@alikiri
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最初こそ、放り込んだTETSUの思惑を予想外の方向に裏切る形で始まった譲介の診療所暮らしだが、年が明けてそろそろ学校がはじまる頃になれば、当の子どもたちはうまい距離感を見つけたようだった。
初日に取っ組み合いの騒ぎを目の当たりにした神代はしばし呆然としていたが、そこはKの一族なので気が動転していようが中学生のひとりやふたりはあっさりと制圧できた。つーんと不貞腐れたように黙り込む子どもふたりに困惑しつつ、これまで一也にも――大人の方の――譲介にもろくに説教をしてこなかったので言葉に詰まってしまった。
結局、その日は喧嘩両成敗と朝の掃除を命じるに留まったのだが、翌朝起きだしてみるとまだ寝ている人間に気を使ってかヒソヒソ声で口喧嘩をしているものだからたまらない。昨晩、子どもが寝静まった後に譲介の『事情』を神代に洗いざらい喋らせた富永はそれを見て「一也くんも喧嘩とかするんだねえ……」とむしろ嬉しそうだったが。さらに「あれが長じて譲介先生になると思うとKもやりづらいですねぇ」と揶揄うものだから頭を抱えるしかない。
そんな調子で、神代は子どもふたりの関係が落ち着くまで柄にもなく胃の痛い年末を過ごすことになった。『一也は友達』だとか言ってただろ譲介、ともう居ない男につい愚痴のひとつも言いたくなる。
実際のところ、家庭環境面の複雑さは一也も譲介もいい勝負なのだ。児童養護施設育ちの譲介には近い境遇の子どもはいたが、それぞれ抱える事情は異なっていたし、両親ともども素性不明で出身地も分からないのはさすがに少数派だ。
さらに一也の方は言わずもがな。唯一無二の出自であることを思えば、興味関心の分野が同じ譲介のほうが学校で出会う同級生よりよっぽどウマが合う。
さらに言うと、譲介のほうは――決して初日から美味しいカレーを出してきたイシに胃袋を掴まれたからではないだろうが――神代をはじめとした診療所の大人たちは反抗したり媚びを売ったりする相手ではないと早々に理解したらしい。東京へ戻って数ヶ月後、中学二年に上がる春休み前にはまた十日ほど世話になれないかと本人から電話がかかってきた。
それから二年間、普段は東京でドクターTETSUと暮らしながら中学校に通い、長期休みの半分は同居人にどこかへ連れ出され、残りの半分はT村で過ごすのが譲介のお決まりになった。
一也とはその後もいくらか衝突はあったが、普段はT村と東京と離れて生活しており、顔を合わせるのは長期休みの間だけという距離感がちょうど良かったらしい。どちらも友人とベタベタつるむタイプではないし、日々の生活では勉強に集中していたい。覚えること、学びたいことはいくらでもあった。
中学卒業を目前とする頃には、まだ知り合って一年程度の麻上ですら仲の良い友人と認識するくらいにはなっていた。
「一也くん、緊張は……してないわねぇ」
「そう見えますか?」
「見える見える」
「オペ前より堂々としてるわ」
「そ、それはどうでしょう……?」
「でも今日が終われば、残すは卒業式のみ! 長めの春休みだね」
高校受験当日の朝、中学三年生の子どもにかける言葉としては、ずいぶんと呑気な台詞だった。だが富永も麻上も、こと一也に関しては何の心配もしていない。試験の出来など言わずもがなだし、受験票などもしっかり準備しているのを見ている。あとは道中で急患に遭遇しても、余裕をもって救急隊に引き継ぐ時間を持てるように早めに行こうね――というところか。
それは今回ではなく未来に起こる話だったが、この場にいる三人はそんなことはもちろん知らない。
「譲介くん、また来るといいわね」
「えっ?」
「この冬休みは彼も受験だから来なかったでしょう?」
「ああ……そうですね。年賀状は届きましたけど」
初めこそ、ついにあの『譲介さん』の存在に迫れるかも――という一也の期待をバキバキに折った上にカチンとくる物言いばかりする譲介とは喧嘩ばかりしていたが、いまは友達のようなライバルのような位置に落ち着いている。なんだかんだいって、同世代で医療を実践込みで学んでいるだなんて特殊ケースは自分たちくらいなのだ。
昨年の年始も譲介は診療所に来ていたから、年賀状が送られてきたのは今年が初めてだ。一也はもちろん東京にある譲介の家――イコール、ドクターTETSUの住所だ――なんて知らなかったので、受け取ってから慌てて年賀のうちに返事を返すハメになった。事前に教えてくれよ、と次回会った時に言ってやろうと思っている。
そこに、早朝から往診に出ていた神代が帰ってきた。キャッキャと盛り上がっていた富永と麻上と異なり、普段と変わらぬ様子で「いつも通りにな」と発破をかけてきた師に見送られ、一也は野上北のバス停に向かった。
同じT村に住む唯一の同級生で、普段は一緒に通学している徳光も、志望校は異なるが同じ県立校を目指しているので今日が試験日だ。確か試験の日はお父さんが車を出してくれるって言ってたっけ、と思いながら到着したバスにひとりで乗り込む。
最初は一応、受験生らしく参考書を開いていたがすぐに閉じてしまった。静かなバスの中で窓の外を眺める。今日は晴れているが、流れていく景色には先日までの雪がたっぷりと残っていた。東京からT村に引っ越して早五年。一也にとってもすっかり見慣れた冬景色だ。
やがて、バスは泉平高校最寄りのバス停に到着した。荷物をまとめて降車する。受験生たちの波に乗り、校門に向かう途中――派手なエンジン音の車とすれ違った。黒いフォルムの巨体がドップラー効果を残して走り去っていく。
「えっ」
「あ」
まさか、と思った瞬間、見知った顔に出くわした。
「譲介⁉」
「あー、やっぱりな……」
何がやっぱり? と首を傾げつつ、やはりいまの車はドクターTETSUだったか――と納得する。あんな軍用車まがいのもの、そうそう一般道で見かけるものではない。
「一也お前、ココを受けるのか?」
「そうだけど。譲介は?」
「都立の推薦は先週結果が出てるよ」
「へえ、そうなんだ早いな。おめでとう」
「まだ何も言ってないだろ」
「違ったか?」
「違わないけど」
「ほら。で……なんでここに?」
まさか、自分は一足先に進路が決まったからって、一也の受験を冷やかしにきたわけではないだろう。まさか、まさかね。
だが、そのまさかだった。一也の予感を裏付けるように、譲介はコートのポケットから受験票を取り出した。自分のカバンにも入っている泉平高校の受験票。ここがいつでどこかを考えれば当然のような気もするが、和久井譲介の名前が書かれている理由にはならない。
「お前も受けるの……? なんで?」
「らしいな」
「らしいなって、何だよ」
「いや僕も昨日聞いたから」
「昨日⁉」
譲介が言うには、昨日東京でドクターTETSUに車に乗せられ、数時間をゆうに越えるドライブのすえこの近くの土手にあるマンションの最上階につれてこられたらしい。その部屋はまだ人が住んでいる気配はなかったがあちこち手が入っており、あきらかにこれから開業(・・)するためにリノベーションしたとしか思えない部屋だった。そして「受かれば引っ越しだ」と受験票を渡され、今朝ここまで送迎されてきたと。
「…………開いた口がふさがらないんだけど」
「ここまでのは僕も初めてだな。診療所に初めて行った時は色々と説明があった」
そういう譲介はケロリとしたもので、腕時計に目を落として「まだ余裕あるな」などと言いつつ校舎のほうへ歩き出した。
――K先生が聞いたら、また怒るだろうなぁ……。
師と闇医者の口論は何度も聞いているが、あれは次代のKだのと言われていようが一介の中学生の手には余る。いつも通り富永先生に仲裁してもらおう――と考えながら、一也も譲介に続いて校舎の中へ入っていった。
***
「一也」
「――譲介か」
受験の日から一年半。高校二年生になった一也と譲介は、あの日と同じように泉平高校の校門前でばったりと出くわした。あの日と違うのは、いまは放課後で、これから校舎に入るのではなくふたりとも帰宅しようとしていたことだろう。それに、泉平高校では先週衣替えがあったばかり。一也も譲介も同じブレザーを着用していた。
一也と譲介は同じ理系コースを選択してはいるが、別のクラスだ。なので学校で顔を合わせる機会はさほど多くない。一年生の頃もふたりは違うクラスだったので、同級生のほとんどは一也と譲介が高校入学前からの知り合いで、しかもかなり気安い仲であるとは知らない。
T村へ帰るためのバス停は、譲介が住んでいるマンションとは別方向だ。それでも今日は同じ方向へついて来た譲介に、一也は「今日の件、K先生から連絡貰った?」と聞いた。
「まあな。麻上さん、腕を折ったんだって?」
「ああ」
泉平高校入学と同時にN県に引っ越して来た譲介は、当然それまでとは違って長期休み以外でも頻繁にT村を訪ねていた。何か手術予定があると聞けば平日の放課後に顔を出すこともあったし、仕事の依頼でTETSUが不在の週末などは泊まりがけのこともあった。オペ室に入れてもらえてもほとんどは見学のみだが、症例と術式によっては一也と共に助手をすることもある。
「もう富永先生も居ないし……外来はともかく、往診の手は足りてるのか?」
「いまのところは大丈夫かな。西海大あたりからK先生に執刀依頼が来たら分からないけど……」
そんな話をしながら、野上北行きのバスに乗り込む。本数の少ない路線なので譲介が学校帰りに村へ向かう日は一也も同じバスで帰るが、乗車前から一緒なのは珍しい。
なにせ昨夏以降、放課後の一也の隣にはだいたい――。
一番後ろの座席に腰を落ち着けた譲介は、隣に座った巨体に視線も向けずに質問した。
「今日はアイツはどうした?」
「アイツ?」
「チビ眼鏡」
「……。そういう言い方は感心しない」
K先生みたいに言いやがって、と思いつつ「じゃあ、お前のカワイイ彼女」と言い直す。
「かか、かっ……、ぼ、僕たちはそういうんじゃ……!」
ジャブにすらならないような軽いからかいのつもりだったのだが、ずいぶん反応が過剰だ。不思議に思って一也の顔を確認すると、何やら頬が赤い。
「おいおい、本当にどうした?」
「…………。宮坂さんには、今日はオペの予定があるから先に帰るって伝えてある」
「は?」
村の外の人間に、そんなことを話してどうする。そんな追及が込められた譲介の視線を受けて、一也は先週の出来事をかいつまんで説明した。磯永にシカゴに来ないかと誘われていたこと。T村での事故に、宮坂と共に救助にあたったこと。そこで、己の出生について話したこと。
そしてそれを、宮坂は正面から受け止めてくれたこと。
「……。マジか……」
久しぶりに帰国してきた西城KEIの夫――磯永幸司に会いに行くため、一也が数日学校を休んでいたのは譲介も知っている。だが、一也が自らクローンであることを話したというのは衝撃だ。譲介とて、その事実は一也の口からではなく養い親の男から教えられたにすぎないのだ。
それにしても――。
いつでもハキハキと喋る一也にしては珍しく、宮坂詩織との出来事になると視線が彷徨い、妙に口調がゆっくりになっている。
――どう見てもとっくに宮坂に惚れていたくせに、やっと自覚したらしいな。
勉強や医学のことで追いつけ追い越せと対抗心を燃やしていられたのは出会ってから一年くらいの話で、いまの譲介が一也に抱いているのはむしろ仲間意識に近い。だがこうして年相応に揶揄える弱点を見つけたからには、くすぐってやるのが礼儀というものだ。
「で、『オペの予定がある』って伝えたら、宮坂はなんだって?」
「え? 頑張ってね、って言ってくれだけど……」
そのあとに「いつかちゃんと手伝えるように今日はひとりで勉強しとくわ!」と続いたのは、一也の胸の中だけに大事に留めておいた――のだが、なぜか譲介は「へぇー」とニヤニヤしている。
「な、なんだよ。別に……おかしくはないだろ」
「そうだな。ま、シカゴ行きを止めて貰えたってことはそもそも脈アリだよな。よかったな」
「……! い、いや……それは……」
もごもごと、一也にしては珍しく歯切れの悪い返事しかできない。なにせ、一也が出生の秘密を自ら打ち明けたのは宮坂が初めてなのだ。いままで一也の出自を知っている人間といえば、物心つくかつかないかの頃から一也を見守ってきたKの一族や母の関係者たち。または『クローン人間』を求めた組織の人間だ。例外は後者から一也と共に秘密を知ることとなった富永と、一也を見守ってきた――という枠に入れていいはずだ――男から聞いた譲介だ。
自ら打ち明け、受け入れ、ひとりの人間として認めてくれた。他者に承認される喜びは社会動物である人間にとって根源的な欲求のひとつだ。だからこれを恋と分類してしまっていいのか、まだ一也にもわからないのだ。
動揺を抑えつつ、意地の悪い笑みを引っ込める様子がない譲介への反撃の糸口を探す。
「うう……譲介こそ。ドクターTETSUとは最近どうなんだよ」
「…………。あの人からしたら、僕はずっとガキだよ。――っていうか、なんでこの流れであのオッサンの名前を出してくんだよ⁉」
「だって……お前、そうだろう」
「…………」
――こいつ、洞察力は高いくせにデリカシーが無さすぎる。
一方的に存在を聞かされていた頃から入れてしまえば、譲介が一也のことを認識してもう五年近くになるが、これまでこの『友達』に感じていたことを譲介は改めて思う。既に医師としては優秀すぎるほどの観察力を持っている男だが、こういうところはなんとかならんのか。
既に意中の相手からもそう評価されつつあるのだが、まだそのことは知らない譲介はぷいっとそっぽを向いた。バスの中から窓の向こうで流れる景色を遠目に見つめる。
東京都北馬区のあさひ学園。都外の施設から移動した直後で、まだ周囲の状況を観察しながら大人しくしていた譲介の前にその男は突然現れた。一目で考えを見抜かれたが、わざとらしく寄り添ってくるような振る舞いもせず、一方的に宣言をして譲介を引き取ったかと思えば平気で数日間どこかに放り出したりする。しかし必ず迎えに来て、どうだったか、と不在の間に譲介が見て聞いて感じたことを聞きたがる。
親というには乾いていて、兄というには遠すぎる。
そんな、無茶苦茶な男を好きになってしまったのはいつからか。
己の思慕に気づいた点では、どうやら一也も譲介に追いついた。違うところは、譲介はそれを絶対に認めたくないということと、たとえ認めたところで叶えようも無いほど絶望的な年齢差があることだ。
「……あんなジジイなんか知るかよ。僕、しばらく診療所に泊めてもらおうかな」
「ええっ?」
「だいたい富永先生も居ないのに麻上さんがそんな状態なんて、放っとけないしな。今年の夏休みは僕もいくらか仕事を任せて貰えたの、一也も見てただろ?」
そうだ、そうしようと繰り返す譲介に、一也は肩をすくめた。
「まあ……後でK先生に相談してみたら? 昔はひとりで診療所を回していたしどうとでもなる――って、先生は仰ってたけどね」
「そりゃあもちろん、K先生なら問題ないだろうさ。それでも、大変なのは大変だろ?」
「…………そうだな」
――たぶん、その『ひとりで診療所を回していた』医師はK先生じゃない。
譲介の前なので――いや、譲介の前だからこそ口には出さなかったが、一也はそう確信していた。
誰にでも秘密がある。小さなものから特大なものまで。
この世の誰よりもそれをよく知っている一也は、隣に座る友人と同じように黙って窓の外を眺めた。
***
「春休みなのに課題があるなんて……! ほんと嫌になるわ、受験生って」
三月末日の日曜日、休診日。T村診療所の診察室にある作業台兼食卓テーブルに、高校生が三人集まっていた。一也と譲介までは定番の顔ぶれだが、今日はそこに宮坂が加わっていた。例によって長期休暇中は連日診療所に顔を出している譲介が一也をそそのかしたのだ。譲介としては一也を街に出かけさせ、自分は神代の指導を独占しようという腹積もりだったが、いろいろあって譲介まで一緒に机を並べることになってしまった。
主原因は肝心の神代が西海大に呼ばれて不在にしているからなのだが、ではその間の診療所の電話番兼急患対応者をどうするかといえば、悔しいことにいまの譲介はひとりで任せてもらえる立場にない。日曜日なのだし麻上と村井にはなるべく休んでもらいたい――となると、当然その担当になるのは一也だった。宮坂はもうここの事情を知っているのだしと村に呼んだのは一也にしては珍しく良い判断だが、そこに僕を巻き込む必要はないだろ――と思いはするが。
「量も多いよね」
「とかいいつつ、とっくに終わらせてるんだろお前は……」
「譲介!」
「えっ黒須くん、ほんとに?」
「まあうん……。でもほら、宮坂さんは来月から理系クラスに変わるから多めに課題を出されたんだろ?」
「そうなのよォ〰〰‼」
がしがし、と宮坂は頭をかいた。教師陣も理転という選択を応援してくれるのはいいが、その分容赦はなかった。
「黒須くんはいつも学内テストトップだし、和久井くんも上位にいるでしょ? そこに更にふたりとも……医学の勉強もしてる、のよね? 一体どうやってるわけ?」
「僕はコイツとは違う。あれもこれもはとてもやってらんないよ。学校のテスト勉強は適当なとこで手を抜いてる」
「えっ?」
譲介の回答に、宮坂よりも一也のほうが驚く。一也からは、譲介は何にだって全力のように見えていた。
「手を抜くって、例えば?」
「数学の片山センセー、いるだろ。あいつ、いつも定期テストでは大問を出してくるだろ?」
「ええ。配点をめちゃくちゃ取られるやたら難しいやつね……!」
いまだ数学と和解できていない宮坂はギリッ…と拳を握ったが、毎回さらりと満点を取っている一也はといえば「そうだっけ」と首をかしげている。
「そうなんだよ。アレ、全部ここ二、三年の帝邦大の過去問から出てる」
「そうなの⁉ って……なんでそんなこと知ってんのよ」
「あのセンセー、帝邦大卒なのが自慢なんだよ。だから過去問めくって試験範囲にある単元の問題見とけば確実に点が稼げる」
宮坂の疑念の視線を、譲介は手元のノートから視線を上げもせずに受け流した。
「泉平は進学校だから学内テストも受験対策もほとんどイコールだが、全部ってわけでもないし、全部イチからやるのがベストってわけでもない。効率よくできるところはやっていかないと」
「そんな簡単に言いますけどねェ……」
これまで宮坂は自主的に二次試験の過去問を解いたことなど一度もない。なにせまだ高校二年生だったし、志望校だってまだ完全に固まったわけではないのだ。そりゃあ、いまも横にいる男が目指している帝都大学に一緒に行けたらなとは思っているが――まだ、淡い夢のようなものだ。
そんな宮坂にとって、いまこの時期に明確に志望しているわけでもない大学の赤本をめくり、教師の趣味に合いそうな問題を探すのが効率いいとも思えない。
「というか和久井くん、それ自分で気がついたの?」
「まあな。一也はどうせ帝都大一本のつもりだろうけど、僕らはそうもいかないし」
しれっと『僕ら』と一緒にされたが、その通りなので宮坂も噛みつかない。というか、この三人の中で明らかに学力が劣っているのは自分だと分かっている。悔しさもあるが、事実は事実。宮坂詩織はおのれを客観視できる女なのだ。
その後は黙々と、宮坂と時々譲介が一也に教えを乞う以外は会話も無く課題をこなした。夕食の準備をしに診療所へやって来たイシの姿を見て、宮坂はそろそろお暇しようと立ち上がった。この診療所に入院経験のある身としては夕食の誘いは魅力的だが、今日は母に外食すると伝えていない。
「和久井くんは帰らないの?」
「春休みの間は、ここに住み込ませてもらってる。……僕の保護者は、都心に出張中なもんでね」
「そうなんだ」
バス停まで送ると主張する一也が自室に上着を取りにいっている間の、ほんのわずかな時間。宮坂からすると同じクラスになったこともない譲介は、まだ友達の友達くらいのものだし、それは譲介からしても似たようなものだ。別に無理して雑談をする必要はない。
だが譲介は、だいぶ低い所にある頭を見下ろしながら「宮坂」と名前を呼んだ。
「なあに?」
「お前、一也に『医者になればいいのに』って言われただろ」
「言われたわ。はじめはなに言ってんだコイツって思ってたけど……こうやって、目指すことにしちゃったのよね」
「それはあいつなりの最上級だぜ、よく考えてやれよ」
「え……」
どういう意味? と宮坂が聞き返そうとしたとき、一也が戻ってきた。譲介の最後のセリフだけ聞こえたらしく、こちらも「えっ、何? 何の話?」と困惑している。
「別に。ほら、次のバスを逃すとこのあとは一時間半後の終バスだぞ」
譲介に追い立てられて、ふたりは首を傾げたまま診療所を出た。
高校最後の一年間は、あっというまに過ぎ去っていった。
もちろん、そばで見ていただけの神代からすれば――という、但し書きがつく。当事者たちからすれば、高校生であればこその楽しさもあれば受験生というプレッシャーもあったはずだ。神代自身がその立場だった頃はそれどころではなかったが。
思えば、あの『譲介』が現れたのは、神代がいまの一也たちと同じ歳だった頃だ。いまさらではあるが、もうそんなに時が経ったのかと驚いてしまう。
結局、神代は彼が残したノートを、結局誰にも見せることはなかった。
だがそこに書いてあることは、折に触れて何度も読み返していたし、同時に彼が話していた出来事を反芻していた。
――大丈夫だ。ヤツの胃がんも進行前に治療できたし、誰も試験会場での騒ぎには巻き込まれなかった。
明らかに、聞いていたのとは違う時間を辿っている。
これが、あの譲介が望んでいたことなのかは分からない。彼は神代の大学進学をはじめ、KAZUYAやTETSUのことには「可能な範囲で」と言いつつも関わろうとしていたが、自分自身に関してはついぞ積極性を見せなかった。
「あっ、おかえりなさい!」
「ただいま帰りました」
患者の途絶えた診察室でひとり思索に耽っていた神代は、麻上と一也の声に顔を上げた。
「おかえり。どうだった」
帝都大学の合格発表は、今年からオンラインでの発表が始まった。神代がそうだったように配達を待つ必要もなく、パソコンや携帯電話から合否が確認できる時代がやってきていた。昼に診療所で結果を見たあと、母校へ報告に行っていた一也は「宮坂さんも譲介も合格です」と答える。
「すごーい、おめでとう! 東京行く前にふたりのお祝いもしないとね。そうそう、イシさんにも伝えておかなくちゃ」
「そうすると、カレー一色になりそうですけど」
「お祝いだし、そこは我慢するわ」
そう笑った麻上は「それにしても」と続ける。
「一也くんもこれで、来月から医大生かァ。ついにというか、やっとというか……」
「あはは……。さっきバスを待っている間に富永先生に報告の電話をしたんですが、同じことを言われました」
「そうよねえ」
そこに診察机の電話が鳴り、目の前に座っていた神代が受話器を取った。
「はい、診療所」
『…………』
無言。だが受話器の向こうに人の気配がする。回線の不調などではなさそうだ。
眉をひそめた神代の様子に、先ほどまで賑やかに会話していた麻上と一也は顔を見合わせる。今日の外来はもう終了しているが、ここは村の人間にとって唯一の診療所だ。急患とあれば時間外だろうと関係ない。
『……っ、K先生……すみません……』
「譲介か⁉ どうした」
やっと聞こえてきた声は、泣いていた。
『学校から戻ったらっ……、あの人がいなくてッ……人だけじゃなくて、物も、何も……!』
「――!」
やられた。電話口から漏れ聞こえるすすり泣きを聞きながら、歯噛みをする。「すぐに行く。そのまま動くな」と伝えると、電話を切って立ち上がった。
「先生、譲介がどうかしましたか?」
つい先ほどまで高校で顔を合わせていた友人の名が出てきたところに、師のただならぬ気配に困惑しつつ、一也は声をかけた。
「詳しくは後で話す。連れて帰ることになるだろうから、泊まれるよう部屋の準備を頼む」
「……はい、わかりました」
中学生のころに最初に預けられて以来、譲介がここに泊まるのは日常茶飯事だ。いくつかある病室の一室はほとんど譲介専用になっているが、宿泊前後の準備や掃除は必ず譲介本人にやらせていた。それなのに一也に頼んできたということは――。
真剣な顔つきの一也が、最悪の事態の想像をしていると気づいた神代は「大丈夫だ、怪我や事故ではない」とだけ言い残して、診療所を出た。
土手沿いにあるマンションの二十七階。住所は把握していたが、あの闇医者の居住でもあったここに神代が足を踏み入れるのはこれが初めてだ。
だが、このガランとした空間が異常であることは、一目でわかる。
――油断した。
神代の脳裏に渦巻いていたのは、そんな言葉と悔恨だった。
残されたノートで、ドクターTETSUが譲介に何をしたのかは知っていた。だからこそ、この世界の譲介は大学に合格しているのだし、わざわざこんな形で姿を消す必然性はないと思い込んでいた。
だが、そうではない。十八歳の一也たちをそばで眺めて郷愁に囚われて、己の目が曇っていたことをいまさらながら理解した。これで無事に正規ルートに乗ったと思い込んだあの男が、どんな行動を取るのか少し考えれば分かったはずだ。
TETSUは知らない。あの譲介が高校を卒業したあと、そこから何があって、どうなったのか。保護者の行動にどれだけ傷ついていたかを。
部屋の真ん中で、わずかな荷物を前にへたり込んでいる譲介に近づく。
「――譲介」
「っ……K先生……」
神代の姿を認識し、ますます涙を溢れさせた。そんな譲介に寄り添って肩を引き寄せる。
だが、自分がこうしてついてやれるのは、来月までのほんの短い間だけだ。東京までついていくことは出来ないし、自分を最初に『K先生』と呼んだ彼のように何年もそばに置いて指導してやることはできない――。
そんな神代の内心など知らない譲介は、ひとしきり泣いた後ゆらりと立ち上がった。
「先生……僕、決めました」
「譲介?」
「六年も一緒にいて……結局、あのひとが僕の人生に関わって、何がしたかったのか理解できません。でも、絶対……絶対追いかけて、捕まえてやります!」
拳を握り、燃え上がる譲介を見てはじめは面食らったが、やがて感動に近い何かが神代の全身を駆け巡った。
――ああ! そうだ。それでこそ譲介だ。
でも、やはりあの譲介とは違う。
それはそうだ。
だってここにいるのは、あの男と共に暮らしてもう六年になる、和久井譲介なのだから。
「あの男はいくつになっても素直に喋ることもできん、天邪鬼なやつだ。追えば逃げるだろうが……俺は応援するぞ、譲介」
「K先生……! はい、頑張ります‼」
譲介は涙を拭くと、作った握りこぶしを突き上げた。
「きっちり医学部を卒業して国家試験を受けて、正規の医者の免許を突きつけてやります。そうすればもう置いていかれることもないでしょう?」
――いや、闇医者稼業を止めるのではなく、ついて行く気なのか。
と思わなくもなかったが、まあいい。いずれにせよ、六年は先の話だ。
「東京に行くにしても今日これからとはいくまい。帰るか、診療所に」
「はい!」
電話をよこしたときの泣きべそはどこへやら、活力がみなぎるような返事に神代は口の端を上げた。
***
「それで結局、譲介はどこに住んでるんだ?」
今日の午前中、一也は宮坂と譲介を連れて西城KEIの営む医院を訪ねた。その後、宮坂に男手の必要な買い出しを頼まれて一緒にいずみ荘まで届けた帰り。一也の問いかけに、譲介は「ここからキャンパスを挟んで、ちょうど反対側」と答えた。
「それってやっぱり、ドクターTETSUが借りたやつ?」
泉平高校三年D組から帝大医学部に合格した三名のうち、東京への引っ越しは実家のある一也が一番先になる――と思いきや、譲介のほうがずっと早かった。合格発表の夜、神代に連れられて診療所にやってきたあと二日ほどであっというまに出ていってしまった。
確かに高校の卒業式は終わっていたし、そもそもN県で暮らした家を引き払われてしまってはそうするしかないのだが、結局、東京で顔を合わせるのは今日が最初になった。
「いや…………。名義は僕だ」
「えっ⁈」
譲介が周囲を憚るように早口で説明したところによると、残された部屋にあった荷物の中に、和久井譲介名義で購入された不動産の権利書が入っていたらしい。それから、かなりの金額が入った預金通帳も。
さらに郵便物の類もその東京にあるマンションの一室へ転送するよう、すでに手配済みと分かり、急いで上京してきたというのだから笑えない。合格発表からすぐにすべきこと――入学金の払い込み、書類の返送、などいろいろ――については親だけに任せず自分でも確認しろと泉平の教師たちにも口を酸っぱくして言われたものだが、大学受験を終えたばかりの未成年者の名義で何やってるんだと抗議しようにもその相手は行方知れずでどうしようもなかった。
「家って買えるんだ……。あの稼業で」
「昔は知らないが、少なくとも僕といた間はどれも自由診療の範囲で違法なことはしてなかったぞ。でもまあ、現金一括だろうけど……」
いずれにせよ、先日知り合った深見どころの話ではない。自分の実家も東京の一等地になかなかの広さを構える平屋のくせに、一也はちょっと引いていた。
「宮坂には言うなよ。他の学生にも」
「言わないけどさ、どこに住んでるのか隠し続けてるのも不自然じゃないか?」
「それは……」
宮坂は譲介がN県でどんなマンションに住んでいたかは知っているし、TETSUについて遠目には見たことあるゴツい外車に乗った噂の人、くらいの認識はある。あの『保護者』が借りたと言えば疑問は挟まないだろう。彼女の性格を考えれば、住居事情なんかでつまらない嫉妬をしてくることもないだろうし――と、譲介も普段であれば思える。だが、さすがにあのオンボロアパートを見てしまった直後だと、さすがの譲介も気が引けた。
「どんなとこでも、宮坂さんは羨ましがったりとかないと思うよ。なにせあのアパートってK先生の大学時代の下宿先だからさ……」
「はぁ⁉ あのオンボロが⁈」
「いや、二十年前からああだったのかは知らないけど。アパートの名前に聞き覚えがあったのをうっかり宮坂さんに話しちゃってさあ……ますます勉強頑張れそうって決意固めちゃって……」
止められなかった、と心なしかしょげた顔をした男を呆れ半分感心半分で眺める。たしかに年頃の女子が暮らすにはどうかと思うアパートだが、意中の相手がそこで寝起きすると決めても引いたりはせず、ただただ心配しているのは一也らしくはあった。
「まあ……名義どうこうはともかく、住んでるとこまで黙っとくつもりはない。色々片付いたらお前らふたりなら来てもいいし」
「そうか。楽しみにしとくよ」
「別にしなくていい。じゃあ、また大学で」
軽口と共に譲介に別れを告げたあと、一也はひとり溜息をついた。
――KEI先生もやっぱり、譲介を知っている。
KEIとドクターTETSUが知り合い――と表現してよいのかは一也には分からないが――なのは知っている。だが、あの男が中高生だった譲介をわざわざ彼女に紹介するとも思えない。
というか、譲介の反応は明らかにKEIと初対面だった。
もちろんKEIもそう装ってはいたが、譲介を見る目には拭いきれない違和感があった。あくまで一也からしたら、であって、譲介本人や宮坂は特に不審に思っていないようだったが。
この件に関して、神代や富永は口が堅い。おそらくKEIも同じだろう。そうなると、一也が直接聞いたところで何も教えてもらえないはずだ。
一也はひとまず、いまは頭の片隅に留めておくだけにした。
ふたたび、その疑念が一也の前に現れたのは、それから一年ほど過ぎてからのことだった。
一也、宮坂、譲介の三人は同じ実習グループに配属され、他の五人と一緒に八人組として大学生活を送っていた。共に期末試験も乗り越え、無事二年生に進級している。
「ここ最近では一番まともな顔つきしてるな」
「人の顔を見てまず言うのがそれか?」
呆れ半分といった様子の一也に、最近前髪の片方を伸ばし始めた譲介はフンと鼻を鳴らした。
「自分探しの旅は終わったようだな」
「……まあね。入っていい?」
「別にいいが……」
譲介のマンションの玄関口。縦にも横にも場所を取る一也の横に立つ、コンパクトなもうひとりに目を落とす。フン、と腰に手を当てて見上げてきた強気な視線とかちあった。
「邪魔なら帰るけど?」
「別に。かまわないが」
どうぞ、と一也と宮坂を中に通した。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します」
学生の一人暮らしとは思えぬ広さがある廊下も部屋も、おおよそ綺麗に保たれてはいたが、リビングの一角にある本棚とダイニングテーブルの半分は医学書やノート、レポート用紙の山が積み上がっている。
譲介はふたりをリビングに座らせると「これか水しかないから」とペットボトルのコーヒーをコップに注いだ。客人の前に差し出すと、自分もその向かいに座る。
「それで、わざわざ何の用だよ? 大学じゃなくわざわざ僕の家まで来る用事ってことは、他には聞かれちゃまずい話ってことだろうけど」
さっそく用事を言い当てられて、一也と宮坂は顔を見合わせた。確かにこの三人の間にある共通の話題のうち、T村の掟やK一族の件、一也の出自に入学前からの医療行為など、学部内では口を噤んでいるものは色々ある。
「察しが早くて助かるよ」
「それ以外に思いつかないからな。でも一也も来月は村に帰るだろ? 別にそこで話せばいいじゃないか。それとも宮坂付きの必要があるのか?」
「コブみたいに言わないでよね」
「まあまあ……。えーと、どこから話そうか」
「和久井くんが合宿サボった話からじゃない?」
「そういや、何か事件があったんだって? 災難だったな」
何の運動部にも所属していない譲介は、一也と宮坂、青山と同じく東医体運営部の救護班増員メンバーに任命されていた。しかし先日のK県で行われた陸上部の合宿は『用事がある』と言って不参加を決め込んでいた。倒れた部員はいたが水中毒で、その後無事に回復している。問題なく本番にも出場できる見込みだ。
「和久井くんってほんと、そういうとこ要領がいいわよね……。上手くサボって、それでいて顰蹙は買わないっていうさ」
「おい、人聞き悪いな。用事ってのは嘘じゃないぞ」
譲介の言う『用事』も気にはなったが、今日の本題はそこじゃない。一也は話題を軌道修正しようと、KEIから先代ドクターKのカルテを借りて、宮坂と共に中身の読み合わせをしていたことを話した。
「え? KEI先生から……? 西城KAZUYAのカルテは、生前のうちにK先生が引き継いだって話じゃなかったのか?」
「それは治療中や、再発の可能性が高い患者の分だけだよ。それ以外はKEI先生が保管していたんだ。今回借りたのはそっちの分」
「へえ……。じゃあ今日は、勉強会をしにきたってことか?」
西城KAZUYA――つまり、先代のドクターKが書いたカルテは、まだまだ未熟な自分たちにとって確かに勉強になるだろう。ありがたいし興味もあるが、一也と宮坂の纏う雰囲気はそんななごやかなものには見えなくて戸惑う。
「それは後でやってもいいけど……違う」
「じゃあなんだ」
「黒須くん、見せたほうが早いわ。私たちだって、ちゃんとは理解できてないんだから」
「そうだね……」
宮坂の促しで、一也は持参していたカバンからひとつのファイルを取り出した。中身を譲介の方に向けながら、終盤のページを開く。
「このファイルの中の、最後の患者の分。これはKAZUYAさん自身のカルテなんだ。それも……亡くなるより何年も前からの」
「えっ……」
覗き込んでみると、確かに聞いていた没年よりも三年以上前の日付から始まっている。
「でもカルテというより、日記……というような感じか?」
「ああ。晩年はKEI先生が主治医をしていたし、これより何年か前に胃を患った時も別の親しい医師が手術をしていて、それはまた別にある。そっちも後で見せるけど……だからこれは、別にKAZUYAさん自身が書いてはいるけども、一般的な意味での『西城KAZUYAのカルテ』ってわけじゃないんだ。……だからKEI先生も、見落としてオレに渡してしまったんだと思う」
「……?」
一也の言い回しに引っかかりを覚えたが、宮坂が手を伸ばして記載の一部を指差したので、そちらに視線が向いた。
「検診や検査日、打ったワクチン、海外渡航記録、飲んだ薬の記録……お薬手帳とは言わないけど、それに近いメモのような感じよね。……でもほら、ここ」
宮坂の指を追って記載を読む。
「『一九九六年七月、神代一人を名乗る青年が現れる。忠告に従い大垣診療所にて血液検査』……? 忠告に従い?」
「その次もよ。『八月二日、大垣診療所にて検査結果受領。所見なし。腫瘍マーカー反応なし』……大垣診療所って、きっと外科部長の大垣先生よね」
「このタイミングで、腫瘍マーカー検査をしているのはなぜだ? K先生がすすめたのか?」
「それが分からないの。その後はしばらくアメリカやヨーロッパに入国した記録が続くんだけど……たぶん、後から感染症が広がった場合に辿れるようにしていたものでさほど重要ではないと思うの。でも……」
ぱらりと一枚捲ったページに書かれた記述に目を向いた。
「……は?」
――一九九八年八月。N県T村にて和久井譲介と会いカルテを見せる。
「なん……っだ、これ。知らないぞ……」
予想通りの呟きに、一也と宮坂は再び顔を見合わせる。
「そうだとは思った」
「一応聞くけど、この頃の和久井くんは二歳半から三歳ってところだから覚えてないだけって可能性もあるわよ」
「……それは……。いや、この『カルテを見せる』は幼児に会ったって記載じゃないだろ」
「わかってる、念のためよ」
「……僕がドクターTETSUに引き取られる前は東京の養護施設にいたって話は、宮坂にも一度話したな?」
「うん」
「北馬区にあるあさひ学園ってところなんだが、僕は物心ついたころからあそこに居たわけじゃないんだ。その前にいた施設はC県にあって、施設の統廃合で小学校高学年の頃に移って来たんだ。先日あさひ学園で聞いた話によると自治体を跨いで施設が変わるのはかなり珍しいケースらしいけど、僕は地縁血縁がどこかにいるわけでもないし……そもそも三歳の頃に保護されたのはC県ですらなかったんだ」
だからその前にN県にいた可能性もなくはないけど……と続けたものの、ありえないということは譲介本人が一番わかっている。
「もしかして、東京に出てきてからその施設に顔を出してるのか?」
「ああ。あそこの園長は昔からドクターTETSUと繋がりがあるのを知ってたから、あの人の情報がないかと思ってさ……。あの人の普段の仕事も知らないくらいだから空振りだったけど」
「さっき言ってた用事って……それか」
「まあな」
「なるほど」
「何がなるほどだよ」
「譲介の言う『自分探し』、だよ。春休みにオレに発破をかけてきたのはお前だけどさ、いろいろと知らないといけないことがあるのは譲介も同じだろう」
「…………」
一也の言葉に、溜息で同意を返した。
あの日、置いていかれた日。神代にはああ言ったが――医学部の六年は長い。入学し、友人も増え、正規の医学教育を学びはじめて、それを痛感した。
一也にとって西城KAZUYAを知ることは自分自身を見つめ直すことに繋がっただろう。だが譲介が知りたいのは、自分自身のことよりもむしろ自分を引き取り、育てた男のことだ。
そして譲介と一也の大きな違いは、一也の方は人脈を辿って生前の人となりや足跡を辿ることができるが、譲介の追う男はそうそう居場所すら掴ませてくれないというところだ。
目の前の友人ふたりは心配するだろうから口にはしなかったが、実を言うと『用事』の中には東京に住んでいた頃にドクターTETSUがとっていた客を覚えている限りの記憶で接触を試みることも含まれていた。事務所を構えているタイプの客のうち、地方議員の類は脇が甘い者も多く秘書から当時の連絡先を入手できたが、定期的に変えている方の連絡先を渡されており軒並み不通。もう一方の『事務所を構えているタイプの客』は一介の大学生にはハードルが高く、さらに接触したことを彼らの先生に報告される可能性も高い。
このところ、手詰まりが見えてきて鬱屈としていたのも事実だが――この先代のドクターKが残した記述が、その突破口になるとも思えない。
「――オレは、この『和久井譲介』に心当たりがある」
「は……⁉」
うまく説明できるか分からないけどと、一也はゆっくりと話し始めた。
十歳でT村に暮らし始めたとき、直前まで診療所には神代と富永の他にもうひとり医者が居たようだということ。だがそのことを、大人ふたりも村の人間も一也の前ではことさら話題にしないようにしていたこと。
「でも、完璧に隠そうとしていた感じでもなくてさ。その人の名前くらいは当時のオレも認識してた。『和久井先生』とか『譲介さん』って呼ばれてたひとだって」
「はぁ……⁉」
「その……もちろん、ただの同姓同名って可能性はあるわよね」
「そうだね。譲介を引き取ったのがドクターTETSUじゃなかったら、ただの偶然って可能性もあったと思う」
「……どういうことだよ」
「譲介が最初に村に来た時、K先生がドクターTETSUにすごく怒ってたのを覚えてる?」
「ああ……でも、先生とあの人はよくあんな感じで喧嘩してるし……」
「まあね。だけどオレはあの時とは別に、K先生があれくらいドクターTETSUに怒った場面を覚えてる。その半年くらい前、あの人の胃がんが発覚したときに――」
「待て、何の話だ」
「え?」
そこでなんと、譲介がTETSUの胃がんと腹腔鏡下手術での切除の一件を知らなかったことが判明した。
譲介も、引き取られた直後の春に保護者が数日家を空けていたのを覚えている。その少し後に引き取られた直後の仮住まいから同じ都内ではあるが引っ越しをしたので、その準備だったと思っていたのだが――まさかN県で入院していたとは。
頭を抱えて机につっぷしてしまった譲介に、一也は「続けていい?」と無慈悲に問いかける。
「…………これって誰に文句を言うべき話だと思う?」
「K先生や富永先生ではないことは確かね。患者の身内相手とはいえ、寛解してるはずの既往歴をぺらぺら喋っちゃうお医者さんなんて嫌よ」
「……だよな。続けていいぞ」
「うん。いまから思えば、胃がんが見つかるまでの検査の頻度はなんとなくこのKAZUYAさんのメモに通じる違和感もあるんだけど……その診断が出たとき、先生がその『譲介さん』の名前を出したんだよね」
そしてその名前を聞いて、ドクターTETSUも観念したように見えた。ふたりにとって重要な人間だということは、それだけでもよく分かる。
そんな人間と同じ名前の子どもを引き取る理由――。
「普通に考えたら……その人は和久井くんのお父さん、とかよね」
その言葉に、男ふたりはつい顔を見合わせてしまった。確かにそうかもしれない。両親そろった家庭に育ったらしい宮坂の発想だが。
「記憶にまったくないからこそ否定はできないけど……僕の人生に、いまさらそんな存在が出てきても困る」
「でも、少なくとも一九九八年にはまだ生きてるんだよ。オレたちは一九九五年生まれだろ? 出産前に亡くなったとかならともかく、生きてる父親と同じ名前はあんまりつけないよ」
「事情によるでしょうけど、それは一理あるわね」
そこで結局、三人は黙りこくってしまった。
「しばらく……考える時間が欲しい。これ、コピー……は、いいか。写真に撮ってもいいか?」
KAZUYAのメモを指差した譲介に、一也は「扱いに気をつけてもらえれば」と頷く。
その日は結局、他のカルテを読み合わせする雰囲気にもならず、一也と宮坂は出されたコーヒーを飲み干すと譲介のマンションをお暇した。
***
結局、一也の予感めいた何かとKAZUYAの走り書きひとつだけを根拠に、神代に疑問をぶつけることはできず仕舞いだった。TETSUが消えたいま、譲介にとって頼れる大人は神代ただひとりだったし、一也ほどの距離感ではないが当代のドクターKである彼を師として仰いでいるのも事実だ。
それに、筋としてはやはり自分を引き取った男に会って、その真意を問うべきだとも思うのだ。
激辛地獄祭り二〇一六なる催しに譲介が誘われたのは、大学三年生の八月中旬のことだった。クーラーの効いた自宅でノートパソコンと睨めっこしている最中に、宮坂から電話がかかってきた。斉藤と青山も一緒にいるらしい。
『有名なカレー屋さんも何店舗か来てるのよ、ほらあの新大久保のあそことか。和久井くんも暇してるでしょ?』
「いつでも暇してるみたいに言うなよ」
『じゃあパス?』
「行く」
最初はこの猛暑日に正気かと思ったが、宮坂が手元のチラシから読み上げた店名は魅力的だ。パソコンを落としつつ「お前らいまどこにいるんだ?」と聞くと『宮坂ちゃんちよー』と電話口から青山の声で返事が返ってきた。宮坂の住むいずみ荘と譲介のマンションは、大学のキャンパスを挟んでちょうど反対側だ。女子連中もすぐに出かけられるというので、十五分後に大学の最寄り駅前で待ち合わせにして電話を切る。
身支度を整えて駅に向かうと、ちょうど宮坂がやって来たところだった。残りのふたりは角のコンビニに立ち寄っているところだという。
「あっ、和久井くんに会うなら借りてた本も持ってくれば良かった」
「やめろよ荷物になる。っつーか、あれ次は一也に貸す話になってたから宮坂から渡しとけ」
「そうなの? 別にいいけど……でもそれっていつになるのか――」
宮坂のセリフは、ふたりの隣に横付けした大きな車に遮られた。
「えっ」
「――⁉」
真っ黒なハマーH2。こんな車に乗っている人間など、譲介と宮坂の脳裏にはひとりしか思い浮かばない。
ふたりが固まっていると、運転席からひとりの男が降りてきた。袖をまくってはいるが、この真夏にいつもと変わらず白いロングコートを着た大男。
「ドクターTETSU……!」
「よォ……。おめェ、なんだそのふざけた髪型は……」
「あっ……あなたには言われたくありませんよ……」
二年ぶりに突然現れて、まず言うのがそれかよ――、と文句を重ねる前に「まあいい、乗れ」と背を向けられてしまう。
「わ、和久井くん……!」
「――斉藤たちには、適当に誤魔化しといて」
宮坂が無言で頷いたのを確認して、助手席に乗り込む。ドアを閉めるのと同時に、すぐに爆音のエンジン音と共に出発した。最寄りのインターチェンジから高速に入ろうとしているのを確認して問いかける。
「どこまで行くんです。それくらい良いでしょう?」
「A県だ」
あっさりと答えが返ってきて拍子抜けする。「そうですか」と呟き、ずるずると座席に深く腰を落ち着けた。たしかに大きな座席ではあるが、比喩でもなんでもなく本当に落ち着く。
久しぶりに座ったハマーの助手席で、こんなにも安心している自分に気がついて内心で苦笑する。ほんの二年とすこし離れていただけで、この男には聞きたいことも言いたいことも山ほど溜まっている。聞きたいことの方はどれだけ答えてもらえるか疑問だし、言いたいことの方はうまく伝えられるか分からないが、目的地までに言葉をまとめる時間はありそうだ。
A県までの概算時間を確認しようとスマートフォンを取り出すと、メッセージが来ていることに気がついた。通知をタップすると宮坂からで、『由貴ちゃんと青山ちゃんにはうまく言っといた。K先生に電話したけど了承済みらしいわよ?がんばって!』とある。
――前段はまあいいとして……K先生了承済みって、何の話だ。
首をかしげていると、急に隣から話しかけられた。
「さっきの、一也のツレだろ。一也はどうした?」
平成生まれの譲介には馴染みのない言い回しだが、誰を指しているのかはすぐに分かった。この人、宮坂のこと認識してたんだな……と思いつつ「海の上です」と答える。
「ハァ?」
「海技学校の練習帆船で船医手伝いのアルバイトです。同じグループの連中三人も一緒に、ハワイまで一ヶ月」
もちろん譲介も、仙道たちには『和久井も一緒に行こうぜ』と誘われてはいた。若干名となっていた募集に問い合わせたところ五名でも参加可能できるという。だが『金曜しかメシが食えなさそうだからパス』と断って東京に残った。
もちろん、半分以上は冗談だ。譲介は決して要領が良い方ではない。帝大に合格できたのも、既にそこらの研修医レベルの知識と技術があるのも、愚直にすべての時間を継ぎこんだ結果だ。大学に入学してからも、誰かが巨額の預金通帳に不動産まで押し付けてきたおかげで金銭的な心配がないのを良いことに、普段は授業の予習復習と課題に全力を注いでいる。授業の無い長期休み中は人探しに時間を割けるせっかくの機会なのだ。一也たちには悪いが、一ヶ月も海の上に拘束されるのは勘弁願いたい。
まあ、こうやって探し人のほうから現れてくれたのは予想外だったが。
「おめぇはなんで乗ってねえんだ。また一也にだけ経験積まれて、先に行かれちまうぜ」
しかしTETSUの興味は、一也のほうにあるらしい。話への食いつきぶりに無性にイライラして「いいんですよ!」と声を荒げる。
「僕も船に乗ってたら、こうやってあなたに会えてないから」
そう漏らした瞬間、運転席の男はピタリと黙ってしまった。
――あーあ。あーあ……。
後悔先に立たず。それから、譲介の記憶に欠片もひっかからない母親の後ろ姿を見せられるまで、車内に会話はなかった。
「――あの人と、譲介はもはや別人だ。お前も内心では理解しているだろう、ドクターTETSU」
肝移植手術を終え、静かに立ち去ろうとするTETSUの背中に、神代はそう声をかけた。
「確かに同じ親を持ち、同じ遺伝子を持つ人間だが、生育が同じだったのは十三歳までだ。その先は、俺よりもお前のほうがよほど知っている」
まだ麻酔が効いて眠っている和久井譲介は、十五歳でドクターTETSUに刺しかかった和久井譲介ではないし、大学受験に失敗したのちドクターKの弟子となりT村で暮らした和久井譲介でもない。この先、アメリカに渡ることがあるのかは誰にも分からないが、神代もTETSUも、たとえ同一の遺伝子を持った人間でも人格の形成には生育環境の影響をおおいに受けることをよく知っていた。
そう、まさに西城KAZUYAと黒須一也のように。
「彼であれば、目覚める前にお前が姿を消すのを俺も止めなかっただろう。だがいまこの病室にいるのは譲介だ。東京に出て二年、譲介が何をしていたのか知らんわけではあるまい?」
「……本当にヤバい連中の所へは出入りできねぇように手を回したさ」
「それが譲介のためになっているとはお前自身も考えていないのにか。お前が素直に姿を表せば、譲介もお前を探したりはせんのだぞ」
「…………」
「まあ、悩むのも分かる。紫の上だな」
「っ……、それはよせ……」
「だが、譲介たちも今年で二十一歳になる。――まあ、あんたはもう五十過ぎか」
神代の追撃に、TETSUは「よせっつってんだろ‼」と頭を抱えた。
「てめぇもアラフォーだろうが。たいして変わらねえ……」
「ちなみに、あの人も腹腔鏡補助下手術で肝移植ドナーの経験があったぞ」
「……なに?」
「消えかけだが腹に痕もあった。その様子だと知らなかったか?」
神代の言葉がどこか得意げに聞こえて、いやに腹が立った。
「あいつの残してったノートをろくに見せやがらねえで隠してんのはそっちだろうが……。これも仕組んでやがったか?」
「買い被るな。俺はそこまで器用じゃないし、ツテもない。それに……彼が書き残した情報も万能じゃない。聞いていた話では手術はもう数ヶ月早い時期だったようだが、結局お前が見つけてくるほうが早かったからな」
「チッ……」
ドクターTETSUは苦々しげに舌打ちをしたが、それ以上の反論はしなかった。
結局、そのまま神代に丸め込まれたTETSUは、譲介の退院まで音羽会病院を離れることはなかった。一也あたりにはいつも口喧嘩をしていると認識されてはいるが、なんだかんだいって主治医と患者だった関係だ。口には出さないが信用も信頼もしている。
臓器提供を受けた岸田徹の予後も順調。腹腔鏡下手術だったこともあり譲介のほうも同様だ。生体肝移植のための臓器提供後に数日で退院するのは早いほうだが、そもそもは今回の手術で対外的には存在しないはずの生体ドナーなのだ。病院側としても転院でも退院でも、さっさと病室を空けてくれるに越したことはない。
しかし、もともと移植指定病院ではない音羽会病院の医師と医療スタッフは、移植後の患者を診た経験に乏しい。もう数日、弟の経過を見ていくという神代に頭を下げて、譲介は病室を出た。
廊下で待っていたTETSUが短く声をかける。
「東京まで送る」
「……はい」
来た時と同じように、譲介はハマーの助手席に乗り込んだ。シートベルトを締めると同時に発進した。
たぶんこれが最後のチャンスだ。送り届けたらまたこの男は自分の前から消えるつもりだろう。
半ばそう確信していた譲介だが、結局、東京までの旅中をほとんど無言で過ごした。自宅のマンションが見えてきたところでやっと、一計を案じる。
「すみませんが、荷物を部屋まで運んで貰えますか?」
「あぁん?」
「痛み止めが切れかかってて痛むんです。それくらい、いいでしょう? あなたが買った部屋ですし場所は知ってるでしょ」
「……分かったよ」
マンション前に車を横付けすると、TETSUは後部座席のボストンバックを手に取った。譲介も腹部に手を当てながら助手席を降りる。
部屋に入り玄関扉がしまったところで振り向くと、相手が反応する前に抱き着いた。白いロングコートの背中に手を回し、振りほどかれないよう強く握る。
「ッ……!」
体格差を考えれば、突き飛ばすのは簡単だ。
しかし、TETSUはそうはしなかった。自分が肝臓摘出手術を執刀したばかりの、本来まだ安静にしているべき患者だから。誰にでもなくそう言い訳をしながら、手にしたボストンバックをそっと足元に降ろすと、降参するように両手を上げた。
「何の真似だ」
深呼吸ひとつ。譲介は意を決すると問いかけた。
「――あの人って……誰ですか」
「…………!」
額を押し付けられた胸元から漏れた小さな呟きだったが、TETSUの耳はしっかりと拾い上げた。
「……聞いてやがったのか……」
「麻酔切れかけの、夢うつつのなかでしたけど――おふたりにしては迂闊でしたね。いや……K先生は聞かせるつもりだったのかな」
術後、TETSUが神代と会話をしていた場所では確かに、カーテン一枚を隔てて譲介が眠っていた。TETSUは舌打ちしたくなるのを抑えて、かわりに溜息を吐く。それに呼応するように、背中に回った腕が強まった。
見下ろすと、明るい髪色のつむじが視界に入る。どうしたものかと答えあぐねていると、先に譲介が口を開いた。
「……以前から、あなたの昔話の中に先代のドクターK――西城KAZUYAじゃない人間がいるとは思ってました」
昨年、例の『譲介さん』の話を持ってきた一也には言わなかったことだが、譲介自身も薄々と何者かの存在を感じていた。この男にとってのKにも関わっているような誰か。その名を継いだ当代のKこと神代一人の話の影に感じる何者か。
だが、西城KAZUYAのように肩を並べて暴れたような具体的なエピソードはいくら待っても出てこない。
ずっとなぜだろうと思っていたが、一也の話を聞いて納得がいった。何やら譲介に関係がある人物だが、どういうわけか譲介自身には存在自体を悟られたくないらしい。
「僕は……僕はその人の代わりですか……? その人の代わりにするために、僕を引き取って勉強させて、あの村にも連れていって、一也にも会わせて……。その人の代わりに、僕を医者にさせたかったんですか……?」
だんだんと震えていった譲介の声は、後半はもうほとんど濡れていた。
あの夜、神代には素直に泣き顔を晒すことができたが、この人には見せたくない。ますます顔を上げられなくなった譲介は、逃がさぬように捕まえた厚い胸板に額を強く押し付ける。
――くそ、こうくるか。
口の中だけでTETSUは呟いた。
なにせ十年前にTETSUの目の前に現れた男もまた譲介本人なのだから、代替品でもなんでもない。そう理解してはいるが、胸に顔を埋めている目の前の青年にはどう説明してやればいいのか悩ましい。
「……いろいろと勘違いがあるようだが、まずおめぇは誰かの代わりではねえ。和久井譲介っつーひとりの――」
「ひとり、じゃないですよね? 他にもあなたの前には、和久井譲介って人間が居たんでしょう」
「ひとりだよ。……いま詳しく説明しても信じねえだろうし混乱するだけだろうから一旦省くが――」
まさかここで、未来から来たお前だなどと持ち出しては話が空転する。それは事情を知っている者からすれば致し方ないと思えたが、何も分からない譲介からすればただ話を逸らされたようにしか聞こえなかった。
「それっ……! ズルくないですか⁉ あなたはいつもそうやって――‼」
怒りを込めて顔を上げると、ほとほと困りはてた表情で見下ろされていることに気づいた。いつも不遜で、自信ありげな態度を崩さない男の初めて見る顔に戸惑う。
「ほんとに……ズルいんですけど……」
「あ? 何がだ」
「だって……」
相手を抱きしめていることも急に恥ずかしくなってきて、ゆっくりと背中に回していた手を離した。少し身を引いて、赤くなっている目元を隠すように擦る。同時に、腹が引きつるような感覚がする。ああ、本当に痛み止めが切れてきた――と、もう片方の手で腹部を抑えた。
「……困らせてすみません。でも……知りたいんです。どうしてあなたが僕を引き取ったのか。六年も一緒にいたのに……どうして僕を置いていったのか」
「おめぇには未来がある。文字通りのやつがな。いつまでもこんな稼業の人間と一緒に居ても良いことはひとつもねえだろ」
最後の問いだけに答えてきたTETSUに、やっぱりズルい――と嘆息した。
「でも……この家、ひとりで住むにはちょっと広すぎるんです」
「は?」
「そりゃ、前の家みたいにあなたの仕事場を作るには手狭ですけど。他の質問の答えに時間がかかるって言うなら、いくらでも待ちますから……そばにいて下さい」
「おめぇな……話聞いてたか? オレと一緒に居ても――」
「良いことない、ですか? 決めつけないでください。……本当は、ちゃんと卒業して医者になってからあなたを捕まえて、言ってやろうって考えてたんですけど」
だがいまの譲介はまだ学生で、手の内には何もない。知識も家も金もすべて、目の前の男に与えられたものしかないのだ。さらに今回は母親や弟まで見つけられてきた。すべてを与えてくる男を捕まえる手札なんて、最初から泣き落としくらいしかなかったのだ。
半ば以上は情けなさでまた泣きそうになりながら、譲介は手を伸ばした。ロングコートの袖から伸びた腕をしっかりと掴む。
その必死な表情は十年前と同じはずなのに、あの譲介とはまったく重ならないことに気づいて、TETSUはようやく白旗を上げた。
「…………おめぇはほんとに、勝手な野郎だよ」
「っ⁉」
TETSUは掴まれた腕を掴み返すと、体ごと自分の胸の中に抱き寄せた。
「そろそろホントに切れてくる時間だろ。先に痛み止めを打ってやる。その後……全部話してやるよ」
「――!」
言っとくが、信じらんねえ話だぞ――。
そう続いたTETSUの言葉に、譲介は胸の中で何度も頷きながら「お願いします」と繰り返した。
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