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ソハヤ,物吉,包丁と徳川家康についての諸情報(刀剣乱舞用)

全体公開 49 15961文字
2016-12-26 18:34:05

徳川家康の所有(元主)を明言し、台詞と回想にそれが反映されている「ソハヤノツルキ・物吉貞宗・包丁藤四郎」の台詞・回想についての考察と、元主徳川家康との関係をまとめてみました。3〜4年かけた史料収集により判明した徳川家康の個人情報もあります。なお、ソハヤと毛利の回想は別にしてあります。

Posted by @a_ri_no_ri


1頁:ソハヤノツルキ
2頁:物吉貞宗
3頁:包丁藤四郎
4頁:徳川家康
の順で書いてあります。
刀については、1台詞→2回想→3来歴と逸話→(離して)→4極、軽装で記し、
家康との関係する内容他について解説してあります。
*注:ネタバレ満載です。

とうらぶに実装済の家康所有刀剣一覧&所有時期は↓こちらにあります。
「刀剣乱舞の刀と徳川家康」https://privatter.net/p/4409859


●ソハヤノツルキと徳川家康

1、台詞

○万屋『いざという時に備えて、倹約も必要だからな』

徳川家康は「倹約家」として知られている。
元主由来のセリフ1。

○攻撃『我が切っ先を恐れよ!』

徳川家康はソハヤノツルキの切っ先を西国に向けて立てておくように遺言したとされる。
しかし、実際は他の刀剣と一緒に特殊な刀箱に入った状態で久能山東照宮にあった。
西向きに置かれてもいないし、立てられてもいなかった。
この話は1637~8年に西国(=九州)で「島原・天草一揆」が起きてからの後付けだろう。
何故なら、江戸幕府が滅びるまで幕府が対戦した「戦」はこれしかないからである。
物語由来のセリフ。

○刀帳『主を変えて使われ続ける在り方と、主とともに長き眠りにつく在り方。刀としてはどちらが幸せなんだろうなぁ?』

刀の所有者は変わって当然だが、
ソハヤは家康没後、家康が葬られ&祀られた久能山東照宮に納められた。
そのため、家康以後に持ち主が増えることがない。
ソハヤノツルキはほぼ永久に「徳川家康の刀」なのだ。
『天下人の霊剣』回想と、物吉の手紙、物吉(極)との手合わせの特殊会話から、
ソハヤが言う「主を変えて使われ続ける在り方」は、「物吉貞宗」を示している可能性が高い。
ソハヤが自分と対比して「どちらが幸せか」と気にしているのは物吉となるだろう。
物吉がお亀の方(家康の側室)に取り出され(=盗まれて?)、息子の義直の物になった話もあるためか?

○一騎打ち『待つのは得意でな。この機を待っていた!』

徳川家康は「鳴くまで待とうほととぎす」のように、
「待つことができる人」と形容されるから、その反映だろう。
元主由来のセリフ2。
ただし、この信長・秀吉・家康バージョンが存在する「〜ほととぎす」の歌は後世の創作。(つまり、嘘)
実際の徳川家康は、あまり待たない。

○刀帳から消去『家康公の守り刀として日光に祀られていたんだけどさ、』

当初は刀帳にあった説明だが、「日光に祀られていない」ため、メンテナンス時に消去された。
何かしらの意図があってわざと日光にしていたのか、凡ミスなのか公式発表はない。
(消去したままなので、わざとではない(=設定に不要)ようだ。つまり、凡ミス)
関東の人たちは家康が祀られている神社というと、栃木県の日光東照宮の方を思い浮かべるためだろうか。
ソハヤは静岡県の「久能山東照宮」にあるので、
正確には、「家康公の守り刀として久能山に祀られていたんだけどさ、」となる。
しっかり調べた上で設定(刀帳の文章)を作ってないのがよく分かる事例だろう。
(とうらぶは「ミス発覚→修正」事例がいくつかある、これもその一つ)
また、ソハヤは主の守り刀という役目を家康から任されておらず、
『徳川実紀』他には「(家康が使う形での)子孫の守護」とある。


2、回想

○物吉貞宗との回想『天下人の霊剣』

ソ『よう、久々』
物『お久しぶりです。同じ主のもとに集うのは随分久しぶりですねー』

家康(1616年没)→審神者(2205年)の約600年ぶりの再会?
同派でも兄弟刀でもなく長〜く別々であったのに、覚えていて当然で始まる会話。
昭和49年(1974年)に徳川美術館で2振が展示されたことはある。
が、展示を入れなければ別々の期間は三日月&骨喰より長い。

ソ『だな。狸爺が死んでからというもの、俺は墓所の番で、お前は子孫に受け継がれたと』
物『やめましょうよー。家康公をそんなあだ名で呼ぶのは』

「狸爺」と家康のことを言うが、「家康=狸」は江戸時代(家康死去後)にもあるかどうかビミョーな表記。
「爺」なのは、ソハヤノツルキに関する記録(物語)が、家康の死の前後のみだからか。
「墓所」は家康の遺体が葬られた久能山東照宮のことで、ソハヤノツルキは今もそこにある。
「子孫」は物吉貞宗を受け継いだ尾張徳川家のこと。

ソ『俺もお前も、家康公が持ってたからこその霊剣扱いだ。刀の運命ねじ曲げられた以上、これくらい許されるだろ』
物『顔が笑ってますよ。でもまあ、それだけあの方が偉大だったってことですよね!』

ソハヤノツルキ・物吉貞宗は無銘で家康以前の来歴が不明瞭。
家康以前の逸話(物語)がない。
「家康公が持ってたからこその霊剣扱い」は、その通り。
家康所有により、ソハヤは幕府の守護、物吉は勝利をもたらす幸運の刀となった。
2振とも家康所有で「物語のある刀剣」となった「共通点」がある。
実は案外家康ゆかりの「物語のある刀剣」は少ないのだ。(所有だけなら山ほど)
<伝承を含む家康所有刀剣はこちらhttps://privatter.net/p/3925704
物吉の「やめましょうよー」でソハヤは「狸爺」を「家康公」に呼び替えている。
物吉に言われて止めるあたりに、両刀の関係性がうかがわれる。

ソ『今度の主も、それくらい偉くなってもらいたいもんだ』

審神者に対し、これ以上の無茶ぶりはないだろう。
徳川家康は将軍として有名だが、生前の最高位は死ぬ半月前になった従一位・太政大臣。
死後は正一位・東照大権現なので、正真正銘の神様。
ソハヤの場合、死後の地位(=神様)を求めているかもしれない。
基準が「家康公」の「偉い」となると、最低でも「天下人」、最高で「神様」になってもらいたいとなる。
非常にハイレベルな「それくらい偉く」である。
とんでもない高望みも家康公しか「元主」がいない(=家康以外を知らない)設定故の発言だろうか。
 ↓
回想タイトルが『天下人の霊剣』であるように、
この回想は「天下人=徳川家康」の所有により逸話(=物語)ができ、
「霊剣」となることで運命が変わった「無銘」の刀たちの会話である。


○大典太光世との回想『幕府の霊的な守り』(in会津)

典『幕府の霊的な守りは』
ソ『俺らが担っていた』

ソハヤノツルキが幕府の守りなのはいいとして、大典太光世もそうだと言うのには驚いた。
大典太にそんな逸話(物語)は存在しないし、
会津での戦いには加賀(前田家)藩も新政府軍として参加している。
前田家と徳川家の「ビミョー(あまり仲は良くない)」な関係を知っていると、違和感がある台詞。
(*大典太光世には「秀吉→家康→秀忠→前田家」という移動ルートの説もあるので、もしかしたら、それ故の台詞かも?ちなみに前田家の正室は、ほぼ徳川関係の女性で占められており、両家の間で刀の贈答はかなり多い。→例:愛染国俊、平野藤四郎、白山吉光)
この回想は完全なるとうらぶの「創作」である。
<兄弟で>幕府を守っていた物語は存在しないので、本気にしないでいただきたい。
(前田家の刀が幕府を守るワケが無いし、そのような物語ができるハズもない)
創作物であるとうらぶでも片方(大典太)が「元ネタゼロの物語」を語る回想は珍しい。

典『しかし』
ソ『それがこのころ破られようとしている』

正確には会津での戦いの時点で幕府は存在しない。 
すでに最後の将軍は完全に戦から身を引いていて、
新政府側と戦っているのは種々の要因でその道を選んだorそうなってしまった大名や武士たちである。

典『もっと俺たちに霊力があれば……
ソ『江戸幕府も続いたかもしれねえなあ』

反省モードで締められるが、約270年も守れれば大したものである。
世界史的に見ても、約270年も武家政権が続いたのは十分長い上に、
その間に大きな戦がないのもとても珍しい。
幕府を霊的に守っていたのなら、江戸時代はソハヤノツルキは起きていたことになる。
ログインボイスでソハヤは「目覚めるときがきたな」と言う。
主(家康)とともに眠ったのは幕府滅亡後か?
 ↓
実際に物語で家康に「子孫(=幕府)の守護」を任されているソハヤノツルキはともかく、
前田家(徳川との関係はイマイチ)を代表する大典太光世が、
幕府の「守り」であったと回想する理由は何なのか。
そもそも蔵に封印されて出られず、霊力も使えないのではないのか?
今後、修行などで理由の説明が欲しいところ。


○山姥切国広との回想『写しの悲哀』

山「俺は、コピーではない」
ソ「コピーでいいじゃねえか」
山「なん、だと」
ソ「写しから始まってもいいじゃねえか。問題はその後だ。生きた証が物語よ」
ソ「お前の物語をつくりな」
山「……

え?「コピー」なんて言葉を使うんだ??と「コピー」発言自体に驚いた回想。
(事実、写しはコピーではない。実物を全く見ないで作るリスペクト推測写しなどもある)
特に家康に関するネタはないが、ソハヤが言う「物語」は家康に由来する。
自分のように「物語」を得れば、写しよりもそちらに目が向くようになる、と言いたいのだろう。
ソハヤノツルキウツスナリは写しであることよりも、「家康を代表する刀」として語られ、扱われている。
写しに注目するのは刀剣マニアくらい。
ソハヤノツルキウツスナリは、騒速(そはや)の写しであるかどうか不明なのだ。
この刀は写しとして作られていた場合、三池光世作ではなくなるし、
三池光世作だった場合、写しとして作られていない。
つまり、三池が兄弟刀(同工作)である場合、この『写しの悲哀』は成立しなくなり、
『写しの悲哀』が成立した場合、三池は兄弟刀ではなくなる。
三池光世作とコピー(写し)は両立しない。
とうらぶでは、それを両立させた設定になっている。

ソハヤの写しと三池兄弟両立不可能について、詳しくは下に。
ソハヤと家康の「物語」についても、以下参照。


○毛利藤四郎との回想→毛利のレアさと文章の長さを考慮して、こちらに。
http://privatter.net/p/2615252


3、来歴と逸話

【三池光世作と写し】
三池派の特徴があり、(伝)光世作とされるが、無銘であるため、100%保証された三池ではない。
大典太光世と同工作(兄弟刀剣)である確証はない。
ただし、家康が作らせたと思われる「鍔(つば)」に「三け=三池」と刻まれている。
<妙純伝持ソハヤノツルキウツスナリ>と茎(なかご)に刻まれているが、詳しいことは全く不明。
そのまま訳すと、『妙純が伝え持つ「ソハヤノツルキ」を写した』という意味になる。
(最も新しい久能山の図録では、この所持銘を「意味不明」とする)
刀の形状と字の特徴から、作成されたのは鎌倉時代、ソハヤノツルキウツスナリと刻まれたのは室町時代とされる。
平安時代にカタカナを彫刻する事例がないので、
三池光世(三池典太)が「ソハヤノツルキウツスナリ」と刻むことはありない。
つまり、大典太光世を作った三池光世が、
ソハヤの写しとしてソハヤノツルキウツスナリを作るのは不可能である。
ソハヤは坂上田村麻呂の刀である「騒速(そはや)」のこととされる。
ソハヤは坂上宝剣の写しを名乗るが、「坂上宝剣」と坂上田村麻呂の「騒速」は別の刀である。
坂上田村麻呂の「騒速」を「坂上宝剣」と呼ぶことはない。
坂上宝剣は「さかのうえのたからのつるぎ」と読むのが正しく、
「さかのうえのほうけん」は読みとしては不正確である。
上の「日光」と違い、ミスか意図的か不明。

【来歴】
徳川家康が入手する以前の来歴は不明。
『明良洪範続編』には御宿(みしゅく)家が家康に進上したと記すが、史料自体に「嘘」が多く、信用度は低い。
(詳しくは下のソハヤノツルキウツスナリの史料をどうぞ)
「久能山の目録」には小牧長久手の戦勝の謝恩として、織田信雄(信長の子)から譲られたと記されていて、
『和世説』には桂山十郎所持とある。
どれも信憑性は低く、家康以前の所有者を記す「確実な証拠」はない。
所持銘にある「妙純」は「斎藤妙純」という実在の人物とされるが、これも確証はない。

【物語】
ソハヤの物語は幕府の公式記録である『徳川実紀』にある。
元和二(1616)年、家康は死ぬ前にソハヤで罪人の生胴(生きた人間の胴)を切らせ、斬れ味を確かめさせた。
生胴を切った後、家康はソハヤを2、3度振って枕刀とした。
その際に家康はソハヤを「子孫長久の守神」とすると言った。
そこまでは記されていないが、家康の死もみとったのだろう。
持ち主の死に際に枕刀になっている刀の話は珍しい、というか、ソハヤの物語はとても特殊だ。
ただし、死ぬ寸前の家康の容体からしてソハヤを振るのは不可能であり、
丸々創作であろう。
(*家康の発病から死まではここに→https://togetter.com/li/1092080
この「子孫長久の守神」をとうらぶでは「幕府の守護」として回想させている。
さらに、切っ先を西国へ向けるように遺言したとされるが、島原天草一揆以後の後付けの可能性が高い。
(久能山の史料によれば、最初は他の刀剣と一緒に「刀箱」に入った状態で宝物庫にあり、その後、社殿の内陣に移されている)

【拵ほか】
家康の死後、遺言?により静岡県の久能山に納められ、現在までそのまま。
家康が作らせた「革柄(かわづか)蠟色(ろいろ)鞘打刀拵」が現存。
打刀拵なので、普通の太刀拵にはない「笄(こうがい)」と「小柄(こづか)」がある。
とうらぶの立ち絵で「笄」の先端が「鍔」から出ているのが確認できる。
とうらぶのソハヤの拵(こしらえ)は、久能山のソハヤと「鍔(つば)」と「目貫(めぬき)」の形状、「笄(こうがい)」の色が違う。
久能山のソハヤの拵は刃が上を向く「打刀拵」であるが、とうらぶのソハヤの拵はそれをひっくり返して刃が下を向く「太刀拵」になっている。
そのため本来は外側の「笄」が内側にある。
太刀で実装されたため、打刀拵をひっくり返したのかと思っていたが、
同じ太刀で打刀拵の山鳥毛と日光一文字の拵は、そのまま刃が上を向く「打刀拵」で実装された。
太刀で打刀拵のソハヤと江雪左文字は刃が下を向く「太刀拵」なのだ。
一文字は拵優先なのだろうか。

久能山では「御神体同然」の刀である。
久能山で「御腰物=家康の刀」といえば、ソハヤノツルキを示す。
なお、ソハヤのチョーカーのデザインは、家康の甲冑で、久能山にある「羊歯具足(しだぐそく)」の前立(=まえたて:甲(かぶと)の前の飾り)をそのまま用いている。
多分、内番のTシャツ?の絵柄も羊歯具足(しだぐそく)をアレンジしたものっぽい。
そこまで揃えている可能性は低いだろうが、久能山に納められている東照大権現の神様としての装束(神服)は「蘇芳(赤)+白」の配色で、三池カラーを抜いたソハヤの戦闘服?の配色と同じ。
明治44年4月17日(家康の命日)に国宝(現在は重文)指定。

より詳しくソハヤについて知りたい場合は、こちら↓
この刀の物語は徳川家康の物語の一部でもあるため、
内容が重複しつつも史料が多々存在します。

「ソハヤノツルキウツスナリに関する史料」http://privatter.net/p/1738424
「ソハヤノツルキウツスナリの諸情報」http://privatter.net/p/2692990
 拵や刀箱、同じ久能山にある刀剣などについての情報。
「ソハヤノツルキ(家康の三池)の物語」https://togetter.com/li/1576178









4、軽装、極

【軽装】
2020年6月にお披露目され、7月7日に実装。
着物の柄は久能山東照宮の社殿にある「七宝繋ぎ六つ花(しっぽうつなぎむつばな)」の文様。
(久能山のアカウントがその写真を載せている)
七宝紋は着物の柄ではよく使われるものであるが、
定番の四等分ではなく六つバージョンで、中に六つ花が入っている。
軽装の足元は裸足or足袋に分かれていて、ソハヤは白の足袋。
首のチョーカーをそのまま着用し、手首のブレスレットには金の葵紋がある。

【極】
物吉が修行を終えて極になったら、手合わせでソハヤとの特殊会話が発生した。
しかも、物吉の修行内容を踏まえた会話である。
今のところ、他の刀剣の修行内容を前提とした会話は他にない。
物吉とソハヤは馬当番で特殊会話がある。
他に馬当番で二振で会話が成立する特殊会話があるのは、新撰組の大和守&加州(沖田組)と和泉守&堀川(土方組)のみ。
沖田組と土方組は畑当番、手合わせでも特殊会話がある。
ソハヤと物吉は物吉修行→手合わせで特殊会話発生、と過程を経て会話が増える、より特殊な流れとなっている。
ソハヤの修行後に何らかの特殊会話が物吉との間で発生する可能性ありか?



ーーー



●物吉貞宗と徳川家康

1、台詞

○入手『物吉貞宗と言います!今度は、あなたに幸運を運べばいいんですか?』

「今度は」ということは、「前例」がある。家康のことであろう。


○刀帳『ボクを持っていくさに行くと必ず勝てるというので、徳川家康公には大事にしていただきました!』

尾張徳川家の『物吉記』にある「戦闘常以之、為備身臨陣、必帯毎獲捷云」そのままの紹介台詞。
これ以外に家康と繋がる台詞は特になし。
敢えて上げるなら、家康は信長や秀吉が天下をとる「手伝い=サポート」はしている。
徳川家康は敵にするととてもめんどくさいが、(利害が一致して)味方になると頼もしくサポート能力は高い。


2、回想

○後藤藤四郎との回想『幸運の刀』(in三方ヶ原)


物『よおし、今日も幸運を運びますよ!』
後『死なないことが幸運なら、まあそうだな』

三方原の戦いでは家康は武田信玄に敗北した。
そのため、この「幸運」は後藤藤四郎の台詞のように「(家康が)死なないこと」となる。
後藤藤四郎は三方ヶ原で家康が「勝っていない=幸運逸話の矛盾」を暗に指摘している。
「死なないことが幸運なら=幸運(=勝利)を運んでない」と
敗北した三方ヶ原で回想させるのは、
物吉の刀帳にある「ボクを持っていくさに行くと必ず勝てる」との矛盾を見せるためか?
実際、徳川家康は無敗ではない。
物吉の「幸運(=勝利)」逸話は家康が天下人になってからの「後付け」であるのが、
ここではっきりと示されている。
それを指摘するのが、逸話(物語)なき国宝の後藤藤四郎であるあたり、
逸話の不確かさを「明示」しているのか?


物『えーと、なんか、悪いことでも……
後『別に。ただ、人間て勝手だよなって思っただけ』
物『それでいいんですよ。勝手じゃないと、人間はすぐに死にます』

物吉は自分の逸話との矛盾を指摘されたため、「悪いことでも」と戸惑いを見せる。
後藤は「別に」とそれ以上の指摘を止めて、話題を「人間」に替える。
(実際、逸話(物語)に依存する付喪神に対し、逸話との矛盾の指摘は危険な行為だろう)
この「人間て勝手」が、家康に敗北がありながら、
物吉を「幸運の刀」とした人間の逸話創作をを示していた場合、
物吉の「それでいい」は、物吉は矛盾を分かった上で幸運の刀として振る舞っていることになる。
ただ、その場合、「勝手じゃないと、人間はすぐに死にます」との繋がりが不明となる。
よって、三方ヶ原の戦いを見ての「人間て勝手」の場合は、下の解釈になる、だろう。

徳川家康は三方原、伊賀越え、関ヶ原、大坂の陣などで「死ぬかも」という目に遭っている。
逸話限定であるが、腹を切ろうとして家臣に止められるというパターンが幾つもある。
(恐らく腹を切ろうとしたのは事実ではないし、死にかけたもオーバーな表現だろう)
三方ヶ原では家臣が家康の甲(かぶと)を奪い、勝手に身代わりとなって戦死した逸話もある。
後藤がその家臣の勝手に生かされる家康を見て、「人間(=家臣)て勝手」と言い、
物吉が「(家臣が)勝手じゃないと、人間(=家康様)はすぐに死にます」なら、話は通じる。
物吉の逸話と二重の意味を持たせて「勝手」を使っているかもしれないが、よく分からない。
回想の中でも『幸運の刀』は、かなり意味が掴みにくい。

ただ、この回想を『藤四郎だらけなのは』とつながっていると考えると、
後藤がツッコミを入れる理由は次のようにも考えられる。
五虎退と厚藤四郎はこう話す。


五「兄さん、なんで僕たち兄弟が多いんですか」
厚「決まってるだろ。家康公が使ってたからだ。縁起がいいってな。どこの大名も持ちたがった」
五「幸運のお守りですね!」

厚藤四郎は家康が「縁起がいい」と藤四郎を使っていたから藤四郎が多いと説明する。
五虎退は「縁起がいい」=藤四郎=「幸運のお守り」と続ける。
家康公や大名たちが持ちたがるくらい藤四郎は縁起がいい、だから、偽物が多いと語っている。
しかし、実際に家康と幸運の逸話があるのは藤四郎ではなく物吉貞宗である。
家康所有の藤四郎としては包丁藤四郎が実装されているが、包丁には縁起がいい物語はない。
大名が持ちたがったから偽物が多い、はOKだが、
家康公が使っていた縁起のいい藤四郎は包丁藤四郎ではない。
家康が所有していた縁起のいい藤四郎は、とうらぶには存在しない。
(薬研藤四郎に家康所有伝承はあるが、とうらぶでは薬研は織田の刀であって家康とは関連づけられていない)
手合わせで藤四郎兄弟と独自の特殊台詞がある後藤藤四郎は、藤四郎への思い入れが強い設定なのだろう。
修行の手紙でも自分に戦関係の逸話がないのと、
「家康公が持っていた弟たち」と上の「家康公が使っていたから」を受けたようなことを気にしている。
家康が所有する藤四郎は、所有が確実な遺品リストに包丁藤四郎、庖丁藤四郎と清水藤四郎の3振がある。
しかし、どれにも縁起がいい話はない。
庖丁藤四郎は大谷吉継からの分捕り品で、
清水藤四郎も大坂の陣の後の召し上げ品。
包丁藤四郎は息子秀忠からのプレゼントだが、明暦の大火で焼失。
(岡山藤四郎も家康が所有していたらしいが、これにも縁起がいい話はない)
後藤が手紙に記す「家康公が持っていた弟たち」は存在するが、縁起がいい藤四郎は実際にはない。
後藤が指摘するように、物吉の幸運と三方ヶ原の戦いの敗北は矛盾する。
『藤四郎だらけ』の回想も後藤の手紙の内容も実際とは違う。
物吉の幸運にツッコミを入れた後藤は、縁起がいいのは自分たち藤四郎だと言いたかったのだろう。
縁起がいい刀は吉光であって、物吉貞宗ではない。
実際、三方ヶ原では「死なないことが幸運=負けている」ではないか、と。
だが、物吉貞宗に「物吉=吉祥」の逸話があるのは否定できないし、家康所有の藤四郎も縁起は良くない。
よって、後藤は「別に」と話題を変える。

という解釈もできる。

現実には縁起のいい刀など存在しない。
(不吉な刀も妖刀も存在しない)
守り刀が幸運をもたらすのではなく、天下人の家康が持っていたから縁起が良くなるのだ。
家康が天下を取ったという「結果」から、所有刀剣の「縁起がいい」とされるようになった。
吉凶は「所有者に左右」されるものであって、刀で決まるものではない。
当たり前の話だ。

『藤四郎だらけ』でわざわざ家康の名が出すのはそのためだろうし、
物吉が『幸運の刀』とされるのも家康所有があってのこと。
家康と結びついてこそ、藤四郎にも物吉にも幸運が生じるのだ。
だから、両方とも実際とは矛盾するし、『藤四郎だらけ』と後藤の手紙で家康所有が繰り返される。
家康が使った縁起のいい藤四郎は実在しないし、
物吉には「よく切れる良いものだから物吉」という幸運ではない号の由来が名物帳にある。
刀の物語は本当ではないが、誰かが昔そう物語った。
物語ったから、藤四郎は幸運のお守りで、物吉貞宗は幸運の刀である。
『幸運の刀』の回想で家康が敗北しても後藤がツッコミを入れても、既に語られた物語は変わらない。
これは、いや、これもそういう話なのかもしれない。
 ↓
この回想が後藤藤四郎と行われるのは、物吉貞宗に「勝利をもたらす幸運の刀」という物語を「後で」付け加えたのが、後藤藤四郎と物吉貞宗を所有する「尾張徳川家」だからであろう。なお、三方原で家康が藤四郎の刀で腹を切ろうとして切れなかった逸話があるようだが、物吉貞宗のバージョンも存在する。


○ソハヤノツルキとの回想


『(よお久々→)お久しぶりです。同じ主のもとに集うのは随分久しぶりですねー』

どのくらい「お久しぶり」なのかは、ソハヤノツルキを参照。


『(狸爺→)やめましょうよー。家康公をそんなあだ名で呼ぶのは』

先にも書いたが、狸呼ばわりは家康生前には確認できない。
昭和になってから広まったあだ名の可能性が高い。


『(刀の運命ねじ曲げられた→)顔が笑ってますよ。でもまあ、それだけあの方が偉大だったってことですよね!』

2振とも「無銘」で、家康以前の伝承(=物語)がない刀である。
そのため、「家康」に関わらなければ、間違いなく刀としての「運命」は変わっていた。
(現存しなかった可能性もある)
「名」のある刀として残ったのは、所有者の家康が「偉大=江戸幕府初代将軍,従一位太政大臣」であったから。
 ↓
「家康公所有」で「運命」が変わった(=ねじ曲げられた?)刀は物吉とソハヤだけでないだろうが、2振の「逸話=物語」は「家康」に依存している。家康所有がなければ、2振の物語は消滅する。そういう意味では物吉とソハヤは運命を「共有」している。


3、来歴と逸話

【貞宗作】
相州貞宗作とされる無銘の刀。
ソハヤノツルキも無銘で、他に家康の愛刀とされる刀は無銘が多い。
太鼓鐘貞宗も家康所有刀剣であり、亀甲貞宗もほんの短期間ではあるが尾張徳川家にあった。
物吉貞宗だけが実装済みの同工刀剣と所有者がかぶるときがある。

【来歴】
徳川家康以前の来歴は不明だが、豊臣(羽柴)家から慶長6年に贈られた「貞宗」である可能性が高い。
その場合でも豊臣(羽柴)家では号(名)のない「貞宗」であり、家康以後に「物吉」の名を得ている。
また、尾張徳川家の『物吉記』は家康が三河時代から物吉を所有していたとする。
(『物吉記』とは、尾張徳川家が作成した物吉貞宗の由緒である)
刀帳の「ボクを持っていくさに行くと必ず勝てる」との紹介文は尾張徳川家の『物吉記』に記載がある。
尾張徳川家の文化財を所蔵する徳川美術館は、物吉の由緒を図録に明確に記載していない。
元和二(1616)年の家康没後は尾張徳川家の初代義直(よしなお)に継承され、現在は徳川美術館所蔵。

【物語】
『物吉記』
「号物吉、初東照宮在参河、戦闘常以之、為備身臨陣、必帯毎獲捷云、因号物吉、邦語訓毛乃與之、猶言百事吉祥也。逮治平日嘱太夫人相応主伝諸我高祖敬侯以至于予」

*訳:「物吉」という号の刀は、はじめ、徳川家康公が三河にいるときから、戦のさいには常に身に付けて出陣されていた。帯びて出陣すると、必ず勝利をおさめたといわれる。よって、家康公はこの刀を「物吉」と名付けられた。読みは「ものよし」である。さらに、何事につけても良いことがあったという。家康公の側室であるお亀の方が、この刀を息子の義直(よしなお)公へと受け継がれるように頼んだため、物吉は尾張徳川家にあるのだ。

『物吉記』では、家康は三河時代から物吉貞宗を所有していたとする。
三河時代の範囲は広く、最大で家康が生まれたときからとなる。
恐らく刀剣乱舞は『物吉記』を設定に採用し、物吉貞宗を「戦慣れ」しているとした。
『詳註刀剣名物帳』他では家康が「良く切れるいいものだから物吉」と名付けたとする。
『物吉記』以外に「物吉=勝利,吉祥」としている史料はないため、
幸運設定である時点で、刀剣乱舞の物吉貞宗は『物吉記』を根拠とするのは確実であろう。

【拵ほか】
ソハヤと同じく家康が作らせた「蠟色(ろいろ)塗合口拵」が現存。
とうらぶの物吉の「拵(こしらえ)」は「柄(つか)」の装飾と「鞘(さや)」の形状が実際の物吉とは異なっている。
(*注:とうらぶの複数の刀の拵は実際の刀と少しデザインを変えてある)
物吉貞宗の「拵」は「鍔」のない「合口拵(あいくちこしらえ)」である。
合口拵は家康の時代の脇差に共通した特徴であり、家康所用伝承がある脇差は全て同じ「合口拵」である。
尾張徳川家の8代藩主宗勝(むねかつ)が元文4(1739)年3月11日に物吉を<鍵付きの刀箱>に封印した。
以後、幕末の14代慶勝(よしかつ)まで「封印=使われない」状態が続いたらしい?
藩主の側には常に置かれていたようで、封印されても刀箱は藩主と共に移動していた?
現在は愛知県の徳川美術館所蔵。
昭和16年(1941年)9月24日重要美術品指定。
昭和28年(1953年)11月14日に重文指定。

↓物吉貞宗について詳しくはこちらに。

「物吉貞宗の由緒と拵+封印について」http://privatter.net/p/1583579














4、軽装と極

【軽装】
2020年2月にお披露目され、3月3日に実装。
着物の柄は裾から葵の葉が伸びるデザイン。
家康の紫地葵紋付葵の葉文辻ケ花染羽織や浅葱地三ッ葵紋付二葉葵文辻ヶ花染羽織に似た柄がある。
紫地葵紋付葵の葉文辻ケ花染羽織https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/85803
浅葱地三ッ葵紋付二葉葵文辻ヶ花染羽織https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/287410
↑この二つは染付ではなくて絞りなのですが、流石に物吉の軽装は絞りではないですね。
裾の機械的な円は何をモチーフにしているか不明だが、久能山にある家康の洋時計の文字盤周りが近い気はする。
重要文化財『洋時計』https://www.toshogu.or.jp/about/clock/

【極】
家康から物吉を受け継いだ尾張徳川家初代徳川義直の「銀溜白糸威具足(ぎんだみしろいとおどしぐそく)」をアレンジした甲冑を着用。
マント?は刀袋の紋様を使用。
極前と極後で大きな変化はないが、「幸運」以外に「幸せ」も言うようになる。
ソハヤの修行見送りを物吉貞宗にすれば、刀帳で刀の「幸せ」を気にするソハヤノツルキを「幸せに」との台詞で送り出せる。


ーーー



●包丁藤四郎と徳川家康

1、台詞

○「人妻」×9回→家康の側室に出産経験ありの未亡人(元人妻)が多いための台詞か?
(乱舞レベル、景趣、弁当などで追加された台詞を含まない)

家康の側室(約16人?)のなかで、未亡人だと確認できるのは4人のみ。
側室の選定は正室の権限?らしいため、4人の未亡人が家康の好みを反映しているかどうかは不明。
家康は正室不在が長いため、母於大の方か、正室格の側室であった阿茶局が側室の選択をしていたと思われる。


○刀帳:「俺の主は、徳川家康公だったんだぞ! どうだ、すごいだろー!」

『詳註刀剣名物帳(享保名物帳の写し)』で息子の徳川秀忠から家康への贈答が確認できる。


2、回想:なし


3、来歴と逸話

【吉光作】
一期一振、他の藤四郎と同じ吉光作の短刀。
無銘のソハヤ・物吉と違い、吉光の銘あり。

【逸話】
室町時代に鶴の腹にあった鉄の箸を切断した逸話があり、その逸話から「包丁」との号がついたとされる。
刀紋が「鶴×3」なのは、そのためだろう。
その他にも包丁藤四郎には楠木正成の怨霊につけ狙われた大森彦七所有や足利将軍家所有の話がある。
ソハヤ・物吉と違い、家康に関連する逸話はない。

【来歴】
『詳註刀剣名物帳』によれば、多賀豊後守→(不明)→鳥養宗慶→子の与兵衛宗精→豊臣秀吉→上杉景勝→将軍秀忠→家康→徳川頼宣(駿府城での一時預かり)→将軍家(再び秀忠へ)と移動している。
包丁藤四郎のwikiにあたかも徳川頼宣(よりのぶ)が所有していたように書いてあるが、
頼宣はあくまでも一時的に預かっていただけである。
『駿府御分物刀剣元帳』で将軍家への分配が決まっているのが分かるので、頼宣所有はあり得ない。
1657年の明暦の大火で焼失。
尾張徳川家にも家康所有が確実な庖丁藤四郎があるが、破壊ボイスから焼失刀の包丁藤四郎であることが分かる。

【拵ほか】
とうらぶの包丁の「拵」は鞘が「白+黒」で、家康好みの「黒」になっていない。
包丁藤四郎が『駿府御分物刀剣元帳』の「上々御脇差」にある「ほうてう吉光 将軍様ゟ」であれば、家康の所有と秀忠からの進上は確実。
ただ、家康に関わる逸話がないため、この三振の中ではもっとも家康との関係が薄い。
ソハヤノツルキと物吉貞宗は家康の遺品を記載した『駿府御分物帳』に名がない。
だが、家康好みの拵や現在の所有団体から、二振が家康に所有されていたのは間違いがないだろう。
刀剣乱舞は「伝承」重視で刀を選んでいるようなので、
それなら、ソハヤノツルキと物吉貞宗の家康所有は揺るがない。

【おまけ】:とうらぶ実装済の家康所有刀剣

1、所有が(ほぼ)確実な刀
ソハヤノツルキ、江雪左文字、宗三左文字、物吉貞宗、太鼓鐘貞宗、包丁藤四郎、南泉一文字、大般若長光

2、(一時)所有伝承(説)ありの刀
童子切安綱、大典太光世、薬研藤四郎、愛染国俊、獅子王、大倶利伽羅、毛利藤四郎、鬼丸国綱

3、再刃させた刀
一期一振、鯰尾藤四郎(但し、家康の手元には届いていない可能性あり)

*家康所有が(ほぼ)確実で、この3振と面識がありそう(=所有時期がかぶる)なのは「江雪左文字、宗三左文字、太鼓鐘貞宗、南泉一文字」の4振になります。(大坂の陣で燃えて再刃された刀は、家康没に間に合っていない可能性があるため除外)

とうらぶに実装済の家康所有刀剣一覧&所有時期は↓こちらにあります。
「刀剣乱舞の刀と徳川家康」https://privatter.net/p/4409859















4、軽装と極

【軽装】
2019年9月にお披露目され、10月8日に実装。
茶、緑、赤、紫の四色を使ったポップなデザイン。
特に家康や徳川らしさはない。
粟田口はお家や所有者の強調が少ない傾向がある。

【極】
家康の甲冑とされる「一の谷」の甲(かぶと)を着用。
重そうに見えるが、革製。(東京国立博物館所蔵)
極になると「人妻」台詞が増加し、9回だったのが17回になる。
(乱舞レベル上昇、景趣、弁当などで追加される台詞を含まくても、これだけある)
物吉も包丁も修行を経てもキャラがブレないのが共通する。


*この記事もそうですが、どれも「参考」程度にどうぞ。

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*おまけーー徳川家康の個人情報

趣味:囲碁、読書、鷹狩、香道、薬作り
苦手:歌を詠むこと、絵を描くこと
性格:律儀、割と短気だが、粘れる。結構泣く

女性の好み:包丁藤四郎の台詞で勘違いされそうだが、年上好きではないし、子持ちの未亡人も言われるほど好んでいない。子持ちの未亡人に勝る条件が「有能で美人」であること。側近くに置く女性は「仕事ができるキャリアウーマン」が多い。自分に遠慮なく意見できるくらいがタイプ。(これは男性でも同じ)側室は奥の諸事、接待などの仕事を任されるため、「仕事ができる女性」なのは必要最低条件でもある。

その他色々
・身長は157~9cm前後(当時としては平均的)
・眼鏡属性持ち(遺品に眼鏡あり)
・一晩中ぶっつづけで話すほど、おしゃべりが好き(相手は貴族や僧侶などの知識階級)
・外国人に話を聞くのも好きで、側近にはイギリス人(航海士ウィリアム・アダムズ)もいた。
・鶴をさばくなど、料理はできる。
・香道は香木を東南アジアから買うほどハマっていた。
・タバコは吸わない。
・酒は飲む→酔っぱらうと、息子(秀忠)の所に押し掛けて一緒に飲んだりする。
・酒に強いのか弱いのかは不明だが、泥酔した記録はない。
・自分で着物のデザインを決めて、注文する。センスは良い。地味でもない。
・刀の拵(こしらえ)は漆(黒)に金の装飾を好む。(参照:ソハヤノツルキと物吉貞宗の拵)
・この拵は地味と言われるが、金+赤、白がはやっていた時期に敢えての黒+金は逆に目立ったと思う。
・肌は秀忠に比べて白い?
・晩年は太っていとされるが、中肉中背とか、秀忠に比べて太いという書き方のもある。
・顔は陽気だという印象らしい。
(このあたりは訳のバリエーションが幾つかある)
・胃がんで2ヶ月以上食欲不振が続いた後に死去したので、死亡時は痩せていたハズ。
・愛刀とされる刀は、ほぼ全て無銘。(ソハヤ以外は相州伝ばかり)
・言われるほど健康オタクではない。(普通に夜ふかししてる)
・珍しいものが好きで外国の品物を欲しがるが、買うとなると止める。
・不必要な物への出費は財布を握っている女性陣(母や側室)が許さないっぽい。
・必要以上に多い金銭の贈り物は相手に返す。親しい相手からのお礼は金銭だと受け取らない。
・着物や本には出費を惜しまない。いい物(高級品)をたくさん所持している。
・当時の最先端の技法で着物や装束などを作らせている。
・新しいものは積極的に取り入れて活用:大坂の陣で使った大砲など。
・遺品には外国の品が多数あり、当人も南蛮甲冑を多数所持。
・黒田長政など多くの大名や家臣に南蛮甲冑をプレゼントしている。
・貰って嬉しいのは、「本」。
・とにかく、「本」が好き。
・薬作りはプロレベル。細川忠興はたびたび家康から薬を貰っていて、飲んだらソッコーで治ったと書状に書いている。
・手紙は短い。用件のみで簡潔。
・野戦が得意とされる。刻々と変化する状況への則時対応が早くて上手い。
・戦ではだいたい前線にいる。

ー以下は注意リストー
・三方ヶ原では漏らしてない。
・あれは一言坂の話である上に、家来がそう言いがかりをつけただけで、漏らしたどうかも不明な内容になっている。
・同じく三方ヶ原の「しかみ像」も後世の作であることが判明している。
・死因天ぷらも可能性がほぼゼロの話→参照https://togetter.com/li/1092080
・天海=明智光秀はダメなレベルの戯れ言。説として成立しない。
(このあたりの情報の正誤はネット上で確認できる。歴史上の人物でも情報は更新・修正されるので注意)


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