@satomi8429
前の話→https://privatter.net/p/1954064
その日は朝から雨が降っていた。
深くさした雨傘の影、懐の風呂敷包みをぬらさぬように大事に抱いて、義翔は逸(はや)る気持ちを抑えながら家路を急いでいた。探していた書物が手に入ったのだ。それは父の書物に登場した古い歴史書で、その古さ故に一般には知られておらず、写しがいくつか流通しているだけの希少なものだった。
家に着くころには着物の裾と靴は全面的に雨の犠牲となっていたが、義翔は頓着なく、意気揚々と玄関の扉を開けた。ガラガラと無遠慮な音が鳴り、炊事場から夕餉の米を蒸す甘い香りが漂ってくる。
「ただいま帰りました。道輝、いい土産があるよ」
「兄上!お帰りなさい」
軽い足音と衣擦れを響かせて弟が駆けてくる。
「昨日話していたあれ、偶然仕事場に持っている人がいてね。写しを借りてきたんだ。ほら」
「『あれ』?」
風呂敷包みを両手で差し出すと、小さな手が結び目を解く。今思えば、この時点で気づいておくべきだった。
「書物……ですか」
弟の視線が落ちる。任を解かれた風呂敷がだらりと垂れ、その小さな揺れが沈黙を際立たせた。
扉一枚隔てた外の、地面を間断なく叩く雨音が途端に耳につく。引き返すには遅すぎた。
ここ数日の弟は『朱雀の徴のある道輝』であることが多かった。だから油断したのだ。言い訳にしかならないけれど。
「……もう一人の道輝は、そんな難しい本を読むんですね」
固まる義翔の両手から遠慮がちに書物を受け取ると、道輝はぱらぱら開いて目を伏せた。視線の動きで、目が紙面を滑っているのがわかる。
「僕には外国の言葉のようです」
ひっそり笑った目は悲しみを通り越し、その響きは自嘲を含んだ。
「兄上は、僕のこと軽蔑しますか」
「何を言うんだ。そんなこと、あるわけないじゃないか」
つとめて冷静をよそおったが、ちゃんとできていたかどうかは定かでない。
「だって……」
本を持つ道輝の手が細かく震え、白くなった小さな指がきつく頁に食い込んだ。
「赤い文字が出ている時はこんなに難しい本をなんなく読んで、兄上とも難しい話を沢山して。それなのに、文字が消えた僕はそんなのまるでわからない、ただの弱虫で引っ込み思案な子供なんです……!」
普段決して声を荒げることのない弟が激しく心情を吐露する姿に、義翔は苦い思いで対峙した。
赤い文字、知っていたのだ。そして、『もう一人の道輝』とは。
「ずっと字が出ていればいいのに……本当に、そうだったらいいのにね。……でも、それは、僕じゃ、ない……!」
みるみる瞼に涙が膨らみ、道輝はついに声を上げて泣きじゃくった。
『それは僕じゃない』
道輝の最後のひと言は義翔の胸に突き刺さった。
何も言えず、また言うべきではないと思った。
もっともっと幼いころのように、義翔は座り込む道輝の横から被さるように抱きかかえると、胸に頭を預けさせた。
そうして、しゃくりあげる肩がごく小さな嗚咽になるまで、義翔は小さな頭を撫で続けた。雨の勢いはだいぶん弱まり、さらさらと風になびく音が時折室内に忍び込むのみだった。
部屋に落ち着き、大波が徐々に引いてさざ波になった頃、義翔は心を決めた。
「道輝」
「はい」
赤く腫れた双眸が見上げる。
「話してくれるか、文字のある道輝のこと」
「……」
「お前は大事な大事な弟だ、力になりたいんだよ」
あの日の夜が最初でした、と道輝は小さく口火を切った。
「あの時僕は、部屋で寝支度をしていたんです。着替えを済ませて厠に、と思っていたら、急に左足の甲が熱くなって、見てみたら赤く光っていて。熱さはどんどん、どんどん増して……そして、気が付いたら僕は寝台の上でした。翌日、兄上が不思議な顔で僕を見たのを覚えています。そして、父上の書庫――僕が怖くて仕方がない、あの大きな本のある部屋――の開け放した戸に僕が目をそらしたら、兄上が言ったんです。『道輝、昨日その部屋にいたこと、覚えているかい』。僕はびっくりして声が出ませんでした。そんなことした覚えはなかったのです。あの部屋に入るだなんて」
本のことを思い出しているのか、大きな目が堪えるように瞬きをした。
「……その後も、足が熱くなって光って、ということは何度かありました。そうしていつも、気づくともといた場所とは別の場所にいるんです。でもある時、足が光って熱くなっても僕はその場にいました。ただし、僕ではない別の意識が考えて、喋って、行動していたんです。もう足は熱くなくて、赤く文字のようなものが浮き出ているだけでした。それを見ているのは確かに僕の目、動いているのは確かに僕の手足……筆を持った時の軸の冷たさも、歩いた時の床の硬さもわかります。でも僕ではないんです。僕はその、もう一人の僕のすぐ後ろで、ただ見ていることしかできなかったんです」
堰を切ったように溢れ出る道輝の話に、義翔はついていくのがやっとだった。
考え行動している自分と、それを見ているだけの自分。
そんなことがあるのだろうか。それが朱雀の授けた能力なのだろうか。
「それからはいつもそうでした。もう一人の僕は難しい書物を読んで、難しい話をし、周りの人に感心され、役人になりたいなんて言い出しました。役人なんて……僕には見当もつかない。それでね、兄上。足の字が消えた瞬間、僕は前に押し出されるんです。もう一人の『道輝』はいなくなって、なにもわからない僕が『道輝』になるんです」
乾いた口で唾を飲み込む。暑くもないのに、嫌な汗がこめかみに浮かんだ。
「でも周りの人にはわからないですよね。さっきまで難しいことを話していた『道輝』が、一瞬あとにはそんなことさっぱりわからない『道輝』になっているだなんて。何度も怪訝な顔をされました。当然です。僕にさえ何が起こっているのかわからないのに、周りの人にわかるはずない」
道輝は言葉を切った。義翔も何も言わなかった。
屋根を叩く雨の軽い音が、思い出したように沈黙を埋める。
「……兄上、僕は怖いです」
弱々しくそう漏らした弟は確かに道輝だった。ずっと見て来た、よく知っている。震える唇が切なかった。
「ほめられるのも、変な顔をされるのも。責められたっておかしくない。だって僕にはわからないんだもの。兄上、僕はどうしたらいいですか」
この弟に朱雀七星士の話をすべきなのか迷った。こんなに怖がっている弟に、これ以上怖がらせるようなことを言うべきなのだろうか。
いや、今はやめておこう。
「話してくれてありがとう。僕も一緒に考えるから、そんなに心配するんじゃないよ。大丈夫、僕がついてるから」
また泣きべそをかきかけている弟を改めてぎゅっと抱きしめる。
大丈夫だから。きっと大丈夫だから。
なんの根拠もないことをくりかえし言って聞かせる。
弟に、そして自分に。
次の日、義翔は仕事を休み、四六時中道輝と一緒にいた。休むなんてと道輝は恐縮したが、義翔は取り合わなかった。胸の痛くなる話を聞いた由、道輝の恐怖心を取り除くこと、それが今の自分にできる唯一のことだと思ったからだ。
ただ一緒にいることしかできない自分の歯がゆさを噛み締めつつ、しかしそばにいていつでも助け船を出せるようにしておくことが、今は一番なのだと感じていた。実際、一見わからないくらい僅かに、しかし確かにこわばっていた道輝の表情は、夜中に凍り付いた水甕の表面が昇る太陽に徐々に照らされゆるゆると溶けるように、少しずつ緩んでくるのだった。
昨日の話は、道輝には気づかれぬよう細心の注意を払って母にも話した。今の道輝の状態について、そして調べた朱雀七星士の諸々について。
朱雀七星士として生きることは、その能力とともに生きていくということ。そして、巫女の来訪という徴兵に抗えぬ道を歩むということ。父の冒険談に慣れていて多少のことには動じない母も、息子のこととなると違うのだろう。落胆する母の肩を支えながら、僕と母は三つのことを決めた。
いつかその日が来たら、どうするかは道輝の判断に任せること。
どんな判断でも精一杯応援してやること。
それまでは今まで通り、母として兄として、普通の子となんら変わらず温かく育てていくこと。
紅い宿命の歯車は、家族全員を巻き込んで静かに回り始めたのだった。
続く→https://privatter.net/p/1966476