@satomi8429
前の話→https://privatter.net/p/1959109
翌日は、二日間降り続いた雨が嘘のように、雲一つない快晴の朝だった。
急な休みを取ってしまったため、翌日も休むというのはさすがに気が引ける。弟のことが心配ではあったが、昨日の分を取り戻すべく、義翔はいつもより早く出勤することにした。昨日一日でだいぶ落ち着いたように見える道輝は、いってらっしゃいと笑顔で送り出してくれた。
ところどころ水たまりができた、轍の残る道を行く。道の脇に断続的に茂った名も知らぬ草花は、露の玉をのせた大小の葉を昇る朝日に差し出している。……よく晴れた空だというのに、足元ばかりが目に入る。
弟の朱雀の徴は、昨日も何度か出現と消失を繰り返した。
義翔は、出現の度にその道輝に話を合わせ、第三者が絡んで困ったことにならぬよう気を配った。そして消失時には半ば意識的に笑顔を作って大丈夫かと声をかけた。心細い時は笑顔が何よりの薬だ。道輝は戸惑いながらも肯定の頷きを繰り返し、薬の効果かはわからないが、字の出現時も消失時も安定して過ごせていたように思う。
自分がそばについていることで安心できているのであればいい、と義翔は思った。しかし、今日はひとり。
先ほどの弟の姿を思い出す。大きく揚げ付けた着物の裾から、ちらとのぞいた幼い足はいつもと変わりない。怖がりな道輝のこと、不安でいっぱいだっただろうに。今日は早く切り上げよう、と義翔は早めの帰宅を誓った。
その日、帰宅した義翔を出迎えたのは、字の出ているほうの道輝だった。父の部屋から出てきた道輝は手を墨で黒く汚し、地図を描いていたのだという。 このところ、日中の父の蔵書部屋は字の出ている道輝の勉強……というより作業部屋になっていたのだ。
義翔は昨晩、例の大型本を物置へ隠し、この部屋への出入りは日中のみにすることを道輝に約束させた。没頭すると寝食も忘れてしまう道輝の成長を守るため、というのがその理由だったが、それは同時に字が消えた時用の対策でもあった。
見てください、と腕を引っ張る勢いで書庫へ連れていかれる。見ると、床いっぱいに幾枚もつなぎ合わせた雑紙、その所々に立体物を配置した巨大な紅南国の地図がそこに在った。文字だけの書物を頼りに、紅南国の地形や気候を考えながら作ったのだと道輝は言う。その大きさと意外さに義翔は目を丸くしたが、一瞬あとには苦笑とともに納得する。道輝が突拍子もないことをやり始めるのは今回が初めてではなかったからだ。
道輝の知識の吸収速度は驚くべきものだったが、同時に座学の学問に留まらない独特の発想があった。次は何が飛んでくるのかとつい楽しみに待ってしまう自分に、少々の後ろめたさを感じないではなかったが。
そういえば、昔、まだ駆け出しては転んで泣いていたくらい幼いころ、蟻の巣をじっと――飽きもせず小一時間も――観察していた道輝を思い出す。あれは母に頼まれた買い物の帰りだった。道端にしゃがみこんで、帰ろうと言っても足が痛くなるよと言っても動かない弟に困り果てたことを覚えている。一体何が面白いのかと問うと、この穴の向こうはどうなっているのだろうと思って、という返答だった。もしかしたらあの時道輝の頭の中では、こんな感じに立体的で複雑な巣内部の様子が思い描かれていたのかもしれない。
今目の前にいる道輝は、物言いもはきはきして、字のない泣き虫の道輝とは別人のようだと思う瞬間はないでもない。しかし、喋り方の癖やちょっとしたしぐさは道輝そのものだ。さらに思い出の中の道輝の片鱗まで見出してしまい、義翔は混乱した。
別人なのか同一人物なのか。
別なのならそれはどこで切り分けるものなのか。
そもそもそれを考えること自体が無意味なのか。
出口の見えない思考の迷路を右往左往し、義翔は片手でこめかみを押さえた。
別のある日。
「兄者!」
字が現れているのだろう、闊達な声が後ろからぽんと投げられた。
「あ、兄者……?」
振り向きざま繰り返すと、道輝は企みの成功を楽しむようにえへへと笑う。
「大人はみんなそう呼ぶのでしょう?書物の中の人達はみなそう呼んでいましたから」
確かに書物に出てくるような偉人たちは兄のことを兄者人、つまって兄者と呼んでいた。
そんな細かいところを拾うのが字の出ている道輝らしいと思い、同時にそんなところに惹かれて自分も呼んでみたいと言うのが子供らしさの残る道輝らしく、思わず笑みがこぼれた。
「僕、早く大人になりたいんです。大人になって、役人になって、立派に働いて、母上と兄者に喜んでもらいたいんです」
「そうか、頼もしいな」
道輝の勢いにつられてぐりぐりと頭を撫でると、結った総髪が崩れるのも構わず向日葵のような笑顔が咲いた。
目の前の道輝は朱雀の徴の現れている道輝だったが、これは紛れもなく――とりわけ末尾は――、自分の良く知る道輝の心の声であり、道輝の笑顔だと思った。
続く→https://privatter.net/p/1979336