南泉一文字の関連史料と鯰尾藤四郎,後藤藤四郎,本作長義など、尾張徳川家の刀についての情報を載せてあります。参考文献,参考論文,史料は各頁ごとに記載。2022.8.14改訂
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1≫1頁:南泉一文字の基本情報と由緒
2≫2頁:尾張徳川家の蔵番号、刀の拵、代金
3≫3頁:明治の世襲財産附属物目録
4≫4頁:『駿府御分物刀剣元帳』と南泉
5≫5頁:南泉一文字の拵と鐔.小柄
6≫6頁:本多正純(まさずみ)の書状
7≫7頁:ないせん疑問:豊臣秀吉遺物刀剣目録と大坂腰物帳
8≫8頁:南泉一文字の移動
(1)南泉一文字の基本情報
種類:刀
銘:無銘
号:南泉一文字
作刀時代:鎌倉時代
刃長:61.5cm
反り:1.8cm
鋒長:3.2cm
茎長:15.5cm
肌目:小板目
刃文:大丁子互の目交じり
目釘穴:3つ
茎:大磨上
文化財:重要文化財(昭和29年3月20日指定)
著名な所有者:羽柴秀吉,秀頼、徳川家康
逸話:猫を切断したことがあり、僧南泉にちなんで南泉と名付けられた。
(2)南泉一文字の由緒
南泉一文字の名がある史料を載せて、訳と解説を載せた。
南泉一文字の由緒は猫を切断したで統一されていて、所有者に足利家が増える以外の変動がない。
1、『詳註刀剣名物帳』
尾張殿(名古屋徳川侯爵家)
南泉一文字 摺上長貳尺貳寸三分 無代
昔此刀にて猫を切たる事あり、経山寺南泉の事に依て名けたる由、秀頼公の御物なり、慶安十六年三月廿八日二條城へ渡御の節秀忠公へ上る又拝領。
南泉の事は傳燈録に在り、慶安十六年とあるは誤りなり、慶長十六年三月秀頼公二條城へ赴き家康公に對面す、此時南泉一文字と則重を贈ると徳川御實記にあり、是なるべし、其のち尾張義直へ賜りしものか、今も侯爵家に在り。
↓
*訳:昔、この刀で猫を斬ったことがあった。経山寺の僧南泉のことにちなんで「南泉」と名付けたとのことだ。羽柴秀頼公が所有する刀であった。慶安16年(※注:慶安は4年までしかないため誤記)3月28日に二条城へ渡られた際に(秀頼公が)徳川秀忠公へと(この刀を)進上された。それを尾張徳川家が拝領した。
南泉という僧侶と猫のことは『伝灯録』にある。慶安16年とあるのは誤りである。慶長16年3月に秀頼公が二条城へ赴いて、家康公に対面したときに南泉一文字と則重(※注:『徳川実紀』には則重の記述はない。下記参照↓)を贈ったと『徳川実紀』にある。これが正しい。その後、(家康公に)尾張の徳川義直がもらったのだろう。今も名古屋の徳川侯爵家にある。
↓
☆注釈
南泉一文字は「無銘」「磨上」で、長さは二尺三分である。
上に二尺二寸三分とあるのは誤り。
「無代」とは値段が付けられないほど価値が高いという意味で、大典太光世や大包平なども同じく「無代」である。
南泉一文字は、徳川家康の遺品分配リストである『駿府御分物帳』に名があり、「上々御腰物」に分類されている。
「上々御腰物」は「徳川家康の刀(打刀)の中でも『上々=価値がとても高い』もの」という意味で、「将軍家」行きが決定している刀となる。
そのため、南泉一文字の移動ルートは秀頼→家康→秀忠→義直となり、一度、秀忠の手元に渡っているのが、上の「秀忠公へ上る」の記述につながったのだろう。
(元所有者の家康は元和2年(1616)死去)
2、『徳川実紀』(台徳院殿御實記)
三月廿八日
大御所まづ御盃をつかはさる。其時左文字の御刀。鍋藤四郞の御脇差をひかせ給ひ。此外大鷹三聯。馬十疋をくらせらる。其御盃返し進らせらるゝとて。一文字の刀。(南泉。)左文字の脇差を捧げらる。此外秀賴公よりは眞盛の太刀。黑毛馬一疋。金三百枚。猩々緋三枚。緞子廿卷進らせらる。
↓
*訳:大御所(徳川家康)は、先ず秀頼公に盃(酒)をお与えになられた。そのとき、左文字の刀(※注:大左文字のこと。現在は徳川美術館にある)と鍋藤四郎の脇差を秀頼公に贈られた。この他には大鷹三対、馬十匹を贈られた。秀頼公が盃のお返しをして、一文字の刀(号:南泉)と左文字の脇差を献上された。この他、秀頼公は、真盛の太刀、黒毛馬一匹、金300枚、猩々緋の織物3枚、緞子20巻を進上された。
↓
☆注釈
南泉が秀頼から家康に移動した場面である。
家康から秀頼に贈られた大左文字は、大坂の陣後に無事に回収されたらしく、『駿府御分物帳』に名がある。
この刀も将軍家に移った後、3代将軍家光が尾張徳川家(義直)に寛永二年(1625年)に贈与し、現在は徳川美術館にある。歴史的な場面で徳川⇄羽柴(豊臣)と入れ替わりながらも、今は南泉と同じ場所に現存する。奇縁と言えよう。
(但し、大左文字という号の刀は複数存在するため、本当に同一の刀なのか確証はない)
南泉一文字と共に家康の所有となった左文字は、家康遺品リストの「上々御脇差」に「秀頼より」と記されている左文字であろう。南泉とともに将軍家に移った。
『詳註刀剣名物帳』は同時に贈られた刀を則重と記すが、『徳川実紀』に則重の記述はない。
真盛の太刀も『駿府御分物帳』に「秀頼より」とある「さねもり」だろう。水戸徳川家に分与されている。
『徳川実紀』は幕府が史料を集めて編纂した徳川の歴史書である。この部分の引用先は『当代記』と『武徳大成記』で、「南泉」の号を記すのは『武徳大成記』であった。『武徳大成記』も編纂物で参考にした史料があるはずだが、こちらは史料名の記載がなく、何に「南泉」とあるのか分からなかった。
このとき秀頼→家康と移動した刀については、『詳註刀剣名物帳』より『徳川実紀』の記述が正しいようだ。
ただし、家康→秀頼と移動したと書かれている「鍋藤四郎」は、『豊臣家御腰物帳』では「鍋通貞宗」、『当代記』では「鍋通正宗」となっている。鍋藤四郎の可能性が低いため、全て『徳川実紀』が正しいワケではない。
3、『古今鍛冶名寄』
南泉一文字 二尺三寸磨上ケ無代
此刀ニテ猫ヲ切リタル事有南泉僧ニ准シ名付由
↓
*訳:この刀で猫を切ることがあったので、南泉僧にちなんで名付けられたという由来がある。
↓
☆注釈:こちらの長さも誤っている。正確には二尺三分。磨上で無代であることと、号の由来だけ簡潔に記してある。
4、刀剣付属文書『南泉一文字記』(尾張藩主:8代徳川宗勝撰)
「室町家、軍府ニ在ルノ日、工ニ命ジテ之(これ)ヲ礪(と)ガシム。壁ニ挂(か)クルノ際、一猫児有リ。跳ッテ刃ニ触レ、断タレテ両段トナル。驚異シテ以テ神物ト為シ、乃(すなわ)チ南泉ト号ス。蓋(けだ)シテ之ヲ普願禅師、猫ヲ斬ルノ話ニ取ルカ」
↓
*訳:足利将軍が執務がある日に、研ぎ師に命じてこれ(南泉一文字)を研がせた。壁にかけていたとき、1匹の子猫がいて、飛び上がって刃に触れたところ、子猫が両断された。(この切れ味に)驚いて霊妙なものとした。そして、(この刀を)南泉と号した。おそらく、これは普願禅師の猫を切る話から取ったのだろう」
★所有者について
名物帳には「足利将軍家」所有の記述はない。
足利将軍家所有を記すのは、尾張徳川家の『南泉一文字記』のみである。
『南泉一文字記』は尾張徳川家の8代宗勝が作成させた南泉の由緒書で、同時に物吉貞宗の『物吉記』も作られている。
他に足利将軍家所有を記す史料があれば別ではあるが、尾張徳川家の由緒書にしか記述がないため、南泉一文字が「足利将軍家」の刀であった可能性はかなり低い。
(物吉の号の由来を「吉祥=幸運」とするのも尾張徳川家の『物吉記』のみで、他の史料には「よく切れる良い物だから、物吉」とある)
そのため、南泉一文字については足利将軍家は「可能性の話」とし、
(確実な)所有者:羽柴秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→義直→以後、尾張徳川家の藩主
としておくべきだろう。
ーーー
2頁:尾張徳川家の蔵番号、刀の拵、代金
尾張徳川家の刀には「蔵番号」がある。
時期により付け方は変わるが、番号が刀剣の価値や分類を示すのは常に同じ。
『延享元帳』では「一番〜拾一番」に分け、由緒・来歴・形態で「いろは〜つね番外」に分類。
(例:物吉貞宗は「い印の一番」)
『文政元帳』では由緒・来歴の重要度で「仁義礼智信」に分けて、形態で「一、二」に分類。
「鞘書」は明治になってからの番号のようで、文政元帳の分類を継承。
「一、二」の後の番号が若いほど価値(ランク)が高いらしい?
(このあたりは未確認)
以下に南泉、本作長義、後藤藤四郎、鯰尾藤四郎の「番号」と「拵」の有無を記す。
「拵」は刀が「使われた証=愛刀の証」であるため、拵の有無は重要である。
(物吉の分は物吉用のベッターに)
(とうらぶの山姥切長義のモデルとなる刀は、本作長義で記す)
なお、使用図録の関係で番号が分からないところは不明のままとする。
おまけで「代金」もつけた。
1、南泉一文字
・拵は4つ。3つが現存。
・延享:不明
・文政:仁二ノ六十八(仁2―68)(脇差扱い)
・鞘書:仁一ノ六十五(仁1―65)
・代金:無代
↓
*解説
南泉は尾張徳川家では拵が3つも現存する「使われた刀」である。
拵3つの現存は、かなり愛された証拠であり、他にあまり類例がない。
家康が所有した刀であるため、最上級の「仁」分類。
二尺三寸のせいか、文政では脇差に分類されて「二」に入っている。
明治になってから、「一」分類となり、「刀」扱いになった。
代金は無代なので、付かない。
※注記:拵は4つなどについては5頁に記す。
2、本作長義
・拵はなし。
・延享:れノ十
・文政:礼一ノ六(礼1―6)
・鞘書:仁一ノ七十九(仁1―79)
・代金:金15枚
↓
*解説
拵は確認できない。
3代綱誠(つななり)が延宝9年(1681)に152両1分で購入。
本阿弥光務への手数料43両2分込みなので、実際は108両3分らしい。
「れ」は「御買上御刀之分」なので、買われた刀分類。
「礼」は「御帯御手當之部」で、さほど評価は高くない。
「礼」の刀は当主やその息子の差料(腰に差す刀)候補の刀剣となる。
1681年に買われて文政5~7年(1822~24)に「礼」分類だから、一度も差料になっていないようだ。
(綱誠は本作長義を欲しくて買ったのではない?と論文で推測されていた)
「一」は「太刀、刀」分類で、長さが二尺三寸六分の長義は常に「刀」の扱い。
鞘書で「仁」にランクアップしている。
次頁の「鑑査状」からして、明治期に入って評価が変わっている。
尾張徳川での簡単な由緒書も次の頁にある。
3、後藤藤四郎
・拵の記録はある。
・延享:不明
・文政:仁二ノ十九(仁2―19)
・鞘書:仁二ノ参拾七(仁2ー37)
・代金:5000貫
↓
*解説
2代光友が3代将軍家光から「五月雨江」と共に貰った。
2代光友は息子綱誠の結婚祝いに「五月雨江」とセットでプレゼント。
この際に拵があるのが確認できる。
(恐らく、五月雨江とお揃いの拵だったハズ)
展示に後藤の「柄」が出たが、ダメになっていたので、管理される対象になっていなかったモヨウ(=使われていない)。
将軍からの贈与品なので「仁」分類。
お値段は無茶苦茶高い。
4、鯰尾藤四郎
・拵は1つある。
・延享:不明
・文政:仁二ノ四十一(仁2―41)
・鞘書:仁二ノ四(仁2―4)
・名物帳では無代
↓
*解説
鯰尾には拵と大小関係にある太刀国俊がある。
使われていたのは確かだが、いつ、誰がかは不明。
鞘書のランク(番号)が若くなっているので、幕末から明治期に使われたかも。
鯰尾は江戸時代は一期一振とともに名古屋城の「小天守(=物置)」にある。
家康の遺品扱いとなるため、「仁」分類。
以上の内容は図録『徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具』から。
ちなみに、物吉貞宗には『文政元帳』の蔵番号がない。
『文政元帳』記載の刀は「尾張にあった刀」に限られるので、物吉は尾張になかったことになる。
このときの藩主は10代の徳川斉朝(なりとも)で、17回(片道1回カウント)の参勤交代はしているのだが、入っていない。
物吉貞宗は元帳記載の際に名古屋になかったか、記載対象外だったのだろう。
逆に上記の4振は『文政元帳』が作成されたとき、確実に尾張名古屋にあった。
尾張徳川家は「仁」分類で「使わない」刀は、直ぐに名古屋に移す決まりになっていた。
鯰尾は慶安4(1651)年の段階で名古屋城小天守にあったのが分かっている。
恐らくそのままずっと名古屋にあった。
他の3振も使わないと判断されたら、随時、名古屋に移されたのだろう。
明治期の保管場所などについては、次の頁に。
藩主の参勤交代や物吉の封印などの話については、物吉のベッターをどうぞ。
https://privatter.net/p/1583579
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3頁:世襲財産附属物目録
明治に尾張徳川家の「財産」を記した「世襲財産附属物目録(せしゅうざいさんふぞくぶつもくろく)」を載せる。先の明治5年の『御腰物元帳』と合わせて、明治時代の尾張徳川家における「財産」としての価値が分かる史料となる。
徳川美術館発行の論文集『金鯱叢書45』の「尾張徳川家における世襲財産附属物」に明治時代の目録(世襲財産附属物目録)があり、所有刀剣の情報が載っている。
「世襲財産附属物目録」は明治19年に「華族世襲財産法」の制定により作成された。
尾張徳川家は明治26年に630点の什器(じゅうき)を目録に載せて提出した。
その中には家康の書状や掛け軸、茶器、刀剣などがあり、物吉貞宗や南泉一文字の名がある。
南泉一文字と本作長義の部分を以下に記す。
(↓物吉は物吉用のベッターに)
https://privatter.net/p/1583579
先ずは「南泉一文字」である。
○「世襲財産附属物目録」
・号数:606
・作品名員数等:刀 名物南泉一文字 無銘 一口
・伝来:右昔此刀ヲ以テ猫ヲ截リタルコトアリ之ニ依リ南泉和尚猫ヲ切ルノ義ヲ取リ以テ名ケシト云豊臣秀頼之ヲ慶長十六年三月廿八日二条ノ城ニ於テ徳川家康ヘ贈リ家康又之ヲ当家初代義直ヘ譲与セラル義直又之ヲ二代将軍徳川秀忠ヘ呈ス其後再ヒ当家ヘ贈与セラレタルモノナリ
・保管場所:本所横網町
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*伝来の訳:右は昔この刀で猫を裁断したことあったので、南泉和尚が猫を切ったことにちなんで名をつけたという。豊臣秀頼がこれを慶長16年3月28日に二条城で徳川家康に贈った。家康はこれを尾張徳川家初代義直に譲った。義直はこれを二代将軍徳川秀忠に進上した。その後、再び秀忠が義直に贈与したものである。
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※解説
猫を切ったから「南泉」との号になった部分は他の由緒と同じ。
移動ルートも秀頼→家康まではOK。
ただ、これもその後のルートを家康→義直→秀忠→義直としている。
移動ルートの検証は4頁に載せた。
次が「本作長義」である。
・号数:613
・作品名員数等:刀 備前國長義 追銘 一口
・伝来:右ハ延宝九年酉六月代金百五拾貳両壱分ニテ当家へ買入爾来相伝ス
・保管場所:本所横網町
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*伝来の訳:右は延宝九(1681)年酉年の6月に152両1分で当家が買い入れたものである。以来、当家に受け継がれて来た。
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※解説
「本作長義〜」と長い追銘については何もなく、購入代金と受け継いできたことだけが書いてある。
南泉の「号」と違い、追銘の内容は特に重要ではないらしい。
1両=13万円で計算(13万×152)すると、1,976万円になるが、
手数料を引いた(13万×108)だと、1,404万円となる。
お高い金額であるが、刀としてはそこそこ。
(尾張徳川家には3,000両の価値が付けられる刀剣も存在する)
保管場所は南泉や後藤と同じ東京の網横町の邸(やしき)である。
幕末期(文政)には名古屋にあったが、他の刀剣類と一緒に移動させたようだ。
鯰尾だけが名古屋から動いていない。
この「世襲財産附属物」は目録作成前に鑑査を受けており、「鑑査状」がある。
価値に応じて「等級」が付いていて、南泉一文字と本作長義の名もある。
*注意:「鑑査状」には「備前長義」とあるだけであるが、「世襲財産附属物」に他の長義が存在しないため、「本作長義」のことであろう。(てゆーか、監査官の鑑査状…)
○「鑑査状一覧」
・等級:2
・番号:6558
・名称:刀 南泉一文字作 無銘 一口
・指定日:明治24年8月1日
・等級:3
・番号:6598
・名称:刀 備前長義作 無銘 一口
・指定日:明治24年8月1日
↓
※解説
等級は重要度(価値)のランクになる。
南泉一文字の等級は「2」。
等級「1」の刀は「来孫市郎作」と「正恒」の2振のみ。
南泉と同じ「2」には銘入の刀が6振、無銘が2振。
無銘で等級「2」は物吉貞宗と南泉一文字である。
備前長義(本作長義)の等級は「3」。
後藤藤四郎が「4・5」で鯰尾はランクが「5」以下なのか掲載されていない。
(鑑査状の掲載があるのは等級「5」まで)
備前長義のランクが家康所有の池田正宗(文政:仁1-1)や鳥飼国俊と同じである。
つまり、鑑査状でのランクは、
物吉、南泉>>本作長義>>後藤>>鯰尾?
となる?
江戸時代の「代金」と評価が一致していない。
明治になってから評価が変わる理由は何だろうか?
ついでなので、比較用に鯰尾と後藤の「世襲財産附属物目録」と後藤の「鑑査状」も載せておく。
明治には、物吉、南泉、後藤、本作長義は東京の網横町にあり、鯰尾だけ名古屋なのが分かる。
・号数:474
・作品名員数等:脇差 名物鯰尾吉光ト称ス 在銘 一口
・伝来:右ハ鵜首造ノ形チ鯰尾ニ似タルヲ以テ其称アリ元ト薙刀ヲ刀ニ直シタルモノナリト云自而シテ此刀ハ豊臣家所持ノ品ナリシカ大坂落城ノ後当家ニ傳リ先祖以来相傳ス又大坂城落城ノ際一旦火災ニ罹リタルモノヲ当時越前下坂ヲシテ焼直サセシメタル旨当家旧記ニアリ
・保管場所:名古屋大曽根邸
・号数:595
・作品名員数等:短刀 名物後藤藤四郎吉光 在銘 一口
・伝来:右古昔後藤庄三郎ナル者所持セシニヨリ其称アリ寛永五年九月三日三代将軍徳川家光土井大炊頭邸宅ヘ臨マレタルトキ大炊頭此刀ヲ呈ス同十六年九月廿二日家光ノ女当家二代徳川光友ヘ結婚ノ際家光ヨリ贈与セラレ以来当家ニ相伝ス
・保管場所:本所横網町
・等級:4・5
・番号:6658
・名称:短刀 後藤藤四郎作 二字銘 一口
・指定日:明治24年8月1日
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以上の史料はネット上でも確認できる。
下にリンクを張っておいた。
複数の論文が掲載されており、pdfでやや重めなので注意。
該当論文:http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f8b3e3319ed707936b7575e956800bc715095cda.pdf
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4頁:『駿府御分物刀剣元帳』と南泉
『駿府(すんぷ)御分物(おわけもの)刀剣元帳(とうけんもとちょう)』は、家康の遺品分配リストである。
徳川家康は元和2年4月17日に病没(死因は胃がん)し、遺品は将軍秀忠と御三家(尾張,紀伊,水戸)に分配された。
刀剣も分けられて、どこへ渡すのかを記したリストが作成された。
それが『駿府御分物刀剣元帳』である。
昭和48年(1973)5月に水戸家で発見された史料で、これにより初めて家康の遺品であった事実が判明した刀剣も数多い。
参照→徳川家康の所有刀剣https://privatter.net/p/3925704
南泉一文字はこの『駿府御分物〜』に記載されている。
家康の南泉所有は『徳川実紀』にも尾張徳川家の記録にもあるが、『駿府〜』でより確実となった。
ただし、尾張徳川では南泉の移動を「家康→義直→秀忠→義直」とする。
『駿府〜』を根拠とすると、「家康→秀忠→義直」になる。
以下に『駿府〜』の一部を載せて、説明する。
「上々御腰物」の「上々」は家康の遺品刀剣の中でも「最も良いもの」を示す。
ランクは、上々→中→下となっている。
(分配先)が空欄の場合は「将軍家」行きの刀である。
(進上者)は家康にその刀を贈った人物となる。
明暦の大火などで焼けた刀には「×」印を付けた。
「上々御腰物」
(号or銘) (分配先) (進上者)
一 國宗
一 二字國とし
一 さゝつくり ×
一 のた正宗
一 とうおちなかミつ 本多正純
一 志め丸行平御太刀 ×
一 なんせん一文字 羽柴(豊臣)秀頼
一 菊一文字 小早川秀秋
一 守家 徳川秀忠
一 御ほりいたし貞宗
一 大左文字 本阿弥(大坂城の刀)
一 大國綱 × (大坂城の刀)
一 吉光 (大坂城の刀)
以上13
「上々御脇差」
一 天國
一 志津 宇喜多秀家か?
一 宗近
一 きふ國吉 ×
一 久國 本願寺門跡か?
一 光包 加藤清正
一 吉光 徳川秀忠
一 國吉 松平忠清
一 左文字 羽柴(豊臣)秀頼
一 貞宗 黒田長政
一 清水藤四郎 本阿弥(大坂城の刀)
一 ほうてう吉光 × 徳川秀忠
一 たいこかね貞宗 小早川秀包
以上13振
↓
※解説
『上々〜』の刀剣には分配先の記述がないが、上々に分類されている「ほうてう吉光(包丁藤四郎)」、「志め丸」は明暦の大火で江戸城で焼けた。
同じく「上々〜」分類の「たいこかね貞宗(太鼓鐘貞宗)」は将軍から伊達家に贈与。
これらからも『上々〜』分類の刀はまとめて将軍家に分配されたと分かる。
尾張徳川家の「家康→義直→秀忠→義直」は『駿府〜』によって否定され、南泉の移動ルートは「家康→秀忠→義直」となる。
『上々御脇差』の「左文字」が「南泉一文字」と同じく「羽柴(豊臣)秀頼」からの贈答品であ。
慶長16年に二条城で秀頼→家康と移った「左文字」であるようだ。
ちなみに『上々〜』以外の刀剣は下のように分配先が入る。
「中之御腰物」
一 つるか正宗
一 大かき正宗 最上家親か?
一 かう 尾州 鍋島直茂
一 則宗 徳川秀忠
一 とうおち三原 駿河 齋村政廣
一 左文字 水戸 滝川雄利
↓
3つ目の「かう」は「鍋島江」である。この時点では「号」がない。尾州が尾張徳川、駿河がのちの紀伊徳川、水戸が水戸徳川、未記入が「上々〜」と同じく将軍家行きとなる。
また、『駿府〜』の最後にはこう記される。
「右之分改渡申候三所之書付 無御座候分者長持壹つニ入御天主ニ預ケ置申候 以上」
↓
*訳:右の分は、改めて三つの所(=御三家)に申し渡します。配分先が記入されていない分は、長持一つに入れて、駿府城の天主に預けておきます。以上」
↓
●解説
未記入の刀は1つの長持に入れられて「御天主=駿府城の天守閣」に置かれた。太鼓鐘貞宗が元和3年12月に伊達家に贈与されていることから、この長持はそれ以前に駿府城から江戸城へと運ばれたのだろう。その後、南泉一文字は初代藩主徳川義直の時期に将軍秀忠から贈与されて尾張徳川家に移り、今に至るのだ。
5頁:南泉一文字の拵と鐔
拵(こしらえ)とは、柄や鞘などの刀装具のことである。
南泉一文字の拵は3つ残る。
刀剣乱舞の南泉のシャツと拵に全て詰め込まれていたので、書いておく。
1、梨子地刻小サ刀拵
鍔:葵紋散秋草図赤銅鍔
笄:桐紋五双笄
小柄:桐紋三双小柄
小刀:銘相模守藤原政常
↓
読み「なしじきざみちいさがたなごしらえ」
とうらぶでは、小尻側の鞘がこの拵である。
笄(こうがい)もこの桐のデザインを使っているもよう。
南泉は二尺三分のサイズで尾張徳川では「脇差」に分類していた。
(にっかり青江が一尺九寸九分なので僅か四寸(約1.2cm)差)
初代義直が晩年に誂(あつら)えさせた拵とされる。
3代徳川綱誠も使用。
元来は鐔がなく、合口拵だった。
また、「2」の金霰の拵と金具類が取り替わっている。
(図録『桃山〜天下人の100年』より)
2、蠟色金霰小サ刀拵
鍔:波に露図赤銅鍔
笄:1と併用
小柄:1と併用
小刀:1と併用
↓
読み「ろいろきんあられちいさがたなごしらえ」
とうらぶでは、鍔寄りの鞘がこの拵である。
上と同じく「小サ刀」表記。
とうらぶの鍔の形状はこちらの方が近い。
上の「1」と同じく元は合口拵で鐔はなかった。
この拵は2代光友が制作させたとされる。
3代綱誠も使用。
南泉一文字は初代〜3代に愛用された可能性が高い。
3、金襴包刀拵―16代徳川義宜所用
鍔:虫尽赤銅鍔
笄・小柄:蕨土筆図笄・小柄
銀小刀:銘壽命(じゅみょう)
↓
読み「きんらんづつみかたなごしらえ」
とうらぶでは、南泉のシャツがこれ。
笄(こうがい)と小柄(こづか)の土筆(つくし)がカワイイのだが、とうらぶの南泉は上の笄っぽい。
16代藩主光宜所用の拵。
大小となる短刀「朱銘左安吉」とお揃いの拵である。
4、拵に関する史料
次の史料は2代光友が初代義直から相続した刀剣の帳である。
南泉一文字の拵について記されている。
慶安五年(1652)「御腰物御脇指元帳」
磨上無銘
一 南泉一文字御小サ刀 代不知 御拵有 大殿(光友)様より
御少サ刀拵二通 御目貫笄小刀柄赤銅紋金倶利伽羅龍
御目貫笄小刀柄惣赤銅紋桐
御脇差拵一通 御目貫赤銅色絵雨龍
是ハ寛文十二年(1672)子ノ三月廿五日被為進候
●解説
少サ刀は、儀式に用いられる刀を示すので、南泉は
拵二通、脇差拵一通と、この時点で南泉に三つの拵があるのが分かる。
南泉はこの3つの拵ごと光友から綱誠に受け継がれた。
上記の「3、金襴包刀拵」はこれに含まれないため、南泉は4つの拵持ちとなる。
その4つ目の「脇差拵」について下に記す。
5、南泉一文字の脇差拵
上記の史料には、
「御脇差拵一通 御目貫赤銅色絵雨龍」
の記述もある。
この「脇差拵」には他の拵と違って、小柄と笄がない。
となると、物吉と同じ鐔がない合口拵か、もしかしたら、下に記した名物「曙・残雪」がこの拵の鐔だった可能性もある?かもしれない。
ただ、名物の鐔が付属していたら、拵の記述に添えるだろう。
そのため、鐔はなかった可能性も高いが、「小サ刀拵」の方も「鐔」の記述がないため、確証はない。
尾張徳川家で脇差に分類されていた南泉一文字には、「脇差」としての「拵」があった。
6、南泉一文字の脇差拵か?
『黎明会名刀図録』に南泉一文字の拵についての記述があった。
上の「1、2」の小サ刀拵とは一致しないため、もしかしたら、これが「5」の脇差拵のことなのかもしれない。
以下に記す。
目貫:不定
鞘:黒塗
柄:黒鮫
柄巻糸:殿茶(とのちゃ)色
鍔:鉄の透かし
小サ刀拵と違って全体的に黒っぽく、物吉貞宗の拵に近い渋い色彩である。
目貫が「不定(=定まっていない)」なので、上の脇差拵の「赤銅色絵雨龍」と一致しない。
ただ、鍔の「鉄の透かし」は下に載せた名物「残雪」のようだ。
2代光友の拵とあり、「御腰物御脇指元帳」の記述とは矛盾しない。
これが脇差拵である確証はないが、南泉一文字の鍔とされる「残雪」の使用が確認できる記述である。
(一振の刀に拵4つ…3つでも他の事例を聞いたことがないのに、マジで愛されてる。特に2代光友は南泉一文字を好き過ぎだ)
拵の写真と史料は『徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具』に載っています。
史料は後ろの解説にありますが、狙ったように本作長義(山姥切長義)と南泉一文字のが使われています。
2振についての解説も書かれていますので、気になる方にはおススメです。(通販もあります)
下は名物である「鐔」について、です。
◎南泉一文字の「鐔(つば)」と『小柄』
南泉一文字には上記の拵に付属する「鐔」以外に、家康ゆかりの名物の「鐔」と「小柄」が付属する。
「鐔」は『刀剣名物記』に、「小柄」は『玉置卜之書状』に記載がある。
・『刀剣名物帳』
尾張様南泉一文字、長サ二尺三分、無代スリ上乱刃銘無、秀頼公より権現様江被進其後源敬様(義直)御拝領ノ由、此御拵カカル御鍔ハツレ雪に剣形、御腕貫穴アリ、三枚の鍔、残雪、曙、八橋ナリ
↓
○訳
尾張徳川家の南泉一文字は、長さが二尺三分で、無代、磨り上げ、乱刃、無銘の刀である。秀頼より家康へ進上され、その後、義直が(家康から)貰ったとのことである。この拵にかけられる鍔は、雪に剣の透かし、革緒を通す穴がある。三枚の鍔があり、残雪、曙、八橋である。
↓
※解説
南泉一文字についての内容は、今までと同じなので省略。
ここでは「鐔」について説明する。
この名物帳によれば、南泉には「鐔」が3つ付属している。
いずれも「名」がある「名物」で、号は「残雪・曙・八橋」である。
図録『家康の遺産』には「残雪・曙」の写真があり、家康所用の品とされている。
「八橋」は失われたのだろうか。
「残雪・曙」はともに丸形の鉄鍔で、金銀の装飾は全くなく、見た目は非常に渋い。
「御鍔ハツレ雪に剣形〜」と史料に説明が載るのが、「残雪」である。
「御腕貫穴アリ」の部分は、残雪にある2つの穴のことだろう。
(写真からの推測であるが、この2つの穴は後から空けられたように見える)
「腕貫(うでぬき)」は「革緒(かわお)」のことで、革緒は鍔につけて手首に通して使い、刀が手から離れないようにするためのものだ。
「残雪」は名物でありながら、実用的な備えがある。
家康らしい所用品であろう。
「曙(あけぼの)」は古本阿弥とされ、当初はあったらしい布目象眼がほとんど落ちているとのこと。
布目象眼で検索をかけると分かるが、もとはかなりきらきらした鐔であったようだ。
・『玉置卜之書状』
「右一文字之御拵尤透と不存候内、瑞竜院様御差料御脇指
御小柄之内、祐乗作と哉覧盲
亀ノ浮木之彫り殊之外古ク、素人
目ニハ見事ニも不見」
↓
※解説
訳がかなり難しいので、南泉に祐乗作「盲亀浮木」の小柄が付属していた?との情報がある、としておく。
この小柄は物吉貞宗に付属するとされていた名物であるが、実際は南泉に付属していたようだ。
となると、南泉一文字には、4つの拵ばかりでなく、名物の鍔と小柄まで付属していたことになる。
レガリア化した物吉貞宗には及ばないが、南泉の扱いは非常に良かったのが分かる。
元の所有者由来ではない【特有の「号」があり、来歴もよく、家康が所有、将軍家から拝領】の4つの条件が揃う刀はそうないからだろう。
また、「残雪」の箱には、下の和歌が金蒔絵で記されており、号のもととなったとされる。
「玉ほこ(鉾)の 道ある御代に ふ(降)る雪は むかしのあとぞ 猶残りける」(『風雅和歌集』巻第十五 雑歌上 法印覚懐)
*鐔への疑問
南泉一文字は元来は「合口拵」だったため、鐔はなかったハズである。
この名物が南泉に付属したとの話と矛盾する。
恐らく、江戸初期には鐔がなかったが、後に付属したのではないだろうか。
ーーー
6頁:本多正純(まさずみ)の書状
慶長16年3月28日に二条城で家康と秀頼の会見があった。
家康の家臣本多正純が、将軍秀忠付家臣への書状にその様子を記していた。
南泉一文字のことも書かれていたので、載せておく。
ただ、残念ながら、号はない。
態申上候、
一御譲位、一昨日【中略】
一秀頼様、昨廿八日大御所様江御禮被仰上候、其様子の御事
一秀頼様御供に、織田有楽【中略】
一二條の御所にて大御所様へ御禮被仰上候事【中略】
一三献の御祝御座候而、御一献目ニ、大御所様御盃秀頼様へ参、
其時大御所様より大左文字の御腰物、鍋通御脇差被進候、
其外御鷹三居(鳥屋之大鷹)、御馬十疋被進、
其盃大御所様へ参候時、秀頼様より、
●『一文字御腰物、左文字の御脇差』御進上被成候事
一高臺院様も、二條御所へ被成御座秀頼様御對面被成候事【中略】
三月廿九日 本多上野介正純
*解説
●をつけた『一文字御腰物、左文字の御脇差』の部分の「一文字」が南泉一文字のことである。
秀頼→家康と動いた刀剣には、号がない。
家康→秀頼と動いた刀剣には、「大左文字」と「鍋通」の号がある。
差出人の正純(まさずみ)が家康の側近であるから、家康側の刀剣の号は分かるのだろう。
書状に「南泉」の号がないかと期待して確認してみたが、なかった。
それでも、書状で刀剣の移動が確認できるのは稀少である。
後世の編纂物以外にも「(南泉)一文字」の移動が分かる史料として載せておく。
なお、冒頭の「譲位」は後陽成天皇が息子の後水尾天皇へ位を譲った件についての記述である。
家康は天皇の譲位関連を差配(=資金面などで援助)するために上洛した。
当然であるが、秀頼との面会より天皇の譲位の方が優先度が高いため、先に書かれている。
ーー
7頁:ないせん疑問『豊臣秀吉遺物刀剣目録』と『大坂腰物帳』
「南泉一文字」は「内膳一文字」ではないか、との疑問がある。
こちらの「江雪左文字について」に、「南泉」を「内膳」と記す史料があるのだ。
http://antarctica24.webcrow.jp/yusei/samonji.htm
『大日本古文書家わけ第二十二 蜷川家文書』で確認してみると、確かに「内膳一文字」とあった。
以下に該当部分を引用する。
「豊臣秀吉遺物刀剣目録」
残御物 御腰物
ほねはみ 吉光
一期一振 同
大郷
内膳一文字 *
朝倉長光
鯰尾藤四郎
正宗
義元左文字
ツクシ正宗
千鳥
ニッカリ青江
<中略>
合十六
御脇差
府中長光
<中略>
清水藤四郎
親子藤四郎
親身藤四郎
<中略>
国光
十三
<中略>
慶長三年七月吉日
↓
御腰物の4振目に「内膳一文字」とある。
ひらがなではなく漢字なので、「内膳」なのは確実。
この文書では、「南泉一文字」は「内膳一文字」である。
「残御物」は秀吉の遺品として分配されずに「残った御物」という意味であろう。
この場合の「御物」は「秀吉公の所有物」の意味になる。
つまり、この史料は秀吉が遺品として分配せずに、秀頼に継承させた刀剣を記したものとなるのだ。
面白いのは、骨喰、鯰尾、ニッカリが「脇差」分類でなく、一期も「太刀」分類ではない点だ。
4振とも「御腰物」分類となっている。
秀吉はこの4振を「腰物=打刀?」として使用したのだろうか。
(もしくは情報提供者か筆者の誤認か)
秀吉は慶長3年8月18日に病没した。
同年7月に前田家の屋敷で遺品を配ったとされるから、7月の記述は不自然ではない。
ただ、信ぴょう性はどうだろうか。
この文書は「蜷川(にながわ)家」の物である。
蜷川家は毛利家に仕えた系統と、長宗我部→徳川家康に仕えた系統に分かれていて、
この文書は長宗我部→徳川に仕えた蜷川家の文書である。
慶長3年は、蜷川親長(ちかなが)が長宗我部(ちょうそかべ)元親(もとちか)に仕えている時期になる。
蜷川家はもともと足利将軍家に仕えていた一族で、
足利義輝が殺害された後、蜷川親長(ちかなが)は長宗我部に嫁いだ親族を頼って四国に渡った。
長宗我部元親は慶長3年の年末まで上方にいるので、
蜷川親長も在京していて、上の刀の情報を入手したのだろう。
足利義輝に仕えていた関係で、親長は京都や秀吉周辺に知り合いも多い。
近衛前久、細川幽斎、板部岡江雪斎らとの交流も確認できる。
秀吉の元にはかつての主「足利将軍家」所有の由緒を持つ刀が多くある。
興味を持って情報を入手し、上の書付を残した可能性はある。
この「遺物」の並びは、秀吉→秀頼と継承された刀剣を記した
『大坂腰物帳』太閤様より有之の帳 とも高確率で一致する。
『大坂腰物帳』
御太刀御腰物御脇差
一之箱
ほねはみ刀 ◯
いちこ一ふり刀 ◯
大かう刀 ◯
なんせん刀 ◯
朝倉長光刀 ◯
大左文字刀
なまつ尾藤四郎 ◯
正宗刀 ◯
つくし正宗刀 ◯
よしもと左文字刀 ◯
ちとり刀 ◯
にっかり刀 ◯
<以下略>
↓
◯が付いている刀が蜷川文書と一致する上に、大左文字を除けば並びも同じである。
ただ、こちらでは「なんせん」となっていて、「内膳」ではない。
「蜷川文書」は「内膳」
『光徳押形』は「ないせん」
『大坂腰物帳』は「なんせん」
江戸時代の史料は「南泉」
さて、本来はどちらだったのか。
双方とも可能性はある。
ただ、「南泉が確実ではなくなった」とは言えよう。
(必然的に猫を切ったから南泉も弱くなる)
この蜷川文書の「豊臣秀吉遺物刀剣目録」は、「御脇差」の次に「御太刀」が載っている。
そこに、
<中略>
長光
三日月小鍛冶
二銘
吉房
二日■(ハ)サ■(メ) アラ■(ミ)もしくは(シ)
小国行
<後略>
三日月小鍛冶=三日月宗近?と二銘=二つ銘?らしき名があった。
二つ銘は秀吉が愛宕神社に預けたとされているが、慶長3年の時点でまだ秀吉所有だったのだろうか。
『大坂腰物帳』には名がないから、慶長3年から5年の間に愛宕神社に奉納されたことになる。
三日月宗近も同様に『大坂腰物帳』には名がなく、秀吉所有が確実ではないとされているが、ここにらしき名がある。
これが三日月宗近だった場合、高台院(北政所)は秀吉から形見分けで三日月をもらっていない。
秀吉は没するまで三日月宗近を所有していて、誰にも渡す気はなく、秀頼に継承させたことになる。
高台院(北政所)は、慶長4年に大坂城から京都の新城に移った。その際に秀頼から三日月をもらった、それ以前に秀頼からもらった、のどちらかになるだろう。
ただ、慶長4年には秀頼は6歳なので、三日月を高台院に渡す判断をしたのは秀頼ではなく、母の茶々さんか、側近の片桐且元であろう。
(片桐且元は大坂城の刀の管理担当なので、片桐さんの可能性が高い)
「豊臣秀吉遺物刀剣目録」の内容が正しければ、3つのことが変わる。
1.南泉一文字は内膳一文字だった。
2.秀吉は二つ銘を愛宕神社に奉納していない。
3.秀吉は三日月宗近を所有していて、何かの折に秀頼が高台院にプレゼントした。
今回の内容につきましては、
蜷川文書の「豊臣秀吉遺物刀剣目録」がどの程度信用できるのか分かりませんので、
どなたか詳しい方ににご意見を伺いたいところです。
ーーー
8頁:南泉一文字の移動
南泉一文字は一次史料で家康の所有期間が判明するほぼ唯一の刀である。
尾張徳川家に移ってからの移動もなく、豊臣以後の来歴は明瞭だ。
ただ、豊臣以前の来歴は不明で徳川将軍家→尾張徳川家と移動した年月日は絞れない。
また、尾張徳川家(徳川美術館)では、家康→義直→秀忠→義直とするが、元和二年の家康の遺品リスト『駿府御分物刀剣元帳』に「上々御腰物」に南泉の名があるから、家康→秀忠→義直、が正しいのではないだろうか。
という前提に基づいて、南泉一文字の移動を以下に記し、物吉他の出入りも入れてみた。
慶長16年(1611)
3月28日 南泉一文字、二条城において、秀頼→家康と移動
5月10日までに 家康、駿府城に着く。「南泉一文字」も移動か。以後、恐らく、駿府城にあった
*この時期に駿府城にあった刀剣については、以下を参照。
「刀剣乱舞の刀と徳川家康」https://privatter.net/p/4409859
慶長19年(1614)
10月11日 家康、駿府城を出立して京都へ→<大坂冬の陣>
(徳川実紀によれば、大坂の陣の佩刀は「宗三左文字」)
(また、脇差は則重との情報あり)
慶長20年(=元和元年,1615)
4月4日 家康、義直の婚儀のために駿府城を出立して名古屋へ
15日 家康、名古屋を出立して京都へ→<大坂夏の陣>
5月8日 秀頼、自害
6月29日 本阿弥又三郎が「骨喰藤四郎」を家康の元へ持参する
(家康の骨喰所有は不明瞭。受け取らなかったらしい)
閏6月16日 家康、大坂城の刀剣の再刃を命じる
8月23日 家康、駿府城に着く
12月11日 奥書にこの日付がある『光徳刀絵図』に「一期一振」他の再刃後の押形あり
(一期,鯰尾他の再刃刀剣はこの時点でまだ京都にあったか)
元和2年(1616)
1月21日 家康、田中城で体調悪化
(この間に、お亀の方が「物吉貞宗」を入手か?)
4月17日 家康、病没
18日 家康の遺体が久能山へ
(恐らく、「ソハヤノツルキ」は建物ができてから移動)
11月26日 家康の遺品刀剣分配リスト『駿府御分物刀剣元帳』完成
南泉一文字の分与先は空欄であるため、将軍家となる
(分与先が空欄の刀剣類は長持に入れられ駿府城の天守に納められた)
*なお、一期、鯰尾も分与先が空欄であるが、再刃刀剣が将軍家へ分与される可能性は低く、他の再刃刀剣が御三家に移っていることから、空欄でも尾張徳川家に移ったのではないだろうか。ただ、元和4年11月1日の日付がある尾張徳川家の「駿府御分物御道具帳」には一期,鯰尾の記載はない。これは尾張徳川家が作成した家康の遺品受け取りの確認リストである。これに名がない場合は、遺品として譲られてないことになる。
大坂城の再刃刀剣については、愛知県の犬山城に留められていたとか、尾張徳川家が一括して預かったとか、刀剣の本に色々な記述があり、移動ルートの確認が難しい。
南泉も「駿府御分物御道具帳」には名がない。家康→義直のルート否定の補強となる。
元和3年(1617)
12月18日 将軍秀忠が「太鼓鐘貞宗」を伊達宗忠へ=婿引出物
(南泉他の刀剣類もこれ以前に駿府城から江戸城に移動したのだろう)
*さて、以下から南泉が秀忠→義直と移動する可能性の羅列である。刀剣の贈答は、「御成=将軍の訪問」「大名の江戸入り」「大名が江戸を離れる」「結婚」「誕生」「死去」など、多くの機会に行われる。当時は参勤交代の一年江戸、一年領国の制度も確立していない上に、江戸を離れる(or江戸に戻る)際にはいちいち将軍に挨拶に上がった。当然、義直が秀忠に刀剣をもらう機会は多い。その機会を以下に記す。
物吉貞宗は【物】と記す。
元和3年(1617)
4月4日 義直、頼宣、頼房が江戸城へ出仕
7日 秀忠が義直、頼宣、頼房に振舞(=料理などの接待)をする
元和4年(1618)
12月17日 義直、頼宣が参府(=領国から江戸に到着)
元和5年(1619)
9月21日 秀忠が上洛の帰りに名古屋に宿泊
元和6年(1620)
閏12月17日 義直、頼宣が参府
同月 義直、頼宣、頼房の江戸邸(やしき)が完成
元和7年(1621)
正月23日 義直の屋敷から出火し、多数の大名屋敷が類焼
29日 秀忠、火災被害の大名らへ白銀を配布
元和8年(1622)
12月12日 義直、参府
28日 義直、秀忠に拝謁
元和9年(1623)
2月13日 秀忠、尾張徳川義直邸に御成
18日 家光、尾張徳川義直邸
28日 義直、就封(=領国への帰国)の暇(いとま=江戸を離れる挨拶)
6月 秀忠、息子家光に将軍職を譲る
寛永元年(1624)
2月15日 義直、日光社参の暇
27日 家光、紀州徳川頼宣邸へ御成:「大左文字刀」が頼宣→家光
(大左文字と呼ばれる刀は複数存在?義直に贈られた大左文字と同一刀剣かどうかは不明)
9月18日 義直、頼宣が材木を献上
寛永2年(1625)
2月26日 家光、尾張徳川義直邸に御成:「大左文字」が家光→義直
3月8日 秀忠、尾張徳川義直邸に御成
寛永4年(1627)
3月6日 義直、参府
5月3日 秀忠、尾張徳川義直邸に御成
6月21日 家光、尾張徳川義直邸に御成
7月6日 義直、家光に就封の暇
9日 義直、秀忠に就封の暇
寛永5年(1628)
6月11日 秀忠、尾張徳川義直邸に御成
8月9日 家光、尾張徳川義直邸に御成
9月28日 義直、就封の暇
29日 義直、秀忠に辞見(=江戸を離れるために将軍と対面)
*秀忠が饗応(きょうおう=振舞と同じ)ー義直の家臣らに多数の贈与あり
10月1日 義直、家光に辞見。家光も饗応。
寛永6年(1629)
2月下旬 家光、痘瘡(=天然痘)を病む
閏2月8日 義直、小田原で急ぎの参府不要と伝えられる
(丹羽長重,加藤嘉明,伊達政宗ら、多数の大名も途上で参府不要を伝えられている)
寛永7年(1630)
12月24日 義直、家光・秀忠に拝謁
寛永8年(1631)
2月29日 秀忠、尾張徳川義直邸に御成
3月1日 秀忠が病となる
(以後、しばしば、義直・頼房が秀忠の見舞いに行く)
6月6日 秀忠、義直を饗応
(特に就封の記事はないが、尾張に戻ったようだ)
8月4日 義直・頼房、秀忠の病悪化に急ぎ参府するも途上で不要と伝えられる
14日 義直・頼房、熱海温泉に入浴
19日 義直・頼房、熱海から領国へ戻る
12月2日 義直、参府
(以後、しばしば、義直・頼宣・頼房が秀忠を見舞う)
寛永9年(1632)
1月24日 秀忠、病没:秀忠の遺品として「宗三左文字と豊後藤四郎」が家光へ
●秀忠の没までに「南泉一文字」は義直に譲られるので、これ以前に義直のもとに「物吉、南泉、(大左文字)」と家康遺品刀剣が揃う。上記のように「御成」以外にも秀忠と義直の接触は多く、いつ、南泉一文字が義直に贈られたかを絞るのは困難である。
御成以外の参府、就封でも刀剣が贈られる事例が前田家他で多数確認できるので、南泉一文字を贈る機会は何度もある。
1ヶ所、気になったのが、*印を付けた寛永5年9月29日である。この日だけ義直の家臣への贈り物が記されていて物も良い。義直へも何か良い物が贈られている可能性は非常に高いが、義直への贈与品の記述がない。この機会に贈られた可能性があるのではないか、とちらっと思った。
いずれにせよ、新史料が出てこない限り、南泉一文字が尾張徳川家に移った時期を特定することはできない。
寛永16年(1639)
9月21日 家光の娘千代姫が尾張徳川家の光友へ嫁ぐ
9月28日 義直と光友、千代姫が江戸城へ
(光友が家光から五月雨郷と「吉光の脇差(後藤藤四郎)」をもらう=婿引出物)
慶安3年(1650)
5月7日 初代義直(49歳)、没→2代光友(みつとも)【物】
●光友のもとに「物吉、南泉、五月雨郷、後藤(この時点では号なし)」が揃うが、五月雨郷、後藤、南泉は家督相続に関係なく綱誠へと移動する。また、慶安四年(1651)に作成された『御天守ニ有之候 御腰物御脇差帳』に「一期、鯰尾」の記載があり、この2振が名古屋城天守にあることが分かる。
明暦3年(1657)
1月18日〜20日 明暦の大火:宗三左文字、包丁藤四郎、骨喰藤四郎他、が江戸城で焼ける
寛文7年(1667)
9月26日 綱誠(つななり)、広幡忠幸の娘と結婚
9月27日 光友が綱誠に五月雨郷と「吉光御脇差(後藤藤四郎)」を譲る
寛文12年(1672)
3月25日 光友が綱誠に「南泉一文字」を譲る
延宝9年(1681)
6月 綱誠が「本作長義」を本阿弥から購入
●綱誠のもとに「五月雨郷、後藤、南泉、本作長義」が揃う。物吉貞宗は1699年まで光友の所有で別。
元禄6年(1693)
4月25日 3代綱誠が尾張徳川家を継承
●綱誠のもとに「物吉、南泉、五月雨郷、後藤、本作長義」が揃う。ただし、綱誠が1699年に急死し、五月雨郷は綱誠の遺品として将軍家へ移動。
元禄11年(1698)
3月18日 将軍綱吉が尾張徳川綱誠邸に御成:「亀甲貞宗」を綱吉へ進上
●短期間だが、「亀甲貞宗」が尾張徳川の江戸屋敷で同居。尾張徳川家が亀甲貞宗を入手したのは、盛岡藩の『秘記』によれば、「元禄10年(1697)7月22日」である。ただし、このとき、物吉貞宗は光友所有で綱誠の所にはない。
元禄12年(1699)
7月1日 3代綱誠(47歳)、急死→4代吉通(よしみち)
11月 光友が吉通に多数の所有刀剣を譲る。【物吉貞宗の継承】
●4代吉通の代から「物吉貞宗」を使わなくなり、箱に入れて中御座の間の床の上に置いていたようだ。火事などになったときは小姓衆が持ち出すことになっていたらしい。(物吉貞宗は他の刀剣と別置きとなる)
元禄13年(1700)
11月26日 2代光友(75歳)、没
正徳3年(1713)
9月15日 4代吉通(23歳)、没→5代五郎太【物】
10月18日 5代五郎太(2歳)、没→6代継友(つぐとも)【物】
享保15年(1731)
1月5日 6代継友(39歳)、没→7代宗春(むねはる)【物】
元文4年(1739)
1月12日 7代宗春、隠居謹慎
1月13日 8代宗勝(むねかつ)、尾張徳川家を継承【物】
3月11日 宗勝、家臣らが居並ぶなか「物吉貞宗」を見聞したのち、封印
●以後、物吉貞宗は鍵付の箱に封印され、15代慶勝のときまで使われなくなる。
宝暦11年(1761)
6月22日 8代宗勝(56歳)、没→9代宗睦(むねちか)【物】
明和元年(1764)
10月28日 7代宗春(68歳)、没
寛政11年(1800)
12月20日 9代宗睦(67歳)、没→10代斉朝(なりとも)【物】
●宗睦の代に『物吉記』『南泉一文字記』が作られる。宗睦の没により、義直の血を引く男系が全滅。11代斉温は参勤交代をせず、江戸に在住。
文政10年(1827)
8月15日 11代斉温(なりはる)、尾張徳川家を継承【物?】
●文政七年(1824)の記録に物吉の記載がなく、「南泉、後藤、本作長義、鯰尾」があるため、「物吉」のみ江戸で他の刀剣は尾張(恐らく名古屋城天守)にあったのが分かる。「南泉、後藤、本作長義」がいつ尾張に動いたかは不明だが、仁分類の刀剣は使わなくなれば名古屋に戻す取り決めがあるため、綱誠没後に移動したのだろう。
嘉永3年(1850)
3月30日 10代斉朝(57歳)、没
天保10年(1839)
5月3日 11代斉温(20歳)、没→12代斉荘(なりたか)【物?】
弘化2年(1845)
7月6日 12代斉荘)(35歳)、没→13代慶臧(よしつぐ)【物】
嘉永2年(1849)
4月7日 13代慶臧(13歳)、没→14代慶勝(よしかつ)【物】
安政五年(1858)
7月5日 井伊直弼と衝突により、慶勝は隠居→15代茂徳(もちなが)【物】
文久三年(1863)
9月13日 茂徳、隠居→16代義宜(よしのり)【物】
明治16年(1883)
8月1日 15代慶勝(59歳)、没
●明治に作成された「世襲財産附属物目録(せしゅうざいさんふぞくぶつもくろく)」により、「物吉、南泉、後藤、本作長義」は東京の本所横網町にあり、「鯰尾」は名古屋大曽根にあるのが分かる。この5振が1カ所に揃って動かなくなるのは、徳川美術館構想が始まった昭和になってからだろう。
参考文献
『尾張の殿様物語』(徳川美術館)
参考論文
「『物吉貞宗』の継承と権威化」(『金鯱叢書49』)https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinkososho/
「『秘記』にみる元禄から寛保年間の盛岡藩(一)ー幕府と盛岡藩の馬政を中心にー」https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202717105664