1→https://privatter.net/p/4898135
2→https://privatter.net/p/4904990
3→https://privatter.net/p/4909365
4→https://privatter.net/p/491931
@satomi8429
《前の話》→https://privatter.net/p/491931
つやつやと鏡のように輝く朱色に塗り上げられた分厚い扉は、何の抵抗もなくあっさり開いた。皇帝陛下が儀式を執り行う場だというのに、用心の錠もなければ、番人のひとりもいない。
横から差し込む午後の陽が薄暗い部屋の床を舐め、ゆっくりと扇型に広がっていく。既視を感じ、それから張宿は思い当たった。儀式の最中に乱入するのは二度目だ。
一度目は偽の張宿である亢宿が攻撃を仕掛けているところだった。只の一市民である自分が入り込めるほどの警備の甘さは、当時の紅南国の危機感のなさからだったのだろうが、今回は違う。国の危機感は高まっているが、それを上回る速度で立ちはだかる現実に十分な対応を取ることができない、国自体の弱さが原因だ。張宿はきゅ、と唇を引き結んだ。
青龍の出現という緊急事態に慌てふためいた役人たちの大部分はおそらく、急遽各地に散らばって軍隊となり得る者たちをかき集めているのだろう。しかし運よく集まったとしても、平和の続いた紅南国で実戦の機会があるわけもない。平素から鍛えているとはいえ、好戦的な民族でもない彼らは、実戦経験には乏しいはずだ。それは剣の覚えのある皇帝本人にも言えることであり、そんな頼りない寄せ集めの軍で大国倶東の軍勢を迎え撃つしかないのが、今の紅南国の状況だった。
ぎぃ、ぎぎ、ぎ。
枯れ木のように痩せ細った老人の低くか細い呻きのような音を立てて扉が開き、役人たちが振り返る。張宿は彼らを、そして重厚な儀式の間を、ほとんど目だけで見渡した。
朱塗りの柱が何本もそびえた天井。そこへ描かれた二十八宿と四神は、今にも動き出しそうな迫力で要人たちを見下ろしている。いくつもの円からなる絵画の中心部から鐘のごとく吊るされた巨大な四角い飾りは、朱と金色の繊細な半彫刻に彩られ、そこから伸びる、皇帝冠に似た枝垂れ飾りは、扉が開いたため吹き込んだ微風に揺れてちらちらと光を反射した。その真下の広い台座には、以前朱雀召喚の儀の際に神聖なる火の燃えていた、装飾を凝らした巨大な鉢の代わりに、黄金色の朱雀神象が孤高の空気をまとって鎮座していた。
役人十数人、大臣数人、そして朱雀神の向こうに跪いている星宿を素早く認めると、張宿はおもむろに片膝を地面についた。額の前で袖を合わせ、自分の臍を覗くようにして頭を下げる。最も高貴な者へ、遜った礼の姿勢だ。
「何者だ!」と一人が叫ぶ。その声を合図に、役人二人が慣れぬ手つきで槍を構えて、左右から張宿を威嚇した。
「神聖なる儀式を邪魔立てする無礼、どうかお許しください。皇帝陛下の御目通りを願いたく参じ申しました。皇帝陛下へ、お取り次ぎ願います」
「皇帝陛下へ謁見だと!?」
童子のような体躯、変声も迎えていない声が紡ぐ淀みない言葉に、役人たちがざわついた。緊迫した空気の中、とりなすように年配の役人が言葉をかける。
「用件はなんだ。名は何という」
「はい。私は河南省上善市より省試のため参じました、名を王道輝……七星士名を、張宿と申します」
七星士、という単語に室内がどよめく。無理もない。張宿が宮殿に居た期間はほんの数日だ。賑やかな他の面々ならともかく、少年というより童子のような張宿の姿は、今初めて目にした者も多かった。大部分の役人たちが朱雀七星士について知っているのは、巫女とともに長い旅に出、倶東国の七星士である青龍一派と戦い破れ、青龍が召喚された揚げ句に祖国が倶東の兵に侵攻されているということだけである。
「朱雀七星士なのか!この童が」「七星士とは紅南を救うという伝説ではなかったのか!?」「二度も召喚の儀に失敗しておいて」「そうだ、結局紅南国は危険にさらされているではないか」
ひそめた声のやり取りがさざ波のように部屋中に広がる。
「無礼者!張宿は余の仲間である。余も朱雀七星士が一人と知っての雑言か!」
星宿が一喝し、その語尾に張宿の声がはっきりと重なった。
「私の出遅れがそもそもの発端、儀式の失敗も、青龍の召喚も防ぎきれなかったこと、申し開きはできぬことと承知しております。私の至らなさについて、何を言われても受け止める覚悟はできております。誠に申し訳ないことでございます」
今朱雀は封印されていて、張宿の知能という能力も発現していないことは明らかだ。その状態でこの胆力、役人としての妥当な言葉遣いも含めた発言の一部始終に、星宿はしばしあっけにとられているようだった。一方、喋っている張宿自身もまた、自分の口からすらすらと出てくる言葉の数々に驚いていた。
張宿の頭の中には、大きな知識の甕があった。字が出ている時、その甕からは、とめどなく溢れる湧水のように知識がこんこんと湧き出ていた。しかしその甕は、字の出ていない時には、湧いていたのが嘘のように沈黙してしまう。それは覗き込んでも遠くにゆらりと底が見えるだけの、枯渇した甕なのだった。
しかし今、目を見開いて甕をよくよく覗いてみると、甕の底には僅かだが確かに溜まっているものがあった。柄杓を伸ばし、ひと掬い、ふた掬い、と丁寧に掬い出す。そうして見ると、今ここで必要な知識がこの手の中に見出せるのだった。字のない自分でも、湧き水のごとく溢れ出る知識がなくても、少しずつ時間をかけて積み上げてきたものが、そこには確かにあったのだ。
自信なんて、ない。
でもやらなくちゃ、という気持ちに突き動かされ、自分は持てるものすべてを叩きつけることに決めたのだ。
片膝をついたままの姿勢に、傷口だった場所がずくずくと痛む。額に浮かぶ汗を無視して、張宿はぐっ、と腹に力を入れた。
「皇帝陛下」
星宿様、ではなく公的な呼び名を選んだ張宿に構わず、星宿は祭壇から降りて真っ直ぐ張宿のもとへ進んだ。繊細で優美な心配顔には似合わない、今すぐ戦に発てるよう着込んだ甲冑が一足ごとに重い音を立てる。
「張宿、こんなことをして……そなたは瀕死と聞いていた。体はもう大丈夫なのか。言ってくれれば私がそなたの部屋へ出向いたものを……」
呟くように問う星宿に、張宿は姿勢を崩さず相対した。袖に隠れた顔面は星宿からはまったく見えない。
「陛下が私ごときの部屋に足をお運びになるなど、めっそうもございませぬ。もったいないお言葉を賜り、恐縮にございます」
頑なな態度の張宿に、星宿は溜息をついた。
「畏れながら皇帝陛下、この度は聞いていただきたいことがあり馳せ参じました」
「面を上げよ、王道輝。そなたは我が紅南軍の有数の軍師、何か有効な策でもあるなら教えてもらいたい」
「ご厚情感謝いたします、皇帝陛下。畏れながら、軍師として進言させていただきます」
張宿は顔を上げ、大きく息を吸って言った。
「皇帝陛下の進軍をお取りやめくださいませ」
星宿をはじめ、周囲が皆一瞬凍り付くのがわかった。
もう後には引けない。張宿は覚悟を決めて唾を呑みこんだ。
《続く》→A:https://privatter.net/p/4960838
B:https://privatter.net/p/5013460