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「王宮の孤児たち」(7)

全体公開 145 81153文字
2022-03-12 06:23:13

「王宮の孤児たち」第61話〜

「王宮の孤児たち」(1)/ (2)/ (3)/ (4)/ (5)/ (6)

もくじ
2≫ 061 旅立ち
3≫ 062 森の中
4≫ 063 新星の守護者
5≫ 064 英雄と工人
6≫ 065 リルナム殿下
7≫ 066 血と砂糖菓子
8≫ 067 天牛かみきりむし
9≫ 068 蟷螂かまきり
10≫ 069 叱責
11≫ 070 布の蛇


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061 旅立ち

「そうだ。俺は英雄エルなんだ。すごいだろ? お前もそういうのになれ」
 なんだ自慢かと、ギリスはムッとした。デンを心配してやって損をした。
「アイアランは?」
 ギリスは尋ねた。
「あいつは英雄になれそうか。どう思う、ジェレフ」
「さあな。部族の最初の英雄は、未来視だったんだ。なれないわけはないだろう」
「アイアランはスィグルが族長になると言ってる。予言だ。それを見て、あいつは新星の黎明の英雄になりたいって、俺のとこに来た。晩餐の席でスィグルに忠誠を誓ってる」
 ギリスの早口な話を、ジェレフは納得したように、頷いて聞いていた。
「そうか。そりゃ良かった。殿下の死の予言じゃなくて」
 ジェレフがさらりと言う言葉に、ギリスは顔をしかめた。そういうこともあるのかと思って。
「お前も気をつけろ、ギリス。アイアランは英雄の死も予言するんだ。あいつが子供の頃、銀狐エドロワで大勢死んだ。迷い込んできたアイアランが、英雄の死を予言したんだ。今夜この部屋にいる者は、英雄譚ダージもなく、皆死ぬと」
「どうなったの」
「皆、死んだ」
 ギリスは驚き、目を見開いた。一室の全員が死ぬようなことがあるだろうか。
 でもデンが、すぐに答えを教えてくれた。
「そいつらが食った貝に毒があったんだよ。食あたりだ」
 英雄が貝を食って死ぬとは、ギリスは唖然とした。
「貝毒はヤバいんだ。お前も気をつけろ。厨房の新米が親方デンに叱られた腹いせに、貝の下処理をさぼったんだよ」
「なんでそんな毒のあるもん食うの?」
 青ざめてギリスは自分の舌までしびれてくるような気がした。
 晩餐の膳にも貝の料理があったのではないかと、思い出して吐きそうな気がした。
「美味いんだよ。銀狐エドロワの連中の好物だったんだろう。鶏だって食うと死ぬ時はあるぞ」
「嘘!?」
 ギリスは絶叫した。鶏がダメなんて、この先の一生、何を食えばいいのだ。
 髑髏馬ノルディラーンばつでは、ジェレフの他にも鶏を好むデンが多く、それも派閥の伝統なのか、宴席となると鶏の料理がたくさん運ばれてきていた。
 その美味い料理を食うせいで、ジョットたちも鶏肉が病みつきになり、何世代にもわたって数知れず鶏のご馳走を食い続けている。
 銀狐エドロワではそれが毒のある貝だったのか。酷い話だった。
「アイアランは、そう言う時、貝毒に気をつけろとは言わないんだ。言ってれば皆、助かったのかもしれないが、あいつが未来視するのは英雄たちの葬式だったようだ。アイアランにも未来の意味はわかっていなかったんだろうな。それ以来、あいつが死の天使の先触れだと思って、忌み嫌う者もいるんだ。あいつと見つめ合うと死ぬという噂だ」
 ジェレフはそれを信じているのか、いないのか、定かでない目で話していた。
 そんな馬鹿なとギリスは思った。理由はないが、アイアランがそんな奴には見えない。
「そんなの、きっと、まだチビだったせいだ。餓鬼がきのころには魔法もうまく使えないよ」
「そうだな」
 ギリスがアイアランをかばうのを、ジェレフはしんみりと見ていた。
「でもアイアランの魔法の不手際で、銀狐エドロワの英雄が八人死んで、料理人のデンと新米も斬首だ。英雄を殺した者は斬首なんだ。知ってるか?」
 ギリスは首を横に振った。
 貝を罰するんじゃないのかと、ギリスは不思議だった。
 英雄を殺したのは毒のある貝で、それを食った英雄との、言うなれば相打ちだった。
 それなのに調理場の親方や新米まで悪面レベトに首を切られるのか。
「アイアランが正しく魔法を使えたら、その全員を救えた。皆はそう考えたんだ」
 ジェレフは悔やむ口調だった。デンにはその防げたはずの死が悔しいのかもしれない。
 だがその責任をアイアランに問うのは、ギリスにはおかしいと思えた。
「あいつのせいじゃないだろ。あいつが何もしなくても、どうせ皆、死んだ」
「俺がいなくてもお前の怪我は治った。お前がいなくても、ヤンファールでは勝ったかもしれない。それと同じだ」
 ジェレフはギリスの目を見て、きっぱりとそう言った。
 納得がいかず、ギリスは渋面になった。
「そういうもんだ、ギリス。それが魔法だ。気をつけろ。お前がどう思うかは関係ない。皆がどう思うかなんだ。ヤンファールでもしお前の魔法が足りず、負けていたら、それはお前のせいだっただろう?」
「俺のせいじゃない」
「もし負けてもそう思えたか?」
 ギリスは項垂うなだれて首を横に振るしかなかった。
 自分が悪いわけでもないのに、確かに、それを空想すると気がとがめた。
 きっと敗北の無念の中で、力の及ばなかった自分の魔法を悔いただろう。
 勝てば勝利はギリスのものだった。凱旋がいせんを狂喜する軍団の歓呼で迎えられ、英雄になった。
 だが、アイアランは?
「あいつはヤンファールの勝利を予言したんじゃないよな?」
 ギリスは小声でジェレフに聞いてみた。知っているかと思って。
「何の話だ」
 ジェレフはギリスの質問の意味がわからないようだった。
 澄んだ淡い紫の目で、デンがこちらを見るのを、ギリスは困って見返した。
 ヤンファールでアイアランがたものは、誰も知らないのかもしれなかった。
「未来視って……何がえるの?」
 ギリスは答えを求めてジェレフに尋ねたが、デンも肩をすくめていた。
「知らん。俺にはえない。ありきたりの千里眼や透視術すら、できない者には分からないんだ。ダージフが何をてるのか、俺にはわからん」
 同世代の魔法戦士である透視術師の名を出して、ジェレフは知ったようなフリはしなかった。
 デンには治癒術しか分からないのだ。
 それだって、本当は分からないのかもしれない。
 ギリスにも氷結術が分からなかった。ただ、使えるだけで、それが何なのか理解しているわけではない。
「アイアランに聞く」
「やめとけ、ギリス。友人は選べ。特に殿下の友人は」
「あいつがスィグルの最初の英雄かもしれないだろ」
「殿下の射手ディノトリスはお前だ」
 ジェレフはきっぱりと教えてきた。言い聞かせるような声だった。
「でも……俺は何もできないよ、ジェレフ。未来はえないし、使えるのは氷結術だけだ。発動は遅いしさ。そこらの女英雄とかジョットにも負けそうだよ。それに馬鹿じゃん。お前もさっき言ってただろ」
「馬鹿とは言ってない。馬鹿のくせに鋭いなって言ったんだ」
 しかめっ面で、ジェレフはむすっと答えた。デンは不本意そうだった。
「立て」
 ジェレフはちょっと怒った顔をしていた。
 やはり弱音を吐くのは怒られるのかと、つい口にした話を、ギリスは後悔した。
 エル・ジェレフならいつも優しいから、見逃してくれるかと、ちょっと期待したのだ。
 まずかったかなと、ギリスは反省しながら立ち上がった。
 デンの命令は絶対だ。今からきっと殴られるのだなと、ギリスは覚悟した。
「氷結術で俺を撃ってみろ。死なない程度にしてくれよ、これから巡察なんでな」
 にやにや人の悪い笑みで、ジェレフはさあ撃てというように、ギリスに手招きして見せた。
「えっ、死ぬよ? 氷結術とか火炎術はさ、すぐ致命傷だよ?」
「知ってる」
 ジェレフはしれっと答えた。
 そりゃ知っているのだろう。ジェレフは施療院の一員なのだし、それに髑髏馬ノルディラーンばつにはやたら火炎術や氷結術のやつがいる。突撃部隊としての破壊力を確保するのが派閥の伝統なのだ。
「嫌だ、ジェレフを殺したくないよ」
 ビビってギリスは拒んだ。でもジェレフは呆れた顔をしていた。
「俺は死なない。いいから早くやれ」
 デンに命令口調で言われると、ギリスは弱かった。
 言うことを聞くようにしつけられている。
 幼い頃からの習慣は恐ろしいもので、高圧的なデンに反発する心はあっても、結局なんとなく命じられるまま行動してしまうのが魔法戦士だ。
 そういうふうに作られているのだろう。王宮の差金さしがねで。
「めちゃくちゃ小さいやつでいくから。肩のあたりを狙うから、避けて……
 一応は構えて、ギリスはジェレフの肩の、外套がいとうの留め金がある飾り結びのあたりを見つめた。
 魔力の発動には少々の時間を要する。小さな魔力なら一瞬だが、その一瞬、魔法を使う者の集中は己の内面を向く。
 デンはそれを言いたかったのだろう。魔法の発動時にはすきができると。
 言葉で言えば済むことだった。
 それなのにジェレフはギリスの左の頬をいきなり平手で叩いてきた。
 びっくりしてハッと顔を上げたギリスの膝裏を、ジェレフが長い足で簡単に蹴り払ってきた。
 ひょいっと軽く引っ掛けるだけに思えるのに、面白いほど転んだ。
「ぎゃあ」
 びっくりしたせいで、ギリスは悲鳴を上げた。石畳にケツをぶつけ、頭も少々ぶつけそうだったので、さすがにかばった。
 その頭を、なぜかデンが踏んできた。
 やんわりとだが、旅装の長靴ちょうかの底で、礼装用に結い上げたギリスの髪を、容赦なくぐいぐい踏んでくる。
「お前は死んだ。エル・ギリス。俺が今、頭を割った。短い一生だったな」
 簡単にされたらしい自分を、ギリスは踏まれながら回想した。
 速い。何をされたか、後で考えたら単純だったが、それが恐ろしく速い一瞬の出来事だった。
「治癒者の間では有名なんだ。大英雄も拳骨一発で気絶するってな」
「しないよ! イェズラムは強いんだ。素手でもお前をやっつけられるんだぞ」
 ジェレフに踏まれながら、ギリスは負け惜しみを言った。
 それにジェレフは、まだギリスをやんわりと踏みながら、あははと笑っていた。
「そうだな。デンには俺も勝てたことがない。魔法戦士じゃなくても敵わんな」
 そう言ってから、ジェレフは足をどけてくれた。
 そして、屈辱でぺしゃんこになっているギリスの手を引いて立たせ、砂まみれで着崩れた礼装の長衣ジュラバを少々、整えてくれた。
「魔法で勝つ必要ないんだ。俺なんか誰にも勝てない。治癒者だからさ」
 ギリスはじっとりと恨んだ目で、涼しい顔で語るジェレフの顔を見上げた。
「でも俺は今はこの宮廷で随一の英雄で、当代の奇跡だろ? 俺は英雄譚ダージに名を残すよ」
「だろうな、エル・ジェレフ」
 ギリスは悪態をつく気分でデンの業績を短くたたえた。
 デンは頷き、謙遜けんそんする気配もなかった。
「お前は筋がいいよ。もっと真面目に体術の訓練をしろ。他のもいろいろ、とにかく頑張れ。こっちのほうも……
 指で自分の頭をつついて見せて、ジェレフは意地悪そうな笑顔で教えた。
「別に馬鹿じゃないよ、お前は。馬鹿みたいなだけだ」
 言いながら笑って、ジェレフは気味が良さそうだった。
 そうやってデンたちはいつもギリスを馬鹿にするくせに、今さら何を言っているのか。
「賢くなれ、ギリス。お前は鋭い奴だ。もっと自分を磨け」
「畜生、さっさと死ね、ジェレフ! 簡単に言うな。俺もな……頑張ってるんだよ‼︎」
 ギリスは怒鳴った。急に自分が怒鳴って、ギリスもびっくりした。
 びっくりするギリスに、ジェレフもびっくりしたようだった。
 そしてデンは笑って、また、あっという間の一瞬でギリスの首を捕まえてきた。
「ぎゃあ」
 殴られるか殺されるかすると思い、ギリスは悲鳴を上げた。喚いても意味はないが、デンが許してくれないかと思って。
 でもジェレフは殴らなかった。
 ギリスをぎゅうっと抱き留め、頭をぐしゃぐしゃにした。礼装用のかんざしが石畳に落ちた。それも大事なものだ。養父デンが元服の祝いにくれたものだ。
「可愛いな、お前。いつもに増して気色悪いぞギリス。そのぐらいにしとけ。俺が心配で出発できなくなる」
 そう言う癖に、ぽいっとギリスを放り出して、ジェレフはもう外套を整えていた。
 帯に挿していた馬用の鞭を抜き、待たせていた馬のほうへ歩き始めていた。
「もう行くよ。巡察団に置いていかれたら困るんでな」
「族長が、何をやっていたのだ我が英雄よ、お前は馬鹿かって言うよ!」
「そうだ。リューズ様にそう言われたら俺は死ぬ」
 ギリスの負け惜しみの大声を、デンは爽やかな笑みで受け流してきた。
「族長のいぬ!」
 一矢報いたくて、ギリスは皆が陰でジェレフを悪く言うときの悪口を言ってやった。
 それを聞いて、ジェレフは驚き唖然としたが、その表情かおはすぐに爆笑に変わった。
「そりゃ褒め言葉だぜ、ギリス。俺は族長のいぬだよ。お前もそうだろ。エル・イェズラムのいぬだ」
 そう言われて、ギリスは口をぱくぱくするしかなかった。もう矢が尽きた。
 このデンを言い負かすなど無理だ。
 たぶん当代に並ぶ者のいない治癒者だし、なにしろ派閥のデンなのだ。勝てっこない。
「元気でな、ギリス。土産を買ってくるよ。今回は海辺への旅だ。毒のある貝がいいか?」
 意地悪く言って、デンはひらりと馬のくらに乗った。
 騎乗する姿もひどく絵になる男だった。
「俺が戻る時には、殿下のいぬになっていろよ」
 ジェレフはそう言って、ギリスに手を振った。
 そして馬に鞭をくれて、慌てて門を開きはじめたヘスの番兵たちの横をすり抜け、デンは出陣の門のわずかな隙間を突破し、ゆるやかな上り坂の広い地下道を駆け上っていく。
 見る間に遠くなるエル・ジェレフの騎影を、ギリスは慌てて門の隙間に駆け寄って見た。
「ジェレフ!!」
 大声で呼ぶと、もう小さくなったジェレフの影が、鞭を上げて答えた。
 それでも一顧いっこだにせず、ジェレフは行ってしまった。
 その姿が、王都を発つイェズラムの最後の姿を思わせ、ギリスは門でへたり込んだ。
 皆、出て行ってしまうのだ。王都から。旅立っていく。時には死せる英雄となって。
 ジェレフは帰ってくるのだろうか。
 帰ってくる。
 その事実に、ギリスはなぜか励まされる思いがした。
 砂じみてわだちのある出陣の門の隙間から、もう見えなくなったデンの騎影があったところを、ギリスはいつまでも見ていた。
 その地にくずおれるさまを、門を閉じに来たヘスの兵たちが、気の毒そうに眺めている。
「門を……もう閉めてもよろしいでしょうか」
 おずおずと緑色の徽章きしょうの者が聞いていた。
 一応、それが隊長のようで、指揮官を表す紋が徽章きしょうに添えられている。
「お前が……ここのデン……
 よれよれになった気分で、ギリスは見上げて尋ねた。
 誰かも知らない、そう強そうにも思えぬ男だったが、デンというだけでありがたく見えた。
「はい……左様です」
 気味悪そうにヘス隊長デンがギリスを見ていた。
「門……閉めていいよ。別に見送りとかじゃないから。用事があっただけなんだ。そうじゃなきゃ来なかったんだからな。皆にもそう言っておけ」
 ギリスが命じると、ヘス隊長デンは何とも言えぬ表情かおをした。どう思っていいか分からぬという顔だ。
 どう思っていいかギリスにも分からぬのに、通りすがりのこいつに何がわかると言うのか。
「役目ご苦労。あの毛布も……ご苦労だったな!」
 ギリスは偉そうに言って、英雄らしく出陣の門から立ち去ったつもりだった。
 しかし、よれよれの礼服の乱れ髪で、落としたかんざしを忘れかけて引っ掴みに戻り、慌てて駆け去る姿は、とても英雄らしいとは言えなかっただろう。
 詩人はそれを語らない。
 語らないでいてくれるといいなと、ギリスは祈った。

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062 森の中

 目覚めると部屋の天井があるはずの場所に巨大な花が見え、スィグルはびくりとした。
 それに怯えてから、そこが新しい自分の居室であることを思い出し、ぐったりと脱力した。
 あまりよく眠れなかった気がする。慣れない寝室だった。
 全身が痛いほどこわばっていて、この上なく質のいい絹の敷布の寝台だったというのに、野宿でもした心地だった。
 実際、新しい寝室はまるで森の中か、自分の身がひどく小さくなって、草むらの中で寝ているような趣向だった。
 巨大な草花に見える装飾が壁面を飾り、花や草の葉のようなものが天井を覆っている。
 この世界で一番贅沢な野宿だったとも言えるだろう。
 奇妙な部屋だった。
 ひどく洗練されて見え、美しいが、草をかき分けて巨大な何かが今にも自分を見下ろしてきそうだ。
 それがどことなく恐ろしくて、スィグルはいつもに増して自分がちっぽけに思えた。
 トードリーズ。どういう趣味なんだ、お前は。
 王族らしい絹の夜着で寝台に寝転がったまま、スィグルは天井を見上げ、この奇妙な部屋を作った工人のことを思い出していた。
 腕はいいはずだが、変わった奴だ。
 もしトルレッキオでも十分な時間が与えられていたら、あの学寮を壊して、こんな奇妙な部屋を作っていたのだろうか。
 それはそれで楽しいが、こんな草むらみたいな中で眠らされたら、イルスは怒っただろうか。
 でもシェル・マイオスは喜びそうだった。学寮ではいつも、部屋で眠るのがつらいと言っていたし、森を恋しがっていた。
 こんな部屋がもしトルレッキオにあったら、あいつの故郷に似ていたのかもしれなかった。
 それを思うと、スィグルは少々皮肉な笑みになった。
 考えてもしょうがなかった。もうここには居ない者のことなど。
 彼らは今は遠く、シェル・マイオスは故郷の森の中の希望都イル・エレンシオンに。
 イルスは海都サウザスにいるはずだった。
 どちらも遠い。
 そして天使ブラン・アムリネスはまだあの学院があるトルレッキオにいるはずだが、鷹は今ごろどこを飛んでいるのだろうか。
 あの天使に送った通信文の一言一句をスィグルはもちろん憶えていたが、シェラジールに持たせた手紙に猊下げいかからなんと返事が来るのかは分からなかった。
 手紙にはこう書いた。
 故郷に帰ったら、僕を即位させるという者が待っていた。信じられる?
 でもそいつが僕の弟を殺そうとするし、侍女を脅して怯えさせ、衛兵を倒してしまった。
 とても腹が立つ。
 でもこいつは僕の故郷の英雄で、魔法戦士だ。さきの魔法戦士のデンだったエル・イェズラムのジョットらしい。
 おろそかにはできない。他に味方らしい者もいないんだ。
 僕はどうすればいい。
 弟を害そうという者を絶対に許せない。
 だけど、このエル・ギリスなる英雄は、僕の命の恩人らしい。ヤンファールで僕を救ったのはこいつだ。
 部族のために死闘した英雄だ。一人でシェル・マイオスを十四回も殺せるような魔法戦士だ。
 もしその英雄譚ダージが本当なら、こいつは黒エルフ最強の魔法戦士かもしれないんだ。
 そんなものを僕は、敵に回すべきじゃない。でも腹が立つんだよ。何とかしてくれ。
 幸い弟は無事だったけど、ギリスをとても怖がっている。僕も正直、恐ろしいよ。
 それでも僕の故郷では、魔法戦士を支配することが、部族領を支配することだ。
 僕らは停戦によって、彼らに死後の楽園を約束する英雄譚ダージを奪ってしまった。
 猊下げいかは責任を取るべきだ。どうするつもりか教えて……
 その恨言うらみごとたずさえて、今頃シェラジールは飛んでいるはずだった。日に夜を継いでトルレッキオへ。
 もしもあの鷹が今も賢く忠実であれば、そのはずだった。
 鷹通信タヒル用の鷹は飲まず食わずで長く飛び続ける強靭なしゅだ。
 今頃どこまで羽ばたいていったのか。いつ頃、天使のもとに降り立つのだろう。
 広い寝台に身を起こし、スィグルは深いため息をついた。
 猊下げいかに手紙なんか書かなければよかったよ。ギリスは別に悪い奴じゃなかった。
 なぜあと一日待てなかったのか。
 そうすれば分かったはずだ。ギリスは今回も僕を助けに来たんだということが。
 どういう事情で助けてくれるのか全くの謎だが、でも実際問題として、あの英雄に救われてる。
 一度目はヤンファールで命を。今回もそうでないとは言えない。
 エル・ギリスの助けがなければ、そのうちどこかで人知れず命を落としていたかもしれず、今もその恐れは十分にあった。
 考えても仕方がないと思い、悩まないようにしていたが、考え始めるときりがないからだ。
 朝飯に毒が入っているかもしれないし、どこかから飛んできた矢に当たるのかもしれない。あるいは怒った魔法戦士にいきなり燃やされるか、凍らされるかするのかも。
 ギリスがそうしないだけ、ありがたいと思うべきなのかもしれなかった。
「お目覚めでございますか殿下」
 まだ早朝と思えたが、部屋付きの侍女が戸口から声をかけてきた。
 えっと思い、スィグルは軽く慌てた。
 知らない女達だ。昨夜から仕え始め、寝支度も無言でぎくしゃくしていた。まるで地獄の牢屋の看守みたいに愛想がない。
 子供の頃に世話をしてくれていた侍女達は皆、美しくて優しかった。
 祖父が治めていた、母の故郷でもあった地方の女たちで、母が嫁ぐときに連れてきた女官たちだったせいだ。
 皆、華やかで可愛らしい顔立ちで、姫君が産んだ族長の息子たちを大切に世話して、最後は無惨に殺されて死んだ。
 王宮の者たちは皆、その女たちが王子に食われたのだと思っているらしい。
 それは誤解だと言いたかったが、大差はないのかもしれなかった。
 自分たち兄弟と母を守ろうとして死んだのだ。
 思えばなぜそうなったのか。護衛の魔法戦士もおらず、弱い兵しか付き従っていなかったのか。
 あの時も輿こしを守る衛兵たちは緑の徽章きしょうをつけていた気がする。
 ギリスに言わせれば王宮で一番弱い兵なのだろう。王族の護衛につく階級の者たちではなかったのだ。
 その時から既に自分たちは何かの術中にいたのだろう。
 誰が首謀者だったのか、今もって分からない。
 父はそれを追求しなかったのか、したものの不問に処したかだった。
 一族の恥だ。王子同士が殺し合うなど。それを明るみに出すよりは闇に葬るほうが、部族のためと父は判断したのだろう。
 この部族の者は同士討ちを嫌う。同族殺しをする者は呪われると信じている。
 そのせいで王家は呪われているのかもしれなかった。
 代々、親が子を、兄が弟を殺してきた血筋だ。
 即位にあたり、自分もその呪いにかかるのだろう。
 異腹いふくとはいえ血を分けた兄弟たちのしかばねを踏んで、玉座につくのだ。
 それよりはまだしも道を譲って絹布で絞め殺される王子の方が清らかで、楽園の門を容易にくぐれそうだった。
 父上でさえ、兄弟殺しの罪を負っている。
 実際に伯父たちを絞め殺したのは父上ではなく、魔法戦士たちだが、その罪を彼らが背負う訳ではない。英雄譚ダージに送られて死す英雄たちには楽園が約束されているせいだ。
 王家だけが呪われているのだ。
 こんな血筋に生まれて、嬉しかったことはない。
 それでもアンフィバロウの末裔であることは自分の誇りで、逃れようがなかった。この永遠の蛇の棲家すみかから。
「お召し替えを。ご入浴なされますか。お食事をお持ちいたします」
 手際の良すぎる侍女がてきぱきと朝の用件を伝えてきて、こちらの話を全く聞いていなかった。
「朝議の前にエル・ギリスがお越しになられます。そのようにご伝言が。殿下にはご朝食を済まされ、正装なさってお待ちいただきたいとのことでございます」
 侍女はそれがさも当然かのように言ってきた。
 スィグルはまだ寝台の上で、しかめっつらになった。
「嫌だよ。魔法戦士に指図さしずされるいわれはないぞ」
 きっぱりと言ったが、それに侍女もきっぱりと答えてきた。
「ヤンファールで武功のあるお方でございますよ、エル・ギリスは。ただの英雄ではございません。殿下といえど礼節もございましょう」
 眉をひそめて言われた。
 ただの侍女に。
 アンフィバロウの血筋の子が、女官ふぜいにそんなことを言われる筋合いではないと思うが、この女の言う通りなのかもしれなかった。
 ヤンファールのいさおしはひどく胸を打つ傑作で、哀切であり力強くもある詩人の詠唱えいしょうを聞くと、スィグルも胸を打たれた。
 エル・ギリスがまだ少年でありながら我が身を捨てて玉座に仕える忠節の物語で、父リューズが突撃するギリスを見送る場面がある。
 息子を救おうと思わずとも良いと、そこで族長リューズはギリスに言うが、その父にギリスが答える。殿下は御歳おんとし十二歳、と。
 ギリスはそうとしか言わないのだが、父がそれに落涙する場面があり、詩人も涙ながらにうたっていた。
 どうもそこで聞く者は皆、泣くらしい。
 ギリスが本当にそう答えたか怪しいと、ギリス本人を知る今では思う。
 そう答え突撃したギリスが次々と守護生物トゥラシェを倒す時、うたの中ではギリスは淡々とその数を数えるだけだ。
 十四体。
 それも事実だとギリスは言っていたが、偶然にも、ヤンファールで戦った時のギリスの年齢と同じ数だった。
 王宮で育てられた年々の恩を、その年齢分の数で返したのだと詩人はうたっている。出来過ぎた話だった。
 そして最後の守護生物トゥラシェと相打って命数が尽きる時、ギリスは王都で待っている養父デンに感謝している。良い一生だったと。
 涙なしには聴けないうただ。
 どんな健気けなげな少年なのかと思う。うただけ聴く限りは。
 でも本当なのかもしれなかった。
 ギリスが最期にエル・イェズラムのことを考えていたというのは。
 本物のギリスの様子を見ている限り、彼がエル・イェズラムを崇拝すうはいしていたのは嘘ではないのだろう。
 でもあまりにもひどい話だった。
 二歳しか歳の変わらない王族の殿下を助けるために自分は死なねばならず、しかも感謝して逝けというのは、ひどい。
 聞く者も皆そう思うのだろう。
 だからジェレフが助けに現れた場面で快哉かいさいするのだ。ギリスに死んで欲しくないと皆思う。
 王族の殿下はこの際どうでもいい。
 とにかくエル・ギリスが助かるほうが大事だ。
 長年屈辱を舐めたヤンファールで、部族に奇跡の大勝利を与えた英雄なのだ。
 それを指揮した族長リューズも凄いが、その期待に見事に応えたエル・ギリスもそれに匹敵する。
 おそらくこの侍女も内心ではそう思っているのだろう。
 それに引き換え、王族の殿下はと、皆、期待はずれに思っている。
 侍女は恐ろしく冷たい目でスィグルを見ていた。
 着任初日ゆえ緊張しているのかもしれないとスィグルは思おうとした。
 そんなはずはなかった。
「まずご入浴なされませ殿下。身綺麗になさってお迎えなされたほうがよろしゅうございます」
 侍女が真顔でそう言っていた。
 汚れた猫でも見るように。
「よほど偉いのだな、エル・ギリスは」
「英雄でございますゆえ」
 当たり前のことも知らない馬鹿を見る目で言われた気がする。そう思うのは卑屈になっているせいか。
 無礼だぞお前。別に這いつくばってへりくだれなどとは求めないが、人として扱われたい。
 こっちが主人で、エル・ギリスは偉いのかもしれないが、でも家臣だ。目下なのだぞ。
 スィグルはそうは言わなかったのに、侍女がきっぱりと付け加えた。
「エル・ギリスは殿下の兄上様でございますよ」
 ディノトリスだもんな。
 スィグルは呆れて思ったが、仕方なくうなずいておいた。
 こちらの服を着せたり脱がせたりする女どもに逆らっても無駄だ。
 こいつらが居ないと、この王宮では僕は、自分で服も着られない馬鹿なのだから。
 そう思うと情けなかった。
 別に懐かしむつもりはないが、トルレッキオは気楽なところだった。
 服は自分で着られたし、靴だって自分で履けた。
 部族の衣装の着付けでは、王族は最後に儀礼用の高い靴を履くため、重い衣装を身にまとった後では、自分でかがんで靴を履くこともできない。
 聞いた話では、父は普段はその靴は履いていないらしい。履くとさっさと歩けないからだ。歩きにくい。
 族長である父がもう履いていないのに、なぜその息子たちには履く義務があるのか。旧来の大仰な衣装と靴で着飾って、人形のように座っていなくてはならない。
 ギリスにそれを言えば、おそらく、お前が戴冠したら廃止すればと言われるのだろう。そんな気がする。
 あいつに言わせれば、将来の即位はもはや既成事実のようで、自信など全く無かったはずの自分までもが、妙にその気になってくる。
 それも、あの氷の蛇が使う魔法なのだろうか。
 今朝も来る気かとうとましい気がしたが、もし来なかったらと思うと不安だった。
 どう思えば良いかも分からぬ。
 しゃくに触ったが、スィグルは風呂に行くことにした。トードリーズが作った美しい浴室には興味があったせいだ。
 せめて美しい装飾を眺め、良い気分になろう。
 その部屋をスィグルに与えたのもギリスだったのか。何から何まで守られている気がした。
 これが魔法戦士の守護かと、スィグルは気に食わなかった。その安堵感が。
 側仕えの治癒者、不戦のシェラジムによって骨抜きにされていたという祖父、暗君デールのことが、今の自分とそう変わらない気がして、気持ちの手綱がうまく取れずにいた。
 自分も暗愚なのかもしれない。聡明だったはずの祖父が、あのような暗君であったのは、シェラジムのせいだ。
 ギリスと自分がこの先そうならない保証はなかった。
 

●応援&コメント:Web拍手 / マシュマロ



063 新星の守護者

 スィグルが侍女たちに追い立てられるように早朝の風呂から上がると、もうギリスが部屋に来ていた。
 入っていいとは許していないのに、いつのまにかギリスは迎えの間に通されており、からっぽの首座の前に退屈そうに座っていた。
「来るのが早すぎるだろう」
 まだ浴後の肌着のままで、これから着付けをするところだったのに、挨拶しろと侍女に追い立てられて、ギリスに目通りさせられた。
 一体どっちが主人なのか全く分からない。
 認めたくないが、女官たちは明らかにギリスのほうを尊重していた。
「ジェレフの見送りに行ったら寝直す時間もなくてな」
 暖炉の側で髪を梳《す》かれているスィグルを眺めて、ギリスは待つ顔だった。
 昨夜見たのとは別の礼服をギリスは着ていた。
 真っ黒な服だ。それを着ているとギリスは魔法戦士らしく、どことなく恐ろしく見えた。
 昨夜の白っぽい布地のほうが似合っている気がする。軽やかに見える。
 なぜ着替えてきたのか。前の方が良かった。
 そうは思うが、本当はこちらのほうが、似合っているのかもしれなかった。
 一昨日に見た、兵を蹴り倒した時のギリスの迷いのない様子を思い出すと、昨夜の晩餐の広間で見たエル・ギリスは必要以上に爽やかに見え、あたかもヤンファールのいさおしに出てくる健気で献身的な魔法戦士みたいだった。
 それが本当の姿か分からない。どちらが本当なのか。
 用心するべき相手なのだったら、用心したくなる姿でいてもらうほうが楽だ。
「朝飯食った?」
 用心する気も起きないような暢気のんきな声で、エル・ギリスが聞いてきた。
「まだだよ。まだそんな時間じゃないだろう。皆まだ寝てるんじゃないのか」
「そんなことない。俺は起きてる」
 くつろいだふうに客用の円座に胡坐こざして、ギリスはまるで自分の部屋にいるみたいだった。
 そこまでくつろぐのは不敬ではないのか。仮にも王族の居室だ。
 射手なるものが、そこまでの権力を持っているのか、スィグルは知らなかった。
 でも、そういえば父の射手であったエル・イェズラムも、まるで父の本当の兄のように見えた。
 玉座で族長冠をかぶる父リューズの後見人デンであり、魔法戦士のデンとして、いつも父を守っていた英雄だ。皆が叩頭するときでも、イェズラムはしなくて良かった。護衛のためだ。
 皆が頭を下げている時に何事か起きたら、族長を守れないだろうという理屈だ。
 それが時には朝議の高段にいるのが、スィグルには不思議に見えた。
 まるでイェズラムが父と共に皆の叩頭を受けているようで、そんなことがあって良いのかと疑問だった。
 父上は永遠の蛇の冠を身に帯びた、唯一無二の玉座の君だ。
 そのはずだった。
「ギリス。来るのはいいけけど、時刻を決めてくれ。いつ来るのかわからないんじゃあ、僕も支度したくが間に合わない」
 身支度するのを眺められるほど親しくはないはずだった。
 部族の者たちは親しい者なら一緒に浴室ハンマームに行くが、そうでなければ決して肌を見せない。
 並んで蒸されるほどにはまだ、打ち解けていないだろう。
 ギリスたち竜の涙が、どうやって生活しているのかは知らないが、馴れ馴れしいのではないかと思えた。
「遠慮しろ」
 首座のあるほうを振り返って命じると、ギリスはもうこちらを見ておらず、物珍しげに部屋の調度品に目をやって、煙管きせるを吸っていた。
 それにムッとして、スィグルは声を荒げた。
「僕の部屋で吸うな」
 ギリスはその声にびっくりしたようで、そのギリスに煙草盆たばこぼんを持ってきていた部屋付きの侍女も、驚いたようだった。
「なんで?」
 ギリスはまたこっちを見て、きょとんとしていた。
「なんでって、お前は無痛のエル・ギリスなんだろ。それは鎮痛のための煙だ。必要ないだろう、お前には」
「そうだけど、暇だし、皆吸うもんだろ?」
 英雄たちの部屋サロンではそうなのだろう。確かに英雄たちは玉座の間ダロワージでも、誰かしらがひっきりなしに喫煙している。
 それを止めるのもこくというものだ。喫煙によって鎮痛しているのだと思えば。
 でもギリスは違うだろう。
 英雄たちに鎮痛の薬効を与えるための紫煙蝶ダッカ・モルフェスは輸入品だ。
 温暖で湿潤な地方でしか栽培できない樹木から採れるらしい。
 第四大陸では湾岸地帯でしか無理だ。だからそれを隊商をやって運ばせている。
 タンジールでの栽培も試みられているらしいが、英雄たちはなぜか外国産を好むようだ。
 理由はわからないが、おそらく薬効が強いのだろう。
 ほかにも高い鎮痛効果のある薬が部族領内に産するが、それは父の代で禁制品となった。
 薬効が強すぎ、常用するのに向かないせいだ。有り体に言って気が狂うような薬らしい。
 それでも生きていられれば良いというものではない。魔法戦士は戦えないと、生きている意味がないのだ。
 そう決めたのは父だ。族長リューズ・スィノニムが即位後にそう号令した。
 それゆえ英雄たちの苦痛を癒すために、湾岸への隊商が常に行き来し、薬剤の購入に巨費が投じられている。国庫の金が。
 だから喫煙を控えろと言うつもりはないが、魔法戦士にはそれでなくても金がかかるのだ。
 莫大な俸禄も与えられている。彼らに純王族並みの暮らしを約束するためにだ。
 戦わないのであれば、それは王家の放蕩ほうとうと言えた。
「僕は嫌いなんだよ。その煙の匂いが」
 思わず悪態をつくように言ったが、それはスィグルの本音だった。
 紫煙蝶ダッカ・モルフェスは魔法戦士たちの死の匂いだ。
 それを絶え間なく吸うようになった者は、もう長くは生きない。
 それを見るのが嫌なのだ。彼らは苦しみ、最後には自決する。英雄譚ダージにも戦場で自決する竜の涙が度々出て来る。
 それは、潔い死として讃えられる、彼らの英雄性の一部だが、たとえ詩の中ででも、スィグルは彼らが死ぬのを見るのが嫌だった。
 心が痛む。どうしていいか分からなくなるのだ。
 ヤンファールのいさおしを聞いて、激闘したギリスが守護生物トゥラシェに殺されかけた場面でも、正直ちょっと本気で気が遠くなった。
 どこまで臆病かと情けないが、自分のせいでギリスが死ぬのではないかという心配が、耐えがたかったのだ。
 実際には生きた現物に会っているのだから、ギリスがヤンファールのいさおしで死ぬわけがないのに、馬鹿馬鹿しいことだった。
 だが、ギリスはどうなのだろう。長生きすると未来視のアイアランがギリスに予言したというが、本当なのか。
これが嫌いで玉座が務まるのか。お前も慣れたほうがいい」
 やめろと言うのに、ギリスが火を消す気配はなかった。
「実は痛いのか、お前? 無痛のエル・ギリスは嘘か」
 もしそうだったら気の毒かと、スィグルはいたわるつもりで言ったのだが、ギリスはむっとしたようだった。
 ほとんど表情のない顔なので、最初は分からなかったが、ギリスにも表情はある。
 目を見ればわかる。怒っていることが。
 ギリスは侍女が持ってきていた煙草盆に、かつんと高い音を立てて煙管きせるを打ちつけ、まだ細い煙の棚引たなびいている焼けた灰を打ち落とした。
「飯は」
 腹が減っているのか、ギリスは空になった銀の長煙管を手の中でもてあそびながら尋ねてきた。
「まだだって言っただろ。でもいらないよ。空腹じゃない」
「何言ってるんだ。朝飯はちゃんと食え。そんなにひょろひょろで恥ずかしくないのか」
 透かし見る目でこちらを眺めてきて、ギリスが批判していた。
 それにはスィグルがむっとする番だった。
 失礼なやつだ。気にしていることを。
「今日は忙しいぞ。朝議の後には博士のところに行こう。史学の師父アザンがお前に教えると言ってる」
「なんで僕が行くんだよ。博士が来るものだろう」
 侍女に長衣ジュラバの下に着る襦袢じゅばんを着せかけられながら、スィグルは驚いて言った。
 ギリスはそれに胡坐こざしたまま肩をすくめていた。
「なんででもだよ。とにかく行こう」
 面倒そうにスィグルをあしらい、ギリスは恐縮したらしい侍女が持ってきた果実水らしきものを銀杯から飲んでいた。
「そういうことなら教えは受けない。僕は史学を学びたい訳じゃない。そんなのもうとっくの昔に憶えたし。学者どもに馬鹿にされるいわれはないよ」
「お前の親父に教えた師父アザンだ。リューズ・スィノニムは叩頭して教えを乞うたらしい。それをお前が部屋に呼びつけるのでは不敬だと、爺いが言ってた」
 急に教えられた道理にかなう話に、スィグルはうめいた。
 そんな話は知らないが、知らないだけなのかもしれなかった。
 当代の黎明れいめいの出来事については、その父の息子だというのに自分は知らないことだらけだ。
 隠されているから知らないのだろうが、それにしても薄情な息子と言えた。
 父リューズが即位に当たりめた辛酸しんさんをひとつも知らずに、ただありがたく玉座の父だけをあがめていたとは。
「俺も一緒に聞くから、ひとりぼっちじゃないし安心しろ」
 ギリスは子供を励ますような口調で言ってきた。
 その優しい兄のような口調に、スィグルは内心、少したじろいだ。
 侍女たちは次々に無言で服を着せて来るし、ギリスは保護者面だし、まるで子供になったみたいだ。
 このタンジールでは、王族とはそういうものかもしれなかった。手のかかるお荷物だ。
「そんなの心配してないよ」
 渋々とスィグルは悪態めいて答えた。
「チビだから寂しいのかと思った」
 ギリスはあけすけにそれを口に出して言った。
 スィグルはムッとしたが、呆気に取られもした。ギリスの口ぶりはあまりにも率直すぎる。
 それに少々、こっちを馬鹿にしているのではないか。まるで子供扱いだった。
「まだ僕に怒っているのか、お前は」
 そうなのかと疑って、スィグルは用心深く尋ねた。
 ギリスも皆と同じように、本音では怒っているのかもしれない。
 そう思ったが、ギリスは実にあっさりとしていた。
「お前に怒ってたことはないよ。俺は腹も立たないほうなんだ。お前の馬鹿舌と同じで、痛いとか苦しいとか、普通のやつが思うようなことが、ぼんやりとしか分からないんだよ。気にするな。怒ってるわけじゃない」
 あんぐりとして聞くスィグルに、ギリスは自分の額に生えている霜降りた氷のような白い色合いの石を指さして見せた。
「これのせいだよ。お前のせいじゃない」
 そう言われると、目のやり場に困った。痛ましいような気がして。
「そうか。生まれつきか」
「たぶん?」
つらいね」
 スィグルはうつむき、同情して言った。石のせいで不足を強いられるのは不自由だろうと思ったのだ。
 でもギリスはけろりとして見えた。
「別に。俺が鈍いせいでお前も助かったんだ、それに感謝してくれ」
 面倒そうに話すギリスは気を悪くしているようにしか見えなかった。帯を締めてくる侍女に息の根を止められそうになりながら、スィグルは押し黙った。
「どういう意味だよ」
「ビビると魔法は使えないんだ。訓練では強い魔法を持ってたやつが、戦場に行くとビビって魔法が発動しないこともある。俺は無いけど、そういうことは。お前にはあるだろ。一昨日だって、ビビらなきゃお前でも俺を殺せたんだろうしな」
 それが何でもないことのように、ギリスは話していた。
 ギリスが衛兵を蹴倒した時のことを言っているのだろう。
 確かにあの時、自分には殺意があったのかもしれない。念動術でギリスを倒そうとしていた。
 その、倒すというのが何を意味しているのか、自分ははっきりとは考えていなかったかもしれない。
 ギリスを殺したくはなかった。
 そもそも人を傷つけることを自分は好まない。
 そのはずだった。
 でもギリスは今じっと、そういう目で自分を見ている。
 お前は、やるとなったらやるような奴だと。
「お前を殺す気はなかった」
 謝罪のつもりで、スィグルは説明した。害意はないと。でも嘘かもしれなかった。
 ギリスは淡い笑みだった。
「だから撃てないんだよ。やる時は、殺す気で行け」
 至極あっさりとギリスは教えてきた。
 やる時って何だよ。スィグルはそう思ったが、黙っていた。
 着付けの侍女たちが何人も広間にいたせいだ。
 女の前でする話とも思えなかった。
 スィグルの母は臆病なたちで、かつては幼い息子たちがおもちゃの弓でやる戦いのごっこあそびさえ、恐ろしがっていた。大人しく息子たちが本や絵巻物を読んでいる物静かな様を好み、双子が兄弟喧嘩でお互いに暴力など振るおうものなら、青ざめて弱々しく叱ってきた。
 仲良くして頂戴ちょうだいと。この世でたった二人の兄弟ではありませぬか。
 助け合って生きよと母に涙ながらに言われ、幼い日には何度も反省させられたものだ。
 だから自分は物静かで優しい子なのだとスィグルは思っていた。
 そうでなくては母上がお困りになるだろうと。
 だが現実には違った。自分は、ギリスが言うとおり、やる時にはやるような性分だったのだ。
 元服の旅の一行が襲われた時、初めて人を殺した。
 そのことを普段は思わぬようにしている。何かの間違いだ。仕方がなかったのだと自分に言い聞かせて、心の奥深くに記憶を押し込めているが。
 あの時襲ってきたのは同族だった。敵ではない。
 初めての殺しが同士討ちとは。
 それを今まで誰にも話していない。その場に共にいた弟とさえも話したことはなかった。
スフィルは魔法が使えないせいで、あの時その場でただ母と震えているだけだったのだ。
 自分だけが抵抗し、同族殺しに手を染めた。
 しかし十二歳やそこらのひ弱な王族のチビが敵うような相手ではなく、気絶させられ、死んだと思った後に、うっかり目覚めたせいで地獄以上の場所にいた。
 何かの罪を犯し、罰を受けているのかと思った。きっとここが地獄なのだと。同族殺しの罰だ。
 それでもいさぎよく死ねなかったのは何故か。今もって内心では分からない。
 スフィルは怖いから殺してくれと言った。泣きながら。とても自ら命を断てないと。
 そんなのはこっちの台詞せりふだった。
 弟を殺したいと思ったことはない。
 どんなに酷い喧嘩をしても、その日の晩にはふざけあって一緒に寝ていた。生まれる前から一緒にいた自分の片割れだ。
 それをこの手であやめるようなら自分はそのとき本当に地獄に堕ちる気がして、どうせ殺されるのなら、その時までは生きようと思った。弟と二人、何があっても。
 それが罪だというなら、そうだろう。この王宮では自分は罪人なのだ。
 別にそこから逃げる気はない。あの場にいなかった者に、何が分かる。
 そうは思うが、当座の問題はそれだった。タンジールではどうも皆がスィグルに怒っている。部族の面汚しだと。
 何故そうなるのか。
 むすっと押し黙っていると、いかにも退屈そうにギリスが話してきた。
「お前は考えすぎだ。戦う時は考えなくていい。やるべきことをやるだけだ」
 何もかもを許すような口調で、ギリスが語りかけてきた。
 それでもスィグルは不納得だった。

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064 英雄と工人

 僕はやるべきことをやったんだ。そう思うのは都合の良い考え方だ。
 そう思えたが、ギリスは悩まないのか。敵を撃つ時、何も思わなかったのだろうか。本当に?
 魔法戦士にそれを聞くのは、愚問に思えた。彼らに命じ、戦わせているのは王族だ。
「お前はそうだろうな。戦う時以外には、ちゃんと何か考えてから行動してるのか?」
 侍女に髪を結われながら、スィグルは恨んで言った。ギリスが何か考えているように見えなかったせいだ。
 今も、泰然たいぜんとしており無心に見える。
 円座にくつろいで、のんびり座っているようでいて、全く勝てる気がしない。
 例えばこいつを今、襲うとして、何をどうしたら勝てるのか、スィグルには頭の中ですらわからなかった。
 勝てそうもない。今はまだ。
 そう思うのも自分の負けん気だと思うが、英雄譚ダージに単独で名が上がるほどの魔法戦士に、そこらの少年こどもかなうわけはなかった。
「俺は何も考えてない。やるべき事が分かってるから」
「やるべきことって?」
 スィグルは悩んで聞いた。そんなものが分かってるならさっさと教えてもらいたい。
 しかしギリスはしれっと即答してきた。
「お前を守るのが俺の仕事だ。即位するまで生かして、必ずこの手で戴冠させる。殿下。お前が俺の新しい星なんだ」
 ギリスが冷たい目でこっちを見てきて、今日はまだ殺さない家畜でも見るようだったので、スィグルは絶句した。
 しかしなぜか、自分の髪を結う二人の侍女がかんざしを挿しながら無言で嘆息し、感激したようだったので、ちょっと待てと思った。
 なぜそんな忠節の空気か。いつの間にそうなったのか。
 昨夜の晩餐に続々と魔法戦士が来て、殿下に忠誠を忠誠をと言い、付き従うと誓っていったが、まるで魔法だ。なぜそうなったのか、スィグルはまだ訳を知らなかった。
 このエル・ギリスにしても、一体何を根拠に自分を守ろうとしているのか。
「なんで守ってくれるの?」
 聞くしかないと思い、スィグルは諦めて尋ねた。
 それに本格的にだらっとし始めていたエル・ギリスが、面倒そうに見上げてきて、いかにも億劫げに答えた。
「お前が次の玉座の君だから」
「なんでそうなる」
 そこを詳しく言えと思い、スィグルはもう一度聞いてみた。
 それにギリスは顔をしかめた。どこか悲しげな、なぜ何度も言わされるのかという嫌そうな顔で。
「とにかくそうなんだよ。運命に従え、スィグル。天使もトルレッキオでお前にそう言ったんだろ。イェズラムも言ってた。俺もそう思う。エレンディラも。アイアランも未来視したんだ。お前が即位した後の玉座の間ダロワージを。そうじゃないっていう奴がいたら連れてこい。俺が凍死させる」
 ギリスは剣呑な顔でそう請け合った。たぶんちょっと怒っている。目が怒っていた。
 それならギリスに凍死させられるのは自分ではないかとスィグルには思えた。
 異論がある。自分の即位についてはいろいろ。それを自分で論破できない限り、戴冠は無理だろう。
 誰もがそれを認めないのは別にしても、今はまだ自分自身が納得できない。
 まだ何も自分は玉座に相応ふさわしいような業績は示していない。
 そうだ。業績。それだ。
 自分には一体、この部族のために何ができるのか。民を幸せにするにはどうしたらいいか、分からない。
 民に聞けと天使は言っていた。本当だ。明解な答えだ。
 どうして欲しいか民に聞けば間違いなかろう。王族と貴人しかいない玉座の間ダロワージで一人悶々と悩むよりは、さっさと聞けば良い。
 さすが猊下げいかは頭がいいよなと、スィグルは半ば呆れて思い出していた。
 まさに天空からこの世を見ている者の観点だった。
 そんなこと、地を這うしかない自分には、逆立ちしても思いつかないかもしれない。
 まさか、聞けばいいとはな。
「工房に行きたいんだ。昨日来た、ほら、トードリーズ。覚えてるだろ?」
 ギリスが付いてくるかなと思い、スィグルは尋ねた。
 朝議に列席する義務を果たした後は、王子たちは自由に過ごしても良い。
 さっさと礼装を解いて、スィグルは工房に行くつもりだった。
 ギリスも行きたいなら、付いてきてもいいと思った。
 しかしエル・ギリスはきっぱりと答えた。
「だめだ。あの男は知らない奴だ。会わせられない」
「は? 僕には知り合いだよ。一緒にトルレッキオまで旅したんだ。信用できる男だよ」
 お前以上にな、とは言わなかったが、でもそうだ。
 トルレッキオへの山道をともに踏破とうはした間柄だ。
 エル・イェズラムもそうだが、自分たちの旅の寝床を作ったり、食事を整えたりしてくれたのは、最後まで随行ずいこうしてきた彼らの方だ。
 大英雄はスィグルを守ってくれたが、宮廷人で、自分でやることといえば、火炎術で焚き火に火をつけてくれることぐらいだった。
 水を組み湯を沸かすのは下々の者たちなのだ。
 父上もそれをよくご存知だったから、陣中では一兵と鍋を囲み、故郷に母を残して戦う兵の気持ちをねぎらったのではないか。
 玉座のお優しい御心みこころに胸が熱くなる。皆、そう言っていた。侍女たちも。
 父が優しく見えて、幼い日のスィグルにも大好きなお話だった。
 だから、そのお話をスィグルが旅中のひととき、火の側で共に休む大英雄に強請ねだったら、イェズラムは言った。その後、父が腹を壊したと。
 慣れないものを食うものではない。陣中では。
 上に立つ者の健康が、全軍に影響することもある。
 腹の調子が悪い奴が何万もの兵の命運を握ってみろ。たまったものではないだろうと、イェズラムはひどく不敬な調子で言い、スィグルは黙って旅の携帯食を食べた。
 それは美味いものではなかったが、文句も言わず食っている殿下を、トードリーズ達は頼もしいと言って褒めていた。
 王族など、豪華な宮殿でご馳走ちそうを食い、絹の絨毯の上しか歩かぬような連中と、彼らは内心ではさげすんでいたのだろう。
 トードリーズはそうは言わなかったが、そう思っているのは分かった。
 トードが父上を恨んでいるのも、言わなくても分かる。
 あの将棋の話が本当ならば、父上は優しいトードリーズをだましていたのだ。
 そして即位し、それから会っていないとトードは言っていた。
 王族に会える身分ではないのだし、尊い玉座の父に会わせるのも難しい。
 イェズラムは、諦めろと言っていた。
 玉体を拝めるのは貴人以上の者だけだと。
工人には、玉座の間ダロワージに入ることさえできない。工事や修繕の時なら別だが。
 謁見はおろか、族長や王族の姿を見ることも、本当はできないのだ。
 それでもトルレッキオへの道中では、他の目がないのを良いことに、うるさい宮廷儀礼はなりを潜め、スィグルはトードリーズと普通に話していた。
 そこらにあるもので簡単にかまどこしらえたり、木片から船や馬の人形をこしらえたりする工人たちの手技てわざに感心したものだった。
 そのお陰で人質に送られる最後の道中も随分ずいぶん気がまぎれた。
 敵に引き渡される間際まぎわまで、少ない人数となった同族の者に囲まれていると心強く、王族だの英雄だのという人の区別が何なのか分からなくなった。
 エル・イェズラムも気さくであったし、いつもどことなく気難しい大英雄ではあったが、側に寄って話しかけることもはばかられるような、宮廷での威風堂々いふうどうどうの姿とは違い、もっと身近に思えた。
 工人達にも自分は、ただの部族の子供に見えたのだろう。
 王宮の殿下や、尊いアンフィバロウの末裔というよりも、靴が濡れたら干してやらねばならぬ世話の焼ける餓鬼がきだったのだ。
 それを一人で敵地に置いて去るのが正しいことかと、工人達は最後にエル・イェズラムに尋ねた。
 それに困った顔で大英雄は、自分が残るので良ければ残るのだが、あいにくこれは王族の仕事だと答えた。
 トードリーズは納得できない顔だった。族長閣下がお気の毒だと言った。
 お好きなことは何一つ自由におできにはならず、命懸けで戦い、その上、大切な我が子まで奪われるとは。
 きっと生きてお戻りくださいませと、トードリーズはスィグルに別れを告げ、工人たちも頷いていた。
 兵士ではない従者ということで随行を許された戦わない者達だ。
 工人というのは黒エルフにしかいないのか、山の者どもには意味が分からないようだった。
 大工だとイェズラムは敵に説明していた。家や家具を作る者どもだ。王子の寝床を整えるために随行する。剣士や騎士ではない。武装もしていないだろうと。
 イェズラムもよろいを着ておらず、武器も手放していた。
 最も危険な武器は彼自身だったが、イェズラムは自分は殿下の教師だと嘘をついた。
 頭布を巻き、石に潰された片目を眼帯で覆えば、生まれつき目が不自由ゆえ戦士になれなかったという話も、敵にはもっともらしく見えたのか。
 よくそんな嘘を平気でつくなとスィグルは驚いたが、イェズラムは平気なようだった。
 そこに誇りはない。そして体術と火炎術があれば、お前を守れるとスィグルに請け合った。
 炎の蛇と英雄譚ダージが詠う部族随一の魔法戦士がいれば、山の者どもの軍団などは、すぐ焼き払えるのだとイェズラムは言っていた。
 幸い、そんな必要はなく、イェズラムは学寮の壁を壊しただけで帰っていった。工人達と共に。
 その話をしてやればギリスも信用するのだろうか?
 トードリーズはお前の養父デンの知り合いで、旅の途上では同じうさぎの肉を分け合った仲だ。
 身分は違うが、ひとときの仲間だった。
 だが全然、そんなことは、ギリスの知るものではないようだった。
「俺に駄々だだこねても無駄だからな。飯食って玉座の間ダロワージで叩頭して、それから学房へ行く。話は以上だ」
 ギリスはきっぱりと言った。
 口を挟む余地がない。
まるで聞き分けのない子供をあしらうようだった。
どこからそんな口の利き方が出て来るのかと、スィグルは呆れた。
「悪いんだけど俺も朝飯まだだから、俺の分も持ってきてくれない?」
 ギリスは気心の知れた口調で、スィグルの部屋付きの侍女たちに餌を強請ねだった。
 女達はかしこまりましたと平気で言った。
 ここで食う気か。
 スィグルはびっくりしてギリスと女達を見た。
 そこまで親しいのか?
 この女官達とギリスは。そしてギリスと自分は?
 一緒に飯を食うほどか。晩餐はまだしも、朝食もか。
「僕はスフィルと食べる。お前とじゃない」
 スィグルはびっくりして言った。
「えぇ、じゃあ三人でか? あの弟は俺が嫌なんだろ? ここに来るかな?」
 スフィルを呼びつける気か、ギリスは当たり前のように言った。
「馬鹿か。遠慮しろ。僕が隣に行くんだ。新しい部屋でスフィルは怖がっているかもしれない。僕も心配で眠れなかった」
 スィグルが言うと、ギリスはきょとんとしていた。
「元服した兄弟は双子でも一緒に飯は食わない」
 そういう習慣だとギリスが教えてきた。
 言われなくても知っている。双子は成人するまで引き離さない方が良いという迷信があり、王族では昔から一腹ひとはらの子は同じ寝床で寝起きする風習だ。
 それでも元服と同時に引き離される。特に王族では、双子であっても政敵だから余計にそうなる。
 仲の悪い双子だっている。王族の兄弟にも元服を待たずに部屋分かれして、それなのに二人まとめて発疹が出る流行病はやりやまいになって寝込み、やはり双子を分けるのは不吉なのだと王宮で囁かれていた。
 顔に痘痕あばたがある。そのご面相めんそうでは玉座の器にはあらずと皆に陰で言われている。
 顔は関係なかろうとスィグルは思うが、でも確かに父は身内でも少し空恐そらおそろしいほどの美貌だ。
 生きてはいない彫像が、何かの奇跡で歩き出したように見える。
 そういうものを皆は玉座に求めているのかもしれなかった。
 くだらない風習ばかりだ。
「関係ないよ。スフィルは一人だと食事を嫌がるんだ。僕の手からだとよく食べる。他の誰かじゃだめなんだ」
「本当にそうなら、お前の弟はとっくに餓死してるはずだけどな」
 スィグルの話にギリスはあっさり答えた。
 ムッとしたが、その通りだった。トルレッキオにいる間に誰かがスフィルを食わせていたはずだ。
「一緒に行く」
 ギリスは着替え終わったスィグルを見て、円座から立った。
「来るな。来ていいとは言ってない。弟がまたおかしくなったらどうする」
「大丈夫だ。俺に任せろ。気絶させる方法ならジェレフと同じ師父アザンに習ってる」
 ギリスは自信ありげに請け合った。

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065 リルナム殿下

 付いてくるなと厳命したのに、ギリスは付いてきた。
 朝議までにはまだ間があるというのに、どうせ一緒に玉座の間ダロワージに行くのだし、朝飯のために自室に戻るのは面倒だと言って、スィグルがどんなに嫌そうな顔をしてもギリスは気にしなかった。
 感覚が人並みより鈍いというのは本当かもしれない。僕が不満そうでもギリスは全く気にも留めないのだから。
 それにムッとして、スィグルは衛兵の立っている弟の部屋の前で仕方なくギリスを止めた。
「ここで待て。命令だ、これは。弟を怖がらせたくない」
「怖がらせなきゃいいんだろ? お前があれを生かしておきたいというなら、それでもいい。だったら俺も弟の殿下と無縁ではいられない」
 ギリスは扉を守っている衛兵の徽章きしょうを見つめてスィグルに言った。
 兵の徽章はレダだ。ジェレフが手配したのかもしれない。
「また衛兵を倒すつもりじゃないだろうな」
 嫌な予感がしてスィグルは確認した。
 やりかかげて儀仗礼ぎじょうれいをとっている四人のレダの者が、じっとギリスを見ていた。
「倒せない。レダ四人は。魔法で殲滅せんめつするんでないなら」
 ギリスは淡い笑みにも見える無表情で穏やかに答えてきた。
 それも兵達は無言で見ていた。
「大丈夫だ。俺はそんなことしないよ。同族殺しは恥だ。楽園に行けなくなる」
 ギリスはまことしやかに言った。
 それを聞くとスィグルは嫌な気分だった。
 では自分は行けないのだろう。死後の楽園には。
 トルレッキオにいた天使はスィグルの罪をゆるしてくれたが、まだ自分がゆるせていない。
「味方同士で殺し合ってもしょうがない。敵を討つための魔法だ」
 そう言うギリスの冷たい灰色の目を横目に見て、信じるしかないとスィグルは思った。
 魔法戦士は部族の守護者だ。彼らは何世代も部族のための犠牲となってきた。
 自分もそれに敬意を払わねばならない。王族の殿下として。
 ギリスは黙って見ていれば、その信頼に応える英雄然として見えた。
「お前の弟にも謝るよ。ちょうどいいものがある」
 ギリスはそう言って礼服の懐を手で押さえた。そこに何か持っていたらしい。懐に?
「お菓子だよ。史学の師父アザンにやろうと思って持ってきたけど、お前の弟にやってもいい」
「スフィルは菓子は食べない」
スィグルは小声で教えた。弟はヤンファール以降、生の血肉しか口にしない。
 でもそれを衛兵の前で言いたくなかった。
「昔から?」
 ギリスは疑う口調だった。
「昔は違うよ。ヤンファールの後から」
「好きだったか、子供の頃には」
「そうだね。好きだった」
 スフィルとお菓子を分け合った子供時代が、懐かしく思えた。
 その甘い味は、自分にとってももう縁のない遠い記憶にすぎない。
「お前も?」
 ギリスが興味深げに聞いてくるのを、スィグルはムッとして聞いた。
「今は味がしないんだよ。菓子でも昨夜ゆうべ兵糧ひょうろうでも同じなんだ」
「戦に向いてる」
 ギリスはにっこりとして褒めた。褒めたのだろうが、喜ぶ気にはなれない。
「会わせてくれ。弟の殿下と仲直りする」
 スィグルは顔をしかめた。
 それについては、ギリスを信じてよいのか迷いがあった。
「お前も俺を信じろよ。兄弟だろ」
 心外そうにギリスが文句を言ってきた。そう言われても信じられない。
「スフィルは僕の本当の兄弟だよ。大事な弟なんだ」
 それがいかに重要か、わかって欲しくてスィグルはギリスを見つめて言った。
 竜の涙に肉親はいない。だから、ギリスにこの気持ちが分かる訳がないのかもしれないが、スフィルのことを軽く考えてほしくなかった。
「じゃあ俺にも大事な弟だ」
 にっこりとしてギリスがそう言った。
 それにスィグルは図らずも動揺した。
 そんなことを言う者が、これまでいただろうか。
 自分たち兄弟にはもうお互いの他に、頼れる者はいない。
 エル・ジェレフは帰還式には来てくれないし、弟の分までスィグルが励めと言っていた。
 その通りだと覚悟はしたが、誰かに頼りたかった。
 頼もしかった祖父は亡くなり、母は発狂して生けるしかばねだ。優しかった侍女たちも居なくなり、玉座の父は遠い。
 ギリスが現れるまで、自分には誰もいなかった。頼っても良い者など。
 スフィルと二人。いや実質的には独りだ。物静かで賢かった弟はもう居ないのだ。助け合える相手ではない。
 それでも、自分がスフィルを心の支えにしているのは分かっていた。
 この闇の中でたった一人にならないために、ただそこにいる誰かとして、弟を頼っている。
 それよりはギリスの方が、マシではないのか。
 魔法戦士だ。守ると言ってる。
 それに頼りたい気分が自分の中にあるのに気づいて、スィグルは不安だった。
 頼っていい相手はいない。
 そう自分に言い聞かせたが、聞いていたのか。自分はそれを。
「仲直りするんだな? スフィルに謝れ」
 そう言う自分がギリスを連れて行くつもりなのに、スィグルは驚いた。
 なぜそんな事を。スフィルが理解するはずがない。
 気が狂ってるんだ。あの可哀想な弟は。
 具合が悪いと錯乱さくらんして、自分がまだヤンファールにいると思い込んでいる。
 でも時々は、スフィルはいくらか正気にも見えた。話すと返事をすることがある。
 朦朧もうろうとして幼く、正常とは言えないが、話ができる時はある。
 しかるべき医師か術医に診させたら、治るのではないか。
 ジェレフや施療院はもう回復しないと言っていたが、ギリスが何とかするかもしれない。この難題を。
「俺が謝ったら、リルナム殿下は許してくれそうか?」
 ギリスは興味深げに聞いてきた。
 そんなこと分からない。
「そうだといいけど」
 スィグルは小声で答えた。
 試してみないと分からないじゃないか?
 それが自分の言い訳なような気がする。
 でも、一度そう思うと、もう思いとどまれなかった。
 スフィルだってエル・ギリスが好きになれるかもしれないじゃないか。
 僕がこいつと結局和解したように。今ではたぶん、信頼している。完全にではないけど、いくらかは。
 だって。僕ら兄弟に他に頼れる者がいるか。
 スフィルを生かしておくなら部屋に幽閉することになるとギリスは言っていた。
 それでいいならスフィルは死なずに済むのだ。
 どうせ今だって部屋にこもりきりで、幽閉されてるようなものだ。
 地底湖の上の鳥籠の牢に押し込められて、狂いながら生きたという、継承指名に挑まなかった祖先たちと同じだ。
 それよりずっとマシだ。
 トードリーズの作った美しい部屋で快適に生きられる。
 それでいいって、皆が思ってくれたら。スフィルを生かしてやれる。
 ギリスがそう手配してくれるのではないか。
 長老会や、他の英雄たちを説得して、スフィルも守ってくれるのでは。
 そんな甘い期待に囚われ、抑えきれなかった。
「約束してくれ、スフィルを絶対に傷つけないって」
 懇願する口調で、スィグルは念押しをした。
「約束する」
 頷いてギリスは即答してきた。
 そう言われるともう、こちらから問いただせることが無かった。
 弟の居室へやの扉が開き、中では女官が出迎えた。
 見た顔だ。子供部屋でもスフィルに仕えていた者で、ギリスを懐剣で刺した女だった。
 そのギリスの顔を見て、出迎えた侍女は青ざめていた。
 まるで死の天使にでも出くわしたように、びくりとしている。
「ジェレフに聞いたんだけど、もし俺が死んでたら斬首だったんだよな、お前は」
 ギリスはいきなり侍女にそう言った。
 その言葉に侍女はさらに青ざめて見えた。
「死んでなくても斬首かも? ヤンファールの英雄を刺したんだしな? あいにく俺は宮廷の掟には詳しくないんだよ。後で長老会に聞いておく。もし侍女に懐剣で刺されたら、その女をどうするべきか」
 ギリスは淡い笑みで伝え、思わず険しい顔になったスィグルに、どうしたんだよという困った顔をしてきた。
「まだ尋ねてないよ。長老会は知らないんだ。ジェレフが勝手に垂れ込んでなけりゃな?」
 ギリスはにこやかに話しているように見えた。彼にはそんなに面白い話なのだろうか。
 スィグルは自分がだんだんと険しい渋面じゅうめんになるのを感じた。
「ジェレフがそんなことするもんか」
 スィグルは心からそう思って言った。
「そんなわけないだろ。あいつは魔法戦士だ。誰に従えばいいかはわきまえてるよ」
 いかにも仲間だというふうに、ギリスはエル・ジェレフのことを話している。
 スィグルはそれに答える言葉がなかった。
 ギリスはエル・ジェレフの派閥のジョットだ。確かそう聞いた。
 ジェレフも同じ、髑髏馬ノルディラーンばつの者たちだ。
 死んだエル・イェズラムがその派閥長デンだったはずだが、今はジェレフが誰に仕えているのか、そういえば知らない。
 エル・ジェレフは父の忠臣なのだと思っていた。稀代の治癒者で、族長の侍医だ。ずっとそうだった。
 父はジェレフに命じ、スィグルとスフィルの回復に努めさせたのだ。
 そのことを自分が、あまりよく考えていなかったのにスィグルは気づいた。
 ジェレフが時々、困った顔をしていたのを見ても、あの魔法戦士が何を困っているのか、よく分かっていなかった。
 考えないようにしていただけだ。
 ジェレフが好きだったので、ずっと自分たち兄弟を守ってくれたらいいのにと思っていた。
 でも本当は彼は、父の魔法戦士なのだ。族長リューズの命令でなければ、助けてくれない。
 そう思うと肝が冷えた。頼ってもいい相手とは言えない。
 でも、ジェレフはいつも優しかったじゃないか?
 それも全てが職務の上のことだったのか。
 派閥の命令で、あるいは父上の命に従い、王族の殿下を助けただけか。
 そうじゃないと思うのは、子供っぽい気がして、スィグルは黙るしかなかった。
 淡い笑みでこちらを見ているギリスが、それを知っている気がした。
 何も言わなくても、何もかも見抜いているような。
 たぶんギリスの妖しい目の色のせいだ。珍しい色の蛇眼じゃがんだった。
 淡い灰色の虹彩こうさいが、暗い瞳の周りだけ蛋白石オパールのような色合いをまとっている。
 いかにも魔法を使いそうな目だった。
 その色合いの淡い目で、ギリスが自分を見て、にっこりとした。
「心配ないって。長老会はお前の味方だ。お前がこの侍女を始末したいんでないなら、処断は俺が決めていいんだ」
「始末なんで言うな。そんな訳ないだろ」
 スィグルも青ざめる心地で言った。
 怯える侍女の気配だけで、こっちまで吐きそうだった。
 女は震えて見えたのだ。そういうのに弱い。恐怖が伝染してくる。
「お前、キーラに相談したんだってな? 今後も何かあったらキーラに言え。俺に伝わる。分かってると思うが、お前の仲間たちも同じだぞ。英雄に懐剣を向けた者は皆同罪だと、あいつらにも言っとけ」
 先ほど別の居室へやで、スィグルの侍女に朝食の手配を伝えた時とさして変わらぬ調子で、ギリスはのんびりと懐剣の女に言った。
 それで青ざめた彼女の顔が、微笑みの色に変わる訳はなかった。
「お許しください……
 震える手を握り合わせて侍女はギリスに懇願して見えた。まるで聖堂の天使にでも祈ってるみたいだ。
 侍女にはギリスが死の天使に見えるのだろう。首を切るぞと彼女を脅迫しているのだから。
 王宮では実際、罪を犯して刑罰をたまわる者もいる。罪が重ければ斬首刑もあり得た。
 ここは、確かにそういう場所だった。
 けど、今じゃない。
 スィグルは腹が立って、憤然ふんぜんとギリスをにらんだ。
「何もしてない女をおどすなよ。この女官は僕と弟を守ってくれただけだ。忠節をたたえて褒美をやってもいいぐらいだ。襲ってきた魔法戦士のお前に立ち向かったんだぞ。勇敢だった」
 思わず怒鳴るように言うと、ギリスが肩をすくめた。
「俺、襲ってないよ。こいつらには逃げろって言っただけ。勘違いしたんだ、勝手に。俺が弟の殿下をりに来たって……
「何を言うんだお前⁉︎」
 ギリスの話を最後まで聞けず、スィグルは呆気にとられ叫んだ。
 どの口でそう言うのか、唖然としてギリスの凛々りりしいような、それでいて子供っぽい愛嬌のある顔を見上げた。
「殺すなんて一言も言ってない、本当に。剣を見せたらこいつらが勝手にビビって泣き出したんだ。魔法戦士には抜刀は許されてる。玉座の間ダロワージ以外では、必要あれば」
「必要なんか無いだろ⁉︎」
「俺の素敵な剣をこいつらに見せてやっただけ」
 にっこりとして、ギリスはしれっと言った。
 そんな話が通ると思っているのか。
 スィグルは一瞬言葉を無くしてぱくぱくとあえいだ。
「ば……馬鹿か! どこに急に侍女に剣を見せにくるような奴がいるんだよ……怖がるに決まってるだろ⁉︎ お前は魔法戦士なんだぞ。おもちゃの剣で遊んでる餓鬼がきじゃないんだ」
 実際にあの子供部屋で、スィグルも弟と戦いのごっこ遊びをして、祖父がくれた贈り物の剣を侍女に自慢したことはあった。
 その頃の女たちは薄紅の袖で微笑む唇を隠し、まあ殿下お勇ましいと言って喜び、恐ろしゅうございます、命ばかりはお助けくださいと、笑いさざめいて部屋を逃げ惑った。
 それを追いかけ回す戦遊びを弟と何度もやったが、元服するずっと前のことだ。
 でかい図体になった本物の魔法戦士が抜き身の剣を向けてきたら、侍女は恐れおののくだろう。
 正直言って自分も怖かった。あの時は。スフィルが殺されると思った。
 実際、ギリスは僕にはそう言っていたではないか。本気だと思った。そのはずだ。
 侍女はそれを聞いていなくても、血相変えて現れた僕を見て、危急の事態を察したまでだ。
悪面レベトは釈明は聞かない」
 そういうものだという顔で、ギリスはあっさりと伝えてきた。
 呪い避けの仮面をつけた刑吏は、罪人の話など聞かずさっさと首を落とすものだ。
 斬首刑は公開処刑だった。
 刑場では今日も、幾人かの処刑が行われるのかもしれないが、スィグルは見に行ったことはない。
 恐ろしすぎて想像しただけでも吐きそうだ。
 子供の頃に悪さをすると、怖い侍女には刑場に連れて行くと脅されるほどだ。
 刑場には貴人のための高覧席があるらしい。
 そこに座らされる自分を思うと、それだけで震え上がったものだ。
 スィグル・レイラスにお仕置きするには怖い話をするのが一番と、手練てだれの侍女たちは良く心得ていた。
「ギリス……お前は悪面レベトじゃない。魔法戦士だろ。民を守るのが役目だ。この女官も、父上の大切な臣民だ。僕にもお前にも、彼女を守る義務がある」
 スィグルが困ってそう言うと、ギリスは少し考えるように上を見る目線になり、やがてすぐに頷いた。
「なるほど。道理だな」
 そう言ってからギリスは、震えて立ち尽くす侍女に目を向けた。
「お前らの首は預けておく。レイラス殿下のお慈悲とご恩情を忘れるな」
 ギリスがやけに厳しく言う気がして、スィグルは内心呆れて眺めた。
 大袈裟だろう。まるで芝居か英雄譚ダージみたいだ。
 全く魔法戦士ってやつは。
 そう思ったがギリスの名誉もある。侍女も見ているし、控えの小間こまではもっと多くの侍女たちが聞き耳をたてている気配がしていた。
 黙っているしかなかった。
「お優しい殿下」
 涙ながらにひざまずいて、懐剣の女が感謝していた。
 泣いて感謝すべきは自分の方かとスィグルには思えたが、決死の覚悟で主人を守ったのに、この女は首を取るぞと脅されて気の毒だった。
「いや……そんなことないよ。怖がらせて悪かった。君らに害の及ぶことはないから安心して仕えてくれ……スフィルに」
 そう頼むと、女は言葉が出ないのか、泣きながら何度も頷き、スィグルに平伏していた。
「弟の殿下を起こせ。ここで朝飯を食う」
 ギリスが命じると、侍女は奥にすっ飛んでいった。
 素直に命令を聞いて、逃げるのが一番だろう。ギリスのような奴が相手では。
 侍女がいなくなった迎えの広間に勝手に入っていき、ギリスはそこでも空っぽの首座を仰ぐ筆頭の席に、当然のように座った。
 どういう配席かとスィグルは顔をしかめた。
「ギリス。そこはスフィルの席だ。お前はこっちだろ」
 筆頭の席の向かいにある、第二位の客用の席を目で示し、スィグルが教えると、ギリスはいかにも氷結術師らしく涼しい顔をしていた。
「お前はこっち」
 ギリスがあごで首座を示してきた。
「僕の弟より上座に座ろうって言うのか、お前……
 王族に対して無礼だろうと、スィグルは言おうとした。魔法戦士のくせに。
射手いてだから」
 ギリスがけろりと付け加えてきた。
 その少ない言葉に、スィグルは考え込んだ。
 納得したくなくて、考え込むふりをしただけだ。
 射手ディノトリスとは何だ。
 太祖のデンだ。
 しかし太祖の序列は至高の一位だ。誰もそれより上座に座すことはない。
 ディノトリスは、亡霊となって玉座の隣に座すと言われている。
 実際、暗くかげる姿で太祖と抱き合って玉座に着く英雄ディノトリスの絵画が、部族の宝物殿にいくつもある。
 彼らは死者なのだ。死者に序列はない。
 座るべき席もない。本来ならそうだ。
 だがギリスはまだ生きている。生身の肉体を持った亡霊だ。
 いずれ名実共に死すまで、席が必要になる。
 エル・イェズラムも常に父の隣にいた。護衛としてその背後にはべることもあれば、父に成り代わって軍の先鋒に立つこともあった。
 それを父の双子の兄として、あるいは玉座の意思を実行する名代みょうだいとして、民はあがめた。
 王宮の玉座には、最初の英雄ディノトリスののこした石が封印されていると伝えられている。
 墓所にはディノトリスはいないのだ。
 常に玉座の間ダロワージにいて、未来を視ている。死後に至るまでずっと、代々のアンフィバロウと共に。
 ギリスは、そのディノトリスの化身ということだ。その名目で長老会が送り込んできた。
 そいつに主人のための首座を勧められて、スィグルは仕方なく座った。
 実はギリスを上座に座らせるべきなのかという錯覚すら覚える。
 自分の兄なのだったら、ギリスの方が目上にあたるはずだった。
 こんな気持ち悪い上座に座るのは初めてだ。
 子供の頃はよく、ちょっと先に出てきた程度でスィグルが上座に座るのを、ひどいと言ってスフィルが怒った。
 それで喧嘩になり、仲良く並んで首座に座るのを、侍女たちは太祖と射手のようだと褒めていた。
 そのときちょっと、嫌だなとスィグルは思っていた。
 不敬かと思い言わなかったが、ディノトリスは割に合わない。
 弟のスフィルが即位して、兄である自分が死ぬなど、面白いお話ではない。
 僕が……玉座の君でないと。
 そう思った幼い自分を思い出し、スィグルは苦しくなった。
 自分はもう選んでいたのではないのか。その時。弟殺しを。
「もうお目覚めでございました」
 侍女が奥のから夜着を着たままの少年の手を引いて、広間に連れてきていた。
 ギリスが真顔でそれを見ている。
 弟が目隠しをして手を引かれて来るのを。
 その姿が、昨夜見た未来視の英雄を思い出させて、スィグルを渋面じゅうめんにした。
「何をしてるんだ、スフィルに」
 弟が自分でやったのではないと思い、スィグルは懐剣の侍女に聞いた。とがめる声だったかもしれない。
「申し訳ございません。スフィル様が、新しいお部屋を恐ろしいとおっしゃるので、お休みいただくために……
 侍女は言葉をにごした。
 スフィルは見えなければ忘れるのか。ここが知らない部屋だということを?
 その異常さに傷つき、スィグルはうつむいて目をらした。
 弱って痩せ細り、目隠しして侍女に手を引かれている弟の姿から。
 まるで生ける屍だ。
 死んだほうがましだという話もあながち嘘とは言えないのかもしれない。
 弟が哀れだった。
 本当なら同じように着飾って、玉座の間ダロワージの朝議や晩餐にはべり、共に王族としての権勢を競っていたはずだ。
 骨肉の争いを、スィグルとも。
 だが、そんなことはスフィルにはもう一生ないのだ。
 優しい弟だった。幼い頃から気も弱くて、喧嘩になっても僕に殴られるとすぐ謝った。兄上と喧嘩をすると母上が悲しむと言って。
 母は本当はスフィルを愛していただろう。息子は二人もいらない。
 産んでもどうせ死ぬ。一人を除いて全部。
 それなら一人だけを育てたい。
 母上もそう思し召しだったか。
 スィグルは暴君になりかねませぬと、かつて母が祖父に嘆いていた。
 乱暴な子だと。
 スフィルは物静かで優しい。そのような星が立つほうが、民には良いのではないか……
 それを思い出す自分をスィグルは慌てて振り払った。
 母上は心配なさっただけだ。部族の先行きを。
 お祖父様は笑っておいでだった。
 武勇こそが男子の本懐。
 だから僕は、優しくて強い、父上のような族長になるのだ。
「兄上……
 目隠しされたまま、空中を探すように手を彷徨さまよわせて、スフィルがつぶやいた。
「ここだよ、スフィル。おはよう。新しい部屋を気に入ったか」
 スィグルは優しい声で呼んだ。
 そうするとスフィルは気分が落ち着いているのか、痩せた頬に笑みを浮かべ、よろめく足取りで首座の方に来た。
 弟は耳がいい。闇の中でも音を聞いていた。
 誰かが来ればまず弟が気づく。その足音や息遣いに。
「兄上」
 弟は何もない首座の前の床に座り、スィグルに膝を寄せ、遠慮もなく抱きついてきた。
 弟はいつも抱擁したがる。小さい頃からの癖だ。
 寝る時も抱き合って寝ていた。
 それにギリスは驚いたようだった。
 無言で無表情だったが、驚いた猫のように、瞳孔が開いた。
 いい歳をした成年の王族が、抱き合う習慣は部族にはない。双子だからだ。
 双子でも、成年であれば、そんな子供のような悪ふざけはしないものだ。
 しかしスフィルは気が狂っているのだ。仕方がない。
「兄上……どこにいたの。お腹すいたよ」
 スフィルは枯れた喉で囁いてきた。
「ごめんよ。兄上は昨夜から隣の居室へやなんだ。僕らはもう成年おとななんだよ」
「お腹すいたよ」
 スフィルはぎゅうっと抱きついてきて、こちらの胸の中に入ろうとするように、スィグルの礼装に目隠しした顔を押し付けてきた。
 それを抱き返して、垂れ髪のままの熱い頭を撫でると、汗の匂いがした。
 スフィルの匂いだ。よく知ってる。
 その手にひとしきり撫でられてから、弟が脇の座にいるギリスを見た。
 目隠ししたまま。
「嫌いだ。出て行け。兄上のところから」
 牙を剥くようにスフィルが歯を見せて唸っていた。
 その身が強張るのを、スィグルは抱きながら感じた。
 スフィルは怒っているらしい。ギリスに。
 憶えているのだ。一昨日の出来事を。
「スィグル、お前の弟はイカレてないぞ。壊れてるけど、でも正気だ」
 ギリスがその壊れた弟をじっとにらむ目で見て、そう言った。
「スフィル・リルナム殿下。話がある。俺の名はギリス。魔法戦士で、お前の兄君の射手ディノトリスだ」
 その声を聞き、スフィルが震え出した。

●応援&コメント:Web拍手 / マシュマロ



066 血と砂糖菓子

 スフィルはギリスが見えていないはずだが、そこに居るのは知っていたようだった。
「出ていけ。お前らとは話さない……誰とも話さない」
 ぶるぶる震えながら、スフィルはなお一層きつく抱きついてきた。
 すがり付くようでいて、まるで守るような抱擁で、スィグルは何も分からなくなった。この弟のことが。
 スフィルは狂っているのだと思っていた。
 ろくに話さないし、話してもいつも、拙い言葉がわずかに出てくるだけだった。
 うまく話せないらしい。舌がもつれるか、痺れるかしたように口籠もり、無理に話させると弟はいつも苦しそうだった。
 弟がこんなにしゃべるのを見たのは、久しぶりだ。
 とても具合がいいのかと思うが、気分がいいという顔ではなかった。
 蒼白に見える顔を、じっと警戒するようにギリスに向けている。
「見えないとしゃべるんだな、お前」
 ギリスが感心したように言った。
 そして少し、面白そうにした。
「馬もそうだよ。お前も知らないのかな、俺の英雄譚ダージを。兄貴も知らなかったもんな」
 それが心外だというように、ギリスは言った。
 スフィルもヤンファールのいさおしは知らないだろう。
 玉座の間ダロワージでは戦勝を祝って何度も詠唱えいしょうされたのだろうが、半死半生で伏せっていた双子の殿下が眠る寝室までは聞こえてこなかった。
「戦場で守護生物トゥラシェに突撃するとき、馬に目隠ししたんだよ。 馬もビビって走らないんだ。手綱に従わない。そういう時はいくらむちで打っても無駄だ。でも目隠ししたら走る。不思議だろ、スフィル」
 ギリスはゆっくりとだが、普通に話していた。
 その長い話を弟が聞いているとは思えなかった。
 スフィルはもう、難しい話は分からないのだ。何も。
 分からなくてもいい。生きてさえいてくれたら。
 そう思って抱きしめた弟が、震えていた。歯を食いしばって。
「僕は馬じゃない」
「そうだよな」
 苦しげにつぶやくスフィルに、ギリスはうなずいて答えた。
「馬もけっこう賢いんだよ。殿下は乗馬は?」
「嫌いだ。もう乗らない。もう……死んでるから……
 弟は震える声で拒むように言っていた。
 スフィルは乗馬が好きだった。子供の頃から、兄弟二人の共通の楽しみだった。
 その弟がもう馬に乗らないと言うのに、スィグルは傷ついた。
 また元気になって、二人で乗馬をするのかと思っていた。
 そんなことはもう永遠にないのだと思いながら、どこかで期待していたのかもしれなかった。
 自分たちがあの元服の旅に出た日の、平穏無事だった一生の続きに戻る日が来ることを。
「安心しろ。殿下はもう馬には乗れない。 この居室へやで残りの一生を過ごすんだ」
 ギリスはうなずいて教えた。
 弟は黙ってそれを聞いていた。
 苦しい息を漏らすスフィルが泣いている気がして、スィグルは自分に抱きついたままの弟の震える体を感じた。
 せて衰えてはいるが、生きてはいた。
 その体温を、いつかヤンファールの地下の闇の中でも、自分は感じて、頼りにしていた。
 自分は一人じゃない、まだ弟がいるんだと思って。
 そのことが自分の心の支えだったのだ。
 弟が死んだら自分も生きてはいけないと思った。
 その、孤独で、何の支えもない闇の中でずっと彷徨さまよい、人を食って生きる生涯はつらいなと思った。
でも、つらい訳はなかったのだ。
 本当に生きていけないなら、弟の死後はもう、自分は何も感じないはずだった。
 死者に感情はない。
 たぶん、自分は生きるつもりだったのだろう。その時も今も、たった一人ででも生きていたくて、だからつらかったのだ。弟の死が。
 つらくても生きてはいける。一生出られない地獄なら、自分はきっと、そこでずっと生きた。つらさに耐えながら。
 そんな生涯から、自分を救ってくれたのは弟だ。ずっと共に生きて、今もこうして、側にいてくれる。
 生ける屍と言われても、弟にこのまま生きていて欲しいと思うのは、たぶん自分のわがままだった。
 敵にはならず、恐れる必要のない狂人として、ずっと側に。
「僕の弟にそんなひどい言い方をするな」
 悔しくてスィグルはギリスに険しい顔を向けた。
 怒っていた。
 でも本当はギリスに感謝するべきだった。
 言いにくい話を、代わりに言ってくれているだけだ。
 自分もいつか、これと同じ話を弟にしなくてはならなかっただろう。
 スフィル。お前をずっと、ここに幽閉してもいいだろうか。お前がいると邪魔なのだ。
 それ以外の選択肢があるとは、弟に示したくはなかった。スフィルを殺したくない。
「どんな言い方でも同じだよ。お前はもう選んだんだろ?」
 ギリスは心外そうにこちらを見て言った。
「リルナム殿下、俺は兄君を族長にする。それはもう決まったことだ。死ぬ覚悟はあるんだろ。絹布が好きなら、そっちでもいいんだぜ。それなら、ここでこうして俺たちと会うのは今日が最後だ。次に会う時は敵としてだ。どっちがいい?」
 ギリスが尋ねると、スフィルは兄に抱きついたまま、目隠しして必死のように首を横に振っていた。
「嫌だ。嫌……兄上」
 抱きついてせしめるように、スフィルは強い手で抱擁してきた。絶対に離したくないおもちゃを、小さいころにそうして独占しようとしたように。
 そうなるとスフィルは怒鳴ろうが叩こうが、絶対に譲らない。頑固な弟だった。
 すぐ泣くし、弱いくせに。スフィルはわがままな弟だった。
 自分と似ている、その理解しないさまを、スィグルはいつも可哀想に思った。
 泣き喚いて拒めば、やめてもらえると信じている弟が、泣いて自分に縋り付くのを、いつも困って眺めた。
 世の中ってそんなふうだろうか、弟よ。
 泣いて頼めばやめてくれた敵が、一人でもいたか。
 僕はもう、そういうのは止めたんだ。泣いてもしょうがないことばかりだった。
「たすけて……兄上。お願いだ、僕は……王都は嫌いだ……こんなところ」
 初めて聞く話を弟はしていた。泣きながら。
 暗い穴蔵の底ではいつも僕に、きっとすぐに父上が助けに来るよと囁いていたくせに、全部嘘だったのだ。
 弟は帰らないつもりだった。
 自分も本当はそうだったのだろうか。
 王都に戻れば、自分たちはまた、いずれ絹布でくびられる哀れな兄弟だ。
 あの暗闇の中では自由だった。誰も咎める者はいない。僕が乱暴でも。弟と二人、助け合って生きたとしても。
 暗闇の中の奴隷でも、自由だった。尊いアンフィバロウの末裔であるよりは。
 そんなことを弟がまだ憶えていたとはな。
 自分は薄情にも、もう忘れようとしていた。忘れることにしたのだ。
 僕はもっと明るい場所で生きて、この部族を治めるのだ。父の族長冠を継ぎ、新しい星になる。
 それでも可哀想な弟を、捨てたくはなかった。捨てられたくないだけだったかもしれないが。
「スフィル……お前は頭がおかしいんだ。僕の弟はヤンファールでもう死んだ。お前はその亡霊だ」
 弟のもつれた髪の頭を撫でてて、そこに口付けし、スィグルは語りかけてみた。
 弟がこの話を理解できるのかと思って。
「このタンジールで、お前が絹と真綿にくるまって寝てた時、僕がどこにいたか、お前は知ってるのか」
 スィグルが尋ねると、スフィルは嗚咽おえつこらえ、首を振っていた。やはり分からないのか。
 でも弟は泣いていた。小さな声で、ごめんなさい兄上と言った。ごめんなさい、ごめんなさい。弟は何度も謝っていた。何も分からない子供のように。
「馬鹿! トルレッキオだ! 何で分からないんだ。お前の代わりに、僕はまた敵の人質になってたんだぞ! 天使が命じた四部族フォルト・フィア同盟だ。この部族の危機なんだ。それも分からない馬鹿が……王族か! 泣いてるだけなら、こんなもの捨てろ! 僕の方が玉座に相応ふさわしいんだ!」
 思わず怒鳴って、スィグルは弟の目隠しごと額冠ティアラを奪った。
 それを投げ捨てると、華麗な装飾のある白金の輪が、ころころと絹の絨毯の上を思いがけず遠くまで転がっていった。
 子供の頃に身につけていた額冠ティアラとは違う。
 同じ意匠だったが、元服の旅の途中で囚われた時に、それは失われた。
 自分たちを助け出した父が、再びこの王宮の職人に命じて作らせた新しいものだ。
 その時、父はスフィルを許さなかった。
 この輪っかをかぶって生きる呪いから、弟を解放してくれなかったのだ。
 死んだことにしてくれたら良かった。
 助かったのは恥を知らぬスィグル・レイラスだけで、弟は気高く死んだことにしてくれたって良かった。
 父上はケチだ。兄弟皆を殺す悪魔で、それなのに僕らを可愛がる。
 一人だけしか生かしてくれないのに、皆、愛されて健やかに育った。
 どうせ死ぬのに、大事にされて生きないといけないんだ。絹布けんぷがこの首を絞めるその時まで。
 誰が一番、父上に愛されているのかを気にしながら、もしや自分がそうかと期待して、ずっとずっと生きないといけない。今日からまた、僕もずっと。
 スフィルはそんな王都が嫌いだったのだろう。負け犬になってそこへ帰るぐらいなら、本当は死んだ方がいいと思っていたのだ。
 そんなこととは知らず、僕は弟を連れ帰ってしまった。この、麗しのフラタンジールへ。
「いいか。お前は誰でもない、この部屋の亡霊になるんだ」
 スィグルは目隠しをがした弟の顔を見て、それを教えた。
 弟は目に映る全てを恐れるように、泣きながら息が詰まってあえいでいた。
「ヤンファールで僕がお前を殺した。お前はここでずっと、息をひそめて生きろ。二度と馬にも乗れないし、いいことなんか何も起きないぞ。それでもいいのかスフィル……
 嫌だと答えてほしいのか、自分でも分からず、スィグルは苦しくて、まだ間近にある弟の顔を見た。
 母上とそっくりな、気の弱そうな薄青い目で、弟は恐れるようにこちらを見ていた。
「たすけて……兄上……僕を殺さないで」
 自分を見て震えている弟が、涙の溢れた目で必死のように命乞いしていた。
 その弟が哀れで、スィグルは深く気がとがめ、黙ってまた弟を抱きしめた。
 嫌がるかと思ったが、スフィルは深い安堵の息をつき、ぐったりと抱きついてきた。
 いつかの闇の中で抱き合っていた時のような、深い抱擁だった。
「殺さない。お前は僕が一生守る」
 スィグルは弟に約束した。そんな当てがあるわけでもないのに。
 それでもスフィルは強く抱きついてきて、頷いた。
「大好き。兄上。言う通りにする。約束する」
 約束すると、弟は囁くように何度も繰り返した。何度も。舌足らずな涙声で苦しげに。
 それはギリスに聞こえただろうか。哀れな弟の必死の命乞いが。
 それを聞いて、この射手が満足したか、スィグルは確かめたかった。
 ギリスが弟をもう襲わないでいてくれるか。
 そうでないなら、こんなことは今はまだ確かめる必要もないのに、哀れな弟になぜ言わせたのかとスィグルは恨んだ。
 エル・ギリスと、その主人である自分を。
 弟には気をつけねばならない。ギリスはそれを教えたかったのか。
 スフィルはこちらが思うほどには狂ってはいないのだ。
 もしかしたら玉座にだって座れるかもしれない。良い射手がいれば。
 たとえば、エル・イェズラムや、暗君だった祖父を操っていたという、不戦のシェラジムのような?
 それとも、エル・ギリスのような。
 スィグルはそう思うのを悟らせたくない気持ちで、自分の寵臣の席にいるギリスを眺めた。
 こいつに僕は毎日尋ねなくてはならないのだろうか。
 エル・ギリス、お前は今日も僕の射手ディノトリスかと。
 こちらのそんな気分は知らないのか、ギリスは今も淡く微笑んだままだった。
「よかったなスィグル。弟と本音で話せて。素直な弟で俺も安心したよ」
 喜んでるみたいに、ギリスは明るく言った。
「お前もいっぺん地獄に堕ちてみろ」
 震えて抱きついてくる弟を抱き返し、恨んで悪態をつくと、エル・ギリスはまだ微笑んで見えた。
「なんでだよ。お前も即位して、俺と一緒に死後は楽園に行こう。こんなの朝飯前だろ? まだ道は遠いんだ。ちゃんと飯食って長生きしろ」
 ギリスは懐を探り、薄い包みを取り出してきた。
 絹布に包まれた紙箱だった。ギリスが包みを解いて見せてきたので、すぐに分かった。
 綺麗に装飾された箱の蓋をギリスが開くと、白い砂糖を押し固めたような、指先に乗るほどの花の形の菓子がずらりと並んでいた。
 懐に入れても隊列が崩れないほど、きっちりと並んでいる。
 それを指先で一個、つまみ出してきて、ギリスは薄青い目を泣き腫らしているスフィルに差し出した。
「仲直りの印にお菓子を食えよ、亡霊の殿下。お前の兄貴はもう何を食っても味がしないんだってさ。お前もそうか?」
 スフィルは朦朧もうろうとしたような暗い目で、ギリスをにらんでいた。
 ただ悩んでいるのかもしれなかった。
 仲直りのお菓子なんぞ食いたくないだろう、弟も。
「生きてていい。約束する。お前が手綱に従うんなら、生かしておいてやるよ。寿命が尽きるまで」
 口元に砂糖菓子を押し付けてギリスが約束すると、スフィルはまだ悩んでいた。
 そんな言い方をしなくてもいいだろうと、スィグルはまた思った。
 ひどすぎるだろう。仮にもアンフィバロウの末裔の王子が、そんなことを受け入れるだろうか。
 少しでも正気があるなら、スフィルは拒むはずだ。誇りある王族として。
 スィグルはそう願ったが、弟は突然食った。ギリスの指を。菓子ごと。
 がりっと凄い音がして、弟がくわえたギリスの指から血が滴るのを、スィグルははっとして見た。
「止せ、スフィル。離してやれ。ギリスは味方なんだ。本当だ! 僕らを助けられるのはこいつだけなんだよ!」
 スィグルは慌てて引き離そうとしたが、弟は本気で食いついていた。ギリスの指を食いちぎろうとしているみたいに。力ずくでは引き離しようがなかった。
「よく分かってるな、お前の人食いの兄貴は。もし俺の指を食ったら、お前の首をとるぞ、スフィル。さっきの約束も無しになる。さっさと選べ」
 全く痛がる様子もないが、ギリスも利き手の指は惜しかったらしい。スフィルを脅していた。
 指が無いと弓も引けず、剣も持てないのだから、そりゃ惜しいのだろう。
 なにしろジェレフももういないのだ。
 しばらく悔しげにスフィルは英雄の指を強く噛んでいたが、嫌気がさしたのか、ぱっと離れた。
 それでも抱きついている弟の口中で、砂糖菓子を噛み砕く音が聞こえ、弟は血のついた口で甘いものを食っていた。
 解放されたギリスの指には深い歯形の傷があった。
「くそ。行儀の悪い弟だ」
 小声でうめくギリスの傷からは血が溢れ出ていた。
「施療院に行くか?」
 スィグルは尋ねたが、ギリスは面倒そうに自分の傷を見て、平然としていた。
「そんな暇はない。朝飯食いたいもん。今日は鶏のかゆなんだぜ?」
 ギリスは本気で言っているようだった。
 美味そうだ。話に聞く限りは。でもどうせ自分には、食ったところで旨味はない。なんの味もしないものを噛んで腹に入れるだけの苦行だ。
 かゆなら大して噛まなくてもいいだけ、マシだった。
「治してやってもいいけど?」
 治癒術で。そういう意味でスィグルは自分の右手をギリスに差し出した。
 恨んだ目で弟がにらんでいたが、仕方がない。エル・ギリスは新星レイラスの英雄なのだから、血を流すまま放置はできなかった。
「ヘボ治癒者のくせに」
 ギリスは嘆いたが、大人しく新星の手を取った。
 指が無いと困ると思ったのか、それとも一応、自分たち兄弟に一目ぐらいは置いてくれるのか。
 生やさしい味方じゃないなと、スィグルは内心嘆いたが、いないよりはいい。
 ずっとマシだった。
 ギリスは誰が命じなくても自分の意思で来てくれるのだろう。
 スフィルに指を食われかけても怒らないし、もう知るかと言って出て行ったりもしなかった。
 自分たち兄弟を守ってくれる英雄なのだ。そうであって欲しかった。
 味方が誰もいないのでは、この王宮での自分たち兄弟の先行きは暗い。
 何かの勢力と結びつかないことには、王宮ここでは王族は何もできないのだ。
 ギリスは悪くない相手だった。魔法戦士で、ヤンファールの英雄だ。それにきっと、弟を生かしておいてくれる。
「治癒術も練習するよ。ジェレフみたいにはいかないけど、もっと役に立つように。練習台として、お前は時々怪我してくれ」
 スィグルは笑ってギリスに冗談を言った。
「嫌だよ。そんなの」
 本気だと思ったのか、ギリスは新星レイラスの悪い冗談に本気で嫌がっていた。
 それに笑ったものか、スィグルはひどく疲れたが、まだ抱きついているスフィルを抱いたまま、エル・ギリスの手を取った。
 これが未来の忠臣かと思えば、可愛いような気さえした。
 エル・ギリスをぎょせないのなら、おそらく誰も従えられない。天使もそう思うだろうか。
 猊下げいか……。スィグルはまだ返事がない友に、語りかけた。
 思った以上に即位は大変だよ。
 君ならなんと言うのだろうね。もし今も隣にいて、僕の友であれば、励ましてくれたか。頑張れと。
 このぐらいで弱音を吐くな、レイラス。君はもっと強いはずだ。怠けるんじゃない。
 そんなところか。
 そう思うと可笑おかしくなり、スィグルは笑いながらギリスの手を治した。
 スフィルはギリスが持ってきた菓子が余程気に入ったのか、兄が英雄の手を癒す横で、恥ずかしげもなく甘い菓子を貪り食っていた。
 その様子を見るととても、かつての幼いころ、お行儀がよく品のよかった大人しい弟とも思えず、正気には見えなかった。
 今まで本当に、弟は生肉以外は口にしなかったのに、なぜ急にギリスの菓子を食うのか。
 ギリスがした話が理解できたのだとしか思いようがない。
 弟は、選んだのだ。この部屋から出られないほうの一生を。
 そう思うのは、あまりにも勝手だろうか。
 やがて命じられた侍女が三人分の朝食を運んできたが、食膳が整うころにはスフィルは眠っていた。
 気絶するように首座の前で倒れて寝たのだ。
 驚いたが、スフィルはいつになく安堵の顔で眠っているように見えた。
 結局、弟はどの席にも座らず、新しい自分の居室の首座をせしめる双子の兄に叩頭することもなかった。
 スフィルはもう何もかもが嫌なのだろう。
 頭を下げたり、絹布で締め殺されたりという諸々の万事を、考えるのが嫌なのだ。
 あの時に潔く死んでいれば、こんな苦労もなかった。
 そう思うとスィグルも苦しい気がした。
 ひとさじごとに食うかゆさえ胃に重たいほどだ。
 こんな思いをしてまで生きねばならぬ一生とは、どんなに豪華な寝台で寝ようとも、割には合わない。
 トルレッキオを去る時、随行の者たちが自分を振り返って見るのを眺め、王族らしい威厳を保ったが、内心では思った。
 工人の子であれば、トードリーズたちに付いてタンジールに帰れたのにな、と。
 英雄の子であれば、イェズラムも自分を残しては去らなかったのかもしれない。
 だが自分はあいにく、玉座の血筋に連なる者として生まれ、雄々しく生きて気高く死ぬのだ。
 その一生の、なんとつまらないことか。
 その時はそう思った。
「このかゆ、めちゃくちゃ美味うまくない? 王宮に住んでて良かった」
 嘘のような笑顔で、エル・ギリスが朝食の感想を述べていた。
 既に楽園にいるような、屈託のない笑顔だ。
 ついさっき弟を脅していたのと同じ者とは思えない。
「呑気だな、お前……鶏のかゆぐらいで」
 味のないドロドロしたものを、渋々口に運びながら、スィグルは恨言うらみごとを言う気分だった。
「すごく美味うまいよ。昨日からやけに飯が美味うまくてさ。良かった本当」
 ギリスはさわやかな朝にふさわしい、さっぱりとして晴れやかな表情でそう言った。
 手の傷は満足がいくほどは治っていない。とりあえず傷が塞がり、出血はしない程度にはなったものの、完治はしていなかった。
「施療院に行ったほうがよくないか?」
 スィグルはそれをすすめたが、ギリスは肩をすくめていた。
「お前の練習台でいいよ。治癒術も使えたほうがいいじゃん。自分で自分を治せないのか?」
「治せるよ。他人を癒すほどには治らないけど」
「じゃあ練習したほうがいいよ。何があるか分からないからさ」
 何があるんだ。理解したくなくて、スィグルは考えないようにした。
 でも、ギリスの言うとおりだった。
 使える魔法は全て研ぎ澄まし、生きるために戦う時だった。
 あのヤンファールの地下の穴蔵にいた時と同じ。自分はこれから、なりふり構わず戦うのだ。食えるものを全て食い、持てる力は全部使って。
 その先に何があるのか、まだ知らない。
 いいものであるはずがない。
 そんな気がしたが、スフィルが床に倒れ、スィグルに寄り添い丸くなって眠りながら、兄の長衣ジュラバすそを掴んでいた。
 眠るうちに、スィグルがいなくなるのを恐れるように。
 弟を守らなければ。
 脈絡なくそう思い、ついさっきいじめたくせに、自分はなんて調子がいいんだと思った。
 でも、もう二度と弟と抱き合って眠ることがなくても、ずっとスフィルを抱きしめていたかった。この弟が抱きついてくる限り。二人で生きよう。
 その話を誰かにしても、きっと分からないだろう。
 だからスィグルは黙ってかゆを食った。眠る弟の体温を、寄り添う体に感じながら。
 ギリスが美味うまいというかゆには、何の味もしない。
 それでも、鶏も麦も死にたくはなかっただろう。弱音しか吐かない弱いアンフィバロウのためになど。
 自分はそれをほふり、刈り取って食うのだから、口に入る全てを噛み砕き、喰らって腹に収め、生きねばならない。新時代の血肉と成すために。
 それがおそらく、生きるということだ。
 どんなに味気なくても。自分は生きるのだ。
 もう選んだ。死なないほうの一生を。スフィルも自分も。
 それが罪の道でも、もう歩くと決めた。弟と二人。僕は人食いレイラスだ。
 邪魔する奴はみんな、血も骨も全部、食ってやるんだ。
 それを父も母も喜ばないだろうが、そんなことはもう、どうでもよかった。

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067 天牛かみきりむし

 スフィルは力を使い果たしたように眠っていた。
 床に倒れ、渾々こんこんと眠る弟を、ギリスが寝室に運んでくれた。
 居間に寝転がしたままにしておく訳にはいなないと、スィグルが抱き上げようとしたが、案外、弟は重かった。
 こんなに痩せているのに、思いがけず重いなと苦心していたら、見かねたのか、ギリスが呆れた顔で代わってくれた。
 運ぶ間に弟を落っことしたら大事おおごとだ。怪我をするかもしれない。
 それに、そういう力仕事は王族の殿下よりも、王族の守護者である魔法戦士のほうが向いているのではないか。
 そう言い訳をしながら、奥の私室に先導する侍女に付いて一緒に行ったが、スィグルの自尊心は相当傷ついた。
 確かに体を鍛えるべきだなと深く反省した。
 王族が先陣に立つことは無いのがこの部族の建前だが、武勇で名を残した祖先もいる。
 何よりも、父である族長リューズは自ら先陣に立つ族長で、馬を駆って魔法戦士隊を率いたこともあるのだ。
 そういう英雄譚ダージがある。
 よもや嘘ではないのだろう。
 そんなことをした族長は他にいないのに、わざわざ捏造ねつぞうしてまで敢えて語るような物語と思えない。
 王族は後衛の陣から軍団を指揮するものだ。それで良いのだと皆、思っているが、勇猛な父の手前、殿下はどうだろうかと皆が様子を伺いたくなるもの道理だった。
 名君リューズの勇猛果敢な血を顕した殿下が一人でもいたか?
 あいにく、玉座の間ダロワージを埋める赤い宮廷服の群れはどれもお上品で、どちらかといえば頭脳派の殿下が揃いも揃っていた。武勇で鳴らしたり、戦陣に出た経験がある者はいない。
 だからこそ武勇があれば、父上も喜んでくださるのではないか。
 スィグルも幼い頃はそう思っていた。自分もいずれは勇猛に戦いたいと。
 それなら弓がよかろうと、生前、祖父は言い、双子の孫に弓を与えた。
 弓術は王家のほまれだ。
 太祖アンフィバロウは弓の名手で、王家では代々、弓をたしなむ。
 加えて、母方の領地も代々、弓取りの家柄だったので、スィグルも幼い頃から弓術には親しみ、腕にも自信があった。
 だが、それ以外には自信はなかった。
 それでは情けないのか、王家の男子としては。
 ギリスは明らかに、がっかりした顔だった。
「なんだよ。そんな目で見るな。僕はまだ十四歳なんだ。これからものすごく成長するかもしれない」
 無言でついてくるギリスに、いたたまれずスィグルは言った。
 ギリスは痩せたスフィルの体を軽々と横抱きにしていた。
 そりゃあ二歳も年上なのだし、ギリスは背も高いのだから、そのぐらいはできるのだろう。
 魔法戦士は魔力だけでなく、頑健がんけんであれば武術も鍛えられている。
 ギリスはいかにも丈夫そうだった。余程よほど、天使に恵まれた奴だ。
 朝飯も呆れるほど食べて、スフィルの分まで平げたし、力もありそうだった。
 しかもギリスは枯れ谷アシュギルだ。この系統の者には体格の優れた武勇の者が多い。
 父も枯れ谷アシュギルだし、太祖アンフィバロウもそうだった。部族の有名な英雄譚ダージに登場するような英雄や将軍たちにも枯れ谷アシュギルの者は多い。
 亡き大英雄イェズラムもそうだった。長身で、とても病身とは思わせない堂々たる体躯たいくだった。
 まさしく英雄を産む系統と言えた。
 ずるいではないか。生まれつきのそんな資質がある上に、子供の頃から戦士として養成されている者に、そもそも敵うはずがない。
 スィグルはそう納得して自分を慰めた。
 気休めにもならなかった。
 別に枯れ谷アシュギルだけが英雄になる訳ではない。
 祖父も違った。物静かだったが有能な武人で、スィグルと同じ、小柄で華やかな西の渓谷オズトゥーシュ系統だった。
 この血筋ゆえ無理だと言うのでは、優しかった祖父に会わせる顔がない。
「ただ生きてるだけじゃ強くならないんだぜ」
 当たり前のことをギリスは言いにくそうに言った。
 大抵のことを無遠慮にずけずけ言うやつに、言いにくそうに遠慮しながら言われると余計に傷ついた。
「わかったよ。訓練するよ。確かにこの一月ほど、僕は何にもしてなかったよ。それは認める。部屋でぐうたらしていた」
「それで体がどうにかならないほうが不思議だよ」
 どうなるというのか、ギリスは信じられないものを見るように横目で見てきた。
「僕はアンフィバロウの魔法のほうの半分を持って生まれたんだよ、きっと。残りの半分はスフィルが持ってるんだ」
 双子だからさ。そういう含みを持たせてギリスに言うと、ギリスはいかにも嘘だろうという目で、自分が運んでいるほうの王族の殿下を見ていた。
「じゃあ、お前が持ってるほうの半分を精々鍛えるんだな」
 ギリスはそう言い、納得したようだった。
 それでも、ギリスの言葉尻には、どうせ鍛えても大したことないけどなという含みが感じられて、スィグルはムッとした。
 竜の涙たちは常人の魔法を土台から馬鹿にしている。
 石のない魔法使いも部族には少なからずいたが、魔法戦士の持つ魔力に敵うものではない。
「そんな言い方しなくても……
 スィグルは渋々と呟き、侍女が開いた弟の寝室の扉の中に入っていった。
 そこは薄暗くしてあり、まるでずっと暗い夜のままのような場所で、天蓋付きの寝台が部屋の中央に置かれていた。分厚いとばりがあって、その中に引きこもれるようになっている。
 ギリスは侍女が寝台のとばりを開いて手伝う横で、案外優しい手つきでスフィルをそうっと寝かせていた。
 弟は目を覚まさず、まるでもう死んでいるように深く眠っていた。
 その天蓋の中が、見覚えのある子供部屋の様子と似ており、見上げた位置に銀の船のおもちゃが吊るされている。見れば他にも作り物の鳥や、月と星の飾り物もあった。
 トードリーズは子供部屋の寝室にあった装飾を、そのまま弟の寝台に持ってきていたのだ。
 なんでスフィルだけなんだよと、スィグルはそれにも少々ムッとしていた。
 自分はあの不気味にも思える森の中のような部屋で眠らされたのに、スフィルは少々懐かしいようなこの寝台で寝て、それでも違う場所だと、侍女にわがままを言ったようだ。
 部屋付きの侍女が丁寧にスフィルに寝具をかけてやっているのを眺め、どっちがまともな一生かと、少々悩んだ。
 弟はタンジールでずっと、優しい侍女に世話されて、何不自由なく生きていたのではないか。
 もう誰にも何も指図さしずされず、何ができなくても文句も言われない。
 気楽でいいよな。
 そう思うのも深く気がとがめて、スィグルはなるべく考えないようにした。
 自分がスフィルを羨むような理由はなかった。
 弟は病み、ここに囚われているに過ぎない。そこがどんなに安楽な寝床でも、明日をも知れぬ身であるのは、むしろ弟のほうだ。
「この寝台だけど」
 ギリスが閉じられたとばりの寝台を見て、首をかしげていた。
「お前の部屋のと全然違うよな?」
「こっちが普通なんだよ」
 天蓋があるのが普通だ。王族の部屋の寝台は皆、そうだ。子供部屋にも部屋全体を包むような美しい布地のとばりがあった。
 今、野ざらしで寝ている王族は自分だけだろう。
 トードリーズが何を思ってそうしたのか、気持ちはありがたいが、スィグルも天蓋付きの普通の寝台がよかった。
「あの工人のおっさんは、何を思ってそうしたんだ」
「知らないよ。本人に聞くしかないだろう」
 スィグルはそう答えたが、ギリスは不納得なようだった。首をかしげている。
 それでももう行かねばならず、スィグルはギリスと連れ立って弟の部屋から去った。
 そうして、ゆるゆる戻ると、すぐ隣の自分の居室の前に、ひどく怒った顔の赤い衣装の一団がいた。
 朝議への呼び出しの侍従たちだ。
 もうそんな時間かと、スィグルはぽかんとした。
 昨晩の晩餐の後に、ここまで送ってきた侍従の一団と同じ顔ぶれに思えたが、一人だけ、ひどく苛立った様子の見知らぬ者が、列から離れて立っていた。
「レイラス殿下。お急ぎください。殿下の御成おなりを待って、他の兄上様がたの列がとどこおっております」
 遅刻だった。
 朝議に遅れたわけではないが、なにしろ玉座の間ダロワージに王子を十六人運ばねばならない。
 その一人目がスィグル・レイラス殿下で、その後に待っている王子たちは、朝議につどう中では末弟であるスィグルより先に行くことはできない。宮廷序列があるからだ。
「やばいな。早くしないと尊い第一王子を走らせることになるぞ」
 ギリスが笑いをこらえている顔で呟いていた。
 それを聞いて、スィグルも思わず腹に力が入った。
 最後に玉座の間ダロワージに入る序列第一位の兄は、父よりも遅く入場することはできない。
 族長が朝議を始める時刻は、玉座の間ダロワージの時計が決めている。
 父はこの時刻を決してたがえない。王宮では、そういうものだからだ。
 したがって、スィグルが遅れれば遅れるほど、兄たちの移動時間は減り、もしも最後の兄が間に合わず朝議に遅刻すれば、父に叱責を受けるだろう。
 父リューズはひどく遅刻にうるさいし、何より、殿下の到着が遅くて朝議の開始を遅らせるなど、もってのほかだった。毎朝、部族の重大事が報告され、それに父が下命するための会合なのだ。
 ある意味では、この部族の命運を決める集まりだと言っても過言ではない。
 殿下は後学のために朝議への列席を許されているだけで、まだ若年ゆえ発言はしない。
 ただ聞くだけの見習いの者たちが遅れて来るなど、それはもってのほかだろう。
「お早く!」
 青い顔で青筋を立て、文句を言いにきたらしい見慣れぬ侍従は言った。
 ひとつ先の序列の兄のところから来たのか。それとも第一王子から叱責されて来たのか。
 どちらにせよ気の毒なことには変わりない。
 それなのに気味が良くて、スィグルは慌てて自分の列の先導役の者の後ろに行った。
 しかし早くは歩けないのだ。王族の衣装の、歩きにくい高履たかぐつのせいで。
 それを履いて真面目に歩きながら、スィグルはものすごく可笑おかしかった。
「靴を脱いで走っていくほうがいいと思うか、ギリス」
 だるそうに付いてくるギリスに、スィグルは尋ねた。
「最悪の場合は俺が背負ってってやるよ。それが一番速いと思うんだ」
 ギリスも可笑おかしいのか、遠慮なく笑っていた。
 その笑う英雄を連れて、第十六王子の隊列はしずしずと王宮の通路を出発した。
 しかし玉座の間ダロワージ居室ここから恐ろしく遠いのだ。
 それが笑いをこらえるのが難しいほどの遠さで、そもそもそのひどく遠方の居室をスィグルに与えたのが、己の権勢を見せつけるために、わざとそうした者たちの差金さしがねかと思うと、その者たちが今は朝議への遅刻を恐れて、広間近くの居室でそれぞれ戦々恐々せんせんきょうきょうと足踏みしているのが可笑おかしく、スィグルはにやにやしながら歩くしかなかった。
 愉快だな、今朝はまったく。
 笑っている場合でもないが、兄たちに済まないという気は一向にしない。
 自分の性格がひどく悪いのだと自覚せざるを得なかった。
「今、何時だ?」
 ギリスが気味よさげに聞いて来て、スィグルはそれにも吹き出しかけた。
「お前がのんびり鶏のかゆを食ってるからだよ。意地汚く二杯も食うせいで遅くなったんだ」
 スィグルが歩きながら咎めると、ギリスは少々、申し訳なさそうにした。
「だって美味うまかったんだもん。食い物を粗末にしちゃいけないんだぞ。でも、お前の弟の殿下と話すのは、別に今朝でなくてもよかったよな。今、気づいたんだけど……
 ギリスは叱責を待つ子供のような顔で、しおしおと言ってきた。
 それを叱る気にはなれず、スィグルは微笑んでいた。
「そうだよな。反省しろ。でもまあ、いいんじゃないか。いずれ話さないといけないことではあったんだ」
 内心まだ腹は立っていたのだが、なぜかギリスを叱る気になれない。本当に反省しているみたいだったからだ。
 まあいいじゃないかと言ってやりたくなる。
 その笑う顔を見て、ギリスはちょっと困っているみたいだった。
「でもさ、やっぱり今朝じゃなくないか?」
 ギリスは淡い笑みのままだが、いかにも気まずそうだった。
 わざとではなかったらしい。
 どういう頭で考えたら、こうなるのかと、スィグルは驚きながら呆れたが、それはもう問わないことにした。
 イカれてるんだろう、こいつは。生まれつき、こういう奴なのだ。英雄だから。
 石のある奴に文句を言っても無駄だ。本人のせいじゃない。天使が決めたことだと、部族では言い習わす。
 それにしても悪気なく、こんな事態を招くとは、エル・ギリスもなかなかの術者だった。
 何かが愉快で、スィグルはにやにやする笑いが止まらなかった。
「気にするな、エル・ギリス。大事な話だったし、大事なかゆだったんだ」
 頷いてそう許すと、ギリスは少々、ほっとしたように笑っていた。
「まあ、鶏のかゆだったしな……
 よほどの好物だったのか、英雄がそう呟いて納得するのに、スィグルは耐えきれず吹き出した。
「面白い奴だよ、お前は。でもちょっと急ごうか。しょうがないから靴を脱ぐよ」
 他に手伝える者もいないので、スィグルは仕方なくギリスに靴を引っ張ってもらった。
 呼び出しの侍従は殿下を連れ回す権利はあっても、王族の体に触れていい役職ではないので、靴一つ脱がせられないのだ。掟破おきてやぶりを恐れて手を出したがらない。馬鹿馬鹿しい話だった。
 王族の体や着衣に触れてよいのは侍女だけだった。そういう決まりだ。
 だから誰もスィグルのすそを持ってくれないのだ。
 晩餐の大礼装と違い、朝議の席で着るのは略礼装で、長いすそを引いていない。だから着席の時に着衣を整えるための侍女が隊列の最後にいないのだ。
 でも現実には足にまとわりつく長裾ながすそがある。すそを持たずに走れるものではない。
 確か王子の服装を朝議では戦場で着る略礼装に格下げしたのは、父上だったはずだ。
 息子たちが朝議の前に、着席に時間を食うのが父は嫌だったのだろう。
 でも、父上ですら手ぬるかった。まだまだ走りにくい。
 スィグルは自分の赤い礼服のすそをからげて走らねばならず、脱いだ豪華な靴はギリスが持ってくれた。
 侍従たちもまさか走らされるとは思いもよらなかったのだろう。
 走れと命じると、ギリスは素直に付いてきたが、侍従たちは死を命じられたように青ざめた。
 それでも命じた王子が走り出すと、その先を走らぬわけにもいかないのだろう。
 王子の先触れとして列の先頭を務めるのが、彼らの役目だ。王子に追い抜かれては仕事にならない。
 スィグル・レイラスの紋章がついた旗印を掲げた先頭の者は、宮廷暮らしで体がなまっているのか、走らされて青い顔でぜえぜえ言っている。
 単にあまりの出来事に気が動転して、息が詰まるのかもしれなかった。
 だが時間を作るには、僕は走るしかない。スィグルはそう思い、そのまま王宮の通路を走り続けた。
 そしてやがて、おそらく第十五王子と思われる列と、途中の四辻よつつじで行き合った。
 赤い侍従の群れが隊列を組み、怒った顔で立ち止まっている。
 旗印には天牛かみきりむしの紋章が掲げられていた。すぐ上の兄の紋章だ。
「先に行かれますか兄上」
 スィグルは聞くしかなくて聞いた。
「お前が先に行け」
 列のどこかから怒声が返って来た。
 それにギリスがびっくりした顔をした。
「ダメだ。列が行き合った時は年長者が先に行くんだそ。そっちが先だ」
 ギリスが細かい宮廷儀礼についての物言いをつけていた。
 がさつで大雑把なくせに、こんな時だけ変に細かい。
「永遠の蛇の御前で順番を入れ替えるのは面倒だ。先へ行け」
 さらに怒った声で、兄と思われる声が答えてきた。
 ギリスに命じる口調だ。王族なのだから、当然と言えた。それとも兄は弟に命じたのかもしれなかった。
 同い年だが、一応数日は年長だったはずだ。それゆえに命じる権利がある。
 妙なものだが、仕方がない。スィグルは長年、それを不思議とは思ってこなかった。
 宮廷儀礼だ。仕方がないと思っていたのだ。
「扉で待たないで、そっちが先に玉座の間ダロワージに入ればいいじゃないか?」
 ギリスはきょとんとして聞いている。
 本気かこいつとスィグルは驚いた。
 序列を譲れと言っているみたいに聞こえるぞ。
 末席の者から入場するしきたりだ。目下の者が叩頭して兄を出迎えるのだ。
 もし先に第十五王子が広間に入れば、スィグル・レイラスはこの兄にいつ叩頭するのか。
 それはまだ早い。
 スィグルはそう思い、もう走りはじめた。時間はないのだ。
「先に参ります。お許しを」
 頭礼だけして詫びると、天牛かみきりむしの隊列は苦い顔だった。
 しかし、眼前を無礼に飛び去る雀蜂すずめばちの旗印を黙って見送っている。
「お前とここで会っていない」
 怒ってはいるが冷静な声で、兄が答えてきた。
 その姿は人垣の向こうで良くは見えないが、侍従が王子にこんな口をけるはずはない。
 だから第十五王子、本人だ。顔は知っているが、兄と話すのは初めてだった。
「すごい。兄上から初めてお言葉を頂戴ちょうだいしたよ」
 隣を走ってくるギリスに、スィグルは軽く興奮して教えた。
「どういう兄弟なんだ、お前らは」
 ギリスは伴走し、靴を持って首をひねっていたが、彼らには王族のことは分からないのかもしれなかった。
 兄と口をいて、図らずもスィグルは胸が痛んだ。
 何かが切ない。
 第十五王子は怒ってはいたが、悪い相手とは思えなかった。
 その声を聞くかぎり、兄は自分と同い年の少年で、まるでトルレッキオで見た学友たちのようだ。
 同じ境遇の兄弟なのだ。
 それを自分は殺そうとしている。
 相手もそうだ。
 こんな近しい者同士で、醜くいがみ合っているのだ。
 その先の道で、他の兄たちとは出会わなかったが、会えばきっと皆同じだろうと思えた。
 同じ血を引く者たちが、そう違うはずがない。
 トルレッキオでは自分は、かつての宿敵であった者たちとも友誼ゆうぎを結んで戻ったのだ。
 肌の色も、話す言葉さえ違うような連中だった。考え方も違っていた。部族の風習も、まるで全然違うのだ。
 それでも同じ食卓で毎日食事をし、笑い合って話した。
 それができたのに、同じ血の者同士で、気の合わない訳があるだろうか。
 なんのための兄弟だ。
 王宮に引き取られた孤児の群れである英雄たちは、全く血縁のない者同士で、兄弟のように生きている。
 双子の兄弟の固い絆でこの王朝を開いたというアンフィバロウの末裔たちが、今はなぜ同じようにできないのか。
 永遠の蛇の紋章のある大扉の前に駆けつき、スィグルは上がった息を整えながら、ギリスに靴を履かせてもらった。
 自分では履けないのだから仕方がない。
「悪いね、こんなの英雄の仕事じゃないだろうけど」
 ぜえぜえ言っている自分の横で、侍女の役目を終えたギリスは平然と立ち上がって、息も切らしてはいなかった。
「別にいいけど。王宮の廊下を走っちゃダメなんだぜ。忘れたのか?」
 ギリスは今更、とがめる口調だった。
 自分だって一緒に走ってきたくせに、僕のせいにする気か?
 お前も止めなかったじゃないか。そういう目でギリスを見上げたが、英雄は少々気まずげな苦い顔だった。
 賛成じゃなかったのか、ギリス。びっくりしてスィグルは英雄を見た。
「え……でも、遅れるよりいいだろ?」
 慌ててスィグルが言うと、ギリスは苦いものでも食ったような顔をしていた。
「そうだけど……バレたらデンに殴られちゃうよ。バレなきゃいいけど」
 ギリスは真剣に心配しているようだった。走った程度で殴られるのか?
 魔法戦士も大変なんだなと、スィグルは同情した。
「僕のせいだって言えばいいよ。命令されたし逆らえなかったって。お前が悪いんじゃない」
 ギリスが可哀想な気がして、スィグルはそう答えた。
 納得いかないなら、誰だろうと殴りに来ればいい。その時はギリスにはこっちに加勢してもらいたいが、そのぐらいはしてくれるのだろうな。僕の氷の蛇は……
 そう思ったが、エル・ギリスの心情はまだ、スィグルには到底計り知れなかった。
「第十六王子スィグル・レイラス殿下のご来臨」
 呼び出しの侍従の声が広間に響き渡るのが聞こえた。
 もう行かねばならない。汗を拭く間もなかった。
 思わず手で拭うと、ギリスが渋面で懐から出した手布をこちらに差し出してきた。
 びしっと火伸しされた白い亜麻布あまぬので、何となく常に気怠けだるげに見える雑なギリスの風体ふうていからは見当もつかない、清潔な代物しろものだった。
「ありがとう、ギリス」
 スィグルは感謝して手布を受け取った。
 今日も早速ありがたい、射手いての忠誠心だった。

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068 蟷螂かまきり

 晩餐とは違い、玉座の間ダロワージには廷臣たちが既に整列して待っていた。
 朝議の広間は部族領の縮図だ。
 親しい者同士が集まって談笑するような席とは違い、皆が厳格な序列に従い、盤上の将棋の駒のように居並んでいる。魔法戦士に、地方候の代官、将軍たち、官僚たち、そして博士たち。
 その中で、英雄たちの席が王族の隣であることに変わりはないが、そこには寛いで座る英雄たちの姿はなく、代わりに各派閥の代表的な者と思われる英雄たちが少数、正装して座していた。
 長老会の者たちはいない。
 彼らが列席する場合、英雄の席ではなく、玉座の側の高段の上に侍るしきたりだ。
 エル・イェズラムも多くの場合はそこにいて、スィグルの父、族長リューズ・スィノニムを守っていた。
 だがこちらの射手ディノトリスはというと、もちろん高段に侍る訳はない。スィグルの席に一緒に座るのでもなかった。
 ギリスは英雄たちの席に行くのだ。
 髑髏馬ノルディラーンばつの末席にギリスが座るのを見て、スィグルは自分のための王族の席から、意外な気分になっていた。
 自分は一体、ギリスを何だと思っていたのか、派閥でも首座とは言わないまでも、そんな末席にいるとは思っていなかった。
 だが、実は当然のことだった。
 ギリスはまだ少年と言える年頃だったし、英雄たちの区画の筆頭の座を占める髑髏馬ノルディラーンばつには今も、ギリスよりずっと年上の魔法戦士たちがいた。
 英雄たちの序列は戦功で決まるはずだが、それは実質的に年齢順でもあった。長く生きて活躍できた者の方が、多くの戦績を残せるのは当然だった。
 エル・ギリスにはまだ、ヤンファールのいさおしがあるだけだ。
 大勝利の華々しいうただが、それもただ一作のうたでしかないとも言える。
 ヤンファールの故に、ギリスが髑髏馬ノルディラーン派閥長デンになれる訳はないし、もっと大きなきらめく石を頭部に生やした年嵩としかさの英雄たちがギリスより前にいた。
 だがそのデンたちは、ギリスを無視はしなかった。
 仲間内の席に戻ってきたギリスを、皆が振り向いて迎え、頷く者もいた。
 そこにもうエル・ジェレフの姿はなかったが、ギリスのデンである者たちは別にジェレフだけではないようだ。
 一体その誰が王宮を走ったせいでギリスを殴るのか、スィグルには不思議だった。
 彼らは特に怒るでもなく、戻ってきたギリスに席を与えて、いかにも自分たちのジョットであるというふうに、座る隊列の中央の列に座らせた。
 他の派閥にはギリスと同じぐらいの年齢の者はいない。
 おそらく英雄たちの中で、エル・ギリスは最年少なのではないかと思え、そう思ってからスィグルは縦に長い広間である玉座の間ダロワージの遠い向こうのほうにいる、銀狐エドロワばつの者たちに気づいた。
 その先頭の席に、目隠しをした少年が座っていた。
 アイアランだ。おそらく。
 何故いるのかと、スィグルは不思議に思った。
 昨日の朝には居なかったと思う。
 ギリスも居なかったが、アイアランもまだ、そこには居なかった。
 今朝はもう、何かが違うのだ。
 それがなぜかを長く考える余裕はない。次々に王族の兄たちが到着してきた。それを叩頭して出迎える必要があり、スィグルは末席で何度も平伏しなくてはならなかった。
 その誰もが、スィグルを無視し、あるいは答礼もせず酷く怒った目で睨んできた。
 どれもこれも高貴なる美貌であったが、旗印を掲げた侍従に先導され、スィグルを憎んでいるようだった。
 殴ってこそ来ないが、だからといってギリスの派閥のデンたちより気の良い兄たちとは言えない。
 これが廷臣の皆の見ている前でなければ、殴ってやるぞという目で見てくる兄もいた。
 それが流行病はやりやまいで美貌にきずがあるという、青ざめたただれのある顔の兄だったので、すごまれてスィグルは身が縮んだ。
 確かにもう美貌ではないが、元が美貌だっただけに、腫物はれものに崩れた顔になお一層の凄みがあり、むしろ玉座に向いているのではないかと思われるほどだった。
 父上は異民族からは砂漠の黒い悪魔と恐れられているが、実際の容貌は悪魔とは程遠い、凛々りりしい美貌で、微笑むとまるで華麗な花のようだ。
 さっきの兄の方が砂漠の黒い悪魔の名を継ぐのに相応ふさわしい威圧感がある。
 御面相ごめんそうがどうのこうのというのは、悪意の者が後宮や侍女に流した噂かもしれない。
 兄が即位を諦めていないのは目を見れば分かる。
 殺してやるという目だった。
 既にもう気迫で負けそうだ。
 そんな気まずい入場の合間を縫って、清楚に着飾った玉座の間ダロワージの侍女が、スィグルに冷たい銀杯を持ってきてくれた。
 喉が渇いておいでではと侍女は小声で言った。
 その顔が美しかったので、スィグルはしばし見つめた。
 西の渓谷オズトゥーシュ系統だ。
 祖父や母と同じ領地の出身の者なのかもしれなかった。
 あいにく王都タンジールは古く巨大な街で、顔立ちや体つきの系統だけで、出身を判断できるものではなかったが、それでも、かつて太祖に付き従ったという黎明の十二氏族の中で、元は同じ血筋の者かと思うと、他より親しみが持てた。
 向こうもそうなのか、玉座の間で兄に睨まれている末の王子を哀れんでか、冷たい水を恵んでくれた。
 走った後なので喉が乾いており、ありがたかった。
 もし自分が即位したら、その暁にはあの侍女に英雄譚ダージをやってもいい。
 スィグルは自分の心の中でだけ、その冗談を言った。
 誰も聞くものはいないのだから、何を考えようが自由なはずだった。
 しかし、そうしてひとりで微笑んでいると、自分の前に立ち止まる者がいた。
 それに気づいて、スィグルは慌てて飲み残しの銀杯を置き、平伏した。
 相手の顔は見なかったが、金色の蟷螂かまきりが描かれた旗印が見えた。
 第一王子だ。
 呑気に笑いながら水など飲んでいる場合ではなかった。
 玉座の間の時計は、あとわずかで族長リューズの来臨だと告げている。
 それでも兄はなぜか、スィグルの前で立ち止まっていた。
 叩頭からゆっくり顔をあげると、こちらを睥睨へいげいしていた兄と目が合った。
暗い紫の目だ。
王家の目と称えられる黄金の蛇眼じゃがんではないが、それでも十分に支配者の一族の者らしい、強い眼光だった。
 しかも怒っている。
 確実にそうだ。
 それを感じて、スィグルは真顔で兄を見つめた。
 怯えた風情の侍従が捧げ持っている兄の旗印の蟷螂かまきりが、黄金の鎌を振り上げて、こちらを威嚇いかくしていた。
「兄上……
 挨拶すべきかと、スィグルは戸惑って声をかけた。
 思わず話しかけたが、そんなことをしていいのか分からなかった。
 我ながら、覇気のない小声だった。
 玉座の間ダロワージが見ている気がした。
 末弟と見つめ合う第一王子の行列を。
「今朝も息災か、スィグル・レイラス」
 兄の美声が穏やかにも思える言葉で語りかけてきた。
 しかし目はものすごく怒っている。
 声が父上に似ていた。そっくりと言ってもいい。兄は父の美声をいくらか受け継いだらしい。
 それとも似せているのかもしれなかった。全く同じというほどでもない。
「はい。幸い、天使のお恵みをもちまして」
 スィグルは慣用句で答えたつもりだったが、気まずい一言だった。
 猊下げいかを持ち出すべきではなかった。この際、聞き流してもらいたい。
 まるで自分は天使と格別の仲だぞと言っているみたいだ。
 実際そうなのだが、自慢してどうする。猊下げいかはここにいないのだし、別に味方はしてくれない。
 そう思ったが、まさに後悔は先に立たずだ。
 こちらを見ている兄の目が、馬鹿にするように、それでいて恐れるように、憎しみの色を増した気がした。
 やめて。兄上。遅刻しますよ。
 そう言いたい気持ちだったが、もちろん言うべきではない。
 時計の針に追われて、兄はさっさと自分の席に行くだろうと思えた。早く着席して待たないと、父上がお出ましになる。着席して居住まいを正し、叩頭して待つのだ。兄もよく知っているはずだった。
 しかし兄は目を細めて憎々しげにスィグルを見下ろして睨み、すぐそこにあった銀杯を蹴ってきた。
 素足で。
 その尊いおみ足が靴を履いていなかったのに、スィグルはぎょっとした。
 兄はこらえているが、息が切れていた。汗もかいている。
 走ったからだと思えた。
 そういえば十五人いる兄たちの到着には波があった。全員が次々とやって来たわけではないのだ。
 途中、わざとゆっくり来た者がいたらしい。
 そうすれば、スィグルに罪を押し付けて、第一王子を遅参させられるかもしれないからだ。
 良い機会だったのだろう。誰がどのぐらい遅れて来たか、スィグルには分からなかった。
 ボケっとしてたなと、スィグルは反省した。それぐらい見ておくべきだったか。
 でも我が血統の長兄が、スィグルを憎んだらしいのは明らかだった。
 もう堪えていられないのか、兄の息は荒かったし、額冠ティアラを被った額から明らかに汗が流れ落ちている。
 兄の隊列に靴を持っている者はいなかった。
 侍従しかいないのだから、当然か。
 気の毒にも兄は、自分で靴を脱いで、それを王宮のどこかに捨ててきたのだ。
「申し訳ありませんでした。お使いになりますか」
 居たたまれず、スィグルは自分がまだ懐に持っていたギリスの手布を、かなり気まずく兄に差し出した。
 もう汗をふいちゃったけど、他に持ってないんだから、しょうがない。
 それが兄にバレるはずがないのに、そこで第一王子の我慢の限界だったようだ。
 スィグルが手に持っていた亜麻布あまぬのが、ぼうっと炎を上げた。
 ぎょっとしてスィグルは自分が持っている燃える布を見つめた。
 火事だ。しかも火炎術だった。
 玉座の間ダロワージで火災はまずい。
 スィグルは考える間もなく、自分の席の絨毯に転がっていた空っぽの銀杯に燃える布を突っ込み、こぼれた水に濡れた絨毯の上に伏せた。
 濡れた絨毯は燃えないし、息ができない火は消えるはずだった。
 思ったとおり、火はすぐに消えた。
 それを見て、ほっとしたのか、悔しかったのか分からない表情で、兄は足速にスィグルの席の前から去り、自分の座がある場所へと向かっていった。
 玉座をすぐ間近に見上げることができる、王子たちの中で最も上座にあたる席だ。
 そこに兄が着くのと、玉座の間ダロワージの時計が時を打つのが、ほぼ同時だった。
 呼び出しの侍従が高らかに、族長リューズ・スィノニムの来臨を告げた。


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069 叱責

 高段に現れた父は、今朝は魔法戦士を連れていなかった。
 父の廷臣は何も魔法戦士だけではない。
 王宮の広間に侍ることを許された忠臣には、軍人もいれば官僚もいた。
 今朝はその中から、父は軍の者たちを連れていた。
 それが誰なのか、スィグルには詳しく分からない者もいたが、とにかく軍装しており、皆、礼装用の甲冑をつけていた。
 魔法戦士は武装しては現れないが、将軍たちは華麗な祭礼用の鎧を身にまとっている。
 まるで広間で戦いごっこでもするみたいだと、子供の頃には思ったものだった。
 彼らは本当に出陣する際には、もっと別の実際的な武具を身につけている。美しい色糸で彩られた祭礼用の甲冑は、いわば彼らの宮廷服のようなものだ。
 魔法戦士の礼装と同じ意味合いで、彼らの身分や出身を明らかにするためにある。
 武装の様子から見て、彼らは領境の氏族の者たちだった。
「父上、おはようございます」
 つい先ほど座ったばかりとは思えない落ち着きで、まだ息も切れているのではという第一王子が高段の父に挨拶をした。
 極めて簡潔な口上だ。
 簡潔にせよというのが父の命令だったからだ。
 父はよほど忙しいのか、無駄とおぼしき口上のたぐいを、息子たちに一切求めなかった。
 高段でにこりとして、父は第一王子を眺め、それから広間にいる息子たち全員を見てきた。
 スィグルのことも父は一瞬見ただろう。でも一瞬だった。
 それで何が分かるのかと思うが、族長リューズは満足したように頷いて見えた。
「朝議を始めよ」
 息子たちにはそれ以上、言うべきことがなかったのか、父は廷臣たちに命じた。
 官僚や軍人たちが広間の中央を走る赤い絨毯の敷かれた通路に進み出て、跪拝叩頭きはいこうとうし、それぞれの用件を話していった。
 それは麦の収穫のことであったり、税のことであったり、軍の給与のことであったりもした。
 ある地方に麦の病害が広がりつつあり、そこに農学の博士を遣わすように父が命じたり、民が不満を持っているらしいという街に、彼らと話し合わせるため、英雄たちの巡察団を派遣したりした。
 おそらく同じような理由で、エル・ジェレフもどこかに旅立ったのだろうなと、スィグルは話を聞きながら思った。
 英雄たちは民と玉座をつなぐ、王宮の貴人でありながら、平民とも対等の存在だ。
 スィグルにとってもエル・ジェレフは部族の英雄だったが、それをあおぎ見る時には平民も王族もない。
 英雄たちがやってくると、民は無条件で喜ぶのだ。
 それはスィグルも知っていた。
 いつか自分が人質の王子として、タンジールを旅立つ時も、それを見送る英雄たちの行列に民は熱狂したし、少ない随行ずいこうの者だけになった後も、領境を目指す旅の一団にいる英雄たちに、道中の街では歓迎の式典まで用意されていた。
 スィグルにはそれが自分への歓迎とは思えなかった。
 民は、ありがたい王族の殿下が通るのも出迎えてくれたが、誰だかわからない小さなアンフィバロウよりも、英雄譚ダージに名高い英雄たちが自分の街にやって来ることが嬉しかったのだ。
 父もそれを良く知っていて、名のある英雄たちを使節として派遣しているのだろう。
 徴兵する軍人や、徴税をする官僚が来ても民は喜ばないが、英雄なら歓迎してくれる。自分たちの守護者だと見做みなしているからだ。
 彼らは民から何も奪わない。ただただ与えるだけだ。
 魔法による守護と英雄譚ダージを与え、最後にはその身と命を与えて、老いることなく去っていく者たちだ。
 民はそれを痛ましく思い、同時に頼もしくも思っている。
 朝議には実にさまざまの議案が持ち込まれた。
 高段にはべる者たちは、領境からの族長の軍の撤退を心許こころもとなく思うという話を持って来ていた。
 軍の撤退は天使の命令で、守らねばならぬ約定やくじょうだった。
 戦いのない場所に多くの兵を駐屯させ続けるのは難しい。王都からの補給を運び続けねばならず、ただ遊んでいる兵を、彼らが帰りたいと願う故郷から遠い場所で養い続けねばならない。
 もしも敵の総軍が襲って来たら、現地の兵だけでは抑えきれぬという話を華麗な甲冑の者たちが広間の皆に問うていた。
 兵たちを故郷に帰らせるのは、まだ早すぎると。
 停戦よりたったの二年、戦いが止むとは皆、思えないのだった。
 もっともなことと、父はその話を皆にした軍装の者たちを褒めた。忠義であると。
 しかしこの場で即刻、結論の出る話ではない。
 それに、結論を出すのは父の仕事だった。
 皆と話し合って決める族長はいない。
 父は治世の参考にするため、広く皆の意見を聞いている。それをどう考慮するかは、族長である父の一存だ。
 皆はその決定に従うのみで、この部族はずっとその独裁によって運営されてきた。
 天使を除けば、この広間で父は唯一にして絶対的な権力を与えられた、生身の男だった。
 誰もその決定に逆らうことはできない。
 だがもちろん、侃侃諤諤かんかんがくがくの議論はある。
 後宮を出て、子供部屋に移った七歳の頃から、自分たち王族の殿下は朝議に臨席してきたが、時には大人たちの掴み合いの大喧嘩になるような、激しい議論を目の当たりにすることもあった。
 気の弱い王子などは、しくしくと泣き出したし、双子の弟のスフィルもいつもスィグルの隣で青い顔をしていた。
 大人たちの激論が怖くないわけはない。
 以前は意味の分からない話も多かった。
 それでも、彼らが別に無意味な喧嘩をしている訳ではないのは、スィグルには何となく分かっていた。
 徹底的に話し合わねばならないことは、大人たちには多いのだ。
 もしかしたら子供にもそうだったかもしれず、スィグルは黙り込んで聞く人形のような、大人しい王族の殿下の席を眺めた。
 自分たちはいつ頃から、この議論に発言を許されるのだろうか。
 黙って聞くように言われて来たが、真面目に話を聞いていると、スィグルには時折、反論や意見があった。
 黙っていろと言われているので、黙っているが、もし父に意見を求められたら、何か言いたい気がすることは、時々あったのだ。
 領境の軍備はどうすればいいのだろう。
 スィグルには分からなかったが、でも猊下げいかは軍を撤退させろと四部族フォルト・フィアに命じているのだ。兵を帰らせてはどうか。
 兵士は帰りたいのではないか。
 スィグルが子供の頃に好きだった、父が兵士と兵糧ひょうろうを分け合うくだりのある英雄譚タージでも、兵は泣き、故郷の母を懐かしんでいる。
 それに父は、そなたも自分も明日には戦場の骨かもしれぬが、そなたの母のために戦うと言う。故郷を守るために戦っているのだという物語だ。
 その父が、侵略者だという天使ブラン・アムリネスの意見には、実はいまだに納得はしていない。
 こちらは、侵略されていたから戦ったまでで、別に森を侵略しようとはしていない。
 もしも父が森の希望都イル・エレンシオンを攻めていたとしても、それは野心からではなく、千年も部族を襲い続けていた敵を殲滅せんめつしたいがためだ。
 彼らが戦いをやめるなら、こちらも戦わない。
 スィグルはそう思っていた。
 森など欲しくはない。
 父が欲しかったのは、どちらかと言えば、山の部族との境にある広大な平原のほうだっただろう。
 そこでは麦が育つ。
 山の民は大してその沃野よくやを活用していない。
 多少の木は生えているが、全て開墾して麦畑に変えれば、どれほど多くの民を養えるかわからない。
 おあつらえ向きの川もある。
 だから、山の族長ハルペグ・オルロイが父を侵略者と言うなら、まだ百歩譲ってもよいが、森の者たちに言われたくなかった。
 言い伝えによれば、あの森エルフが住む森は特殊な魔法があり、入ると馬鹿になるらしい。
 愚かな奴隷に逆戻りするのだと、黒エルフの民は恐れており、森へ行きたいと願う者はいない。
 あの森は忌まわしいのだ。北方の沃野よくやとは違って。
 しかし今さら、北の平原を攻めるわけにはいかない。
 何と言っても天使ブラン・アムリネスの直轄地ちょっかつちだ。
 猊下げいかに喧嘩を売れば、一撃で滅ぼされる。天使だけが使う魔法、天の槍ディノス・アシュワスで。
 だが万が一、そこが天使の領土でも、猊下げいかがこちらの部族の入植を許すのであれば、刈り取った麦はこちらのものではないのか。
 僕らは土が欲しいのではない。実った麦が欲しい。
 仮に天使に借地料を支払ったとしても、それが侵略のための軍費や、そのために死ぬ者たちの命より安ければ、僕らはもうかるのではないか。
 部族の墓所ではなく、穀物蔵こくもつぐらを満たせるのだ。
 それは子供の夢物語か。
 そうかもしれなかった。
「スィグル・レイラス」
 父が急に名を呼んだ。
 聞き違いかと思い、スィグルはびくりとした。
 朝議で族長が息子たちに声をかけることはない。今までは無かった。
 あるとしたら、何かの褒賞ほうしょうで、特にお言葉をたまわる時か、もしくは皆の前で叱責を受ける場合だ。
 殿下に何か、皆にびねばならない非礼があった時には、父はわざと皆の前で息子に声をかける。
 いつぞやは兄の誰だかが、家臣の名馬を奪った際に、厳しい叱責があった。人の馬を盗むなと。
 それにまだ幼かった兄は泣いて謝っていたが、今回は何なのだ。
 スィグルは誰の馬も盗んだ覚えはなかったが、叱られる心当たりなら、幾つもあった。
「お前にひとつ、尋ねるべきことがある」
 父は怒っているとも喜んでいるとも分からない真顔で、こちらを見ていた。
 座って聞くわけにはいかなかった。
 スィグルは席で叩頭し、それから玉座の前に進み出て、再び跪拝叩頭きはいこうとうした。
 その謁見えっけんの席から見上げると、父は天使よりも恐ろしく見えた。
 天使は謝れば許してくれるような気安い相手だが、父リューズはスィグルを廃嫡はいちゃくしたり、タンジールから永遠に追放することもできる。
 猊下げいかのほうがマシなんだなと、スィグルは驚いて思った。
鷹通信タヒルを飛ばしたそうだな。どこへ?」
 父の真顔での下問かもんに、スィグルは自分の喉がひっと小さな息をつくのを感じた。
 飛ばした。それが何か?
 そう思ったが、鷹はもうトルレッキオに飛び立った後だ。シェラジールはもう随分遠くへ行っただろう。
「トルレッキオの……友に」
 スィグルはそれだけやっと口に出したが、叱られなくてももう、父が何を言おうとしているのか分かった。
 今までなぜ考えなかったのか、そっちのほうが不思議だった。
「それは誰だ。何と書いた」
 困ったような笑みで、父は尋ねて来た。
「皆に無断で、天使に何をしらせた」
 父は微笑んでいたが、怒っているのかもしれなかった。
 さっきの兄たちのように、凄んで見せたり、銀杯を蹴飛ばしてきたりはしないが、父は困った息子を見る目をしていた。
 そのほうが、凄まれたり殴られたりするより、スィグルにはずっとこたえた。
 僕はずっと、父上のお気に入りの息子になりたかっただけなのに、なぜかそういうふうにはなれない。
「エル・ギリスのことを」
 スィグルは嘘をつく気はなく、正直に話した。
 それに父リューズは分からないという顔になった。
 父の予想を超えることだったらしい。
 そんなことがあるのかと、スィグルは困惑した。
 父上に何だと思われていたのだろうか。猊下げいかへの手紙に何を書いたと?
「ギリスと喧嘩けんかをしたので、許せなくて、天使に告げ口をしました。ギリスを許すべきか、鷹通信タヒルで尋ねただけです」
「そんなことは聖堂で祈ればよいのではないか?」
 父は首をかしげたまま尋ねてきた。もっともな話だ。
 天使ブラン・アムリネスは聴罪ちょうざいの天使で、それに仕える大勢の聴罪司祭ちょうざいしさいデンでもあり、各地にその手下がいる。
 タンジールの礼拝堂にも聴罪司祭がいて、必要があれば天使の代わりに罪の告白を聞く。
 慈悲深い天使はきっとおゆるしになるであろうと、司祭たちは言うが、もちろん確約ではない。
 父の独裁と似て、天使が許すかどうかは、天使にしか決められないのだ。
「厳密に知りたかったので」
 スィグルは玉座の父を見上げて、説明した。
 言い訳するようなことは何もないはずだ。正直に話せば良い。
 それでも声が震えている気がして、スィグルは腹に力をこめた。
 皆の前で話せというなら、話すしかない。
「ギリスは僕の部屋の衛兵を蹴り倒したのです。弱いって文句をつけて。それに僕の……弟のスフィルのですが、侍女たちも怖がらせました。そんな非礼を許すべきか、天使に尋ねようと思って、鷹を飛ばしたんです」
「なぜそんなことをしたんだ」
 答える父は唖然として見えた。
 それが、何を責めているのか、言葉が少なすぎて分からない。
「なぜかは、ギリスに聞いてください。僕も知りません」
「そうではない。息子よ。なぜそんな瑣末さまつなことを、ブラン・アムリネス猊下げいかにお尋ねするのだ」
 父は本当に訳がわからないという顔で、でも興味深げにしていた。
 玉座の肘掛けにもたれ、耳飾りをいじっている。深い興味がある時や、考え込む時の族長リューズの癖だ。
 その、ちょっとしどけないさまが、かっこいいなとスィグルは内心思っていた。考え事をしている時の父上の姿だ。
 いつもと違う、興味深いものを見る目でじっと父に見下ろされて、スィグルは困った。
「なぜって……何かあったら相談して良いと、ブラン・アムリネス猊下げいかとお約束したのです。助け合うと」
「何を助け合うのだ、天使と。では四部族フォルト・フィア同盟を無かったことにしてほしいと、天使に頼んでくれまいか?」
 父が皮肉な笑顔で言うと、広間ダロワージが笑った。ざわめくように静かに。
 悪い冗談だったのだろう。
 父上は時々、悪い冗談を言う。
 そこが自分と似ているのかなと、時々ちらりと思うほどだ。
「それは頼めませんが……
 スィグルはうつむいて、歯切れ悪く答えるしかなかった。
 それはさすがに、スィグルが頼んだ程度では、猊下げいかは再考しないだろう。
 父もそれは分かっているようだった。
 まだ皮肉な笑みだったが、父はもう怒っているようではなかった。
「やむを得まい。ブラン・アムリネス猊下げいかの神聖なる御心みこころだ。こちらの都合で左右しようというのは不敬であるな、息子よ」
「はい……
「だが、天使は今もそなたの友か」
 父はもう笑っていない顔で聞いて来た。黄金の目がまるで射るようで、それと見交わすのにスィグルは苦労した。
「おそらく」
 自信がない訳ではないが、自信をもって断言することでもない気がして、スィグルは曖昧あいまいに答えた。
「返事が来ると思うか?」
「わかりませんが、来るはずです」
 謁見えっけんの席で小さくなって、スィグルは答えた。
「結構。トルレッキオよりシェラジールが戻ったら、天使の返信を皆にも見せよ」
 父がそう命じた。
「皆にですか」
 スィグルはたじろいで聞いた。
 もし返信に猊下げいかが変なことを書いてきていたら、どうなるのだ。
「そなたが敵と密通していると疑う者がいる。また、それとは別に、そなたが天使の密偵であると疑う者がいる。潔白であるなら、皆の前でそれを証明せよ」
 スィグルはそう言われて、しばし唖然とした。
 敵と密通。天使の密偵?
 どういう意味だ。
 ギリスの悪事を天使に告げ口したつもりが、なぜか僕が責められてる。
 ちょっと待てよと、スィグルは過去に覚えのない種類の汗をかき、思わず英雄たちの席を振り返った。
 そこにいるはずのエル・ギリスを。
 ギリスはじっとこちらを見ていたが、何も知らないというように、両掌りょうてのひらを見せて肩をすくめる降参の身振りをした。
 それが高段の父にも見えたのだろう。広間の皆もギリスを見ていた。
「エル・ギリス。俺の息子の言った事は本当か」
 父はギリスに直に下問かもんした。
 エル・ギリスは晩餐のような無礼講の席でなくても、族長に直答できる身分だ。竜の涙なのだから。
 ギリスは英雄の席で叩頭して立ち上がった。座っていたその場に。
「本当です。殿下の衛兵を蹴飛ばしたら気絶して、侍女は俺を見て怖がってました。宝剣を抜いて見せたので」
 ギリスは恐れる様子もなく答えていた。
 よく族長リューズにそこまで平然としゃべれるなと、スィグルは振り返って見ながら呆れた。
 そういえばギリスはそもそも王族の殿下であるスィグルにも対等に話してくるし、スフィルや、先ほど通路で出くわした第十五王子にもそうだった。
 どういうしつっけを受けたらああなるのかと、スィグルはやっとギリスの神経を疑った。
 でもそのギリスでさえ一応、族長リューズには敬語だったので、やはり父は余程に凄いのだろうか。
 もう訳が分からなかった。
「なぜ蹴飛ばした」
 父は玉座の肘掛けにもたれ、また分からないという顔になった。
「弱い衛兵だと殿下に解らせたくて」
「弱かったのか」
あごを蹴っ飛ばしたら気絶しました」
「お前が強いのだ」
 父は端的たんてきに教えていた。
 ギリスが、あぁ、と納得したような顔をした。
「侍女に見せた剣は? なぜ見せた」
 父はそれも淡く眉を寄せて訊いていた。よっぽど不思議だったのだろう。
「見せたらどうするかなと思って」
 ギリスは真顔でしれっと答えていた。
 それに族長はうっすらと眉を寄せて悩んだようだった。
「侍女はどうした?」
 ギリスを見つめて、父は尋ねた。ギリスはそれにも平気な顔をしていた。
「一人は立ち向かってきて、他のは泣いてました」
「そりゃそうだろう。お前が剣を抜いたら俺でも泣く」
 族長が真顔で答えるのに、広間が失笑した。
 堪えようとして耐えきれなかった者たちが震えて笑っていた。
「そなたに立ち向かった者に褒美をとらせよ。泣いていた者には花でも贈って詫びを入れよ、エル・ギリス」
「俺がやるんですか?」
 ギリスが嫌そうに答えると、父は玉座で頷いていた。
 そしてギリスが持っていた礼服の宝剣を遠くから指差して聞いた。
「その剣か、抜いたのは」
「そうです」
「抜いて見せよ」
 父が命じるとギリスは迷わず剣を抜き放った。
 その一瞬も考えない様子に、髑髏馬ノルディラーンばつの者さえ動揺していた。
 剣を掲げて見せるギリスに、しばらく父は無言でいた。剣を眺めているようだった。
「それはイェズラムのだな?」
「そうです。今は俺のです」
「名工の作だ。大切に使え。俺の亡き兄上がイェズラムに与えた褒美の剣だった。女に見せたい気持ちはわかるが、やたらと抜く男を侍女は好まんぞ。イェズラムも滅多に抜かない男だった。お前も以後は亡き養父デンを見習うがいい」
 父は真顔でギリスに命じた。
 それをギリスは神妙な顔で聞いていた。何かを少し反省したように。
 何を反省しているのだ……
 スィグルは分からず、振り向いてギリスを見つめるしかなかった。
「分かりました」
 ギリスは族長に頷いていた。
「分かれば良い。とりあえず、そなたは不問だ。だが息子は贖罪しょくざいの天使の裁定を仰いだと言っている。天使の裁きは族長権を上回るものだ。幸運を祈るぞ、小さい我が英雄よ」
「小さくないし」
 ギリスが口答えしたので、父は笑った。何が面白かったのか。
 玉座が快活に笑うものだから、釣られたのか広間も皆笑った。
 その談笑の空気の中で朝議は終了となった。
 皆の前で話し合うべき事柄のみが語られる場だ。
 父はその後も一日中ずっと謁見したり、会議を招集しているだろうが、全員を集める朝議はあっという間に終わるのが常だった。
「今朝もご苦労だった、我が廷臣たちよ。忠義である。今日も祖先に恥じぬ良い一日を過ごすとしよう」
 族長はそう言って、スィグルを謁見の席に残し、玉座から立ち上がった。
 そして颯爽さっそうと去る高段の父は、やはり高履たかぐつは履いていない。
 祖先伝来の赤い礼装だが、それも大礼装ではなく戦地で着るための略装で、しかもやけに足捌あしさばきが良さそうだ。
 絶対に何かある。
 スィグルはその場に平伏しながら、内心でそう思った。
 しかしそんな瑣末さまつなことを父に聞く機会は、天使に鷹通信タヒルで告げ口する以上に自分には無い。
 父と話せる時がないのだ。
 もちろん兄たちともない。
 王族が退出するための通路でもある赤い絨毯の道を、スィグルは後退って譲った。
 第一王子に。そして第二王子に。第三王子に。
 次々と退出していく兄たちをそこから平伏して見送り、自分の番となると、空っぽの王族の席があるだけで、スィグルに平伏してくれる者は誰もいない。
 いないのだと思っていたが、英雄たちの席で、エル・ギリスが平伏していた。
 それから遠くにいる銀狐エドロワばつの者も。
 女英雄たちの派閥も幾つかはそうだった。
 それがひどく不思議な気がして、なぜ平伏してもらえるのかとスィグルは悩んだ。
 別に何もしてない。僕はまだ。
 英雄に頭を下げてもらうようなことを特に何かしただろうか。
 だから誰も平伏しなくても平気だったのだ。今までは。
 でも、こうして叩頭されると、その重みを感じた。彼らがぬかずく理由が、自分には必要だ。
 玉座の間ダロワージを辞す時、スィグルは答礼のつもりで、王族の扉から、こちらに平伏していた者たちに頭を下げた。
 そういう儀礼は宮廷にはない。
 退出を見ていた者たちが不思議そうにしていた。
 ただこちらを見ていただけの者も、急に慌てたように叩頭した。
 星屑みたいな王子でも、一応はアンフィバロウの子だ。それなりに有難いものなのだろう。
 その何かの反射のような平伏に送られて、スィグルは広間を出た。
 通路では、暗い赤の服を着て、雀蜂すずめばちの旗印を持った侍従たちが、隊列を組んで待っていた。

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070 布の蛇

 玉座の間ダロワージの王族の扉の前をスィグルの隊列が出発すると、それからほどなくして、エル・ギリスが追いついて来た。
 王族の列を追ってくる者がいるとは、スィグルは思いもよらなかったが、それでいて不思議と、ギリスが来るような気もしていた。
 側仕えというのは本当らしい。
「お前、言ってなかったの? 鷹通信タヒルのこと、自分の親父に」
 殿下、本日はご機嫌麗しく恐悦至極ですとは、エル・ギリスは言わなかった。
 いきなりその話かと、スィグルは呆れながら聞いた。
「言ってなかった。言う必要があると思ってもいなかった」
 スィグルは正直に答えた。
 迂闊うかつだったなと思ったが、そう気づいたのは先ほど玉座の間ダロワージ謁見えっけんの座に引き出されてからだ。
 呑気と言うか、我ながら馬鹿だった。
 ギリスに衛兵を蹴っ飛ばされて、自分はよっぽど頭に来ていたらしい。
 それが馬鹿になっていい理由とは、父も皆も思わないだろうが。
 なにしろ、この部族では、どの部族でもだっただろうが、天使と話せるのは族長だけの特権だった。
 形の上で、自分は父の族長権の一部を侵したことになる。族長冠もないのに、勝手に天使と話そうとした。王都タンジールから無断で鷹を飛ばしたのだ。
 それを見て、叛意ありと思おうとすれば、思えないこともない。
 そうではないと信じていたから、父はいきなり皆の前で聞いてきたのかもしれないが、返答次第ではあの場で引っ捕らえられて、首を落とされたり、地底湖の上の籠に永遠に吊るされたりしたのだろうか。
 叛逆した王子がどうなるのか、それに詳しい者に聞かねばなるまい。
 今後のいましめとするために。
「話したほうがいいよ。お前の親だろ。親ってさ、派閥のデンとか、長老会の偉い奴みたいなもんなんだろ?」
 親がいないギリスには、親子というものが分からないようだった。
「お前にとってのエル・イェズラムみたいなものかな」
 スィグルは曖昧あいまいに答えたが、ギリスにとってのエル・イェズラムが何なのか、実は知らなかった。
「俺はイェズには隠し事はしないよ。なんでも相談する」
「もう死んでるだろ」
 ギリスがまるでイェズラムが今も生きているように言うのが気になり、スィグルは訂正した。
「そうだけど、今もしてる」
 ギリスはしたり顔で言い、スィグルは並んで歩くその英雄の顔を、まじまじと見た。
 死者と話せるのか。ギリスはまさか。
 そういう能力があると自称する者がいるのも知っているが、まさかギリスがそうか。
「話せるの……イェズラムと」
「話せるよ。俺が一人で話すだけだけど。イェズラムはもう死んでるから返事はできないだろ?」
「独り言だろ、それ」
 スィグルは不思議で、ギリスにそう尋ねたが、英雄は首を傾げていた。
「違うよ。もしイェズラムが死霊になって王宮にいたら、絶対に俺の話を聞いてるはずだ。でもお前の親は生きてるんだから、ちゃんと話したらどうなんだ」
 ギリスの話に、何とも言えない空気が隊列の中に立ち込めた。
 何とか無事に朝議が終わってほっとしたのか、先導する侍従の中にはそででそっと涙を拭っている者までいた。
デンとは生きてるうちに話したほうがいいんだぞ」
 ギリスはやけに年長者ぶって説教する口調だった。
 確かに年長だが、お前は僕にそんな口を利ける立場かと、スィグルは少しむっとした。
「僕の父上はデンじゃないんだ。ギリス。この部族の族長だ」
 スィグルはまた訂正してやった。やはりギリスには親子というものが分からないのだ。
 魔法戦士たちは生まれつき竜の涙を持っており、産屋の赤子の頭部にそれを見た親は、その子を王宮に差し出す。そのように定められているからだ。
 その際に魔法戦士たちは、自分の血族との絆を断ち切らねばならない。王宮の一員となり、家族となるためにだ。
 生みの親たちは、その子に名をつけることすら許されないのだ。
 英雄たちが生きようが、すぐに死のうが、血縁者たちに報せがいくことはない。
 ただ英雄譚ダージでのみ、その活躍を知ることになる。それも、もしや我が子かも知れぬ、誰とも知れぬ者たちのいさおしとして。
 ギリスにもこの世のどこかに親がいて、それと引き離された日があったはずだが、家族と別れた日を記憶している魔法戦士はいない。
 彼らは、王宮に捨てられた孤児なのだ。
 魔法戦士にとっては、同じ石を持つお互いだけが家族で、お互いを兄弟と呼び合っている。
 親はいない。
 だから、親にどう思われるかを気にすることもなければ、それに叛くこともないわけだ。
 気楽だなという気がして、スィグルは先程の父の叱責にいつまでもクヨクヨしている自分のことを思った。
 魔法戦士は気に入らなければ仕えるデンを変えてもいいらしい。
 そんな手軽なものが親なわけがなかった。
 スィグルにとっては、アンフィバロウの血筋と、あの玉座の君が自分の親だという事実は厳然としており、逃れようがなかった。逃げたいとも思わないが、考えないこともなかった。父がもし族長ではなく、自分たち兄弟もその殿下でなければ、別の道もあったのではないかと。
「俺には族長はデンなんだけどなあ」
 ギリスが急にしみじみと言った。
「はあ?」
 スィグルは虚を突かれて、ギリスに素っ頓狂な声で答えた。
 驚かれて、ギリスはなぜか決まりが悪そうな顔をした。
「だってイェズラムがそう言ってたもん。イェズが死んだら、誰が俺のデンになるのか聞いたんだ。その時にイェズは、族長だろうって言ってた」
「はあ? 何だよそれ。そんな話……聞いたこともないぞ」
 ギリスはそう問いただされて、悩む顔になった。
 なぜそうなるのか、自分でも理解していなかったらしい。
 エル・イェズラムの言うことを、ただ丸呑みに真に受けていたのだろう。
「わかんないけど、とにかくそうだよ。長老会の重鎮デンたちは、族長の兄弟なんだ。イェズラムは本当に族長の乳兄弟だったらしいけど、そうじゃなくて、伝統的に、兄弟だ。俺はイェズラムのジョットだし、族長もそうだろ? 一番上のデンが死んだら、そのすぐ下のジョットだった奴が、他の奴のデンになるんだ……
 珍しい長話で、ギリスは説明してきたが、何を言っているのかよく分からなかった。
 ギリス自身も分からなくなったようで、言いながら顔をしかめていた。
「俺の言ってること、わかる?」
「全然」
 悩む顔で聞いて来たギリスに、スィグルははっきりと言ってやった。
 なんで父がイェズラムのジョットなのだ。
 その、乳母を通じた乳兄弟の関係は事実らしいが、そんなことは関係ないとスィグルは思っていた。
 至高の玉座に座す者が、誰かの目下めしたということは、この部族ではありえないのだ。
 父はこの部族の序列において、太祖アンフィバロウと同じ位置にいる。
 太祖は至高の首座にいて、それ以降の代々の族長も父や自分から見て祖先なので偉いが、でももう死んでいる。生きている者で、父の序列を超えられる者はいない。
 だから族長にデンはいないのだ。
 魔法戦士たちは、生きてはいるが、彼らは英雄ディノトリスと同じ位置にいて、おそらく死者の扱いだ。
 いずれ死ぬ者という扱いだ。
 それをギリスには言えなかったが、しょうがなかった。
 お前は生まれながらに死者なのだとは、さすがに言いづらい。
 実際、ほとんどの竜の涙は王宮に迎えられてすぐに死ぬ。数の上では、全土から集められた哀れな赤子たちの、ごく一部が生きながらえているにすぎないのだ。
 たまたま死ななかった者が成長し、部族の英雄となる。でも明日には死ぬ者たちだ。
 部族の民は彼らのことを、そう思っている。まだ生きている死者なのだと。
 だから、突然現れた死霊に、お前は口の聞き方がなっていないとか、上座に座るなとか、文句をつけるのは難しいだろう。
 ギリスは亡霊みたいなものなのだ。
 それにしては活きがいいが、天使の格別のお恵みだろうと思うしかない。
 ギリスがいつまで生きているのか、スィグルにも分からなかった。考えると気が滅入る。
 それなのにギリス自身はどう見ても平気そうだった。何も深くは考えていなさそうだ。
「まあいいか。分かんないけど、とにかくそんな感じだ。ところで腹減ってないか? 朝飯がかゆだったから、もう腹減ってきちゃった」
 ギリスは切なそうに聞いて来た。何かを深刻に考えている者の顔には見えない。
「どこへでも行って、お前の好きなものを食えばいいだろ」
 スィグルが呆れてそう許すと、ギリスはぱっと嬉しそうな顔をした。
「ほんと? じゃあ、どこ行く……でも着替えて学房に行くんだぜ。その後は、何だっけ。あの念動術の女と会う」
 あの念動術の女って。スィグルは困った。何と言うべきか。
星園エレクサルばつのエル・フューメンティーナのことか?」
「それ」
 ギリスはびしっとこちらを指差してきた。
 どこまで無礼なやつなのか。よく今まで首も打たれずに王宮で生き残れたものだ。
 とっくに誰かに恨まれたり、地位のある者の逆鱗に触れて、死せる小英雄になっていそうだが、ギリスは屈託のない笑顔だった。
「あいつに頼もうかと。お前の念動術の訓練、やるって言ってただろ? 俺も一緒に習おうかな」
 にこにこして、ギリスは楽しみなようだった。
「使えるの? お前も念動術」
「いいや全然」
 ギリスの言っている意味がわからず、スィグルはちょっと怖くなった。
 こいつが何を考えてるのか、わかるようでいて、全然わからない。
 ギリスと話していると、自分が人の話を理解できないほどおかしくなったのかと不安になるが、たぶんギリスがおかしいのだった。
「あいつさ、術の発動がめちゃくちゃ速いんだよ。すごいよな。あんな速い女、見たことないぜ」
 ギリスは何を見たことがあるのか、いかにも凄そうに言うが、スィグルにはさっぱり分からなかった。
「ギリス。女じゃない。星園エレクサルばつのエル・フューメンティーナだ」
 王宮には様々な建前がある。スィグルはそれを教えたつもりだった。
「それ。エル・フューメ」
 ギリスはまた頷いていた。
「今日どこにいるのか知らないんだけど、たぶん会えると思う。俺の予感では」
「何言ってるんだお前は。どこで会うか約束してないのか?」
 スィグルはびっくりして聞いた。
「してない。昨夜ゆうべの今日だぞ。話す暇なんかないよ」
「してるのかと思うだろ。そういう話の流れだっただろ?」
「フューメと一緒に飯食う?」
 ギリスは唐突にそう言ってきた。スィグルは絶句した。
「昼食のことか? 一緒に食べるような仲なのか、お前と、その、エル・フューメンティーナ……
 晩餐と違い、昼食は皆がそれぞれの場所で、親しい者と食べる。会食をする者もいるが、それは役目がある場合だろう。普通は一人か、仲の良い者と食べるのだ。スィグルはそう聞いている。
 だから自分もいつも、弟のスフィルと食事していた。仲がいいか分からないが、双子の兄弟だからだ。
 ギリスはいつも誰と食っているのだ。エル・フューメと?
 スィグルは身構えて尋ねたつもりだった。自分はもしや気を遣うべきかと。
「女も昼飯ぐらい食うだろ?」
 それとも食わないのかと考えているような顔で、ギリスは聞いてきた。薄気味悪そうに。
 親しい訳ではないのか。
 スィグルは一瞬、訳がわからなくなり、ぽかんとしてギリスを見つめた。
 てっきり、彼らは仲が良いのかと思っていた。ずいぶん親しそうだったので。
 英雄たちの関係が全く分からない。何を基準に測ればいいのか。
「どうやって誘うつもりだ……エル・フューメンティーナを」
 念のためスィグルは聞いてみた。
「女派閥のあるとこまでいって、そこらへんにいた女英雄エルに、フューメと飯食いたいから呼んでって頼む」
 いきなりか。
 そういう作法はまだ知らなかったが、スィグルには良い案と思えなかった。
 その確信はなかったが、止めた方がいいのではないかと。
「よく分からないけど、絶対やめておいたほうがいいと思う」
「じゃあ、レイラス殿下がフューメと飯食いたいから来いって言う?」
 ギリスは思案している顔で、相談してきた。
「いや……それもやめて欲しい」
 スィグルは傾いて答えた。朝から走ったせいか、ぐったりするほど全身が疲れた。
「おい。聞いてくれ、そこの者。お前たちだ」
 スィグルは前を歩いている侍従たちに語りかけたが、彼らは無反応だった。
 話しかけられていると気づいていないらしい。
 隊列の侍従は主人とは話さないものだからだろう。彼らはできるだけ沈黙を守るよう決められている。
「頼むよ。聞いてくれ。女英雄に遣いを出すには、どうしたらいい? 知ってるか」
 スィグルが尋ねると、先導するうちの最後尾の者が、困ったようにちらちらと視線を投げてきた。
「話していいから、教えてほしいんだ」
 スィグルが頼むと、先導の侍従たち全員が、困った顔でそれぞれ振り向いてきた。
「侍女に」
 小声で、先導の列の何者かが答えて来た。
 どれが喋っているのかと、スィグルは赤い衣装の群れを見渡したが、よく分からなかった。
「女官にお命じください、殿下」
 また別の誰かが答えたが、先頭で旗印を持っていた者が、シッと厳しく静まるように言った。
 そうなるともう誰も何も言いはしなかった。
 まるで死霊のように、沈黙して歩き続けている。
 やがて延々と続く通路も、スィグルの居室があるほうに近づいてきた。
 ギリスは部屋の前まで見送ってくれるつもりのようだった。
 護衛というなら侍従がいるのに、ずいぶんと用心深い。
「俺も着替えて迎えにくるからさ、平服着て待っててよ。王族だからって、これ見よがしにあんまり派手な服着るなよ、殿下。目立つから」
 ギリスは笑顔で手を振っていた。
 それを儀仗ぎじょうして主人を迎えたレダの徽章の衛兵たちが、じっと見ていた。
 これ見よがしに派手な服ってなんだよ。そんなもの着てないだろうとスィグルは思ったが、言われると気になった。
 そんなもの着ていたのか。
 確かに王族の衣装は華麗で、絢爛けんらんなのかもしれなかった。
 それに比べて英雄たちは質実剛健で、宮廷人らしい洗練はあるものの、小ざっぱりとして武人らしさもある衣装を着ている。それが彼らの流行らしかった。
 確かに格好が良い。
 しかし王族がそれを着るということはない。服装にはしきたりがある。
 でも格好いいんだよな。
 スィグルは葛藤しながら、自分の居室に戻った。
 王族の礼装を解くのは侍女の仕事で、女たちはレイラス殿下の着せ替えのために、すぐにぞろぞろと現れた。
 もう見慣れて来た、ひどく身長差がある凸凹した女たちだ。
「頼みがあるんだけど、言ってもいいかな」
 着替え用の部屋で重たい礼服を脱がされながら、スィグルは無表情に立ち働く女たちに聞いてみた。
「何なりとお申し付けくださいませ」
 そう言う割には冷たい顔で、一番年長のように見える女官が答えた。
 スィグルの髪飾りを外して片付けていた者だ。
「エル・ギリスと学房に行くので、地味な服を着ろと言われた。そうしてくれる?」
かしこまりました」
 立ったまま膝を折る立礼をして、髪結の女官はかしこまってくれた。
「それから……星園エレクサルばつのエル・フューメンティーナに遣いを出せるだろうか?」
「どなたでございますか」
 フューメンティーナを知らないようで、女官たちは不審がる表情をした。
「えっと……黄色い目の子だよ。黄水晶の花簪はなかんざしを挿してて、ふわっとしたすその、顔はすごく可愛い……
「英雄でございますよ、殿下」
 絶対に何か誤解している顔で、スィグルはとがめ立てされた。
 そんな馬鹿なと思った。まさかそんな、変な気持ちで付け文でも渡すと思われたのか。
 思いがけず傷つき、スィグルはちょっと青ざめた。
 部屋に置かれている大鏡が、その傷ついた自分の顔をはっきり写していた。
 まだ全然、こんな子供みたいな顔なのに、そんなことを言われるとは、ひどいじゃないか。
「念動術を習う約束なんだよ!! 昨夜の晩餐で向こうが僕のところに来て、そう言ったんだ」
 思いがけず大声が出て、スィグルは自分でもびっくりした。
「左様でございますか」
 冷たい声で女官が答えて来た。
 信じろ、馬鹿と、叫びたい気分だった。
「後ほど遣いをやって女英雄エルのご都合を伺ってまいります」
 女官はそう答えたが、エル・フューメンティーナにちゃんと正しく伝えてくれるか心配だった。
 でもギリスが直に行って、そこら辺にいた者に頼むよりは、無礼のない、ちゃんとした申し入れかと思ったのだ。
 そういう作法は本来、側仕えする者や、行儀作法の教師が教えるものではないのか。
 なぜ誰もいないのか、嫌がらせかと思うが、無茶苦茶すぎる。
 自分がこのまま大人としての礼儀も知らず成長するのかと思うと、スィグルは悲しかった。
 あともう一つ、侍女に頼み事があったが、聞いていいのかも分からない。
 もし無礼だったら困ったことだが、おそらく大丈夫だろうと思えた。
「最後にもうひとつ……
 一応は遠慮がちに、スィグルは女官たちに言った。誰に何を頼めるのかもよく分からない。
 仕方なく誰にともなくスィグルは言った。
「エル・ギリスに渡す手布を用意して欲しい。訳あって借りたが、訳あって燃えてしまい、そのまま返すのも良くないと思うから、できれば新しいのを用意したい」
 スィグルはそう言ったが、そもそも借りた手布は持ち帰ってもいなかった。銀杯の中に残したまま玉座の間ダロワージに置き去りだ。
 そのことをギリスに詫びるべきだったかもしれないが、あいつがいきなり変な説教してくるものだから、言いそびれてしまった。
 大事なものでないといいが。
 別に何の変哲もない白い布だったと思う。
「白い亜麻布あまぬのだった」
 スィグルはそれだけ侍女に教えた。
かしこまりました。針子に申し伝えます」
 そう言って女官たちのある者は控えの間に引き上げ、ある者は持ってきた黒い長衣ジュラバをスィグルに着せた。
 地味にしろとは頼んだが、まるで喪服のように地味だった。なんの飾りもない。
 そこまで地味じゃなくてもいいのではと思ったが、もう今さらだ。
 極めて簡素な平服で、この格好で王子が居室を出歩いていいのかと思うほどだった。
 富裕も王家のほまれなのだが、そこは大丈夫なのか。
 やがてギリスが戻ってきた。
 ものすごく疲れた顔をしていた。
 歩き疲れたという顔で、ギリスは戸口に平伏し、一応の恭順を見せた。
 でも、ただ草臥くたびれたから座って休んでいるだけにも見えた。
「殿下。俺の部屋が遠い」
 叩頭から顔を上げるなり、悲しい顔でギリスが言った。
「もうちょっと近くに引っ越せないか、長老会に頼んでみる」
 そうすればギリスが近くの部屋を与えられるものなのか、スィグルには全く分からなかったが、好きにすればいいと思った。
 確かに、もし本当に毎日行き来する気なのだったら、近いほうがギリスには楽だろう。
 ギリスが今どこに住んでいるのか、スィグルは知らなかったが、英雄たちの区画のどこかなのだろうし、それはここから近いとは言えない。
「えらく地味だな、殿下」
 首を傾げて、ギリスは居室の居間で待っていたスィグルを、戸口から遠目に見てきた。
「お前がそうしろって言ったんじゃないか」
 何を言い出すのかと、スィグルは首座で頭を抱えた。
 そうじゃなければ侍女たちも、ここまで地味な衣装を王族の殿下に着せたりはしないだろう。
 見覚えのない服で、もしや自分の持ち物ではないのではないかとスィグルは疑っていた。もしや背格好の合う誰かの服を着せられているのではないのか。
「派閥のジョットみたいだ」
 それが面白かったのか、ギリスはにこにこしていた。
 王族の衣装が無ければ、王子に見えないと言いたいのだろうか。
 絶妙に無礼だった。
 しかし、それにふくれていてもしょうがなかった。
「行こうか」
 結局、戸口から立って首座の前で叩頭する気はないらしく、ギリスはもう出かける気だった。
 ついてこいという仕草で、居室の扉をあごで示している。
 どっちが偉いか分からなくなってきた。
 ディノトリスはアンフィバロウのデンなのだと言うし、そういえば女官たちもそのように言っていた。
 出かけようとしたら、慌てたふうな女官たちが控えの間から現れて、黒塗りの盆に乗せた布製の何かを運んできた。
「殿下から英雄エルへの贈り物でございます」
 女官たちは戸口で立ったままのエル・ギリスに、その盆を捧げ持って見せた。
「うわぁ……何これ?」
 最初は嬉しそうな顔をしたものの、ギリスは途中で怪訝な顔になっていた。
 スィグルにもそれは遠目に見えたが、白い布でできた、とぐろを巻く蛇に見えた。
「殿下より、エル・ギリスに手布をお贈りするよう仰せつかっております」
 極めてうやうやしく、女官たちは盆の上のものをギリスに取るように促していた。
「ありがとう……でもこれ、多すぎだろ? 何枚あるんだ」
 布の蛇は、畳んだ白い手布を組み合わせて作ってあるらしく、ギリスが一枚取ると、蛇の胴体が一部だけなくなった。
 何枚あるんだ。スィグルも知りたかった。
 一枚でいいのに、なんでこんなもの持ってくるのかと、スィグルは戸惑って女官たちを見た。
「全部持てないから、後はキーラに届けてくれ。俺の部屋の侍女だよ。知ってる?」
 ギリスは気さくに女官たちに尋ねている。ずいぶん慣れた話ぶりだと思えた。
「もちろん存じております。わたくし共はキーラ様のご紹介でこちらに」
「あっそうなんだ。よろしく頼むよ。俺の大事な新星の殿下だ」
 ギリスはそういう割に猫でも預けるように気軽に頼んでいた。
かしこまりました。王族にお仕えするような器量ではないわたくし共に、このようなお役目をお与えくださり、恐悦いたしております」
 侍女たちが平伏してギリスに恐悦していた。
 僕にはしないのにギリスには恐悦するのだ。
「そんなのどうでもいい。賢さが大事なんだ」
 ギリスが微笑んで言うと、女たちはさらに恐悦して見えた。
 いやいや、お前、昨夜はあんまり美人じゃないってケチつけてただろうと、スィグルは内心で思った。
 事実、部屋付きの女たちは姿も特に際立ってはおらず、地味な御面相ごめんそうだった。
 玉座の間ダロワージで働く者たちのように、一目見て驚くような美貌ではない。
 でもそんなの問題ではないって、僕も思っていた。昨夜僕はそう言わなかっただろうか。
 それがちょっとエル・フューメンティーナの容貌を褒めたあたりから風向きがおかしい。
 砂まじりの冷たい逆風が吹くのを感じ、スィグルは戸口のあたりで微笑み合っている者たちを遠くから眺めた。
 ギリスは前はどこに仕えていたのか、出身はどこかといった、どうでもいいような雑談を女どもとしていた。それに女官たちも嬉しげに答えている。
 英雄は女官にもてるものだ。なにしろ部族の英雄なのだから。
「ギリス……
 あまりの所在なさに、スィグルは思わず射手を頼る声になった。
 女官たちと和やかに話し込んでいないで、こっちにもなんとか言ったらどうなんだ。
 呼ばれてやっと気づいたように、ギリスがこちらを見た。
「あ、スィグル。これ、ありがとう。お前って大袈裟だよな。手布一枚にこんなに利子つけて返さなくても、俺は気にしないのに、景気のいい奴だ。この調子でヤンファールの命の借りも、何倍にもして返してくれよ」
 にこやかにギリスは言った。上機嫌らしかった。
 やっぱり返さないといけないのか、ヤンファールの借りを。
 命の恩人だもんな……
 それが当然でございますという目で頷いている女官たちがギリスの側で笑っているのを、スィグルは近寄りがたく眺めた。
 お前たち、ちゃんと笑えるんだなと思いながら。

──つづく──


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