@sirasu810
七話です。前話で都遷しましたが、今話では京に戻ってきました。都が再び移されたのですが、平家の運は傾き始めているわけですから、揉め事は続きます。清盛の息子重衡は、再び南都(奈良のこと/興福寺の別称でもある)に出陣。僧兵に抵抗され、またも夜軍になります。再び寺を焼くことになるのではと案じる重衡。けれど同士討ちになっては困るので、十分に気をつけよと命じた上で火を使います。しかし風は強かった。興福寺ばかりか、東大寺も燃え落ちました。「やってはならぬ」は「やってしまう」が物語の定め。
小松殿(重盛)の息子たち、特に長男:維盛が今後を案じています。しかし次男:資盛は「我らがここで何を話そうと、南都はもとに戻りませぬ」と冷静でした。その空気を和ませようとする三男:清経「資盛兄上は想い人との仲が元通りになられましたから、他のことはどうでもよいのでしょう」今はまだ日常を過ごしつつも、不穏な気配に包まれていく兄弟たちです。
さて、父母に呼び出された徳子は、危篤の高倉上皇が亡くなった後の身の振り方について提案されます。後白河法皇の後宮に入ってはどうかと。
「わたくしをまだ父上の野心の道具になさいますか」
徳子は夫である高倉上皇に誠心に仕えていました。自身をさらに道具として用いるならば出家すると告げ、いまにも髪を落とそうとします。さすがの清盛も無理強いはできませんでした。
「大丈夫。わたし、この子を守って生きていくわ」
母として、上皇の妻として、徳子は強くなっていました。びわの目には、徳子と安徳天皇を抱きしめる亡き上皇の姿が。徳子にも見せたかったね……。
「どやつもこやつも皆わしに逆らいおる。実の娘まで」
清盛は気落ちしかけていましたが、源氏を討たねばと促され、気を奮い立たせます。しかし清盛の熱がまったく下がりません。妻である時子は夢を見ます。閻魔の使いが「清盛を迎えにきた」と告げました。異常な熱に苦しみ続ける清盛。これもまた『平家物語』が仏教思想の濃い物語であることを表している場面です。悪行を成した人間は、体中から熱が出て、のたうち回って死ぬとされていました。それを体現しているという描写です。ここで振り返りたいのが二話の感想で書いた、
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仏教社会である当時の考え方に〈恨みのある人間は極楽浄土には行けない〉があります。恨みには色々なものがありますが、悪行とも言い換えられます。人を妬む、羨む、驕り高ぶる、恩を無下にする、などなどの悪行を抱えたままだと、成仏ができないとされていました。しかしそれだけでなく〈念仏を唱えれば、悪行を持つ人間でも成仏ができる〉という考え方もあった
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です。悪行をなした清盛、このままでは極楽浄土には行けないです。それどころか閻魔様のお使いが「清盛は無限地獄の底へ沈む」とまで告げてきました。その清盛が、遺言として最後に残し、願ったのは、
「わしが死んだ後は御堂も塔もいらぬ……供養もするな……すぐに追っ手を送り、頼朝の首を刎ね、わしの墓の前にかけろ……!」
破滅エンド確定です。
当時の読み手・聞き手には「ああ、ここで改心して念仏さえ唱えていれば!」と思わせ、しみじみさせるところ。それでいて悪行を貫いてきた登場人物の壮絶さを見せつける場面です。
日常生活に仏教要素のなじみが少ない現代のアニメ視聴者にも、これまでに出てきた〈祈り〉〈許す〉といったキーワードから、清盛が反してしまったことは窺えると思います。
※清盛の実際の死因については熱病説があります。
原典では清盛の死の後に、清盛にもいいところはあったんだよだとか、実は前天皇の子であったらしいとか、そういう物語が続きます。〈亡くなった人について語ることは供養〉にあたるとされていますし、「実は〇〇の血を引く御方だったのだ」という展開はいつの時代であっても読者・聞き手が大好物の人気要素です。
しかし平家一門にとって、清盛の死は大き過ぎる打撃でした。
「どうすればよいのかの……知っている者も、知らぬ者も、みな亡くなっていく……これからもきっと……。びわに、何かできることはあるのかの……」
びわは小松殿と同じように、自分にできることは何かを考え始めます。見えた先は変えられない。そんな自分に、できることがあるのだろうかと。
平家没落の気配は着実に広がっていました。祖父の死に維盛はひどく狼狽し、資盛もびわを追い出そうとします。
「びわ、出ていけ。ずっと俺は、お前のその目の色が気味悪かったんだよ。お前が弾く琵琶の音も嫌いだった」
「兄上……!なぜそのような……!」
「父上が亡くなられた時に、追い出しておけばよかったんだ!ここにはもうとっくに、お前の居場所はないんだからな!」
これに対し「分かっておる。資盛のことは、ようよう分かっておる」と言うびわ。ずっと一緒に彼らと育ってきたので、資盛が言わんとすることをきちんと受け止めることができます。そして平家を去るびわ。今話で歌うのはびわではありません。徳子です。
「わたくしは、泥の中でも咲く花になりとうございます」
後白河法皇に対面し言い切った徳子。強くなりました、本当に。彼女が歌うのは梁塵秘抄にある今様です。
女人五つの障りあり
無垢の浄土は疎けれど
蓮華し濁りに開くれば
竜女も仏に成りにけり
女というものは生まれながらにして五障がある。浄土はなかなか遠いけれども、蓮華が泥の中で美しい花を咲かせるように、竜女も仏となったのですから、わたしもそうなりたいものです、という意味です。五障とは、女性は修行しても梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏陀(いずれも仏教の守護神/魔王は修行を妨げるもの)にはなれないとされていたので、それを指しています。しかし八大竜王の娘が男子に変じ、無垢の世界にゆき、女の身でも成仏できることを証明してみせたというお話があるので、それにあやかろうとこの概念・歌は女性たちに広まりました。
「しかしのう……そなたはもう、無限の泥の中に引きずり込まれておるのだ」
七話はここまで。ついに清盛が亡くなった平家。動き出した源氏。都に戻った後白河法皇。平家から離れたびわ。終焉に向かって進みます。
——以下雑談——
徳子が歌った歌に関連してですが〈女とは足りない存在であり、不足を補うには変成しなければならなかった(男装する・尼になるなどの変化)〉という考え方は昔から存在します。高天原にやってきたスサノオを男装・武装して出迎えたアマテラス、『平家物語』に出てくる男装束の白拍子たちや、古典作品に多く登場する往生のために髪を落とした尼たち。国生みのイザナミも自身について「私には足らないところがあるようです」と女性を表現しました。
女性が変ずるなら逆も然りで、ヤマトタケルも渡辺綱も女装して戦いに向かいました。『義経記』で弁慶を打ち破った幼少の義経は、稚児(中性的・幼少による神性)であることで力を発揮しましたし(義経の年代については諸説あり)、幼少の男児を女装させて魔除けとするのは日本だけではなく世界各地にある風習です。『とりかへばや物語』でも、主役の男女がどちらも性を偽ったことに始まり、苦労の末ですが大出世します。
男女どちらかではなく、双性(または中性)的な存在になることで大きな力を得る、という物語は古くからたくさんあるので、このあたりの文化ネタに興味のある皆さまは、先人が掘りに掘った沼を覗いてみてください。そして二次創作で「女装・男装ネタしていいのかなあ」と思っておられる皆様、全然大丈夫です。なにせ歴史的にド定番です。古来より人の欲業は深うございますれば……。
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