉朝(57歳)、没
天保10年(1839)
5月3日 11代斉温(20歳)、没→12代斉荘(なりたか)【物?】
★斉温の参勤交代はゼロ。12代斉荘は将軍家斉の11男。斉温の異母兄。「物吉貞宗を継承する儀式」史料なし。
弘化2年(1845)
7月6日 12代斉荘)(35歳)、没→13代慶臧(よしつぐ)【物】
★斉荘の参勤交代は4回。13代慶臧は御三卿の田安家の出身。物吉所有を示す史料あり。
嘉永2年(1849)
4月7日 13代慶臧(13歳)、没→14代慶勝(よしかつ)【物】
★慶臧の参勤交代はゼロ。慶勝は尾張徳川家の分家高須松平家の出身。
安政五年(1858)
7月5日 井伊直弼との衝突により、慶勝は隠居→15代茂徳(もちなが)【物】
★慶勝の参勤交代は8回。茂徳は慶勝の弟。
万延元年(1860)
9月 慶勝、謹慎解除
文久三年(1863)
9月13日 茂徳、隠居→16代義宜(よしのり)(5歳)【物】
★茂徳の参勤交代は5回で不規則。義宜は慶勝の三男。義宜の参勤交代はゼロ。
元治元年(1864)
10月 慶勝、第1次長州征伐の総督として出陣→長州、降伏
明治8年(1875)
11月24日 義宜(18歳)、没
明治16年(1883)
8月1日 14代慶勝(59歳)、没
★14代慶勝は物吉貞宗を使用したようであるが、物吉の継承=家督相続を厳密に守った場合、慶勝の使用期間は1849〜58年に限られる。ただ、万延元年(1860)に謹慎を解除されて以降は、藩政だけでなく幕政にも参加しており、第1次長州征伐でも出陣している。この際、物吉貞宗を池田正宗とともに大小として使った可能性があるかもしれない。ちなみのこの時の参謀は西郷隆盛。
●明治に作成された「世襲財産附属物目録(せしゅうざいさんふぞくぶつもくろく)」により、「物吉、南泉、後藤、本作長義」は東京の本所横網町にあり、「鯰尾」は名古屋大曽根にあるのが分かる。この5振が1カ所に揃って動かなくなるのは、徳川美術館構想が始まった昭和になってからだろう。
以上のように、物吉貞宗は光友→吉通と継承される際に価値が上昇し、その後、吉通〜宗睦までの間にレガリアとなった。刀剣に限らず、初代や先代から継承してきた名物の「重宝化」はどの大名家でもあることで、特に珍しい話ではない。
ただ、「重宝故の封印」や「物吉の継承=家督相続」まで付加価値が高くなっていった「脇差」はあまりないだろう。
参考文献
『尾張の殿様物語』(徳川美術館)
参考論文
「『物吉貞宗』の継承と権威化」(『金鯱叢書49』)https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinkososho/
「『秘記』にみる元禄から寛保年間の盛岡藩(一)ー幕府と盛岡藩の馬政を中心にー」https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202717105664
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7頁:刀剣乱舞の修行
*注:こちらは物吉貞宗の「修行」のネタバレとなります。
刀剣乱舞の物吉貞宗は「修行」で尾張徳川家初代義直のところに行った。
徳川家康ではなかったので、「?」となったが、ソハヤの刀帳で「主を変えて使われ続ける在り方」が物吉を指しているのなら、妥当ではある。
ただ、問題はその内容だ。
物吉は義直のもとで「尾張新陰流」を学び、修行後に「手合わせ」でソハヤとその話題(特殊台詞)をする。
他の刀剣にはない会話で、それはいい。
問題は3通目だ。
物吉は、
「家光公が病に倒れられて、義直様は万一の際幕府を守るために出陣したのですが、幕府の皆さんには将軍職を狙っての行動と勘違いされてしまいました」
と書いている。
この話は前に義直のwikipediaに書いてあったが、今は消去されていて存在しない。
(何故か、「刀剣ワールド」にはある。ここの人物情報は参考にしてはいけないレベルでヒドイ)
自分も色々と史料(「徳川実紀」「徳川年譜」「編年大略」「源敬様御代記録」「名将言行録」)を探したが、「義直が家光の病を知って急いで江戸に向かい、どうして命令がないのに来たのかと問いただされた」とはあっても、軍勢を率いて江戸に向かったと記すものはなかった。
物吉は続けて、
「そう思われても仕方のない状況で、何故事を起こしたのか聞いてみました。義のためにそうする必要があるからやった、是非を問うまでもない、とのこと。たとえ他の誰かにどう思われようと、自分の信念を貫くこと。これが強さなのですね。ボクもそうなりやい。いえ、そうなってみせます。」
と書く。
刀剣乱舞がwikiを参考にしたのかどうかは知らないが、物吉貞宗の修行にとって大事な部分がネット情報のみになってしまっている。
もしかしたら、どこかに軍勢を出したと書いてある史料があるのかもしれないが、今の所、見つからない。
歴史情報系の雑誌が根拠だと探し出すのは困難だ。
(もし、根拠史料を知っているという方がいらっしゃいましたら、ご一報ください)
ゲームの設定なので根拠レスでも全然構わないのだろうが、どうにもモヤるので書いてみた。
刀剣乱舞は、修行先とは無関係の同姓同名人物の冑(かぶと)を着用して戻って来てしまったため、修正した先例がある。
修行内容の大事な部分が根拠レスでも対応しなさそうではあるが、これが事実だと思われても何なので最後の頁に置いておく。