「王宮の孤児たち」(1)/ (2)/ (3)/ (4)/ (5)/ (6)/ (7)
もくじ
2≫ 071 学房
3≫ 072 高貴なる鼠
4≫ 073 大図書館の火守
5≫ 074 学徒の衣
6≫ 075 迷宮
7≫ 076 知識の晶洞
8≫ 077 卑しき鼠
9≫ 078 脱出行
10≫ 079 虹の谷
11≫ 080 仮面
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071 学房
王族の居室を出たギリスは嬉しそうだった。
スィグルの居室の外を守る衛兵たちは、ギリスと二人で出て来た殿下をなぜか驚いた目で見たが、そんなことは一瞬で、彼らは無言で槍を上げて儀仗礼をとった。
もしや服のせいかとスィグルは見当をつけた。
王族らしい衣装ではない。そんな格好でどこへ行くのかと、部屋着で出て来た者を見るような目だった。
「ねえ……僕の服、おかしいか?」
並んで歩くギリスに、小声で耳打ちした。それを聞き、ギリスは首を傾げていた。
「おかしくないよ。地味だけど」
「お前がそうしろって言ったんだ」
さっきも居室で言ったようなことを、スィグルはまたギリスに言った。
それにギリスは並んで歩きながら、うふふと含み笑いした。
「いいんじゃないか。王族の殿下には見えない。額冠が無ければ」
「学房の師父に失礼だろうか」
族長の子が、ふざけた身なりで学房に来るのを、博士は好まないかもしれない。
王宮の博士たちは部族の知恵者で、身分こそ高くはないが、高徳の者として敬われていた。
王族でも、教えを受ける博士を居室に迎える時には首座から叩頭する。
もちろん博士も主人である王族の殿下に叩頭するが、それはアンフィバロウの血筋を敬ってのこと。
生徒としては師に仕える立場だ。
彼らの知恵を借りずには、部族領の治世は立ち行かないだろう。
それゆえ、王族にとっては学房の博士との師弟関係も大切なものだった。
いずれは恩師を通じて、彼ら王宮の博士の学閥を味方につけねばならない。
教わる内容に関わらず、恩師は必要なのだ。
魔法戦士の派閥との繋がりが欲しいのと同じで、学閥との縁を結びたかった。
それは普通は、自分が教わった師を通じて王子には自然と備わる繋がりだったが、なにしろスィグルは学房からも締め出されている。
玉座の間には無事に帰還を果たしたが、学房にはまだだ。
「どんなお方なんだ、今日会う史学の師父というのは」
スィグルは心配になって尋ねた。
実は学房を知らない訳ではない。子供の頃に面白くて、よく忍び込んだが、部族では学房の教えを乞えるのは元服した者だけと定められているため、まだ幼年だったスィグルを博士たちは無視していた。
勝手に入り込んで本を読んでいると、博士の官服を纏った老人たちは、今日も高貴なる鼠が出るようだと言った。聞こえよがしに言われると、僕は鼠じゃないとムッとしたが、その嫌味ひとつでいつも放っておいてくれたので、スィグルは心置きなく学房の博士たちの本を勝手に読んだ。
その時の自分は学房に出る死霊のような者だっただろう。そこにいないはずの、いてはならぬ者だった。
そう思うとタンジールの王宮には実に多くの死霊が闊歩している。
魔法戦士であるギリスもそうだろうし、学房で知識を盗む鼠だった時の自分もそうだった。
他にも本物の死霊も彷徨っているのかもしれない。ギリスは亡き養父と話しているというのだから。
今日も、もしかしたら自分は死霊だろうかとスィグルは思った。
博士が王族の居室には来ないというのだから、正式な面会ではないのだろう。
それで目立たぬようにとギリスが言ったのだ。
「史学の師父はお菓子を食う爺いだ。イェズラムの師で、俺の師でもあった。お前の親父にも教えたと本人は言ってる」
ギリスはそう言ってから、軽くハッとしたような仕草をした。
歩く足も一瞬遅れた気がしたが、スィグルが合わせて立ち止まろうとしたら、ギリスは思い直したようにまた歩きはじめていた。
「どうかした?」
「師父にやるお菓子を忘れた。お前の弟に食わしたのを忘れてた」
ギリスが真顔でそう言うのを、スィグルは彼の顔を見上げて聞いた。
「お菓子……?」
さっきスフィルがもらって食べていた、仲直りのお菓子だろう。弟があんなに菓子を食うとは意外だった。
それにしてもギリスがなぜ礼服の懐に菓子を持っていたのか、理由を聞いていない。
「師父に習うのにお菓子がいるって、知ってたか」
ギリスは真面目に確かめてきた。そんな話は聞いたことがない。
「いや……知らない」
スィグルが正直に答えると、ギリスは深く納得したように頷いた。
「そうだよな? 俺も知らなかった。でも要るんだ。菓子を持ってこいと史学の爺いが言ってた」
「父上もお菓子を持っていったってこと? 昔、その師父に教えを乞う時に。叩頭なさっただけじゃなく?」
今さら急に言われても、魔法でお菓子を出せる訳はない。
さっきまだ居室にいた時に思い出してくれていたら、侍女たちに頼んで菓子を用意できただろうに、面倒な話だった。もうずいぶん歩いてきてしまったじゃないか。
「戻って、師父に差し上げる菓子を調達する?」
やれやれと思ってスィグルが踵を返そうとしたら、ギリスは袖を引いて引き留めてきた。
「いや、いいよ。だって博士は族長から俸禄をもらってるんだぜ? 魔法戦士と同じだ。俺たち、戦場で魔法を振るうときに、いちいち族長からお菓子をもらったりしてない」
ギリスは真面目に語り、スィグルはその話を聞いて、戦場にいる父が笑顔で英雄たちにお菓子を配るところを空想した。死闘してくれ、我が英雄たちよ、これは褒美の菓子だ。
まるで平和な別世界だった。
でも、まるで悪い冗談か風刺のようだった。父は、甘い笑顔と褒め言葉で皆を奮い立たせ、英雄たちには褒美として英雄譚と麻薬を与える。彼らの特権として。
他にも、贅沢な暮らしや高い俸禄、貴人の身分や、学房で学ぶ権利など、様々な特権を与えるが、それと引き換えに、彼らは命じられれば死闘しなくてはならない。それは文字通りの死闘で、死ぬまで戦うという約束だ。
どんなお菓子をもらっても、割には合わない。スィグルにはそう思えたが、ギリスはどう思っているのか。
いずれもし、万が一なにかの戦が始まり、父の戦場で再び戦う時が来たら、ギリスはまたヤンファールの氷の蛇として、死ぬまで戦う気なのだろうか。
見るともなく、ギリスの額の石を盗み見て、スィグルは嫌な気がした。
死んでほしくないなというのが、本音だった。
そこまで長い付き合いでもないのに、たぶんギリスが好きなのだろう。
並んで歩くと気が晴れたし、あの遠い山の学院の列柱の回廊を、友と並んで歩く時のことを思い出した。
ここは砂漠の地下深くの王宮で、薄暗く照らされた赤い絨毯の通路だが、何かが懐かしく思い出された。
連れ立って歩く者がいるという、安堵感。
そういうものに、自分は弱くされたのかなと、スィグルは情けなく思い出した。懐かしい友たちのことを。
「ギリス、学者と魔法戦士は全然違うと思うよ。お前たちはお菓子じゃない別のものをもらって仕えてるんだ。師父がなぜお菓子を要求なさるのか知らないけど、御所望ならお持ちしたほうが」
「いいよ! さっさと行こう。戻るの面倒くさいし、俺は今朝はもう十分、廊下を歩いた。爺さんの話は長いから、昼飯までに終わらなかったら困る。あの女にまだ遣いも出してない」
「遣い?」
ギリスがこちらを引っ張って歩きながら、急にその話をしたので、何があったのかと思った。さっきと話が違う。ギリスは女派閥の区画に先触れもせず突撃するつもりだったはずだ。
呼び出しの侍従たちの話で、ギリスにもやるべきことが分かったのか。
「部屋付きの侍女に聞いたんだよ。キーラって女だけど、すごく使えるんだ。たぶん学房の爺いより賢いと思う」
ギリスは真顔で言っていたが、冗談なのか分からなかった。
それでスィグルは煮え切らない笑みを顔に浮かべた。ギリスはそれを不思議そうに見ていた。
「でも今朝は忙しいから、遣いに出るのは嫌だって。そういうことは弟に頼めって言われたけど、今朝はまだサリスに会ってなくてさ」
サリス。
昨晩の晩餐の席で、ギリスと共に自分の席にいた、まだ少年の英雄たちのことをスィグルは思い出した。
エル・サリスファー。氷結術師。明るい緑色の翡翠みたいな石を額に生やしていた。弁舌爽やかで、優しげだけど賢そうで、好ましい相手だった。
ギリスとは親しそうだったなと、スィグルは思い返した。
六人も徒党を組んで現れて、魔法戦士とはそういうものだが、皆、強い信頼関係があるように見え、羨ましかった。
王宮で孤独で、誰も味方がいない自分とは違って、彼らは結束している。
ギリスもその一員なのだろう。派閥に属している。
自分も魔法戦士に生まれていたら、彼らのように徒党を組んで暮らしていたのかなと、スィグルはぼんやり空想した。
それも良かっただろうな。
天使から病苦を与えられた彼らを羨むのは、良くないのだろうが、それでも英雄の一生は華々しく自由に見えた。
エル・イェズラムのような歴史に名を刻む大英雄になることも、不可能ではない。
下手をすれば今でも、玉座を凌ぐ人気を部族の民から得ている大英雄だ。
父はそれと結束することで、当代の治世を盤石のものにした。
自分にもそういう者が必要なのだ。
たとえば、ヤンファールの氷の蛇、エル・ギリスのような?
そう思って見上げると、ギリスは凛々しく強そうだったが、どことなくぼんやりして見え、今ひとつ頼りなかった。
エル・イェズラムとは全然違う。
むしろまだ、昨夜挨拶しに来た中では、翡翠の石のエル・サリスファーの次に現れた、エル・ジェルダインという透視術師の子がイェズラムと似ている。
顔立ちは特に似ておらず、祖先は枯れ谷にはいなかったのだろうが、なんとなく居住まいが洗練されており、体格もよくて、頼りがいのある風情だった。
あれと、エル・サリスファーと、ギリスを混ぜて、三で割らないようにしたら、エル・イェズラムになるのではないか。それでもまだ何か決定的な材料が足りない気がしたが、何を混ぜたらあんな大英雄になるのか、スィグルには分からなかった。
時が錬成するのかもしれない。エル・イェズラムのような大英雄を。
彼人も、別に生まれつき大英雄ではなかっただろうし、子供の頃にはギリスみたいだったのかもしれないじゃないか。
僕だって、子供の頃はこうだけど、将来は父上のような偉大な名君になれるかもしれない。
今はまだ、ギリスにがっかりするのは止そう。
もう十分なくらいに尽くしてくれている。
そう思って並んで歩くと、ギリスは頼もしい友のような気がした。
少なくとも、このタンジール王宮で僕と並んで歩いてもいいという奴は、多分こいつだけだ。
他は皆、ヤンファールの死に損ないで、天使の密偵かもしれない僕とは、付き合おうとはしてない。
そう思ったが、学房のある区画の、ある博士の部屋の前で、まだ少年の魔法戦士の一団が待っていた。
エル・サリスファーとその一味だ。
「おはようございます、殿下」
廊下なので立礼ではあるが、六人いる少年英雄たちは、深々と丁寧に頭を下げて来た。
「おはよう、皆……」
スィグルが見回すと、皆にこにこしていた。
「どうしたの?」
なぜここにいるのかと、スィグルは聞いたつもりだった。
「殿下が学房にいらっしゃると聞き、ぜひお供いたしたく」
意気込みが溢れ出てきそうな声色で、きっぱりとエル・サリスファーが答えた。
たぶんサリスがこの者たちの束役なのだろう。何か話しかけると、いつもサリスが答えてくる。
他の者たちは、何も異存はないという顔で、それを笑顔で見ている。まるで六人で一心同体みたいだ。
なんて結束が強いんだろう。山の学院で毎日喧嘩していた、四部族同盟の連中とは大違いだった。
さすが、魔法戦士は同じ部族の仲間であり、いずれは生死を共にする戦友たちで、千年もお互いを憎みあってきた骨肉相食む四部族同盟とは違うのだ。
シェル・マイオスは学院で日に二度は怒って泣き叫んでいたが、魔法戦士たちは微笑んでいる。
その驚きに打たれて、スィグルはまた友たちを思い出した。
なんで、ちょっとしか一緒にいられなかったのに、僕らはいつも喧嘩ばかりしてたんだろう。
こういうふうに、仲良くしたらよかったんじゃないか?
あの小さな四部族同盟もだが、第四大陸の中央に横たわる巨大な四部族同盟もそうだ。
結束しろと天使は四部族に求めているのだ。
そうすれば何者も対抗しえない第四大陸の巨大な勢力になれる。
これは秘密の話だが、神殿はエルフ族を滅ぼすことはできない。
なぜなら、天使の一人が半分、エルフ族の血を引いているからだ。
もしもエルフ族を呪えば、天使も死ぬかもしれない。
神殿種たちは、万が一にもブラン・アムリネスを失うことはできない。
その慈悲と贖罪の天使と徒党を組むことで、自分たちは生きながらえるのだ。
神殿に唯一対抗しうる、天使ブラン・アムリネスの軍勢として。
その話を誰にもできない以上、自分が心底誰かと打ち解ける友になることは、もうないのかもしれない。
エル・ギリスとも、僕はこの者を自分の栄達に利用するだけで、別に好きではないのかもしれない。
サリスファーや、ジェルダインや他の皆とも、あの学院で出会った友達と同じように仲良くしたいけど、彼らは知らない。天使のことを。それを話して彼らと打ち解けるわけにはいかないんだ。
まったく、天使はいつも僕を孤独にする。
自分はその秘密を一人で抱えておくのが嫌で、学院で僕らを抱き込んだのに、こっちには誰とも打ち解けるなというんだから、あの天使はわがままで嫉妬深い奴だ。
まあ、それは僕も似てるけど。自分の手の内は隠すのに、相手の忠誠心は都合よく求めるわけだ。
そう反省しながら、スィグルは隣に立っているエル・ギリスを見上げた。
「どういうことだ、これは? 彼らと一緒なの?」
聞いてないぞという意味で、ギリスに尋ねると、ギリスも知らなかったようだ。
「なんでいるの、お前ら。今日も師父の講義だったか?」
不思議そうにギリスが弟たちに尋ねている。
「違います。ですが兄者の個人房の女官に聞きました。殿下とこちらにいらっしゃる予定だと」
歓迎されていない空気にたじろいだのか、エル・サリスファーが不満げにギリスに答えていた。
「キーラが? なんでそんなこと勝手にお前に話すんだよ」
「僕らがギリスの兄者の弟だからです! どこにいるかも分からないのに、用事を仰せつかれないでしょう。ご同行します」
五体をあちこちに千切って投げ捨てても、全部がすぐに戻ってきそうな、強い意思を感じる目で、エル・サリスファーはギリスを見ていた。
すごく忠誠心がありそうな弟だ。
確か、トルレッキオへの旅に随行してくれた魔法戦士たちも、首長であるエル・イェズラムを天使のごとく崇めていた。喜んで仕えているように見えた。支配されているのではなく。
エル・サリスファーも、幼い弟が兄を慕うように、ギリスを求めているらしかった。自分の支配者として。
それがなんとなく、泣いて自分に縋り付く弟のスフィル・リルナムを思い出させて、スィグルは心苦しかった。
彼らがギリスと一緒にいたいのなら、許してやるべきではないか。
「一緒に行けばいいよ、ギリス」
まだダメとは言っていなかったが、いかにも鬱陶しそうに弟たちを見ていたギリスに、スィグルは先回りして許してやった。
それにもギリスは面倒くさいという顔をした。
なんで僕にまでその顔だ。弟どもと一括りにしただろう。
僕は王族だぞ、わかってるのか。お前の主人だ!
そう思ったが、スィグルは急に皆に大声で言われてびくりとした。
「ありがとうございます殿下!」
「お供できて光栄です」
「懸命にお仕えいたします」
「何なりとお命じください」
「レイラス殿下」
「ありがとうございます!」
六人から同時に勢いよく言われると、誰がなんと言ったのか分からなかった。
その声量にびくりと引き攣ったまま、スィグルは心持ちギリスの後ろに隠れて聞いた。
「うるせえ、同時に喋るな。話をまとめろ」
ギリスが怒った声で怒鳴り返した。
それに弟たちは身を縮め、文字通り小さくなってより集まり、ぺこぺこと頭を下げた。
「申し訳ありません」
何も悪いことはしていないのに、確かに兄に怒られている。
ギリスは彼らを叩きはしなかったが、乱暴な者なら殴るのかもしれなかった。
怖いなと思い、スィグルは魔法戦士になりたかったなという自分の気持ちを急いで撤回した。
決して楽ではなさそうだ。王族のほうがマシとは言えないが、今日についてはマシだ。僕の方が、いい御身分だった。
「そんなに怒るなよ、ギリス。皆が可哀想だよ。一緒に行こうね」
彼らが自分にも弟のように思え、スィグルはできるだけ優しい声で語りかけた。
その言葉に、少年英雄たちは感激の顔をした。
「ありがとうございます、殿下」
さっそく話をまとめたエル・サリスファーが、涙ぐみそうな顔で答えて来た。皆もそれに頷いている。
ギリスと二人かと思っていたのに、いきなりまた大勢になった。
この上なく目立つ集団になった気がするが、それで良かったのか。
ギリスは明らかに嫌そうな顔だった。それでもスィグルが許したのだから、しょうがないと思っているのか。
変なところで恭順しないで、二人の方が良い都合があるなら、はっきり言ってもらいたかった。
それでもギリスがさっさと学房の戸を叩いたせいで、そのまま師父と会うことになったのだ。
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072 高貴なる鼠
スィグルには、その老人に見覚えがあった。
もちろん、一度でも会ったことがある者を簡単に見忘れたりはしないものだが、何度も会ったことがある者ならば、なおさらだ。
老人はいつも菓子と本をたくさん学房に持っており、しかも定期的に置きっぱなしの本を入れ替えるので、油断がならなかった。足繁く通って読み終えなければ、読破する前に本がどこかに消えてしまう。
おあつらえ向きの、つまみ食い用の菓子もあったし、まだ幼年の頃、後宮を出されて王宮の通路を自由に散策できるようになったスィグルは、日々の無聊の慰めとして、この老人の学房に通い、そこらじゅうにあった本を勝手に読んだ。
菓子も盗んだ。そういうことになる。
かつて後宮の母の居室に住んでいた頃、そこらへんにある菓子を食ってはならぬ理由はなかった。後宮の女官たちが殿下のおやつとして用意した菓子が、美しく盛り付けられて常に置かれていた。
それを貪り食って育ったわけだ。
同じ気分で、学房のそこらじゅうに無造作に置かれていた菓子箱の中身は、食って良いのだと思っていた。
官服の老人は何も言わなかったし、その菓子箱も面白い本と同じで、行くたびに新しいものが置かれていたからだ。
しかし。
学房は博士の部屋で、王子の私室ではない。そこにあるものは博士たちのものだっただろう。書物も、菓子も。
自分は両方、勝手に盗んだ。
無断で読破した書物の中身は今も全てスィグルの頭の中にあったし、菓子は遠に血肉となって消えている。
今さら返すことはできない。
そう思い、スィグルはこちらのことをもちろん記憶しているらしい老人と学房で向き合い、絶句した。
「おや殿下、お元気そうで何よりでございました。本日は、どのような御用向きで、この老官をお訪ねくださったのでしょうか?」
スィグルが何か言う前に、老人はいきなり話しかけてきた。
随分、話の早い人だった。
確かに以前、まだ子供の頃にはスィグルは、挨拶もなくこの老人の部屋に勝手に入り、勝手に話しかけていた。向こうもこちらを居ない者のように無視してくれていたので、叩頭など、お互いにしたことがない。
でもこうして、自分も一人前になってみると、それは異例のことだった。
幼年とはいえ、自分は学房には随分と、礼儀を欠く王子だったようだ。
「師父……」
怪訝な顔で、ギリスが学房の戸口に座った。叩頭するためだ。
挨拶もまだだった。部屋に入るなり、老人が話しかけてきたのだ。
ギリスは作法通りに叩頭した。立ち尽くすだけの自分を背後に残したまま。
ギリスの弟たちも慌てたように、それに倣って平伏した。
「本日は、教えを乞うため参上しました。レイラス殿下が史学の講義を御所望です」
ぎょっとするほど、ギリスは恭しく喋った。
そんなことができるなら、なぜ普段からしないのか、スィグルは唖然として平伏するギリスの背を見下ろした。
作法も完璧だ。美しい叩頭礼だった。どこに出しても恥ずかしくない礼儀だ。
そんなことがなぜできるのだ。いつもしないくせに?
それが何か可笑しかったのか、正しく叩頭するエル・ギリスを眺めて、学房の中程の席に胡坐していた博士は、おっほっほと気味良さそうに笑った。
「氷の蛇よ。今日は大変なお方と来たものだ。そういう時は君もちゃんと叩頭するのだね。安心したよ」
「この前もしたはずだ」
平伏したままギリスが低い声で博士に訂正した。それに老人は楽しげにふふんと笑った。
「今日は貢物は持って来ましたか」
「忘れた」
ギリスはきっぱりと言った。
お菓子のことだろう。持ってくる約束だったのか?
スィグルは立ったものか座ったものかも分からず、戸口に立ち尽くしていた。
まるでこの部屋には居場所のない亡霊のように。
でももちろん博士にはこちらが見えており、老人は面白そうに見て来た。
白髪だが、官服に相応しく、きちんと結われており、美しい老人だった。まるで学房に飾られた老賢人の人形のようだ。
それでも、明るい灰色の目が、子供のように輝いて見える。
「老師……大変ご無沙汰しておりました」
見つめられて、黙っているわけにもいかない気がして、スィグルは思わず立ったまま話した。
それに老博士は微笑みのまま首を傾げた。
「殿下は長く部族領の外に遊学され、王宮の作法はお忘れになられたのですか?」
いかにも、そうなのだなという口調で言われ、スィグルは自分の立場が分からなかった。
王宮の序列では、自分はこの場の第一位のはずだ。王族なのだし、他は皆、平民だった。
魔法戦士は貴人の扱いだが、実際に貴人の出である者は少ないだろう。そこらの街の者の子なのだ。それが王宮で養育され、貴人にふさわしい知恵と礼儀を仕込まれる。
博士については、貴人もいたが、王宮の学房に入る者は大抵は身分のない者だ。
尊い血筋に生まれた者が、わざわざその地位を捨てて、王宮の博士になったりはしない。
そういう例がない訳ではなかったが、それは変わり者の類で、大抵の博士は、己の知性を頼りにここまで栄達してきた頭の良い平民だ。
だから、尊いアンフィバロウの子に、指図できる者はいないはずだった。
「貴方が、僕にここに来て叩頭しろと言っていると、エル・ギリスから聞いた」
スィグルは戸口で立ったまま、博士に言った。
王宮での作法は序列が全てだ。それが決まらねば、どこに座るべきかも決まらない。
博士は自分に首座を譲って控えるべきだが、全く立つ気配もなかった。
そこに座ろうとはスィグルは思っていなかったが、それでも博士から席を勧められるはずだった。
「左様、昨日、この者にそのように申しました」
「異例のことだ」
無礼だぞと言う代わりに、スィグルはそう言った。
この老人に頭を下げてもいいが、なにしろ額冠をつけた頭だった。容易には下げられない。
王族の威厳を保つのも、王族の務めだ。
アンフィバロウの一族は、ただの一家ではない。この部族の要で、皆が崇める星なのだ。
それが権威を失えば、この部族領は一つに纏まらなくなってしまう。
全てが正しく治まり、皆が幸福であるためにも、玉座の星は燦然と輝いていなくてはならぬと、王子たちは教えられて育っている。
自分たちもいずれ、その輝く星になるのだ。それゆえ、己を貶める行いがあってはならぬ。
「殿下は学房をどのような場所とお心得か」
微笑みの顔で、老人はスィグルに問いただしてきた。
「部族領の知識と学問が集積された場所だ。貴方もその知恵の一翼のはず」
「如何にも、仰せの通り」
老人は、正答を言った生徒に満足するような顔で、にっこりと頷いた。
「ここに来る者は皆、博士には叩頭します。部族領の知識と学問の集積に対し、殿下は叩頭なさらないのですか?」
淡い笑みの老人に問われて、スィグルは一瞬考えたが、そう言われればそうだ。
それに、この老人には借りがある。詫びるべきことも多いのだ。
この際、久々に会ったのだから、頭の一つも下げておくべきだった。
そう思い、スィグルが足元にまだ平伏したままだった魔法戦士たちの合間を拾い歩いて、博士の前まで行くと、小さな英雄たちは心配そうに盗み見てきた。
それでも彼らの先頭にいるエル・ギリスは知らん顔で、とりすまして平伏したままだ。
まるで時が止まっているみたいだと、スィグルはその姿を見て思った。
ギリスは僕を助けないつもりか。それなら仕方がなかった。
老人が座している首座の前に座り、スィグルは叩頭した。
できない訳ではない。玉座の間では兄や父に叩頭するのだし、頭を下げて良い相手には王子も叩頭するのだ。
それが学房の老人にもそうであるかは、時と場合による。自分の師であれば叩頭してよい。
普通はそれは、教えを授けに居室にやってきた博士に対し、首座からであるが、この際はまあいいだろう。
博士はスィグルの居室には来られない。誰も教えるなと後宮の恐ろしいババアどもが命じているらしいのだ。
首を賭けてまでは、この老人も来たくないのだろう。そこまでの価値がスィグル・レイラスにあるとは、誰も思っていないのだ。
まだ誰も。
そう思うと、スィグルは内心、ムカッとした。
敢えて言いたくはないが、兄たちは皆、馬鹿だ。さっさと読めば済むものを、何年もかけてチビチビと習う。
そんな暇があったら、やるべきことが他に、王族にはあるのではないのかと思う。
それが何かは自分もわからないが、とにかく、必要な学問などは、さっさと済ませればよいことだ。
自分たちは学者になる訳ではない。この世でたった一人しかいない、タンジールの玉座の君になるのだ。
自分はその話をずっと昔に、この老人にしたような気がする。
まだ幼髪をしており、学房に忍び込んでお菓子を盗むような、鼠の殿下だった頃に。
「やあ。ようこそ学房へ、殿下。畏れ多いことだが、私は叩頭できない。殿下がここにおいでになるはずはないので」
首座から見下ろしてきて、老人はスィグルにそう言った。
「貴方はここにいない。正式にはお迎えできません。それでよろしいでしょうか?」
老人は恐れてはいなかったが、スィグルが怒り出すかと身構える様子ではあった。
王宮の貴人は宝剣を提げているものだし、スィグルもそうだった。
対して学者はそんなものを持ってはいない。帯刀を許される身分ではないからだ。
もし殿下の宝剣で斬られれば死ぬだろう。
そうなるならやむを得ないなという諦めが、老人の体から感じられた。
「エル・ギリスには教えよう。お菓子を持ってくるのを忘れるような馬鹿だが、ここで学び直したいという君の向学心に免じて、貴重な学房の宝を分け与えても良い」
「学房の宝?」
ギリスが背後から怪訝に尋ねてきた。
博士はそれに、ああ、と納得したふうに微笑んだ。
「そうだ。君は馬鹿なのだった。学房の宝とは、知識だよ。知恵だ。我々はそれを得るのに相応しい者にしか教えないんだ」
「なんでそんなケチくさいことするんだ。読んでも本は減るもんじゃないだろう」
「君の言う通りだ」
ギリスが言うのがおかしいのか、博士はくっくっくと忍び笑いした。
「本は減らない。私の知識もそうだ。殿下。貴方がここで何を聞こうが、何かが減るわけではない。私のお菓子と違って」
にっこりとして、博士はスィグルの顔を見た。
「君は随分、私のお菓子を食べましたよね、スィグル・レイラス君」
憶えているぞ。そういう咎める目で、博士は意地悪そうにスィグルの顔を見つめて来た。面白そうに。
「君のお父上に、盗みの罪で訴え出ても良かったのですぞ。それを黙っておいてさしあげたこの老官に、お菓子の恩をお返しいただきたい」
「僕がお菓子を何個盗んだかご記憶でしたら、同じ数を持って参ります」
「いいや。憶えていない。そのようなケチなことは今さら申す気はない。殿下は、これについてはご自身の名にし負う、金の麦の大いなる実りをもって、この老師に報いるべきだ。そうお思いなのでは?」
老人が片目を閉じて目配せし、そう言うのを聞いて、スィグルは可笑しくて、小さく吹き出した。
妙な人だ。
「金の麦の実りをもって師の大恩に報います」
「まことに賢き仰せ」
頷いて答え、老人は納得したようだった。
官服の袖を正し、老人は首座から深々と叩頭してきた。
極めて恭しい所作だった。玉座の間の謁見の座に現れた博士たちが、玉座に対してするような。
「学房の鍵は殿下のものです。かつて、尊きお父上にお教えしたことと同じものを、殿下にもお教えいたしましょう」
にっこりとして約束した老博士に、スィグルは嬉しくて思わず自分もにっこりとした。
そしてうっかり、トルレッキオでついた癖で、博士に右手を差し出した。握手しろという意味で。
しかし博士は面食らったように、そのスィグルの白い手を見た。
年老いた学者がこんなことで驚くとは意外だった。部族では身分が違うと握手しないものなのだ。
その手を取ってよいのか、老人は難しい顔で悩み、困ったふうにスィグルを見て来た。
それが見上げる目に思え、スィグルも困った。
結局どんなに偉そうでも、彼らは平民で、自分と同じ立場ではなかったのだ。
老人はそうは言わなかったが、少々、済まなそうな笑顔になり、自分の席の脇にあった美しい紙箱を取った。
博士がその蓋を開くと、中に美しい花のような赤い菓子が並んでおり。まるで花園のようだった。
「アットワースの砂漠の薔薇という菓子です。殿下のお母上のご成婚を祝い市中で作られた菓子でした。大変お優しいお妃様で、民の慈善に尽くされ、今も民に愛されておりますよ。殿下も多少の困難には負けず、お励みください」
菓子をすすめる仕草の博士から、受け取らない訳にもいかなかった。
差し出した右手の引っ込めようもなかったし、それに、師が用意してくれていたお菓子を食わないのは非礼だろう。
「この困難は多少なのか」
スィグルが確かめると、老師は微笑んで頷いていた。
「お父上にもそう申しましたが、リューズ様は笑っておいででしたよ」
そう言われると笑うしかない。
だから、やむを得ないのもあったが、この老人の遠回しなような、ごり押しのような励ましが可笑しくなり、スィグルは笑って菓子をひとつとった。
それを口に入れて噛み砕くと、なんの味もしなかったが、甘いような薔薇の香気がした。
それがかつて後宮で甘えた時の母の匂いであったか、もう思い出せない。
自分にも思い出せないことはあるのだと、スィグルは驚いた。
でも、それならもう、この菓子を母だと思って生きよう。もう二度と、自分と語り合うことも励ましてくれることもない母だが、嘆いても仕方がない。
しかも博士はこちらを泣かそうとしている気がする。
老人が、使うかという目で懐から手布を取り出して見せるのを感じ、スィグルは泣くものかと涙を堪えた。
その時スィグル・レイラス・アンフィバロウが母を思って泣いたと、学房でこの後の千年も記録されるのが嫌だった。
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073 大図書館の火守
史学の師父がくれた学房の鍵とは、比喩ではなく実在の鍵だった。
ものの例えとばかり思って聞いていたスィグルは、老師の袖から華麗な赤い房飾りのついた鍵が現れたのに驚いた。
その鍵は真新しく、真鍮のようだったが、よく磨かれて輝いていた。
「この鍵は何ですか?」
差し出された鍵を受け取って、スィグルは尋ねた。
「この学房が誇る秘密の大図書館、知識の晶洞《しょうどう》の鍵のひとつでございます、殿下。どうぞご自由にお使いください」
「秘密の大図書館? そんなもの、一体どこにあるのですか」
スィグルは聞いたことがなかった。
タンジール王宮の地図は、子供の頃に見て隈なく憶えたはずだった。
王宮の全図を記録した、幾枚かに渡る大きな絵図面が学房にあり、スィグルはその一枚一枚をかつて眺めて憶えていた。今でも頭の中で全てをつなぎ合わせて、絵図面の中の王宮を脳裏に空想することもできた。
その空想によって、まだ実際に行ったことがない場所でも、手にとるように分かる。
自分はこの王宮の全てを知っているつもりだったのだ。
だが、そうではないと言っている。この老学者が。
驚くスィグルの顔を見て、老師は面白そうに笑っていた。
「殿下がご存知の図面にはなかったでしょうな? しかし、あるのです、昔から。王族の殿下がたはご存知ないかもしれないが」
「このタンジールに王族が知らないものなんて、あって良いのでしょうか」
思わず非難する声で、スィグルは尋ねた。
「おや。そう仰るが、王族は何もかもご存知でしょうか? 殿下は、庶民が自分の鶴嘴でそこらの洞内に勝手に掘る穀物蔵まで、全てご存知と?」
楽しげに老博士は反論してきた。
そう言われると、知らないのかもしれなかった。
スィグルは思わずムッとした不満の顔で老師に答えた。
「それは知りません。しかし、その大図書館なるものは、この王宮の中にあるのですよね?」
「左様」
老いた学者はしれっと答え、頷いた。
「そんなものがあると父上はご存知なのか?」
それでは父の知らぬところで、学者たちが何かを隠し持ち、企んでいても、気づきようがないではないか。
それは叛逆なのではないかと、スィグルは匂わせたつもりだった。
でも博士はそれにも笑っていた。
「殿下のお父上はご存知だ。お若い頃に私がお教えした。だが本来はずっと、族長や王族には秘密の場所なのです。殿下もご兄弟には御内密になさっていただきたい」
まことしやかに言う老人を見て、スィグルは唖然とし、何と言うべきか分からずギリスを振り返った。
背後で叩頭していたギリスは、今はもう戸口のところで顔を上げており、緊迫の表情をした弟たちに囲まれて、一人だけ退屈そうに聞いていた。
そのギリスに、スィグルは目で問うたつもりだった。
この爺さん、大丈夫なのか? 頭がおかしいか、そうでなければ叛逆者だぞ。
でも、ギリスはただ無表情に肩をすくめて見せただけだった。
ギリスにも、これは知らない話だったらしい。
「それは一体、どういうことでしょうか、師父」
話によっては父に訴え出る必要があるが、でも老師は族長は知っていると言っていた。
もし本当ならば、なぜ父がそのような事を許してきたのか、説明してもらいたかった。
老師は隠すつもりはないらしく、至って平静な顔でスィグルに答えてきた。
「知識の晶洞は、書物の隠し場所として、学房の者たちが長年かけて勝手に掘ったものです。この老官が王宮に出仕した頃にはもうありましたが。そこに収められた知識にふさわしい者にだけ、師父が立ち入りを許し、鍵を与えます。そこにはこの学房が所蔵する貴重な書物の原本が収められております。万が一の時の、知識の喪失に備えて」
「万が一とは?」
スィグルは予想されるどんな禍があるのかと恐ろしくなった。
「焚書です、殿下。気の狂った族長が即位して、本を焼くのを皆、恐れております。そこまででなくとも、気に入らぬあれやこれやを都合の良い話に書き換えてみたりが、ありえないとも申せません」
「そんなことするわけないでしょう」
憤然としてスィグルは答えたが、老師は笑って肩をすくめ、なぜかギリスを見た。
スィグルがまた振り返って見ると、ギリスは素知らぬ顔をしていた。
どういう意味なのか。
「詩殿には……殿下。部族の黎明の英雄譚の原本が保管されております。ご存知ですな?」
「もちろん」
スィグルは頷いて答えた。
宮廷詩人たちが働く区画には、美しく巻物にした英雄譚が数多く保管されている。
詩人たちが詠唱を行う詩の原本で、それを勝手に変えることは許されていない。
とは言え、口伝の詩だ。人の口から口へと伝えられる時に、いくらか変わっていくものではある。
どの物語が正しいのか、詩殿に問えば原本を確かめることができる。
その詩殿で学び、正しい歌だけを詠うのが一級の宮廷詩人で、彼らも王宮に仕える官僚だ。
父も多くの詩人を王宮に住まわせ養っている。
「知識の晶洞にも、学房が独自に保管してきた、黎明の英雄譚の写しがございます。古いものです。まだ太祖のお子たちが玉座に座っておられた頃のもの。それは今日の玉座の間で詠唱されるものとは、少々違っております」
「違うわけないだろう。ずっと詠い継がれているものだ」
スィグルはそれが常識と思い、老学者を諭したが、老師もスィグルを諭す目だった。
「違います。ご自身でご覧になればよい。この部族の黎明の記録は英雄譚として残されている。祖先たちは皆、文盲でしたのでね。書物ではまずかった。リューズ様にも申しましたが、おそらく太祖も文字が読めなかったのです。それゆえ詩人が詠唱し、太祖にお聞かせしたのだと思います」
「な……」
何だってと言おうとして、スィグルは口籠もった。自分が怒鳴ろうとしていた気がして、咄嗟に口をつぐんだのだ。
この老人と喧嘩になっても、自分に得なことは何もない。
今のところ、学房の者と縁をつなぐ唯一の糸口だ。
他の博士をあたってみてもよいが、この程度でいちいち怒っていては、何かがまずい。そう思えて耐えたのだ。
その怒っている様子を見て、老人は気味がよさそうにいひひと忍び笑いしていた。
「どうも祖先たちにも当代の我らと同じく、学のある者と、そうでない者がいたようです。森の奴隷だったのであるからして。主人の祐筆を務める職の者は奴隷でも読み書きができたが、それ以外は文盲であった。森におわした頃の太祖のお役目は、主人の祐筆ではなかったようですな」
史学の師父は、いかにもそれが事実であるように言っていた。まるで黎明の頃から生きていて、森にいる太祖アンフィバロウをその目で見て来たかのようなしたり顔だ。
「でも、祖先の中にも字が読める者はいたのです。太祖に付き従った黎明の氏族の中に。その者は主人の書物を読むことができ、皆が知らされていないことを知る余地がありました。その者の名がお分かりか?」
スィグルは首を横に振った。そんな話は部族の黎明の英雄譚にはないのだ。
初めて聞く話だった。
「ええと……君たちには、わかるかな? 誰だと思う」
師父は気軽な講義のように、首をのばして戸口に座る魔法戦士たちに尋ねた。
皆、無言だった。
ギリスは平然としていたが、彼の弟たちは不安げに青ざめて押し黙っていた。
皆が知っている話ということではないらしい。初めて聞いたという顔で、年若い魔法戦士たちは戸惑って見えた。
「殿下。これは、気軽にしてはならぬ話なのです。お分かりかと思いますが」
そう言う割には、あっさりと言って、史学の師父はスィグルに目を戻した。
答えない生徒たちのことは諦めたらしい。
「エル・ディノトリスは未来視ではないというのが、この老官のとる説です。彼は、タンジールがここにあると知っていたのです。場合によっては千里眼も使わなかったのかもしれない。ただ知っていただけかもしれません。主人の書物を盗み読んだために」
「では黎明の英雄譚は嘘ではないか」
スィグルは自分が思わず口にした言葉に、ずしりと胃が重くなるのを感じた。
それを見て、老人はまたイッヒッヒと楽しげに意地悪く笑った。
「首を切られますぞ殿下」
何が可笑しいのか全くわからないが、やはり実は気の狂った老人なのかもしれない。
「俺も質問していいかな?」
ギリスが背後から呼びかけてきた。
振り向いて見ると、ギリスは今もまだぼうっとして見える真顔で、こちらを見ていた。
「何かね、エル・ギリス」
優しく許す声で老師が答えた。
まだ戸口に居るまま、ギリスはよく通る声で尋ねてきた。
「あんたの説が正しければ、森の連中はタンジールの場所を知っていることになる」
「そういうことになるな」
頷いて、老師は感心したふうにギリスを見ていた。
ギリスは淡く悩んだような顔をして、首を傾げて言った。
「だがこの千年、タンジールが襲撃されたことはない。当代が即位する前の暗君の時代には、索敵の守護生物が近くまで来たというけど、でも見つかってはいない。なぜなんだ」
ギリスは不可解そうに言っていた。かすかに顔を顰めて、不快そうだ。
その顔が、まるでタンジールが索敵兵に見つかっていないのが、何かの間違いだと不満のように見え、スィグルは呆れた。
もし見つかっていたら、この地下都市での市街戦になったかもしれず、戦う術のない女子供や老人までが敵の守護生物に食われていたかもしれない。最悪の場合は王都が陥落しただろう。
そうならなくて良かったと、心から喜ぶべきところだ。
それを老師が叱るかとスィグルは思い、黙っていた。
しかし学者は怒る様子もなく、静かにギリスに答えてやった。
「敵は忘れたのだろう、タンジールの在処を」
「そんなことある?」
納得いかないという顔で、ギリスが軽く叫ぶように言ってきた。
「なにしろ千年前なのだよ、君。私など、昨日食った飯がなんだったのかも忘れるよ」
とぼけた様子で老学者は穏やかに笑っていた。それでは困るだろうとスィグルは呆れた。
「俺は憶えてる。鶏と豆を炒めたやつだ」
真剣な顔で、ギリスは自信をもって答えていた。
「美味かったかね?」
老師が聞くと、ギリスは真面目に頷いていた。
「でも、君は一年前のことは憶えているか。十年前の今日、昼飯に何を食べたか憶えているかね?」
「思い出せない」
ギリスは素直だった。それに老師は満足したようだった。
「そういうものだ。人は忘れる。だから記録し、それを保管するのだ。それが我ら学房が千年担ってきた大事なお役目なのだ。当代の族長閣下も、それをお許しになった。部族の正しい知識がこの代で失われぬよう、秘密裏に保管することを」
父が許したという話を、スィグルは顔を顰めて聞いた。
嘘か本当か、それは父に聞いて確かめるより他にない。この爺さんが勝手にそう言っていても、こちらには分からないのだ。
その、知識の晶洞なるものが実在するのかも、この目で見て確かめなければ定かではない。
爺いの妄想かもしれないではないか。
しかし、老博士はとても耄碌したとは思えぬしっかりとした声で、学房にいる者たちに教えてきた。
「学房には、千年続く戒めがある。知識の晶洞のことは王族には秘密にせよという決まりだ。なぜなら彼らは本を焼くからなのだ」
「そんなことしない」
黙っていられず、スィグルは老師の話に口を挟んだが、老人は鷹揚に笑顔でそれを許した。
「殿下。太祖が火炎術師であられたのはご存知ですな」
それは部族の者なら子供でも知っている。たぶんギリスでも知っているはずだ。
火炎術は王家の者が血族の誉とする魔法で、スィグルも持っていたかったが、あいにく覚えがない。
しかし第一王子は火炎術を使う。大した火ではなかったが、もしも大した火であれば今頃自分は消し炭になっていたのかと、スィグルは今朝の朝議での燃える手布のことを思い返した。
太祖アンフィバロウも、魔法の火を使う者だったのだ。彼はその火炎術で、森を脱出する仲間と、自分たち兄弟を守った。
「祖先たちは森を出る時、希望都を焼き討ちしたのです。多くのものが燃えたはずだ。森の者どもがタンジールの在処を忘れたのは、おそらく記録がないからなのでしょう。アンフィバロウが焼いたのだ」
史学というより、それは師父の空想の物語だった。スィグルにはそう思えた。
だが確かに太祖アンフィバロウは火炎術師で、今も絵にする時には、炎の揺らめく中に座す姿で描かれる。
彼は憎き敵を、容赦無く焼き殺す。民を虐げ、支配していた森の者どもに、一切の情けはかけず焼き殺す悪魔だ。
それが太祖の愛だと、英雄譚はこの千年ずっと詠っている。
部族の魔法戦士たちも、それに倣い、迷わず敵を討ってきただろう。
敵への憎しみは、この千年ずっと、部族への愛だったのだ。
だが結局、英雄譚が教えるものは嘘だったのだろうか。本当の話ではなく。
スィグルがそういう思案に暮れる気分になりかけた時、急にまたギリスが喋った。
「師父、でも未来視の英雄は本当にいるんだよ。千里眼の者も。それはどう説明するんだ」
老師は不思議そうにギリスを見つめた。
「君たち魔法戦士は、黎明のエル・ディノトリスにタンジールを未来視して欲しいのだろうね?」
そうであればタンジール到達は魔法戦士の手柄になるからだ、と博士は言いたいのかもしれなかった。
確かに、もしもエル・ディノトリスが魔法戦士ではなく、敵の書物を読んだだけの知識ある男なのだったら、それは一体誰の手柄か。
学房の者たちか?
エル・ディノトリスは部族の最初の竜の涙だったが、学房の祖でもあったことになる。
部族の黎明の時期に、知識の晶洞を作り、それをアンフィバロウから隠せと戒めた者が、誰かいるはずだ。文字の読み書きができた者たちのうちに。
「いや。そうじゃないよ。俺は別に、エル・ディノトリスが未来視でも、そうじゃなくても、どっちでもいいんだ」
ギリスは困った顔で、老学者と話していた。
その様子が、先ほど廊下で魔法戦士の兄弟関係の難しい説明をさせられた時のギリスと似ていて、スィグルには彼が、何か複雑な話をしようとしているふうに見えた。
老学者は真面目な顔で、ギリスの話を聞いていた。
「英雄譚では、千里眼のディノトリスっていう名前だろ? だから千里眼なんじゃないか? でも未来視も使えたんだろう。今もそういう奴がいるよ。魔法って、一人に一個だけじゃなんだ。いくつか持ってる奴もいる。俺は氷結術だけなんだけど……お前らは?」
ギリスは急に、自分の背後に控えている弟たちに聞いた。
問われてびっくりした顔で、エル・サリスファーがギリスの顔を見上げた。
「僕も氷結術だけです。でも、タイユーンはたくさん使えます。火炎術と雷撃術と、念話もできるし、千里眼も使えます。あと、治癒術もだっけ?」
サリスファーが一番後ろにいる子に聞いていた。確か晩餐の時に、もうすぐ命名日だと言っていた子だ。
「治癒術はちょっとだけですけど」
謙遜するように言った、そのエル・タイユーンを、ギリスは振り返ってじっと見た。
「いろいろありすぎだ。何歳なんだお前は。どれかに決めろ。魔力が分散する」
昨晩、来週に十四歳になると聞いたばかりなのに、ギリスがそう叱るのを、スィグルはぽかんとして聞いた。
エル・タイユーンは何も言わなかったが、ギリスに褒められると思っていたようで、しょんぼりしていた。
「今もこういうのがいるんだから、千年前もそうだろう。竜の涙の間では代々、英雄ディノトリスは千里眼で、未来視だったことになってる。未来視の魔法は今も実在してる。だからディノトリスも使えたはずだ」
ギリスは老師に向き直り、難しい顔をして喋っていた。その、大して難しくもないような話を。
老博士は黙ってそれを聞いてやっていた。
「師父、俺は思うんだけど、ディノトリスはタンジール到達を未来視したけど、それだけじゃ意味が分からなかったんじゃないか? 自分たちがタンジールに着くのは知ってたけど、どこにタンジールがあるかは、知らなかったんだ。そこに着くのを知ってるだけじゃ、脱出行を率いられないだろ? 重要なのは、そこに至るための道筋だ。俺なら、何か知ってそうな奴に聞く」
「なるほど」
ギリスの意見に、老師は頷いていた。
「魔法だけでは完璧じゃないんだ、師父。魔法戦士の他に、学者も、詩人も将軍も、官僚も農夫も工人もいて、皆で助け合って、やっと楽園に着くものなんだって」
「賢いな君は」
驚いたように老師は軽く叫んでいた。
「イェズラムがそう言ってた」
「まさに射手だ」
感銘を受けたように老博士は言い、ギリスを眺めた。
「君の養父は枯れ谷の黄金の目で、火炎術師でしたね」
誰もが知っているようなことを、老師はギリスに確かめていた。
それにギリスは頷いていたが、なぜ聞かれるのか、分かっていないようだった。
「まさに英雄でしたよ」
しみじみと老師は亡きエル・イェズラムを褒めた。
それにもギリスは異存がないようで、したり顔で頷いていた。
「古来より、この部族の黎明の長は双子の兄弟だったと伝えられているんだよ。それは恐らく事実だろうね。どの書物にも詩にも、そう記録されている。永遠の蛇は二匹いたのだ」
「そうだよ」
ギリスは不思議そうに、あっさりと答えていた。
「殿下、この氷の蛇を大切になさるがよいですぞ。案外、賢いようです」
老博士は真面目な顔で、スィグルに忠告してきた。
そのような気もしたが、そうとは思えないぐらい、ギリスは時々、ぼうっとして見えた。
「学房の掟には、知識の晶洞をアンフィバロウには秘密にせよとあります。だが、こうも定められている。知識の晶洞によって星を導けと」
重々しくそう言って、老博士は急に、いひひと笑った。
「それでうっかり、殿下が直にご覧になるものかと。しかしこれは、鍵を渡す相手を間違えましたかな? 私も歳だろうか。君が馬鹿に見えるのがいけないんだよ、エル・ギリス」
「そろそろ話に飽きてきたんで、もう行っていいか。その、知識の晶洞」
真剣な顔で、ギリスが求めた。博士は笑いながら鷹揚に頷いていた。
「ああ、それがいいね。殿下に付いていってもらいなさい。そこの英名なる君の弟たちにも、特別に許そう。皆、ふさわしい者ばかりだ」
気前よく許して、博士は学房の隅に用意されていた長櫃をギリスの弟たちに開けさせた。
中には何着かの官服が入っていた。学房の者たちが着るものだ。暗く染めた茶色の衣で、これといった装飾もなく極めて地味だ。
博士たちが纏う服装は官服でも、もっと立派だが、これは下っ端のお仕着せだろうと思えた。スィグルは見たことがない。
「学徒の衣です。知識の晶洞に行く前に、必ずそれにお着替えを。君らは頭布を着けるように。殿下はそれを……」
博士はそう言って、スィグルの額を指差していた。頭に巻いている高貴なる輪を、外せという仕草で。
「嫌です」
スィグルはきっぱりと言った。
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074 学徒の衣
博士は額冠を外せと言っているのだろう。これは王族の血筋を証すもので、王族の誇りだ。絶対に外してはならぬもので、スィグルも不用意に外すつもりはなかった。
「嫌なら今日は鍵を置いて居室にお戻りください。学房の者しか入れぬ場所です」
博士は残念そうに言った。
ここまで教えておいて、見せないつもりなのか、その知識の晶洞なるものを。
「俺らは行っていいわけ?」
ギリスは弟たちが長櫃から出してきた茶色い衣を広げて見ながら、博士に聞いていた。
「構わんよ。君らも英雄でさえなければ、きっと学房で良い成果を収めただろうにな。特に、エル・ジェルダイン、君は」
博士は惜しむように言って、ずっと大人しく立っていた影の薄い一人を頷いて見た。
「とんでもないことです、師父。戦うのが務めです」
名指しされた少年は、仲間に見つめられて気まずげに答えていた。
その控えめだが思慮深そうな態度に、スィグルはしばらく彼を見たが、学房の粗末な衣装を手に握っている彼は、昨夜の晩餐で挨拶してきた時とはまるで別人のようだった。
昨夜は英雄のように見えた。
エル・ジェルダイン。透視術師だ。確か。
殿下に忠誠を誓うと言っていた。
英雄たちの忠誠とは、死だ。スィグルにはそう思えた。
命じられたら死闘するという約束なのだ。
昨夜初めて会ったばかりで、お互い何も知らないのに、ジェルダインはもう死ぬ気なのだ。僕のために?
それに、なんとも言えない違和感があり、スィグルは魔法戦士たちの一団を振り返って見た。
別に、この中の誰かに死んで欲しいとは思わない。エル・ジェルダインにも、誰にも。
そんなの、好き勝手に誓われても困る。
彼らにも、好きに生きる権利があったんじゃないのか。
英雄になる以外の道が。
「まあ天使がお決めになったことだ。君らの宿命については致し方ないが。学房の掟では、聡明なる者には分け隔てなく書を与えよとある。君たちは聡明だからいいだろう。もちろん、嫌なら見なくていいんだが?」
博士は意向を問うような目で、ギリスとその弟たちを見渡した。
「帰っても構わんよ。無理には勧めん」
嫌なら茶の衣を置いて去ってよいという顔で、博士は学房の扉をちらっと目で示した。
それでも去る者はいないようだった。
「ここで着替えていいの?」
ギリスは遠慮なく脱ぐ気のようだった。
「君は行くのかね。エル・ギリス。正直言って君が一番怪しいのだが。知識の晶洞にふさわしいのかどうか……」
博士は逡巡したようだが、ギリスは気にせず、スィグルに茶色の衣を投げ渡してきた。
投げる奴がいるか。
思わず受け取ってから、スィグルはびっくりした。
掴んだ衣は麻でできていて、ごわごわしていた。こんなもの着たことない。
「さっさと着ろ」
誰に命じているのか、こちらが耳を疑う口調で、ギリスが誰にともなく全員に言った。
まさか僕にもか?
ふざけてるのかギリス。
不敬だぞ、僕は、アンフィバロウの……!
そう思いかけて、スィグルは老師がじっと採点するような目でこっちを見ているのに気づき、ぎくりとした。
「ち……父上は……どうなさったのか! 貴方に知識の晶洞を見せられた時……こんなものをお召しになったのか!」
そんなはずないという気持ちで、スィグルは尋ねた。
自分が知っている父は、いつも美しく着飾っており、凛々しく族長らしい姿だった。
朝議の席の赤い礼装はもとより、晩餐に来臨する時の夜会服も華麗だし、出陣の時の軍装も美しい。
とにかく父は常に華麗で美しいものなのだ。身なりから立居振る舞いに至るまで、一分の隙もない。
こんな小汚い格好をしたりするわけがないのだ。ほとんど襤褸みたいなものではないか。
そう思って、ギリスに投げ渡された茶色の衣を持ったまま困惑していると、極めて残念そうに老博士がスィグルを見てきた。
「殿下。名君が、それを着るのが嫌で、知識の晶洞を目にできる生涯でただ一度の機会をむざむざと投げ捨てたりしますかな? そんな英雄譚をお望みか?」
お前にはがっかりしたという顔を、老師はしていた。
王宮の教師にそんな目で見られたのは、スィグルは生まれて初めてだった。
動揺して、思わず戸口の英雄たちを振り返ると、彼らはもうさっさと茶色い学徒に化けていた。
自分で着替えたのかと、スィグルはそれにもびっくりした。
英雄たちにも部屋にはお付きの侍女がいて、衣服の着脱を手伝っているはずだ。
それが王侯貴族の特権で、自分で着替えないのが作法だ。
彼らも準王族である以上、それを誇りとしていたはず。
「自分で着たの!?」
驚いて、スィグルは尋ねた。
ギリスは呆れた顔でこっちを見ていた。
「当たり前だろ。お前、こんなもんも着られないのか。まさか脱げないの、それ?」
スィグルの黒い長衣を指差してきて、まだ頭布は着けていないギリスが、学房の英雄のような奇妙な格好で尋ねてきた。
「脱げ……るけど、習わなかったの? 自分で脱いだり着たりするのは行儀が悪いんだよ。特に人前で……」
皆、見てるじゃないかとスィグルは動揺して英雄たちを眺めたが、彼らは気にしないようだった。
さっき、魔法をたくさん持っていると言われていた一番年下のエル・タイユーンが、さも当たり前のように、皆が脱ぎ捨てた英雄の長衣をいそいそと畳んでやっている。
「殿下、脱ぐのをお手伝いいたしましょうか?」
冷たい顔で、ギリスが尋ねてきた。馬鹿を見るような目で。
少なくともお荷物だと、ギリスの凍ったような色合いの目が、いつになく雄弁に語りかけてきていた。
そういう表情を、いつもは我慢して控えていたせいで無表情に見えたのか。
それならなぜ今も控えていてくれないのかと、スィグルは困ったが、それがギリスの本心なのだったら、隠されても困るのだろう。
「いや……いいよ。自分で着るけどさ」
そういえばトルレッキオへの旅の途中にもこんなことがあったなと、スィグルは思い出した。
旅程の最後には最小の人数だけの随行となったので、イェズラムが自分の他には荷運びの工人だけを連れて行くことにした。
侍女や侍従などは追い返され、王子でありながら、スィグルの身の回りの世話をする者がいなくなってしまったのだ。
その時スィグルは、世話はイェズラムがするのかと思っていた。
随行者の中で彼だけが英雄で、ただ一人の貴人だったせいだ。
工人たちは王族の衣服に触れる権利がない。身分が低いため、王子にとって工人たちは穢らわしいのだ。
だからイェズラム以外に、王族の身支度を手伝える者はいない。
スィグルはそう思っていたが、イェズラムはスィグルに自分で服を着ろと言った。
なにゆえに歴戦の大英雄が、お前みたいなチビの服や靴を着せたり脱がせたりしなくてはならぬのか。子守に来たのではないぞと、イェズラムは冷たい顔で厳しく言ったが、でも苦労して脱ぎ着するスィグルの帯端を持っていてくれたり、袖の在処を探してくるくる回っているのを、笑いながら手伝ったりはしていた。
家臣に笑われて、スィグルも最初は辛かったが、でも自分でも少し可笑しかった。
自分はそんな些細なことも、己ではできないのだと思い知って。
臣を失えば、実は靴もなく、丸裸でいるしかないような、無力な王子だったのだ。
しかも、もし、その時に多少なりと自分で着られるようになっていなかったら、トルレッキオの学院に着いた後に、自分は同じ苦労をしたのだろう。
山の学寮の執事たちは、なんと着替えは手伝わないのだ。山の民とは、そういうものらしい。
あの金髪の異民族どもに、無能な殿下と陰で嘲笑われるよりは、エル・イェズラムに笑われるほうがまだマシだった。
なにしろ彼は部族の大英雄で、族長リューズの射手だ。まだ幼年の王子がそれにい劣っていたところで、恥とまでは言えない。
それにしても、あの制服の編み上げ靴にはまったく苦労した。長靴に革紐が通してあり、それを毎回自分で編んで結ばねばならない。
イルスは当たり前のように自分で履いたので、先に学院に着いていた自分が、手伝ってくれとも頼めなかった。
「早く行こうよ」
早くしろというのを、ギリスは困った顔で宮廷風に言った。
一応、こちらに気は遣ってくれているらしい。
王子だもんな。スィグルは納得して項垂れ、ごわごわの襤褸を脇に抱えたまま、自分の長衣の帯を解いた。
「見るな。無作法だぞ」
皆がじっと見ている気がして、スィグルは命じた。
その声に、老師までもが慌てて目を逸らしたようだった。
王子が自分で着替えをするような哀れなお姿を、下々の者がじっと見るものではない。
僕は王族なんだぞ。スィグルは内心でだけ、そうガミガミ言ったが、皆に言うのはもっと無様なので我慢した。
「自分で着られるんじゃん。偉いなお前」
自分でやれと言ったくせに、なぜか驚いた声で、ギリスが褒めてきた。
それにスィグルはムッとした。できないと思っていたのか。それなら手伝え。
どういう流れか、スィグルが脱いで軽く畳んでおいた黒い長衣を、ギリスが畳み直しに来た。
おそらく序列の関係で、王族の衣装に触れてよいのは、侍女でないなら、そこにいる者の中で身分がもっとも高い者がやるのだ。だが目上の者ではありえない。
そのような様々な宮廷儀礼と序列の都合により、この中ではギリスなのだろう。
そういうことはこの馬鹿も、ちゃんと考えているのだと、スィグルは軽くむかむかして思った。
がさつそうに見えるのに、ギリスは主人の長衣をさっさと丁寧に畳んだ。部族の伝統衣装には全て決まった畳み方がある。綺麗に畳むのも作法のうちだった。
いつもは侍女たちが魔法のようにビシッと畳んでくれている。
でもギリスも、今すぐに奥仕えができそうなぐらい器用だった。
魔法戦士たちは兄に仕えるので、皆、そういうもののようだった。
エル・タイユーンも皆の長衣を上手に畳んで、もう学房の長櫃の中に綺麗に片付けていた。
その一番上に、ギリスに渡されたスィグルの黒い長衣をタイユーンが恭しく乗せると、出発の支度は整ったはずだった。
「それ、忘れてるぞ」
ギリスがスィグルの額を指差して、額冠を外せと言ってきた。
「絶対に嫌だ。僕にも頭布を寄越せ。それを被れば見えないはずだ」
絶対に譲らないつもりで、スィグルはギリスに求めた。
学徒の頭布は顔を隠すためのもので、髪を結ったまま被る面衣だ。髪に挿す金具がついている。
顔が見えないわけではないが、布でできた兜のようなものだ。目深に布が垂れており、それに隠されて額は見えない。
まさか通りすがりに布を剥いで、学徒の額を見る者もいないだろう。
英雄たちの石が隠せるのなら、王族の額冠だって隠せるはずだ。
「まあそれでいいかな?」
ギリスが師父に尋ねると、博士は座ったまま肩をすくめた。
「敢えて見つかる危険を冒したいと仰せならご随意に。もしバレましたら、この老官の学房での地位も危うくなりますが、殿下がそれをお気になさらぬのなら仕方がありませぬ」
殿下が、というところを、老師は有意に強く言った気がした。
僕のせいだっていうのか。僕の?
「ち、父上は……」
スィグルが尋ねようとしたら、ギリスが横からさっと額冠を外してきた。
「何をするんだよお前は!?」
冠を盗られながらスィグルは思わず叫んだ。
戴冠させると言っている者が、逆に冠を奪ってどうする。
「いいんだよ俺はお前の射手だから。族長冠を被せる時には、こっちの殿下のほうのも俺が脱がせる決まりだ。ちょっと早いだけだし、別にいいよな?」
「早すぎるだろ」
「練習、練習」
ギリスは面倒そうに言って、奪った冠の代わりに、弟たちに長櫃から取らせたスィグルの分の頭布をばさりと被せてきた。
戴冠の時も、こんな雑にやるつもりなのか。
頭布を固定する金具が強めに頭皮を擦った気がして、スィグルは先が思いやられた。
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075 迷宮
学房にある伝声管から、師父が呼びかけると、老師の弟子らしい者が学徒の衣を着て迎えにきた。
その茶色の麻衣を着て頭布をかぶった若者は、歳の頃はギリスよりもまだ年上に見えたが、師父に対して恭しい礼儀で案内役を引き受け、こちらへと言って先導役を買って出たきり、学房の暗い通路を無言で歩いた。
その沈黙があまりにも重く、学房では誰も話してはいけないのかと思えて、スィグルは無言で付いて行った。
宝剣や武具の類は老師の部屋で取り上げられてしまい、皆、丸腰だったが、英雄たちは大して気にしていないようだった。
身に帯びた強大な魔法さえあれば、彼らは武器がなくても心細くはないのだろう。
念動術の心得があるスィグルもそのはずだったが、王宮のどこかにあるという知らない場所に連れていかれる緊張感で、少々息が詰まった。
それで我知らず不安げな青い顔をしていたのか、ギリスは先導する茶の衣の者について先を歩いてくれて、スィグルの周りには、魔法戦士の弟たちの隊列を組ませていた。
強い者に弱い者を守らせる陣形は、王宮でも常に徒党を組む習慣の彼らには、自然と身についているものなのかもしれなかった。
最も年少のはずのエル・タイユーンと、透視術師のエル・ジェルダインを隊列の中ほどに入れ、ギリスはそのすぐ前をスィグルに歩かせた。
先頭に立つ自分の脇には、晩餐での騒ぎの時に護衛に立たせた風刃術師のエル・エリシャーと、ギリスの筆頭の弟らしいエル・サリスファーを歩かせている。
列の殿には、火炎術を使うと晩餐で挨拶していた二人がついていた。
エル・パラルディンとエル・カーリマーだ。確かそういう名だった。
王宮で誰かに襲われることはないと思えたが、それでもこうして英雄たちに囲まれていると心強かった。
自分と同い年の、まだ名も上げていない英雄たちではあるが、それでも魔法戦士だ。ありがたい味方だった。
彼らがなぜ自分に忠誠を誓ってくれたのか、そういえば知らない。ギリスのお陰なんだとスィグルは考えていた。
彼らの兄であるギリスがスィグルの射手だから、兄への忠誠として、スィグルのことも敬ってくれているのだろう。
だからこの心強さも、ヤンファールの氷の蛇のお陰なのだ。
僕はたぶんまだ、ただ王子だというだけで、彼らの庇護を得ているのだろうと、スィグルは思った。
それを考えると、着なれぬ学徒の衣の懐に隠し持った額冠の貴重さがまるで熱いようだが、これが無ければ彼らにとって自分は、どうでもいいただの少年なのだろうか。守るべき価値も、仕えるべき尊さも持っていない。
そうなのかとギリスに問いたい気がしたが、今ここで、皆の前でするべき話ではなかった。
「こちらへ」
案内役の学徒が、荷物入れとしか思えない小部屋の戸を開いて言った。
「ここが知識の晶洞?」
列の先頭にいたギリスが、案内役に尋ねた。
古い絨毯が巻かれて立てられ、幾つも箱が積まれた部屋の中に、少々の書物が収められている棚が二つ三つあった。
それだけだ。
案内役は顔を顰めたらしい。おとなしそうな口元が、微かに深いの表情だった。
「鍵は?」
疑わしそうに問われ、スィグルは自分が懐に持っていた大振りな真鍮の鍵を急いで取り出した。
それを差し出したが、案内役はじっと見るだけで受け取らなかった。
「絨毯を退けろ」
顎で壁際の一角を埋める巻かれた絨毯の列柱を示して、案内役は力仕事をする気はないという顔つきだった。
まさか、自分達でやれという意味か。
そう思ってスィグルはたじろいだが、魔法戦士達は気にしないようだった。
ギリスがさっさと人ほどの丈もある絨毯の柱を運びに行くと、慌てたようにその弟達もそれに加わった。
兄が働いているのに、弟達が何もせず突っ立っている訳にはいかないのだろう。
それが彼ら竜の涙の社会だ。
しかし、それに自分も加わるべきかと悩んだせいで、スィグルは動けず、じいっと案内役の学徒に見られた。
格好だけ学徒の衣を着ても、王族の暮らしぶりは簡単には抜けないものだ。
何かは案内役に見抜かれたのではないかと、スィグルは彼が自分の正体を知っているのなら良いがと思った。
でも恐らく知らないのだろう。学徒の身分は工人と同じく王宮では最下級だが、この案内役の態度は、工人の中でも長の位であるトードリーズよりも、ずっと偉そうだ。
そいつから、なぜ命令に従わないのかという目で見られている気がして、スィグルは信じられない気持ちでギリスの方に行った。
「お前はいいよ。後ろで待ってろ」
やんわりとした小声でギリスが止めてきた。
でも、どうしろというのだ。この、居所のない空気。働くふりでもした方が気が紛れる。
そう思って絨毯の退けられた壁を見ると、足元のあたりに大きな裂け目があった。
でかい鼠が掘ったような、漆喰で塗られた白壁を壊す大穴が。
身を屈めればぐぐれそうだが、立っては通れぬ程度の低い穴だった。
「まさか、これ?」
スィグルは思わず訊いた。案内役に。
まだ疑わしそうに見ている学徒が、頷いた。
「師父のご命令ゆえ案内したが、本来お前らのような若輩者が来るところではない」
「お前と違って天才なんだ」
批判的な声色だった案内役に、ギリスが振り返りもせずに答えた。
「中は一本道なんだろうな?」
確かめたギリスに、案内役は肩をすくめた。どういう意味なのか。
皆で振り向いて案内役を見たが、頭布の男は行けというように手で壁の裂け目を示すだけで、親切そうには見えなかった。
「天才ならば容易に辿り着くはずだ」
そう言って案内役はさっさと物置部屋から出て行ってしまった。
「嘘だろ……」
スィグルは唖然とした。
まさか一本道じゃないのか?
「お前があんなこと言うからだろ」
人のことを批判できるような立派な性分ではないが、スィグルは思わずギリスの口の悪さを責めた。
案内役を追って行って、続きの案内を求めるべきだろうか。
しかしギリスは平然としており、そんな気はないようだった。
「誰だっけ、お前。透視術師」
「ジェルダインです」
ギリスが問うと、困った声で長身のエル・ジェルダインが答えている。
「穴の中、視える?」
壁の裂け目を視線で示して、ギリスがジェルダインに訊いた。
「ぼんやりとは。触れば詳しく視えます」
「触んなきゃ視えないの?」
咎めるようにギリスは言ったが、触れば見えるのなら凄いじゃないかとスィグルは思った。
それを言うべきだったか。
でもジェルダインはもう無言で、壁に触れに行っていた。
目を閉じて壁の中を視ているらしいジェルダインが、深く集中している気がして、スィグルは話しかけるのをやめた。
透視術師の仕事はすぐに終わった。
「一本道じゃないです。でも単純な構造です。壁の向こう側の通路は、身長分はあるので立って入れますが、灯火がありません」
「灯を持っていく方がいいか?」
ギリスは淡々とジェルダインに尋ねている。
「いえ。通路は暗いですが、恐らくその奥は明るいです、兄者。大きな明るい空洞があるのが視えました。通路だけなら暗視でも行けそうです」
「わかった。最悪でも火は皆、持ってるんだし何とかなるだろ」
ギリスはそう納得して、もう中に行くつもりのようだった。
英雄たちは煙管を吸うための火口を持っているのだ。たぶんそれのことを言っているのだろう。
それにこちらには火炎術師もいるのだから、灯火に困ることはない。彼らはそう思うのだろう。
「先に入っていいですか。先に進んで奥を確かめてきます」
ジェルダインが先鋒を買って出た。それに頷いてギリスが許すと、透視術師は身を屈めて壁の裂け目に潜って行ってしまった。
「お前も行け、十三歳。念話ができるんだろう。偵察して伝令を送れ」
ギリスが命じると、兄に名前も憶えてもらっていないらしいエル・タイユーンが、戸惑った顔をした。
「念話なら僕よりエル・カーリマーの方がずっと長けています」
「エル・カーリマー?」
ギリスが首を傾げて、あと五人残っている弟たちを見渡した。
名指しされたエル・カーリマーが、困ったようにギリスに肩をすくめていた。
髪に少し波打つような癖のある、華やかな顔立ちの少年だ。大人びた美貌だった。
彼は火炎術師だと名乗っていたが、念話もできるんだと、スィグルは英雄たちの魔法の多彩さに感心した。
でもギリスは納得がいかなかったらしく、最年少のタイユーンに少しムッとして向き直っていた。
「言われた通りに行けばいいんだよ、行ってこい」
ギリスにもう一度命じられて、エル・タイユーンは慌てたように壁に潜っていった。
「あいつ魔法を使うのが嫌なのか?」
ギリスが不思議そうに弟たちに訊いていた。
「いえ。そうじゃありません。タイユーンは年上を立てる性分なんです」
それに立てられたばかりのエル・カーリマーがギリスに釈明してやっていた。
「お前、先に行った透視術師と念話で話せるか?」
「もちろんです、兄者」
「便利だな、お前」
驚いたようにギリスが褒め、エル・カーリマーは微笑んでいた。
「憶えとく、エル・カリマ」
「カーリマーです、兄者。伝令のご指示をください」
面白そうな笑みを噛み殺した顔で、エル・カーリマーはギリスに求めた。
「通路の安全を確保したら戻ってこいと伝えろ。あいつらが生きて戻ったら、スィグルを行かせる」
「了解」
簡潔に答えて、エル・カーリマーは目を伏せた。
さっきジェルダインも透視する時に目を閉じていた。魔法ってそういうものだろうか。
目を閉じた方がいいのか。
スィグルは自分が念動を使う時、そんなことはしていない気がした。
魔法使いもいろいろだ。
「タイユーンが返事してきました。ご指示通り遂行します」
「それ……もし向こうにも念話者がいないと返事できないのか?」
ギリスが首を傾げると、こちら側の念話者であるエル・カーリマーも首を傾げていた。
「いいえ。でもタイユーンにも役目をやってください。念話は使ったほうが上達します」
「あいつ念話者になりたいのか?」
ギリスは不思議そうに聞いていた。
「分かりません。でも、後見の兄が派閥の念話者でいらっしゃるので。僕も同じ兄に仕えていて、タイユーンを鍛えるよう言われています」
「あいつ雷撃も使うんだろ? この中で雷撃を使えるのは、あいつだけだよな」
「そうですね」
きょとんとして、エル・カーリマーは答えていた。
「お前ら……もっと頭使えよ」
しみじみとギリスに言われ、弟たちは絶句していた。
「でもタイユーンの雷撃は、他の雷撃術師に比べて、劣っています」
困った顔で反論するエル・カーリマーの話を、ギリスは一応じっと聞いているようだった。
それでも、実にあっさりとギリスは答えた。
「俺より上手いよ」
「兄者は雷撃もお使いに?」
驚いた顔で念話者カーリマーが尋ねていた。
でもたぶん使わないのだろう。さっきギリスは自分は氷結術しか使わないと言ってた。
「いいや全然。あいつの雷撃は速いのか?」
ギリスが尋ねると、髑髏馬の弟たちは顔を見合わせていた。
「分かりません。見たことがないので」
皆を代表してなのか、エル・サリスファーが答えていた。
サリスファーは気まずそうだったが、ギリスは頷いただけで、無表情だった。
「じゃあ後で見よう」
ギリスはそう答えて、壁の裂け目を見て、待つ顔だった。
何か考えていたのかもしれなかった。ギリスはすぐにこちらに話しかけてきた。
「スィグル、さっきのタイユーンの雷撃と、それから風刃術の奴をお前の護衛につけよう。もし何事かあった時は、そのどっちかと一緒にいろ」
「何事かって?」
スィグルは困り顔で尋ねた。
「分かんないけど、何事かだよ。俺もお前を守るけど、氷結術や火炎術は王宮での護衛には向かない」
「相手が死んじゃいますから」
ギリスの説明に、同じ氷結術師のエル・サリスファーが付け加えて教えてきた。
「火炎術や氷結術は、王宮での対人使用は厳罰に問われます」
「念話は問われません」
にっこりとしてエル・カーリマーが教えてきた。
「そりゃ無害だからだよ」
横から軽口をきいたカーリマーに、サリスファーは口を尖らせていた。
「そんなことないぞ。術は使いようだ」
にこやかなカーリマーにサリスファーは笑っていた。
「やめろよ、そんな張ったりは」
「まったく便利そうだな、お前ら」
雑談する弟達に、ギリスがしみじみと言った。
「新星に仕えるからには、お前らは全員、唯一無二の英雄だ。タイユーンの雷撃も、この中で一位なら、他の魔法戦士と比べる必要ない。あいつに言っとけ、今のところ当代一の雷撃術だって」
ギリスは真面目に言っているように見えたが、弟たちは兄の軽口と思ったのか、にこやかに笑っていた。
「そう思うだろ?」
ギリスが真剣な顔で訊いてくるのを、スィグルも困った笑みで見た。
ギリスはいつでも本気だなと呆れて。
確かに、新星レイラスの宮廷というものが、今もしあるとすれば、それに加わる廷臣の中で、エル・タイユーンは唯一の雷撃術の使い手だ。こちらに従わぬ魔法戦士がいくら強大でも、スィグルには関係がなかった。仲間ではないからだ。
使える者だけが戦力なのだ。ギリスはそう言いたいのだろう。
エル・ジェレフは父の英雄で、スィグルのためには死ねないのだ。今いる他の英雄たちもそうだ。
でもタイユーンは違うかもしれない。エル・サリスファーも、エル・カーリマーもそうだ。
エル・ギリスも、そうなのかもしれなかった。次代の族長の英雄になると、彼らは約束したのだ。
では自分も、彼らのその決意に報いねばならないのだろう。スィグルは少し覚悟を決めて、そう納得した。
自分は新星なのだ。そのように振る舞うことを、ギリスはこちらに求めているのだろう。
スィグルは頷いて、ギリスに答えた。
「思うよ。今のところ僕の英雄はこの七人。皆が唯一無二だ」
冗談でなく、スィグルはそう思った。他に頼れる者はいない。
それも、彼らが頼らせてくれるのならばだが。決めるのはスィグルではなく、英雄たちだ。
「七人じゃない。あの女どももいるだろ。それにアイアラン。それがお前の軍勢だ。魔法戦士の小隊が二隊。もう十分戦える」
ギリスは真顔でそう請け合った。
「エル・フューメンティーナも数に入れてるのか、お前?」
それが不思議に思え、スィグルはギリスに確かめた。
彼女たちも魔法戦士だが、でも昨晩見た女英雄たちの可憐な様子や、華奢な指先の爪化粧を思い出して、気の毒ではないかとスィグルは思った。
大英雄エレンディラですら、まるで後宮の花のようなのに、本当に彼女も父の戦場で戦ったのか、幾多の血生臭い英雄譚が疑わしく思える。
「女を舐めてると痛い目に遭うぞ、スィグル・レイラス。竜の涙の半分は女だ」
冷たい目で、ギリスが忠告してきた。
何を知ってるんだ、お前はと、スィグルは内心うろたえたが、ギリスの言う通りだった。
「もしもの時にはちゃんと英雄たちを使えよ。そうすればお前は生き残れる。英雄には替わりがきくけど、お前は本当に唯一無二だ」
「僕も替わりがきくよ。第十六王子だから」
スィグルが教えると、ギリスは肩をすくめた。
「今はな。でもお前が新星なら、替わりはいない。族長リューズ・スィノニムに替わりがいないのと同じだ」
「父上の替わりにはなれそうにない」
弱音を吐くべきじゃないと思いながら、気づくともう吐いていた。
まずかったかなと、スィグルは周りにいる魔法戦士たちを盗み見た。
でもギリスの弟たちは皆、スィグルの気分に同感のようだった。
父に限らず、当代の治世を担う者たちが、あまりにも有能に見えるのだ。その代わりをいずれ自分たちが引き継ぐとは、想像もつかない。務まるわけがないという気も、どこかでするのだ。
サリスファーなどは、そう考えただけで、心なしかぐったりとして見えた。重責に押しつぶされる気分が透けて見えるようで、スィグルは勝手にサリスファーに共感した。やってみる前から押しつぶされそうだ。
平気そうに見えるのは、ぼうっとして見えるギリスだけだった。
それが退屈そうな待つ顔で、スィグルに教えてきた。
「替わりじゃない。新星は唯一無二の星だ。お前は今、お前に求められてることをやればいいんだ」
「今、求められてることって?」
一体、誰が何を第十六王子スィグル・レイラスに求めているというのか。
今、求められているのは自重することだ。父はそう言っていた。下手に動くなと。
後宮もそれを求めている。部屋でじっとして何も学ばず死んでいろと。
天使だけが自分に求めているのだ。即位しろと。
ここではない、もう顔も見えず声も聞こえない遠くから。
でも、エル・ギリスは目の前にいて、天使と同じことを要求しているのかもしれなかった。
新星レイラスの即位を。
ギリスは淡く微笑んで見えた。荷物庫の壁にもたれ、透視術師が戻るのを待ちながら。
「さあな。まずは知識の晶洞の制圧かな。爺いがお前に要求してるのは、それだろう」
ギリスはそう意見を述べた。
確かになとスィグルは思った。それぐらいしか、今やれる事はない。
それにしたって、たぶん自分一人では辿り着けなかった。この荷物庫にすら、自分だけでは無理だっただろう。
「兄者、ジェルダインから伝令です。図書館に到着しました」
念話者のエル・カーリマーがギリスに教えた。
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076 知識の晶洞
「早いな……」
ギリスは感心したように小さく呻いた。
「それで、どうだって?」
「素数の刻まれた石戸を開くようにと言っています」
「素数?」
ギリスが顔を顰めて答えた。
「2、3、5、7、11、13……ですよ、兄者」
気を利かせたふうに、エル・サリスファーが小声でギリスに伝えていた。
「知ってるよ」
ギリスは驚いた顔で弟のお節介に答えたが、スィグルもびっくりしていた。知ってるのかと。
そりゃ知ってるか。英雄たちも元服後は学問を習っているらしい。ギリスは自分たちより年上なのだし、先を歩いているはずなのだ。
でもそんな気配が全くしない。ギリスが聡明なのか馬鹿なのか、全く見当もつかなかった。
やがて、あっという間に通路から二人が戻ってきた。行く時よりも、戻る時のほうが早い。
ギリスはその無事な様子に納得したらしく、戻ったばかりのエル・ジェルダインとエル・タイユーンに、もう一度先に立って案内しろと命じた。二人はそれに頷くだけで、逆らう気配もなかった。
「よし、行くぞ。まず俺とサリス。それからスィグル、お前は俺について来い。側を離れるなよ」
ギリスは真面目に言っているのだろうが、なぜ命令するのか、正直言って分からなかった。
普通ここは自分が指揮するのではないのかとスィグルは思った。王族なのだから?
でもギリスは自分が指示するのを、微塵も疑問に思っていないようだ。
魔法戦士たちはギリスの弟なのだし、そういうものなのだろうか。
そう思い、訳もわからずスィグルはギリスを頼ってしまった。
ギリスは殿の者たちに指示を伝えると、サリスファーを連れて、さっさと壁の穴に潜ってしまったし、その消える姿を追うようにして、スィグルは自分も付いていくしかなかったのだ。
暗くて狭い通路が薄気味悪かった。
しかも灯火なく暗視で行くというので、かつて弟のスフィルと彷徨った地下の穴蔵が思い出され、嫌な気分だった。
でも今さら、怖くて無理だとは言えない。特にこの同い年の連中には、言えない気がした。
僕にも面子がある。
王子としてというより、もはや男子としての名誉が……。
そう思うが、暗い穴を屈んで潜ると最高に怖くなり、壁を抜けた向こう側の、すぐ頭上に歪な天井がある、掘りっぱなしの狭い坑道のような場所で、スィグルは立ち止まった。
壁穴のそばしか見えないが、すぐに目が慣れ暗視に切り替わるはずだ。
「ギリス……どこ」
暗闇の中に人がいる気配がしたが、どれがギリスか分からない。
同い年の英雄たちを頼るのはさすがに格好がつかないが、射手を頼っても良いはずだった。
ギリスは年上なのだし、なんと言ってもヤンファールの氷の蛇だ。
一度命を救われてるし、二度も三度も同じだろう。
そう思って情けなくなり、スィグルは自分の纏う茶の衣の裾を握って耐えた。
目が慣れるまで。
暗視には自信がある。
期待通り、スィグルの目はすぐに光のある視界を諦め、暗く無彩色な輪郭線だけの世界を見せてきた。
部族の血に眠る暗視能力は、個人差があるが、鍛えることもできる。
工人たちは子供の頃に、真っ暗闇の中で修行をし、暗視能力を鍛えると言っていた。
望んだ訳ではないが、スィグルも虜囚になったせいで、幾月も陽のささない真の暗闇の中にいた。
そのせいで暗闇に目がきくのだ。
ギリスはまだ見えないのか、探す目でこちらを見ていたが、スィグルを見つけてはいない顔だった。
その手が伸びてきて、スィグルの茶の衣の襟を掴んだ。
「大丈夫か? 見える?」
気遣う様子でギリスが尋ねてきた。
「見えるけど、文字までは見えないかもしれないよ」
ギリスの腕を掴み返して、スィグルはちょっとほっとした。
いつかの森の地下でも、弟のスフィルと手を繋いで彷徨っていた。
もしも別々に逸《はぐ》れたら、生きていけない気がして、お互いを求めていたのだ。
誰でもいい、自分の側にいる誰かとして。
ギリスには、弟のスフィルほどの慕わしさはなかったが、でも他に誰を頼れるというのか。
そこまでして誰かを頼りたい自分に情けなくなって、スィグルは手を離した。
居場所を確かめた後は、ギリスにも暗視が整ったのか、もう掴んではこなかった。
他の皆も、暗闇の中で、もう見えているような視線だった。
闇に目の利かない者は、暗いと盲目の目つきになるものだ。
英雄たちは暗視も鍛えられているらしい。皆、闇の中でも目が良かった。
「文字は光って見えました。殿下。ご心配には及びません」
先頭にいるジェルダインが、安心しろという声で呼びかけてきた。
列の先を見ると、スィグルはジェルダインと目が合った。その顔が頷き、微笑んでいるのに、スィグルは励まされた。
暗く狭い通路に押し込められていても、この人数で身を寄せ合っていると、安心できた。
大丈夫だ。ここは王宮の中だ。図書館に行くだけだ。そう自分に言い聞かせて、スィグルは深呼吸した。
「わかった。行こう」
スィグルがそう言うと、列が進み始めた。皆、スィグルを待っていたのかもしれなかった。
情けないなと思い、スィグルは自分にがっかりしたが、確かに自分は震える息だった。一人だけこの暗い通路で凍えているみたいに。
道は迷路になっていた。
先に透視術で視たジェルダインには、通路の構造が見えたのだろうが、スィグルには最初の分かれ道にきた時、どちらが正しい道かなど、全く分からなかった。
道はどちらも石戸で閉じてあり、押すと戸は開くようだった。
扉にはどちらも、光る地衣類が塗られた数字の浮き彫りがあった。文字が光って見える。
双方の扉に、数字が書かれていて、片方には美しい飾り文字で、賢き者はこの扉を開くべしと記されていた。
開いてはならぬらしいほうの扉の数字は、3571だった。素数だ。
開くべき扉の数字は3570。素数ではない。
「賢き者の扉の奥は行き止まりです。扉に仕掛けがあるので、たぶん向こう側からは開きません」
中が透視術で視えているジェルダインが教えてくれた。
「間違えると閉じ込められちゃうの?」
ギリスが困った声で尋ねていた。
「間違えなければ大丈夫です。正しい扉には全部、素数が書いてあるので、迷ったりしません」
確かに、それさえ知っていれば間違いようのない単純な構造と言えた。迷路というよりは、時々行き止まりの枝道がある一本道だ。
間違えなければ良いだけだ。
そう思うと、スィグルはなぜか、ほっとした。正しい答えのある道の、なんと心安らかなことか。
「閉じ込められたらどうなるの、これ? 誰か助けに来るのか?」
ギリスは素数の扉を通り抜けるジェルダインにしつこく聞いている。
「わかりませんけど、長時間になると危ないと思います。行き止まりには換気口がないので、この人数だと息が詰まって死ぬかもしれません」
「危ないだろ、それ」
ギリスが自分の喉に触れて、驚いた顔をしているのが見え、スィグルはその様子が可笑しくなった。
「正しい通路は大丈夫です。息ができるか、煙管に火を灯して確認しました」
ジェルダインも可笑しいのか、楽しげに笑って答えてきた。
次の分かれ道の二枚の扉には、ただ21451と、21457とだけ書かれていた。前者が素数だ。
「馬鹿の扉を教えてくれるのは一枚目だけなのか? なんでだよ?」
ギリスがまた驚いた声で聞いた。
たぶんジェルダインに聞いているのだろうが、まるで学房に尋ねているようだった。
「全部教えちゃったら罠になりませんよ、兄者」
サリスファーが困った声で答えている。
「あいつら、馬鹿は死ねって思ってるのか。酷い連中だ」
ぶつぶつとギリスは学房の者たちに悪態をつき、正しい道を進んでいった。
扉には毎回違う素数が記されていて、その数字は光って見えた。
この仕組みを知っている学房の者たちには、おそらく、ただ進めばよいだけの安全な道なのだろう。
さっきの案内役は、スィグル達が本当にこの中を見る資格があるなら、道を知っていると思ったのだ。そうでないなら、中に案内してはならない相手だったのだろう。
もしかしたら、入り口までの案内をするよう、師父に命じられたのかもしれなかった。
老師はエル・ジェルダインの師でもあったのだから、こちらに透視術師がいることは最初からご存知だったのだ。
彼にとっては、この息が詰まる危険な迷路が、ただの安全な一本道であることも。
酷いな、確かにと、スィグルは可笑しくなって、また笑った。なんだか楽しい。こんな暗い通路にいても、信頼できる仲間がいて、それを頼れるなら、僕は呑気にへらへら笑っていられるわけだ。
父上がいつも玉座でにこにこしているのも、案外、そういうわけなのかもしれなかった。
英雄がたった七人いるだけで、こんなに頼れるのだから、それが何百人もいる父上は、さぞお心安らかなのだろうな。
そう思うと、スィグルは父が羨ましかった。
あの、広く絢爛な玉座の間を満たす、廷臣の群れ。あれこそがタンジールの財宝だ。
いつか自分にも、それに手が届くことがあるのだろうか。
そう思うが、それはあまりにも巨大な宝で、スィグルは今すぐ側にいる七人だけでも、もう十分に満足だった。
自分はその程度の器なのかもしれない。何千という廷臣に君臨できるような覚悟も野心も、まだないのだ。
晩餐の席で、そういえば父が訊いていた。玉座への野心はあるのかと。
そんなものはないと、下問に恐れて咄嗟に答えたが、思えばあれは正直な答えだった。
晩餐の高段から眺めた大勢の英雄や将軍、官僚たちの姿を見ても、それを全部欲しいとは、今はまだ思えない。何に使えばよいのかも、想像がつかなかった。その全員に号令する未来の自分のことなどは。
いつかは自分にも、その必要が備わるのだろうか。この部族領を支配するために、お前たちが必要だと、皆に求める気持ちが芽生えるのか。
僕と一緒にいて欲しい。そういう強い執着を、スィグルは急に感じた。
エル・ギリスに。エル・ジェルダインにも。いつも側にいて、僕を助けて欲しい。
本当のことを言えば、昨晩、エル・フューメンティーナにも少し感じたのだ。
でも彼女が可愛いからかと思った。可憐な容姿で、どこか優しげにも見え、それでいて頼りがいがあった。
念動術を教えると言っていた。
教えてよ。
強くしてくれ。
そう願ったが、女にものを習うなど、不名誉かと。
それに守られているのも、格好がつかない気がして、彼女には何も求めるべきではないかと、晩餐の夜には思ったのだ。
こっちが彼女たちを守るべきかと。
でも力量の差がありすぎる。フューメも、彼女の小さい妹たちでさえ、たぶん僕より強いのだ。
それを従えるには、一体、どうすればいいのか。
もう頼むしかないではないか。いつも側にいて、守ってくれないか。玉座の君を。この部族のために。
父もそう、彼らに求めたのだろうか。この都を滅亡から救うため、皆に高貴なる族長冠の頭を下げたのか。
それが自分にもできるのかと、スィグルは不安になった。
生まれついての王族暮らして、ずいぶん頭が高いが、エル・ギリスに、エル・ジェルダインに、自分は叩頭できるか。僕を救ってくれ。あの玉座に座らせて欲しいと、彼らに心から頼めるだろうか。
そう頼んで、彼らが頷くような器か。この僕は。
それを考えると、到底そうだとは思えず、身が震える気がした。
大人しく絹布を賜り死ぬほうが、ずっと簡単に思えた。
僕は玉座に相応しくない。そう思うほうが、ずっと簡単だ。彼らを従え、部族を率いて生きていくより。
あの晩餐の席の皆が、自分に額ずき崇める光景が、想像もつかず恐ろしい。
皆が自分を頼り、支配者として崇める時に、自分はその一人一人を守れるだろうか。
詩人が詠う英雄譚の中で散ろうとする、たった一人の英雄にすら、今はまだ気絶しそうになるのに。
「ギリス……」
道の長さにくらくらしてきて、スィグルは思わず、射手の名を呼んだ。
どうして呼んだのか、自分でもよく分からなかった。
洞内に風が吹いている。奥の扉から、風の流れが。
その新鮮な空気を感じて、スィグルは闇の中で光って見える扉の輪郭を見た。
その扉は石戸ではなく木製で、立派な黒檀で作られており、金の鍵穴があった。
おそらく知識の晶洞なのだろう。その扉で正しいのか、一枚しかない戸口でも、スィグルは不安だった。
開いた先が真っ暗闇の大穴かもしれないではないか。
「鍵を開けてみろ。代わりにやるか?」
ギリスが心配げにこちらを見ていた。
「いや……自分でやるよ。でも一緒にいてくれない?」
スィグルはギリスに頼んだ。それに英雄はあっさり頷いていた。
「いいよ」
ギリスは扉の鍵穴に、老師にもらった鍵を差し込むスィグルの様子を、横に立って見ていた。
扉は本当にその鍵で閉じられていたようで、がちゃりと機構が回る音がして、錠が開く手応えがあった。
「中は大きな洞窟です、殿下。とても大きい、縦坑の底に出ます」
扉を開く前から、透視術師のエル・ジェルダインが教えてきた。
彼が微笑んでいたので、中には良いものが待っているように思えた。
スィグルが重たい扉を押し開くと、暖かな空気が流れこんできた。
それに頬を撫でられ、まぶしい洞内の光に目を潰されながら、スィグルは見上げた。知識の晶洞を。
見上げるような高さの大洞窟の壁の全部に、石を掘った書棚が堆く作られ、その棚を無数の書物が埋めていた。
錦の巻物や、束に装丁された本が、絶壁とも思える壁を、遠く見上げるほどの高さの天井まで埋めている。
ところどころに、天然の水晶の晶洞を掘り当てたらしい、大きな白い結晶が突き出し、その透明な六角柱の先端が、吊るされた篝火に煌めいていた。
その絢爛な自然の岩床に埋もれた本棚には、人一人が生涯をかけてもきっと読破しきれぬ数の書物が集められているのだ。
「うわぁ……」
絶望したのか、高揚したのかも分からない声で、エル・サリスファーが洞内を見上げていた。
一緒にやってきた者たちは、皆、唖然としていた。
おそらく自分もそうだったのだろうが、何となく気持ちが呆然として、この圧倒的な数の書物に押しつぶされそうだった。
足がよろめく気がして、スィグルは側にいたエル・ギリスの袖を掴んだ。
「読めないよ……こんなに沢山は」
書棚の一つ一つにも一年はかかる。それが幾つも数知れず、おそらく何階層分もあるだろう高さの、吹き抜けの天井まで積まれているのだから、この図書館の蔵書の読破は、自分が生きているうちにはできないのだ。
そう思うと絶望感しかない。
これを全部、どうやって制圧するというのか。
「大丈夫だよ、スィグル。読んでる奴らに聞けばいい」
ギリスは至極あっさりと言った。
「お前は別に、馬鹿でもいいんだよ」
ギリスはにっこりとして見えたが、スィグルは傷ついた。僕は馬鹿なのか。お前はそう思ってたのか。
酷い。そんなこと、生まれてから一度だって、誰にも言われたことないのに。
そう思い、スィグルは自分が本当に足元に崩れ落ちそうな気がしたが、そんな訳にはいかなかった。
ここで気絶している訳には。
「ようこそ。早かったですね。天才の皆さん」
洞内にいたらしい茶の衣の者が一人、出迎えてきた。
背は高く見えたが、歳の頃はギリスより少し年上なだけのようだった。
その者の髪が短かったので、スィグルは度肝を抜かれた。ギリスですら驚いたようだった。
「髪の毛どうしたんだよ、お前。何かやらかして切られたのか?」
ギリスが指差して、その者に聞いた。
皆、そう思っていたが、まさか聞くとは思わなかった。
それに相手は気を悪くしたふうもなく、短い黒髪を自分で撫でて、あははと笑った。
「切ったんだ。洗うのが面倒で。どうせ誰にも会わない」
そう言うが、自分たちと今、会っている。
短髪は死刑囚の髪型だ。首を切る前に髪を切られる。
だから部族の幽鬼には、刑死した短髪の首を抱えて彷徨う者がいるという。
怖い。それがスィグルの率直な感想だった。その茶の衣の者への。
これまで、いろんな酷い目には合ったが、スィグルはまだ髪を切られたことはなかった。
その分、たぶんまだ幸せだったのだ。
それなのに自分で自分の長髪を切る奴がいるなんて!
「頭おかしいんだな、お前」
ギリスがしみじみとそう断じた。
相手は微笑むだけで、それに反論しなかった。
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077 卑しき鼠
短髪の男は鼠と名乗った。
そんな名前の者がいるものだろうか。
渾名かと思えたが、本名だという。あるいは名前がないのだ。
男は王宮で生まれたのだと話していた。
誰だか分からぬ母親が学房に子を産み捨て、死なせるのも忍びないと、学徒たちが砂牛の乳をやって育てた。
よく死なずに育ったと思うが、それも格別の天使の恩寵だろうとラリンは話していた。
饒舌な男だった。
抜けるように白い、白蠟のような肌をしており、スィグルはそれが父リューズと似ていると思った。
部族の者は元服する頃までに地上の陽光を浴びないと、一生このような肌の幼形が残るのだ。
いつまでも若く幼く見えるが、短命に終わると言われており、不吉がられるため、誰しも一生に一度は陽光を浴びに行く。
タンジールに生まれると、危険な地上を恐れるようになるが、それでもほんの小半刻も外の陽を浴びれば良いだけなのだ。その光によって体内の変態が進み、蛹が蝶になるように皆、大人になる。そう言われている。
実際には翅が生えてくる訳ではなく、日焼けして皮膚が剥け、身体中が痒くて熱くて十日ほど苦しむだけだが、そうしないと黒エルフは大人になれないのだ。仕方がない。
ラリンは地下の図書館で本を読むうちに、気づいたら元服の年齢を超えており、そのまま機を逸して今に至っているらしい。
図書館からほとんど出たことがないのだという。
それも信じがたい話だが、ラリンの仕事はこの洞内の調湿のために暖炉の火を絶やさぬようにすることと、古びた書物の写本を作ることだった。
ラリンは毎日ずっと本を読み、それを新しい紙に書き写して、時折、暖炉に燃料をくべる。それが日課で、一日の全てだという。
よく喋るのは寂しいからだとスィグルには思えたが、自分の素性を話しているラリンは全く孤独そうには見えなかった。
「王宮で生まれるのは王族だけかと思ってた」
ギリスがそう言うと、ラリンはニヤニヤしていた。
「馬鹿だな、お前。男と女がいれば、どこでも子は生まれるんだよ。俺の母親は女官かもしれないし、女英雄かもしれないが、とにかく普通には産めないから俺を捨てたんだろう。案外、アンフィバロウの血筋かも?」
得意げに笑って言うラリンの話に、スィグルは驚いて吹き出しそうになった。
第何番目の王子のつもりだ。見たところ第一王子よりも年上だが、よもや父の長子を騙る者がいたとは。
「なんで?」
ギリスがぽかんとしてラリンに聞き返していた。
「なんでって、お前、それぐらい分かれよ。族長は十二人も妃がいて、その上、女英雄とも懇ろなんだぜ。落とし胤の一人や二人いるさ」
まことしやかにラリンは言ったが、スィグルはどこから怒っていいのか分からなかった。
「それがお前だっていうの?」
ギリスが唖然として聞いている。
こんな奴の悪い冗談にまともに取り合うのは馬鹿だ。
ギリス以外の者は、なんとも言えない顔で、呆然と聞いていた。
ラリンに運べと言われた本を、壁面の書架から洞内の中央にある長卓に運び出しながら。
「次の族長は俺かも?」
「尊き殿下」
ギリスはどこまで本気なのか、ラリンと本を運びながら、恭しく頭を垂れてやっていた。
それにクスクスとラリンは笑った。
「冗談だよ、そんな顔するな。そうとでも思わないと、つまんないだろ。お前はどこから来たんだ。親は?」
ラリンは気さくにギリスに尋ねた。
「いない。俺も赤ん坊の時に捨てられてる」
ギリスが真顔で答えたのは本当の事だった。聞いている弟たちも、そうだろうなという軽い驚きの表情だった。
「こいつらも皆そうだ」
ギリスが弟たちを視線で示して教えると、ラリンは小さく頷いていた。
「よく頑張って王宮まで来たよな。歓迎する。名前は?」
「ギリス」
ギリスが教えると、ラリンは吹き出して笑った。
「ヤンファールの氷の蛇かよ! 良い名だな」
ラリンはそれがエル・ギリス本人とは思っていないようで、遠慮なく笑っていた。
「師父は俺の頭がいいって。いつも目をかけてくださる。お前らを手伝うように命じられてる。それで、何が知りたい?」
ラリンはいかにも何でも知っているかのように聞いてきた。
「ここって、知識の晶洞か?」
ギリスが尋ねた。ラリンは意地悪そうに首を傾げた。
「どうかな。その一部ではある。ここにあるのは閲覧用の写本が主だ」
「爺いに騙された」
ギリスは確信めいて言った。
ラリンは笑っていた。
「原本に触れていいのは博士だけだ。見たいならお前も研鑽を積んで博士になればいい」
「そんな爺いになるまで生きてられないし、あいにく馬鹿だから無理だ」
ギリスは正直に言っていたのだろうが、ラリンは冗談だと思ったようで、爆笑していた。
「おいおい、悲しいこと言うなよ兄弟。王宮まで上り詰めたんだろ。末は博士だ。気長に頑張れ。その歳でここへ来たんだ。お前も俺も、捨てたもんじゃない」
にっこりとして、ラリンはひどくギリスを気に入った様子だった。
ギリスがこうも人に取り入るのが上手いとは、スィグルはただ見ているだけでも恐ろしかった。
こうやって自分も陥れられているのだろうか。この、氷の蛇に?
そう思って見つめていると、長机の側でラリンと並んでいたギリスが急にこちらを見て、腕を伸ばしてきた。
それに肩を掴まれ、スィグルは蹌踉めきながら年長の二人の側に引き寄せられた。
「こいつは俺の弟分だ。すごく頭がいいんだ。こいつに何でも教えてやってくれ、ラリン。礼はする」
ギリスがスィグルと引き合わせて頼むと、ラリンは灰緑の蛇眼で、こちらを見てきた。
「坊や、名前は」
「スィグルだ」
ギリスがさっさとそう答えてしまった。
何で本名を言うのだ。スィグルは驚いてギリスを見上げた。
「殿下みたいな名だな……」
ラリンは真顔でそう聞いてきた。
「そうだろ。尊き殿下。礼は何がいい」
ギリスは淡い笑みで図書館の学徒に尋ねた。
それにラリンは微かに不快な顔をした。
「何が知りたいんだ」
「爺いが黎明の英雄譚は嘘だと言うんだ。お前はどう思う? ここにその、原本はあるか」
「どの原本だ」
「草の寝床で幾千年」
「脱出行か」
ため息をついて、ラリンは長机にあった分厚い書物を開いた。
たまたまそこにあったのではないだろう。そんなものが偶然、卓上に運ばれているわけがない。この無数の書物がある図書館の中では、そんなことが起きる確率はごく僅かだ。
老博士の命令で、前もって用意されていたと思うのが妥当だ。
芝居がかった大仰な人だが、意図があり、こちらに何か言いたいことがあったのかもしれない。
スィグルに、父に教えたのと同じことを教えると言っていた。
老師はかつて、殿下だった父リューズ・スィノニムに何を教えたのか、それをここで自分も聞くしかなかった。
ラリンは開いた本の頁を指し示して、誰にともなく語り出した。
「脱出行には幾つかの版がある。学房にある中でもっとも古い記録は太祖の代の終わり頃に書き記されたもので、おそらくそれ以前には口伝しかなかったんだろう。記録は詩人からの伝聞の形式をとっている」
本の頁に記された文字はまだ新しいインクで書かれており、とてもそんな古いものには見えない。
そういう目でスィグルが疑わしく見ると、ラリンはこちらの顔を覗き込んできた。
「俺が写した写本だ。これの元になったのは、原本からの一代目の写本で、こいつはその孫だ。記録の守護天使サフリア・ヴィジュレに誓って言うが、一言一句、違いないものだ。信じろ、尊き殿下」
そう言われたら頷くしかない。
底知れない気迫がラリンの目にあり、スィグルはそれに気圧されていた。
「俺は博士から古代写本の写しを任されてる。終わるまでここを出ない誓いを立ててる」
ラリンは自分の短髪を掻き上げて、少し忌々しそうに言った。
まさか博士に髪を切られたのではないだろうなと思ったが、誰が切ったにせよ、その髪がまた伸びるまで、王宮には戻りにくいだろう。衛兵に、逃げた死刑囚かと思われる。
「ゆっくり読みたいから書き写していってもいいか?」
ギリスは、構わないだろうという声でラリンに聞いた。
「ダメだ。この書架から持ち出せるのは記憶だけだ」
ラリンはギリスの頭を指でつついて教えた。
それが頭布ごしに竜の涙に触れたのではなくて良かったと、スィグルはひやりとした。
英雄たちの石に触れるのは、非礼なことだ。そこは彼らには、最も触られたくない場所だからだ。
無言で待っていたサリスファー達が、ムッとしたのが分かった。
知らぬこととはいえ、無礼だと思ったのだろう。
「憶えていくがいいよ。お前らが本当に学房の者に匹敵する天才だと言うならな」
どうせ無理だと思っているのか、ラリンは挑むような口調だった。
はじめはギリスが好きなようだったのに、自分がついてきたせいだと、スィグルはそれを少し悔やんだ。
ギリスも、名前ぐらいは適当な嘘を言えばいいのに、馬鹿正直だった。
本当に馬鹿なんじゃないのかと、スィグルは心配して、学徒と話す射手を見上げた。
ギリスは真面目な顔で、図書館の鼠を説得する口調だった。
「ラリン。協力してくれ。爺さんがエル・ディノトリスが未来視じゃないって言うんだよ。どう思う?」
「博士はその説をとっておられる。ディノトリスは魔法戦士じゃなかった」
「竜の涙なのに?」
不可解そうに顔を顰めるギリスに、ラリンは困ったように苦笑していた。
「魔法戦士はいなかったんだ。ギリス。その頃、部族に英雄はいなかった。ただのディノトリスだ。初期の詩にはそうある」
「初期の詩……」
ギリスは思案するように、そう繰り返して言った。ラリンはギリスの顔をじっと見ていた。
「そうだよ。ディノトリスが英雄ディノトリスと記されるようになったのは後の世になってからだ。太祖の兄は病者で、竜に呪われていたと、脱出行にはある。ただの病人だったんだ」
「そんなはずはない」
ギリスはムッとしたように、ひどく冷たい声で言った。
「ギリス」
すぐ隣にいるギリスの身が強張っている気がして、スィグルは思わず呼びかけた。
「博士はその話を僕らにして、何を言いたかったんだろうね?」
ギリスが怒っている気がして、スィグルは宥める口調になった。
でもギリスは怒ることも、恐れることもないのだと言っていた。石のせいで、そういう感情は自分にはないのだと。
でもそんな者が本当にいるのか、スィグルは信じられなかった。
ギリスも何かは感じているはずだ。人並みの感情ではなくても。
側にいると、その些細な心の動きが感じられる気がして、スィグルは落ち着かない気分だった。
たとえ黎明の英雄譚に本当はそう詠まれていたのだとしても、祖先達は書き換えたのだ。エル・ディノトリスに英雄の称号を与えた。それを無視するべきではない。
黎明のディノトリスは、部族史に最初に名を記された竜の涙で、今に続く全ての英雄たちの最初の一人なのだ。
それがただの呪われた病者であって良いはずがない。
彼は、魔法を持っていたはずだ。竜の涙ならば、その石の呪いと引き換えに。
それを使わなかったはずはない。もちろん使っただろう。だから千里眼のディノトリスと呼ばれていたのだ。
そう思うほうが、スィグルには自然に思えた。
でももう、確かめようがないことだ。黎明の記録にはどうあれ、それ自体の信憑性はもう確かめようがない。
「悪いんだけど、ラリン、僕らはディノトリスが何であったかには興味がないんだ。彼は英雄だった。それは今も昔も変わらない。彼はアンフィバロウを導き、この部族を率いて砂漠越えをした。それは事実なんだろ、ラリン」
スィグルは黙っているギリスの代わりに、学徒の青年に尋ねた。
「そうだよ。坊や。そうでなければ俺たちが今、ここに居るはずはない」
「いつから英雄だと書いてあるの?」
そこが重要な気がして、スィグルは尋ねた。ラリンは目を細めてスィグルを見つめた。
「部族の最初の英雄は、もう少し後の世に現れている。森の者たちとの戦いが始まった頃だ。太祖アンフィバロウは正式な族長ではなく、七代後の族長エルメインが神殿に巡礼して族長に叙任され、冠を受けた。その時に始まってる。族長エルメインは竜の涙たちを従軍させ、森の軍団の守護生物を焼かせた。火炎術で。守護生物は火を恐れ逃げ帰ったと記録にある。その時に戦った竜の涙たちが、最初の魔法戦士であり、英雄なんだ。でも全員がその戦いで死んだ」
「そんなことはいいんだ。魔法戦士が敵を撃退したんだ。そうだろ?」
スィグルは遠慮なく話すラリンに、話の筋道を示した。
英雄たちのいる前で、たとえ真実でも、平気でしてほしい話ではなかった。
「そうだ。勝ち戦だった。その代から英雄譚が詠われるようになった。戦った竜の涙のための、葬送の詩として。今もそうだろう? 死んだ竜の涙が幽鬼にならないように、魂を宥める詩だ」
「英傑の勇姿を讃える詩だ」
ラリンの言うことは嘘ではなかったが、とにかく言って欲しくなかった。
反論するスィグルを見て、ラリンはしばらく押し黙った。
英雄たちも何も言わず、ギリスも黙っていた。
燃える暖炉の炎の音が、やけにはっきり聞こえるほどだった。
「坊や。君は学徒に向いてない。冷静な観点ではない。あまりにも予断がある」
「学徒じゃないからだろうね」
嘘をつくのが嫌で、スィグルは正直に言った。
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078 脱出行
ついさっき、ギリスのことを馬鹿正直だと思った割に、自分もそうだった。
ここで引き下がるのでは、納得がいかない。
ラリンの言うことが正しいのだという気は、心のどこかでしたが、それをギリスや、サリスファー達のいる前で認めるのは嫌だった。学徒たちが秘密の洞窟の中で、勝手に話し合えばいいことだ。
そう思ったが、知識の晶洞の制圧には、自分は失敗したのかもしれなかった。
博士はこの結末を聞き、第十六王子には期待しないことにするだろう。彼のとる学説を、自分は支持できない。そう答えたことになるのだ。
「尊き殿下。学房に何をお求めなのでしょうか」
ラリンが急に恭しく言った。でも彼は遜る気はないようだった。
もはや今更というのもあるが、どうも学房の者たちは不遜なようだ。博士から、末端の学徒に至るまで。
「新しい、英雄譚に代わるものがいるんだ。天使が命じたこの停戦の間にも、玉座は彼らに新しい名誉を与えなくてはならない。僕はそれを見つけないといけないんだ。まずはその答えを、賢明なる学房に求めたい」
「必要でしょうか、それが?」
ラリンは冷たく問い返してきた。
それにスィグルはムッとした。どういう意味だ。必要なかったら何だと言うんだ。
戦うために王宮で養われている英雄たちを、これから一体どうしろというのだ。
一体誰が、お前が今いるこの場所を、命懸けで守ったと思うのだ。
この男が、暖かい地下の図書館で古い本を書き写していた時にも、魔法戦士たちは死闘していた。ヤンファール平原で。
ギリスもそうだったはずだ。自分もそうだった。反論せずにいられるだろうか。
「必要だ。ヤンファールの勲に、学房の者が出てくるか? そこで死んでいるのは誰か、お前たちの記録では違ってるのか。真っ先に死ぬべき者が、讃えられるのは当然だ。人を馬鹿にするならお前も死んで見せろ。兵や、魔法戦士や、王族のように」
スィグルは言い終えて、自分が癇癪を起こして怒鳴らなかったのは奇跡だなと思った。
胸がむかむかして、頭はくらくらした。たぶん怒っているのだろうが、怒鳴り散らしてもしょうがない。
ギリスは横目で、いつ怒り出すんだろうかという目で見てきた。そう期待されても怒りにくい。
それでも十分、語気の荒かったスィグルの話に、学徒ラリンは首を傾げ、皮肉な笑みになった。
「もう戦いはないのにですか、尊き殿下。王族の尊さは変わらないでしょう。名君が君臨する限りは。しかし玉座に仕えて奮闘したのは、この千年、戦場で血を流した者たちだけだと仰るのですか?」
ラリンは撤退する様子がなかった。ただの王宮の捨て子だった奴のくせに。
でも彼の言うことが、間違っていないのはスィグルには分かった。
それで何も言い返せなかったのだ。
スィグルが黙っていると、ラリンはその答えを待たず、勝手に結論した。
「誰も前線で血を流していない今でも、我々は相変わらず奮闘しておりますが、尊き殿下はそれには見向きもされず、あくまでも石のある英雄がお好みか。彼らが命の恩人なのですから致し方ないですよね」
それがいかにも、致し方ない風だったので、スィグルはまたムッとした。
「お前が僕を助けるなら、お前にも英雄譚と俸禄をやるよ、学房の鼠」
「本当にですか?」
きょとんとして、透ける子供のような肌の若者は言った。
「では、お助けしますので、俺にも英雄譚をください。王族は無理でも、英雄にはなりたかった」
にっこりとして言うラリンは、どうもこちらの話を本気にとったらしい。
「エル・ラリン?」
ギリスが言いにくそうに口に出して確かめていた。
「いや、その名はちょっとどうかと。もうちょっと良い名を考えておきますんで」
ラリンは不本意そうに答えた。
自分の名を気に入っている訳ではないようだった。
「英雄譚が今の形になったのは、比較的、近い時代のことです。ここまで詩殿が隆盛したのは当代のことと言ってもいい。当代の族長閣下は詩歌がとてもお好きで、芸能を厚く保護されています。それ以前の英雄譚はもっと地味で……魔法戦士が麦の収穫を手伝う詩もあります。恋の歌ですけどね」
「恋の歌?」
皆、気になるのか、口々に呟いていた。
「農家の娘に恋をした英雄が、麦の収穫を手伝うんですけど、仕事が終わったら結ばれる約束だったのが、娘が逃げちゃうんですよ。竜の涙は呪われてるから嫌だと言って。英雄は失意のうちに死にます」
「死ぬの!? そんなの聴いて誰が楽しいんだ。駄作だろ」
ギリスが大袈裟に驚いていた。
詩や戯曲の中では、英雄はとにかく死にがちだ。そういうものだと民に思われているのだし、民から見れば実際にそうだったのだろう。短命の者たちだ。
だが当の英雄たちにすれば、そう簡単に殺されてはたまらないだろう。彼らもそこまで儚くはない。
ギリスも、失恋した程度で死ぬようには見えなかった。そもそもギリスが失恋するのかどうか、スィグルは知らないが。
「たぶん本当にあった話なんですよ。農家の娘じゃなく後宮の王女様だったりする別の版もあります」
「英雄が後宮の女と会える訳ないだろ」
ギリスがむきになったように指摘した。
「昔は会えたんです。今ほど後宮と厳しく隔てられてなくて」
「嘘だろ……今と全然違う」
何が悔しいのか、ギリスはがっかりして見えた。
後宮にいるのは僕の父の妃や、僕の姉妹たちだが、お前はそれに何の用があるのかと、スィグルは問わなかった。
そういう剣呑な物語が、部族の詩殿には決して収蔵されないものとして、数多く存在するのは気配で知っていた。
時として極めて不敬な物語だが、父はそれをいちいち禁じてはいない。民を思う名君だからだ。
「英雄譚が戦いの詩ばかりになったのは最近の時代になってからなんですよ」
それが残念だというように、ラリンはこちらの一団の顔を見回してきた。
「英雄が竜の涙ばかりになったのも、実は部族史の途中からです。昔は石のない英雄がいました」
「どういうこと?」
ギリスは本当に不思議なように、口元を覆って聞いていた。
「詩殿の英雄譚では竜の涙だってことになってるけど、学房の資料ではそうじゃない者がいるんだ。王家の古い地下墓所を調べさせてもらえれば、そこにその名の英雄がいないことが、分かるんじゃないかと思うんだけど」
「墓所に入れるのは英雄と王族だけだ。それと、絵師と」
スィグルは断るつもりで、きっぱりと教えた。
墓所は王家の身内しか入れない場所なのだ。
絵師はその墓所の壁画を描くために立ち入りが許されている。それも特別に許された者のみだ。
「あいにく絵は専門外でして」
にやりとして、ラリンは答えた。
「絵師でもダメだ。勝手にそんなことは調べられない」
「残念です。でもまあ俺も今は、師父に仰せつかった写本の仕事で忙しい。急ぎませんよ、尊き殿下。英雄と違って、俺は長生きする」
にやにやと人の悪い笑みのラリンに、ギリスが遠慮なく舌打ちした。
それを見て、スィグルは首を横に振った。
「ダメだ。そんなのは……ラリン」
「先程のご下問にこの鼠めがお答えするとしたら」
断ろうとするスィグルの言葉を奪って、ラリンが結論を述べてきた。
「英雄譚の様式は、代々の玉座のお心次第で可変だということです。尊き殿下。あれはただの詩であり、正史ではありません」
当たり前のことだというように、ラリンはきっぱりと述べた。
それを無言で聞くこちらに、ラリンは満足げに付け足してきた。
「詳しくは専門外ですので、むしろ詩殿にお尋ねを。詩人たちは玉座の伝令です。英雄譚には、族長がお知りになりたいことを詠むもの。殿下なら、詩人に何をお求めになるのですか?」
「分からない」
スィグルは呻いた。
あいにく詩には造詣が無かった。
既に詠まれている有名なものを、王族の嗜みとして丸暗記しているにすぎない。
詩人に詩作を命じたことは、スィグルには一度も無かった。
「ご覧になられたら? 知識の晶洞には、代々の通史とともに、アンフィバロウのお子達が詩人に求めた結果も、全てがその当時のままに記録されています」
「お祖父様の代のもか?」
スィグルは何となくの思いつきで尋ねた。
それにラリンは片眉を上げ、意味ありげに微笑した。
「暗君デールの時代。ありますよ勿論。今すぐは無理ですが、またお越しくださるのであれば、ご用意しておきます」
周りを取り囲む、遥か上まで続く石の書架を手で示し、ラリンは約束した。
その灯火の輝く暗い天井を見上げ、スィグルは悩んだ。
「ここにある本を全部読んでもいいの?」
「ご自由にどうぞ。師父から、何でもお手伝いするよう命じられていますので」
さっき開いた華麗な写本を見せてきて、ラリンは後宮の女官たちに新しい布地をすすめる商人のように、スィグルに脱出行の英雄譚を見せた。
人の手が生み出したというのに驚くほかはないような、精緻な飾り文字で、古い詩がびっしりと書き記されている。読めぬわけではないだろうが、ラリンは読んで聞かせてくれた。
「草の寝床で幾千年……枯れ谷の長、アンフィバロウに付き従い、森を出し十二氏族は、虹の谷に別れを告げ……とあります。虹の谷とは?」
インクに汚れた指先でラリンが示した文字を見て、スィグルは首を傾げた。
「虹の谷て? そんなもの脱出行に出てこない」
「詩殿の版にはありません」
堪らんだろうという笑顔で、ラリンが教えてきた。
それにスィグルはたじろぎ、ギリスは顔を顰めたが、不可解だった。
なぜ詩殿の者はそれを消してしまったのか。
「虹の谷て……?」
違和感のあるその言葉を小声で繰り返すと、スィグルは舌先に苦い何かを感じる気がした。
ラリンは淡い笑みで、どこか高揚したふうに嬉しげにその話をしている。
「殿下、祖先たちが脱出行に旅立つ時、それに付いていかず、森に居残った同族がいたのではないでしょうか」
「そんなものはいない」
スィグルは答えた。
黎明の英雄譚には、アンフィバロウは数多の氏族を率い、森を出たとある。
数多の氏族だ。詩人たちは、いつもそう詠っていた。
全ての氏族を率いたとは、詠っていない。
でも、そんなものはいない。そんなものは、聞いたことがなかった。
知らない。
だが、知らなくても、自分は思い出さねばならない。
あの、ヤンファールの地下の暗がりで見た、誰だか知らない、長い黒髪をした者たちのことを。
ラリンと同じ、白蠟のような白い肌で、髪はもつれ泥まみれだった。
その恐れる目が、自分と同じ、蛇眼だったことも。
あれは、何だった?
スィグルは急に恐ろしくなり、側にいたギリスの腕を取った。
突然、震える手で握られて、ギリスはびっくりしたようだったが、こちらが助けを求めているのは分かったのか、スィグルを自分の後ろに隠してくれた。
何も考えていないのに、恐ろしくて体が震え、血の味がした。
何かの味など、この一年、一切感じたこともなかったのに。甘い味が強く、乾いた舌の上に広がった気がした。
「そんなものはいない! お前に聞きたいのは、そんなことじゃないんだ。聞かれたことだけ答えろ、ラリン」
スィグルは思わず命じる口調で叫び、ギリスの陰に隠れ、腕に縋って震えていた。
まるで、気の狂った弟のスフィルが、恐れて自分に抱きついてくる時のように。
それを、実におかしなものとして皆見ただろうが、そうしないと立っていられない気がした。
ギリスは驚いた顔だったが、元々ぼうっとした表情なので、大して驚愕したふうでもなかった。ちょっと足でも踏まれたようにしか見えない。
それでもギリスはこちらの肩を抱き、大丈夫だというように、そっと叩いてきた。
「聞かれたことだけ教えてやれ、ラリン。スィグルには役目がある」
「お役目とは」
ラリンは顔を顰めてこちらを見ていた。疑わしげに。
「この部族を正しく導くことだ。お前にもその責任があるだろ。英雄になりたいなら、それを肝に銘じろ」
「何を銘じるのですか」
「玉座への挺身だ。英雄暮らしの基本だぞ。お前も命を賭けろよ。そうすれば、ここから出て、長生きできるようにしてやる。末は博士も夢じゃない」
ギリスは約束するように言った。
「長生きとは。そんなことをあなた方に言われるとは、思いも寄らないことだ」
ムッとしたふうにラリンが答え、ギリスはスィグルを抱きつかせて庇ったまま、笑う声で言った。
「色白のやつは長生きしないんだぜ。知ってるんだろ、学徒は物知りなんだから」
ギリスは珍しく意地悪そうに言ったが、それにはラリンのため息が聞こえただけだった。
ギリスが学房の者を論破できるとは、スィグルには意外だった。自分を庇って抱くギリスの腕が、案外優しいのも。
「俺がお前に日の光をやるよ、ラリン。次はお菓子も持ってこようか? 英雄の派閥もなかなかだけど、学房もひどいよな。今日ここでお前が死んでても、誰かが気がつくのはいつだ」
ギリスは気遣うように言ったが、その声は優しくはない気がして、スィグルには彼が怒っているように思えた。
ラリンはその問いかけに残念そうに答えた。
「さあ。誰かが次の飯を運んでくる時だろうか」
諦めたふうに答えるラリンの言葉には力がなかった。
「飯って、学徒って何を食ってるの?」
ギリスは不思議そうに尋ねた。
図書館は広く、あらゆる書物があるようだが、食べ物があるようには見えない。
「兵糧の団子だよ。日持ちがするから、蓄えておいて読み書きの合間に齧るのさ。それと、茸……」
ラリンは洞内の薄暗い隅を指差して、そこでぼんやりと光っているものを自分たちに示した。
おとなしそうな茸だが、確かに光っている気がする。
「光ってるやつだぞ⁉︎ 」
光っていなければいいのか、ギリスはそれが悪のように言っている。
「毒はない」
「そんなもん食うなよ。人の食うもんじゃないだろ」
ギリスは驚いているようだった。
「そんなことない。暖炉で焼けば案外美味いよ」
ラリンはさも美味そうに言った。
「美味いの……?」
ギリスはそれに惹かれたように呟いていた。まさか興味でもあるのか。
そこらの茸をギリスが取って食うのではとスィグルは恐ろしくなった。
学徒なら茸が有毒か安全かを見分けられるのかもしれないが、ギリスはそうではないだろう。
学徒にしたって、そんなものまで食っていたとは驚きだった。
「ラリン、あんなクソ不味い兵糧の団子ばっかり食ってるから、お前は舌がおかしくなったんだよ。俺が今度来るとき、もっとマシなもん持ってきて食わしてやるから待ってろ」
ギリスは学徒の異食が耐えられないようで、慄いて断言した。
誰が何を食おうが別にいいではないかと、スィグルは呆れたが、ギリスはどうも美味いものを食いたい性分のようだった。昨夜の晩餐でも、玉座の間の美食を喜んで食っていた。
スィグルにも、これを食え、あれを食えとうるさく勧めてきて、大食させようとするので困った。
そういう性分なのかもしれなかった。人の空腹まで気になるような。
優しいんだなと、スィグルは意外に思った。ギリスは優しそうには全く見えない。
「美味いと思うんだけどな……茸」
ラリンも困った風に、短髪の頭を掻いていた。
こいつ本当にこの洞内から長く出ていないのではないかと、スィグルには思えた。
「学徒はいつも粗食だから、俺はご馳走は食ったことがない。夜光茸より美味いもんがあるなら食ってみたいよ」
にこやかに学徒の若者は言った。
洞内の書に溺れ、あらゆる知識に精通しているのかもしれないが、食べるものには疎いらしい。
皆、それぞれの立場で生きているものだ。
スィグルはそれを痛感し、そう考えるうちに少し気が落ち着いた自分に気付いて、はっとした。
なぜかギリスに縋り付いていた。
王族はそんなことをするべきじゃなかったはずだ。見苦しい。
それで慌てて離れたが、誰も何も言わなかった。
言わないでいてくれたのかもしれなかった。なんとも思わないはずはない。
「大丈夫か?」
その証拠に、ギリスが真顔で確かめてきた。
黙って頷くと、ギリスは何も聞かなかった。
「聞きたいことがあったら、いつでも相談に来るけど、いいよな?」
ギリスがラリンに念押ししていた。
「いいよ。美味いものを持ってくるなら」
にっこりとしてラリンは承知した。
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079 虹の谷
「妙な奴だった」
知識の晶洞からの帰り道、ギリスが独り言のようにしみじみと言った。
ギリスほどの変人にそう思われるのだから、学坊の鼠も余程のことだ。
スィグルはそれに異論がなかったが、まだどことなく気分が良くなかったせいで、暗く黙り込んだ。
大図書館の空気に酔ったのかもしれず、圧倒的な数の書物を目にした衝撃で、頭がくらくらした。
ギリスの弟たちも多かれ少なかれ同じだったようで、いつもは陽気なはずの彼らもぐったり押し黙っていた。
特にエル・サリスファーとエル・ジェルダインが。
「兄者、学徒にあのような事を言わせておいて良いのでしょうか」
暗く思い詰めた顔で、サリスファーが物置まで戻ったところでギリスに尋ねた。
ギリスは肩をすくめて答えた。
「学徒はいろんなことを言うさ。考えるのが奴らの仕事だ」
「でも、不敬です。あんな……エル・ディノトリスや太祖の黎明の英雄譚を愚弄するようなこと」
それが不快だったというように、エル・サリスファーがギリスに文句を言っている。
英雄たちにはそうだったのだろう。スィグルも同感と言えなくもなかった。
エル・サリスファーや、その他の少年たちほど、自分は困っていないが、彼らにとっては自分たちの英雄性をゆるがす話に聞こえたのかもしれなかった。
でもギリスは苦笑のような淡い笑みだった。
「愚弄してない。あいつらは本当のことを言ってるだけだ。確かに太祖は字が読めなかったかもしれない。だから詩人に詠唱させたんだ。理屈は通ってる」
ギリスは困り顔だったが、大したことでもないように答えた。
それにサリスファーは不満げだった。
「そうかもしれませんが、敢えて論うことでしょうか。部族の民を鼓舞し、誇りとするためにあるのが英雄譚です。学徒たちも、部族の始祖にはもっと敬意を払うべきではないですか?」
いかにも血が熱いように語るサリスファーに、ギリスは面倒そうに小さく頷いてやっている。
「そうだな。そんなことより、お前らちょっと女部屋に走って、昼飯の手配をして来い。念動術師と飯食って、どこでもいいけど、何処かの洞内で魔導訓練だ。お前らも来る?」
「いいんですか⁉︎」
ギリスが気さくに誘うと、耐えきれなかったのか、一番年下のエル・タイユーンが嬉しそうに叫んだ。
「うるさい、十三歳。遊びじゃないんだ。お前も来て、殿下に雷撃術を見せろ」
「はい!」
煩げに言うギリスの命令に、タイユーンは明るく返事をしている。
「殿下が魔導訓練を高覧なさると女どもに伝えろ。歓待しろって。場所が決まったら、殿下の居室に誰かを寄越して報告させろ。それまで俺は殿下と話がある。お前らは遠慮しろ」
ギリスは六人いる弟たちを見渡して、きびきびと命令した。誰にともなく。
しかし、答えたのはエル・サリスファーだった。
「分かりました。エル・フューメンティーナにお伝えします。また後ほど」
サリスファーは素直に深々と頭礼して、仲間を引き連れて立ち去ってしまった。
博士の部屋に戻って、奪われた英雄の服に着替えるのだろう。英雄たちの速足はずいぶんと素早かった。
それをあっという間の出来事として見送り、スィグルはまだ呆然としていた。
英雄たちがギリスに頭を下げたのか、スィグルにか、その仕草だけでは全く分からなかったが、スィグルには彼らが自分にではなくギリスに服従しているように見えた。
彼らの忠誠を得るには、自分にはまだ何かが足りないようだ。
それを内心で反省したものの、悔しかった。それが正直なところだ。
エル・ギリス無しには、自分は今も、何もできない無力な殿下なのだろう。
「ギリス……エル・フューメンティーナに遣いはもう出したよ。侍女に頼んである」
言い訳めいた口調で、スィグルはギリスに教えた。自分も何もしていない訳ではないと言いたかったのか。
「そうか。でも、いいよ。あいつら煩いし。お前もちょっと休めば。戻って爺いに服を返してもらおう」
ギリスはのんびりと言った。
「老師は僕に何を教えたいんだと思う?」
並んで歩こうとするギリスに、スィグルは歩き出す気になれず尋ねた。
戻って老師になんと言うのか。
図書館の鼠は自分達にいろんな古い書物を見せてくれたが、そのどれもが史書と英雄譚の比較だった。
それが老師が用意させていた書物だったのだろう。
英雄譚は少しずつだが時代とともに改変されていた。
初期には病者だと記されていたディノトリスが英雄となり、弟アンフィバロウを導く予言者となり、死してなお王都タンジールを守護する英雄の死霊となって、今も玉座の間のどこかに佇んでいると詠われるに至っている。
ギリスはそれに成り代わる者として、新星に戴冠させる役目を負っているのだろう。
そのつもりで今もスィグルの側にいるのだ。
しかし自分にはもう、彼らに与えるべき英雄譚がない。
それでもギリスは、エル・サリスファー達は、自分に仕えてくれるのだろうか。
そう思うと、スィグルは不安だった。何をもって彼らの忠誠を得るのか。
悩んで深刻な顔になるスィグルを、ギリスは淡い笑みで見ていた。
「師父がお前に言いたいのはさ、たぶん、英雄譚は嘘だってことだ。本当の話じゃなくていい」
ギリスが答えを知っているように言った。スィグルの背を押して老師の学房に戻りながら。
「あの爺いがそれを即位前のお前の親父に教えたんだ。英雄譚は作り話だって」
ギリスはまことしやかに、そう話した。スィグルの耳に。
驚いてスィグルは間近にギリスを見上げた。
「そんなこと言ったらお前も首を切られるよ、ギリス。叛逆罪で」
「髪を切られるのは嫌だな」
そう髪を大切にしてる風でもないのに、ギリスは断頭の前に切られるはずの自分の長髪が惜しいようだった。
図書館の鼠のように、短髪に髪を刈られるのは嫌らしい。
まあ、誰だってそうだよなとスィグルは納得し、ギリスの話に少し微笑んだ。
案外、ギリスもまともだ。そう思うと可笑しかった。
それを見て、ギリスも安心したようだった。
「さっき、どうかしたか? あの、虹の谷がどうとかいう話」
ふと思い出したふうに、ギリスが尋ねてきた。
何も聞かないのかと思っていたが、そうもいかないのだろう。
興味深そうな目で見てくるギリスは幼児のような好奇心の目をしていたが、それがどことなく野生の獣のようにも見えた。何も深くは考えていないような。
それに、なんと言ったものか、スィグルは淡い笑みのままで迷った。
「誰にも……言わないでくれる?」
スィグルは信用できる相手かも分からないギリスに、聞かせる気でいる自分に驚いた。
弟のスフィルとすら話し合った事のない話だ。思い出したくなかった。
「誰にも言わないほうがいいような話なわけ?」
ギリスは歩きながら、じっとこちらを見て不思議そうにしている。
学房の廊下は入り組んでおり、歩く者も時々はいた。歩きながら話すような事ではないのかもしれなかった。
それでも、自分はずっと誰かに言いたかったのかもしれない。聞いてくれる者がいたら。
それを聞いても、自分たち兄弟を詰らない者がいたら、話したかったのかも。
ギリスがそうだというのは、強引すぎる結論だ。人食いレイラス。こいつもそう呼んでる。僕のことを。
でも、他に誰が、分かってくれるのか。弟のスフィルの他にも、味方が欲しかった。何もかも分かった上で、そばにいてくれる者が。
「分からない。誰に言えばいいのか。僕が森の地下に捕らえられていた時の話だ。そこに他にも人がいたんだ」
スィグルは小声で話した。意を決した訳でもないのに、自分は話すことにしたようだ。
「お前が食った奴らか」
ギリスが平気そうに言うので、スィグルは吐きそうになった。
息を数えて耐えたが、一切思い出したくない記憶だった。
今でも思い出すたび怖くて、狂いそうな気がする。ただの記憶と何が違うのか分からないが、自分は見てはならぬものを見た気がした。
「いっぱいいるんだ。森の地下に。人が。たぶん、閉じ込められてて、住んでるんじゃない」
「そうなの? 誰が」
不可解そうにギリスは首を傾げている。
「同族だよ、僕らの」
王宮の通路を見て歩きながら、スィグルはなるべくゆっくりと息をした。
「お前の他にも部族の虜囚が?」
「そうかもしれない。でも、言葉が通じないんだ、全然」
スィグルが説明すると、ギリスはしばし目を瞬いていた。
「王宮の外の平民は、大陸公用語が分からないんだよ、スィグル」
「僕は部族の言葉も喋れるよ、ちゃんと。母上の侍女に習った。でも通じなかったんだ、全然」
なるべく気を落ち着けて、何も思い出さぬように、スィグルは話した。ギリスは黙って聞いていた。考え深げに。
「でもそいつらが、虹の谷と言ってた気がするんだ。僕のことを西の渓谷と呼んでた」
「西の渓谷だもんな」
スィグルの容貌の系統のことを、ギリスは言っているのだろう。スィグルはただ頷いた。
思い返しても、あれは見たことがない顔立ちだった。どの氏族とも似ていない。
こちらは向こうを知らないが、向こうはこちらの氏族を知っていた。
それが意味するところが、当時は分からなかった。そんなことを考える余裕などなかったせいだ。
でも今は、その余裕があった。
図書館の鼠が言っていたことは、無視できない。
古のアンフィバロウの末裔として、自分にはもしや、果たすべき役目があったのではないのか。
それなのに、その、森に残された兄弟たちかもしれない者に、自分が何をしたか。
皆に知られたくはなかった。
「ごめん……やっぱり思い出せない」
思い出したくないだけだが、スィグルは嘘をつき、自分から申し出た話を終わりにした。
ギリスはまだ考えているようだった。
「ラリンに聞いてみれば? それが何なのか。あいつも知りたいだろう。俺も知りたい」
「知ってどうするの」
どうしていいか分からず、スィグルは尋ねた。どうしたらいいかをギリスが知っているなら教えて欲しい気持ちで。
「お前が見たものが、ラリンの思ってるものと同じなら、俺たちは森の都を占領できる」
「どうして」
心底驚いて、スィグルはギリスを見上げた。
「俺たちの都だから。同族が住んでる。千年前からだぞ。同じ血を持つ民が暮らす場所が、部族領だ。そうだろ? 天使がそう定めた」
ギリスも驚いた顔で、でも嬉しそうだった。隠されていた贈り物でも見つけたみたいに。
それに一切共感できない自分に、スィグルは戸惑った。どう思っていいか分からなかった。
「そうだけど……森エルフも住んでるんだよ?」
「今はな」
ギリスが微笑んで頷いた。
「でも、証明できる。黎明の英雄譚があれば。アンフィバロウは兄弟達を森に残して去ったんだ。もしタンジールに無事に着いたら、その後、どうする約束だったと思う?」
「知らないよ、そんなの」
スィグルは恐ろしくなって、ギリスに答えた。
「俺はさ、もしお前を森に残して偵察に出て、タンジールみたいな良い場所を見つけて落ち着いたら、きっとすぐに迎えに行く。そう約束して行くと思う。自分だけここで幸せになったりはしない。助けに行くよ」
ギリスは頷いて、そう請け合った。そういう性分なのだろう、ギリスは。
でも、その話はギリスの勝手な推論に過ぎないのだ。ただの空想だ。証拠はない。
アンフィバロウは約束したのだろうか。虹の谷に別れを告げる時、自分たちの都となる麗しのタンジールを見つけて、必ず迎えに来ると。
そんな話は伝わっていない。
もし仮にそんな約束があったとしても、自分たちは忘れたのだ。千年も前に。
もはや森の兄弟たちは消え去り、アンフィバロウが別れを告げた虹の谷も消えた。
誰が今もそれを記憶しているだろうか。
「その話はさ……スィグル。時が来るまで黙っておけよ。誰にも」
「お前にもう話した」
後悔しているのか、自分でも分からない気分で、スィグルは答えた。
「俺は馬鹿だから忘れるよ、安心しろ」
ギリスが笑って安請け合いした。
忘れるようには見えなかった。
「まずは即位だ、スィグル。そこから先は戴冠式の後に相談しようぜ。二人で」
にっこりと屈託のない笑みで、ギリスはそう求めてきた。誰にも話すなと。
話すべきではなかったかもしれない。自分は一体、何がしたかったのか。
「シェル・マイオスに聞きたい。そういうことがあり得るか、遣いを出して……」
森にいるはずの友のことを、スィグルは思い出そうとしたが、そのシェル・マイオスにも言っていなかった事だ。向こうからも聞いたことはない。
聞いてみたらシェルが何と答えるのか、気がかりだった。
聞かない方が良いことが、この世にはあるのだろうか。友誼を交わした仲にも。
そんなものはないという気分と、聞いてはならぬ話だという気分の両方がした。
とにかく、あの友は、もはや遠くにいるのだ。ちょっと行って、軽く尋ねるというのは無理だ。
聞いてももう、何も答えないかもしれない。
「馬鹿。答えるわけないよ。もし本当にいても、あっちにとっては都合の悪い話だろ」
淡い笑みで言うギリスの顔は苦笑に見えた。スィグルに呆れているのだ。
「信用できるのは同族だけだ、スィグル。お前がそう思わないのが不思議だよ。その、虹の谷の連中と会った時どうだった。森の穴蔵では、タンジールよりいい暮らしをしてそうだったか」
そんなはずはないと、知っている訳でもないだろうに、ギリスはやけに確信めいて尋ねてくる。
スィグルは歩きながら、首を横に振った。
「いいや。皆、裸だった」
スィグルが教えると、ギリスが明らかに苦笑した。
「へえ。俺は別に着るものには拘らないけど、裸は嫌だぜ。アンフィバロウの砂漠越えに付き従った祖先に感謝しないとな。こんな衣服でも、無いと困るんだ」
学徒の粗末な茶の衣を引っ張って見せ、ギリスが言った。
「なんで服着ろってうるさく言われるのか、やっと分かったぜ」
ギリスは深く納得したように、独り言めいた言い方をした。
部族では恥として裸体を嫌う。湯浴みは好み、湯屋では衒いなく脱ぐのに、人前で肌を見せるのは恥なのだ。子供の頃から着衣についてはきつく躾けられるし、裸体はなぜか部族への冒涜なのだとされている。
どんな貧民であっても、部族民の誇りとして衣服は与えられるべきもので、後宮の妃や貴人たちが慈善として、貧しい民にも衣服を施している。
栄誉ある者は、どんな時でも服を着るのだ。身分や血筋の尊い者ならなおさらだ。立派な衣装を身に纏う権利があり、それが義務でもある。
自分たちの支配者が見窄らしいと、民は傷つくのだ。
それで族長位にいる者やその血族に、民は華麗な衣装を望み、それを与えてきた。時として過剰なまでの奢侈だが、立派に着飾ることには古来、おそらく意味があったのだ。
「この格好はお前には似合わないな。さっきの英雄みたいなのは案外似合ってたけど。さっさと着替えよう」
反省したのか、ギリスは自嘲したふうに言った。
ギリスも全く学徒らしくは見えなかった。
まだ淡い笑みのまま、王宮の暗い廊下を見つめて歩くギリスの目に、鋭い氷の刃のような野心がある気がする。
野心があるかと父に問われて、あると答える勇気はなかった自分と比べて、ギリスの顔つきは全然違っているような気がした。
森の都を占領できると言った時のギリスが見せた、なんとも言えぬ嬉しげな表情。
餌を見つけた時の鷹みたいだった。
「ギリス……僕は本当に戦いはもう嫌だ。この停戦はお前も崇めてる天使の命令なんだよ」
スィグルが説明してやると、ギリスは頷いていた。異論はないように。
「そうだな。だったら天使にまた命じてもらえばいい。戦えって」
そんなことがあり得るか?
スィグルは苦い顔でギリスを見上げた。
そんなことがと思うが、自分よりずっと、ギリスの方が、世の中の道理を分かっている気がした。
「嫌だよ」
スィグルは本心からそう言ったが、ギリスは安心しろというように肩を叩いてきた。
「大丈夫だよ。嫌だったらお前は後陣に引っ込んでればいいんだ。ほとんどの族長はそこから指揮するもんらしい。それもラリンに聞くか、お前の親父に聞けよ。せっかく戦場の名君が親なんだから、息子のお前が戦いの極意を聞いたっていいだろ?」
スィグルは父にそのような指南を求めたことが無かった。
そもそも父リューズは常に忙しそうで、父と話すべき者が列を成して待ち構えており、取るに足らぬ幼年の第十六王子とゆっくり話す暇など父にはないのだ。
ずっとそう思っていた。
たまさかに父と話せる機会があったが、その時も自分は何となく舞い上がってしまい、何を話したのか後になって悩むような事ばかりだった。
話せない。父上には何も。
先日の晩餐の席でも、せっかく父の隣にいたのに、その事実に緊張していたのか、自分からはろくに何も言えなかった。言おうとしても、自分が場違いで奇妙な話をしている気がして、言いながら動揺するのだ。
結局、自分は父の偉大さに圧倒されるばかりで、遠くから尊敬しているしか能がない、末の序列の息子なのだ。
そう思うと悔しい気もしたが、自分はずっとそれを受け入れてきた気がする。
自分が王宮で目立つと、それが良い成果であるほどに、後宮で母が虐められたようだったし、悪い噂であれば尚更、母は皆に馬鹿にされたようだった。
だから大人しくしていろと、母はいつも遠回しに頼んできた。
息子たちの活躍は、母には迷惑なのだ。
そうではなかったはずだが、母は後宮で族長リューズの寵を争うには少々、気の弱い深窓の姫君のようであったのだろう。
父の好みの女ではなかった。
それも時折、スィグルにはもどかしく思えた。
母がもっと気の強い美女で、たとえばエル・エレンディラのような、賢く強い女として父に愛されていたら、自分の立場ももっと有利だったのではないかと。
そう思うのも母に済まない気がして、スィグルはいつもその本音を押し込めていたが、幼い頃から思っていた。
母上が名君リューズの寵姫であれば、自分の道ももっと平らかだっただろう。
王宮の物語には、かつての寵姫たちが族長の愛を幾夜も独占したという甘い耽溺の詩もある。
いわば後宮の英雄譚だ。
そのようなものに父はこれまで、実際には縁がなかった。
誰一人深くは愛さない男なのだ。スィグルは父のことを内心そう思っていた。
だから自分のことも格別な子として愛して欲しいという野望は、もう諦めたのだ。
父に軍略の指南を求めても、おそらく晩餐の席で兄弟十六人が平等に聞くことになる。
それでは兄弟たちを利することになるではないか。
「なんで黙ってるの」
ギリスが困ったように聞いてきた。
並んで歩きながら、気づけば自分は無言だった。
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080 仮面
「あんまり父上と話したことがないんだ。全部憶えてるぐらいしか無い」
「いいじゃん。憶えてる方が」
ギリスは励ますように言った。
「確かにお前が言うように、せっかくの常勝不敗の名君が玉座にいて、その息子が何も受け継がないのは問題ある」
父は誰かには教えているのだろうか。例えば第一王子とか、あるいは父が内心、これこそ永遠の蛇の継承者と思う息子に、こっそり教えているのか。
それが自分ではないことを恥だと思うべきだろうか。
ギリスはそう言いたいのか。僕が父上に目もかけられていない、その他大勢だって。
そう思うと恥ずかしく、スィグルはムッとした。確かに父には大切にされていない。
子供の頃でさえ、母の寝所に渡る前に父は後宮の子供達を呼び寄せて、不自由はないかと聞き抱き上げてくれたが、双子だったせいでスフィルと半分こだった。
双子でなければ独占できていたその時間が、スフィルのせいでいつも半分だと思い、不満だった。
もっと父上に絵を見せたり、弓矢の上達を見せて褒められたかったのに、後宮ですら父は多忙で、幼い王子たちはさっさと寝るよう侍女に連れ去られてばかりだった。
母上さえいなければ、もっと父と遊べたのかと、幼心に恨んだものだ。
幼い頃の記憶に残っている父は、とにかく会うたび楽しい人で、輝くように美しく、いつもうっとりさせられた。その血を自分が引いていることに、まだ素直に喜べたのだ。
自慢の父だった。今もそうだが、あの頃と比べて驚くほど遠くなった。
本当は、森で見た何者かのことも、虹の谷のことも、自分は誰よりも真っ先に父に話すべきだったのかもしれない。
自分の父親である以上に、あの人はこの部族の支配者なのだから。
「どうやって父上と話せるのか分からない」
スィグルは不満に思い、ギリスに力なく文句を言った。
「えぇ……それは、族長の部屋に遣いをやって、謁見したいって申し入れるんじゃないか?」
「別にそんな正式な話がある訳じゃない。ただちょっと話したいだけなんだ。この前の晩餐の時みたいに」
「行けばいいじゃないか?」
ギリスはそれが当たり前みたいに言っている。
英雄たちには族長は気安い相手なのだろうか。血を分けた家族よりも。
そんなの不公平だった。
「俺が遣いに走ろうか? お前がちょっと話したいと言ってるって、族長に伝えてくる」
「いいよ、馬鹿! エル・フューメンティーナと会食したいんだろ、お前は。それから魔導訓練なんだ」
「そうだけど」
「話すことなんか無いんだよ別に。わざわざお時間をいただくなら、もっと話をまとめてから行くよ」
自分が父と、どんな話をしたがっているのか、自分でも分からない。分からなきゃ話にならないのだ。
話すべきなのかも分からない。何も分からなかった。
救出されてすぐの頃も、今に至るまで、父は自分たち兄弟に虜囚時代のどんな話も求めなかった。死に損ないと詰りもせず、生きて戻ったことを褒めもしない。もう大丈夫だと言っただけで。
父にとってはおそらく、自分たち母子のことは、触れてはならぬ傷なのだ。過去の傷だ。
もう誰も話題にはしない。陰で嘲笑う者や悪口の種にする者はいるのだろうが、父を恐れて、おおっぴらに言う者はいない。ヤンファールの勝ち戦の陰で起きた、ちょっとした出来事で、もはや語るまでもない。
英雄譚にはなんと、双子の兄弟の名前すら出てこないのだ。ヤンファールの勲に自分やスフィルの名は無かった。誰でもない双子の王子が救い出される物語で、そこにある自分の無名さに、空恐ろしい気がした。
父は自分や弟や母のことは、歴史に残さないことにしたのだ。
それがどの王子だったのか、生きてる民は皆が知っているのに、詩人たちが名を挙げて詠うことは許さなかった。
自分はまだ、仮にこのまま死んでも、天使が人質にとった王族として、記録に名を残すのだろうが、スフィルは理由のわからない病気で死んだ王子として、何の功績もないままになるのかもしれなかった。
それでも、やむを得ないと思うが。
何かが納得できなかった。
スフィルには、何の落ち度もなかったのに、ただ王族の子だというだけで酷い目にあい、誰にも同情されず死ぬのだ。自分もそうかもしれなかった。
もしかしたら、あの時、誇り高く死んでいれば、英雄譚は詠ったのかもれない。自分たち兄弟の名を。幼くも、栄誉ある死を選んだ、アンフィバロウの子供たちとして。
納得がいかない。スフィルがあまりに哀れで、自分が哀れだった。その悔しさのせいで、自分は復讐がしたいのかもしれない。父や、この美しい都市にいる同族たちに。
深く考えると、スィグルには何も分からなくなった。自分が何を愛し、誰を守ればいいのか。
「スフィルの顔を見たい」
スィグルは急に思い立って、ギリスにそう頼んだ。
ギリスはその話に、きょとんとして見えた。
何が意外だったのか。
「昼食に行く前に、弟の様子を見たい。あいつ朝も菓子しか食べてないし、昨夜も食べたか知らない。一人じゃ食べないんだ。ほっとくと餓死しちゃうよ」
「そんな訳ないだろ」
ギリスが呆れたように言ったが、スィグルは無視した。
ギリスにはこちらの弟はどうでもいいのだろうが、王宮でスフィルの心配をしているのはもう自分だけだ。スィグルはそう思っていた。
自分だけが良い思いをして、弟を放置することに、少々の気まずさがあった。いつも兄弟で分け合ってきたのだ。何もかも。
あの素晴らしい図書館も、自分だけが見たというのが、今さら後ろめたかった。
弟も書物が好きだった。幼い頃には一冊の本や絵巻を一緒に眺めたものだ。
スフィルは今では別にもう、あの図書館を見たいとは思わないだろうが、正気であれば見たかったかもしれない。
その弟が共にいないのが寂しかった。何をどうしたら良いのかも分からず、自分はただ心細いのかもしれない。
目の前にいる射手にも、どこまで頼って良いのか分からなかった。
「お前、ずっと僕に付き纏う気か、ギリス。一日中ずっと?」
否定的に聞こえる声で、スィグルは尋ねた。どうするつもりでギリスがここにいるのか、そういえば聞いていない。
「一日中って訳にはいかないかもしれないけど。俺にも自分の用がある時もあるし、魔導訓練や診察の日もある」
「診察……?」
スィグルは顔を顰めて聞いた。
ギリスは元気そうに見えるのに、本当は病者なのだ。さっき見た、黎明の英雄譚にあるように。
「そんなに頻繁じゃないよ。俺は元気だし、魔法もそんなに使ってないから」
「魔導訓練て、しなきゃいけないもの?」
ギリスの石を透かし見る気分で、スィグルは今は学徒の頭巾で隠されている額を見た。
「しないと魔法が衰えるんだよ。訓練は魔法戦士の義務だ」
ギリスはさも当たり前のように言った。スィグルはそれにため息をついた。
「じゃあ、戦があってもなくても、お前たち魔法戦士は日々この王宮で自分の命をすり減らしてるわけだ」
「そういうことだ。どっちにしろ死ぬんだ。天使に頼んでくれ。俺たちは戦がしたい」
「無理だよ」
スィグルは首を横に振って、ギリスを置いて歩き始めた。
速足に戻ると、ギリスは黙ってそれについて来た。
博士の学房がある場所まで、もう道を憶えたので迷うことはなかったが、すれ違う学徒や衛兵に見咎められないか、少し冷や冷やした。
だが誰も気づかなかった。そういうものなのか。自分が殿下で、ギリスが英雄でも、茶の衣と頭巾一枚で誤魔化せるものなのだ。
戻ってきた王子と英雄を、老博士は先ほどの学房でにこやかに迎えた。
「いかがでしたかな、知識の晶洞は」
叩頭を受けた博士は気さくに問いかけてきた。
「君の弟たちは大層気に入ったようだったので、茶の衣を与えました。君たちも望むならその衣を持っていってよろしい。いちいち私の部屋に着替えに寄られるのでは堪らんからね」
いひひと笑って、老博士は気前よく言った。
ギリスはあまり嬉しそうではなかったが、遠慮なく学徒の衣をもらうつもりのようで、元の英雄の服に着替えた後、脇に抱えられるように粗末な麻の衣を畳んで巻き取っていた。
スィグルは自分があの図書館に出入りすべきなのか、少し悩んだ。
好奇心は尽きないが、王子が出入りする場所ではない。そこにこっそり忍び込んでも良いものなのか。
でも、学徒の鼠にはまた来ると言ってしまったし、自分も本当のところを言えば、行きたいのかもしれない。まだ読んだことがない本ばかりだ。そう思うと、気持ちのどこかがうずうずした。
読まずにいられないだろう。
時々、ちょっとだけ。自分の自由になる時間に少し訪れるぐらいは、構わないだろう。乗馬に出かけたり、将棋をさしたりして遊ぶ殿下がいるのだし、スィグルも自分が好きなことをする時があっても良いはずだ。
実を言えば自分は暇なのだ。食事をして風呂に入って寝る以外、やるべき事といったら朝議に列席することぐらいだ。
あとは自己研鑽のために使って良い時間だ。
普通はその時に武術を鍛えたり、勉学に勤しむのだが、自分にはそれができない。教える者たちがこちらを無視しているのだ。
自学するしかないのだから、図書館通いをしたって良いだろう。
ラリンは他にも面白い本を見せてくれるのかもしれない。祖父の代や、それ以前の祖先たちの治世の、表向きの講義では知りようのないことを。
そう思うと、背筋がぞくっとした。
たぶん自分は知りたいのだ。全てを。
あの図書館の鼠には、尋ねなくてはならないことが、まだ沢山ありそうだ。
「僕もこの衣を持って帰っても良いのですか?」
老師に確かめると、老人は頷いていた。
「君は賢いですからね。その衣に相応しいでしょう。健闘を祈ります」
殿下と、そうは呼んでこなかったが、老博士は教授の座から頭礼してきた。
それに答える礼をして、スィグルは長衣の懐にまだ額冠を持ったまま、博士の部屋を出た。
その姿が不思議なのか、一緒に部屋を出たギリスがじっと見下ろしてきて、なぜか急にスィグルの額を指で押してきた。
びっくりして避けたが、ギリスは考え込んだ顔でまだこちらを見ていた。
「何するんだよ。気安く触るな」
「輪っかがないと、お前って埋もれた石の奴みたい」
ギリスは首を傾げて言った。
「埋もれた石?」
「時々いるんだよ。竜の涙だけど、石が表に出てない奴が。子供の頃だけな。そのうち生えるんだけど、痛いらしい」
「やめてくれよ。痛い話は嫌いなんだ」
「お前がそうだったら驚くけどな。でも、そうだったらお前も本当に弟みたいだよ。髑髏馬閥に入れてやる」
それが良いことのように、ギリスは微笑んで言っていた。
王族とは付き合いにくいのかもしれない。ギリスは派閥の弟たちといる方が、気安そうだった。
「それなら僕も気楽なんだけどさ。殿下の義務ともおさらばできる」
「そうだな。でも、それは無いよ。殿下は生まれた時に透視術で検診されてる。もし石があったら王族にはなれないから」
「そうなの?」
スィグルは知らなかった。自分が生まれた時にそんな選別を受けていたなど。
竜の涙であることは、王族であるよりも優先されることなのだ。
もし、もしも自分にも石があったら、兄弟で殺し合う憂き目にも遭わず、ギリスたちのように親しい仲間と暮らせたのかと思うと、胸が苦しかった。
天使にも会わず、同盟の人質にもならなかっただろうが、念導術で民と玉座に仕え、満足して死ねたのかもしれない。
それが羨ましいとは思えなかったが、でも、そう思うのは、ただの強がりの嘘かもしれなかった。
「俺はお前が王族でないと困るんだけどさ。でも、お前はつまんないだろ、殿下なんて」
憐れむようにギリスに言われ、スィグルはムッとした。その通りかもしれないが、言われたくなかった。
「そんなことないよ。お前よりずっとマシさ。部屋だって豪華だろ。お前の居室を見せてみろよ」
スィグルが偉そうに言うと、ギリスは苦笑していた。
「まあな。では戻りましょうか、殿下。豪華な居室へ」
「付いてくる気か」
「お供します。王族が一人歩きして、何があっても文句を言えない」
何があるんだと忌々しかったが、スィグルは断らなかった。ギリスの護衛は正直言って心強い。英雄譚に名高い氷の蛇らしいのだから。
心なしか嬉しく、スィグルは懐にあった額冠を被り、また王子として英雄を引き連れ、自分たちの居室まで戻った。
なかなかに遠かった。
タンジールの王宮は恐ろしく広い。まるで広大な迷宮のようだ。
それでも道筋を心得るスィグル・レイラスが迷うことはなく、また弟の紋章が描かれている黄金虫の大扉に戻ってきた。
もちろん衛兵が立っている。
儀仗した紅の徽章の者が四人。
いずれも屈強そうで、心揺らぐこともなさそうな落ち着いた目をしていた。
「ご苦労。弟に会いたい」
スィグルは用件を伝えた。
それに一礼して、衛兵は室内に続く伝声管に、第十六王子が来訪した旨を知らせた。
やがてすぐに、おろおろと戸惑うふうな侍女が戸を開いた。
「殿下……せっかくではございますが、今はスフィル様はお会いになれません。また後ほど……」
「眠ってるのか? それでもいいよ。顔を見たいだけだ」
スィグルが通せと要求すると、侍女は哀れに青ざめ、困った顔になった。
「ご来客中で……お伺いして参ります」
侍女は薄紅の透ける袖を翻し、部屋の中に消えた。
弟に来客などあるものだろうか。
そう思うスィグルの視線を捉えて、紅の衛兵が言った。鋭い小声で。
「殿下、誰もこの扉を通っておりませぬ」
そう聞いて、はっとするスィグルよりも早く、ギリスが扉を開いた。
衛兵たちも見張りを残し、中に駆け込んでいく。
咄嗟に動けず、スィグルは遅れて室内に走った。
扉を通らぬ誰が、どうやってこの中に入れたのか。
「スフィル!」
青ざめて叫ぶと、室内では衛兵とギリスが、別の衛兵と向き合っていた。
相手の甲冑にある徽章は赤だ。
赤。
スィグルはその意味を考え、頭が真っ白になった。
赤い衛兵は族長に仕える兵だ。
紅の者ですら、たじろいで見えた。
「兄上」
嬉しげに驚く弟の声が、衛兵たちに遮られた視界の向こう側から呼びかけてきた。
戸惑う顔の侍女たちの宮廷服に囲まれた、弟の居室の客座には誰もいなかった。
しかし首座には、弟を膝に乗せた大人の男が座っている。
それが誰なのか、スィグルには一目で分かったが、息が上がり、言葉が出なかった。
黒い長衣の裾が見えた。王宮の貴人が部屋着に着るような、ありきたりの衣装だ。
「スィグル、間が悪い時に来たものだ」
黒衣の者が気さくに呼びかけてきた。
父だ。
スフィルの部屋の首座に、父リューズが座っていた。
弟を黒衣の膝に座らせ、なぜか生の肉を挟んだ白い箸を持っている。
なぜかと思ったが、スィグルや皆の見る前で、スフィルは遠慮なくその箸から赤い肉をパクリと食った。
肉食の獣みたいな、野生味のある仕草だった。まるで、黒雷獣の子のような。
「こら。スフィル、箸を噛むな。行儀が悪いぞ」
叱る口調で父リューズ・スィノニムが弟に言った。
それにケラケラと笑いながら、弟は平気でお行儀悪く肉を噛んでいる。血の滴るような赤身の肉だ。
スィグルはその光景に吐き気を覚えた。何にかは分からない。生肉を食う弟を見るのは別に初めてではない。
ヤンファールの時も、王宮に帰った後も、何度となく見た。
誰かが食わせないと、弟は自分では食事をとらず、飢えて死にそうだった。いつも必死で世話した。森の地下でも、救い出された後も。
でも僕がトルレッキオにいる間、誰が弟を世話していたのだろうな?
恐らくは、優しいエル・ジェレフか、親切な侍女たちが。
そう思うではないか。
「父上……!」
何かが絶望的な気分で、スィグルは口元を覆って聞いた。吐くか叫ぶかせぬように、自制心が必要だった。
それに父は面白そうに、ふふふと笑って答えた。
「あいにく今は父ではない。すまないが。俺は侍女だ」
確かに父は部屋着らしい地味な黒い長衣の上に、次女の着る薄物を肩に羽織り、永遠の蛇の冠は着けていなかった。
代わりに仮面劇で使う美女の面が、首座の脇に置かれている。
美しい面だった。名工の作だろうが、飾り物というよりは、父はそれを被って舞う仮面劇の途中で抜け出してきた役者のように見えた。
もちろん族長の役柄の。
それとも侍女の役柄の役者なのか。
そう思うと、そう見えなくもなかった。仮面劇では、全部を男の役者が面をつけて演じるものだ。
何も分からなくなり、スィグルは絶句してその光景を眺めた。
父は困った顔をしていた。
「そう驚くな、息子よ。お前の弟に何か食わせねば、死んでしまうとジェレフが言うからだ」
奇跡の治癒者が元凶だというふうに、父は悪戯っぽく教えた。
ではエル・ジェレフは知っていたのか、これを。でもスィグルには一言も教えてくれなかった。
皆も知っていたのかもしれない。
これが最初でないなら、弟の部屋付きの侍女たちも、この来訪を知っていて、スィグルには黙っていたのだ。
スフィルも。
いつも父上に会ってたくせに、僕には一言も教えなかった。
酷い。
何かは分からぬ怒りが湧いて、スィグルは拳を握って耐えた。
父が自分に会いに来てくれたことなどあったか。
一度だけ、あった。
人質としてトルレッキオに送られる前、祖先の霊に別れを告げるため、王宮の墓所に一人でいると、そこに父が現れた。
スィグルがいると知っていたのか、ただの偶然なのかは分からない。
そんなところに偶然来るはずがないと、父があの時、わざわざ探して会いに来てくれたのだと、自分はずっと思っていた。
別れを惜しみに来てくれたのだ。弟と半分こではない、自分だけのために。
それを喜び、でもその特別の待遇を少し後ろめたくも思っていたのに、この弟は何度もこうして父と会っていたのか。気の毒な兄の留守中に、その兄を出し抜いて。
馬鹿にしていると、スィグルは急に思った。
僕ももっと父上に会えてもいいはずだ。
同盟の人質として、重責を果たしてきたのだから、その苦労をもっと労い、再会を喜んでくれても良かったはずだ。
なぜ戻ったという困り顔で、ただ自重せよと説教するのではなく、辛かったかと聞いて欲しかった。
そうであれば自分も答えられただろう。
辛くはなかった。
故郷の民と、父と、弱った弟を、自分は守りたかったのだ。
そのために死んでも仕方がないんだと、自分に言い聞かせて耐えた。ずっと何かを耐えてはいたのだ。
その結果がこれか!
そう思い、何かが自分の中で激しく爆ぜるような気がしたが、スィグルは黙って耐えた。
父は癇癪を嫌う。その性質が、王家の何よりの悪癖と、幼い頃から嗜められてきた。
だから堪えねばならない。父を失望させる訳にはいかないのだ。
これには命がかかっている。
父に見捨てられたら自分は、絹布を巻かれた墓所の骨になるのだ。
そう思いたくはなかったが、考えずにいられなかった。いつも。考えずにいられるだろうか。
本当はただ、大好きだった父上に気に入られたいだけだったはずなのに。
そんな幼児の頃はもう、遠くへ過ぎ去っていってしまった。
それなのに、弟はまだ、その中にいるようだった。でかい図体で父の膝に甘えて、餌を強請っている。
「どうした、腹でも減ったか」
困ったふうな声で、父は苦笑して聞いてきた。
スィグルは項垂れて、床を見つめ、ただ頷くしかなかった。
「空腹です、父上」
叩頭すべきか迷った。
永遠の蛇は見えないが、家長である父に、まだ挨拶もしていない。
「ではお前もここに来て食うがいい。スィグル・レイラス」
父はそう言って、まだ立っているスィグルをじっと見ていた。
──つづく──
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