ソハヤノツルキウツスナリについて書き残している史料を載せ、訳と翻刻をしてあります。(*2020.12.26:7頁に三池御腰物図の識、三池御刀御雛形写取之儀ニ付覚を追加)
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「妙純伝持ソハヤノツルキウツスナリ」(伝光世作)に関する史料で手に入ったもの&くずし字を活字にしたものを載せた。
この刀の大きな特徴は、名刀を集めた「刀剣帳」に載らない点である。
久能山東照宮に収蔵された家康の遺品のなかでも、この刀は「(ご神体ではないが)ご神体同然」として扱われたため(現代はたびたび徳川関係の展示に出張するが)、気安く採寸もできないし、押形も取れなかった。
そのため、ソハヤノツルキに関する史料は「名刀帳」ではなく、下のような刀剣がメインではない書物に偏る。
先ずはソハヤノツルキの「基本情報」を載せておく。
種類:太刀
銘:無銘(伝光世作)
所持(切付)銘:佩表「妙純傳持ソハヤノツルキ」佩裏「ウツスナリ」
号:なし(文化財登録名は「革柄蠟色鞘刀(かわづかろいろさやかたな)」
刃長:67.9cm
反り:2.4cm
元幅:3.9cm→比較:大典太:3.5cm
先幅:2.7cm
鋒長:2.1cm→比較:大典太:3.35cm
鋒(きっさき):猪首鋒
肌目:板目肌
刃文:中直刃で喰違刃、湯走り状の二重刃交じり、小沸よくつき匂口冴える
茎(なかご):雉股形
鑢目:切→比較:大典太:切
目釘穴:2個
文化財:重要文化財(明治44年4月17日(徳川家康の命日)指定。戦前は国宝)
著名な所有者:徳川家康
現在、ソハヤノツルキの呼び方が定着しつつあるが、この刀には「号」はない。
刀剣乱舞以前は基本的に「三池」と呼ばれており、逸話(史料)では「三池」表記ばかりである。
「三池」は「三池伝太or三池光世,典太光世」とも表記され、
平安時代末期に大典太光世を作成した刀匠とされる。
大典太光世は「光世作」の銘入りであるが、ソハヤノツルキは「無銘」で三池伝太作の確証はない。
また、この刀には「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」との所持銘(切付銘)が刻まれている。
そのまま訳せば、これは「妙純(みょうじゅん)が伝え持つソハヤノツルキを写した」という意味になる。
坂上田村麻呂の「騒速(そはや)」を写したと解釈できるものであるが、
本当に写しなのか疑問視もされている。
平安時代には使われない「カタカナ」が刻まれているのは、三池伝太作と大いに矛盾する。
形状の特徴から、ソハヤノツルキは「鎌倉時代の作」として文化財登録されており、
所持銘は「室町時代」のものとされる。
この「基本情報」を踏まえた上で、ソハヤノツルキの逸話(物語)を紹介する。
訳が間違っているとマズいので史料も載せたが、読みたくなければ訳や解説に飛んでも問題はない。
最初に、最も引用される『徳川実紀』(=江戸幕府が編纂した歴史書)から記す。
1頁:「徳川実紀」
『東照宮御実紀附録』巻十六
四月十六日納戸番都筑久大夫景忠をめし、常に御秘愛ありし、三池の御刀をとり出さしめ。町奉行彦坂九兵衛光正に授けられ、死刑に定まりしものあらば此刀にて試みよ、もしさるものなくば、試るに及ばずと命ぜらる。光正久大夫と共に刑場にゆき、やがてかへりきて、仰のごとく罪人をためしつるに、心地よく土壇まで切込しと申上れば、枕刀にかへ置とのたまひ。二振三振打ふり給ひ。剣威もて子孫の末までも鎮護せんと宣ひ。榊原内記清久に、のちに久能山へ収むべしと仰付らる。十七日すでに火慚に及ばせられんとせしとき、本多上野介正純めして、将軍家早々渡らせ給へと仰られしが。またそれに及ばずとの上意にて、わがなからん後も武道の事いさヽか忘れさせ給ふなと申上べしと宣ふを御一期とせられ。清久が膝を枕としてかくれさせ給ひしとぞ。此清久は榊原七郎右衛門清正が三男にて、はやうより近侍し奉り寵眷浅からず。御病中も日夜待養して、さまざま御遺託どもあり。われはてなば遺骸は久能山に蔵むべし。 廟地はしかじかすべし。汝は末永くこの地を守りて、我に奉事する事。生前にかはることなかれなど、仰置れ。また東国の方はおほかた普第(譜代)のものなれば異圖なるべしとも覚えず。西国のかたは心許なく思へば、我像をば西向き立置べしと仰置れ。かの三池の刀も、鋒を西へむけて立置れしとなり。(續武家閑談、榊原譜、坂上池院日記、明良洪範)
↓
●訳(ソハヤノツルキに関する部分のみ)
「4月16日、(家康は)納戸番の都筑久大夫景忠を呼び寄せ、
常に御秘愛している三池の御刀を取出させた。
(この三池の御刀を)町奉行彦坂九兵衛光正に授けられて、
死刑に決まっている者がいればこの刀で試し切りをせよ、
もし、死刑が決まっている者がいなければ、
試し切りをするには及ばないと命じられた。
光正は久大夫と共に刑場に行き、やがて帰って来て、
仰せのように罪人を試し切りしましたところ、
心地よく(罪人を横たえた)土壇まで切り込みが入りましたと申し上げれば、
枕刀にかえて置くようにと(家康は)おっしゃられました。
(家康は三池の御刀を)二度三度と打ち振られました。
(家康はこの刀の)剣威をもって子孫を末代まで鎮護しようと言い残されました。
榊原内記清久に、(自分が死んだ)後に久能山に(三池の御刀を)納めるようにと言われました。
【中略】東国のほうはだいたい譜代のものたちだから、
警戒する必要性はないと思う。西国の方は安心できないと思うので、
自分の遺体を西向きに立てて置くようにと言い残されました。
あの三池の刀も切先を西へ向けて立てて置くようにとのことでした。
↓
*解説・検証
死を間近にした家康が三池の刀で罪人を斬らせ、子孫の守護にし、死後は久能山に納めるよう遺言したと記す。
ソハヤノツルキの逸話ではもっとも知られた部分であろう。
家康は4月17日の午前10時頃に死亡しており、その前日の話となる。
しかし、家康の側近であった金地院崇伝の日記『本光國師日記』で確認したところ、
家康は4月11日の段階で食べ物を受け付けなくなり、今日か明日か(=今にも死にそう)と書かれている。
参照→「家康が病没するまでの過程」https://togetter.com/li/1092080?page=2
1月に発病し4月まで臥せっていた73歳の老人が、6日も食事をしないで死の前日に刀を振れるとは思えない。
4月3日前後から意識の混濁もあったようだ。
16日には三池の刀で罪人を斬るように伝えることすらできなかった可能性が非常に高い。
よって、この逸話は16日の出来事とは言えない。
『明良洪範』は、4月1日の夜に三池の刀で罪人を試し切りをさせたと記す。
この逸話が本当にあったかどうかは不明だが、実際にあったとしたら、4月1日の方が妥当であろう。
また、家康は自分の遺体と三池の刀の切先を西に向けて立てて置くように言ったとも記されている。
家康の遺体がそうなっているか、(日光東照宮に移した可能性もあり)久能山に遺体があるのか、
検証は不可能であるが、三池の刀の方は久能山関係の史料が使える。
『久能山御神宝之記 久能山御神宝並御道具目録』には、「黒塗箪笥御紋並桐蒔絵有」に
(此御箪笥は御刀箪笥にして、左右に御重箱やるのもの一つ宛ありて、いとおかしき作りざまなる物也、御重箱やうの物の内に、御柄はらい。打粉、寒酒の紙すべて御拭の料入なり。前に記す御剣の類皆此内にて入て御内陣に秘置といふ)
とある。
三池の刀(ソハヤノツルキ)は、他の刀と一緒に「刀箱」に入っていたと書いてある。
この刀箱は現存していて、中が刀掛けになっている。
刀箱に入っている時点で、立っておらず、横に置かれているのは明白である。
その上、この刀箱は刀掛けでもあり、縦置きは間違いなく不可能。
『久能山御神宝之記〜』に従えば、切先を西に向けて立てて置いたも否定される。
刀剣関係の本ではこの逸話をあたかも事実のように記すことが多いが、
少し史料を確認すれば、事実だと断定できないのが分かる。
ソハヤノツルキ(三池)の物語も、他の刀剣と同じように確かなものではないのだ。
次は家康の愛刀についての記述である。
『東照宮御実記附録』巻二十三
又本阿弥をも召出て、絶ず御差料の寶刀ども数多かりし中にも、宗三左文字と名付けは、織田右府が桶狭間にて今川義元を討し時、義元がはきてありしなり、長さ二尺六寸あり。菖蒲正宗と号せしも野中何がしといふ微賤の者の献りしにて二尺三寸あり。この二振は殊に御秘愛にて、替鞘をあまた作らせ置て、御身さらず帯しめしなり。関原のときは菖蒲、大坂には宗三をはかせられしとか。また三池の御刀も御長器にて元和二年薨御の前かた、都筑久大夫景忠に命じ罪人をためさしめて、御遺言にて久能の御宮に納め置れしなり。また本庄正宗といふは、上杉謙信が家臣本庄越前守繁長が差料なりしが、繁長窮して売物にせし時御手に入て御重愛あり。後に紀伊頼宣卿に進せられしを、また彼家より献られ、今に御宝蔵として、歴世遷移の御ときにはまづこの御刀を進らせらるゝ事にて。三種の神器うけわたさるゝごとく。いとおもたゝしき御先規になりしなり。(藤堂文書、武功雑記、坂上池院日記、武林叢話)
↓
●訳
「また、本阿弥を召出して絶えないほど差料としていた宝刀は多くあったが、
その中でも、宗三左文字と名付けられた刀は、
織田信長が桶狭間で今川義元を討ったときに、
義元が佩いていた刀である。長さは二尺六寸である。
菖蒲正宗と号を付けられた刀も野中なにがしという身分の低い者が献上した刀で、
二尺三寸の長さがあった。
この二振は(家康が)特に御愛用でした。
替え用の鞘を多く作らせておいて、常に身から離さず腰に差されていました。
関ヶ原の戦いのときは菖蒲正宗、大坂の陣では宗三左文字を佩かれたそうだ。
また、三池の御刀も御長器(=寵愛の道具)で元和二年に亡くなられる前に、
都筑久大夫景忠に命じて罪人の試し切りをさせ、ご遺言で久能山に納められた。
また、本庄正宗という刀は、上杉謙信の家臣本庄越前守繁長の差料であったが、
繁長が困窮して売りに出したとき、(家康が買って)手に入れられ寵愛された。
のちに(本庄正宗は)徳川頼宣卿に与えられたのを、
紀州徳川家から将軍家に献上され、今は(将軍家の)宝として、
将軍が代替わりされるときにはまずこの刀を与えられることになっている。
三種の神器を受け渡すように、とても晴れがましい先例になっている。
↓
*解説
家康の「愛刀」を記した部分である。
「愛刀」として宗三左文字、菖蒲正宗、三池(ソハヤノツルキ)、本庄正宗の4振が上げられている。
現在、菖蒲正宗は行方不明、本庄正宗はGHQに押収されたと言われており、現存は宗三左文字とソハヤノツルキのみ。
宗三左文字と菖蒲正宗は明暦の大火で焼けて再刃された。
大火以後は家康所用の拵が残る本庄正宗の価値が上がり、
本庄正宗が将軍家で代々「家康様のお刀」として大事にされた。
しかし、今はその本庄正宗も行方不明となっているため、
現在、ここに記されている刀で拵も合わせて無事なのは、三池(ソハヤノツルキ)だけである。
宗三左文字が織田信長を祀る神社に納められ、織田信長の刀という印象が強くなったこともあり、
余計に「徳川家康の愛刀」といえば、ソハヤノツルキとなるのだ。
次は秀忠の『徳川実紀』である。
『台徳院御実記』巻四十二
四月十五日…【中略】…大御所は都筑久大夫景春をめし、三池の御刀を授けられ、罪人を試むべしと令せらる。景春やがて罪人を試て立帰り。切味尤速なる名剣なりとて捧しをとらせ給ひ。二三度振まはし給ひ。我此剣を以て、永く子孫を鎮護すべしと仰られ。御けしきことにうるはしかりしとぞ。(坂上池院日記、武徳編年集成)
↓
●訳
4月15日【中略】…大御所(家康)は都筑久大夫景春を呼び、
三池の御刀を授けられ、罪人を試し切りするように命じられました。
景春は間もなく罪人を試し切りして戻りました。
切れ味が非常によい名剣でしたと(刀を家康に)捧げると、
(家康は)二、三度刀を振られました。我はこの剣をもって、
永く子孫を鎮護するるとおっしゃられました。その様子はとてもはれかやでした。
↓
*解説
タイトルの台徳院は、家康の三男で2代将軍の秀忠のことである。
秀忠が将軍の時期に家康が死去しているため、
こちらの『徳川実紀』にも家康死去時の話が載っている。
日付が一日早くなり、記述がより短くなる。
内容はほぼ同じだが、細部が違っている。
都筑の名前が「景忠」から「景春」になっている点や、
三池の刀を振った後に家康を「うるはしかり」と付描写する部分である。
『徳川実紀』の場合、ソハヤノツルキに課せられている役割は、
「剣威もて子孫の末までも鎮護せん」
「我此剣を以て、永く子孫を鎮護すべし」など、
基本的に子孫の守護なのは一貫している。
※考察&推測
ソハヤノツルキは一貫して「三池」と記され、「三池伝太(光世)」作の刀とされるが、
無銘であるため、確証はない。
三池の特徴は備えており、鍔に「三け」と刻まれている。
家康所有の刀の鍔に「三け」と刻めるのは、家康だけである。
家康がこの刀を「三池の刀」と考えていたのは、間違いないだろう。
前田家所有の大典太光世が病魔斬りの霊刀とされるように、
三池の刀は霊剣とされる傾向がある。
ソハヤノツルキも「三池=霊剣」の刀と思われていたため、
上記のような逸話が形成されたのかもしれない。
実際は、家康の遺品刀剣として久能山に納められただけで、逸話は「後付け」であろう。
ただ、ソハヤノツルキにこのような特殊な逸話をつけたくなる気持ちも分からないでもない。
先ず、この刀は形状が「異様」である。
三池の刀としても、幅が異常に広く、切先(鋒)もかなり短い。
他の刀と並ぶと、その形状の特異さは際立つ。
大典太光世の方が、まだ幅、切先の形状ともに極端ではない。
その上、中心(なかご)に「妙純伝持ソハヤノツルキ ウツスナリ」と刻まれており、
ソハヤの剣を写したと記されている。
「騒速(そはや)」といえば、征夷大将軍坂上田村麻呂の刀のことである。
「ソハヤ」を写したと刻まれている刀剣を、
江戸幕府初代将軍徳川家康が所有しているなどというのは、出来過ぎでもある。
これが上記のような逸話の形成に繋がったかもしれないとも思える。
しかし、江戸時代には、この切付銘(きりつけめい)は正確に知られてなかったらしく、
史料で正しく「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」と表記しているもの(久能山以外では)はない。
久能山にある「三池の刀」は著名でも、
ソハヤの写しと刻まれているのは知られていなかったようなのだ。
よって、上の逸話に「ソハヤの剣の写し」部分は貢献していない可能性が高い。
逸話であっても「子孫の守護」を任され、所有者が祀られる神社に納められ、現在もそのままある刀は他にあるのだろうか?
とんでもない刀の逸話は数多くあるが、その中でも、ソハヤノツルキの話は、「政治」や「幕府」に絡む部分もあり、かなり特殊な部類になる。
次の頁以降は、『徳川実紀』以外の史料引用&解説となる。
ソハヤノツルキの伝来他についての検討あり。
ーーー
2頁:「明良洪範」「明良洪範続編」「落穂集追加」
ソハヤノツルキは「御宿(みしゅく)家」の所有で、御宿家から家康に進上されたと説明されることが多い。
その根拠となる史料が下の『明良洪範続編』である。
関係部分を多めに抜き出してみた。
『明良洪範続編』巻十五
増誉曰御宿氏の本姓は葛山也。駿河今川家の属家に其一家あり、氏眞没落の時、各心々に成し其内葛山備中守のみ節を立て武田に従ず依て信玄に攻殺さる。然ども備中勝嘉が家臣武田に帰伏せず、所々にて敵対せしかば信玄も據なく彼者どもを静めん為に備中が妾腹の幼子有しを葛山の跡めと号し、家士各が領地を安堵せしむるに依て事治りし之を葛山十郎信貞と号す。後年武田亡びし時に十郎信貞信長の為に信州善光寺にて害せらる。此時家名断絶す。葛山備中が兄を御宿監物と云、女子仁木某が妻也。御宿は元来竹下孫右衛門が末流にて代々富士の根方の竹の下郷を領す。右大将富士の牧狩の時には竹の下が家を宿陣と定めらる。之より以来御宿と云ふ也。家称として世々に伝えて子孫に至りて名とす。
御宿越前守と号す此家に伝来せし名剣あり、そばえの剣とも又御池とも称す。此名刀後年子細有て神君へ献奉る甚だ御賞翫有けり、元和二年御他界の日御宿の御腰の物にて生胴をためし其儘血をも拭はずして御枕元に差置れ神霊を之に止められ永く国家を守らせ玉はんとの御事也しとぞ此事世にあまねく知事成ども御宿の名刀の出所并に永く神前に止めらるる趣意を知人少し。
右御宿監物が子同源左衛門初めは福島正則に仕へ後に越前家へ召出せれしが子細有て浪人し大坂に籠城す是御宿勘兵衛也。其時は越前守と称しけるは少将忠直卿へ不足有し故也。又御宿監物が次男を板坂法印と謂て甲州武田家の典薬也。其子四人あり嫡子は武者氏の家名を継しめて武者権右衛門と称し関東に召出され大番組を勤仕す。
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*解説
『明良洪範』とは、僧侶の増誉が徳川氏、諸大名についての情報を載せた書物である。成立年代は不明であるが、著者とされる僧侶は1707年に没しているので、それ以前にはできていたのだろう。上の文章は「増誉曰」で始まっており、増誉が言うには…という書き方になっている。前に葛山氏に関する説明があり、その後、葛山氏に関して著者が自分が知っていることを述べるという形になっている。簡単に訳す。
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●冒頭部分の訳
増誉が言うには、「葛山(かずらやま)氏は今川家に仕えていたが、氏直(義元の息子)が没落したときに葛山備中守(氏元)だけは従わなかったから信玄に殺された。しかし、葛山氏の家臣が武田に従わず戦い続けたため、信玄は氏元の妾腹の子に後を継がせて領地を安堵した。このときの子が葛山信貞である。のちに武田が滅亡したときに信貞は信長によって善光寺で殺された。これで葛山氏は断絶した。葛山氏元の兄が御宿監物(友綱)で、仁木某の娘がその妻である」
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*解説
最近出たばかりで信用度が高い『武田家臣団人名辞典』で確認したところ、この増誉の説明には幾つか誤りがある。
先ず、氏元は信玄が駿河に侵攻して来た時点で、娘婿の瀬名信輝(家康の正室築山殿のいとこ)とともに信玄に従属している。
葛山氏元だけが信玄に従わなかったのではなく、氏元は早い段階で従っているのだ。
しかし、のち(天正元年)に叛意が明らかになって一族とともに処刑され、その後、信玄の六男の信貞が氏元の二女を娶って葛山氏を継いだ。
(従った相手を何らかの理由をつけて殺した後、自分の息子を使って他家を乗っ取るのは、割とある手段。信玄の場合、他の事例もある)
信貞は信玄の子で氏元の妾腹の子ではない。
その信貞のサポートをしたのが、葛山氏の重臣御宿友綱である。
御宿監物友綱は氏元の兄ではなく、甥とされている。
御宿家は葛山氏の一族であるが、武田重臣に妹を嫁がせているなどしており、武田家中では一定の力があったモヨウ。
信貞は信長に善光寺で殺されているので、その部分は合致しているが、増誉が語る内容は流れは合っていても、親族関係などの情報に誤りが多い。
(増誉は真田氏の出とされている。武田の旧臣でありながら、信玄の六男が継いだ部分を誤っているのは如何なものか)
ソハヤノツルキに関する部分は「御宿越前守〜」からである。簡単に訳す。
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●訳
「御宿越前守を名乗るこの家に伝来する名剣がある。そばえの剣とも御池ともいう。この名刀をのちに理由があって神君(家康)に進上した。(家康は)非常にこの刀を重愛し、元和二年に死去するその日にこの刀で生きた人間の胴を切らせ、その血を拭わないまま枕元に置かれ、神霊をとどめ長く国を守るようにとされたことはよく知られているが、この名刀が御宿の出で、長く神前(=東照大権現となった徳川家康の前)に置かれている意味を知る人は少ない」
↓
*解説
「御宿越前守を名乗る家」とあるが、先に御宿監物とあるように、この家は「越前守」を名乗っていない。
冒頭から前の文章と矛盾している。
「そばえの剣」は切付銘の「ソハヤノツルキ」の部分のことだろうか。
「御池」は「三池」だろう。
御宿家が家康に進上した時期や理由については「後年子細有て」とあるだけで、いつ、誰が、進上したのか、何で家康に贈ったのか、書いてない。
御宿勘兵衛が所有し、家康に進上したとされるが、伝来はあくまでも御宿越前家で、御宿勘兵衛の所有とは書いてない。
通説のように、御宿勘兵衛が所有したとしては拡大解釈になってしまわないか?
御宿勘兵衛の所持に関する疑問はこちらにまとめたので、詳しくはこちらを。
https://togetter.com/li/1387373
また、血を拭わないで枕元に置いたと書いてあるが、血を拭わなかったら錆びるよね?
この日の午前10時頃に(胃がんで)死ぬ人間が、死去するその日にこんなに意識がはっきりしているのか?
などなど、明らかにおかしな記述が続く。
全体的にオーバーに「盛った」としか言い様のない内容である。
先に「永く神前に止(とど)めらるる趣意」の部分を御宿家にあったときと訳したが、久能山にある状況を差すと解釈した方が自然なので、訳を訂正した。
その後まで訳すと長くなるので、内容を簡単に紹介する。
御宿監物の息子源左衛門が福島正則、結城秀康に仕えた後、大坂の陣に参戦したとある。
この源左衛門が御宿勘兵衛で、越前守と称したのは松平忠直(秀康の息子)に不満があったからだ、と続けている。
↓
*解説
『武田家臣団人名辞典』は源左衛門を信貞の子で大坂の陣に参戦とされるが、詳細は不明とする。
『明良洪範続編』が御宿勘兵衛とする源左衛門は、御宿勘兵衛ではないようだ。
福島正則の後に結城秀康に仕えたとあるが、『大坂の陣豊臣方辞典』では、御宿勘兵衛の仕えた先を武田→後北条→徳川家康→蒲生氏郷→上杉景勝→結城秀康→松平忠直→豊臣秀頼、とし、福島正則は入らない。
『大坂の陣豊臣方辞典』には、後北条に仕えていたときに「越前守」を名乗ったとある。(署名書状あり)
そのため、忠直に不満があったから「越前守」を称した、は違うであろう。
秀康は関ヶ原の戦いの功績により、家康から越前68万石を与えられた後、「越前〜」を名乗る。
秀康に仕えているときは、秀康と同じ「越前」は使えないため、「勘兵衛」を称し、越前松平家を出たあとに元の「越前守」に戻したのではないか。
『結城秀康給帳』には「御鉄砲頭衆」の「五百石」に「相模国 御宿勘(宿カ)兵衛(於大阪三番越前ト名ノル、野本右近討之)」とあり、御宿勘兵衛、もしくは御宿宿兵衛?が秀康に仕えていて、大坂の陣で越前を名乗っていたのは確かなようだ。
『大坂の陣豊臣方辞典』によれば、「慶長15年二月越前分限帳」に「五百石、足軽五十人頭」とあるため、秀康の死(慶長12年)後、最低でも3年は忠直に仕えているのが分かる。
ソハヤノツルキは「御宿越前守の家」のものと記してあるが、父の友綱は「監物」を称しており、「越前守」を代々名乗ってはいないため、「御宿越前守と号す此家」に「伝来」の記述もおかしい。
簡単に言ってしまえば、増誉が述べている「葛山氏、御宿家」に関する情報は不正確で、信用がおけないのである。
増誉は没年からして、家康が死去した後の生まれであるのは間違いなく、彼は語っている内容を実際に見聞きしたわけではないのだ。
誰かに聞いた話や何らかの史料や憶測に基づいて話でいるだけに過ぎない。
ために、他の情報(葛山氏など)と付き合わせてその信憑性をはかる必要があるので、上で辞典と内容を比較した。
逸話にありがちなことに、大筋は合っているが細部に間違いが多いのは確かである。
また、この逸話は「御宿家」をヨイショするために書かれている点も忘れてはならない。
*内容検討
ソハヤノツルキはこの史料に基づいて「大坂の陣の後で家康に進上された」との推測があるが、上のように『明良洪範続編』は「子細有て」と記すだけで、贈答した時期を書いてない。
しかも、大坂の陣に参戦したという記述の前にソハヤノツルキに触れている。
ソハヤノツルキの拵は、真っ黒な漆に金の装飾という家康好みのつくりをもつ「打刀拵」である。
大坂の陣が終わって家康が死去するまで、約11ヶ月ある。
その間にソハヤノツルキの進上と拵の作成が入れないこともない。
が、家康は戦いの後、8月まで京におり、駿府に戻るのはその後、そして翌年の1月には体調を崩し、没する4月までるゆるゆると悪くなっていく。
どうにも進上&拵作成に該当する期間が短い。
おまけに『駿府記』によれば、大坂の陣の後、骨喰や真田ゆかりの来国光などの刀剣類が進上されても、家康は受け取りを断って返している。(遺品として断れない形で進上された物は除く)
御宿家がソハヤノツルキを所有していたとしても、大坂の陣の後に進上するのは、無理がある。
寧ろ、武田滅亡後or後北条氏滅亡後に牢人となった御宿越前守が、就職か就職斡旋を願って家康に進上した方が自然ではないだろうか。
御宿家がソハヤノツルキを家康に進上した根拠である『明良洪範続編』の記述は、他の刀剣に関する逸話同様に信用がおけない。
これを決定的な証拠とするには、内容に誤りが多いのだ。
ソハヤノツルキの伝来を示す、信憑性の低い「逸話の1つ」とするのが妥当であろう。
次は『徳川実紀』に採用されている『明良洪範』のもとの文章である。
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『明良洪範』巻五
(四月朔日)晩ニ及デ、納戸役都筑久太夫ヲ召テ、前ニ帯シタル三池ノ刀ヲ持参スヘシト命セラル、即其御刀ヲ差上ル所ニ、神君此刀ヲ獄屋へ持行キ、彦坂九兵衛ト相議シテ、罪人ノ中、死刑ニ極リタル者ヲ、本胴ニ試ムヘシト命セラル、都筑其御刀ヲ持テ、御次ノ間迄出シ時、又召テ、死刑ニ極リタル者ナキニ於テハ、試ルニ及ズト命セラル、都筑畏テ、直ニ獄屋ニ至テ彦坂ト相議シ、死刑ニ決定シタル罪人ヲ斬リテ帰リ、本胴心地ヨク斬レ、掌覚エモナキ程ニ候由申上奉リシニ、枕刀ト取替置ヘシト命セラルヽニ依テ取替シニ、御手ニ取セラレ、二三度振給フ、此御刀ハ、三池傳左(太)ト称シテ、長二尺二寸、込ニ以莫耶之剣模之、中屋妙傳所持ト彫刻有リ、黒鮫赤銅ノ御目貫也、久能ノ神殿ニ納ル所也、此時ニ至テハ、御病気甚重ラセ給ヒシ折ナレト、死刑ニ極リタル者ナキニ於テハ、試ルニ及スト再ヒ命セラルヽ事、御仁心ノ致ス所也ト、見聞ノ人感シ奉レリ、此御刀ノ事ハ、神道ノ奥秘ニ有リト云、
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●訳
(4月1日)晩に及び、(家康が)納戸役の都筑久大夫を呼び寄せ、前に帯刀していた三池の刀を持参するように命じられた。直ぐにそのお刀を持って来て差し上げると、家康様はこの刀を牢屋に持って行き、彦坂九兵衛と相談して、罪人の中で死刑に決まっている者の胴を試し切りするようにと命じられた。都筑がそのお刀を持って、次の間に出たとき、また、(家康が)呼び寄せ、死刑に決まっている者がいなければ、試し切りをするには及ばないと命じられた。都筑はかしこまって、自ら牢屋へと行き彦坂と相談して、死刑に決まっている罪人を斬って帰った。(罪人の)胴体が心地よく斬れ、手のひらに切った感覚がないほどでしたと申し上げますと、(家康は)枕刀と(三池の刀を)取り替えるように命じられたため、取り替えると、(三池の刀)を御手にとられ、二、三度降られました。このお刀は、三池伝太(作)と言われており、長さは二尺二寸、「莫耶(ばくや)の剣を模した」、中屋妙伝所持と刻まれており、(柄は)黒鮫、赤銅の目貫があり、久能山の神殿に納められているのだ。このときに至って、(家康は)ご病気がかなり重くなられたときであっても、死刑に決まった者がいない場合は、試し切りはするなと再び命じられたことは、人を思う気持ちの致されるところであると、(これを)見聞きした人は感動された。このお刀のことは、神道の奥秘(=奥義,人には明かせない大事なこと)であるという。
*解説
前の『明良洪範続編』はこの『明良洪範』の続きである。
当然ながら、こちらを先に増誉が書いたと思うのだが、続編と内容が異なっている。
内容は家康がソハヤノツルキで「死刑」と決まっている罪人の胴を斬らせたほか、寸法、彫刻や目貫などのソハヤノツルキに関する説明が少し増えるだけで、『徳川実紀』と大きな違いはない。
成立年代からして、恐らく、『徳川実紀』がこの『明良洪範』の記述を使ったのだろう。
ただ、ソハヤノツルキで罪人を斬らせた日付が「4月1日」になっており、続き物であるハズの『明良洪範続編』の「4月17日(家康死亡当日)」と違っている。
また、この『明良洪範』の内容の本題は、死刑と決まっている罪人がいなければ、「試すな」と命じた家康の「仁心」を強調することにあり、ソハヤノツルキはメインではない。
柄、目貫はの色は合っているが、大きく誤っているのは「切付銘(所持銘)」の部分である。
「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」が、「中屋妙伝所持莫耶之模」となっているのだ。
「莫耶(ばくや)」は中国の伝説上の刀で、「ソハヤ」ではない。
「妙純傳持」も「中屋妙伝所持」となっている。
筆者の増誉は、三池の刀の「切付銘」を正確に知らないのだ。
家康の病没とほぼ同時に久能山に納められたため、情報がさほど手に入らなかったのだろう。
ただ、「模」の字があることから、「写し」であることは知られていたのかもしれない。
『明良洪範続編』では切付銘には触れないものの、「そばえの剣」との表記があり、「莫耶」より「ソハヤ」に近づいている。
『明良洪範』→『明良洪範続編』の間に情報のアップデートがあったようだ。
『明良洪範』とほぼ同じ話が『落穂集追加』にも載っている。
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『落穂集追加』巻四
扨御他界の前日、十六日の晩方、其比御納戸集にても在之候哉、都築久太夫と申人を御召呼、此以前、御さし被遊候三池の御腰物可有之間、取出し持参申様にと被仰付、則持て被参候處に、此刀を其方籠やへ持参致し、科人共の中ニて、本胴をためさせ持来り候様にと上意ニ付、畏り候とて、御前をたち、御次の間まて被罷出候處ニ、又被為召返由ニ付、御前へ被出候へハ、科人共の中に、是ハ必ス死罪と相極りたるもの、壹人も無之に於てハ、ためし候には不及候旨、被仰付候と也、然る處ニ、幸ひ悪命の者有之ニ付、御ためしの義相濟、御前へ持参致し、本胴こゝろよく落申候由被申上候ヘハ、御枕もとに被差置候御腰の物と取かへ、差置候様ニと被仰付候となり、其節は御様体もことの外おもく御座候被為成候折からの義ニも御座候處に、悪命のもの無之に於てハ、御ためしの義、無用に仕り候様にとの上意の段ハ、曾子の末期に至り、床をかへられたると申にひとした御事と、其砌より諸人取沙汰仕候と也、同ク問て云、右三池の御腰物、御ためし被仰付候御入用の思召の子細なとを、相知申たる義に在之候哉、答て云、右のとおりの次第ニ是あり候ヘハ、御尊慮の程を難(誰カ)有て可存様も無之候、但シ我ら若年の節、神道の奥秘迄をも相極め候由の老人在之候が、権現様、御他界前、三池傳太の御腰物御ためし被仰付、御枕もとに被差置候と有義ニ付、佛家の教へには無之事候へ共、神道の奥秘に至りてハ、其道理在之事の由、物語候なり、
↓
●訳
さて、(家康様が)お亡くなりになられる前日、16日の晩方、
その日、御納戸衆もいましたのでしょうか、
都筑久大夫と申す人を(家康様が)お呼びになられました。
(病になる)以前、腰に差しておられました三池の御腰物が(納戸に)あるから、
取り出して持ってくるようにとの仰せでしたので、
すぐに持ってまいりましたところ、
この刀をその方の牢屋へ持参し、罪人どもの中の(誰か)で、
胴を試して持ってくるようにとのご命令につき、
かしこまりました、と(家康様の)御前を立って次の間まで出ましたところに、
また、召し返されましたので、(家康様の)御前に戻りますと、
罪人どもの中に、これは必ず死罪と決まった者が一人もいなければ、
試し斬りには及ばないと仰せられました。
しかるところに、幸い、悪名の者がいたので、試し斬りは済みました。
(家康様の)御前に(御腰物)を持参し、本胴が気持ちよく落ちましたことを申し上げれば、
(家康様は)枕元に置かれています御腰物と取り替えておくように仰せつけられました。
このときはご容態もことの外重くあられる時で、
悪名の者がいなければ試すことは無用であるとのご命令があったことは、
曾子の末期に至って、床を変えるように言われたことと、
その際に諸人が取り沙汰しました、と同じように問うているという。
右の三池の御腰物、試し切りするように仰られた理由を知りたいと申せば、答えていうには、
右のような次第があったように、(家康様の)お考えのほどを誰が知ることができません、とのこと。
ただし、我らが若い頃は、神道の奥秘までを極めたという老人がいまして、
権現様がお亡くなりになられる前に、三池伝太の御腰物で試し斬りを命じられたこと、
枕元に置かれたことの意味について、仏教の教えにはないが、
神道の奥秘に至ってはその道理があることを物語りました。
↓
*解説
『落穂集』は『明良洪範』より成立が遅いようなので、この話は『明良洪範』を参考にして書かれたのだろう。
日付が16日であること、家康がソハヤノツルキで生胴を斬らせた後、枕元に置いたのを「佛家の教へには無之=仏教の教えにはない」と説明しているほかは、大きな違いがない。
ソハヤノツルキの来歴は『明良洪範続編』が参照され、だいたい「御宿家が徳川家康に進上した」で説明される。
そのため、久能山東照宮の図録でもこの『明良洪範続編』を採用して、ソハヤノツルキの解説に上の史料を用いている。
但し、葛山氏などについての記述が不正確な点などの内容の精査はされていない。
また、進上した時期については、『明良洪範続編』でも不明である。
明治21年につくられた『久能山御宮御寶物目録』によると、ソハヤノツルキは「元来徳川家相伝の御物にあらず、織田信雄公援兵の為に勝利を得たる謝恩として贈り参らせし物という」と記されている。
明治時代には織田信雄から小牧長久手の戦いに勝利したお礼として、家康に贈られたという話になっていたようだ。
自社に伝わる「織田」からの来歴より、『明良洪範続編』の方を採用しているのは、『明良洪範続編』の方が成立が古いからだ。
しかし、上で検討したように、この本には多くの情報に誤りがある。
つまるところ、ソハヤノツルキに関して確かだと言えるのは、
1、家康が所有していた。
2、久能山東照宮に納められ、今もそこにある。
以上の2点である。
家康に到るまでの来歴が不明瞭で、家康の死後に遺物として移った場から、現在に至るまで全く動いていないのは、物吉貞宗と同じである。
参照→物吉貞宗の由緒他:http://privatter.net/p/1583579
久能山東照宮の『御在世久能御道具帳』の三池の条の付箋に「此三池之御太刀御神体御同意に奉尊崇御事に御座候」とある。
この意味は「この三池の御太刀(ソハヤノツルキ)は御神体同様に尊崇されることがございます」であり、ソハヤノツルキはご神体ではないが、ほぼ同様に崇められていたと解釈できる。
ご神体同然ならば、相応の「ご利益=幕府守護の証」が欲しいところである。
幕府守護の証としては、島原の乱が活用されたらしい。
次頁では「三池の刀の幕府守護=島原の乱の鎮圧」を記す逸話を載せる。
下は家康がソハヤノツルキを所有した時期についての考察である。
推測に過ぎないため、気になる場合だけどうぞ。
ーー以下は情報を集めながらしていた家康への譲渡時期の考察です。
御宿家から家康への譲渡時期は大坂の陣の後、との推察を見掛けるが、上に書いたように、大坂の陣から家康の没まで11ヶ月しかない。
そんな短期間しか手元になかった刀を自分を祀る「久能山に納める」だろうか?
また、子孫の守る役目を課す逸話が付属するのも無理があると思う。
『明良洪範続編』にも進上の時期は載っていない。
長く家康の手元にあってこそ、「子孫の鎮護」を任されるものではないだろうか。
となると、注目したいのは久能山に伝わる「織田信雄公」からの謝恩という話である。
織田信長の息子信雄と家康が手を組んで羽柴秀吉と戦ったのが小牧長久手の戦いである。
信雄が勝手に秀吉と講和してしまったため、家康はこの戦いに勝ったとは言えないが、戦術的には秀吉に負けなかったとされる戦だ。
全国の大名が敗北もしくは、戦わずして臣従するなか、秀吉に唯一負けなかったことは、後に家康を豊臣政権のNo.2に押し上げる要因の1つになったという解釈もある。
小牧長久手の戦い(広範囲での戦いであったため、現在、別の呼称が検討されている)は天正12(1584)年にあった。
ソハヤノツルキは織田信雄から家康に贈られなかったかもしれないが、この戦いが終わった頃に家康の手元に来た可能性はある。
大坂の陣では豊臣秀頼の自害など、戦いに関する裁定は2代将軍の秀忠が下している。
将軍引退後の家康の仕事は、朝廷対応と外交(異国との交渉)で、秀忠とは役目を分けている。
『日本刀大百科事典』に、大坂の陣の後、罪の軽減を願って、討死した御宿勘兵衛の親族がソハヤノツルキを家康に進上したと推測が載っているが、減刑の権限は秀忠にあり、且つ、秀忠は贈答品で裁定を変えるような人物ではない。
(どちらかといえば、家康の方が基本的に処断が甘い。例:石田三成の出家した男子を殺していない、など)
秀忠は家康の言うことをよく聞いて言うがままだったというのは誤解で、秀忠は特に大坂の陣については、家康の指示に従っていない。
家康は慶長18年頃から、寺社関係の権限も秀忠に移そうとしてもいる。
大御所として権威を持ち、家康に訴えて秀忠の裁定を覆すような者が出ないように、秀忠は家康との連絡を密にして互いの判断に齟齬が起きないようにしていたため、秀忠が家康に従っていたように見えるのだろう。
その点からも、大坂の陣の後にソハヤノツルキが家康に進上された、という推測には「?」となるのだ。
長〜くなりましたが、「子孫を守らせるなら、長く手元にあった刀にするんじゃね?」に基づく余計な考察は以上です。
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3頁:子孫長久の守神
先ずは、久能山の史料である。
1、『久能山御奇瑞記』(『久能山叢書』第二編 資料集上)
二、三池御腰物の事
三池御腰物之事、御他界二日前四月十五日都築久太夫を 御前迄被為召、 三池御腰物久鋪御手心御覧不被遊候。今日科人をタメシ様候様にと被 仰付、 久太夫(江)御腰物を被下御次の間迄罷向出候得共、又御呼返被遊、罪の究り候者を、能く致吟味様にと御意遊候。久太夫早速様候て御腰物を持、御前へ罷向候えば刄心御尋ね被遊候処、久太夫申上候は乍恐利釼と申にて可有御座候。土壇迄切入候故、砂引御座候と申上候えば御機嫌克く則ち御手に被為取二・三度振被遊「此御腰物を以御子孫御長久の御守神と可被為成」の旨御意被遊候。其儘御鞘へ御納被遊候由。
右の御腰物長さ弐尺三寸三分。巾一寸二分半、中心に「妙純伝持ソハヤノツルキウツスナリ」と有。
四、御腰物を内陣へ奉移候事
御腰物其以前は御宝蔵に納置候処、島原一揆の時節より榊原内記夢とも現ともなく御前へ被為召何とて御腰物を御蔵に置候や、早々御内陣へ入れ候様にと御呵り被遊被候御声。夢覚め候ても耳底に残り候様に覚え候故、内記其儘垢離仕り、夜中の事に候えども御宝蔵に御座候御腰物を御内陣へ奉納候由。
五、拝殿に血有り候事
島原一揆の年、正月元朝、御石の間入口の白砂血夥く見え候由。
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*解説
久能山の資料からの抜粋である。
「二」の「三池御腰物の事」の内容は『明良洪範』や『徳川実紀』とほぼ同じで、ソハヤの切付銘や寸法が正確である他は目新しい内容は何もない。
他にないのが「四」の「御腰物を奉移候事」である。
これは島原・天草一揆のときに、東照大権現(家康)が神主:榊原照久の夢に出て「御腰物=三池=ソハヤノツルキ」を宝蔵から社の内陣に移せと怒ったため、水垢離してから夜中に社殿の内陣に「御腰物」を移したという話である。
実際に三池の刀は刀箱に入った状態で社殿の「内陣」に置かれていたらしい。
次の「五」の「拝殿に血有り候事」が恐らくこれと連動したもので、島原一揆の年の正月朝に拝殿の白砂に「大量の血」が見えたとある。
「二」に家康は「此御腰物を以」とソハヤノツルキを用いて「子孫御長久」を守ると書いてあることから、宝物庫にあったソハヤノツルキを出させて、東照大権現たる家康がそれを振るい、一揆を間接的に鎮圧したとしているのであろう。
『久能山奇瑞記』は文字通り、家康(東照大権現)を祀る久能山で起きた不思議なことを集めたものである。
二は代わり映えしない内容だが、「四、五」がソハヤノツルキを振るう徳川家康(東照大権現)という話?であったので、載せた。
家康が三池の刀(ソハヤノツルキ)を「子孫の鎮護」としたからには、それを証明する逸話が欲しい。
1637~38年にあり、鎮圧された「島原・天草一揆」は、「子孫の鎮護」にふさわしい戦であったのだろう。
上記の「四、五」は間接的な表現ではあるが、あたかも、家康と「御腰物=三池の刀」が幕府の守護を成したかのような話になっている。
似たような逸話は他にもある。
下の逸話は『止戈類纂』からの抜粋である。
「坂家古日記」「久能記」「和世説」の3つを順に記す。
2、『止戈類纂』38 刀剣
【1】『坂家古日記』元和二年四月十五日都筑久大夫を召、三池之御腰物久敷御手に御覚なく、極りたる科人をためし候様にと被仰付、久大夫彼御腰物給り、御次之間罷出し時に、又召返候、罪之極りたる者を能致吟味、ためし候様にと上意也。久大夫早速ためし御腰物を持御前に罷出し時に、切れしこと御尋、久大夫申上ハ、乍恐剣上申にて可有御座候、手に少しも覚無御座候、土壇迄切入候故砂引御座候と申上候へは御機嫌能則御手に被為取二三度振、此御腰物を御子孫長久の御守神と可被為成旨、上意たる、其儘鞘入御納被候、長二尺三寸三分、幅一寸二分半
↓
●訳
元和2年(1616年)4月15日(家康は)都筑久大夫を呼び、「三池の御腰物(ソハヤノツルキ)を長く手にした覚えがない、(死刑に)決まっている罪人を切って(切れ味を)ためすように」と言われましたので、久大夫は御腰物を預かり、御次の間まで出たときに、また呼び返された。死刑に決まっている者であるかどうかよく吟味してから、ためすようにとの命であった。久大夫はさっそく(罪人で切れ味を)ためし、御腰物を持って(家康)の前に出ると、切れ味について尋ねられた。久大夫が申し上げるには、「おそれながら」と剣を差し上げて申し上げました。「手に少しも(切った)覚えがありませんでした。土壇まで切り入り、(土壇に)砂を引きました」と申し上げれば、(家康は)ご機嫌よく(御腰物を)御手にとられ、二、三度振られて、「この御腰物(ソハヤノツルキ)を子孫長久の守神とする」との命じられ、そのまま(御腰物)を鞘に納められました。(この御腰物は)長さ二尺三寸三分、幅一寸二分半。
↓
*解説
この『坂家古日記』は幕府に仕える医者「坂氏」の「上池院家」の記録である。
江戸城の紅葉山に納められた関係もあり、『徳川実紀』に度々引用され、
三池のことを記す部分でも引用に書名がある。
『寛政重修諸家譜』によれば、「坂氏」は室町幕府に仕えていた医者である。
慶長13年、家康の命令で内科医の上池院宗仙は秀忠付きとなった。
時期的に上記の部分は宗仙が記したことになる。
『坂家古日記』は日記とあるため、信用できそうではあるが、
『坂家古日記』の他の部分を確認したところ、
途中からは確かに日々の記録を記した「日記」であるが、
家康時代の記述には、著者が知りようがないことが含まれており、
他でも確認できる「逸話集」になっていて記録ではなかった。
よって、ソハヤ(三池)の記述も正確性は保証されない。
【2】『久能記』元和二年四月十五日晩に及て納戸方都筑久大夫を召し、前に帯させ給ふ三池之御刀を持来べしと命せられ即其を上る。神祖此刀を獄屋へ持行き彦坂九兵衛光正を相議し罪科人の死刑に極りたる者を本胴に試むべしと命せらる。即其御刀を持ちて御次の間へ出し時召返され必死に極りたる罪人なき於てハ試るに及はすと懇に命せらる。久大夫帰来て死罪決定の者ありに依て御刀を以て其を斬り本胴快く掌持中覚なく土壇まて落砂引ある由告奉に御枕刀と替むへしとて御手に執せられ二三度揮らせるに此良刀を以て子孫長久の神とすへしと御鞘に納め給ふ。此御刀ハ長弐尺弐寸許、こみに以莫耶之剣之中屋妙傳所持と彫刻す。黒鮫赤銅雉の目貫なり。久能の神殿に納めらる所なり。
↓
●訳
元和2年(1616年)4月15日の晩になって、(家康様は)納戸方の都筑久大夫を呼びよせ、以前から帯刀されている三池の御刀を持って来るように命じられた。直ぐに(久大夫は)その御刀を持って来た。家康様はこの刀を獄屋に持って行き、彦坂九兵衛光正と相談して罪人で死刑に決まっている者の本胴を試し切りするようにと命じられた。直ぐにその御刀を持って御次の間へ出たときに(家康様に)呼び返され、必ず死刑に決まっている罪人がなければ、試し切りをするには及ばないとよくよく命じられた。久大夫が帰って来て、死罪に決定した者がいましたので、御刀でその罪人を斬ったところ、本胴が気持ち良く掌に持っている覚えがないくらい(たやすく)土壇まで落ち、(土壇に)砂引の跡がつきましたとご報告すると、(家康様はその御刀を)御枕刀と取り替えようと手にとられて、2、3度振られ、この良い刀を子孫長久の神にしようと御鞘に納められました。この御刀の長さは2尺2寸ばかりで、込みに「以莫耶之剣之中屋妙傳所持」と彫刻がある。(柄は)黒鮫で赤銅の雉の目貫がある。久能山の神殿に納められている。
↓
*解説
この話も他の逸話と流れは同じである。
文字や表現が『明良洪範』と一致、もしくは類似しており、『久能記』が『明良洪範』を参考にしたか、『明良洪範』が『久能記』を参考にしたのだろう。
特に一致するのが、三池(ソハヤノツルキ)の長さと所持銘である。
双方とも数字と文字が全く同じで、同じように間違っている。
ただ、『久能記』には「目貫は雉」と情報が+αされている。
三池(ソハヤノツルキ)の目貫は「川烏」であり、鳥であるのはかすっているが、これも誤っている。
やはり、三池(ソハヤノツルキ)の正確な寸法や所持銘が分かる機会はそうなかったようだ。
【3】『和世説』東照宮薨御の前三池傳太が作の御刀を御ためさせ御罷枕にこれを置たる。御剣ハご他界後に久能山の御神剣とハ成たる由。右傳太作の御剣は元武田家の侍桂山十郎所持してそはか(つ?)と号すとかや。此御剣久能山の御神剣と相成、嶋原陣落去の前に御神前に納居その御剣自然と抜出御たてに切立て前に血をとくとくと出りしより落去すとかや。此御剣血は木屋常三が家より御剣の拭ひこして罷越すとかや
↓
●訳
東照宮(家康)がお亡くなりになる前、三池伝太が作ったお刀を試し切りさせられ、枕刀としてこれを置かれた。この剣は(家康が)亡くなられた後に久能山の御神剣となったとのことだ。右の伝太作の剣は、もとは武田家の侍桂山十郎が所持し、「そはか(そはつ?)」と号していたとか。この剣は久能山の御神剣となり、島原の乱で一揆勢が敗北する前に、ご神前に納められており、その剣は自然と抜け出て縦になり、血をとくとくと出した後に一揆勢が負けたとか。この剣の血は木屋常三が拭くために来たとのことだ。
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*解説
出典自体がよく分からない逸話であるが、上の『久能山奇瑞記』と類似する部分がある。
家康が病没前に、三池伝太の刀で試し切りをさせ、枕刀とし、久能山に納めさせたまでは他の逸話と同じ。
違うのは、その後の記述である。
(1)三池伝太の刀が「御神剣」になったとする。
(2)武田家の侍桂山十郎が所持していたとする。
(3)「そはか」もしくは「そはつ」と号が記してある。
(4)島原の乱の折に、鞘から自然に抜け出して血を出している。
(1)は、久能山に納められたために「御神剣」としたのだろう。
(2)は、桂山は葛山に発音が似ている。武田に仕えていた御宿家の親族が葛山であるから、そのバリエーションか。
(3)は、くずし字の3つ目が「か」or「つ」には見えても、「や」ではないため、「そはや」とは書けない。ただ、ソハヤノツルキの「号」を明確に記すのは、これが初見である。
(4)は、『久能山奇瑞記』の別バージョンのようだ。どちらも島原の乱と三池の刀を結び付けて、幕府の守護の役割を果たしたかのように描写している。
この「和世説」の成立年代が分かれば、他の史料とどちらが古いか比較できるのだが、
今のところ、手がかりがない。
島原天草一揆(1637~38年)への言及があるから、それ以後の成立なのは確かある。
『止戈類纂』は項目ごとに史料を引用している編纂物で、
「刀剣」の冒頭に家康に関する刀剣の話題を載せていて、ソハヤノツルキが1番前になっている。
徳川家康の刀に関する有名な話だからだろう。
「和世説」の内容も類例の範囲内であるが、バリエーションの幅が広く「号」の記載があるのが特徴である。
『明良洪範続編』には、号と明記せず「そばえの剣」とあった。
「そはか/そはつ/そばえ」は「ソハヤ」に近い表記であるから、
「そは〜」という「切付銘」があるのは、知られていたのだろう。
ただ、「そは」まで分かっているのなら、
「そはや」と連想しそうなものだが、そうなっていないのは気になる。
坂上田村麻呂の「騒速(そはや)」を知っていれば、
同じ将軍となった徳川家康の刀が「ソハヤノツルキウツスナリ」が久能山にあるのは、
絶好の逸話創作のネタとなる。
しかし、島原の乱の鎮圧に繋げる描写はあるものの、
そこで坂上田村麻呂との関連が書かれることはない。
坂上田村麻呂の刀が「騒速」であると知られていなかったのか、
それとも、関連づけを控える事情でもあったのか、
家康の刀が「写し」であるのはマズいのか…、理由は不明である。
『明良洪範』と『久能記』に「以莫耶之剣模之」とあるため、
「写し」がマズいのではないと思うが、さて…?
取り敢えず、今のところ見つかっている逸話で、
坂上田村麻呂の「騒速」と徳川家康の「三池(ソハヤノツルキ)」を直に繋げる記述はない。
何にせよ、家康が所有していた「三池の刀」は、確たる伝来を裏付ける一次史料はなく、家康との逸話は「子孫長久の守神」と壮大で、「ソハヤノツルキウツスナリ」と刻まれていても本当に写しかどうか分からず、三池の刀とされているが、無銘故に確証はない。
逸話や確証のない情報は多くても、実態がよく分からない刀なのだ。
また、三池伝太作の刀であれば写しではなく、写しとして作られていれば三池伝太作ではない。
写しと三池伝太作は両立しない。
この刀は、「霊剣三池の刀」とされ、「ソハヤノツルキウツスナリ」と刻まれている、2つの大きな特徴自体が「矛盾」するのだ。
家康以外との逸話もない無銘の刀が、天下人の「愛刀」であるのも変わっている。
他の大名家なら、銘入りで来歴(足利将軍家所有など)も凄い「お宝」を家の重宝とするだろうに、ソハヤノツルキはどちらも持ち合わせていない。
徳川家康は遺品を見ると分かるように、舶来品がかなり好きで、機械じかけの熊など、変わった物を多く残している。
久能山に残る「刀掛けを兼ねた刀箱」は非常に特殊な作りで、未だに類例を見たことがない。
その中に、ソハヤノツルキは2振の脇差とともに入っていた。
家康は刀は無銘の相州伝を好んだとされ、この2振の脇差もそうだ。
愛刀とされる宗三左文字、菖蒲正宗、本庄正宗、物吉貞宗も同様である。
ソハヤノツルキは相州伝ではない。
三池の刀は数自体が少なく、1,000振以上もある家康の遺品刀剣にも、脇差が1振ある(ソハヤではない)のみだ。
家康は、幅が広く、猪首鋒の刀を好む傾向があり、宗三左文字、日光東照宮の助真や、紀州東照宮の遺品刀剣の形状が該当する。
ソハヤノツルキは相州伝ではないが、幅が広く、猪首鋒で、変わった「切付銘」を持つ。
家康所用伝承がある拵が存在し、諸々の条件から家康が所有し使った刀であるのは間違いないだろう。
また、あの「切付銘」がある故に、この刀は、刀の1番の使い道である贈答品には向かない。
家康所有刀剣である時点で価値が高くなるのに、あの「切付銘」まであるとなると、家康を祀る神社以外では扱いが難しい。
家康は諸々を考慮して「三池の刀」を久能山に納めさせたのではないだろうか。
その結果、無銘の刀にご大層な逸話が付属してしまったとしても、それは死した家康と残された愛刀には本来は無関係なことだ。
ただ、家康所有と逸話で価値が高まったのは、「三池の刀」が「大事に」される大きな理由になった。
逸話や伝来の信憑性はともかく、それだけは確かなことだろう。
次の頁には、明治時代の新聞記事から得られた情報を載せる。
メッセージで教えて頂いた情報で、三池の刀が久能山を一時的に離れていたことが分かるものだ。
ーー
4頁:明治11年5月4日の新聞記事
明治11年5月4日 読売新聞
「駿州久能山にある東照宮の宝物にて三池の刀とほか二振の剣は前年徳川家達君が東京へ移られるとき持帰られたのを此ほど祠掌の出島竹齋といふ人が徳川家へ懇願して元の通り久能山へ納められました」
↓
●訳
「駿河(静岡県)の久能山にある東照宮の宝物、三池の刀とほか2振の剣は、前年、徳川家達君が東京へ移られるとき、持ち帰ったのを、このほど、(久能山の)祠掌の出島竹齋という人が徳川家へ(戻して欲しいと)懇願して、元の通り、久能山に(三池の刀とほか2振の剣は)納められました」
↓
*解説
この新聞記事により、家康の死後、ずっと久能山にあったと思っていた三池の刀(ソハヤ)が、明治時代に、一時、久能山を離れていたことが分かった。
一応、江戸時代に一度だけ研ぎのために久能山を出たことはある。
◉「鞘書」
「御在世御指、無銘三池御刀 長貳尺貳寸三分半 表裏樋并添樋有之 幅御鎺(はばき)本ニ而壹寸三分 中程ニ而壹寸壹分半 横手ニ而九分半 重御鎺本ニ而貳分半 横手ニ而壹分半 反八分半 掛目百八拾匁 安政五年(1858年)戊午三月御研 本阿彌喜三二 御鞘内田吉十郎」
鞘書に安政5年(1858年)に本阿弥家に研ぎに出されており、このとき、恐らく、江戸まで動いている。
180匁と重さが書いてあり、「三池の刀(ソハヤノツルキ)」が約675gなのも分かる。
上記の新聞記事により、16代徳川家達のときに久能山から取出され、明治11年まで東京にあったのが判明した。
徳川家達は最後の将軍徳川慶喜が退いた後、慶応4年(1868年)に、5歳で徳川宗家を継いだ。
明治2年(1869年)に6歳で静岡藩の知藩事となるが、明治4年(1871年)の廃藩置県で東京に戻った。
このとき、久能山から徳川にとって大事な宝である「三池の刀と2振」を取出して、東京に持ち帰ったようだ。
三池の刀はソハヤノツルキのことである。
「ほか二振の剣」は、三池の刀と同じ刀箱に入っていて、家康所用の拵がある2振の脇差(貞宗,行光)のことであろう。
明治元年(1868年)の神仏分離令は、寺院や仏像を破壊する廃仏毀釈につながり、久能山でも寺院が壊されている。
祖先の大事な刀を久能山に置いておくのは不安だったのだろう。
明治4年?に静岡を離れるのを機に、徳川宗家が三池の刀を取出して持ち帰った。
8歳の家達にその判断ができるとは思えないので、後見人の松平斉民か、久能山と関わりのある(=奉納刀剣あり)勝海舟あたりが提案したのかもしれない。
しかし、久能山側も「ご神体同然」としてきた「三池の刀」の不在には困ったのだろう。
(この時期(明治11年)には、ある程度、久能山東照宮の存続にも目処がついたのかもしれない)
祠官の出島竹齋が徳川宗家に返還を願い、明治11年5月4日に三池の刀(ソハヤ)は他の2振とともに久能山に戻った。
取出した年を「明治4年?」とするのは推測であるが、徳川宗家が静岡を離れる際に持ち出すのが自然であろう。
この推測の場合、三池の刀は明治4年から同11年まで久能山を離れていたことになる。
家康以来、約260年ぶりに、三池の刀は徳川宗家にあったのだ。
8年程度の徳川宗家所有であるが、「ずっと久能山にあった」という認識が覆す事実が出て来た。
廃仏毀釈という不安要素が前提だろうが、徳川宗家が「三池の刀」を持ち出せているのも、この刀剣の「帰属」認識を考える上で興味深い。
三池の刀(ソハヤ)は、徳川宗家のものか、久能山のものか、それとも、未だに徳川家康のものなのか。
(現在は文化財登録データベースによれば久能山東照宮の所有)
なかなか面白い命題である。
以上、明治時代の新聞記事からでした。
*他のソハヤノツルキの情報
ソハヤノツルキウツスナリの諸情報(主に久能山の史料)
https://privatter.net/p/2692990
ソハヤノツルキウツスナリ(伝光世作)の基本情報と諸検討(三池作他についての検討)
https://privatter.net/p/2692990
「ソハヤノツルギと大典太についての一考察」の抜粋ほか(佐藤寒山氏の論文ほか)
https://privatter.net/p/3437404
ーー
5頁:武徳編年集成、続武家閑談
ソハヤノツルキ(三池)についての記述がある逸話集。
内容は1頁の『徳川実紀』とほぼ同じ。
多少の違いはあるので、載せておく。
『武徳編年集成』
十五日
神君都筑久太夫ヲ召テ三池ノ刀久ク裁断セサレハ
彦坂九兵衛光正ヨリ科人ヲ得テ是ヲ斬テ其刃心ヲ言上スヘキ旨
御直ニ命ヲ蒙ル故
彼御腰物ヲ携ヘ御次ニ退ク所再ヒ呼返サレ
罪科慥ニ究リシ者ヲ吟味シ可裁断ト御諚アリ
久太夫早速犯科人ヲ光正ヨリ受取是ヲ裁断シ
御刀ヲ持参御直ニ献シ
実ニ雄剣トハ是ナラン掌ノ中ニ聊モ覚ナク
土壇迄入砂引アル旨ヲ演説スル所
甚御機嫌ニテ是ヲ御手ニ取セ玉ヒ
二三度振ラセラレ此良刀ヲ以テ子孫長久ノ神ト
仰カルヘシトテ御鞘ニ納メ置カル
長サ二尺二寸半篭以莫耶之剣模之中屋妙傳所持ト彫刻シ
墨鞘赤銅鶏ノ御目貫ニテ後代迄久能ノ 御神殿ニ納ル所也
●訳
(四月)十五日
家康が都筑久太夫を呼んで、
三池の刀で長らく切っていないから
彦坂九兵衛光正から罪人を手に入れ、これを斬って、
切れ心地を知らせるようにとの命令を直に言われたため、
その刀を持って隣の部屋に出たところ、再び呼び返され、
罪科が確かな者を吟味して斬るようにとの命令であった。
久太夫は早速、罪人を光正から受け取り、これを斬った。
お刀を持って直に献上して、
実に優れた剣とはこのことです。
手のひらに全く当たる感触もなく、
土壇まで切れて、砂が引きました、と説明すると、
(家康は)とても機嫌良くなり、刀を手に持って、
二、三度、振られ、この良い刀を子孫長久の神とする、
と仰ぐべしと鞘に収められて(枕刀として?)置かれた。
(この刀は)長さ二尺二寸半で、
茎(なかご)に莫耶を模造した、中屋妙傳所持、と彫刻されている。
鞘は黒で、赤銅の鶏の目貫がある。
後に久能の神殿に収められた。
↓
*注釈
内容は他の史料とほとんど変わらない。
ソハヤ(三池)を「雄剣」と形容する。
目貫を「鶏」と記す。
の2点が他と違うくらいだ。
ソハヤの長さを「二尺二寸半」としていて、
茎に刻まれた文字を「莫耶」「中屋妙傳所持」としていることから、
『明良洪範』を参照しているのだろう。
そのため、実物と刻まれている文字の情報が異なる。
目貫を「鶏」としているのは、実際の川烏の誤伝だろうか。
『武徳編年集成』は8代将軍吉宗のときに編纂されたもので、
下の『続武家閑談』と著者が同じである。
ー
『続武家閑談』
四月十六日
三池の御腰の物を町司彦坂九兵衛に命じて
科人を裁断させ榊原内記に給わり
久能山に納むべきよし也
●訳
四月十六日
三池の刀を町司の彦坂九兵衛に命じて
罪人を斬らせてから、榊原照久に預けられた。
久能山に収めるべきとのことであった。
↓
*注釈
上の『武徳編年集成』と同じ人物が作成しているはずだが、
ソハヤ(三池)が罪人を切った日付が一日ずれている。
三池を枕刀にせず、直ぐに榊原照久に預けているのも他にない。
この後の文章が榊原が神主になることと家康の神格化になっていくため、
そちらがメインの話にしてあるようだ。
★検討
ここまで『徳川実紀』の引用史料を確認して分かったことがある。
『徳川実紀』の「西国のかたは心許なく思へば、我像をば西向き立置べしと仰置れ。かの三池の刀も、鋒を西へむけて立置れしとなり」
を載せている史料が出てこない。
となると、これは間違いなく、まだ確認できていない『榊原譜』にあるのだ。
ソハヤ(三池)といえば、切っ先を西へ向けた、の部分は必ず近代の刀剣紹介本で引用される。
猪首切っ先にしても、切っ先が極端に短いからだろう。
切っ先の短さはソハヤ(三池)の特徴なのだ。
しかし、三池について記す史料で「西へむけて」を載せているのは『榊原譜』だけなのが確定した。
他の史料では、
1、罪人を切った
2、子孫長久の守り
3、久能山に納めさせた
この3つが重複していて、物語として大事なのが「1〜3」なのが分かる。
先に指摘した通り、ソハヤ(三池)は西を向いて立ってない。
そもそも久能山の「奇瑞記」でも「御蔵」に入っているし、
実際は他の刀と一緒に「刀箱」に入っていた可能性が高い。
家康の遺体を「西向き」に置く、ソハヤの切っ先を「西へ」向ける、
の部分は、家康の西国大名への警戒を示すとしてよく使われる。
しかし、これは『榊原譜』にしかない、根拠が弱い物語なのだ。
ソハヤ(三池)にまつわる話として「島原・天草一揆」がある。
西へむけては、その一揆があったからできた話ではないだろうか。
結果から物語が作られるのは、よくあることなのだ。
ーー
6頁:久能山御神宝、祠曹雑識(しそうざっしき)
東京国立博物館デジタルライブラリーhttps://webarchives.tnm.jp/dlib/
と
国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/
にソハヤ(三池)に関する史料があったので、追加。
二つとも幕府関連史料であるのが共通する。
先ずは「久能山御神宝」から。
1、「久能山御神宝」
東博所蔵の和書で、寄贈者が徳川宗敬氏となっていた。
徳川宗敬氏は水戸徳川家の出で徳川慶喜の甥。
一橋徳川家を継いでいる。
東博には宗敬氏寄贈の史料が多数あり、この本もその一つ。
『久能山御神宝』は内容から、
8代将軍徳川吉宗のときに幕府に提出された物であるのが分かる。
この本は天保2年(1831)にそれを写したもので、原本ではない。
現在、原本が残っているかどうかは不明。
久能山の宝物にはこんなのあります、という報告書なので、
新味はない。
ソハヤノツルキ(三池)についても、
ソハヤノツルキウツスナリについての諸情報https://privatter.net/p/2692990
こちらに載せてある「道具帳」と同じ情報があるだけだ。
ただ、後書きに享保年間にソハヤ(三池)がどこにあったか分かる記述があった。
その部分を以下に引用する。
『久能山御神宝』
【前略】
御内陣又ハ御宝蔵ニ相納候
御神宝御道具之品不残書付候名上申候右之内
三池御腰物別而大切成御殿奥ニて御座候
其外ハ何レ之品御大切成と申儀
其相知不申候
【後略】
久能山徳音院 印
享保二丁酉年正月 常住寂応
↓
*訳
(神殿の)御内陣または御宝蔵に納められています
御神宝御道具の品を残らず書き上げました。
名を上げました右の中で、
三池(ソハヤ)の御腰物が特に大切で、
御殿(神殿)の奥にございます。
その他は、いずれの品が大切であると
申し上げる事につきましては、分からず、
申し上げることができません。
久能山徳音院 常住寂応
1717年1月
↓
●解説
ソハヤ(三池)は社殿の内陣に置かれていた、
と複数の史料に記されているが、
いつから置かれていたのかは、はっきりしない。
先に上げた『久能山奇瑞記』では、
島原天草一揆のときのように記してある。
久能山奇瑞記は記録ではなく逸話集なのでそのまま信じることはできない。
しかし、この『久能山御神宝』は幕府の求めに応じて提出した報告書である。
久能山の史料に幕府からの書状があり、
久能山に納められている「御神宝之内御大切成品々」について
委細を書き出すようにとの指示が出されている。
享保元年12月にその書状が届き、
久能山側は享保2年1月に上記の「久能山御神宝(写)」の原本を提出した。
享保2年の将軍は8代吉宗である。
吉宗は武具への関心が強く、
北野神社の鬼切丸(髭切)や本阿弥家の鬼丸国綱などを
江戸まで持って来させて見ている。
久能山への指示も「家康公の御道具」を確認するためだったようだ。
この後書きにより、
ソハヤ(三池)が「1717年」には既に社殿の内陣にあったことが確認できた。
『久能山奇瑞記』が記すように島原天草一揆のときからかは不明だが、
1717年以前には社殿の内陣にあったのが分かる史料である。
2、『祠曹雑識』
幕府の寺社奉行に仕えていた麻谷老愚という人物が、
職務中に知り得た情報を書き記した書物である。
成立は天保3年(1834)。
内容は寺社関連メインに多岐にわたり、
その中に久能山の刀剣類に関する記述があった。
以下に記す。
「祠曹雑識」
久能徳音院寛政八辰ノ二月御研申立ニ御腰物
三池無銘一振御小脇差貞宗無銘一腰御小サ刀
行光無銘一腰御薙刀貳振一振ハ静之長刀ト申
傳候無銘一振ハ國宗無銘御鎗長吉二筋共右七
品ハ御在世御神宝御道具ニ御座候別而御腰物
御小脇差御小サ刀之三腰ハ殊ニ御秘蔵之由申
傳モ有之就中御腰物ハ 御神体御同意相心得
奉尊崇候去卯年脇坂淡路守殿ヨリ御在世御神
宝銘振中心并御拵之模様等御尋之節入念相伺
候トイフ
↓
*訳
久能山の徳音院が寛政8年(1796)の2月に
(刀の)研ぎしたいと申し入れてきた。
(神君の)御腰物三池無銘一振〜【中略】
右の7品は(神君が)生きておられたときのお道具で、
ご神宝であります。
特に御腰物(三池)と御小脇差(貞宗)、御小サ刀(行光)
の三腰は、特別に(神君の)ご秘蔵の品であるとのことが
申し伝えられています。
なかでも、御腰物(三池)はご神体同様との心得で尊崇されています。
去年の卯年(寛政7年,1796)、(寺社奉行の)脇坂安董(やすただ)殿が、
ご在世のご神宝の銘、数、なかご、ならびに、拵の模様などを
お尋ねされたとき、入念に伺われました、とのことだ。
↓
●解説
ソハヤ(三池)と刀箱仲間の貞宗、行光は、
鞘書から安政5年(1858)3月に研ぎに出されたのが分かっている。
しかし、この『祠曹雑識』の申出が実行されていた場合、
寛政8年(1796)にも研ぎに出されていたことになる。
実際に研ぎに出されたかどうかは不明だが、新情報ではある。
ソハヤ(三池)が「ご神体同意」との言葉は、
上の『久能山御神宝』にもある。
久能山でソハヤ(三池)がご神体と同じとされていたのは、
幕府にも伝わっていたのだ。
これまでソハヤ(三池)の史料といえば、
逸話集や久能山関連のものや徳川実紀であった。
それらに加えて、上記のように徳川実紀以外の幕府関連のものがあると分かった。
実物をまだ見ていないが、
幕府が所有していた三池(ソハヤ)の史料は、あと二つある。
次の頁に載せた。
ーーー
7頁:三池御腰物図、三池御刀御雛形写取之儀ニ付覚
『祠曹雑識』と同じく国立公文書館の内閣文庫にある史料である。
国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/
『三池御腰物図』は絵巻物1巻、説明書1巻に木箱。
『三池御刀御雛形写取之儀ニ付覚』は、御腰物奉行大平三五郎の覚書1枚である。
両方ともソハヤ(三池)について新事実が判明するような史料ではない。
ただ、二つとも「江戸幕府」が作成した史料であるので、
「幕府がソハヤ(三池)をどう捉えていたか」が分かる史料となる。
これらを見ると、「家康の遺品刀剣」は多数あるが、
その中でもソハヤ(三池)は「特別」であったのが見て取れる。
また、『徳川実紀』にある「子孫の鎮護」や「切っ先を西へ」などについては、
いっさい触れられていない。
非現実的な話は幕府にとって重要ではないようだ。
二つの史料を以下に年次順に引用する。
1、『三池御腰物図』(木箱の蓋裏の記述)
寛政乙卯の秋 立花雲羽種園
台命を持て久能山寶庫に蔵す所の神寶悉く記し来らしむこの二巻
是なり
神君之寶器許多なり中にも三池の佩刀者既 神躰に擬して厚く
崇敬す登なん云り然る丹此巻を謄写し給事必
神君乃照明当し登思うわ幸此たから与りしかるべ志恩遇なり登新ニ
抱蔵さるのこと唯照く喜他日徒に他視を許し 神の冥罰を蒙給
事あらんや登固り予可懐を載し子孫に示さる遍己
丙辰初秋 安董識
↓
●訳
寛政7年(1795)の秋 立花雲羽種園
(将軍家斉様の)ご命令により、久能山の宝庫に所蔵されている
神宝を全て記し来させたのがこの二巻
これである。
神君(家康公)の宝物は多くある中にあっても
三池の佩刀は既にご神体のように扱われ、
厚く崇敬されているという。
それなのに、この巻物に(姿を)写されたこと。
必ず神君の照明が当たると思うのは幸いである。
この宝に関わって当然の厚遇であると、
新たに(江戸城に?)所蔵されることは、ただかがやく喜びである。
いつの日か、無駄に他の誰かが見るのを許して
神の冥罰(=あの世での罰)を(家斉様が)受けられることがないようにと、
初めから、私の懐(おも)いを載せて子孫に知らせるべきだ。
寛政8年(1796)初秋 (寺社奉行)脇坂安董 識
↓
●説明
(*注:活字化&訳ともに自信はない)
寺社奉行の脇坂安董(やすただ)が蓋の裏に記した「識(しき)」である。
年次から、11代将軍家斉が『三池御腰物』を作らせたのが分かる。
絵巻物を作らせたことを記し、
後世にやたらと人目に触れないように、と警告している。
(公文書館の「公開文書」なので、今は申請すれば誰でも閲覧できる)
家斉が絵巻物を作らせた理由は書いていないが、
神君(家康公)の加護を期待してのようだ。
寛政7年秋に家斉に何があったか、簡単に調べてみたところ、
寛政8年3月に正室に子が生まれていた。
逆算すると妊娠が分かる時期が作成を命じた秋になりそうである。
家斉の後継は既に別の子に決まっていたが、
将軍家で正室の子が無事に育つのは稀である。
将来的に誰かの目に触れて「冥罰」を受ける?危険をおかしても、
家斉は神君の加護を期待したのだろうか。
寛政8年に生まれた子は4歳で没している。
脇坂安董が久能山に神宝について詳しく尋ねた件は、
前の頁にあげた「祠曹雑識」にもある。
『三池御腰物』は、脇坂の「識」と「祠曹雑識」により、
作成年次と関係者がきっちり確定する珍しい史料でもある。
巻物にはソハヤ(三池)以外も描かれており、
家康遺品刀剣類が拵込みで丁寧に描写されている。
この絵図面について久能山に問い合わせたところ、
絵図面は珍しくないと言われた。
他にも三池の絵図面があるのだろうか?
(自分は見たことがない)
次は『三池御刀御雛形写取之儀ニ付覚』である。
公文書館では「久能山御神体三池御刀為御手入御雛形写取之儀ニ付覚」
との題名になっていたが、
内容を確認したところ、お手入れのために雛形を写し取っていなかった。
そのため、ここでは『三池御刀御雛形写取之儀ニ付覚』と記す。
2、『三池御刀御雛形写取之儀ニ付覚』
覚 奉 大平三五郎
久能山
御神体三池御刀御雛形
御用に付写取之儀当秋
禁裏御劔為御手入
上京致し候本阿弥七郎左衛門
帰府之節 駿府江立寄
御城代町奉行申談
久能登山之上
御劔鞘悉御拭御手入
致し其説節 三池御刀
御寸法御格好御拵等
聊相違之儀無之様巨細
絵図面ニ写取駿府
御城代江差出候様可
取計召本阿弥七郎左衛門江
可言申渡候事
八月
↓
●訳
覚え (御腰物奉行)大平三五郎が奉りました
久能山のご神体三池のお刀のお雛形の御用について
(三池の姿を)写し取ることを、
今年の秋、禁裏御所の御劔のお手入れのために
上京いたします本阿弥七郎左衛門が江戸に戻る際に、
駿府に立ち寄り、御城代と町奉行に申し上げて相談し、
久能山に登った上で、
御劔、鞘を全てお拭し、お手入れをする際に、
三池のお刀の御寸法、御格好、御拵など
少しの間違いもなく、事細かに絵図面に写し取り、
駿府御城代に差し出しますように取り計らうべく、
本阿弥を召して、
七郎左衛門に言うべきと申し渡されましたこと。
8月
↓
●説明
腰物奉行の大平三五郎がこういう命令を受けましたと
書いた覚え書きである。
上の史料と違って年次がないが、
大平三五郎の名から時期は絞れる。
『寛政譜以降旗本家百科事典』と『徳川幕府大名旗本武鑑』によれば、
大平三五郎は天保7年(1836)から腰物方にいるのが確認でき、
文久元年(1861)に腰物奉行となり、
慶応元年(1865)に大坂で死去。
この「覚」は内閣文庫の多聞櫓文書の一つで、
他にも大平三五郎関連の文書が幾つもある。
多聞櫓文書は幕末の混乱期に整理されないまま残されたものだ。
腰物方時代の文書が残される可能性は低いだろうし、
他の大平三五郎関連文書も腰物奉行時代のもののようなので、
この文書の年次は文久元年8月〜慶応元年8月に絞られる。
更に、同じ多聞櫓文書に文久2年に比定され、
11月17日の日付がある
「禁裏御劔為御手入御用本阿弥七郎右衛門被仰付旨
承知仕度儀ニ付書付」
という書状があり、宛名の一人がが大平三五郎である。
本阿弥七郎左衛門が禁裏に御劔のお手入れに行くという部分が
上の文書と合致する。
11月に書付が出されているのに秋に本阿弥が派遣されるのは、
将軍徳川家茂(いえもち)が文久3年(1863)2月に上洛しているためであろう。
この書付と関連するのならば、
上の「覚」は文久3年8月のものとなる。
気になるのは、
この時期にソハヤ(三池)の雛形を写し取ろうとした理由である。
「奉」の文字があるため、
大平三五郎は上位者の命令を受けてこの文書を書いている。
腰物奉行は若年寄の配下である。
直接には若年寄の指示だろうが、
上の『三池御腰物図』が家斉の命令で作られている上に、
人目に触れる「冥罰」を恐れている。
三池の「詳しい絵図面」を写し取れと指示が出せるのは、
「将軍」以外にいないだろう。
この命令は14代将軍徳川家茂によって出されたに違いない。
では、家茂はどうして三池の雛形を欲したのか。
理由は書いていない。
家茂の時代は幕府がひどくぐらついた時期だ。
寸法や格好、拵まで事細かに本阿弥に書き写させた雛形を、
となると、
刃文が描かれていない上の絵巻物より実態に近くなる。
『三池御腰物図』には三池以外の刀剣も描かれているが、
家茂は「三池」のみの「雛形」を求めている。
もしかして、家茂は三池(ソハヤ)の写しを作らせるつもりだったのかな、
と思ってしまったが、
雛形→写しの作成という流れがあるのかどうかが、先ず分からないので、
そういう空想も楽しいというレベルの話で書いておく。
実は、幕末に家康の刀として存在感が増した、かもしれない刀が他にもある。
物吉貞宗だ。
尾張藩14代徳川慶勝(よしかつ)は物吉貞宗を使ったとされる。
こちらhttps://privatter.net/p/1583579に載せた通り、
物吉貞宗は4代吉通の代から使われなくなり、
8代宗勝のときに封印された。
以後は代々藩主の継承と同時に引き継がれていたが、
14代慶勝は物吉貞宗を使ったとされ、慶勝用の拵もあるようだ。
慶勝は第1次長州征討の征討軍総裁に任じられ、
西郷隆盛を大参謀として長州(山口県)に向った。
長州が恭順したため、慶勝はこの戦に「勝った」。
慶勝が物吉貞宗を腰に差して長州へ向かったかどうかは分からない。
ただ、可能性はあるだろう。
第1次の長州征討は元治元年(1864)である。
ソハヤ(三池)の雛形を取る命令が出されたのは、1863年?と近い。
幕府支配の危機に東照大権現にすがる思いがあったと推測される。
『三池御腰物図』
『三池御刀御雛形写取之儀ニ付覚』
の二つは、
幕府がソハヤ(三池)を「特別な刀」だと認識していたこと、
ソハヤ(三池)を通して神君の加護を得られると期待していたこと、
を示している。
幕府が大事にして代々引き継いだ刀としては、
本庄正宗が知られているが、本庄正宗は押形がある。
ソハヤは絵ですら神の「冥罰」を恐れられる。
幕府のソハヤ(三池)への視線は、神君へのそれに近い。
(この観点から考えると、家茂が写しを作るのは憚られただろう)
以上、幕府からの三池への視点が分かる史料でした。
自分が確認した範囲では、
この二つの史料を紹介した本や文章はありませんでした。
いわゆる新出史料になりそうですが、
もし、どこかで紹介されているのを見かけられましたら、
教えていただけると嬉しいです。