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「王宮の孤児たち」(6)

全体公開 155 71077文字
2022-03-02 08:47:54

「王宮の孤児たち」第51話〜

「王宮の孤児たち」(1)/ (2)/ (3)/ (4)/ (5)

もくじ
2≫ 051 新しい鍵
3≫ 052 もう一人の英雄
4≫ 053 銀狐エドロワの来襲
5≫ 054 アイアラン
6≫ 055 天使に聞け
7≫ 056 雀蜂すずめばち
8≫ 057 工人こうじん
9≫ 058 花の寝床
10≫ 059 祈り
11≫ 060 出陣の門


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051 新しい鍵

「失礼する。レイラス殿下にご挨拶したいので、少し場所をおゆずりいただけるだろうか」
 黒塗りの盆を持ったデンは、真面目腐って星園エレクサルばつの小娘どもに頼んだ。
 チビの女英雄たちは二つ返事で素早くジェレフに道を作った。
 そしてあがめるような目でジェレフを見ている。
 ギリスは何か言いそうになって、また自分の口を押さえた。
 ジェレフは殿下の膳の前の絨毯の上にひざまずき、脇に黒塗りの盆を置いて、慣れた作法で叩頭した。
 いつ見てもジェレフの叩頭礼は優雅だ。さすがは族長に少年時代から長年、側仕えしてきたデンだけのことはある。
 黒塗りの盆の上には、赤い絹布に包まれた何かが乗っていた。
「エル・ジェレフ」
 何事かという顔で、スィグルがデンに答礼した。
「族長の命により、明朝早く巡察に出立します。殿下。しばしのお別れです」
 ジェレフは淡い笑みで伝えてきたが、スィグルは明らかに顔を曇らせた。
「いつ帰るの」
「すぐです、殿下。二ヶ月後には」
「そう……
 スィグルは不納得な顔で、でも納得したように答えていた。
 帰還式は一月後だ。ジェレフは間に合わない。
 おそらく間に合わないように帰ってくるのだろう。ジェレフは次代の継承争いに関与するなという、長老会だか玉座だかの意向だ。
 ギリスも不満で、それを隠さぬ顔だった。
「ギリス、俺に礼を言え」
 不満顔のこちらを見て、デンは面白そうに言った。
 なんでだよと思ってから、ギリスはジェレフが盆の上の包みを開き、新星に差し出すのを見た。
 黄金の鍵が載っていた。二本。
 ギリスはそれに、やっとピンと来た。
「ジェレフ。ありがとう」
 驚いて座り直し、ギリスは素直に叩頭して礼を言った。そうとしか言いようがない。
 デンはスィグルの新しい居室の支度を整えてから、ここに来たに違いない。
「お前が素直だと気持ち悪いな」
 ジェレフは本当に妙なものでも食ったような顔で呟いていた。
 それが可笑おかしかったのか、スィグル・レイラスが薄っすら笑っていた。
 まだ気落ちした顔のままではあるが、当代の奇跡のことはもう諦めたのか、いくらかましな表情だった。
「この鍵は何?」
 説明を待たず、スィグルはジェレフに自分から尋ねていた。
「殿下の新しい居室の鍵です。遅まきながら元服おめでとうございます。成年となられ、以後ますます励まれますよう」
 鍵を乗せた盆を差し出すジェレフから、新星は受け取らなかった。
 ため息をついて、二本ある鍵を見ている。
「何を励むんだよ」
 ぼやくように言うスィグルにジェレフは苦笑していた。
 デンの口調からして、おそらく口上は決まり文句なのだろう。聞かれても困るという顔だった。
「いろいろでしょうね、殿下」
「僕はこれまで十分いろいろ励んだと思わない?」
 新星はぐずるようにジェレフに文句を言っている。
 鍵を受け取らないつもりかと、ギリスは横目にスィグルを眺めた。
「そのように思いますが、もっとですね、殿下」
「嫌だよ、正直なところ」
 やけに正直に新星レイラスは駄々をこねている。
 スィグルはどうも、このデンの前ではいつもこうだ。
 それならジェレフはしばらく王宮から消えていて、正解なのだろうなとギリスは思った。
 残念なことだが、自分も養父デンがいないせいで、できることが増えた。新星レイラスもそうだろう。
 デンに捨てていかれて初めて、できるようになることがある。
 ジェレフは死ぬわけではないのだから、イェズラムよりずっと優しい。二ヶ月で帰ってくるのだから。
 ギリスの養父デンはもう、死後に楽園に行かないと会うことがない。
「殿下、そういうことは、このエル・ギリスを隣に座らせる前に言ってもらわないと、もはや手遅れです」
「そうだよね」
 いさめるデンに、スィグルはしおらしく納得したように答えた。
「なんで鍵が二つあるんだろう?」
「一本はスィグル・レイラス殿下に、もう一本はスフィル・リルナム殿下に。場所は隣です」
 受け取るようにジェレフが盆を差し出すと、頷いて見せたスィグルは、それでもなかなか手を出さなかった。
 深刻な顔で、もう一本の鍵を見ていた。
 あの弟を連れて行くつもりかと、ギリスはまだ不承知でスィグルを眺めた。
 足手まといだ。あのまま子供部屋に捨てて行くのが正解としか思えない。
 殺さないというなら、ずっとあの部屋に幽閉しておくのが、せめてもの慈悲だ。
 それなのに、新星が弟のための鍵を喜んでいるのは間違いなかった。
 思い詰めたような目で鍵を見るスィグルの、深く考え込む金色の目がしだいにうるおい、大粒の涙を溜めていた。
「ありがとう、ジェレフ……スフィルは、元気になると思う?」
 ジェレフに尋ねるスィグル・レイラスの声が、泣いている気がして、ギリスは新星の横顔を見た。
 思えばサリスファーと同じ歳なのだから、泣く時は泣くのかもしれなかった。
 でも、今じゃないだろうと、ギリスは参った。
 ここは玉座の間ダロワージで、皆見ている。
 ジェレフが来るのがいけない。別の誰かに鍵を持って来させれば済むのに、自分が来るから。
 うつむいたスィグルの目からあふれた涙が、ぽたぽたと盆の鍵に落ちていた。
 それを周りのチビどもも見ていたが、誰も何も言わなかった。言うはずがない。
「殿下が弟君おとうとぎみのぶんまで励まれるのがよいかと思います」
 ジェレフは微笑んで、優しい声で厳しいことを言った。
 それにスィグルが頷いて、赤い絹布ごと鍵を掴んだ。
 そして絹布で顔を拭いたが、それは顔を拭くものじゃないとは誰もとがめなかった。
デンというのは苦労ですよね、殿下。ジョットは世話が焼けるものです」
 同情したふうにジェレフが言うので、ギリスは本当だなと思い、しみじみとうなずいた。
「ジェレフはお前のことを言っているんだと思うよ、ギリス」
 顔を拭きながら、新星がギリスにそう教えてくれた。
 ジェレフは笑っていた。
「でもまあ、世話の焼けるジョットもいいものですよ。気がかりですが、こちらも生きる甲斐があるというもの」
「俺のおかげか」
 ジェレフの生き甲斐になっていたとはと思い、ギリスはしみじみと言った。
「それはお前じゃない」
 ジェレフは鋭く教えて来た。
「殿下、エル・ギリスをよろしくお願いします。無礼でしたら殴っても構いません。俺は二ヶ月で戻りますので、それまでお元気で」
 新星には優しい笑顔を向けて、エル・ジェレフは言った。
 スィグルもそれを頷いて見て、もう泣いてはいなかった。
「わかった。道中気をつけて」
 微笑んで言うスィグルには可愛げがあった。ジェレフはその様子を見て、ほっとしたようだった。
「では個人房へやに戻り寝みます。昨夜からろくに寝ておらず、このままでは旅中に馬から落ちて死にますので」
「そんな最期さいごは嫌だよ、ジェレフ」
 どんな最期ならいいのか、新星はデンの言うことに、情けなさそうな顔をしていた。
「殿下も今夜はよくおやすみください。新しい寝床で」
 ジェレフは快活に笑い、新星に叩頭して去っていった。
 ギリスには一言もなかった。
 それも仕方ないのかもしれないが、薄情なデンだった。
 恩のひとつも売って行けばいいのに、実にあっさりとしている。
 あの様子だと、デンは施療院の騒ぎは知らないようだ。居室の支度に時がかかり、銀狐エドロワの自決のことはまだ耳に入っていないのだろう。
 ジェレフが知らぬまま旅立ってくれたら良いがとギリスは思った。
 優しいデンは、仲間の死にいちいち傷つくらしいからだ。
 ジェレフがかつて族長の命により定めた紫煙蝶ダッカ・モルフェスの薬効が及ばず、痛みに耐えかねて死ぬ者がいると、ジェレフはいちいち気がとがめるようだった。
 そうやって無念に死ぬ者がいる一方で、まだ生きるべき者が死ぬのも嫌いだった。
 デンはとにかく人の死が嫌いらしい。
 治癒者だからだろうが、死の天使のやることに、いちいち傷ついている。
 だからヤンファールでギリスを助けてくれたのだろう。なぜ助けてくれたのかギリスが後で尋ねると、デンは、ここでは人が死に過ぎたと言っていた。もう仲間の葬式に行くのは嫌なのだと。
 特に自分より年若い者の死には立ち会いたくないらしい。
 だからお前のために助けたんじゃないとジェレフは言っていた。
 もう死を見たくないのだ、ジェレフは。
 デンは勇敢だが、戦いに向かない男だった。
 新星レイラスのことを戦いに向かないと言う以上に、ジェレフの方が向いていない。
 確かにデンがもっと若ければなと、ギリスは残念に思った。
 せめてギリスか、それかサリスファーたちぐらいの歳ならば、きっとジェレフも新星の帰還式に出てくれたのだろう。新しい星の御世みよの英雄として。
 でもデンは名君リューズ・スィノニムの英雄だ。デンが自分で選んだ玉座のきみだ。
 それしか選べるものが、ジェレフには無かったのだろう。
 ジェレフにとっては、タンジールを陥落から救い、襲いくる敵を撃破し続ける名君リューズだけが、大勢の仲間と民を無残な死から救ってくれる玉座の星だったのだ。
 だが今は別の選択肢がある。
 ギリスは悩んだ。簡単に答えの出るものではなかった。
 嬉しげに新星に忠誠を誓うジョットどもほどには、ギリスは単純ではないのだ。
 森の守護生物トゥラシェを見た。
 あれがもう襲ってこないとは、到底信じられなかった。
 守護生物トゥラシェは人を食う。あれは、こちらのことを敵とは思っていない。
 餌だと思っている。
 突撃する隊列のデンが食われるのを見た。後には何も残らなかった。
 石も、英雄譚ダージも、死んだデンの全てが守護生物トゥラシェの腹に消えた。
 そんなものが部族領に侵入して良いはずがない。
 守らねばならない。皆を。
 そのために我が身の魔法と命を全部捧げても良いとギリスは思っていた。
 それ以外に、天使に人より多くの魔力を与えられて生まれてきた意味もないように思えた。
「ねえ……エル・ギリス。あなた、まさかエル・ジェレフのジョットなの?」
 回想に沈んでいたギリスの向かいに、気付くとフューメがいた。
 真面目腐った悲壮な顔でギリスを見ている。
「え? そうかな? どうだろう。同じ派閥のデンだよ。ヤンファールでずっと一緒だったから。たぶん命の恩人だし?」
 さっき気づいたそのことを、ギリスはさっそくフューメに教えた。
ひどいわ」
 フューメは急に険しい顔で、吐き捨てるように嘆いた。
ひどいって何が?」
 ギリスは動揺して聞いた。
「嘘だと思ってた。英雄譚ダージに出てくるけど、いくらエル・ジェレフでも千切れた足を繋ぐなんてできるわけないって、私のデンおっしゃっていたわ。そんなの凄すぎるじゃない?」
 フューメがまだ嘆く顔で言うのを、ギリスは頷いて聞いた。凄すぎる。
「本当なの?」
 嘘だと言えという顔つきで、フューメが聞いてきた。
 何でそんなことを聞かれるのか、ギリスには全く分からなかった。
「本当……だけど?」
 ギリスが動揺して答えると、フューメは痛恨の表情をした。
「嘘よ……。そんなの奇跡じゃない? そんなことできる英雄がいる?」
「さっきいたじゃん……ここに」
 今、フューメが座っているのと変わらない場所に、つい先ほどにはジェレフが叩頭していた。
 それを指差して示し、ギリスは控えめに教えた。
 フューメがなにを嘆いているのか全く分からず、どう答えていいか戸惑う。
 助けを求めて周りを見ても、新星も険しい顔で不可解そうにしていたし、ジョットたちも困った顔で緊張していた。
「本当の話なの? 英雄譚ダージって。全部本当なの?」
 ギリスはフューメに小声で鋭く問われて、自分が記憶している限りのヤンファールのいさおしを頭の中で高速で詠唱してみた。
 一言一句までギリスが憶えているのは、自分が出てくるところだけだった。そこだけが重要なのだから仕方がない。
 それを二度、頭の中でそらんじてから、ギリスはフューメに頷いた。
「本当だよ」
「じゃあ、あなた、守護生物トゥラシェを十四体も一気に倒したの? 氷結術って、一度の装填そうてんでそんなに撃てるの!?」
 フューメは化け物を見る目でギリスを見ていた。
 戸惑いながらギリスは頷いた。
 頷いてよいのか問いたい気持ちで、新星レイラスを見たが、スィグル・レイラスすら、そうなのかと問う目で見ていた。その背後にいるジョットたちですら、そうだ。
 信じないのかよ、お前ら。なんのための英雄譚ダージなんだ。
 ギリスは呆れたが、この際はっきり言っておくべきと思い、フューメにはきっぱりと頷いてやった。
「撃てるよ。できないのに英雄譚ダージんじゃまずいだろ。英雄譚ダージは報告書なんだぜ、族長に戦場での出来事を知らせるために、詩人がむんだ」
「そうだけど!」
 フューメは泣きそうな顔で、小声で叫ぶように答えた。
 そして悔しいのか、驚いているのかも分からないような切なげな表情で絞り出すように言ってきた。
「あなた、凄いわ」
「ありがとう……
 褒めてるんだよなと警戒しつつ、ギリスは生返事をした。
「エル・ジェレフも凄いわ。そんな治癒術師がこの世にいるなんて。信じられない。まさに奇跡だわ」
「いや信じろ。ジェレフを」
 ギリスは念押しをした。
 そう頼むと、フューメはまた両手で自分の可憐な口元を覆っておののいていた。
「かっこいい……
「えっ、俺が?」
 驚いてギリスも思わず自分の口元を覆った。
 そんなことを同年代の女英雄に言われたのは初めてだ。
 部屋付きの侍女のキーラに言われるより、フューメのほうが破壊力があった。
 咄嗟とっさにはどう対処してよいか分からないほどだ。
 だが噛み付くようにフューメが訂正してきた。
「あなたじゃないわよ、エル・ジェレフよ!」
 フューメはギリスが憎いかのように牙をいて言っていた。
 なぜ怒るんだ。俺だって凄いんじゃなかったのか?
 なぜジェレフなんだと、ギリスは納得しながらも疑問だった。
 デンはなぜか、女にすごくモテる。
 女英雄たちは、日頃は自分たちも男子だというつらをしているが、ジェレフが通ると平気で色目をつかってきたり、陰できゃあきゃあ言うものだ。
 デンはそれを知っているのか、知っていて無視しているのか、それとも知らないぐらい馬鹿なのかだ。
「好きなのか……ジェレフが?」
 ギリスは探り探り聞いた。
 だがそれでもフューメには単刀直入だったらしい。
「馬鹿! そんなこと聞かないでよ! 好きとかじゃないの! 好きとかでは……!」
 フューメは一人で悶絶していた。玉座の間ダロワージの王族の席で。
 幸いにして末席とは言え、王族の殿下が十六人も居並ぶ場所で、フューメは赤くなってもじもじしていた。
 なぜかフューメの妹たちまで顔を赤らめてもじもじしている。
 ジェレフが一瞬来た程度のことで、女どもがこんなふうになるとは、デンが使う魔法は治癒術だけではないのではないか。
 まるで何か悪い幻視術にでもかかったかのようだ。
 馬鹿になるきのこでもジェレフに食わされたのか。
 ぽかんとして、新星もジョットたちもそれを見ていた。もちろんギリスもだ。
 言葉もなかった。
「エル・ジェレフが巡察からお戻りになったら、またご挨拶できる?」
 恥ずかしげな小声で、フューメが頼んできた。頬を染めていて可愛いのが不気味だった。
「挨拶ぐらい勝手にすれば」
 ジェレフなんか、派閥の部屋サロンでいくらでも会える。ギリスにはそうだった。
 駆け引きに弱いデンが、王宮の日々を慰めるデンたちの札遊びで、面白いほど負けるのを眺めたり、皆で酒を飲んで酔っているのをずっと眺めてきた。
 そこらへんにいるデンが当代の奇跡なのだ。
 それが派閥の、特に髑髏馬ノルディラーンばつの凄さだ。
 生きている英雄譚ダージが日々うろうろして、そこらへんで飯を食っている。
「楽しみだわ……
 震える声でエル・フューメンティーナが言い、そうですね姉上デンと一味の者たちが頬を染めて迎合していた。
 もしかしてジェレフを生贄いけにえに与えれば、女派閥からもっと人が集められるのではないか。
 ギリスはそういう悪心を抱いたが、あいにくジェレフはもう王都を出発するのだそうだ。
 惜しい獲物を取り逃した。後悔は先に立たずだ。
 でも、今宵ここで星園エレクサルばつの娘たちの前にデンが姿を見せてくれただけでも、収穫はあっただろう。なにしろ女派閥はおしゃべりだ。なんでもあっという間に話が伝わる。
「戻ったらお茶に誘う。デンを。ジェレフは茶会が好きだ」
 ギリスは嘘をついた。ジェレフが茶を飲んでいるところなど見たことがない。
 でも何事もそつのないデンのことで、たぶん茶のたしなみぐらいあるのだろうと勝手に決めた。
「本当!?」
 フューメがさっそく食いついてくれた。
「うん。星園エレクサルのお前の友達も来ていい。他の派閥の連中もだ。もちろん、殿下の帰還式の行列に加わってくれればだけど。何の恩もない赤の他人とは、ジェレフも話す暇はないと思う」
「そうよね。お忙しいのですものね」
 納得した顔でフューメは頷いていた。
 物分かりの良い女だ。ギリスもそれに頷いて見せた。
「ジェレフは殿下のことはいつも心配してる。ヤンファールで命がけで救った殿下だ。放っておけない」
 ギリスがその文脈を示すと、フューメは急に深刻な顔で頷いた。
 ヤンファールのいさおしを知っているのなら、当然と言えた。
 息子を奪われた族長が、その悲しみをこらえ、部族の悲願を果たすために戦う話だ。
 族長は息子を救えとは命じないが、忠臣である髑髏馬ノルディラーンばつの者たちが玉座の御心みこころを察し、王子を救出する物語だった。
 実際には命令を受けての作戦だったのだが、確かに族長はギリスには何も命じなかった。
 だから嘘ではない。
 皆に命令したのは長老会のデンであり、髑髏馬ノルディラーンばつ派閥長デンであったイェズラムで、英雄たちは皆、イェズラムの意見に反対しなかった。
 アンフィバロウとその一族を守護するのが、英雄たちの務めだったからだ。
 それをおこたれば末の世までの名折れだとイェズラムは言っていた。
 自分一人でも王子たちを助けに行くと。
 それに英雄たちは皆、心を打たれたのだ。ギリスもそうだったのだろうか。
 あと一戦すれば死ぬかと思えた大英雄イェズラム一人を戦わせて、英雄たちは何をしていたのかと思われたくなかった。
 誰にというのでもなく、おそらくは未来の自分に、そうなじられるのが辛かったのだ。
 後悔したくなかった。
 フューメンティーナもそう思ってくれるだろうか。
 星を一人で戦わせては、英雄たちの名折れだと。
 花簪はなかんざしの英雄として?
 ギリスはその意気を疑わしく、祈る気持ちでフューメを見たが、女英雄は何を考えているのか読めない顔でギリスを見ていた。
「わかったわ。最後にひとつだけ聞かせて」
 意を決したという顔に見えた。フューメはその顔で、ギリスに尋ねてきた。
 ギリスは身構えて聞いた。最後に聞くぐらいだから、きっと大事な話だと思ったのだ。
「じゃああれも本当なの? 陣に戻る時に、相乗り? 運んだの? あなたを? エル・ジェレフが?」
 フューメはどことなく息も絶え絶えに聞いていた。


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052 もう一人の英雄

「え?」
 またヤンファールのいさおしか。
 そんな終わったいくさ英雄譚ダージではなく、ギリスはこれからまれる新星の時代の英雄譚ダージのことを話したかった。もう終わったことなど、どうでもいいではないか。
 しかしフューメ達が真剣に聞いているようだったので、やむをえず答えることになった。
「知らないけど、馬で引きずって戻ったんじゃなければ、そうなんじゃない?」
「引きずって戻るわけないじゃない。あんな優しい方が、そんなことするわけない」
 くよくよと言って、フューメはがくりと項垂うなだれた。
「いいなあ。私もヤンファールで戦って、エル・ジェレフに命を救われたかったわ」
「なんで?」
 お前の足もいでやろうか。ギリスはそう思ったが言わなかった。
 言わないほうがよい気がしたのだ。おそらく言わないで正解だった。
「あなたがうらやましい」
 フューメはがっくりしたまま、やけにはっきりとそう言った。
うらやむことないよ。僕はあなたにそんな目にあって欲しくない」
 ずっと黙っていた新星レイラスが耐えかねたのか、急に本気で言っているとしか思えない口調で言ってきた。
 フューメはそれにも驚いたようだった。
「失礼しました、殿下。つい夢中になって……
 真っ赤になって、フューメはエル・ジェレフの悪の幻視術に囚われていた自分に気づいたらしかった。
 なにしろ王族の殿下の前だ。
「いいよ。ジェレフは格好いいよね。僕もそう思うよ」
 気さくににこにこして、新星はエル・ジェレフがお気に入りだった。デンの幻視術はどこまで効いているのやら。
「でも……エル・フューメンティーナ。僕はあなたが戦場で死ぬことがないといいと思うよ。いつもここで、今みたいに、にこにこしていて欲しい」
 新星は済まなそうに言って、なぜかフューメの膝にある彼女の手を見ていた。
 ほっそりした指の白い手で、磨いた爪には染料で花の紋様が描いてあった。
 女たちがしている手の化粧だ。
 居並ぶフューメの小さいジョットたちにも、よく見れば全員の爪に揃いの紋様が描かれていた。
 女派閥はよっぽど暇なのだろう。ギリスはそう思ったが、新星レイラスはそれを惜しむようにじっと見ていた。
「皆にはここで、いつも幸せでいて欲しいんだ。戦場は嫌なところだよ。僕はもう誰にも行ってほしくない」
「それでは私たちの英雄としての身が立ちません」
 フューメは言いにくそうに、でもきっぱりと答えていた。
 それに新星は逆らわず頷いた。
「そうだね。何か考えないといけない。あなたのための新しい英雄譚ダージを」
「私にですか?」
 フューメはびっくりしたようだった。
 花の絵のある指先を口元にやり、深刻に眉を寄せて、フューメは悲壮な顔をして見えた。
 どうもこの悲しそうな顔が、フューメンティーナの感激した時の顔なのだ。
 ややこしい女だなと、ギリスは困惑してフューメの表情かおを憶えた。
 怒ってるのか泣いているように見えるが、どうもこれは、フューメは喜んでいるのだ。
 女の顔ほど意味のわからないものはない。ギリスには極めて難解だった。
「ごめんね。今すぐじゃない。でも、必ずきっと考えるから、足が千切れた奴のことをうらやむような気持ちは捨ててほしい。きっとものすごく痛いよ。あなたはそんな目にあわないでほしい」
 新星の頼みを、フューメンティーナは動揺した目で聞いていた。
 その目がすぐには納得しないことに、ギリスは共感した。
 この新星の指し示す方向は、英雄たちにはひどく難解だろう。ギリスにも正直よく分からなかった。
 でもそれが、このアンフィバロウの示す新しい道標みちしるべだ。
 そのために、何もない砂漠を横断する決死の旅に出ろと命じている。
 それが正しい道であったか、最初のディノトリスが予言し、最初のアンフィバロウが旅立つのに付き従った者たちも、実は知らなかったのではないか。
 訳もわからず、でも星を信じてついていった者たちの子孫が、今この玉座の間ダロワージにいる。ただそれだけだ。
 どの星を追うべきか。
 ギリスは広間を見渡し、そこで輝いているはずの別の星々を見た。
 どれも絢爛けんらんな赤い服を着て、同じように殿下の席に座っていた。
 その差はまだ誤差にも思えた。
 スィグル・レイラスと何が違うのか。ギリスにもよく分からなかった。
 だが隣に座す、真剣な王族の殿下の横顔を見ると、その目は今も輝いて見えた。
 フューメもその黄金の目に射られ、身動きもせず聞いている。
「変な話をして済まない。忘れてくれてもいい」
 スィグルは詫びる声で言い、フューメに話すのを思いとどまったようだった。
 でもフューメはまだ悲しい顔をしていた。まだ幼い新星をあわれむような。
「お母上はご回復なされましたか」
 急にフューメがそう聞いた。なぜスィグルの母親の話が出てくるのか、ギリスには全く分からなかった。
 スィグルの母エゼキエラは地方侯の姫で、族長が十二人まとめてめとったきさきの一人だ。
 一人だった、と言うべきか。
 二人の殿下とともに族長妃エゼキエラも敵に囚われたが、虜囚としての用途は別だった。
 森の者どもは王子は地下に閉じ込めたが、エゼキエラは拷問した。
 愛する妃が上げる悲鳴に族長リューズが耐えかねると思ったのか。甘いことを思う敵どもだった。
 敵は切り落としたきさきの指を一本ずつ届けてきた。
 鷹通信タヒルに似た銀色の鳥が、幾度も前線に飛来したらしい。
 その鳥は、美しい紋様を描いた爪をした指を一本ずつくわえてきた。
 飛来すること、十度。
 族長は十度は耐えたが、そこが限度だったと、イェズラムは語っていた。
 なぜか分かるかとギリスは養父デンに尋ねられた。
 ギリスにもそれは分かった。
 人の手には指が十本しかない。誰でも知っていることだ。
 その次に届く指が足の指ならよいが、子供の指かもしれない。
 族長はそう思い、気が狂ったのだ。養父デンにヤンファールを攻めたいと言った。
 それがよいとイェズラムは賛同したらしい。
 今夜にも攻め落とすと、族長は養父デンに誓ったという。
 そんなことは夢物語だが、でも、何百年も落ちなかったヤンファール平原をわずかの日数で攻略した族長リューズのいくさは、長い歴史の目で見れば、ほんの一夜と言えなくもなかった。
 養父デンはそう言っていた。
 もしも子供が囚われていなければ、さすがのリューズも手を出しかねただろう。
 きさきの指のためには、部族の命運をかけられぬと。
 だが、王子たちはアンフィバロウの血を引いていた。
 それを救い出すのには、また別の大義名分があったのだ。
 アンフィバロウの子たちは、もう二度と再び森の虜囚とはならぬという怨念が、この部族には根深い。
 生きて奪回し、必ず王都に帰還させなくてはならぬ。
 それゆえ養父デンには好機だった。名君リューズにヤンファールを攻めさせる。
 当の族長にはどうだったか、ギリスは知らないが。
 難しい戦を仕掛けるには、理由がいるのだ。
「母はもう回復はしない。残念だけど。エル・フューメンティーナ。僕はもう、そういう目にあう者をこの広間から一人も出したくはない。分かって欲しいんだ」
 新星は頼む口調だったが、命じてはいなかった。
 それではフューメも頷けないのだろう。女英雄は困った表情で新星の目を見返していた。
「そうですね。そのような時、私たちは自決せよと教えられています。殿下には申し訳ないですが、私たちのデンは、届いたのは亡くなられたお妃様の指だと信じていたそうです」
「そうだよね……
 新星は疲れた様子で女英雄の話に頷いていた。
 確かに、王族の作法にのっとれば、族長妃エゼキエラが生きて戻れるはずはなかった。
 それはこの新星も同じだっただろう。
 王子はもう生きてはいないと皆は信じていたらしい。双子なのだから、差し違えて死んだだろうと。
 だがなぜ新星は生きていたのか?
 おそらく、人を食ってでも生きていた理由が、何か必要だろう。
 生きて戻れば負け犬だ。
 スィグルもそれを知らないはずはなかったが、なぜそうなったのか。
 臆病だったからか?
 本人はそう思っているらしい。
「済まない、フューメンティーナ。あなたの名誉をけがす話をして、済まなかった」
 新星は本当に謝っているようだった。
 新星と膳を挟み向き合って座るフューメは、黙ってその謝罪を受けていたが、でも怒っているようには見えなかった。
「殿下は弟君おとうとぎみがお元気になられるようお望みなのですか?」
 フューメは少し気まずそうに聞いた。
 それにスィグルは驚いたような、悲しげな顔をしていた。
「エル・フューメンティーナ、あなたの言いたいことはわかる。でも、幼い頃から苦楽を共にした弟に、早く死んでほしいと思う者がいるだろうか。そういう者があの席に座るべきなのか?」
 スィグルはまだ遠くに見える玉座の方を視線で示して、フューメに答えた。
「僕はそういうふうにはなれない。スフィルに元気になってほしい。昔のようにじゃなくても。弟にも生きる権利があるはずだ。天使に許されて、この世界に生まれてきたんだから。あなたもそうだろう、そのジョットたちも……この子たちが死んでも、あなたは心が痛まないのか」
 フューメンティーナは深刻な顔で新星の話を聞いている自分のジョットたちを眺めた。
 ギリスはフューメがなんと答えるか、興味があった。
 それ次第では、新星はこの女英雄を帰還式の行列から失うことになるだろう。
 それでも、文句は言えまい。
 嘘で騙してこの女どもを参加させるというのでは、新星の御世みよ幸先さいさきは暗いだろう。
 ギリスにはそう思えた。
 深いため息をついて、エル・フューメンティーナは答えた。
「そうですね、殿下。私もこのジョットたちには長く生きて、幸せでいて欲しいものです。もし……もう戦うことがなくても」
 フューメは真顔でそう答えた。にこりともしない、少し悲しげな暗い顔だった。
 そのジョットたちも、深刻そうな暗い顔で、うつむいてデンの話を聞いていた。
 ギリスはその表情の意味を読めなかった。
 だが、もうお前など知るか、死んでしまえとは、フューメは言わなかった。今はそれで十分だ。
「皆に長命を」
 スィグルはフューメに頷き、疲れたように言葉短く答えていた。フューメもそれに頷いていた。
「殿下に忠誠を。明日またお目にかかります。念動術のご指南を。お休みなさいませ」
 フューメはそう約束して、ギリスのほうを見た。
「行列に百人集めるのは大変そう。私たち、忙しくなりそうね、エル・ギリス」
 フューメは真面目にそう言った。
 その言葉を聞いて、ギリスはどう感じてよいか自分でもわからなかったが、もしも法によって婚姻を禁じられている英雄エルでないなら、この女に結婚を申し込んでもよいと思った。
 そうでなければ叩頭してもよい。
 だが結局、ギリスは無言で頷いただけだった。フューメもそれで文句は言わなかった。
 女英雄たちは別れの挨拶をし、ぞろぞろと広間の自分たちの派閥の席に引き上げていった。星園エレクサルばつの女どもの席に。
 そこで待っていた石のある女たちは、すぐにフューメを取り囲み、何事か話し合っているように見えた。
 それが星園エレクサルばつとの一部始終だ。
 古い英雄譚ダージにあるような、英雄が感涙にむせび三跪九拝さんききゅうはいして殿下に忠誠を誓うような名場面でなかったのは残念だが、現実などそんなものだ。
 あの黄水晶の娘の忠誠をたった一夜で勝ち取るとは、新星もなかなかのものだった。
 ギリスはそう思い、この星が案外本物かとスィグル・レイラスを眺めた。
 しかし新星はがっくりと暗く項垂うなだれていた。
「すまない、ギリス……お前が彼女に頼んで行列に引き入れてくれたのだろうに、もうめちゃくちゃだ」
 新星は顔を覆ってくよくよしていた。
 意味がわかってないのかと、ギリスは困惑した。
 フューメは明日も来ると言った。行列に英雄たちを集めるのにも協力すると約束した。
 まずまずの大成功ではないか?
 正直、ギリスが思った以上の成果だった。
 フューメには、念動術の指南だけでもしてくれればと願っていたが、エレンディラがよほど女派閥に強い声を発したのか。
「お前なにか勘違いしてるよ、スィグル。実は馬鹿なのか?」
 ギリスは心配になって聞いた。
 それにスィグルはまた黒雷獣アンサスみたいな顔で、キッと怒った目をした。
「悪かったな、馬鹿で! お前に言われる筋合いじゃないよ!」
「そうだな。俺も悲しくなるほど頭が悪いんで困ってるんだよ」
 苦笑して、ギリスはまだ落ち込んでいるらしい新星に同意した。
養父デンの話の意味が、やっとわかった」
 ギリスは今、急に気づいたことを、新星と分かち合おうと思い、話してやることにした。
「ヤンファールを攻略したのはお前だ、スィグル・レイラス」
「は?」
 ぽかんとした怒った顔で、スィグルはギリスを頭から足までじろじろ見た。
 洞窟で急に、見知らぬ妙な獣とでも出会ったかのようだ。
「イェズラムが言ってた。ヤンファールに旅立った族長に毎日、鷹を飛ばしたと。その通信文には毎日同じことが書いてあったらしい。なんて書いたか、お前は知ってるか?」
 ギリスが尋ねると、スィグルは深刻な顔で首を横に振っていた。
 おそらく皆も知らないのだろうなと思った。英雄譚ダージには出てこないからだ。
「まだ生きている。と、書いて送ったと、養父デンが言っていた。千里眼の者に昼夜させて、族長に毎日しらせた。ありったけの銀の矢シェラジールが王都とヤンファールを往復していたらしい。シェラジールたちも、ご苦労さんだよな」
 鷹が行く空の道を空想して、ギリスは飛び交う鷹が同じ文言を毎日運び続けたことを、ずっと不思議に思っていた自分を回想した。
 俺は馬鹿だった。たぶん今も馬鹿だ。養父デンの話が、半分もわかっていない。
 族長は間違いなく、このスィグル・レイラスとスフィル・リルナム、その双子の息子を救うために、ヤンファールを攻略したのだ。
 こいつが敵の穴蔵から族長リューズをんでいた。生きているうちに、救いに来いと。
 そうでないならヤンファール攻略にはあと百年を要したかもしれぬと、養父デンは笑っていた。
 正しい道に進む星を、支えるのが射手だ。
 ヤンファールは攻め落とす必要があった。百年後でもいいだろうが、どうせなら当代でやるのがよかろうと、養父デンは思ったのだろう。
 名君リューズ・スィノニムは、養父デンにはただ一つの輝く星だったのだから。
 それが一千年にただ一人の名君であるほうが、そうでないより愉快だろう。
 ただの一度しか生きないこの世が、愉快であって困ることはない。
 可笑おかしくて、ギリスはうふふと声を漏らして笑った。
 何かが可笑おかしかった。
「お前が助かるって、どうやって知ったんだろう。イェズラムは。もしお前が途中で死んだら、どうするつもりだったんだと思う?」
「知らないよ、そんなこと」
 スィグルは動揺した目で答えてきた。
 そうだろうなとギリスは思った。自分が死ぬか生きるか決めるのは自分だが、それでも死の天使には何者も逆らえない。
 その采配を知っている者がいれば別だが。
「アイアラン」
 ギリスは納得して、その名を口にした。
 あいつはギリスと同い年だと言った。ヤンファールの勝利を予言したらしい。
 ギリスはヤンファールの時、まだ十四歳で、初陣には早すぎた。
 それでも養父デンは戦えと命じた。
 ギリスがそうなら、アイアランもそうだったはずだ。あいつも十四歳だった。
 ヤンファールでは見ていない。共に敵陣に突撃もしなかった。
 だが、あの時、養父デンからの玉座を守り王都にいて、アイアランもそうだった。
 ヤンファール攻略のために、養父デンが族長の定めた掟を破り、死闘させた小英雄。
 それは、ギリスだけだったのか。
 英雄譚ダージは戦闘の全てを語り尽くしてはいない。
 詩人が語らなかったことの全てを、養父デンはギリスに口伝した。次代の射手に必要になる知恵として。
「アイアランに会う。スィグル。お前はあいつにもびないといけないらしい」
 ギリスは確信して教えた。
 きっとあいつは新星にとって、生涯忘れられない英雄になる。アイアランもそう言っていたように。
 英雄たちの席がざわめいていた。
 ギリスが目を向けると、中央の大扉に尻尾のある者たちが、輿こしを抱えて現れていた。
 時機もぴったりだったなと、ギリスはアイアランの魔法の精度に驚いた。
 未来視の英雄の来臨だった。

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053 銀狐《エドロワ》の来襲

 銀狐エドロワばつの者たちの登場に、英雄たちの席が不穏にざわめいて見えた。
 扉のそばに陣取っていたデンたちが、輿こしを担いで乗り込もうとする尻尾のある者たちに立ちはだかり、何事か押し問答している。
 王族の席には、その声の内容までは、はっきりとは聞こえなかったが、彼らが和やかに歓談しているわけでないのは遠目にも分かった。
「何事だろう、ギリス……
 不安になったのか、騒ぎにスィグル・レイラスが暗い顔で聞いてきた。
 ギリスに聞かれても、何事なのかが分かる訳はないのだが、聞けば何とかなると思っているのだろうか。
 英雄たちに守られて生きる王族としての本能か、スィグルは心なしかギリスの陰に隠れるような仕草をした。
 妙なものだとギリスは思った。
 もちろん、護衛も射手の役目であり、魔法戦士としてもそのはずだが、一体どこに身をていして守る義理があるというのか。
 分からなかったが、ギリスたちの背後にいるジョットたちも、緊張した面持おももちで新星の側近くに寄り、幼いながら身をていして守る構えだった。
 そのように教えられてきたからだ。民の幸福の支えである王族を、命懸けで守るのが魔法戦士の務めだと。
 英雄たちの席にいる者の中にも、立ち上がって身構える者が幾人かいた。
 その中に、先ほど戻ったばかりのフューメンティーナとそのジョットたちがいるのも見えて、やはり彼女のジョットの何人かは念動術師なのだなとギリスは思った。
 魔法戦士が魔法を使うのには少々の時間を要する。
 矢を射るためには弓弦ゆづるを引き絞らねばならぬのと似て、思った瞬間に即座に撃てるというものではない。
 だからどんな大魔法も、撃つ前に術者を殺すか、少なくとも吹っ飛ばして気をぐことができれば、その瞬間には無力化することができる。
 フューメは護衛に最適の魔法戦士だ。装填そうてんが早く、素早く撃てる女英雄だった。
 魔法の装填にかかる時間は人による。フューメは早撃ちだった。
 そんな技は、今ここでは見られないほうが望ましいが、よもや魔法戦士の乱闘が見られるのだろうか。
 もしそんなことなれば銀狐エドロワばつはもう終わりだろう。
「念動術か風刃術は?」
 新星を自分の身の陰に隠しながら、ギリスは背後のジョットたちに尋ねた。
 サリスファーが答えた。
「エル・エリシャーがいます。風刃術師です」
 誰だか分からない、ずっといたチビが、急にキリッとして仲間たちを押しのけ立ち上がった。
 気分の問題かもしれぬが、座ったままで魔法を使うのは難しい。
 できる奴はできるが、大魔法をふるうには立っているほうが楽だ。
 だから急に立ち上がった魔法戦士には気をつけるべきだった。
 見れば族長の席でも、長老会の者たちが席から立ち上がっていた。
 中には歴戦の大英雄である念動術師か何かがいて、玉座のために広間ダロワージの全てを吹っ飛ばす気なのか。
 エレンディラはまだ座っていた。にこやかに。
 その横に座す族長リューズも、普段と変わらない笑みでゆったり座しており、スィグルのように魔法戦士の陰に隠れようとはしていなかった。
 良い機会と思い、ギリスは王子たちの席もざっと見渡しておいた。
 立ち上がって身構える、頭に石のある者がいる。
 王子たち全員にいる訳ではなかったが、長老会が側仕えの英雄をつけている殿下もいるらしい。
 それだけ警戒すれば良い。
 ギリスは今日の日の、この物々しい玉座の間ダロワージの絵を見ることができて、よかったと思った。
 さっきまで誰も同じに見えた殿下がたが、同じでないことはわかった。
 スィグル・レイラスには昨夜まで、ここに席すら無かったが、今夜は一応、髑髏馬ノルディラーンばつの英雄七人に囲まれ、中には護衛に向いた風刃術の使い手がいる。
 おそらくフューメもいざとなれば新星を守ってくれるだろう。そのジョットたちも。
 養父デンの言っていた通り、新星は運が良い。
 とてもそうとは思えぬ境遇ばかりだが、トルレッキオへの人質幽閉すらも、こいつには幸運だった。
 天使に鷹通信タヒルを飛ばせる王子がこの広間にあと何人いるだろうか。
 そんなものは皆無だ。スィグル・レイラスだけがやれることだ。
 もちろん、族長リューズを別にすればだが。
 玉座の君も、天使とは話せるのだろう。
 それが大陸の民の各部族の首長にだけ与えられる権限のひとつでもある。
 族長でなければ天使とは話せない。皆、そう思っているし、ギリスも思っていた。
 それも昨夜までのことだ。
「スィグル、心配するな。アイアランはお前に会いに来たんだ。俺は先に挨拶されてる。俺よりマシな礼儀だぜ?」
 ギリスは新星を安心させようと、なるべく微笑みながら静かに言ってやった。
 スィグル・レイラスが検診の術医を怖がる子供部屋のチビみたいに見えたせいだ。
「笑ってる場合か、馬鹿!」
 ひそめた声で、スィグルが答えてきた。闇の中で吠える黒雷獣アンサスみたいに。
「笑ってる場合だろ。お前の親父を見ろ。にこにこしてる」
 ギリスは玉座を示して、スィグルをいさめたつもりだった。
 主君がお間違えになったらいさめるのがデンである魔法戦士の役目だと、エレンディラも言っていた。
「父上は勇気がおありなんだよ!」
 怒ってるみたいな声で、スィグル・レイラスが父親を褒めていた。
 勇気とかそういう問題じゃない。族長リューズはここでビビるのを人に見せたくないだけだ。
 怖かったとしても我慢しているのだ。そうに違いないのに、なぜ血を分けた息子にそれが分からないのか。
 本当に名君の子かと、ギリスは疑わしくスィグル・レイラスを見た。
 そういえば顔も似てないし、十二人の妃が同時期にはらむなどと、出来過ぎた話だ。
 実は何人かは偽物の殿下なんじゃないかと、ギリスは疑っていた。
 アンフィバロウの末裔だというなら、その血筋を示すべきだ。皆もそう思うに違いなかった。
 暗愚であったという先代の族長デールですら、都市設計の才においては、太祖アンフィバロウを彷彿ほうふつとする個性を示していた。
 太祖は決死の砂漠越えを企てる勇気も持っていたが、民が安住するための都市を幾つも建設した。
 だからそれもアンフィバロウらしさと言えた。
 暗愚な族長も、生まれる時を間違えなければ、名君だったのかもしれないのだ。
 スィグルが言っていたことにも、一理あった。
 どんなアンフィバロウであるべきか、それは魔法戦士が選ぶ。そういう伝統だ。
 ディノトリスが誰に予言を囁くかが、この部族では重要なのだ。
「アイアランはお前に忠誠を誓いに来るだけだ。用件はそれだと聞いてる。銀狐エドロワばつは帰還式の行列に加わりたいんだ。その話をしに来るだけだ。俺にはそう言っていた」
「なんで今夜なんだよ。何も玉座の間ダロワージでなくていいだろ」
 スィグルは本気でそう思うらしく、ひどく気まずそうに見えた。
 あの騒ぎの種になっている輿こしが、自分のところへ来るのが気まずいのだろう。
 もちろん、アイアランはそれを見せるために、わざわざ来たのだ。弱った身の無理を押してまで。
 さっさと通さねばならない。
 ギリスがそう思った時、玉座のほうから声がした。
「何事だ、我が英雄たちよ。飯は楽しく食え。喧嘩けんかをするなら追い出すぞ」
 族長リューズが高段で立ち上がり、行儀の悪い子供部屋のチビどもを叱る室長のように怒っていた。
 でも族長はまだ楽しげに見え、本当に怖がっていないようだった。
美しい女英雄を隣にはべらせ、余裕の笑みだ。
 エレンディラの雷撃の攻撃範囲は広い。近づくものを昏倒させることぐらいはできる。
 だがエレンディラが狙った者だけ雷撃するかは謎だ。彼女の魔法にそういう細やかさはない。
 出力の調整ができるだけで、攻撃範囲内にいるもは皆、痺れるはずだ。
 彼女の雷撃の餌食になりたくなければ、なるべく彼女にくっついていることだ。
 族長はよく心得ているらしく、エレンディラのすぐ隣に立っていた。そこなら雷撃は当たらないからだ。
 その魔法の性質の故に、エレンディラは先陣を駆ける女英雄だった。
 ごく少人数の従者だけを連れ、先鋒で雷撃をする。
 彼女が通った後にいた者は、皆痺れて気絶している。敵も味方も分け隔てなく。
 攻撃範囲もとても広い。大抵の術者は、相手を射程内に捉える前にエレンディラの雷撃に倒されるだろう。
 養父デンもエレンディラにはかなわぬと言っていた。
 それは別の意味でだったかもしれないが。
 この戦場の花は、常に名君のため、敵陣に進撃の活路を切り拓いてきた女英雄エルなのだ。
 進むことにかけて、当代の玉座の間ダロワージでこの女の右に出る者はいない。
銀狐エドロワばつは喪に服せ! 今宵は玉座の間ダロワージに立ち入ることは許さぬ!」
 高段で立ち上がっていた長老会の重鎮デンの一人が、恐ろしく響く声で命じていた。
 エレンディラはそれを止めず、族長も知らぬ顔で微笑んで見えた。
 以前も、族長は凄む役目は養父デンに任せていたし、族長が自分で怒鳴ったりはしないものなのだ。
 そういうことすら他人に命じてやらせるのが、族長というものだ。
 自分で怒鳴ると権威に傷がつく。ぎゃあぎゃあ怒鳴る男を民はありがたいと思うだろうか。
 思う訳ない。養父デンはそう思っていたらしい。
 族長は太祖のような美しげな顔で、いつも静かに謎めいて微笑んでいるべきだと。
 その成果があの玉座の男で、リューズ・スィノニムは養父デンの理想のジョットと言えた。
 射手が星を作るのだ。
 ギリスには、そうとしか思えなかった。
 では自分はどんな星を作って天に撃ち上げる気なのか。
 隣にいるスィグル・レイラスを見ても、全く見当すらつかない。
 それを思ってギリスがぼんやりし始めていると、急に広間ダロワージの中央の扉から、聞き覚えのある大声が聞こえた。
 まだ甲高い少年の声だった。
「閣下! 通すようにお命じください。銀狐エドロワにも閣下のこの広間でしょくす権利があるはずです!」
 その声で喋ったら死ぬのではないかという大声で、アイアランが怒鳴っていた。
 それはギリスの耳を直に撃つようで、頭に響いてきて、ギリスは顔をしかめた。
 念話だ。誰かがアイアランの声を魔法で皆に伝えている。
 玉座の間ダロワージで魔法を使うとは、許されざることだったが、念話術や幻視術のような身体に直接の害のない術は、とがめがゆるいのも事実だった。
 だけど、うるさい。とがめがあるのではないか。
 ギリスがそう思っていると、案の定、族長リューズがとがめてきた。
「うるさいぞ!  場をわきまえろ。お前たちだけがこの広間ダロワージにいるわけではない」
 自分で怒鳴るなという養父デンしつけそむき、族長リューズは自ら叱りつけていた。
 族長自らが怒るのだから、相当のことだと、皆、静まり返った。
 それをとがめる目で、エレンディラがちらりと隣席の椅子から族長を見上げていた。
 女英雄は何も言わなかったが、族長リューズは反省したふうに、深いため息をつき自分の席に座った。
 族長は素直なジョットだ。スィグル・レイラスのようにキレて殴ってきたりはしない。
 養父デンは素直で賢いジョットに恵まれたわけだ。運の良い男だった。
「何の用だ。エル・アイアラン」
 静まった広間によく通る声で、族長は座したまま、静かに尋ねてきた。
 ギリスは遠い人垣の向こうにいる、輿こしに乗ったアイアランが、美しく正装しているのを見つめた。
 広間の晩餐にふさわしい衣装ではあるが、アイアランは垂髪すいはつのままだった。髪を結っていない。
 それに目隠しもしていた。長い灰色の絹布けんぷを頭に結び、自分の目をふさいでいる。
 族長はアイアランの名を知っていたらしい。
 ギリスはそれに、自分の他にもまだヤンファールで死闘した少年兵がいたらしいことに確信を深めた。
 族長リューズは英雄好みで、実によくデンたちの名前を覚えている。
 戦闘に配備された魔法戦士の名と術を、族長は全て記憶していると養父デンは言っていた。
 良い戦士は自分の武器を把握しているものだ。
 魔法戦士は族長の矢で、剣で、槍だ。それを知らずに戦えない。
 だが、子供部屋の一人一人までもを把握しているだろうか?
 初陣ういじんもまだの奴まで、本当に一人一人、顔と名前を憶えたりできるだろうか。
 偉大なる養父デンでさえ、子供部屋のチビまでは知ってはいなかった。
 初めて会った時も、ギリスに養父デンは名を尋ねてきた。
 自分はイェズラムだと名乗り、お前の名はなんというのかと、ギリスに聞いた。
「閣下には、もう、申し上げたいことはありません。殿下にご挨拶に参りました」
 アイアランは苦しげな呼吸の聞こえる肉声で、精一杯叫んだようだった。
 その声は小さかった。でも族長は耳がいい。聞こえたらしかった。
「どの殿下だ。好きに挨拶するがいい。お前たちの権利だ。しかし……
 族長は座っていても、よく通る声だった。
 養父《デン》の話では、リューズ・スィノニムは玉座の血筋に生まれていなければ、仮面劇の俳優になりたかったらしい。
 そんなものは叶わぬ夢だが、でも確かに良い声だ。
 いつまでも聴いていたいような、類稀たぐいまれな美声なのだった。
 そんな形質が王家の血筋にあるとは聞かない。
 だからアンフィバロウらしくはないが、皆、太祖もかくやと喜んでいる。
 声までは英雄譚ダージに記録されないので、太祖が美声でなかったという証拠もない。
 きっとこんな声だったのだろうと、皆、内心ではこの声に聞き惚れているのだ。
銀狐エドロワよ。無為に死すのは止せ。お前たちの無念は聞こえている。今は耐えよ」
 そう話す族長の横で、エレンディラが珍しく不満げな顔をしていた。
 女英雄は族長にここで、そんな話はして欲しくなかったらしい。
 スィグルには皆の前でヤンファールのびを入れさせたくせに、族長のことは守りたいのだ。
 エレンディラも、当代の英雄と言えた。
 族長リューズのデンで、弟を守りたいのだ。
「耐えかねます、閣下。英雄たちの命はあとわずか。殿下にお目通りを」
 輿こしの上でも平伏して見せ、アイアランは族長に懇願する構えだった。
 勝手に押し通る訳ではないのだから、銀狐エドロワも案外、お行儀がいい。
 ここにいる英雄たちは、結局、皆そうだ。玉座に繋がれた犬で、そうでない者は幼い頃に始末されている。
 主人にとって可愛い者だけを生き残らせた群れなのだ。
 しかもそれを、英雄たちは自分自身でやっている。
 誰を生かし、誰を始末するかを決めているのは長老会だ。玉座ではない。
 養父デンも自身のことを挺身ていしん権化ごんげだと。
 逆らえないのだ。アンフィバロウには。
 それは強権によってではなく、愛によってだった。
 なぜか皆、族長とその一族の者たちを愛している。
 それのことを、玉座の間ダロワージでは忠誠と呼ぶ。
「どの殿下だ。皆に挨拶せよ。次代の玉座に賭けたいというなら、俺は止めはしない」
 族長が許すと、エレンディラが怖い姉上デンの顔で横からにらんでいた。
 それが怖いのか、族長は苦笑してエレンディラをなだめているようだった。


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054 アイアラン

「末席の殿下だけで結構です。広間ダロワージは広すぎるので、端から端までは行けませぬ」
 アイアランはそう言って、銀狐エドロワたちはアイアランを乗せた輿こし玉座の間ダロワージの床に下ろした。
 ギリスはそれに顔をしかめた。
 アイアランが歩く気なのかと思って。
 その予想の通り、アイアランは這うようにして輿こしから立った。
 その弱って歩くさまに、英雄たちは一様に、不吉なものを見る顔をしていた。
 石にひしがれ、歩くこともできぬ。そうなれば死ぬのだと、皆思っている。
 無様だからだ。
 魔法戦士と称し、戦うために生きているのに、歩けないのでは戦えぬ。
 皆そう思っていて、足がえれば最後の小箱を開く。
 なぜ生きているのかと問う目で、皆がアイアランを見ている気がした。
 それに、ギリスはなぜか不承知で、のろのろと歩く弱いアイアランが、この席まで来るのをじっと待っている自分を感じた。
 歩いてこい、アイアラン。新星に予言を話せ。
 ギリスには念話は使えないが、使えればそう呼びかけただろうと思った。
 なぜかは分からぬが、今までも十分に、このような者がすぐに死ぬのを見てきた。
 子供部屋で。施療院でも。
 それが悔しく、ならばなぜ生んだのかと、内心、天使をうらんだ。ブラン・アムリネスを。
 弱く生まれるその罪を、慈悲深い天使が許さなければ、自分たちはこの世に生まれ、苦しんで生きることもなかったのだ。
 責任をとれ。
 そう呼びかけても、聖堂の天使像は何も答えなかったし、既に大陸の民の射た矢に胸を撃ち抜かれて、くずおれようとする姿に彫られていた。
 天使は断罪の矢を避けない。聖典にはそう記されている。
 のろのろと歩くアイアランは、苦しげに見えたが、なぜか微笑んでいた。
 子供部屋の連中が遊ぶ目隠し鬼みたいだ。
 でもアイアランには目隠し越しにも物が見えているのではないかと思えた。
 千里眼せんりがんで見ているのではないか。
 目隠しを取れば、すぐ目の前にあるものを、なぜ魔法で見るのか、ギリスには不可解だった。
 そんなことをすれば、ものを見るだけのことに魔法を使わねばならず、すぐに石が育つだろう。
 普通の英雄ならば。
 でもアイアランはまだ死んでいない。
 天使たちが、この弱った英雄をずっと生かし続けている。
「殿下……
 静まりかえる広間ダロワージを渡り、アイアランは半ば崩れ落ちるように新星レイラスに平伏した。
 スィグルはそれが自分のところにやって来るのを、ギリスの報せで知っていたはずだが、それでも異様なものを見る目で驚いて眺めていた。
「殿下。銀狐エドロワばつのアイアランと申します。このような姿をお許しください。僕は未来視なのです。殿下に忠誠を誓うために参りました。ご帰還の列にお加えください。その、先頭に……
 はあはあ苦しそうな息で、アイアランはそれでも笑って話していた。赤い唇が笑って見える。
 アイアランはスィグルと似ていた。同じ系統の顔立ちだ。西の渓谷オズトゥーシュ
 目隠しで顔が隠れていると、その下にある目元が見えないせいか、なおいっそう似て見えた。
 まるで双子みたいだ。そう見えなくもなかった。
「皆の、先頭に立ち……殿下をお導きします。麗しのフラタンジールへ!」
 含みのある言葉で、アイアランはそう告げた。新星を王都へ導くと。
 スィグルにその意味がわからないとは、ギリスには思えなかった。
 なにしろギリスにも分かったのだ。簡単な謎かけのはずだった。
 かつての英雄ディノトリスは、双子の弟である太祖アンフィバロウをこの砂漠の都タンジールへと導いた。
 その伝説は、この玉座の間ダロワージで飯を食う者は、皆よく知っている。
 この世で最初にまれた英雄譚ダージは、英雄ディノトリスのうただった。
 太祖アンフィバロウは、何もない砂漠の只中ただなかにあったタンジール遺跡に到達し、自分の即位を予言して麗しのフラタンジールと言い残して死んだデンのために泣き、その偉業を称える詩を詩人にませた。
 それが千年、歌い継がれている。
 その双子の兄弟の強いきずなが、この部族領のいしずえなのだ。
「帰還式の先導役はギリスだ。この、エル・ギリスに命じるつもりだ」
 新星はしれっと訳のわからないことを言った。
 ギリスはびっくりしてスィグルを見た。
 まさに唖然と、開いた口が塞がらず、あんぐりとして見ていた。
 そうか分かった、お前がやれアイアラン。そう言うところだろう?
 ギリスはそういう目で新星を見たが、スィグルは気味悪そうに肩をすくめてギリスを見返してきた。
「なんだよ……嫌なのか、ギリス」
「嫌じゃない。嫌とかではなく。アイアランに頼んだらどうだ。俺は気にしない、こいつの後ろで全然構わない。本当に」
 なんて言えばいいやらわからず、ギリスはしどろもどろに話した。
 アイアランの口元から笑いが消えていた。
 まさか、予想外の展開なのか。そう思えて、ギリスは礼服の中の体に変な汗をかいてきた。
 何か言え、アイアラン。未来が見えるんだろ?
 ギリスは心でそう話しかけたが、ひょろひょろの少年は重そうな礼服に押しつぶされるように座り、しばらく黙っていた。
「エル・ギリス。あなたも居ていい。殿下のおそばに。でも列は僕が先導する」
 暗い声でアイアランはギリスに言った。それにギリスはすぐに頷いた。
「好きにしろ。輿こしで?」
 ギリスは弱りきって見えるアイアランを気遣って、そう尋ねた。
 でも目隠しの英雄は、きっぱりと首を横に振ってみせた。
「いいや、砂牛で」
「乗ったことあるんだろうな?」
 予感というのはあるのか。
 未来視の英雄がそば近くにいると、ギリスの魔法も開花するのか、急にそんなことがギリスの脳裏によぎった。
 こいつ、馬にも乗れないんじゃないのかと。
「乗ったことない。教えて、エル・ギリス」
「はぁ!?」
 思わず上げたギリスの大声が、思いがけず玉座の間ダロワージに響き渡った。
 それを皆がにらんでいる気がして、ギリスは慌てて周囲を見渡した。
 でももう手遅れだ。叫んでしまった。
「馬鹿……そんなもん前もって練習してから来い。何のための未来視なんだ、アイアラン」
 なるべく皆には聞こえないように願って、ギリスは小声でアイアランに言った。
 それに目隠しの英雄は不満げに口を尖らせて見えた。
「僕は体が弱いんだ。練習なんかできない」
 きっぱりと当たり前のようにアイアランはギリスに答えた。
 あまりにも堂々として見えた。できないくせに偉そうだ。少しも悪いと思っていないらしい。
「教えてやれよギリス」
 新星が呆れた顔で、横から意見してきた。
「でも、なんで砂牛なの? 輿こしでもいいんじゃないのか?」
「砂牛でないとだめです、殿下」
 びっくりしたようにアイアランが答えている。
 砂牛でないとだめなのだろうなと、ギリスですら分かった。
 部族の初めの英雄譚ダージで、エル・ディノトリスは砂牛に運ばれてタンジールに到達している。
 他の者たちもたぶん砂牛に乗っていたのだろうが、それについては詩人は深く言及していない。
 絵巻物などでは、なぜか太祖は馬に乗っていたりもする。
 なぜ砂牛じゃないのかと謎だが、おそらく砂牛は鈍重そうに見え、荷運びの家畜であるし、よだれも垂らすからだろう。最悪の場合、る。
 だから何となく馬のほうが格好いいのだ。この部族では説明などいらない話だった。
 それでも、ディノトリスは砂牛に乗っていたと、古代の詩人がはっきりとうたに詠んでしまっている。
 これはもう動かせない。
「馬の方が格好よくない?」
 スィグルはあっけらかんと聞いた。
 アイアランはそれに唇を噛み締めて見えた。
 嫌な気分がしたときの、こいつの癖だ。おそらくそうだろう。
 ギリスはため息をついた。
「スィグル。アイアランは未来が見えるんだ。こいつが砂牛だと言えば砂牛だ。言うことをきけ」
「エル・ギリス」
 ギリスが助言すると、ほっとしたようにアイアランが親しげに名を呼んできた。頼るみたいに。
「ありがとう。殿下によく申し上げておいてくれ。僕はもう帰る」
「弱すぎるだろ、お前も。もっと飯食って歩け。よぼよぼじゃないか」
 ギリスは思わず忠告した。親しげに微笑んでいたアイアランは、それにまたぎょっとしたふうに青ざめた。
「僕は体が弱いんだよ! 仕方ないだろ、生まれつきなんだ」
「歩いたほうがいいよ。僕もちょっと……体が弱った時期があったけど、山で乗馬したら元気になった。食事もちゃんととったほうがいいよ。せてると力も出ないから」
 スィグルがにこやかにアイアランに教えてやっていた。おそらく親切心なのだろう。
 お前が言うのかというような忠告もあったが、ギリスはそれには目をつぶった。
 新星には後で忠告することにする。お前も飯は食えと。
「僕は子供部屋のころから、ずっとこうです。殿下」
 アイアランは反論してきた。目隠ししてなければ、不敬にも王族の殿下をにらんでいるのではと思えた。
 反抗的な餓鬼がきだなと、ギリスもそれをにらんだ。
 派閥の餓鬼がきなら、厳しいデンから二、三発、拳骨げんこつを食らうところだが、銀狐エドロワにはそういう風習はないのだろうか。
 こいつもえある髑髏馬ノルディラーンばつに来ればよかった。
「大丈夫。変われるよ。エル・アイアラン。僕の行列に加わってくれてありがとう。君ひとりで来るの?」
銀狐エドロワばつより、二十五名です……
 アイアランは不本意そうに新星に教えた。
 それにスィグルは驚き、嬉しそうにギリスを見た。
「すごいね! ギリス。これで何人? お前の苦労も少なくて済みそうだな」
 能天気な王子だ。ギリスは新星スィグル・レイラスの認識をまた書き直した。
「歓迎するよ、エル・アイアラン。よろしく」
 スィグルは急に、アイアランに右手を差し出した。
 何の癖なのか、握手を求めたのだろうと思うが、王族は英雄と握手はしない。そういうのは身分の合う者同士でやることだ。
 魔法戦士は王族の兄弟というが、微妙なところだった。叩頭するのが礼儀だ。
 アイアランも新星の手を握りはしなかった。
「殿下。僕に触れないでください。未来をてしまいます」
 アイアランは暗い顔でそう言って、拒んだ。
 新星は困った顔で、自分の手を引っ込めた。
「でも、そのお心には、感謝します。僕と握手しようという者は、誰もいませんでした。殿下の勇気に敬意を」
「馬鹿なだけだよ、こいつは」
 ギリスはアイアランに教えた。
 それに目隠しの英雄が困った顔になり、こらえきれぬというふうに、吹き出して笑った。


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055 天使に聞け

 アイアランは何がそんなに可笑おかしかったのか、身をよじり悶絶するように笑っていた。
 その笑い方が陽気というよりは病的に見え、ギリスは真顔でそのせた銀狐エドロワの小英雄を見つめていた。
 新星もじっと注意深い猫のようにアイアランを見ている。考えが読めない点では新星もアイアランも似たようなものだった。
 やがてアイアランは満足したのか、軽くあえぐ息で笑い止んだ。
「面白い人ですね、殿下の射手は。僕はあまり人と話さないので、こんな楽しい人は初めてです」
 まだ笑っている声でアイアランはギリスのことを新星に褒めた。
 褒めたのだろう。ギリスには分からなかった。
「そうだろう。ギリスは変わってるよね。まだ短い付き合いだが僕もこいつを気に入ってるんだ。驚くほどよく働いてくれる。君のことも今夜来ると言っていた。僕にはそれも予言みたいに見えたよ」
 新星は淡い笑みでアイアランにそう教えた。
 それにアイアランは明らかにムッとしていた。
「それは予言とは違います。殿下。エル・ギリスは僕が殿下にお会いしに来ると知っていただけです。事前に教えたので」
 それが自分の手柄だというように、アイアランは新星に訴えていた。
 ギリスはそれに何も言うことがなかった。その話の通りだったからだ。
 新星もそれを頷いて聞いていた。
「そうだね。ギリスは未来視じゃない。君には誰が事前に教えてるんだろうね?」
 新星は気さくに言った。
 ギリスはそれを黙って見ていた。
 アイアランは胸をあえがせて、助けを求めるように目隠しした顔をギリスに向けたが、特に言うべきことはなかった。
 アイアランはそれにも動揺したようだった。
「天使です……殿下。きっと天使が教えてくださるのです。僕に未来を」
「どの天使」
 やっとのように答えたアイアランに、新星は笑顔で問いただした。
 アイアランはそれに押し黙っていた。
「未来視ってどこから来るのだろうね? 僕も知りたいよ、アイアラン。不思議な技だ。君が予言したとギリスが言うのと、同じことを、天使も僕に言っていたよ。トルレッキオで」
 スィグルはその話を淡々とした。大したことではなく、別に驚いてもいないように。
 でもアイアランはひどく驚いたように答えた。
「ブラン・アムリネス猊下げいか……
 アイアランがその名を震える声で口にするのを見て、スィグルはすごく可笑おかしいように、忍び笑いしていた。
「そうだよ。君はどうやって天使と話した?」
「話した訳では……。魔法で、そういう予兆を視ただけです。天使は殿下には何と仰せに?」
 天使をおそれているような気配で、アイアランは尋ねてきた。
 大陸の民であれば、天使の支配をおそれない者はいない。
 しかしスィグル・レイラスは、まるで天使が気さくな友でもあるかのように、気軽そうに肩をすくめて答えた。
「君が未来視したことを実現するよう命じられてる」
 スィグルが淡々と教えると、アイアランは震え出した。
 何かの発作かとギリスは震えるアイアランの手を見たが、アイアランはすぐにそのせた指を握りしめていた。
 おそれに耐えるように、強く自分の指を握っている。
「尊い新星の殿下。お詫びいたします。僕は……殿下にそれをお伝えするのが自分の使命と思い、ここへ来ました。でももうご存知だったんですね」
「いや、ご存知ってほどじゃないけど、そんなことが自分に本当にできるのか、悩んでいたところだよ。幸先さいさきのいい予言をありがとう。君のお陰で僕も多少は勇気が出る」
 スィグルは取り澄ましたにこやかな顔で、品よく感謝していた。
 それにアイアランは再び平伏した。
「我が目のたものにあかしをいただき、救われた気分です。殿下。僕も側仕えの一人にお加えください」
「ギリスの次で良ければ」
 新星はにっこりとして許す口調だった。
 ギリスはそれに目を細めた。
 なぜ新星はそう言うのだろう。
 別に、アイアランを筆頭の者として側仕えさせても、スィグルは困らないはずだ。
 射手ディノトリスと言えば、アイアランの方がむしろそれらしい。
 ギリスには予言はできない。未来視の英雄ではないからだ。
 本物の未来視ディノトリスが側にいるほうが、新星にもよりいっそうのはくがつくのではないか。
 でもスィグル・レイラスは馬鹿なのか、ゆずる気はないという笑みで、アイアランと向き合っていた。
「それでも構いません。殿下が僕に行列の先頭をお与えくださるなら」
 アイアランはうつむいて唇を噛んでいたが、新星レイラスの決めた序列に文句をつける気はないようだった。
「考えておくよ。ありがとう」
 新星は丁寧に礼を述べた。それが会話の終止符だった。
 スィグルはそれきりもう何も言わなかった。
 アイアランはギリスに目を向けたようだが、ギリスにも何も言えることはなかった。
 アイアランは三度目の叩頭をして、歩いて自分の派閥の者がいる方へ戻っていった。
 戻る時も、来る時以上に疲れ切ったような、ゆっくりとした足取りだった。
 でもちゃんと自分の足で歩いている。杖もなく。
 歩けるんじゃないかとギリスは思った。
 新星の言うとおり、アイアランもちゃんと飯を食い、体を鍛えれば、変われるのかもしれなかった。
 そにかく、ああも弱々しくては馬どころか砂牛にだって乗れないだろう。
 本物の未来視ディノトリスをどうやって行列に参加させるか、また新しい難題がギリスの脳裏に加わった。
 アイアランがのんびりと銀狐エドロワばつに戻る間にも、もう玉座の間ダロワージは誰もこちらを見てはおらず、皆、一見すれば自分たちの食事や歓談に戻っているように見えた。
 先ほどは物々しく立ち上がっていた英雄たちも、もう座して、厳しい目でこちらをじっと見るに留めている。
 玉座がある高段の者たちも、既にもうスィグル・レイラスを無視しているようだった。
 皆が注目して良いような事ではなかったのだろう。第十六王子にそこまでの注視を向けるべきではない。
 もしも皆が刮目かつもくして見れば、スィグル・レイラスがそれほどまでに重要だということだ。
 誰もがそれを認めたくはない。まだ今は。
 それでも誰も聞いていないとは限らないのが王宮というものだ。誰かは聞いている。
 この程度でまずは十分だ。
 今宵こよいは少々やりすぎた感もあったが、それはエレンディラが悪いのだとギリスは思った。
 終わった後で見れば、一夜に起こすこんな騒ぎは、アイアランだけでも十分だったと思うのに、よもや長老会までぞろぞろと出張ってくるとは。
 重鎮デンたちは新星レイラスを後押しすると決めたのかもしれないが、ちょっとやり過ぎではないのか。
 残り少ない命を生きている者たちはあせるのだ。
 アイアランもそうだろうし、エレンディラもそうなのかもしれなかった。
 しかし新星はまだ年若い少年の王族で、支度したくが整っていない。
 少々、しすぎではないかとギリスは困っていた。英雄たちは皆まるで、美味い餌に群がるありはとのようだ。
 誰も彼もに気軽につつき回されて、新星が傷つかないようにしないといけない。
 昨夜には、帰還式の行列に人を集めるのも無理だと、ギリスは内心ではどこか諦めていたが、自分は新星の持つ運をめていたと反省した。
 天使が選んだものを、自分も信じるしかない。
「スィグル、なんでアイアランに俺の次だって言った?」
 アイアランが去り、ずっと黙っていたスィグルに、ギリスは話しかけた。
「なんでって、単にお前の次だからだ。僕のところに最初に現れたのはお前だろ。まあ天使の次にだけどさ」
 即位の予言を知らせた順番のことを、新星レイラスは言っているらしかった。
 ギリスは目を瞬いて考えた。確かに言われてみればそうだ。天使ブラン・アムリネスがスィグルにいつ命じたのか詳しくは聞いていないが、トルレッキオでなのだろう。
 その次がギリスだったとは。確かにそうだった。でも偶然そうなっただけだ。
「たまたまだぜ?」
 ギリスは新星の確信の意味が分からず、事実を教えてやった。
 新星は頷いて聞いたが、でもギリスに反論してきた。
「たまたまでも、未来視も使わず天使でもない奴が、二番目に来れば早いほうだろ。未来が見えなくてもお前の方が早かった」
「そうだな」
 新星の理屈が面白くて、ギリスは宴席のだらけ始めた玉座の間ダロワージを眺め、微笑んで隣にいる殿下に答えた。
「別に理由はないよ。さっきの奴よりお前の方が好きなだけだ。側仕えってずっと毎日、僕の側にいるんだろ? 毎日顔を突き合わせる相手としては、お前の方がまだマシだ」
 新星は諦めたようにため息をついて、少々嫌そうに言っていた。
 ギリスは驚き、思わず顔をしかめた。
「それってめてるのか?」
 ギリスは分からず新星に尋ねた。
 スィグルはこくこくと頷いていた。
「そうだよ。一応はね」
「一応か」
 気のない返事にギリスはがっかりしたが、こちらが感涙にむせび三跪九拝さんききゅうはいして忠誠を誓わないのだから、この殿下も英雄譚ダージのように、いきなり英雄を抱きしめてあつい温情をかけるような事はしないのだろう。
 あれは絵空事なのだ。事実はもっとつまらない、淡々と見過ごすような出来事で作られている。
「お前はどう? 僕に仕える気は変わらなさそうか?」
 ちらっと横目で見てきて、新星は確かめた。
 ギリスも毎日、お前が新星かとスィグル・レイラスに問う気でいたが、実は向こうもそうだったらしい。
 その妙な気の合いように、ギリスは驚いて笑った。
「今のところは。殿下に忠誠を」
 ギリスは座したまま、軽く頭を下げて殿下にそれを誓った。
「そりゃよかった。明日もよろしくね」
 にっこりとして、殿下は気のないふうに、横にいるギリスにも右手を差し出してきた。
 握手しろという意味だろう。
 ギリスはしばし迷ったが、迷ってからやっと、新星の右手を取った。
 冷たい手だった。
 新星が凍えているようには見えない。おそらく自分が燃えているのだろうと、ギリスには思えた。
 今宵はどうも、英雄たちの席では、誰も彼もが熱くなりすぎだった。
 それでも王族たちは皆、品よく取り澄まして物静かだった。
「そろそろ帰るよ、ギリス。もうすぐ退出の刻限だ」
 新星レイラスは握ったギリスの手をゆっくり振るように握り返しながら、玉座の間ダロワージの高段を見上げる壁面に飾られている、黄金の仕掛け時計を見て言った。
 とても古いもので、一説には太祖の頃よりタンジールの時を数えているとか。
 元々ここにあった遺跡の一部だ。
 神殿の者たちによって複製が禁じられており、部族領にはこれ一機しかない。部族に時を教える宝物だった。
 その時計の金の針が動き、時を知らせた。
 第十時。
 涼やかな鐘の音が玉座の間ダロワージの機械の中から鳴り始め、王族の席にいる王子たちが一斉に居住まいを正した。
 王子たちが族長に退出の挨拶をして出て行く時刻からだ。
 スィグルももちろんそうだった。
 呼び出しの侍従が序列第一位の殿下から呼びにくる。
 皆を待たせて最後に来たくせに、第一王子の退出は最初だ。
 その第一王子が上座にある己の席を立ち、族長の前に進み出て、深々と跪拝叩頭きはいこうとうして辞去じきょした。
 族長は息子に笑顔で頷くだけで、何も声をかけなかった。
 いちいち話していたら十六人もいる息子が帰るまでに相当の時間がかかる。
 これも本来の儀礼では族長は無視するものだが、当代の玉座の男はまめなのだ。息子たちの顔色を見たがる。一体その顔に族長が何を見ているのか、ギリスには計り知れなかったが、とにかく何かを推し量るような目で殿下たちを見てくる男だ。
 族長はスィグル・レイラスの顔も、もちろんじっと見た。
 ギリスは末席で待ちながら、それを眺めていた。
 一人で玉座の前に進み出たスィグルが、きざはしの下で叩頭した顔を上げると、族長はそれには声をかけた。
 もう他の王子たちが広間にはいなかったからだろうか。普段はないはずの事だった。
「エレンディラの茶は美味かったか、王家の金の麦よ」
 微笑んではいる顔で、族長リューズは尋ねてきた。
 その横にはまだ珍しくエレンディラがいた。他の長老会の者たちも。
 皆、にこやかに新星レイラスを高段から見下ろしていた。
 すぐ立ち去るつもりだったらしいスィグルはぎくりとして見えたが、でも落ち着いた声で答えていた。
「はい。若輩の身には勿体無もったいないものでした。それに、ご存知かと思いますが、僕には今もまだ物の味が全く分かりません。ヤンファール以来ずっとそうです」
 スィグルは誠実そうに話していた。
 エレンディラのクソ不味まずい団子を平気で食えたのは、自分が持っているその不足のせいだと説明したいらしい。
 そうなのかとギリスは驚いたが、納得もした。どうりで平気で食っていたわけだ。
「存じております、殿下」
 聞き耳を立てるギリスには、微笑んでそう答えるエレンディラの声が聞こえた。
 知ってたのかと、ギリスは内心驚いた。
 ではエレンディラはわざとやったのだ。新星を一人、この広間で目立たせるために。
 ただ食わせるだけでは手ぬるいと思ったのか、苦い薬まで団子に混ぜていた。
 スィグルもそれには動揺したらしかった。高段を見上げて話す様子は、そこに侍る者たちを見回して不安げだった。
「では、僕に分かるはずありません。あなたのお茶の味も、良かったのかどうか」
「あら。殿下は匂いはお分かりなのでしょう? 良い香りでしたわよね。特に、新星昇るは。今宵はその香りを味わっていただければ十分です。いずれは、あのお茶の旨味うまみも、きっとお分かりになりますわ」
 エレンディラはにこやかに言った。
「あいにくと、まだです」
「本当のことを言え、スィグル・レイラス。お前には玉座への野心があるのか」
 族長は、持って回った話をするエレンディラと違い、単刀直入だった。
 ギリスはそれに共感を覚えたが、なんとか耐えた。
 皆のように、この当代の星に心酔しんすいし、あがめるわけにはいかないのだ。
 ギリスは新星のための射手だった。今宵はその確信がまた深まった。
 自分は単に、長老会のエレンディラにまんまとハメられたのかもしれないが。
「いいえ。父上。野心など、そのような大それたものはありません。アンフィバロウの忠実な息子として、父上の長い治世を願っております」
 スィグルが真面目腐って悲壮に答えると、族長は困ったように皮肉に笑っていた。
 息子が嘘をついていると思っているのだろうか。
「俺が長生きしてよいか、お前の天使に聞け」
 言い捨てるように、族長リューズはきっぱりと言い、スィグルに退出して良いと白い手で示した。
「天使になど聞きません。僕は父上の息子で、この玉座の間ダロワージしもべです。部族のために尽くす義務があります。それは権利でもあるはず。僕にも席をお与えください。今日だけでなく、明日も明後日もずっとここで、父上をお支えしたいのです」
 食いつくように言うスィグルに、族長は困ったように笑い、頷いて見せた。
「分かった。帰って寝ろ、スィグル。今宵はこれまでだ」
 うるさい信奉者を追払いたいように、族長はスィグルにつれなかった。
 お前を選ぶとは、まだ言わない。
 そう簡単に言うわけがないかと、ギリスは納得し、でもがっかりした。
 だがまだ諦めない者が高段にはいたようだ。
「あら。名場面でしたのに残念ですわ。わたくしは今宵もうしばし、リューズ様のお側に」
 エレンディラがにこやかに族長に詰めよって見えた。
「今日はやけにねばるな、エレンディラ。俺ももう寝るぞ。さすがのお前も後宮まではついて来られまい」
 叩頭して退出してくるスィグルの背後で、まだ女英雄と族長は語り合っていた。まるで仲睦なかむつまじいように。
 そこからしおれて戻ってくるスィグル・レイラスの供をするために、ギリスも空席となった王族の末席で、玉座に辞去じきょを伝える叩頭礼をした。
 そこから顔を上げると、なぜか族長が答礼をした。したような気がした。


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056 雀蜂すずめばち

 ここから高段までの距離は遠く、玉座はギリスが見上げる位置にあったが、族長は軽くギリスに頭を下げていた。
 微かにうなずく程度だったが、それを不思議なものとしてギリスは見上げた。
 礼を言われた気がした。
 そんなものは気のせいかもしれないが。
 皆が勝手に、この族長の一挙一動に、あるいは一笑に己の都合の良い意味を読む。
 自分もそうかと、ギリスは恥ずかしくなった。
 だからギリスはその気の迷いを無視したが、無表情に見ていると、高段の族長が首をかしげ、とがめるようにギリスを見た。
 無視するなと言っている気がする。気のせいかと思い、ギリスは試しにうなずいて見せた。
 それに族長リューズがにっこりとした。めるような笑顔だった。
 それにうっかり胸が熱くなりそうになり、ギリスは思わず自分の礼服の胸をつかんで、持ち前の氷結術でそこを冷やそうとした。
 もちろん本当にそんなことをしたら、自分の心臓が止まる。
 ものの例えだ。
 でも本当に、うっかりすると心臓を取られるような、当代は魔物のような魅力のある男なのだ。
 浮かれる観客が、舞台上の美貌の俳優に気が狂うようなもので、逃れたければこの星を直視せぬようにしなくてはならぬ。
 ギリスはしおしおと戻ってきたスィグル・レイラスに歩みより、それを見た。
 王家の顔をしていない。
 殿下はまだ可愛げのある西の渓谷オズトゥーシュで、美しかったが魔物というほどではない。
 なにしろ覇気はきがない。それは好ましいことではなかったが、そんなものは今後備わればいいのだ。
 養父デンも、リューズ・スィノニムも子供のころからずっと、ああではなかったと言っていた。
 星がまことに輝くのは、玉座に座らせた後だ。そのまぶしく燃え上がるさまを、ギリスも見たい気がした。
「死ぬほど疲れたよ、ギリス。全部お前のせいだ」
 げっそりと疲れ果てた顔色で、スィグルは会うなり文句を垂れた。
「俺、何にもしてないけどな? お前の隣で飯食ってただけだよ」
 玉座の間ダロワージの飯は今日も美味かった。特に、王族の席の飯は格別だ。
 今後も毎夜食いたいものだ。新星の席の客座で。
 それも筆頭の席がよい。
 新星の隣だし、こいつが食い残す肉を代わりに全部食える。
 大変な役得やくとくで、それだけでもギリスは満足だった。
 その舌なめずりするような顔で新星を見ると、スィグル・レイラスは怒った声で言ってきた。
「嘘だろ。嘘をつくな。まだ何も今日の報告を聞いてない。何がどこまでお前のくわだてか、僕に全て白状しろ」
 恩知らずな殿下だ。いちいち言わないと分からないらしい。
 それなら、ひとつずつ話すしかあるまい。またもや朝までかかりそうだ。
 今夜は勘弁してもらわないと、ギリスはもう倒れて寝そうだった。
 もはやうたげ玉座の間ダロワージを去る時だ。
 ギリスは嬉しげに追従してくる髑髏馬ノルディラーンジョットどもを引き連れて、新星を新しい居室に送ることにした。
 新星を連れ戻しに来た先導の真っ赤な侍従たちには、薄紅色の袖をひらひらさせる侍女が数人、付き従っている。
 見知らぬ顔だった。
 新しい居室のためにジェレフが用意したのか、やけに背が高かったり、逆に低かったりする、凸凹な女たちだった。顔も普通だ。皆、にこりともせず行儀良く立っている。
 ギリスたちが先導の侍従の後についていくと、その凸凹な女たちも、殿しんがりについてしずしずと歩いてくる。
 それを振り返って眺め、ギリスは新星に耳打ちした。
「あんまり美人じゃなくない?」
「うるさいんだよお前は、そんなことどうでもいいんだ! ありがたいと思え、人を食うような主人に仕えようという猛者もさなんだから」
 新星は声を潜めたつもりだろうが、それでも叫ぶようにギリスを叱ったので、後ろをついてくる凸凹な女どもが、かすかにびくりとしていた。
 それでも泣き出すわけでもなく、しずしずと歩いてくるのだから、確かに猛者もさと言えた。
「食うの……これ? お前も物好きだな。晩餐の後なのに、まだ腹が減ってるのか」
「食うわけないだろ、馬鹿! 本当だと思われたらどうするんだよ。そういうことはな、休み休み言え」
 新星はガミガミ言った。休み休み言わないといけないのかと、ギリスは呆れた。次はいつ言えばいいのか。
 後を付き従うジョットたちが、何が可笑おかしいのか、咬み殺したような声でくすくすと笑っていた。
 それも六人もいると、鬱陶うっとうしい。しかしにぎやかとも言えた。
 新星のともをさせるために、ギリスが最後まで残らせたのだ。
 そんなものは形だけだが、それでも晩餐の席に侍る同い年のさかしげな英雄たちが、新星には好ましかったようなので、殿下が寂しくないほうがよいかと思った。
 にぎやかなのを好むようだった。この星は。皆に囲まれているほうが、輝いて見えた。
 いずれこの取り巻きも、顔も名前も覚えていられないほどの大勢になり、そうなれば新星はもっと輝くのだろうか。
 そうだといいと思えたが、殿下と談笑して歩くジョットたちのことも、ギリスには心配だった。
 この後、長い時が流れ、このジョットたちが派閥のデンとなる日が来ても、新星に忠誠を誓ってくれるだろうか。
 彼らはそれで幸せか、それを考えると、ギリスは気が遠くなりそうだった。
 おそらく死ぬほど眠いのだ。今の自分は、ものを考える力がもうない。
 個人房へやに戻って眠ることだけを、ギリスは望んでいた。
 重たい礼装を脱ぎ、髪を解いて寝床に倒れ込む。
 その清潔な冷たい布団の待つ光景が、ひどく魅惑的にギリスの脳裏を幾度もよぎっては消えた。
 こんなに眠りたいと思ったのは久々だ。養父デンが王都を永遠に去って以来、初めてかもしれなかった。
 侍従たちが案内するスィグル・レイラスの新しい部屋は、玉座の間ダロワージからひどく遠かった。
 この距離を毎日何度も往復するのかと思うと、気の滅入る遠さで、新星も自分もさぞ足が鍛えられるだろうと思えた。
 末席も、部屋が遠いのも今は仕方がない。いずれは部屋替えして、たとえばあの、やたら来るのが遅い第一王子の部屋を乗っ取ってやろう。きっとさぞかし良い気味だ。
 族長の美声を浴びるように聞けるきざはしのぞむ席で、新星に飯を食わせる。
 それを当座の目標にしようと、ギリスは考えていた。
 一朝一夕に叶うものではないが、それでも今宵を始めとする。
 王族のための黄金の扉がやがて現れた。
 すぐ側に、もう一枚の黄金の大扉があり、そちらがおそらくジェレフの言っていたスフィル・リルナム殿下の部屋なのだろう。
 間違えてそっちに行かないようにしなくてはと、ギリスは扉の意匠を憶えようとした。
 新星レイラスの居室へやの大扉には、でかでかとはちの紋章が描かれていた。
 それが黄金の扉にいると、あたかも金色の蜜に集まるかのように見えたが、雀蜂すずめばちだ。肉食のはちだった。
 それが新星スィグル・レイラスの紋章だからだ。
 わかりやすい扉だが、まるで蜂の巣に飛び込むみたいで、刺されそうで嫌だった。
はちだなあ、これ。ちょっと気味悪い……
 ギリスが新星に文句を言うと、スィグルにギロッとにらまれた。
「僕の紋章なんだよ。敬意を払え」
 そう言われて、ちらっと見やると、離れて並んでいる弟の殿下ほうの扉には、巨大な甲虫こうちゅうの絵が描かれている。黄金虫こがねむしだ。
「お前の弟のほう、砂牛のくそたかってくるやつの絵が描いてある」
黄金虫こがねむしだ!!」
 何も間違っていないじゃないかという話を、新星は怒声で訂正してきた。
はちのほうがマシだな」
 ギリスは満足して言った。それでもまだ新星はぷんぷん怒っていた。
 そのいかれる星を連れて、ギリスは新しい王族の部屋の扉をくぐった。
 その中には子供部屋に優る絢爛けんらんな世界がしつらえられ、主人である新星レイラスを待っていた。
 玄関の小部屋に続く、客用の広間。そこには真新しい暖炉に火が燃え、部屋は暖かかった。
 部屋の奥にある主人のための座にも、精緻せいちな刺繍をこらした円座があり、美しい絨毯が敷かれていた。
 まだ誰も住んでいないのに、帰ってきたという気のする、くつろげる部屋だった。
 ここでなら、新星も王族らしい威厳を保って、気分良く過ごせるだろう。
 たったの何時間かで、ここまで用意したのかと、ギリスはジェレフの手腕を恐ろしいほどだと思った。
 治癒術においてデンが奇跡の術者であることに疑いはないが、部屋まで作れるのか?
 何から何まで出来過ぎだ。そんなことがあるだろうかとギリスが疑っていると、部屋付きらしい凸凹の侍女たちが、居間の中ほどで立ち尽くす新星レイラスに挨拶に来た。
「尊き殿下、今宵よりお仕えする者たちでございます。何なりとお命じください」
 皆で床に平伏して、五人いる女たちの背の高い一人が新星に服従の意を示していた。
工人こうじんの親方が是非にも殿下にご挨拶したいと待っております。直々にお言葉をおかけになりますか」
 不快であれば会わずともよい、という口調で、侍女たちは聞いてきた。
 スィグルは何事かと問う目でギリスを見てきたが、ギリスも事情は知らなかった。
 肩をすくめてそれを示すと、新星は顔をしかめた。
 何もかもがギリスの差金さしがねだとでも思っているのか。
 工人たちは王宮にいても、貴人たちと直に会うことはまれな者どもだ。
 特に王族と顔を合わせることは無いに等しいだろう。
 それでもスィグルは侍女たちに、工人を連れてくるように言った。
 ギリスは賛成ではなかったが、まだ風刃術を使うジョットも留め置いていたし、工人などは魔法を使うまでもなく武術で防げるとギリスは算段した。
  玉座の間ダロワージから従えてきた髑髏馬ノルディラーンばつジョットどもを六人、戸口の脇に控えさせ、工人の男を部屋に入れてやった。
 そこならおそらく、この居室にいる魔法戦士全員の術の射程内なのだ。
 工人たちが何を企んでいようが、即座に命を奪うこともできる距離だった。
 そうとは知らず、部屋に現れた工人の男は、王宮にはべるには粗末な格好をしており、新星の前に出るにしては礼装もしていなかった。
 先ほどまでこの部屋をしつらえていたのだろうから、それについては文句も言えない。
 夕方遅くに命じ、夜に間に合わせたのだから、むしろめるところだ。
 それを新星に言うべきか、ギリスが迷ううち、工人のデンらしい者が戸口に平伏したまま、新しい主人の座にいる新星レイラスに語りかけてきた。
「殿下……お懐かしゅうございます」
 嬉しげに言う壮年の男に、ギリスはえっと思った。
 ギリスには全く知らない、英雄でもなく、軍人でも官僚でもない男だった。

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057 工人

 スィグルはその男を知っているようだった。
 戸口に現れた工人の親方デンという者を、スィグルは驚いた目で部屋の中ほどから見ていた。
トード
 驚きがうっすらと笑みに変わる途中の表情で、新星レイラスはその平伏する男を呼んだ。おそらくそれが名前ということなのか。
「はい……左様さようです、殿下。よくご記憶で」
 顔を上げて良いのか困っている様子で、工人の男は平伏したまま首を傾げ、のぞき見るようにして新星を見てきた。
 ギリスもそれを新星の脇に立ち、共に見ていた。
 すいぶん無礼ではないかと、くたびれた作業着の工人の男をにらみながら。
 しかし新星は一向に気にしない様子で、あげる声も歓声に近いものだった。
「そうか、お前、タンジールに戻っていたんだな。良かったよ無事で」
「それはもう、魔法戦士の護衛つきでございましたゆえ」
 ふふふと含み笑いして、工人の男はそれを隠したいのか、また王族の部屋の絨毯に額を擦り付けていた。
 なぜこの工人と新星レイラスが知り合いなのか?
 ギリスは内心では唖然としたまま、立ち尽くして話すスィグルと、その戸口の男とを見比べていた。
 考えても分からぬ。工人は普通、王族の前には出ないものだし、まして名など知らぬものだった。
 工人は工人だ。ギリスには、そのような下々の者に知り合いはいなかった。
 王宮でもっとも身分の低い者で、ギリスが知っているのは、派閥の遣いで行く厨房のデンぐらいのものだ。
 そこでも調理人たちは大勢いるが、一人一人の名は知らぬ。厨房長の名さえ、そういえば知らない。知る必要がなかった。
「殿下は、あのような粗末そまつ荒屋あばらやで過ごされ、よくぞご無事で」
 トードなる男が平伏したまま、もごもごと言うと、新星は笑った。
 急に声を上げて笑うので、ギリスのほうがギクリとしたくらいだ。
荒屋あばらやじゃないよ。トルレッキオではあれでも、伝統ある学寮なんだ」
 楽しげに笑う顔で、スィグルは工人に答えていた。
「お気の毒でございました。工人たちは皆、帰路では泣いておりました。尊いお血筋の殿下が、あのような古びたむねで寝起きなさるとは」
「タンジールなら、馬でももっと良い寝床で寝ている」
 新星が取り澄ました口調で言うのを聞き、工人の男はひっひっひと引きつるように笑って聞いていた。
「寝床は馬以下だったけど、大丈夫。生きてるよ。お前の仲間は息災か」
「はい。ご心配には及びません。殿下がお命じになった図面も、しかと工房にお届けいたしました」
「結構。ご苦労だった」
 満足げに言って、新星レイラスは新しい部屋の真新しい首座にある華麗な円座に、どさりと座りにいった。
 たくさんの花の刺繍がされた美しい円座と、蔓草つるくさの紋様の絨毯が敷かれ、そこに座る殿下はまるで花園にいるように見えた。
 勇ましいとは言い難い。紋章も雀蜂すずめばちからいっそ蜜蜂みつばちに変えたほうが良さそうなほどだ。
「おいでよ、トード。なんでお前が来たか話せ。ああ、それから……
 まだ唖然と立っているままのギリスを見てきて、スィグルは首座の脇にはべるようにと手招きしてきた。
 成年の王族の部屋には、その寵臣ちょうしんはべるための席がいくらでもある。
 今はまだ空っぽだが、そこにはいずれ、魔法戦士や将軍たちがはべり、新星と未来の治世を話し合うための場所になるはずだった。
 それでも今は刺繍と織物で飾られた、ただの花園だ。
 そんな女のような席に座るのは嫌だなと、ギリスはちょっと鼻白んでいた。
 なんでこんな意匠になったのか。まさかジェレフの注文かと、ギリスは不思議になった。
 美しくはあるものの、全く強そうではない。女派閥か後宮にでも迷い込んでしまったかのようだ。
 ギリスが渋々、新星の脇のに腰を下ろすと、工人の男は平身低頭したまま、静かに這うように部屋の中ほどまで進み出て、そこでまた叩頭礼をした。
 とにかく王族というものは尊く、直視してはならぬ星のようなものなのだ。
 庶民にとってはそうだった。
「殿下。いやしいこの身に直言をお許しくださいませ」
「もうしゃべってるだろう」
 這いつくばる男が許しを乞うと、スィグルはよほど可笑おかしいのか、けらけら笑った。
 その快活な様子が、先程の晩餐の席での強張こわばって青ざめた様子とあまりにも違っており、ギリスは別の王子の部屋に来たかと危ぶんだ。
 あの玉座の間ダロワージにいた物静かな王族の少年を、廊下のどこかで落としてきたのだろうか?
「はい……はい、少々、口をつつしみながら申し上げます。今宵は、このお部屋の支度したくのためにお呼びいただきまして、急ぎ整えさせました。急拵きゅうごしらえでございましたゆえ、もしも何かご不快がございましたら何なりと改装をお命じください」
「ご不快はないよ。トルレッキオの馬小屋で一年寝起きした僕だ。王宮の廊下ででも寝られる自信がある」
「おやおや、殿下。お父上様の真似ですか」
 工人の男はそう答え、思わず言ったことなのか、なぜか自分のほほを自分の平手で音高く叩いていた。
 ギリスは内心びっくりして、それを見た。
 そんなことをする者を今まで見たことがなかった。奇妙な男だ。
「これは、失礼を。トードを罰しておきましたゆえ、斬首ざんしゅはどうかお許しくださいませ」
「そんなことしないよ」
 笑って言うスィグル・レイラスは、この奇妙な男の無礼が好きらしかった。
 一体、なんなんだこいつは。
 王族の前に出られる身分でもないくせに、やけに新星と親しい。
「リューズ様ならトードの首をねますよ」
 にこにことして、工人の男は平伏を浅くし、楽しげに新星レイラスを見た。
ねないよ、僕は父上じゃない。お前は一体何個ぐらい、父上に首を預けられているんだい?」
「もはや数え切れませぬ、殿下。本来ならばこのいやしい首をねられておりますところ、寛大かんだいなるリューズ様にも何度もお目溢めこぼしいただきましたので」
「僕もそうする。話しにくいから、頭を上げて、もっと側に寄れ」
「はい……はい、恐悦至極きょうえつしごく
 そう言って、工人の男は遠慮なくギリスの向かいまで近寄ってきた。
 近い。
 ギリスはそう思い眉を寄せたが、男はやけに人の良い顔をしており、役目の中で怪我でもしたのか、細かい傷跡のある顔ではあったが、にこにこしていた。
「ギリス、この男は工人こうじんだ。僕がトルレッキオに行く時についてきた。お前の養父デンと同様、最後まで僕に随行ずいこうした者の一人だ」
「イェズラム様は厳しいお方でした」
 聞いてもいないのに、トードなる男はギリスにそう言った。
 養父デンを知っているらしい。
 それにも、ギリスは微かに動揺した。
 イェズラムから何も聞いていない。ギリスにとっては全く未知の者だった。
「イェズラム様が、こんな粗末な部屋に偉大なるアンフィバロウ家のお子を残して行くのは不敬とおっしゃったせいで、トードはトルレッキオでは寝ずに働きました」
「済まなかったよ。でもお前たちのおかげで僕の部屋は広くなったし、マシになった。今も感謝している」
 王族らしい威厳のある口調でめ、新星は工人の男にうやうやしくうなずいていたが、結局また吹き出して笑った。あははと声高い新星の笑い声が、新しい居室に軽快に響いた。
「でも山エルフの侍従長はとても怒っていたよ。きっと今でもお前を憎んでいる」
 気味が良さそうに言う新星は、工人の男をいかにも頼もしそうに見ていた。
 それに相手もにこにこしている。おごるでもなく、へりくだるでもなく、男は落ち着いて見えた。
トードは山の者など恐れませぬ、殿下。あの者どもの粗末な家を全部壊してやります」
「海エルフの殿下も怒っていた。お前が彼の部屋を壊したものだから」
 にこにこと楽しげに言うスィグルを、工人の男もにこやかに、あがめるような目で首座の上に見上げていた。
「海エルフも恐れませぬ。偉大なるアンフィバロウ家のお子であらせられる殿下は、トルレッキオでもっとも尊いお方です。聖なる天使ブラン・アムリネス猊下を別にすれば」
 両掌りょうてのひらを上げて天に見せ、遠くにいる何者かを拝む仕草をして、工人の男は信心深い様子で言った。
 もっともな話だった。
「まあそうだよね。トード。だがそうは思わない者もトルレッキオにはいたのさ」
「馬鹿の相手はできませぬ」
 にこやかにそう言うトードに、スィグルはまた、首座で仰反るほど笑っていた。
 何がそう可笑おかしいのかギリスには全く分からなかったが、新星の機嫌がよいのは分かった。よく笑う殿下だ。
 こんな奴だったかと、ギリスは我が目を信じられぬ思いで、そのやりとりをぼんやりと見ていた。
「お前が元気でよかったよ。タンジールで何をしていた」
 懐かしげな笑みで、新星はやっと静かに言った。
「工人のお役目を。このお部屋の室礼しつらいは、エル・ジェレフより工房に御用命があり、トードが志願いたしました。お気に召していただけましたでしょうか」
 にこにこと尋ねてくる男に、スィグルはちょっと困った顔をした。
「もちろんだ。トード。でもちょっとこれは可愛すぎないかな? 僕は女の子じゃないんだからさ」
 女の子でも通りそうな長いまつ毛の目で、スィグルは参ったように言っていた。
 花の刺繍に取り囲まれながら。
「エゼキエラ様のご趣味です」
 にこやかに、トードはそれを新星に伝えた。
 もはや後宮で生ける屍として飼われている女の名を聞いて、スィグルは急に凍りついて見えた。
「母上の……?」
「はい……はい、左様さようで。いつぞや、トードにお命じになりました。殿下が乱暴でいらっしゃるゆえ、優しいお子になられるように、お心安らぐ花園のような部屋にしてほしいとご所望で」
 工人の男はそう言ったが、花園のようにというにしても、あまりにも直接的に過ぎるのではとギリスには思えた。
 だが、この新星が乱暴だというのには同意できる。きっと子供の頃からそうだったのだろう。
 そうでなければ、族長妃エゼキエラがその話を、この男に命じられるはずがない。
 妃はもう口をきけぬらしいからだ。舌を敵地で抜かれている。
「そうか……
 スィグルは泣きそうなのか、首座で項垂うなだれていた。
 それでも憐れむでもなく、下座でにこにこしているトードなる男が、ギリスには異様に見えた。
 他人のことを言えた義理ではないが、こいつちょっとおかしいんじゃないかとギリスには思えた。
 只者ではない何かが、この男にはある。
「ありがとう、トード。母上のご希望なら、僕もそれで良い」
「殿下が元服なされ、王都を旅立たれる前に、トードがお作りしました。リューズ様が、お帰りになった殿下がいつでもお住まいになれるようにせよと仰せでしたので、殿下が王都にご不在の間、ずっと封印して保管し、ご成長なされた殿下にふさわしいお住まいとなるよう、少しずつ手も加えておきました」
 工人の話を聞いて頷くスィグルは、涙を堪えて見えた。
 なぜ泣かないのか、ギリスにはよく分からなかった。
 我慢しろと言った覚えはないが、さっき玉座の間ダロワージで、自分はそういう顔をしたのかもしれなかった。
 どうも新星に気を遣われているような気がして、ギリスは自分は退出するべきだったかと思った。
「帰ろうか、俺。この男は安全か?」
 ギリスは新星に尋ねた。この男がスィグルに危害を加えるようには見えない。
 しかし誰であろうと油断はできない気もして、スィグルに聞くしかなかった。
「大丈夫だ、ギリス。でもお前もいてくれ。聞いてもらいたい話がある」
 鼻をすすったような涙声で、スィグルは主人のような口調で命じてきた。
 それでもお花畑で泣いているのだから、全く威厳らしいものは無い。
 新星が優しげに見えることについて、この工人の男の才は、抜かりなく最大限に発揮されたようだった。
「この男は腕利きの工人で、名はトードリーズと言うんだ。僕はトードと呼んでる。タンジールの設計にも精通している。こう見えてすごく頭がいいんだ。工人たちのやるようなことには、全て精通している」
「風車のおもちゃも作れます」
 それが凄いことであるように、トードは控えめに自慢してきた。
 それがどんなものかは分からぬが、うらやましい気がして、ギリスはかすかに息を飲んだ。
「子供部屋の寝室にあった月と星の船も、お前が作ってくれたんだな」
「はい……お妃様のご出産のお祝いにと、リューズ様がお命じに。うっかりお子の数を間違えてしまい、また斬首となりました」
「僕らは双子だから、二人で一つでいいよ」
 スィグルは寛大に許す口調で言った。それにトードは面白そうに視線をぐるりとし、新星に言葉を返した。
「殿下が弟君からおもちゃを奪われるので、スフィル様がお可哀想です」
「スフィルにも貸してやってたよ」
 心外そうにスィグルが訂正してきた。
「今はあの船はスフィル様の寝室に移しました」
 トードがそう教えると、スィグルはムッとした顔になった。
「なんでだよ」
「殿下にはもう無用のものです。成年でいらっしゃるので」
「なんでだよ」
 心外そうにスィグルは呟いていた。あの寝室の天井にあった船のおもちゃを、案外気に入っていたらしい。
「もう一個作れ、トード
「お子様用でございます」
「首を斬るぞ」
 どこまで本気なのか、スィグルが笑いながら凄んで言った。
「いいえ。殿下にはご無理でございます。リューズ様がもうトードの首を切っておしまいになったので、もう他のどなたも、リューズ様のお許し無しには、死せるトードの命を奪うことはできませぬ。死の天使ノルティエ・デュアス猊下を別にすれば」
 にこにこして、トードなる男は恐れもせぬように答えた。
「お前は不死だな、トードリーズ」
「左様で」
 平伏して、工人トードリーズは殿下に同意した。
 それにスィグルも笑っているように見えた。怒っているようには見えない。
「お前がいるなら頼みたいことが二、三ある」
「はい、二、三なら」
「忙しいのか」
「はい、タンジールでは、工人に暇なしでございます」
「お前をどうやってここに呼べばいい?」
「いつなりと、工房に遣いを。ですが、トードは本当は殿下にお会いできる身分ではございません。今ここでこうして殿下のお側に居りますのも、本当ならおとがめがあります」
 にこやかに工人はその事実を殿下に教えた。
 王宮で王族に謁見が許される身分は決められている。
 トードは平民で、工人として王宮に出入りができても、謁見には満たない身分だった。
 そういう者たちは他にもいる。調理人や庭師や針子、出入りの商人、清掃人や牛馬の世話をする者など、実に多くの者が王宮と関わっているが、ギリスたちが直に接する者たちではない。
 高貴の者たちは民とは交わらないものだ。
「ですが殿下は、誰とでもお会いになれるご身分であらせられますよ」
 にこにことして、工人の男は言った。
 その言葉の意味がギリスには分からず、顔をしかめて考えていた。
 しかし新星はまた吹き出すように笑った。
「お前、僕に工房に来いというのか!」
トードはそのようなことは申しておりません。殿下のお考えです」
「どの工房にいるんだ、お前は」
「八二七です」
 それがどこであるか、ギリスには全く分からなかった。
 だが新星は頷いたのだ。それにギリスはさらに眉を寄せた。
 なぜ知っているんだ。
「いつでもいるのか?」
「そうとは限りませぬ。トードの居ります時にお越しになれば、居りますよ」
 妙なことを言う男だった。
 いつ居るのかもわからぬ工人に会いに、新星レイラスを何度も工房に通わせるつもりか。
 無礼だ。ギリスはそう思い、不快な顔だったかもしれない。
 それをスィグルが困った顔で見ていた。
「民に会えと言っていたのはお前だよ」
「工人に会えとは言ってない」
トードはれっきとした平民だよ?」
「太祖の御世より先祖代々のれっきとした平民でございます」
 自慢げに工人はそう言った。まるで偉いみたいだった。
 それにスィグル・レイラスは面白そうにふふふと笑った。
「お前たちの意見が聞きたいんだ、トードリーズ。お祖父様がお持ちだったタンジール拡張計画について。それに僕は王都のことを、あまりよく知らない」
「はい。左様で。それでは、これからお知りになりますか」
「そうしよう」
 新星レイラスは、はっきりとそう返事をした。
 それに工人は平伏していた。
「イェズラム様が殿下のことを新しい星と仰せでしたよ」
「お前にまでそんなことを言っていたのか。エル・イェズラムは変わった人だったよ」
「リューズ様の射手であらせられました」
 イェズラムのことも知っているかのように、工人の男は言っている。
 それに、なぜ族長のことをリューズ様と呼ぶのか、ギリスにはそれも気になった。
 民は族長のことを名で呼ばない。それは少々、不敬だからだ。族長閣下とか、玉座の君とか言うのが普通で、工人がそう呼ぶのは身分に相応ふさわしく無い。
 工人たちは王宮では卑しい者たちだと看做みなされていた。少なくとも高貴の血筋の者がつく役目ではない。
 部族では何事にも貴賎きせんの別がある。
 その階級の違いを飛び越えることができるのは、魔法戦士だけのはずだった。
 民の友であり、族長の兄弟である。それが竜の涙の持つ特権だ。
 のみ鶴嘴つるはしを得物とする者たちは、王族とは無縁だ。そのはずなのに。
「お前、まさか族長に会ったことがあるのか」
 ギリスはどうにも気になって、それを確かめたかった。

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058 花の寝床

 トードはギリスに話しかけられて、きょとんとして見えた。
 それから、少し黙りこみ、男はギリスに尋ねてきた。
いやしいこの身に直言をお許しくださいますか、エル・ギリス」
「もうとっくにしゃべってるだろ」
 ギリスは呆れて答えた。
 トードは嬉しげに笑って見えた。
「リューズ様とは弁当をけて勝負した仲で」
 にこやかに言うトードは、まことしやかだった。
 ギリスは内心、目を見張った。
 そんなことがある訳がないと思えたが、あり得ぬことが起こるのが当代の玉座だ。
「僕はトードはちょっと頭が変なんだと思っていたんだよ」
 主君のための円座でくつろいでいるスィグルが、しみじみとギリスに話しかけてきた。
「でもお前が言ってたじゃないか。ご即位前の父上には居室へやが無かったって」
「ございませんでした。兄上様がご幼少の頃に奪っておしまいに」
 トードはそれがありきたりのことのように、あっけなく言っている。
「そんなの想像もしなかったんだよ、僕は。父上がそんなご苦労をなさっていたなんて」
 スィグルはしゅんとして話していた。項垂うなだれる猫のように。
トードは父上と王宮の廊下で会ったと言うんだ。それで父上と将棋をして、負けたので弁当を取られたと」
トードめも腹が減りましたが、リューズ様はもっと飢えておいででした。それでも、いつも将棋にはお勝ちになるのはさすがです」
トードはとても将棋が強いんだよ」
 その強さを知っている様子で、スィグルは苦笑して言った。
「父上が工人と将棋をして弁当を奪った話は本当だと、お前の養父デンは言っていた。トルレッキオへの旅の途中で、エル・イェズラムが」
 スィグルはギリスを見つめて説明してきたが、それをどう受け止めたものか、ギリスには分からなかった。初めて聞く話だったからだ。しかも突飛とっぴな話だった。
 この新星がイェズラムと何を話していたのか、ギリスは全く知らなかった。
 自分の知らない養父デンの話を、スィグルが知っているのに違和感があった。
 ギリスは養父デンと旅などしたことがない。王宮での暮らししか知らないのだ。
 そのことに、えも言われぬ違和感があって、つい黙っていると、工人の男が新星の話を引き取って続きを喋った。
おそれ多いことでございましたが、殿下のお父上はトードに嘘をついておいででした。初めてお会いした頃には、玉座の間ダロワージで仮面劇を披露する一座の者だと名乗られたので、愚かな私めは信じたのです」
「あんなのが芸人や役者な訳がないだろう」
 ギリスはしみじみ呆れて言った。
 族長リューズは一目見たら忘れられないような美貌の男だ。子供の頃だってそうだっただろう。
「本当に役者の子かと思ったのです。お美しい殿下でしたし、歌もお上手でしたしね。それに宙返りや綱渡りもなさるのですよ。尊い王族の殿下がそんなことをなさるわけがないと、誰でも思います」
 しんみりと言って、床に座し身を小さくしている壮年の男は、歳は分からぬが族長より幾らかは年上なのだろう。
 王宮の廊下で出会った子供を、まさかアンフィバロウの血筋の者とは思わなかったのだ。
 あれが宙返りを?
 玉座の間ダロワージで見る優雅で威厳のある族長冠の男を思い返して、ギリスは空想に失敗した。
 そんなことするように見えない。
 するのか?
 養父デンはそんなことはギリスに教えていかなかった。
 聞いたこともない。
 もはや聞くこともできないのだった。
「僕は知らない事だらけだ。教えてくれ、ギリス。お前が知ってることを。トードリーズ、お前も頼むよ」
 新星が首座からそう頼んできた。ギリスは動揺してその目と向き合ったが、自分も知らぬことだらけだった。
 この工人の男にすら負けている。
 にこやかに座っている壮年の男の、細かい傷のある顔を見て、ギリスは戸惑った。
 その傷は何なんだ。誰なんだお前は。教えるどころか、新星に聞くより他にない。
 新星の求めに、答えようがなかった。
「教えは博士に乞うものですよ」
 諭す口調で工人が言っていた。もっともな話だったが、新星は取りすまして肩をすくめていた。
「あいにくその博士たちが僕には教えたくないと言ってる」
「おや。殿下にも意地悪なさる兄上様が?」
 首を傾げて、工人はやっと笑う以外の顔をした。困ったような、けしからんという顔だ。
「そうだね。そういう時、父上ならどうなさったのか」
 自分も困った顔で、スィグル・レイラスは悩んでいる様子だった。
 だがギリスはその問いの答えを知っていた。
 リューズ・スィノニムは博士に頭を下げた。
 そういえば、その事をまだスィグルに教えていなかった。
 そう思った矢先、工人の男がまた口を挟んできた。
「リューズ様はそういう時、意地悪なご兄弟を皆、絹布けんぷで絞め殺しておしまいになりました。博士たちも今はリューズ様の仰せになることを何でも聞くでしょう」
 にこやかに工人の男は言った。
 確かにその手もある。ギリスはびっくりして工人の男を見た。
 かすかに目を見開いて眺めるギリスに、工人の男はうふふという顔で一瞥いちべつを向けてきた。
「殿下はどうなさるのですか?」
 新星に向き直り、裁断を仰ぐ口調で工人の男が尋ねている。
 スィグルは首座でムッとして見えた。
「僕はそんなこと望んでいない。部族の伝統とはいえ、改めるべきこともあるはずだ」
 断言する口調で言うスィグルに、工人も何度も頷いていた。
「左様で。英雄エルたちは苦しまず旅立てる毒をお持ちとか」
 工人はギリスの帯にある小さな物入れを指さして、そこにあるはずの最後の小箱を示しているようだった。
「そういうことじゃないんだ。僕が言ってるのは」
 スィグルが心外そうに声を乱れさせている。それにも工人トードリーズは何度も頷いていた。
「はい……はい、左様で。お優しい殿下が、そんな事をお命じになるとは思えません」
 にこやかに言って同意し、工人はじっとギリスを見た。
 その目が、命じられるのを待っていても無駄だぞと言っている気がして、ギリスは男の目を見つめ返した。
 落ちた星々が始末されるのは、乱を起こさぬためだ。イェズラムはそう言っていた。
 部族が即座に新しい星を崇め、迷わぬように、他の星たちは消しておくのだ。
 それは速やかに行われねばならぬ。伝統だ。これだけは決して、変えることができない。
 当代の星はひとつだけ。並び立つものはいないのだと、養父デンは教えていった。
 それも廃止せよと、弱腰の新星レイラスが命じてきたら、自分はどうするのか。ギリスは考えたことがなかった。
 そんなことはありえぬ話だ。ありえない。
 工人の男もそう言っている。言ってはいないが。これもギリスの考えだと、この男は言うのだろうか。
「僕がスフィルのおもちゃを取るのは咎めるくせに、命は取れと言うのか」
 急にギリスを驚かすような厳しい声でスィグルが言った。
 びくりとしてギリスは我に返った。
 叱責するような声だったが、そう言われても工人の男は気にせずにこにこしていた。
「殿下の御為おんため
 微笑みながら、トードリーズはやんわりとした声で答えた。
 その返答に、スィグル・レイラスが首座で震えていた。
 黄金の目で工人をにらみ、かすかに震えているさまは、恐れているようではなかった。
 たぶん怒っているのだろう。ギリスはぼんやりと、その今にも怒鳴り出しそうな様子の新星を横で眺めた。
「帰れ、トードリーズ」
 抑えた怒声で、スィグルは静かに言った。我慢しているらしい。
 ギリスのことは殴ってくるくせに、工人は殴らないのだ。
 それを意外に思い、ギリスは首を傾げた。
 トードは何も言わず、深々と叩頭して、這うように部屋の戸口まで退出した。
 身分の低い者に独特の、極端にへりくだるような所作しょさだ。英雄とも、侍女とも違う。
 スィグルはその姿を見ないようにしているらしかった。
 ギリスが見守る中、トードリーズは戸口でも再び深く叩頭した。
「工房八二七です、殿下。お忘れなきよう」
 念を押すような声で、男は戸口から言ってきた。
 それにスィグルはカッとなったふうに怒鳴り返した。
「忘れるわけないだろ! さっさと帰れ!」
 まさに怒れる黒雷獣アンサスだ。
 その怒声にギリスはびくりとした。
 部屋の空気までしびれるような声だ。まさか雷撃でも使うのか。
 恐ろしいような覇気はきだ。
 それにビビらされる自分が可笑おかしく、ギリスは思わず小声を立てて笑った。
 こんなチビで女みたいな顔の奴の一声に、どんなデンに怒鳴られても平気でいた自分が驚かされるとは。
 同じ気持ちなのか、戸口にいたトードリーズも、這いつくばるように平伏したまま、壮年の身を震わせてひっひっひと引きつるように笑っていた。
「殿下はリューズ様のお子です。いずれはトードの首をお切りになるでしょう。でも今日はまだ。花の寝床でお休みなさいませ」
「なんだって?」
 去り際の工人の言葉に、スィグルは驚いたようないぶかる表情をした。
 それでもトードは何も言わず居室を出て行ってしまった。
 なんだったんだ、あいつ。最後のはどういう意味だ。
 ギリスも内心ぽかんとして、工人の出て行った戸口を見つめていたが、考えても分かる訳はない。
 ふと新星のほうに目をやると、スィグルも困った顔でこっちを見ていた。
「見たいか、その、花の寝床ってやつを」
「見ていいなら」
 ギリスは好奇心でそう言った。
 見るなと言われたら我慢する用意はあるが、ケチらないでもらいたい。見て減るものでもなし。
 もう子供部屋の寝床は見たのだし、こちらの居室のを拝見したところで、特に無礼でもないだろう。
 居間の首座がこんな感じなのだから、推して知るべしだが、ギリスの尽力によって獲得した居室なのだし、できればこの目に焼き付けておきたい。
「いいよ。ああ言われると僕も早く見たい」
 スィグルはまだ寝支度もしていない王族の衣装のまま、首座から立ち上がった。
 寝室がどこにあるのか、まだ知らないが、スィグルはさっさと奥の間があるほうへと歩いていった。
 もしや先導したほうが良かったかと、ギリスは悩みながら新星の後をついていった。
 初めて来る場所なのだし、もしや害意のあるものが潜んでいないとも限らないだろう。
 しかし新星の新しい住処は無事だった。
 今はまだ、そこまでの悲惨な境遇ではないらしい。
 派閥のジョットたちは、遠慮したのか付いてこなかった。
 王族の居室の、迎えの間に入るだけでも、元服したてのチビどもには驚きだったのだろう。ましてやその先の私室に踏み込むなど恐れ多い。不敬だというのが、常の魔法戦士たちの感覚だ。
 そこは寵臣ちょうしんの領域だ。ギリスも昨夜まではそう思っていた。そこから先へは行けないのだと。
 でももう踏み込んだからには、ただの豪華な部屋だった。廊下にも美しい絨毯が敷かれており、天井にはきらめく水晶をまとった夢か幻のような灯火が点々と吊るされていた。
 スィグルはギリスの先に立って、その通路にある扉のひとつひとつを道なりに開いて覗き、そこにあった書斎や、食事のなどの豪奢な部屋をギリスにも見せた。
 どれも美しい部屋だった。物語の絵巻物の中に出てくるような。
 ギリスがこの世に実在するとは思っていなかったような光景が、扉の向こうで新星レイラスを待っていた。
 居室の最奥には、広々とした立派な浴室もあった。
 華麗な陶板装飾が壁面を飾り、それが丸天井まで続いていた。
 あたかも本物の庭園に来たような、濃密な植物が繁茂する様が陶板に描かれている。
 まばゆいような風呂だ。少々なら泳げそうな浴槽もある。
 さすがは王族の部屋の風呂だと、ギリスは感心した。
 まだ軍功のない年頃の英雄たちが押し込まれている区画の、馬の水飲み場みたいな地味な浴室とは違う。
 身分差というものを意識せずにはいられない光景だ。
 スィグルはギリスの隣で呆気にとられたように喜んで部屋を見ていたが、真っ赤な王族の衣装を着ていたし、重たいような金銀のかんざしを結われた黒髪にしていた。
 それも王族にだけ許された髪型で、到底自分では結うことができず、もちろん解くこともできないだろう。
 衣服の着脱から身支度まで全てを女官たちがやる。
 こいつはそういう境遇に生まれてきたのだ。
 自分とは違う。
 そう思うと、すぐ横で扉の中を覗き込んでいるチビのスィグル・レイラスが、やけに遠く思えた。
「次が寝室だろうな」
 スィグルは確信めいてそう言い、来いというように楽しげに通路の奥に進んでいった。
 赤い長衣ジュラバすそを引いて。
 その白い手が自ら押し開いた扉の奥には、まだ灯火がなく、闇が待っていた。
 暗視に切り替わる視界の中で、亡霊のような薄絹が漂うのが見え、ギリスは闇に目をらした。
 ギリスにそれが何か分かる前に、スィグルが笑い出した。
 暗視への切り替えには人それぞれの時間を食う。新星は闇に目が効く方らしい。
 ギリスにも、だんだんと部屋の中が見えるようになった。
 薄絹で作られているらしい、巨大な花の装飾が、寝室の天井を埋めていた。
 壁面にも、まだよく見えないが大きな草花の立体的な装飾がある。
 まるで自分が小さくなって、草むらに潜んでいる虫にでもなったような気分がする部屋だ。
 その寝室の中央にある寝台は、金属で作られているようだったが、しなやかな丸みを帯び、柔らかな草を編んで作ったような意匠だった。
 人が何人も寝られるほどの大きさの、巨大な鳥の巣のようで、それでいて所々に花が咲き、美しいものだった。
 野趣と王宮の洗練が同時にそこにあるような。
 その寝床が意味するものを、ギリスも知っていた。
 草の寝床で幾千年。部族の黎明れいめい英雄譚ダージにはそうある。
 太祖アンフィバロウと、最初の英雄ディノトリスは、物語の始めに草を編んだ寝床で寝起きしている。森の奴隷であったせいだ。
 そこを出て、死の砂漠を乗り越え、タンジール遺跡に到達した太祖アンフィバロウは、そこでもまだ草の寝床で寝ていた。
 遺跡は廃墟であり、王宮はまだ存在していなかったせいだが、それについてアンフィバロウが残した言葉が英雄譚ダージうたわれている。
 この草の寝床を我が王宮のはじめとする。
 太祖が本当にそう言ったのか、確かめるすべは無いが、その言葉が本当だったのは事実だ。
 草の寝床で寝ていた星が、この部族の最初の玉座の君だったのだ。
 だったらスィグルのほうが、草に花が咲いているだけマシとも言えた。
「これがお前の王宮のはじめだな」
 ギリスは微笑んで、奇妙な寝台を唖然と見ている鈍いジョットに教えた。
 でも本当は分かっているのかもしれなかった。スィグル・レイラスは馬鹿ではない。
 ひどく聡明なジョットだ。
「それを言うのはまだ早いよ、ギリス。これは花の寝床だ、今はまだ」
 スィグルは淡い笑みのような声で、闇の中でそう答えた。
 ギリスは頷いて聞いた。
 まだ黎明前の闇の中、森の寝床で眠る時だ。
 これから決死の砂漠越えの旅を踏破して、麗しのフラタンジールへ。
 その日が来るのが楽しみだった。この新しい、まだ語られていない物語の続きへ。
「おやすみ、スィグル・レイラス」
 ギリスは新星に就寝の挨拶をした。長い王宮の一日が終わろうとしている。
「ありがとう。ギリス。お前が今日、僕のために何をしたか、結局何も聞けなかった。でも分かるよ。これも全部、お前のお陰だ」
 殊勝にそう言う新星レイラスのしたり顔が、闇の中でまだ仄暗い輪郭として見え、その小作りな顔の中でも、黄金のはずの目が、明るく燃えて見えた。
 ギリスはそれが不思議なように思え、首を傾げて眺めた。
 これが、新しい時代の顔なのだ。
 今はまだ、隣に立っているジョットだが、いずれ恐悦きょうえつして見上げる。あの玉座の間ダロワージで。
 でも今は間近に、したわしく眺めることにしよう。黎明すらまだ遠い。
「ではまた明日」
 軽く頭礼をして、ギリスは寝室にあるじを残して去った。
「お前に長命を。道はすごく遠いんだ。長生きしてくれギリス」
 追いすがるような声で、新星が命じていた。
 ギリスはそれを振り返ったが、なんと答えてよいやら、恐るべき難問だった。
 ゆるくはない男だなと、ギリスは新しい星を見て笑った。
 恐ろしく疲れたが、とても良い気分だった。


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059 祈り

 派閥のジョットどもを、それぞれの個人房に帰らせ、ギリスも新星の居室から遠い、自分の住処すみかに歩いて戻るところだった。
 新星の居室の場所は憶えたが、そこは前の子供部屋以上に、やけに遠く思えた。
 ここを毎朝毎夕通るのかと思うと、ずいぶんな距離だった。
 しかし文句を言ったところで、王宮の通路が急に縮むはずがない。
 フューメのジョットから転移術なる魔法を習って、跳んで回れたら便利だが、フューメはあの術は英雄八千人にひとりの出現だと言っていた。
 歩くしかないのだろう。
 ギリスはずっと氷結術しか使えないのだった。
 他に並ぶ者もいないほどの大魔法で、長らくギリスの誇りだったが、それも今、こうして思うと、えらく不自由な魔法に思えた。
 大魔法を振るい、戦場で敵の守護生物トゥラシェをまとめて何体も倒すのには良いが、ギリスの魔法は装填が遅く、さっさと撃てる術ではなかった。
 発動までには少々の時間と、相当の集中力を要する。
 そのためヤンファールでも、ギリスの魔法を発動させるまでの時間稼ぎとして、共に突撃した派閥のデンたちが、ギリスの護衛として周りを固めていた。
 その壁がなければ、実は撃つ間もなく守護生物トゥラシェの攻撃にあい、ギリスは死んだのかもしれなかった。
 しかも一発しか撃てない。
 総身の魔力を振り絞るほどの大魔法は、再装填にも時間がかかるせいだ。
 出力を落として良ければ素早くも撃てるが、早く撃つなら、そこらの氷結術師と大差ない。
 おそらく、ジョットのサリスファーとも良い勝負だろう。
 あの賢いジョットが王宮の廊下で見せてきた氷結術は、なかなかの早撃ちだった。
 人ひとりを片付けるのであれば、あの程度でも十分で、下手をするとサリスファーのほうが早い。
 うんざりとして、ギリスは王宮の暗い天井を仰ぎ、長い廊下を歩いた。
 生まれてこの方、この十六年というもの、自分はずっと戦場で大魔法を振るう訓練をしてきたのだ。
 見上げる高さの人を食う怪物を一撃で大量に倒せることが、自分の魔法の価値だと信じてきた。
 養父デンのような、守護生物トゥラシェ殺しの大英雄に。
 戦場で襲いくる敵の軍団を、一撃でまとめて葬るのだ。
 そればかりを願って、己の魔法を磨いてきたが、それにはもう意味がないのだ。
 新星レイラスが求めている魔法は、そういうものではない。
 あいつは守護生物トゥラシェとは戦わないと言っている。
 では何と戦うのか、ギリスには見当もつかず、自分が無能に思えた。
 あいつはもう戦わないつもりか。守護生物トゥラシェとも、他の何とも。
 魔法戦士は要らないのではないか。
 あの新星の御世みよに、自分たちは必要ないのだ。
 そう思うと、英雄たちの住処すみかに戻る足取りも重く、もうため息しか出ない。
 まだ元服したての気楽なジョットたちは、王族の殿下からの歓待にまだ浮かれており、なぜか踊るような足取りで笑いながら帰っていった。
 玉座にまつわる、何かとてつもない物語に関わっている自分達を感じて、皆、気持ちが高揚したのだろう。
 よくそんな元気が出るものだと、ギリスは呆れて、のんびりと一人で歩いて帰ることにした。
 王族に直言した程度のことで浮かれる気分は、ギリスにはもはや分からない。
 自分にも、スィグル・レイラスはそういうものだったはずだが、話した程度ではもう、何がどうとも思えなかった。
 だが、ありがとうギリスと言って、素直に感謝する目でこちらを見る新星には参った。
 あの頼るような目つき。
 おそらく、あれが曲者くせものなのだ。アンフィバロウの血筋の者たちの。
 先ほどの玉座の間ダロワージで、気高い高段の席からこちらを見て、感謝する目でうなずいた族長冠の男のことも、ギリスの胸を何度かよぎっては消えた。
 なんで俺は、ただちょっと玉座に感謝されたという程度のことで、嬉しいのか。
 その事実に、ギリスは情けなくなり、心持ちよろめきながら歩いた。
 死ぬほど眠かった。もはや正常の思考が途切れそうだ。
 おそらくはこれが、皆の言う忠誠心というものなのだろう。玉座のためなら死んでも良いという、熱い想いだ。
 そんなものとは生涯無縁と思えた自分が、今はほっとしていた。
 今日一日を務め終えて良かったと、心底から深く安堵していた。
 今夜は新星も、あのご立派な草の寝床で眠ることだろう。
 族長の嫡子ちゃくしとしてのはくが付くというものだ。
 それでよかったと、ギリスは疲れ切るまで働いた今日の一日に、心から満足していた。
 だが、明日から一体、自分はどうやって生きればいいのか。
 あの、ヤンファールに出撃する朝の、不思議な安堵感をギリスは歩きながら思い出していた。
 もう自分の一生が終わるのだという確信と、それがきっと美しい物語に変わるのだという熱い思いが、その日のギリスを満たし、自分にはついぞ恐ろしいという感情は襲ってこなかった。
 ただただ敵を撃破することだけを考えていた。全て殺す。部族の敵を。皆を守って自分は死ぬのだ。
 それが嬉しいとも、怖いとも、ギリスは何も感じていなかった。
 ただただ敵を討つ。その一心だった。
 きっと自分は馬鹿だったのだなとギリスは思った。
 それが自分の本懐と、あの時は信じていた。
 突撃する魔法戦士を歓呼で送る、熱狂した自軍の兵たちの熱い目と、生きて戻れと命じていた養父デンの言葉が胸の中で混ざり、そんな難しい事はできないと思っていた。
 養父デンと並び称されるような、名君の時代の大英雄に。
 そうであればもう、死んでも悔いはないと、自分に言い聞かせたのだったか。
 そういうエル・ギリスを、王都で勝報を待つ養父デンも、誇りに思ってくれるだろう。
 俺が死んでも、きっと気にしないだろう。
 それでいい。
 魔法戦士の運命さだめだ
 本当にそれが自分の本音だったのか、今はもう知らぬ。
 玉座の間ダロワージで食う飯も、あれ以来あまり美味くはなく、何を目指して生きているのかも、正直分かりかねていた。
 養父デンの死後は尚更なおさらだ。
 ヤンファールで死にぞこなった自分の愚かさを呪いたい日もあった。
 あの時さっさと死んでいれば、イェズラムの死も見ずに済んだ。
 自分の残りの生涯が、美しい伝説の蛇足だそくとしか思えなかった。
 しかし今、あの時ヤンファールでギリスのところに来るのを忘れたらしい死の天使を恨んでみても、昨日までのようにはもう、しっくりとは来なかった。
 なぜそう思っていたのか?
 何を理由に、自分はそこまで死に急いでいたのか。
 それが分からないほどには、もう、あの新しい星が輝いて見え、その遠い光がいつか目を焼くほどの強い光輝となって天を覆うのを、この目で見たいと思った。
 天使に長命を祈り、精々励むしかないだろう。
 ギリスは自分の帯の物入れにある、ジェレフがくれた石封じダグメルの小箱を握り、歩きながら取り出してみた。
 貝殻をして作った美しいが簡素な箱に、小さな白い丸薬がたくさん詰まっている。
 これの味をギリスは知っていた。
 恐ろしく苦く、そして不味い。
 効いているのかも分からぬ薬で、それで長く生きたという者がいるのかも、全く分からぬ。
 服用したお陰で長く生きたのか、飲まずともそのぐらいは生きたのか、誰にも分からないせいだ。
 単に魔法が鈍る薬なのかもしれなかった。
 石封じダグメルが魔法を抑制する事は確かだ。
 ギリスがこれを飲まされていたのも、魔法が強すぎるせいだっただろう。
 王宮の日々には必要ない大魔法を封じ、ほどほどの魔力ちからで良いとして、養父デンがギリスに服用を命じた。
 もちろん嫌だったが、養父デンの命令では逆らえぬ。
 ギリスはそう思って、しばらくは真面目に飲んだが、とにかくクソ不味まずい。総身そうみおののくほどの味で、しばらく舌が他の味を受け付けぬほどになるため、ギリスはすぐに服用を誤魔化ごまかすようになっていた。
 薬が減っていれば、施療院は飲んだと信じる。
 だから適当に、そこらのデンの飲む酒に入れてみたり、魔法測定の日の前に、いけすかない同輩の食う飯に砕いて混ぜておいたりもした。
 どんなに食い物が不味まずくても、小英雄は食い物を粗末にはしない。代わりの飯をもらえるわけではないせいだ。
 空腹よりは、不味まずい飯でも食いたいのが人情だろう。
 皆がギリスを悪党ヴァンギリスと呼ぶのにも理由はあったはずだが、優しい養父デンはそれが皆のやっかみだと思っていたようだ。
 バレない悪戯のたびに、ギリスは聖堂で天使に祈った。おゆるしくださいと。
 それに天使は気さくにゆるしを垂れたのだったか。
 そういえば新星が放った鷹は、本当にトルレッキオに向かったのか。
 あの鷹がもし、悪党ヴァンギリスをゆるさぬという天使の言葉を運んできたら、自分はどうなるのかと、ギリスは眠い頭で考えた。
 それは困る。今更それは。
 そうなると分かっていたら、新星を助けて粉骨砕身ふんこつさいしんしたりはしなかったものを、天使はそれもちゃんと考慮していてくれるのだろうか。
 念のため、祈ってから行くかと、ギリスは途中で道を変え、聖堂に向かった。
 最初に新星レイラスを見つけた場所だ。
 そこは夜でも昼でも変わらぬ薄暗さでギリスを迎え、光の帯で照らし出された白亜の天使像が、胸を射られた姿でくずおれかけながら静止していた。
 その足元に叩頭し、ギリスは祈った。
 どうか罪深き者におゆるしを。
 長く生きさせてください。
 欲は言いません。せめてあの新星の即位式まで、生きていたいのです。
 この手で戴冠させるその時まで。
 できれば、そこから何日か。
 何日かは分かりませんが少々おまけを付けてください。
 もしよかったらその頃また改めて日数の交渉をさせてもらいたいのです。
 図々しくてすみません。どうかおゆるしを。
 この願いを聞き届けてくださるのなら、これからの一生を、猊下げいかの定められた新星の即位のためにささげ尽くす覚悟です。
 ブラン・アムリネス猊下。
 この祈りは本当にトルレッキオにいる御身に届いているのですか?
 ギリスはふと目を上げて、聖堂にたたずむ石の天使像を仰ぎ見た。
 天使は微動だにしなかった。
 石でできているのだから当然のことだった。
 もしこれが動き出してギリスの前に舞い降り、新星を即位させよと燃える目で命じてくれたら、そんなに楽な事はない。
 自分も心置き無く粉骨砕身ふんこつさいしんしただろう。
 だが現実は、そんなに甘くはない。
 石封じダグメルのクソ不味まずい味を毎日噛み締めながら、あてもない未来に向かって進むしかないのだ。
 ギリスはまた仕舞い込んでいた薬入れを取り出して開き、丸薬を一個だけ手に取り出して、天使像にひざまずいた。
 観念かんねんして飲むしかなかった。
 長命を命じられている。スィグル・レイラスに。
 まだたくさんの丸薬が入っている貝殻の薬入れを帯の物入れに仕舞い、ギリスは渋々その薬を口に入れた。
 噛んで飲むようにと施療院に言われている。
 くそ。皆、地獄に堕ちろと、ギリスは心の中でだけ悪態をついた。
 さすがに天使像の前でそれは無いかと反省したが、罰はすぐに下された。
「おえ……
 嘔吐えずくほどの不味まずさと苦さが口の中で湧き、ギリスは我慢して薬を噛んだ。
 こんなものをこの世に生み出した者をギリスは呪いたかった。
 これを毎日食わされる自分の方が、石を持って生まれた自分の何倍も可哀想に思えた。
 なんでこんな思いをしてまで新星に仕えるのか、もう全く分からぬ。
 涙目で薬を噛み終え、水もない場所で飲んだ自分の馬鹿さに涙が出そうだった。
 それでもギリスは泣いたことがなかった。泣き方が分からぬ。
 小さな子供の頃からそうで、石のせいだと医師は言うが、情動が鈍いのだった。
 空想するしかない。怒りも悲しみも痛みも。
 そんなものとは無縁の一生を人は羨むようだが、ギリスには自分の鈍さがいつも辛かった。
 悲しみとは石封じダグメルの味と似ていると養父デンは言っていた。
 苦々しく、やり切れぬものだと。
 それを思い出し、ギリスは悲しかった。おそらくこれが悲しいという感情かと思った。
 ギリスにそれを教えてくれた養父デンはもういないのだ。ギリスの今日の功労を聞いて、褒めることもない。
「ごめんよ……イェズラム。俺もたくさん守護生物トゥラシェをやっつけて、すぐそっちに行きたかったんだけど……でも、それは嘘だった。もうしばらく生きてもいいだろうか」
 どこにともない空中に、ギリスは語りかけた。
 天使の像に言ったのかもしれないし、別の何かにかもしれなかった。自分でも分からない。
 こんなところで語りかけても、養父デンが聖堂にいるわけはない。
 それなのに、なぜここで言うのかと、ギリスは自分が不思議だった。
 養父デンは今、王宮の墓所にいて、そこはここから遠く、ギリスはもう疲れていて歩きたくなかった。
 そう思うのも嘘で、本当はただ、養父デンに正直に言う勇気がなかっただけかもしれなかった。
 失望されそうで。たぶん。怖かったのだ。
 天使ならまだ、分かってくれそうな気がした。
 新星が描いて見せてくれた天使の顔は、この聖堂の天使像ほど優しげではなかったが、でも話せば聞いてくれそうな気がした。異民族とはいえ、同い年ぐらいの少年の顔だったからだ。
 イェズラムも、もしかしたら聞いてくれたのかもしれない。
 正直に言えば、いつもそうだったように、ギリスの話を辛抱強く聞いて、分かってくれたか。
 そうだと信じる勇気が、自分にはなかっただけだ。
「楽園てどんなところ? すごく良いところか?」
 ギリスは天使に尋ねたが、天使は何も答えなかった。
「俺が養父デンのような大英雄じゃなくて……同じところへ行けなくても、許してくれるだろうか。イェズラムは……俺をまためてくれると思う?」
 天使に聞いても、知るわけがなかった。きっとそのような小さな事は、ブラン・アムリネスには関わりのない事なのだろう。
 自分でなんとかするしかなかった。
 もうギリスには、困ったら相談するようなデンはいないのだ。
 一人で生きていかないと。
 そう思うと呼吸すら重く、まだ舌に残る石封じダグメルの味は吐きそうに思えた。
 生きるのがこんなにつらいこととは、気づいていなかった。
 それでも今はもう、死にたいとさえ思えない。
 どうしたらいいのか、自分では分からないのだ。いくら考えても分からない。
 ものの試しに、ギリスはあの工人の男がやっていたように、自分の頬を平手で叩いてみた。
 すごい音がしたが、痛くはなかった。
 でも少しは目が覚めたような気はした。
 弱い自分を罰したまでだ。
 天使も、もしかしたら楽園にったというイェズラムも、どこかからギリスを見ているのかもしれなかった。
 無様な姿をさらせない。
 万が一ということも、あるではないか。
 養父デンに見られたくなかった。弱音を吐いているところなど。
 よろめく足で、ギリスは聖堂を出た。
 自分がどこに向かっているのか、もう疲れて、何も分からなかった。
 それでも自分の足が、王宮を出ていこうとしているのを感じ、ギリスは不思議だった。
 ここが自分の家で、守るべき仲間のいる場所で、そして墓だった。
 そこを出ては生きていけない。
 それなのにギリスの足は止まらず、王宮の門のあるほうへ、曲がりくねる長い通路を歩き続けた。

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060 出陣の門

 何か尖ったもので肩を小突かれて、ギリスは目を覚ました。
 棒のようなもので、それは執拗にギリスを突っつき続け、眠くてあらがっても、目を開くまで許さなかった。
「ギリス。おい。ギリス」
 怒ったような呆れたような声が、目覚めてもまだ朦朧もうろうとするギリスを呼び、ぺしぺしと棒の先で肩を軽く叩いてくる。
 それを腕で払い除け、ギリスはまた眠ろうとした。
 ひどく眠くて、砂じみた硬い寝床でも、横になって目を閉じられれば楽園のように思われた。
 ごわごわする臭い毛布がかけられており、それは砂牛の臭いだった。
 いつぞやヤンファールで嗅いだ臭いだ。兵の寝床の臭いがする。
「おい! 起きろ。こんなところで寝てるんじゃない」
 棒では飽き足らなくなったのか、声の主は平手でギリスの頬を軽く叩いてきた。
 それにうめき、ギリスは起きるしかなかった。
 ぼんやりとしていた薄暗い視界の中に、見たことのある顔がギリスを見下ろし、かがみ込んでいた。
「ジェレフ……
 ギリスは呟き、自分を覗き込んでいたデンの名を呼んだ。
 乗馬用の鞭を持っている。どうもジェレフはそれでこちらをっついていたらしい。
 朝には王都を発つと言っていたとおり、ジェレフは簡単に髪を束ねて結い上げただけの旅装だった。
 銀の縁取りのある灰色の外套がいとうをまとい、その中に無地の青い長衣ジュラバを着ている。
 ギリスが見慣れたデンの、華麗な宮廷衣装とも、出陣の時の軍装とも違う、ちょっと見る分には旅の学者か詩人のようだった。
 その簡素な髪型と、質素な長衣ジュラバは意外にもデンに似合った。
 額には側頭にかけて紫の石が隊列を組むように幾つも現れていたが、それだけがまるで華麗な髪飾りのようだ。
「ジェレフ。帰ってきたの?」
 ギリスはまだ夢を見ている気分だった。夢の中ではデンが王都を離れ、ギリスが知らないどこかを旅していた。
 その夢の中では、ジェレフは軍装していた。ヤンファールで見たような勇ましい鎧姿よろいすがただ。
 その姿と、今この目の前にいる旅姿のジェレフとが、あまりにも違う気がして、ギリスは長い時が流れたような錯覚を覚えていた。
「馬鹿。今から出発するんだよ。お前ここで何してるんだ。宿無しの餓鬼がきが死んでるのかと思ったぞ」
 デンは気まずげな顔でギリスの様子を見ていた。呆れたというような、心配するような顔だ。
 恐らくその両方なのだろう。お節介なジェレフは、いつもギリスのことを怒ったり心配したりしているからだ。
 座って身を起こし、ギリスが見回すとそこは王宮の出口の一つで、出陣の門と呼ばれる場所だった。
 王宮から都市を通らず直にタンジールの外へ出て、近隣の都市へと向かうための地下道への入り口で、しばらく地下の道を行った後に砂漠の只中ただなかへと出る道の始まる場所だ。
 ヤンファールに向けて王都を出撃する時も、この門を通った。
 歩哨ほしょうの兵士がたくさん立っていた。
 どれも緑色ヘス徽章きしょうをつけた番兵だ。
 王宮の護りの中では一番下っ端の兵だが、数は一番たくさんいる。
 タンジール王宮を外から見れば、このヘスの兵が歩哨ほしょうに立っている様子が、まず思い浮かぶ光景だろう。
 ギリスにはその有様を外から見る機会はほとんど無かった。
 出撃の日の光景だ。
 生きて再び見ることはないのだと、この出陣の門で見送る養父デンを振り返って眺めた。
「ジェレフ……行かないでよ」
 急に息が苦しいような気がして、ギリスは立って自分を見下ろしているエル・ジェレフの外套がいとうすそつかんだ。
 それは羊の毛を織って作ったものらしく、薄地だが滑らかで暖かそうだった。
 砂漠の夜は恐ろしく冷えるので、デンは暖かくして出発しなくてはならない。
 絹をまとって暮らす王宮の生活とは、外はまるで違った世界だ。
 デンは風邪ぐらいはひくかもしれない。流行病はやりやまいで死ぬ可能性もある。
 そんなものは英雄らしくない死に方だ。楽園にけるのか怪しい。
 ギリスは急にそれが案じられて、ジェレフは行かない方が良いのではないかと思った。
 出陣ならともかく、なぜ無意味に部族領をうろうろするのか。いくら族長の命令とはいえ、ひどい扱いと思えた。
「何言ってんだよ。たったの二月ふたつきだ。留守番してろ」
 呆れ顔で笑って、ジェレフは自分の右の頬を指差して見せた。
「それ。誰にやられた。あっちもこっちも傷だらけだな。まだ殴られてるのか、お前は。王宮にいるほうが怪我が多い」
 困ったように言うジェレフの話に、ギリスは首を傾げた。
 殴られた覚えはない。
 でも血の味がして、ギリスは自分の唇の端が少々切れているのに気づいた。
 血はもう固まっていたようで、傷のあるところがごわごわする。
 いつの間に殴られたんだと、ギリスは悩んだが、寝ている間に何かあったのか。
 そう考えてからやっと、ギリスは思い出した。
「あぁ……これは自分でやったんだよ」
 そういえば聖堂にいた時、自分で叩いたのだった。
 血が出るほど叩くつもりじゃなかったが、手加減が分からない。
「どういう事なんだ、お前……何をやったらそうなるんだ」
 不気味そうに言って、ジェレフは肩を落とし、残念そうにギリスの脇に片膝をついた。
 ギリスは何重いくえにも閉じられている出陣の門の、王宮側の最初の一枚があるところで、石畳の床に転がって寝ていた。
 寝ているつもりはなかったが、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
 実を言えば、この場所に来た記憶も、朦朧もうろうとしておりよく分からなかった。
 聖堂を出たところまでは憶えているが、半分眠り込むような意識のまま、何かに呼ばれるように歩いて、出陣の門に来た。
 そこにはもちろんヘスの衛兵たちがいただろうが、それとしゃべった記憶もない。
 持ってきたはずもない軍用の毛布を着ていた。砂牛の毛で出来ているやつだ。
 それにも門の守備隊の徽章きしょうが入っており、そこらの兵士が使うものを、誰かがギリスに着せたようだった。頼んで借りた記憶もなかったからだ。
「しょうがないな。治してやろう。まさか巡察の旅の最初の患者がお前とは、全く予想だにしなかったよ」
 ぶつぶつと文句を言う口調で、ジェレフは座るギリスの頬に触れようとした。
 それに何か抵抗があり、ギリスが身を引こうとすると、大門のほうにいた人馬の群れのほうから、誰かがジェレフを呼んだ。
「出発しますよ、エル・ジェレフ」
 琴を背負った外套がいとうの者が、馬上からジェレフを呼んでいる。
 それにデンは軽く手を上げて答えた。
「先に行け。後で追いつく」
「迷子にならないでくださいね」
 大声で、琴を背負った誰かが言った。おそらく詩人か何かだろう。
 それは面白い話だったのか、隊列を組んで群れていた一団の者たちが、笑いさざめいていた。
「一本道だ。必ず追いつくから、のんびり行け」
 ジェレフは困ったように苦笑して、出発し始める巡察の一団に手を振っていた。
 デンは居残ってでも、ギリスの怪我を治す気のようだった。
 再び頬に触れようとしてくるエル・ジェレフの手から、ギリスは身を引いて避けた。
 それに首を傾げて、ジェレフは不思議そうな顔をした。
「なんだよ。痛いわけじゃないんだろ。餓鬼みたいにビビるじゃないか?」
 ギリスが治療を怖がっているのだと思ったらしい。
 確かにそうかもしれない。
 眠気でまだ枯れている喉で、ギリスは渇いた声を出した。
「いいよ。治さなくても。生きてりゃそのうち治るって」
 治療を拒み、ギリスはそう教えたが、お節介なデンは、ギリスが腫れた顔で王宮をうろつくのが嫌いらしい。
 見つけるといつも、ギリスの目立つ怪我を、見苦しいと言って治してくれた。
 他人の小怪我こけがすら見過ごしにはできない性分のデンなのだ。
 誰かが怪我するのは日常茶飯事で、別にジェレフのせいではない。
 いちいち治していたら、治癒術を使いすぎるだろうと、ギリスは今やっと気づいた。
 前々から思ってはいたが、でも、治癒者とはそういうものかと考えていたのだ。治癒術で人を治すのが本懐だ。
 でも、ギリスはジェレフには死んでもらいたくなかった。
 たとえそれがデンの本懐でもだ。
「やめろよ、ジェレフ。意味なく魔法を使うのは。控えろ」
 命じる口調で頼むと、ジェレフはまた呆れた顔でこっちを見てきた。
「偉そうだぞ、お前。誰に向かって口をきいてる。お前の派閥のデンだぞ俺は。知ってるか?」
 もしや知らないのではという口調で、ジェレフは聞いてきた。たぶん冗談なのだろう。
 でもギリスは笑えなかった。
「これは自分でやったんだから、治さなくていいよ。これはね、自分への罰だから」
「どこかの壺を割ったか、つまみ食いでもしたのか」
 デンは絶対にそうだというさげすむ目でギリスを見下ろしていた。
 そんなことしないだろうと、ギリスは困ったが、確かに時々やっていたかもしれない。
「違うよ……。弱気になったから自分を罰したんだ」
 ギリスはそれを正直にデンに言った。
 するとジェレフはっ首を傾げ、最初はにやりとしたが、結局笑いをこらえなかった。
 あははと声を上げて、エル・ジェレフが笑っていた。相当に気味が良さそうに、デン身悶みもだえてひいひい笑っていた。
 そこまで可笑おかしいことがギリスにはないので、笑うデンうらやましかった。
 それをしょんぼりとギリスは見上げた。
「本当か、ギリス。そりゃすごい。そういう怪我は治りにくいぞ。人が自ら自分に与える傷は、ただの怪我じゃないからな。烙印らくいんだ。そういうのを治すのは、治癒術では難しい。ふさいでも傷跡が残るんだ」
 派閥のチビに怖い話をするときの口調で言って、ジェレフはギリスをさっと捕まえた。
 大部屋のチビが検診に連れ去られる時みたいだった。
 逃げられずギリスはデンに首を掴まれ、顔に冷たい手を押し当てられた。
 外気に冷えたジェレフの手はひやりとしていたが、すぐに熱いような感触がした。
 治癒術だ。おそらく。
 なんでだよとギリスは腹立たしく、こちらの頭を捕まえてくるデンの腕をじたばたして振り払った。
 その荒っぽい態度にジェレフが笑っていた。
 デンは優しげだが、体術の師匠のところでは免許皆伝で、ギリスも勝てない。
「見ろ、綺麗さっぱり治ったぞ、ギリス。大した罰じゃなかったようだ」
「くそ」
 ギリスは情けなくて悪態をついた。治癒者に敗北するとは。
デンに悪態をつくんじゃない。また殴られるぞ」
「ジェレフが殴ってきたことないだろ」
「そりゃそうだ。自分で殴って自分で治療してたら変だろ。そういうのは治癒者以外がやるものだ」
 快活に言って、ジェレフは旅装の外套がいとうすそを敷いて、ギリスと向き合って胡坐こざした。
 「それで? 何の用なんだ。まさか見送りじゃないよな?」
 腕組みして、ジェレフは面白そうに聞いてきた。
 旅の隊列はもう門を出て行ってしまい、ジェレフの馬だけが残されて待っていた。
 門を閉めてよいか、ヘスの衛兵たちが気まずそうにジェレフの背を見ている。
 それでもデンは気にせず、ギリスと話していくようだった。
「なんの用で来たか分からない」
 石畳に座り、ギリスも胡坐こざして、自分の足を掴んでいた。
 晩餐の礼服のままで、地に横たわっていたらしい。
 養父デンが仕立てた薄灰色の絹地が、もう砂まみれだった。
 大事に着ろと侍女のキーラに言われたばかりだったのに、礼服のまま地面に寝るとは、言い訳ができない。
「思い出せ、ギリス。まあ少々の時間はある。馬で飛ばせば、巡察には追いつく。お前と話してから行くよ」
 焦る様子もなく、デンはのんびりと言っていた。
 ジェレフは気の長いほうだ。すぐ怒鳴ったり殴ったりしてくるデンたちとは違う。
「アイアランに会った。晩餐に来たんだ。あいつ、本物の未来視か?」
 ギリスはデンが会うなと言っていた者に会った話を、一応は遠慮して言った。
 それでもジェレフは不機嫌になった。
 呆れたというか、言うことを聞かないジョットに失望したデンの顔だ。
「ギリス……あれは、やめとけ。あいつは本物だ」
 ここだけの話という小声で、ジェレフは教えてきた。
 派閥の部屋サロンで飲んでた時には、未来視なんか嘘だと言っていたくせに、話が真逆だ。
「本物ってなんだよ」
 ギリスは驚いて聞いた。デンはため息をついていた。
「未来視には偽物が多いんだよ。魔力を証明できないだろう。嘘で適当なことを言ってても、バレないんだよ」
「そんなことある?」
 ギリスがびっくりしているのを、デンは呆れて見ていた。
「あるだろ。予言なんか俺だってできる。ギリス、お前はあと三時間で朝飯だ。今朝は鶏のかゆだぞ……
「えっそうなの? 腹減った」
 よく煮た柔らかい鶏肉がかゆの中でほろほろになっているのを想像して、ギリスの腹が鳴った。
 それをジェレフは笑って見ていた。
「俺も食ってから出発がよかった。これが巡察任務のつらさだ」
 大して困ってもいないふうに、デンは自分の目を覆い、芝居がかった嘆き方をした。
 でもジェレフの好物だし、本当につらいのかもしれなかった。
 すらりと細身なのに、このデンはめちゃくちゃ食う。治癒術は腹が減るのだという説が、派閥では囁かれている。
「というわけだ。俺も未来視で三時間後の世界を幻視した」
「嘘だろ。ジェレフは治癒術だ」
「そうだ。未来はえない。でも、もっともらしい、ずっと先の話をすれば、バレないこともあるんだ。未来視は未来の何もかもを視ているわけじゃない。十年後や百年後の予言をひとつだけして死ぬ者もいる」
「そんなの嫌だな……
 それが自分の一生だったらと思うと、ギリスは嫌だった。
 それにジェレフは苦笑していた。
「英雄にも、それぞれの役目があるさ、ギリス。お前は氷結術、俺は治癒術だ」
 そう言ってから、ジェレフは少し考え、ギリスに話すことにしたらしい。
 さとす目をして、ジェレフはギリスの目を見下ろしてきた。
銀狐エドロワのアイアランにはそれが未来視だった。子供部屋の頃から予言をいくつも的中させている。魔法としての精度は高い。ただあいつは、誰がいつ死ぬか、そういうのが得意なんだ。人の死を予言してる」
「自分で殺してんじゃないの?」
 ギリスはふとそう思って言ったが、デンは苦笑していた。
「お前は馬鹿のくせに時々鋭いよな。それだ。疑う必要がある」
 魔法戦士は子供でも、殺傷力がある魔法を持っている。
 もちろん、人を傷つけるなと厳しくしつけられるが、それを聞いているかは個人差だ。
 だから魔法戦士は子供部屋で育てられる。子供だけで。
 それなら死ぬのは子供だけで済むからだ。
「アイアランは本物だ。会ったこともない者の死も予言できる。病死でもだ」
「死ぬのが分かっても、あんまり役に立たないね」
「そうでもない。魔法は使い様だろう。でもまあ、気味のいい魔法じゃない。俺や、お前のに比べたら」
 そうだろうと言うように、ジェレフはギリスの顔を見てきた。
 確かに、ジェレフの魔法はとびきり景気の良いもので、誰からも愛される術だろう。
「俺のも人殺しの技だよ」
「そんなことない。お前の氷結術で、ヤンファールでは大勢が死なずに済んだ。二人の殿下もお救いできたんだ。魔法に誇りを持て」
 頼りがいのある声で、ジェレフが励ましてきた。
 そう言われて、ギリスは胸が熱くなった。
 外気に触れる居眠りで冷えた体が、ちょっと温まるような心地だ。
「魔法は使い方しだいだ。ギリス。かつてはこの王宮でも、治癒者がのさばってた。自分に都合のいい者だけを癒し、邪魔な者は放置したり、酷い時は毒殺してた。本当だよ」
「ジェレフはそんな奴らの仲間じゃないよ。お前は英雄だ」
 ギリスはデンが心配になって、慌てて褒めた。よもやジェレフも弱気になっているのかと。
 しかしジェレフは面白そうに、ふふふと含み笑いしてギリスを眺めてきた。

──つづく──

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