@zerozero_daily
「王宮の孤児たち」(1)/ (2)/ (3)/ (4)/ (5)/ (6)/ (7)/ (8)
もくじ
2≫ 081 将棋
3≫ 082 使者
4≫ 083 道連れ
5≫ 084 恩人
6≫ 085 星園閥
7≫ 086 馬車
8≫ 087 誕生
9≫ 088 工人の妻
10≫ 089 詩作
11≫ 090 将棋盤
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081 将棋
いざ父が目の前にいると、スィグルは言葉が出なかった。
叩頭すべきなのだと思い、客座を挟んだ床の上に居るまま跪いて、スィグルは額を弟の居室の敷物に付けた。
妙なものだった。
族長冠もなく、誰だか分からぬ出立ちの父とともに、その膝に乗った弟がにこやかにスィグルの叩頭を受けていた。
つい今朝のことだ。この弟が泣いて自分に謝り、命乞いをしていたのは。ここと同じ場所でのことだった。
人の一生とは本当に、分からないものだ。
スィグルには、機嫌よくにこやかでいる弟が、自分に勝ち誇っているように見えた。
そんなことは自分の妄想だと思えたが、でも実際、どうだったのか。
ギリスはスフィルがそれほど狂ってはいないのではないかと言っていた。自分はそれを深く考慮はしなかったが、それは、弟が狂っていてくれたほうが自分には都合が良かったせいだ。
そんな甘い考えは捨てねばならなかったのかもしれない。
もしも弟がまだ正気で、狂ったふりをして自分を出し抜いているのだとしたら、自分はどうするつもりなのか。
弟を信じて良いのか。
首座に見上げた、自分とそっくりな弟の痩せ細った笑顔を、スィグルはじっと見つめた。
そんな疑念を持った自分が嫌になるような、屈託のない子供の笑みだった。
「どういうことなのでしょうか」
説明を求めたくて、スィグルは重い声で父に尋ねた。
「お前がスフィルを新しい部屋に移したというので、昼飯の隙に抜け出して、これの機嫌を見に来たのだ」
「父上」
嬉しげに弟が言って、子供の頃にもそうだったように、父の胸に甘えていた。
異様だった。正直に言って。
父の玉体に触れる者がいないとは言わないが、少なくともスィグルが間近に見るものではなかった。
後宮では、父も妃たちと戯れるのだろうから、そういうこともあるのだろうが、スィグルは知らない。母の居室では、そういうことは無かった。手も触れない風情だったのだ。
「機嫌は良いようだな」
納得したように、族長リューズ・スィノニムは言った。
今も父が族長なのだったらだが。
玉座にいる時に比べて、父はずいぶん寛いで見えた。晩餐の席で隣にいた時と比べて、まるで自分にも手が届きそうな、生身の相手に見えた。
玉座の間の晩餐の席で見た、生きている彫像のようではない。
これが父の本当の姿ではないかと、スィグルには思えた。
もしもそうなら自分は今、本物の父と初めて出会ったのかもしれなかった。
「なぜだ、スィグル・レイラス」
不思議そうに見て、父は尋ねてきた。
何を訊かれているのか、スィグルには分からず、戸惑った目をした。
「何がでしょうか」
「なぜ弟をここに移した」
「元服した者は子供部屋を出るしきたりです。父上」
父が知らないはずはないのに、なぜ訊かれるのか不可解だった。
「そうではない。ここは寵臣を侍らせるための居間だ。継承指名を待つ者が住む」
父は膝に抱えたにこやかなスフィルの何も分かっていないふうな顔を見て、穏やかに言った。
「お前はこの弟と争うつもりか。次の玉座を」
「そういう訳ではありません。成年となった証に、部屋替えするのがしきたりです。スフィルも、ずっとは子供部屋にいられないはずです。哀れとは、思し召しになりませんか」
「哀れと思う。お前もこの弟も、俺の子に生まれて、さぞ辛いだろう」
誰が聞いているのも気にしないふうに、父はさらりとそう言った。
それを下座で聞いて、スィグルは全身の肌が粟立つような気がした。
侍女も、衛兵たちもいたし、ギリスだってこちらの傍に控えていた。
もちろんスフィルも聞いていただろう。それでも弟は相変わらずにこにこしていたし、父と会えて嬉しくてたまらぬ様子だった。
小さな子供の頃でさえ、弟が父の来訪をこんなに喜んでいたことはない。
昔はスフィルは、遠慮がちな困った顔で、おずおずと父と話していた。気に入らぬと言われたらどうしようと、恐れているような顔で。
でも弟はもう今は、そんなことは気にしていないらしかった。
「そんなことは……」
スィグルは低い声で答えるのがやっとだった。
つい先ほどまで思っていたことを、見抜かれたような気がした。
誰に言うでもない気弱な恨み言が、父には聞こえていたのかと思えるほどだ。
「遠慮するな。俺も殿下だったことはある。お前の心持ちは、この中で誰よりこの父が知っている」
あっさりと言う父の顔を、スィグルは慄いて見た。
「イェズラムから何か聞いているか。あれはお前を次の玉座の君にと言っていた」
父はため息をつき、いくらか真剣な顔で言うと、横目にギリスを眺めた。
「生前な。そうだろう、氷の蛇よ」
「殿下が新星です」
ギリスは父の下問に落ち着き払った声で答えていた。
「勘違いするな、エル・ギリス。イェズラムは死んだのだ。あれが何を思い描いていたか、俺は知らぬが、族長位の継承者が長老会の一存で決まったりはせぬ。長い吟味の末に、いずれは決まるだろう。俺がくたばる頃に」
それがいつなのか、はっきりとしない言い方で、父はギリスに教えていた。
父が自分に言っているわけではないのを感じて、スィグルは居所がない気分だった。
なぜ父は、自分ではなくギリスと話すのか。
「いつ、くたばるのですか」
面白そうに首を傾げて、ギリスが尋ねた。
あまりにも不敬な物言いだったが、族長は面白そうに笑った。
「わからぬ。死の天使に聞け。それかエル・ジェレフにだな」
「ジェレフはずっと先だと言っていました」
スィグルは思わずそう口を挟んだ。
横から割り込んだような、居た堪れない気持ちになったが、黙っていられない気がした。
「そうか?」
不思議そうに父が聞くので、スィグルは軽く唖然とした。
「どこか……お悪いのですか、父上」
「いいや。極めて健康だ。しかし族長位を目指すのなら覚えておけ、息子よ。永遠の蛇の主を屠るのは死の天使ではない。だいたいは施療院の者だ」
「ジェレフはそんなことは」
まさか父がジェレフを疑っているのかと驚き、スィグルは床から腰を浮かせかけた。
その慌てる様子が可笑しかったのか、父はかすかに声を上げて笑っていた。
「ジェレフは大丈夫だ、息子よ。イェズラムが寄越した治癒者だ。あれがもし俺を始末するとしたら、よほどの暗君になった時か、もう手の施しようがない時だろう。いずれにしろ死すべき時だ」
にこやかに自分の死を語る父に、スィグルはまた唖然とした。
言葉が無かった。
名君にも没する時が来るのだというのが、上手く飲み込めなかったのだ。
父は部族史に永遠に輝く燦然とした明るい星だと思えた。
それが生きて輝く時には限りがある。英雄たちがいずれは死せる英雄となるように、父にもいつか死ぬ時は来るのだ。
そんな馬鹿なという気が、心のどこかでしたが、でも自分はその時を待っているのかもしれなかった。その時こそ、自分があの玉座に座るのだと思い定めて、初めて物心がついた幼い日からずっと、兄弟たちで争っているのではなかったか。
「死すべき時がある。スィグル・レイラス。王族には皆、その時が来る。それが寿命だ」
父は諭すように言っていたが、スィグルは答えられなかった。
ヤンファールで救出された時には言わなかったことを、父は今、言っているのかもしれなかった。
「お前は往生際が悪いようだ。それについては俺も咎められる立場ではない。俺も二十歳を待たずに死ぬべき定めだったが、死に損なって今も生きている。兄上が亡くなられたゆえな」
「父上が正しい支配者だったのです」
スィグルは心の底からそう思い、父に教えた。
ギリスや史学の師父の話が確かならば、父が即位する前に継承者と目されていたアズレル・レイナルという名の殿下は、族長位にふさわしい人物ではなかった。人格に難がある。スィグルにはそう思えた。
「なるほど。死の天使の采配か」
にやりとして、父はスィグルに尋ねてきた。
「そうだと思います」
「寝ぼけたことを言うな。天使に会ったのだろう」
父は甘い笑みで、急に辛辣なことを言った。
今まで父からそんな言葉を掛けられたことは一度もなかった。
それに傷つき、スィグルが図らずも悲壮な顔をすると、父は困ったように苦笑した。
「スィグル。俺に嘘をつくな。わかるのだ。お前が心にもないことを言っているかどうか、俺には見える」
「なぜですか。嘘など言っていません。父上こそが正しい玉座の君です。まさに天使の采配ではありませんか」
思わず泣きつく口調になる自分の声を聞き、スィグルはそれでも気を落ち着けられなかった。
「エル・ギリス。誰が俺を即位させたのか?」
こちらを見たまま、父は目を逸らせずにギリスに尋ねた。
「エル・イェズラムです、閣下」
ギリスは一瞬の迷いもなく答えた。
「そうだ。あいつが俺の兄を始末したのだ。死の天使でもないのにな?」
皮肉な口調で言う族長リューズに、ギリスは黙っていた。
「そんな権利があいつにあったか。俺が兄上よりも良い治世を行う保証があったか? 俺は戴冠した頃まだ十八だった。お前は幾つだ、スィグル」
「十四歳です」
「まだ分からぬな、お前が名君かどうか。今決められるものではない」
父は断定的に言った。
そう言われると、スィグルは何も言い返せなかった。
未来の名君でありたいと願い、そのための努力も惜しまないつもりだが、そんなことには保証がない。
それでも、自分こそが正しい継承者で、ぜひ選んでほしいと父に熱弁すべきか。こんな千載一遇の機会が、突然目の前に現れたのだから。
そう思っても、スィグルの舌は動かなかった。自分を褒め称えるためには、わずかも動かない。
それを眺め、父はにやりとしたようだった。にっこりとしたのか。美しいが、意地の悪い笑みだった。
「スィグル。自信がないのか」
「ありません」
嘘をつくなと命じられたせいか、スィグルは正直に答えてしまった。
それに怒ったのか、心持ち後ろに控えていたギリスが、ちらりとこちらの顔色を見たようだった。
「自信など、今はまだ無用だ。俺が継承者に期待することは、競い合うことだ。いずれ即位すべき時が来たら、皆が、族長にもっとも相応しいものをお前たち兄弟の中から選ぶ。そのほうが、俺が適当に選んだお気に入りの息子より、良い族長になる。そうは思わぬか?」
父はスィグルに尋ねる口調で言ったが、それが質問だと腑に落ちるのに時間がかかった。
父はどうも、自分に相談しているらしい。どうやって次代の継承者を選ぶかについて。
それに驚き、スィグルは顔を顰めた。
「父上がご指名なさるしきたりです」
「そうだが、自分がどんな死に方をするか俺にも予想がつかぬ。今際の際に誰かの名を呼ぶ暇があると良いが、そういう時には普通は朦朧として、好きな女の名でも呼ぶものではないのか?」
父は笑ってそう言い、首座の傍を守っていた赤の徽章の兵に、そうだろうと問いかける目を向けたが、その厳しい顔つきの男は黙って首を横に振っていた。
それに父は困った顔をした。
「失言であった」
渋々のように、父は謝罪した。
詫びたのだろうと思うが、それが自分になのか、スィグルは分からず、座の面々を見回した。
ギリスと自分の他には、父に抱かれたスフィルと、離れて平伏する侍女たちと、首座の四隅を守る赤の兵がいるだけだ。
兵たちは武装し、儀仗用の槍を持っていたが、まるで空気のように静かだった。
彼らもここにいることを、スィグルは失念していた。衛兵とはそういうものだ。
貴人は普段、兵に話しかけたりはしない。彼らは王宮の空気の一部なのだ。
しかし父には、彼らがちゃんと見えているらしい。
「ご最期の時に名を呼ぶような寵姫がおいででしょうか」
聞くべきではないと思ったが、スィグルは尋ねた。
そんな者はいないと自分は思っていたが、いるのかもしれなかった。
それは後宮の秘密なのかもしれないが、自分が知っていてはまずいだろうか。
「あいにくお前の母ではない」
「存じています」
短刀を突きつけるように、スィグルは追い被せて答えた。
詳しく答えて欲しくなかった。自分で尋ねておきながら、うやむやにしない父が恨めしかった。
「案ずるな、この世の女ではない。知らぬものなのか? エル・ギリス。お前も知らぬのか。俺が今際の際に名を呼びそうな者のことを」
父は助け舟を求めるように、ギリスに話を向けた。
ギリスは肩をすくめたようだった。分からないというように。
それでもギリスは下問に答えた。
「亡くなられた正妃様ですか」
「そうだ。おかしいか? 賢きお方だったが、あいにく兄上の妻だった。とても将棋がお強くて、俺は一度も勝てたことがない」
父が懐かしげにそう言うと、ギリスは驚いたようだった。
「常勝不敗なのでは?」
「そんな訳なかろう。一度も負けない者などいるか。ナオミ様には誰も勝てなかったのだ」
それが恥でもないように、父はあっさりと教えていた。
「そんな話は聞いてない。イェズラムからは」
ギリスは困ったように言った。それに父は淡く笑っていた。
「あいつが何でもかんでもお前に話したりするものか。都合のいい話しかしていないのだ」
そう言われて、ギリスは座したまま戦慄したようだった。
無言で座っているだけのギリスから、言い知れない衝撃がこちらにも伝わってきた。
「俺の知る中では、ナオミ様は棋士として、この世で最もお強い方だったが、亡くなられた。産褥で。イェズラムが言うには、ナオミ様はこの俺が、王宮でもっとも賢く強い王子だと仰せだったとか。それゆえ即位させよと」
父はそれをスィグルに話しているようだったが、スィグルはどう頷いたものか分からなかった。
初めて聞く話だったし、なぜ継承者の妃が次代の族長を選ぶのか、意味も分からない。
でも父は、先代の継承指名の話をしているのだと思えた。
「お祖父様が……父上をお選びになったのです。継承指名で」
「形式上はな。その方が良かろうとイェズラムは思ったのだろう。お前と似た、しきたりを重んじる男だった」
イェズラムに似ていると言われて、スィグルは戸惑った。父が少し疎ましそうにそれを言ったせいだ。
「イェズラムが説得したのだ。暗君デールの射手を。シェラジムだ。不戦のシェラジム。それはお前も知っているのだろう。俺の父を操っていた治癒者だった」
問いかける目の父に、スィグルは黙って頷いた。それを知らぬ者はいない。
父も頷いて話を続けた。
「エル・シェラジムは発狂し、他の王子を抹殺して、俺の父を即位させたのだ。民から選択の自由を奪った。父も父なりに奮闘したのだろうが、人には向き不向きがある。玉座に座すべきお方ではなかった。気が弱かったのだろうな。俺は直にお話ししたことはないのだ。死の床で名を呼ばれたのが、父と口を利いた最初で最後だった」
そんなことがあるのかと、スィグルは驚いた。
自分も父リューズとは滅多に会うことがないと思っていたが、それより酷い。
実の親子が一生に一度しか口を利かないなどということが、ありえるものなのか。
驚いているのが面白いのが、リューズはふふふと笑っていた。
「先代は俺がどんな子かもろくに知らずに指名したのだ。シェラジムがそうせよと進言したのだろう。シェラジムにはイェズラムが頼み込んだのだ。イェズラムに俺を即位させよとお命じになったのはナオミ様だ。他にもいたかもしれぬが、イェズラムは自分が選んだと思いたいがために、それについては俺には言わぬ。でもエレンディラもそうだ。俺が相応しいと思っていたと言っている。それはまあ、即した後では何とでも言えるがな。だが要するにだ……息子よ。皆が選ぶのだ。次の星を」
急に結論を言う父に、スィグルは呆気に取られた。ずいぶん強引な説明なのではないかと。
「俺が仮に、これを族長にすると指名したとしよう」
膝に座っているままのスフィルの肩を掴んで、父リューズはにこやかに言った。
それには、ずしりとスィグルの胃が重くなった。
父に見つめられて、スフィルは意味が分からないのか、にっこりと幼児の笑みで、嬉しそうだった。
「それを聞いてお前は大人しく死ぬことにするか? スィグル・レイラス」
「父上の、思し召しならば」
苦いものを飲まされる気分で、スィグルは答えた。
そうするしかないのだと思って。それが王宮のしきたりで、王族の宿命だ。
それを聞いて、父は快活にあははと笑った。
「そうか? そうはなるまい。エル・ギリス、お前ならどうする」
「聞かなかったことに」
ギリスは即答した。それをスィグルは振り返って見た。睨んだのかもしれなかった。
叛逆だぞ、エル・ギリス。
そう言いたいのを堪えたが、驚いているのは自分だけのようだった。
「そうだな。そうなるだろう。俺も、この哀れな息子に族長冠を与えたければ、他の息子を全て殺してからになる。そのような暴挙は許されないのだ。安心せよ。俺もそこまで狂ってはいない」
安心せよと言われて、スィグルは全く安心などできなかった。
「だが仮に今、お前を指名したとしよう。スィグル・レイラス。お前が次の玉座の君になるようにと、俺が言ったとしよう。その時には何が起きる?」
父に尋ねられて、スィグルは沈黙した。
頭の中では、その時に起きる出来事が分かっている気がしたが、言葉になって出てこない。
スィグルが沈黙して俯くと、父は苦笑したようだった。
「何が起きるだろうか?」
父はスィグルに答えさせるのを諦め、またギリスに尋ねた。
「さっさと他の王子を殺さないと」
「それはお前がやるべきことだ。俺の質問に答えてくれ」
「他の王子がスィグルを殺しにくるだろう」
深刻な面持ちで、ギリスは答えた。父はそれに頷いてやっていた。
「おそらく、そうなるだろう。それゆえ継承指名は継承者全員を一室に揃え、即位しないものを直ちに絞め殺し墓所に送るしきたりになっている。継承指名を行うのは、俺が死すべき時に一度だけだ。それまでは、俺は誰も選ばない」
族長リューズはそう約束した。ギリスに。
「残念だが、俺がお前を指名することはないだろう、スフィル・リルナム。お前はただ生きて、死すべき時が来たら、穏やかに死ぬがいい。俗世のことは思い煩うな」
にこりとして、リューズは息子の髪を撫でてやっていた。
見ればスフィルは夜着を着ていた。父が来るまで、寝室で眠っていたのだろう。
弟はほとんどの時を眠って過ごしている。何もしていないのに、弟はひどく疲れるらしいのだ。
今ももう、眠たげだった。
「スィグル、お前については分からぬ。民がお前を選べば、玉座の間に君臨することもあるだろう。研鑽せよ」
父はきっぱりとスィグルにそう言った。族長位継承者の候補の一人だと。
それは、ここで聞くには、とんでもない事なのかもしれなかった。
父リューズは、永遠の蛇を引き渡す相手の一人として、この自分も考慮の数に入れていると言っているのだ。
「父上」
何か言いたい気がして、スィグルは喘ぐ息でやっとそれだけ言った。
「なんだ?」
実にあっさりと父リューズは聞き返してきた。
「僕に、そのような、大役を望む権利が、あるでしょうか。永遠の蛇を帯びるにふさわしい息子と、お思いですか」
どこか震える声で、スィグルは尋ねた。
子供の頃からずっと、父に会うたび聞いてみたい事だった気がした。
僕を選んでくれますか、父上。そう願ってもいいのか。
「知らぬ」
父は微笑み、あっさりと一蹴してきた。
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082 使者
もちろんだスィグル・レイラスと答える父を期待していたスィグルは、また悲壮な顔になった。
「え……」
言葉が出ず、スィグルが思わず呻くと、父は困ったように笑って見えた。
「まだ知らぬ。お前はそれにふさわしい息子なのか? 俺はお前をよく知らん。一度はシャンタル・メイヨウに奪われ、生きて戻ったが、次はブラン・アムリネスがお前を奪った。でも戻ってきたな。次は何をするのだ、息子よ」
「次……」
泳ぐ目で、スィグルは父の座る円座の床あたりを眺めた。見てもそこには答えはないが、尋ねられても頭が真っ白だった。
自分が何も考えていないのではないかと、スィグルは危ぶんだ。
どうしたらよいのかと、トルレッキオから戻ったこの一月あまり、ずっと悩んではいたが、考えてはいなかったかもしれない。自分はただ困っていただけで、無思考だった。
「考えていないのか。呑気なやつだ、お前は。それでは玉座には座せぬ」
あははと笑って、父は悪気なく言ったようだが、スィグルは黙って座したまま、ずしりと傷ついた。
「まだ十四歳だ。時はある。じっくりと考えよ。お前の父が生きている間にだぞ」
励ますように言う父の言葉は、晩餐の席で聞いた時の、話にやってきた家臣たちに会話の終わりを知らせる口調に聞こえた。
もう立ち去れ。次の者、来いと、父が言い出しそうで、スィグルは焦った。
「ち……父上! お話したいことが」
気が焦るまま、スィグルは咄嗟に引き留めた。
何を言うつもりなのか、実は決めていなかった。考えるより早く、引き止める言葉が口を突いたせいだ。
何を言い出すのかと自分でも困り、スィグルは父に不思議そうに見られながら、ゆっくりと縮こまった。
「何の話だ」
今にも首座から立ち上がるような気配を見せていた父が、また座り直し、スィグルを見つめた。
スフィルは座ったまま、うとうとし始めている。まさか父の膝で眠る気かと、スィグルは気がかりだった。
「あのう……」
何を話せばよいのか分からなくなり、スィグルは動揺しながら口籠もっていた。
頭は何かを考えている気がした。目まぐるしく。
ギリスが心配げに、じっとこちらを見てきた。何を言う気かと、氷の蛇の鋭い目が、自分を射抜いている気がした。
「トードリーズのことを、ご記憶でしょうか」
思わず、そう言ってから、スィグルは自分でも驚いた。
父と一対一で話せる、この貴重な時間に、自分は何を言うつもりなのか。
他に何かなかったのか。例えば、先ほど思っていた、虹の谷のことや、停戦のことなど、父と話すべきもっと重要な事柄がいくらでもあったはずだ。
なぜトードリーズが出てくるのか。
将棋。そうだ。父が将棋のことを言っていたせいだ。
亡き正妃ナオミ姫が、将棋を指す妃だとは、スィグルは知らなかった。
父上はよほど将棋がお好きだったのだろう。今では誰とも指さないようだが。
それは父に匹敵するような棋士が滅多にいないせいだろう。
自分が父の相手をできれば良いが、あいにくそのような覚えがなかった。
将棋など、子供時代の遊びとして、弟のスフィルと指した程度だ。
トルレッキオ学院にも似たような盤上の遊戯はあって、同盟の子供達の間で対戦があったが、その時にも自分は特筆すべきほど強くはなかったと思う。特にシェル・マイオスにはよく負けた。
にこにこ、ぼんやりして見えるくせに、あいつはやけに強かったのだ。
それを父に知らせるのが自分に有利だとは思えなかった。
「トードリーズ?」
父は首を傾げていた。知らないのかもしれない。
しかし、工人トードリーズの話では、父と亀とは浅からぬ縁だ。忘れたりするだろうか。
父は不思議そうにスィグルを見ていた。
「なぜ、その者をお前が知っている?」
リューズは訝しげに尋ねてきた。
憶えているのだ、トードリーズのことを。
「トルッレッキオへの随行者でした。工人たちの長として、学院まで付き従ってくれました」
スィグルが早口に教えると、父は険しい顔になり、やがてがっくりと項垂れた。
「そうか……知らなかった」
それがひどく悔やまれるというように、父は項垂 れたまま、低い声で答えた。
「エル・ギリス。お前の養父は勿論それを知っていただろうな? あいつも随行者として、この息子と共にトルレッキオに行ったのだ。他の随行者を知らぬはずはない」
責めるような声だった。父はそれをなぜかギリスに言った。
「なぜ、言わないのだ。イェズラムから俺には一言もなかった。トードの行方は知らぬと言ったきり、おそらく探しもしなかった!」
「俺のせいじゃないし」
叱責する口調の族長に言われて、ギリスはあっさりと答えている。
「あいつはなぜ平気で俺に嘘をつくのだ。叛逆だぞ!?」
「王族を工人には会わせられないからじゃないですか」
「そんな道理があるか……?」
悔やむように、族長リューズ・スィノニムが亡き大英雄を恨んでいた。
「御身分が」
肩をすくめて、ギリスは教えていた。言わずもがなのことだ。
しかし父は納得していないようだった。
「トードは命の恩人だ。あいつがいなければ、俺は即位する前に飢え死にしたかもしれぬ。それは聞いているのか?」
「だいたいは」
ギリスは実にざっくりとした答えだったが、父はそれに頷いていた。
「では分かるだろう。俺が救国の名君だと言うなら、トードはそれを救った男だ。救国の英雄だぞ」
「工人ですけど?」
「関係ないだろ」
一応聞いたけどという顔つきのギリスの質問を、父は真顔で一蹴してきた。
関係ないわけはなかった。王宮の序列は厳格なもので、貴人以上の身分の者しか、族長に謁見できないのだ。
そういう決まりだ。
だが、まあ、そう言いながら自分もトードリーズには会っている。今後も工房を訪ねるつもりだ。
ギリスはだめだと言っていたように思うが、そんなことは知らない。
なぜ自分がそう思うのか、スィグルも改めて考えると不思議だった。
矛盾しているのかもしれない。王族の掟とは。
しかし、そこはそれ。これはこれ、それはそれだ。
「トードリーズをここに呼びます。将棋をお指しになっては?」
スィグルはとっさに思いついたことを、熟考もせず提案した。
それに赤の衛兵たちと、エル・ギリスが息を飲んでいた。やめてくれと言うように。
「呼べるのか、あいつをここに?」
驚いたように族長リューズが確かめてきた。
「はい。たぶん。この部屋を作った親方なので。部屋の改装とか、修理とかには、命じればトードリーズが来るはずです」
「そんな簡単なことだったのか」
驚き嘆くように、父が呟いていた。
簡単なことなのかは分からなかった。
普通、貴人は、特に王族は、身分の低い者と会うことはない。会ってはならぬのだ。
族長となると、さらに、面会してよい相手は限られてくる。
「しかし、あまり時はないのだ、息子よ。今日もお前がいない隙に久々にスフィルに会いに来て、族長の昼飯時はもう終わるゆえ、戻らねばならぬ」
「昼食は毎日召し上がるのですよね」
「そうしたいものだな」
父は苦笑して答えた。
「では毎日お越しになれるはずではないですか? トードは忙しいらしいので、毎日とは行きませんが、暇があれば来るのではないかと」
「工人が来るのを毎日俺にここで待てと言うのか」
呆れたように、父は確かめてきた。
「そうは申しませんが……いきなりトードを呼びつけて、明日来いとは言えません」
スィグルは困って、気まずく答えた。
トードは頼めばすぐに来てきてくれるのだろうかと思った。
教えられていた工房に今すぐ呼びに行ってみても良いが、トードは常にそこにいる訳ではないという口調だった。
まずは話をつけるところからだ。
「トードは父上のことを怒っています。それはご存知ですか」
スィグルが念のため教えると、父は少しムッとしたように眉を顰めた。
「知らぬ。工人風情が俺に何を怒っているのだ。あいつの功労を労い、即位後に恩賞を与えた。タンジールの工人区に屋敷と財産を下賜したはずだ」
「はずだ、とは?」
含みのある言い方をする父に、スィグルは思わず尋ねた。
「俺が見に行って確かめた訳ではない。イェズラムに命じ、あいつが誰かに命じ、その誰かがそのように取り計らったはずだ。その後は知らぬ」
「それでは無責任ではないですか?」
つい言ってしまってから、スィグルは父が真顔でこちらを見ているのに気づいて、軽くぞっとした。
そんな批判的なことを父に言うべきではなかったかもしれない。
「そう思うか?」
父は首を傾げて聞いてきた。
スィグルは言葉に詰まった。
しばらく誰も何も言わなかった。
王族同士の会話に口を挟める身分の者など、この場にいるとしたらギリスぐらいだ。
スフィルはもう床に転げて眠っていたし、ギリスは傍にいるのは感じられたが、押し黙り何も言わなかった。
「俺もそう思うのだ、息子よ。それでイェズラムにも相談はした。トードの恩にもっと報いるべきではないかと。しかし、ダメだと言うのだ」
「誰がダメだと言うのですか」
「イェズラムがだ」
父はきっぱりと言った。
「イェズラムは父上の家臣ではありませんか」
驚いて、スィグルは思わず声を上げたが、それを見て父リューズは悪戯に引っかかった者を見るような目で、ふふふと楽しげに笑った。
「その氷の蛇はお前の命じることを何でも聞くのか?」
ギリスを見て、父は興味深げに聞いた。スィグルは唖然としてギリスを振り返ったが、傍に座す氷の蛇は無表情な真顔だった。
話は聞いていたのだろうが、極めて素知らぬ顔だった。
「エル・ギリス。呼んで参れ。工人区へ行ってトードリーズを。ここで目通りする」
「ご命令とあらば」
ギリスは真顔で答えた。
もっともなことだ。族長の下命なのだから、ギリスが逆らえるはずがない。
しかし族長リューズ・スィノニムは加えて命じてきた。
「スィグル・レイラス。お前も共にいけ」
父にそう命じられて、スィグルはそれに頭礼して、拝命しようとした。
もともと行くつもりだったし、簡単な命令だった。こちらに否やはない。
それで父の役に立つなら、お安い御用と言えた。
しかし黙っていたギリスが急に喋ったのだ。
「それはダメです。殿下は王族です。工人にそこまでの使者をお送りになるのでは、あまりにも身分を超えます。俺だけでも、十分すぎます」
まるで物事の道理を弁えてでもいるかのような口調で、ギリスが沈鬱に言った。
それに父はかすかに眉を上げて、にやりとした。
「そうか? では、それでも良いが、誰か見張りを付けねば、お前はおそらく行かぬだろうな。イェズラムも自分では行かなかったのだ」
「わがままを言わないでください。英雄はいいけど、王族はダメなんです」
ギリスがムッとした顔で平たく言っていた。
「王族はダメでも英雄ならいいんだろ。そうらしいぞ息子よ。俺はトードと話をつけてきてほしいだけだ。使者は王子でなくてもよい。息子を遣わす」
にっこりとして言って、父はふと気付いたように、自分の座る首座の脇に置いたままだった美しい女面を見た。
そして、それをなぜかスィグルに笑顔で手渡してきた。
「女官でも良いぞ。これをお前にやろう。何でも好きなものになれ、息子よ。時にはその額冠も外さないと、頭が重いだろう」
父がにっこりと言うと、四隅に控えていた赤の兵の一人が、苦しげな咳払いをした。
「分かった時間だな。もう行こう。よろしく頼んだぞ、スィグル。トードリーズに、昔、預けたままの勝負を俺がもらうゆえ、敗北しに来いと言え」
そう言って、父は立ち上がった。
音もなく体重もないような所作だった。長衣の肩に女官の衣を羽織ったままだ。
スィグルは慌てて叩頭した。父を見送るためだ。
首座から立った父は、敷物の上で眠るスフィルを起こさぬようにか、気配の薄い足取りでそこを出て、女官たちに平伏されながら、彼女たちが出入りするための小間の戸をぐぐった。
王族の居室の裏にある、侍女や侍従が使う通用路から来たということだ。
そこ以外に、居室の正面の扉を通らずに中に入る道はない。そこから来たのだと分かってはいたが、なぜバレないのかと思った。
そこは飾り気のない質素な通路だが、見張りの衛兵も立っていれば、行き交う女官もいる。見咎められずに通れる場所ではない。
スィグルもそこを通ったことがあるので知っていた。
衛兵は、部屋を抜け出しても見逃してくれるが、後をついてくる。
子供時代のスィグルが王宮をこっそり徘徊していた時にも、おそらく衛兵がついてきていた。
全速力で走る子供に、重たい鎧姿で付いてきた者たちは、おそらくスィグルを恨んでいただろうが、今はもう誰だか分からない。
父の衛兵たちは忠実なようだった。部屋を抜け出す、元は殿下だった者にも、衛兵たちは大人しく付いてきてくれるということなのだろうか。
そんな簡単なことなのかと、スィグルも驚いた。
父と会うのは何も、壮麗な族長の居室の、気の張る豪奢な居間でなくても良いのだ。
「あはは……」
何かが可笑しくて、緊張が解けたスィグルは笑った。
「あははじゃないよ。お前の親父っておかしいんだよ。何でこんなところにいるんだ」
ギリスが自分の奇矯さを棚に上げて、父を罵っている。
「スフィルに会いにきたとおっしゃってたじゃないか」
「族長が飯も食わずにウロウロするな」
悪態をつく口調でギリスは言ったが、そう言われてスィグルはハッとした。
「昼食を召し上がられていないのではないか?」
空腹かとさっき父に聞かれたが、スィグルは空腹だった。昼食時なのだ。
その時間に抜け出て来てしまっては、父上は空きっ腹で午後の政務にあたることになるのではないか。
それが急に心配になって、スィグルが弟の居室の侍女たちを見ると、おずおずと控えていた女たちの一人が、困ったように口を開いた。
「お召し上がりになりました。……スフィル様と」
気まずそうに女が言った。ギリスを刺した女だ。勇気がある。
「何を召し上がったんだ」
首座にある皿にはスフィルが食っていた生肉が乗っているだけで、他に食べ物らしいものは見当たらない。
まさかと思うが、父がそんなものを食うわけはなかった。
確か、王族は火を通していないものは食べてはならぬ決まりだ。生食は野蛮で、穢れているせいだ。
そう言い伝えられている。
スィグルは怖々細めた目で、丸い皿に僅かに残っている生肉の薄く切ったものを見やった。
嫌な気がした。
口中に唾液が湧いて、思わず溜飲する。
「次は御身分にふさわしい食事の御膳を用意してお待ちしろ」
「申し訳ございません。いつも急においでになるのです」
言い訳する口調で女が反論してきた。
恨みがましい目で思わずそれを見て、スィグルは唇を噛んだ。
「なぜ言わなかった」
「申し訳ございません。口外せぬようにと、きつく……」
女は言いにくそうに口ごもり、なぜかギリスを見た。
その盗み見るような視線を受けて、ギリスが珍しく、明らかな顰めっ面をした。不満そうに。
「誰に言われたんだ。族長にか」
「いいえ……」
ギリスに答える女官の声は、いかにも恐れているふうだ。
今朝方、ギリスに斬首刑をちらつかせて脅しつけられたばかりなのだから、仕方がないだろう。
口をきいてもらえるだけ有難いと思うべきだ。
「誰に言われたんだ。他に誰が知っている」
厳しく問うギリスは、自分が知らなかったことに腹を立てているふうに見えた。
やっぱり怒る時もあるんじゃないかとスィグルは内心思った。
「イェズラム様でございます」
青ざめた顔で、懐剣の女が答えた。
それにギリスはさらに顔を顰めた。
スィグルはその不機嫌な英雄を横目に眺め、確かに氷の蛇だなと思った。
怒っているギリスは苛立って見え、まるで鎌首を上げて餌の鼠を威嚇する毒蛇みたいだった。
もちろんそれは詩的な表現の部類だ。
しかし、ヤンファールでギリスを詩に詠んだ詩人が、これを氷の蛇と名づけたのも理由があってのことなのかもしれない。
「そんなことはイェズは言っていなかった」
「大英雄もお前に何もかもは話せなかったんだよ。父上もそうおっしゃってただろう」
「父上父上うるさい」
ぴしゃりと叩くようにギリスが言ってきた。それにスィグルは唖然とした。
「なんだよその言い方。僕は王族だぞ。いくらなんでも無礼だろ。言葉に気をつけろ」
さして咎める気はなく、スィグルはギリスをたしなめるつもりで言った。
ギリスの口の利き方は、どうしようもないと思えた。
先ほどの族長である父リューズへの軽口も、とんでもなく不敬であったし、今もまだギリスの髪が長く、首と胴がくっついているのは、父上が英雄たちに寛大だからだ。
そうでなければ今ごろ、斬首を命じられて、悪面の魔除けの舞を見ている頃だろう。
首を斬る前に、刑吏は皆の前で踊るものらしい。
不吉極まりない。
スィグルは自分の手にある女官の仮面を眺め、その不気味な想像を追い払おうとした。
そういえば父から直に物をもらったことはない。何かを手渡されたのは、これが初めてかもしれなかった。
それも、何だか可笑しかった。父上からもらった初めての贈り物が女官の面だなんて。
名工が彫ったらしい木彫りに彩色をした美女の顔は、色白で美しく、妖しい笑みだった。
その顔立ちは、王家も属するとされる枯れ谷系統のものだ。そのせいか、女官の仮面なのに、ずいぶん高貴な顔立ちに見えた。
美しい。誰もが一目で見惚れるような、美貌の仮面だった。
せっかく貰ったのだし、ありがたく拝領して自分の居室に飾ろうかなと、スィグルは微笑んで仮面を見つめた。
それとも、これを被れば自分も、枯れ谷のアンフィバロウみたいになれるだろう。
父はそう言いたかったのか。
「ニヤニヤしやがって、何を喜んでるんだよ。気持ち悪いぞお前。そんなもん貰った程度で何が嬉しいんだよ」
怪物でも見るような目でギリスがこっちを見てきた。
嬉しいに決まってるだろう。名君リューズが手渡しでくれた物だぞ。
そう思ってから、スィグルは自分が、本当には父を知らないのだと気づいた。
父リューズ・スィノニムはいつも勇猛果敢な英雄譚の中にいて、常勝不敗の軍を率いていた。
御伽噺の英雄みたいだ。
その勲の中の父を、自分はずっと崇拝して生きてきたのだ。
さっきまでこの部屋の首座にいた人物が、それと同じものなのか、スィグルには分からなかった。
父はスィグルをよく知らないと言っていた。こちらがどんな息子で、どんな王子なのか、父も実はよく知らないのだろう。
そりゃあ、滅多に会いもせず、腹を割って話したこともない同士が、ただ血がつながっている程度で分かるわけがないか。
そう思えて、それも何か可笑しかった。
よく知らないのでは、自分のことを格別の息子と思ってもらえなくても、致し方ないか。
知っていただく。
急にムカっとしてきて、スィグルは仮面を持ったまま、すくっと立ち上がった。
急すぎたのか、ギリスがビクッとしていた。
「行くぞ」
スィグルは命じる口調できっぱりとギリスに言った。
「どこへ?」
ギリスはまだ座ったまま、心持ちのけぞるようにしてこちらを見上げていた。
「工房だよ」
スィグルは当たり前だろうという顔で言ったつもりだった。
ギリスは呆れたような顔をした。
「工房って……お前、星園閥の女英雄たちを自分で誘っておいて、すっぽかす気か?」
それが酷く恐ろしいことと言うように、ギリスが心なしか青ざめて見えた。
そうだった。エル・フューメンティーナ。
スィグルは昨夜見た彼女の優しげな笑顔と細い指を思い出し、困った。
「えぇ……どうするんだよ、こういう場合?」
誰にともなく尋ねたが、侍女たちもギリスも、それぞれが思い思いに青ざめていて、誰も何も答えない。
ただ弟のスフィルだけが、満腹したのか、幸せそうな笑みで眠り続けていた。
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083 道連れ
エル・フューメンティーナには謝るしかないとスィグルは思った。
なにしろ父の命令のほうが大事だ。そのはずだった。
トードリーズへの伝令は特に急ぎではないのだろうが、族長命令なのだ。それよりも私用を優先するというのでは、王族としてもだが、忠実なる臣民としての正気を疑われるだろう。
だからやむを得ないのだ。エル・フューメンティーナも英雄である以上、きっと分かってくれるだろう。
スィグルは弟の居室を出る時にはもう、そのように腹を決めていた。
しかし、まだそわそわと落ち着かない顔の衛兵たちが守る扉を出たところで、ギリスがあっと小さく声を上げた。
黄金虫の紋章が大きく描かれた弟の部屋から見えている場所に、スィグルの居室の扉があり、その雀蜂の紋章の扉の前で、一人の少年がうろうろしていた。
エル・サリスファーだ。
それが翡翠色の石を額に生やした顔で、ギリスと同じように、あっと驚いたようにこちらを見ていた。
「兄者!」
やっと見つけた探し物に安堵したように、エル・サリスファーが駆け寄ってきた。
駆け足と速歩のぎりぎりの境目だった。
走ってはならぬとよほど厳しく躾けられているのか、英雄たちは決まり事に従順に見えた。
そのものすごい速歩に圧倒されて、スィグルは心なしかギリスの陰に隠れてサリスファーが来るのを待った。
「星園閥と話がつきました。第十八魔洞で殿下をお待ちすると、エル・フューメンティーナからのお返事です。いつでもお越しくださいと」
まず深々とこちらに立礼してから、サリスファーは熱意の感じられる、きびきびした口調でギリスに報告した。
いかにも忠実な弟という感じで、スィグルは内心、目を丸くした。
ギリスってそんなに偉いのか。英雄たちの間では。
スィグルには、ギリスはいつもぼうっとして見え、時々、破天荒だが、ちょっと年上なだけの少年だと思えていた。
トルレッキオ学院ではこのぐらいの年頃の学生は大勢いたし、彼らも常に威張っていたが、なにしろ第四大陸でもっとも偉いはずの天使と普段から居慣れてしまったスィグルには、大抵の者が大して偉いとは思えなくなっていた。
でも、偉いのかもしれなかった。エル・ギリスは。こう見えて、こいつもたぶん救国の英雄の一人だ。
こんなに若年なのに、スィグルの祖父、暗君デールが生涯をかけても成し得なかった、ヤンファールの守護生物の撃破を成し遂げた。
それによって自分たちは、領境を森の果てにまで一旦は押し戻すことができたのだ。
それを成し遂げた者が、仲間の英雄たちに尊敬されないはずはなかった。
「それがな……サリス。殿下に他に用事ができちゃってな……」
ギリスが弟に近寄っていって、こそこそと言いにくそうに説明していた。
あまり偉そうには見えない。
「えぇ……?」
サリスファーは悲壮な顔で小さく答えていた。
ギリスはそれに頷いて見せて、小声で付け加えた。
「どうしても別のところに行くって殿下が聞かないんだ。やっぱり今日は無しだって、フューメに伝えてくれよ」
「無理ですよ。兄者、せめて自分で行って伝えてください。僕が行った時はもう、エル・フューメンティーナも妹たちも、なぜか知っていて、ものすごく盛り上がっていたんですよ。ものすごく楽しみにしてますよ、あいつら」
サリスファーは小声で早口に、ギリスにだけ伝えているつもりのようだったが、少し離れている程度では、スィグルには全部が聞こえた。耳が良いのだ。
何かがいたたまれない。
「誰か死んでもいいような奴を選んで、断りの伝令に送れ」
ギリスは顰めた声で弟に教えている。
「それ誰なんです!?」
泣きつく声でサリスファーがギリスに尋ね、顔を背けるギリスの長衣の袖を握っていた。
「ダメですよぉ、あいつらもう弁当作ってます」
それがもう決定的だという口調でサリスファーがギリスに囁いていた。
「弁当?」
ギリスが悩む顔で不思議そうに言った。
「手作りらしいですよ。あの女英雄、料理ができるんです!」
それが恐ろしいことのように言うサリスファーに、ギリスも困惑の表情だった。
「死ぬような料理か、エレンディラみたいな?」
「違いますって。美味いんですよ、本当に。僕らも皆、毒見させられました。めちゃくちゃ美味いんですよ」
信じられないことだというふうに、サリスファーは青ざめて注進している。
それを聞き、ギリスも険しい顔になったようだった。
「もう食ったのか!? どういう神経してんだお前、兄である俺が飯も食わずに働いてんのに」
「すみません……」
叩頭していいなら、ここで跪拝しそうな声色で、サリスファーがひそひそとギリスに詫びている。
スィグルはそれを一人で廊下に立って、紅の衛兵たちと聞いていた。
「殿下から昼食のお誘いがあったので、星園閥を上げて歓待のため、厨房で腕を振るったらしいです。料理する連中なんですよ。知ってました? 魔導訓練もしたいと伝令したら、それなら野戦用にってエル・フューメンティーナの姉たちが言い出して、料理を急いで弁当に詰め始めたんです」
「俺らが知識の晶洞で馬鹿の扉をくぐってるうちに、あっちじゃ、そんなことになってたのか」
いかにも不思議だというように、ギリスがしみじみと感想を述べていた。
「これでもし急にすっぽかしたりしたら、エル・フューメンティーナの顔は丸潰れですよ。せっかく帰還式の行列にも来てくれる手筈なのに……」
スィグル以上に困っているように、サリスファーは青ざめて困っていた。
そんなに気苦労をかけていたとは、スィグルはさらに居所のない気分になってきた。
「わかった。もう言うな」
ギリスは小声でまだ何か説明していたサリスファーの口を押さえて、急にこちらに向き直り、咳払いして戻ってきた。
「あのな、スィグル」
「全部聞こえたよ」
ギリスがなんと説明するつもりなのか、手間を省いてやったつもりだ。
サリスファーも困り顔で、少し離れた場所から、おろおろとこっちを見ている。
様子をうかがう小動物みたいだった。枯れ野でこちらを警戒している時の、穴兎の見張りのやつみたいだ。
「あのな……行った方がいいと思うんだ。飯だけでも」
ギリスはこちらにも、ひそひそと話してきた。無表情にも見えたが、ギリスも一応困っているらしかった。
紅の衛兵たちも気まずそうに聞いている。
もしや、断ってはならぬのかと、スィグルも戸惑った。
しかし、早くトードリーズに会いたい。のんびり飯を食ったり、念動術の訓練などをやるより、この際、まずは工房に行くべきだろう。
「魔導訓練もするのか?」
どうするんだよという気持ちで、スィグルはギリスに尋ねた。
年長者なのだから、ギリスが何か作法を弁えているにちがいないと思ったのだ。
「それはまたにしようって、お前が自分で話せ。大事な急用ができたって。あいつらも英雄だ。王族に逆らったりはしないだろう」
「お前の口からそんなこと言われるとは意外だよ」
ギリスが言うにしては、もっともな話に思え、スィグルはたじろいで答えた。
「俺も、お前がそこまで気を使わない殿下だったとは、意外だよ」
まるで自分は誰かに気を使っているみたいにギリスは言っていた。
先ほどサリスファーに話していた時のように、ギリスは間近の距離からこちらを見下ろすようにして、ひそひそと言ってきた。説教するみたいに。
「工房に行く前に、まず相談しよう。その方がいいと思う」
ギリスは苦い顔をして、そう提案してきた。
「誰にだよ」
スィグルはぽかんとして聞いた。
「兄にだよ! ジェレフはもういないし……こうなったらあいつだ。エレンディラ」
スィグルの想像を絶する者の名を、エル・ギリスは挙げてきた。長老会の女長だ。
呆れた気分で、スィグルはギリスの顔を見上げた。
なぜ僕がエル・エレンディラに相談するのか。長老会の者に?
父上が誰と会おうが、僕がどこへ行こうが、そんなものは自由だ。
何しろ族長の遣いだ。ギリスだって父上から直々に命令を受けたではないか。
この部族でもっとも偉い者の命令を実行するのに、一体誰の許しがいるというのか。馬鹿馬鹿しい。
そういう、ムカっとした顔を自分は見せたのだろうか。ギリスは困り果てたように見えた。
「考えろって。なんでイェズラムがあの工人と族長を会わせないようにしたか、何か理由があるよ、スィグル。けど俺は知らないんだ。教えてもらってない。でもエレンディラなら知ってるかもしれないだろ」
「知りたいなら、今から墓所にいってイェズラムの石に聞け。僕はエル・フューメに詫びてから、トードに会いに行くよ」
「スィグル……」
頑固な驢馬か砂牛でも見るように、ギリスは名を呼んできた。
「来ないなら来なくていいよ」
むかむかしてきて、スィグルはギリスをその場に放置して歩き出し、離れて待っていた心配げなエル・サリスファーの方へ行った。
「使いに走ってくれて、ありがとう。エル・フューメンティーナに会いたい。連れて行ってくれるか」
「はい殿下」
青い顔だったが、サリスファーは素直に返事をしてきた。
英雄とは、家臣とはこういうものではないかと、スィグルには思えた。主君の命令には逆らわないものだ。
そういう者が欲しいのか、自分でもよく分からないが、ギリスはいちいちおかしい。
こんな変なやつじゃなく、長老会がもっとマシな射手を寄越していたら、僕ももっと信用しただろうに。
ヤンファールの戦いで戦功があったせいで、彼らはギリスを選んだのか。
それなら、特に武功がなくても、このエル・サリスファーや、知識の晶洞で道を見つけてきてくれた透視術師のエル・ジェルダインみたいな、歳近く思慮深いふうな子たちのほうが慕わしかった。
もしかして年上でないといけないのだろうか。射手は新星の兄だからか?
伝承ではアンフィバロウの双子の兄なのだから、同い年でないとおかしいだろうに。いろいろと辻褄が合わない。
射手だとか兄だとか、彼らの言い分にまともに取り合うことはないと、急にそう思えてきた。
長老会がどう思っていようが、彼らは竜の涙の長に過ぎず、その主君である王族が取り合うようなことではない。
大体、彼らの前の長であったエル・イェズラムも、父リューズに対して不遜であったようだ。
自分には、イェズラムは頼りがいがあって優しく、そんな嫌な人とは思えなかったが、旅の道連れとしてはそうだった彼も、父の宮廷では違ったのかもしれない。
父が言うように、彼はもう死んだのだ。
大英雄の死を民も宮廷も悼んだが、もういない人のことを常に慮る必要はあるまい。
「行こうよ、サリスファー」
不機嫌そうなギリスのことを気にして眺める翡翠の石の少年に、スィグルは歩き出すよう促した。
「はい……お供します」
さっさと歩き出すスィグルに、サリスファーは仕方がないように付いてきた。
そっちではないと言わないところを見ると、スィグルが当て推量で歩き出した方向は、正しかったようだ。
スィグルの後をついてきたのはサリスファーだけで、ギリスはまだ黄金中の扉の前にいるままだった。
長老会の部屋は玉座の間の側にあるはずだ。そこにいるエル・エレンディラに会いたいのなら、行く方向が逆だということだろう。
こんな簡単に道が分かれるとは、ギリスの忠誠心などたかが知れている。
あいつは結局、僕に仕えてるんじゃなく、長老会の者なのだろう。
もっと言うなら、エル・イェズラムの亡霊に仕えている狗なのだ。
なんでそんな者が、ずっと僕の味方をしてくれるのかと、スィグルには分からなかった。
自分は亡き大英雄に肩入れされるような、どんな功績があったというのか。
もしや人質のことかと、スィグルには不思議な気がした。
こちらが思っていた以上に、スィグルが部族のための人質となったことを、大英雄は重く見ていたのだろうか。
だが、自分が明日にも殺されるかもしれない場所へ、自ら出向くことにしたのは、どうせそうなるに決まっていたからだった。
人質にやる王子を籤引きで決めさせるというが、忍び込んで籤を見てみたら、そのほとんどにスフィルと自分の名が書かれていた。
その筆跡はいろいろだったが、皆の意見が、末子の双子のどちらかが死ぬべきと告げていた。
そうだろうなと、少々の衝撃とともに眺めた。
その時は、なぜあの籤の部屋に簡単に入れたのか、分からなかった。
扉を開くように命じると、衛兵が額冠に恐れ入ってスィグルを室内に通したからだ。
王族の命令だったからなのだろうか。それだけではなかったのではないか。
実はあの部屋には誰でも入れたのではないか。
籤に書かれた王子の名を書き換えたい者は、誰でも入ることができ、その大勢によって選ばれたのが、自分と弟のスフィルだった。
もし、あのまま籤引きが行われたら、スフィルが人質としてトルレッキオ学院に送られ、そこで死んだかもしれなかった。
一人で学寮の部屋に置き去りにされた気の狂ったあいつを、一体誰が世話してくれただろうか。
優しいイルスやシェル・マイオスが、あいつに餌をやってくれたかもしれないが、弟がそれを理解して受け入れたかはわからない。
そもそも、そんな僅かな希望さえ、あの時、あの籤の部屋に立っていた時の自分にはなくて、弟はまた遠い敵地で泣き叫び、飢えて死ぬのだとしか思えなかった。
一人で。誰にも惜しまれることもなく。
自分は、その空想に耐えられなかっただけだ。
弟でなく自分が行けば、次こそは、誇り高く自決して果てる覚悟だったし、死ぬ前に敵に一矢報いることだって、少々ならできる。雪辱するのだ。そういう思いで紙切れに自分の名を記し、弟の名前のものと入れ替えた。
だから、あの時、玉座の父がどの籤を引こうが、自分が選ばれると決まっていたのだ。
そんなことをしたのが正しかったのかどうか、今はもう分からない。
トルレッキオは、ヤンファールを超える地獄だったか。
そんなことはなかった。
自分は実はただ、そこへ行きたかったのではないか。
本音ではそう願い、弟の機会を奪ったのだろうか。天使に会うために。
どうせ死ぬなら、そこで天使に謁見し、まだ生きている身で直に罪の許しを乞いたかったのかもしれない。
弟と自分の、魂の救済が欲しくて、同じ死ぬなら良い条件に思えたのかもしれなかった。
それをイェズラムは、第十六王子の健気な献身と思ったのだろうか。
そうだとしたら、大英雄の目も、ずいぶん曇っていたと言わざるをえない。
ただの人質でしかないなら、自分も他の兄弟たちと同じように、誰かに押し付けて逃げようとしただろうか。
それが意味するのが、弟の死でも……?
でも、そんなことで族長になれるなら、誰だってトルレッキオに志願しただろうと思えた。
終わってしまった今だから言えることだが、どうせ死ぬのが殿下の定めだ。急死に一生を得る機会が、あの山々での一年にあったというなら、スィグルにとっては割りの良い買い物だった。
皮肉だな。もしもそんなことで僕に敗れるなら、絹布を賜る兄上たちは皆、悔しがるだろう。
あの時、自分の名の籤を弟に入れ替えさせるのではなかったと。
しかし未来は、誰にも分からなかったのだ。あの時には。
「殿下……兄者は、来ませんね」
エル・サリスファーが言いにくそうに、スィグルに付き従って歩きながら、おずおずと伝えてきた。
「別に構わない。僕はもともと一人で行動するのが平気な質なんだ」
高貴に取りすまして、スィグルは言った。
サリスファーは気まずそうにこちらを振り向いた。
「僕も、お邪魔でしょうか」
「そういう意味じゃないよ」
心配げに言うサリスファーに、スィグルは苦笑して答えた。
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084 恩人
サリスファーが心配しているのは、スィグルの邪魔になることではなく、自分の兄を差し置いて殿下の供 をさせられていることだろう。
彼らの結束の邪魔をして悪かったのかもしれないが、第十八魔洞がどこにあるのか、スィグルにはまだ確信がなかった。
地図上で記憶しているだけの場所を、うろうろ探して歩くより、英雄たちの使う区画の案内は、当の英雄たちに頼むべきだろう。
「兄者の……エル・ギリスのご意見を、お聞きにならなくていいのでしょうか。僕にはご事情はわかりませんが、エル・エレンディラにお会いにならなくて良いのですか」
サリスファーは控えめにだが、それにしては明らかに、長老会のご機嫌を伺えという意味の話をしてきた。
そういう意味では、この少年もエレンディラの配下の者で、ギリスと大差ない立場だと言えるのだろう。
さっきまでは同じ茶の衣を来て、知識の晶洞にいたはずだが、自分たちは同じではない。
それに少々がっかりして、スィグルはため息とともに答えた。
「どうぜ今ごろギリスが告げ口に行っているんだろう?」
尋ねたが、スィグルは確信していた。
ギリスはこちらと別れた後、すぐに長老会の部屋へ叩頭しに行っているはずだ。
スィグルはその部屋を見たことはないが、皆は暗い鈍色の部屋だと言っている。
そこで居並ぶ大英雄たちに跪拝するギリスの姿が目に浮かぶようで、スィグルは気が滅入った。
彼も、自分と同じではない。同じ都合で動いてはいないのだ。
そう思うと、スィグルはそれにもなぜか、がっかりとした。
別にそんなこと、ギリスに期待はしていなかったが、それとも何か期待していたのだろうか。同じ目線で心許し合える相手だと思いたかったのか。
スィグルと話すエル・サリスファーも、どことなく心苦しそうだった。
「エル・エレンディラは殿下の後見でもあるお方です。昨日、お部屋に銘茶をお届けしましたよね」
「新星昇る」
スィグルがその茶の銘を答えると、サリスファーは無言で深く頷いていた。
確かに、昨晩、部屋にそれが届けられていた。女英雄からの贈り物として。
晩餐の席でも、女英雄が手ずから淹れた熱い茶が振る舞われ、それによって自分は無事、玉座の間への帰還を果たし、殿下としての面目を再び得たのではなかったか。
父上に帰還式をするよう提案してくれたのも、あの女英雄だったのかもしれない。
その女英雄と自分を繋いでくれたのはギリスで、彼の功績だっただろう。
ギリスには礼を言ったが、エレンディラには確かにまだだ。
会って礼を述べるべきだろう。
ギリスが先ほどそのことを言っていたとは思えないが、それも疎かにはできない礼儀だった。今後も女英雄からの庇護を得たいのであれば、彼女を疎かにするのは愚かだ。
自分は一体何からやればいいのか。あまりにも様々な事が同時に起き過ぎて、分からない。
ギリスが現れるまでは、全てが死んだように停滞していた一ヶ月だったのに、時がなくなる魔法にでもかけられたかのように忙しく目まぐるしい。
まるで玉座の間の宝物のあの時計が、いつもの何倍もの速さでぐるぐると回っているかのようだ。
「余程お急ぎの御用事ができたのですか」
どうしても行くかと問いただすように、サリスファーが尋ねてきた。
スィグルを思いとどまらせようとしているのだろう。それが、兄であるギリスの意思だからだろうが、弟とは便利なものなのだなと、スィグルは感心した。
自分がその場にいなくても、代わりに意思を実行してくれるのだ。
ギリスも、恐らくそうなのだろう。死んだ大英雄の遺志を実行するために遣わされてきたのだ。
死者が生者に命じられるわけはない。イェズラムは死ぬ前に、ギリスに何か命じて逝ったのだろう。
新星がどうのこうの。ギリスもずっとそう言っている。
それが奇妙だとは、あいつは思っていないのだ。
もはや死霊となった者に動かされている自分のことを、不思議にも思っていない。
「父上からのご命令があったんだ。使者に立つ。ギリスも一緒にだ」
スィグルは歩きながら不安げにこちらを見ているサリスファーと見つめ合って、それを教えた。
小英雄は困ったような顔になった。族長命令が絶対であることは、もちろん知っているのだろう。
それが兄や長老会に優るか、サリスファーは悩んでいるのだろうか。
なぜ悩む。
スィグルは淡く顔を顰めて、サリスファーを睨んだ。
「どちらへですか」
行き先によると思っているのか、サリスファーは小声で聞いてきた。
「それは言えないけど、とにかく大事な用だ。父上がお待ちだ」
とにかく行くのだと分からせたくて、スィグルは顎を上げて毅然と伝えたつもりだった。
それを聞き、サリスファーはやっと頷いてくれた。
何がなんでも殿下は行くのだ。それが彼にも納得できたらしい。
「わかりました。それをお伝えになれば、星園閥の者たちも納得します。でも、エル・エレンディラは違うんでしょうか? 兄者ともう一度よくお話しください」
食い下がる口調になるサリスファーの悲しげな声に、スィグルも困った。
しつこい奴だな。これが魔法戦士の忠誠か。
もしその忠誠心の熱い矛先が、ギリスではなく自分に向けられているなら、これほど役に立つものはないだろう。
でも違う。こいつはギリスの狗だ。ため息しか出なかった。
「エレンディラやギリスがどう思うかなんて、そんなことは関係ないんだ。僕は命令を果たすだけだよ、サリスファー」
「でも兄者は先にエル・エレンディラに会うほうがいいとお思いに。何かお考えあってのことかと」
サリスファーは恐縮したふうに、それでも案外はっきりと言ってきた。ギリスの言うことを聞けと。
よくも王族である僕にそんな事が言えるなと、スィグルは少し呆れてサリスファーと向き合った。
怒ったほうがいいのだろうか。そう思えてきた。
しかし、スィグルが何か思いつくより早く、サリスファーがまた言葉を続けた。
「ギリスの兄者は子供の頃から、とても頭が良い人と聞いています。僕も最近まで、もっと秀才みたいな人かと思ってたぐらいです。子供部屋の頃から長老会に出入りして、元服後も学房ではあっという間に修了してしまったので、兄者と親しい小英雄はいません。僕らには近寄り難い人なんです。ああ見えて、ずっと前からもう大人です、ギリスの兄者は」
ああ見えて。
どう見えているのかと、スィグルは問いたかったが、サリスファーは必死の顔をしていた。
「殿下。兄者はあんなふうですけど、史学の師父にも半刻ほど話した程度で話をつけてしまいました。僕らはこれまで長く師父の講義を受けてきましたが、あんな話は一度も教えていただいていません。今日のお教えは、おそらく殿下だからでしょうけど……でも、その話を通したのはギリスの兄者ですよ。僕ら、それを横で見ていました」
それが奇怪なことと言うように、サリスファーは少し気味悪そうにも見えた。
部族の秘儀が眠るという知識の晶洞に、サリスファーはよほど驚いたのだろうか。
でも、あれは写本だったのだ。学房が残したもので、本当の話か分からない。スィグルにはそう思えた。
千年前から生きて、アンフィバロウやディノトリスを実際に見た者は誰もいないのだ。記録だって後から作れるだろう。
ギリスはサリスファー達ほどには、驚いたようではなかった。
あいつがあの書庫を見てどう思ったか、そういえば聞いていなかった。
もっと話すべきか。あいつの弟が執拗にそう勧めるぐらいなのだから。
「いろんな意味で、兄者は普通じゃないんです。たぶん」
「いろんな意味で」
「良くも悪くもですが」
申し訳なさそうに言うサリスファーの顔が、何かに懲りているようだったので、スィグルは少々吹き出すように苦笑いした。
「詳しいんだな。ギリスと長い付き合いか」
「いいえ。子供部屋は同じでしたけど、兄者は僕を憶えていませんでした。でも命の恩人なんですよ」
「そうなの?」
スィグルが尋ねると、サリスファーは苦笑して頷いていた。
「はい。僕が飴玉を喉に詰めた時に、兄者が逆さ吊りにして背中をぶっ叩いてくれました」
「そりゃすごいよね」
その有様を想像すると可笑しい気がして、スィグルは微笑んだが、たぶん笑い事ではなかったのだろう。
サリスファーは困惑の表情だった。
「もし誰もそうしなければ、僕は施療院に運ばれる頃には窒息して死んでただろうって言われました。兄者が命の恩人です」
じっと床を見る目で歩きながら言って、サリスファーは迷ったふうに、意を決してこちらを見た。
「殿下にも、ギリスの兄者は命の恩人ではないですか? 兄者はヤンファールで殿下のために、一度は死ぬ覚悟をしたお方です。そのつもりでお話しなさってください」
じっと見つめて言われ、スィグルは言葉がなかった。
どう思っていいのかも分からない。
なんで僕はこいつに諌められているのか。そんな間柄だったか。
ほとんど初対面じゃないか。
初対面の奴にすら説教されるほどの悪手だったということか、さっきの事は。
しかし今さら戻って、ギリスを追いかけるのも変だ。格好がつかない。王族として。いや、自分としてはだろうか。
「わかった。よく考えておく。でも今は、エル・フューメンティーナに会いに行くよ。今日のことを断らないといけない」
スィグルは歩きながら前を見て、エル・サリスファーを見ずに答えた。
「はい」
納得したのかどうか、全く定かではない声で、サリスファーは素直に返事をしてきた。
でも全く、素直でもなんでもない奴ではないか?
英雄たちは一筋縄でない。
平気で僕に口答えしてくる。こんな大人しそうな奴でさえ。
どういうことなんだ。
内心そう思い動揺したが、その戸惑いの中で、先ほど弟の居室で父が笑って尋ねてきたことを思い出した。
ギリスは命令を聞くのかと、父は聞いてきた。
英雄を御するのは簡単ではない。父上はそうお思いなのだろう。
言うことをきけと命じた程度で、素直に言うことをきく連中ではないのだ。
ギリスのように、武功を挙げて、弟たちの命を救う英雄でなければ、誰も言うことをきかないのだろう。
特に何の功績もない、ただ英雄たちに救われただけの弱輩スィグル・レイラスには、このままでは誰も従ってくれないのではないか。
「ねえ、サリスファー……君はギリスが命の恩人で、ヤンファールの英雄だがら、彼に忠誠を誓ってるということか?」
「はい? ええまあ、基本はそうですけど。今は僕の兄なんです、本当に。前の兄上に捨てられてしまって」
意外な話に振り向いて見ると、サリスファーはそれが困ったことのように苦笑して言っていた。
「だから、しょうがなくです。派閥では兄のご命令は絶対なので」
「じゃあ、君も納得してないの⁉︎ ギリスが言うことに嫌だけど従ってるってこと?」
スィグルは思ってもみない答えに驚いた。唖然と見るこちらに、サリスファーは申し訳なさそうに手をぶんぶん振って否定していた。
「違います。本当に。嫌かと言えば嫌な時もあるんですけど、でも、しょうがないんです。ギリスの兄者はあんな人だし、放っておけないですよね。それに面白いから」
「面白い?」
スィグルはどこか悲壮な気持ちになってサリスファーに聞いた。
どこが、面白いんだ、あいつの?
「殿下は面白くなかったですか。知識の晶洞」
意外そうに、サリスファーは首を傾げ、曲がり角の道案内をした。
後に付き従っているようでいて、サリスファーは巧みに要所要所でスィグルに道を教えてきた。
それがいかにも卒がなく、頭のいい様子で、そんな子がギリスに仕えるのは大変だろうと思えた。
サリスファーはギリスのことを頭がいいと言うが、あいつは時々すごく馬鹿みたいに見える。
「面白かったかもしれないけど、あれは難問だよ。今さら部族の伝承を書き換えようなんてさ、無理だろう。学房がまさかそんな事を考えてたなんて」
「そうですね。ギリスの兄者に連れて来られなかったら、僕ら一生知らないままだったでしょう。驚きました」
「知ってもどうしようもない事だよ」
「詩殿には、もう何かお尋ねを?」
期待を込めた顔つきで、サリスファーがわくわくした風に聞いてくる。
それに、えっと思い、スィグルは答えに詰まった。
「いや……あいにくまだ」
「いらっしゃる時、もしもお許しいただけましたら、僕にもお供をさせてください!」
飛びつくように頼んでくるサリスファーの元気の良さに、スィグルはじわっと懐かしくなった。
こいつ、似ている。シェル・マイオスに。何かが。
そんなことは、森の守護生物との戦いに命を捧げる彼らに言うべき事ではないのかもしれないが、サリスファーの性格はどこか、スィグルに懐かしい森の友を思い出させた。
「この僕を殿下に引き合わせてくれたのも、ギリスの兄者です。お役立てください殿下」
サリスファーはにこにこして、スィグルにそう言った。
「僕なんか特に、もうギリスの兄者に着いていくしかないんです。兄者と同様、殿下の僕です」
それがもうどうしようもない事のように言い、サリスファーは笑っていた。
スィグルには彼らの心理が全く分からなかった。
一体どういう生き物なのだ、英雄とは。
同じ男でも分からないのに、これから会うのは星園閥だ。
正直言って、スィグルは女英雄と口をきくことは滅多になかった。稀に行き合って挨拶する程度しかない。
しかし彼女らも女官や母上たちと同じ女だ。
長衣を着て大魔法を振るう魔法戦士だというだけで、根本的にはただの女だろう。
なにしろ料理もするのだというし、案外、可愛らしい人たちだろうか。
いっそギリスたち髑髏馬閥より、優しくて付き合いやすいのではないか。
そう期待して、スィグルは歩きながら彼女たちに伝える口上を練った。
急なことで済まないが、父上から大事な用を仰せつかったゆえ、本日は挨拶のみにて失礼したい。
魔導訓練はまた後日、改めて。
それでいいのではないか?
畏まりました殿下と、言ってくれないだろうか、優しいフューメンティーナは。
「殿下、こちらが魔導訓練をする洞窟です」
サリスファーが英雄たちの屯する通路の奥の、大きな洞窟の入り口にスィグルを連れてきてくれた。
それは天然の洞窟で、入り口には大広間に入るような大扉が造り付けられていた。
両開きのそれを押し開いて中に入ると、中は広大な空洞で、高い天井は暗く陰って見えないほど高く、岩が剥き出しの洞内には大きな焚き火のような鉄枠の暖炉が、照明のために幾つも燃やされていた。
そこに色とりどりの長衣の女たちがいた。
女ではない。星園閥の英雄たちだ。
ざっと見渡しただけで二十五人はいた。
もちろんフューメンティーナもいた。
洞内の奥まった広間のような場所に、念動術師らしき年少の妹たちと共に。
「さあさあ姉様の番ですわ!」
踊るように飛び跳ねて裳裾をヒラヒラさせている少女が、楽しげな大声でフューメンティーナを囃し立てていた。
その後ろ姿をスィグルは洞窟の入り口から見つめた。
広間には傷だらけの巨大な円柱のようなものが立っており、その天辺には石で彫られた羊の像が乗っていた。
柱の羊と呼ばれる遊戯で、スィグルも幼い頃に弟と遊んだ。
輪切りになっている円柱が七段積まれて高い柱になっており、その一個一個を横から木槌で叩いて抜く遊びだ。
素早く打てば、途中の支えを失っても柱は倒れず、落ちてきた上段が下の柱に乗って、段々と短くなっていき、最後に羊を地に降り立たせ助け出せるというものだ。
実際にはもっとずっと小さい、子供の手で積めるような玩具のはずだ。
だが洞内にあったのは、見上げる高さのもので、一個一個の短い柱も大理石造りで、人の手では到底持ち上げることもできない重さだろう。
どうやって積み上げたのかと思うが、聞く必要はなさそうだった。
エル・フューメンティーナが念動術で、直径が彼女の身長よりも大きな岩の塊を宙に浮かせていたからだ。
ああ……そうやって積んだのかなと納得するスィグルの見ている前で、フューメンティーナはその大岩を振りかぶって反動を与え、ガツンと容赦なく石柱にぶつけた。
積まれた柱の一つが、大岩に弾き飛ばされて洞内を横様に吹っ飛び、ものすごい音を立てて岩肌に激突していた。
「危ないわフューメ、手加減なさい」
「タンジールが壊れるわよ」
石柱の立つ広間から離れて屯していた年上の女英雄たちが、優雅な口調で妹を嗜めた。
危ない遊びだ。飛んできた岩を浴びせられないよう、離れているのが良いだろう。
それでも女たちは寛いだ様子で、おしゃべりに興じていたようだった。
「ごめんなさい姉様、魔力が出過ぎましたわ」
楽しげな口調で振り返って言い、フューメンティーナは笑っていたが、ふとこちらに気づいた。
「まあ殿下!」
優雅な細い指でフューメンティーナが口元を覆い、驚く仕草で言った。
柱の羊に気を向けていた女英雄たちは今やっと王族の殿下に気づいたようだった。
驚いて気が散ったフューメンティーナが持ち上げていた大岩を落とした。
ずしんという腹に響く音が聞こえた。
「やあ……エル・フューメンティーナ……」
スィグルは振り返って立礼する星園閥の者たちと遠目に向き合った。
もちろん皆、額や頭のどこかに結晶のような石を生やしていた。
竜の涙だ。全員が魔法戦士で、なんらかの魔法を持っている。
だいたいの場合、攻撃的な。
そういう術者を選んで生き残らせているせいだ。
彼女らは……彼らは、と言うべきか。そうやって選りすぐられた魔法戦闘のための戦士たちだ。
「ご機嫌よう、殿下」
「ご機嫌よう」
年嵩の者たちが、ひどく落ち着いた声で挨拶をしてきた。
皆、美しく男装し、華麗に化粧した者たちだ。父に仕える英雄たち。
スィグルはその優雅で優しげな視線に、俄に緊張した。
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085 星園閥
深々と首を垂れて立礼をした女英雄たちの華麗な髪飾りを眺め、スィグルはそれにどう応えるか、内心のどこかで狼狽えていた。
女たちは同時にではなく、ゆったりと波を打つように一人一人お辞儀から顔をあげ、その美しく化粧した顔を見せてきた。
まず最初に顔を上げたのが、この者たちの中で最も序列が高いのだろう。明らかにそうだと分かる明確な序列が、居並ぶ彼女らの立つ場所にも、立ち居振る舞いにも感じられた。
年上の英雄たちは上等の絹織物の長衣を纏い、それでいて袖口からは女官や後宮の妃たちのように、細かな襞のある透ける薄絹の飾り袖を垂らしていた。
長衣の裾から見える襦袢も、今にも開く大輪の花の花弁のように広がり、たっぷりと襞を畳んである。
それでは戦えないのではないかと思えたが、女英雄たちは女官のように楚々とではなく、胸を張って堂々と立ち、いつでも応戦するというように、それぞれが抜刀できる距離をとって並んでいた。
もちろん帯刀している。飾り緒と玉のついた美しい剣だが、鞘の中が空には見えなかった。
英雄たちは帯剣を許されているので、女英雄も帯剣するのだ。当然のことだった。
だが、まさか斬りかかっては来ないだろう。
「お待たせしただろうか」
誰に言えばいいのか、スィグルは戸惑って、笑顔で居並ぶ女たちの中の、一番序列が高そうな者に尋ねた。
「いいえ、殿下。皆で魔導訓練をしておりましたゆえ、ちっともお待ちしたという気はいたしませんでした」
仮面のような白く塗られた笑顔で、目尻に紅い化粧をした女英雄が答えた。
黒曜石のような煌めく黒い石が額に生えている。
左右に二つ。それが角のように見え、少々怖かった。
「フューメンティーナ。殿下にご挨拶を」
角のある女がエル・フューメンティーナを呼び寄せた。
優しげな美しい顔で、フューメは軽やかに走ってきて、姉たちの並ぶ前にやって来ると、もう一度スィグルに頭を下げた。
結いあげた黒髪に、黄水晶の芯を持った白い花の簪を挿している。
それと同じ簪を、角のある女も挿していた。
偶然ではないのだろう。
フューメンティーナは角の女のすぐそばに立っていたし、年上の女英雄は親しげにフューメを眺めている。
「レイラス殿下、星園閥にご来臨いただき光栄でございます。こちらは私の姉、エル・エンディミーナでございます。当代一の念動術の使い手であり、七腕のエンディミーナと詩人が英雄譚に詠むお方」
「そんなことまでお伝えせずとも良い」
嗜める声で角のある女は言ったが、妹の口上が気に入ったようだった。そういう顔をしていた。
「なぜ七腕のエンディミーナと?」
スィグルは聞くのが礼儀かと思い、興味深く尋ねた。実際、知りたくもあった。
「大した理由はございませぬ。七つまで持てるからですわ」
にこやかにそう言って、角の女は首を傾げた。
女が何かしたようには見えなかったが、驚いた顔でフューメンティーナが宙に浮いた。見えない腕で抱き上げられたみたいに。
あらまあと微笑む声で驚き、角の女と並んでいた女英雄たちが、あと六人、ふわりと同じように宙に浮いた。
皆、怖がる様子はなかったが、念道術がそれほど繊細な力加減のできるものとはスィグルには思えなかった。
吹っ飛ばされたり、捻り潰されたりしないのか、ひやっとする。
「ご覧のように、妹たちを七人まで抱き上げられるのです。子守には向いておりましてよ」
「もう子供ではございません、姉上」
空中で袖口をひらひらさせながら、フューメンティーナが心外そうに言った。
それに笑って、七腕のエンディミーナなる者は妹たちをそっと地に下ろした。
絶妙の制御だった。
自分も同じ念道術を使うがゆえに、スィグルにはその技がいかに凄いかがわかった。
しかも、彼女がいつ魔力を振るったのかも分からない。
英雄の称号はタダでは得られぬものだ。石を持って生まれただけでは、大人になるまで生きられない。それが竜の涙というものだ。
分かってはいたが、女たちは皆、優雅で優しげに見えた。
「殿下に我が妹、エル・フューメンティーナを差し上げます。ご随意にお使いください。フューメもお仕えでき喜んでおります」
「そうだろうか」
スィグルは素直に喜んで見せるのも違う気がして、戸惑って答えた。
「この派閥より幾人か、僕の帰還式の行列に加わってくださるとか。なぜですか」
「殿下を再び王都にお迎えいたしたく」
角の女が答えたが、皆が一様に優雅な笑みで頷いている。
「なぜ?」
聞いても答えないかとは思ったが、スィグルはもう一度尋ねた。
角の女はクスッと笑って、どうもやっと本当に笑ったようだった。
「なぜ? リューズ様のご命令だからでございます。我らの長姉も、そのようにと」
「エル・エレンディラか?」
当て推量でスィグルは尋ねた。
何となくだが、そういう気がしたのだ。
彼女たちがスィグルの帰還式に加わると申し出てきたのは、晩餐の席でエレンディラがスィグルの味方をしてくれた翌日のことだった。
それまでは一面識も無かったこの星園閥の連中が、急にスィグルに忠誠を誓うというのは、何か理由があってのことだ。
そうだというのを否定する気はない様子で、角のある女はにっこりとした。
「他にどなたが、わたくし共にご命令なさるでしょうか?」
「なぜエル・エレンディラが僕を支持してくださるのか」
この女に聞いて分かるわけがないと思えたが、聞かずにはおれない気がして、スィグルはつい尋ねた。
「さあ、それは? わたくし共は存じませんが、姉のご命令は絶対のものです。それが英雄の性分でございますゆえ」
本当とも誤魔化しともつかないことを、女英雄は答えた。しかし理由はあるはずだ。答えたくないのだろうか。
「殿下」
星園閥の女たちは、優しげだが無遠慮な視線でスィグルを見つめていた。
「その、ご衣装でございますが」
袖で口元を覆い、七腕のエンディミーナは小声になった。
誰を憚っているのかと思うが、周りに聞く者はいない。
サリスファーぐらいだろう。
この洞窟の戸を潜ってからもずっと、サリスファーは無言ですぐ後ろに付き従ってくれている。
そのサリスを見て、女は冷たい笑みだった。
「ずいぶんお地味では? 殿下は花の顔と詩に名高い、西の渓谷のお生まれ。そのような、死んだ馬みたいな陰気な衣はお似合いになりませぬ。せっかくお越しになったのですから、ぜひお召替えを」
エンディミーナは優しい割には毒のある声で教えてきた。
「死んだ馬みたいだろうか?」
確かに黒い長衣のままで来た。着替えるべきだっただろうか。
知識の晶洞で髑髏馬閥の小英雄たちと一緒にいた時には、まるで彼らの一員のようで、何の違和感も感じていなかったが、確かに地味かもしれなかった。
それに改めて思えば、スフィルの部屋で会った父上も、ずいぶん地味な衣装を着ていた。
服喪のような暗い衣装を纏うのは、英雄たちの慣いだ。
ちょっと格好いいよなとスィグルも思っていた。
父の侍医であるエル・ジェレフも、王宮で見る他の英雄たちも、皆そんなような衣装だし、トルレッキオに随行してくれた時の大英雄イェズラムもそうだった。
黒い服だったのだ。
そういうものかと思ってきたが、エル・エレンディラが黒い服を着ていたことはなかったと思う。
女だからだ。そう思っていたが、違っていたのかもしれない。
髑髏馬閥ではないからだ。
「これには深い意味はないんだ。エル・エンディミーナ」
「そうは思わない者もおります。殿下は今や骨の馬に乗り、銀狐もお従えに。ですがお優しい殿下には、美しい花のほうがお似合いかと、わたくし共も、長姉も、昨夜よりそう思っております」
「考えておこう」
何とも言いようがなく、スィグルは俯いて答えた。
それが正しい選択かは謎だったが、エル・ギリスを置いてきたのは失敗だったのかもしれない。
フューメンティーナはにこやかに立っているだけで、姉の話の何ひとつ口を挟まなかったし、サリスファーも他の派閥の名のある女英雄に何かを言い返す気力はないようだった。
「フューメ、殿下のお側に」
「はい、我が姉上」
命じる口調の女英雄に、フューメンティーナは素直な返事だった。
フューメが爽やかな花のような微笑みで自分を見るのを、スィグルは間近に見上げた。
「殿下、ようこそお越しくださいました。皆で昼食をご用意いたしましたので、ぜひお召し上がりください」
歓待する口調で言って、フューメも、星園閥の女たちも、末の序列の者たちらしい元服したての少女たちまで、にこやかに野戦の陣のような幕屋の張られた食事の席らしきものを長い袖で示した。
地に敷物を敷いた席だが、王族にふさわしい円座の首座も用意されていたし、美しく花まで飾られていた。
そこに毒気を抜かれたような顔つきの、髑髏馬閥の少年たちが、まるで捕虜にでも取られたように悄然と座っていた。サリスファーの仲間たちだ。
女英雄たちの念動術に気を取られて気づかなかったが、彼らは洞内の隅に張られた幕屋のところにずっと居たようだ。
「殿下はお肉は召し上がられないとか。お優しいのですね。全て不殺の料理ですので、ご安心ください。フューメも殿下に倣い、不殺の誓いを立てました」
フューメンティーナがにっこりとそう言うので、スィグルはぎょっとした。
「違うよ。僕のはただの好き嫌いなんだ。君までそんなことしなくていい」
「殿下と苦楽を共にいたしますのも、臣の務めでございます」
フューメは真面目な顔で熱心に言った。
彼女の妹たちらしい少女たちも、同じ花簪を挿した頭を垂れて頷いている。
まさか全員でか。偏食に付き合おうというのか。
それはあまりにも気の毒に思え、スィグルは困った。
肉を嫌う主人の前で平気で鶏肉入りの粥を二杯も食らう者と比べたら、この娘たちは忠義に篤いのだろうが、そこは放っておいて欲しかった。
大したことではないと思いたかったのだ。
「気を遣ってくれてありがとう。エル・フューメンティーナ。でも、そんなことしなくていいよ。魔法って腹が減るだろう?」
スィグルが聞くと、フューメはくすりと笑った。
「そうですね。殿下も空腹でいらっしゃいますか?」
父と同じことをフューメが聞いてきた。
「たぶんね。でも今日は実は、父上から大事な用を命じられたから、もう行かないといけないんだ」
「どちらへ?」
驚いた顔でフューメが聞いてきた。
「それは言えないんだけど」
「なぜでございますか。骨の馬に乗っていらっしゃるから?」
フューメは悲しい顔で聞いてきた。
「いや……そういう訳では……」
胃が痛む気がして、スィグルは自分は空腹なのだなと思った。何か食べるべきだろうが、もうどうしたら良いのか。
「フューメ、殿下のお供をなさい。殿下の御身の守りが手薄です。念動術師をお連れになるべきですわ」
七腕のエンディミーナがフューメを勧めてきた。
それにサリスファーが背後で息を呑むような哀れな音を出した。
「大丈夫です! こちらには風刃術師が……」
サリスファーは言ったが、女たちは最後まで言わせなかった。
「そんなもの役には立ちませぬ」
「フューメをお連れください、殿下」
「それが良うございます」
女たちに口々に言われ、まるで後宮の母上の居室にいた幼い頃のようだ。
スィグルは居心地が悪かった。女たちの言うことを聞かねばならぬ気になる。
逆らえば、殿下は悪い子ですねと女たちが言いそうな気がして。
だが、そんなはずはないのだ。
彼らは英雄で、女官や妃ではない。
そのはずなのだが……。
所在ない気分になったスィグルと、おそらくサリスファーも、突然、乱暴に開かれた洞窟の扉の音にビクッとした。
女たちも驚いたのか、びくりとして身構えていた。
「スィグル・レイラス。まだ居たのか」
扉の向こうに現れた人影が、怒鳴るように聞いてきた。
「兄者!」
こちらより早く、サリスファーが泣きそうな声で叫んだ。
そんな縋り付くように言わなくてもとスィグルには思えたが、ほっとしたのも正直なところだ。
もう来ない気かと思っていた。
居なくても平気だが、どうも居ないと不便なのが、新星の射手というものらしい。
「エル・ギリス」
驚いた声で、スィグルは扉のところに立っている人影に呼びかけた。
まだ長身と言うほどではないが、いかにも枯れ谷らしい、すらりと均整のとれた姿で、もう横に居ないとしっくり来ない。
何でそうなるのかと思うが、居なくなっていたのが、やっと帰ってきたと思った。それが正直なところだ。
「飯食った?」
ギリスは率直に聞いてきた。
いささか率直過ぎただろうが。
「まだ……」
スィグルは答えた。
「はあ? 何やってたんだよ。こいつらと飯食う暇もないって言ってたのはお前だろ。デレデレしやがって!」
デレデレなんか誰がした。
そう言いたかったが、唖然とするこちらの返事を待たず、ヤンファールの氷の蛇、エル・ギリスは、ずかずかと第十八魔洞に押し入ってきた。
「どうも初めまして」
ギリスは無表情に女英雄たちに挨拶した。立礼はしたが、深々と言うほどではない。
礼儀を知らない男ではないはずだった。いつも叩頭はきちんとしている気がする。
「せっかくの歓待だったが、あいにくの族長命令で、出立する」
「どちらへ?」
ギリスが話したのは黒い角のある女だった。七腕のエンディミーナだ。
「言えない。魔導訓練は後日また是非」
「エル・フューメンティーナが殿下にお供します」
エンディミーナは怯む気配はなく、さも当然のように言った。
ギリスはちらりとフューメを横目に見たが、すぐに七腕のエンディミーナに向き直っていた。
「結構。一人だけだ」
「そちらは大勢いらっしゃるのに?」
「男なんか何人いたって役には立たないんだよ。知ってるだろ? このチビ六人合わせて、やっと一人分だ」
にっこりとしてギリスが七腕のエンディミーナに答えた。
にっこりとして、エンディミーナはやや苦笑だった。
「まあ、ご謙遜。ヤンファールの氷の蛇ともあろう者が」
「俺は数には入ってないよ。殿下の影だ。常にお側に。ではご機嫌よう」
そう言ってギリスはまた頭を下げたが、ハッとしたように顔を上げ、女たちを見た。
「弁当貰って行っていい? 弟どもが美味いって言ってた。俺も昼飯食ってないんだ」
「どうぞご自由に」
呆れたふうにエンディミーナは許した。
「ありがとう。恩に着るよ。弁当もこれも、埋め合わせするから」
「どんなふうに?」
「帰還式で先鋒を」
「貴方が決めるの?」
「いいや? エレンディラだよ」
けろりとしてギリスが答えた。
それに女たちは一様に眉を顰めた。
「ごめん。大英雄、エレンディラが、そう言ってた。お前らが先頭だ」
「詳しく聞きたいわね」
エンディミーナが首を傾げ、ギリスは小さく頷いて見せた。
「こいつに説明しとく。若い者同士で話すほうが話が早いから」
ギリスがフューメンティーナを指差して言うと、フューメはぎょっとしていた。
居並ぶ女英雄たちは無言でいたが、無表情だった。
おそらくムッとしたのだろう。笑顔が消えたのを初めて見た。
スィグルそれに何となく震え上がったが、ギリスは洞内の壁際に張られた幕屋で立ち尽くしている髑髏馬閥の少年たちに大声で呼びかけた。
「お前らその弁当持ってついて来い。撤退するぞ」
そう言ったギリスの撤収は早かった。
スィグルの袖を掴み、辞去の礼もそこそこに洞内からぐいぐいと連れ出していった。
サリスファーも、他の少年たちも、ハッとしたように着いてきて、エル・フューメンティーナも慌てたふうに姉たちに立礼し、裳裾をからげて走ってきた。
「どういうことよ⁉︎」
第十八魔洞の大扉が閉じる音とともに、フューメンティーナがギリスに叫んだ。
王族の殿下が一緒にいることも少しは憶えていてくれているのか、動転して怒った様子の少女には聞けなかった。
「弁当助かるよ。馬車の中で食おうぜ」
感謝している様子で、ギリスはフューメンティーナに言った。
「馬車って何よ⁉︎」
フューメはまた叫んだが、そのせいでスィグルは叫べなかった。
それでも、全く同じことを思っていた。
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086 馬車
馬車とは勿論、馬に引かせた車のことだ。
箱型の小部屋のような物に車輪をつけ、それを四頭立ての馬に引かせる。
乗る者の身分によっては馬が増えて六頭立てとなることもあるが、王宮の門から出立する最も一般的な馬車は四頭立てのものだ。
車内はそう広いものではなく、特に王族用でもない、高級官僚か軍の者達が乗るような馬車だったので、英雄九名を乗せると、中はぎゅうぎゅうの混雑だった。
小部屋の壁のぐるりに腰掛けがついており、後部から乗り込んだ一番奥の角にはフューメンティーナが座っていた。
それと肩を寄せて座る訳にもいかず、馬車内での配席には皆に無言の緊張が走った。
部屋の奥が上座であるのは部族では常識だ。馬車であっても変わりはしない。
それでギリスがスィグルを奥の壁の真ん中の席に押し込んできて、その両脇にギリスとフューメンティーナが座ることになった。
ギリスの弟たちは側面の壁の席に三名ずつに分かれて座ったが、もちろんそこにも序列がある。
フューメンティーナのすぐ脇には、透視術師のエル・ジェルダインが座り、女英雄にじろりと睨まれていた。
「あなた、近寄らないでくれる? 私の長衣に絶対に触らないで」
フューメは厳しくジェルダインを頭から足まで睨んで注意していた。
「触りません。絶対」
注意されるのも心外だという青ざめた顔で、エル・ジェルダインは承知した。
供をする髑髏馬閥の弟たちの中で、一番偉いらしいエル・サリスファーは、ギリスの隣の席でほっとしたように小さくなっていた。
「ごめんね、ジェルダイン……」
何を詫びているのか、サリスファーは向かいの席の友に悄然と小声で謝っていた。
なぜ謝るのか理由は分からないが、スィグルにもサリスファーの気持ちは分かった。
序列通りに座っただけとはいえ、明らかに怒って見えるフューメンティーナに触りたくはなかった。
スィグルは、自分ももし王族の殿下でなければ、女英雄と肩を並べて座った席で今どんな目にあっていたのか恐ろしかった。
「いいぞ、出せ」
ギリスが背中側の壁を叩き、それを隔てて自分たちと背中合わせになっている御者台にいる者に、出発するように言った。
返事は聞こえなかったが、御者は承知したようで、鞭の音が聞こえ、馬車が動きだした。
急に座席がぐらりとして、フューメは腰掛けからずり落ちそうになっていたが、険しい顔で踏ん張っていた。
近寄るなと言っておいて自分から髑髏馬閥の者たちの席に倒れ込んでいては、格好がつかないからだろう。どことなく必死の表情だった。
「ごめんね……こんなところに乗ることになって」
スィグルは小声でフューメに詫びた。
自分のせいではないが、他に詫びる者もいなさそうだったので、気を遣ったのだ。
フューメは男ばかりのこの車内に座らされ、とても不愉快そうだった。
英雄とはいえ、彼らの派閥だって男女できっぱり分けられているのだし、部族の他の娘たちと同じく、男と同席するのは恥なのかもしれなかった。
しかし、その一方で彼女たちには建前というものがある。
英雄たちに女はいないのだ。
フューメはそういう、覚悟の顔つきだった。
「いいえ殿下。殿下こそ、このようなむさ苦しい乗り物にお乗りになるなど、お労しゅうございます」
踏ん張って揺れながら、フューメは気の毒そうにスィグルを見てきた。
「何がお労しいんだよ。飯食おうぜ」
いかにも平気そうにギリスが言ってきた。
そりゃお前は平気だろうよと、スィグルは内心、毒づいた。
ギリスは末席の弟たちが膝に持っている、野戦用の弁当箱らしきものを指差して、早く寄越せと言うように差し招いた。
「今食べるの⁉︎ ここで⁉︎」
叫ぶように甲高い声で、フューメがギリスに聞いた。
「腹が減ってるんだよ!」
珍しく怒鳴り返して、ギリスは弟たちが寄越してきた、美しい寄せ木の細工が施された大きな木製の弁当箱の蓋を引き抜いた。
美しい花と五芒星の紋様が細かく象嵌されている見事な品だ。
持ち運ぶ際に蓋が自然に開いたりしないようにか、蓋には横から溝に差し込む仕組みで、剣の形をした小さな木の閂が差し込んであった。
ギリスはそれを、ぽいっと馬車の床に放り、どうでもいいもののように扱ったが、フューメンティーナは悲鳴を上げた。
「だめ‼︎ 星園閥の伝来品なのよ!」
フューメが指差した小さな閂をギリスの弟たちが慌てて拾おうとしたが、結局、車内を転がり回るそれを、フューメンティーナが念動術で拾い上げた。
「本当だ。これめちゃくちゃ美味いよ」
皆が閂に翻弄される間にも平気で食っていたようで、ギリスが何か棒のようなものを齧りながら、フューメに言った。
「なんで先に食べるのよ⁉︎ 殿下におすすめしなさいよ」
明らかに怒っている声で、フューメがギリスに鋭く言った。それでもギリスには全く堪える様子もなかった。
「毒味だよ。いきなり食べさせて、こいつが死んだら困るだろ」
冗談とも本気ともつかない真顔で、ギリスはフューメに答えている。
スィグルは、せめてそれを笑って言って欲しかった。そうしたらフューメも笑ってくれたかもしれないのに。
「そんなのもうあなたの弟たちにやらせたわよ。誰も死んでないでしょ!」
青ざめてはいるが体は元気そうな少年たちを示して、フューメは力説していた。
優しそうな容姿なのに、ギリスにはいつも怒鳴っている気がする。
そうしたくなる気持ちもわからなくもなかった。
派閥の伝来品だという弁当箱の中には、棒状の焼き菓子のようなものが隙間なく整然と並んでいた。
そこから甘く香ばしい匂いがして、腹が減っているのをスィグルは感じた。
「何これ?」
何かも分からず食っているギリスがフューメに尋ねている。
「兵糧よ」
不快そうな顔でフューメが答えた。
「えっこれ? 兵糧? 嘘だろ、こんな美味いもん戦場で食ったことない」
ギリスが不可解そうに反論している。
「まだ、実戦配備はされていないのよ。フューメが考案し作りました、殿下。お召し上がりください」
ギリスの膝から弁当箱を奪って、フューメはスィグルに勧めた。
一応は恭しい所作でだったが、その前に自分の前に身を乗り出して弁当箱を奪回されているので、スィグルはのけぞって女英雄を避けるしかなかった。
「不殺の料理でございます。ご安心ください」
驚いているスィグルが、料理の内容を心配していると思ったのか、フューメはにこりとして教えてきた。
スィグルが作り笑いで手を出す横で、ギリスが身を乗り出して、もう一本取り聞いた。
「何でできてるんだよ、これ?」
それにもフューメはムッとしていた。
同じ器から食うのは無作法だからだ。よほど親しい者なら別だが。宮廷ではそうだ。
でもギリスは気にしていないようだった。
王族だろうが女だろうが、お構いなしの奴だ。
「粉にひいた麦と豆と油と、蜂蜜と干した葡萄と塩と……いろいろよ」
しぶしぶのようにフューメが答える。
「エレンディラの団子と大差ないのに、何で美味いんだろう」
それがいかにも不思議というように、ギリスはしみじみと言いながら、棒状の兵糧を食っていた。
スィグルもその棒の端っこを齧ってみたが、香ばしい匂いがするだけで、何の味もしなかった。
それでもフューメが心配気にこちらを見ていたので、仕方なく笑って見せた。
美味くも不味くもないとも言えない。
「美味いよ、これ、本当に」
ギリスは真顔でフューメを褒めていた。褒めているのだろうと思えた。
「お前、英雄なんかやめても、これで食っていけるよ」
「失礼なこと言わないで。やめる訳ないでしょ」
フューメは黄水晶のような石のある顔を上げ、ギリスにきっぱりと言った。
どこからどう見ても英雄だ。竜の涙が額を飾っている。
それにギリスも頷いていた。
「そうだよな。まあ、そうだけど……」
ギリスは自分が持っている菓子のようなものを眺め、それから馬車に詰め込まれている無言の弟たちを眺めた。
「お前らなんて、魔法を取ったら何も残らないよなあ。まあ俺もだけど」
ギリスが暗い顔でしみじみというのを聞いて、スィグルは齧った焼き菓子の粉を喉に詰めそうになった。
ちょうど自分たちだけ食べて気まずいなと思っていた矢先のことだ。
ギリスの弟たちも空腹そうに見えると心配していたのに、髑髏馬閥の少年たちは空腹を忘れるほどのことを言われ、さっと青ざめたように見えた。
「そんなことないですよ兄者‼︎」
何かに弾かれたように、ギリスの隣でエル・サリスファーがビクッとして言った。
ギリスはすぐ隣にいる翡翠色の石の少年を、菓子を齧りながら見ていた。
「そうか? お前に氷結術以外の何があるんだよ?」
「うっ……う……」
何も無いのか、サリスファーは喉が詰まったように呻いてギリスと見つめあっていた。
「サリスは詩作が得意です、兄者」
フューメンティーナの横で行儀良くしていたジェルダインが、穏やかそうな声で教えてきた。
ジェルダインは揺れる馬車の中でも姿勢を正し、指を揃えた手を膝上に置いている。英雄の絵のような凛々しい姿だった。
「あ、そうなの?」
それで詩殿にお供したいと、先刻、廊下で話した時にサリスファーが言っていたのかとスィグルは納得した。
髑髏馬閥の少年たちは皆、にこやかで行儀がよかった。
まだ年若い者ばかりとはいえ、さすがは最大派閥の英雄たちと言えた。
スィグルはそれに少し安心した。やはり髑髏馬を選ぶべきだろう。自分に与する者たちとして。父もそうだったのだから。
「いえ、そんな。僕の詩作はまだ全然です、殿下。時々、嗜む程度で……」
恥ずかし気にサリスファーが謙遜しており、ギリスの弟たちは皆にこにこしていた。
「じゃあお前ちょっと何か詠ってみろよ」
ギリスが悪気ないふうに急に求めると、サリスファーはそれにもビクッとしていた。
「え……今ですか?」
「うん」
あっさりと答えながら、ギリスはどんどんフューメンティーナの焼き菓子を食べている。
他の者には勧めないのか、スィグルは気になってしょうがなかった。
「無理です、兄者」
低い声でサリスファーが断ってきた。それにギリスはびっくりしたようだった。
「何でだよ。俺はお前の兄だぞ?」
命令だぞと言いたいのか、ギリスは硬い声だった。
「サリスファーは、音痴なんです、兄者」
ずっと黙っていた誰かが、急にそう言った。
サリスファーの隣に座っている者だ。
「誰だっけお前……?」
ギリスが唖然として言うのに、スィグルも唖然とした。
「エル・カーリマーだよ、ギリス。お前の弟だろ⁉︎」
あまりの事に黙っていられず、スィグルも思わず叫ぶ声になった。
知識の晶洞で、通路の奥にいたジェルダインに伝令をしてくれた念話者だ。
そのカーリマーが、よほど可笑しかったのか、あははと声を上げて笑った。
「俺は歌が上手いです、兄者。サリスの代わりに歌いましょうか?」
「そうなの? 自信あるのか」
ギリスが聞くと、よほど自信があるのか、エル・カーリマーは少し大人びた顔でにやにやしていた。
「あります。俺から魔法を取ったら、歌が残りますよ」
「いいね。歌ってみろ」
「腹が減って歌えません。魔法も歌も、腹ぺこでは無理です」
エル・カーリマーに言われて、ギリスはきょとんとしていた。
ギリスは気づいていなかったらしい。弟たちが空腹ということに。
「食え」
ギリスは横にいたサリスファーに弁当箱を渡してやっていた。
そうして回ってきた食糧を遠慮なく取って、エル・カーリマーがこちらを見てきた。
「発言したついでに殿下に伺ってもよろしいですか?」
物怖じする気配もなく、こちらをじっと見てくるエル・カーリマーに、スィグルは頷いて見せた。
「殿下はなぜ……仮面劇の面をお持ちで、その……額に……」
エル・カーリマーは自分の額に石のあるあたりを指差し、言いにくそうに言葉を探していた。
「その、石はなぜあるんですか?」
聞いても良いのかと戸惑うように、エル・カーリマーは言った。
率直な質のようだ。
他には今まで誰ひとり聞かなかったのに、エル・カーリマーは聞くんだなと、スィグルは感心した。
ギリスが持ってきた平たい宝石のようなものを、馬車に乗る前に糊で額に貼られたのだ。
額冠もまた奪い取られていた。
取り返して懐に大事に持っているが、日に二度も冠を奪われるとは、我ながら迂闊だった。
それだけでも不名誉なのに、鳥餅みたいなものがついた石を額に押し当てられたので、もしもそれが武器なら自分はまた死んでいたなと思わざるをえない。
なぜそんなことをするのかとギリスに聞きたいところだったが、聞くまでもなかった。
英雄のフリをするためだ。偽物の竜の涙だ。
まさか、そんなことを本物の英雄たちの前でやらされるとは、スィグルも思いがけないことだった。
「こいつも今日だけ英雄なんだよ」
答えに詰まったスィグルに代わって、ギリスがあっさりと説明していた。
「はぁ……今日だけですか」
エル・カーリマーは不思議そうにしていた。
彼らが怒るのではないかと、スィグルは危ぶんだ。
ギリスが持ってきた石は、子供用の玩具で、宝石などではなく玻璃を溶かして作ったものだ。
市井には英雄ごっこをする子もいるのだ。
実は王宮にもいる。スィグルも子供の頃に弟とやったことがあった。
母に見つかって、ひどく長いお説教を受けた。
そういうのは本物の英雄がいないところでやる遊びだ。少なくとも元服後の者がやることではない。
ギリスが持ってきた玩具の石は、侍女から貰って来たものだという。
変装するためにだろう。王族が工人のところへ遣いに赴くというのではまずいが、民の友である英雄が民と交わるのは構わないということだったのだから。
それでも、こんな玩具で変装されては、英雄たちは良い気分ではないのではないか。
彼の石は糊で貼ってある訳ではなく、頭の中から生えていて、いずれ命を奪う代物だ。
ふざけてるのかと、不快に思わないだろうか。
「今日は妙な日ですよね。学徒になったり英雄になったり」
カーリマーは手に持っていたエル・フューメンティーナの焼き菓子を不思議そうに眺めて言った。
「俺たちもたまには英雄やめてもいいんじゃないですかね? なあ、ジェルダイン。一日くらいさ?」
焼き菓子を齧って、エル・カーリマーは嬉しそうに言った。
「馬鹿言うな。毎日、英雄だ」
誰の目を気にしているのか、エル・ジェルダインは気まずげにこちらを見ていた。
フューメンティーナを見ているのか、それともスィグルに遠慮しているのかだった。
「俺はやめたくない。一日も」
ギリスが難しい顔で言った。その隣でサリスファーが気まずそうにしていた。
「すみません、兄者。カーリマーは冗談が過ぎる奴で。悪気はありません」
「別に怒ってない」
ギリスはしれっと本気のように答えた。
エル・カーリマーは怒られたと思ったのか、済まなそうに誰にともなく頭を下げていた。
それでも彼がさほど悪びれていないのは目を見たら分かった。悪戯っぽい目だ。
「お詫びに歌います。その仮面ですが、殿下」
スィグルが父からもらったまま持っていた仮面を、エル・カーリマーが手で示した。
妖しい微笑を浮かべた、高貴な女の顔だ。枯れ谷系統の妖艶な美女だった。
「それの歌を」
エル・カーリマーはいかにもよく知っているように言っていた。
「この仮面には何か意味があるのか?」
仮面劇に造詣があるわけではないスィグルには、その意味までは分からなかった。
ただの美しい顔の女面に見える。
「ありますよ。殿下は仮面劇はご覧にならないんですか?」
不思議そうにエル・カーリマーが聞いてくる。
仮面劇は部族ではよくある娯楽のひとつだが、古典文学を題材とした格調高いものから、市井の暮らしを題材とした卑近なものまで、様々の演目があった。
王子の見るものではないと、幼い頃に母上が言っていた。
父リューズが歌劇を好み、詩人たちや楽師や役者が重用されたため、玉座の間で演劇が行われることもあったが、子供が見るものではないと言われた。
だから見ていない。
思いがけない自分の素直さに気づき、スィグルはびっくりした。
普通は見るものなのか?
「この仮面は、いろんな意味がありますが、大体は王家の囚われの姫君やお妃様の役柄で使われるものです。頭のおかしい王家の女性なんですよ」
にこやかなエル・カーリマーの説明に、スィグルが呆気にとられていると、カーリマーの斜向かいにいたエル・ジェルダインが低い声で嗜めた。
「カーリマー。言葉を慎め」
なぜジェルダインが怒るのか、スィグルにはよく分からない気がしたが、それなのに肝が冷えた。
後宮って、そういうところだろうか。気の狂った姫や妃がいるような?
「すみません。でも本当なので。一番有名なのは壁籠めのお話です」
カーリマーは詫びたが、気にせず続けた。
「筋書きは幾つか種類があるんですが、大体似てます。美しい王家の姫か、お妃様が、後宮の庭なんかで平民の男と出会うんです。道に迷った兵士とか、壁や窓を修繕している工人とか」
「工人……」
スィグルは自分の手に持った仮面が淡く微笑んでいるのを、視界の端に感じた。
「俺は知りませんけど、後宮の窓も壊れる時は壊れるんでしょうね?」
エル・カーリマーは悪気のない顔で、あっけらかんと馬車内で揺れている一同に聞いた。
誰も何も答えなかった。
後宮の内部を知っているのは、この中ではスィグルだけだっただろう。
美しいところだが、別に後宮と他の王宮内に、根本的な違いはない。
窓があれば壊れるだろうし、壁や配管や暖炉が壊れたり、増改築が必要なこともあるだろう。
その際には工人が遣わされるということだろうか。
「姫と平民が恋に落ちるんですが、大体最後は男の方が死ぬんです。斬首とか、壁籠めで」
「壁籠めって何だ」
スィグルは馬車の揺れに酔いそうな気分で聞いた。
水を飲みたかったが、あいにく馬車にはそんなものは無さそうだ。
「生きたまま壁に塗り籠める刑罰です。死刑の一種で、たぶん後宮にしかないんだと思いますが、姦通罪の処罰として執行されるそうです。本当にあるのか知らないですけど、仮面劇には出てきます」
「どんな歌なの?」
スィグルはカーリマーのいかにも気楽そうな顔を見て聞いた。
「愛しき我が君、この歌声はまだその耳に、届きましょうや。愛しき姫様、聴こえております。死霊となり果て、今もお側に」
カーリマーが突然歌ったので、皆びくりとした。見事な声量だったのだ。
しかもカーリマーは二人分の音域を歌ったようだった。
初めの方は女のような高音の声だったが、途中からは低い男の声だった。
どちらも悲しげに聴こえた。
それを無表情に歌うカーリマーは、歌は上手かったが、歌う人形のように見えた。
でも、とにかく上手い。
自ら歌が上手いと言うだけのことはあった。
「上手すぎるだろ、お前。詩人になれ」
驚いた様子でギリスが叫ぶように言った。
それにカーリマーは、あははと快活に笑った。
「なりたいんですけど、詩作の才能がなくて。サリスと足して二で割れると丁度いいんですかね?」
「二で割るか?」
軽口をきくエル・カーリマーに、ギリスは真剣に答えていた。
確かに二で割る必要はなかった。
詩人は詩作も行い、詠唱もして、楽器も奏でるため、一級の宮廷詩人ともなると、幾つもの才能を兼ね備えていなくてはならないことになる。
歌が上手い上に、詩作もできなくてはならない。
それが建前だが、実際には詩人にも詩作を得意とする者と、伝来の詩の詠唱を主とする者がいるのだ。
その意味では、エル・カーリマーは竜の涙を持って生まれなければ、今ごろ別の衣装を着て、琴を抱き、詩殿にいたのかもしれなかった。詩の詠唱を一生の職務とする者として。
でも石を持って生まれたせいで、今はこうして髑髏馬閥にいる。
「すごいね」
そうとしか言いようがなく、スィグルは思わず褒めた。
「ありがとうございます」
カーリマーはごく当たり前のように賞賛を受け、答礼していた。
「何でその仮面をお持ちなんですか?」
「……分からない」
父が自分に下賜したのだと思っていた。でも、違ったのかもしれない。
父は一体、これを渡して何を言いたかったのか。
「エル・カーリマー、この面の姫の相手の役柄は、もしかして必ず死ぬのか?」
「そうです。たぶん。俺の知る限りでは」
カーリマーは不思議そうに言った。
「持ち歩くのは不吉ではないですか? その面。なぜお持ちなのかと」
「届け物だろう」
話を聞いているのかも分からなかったギリスが、長い焼き菓子の最後の一口を食い終え、急にそう言った。
「これから会う奴に伝える伝言だ。工人の男はもう死んでると思ってたんじゃないか、お前の親父は」
ギリスは隣にいるスィグルに首を傾け、そう尋ねてきたが、声を顰める訳ではなかった。皆に隠す気はないらしい。
「お前ら、今日これから見聞きすることは他言無用だ。でも行っていいってエレンディラが言ってた」
ギリスが指に付いた塩気のある粉を舐めながら言うと、ずっと黙っていたフューメンティーナがじろりと睨んできた。
「エル・エレンディラが。いいって言ってた。勉強して来いってさ」
ギリスが言い直していた。一応何かは感じているらしい。
「私もいいの?」
強気で睨む割に、フューメンティーナは遠慮がちにギリスに尋ねた。
「いいよ。お前らが帰還式の先頭にいるならだけど」
「そんなの、私の一存では決められないんですけど?」
つんと済ました顔で、フューメは困ったようにギリスに言い返した。
「決めろよ。お前がどうするか、決めていいんだ。このまま新星に仕えるか、それとも馬車を降りて、王宮まで歩いて帰るかだ」
「どこなのよ、ここ?」
はっとしたようにフューメンティーナが馬車の窓の辺りを見た。
鎧戸が降りていて、景色は見えない。中にいる者を見せないためだが、中からも外が見えなかった。
ギリスが顎で示して、サリスファー達に馬車の両側面にある鎧戸を開けさせた。
埃っぽい匂いがして、砂牛の呻く声が聞こえ、通りを行き交う黒髪の頭が幾つも見えた。髪飾りもない、結っただけの蓬髪で、土埃をかぶって白んでいる者もいた。
小さな窓から見えるのは、様々な色合いの色漆喰の壁の家々だ。
どれも手の込んだ造りの建物だが、貴人の住まいではない。
洗濯物が棚びく庭が見えた。
「ここどこなの⁉︎」
口元を覆って、フューメンティーナが叫んだ。化け物にでも出会ったみたいに。
「第四層の工人区だ」
ギリスは極めてあっさりと言ったが、第四層は平民の住む階層だった。
貴人の来るところではない。
英雄たちもだろう。恐らく。
「トードリーズは休みを取って自邸に戻ってるらしいんだ。子供が産まれるんだってさ」
それが何でもない事のようにギリスは教えてきた。
しかしスィグルは言葉も無かった。
子供が産まれるところに立ち会ったことなどない。
手ぶらで突然来るような時だろうか。
それに、今さらだが王宮の外だ。なし崩しに心の準備もなく、ギリスに連れて来られてしまった。
揺れる馬車が止まり、到着いたしましたと戸が開かれた。
御者が、乗客を馬車から降ろすための踏み台を扉の外に持ってくるのが見えた。
降りろということだ。
馬車の外には質素な服装の平民たちが見えた。
官僚馬車を訝しげに眺めてくる、頭上に煉瓦を満載した籠を乗せている者もいた。
首が折れないのか?
スィグルはその事にも度肝を抜かれたが、洟を垂らしている泥まみれの幼い兄弟が、手を繋いで馬車を覗き込みにきて、御者に鞭で追われるのにもギョッとした。
何をするんだ、小さい子供に。
だが子供たちは無言でサッと避けて、走り去っていった。
「ギリス……行くのか?」
溜飲して、スィグルは隣で立ち上がった射手に尋ねた。
ギリスは不思議そうにこっちを見てきた。
「はあ? お前が行くってゴネたんだよな? ここがトードリーズの家だ。さっさと降りろ」
無表情に言い、ギリスはさっさと馬車から降りていった。
●応援&コメント:Web拍手 / マシュマロ
087 誕生
トードリーズは工人区の自邸にいた。
現れたスィグルたちの一団を玄関に迎え、トードリーズは驚いた様子だった。
いつも、にこやかな様子でいる亀だが、この時ばかりは一瞬真顔で言葉を失っていた。
ギリスは先触れを送っていなかったのか。
突然現れた客を慌てて出迎えたような、普段着の様子で、トードリーズは王宮にいる時の工人の衣装ではなく、市井の民のような質素な長衣を着ていた。
袖捲りをして。
それを慌てて戻し、トードリーズは自邸の玄関で叩頭をした。
こんなところで平素は叩頭する者もいないのだろう。床は石造りで、敷物もなく、砂じみた幾何学装飾の硬い床に、トードは直に跪拝叩頭する羽目になった。
「立礼でいいよ、亀……」
小声でスィグルはそう伝えた。
こちらも変装した英雄の出立だ。
民は英雄には叩頭しなくても良い。英雄たちは王族の身内でありながら、民の友であり僕でもある特別な存在だ。
石を持った子であれば、平民であっても王宮に差しだされる。
英雄たちにとっては、そこらにいる平民が、自分の親かもしれないのだ。
部族では、自分の親は敬うものだった。知らぬことでも、実の親に叩頭させるのは不敬だという考え方だ。
民は英雄達と握手しても良い。対等だからだ。
しかし、そんな掟があるとしても、民は皆、英雄達を尊敬していた。いきなり初対面の英雄と握手しようとする者は稀なはずだ。
トードもそんなことは英雄たちに求めなかった。
「殿下……」
なんと呼んでよいかと困った顔で、それでも仕方なくか、トードリーズは小声で呼んできた。
「お父さん」
玄関への来客に感づいたらしい、この家の子供らが、家の奥から不思議そうに客を見にきた。
そして来客の額に色とりどりの石があるのを見て、三人現れた子供たちは絶句していた。
「あっちへ行っていろ!」
初めて聞くような厳しい声で、トードリーズが子供らを叱った。
それに叩かれでもしたように、子供達は走って逃げていった。
「急に来て済まなかった。たった今、知ったんだ。子供が産まれるんだろ……」
スィグルがそう詫びようとした瞬間、家のどこかから大きな産声が聞こえた。
それにスィグルは息を呑んだ。
まさか生まれたのか、今?
今か?
自分たちが来たせいで、トードリーズは我が子の誕生を見逃したということか。
「うっ……」
青ざめて言葉もなく、スィグルは立ち尽くしていた。他の英雄達もだ。
ただギリスだけが平然と、玄関の奥にある階段の上の、産声が聞こえたほうを見上げていた。
「子供にもし石があったら、ついでに貰っていくけど」
ギリスは無表情にそう言った。
それを聞くトードリーズはまだ唖然として見えた。
スィグルにもそれは、悪い冗談としか思えなかった。
笑ってよいのか、少し迷った様子で、トードリーズは笑った。もちろん苦笑だっただろう。
「お気遣い、ありがとうございます。そのような事は、なかろうかと」
「わかんないぜ。見に行って来い。少々なら待てる」
二階を顎で示し、ギリスは淡々と言った。
恐ろしく冷たく感じる。
それでも、ギリスなりの気遣いなのかもしれなかった。子供が竜の涙でないか確かめろというのは。
子供の親は、少しは思うのだろうか。我が子がまさか、そうではないかと。産着のままで、王宮に召し上げられてしまうのか。誕生の瞬間が永遠の別れなのかと。
しかしトードリーズは慣れた様子で笑っていた。
「英雄は滅多には生まれぬものでございます」
「見に行けばいいのに」
残念そうに口を尖らせ、ギリスはトードリーズに言った。
「御用向きは……」
そう言ってから、トードリーズははっとしたようだった。
「いえ、ご無礼を。この場で伺うようなお話ではございませんね。急ぎ客間を支度させますゆえ、しばしお待ちを」
再び平伏してから、トードリーズは立ち上がり、急いで家の奥へと何かを命じに行ったようだった。
ほんの僅かの後、すぐに戻ってきて、案内するような仕草でトードは奥へスィグルたちを指し招いた。
その時にも一瞬、トードリーズが、スィグルが持っていた仮面に目を奪われたようだった。
でも何も言わなかった。ただ黙って、階段のすぐ奥にある客間に案内しただけだ。
王宮の居室と比べたら、広間とも言えない部屋だったが、美しい内装だった。おそらく庶民なりの贅は尽くしてある。
その部屋の首座をスィグルに勧めて、王宮の部屋と同じく敷物と円座のある場所に座らせると、トードリーズは部屋の入り口まで下がって、そこで叩頭した。王宮の儀礼だ。
それをこの庶民風の部屋で見ると、スィグルには奇妙に思えた。
やはり王宮は格別の場所だ。その外にある世界とは、何かが違っているのだろう。
「トード。こんな時に来て済まなかった。出直すことはできるけど、用向きは簡単なものだ。伝えて帰る」
スィグルは今も自分の膝の上にある、やり場のない女面を眺め、それをどう説明しようかと思った。
トードに何と言うかを、全く考えて来ていなかった。ゆっくりと会い、ゆっくりと話すつもりだったし、まさか工人区のトードの家で会うことになるとは思いがけなかったのだ。
王宮内にある、教えられていた番号の工房を訪ねていくのだと思っていた。
思いがけない大冒険になったなと、スィグルは内心思った。王族は王宮の外には出ない。出るなら族長の許しがいるが、この場合どうなるのか。父の遣いなのだから、許可があるものと思って良いのか。
でももう、ギリスに連れてこられてしまったし、今さらじたばたしても、どうしようもなかった。
「父上から直々の御伝言を預かってきたんだ。お前に預けてある勝負の続きをするので、来るようにと仰せだ。場所はお前が作った部屋だ。僕の弟の……」
スィグルが教えると、トードリーズはかすかに顔を顰めた。
スフィルの部屋なのが、何か問題でもあったのか。
「弟君の? なぜ、殿下のではなく」
いかにも残念そうにトードは言った。スィグルは返事に困った。
「訳はあるけど、聞かないでくれ。とにかく弟の部屋だ」
それに頷き、トードは納得はしたようだったが、まだ無念そうだった。
「トードは、できましたらお父上様に、殿下のお部屋のほうをご覧いただきとうございました」
「なぜ」
「自信作でございましたので」
あの部屋がか。
スィグルは一瞬、そう答えかけたが、黙っておいた。
トードが見せたいのは、居間や書斎ではなく、寝室ではないかと思えた。あの、花の寝床だ。草を編んだような寝床で寝ているのを、父上に見せろということなのだろう。
なぜ工人のお前が、そんな差し出たことを思うのかと、スィグルは不思議だった。
「他には何か仰せだったでしょうか?」
「他には何もない」
スィグルはそう答えたが、それを聞いたギリスが、ものすごい顰めっ面でこちらを見た。明らかに不満そうだった。
「なんだよ……」
気味が悪くて、スィグルは自分のすぐ傍の席にいるギリスから身を引いた。
「違うだろ。そんな言い方じゃなかっただろ」
「言い方に何の意味があるんだよ。同じ話だろ」
スィグルがもう話は済んだと思い、さっさと去るべきかと気遣っているのに、ギリスはなぜ話を引き伸ばすのか。
トードリーズの一家には今日は新しい子供の誕生の祝いの日なのではないか。それを邪魔してはまずい。
「貸して、それ」
ギリスが指で指し招き、スィグルが膝の上に持っていた女面を渡すよう促してきた。
なんでそんなことをしなきゃいけないんだよ。
そう聞くのを待ちもせず、ギリスが勝手に手を伸ばして面を奪ってきた。
族長からの下賜品を勝手に横取りするなと、スィグルは呆れたが、驚くこちらを無視して、ギリスは許しもしていないのに仮面を自分で被ってしまった。
その姿に、ギリスの弟たちもフューメンティーナも、びっくりしている。
「トードリーズに、昔、預けたままの勝負を俺がもらうゆえ、敗北しに来いと言え」
ギリスは父が命じた時とそっくりな口調で、同じ言葉を繰り返してみせた。
その声はどう聞いてもギリスの声だったが、トードはぎょっとしたようだった。
何か聞き覚えでもあったのか。
仮面を外して、ギリスはため息をつき、まだ驚きに身を引いたままのトードリーズを見た。
「お前、もしかして、この仮面の相手に勝ったことがあるんじゃないか?」
ギリスはトードをじっと見て尋ねた。
「ございません」
トードは落ち着いた口調でゆっくりと答えた。戸口近くの下座に、まだ軽く平伏したままの姿で。
ギリスはそれに首を傾げていた。
「じゃあ、この仮面の持ち主はなぜ今さらお前に会いたいんだ。今まで会わなかった理由はなんだ」
ギリスは不思議そうに聞いたが、トードは困惑の顔でこちらを見てきた。
「分かりませぬ。卑しい工人風情にお会いになるご身分ではないからでしょう。そもそも王宮で偶然お会いしたのが何かの間違いでした」
「偶然会ったのか?」
ギリスは目を眇めて考え込むような顔つきだった。
何をそんなに難しく考えるような事があるのか、スィグルは傍で見ていて不思議だった。
トードリーズは若き日の父と王宮の廊下で偶然会ったと言っていた。そして将棋の勝負を挑まれ、敗北して弁当を取られたと。
その話のどこに不審な点が有るのか。
「俺は王宮に十六年住んでるが、廊下で弁当食ってる工人を見たことはない。どうやったらそんなもんと偶然会えるんだ」
ギリスが尋ねると、トードリーズは不思議そうにした。
「私共は、尊いご身分の方々の御前で食事を取ったりはいたしません。ですが、新しい区画を掘る工事では、高いご身分の方々はお越しにはなりませんので、その区画に寝泊まりして働くこともございます」
「そこに来たっていうのか、こいつが?」
仮面を掲げて見せて、ギリスは尋ねた。トードリーズに向けられた女面は相変わらず妖しい微笑みを浮かべて見えた。
「左様で。その面を着けておいででしたので、仮面劇の役者かと」
トードリーズはそれを悔やむように言っていた。
身分が顔や体つきで分かるわけではない。
どんなに尊い血筋でも、それが故に何かが違う訳ではないのだ。
アンフィバロウの末裔でも、誰の子でも、名乗らなければ分からない。
その程度のことだったのだ。父も自分も、その程度のことに命を握られ、最後は縊られて死ぬ定めだったということだ。
我が身に至っては、その運命はまだ続いており、免れてはいない。ただ考えぬようにしているだけだ。
父ももしや思っただろうか。自分がアンフィバロウの子ではなく、ただの仮面劇の役者であれば、生き延びられるのではないかと。
「盤上の勝負をご所望との仰せ、何か賭けるようにと申し上げましたら、その面を……」
トードリーズはギリスが持っている仮面を眺め、今もまだそれが不思議という顔つきだった。
「枯れ谷の顔を賭けると仰せでした。後になって思えば、どういうおつもりでそれを……」
思い返す目つきになって、トードリーズは言葉を失い悩むふうだったが、ギリスはトードを沈黙させなかった。
「その勝負には仮面のほうが勝ったのか」
急かす口調で聞くギリスに、トードリーズはにっこりとした。
「いいえ。初戦は引き分けでございました。その、仮面のお方が勝負の途中で卒倒なさいましたので」
「は?」
「空腹の時に、あまりに深く考え事をなさったので、気を失われたんですよ」
「将棋して気絶する奴なんかいるか?」
ギリスは否定的に聞いたが、トードリーズは淡く笑って頷いていた。
「腹が減って頭が回らぬゆえ、先に弁当を寄越せと。トードめが賭けた弁当を、勝ってもいないのにお召し上がりになり、後で勝つと仰せでしたが、その時は貸しのままに」
思い出すと可笑しいのか、トードはにこにことして答えていた。
「それってただ弁当食われただけじゃないのか?」
ギリスは分からないという顔で、スィグルに聞いてきた。意見を求めるように。
「そうとも申しましょうか?」
トードは笑顔で首を傾げている。
スィグルもどう判断したものか困った。
「勝利の前借りだよね」
「そんなの成立するのか?」
ギリスは納得いかないようだったが、トードリーズは困ってはいないようだった。
いつも先に弁当を渡して食わせ、その後に勝負をして、毎度負けていたということらしい。
トードはそのように説明をして、苦笑していた。
「最後の対局の勝敗がついておりませんでしたので、気になさっていたんですね」
トードは納得したように言ったが、スィグルもそれで納得した。
トードに勝たねば、父上はトードの最後の弁当をタダ食いしたことになるのだろう。
民の弁当を勝手に奪って食うのでは、名君とは言えないと、父はずっと気にしていたのかもしれなかった。
確かにそれは寝覚めが悪い。
あと一勝、トードリーズに勝てば、父とトードは借り貸し無しだ。
それでどうなるのか知らないが、とにかくあと一戦、盤上で戦う必要がある。
その手配ぐらいは安いものだ。スフィルの部屋で二人を引き合わせる。
そう意を決して、スィグルはもう一度伝えた。
「お前に敗北しに来いと仰せだ」
「それはそれは」
トードは頷いて、懐かしげに言ったが、ややあってから顔を上げてスィグルを見つめた。
「このトードに勝てるとお思いか」
「へっ……?」
トードが急に強い声で言うので、スィグルの喉から思わず妙な声が出た。
「勝った事ないんだよね?」
「ございません」
トードははっきりと頷いたが、やはり妙な話だ。穏やかに笑う平民の顔を、スィグルは戸惑って見つめた。
「トードはいつも手加減しておりましたので、本気で戦ったことはございませんでした。確かにお強かったですが」
「負け惜しみか。トード。そういうことは勝ってから言え」
苦笑してスィグルは工人を嗜めた。トードリーズがこんな闘志を持った男とは思いがけなかった。
いつも物腰穏やかでにこにこしており、優しい男に見えていた。
「その日まで仮面は当家でお預かりしてもよろしゅうございますか。この命よりも大切にいたしますので」
両手を差し出して、トードリーズは強請るように言った。
枯れ谷の顔を寄越せと。
スィグルは急に困った。トードがそんな事を求めてくるとは思っていなかったのだ。
自分が貰ったものかと思ったのに、父はこれをトードリーズに預けてこいという意図だったのか。
トードは仮面に見覚えがあるようだったし、明らかに父の勅命であると、これを見せれば分かるという事だったのか。
だったらそう言って下さればいいのに、なんで言わないのか。
察しがつかず王宮に置いて来ていたらどうなっていたのか、それでも話が付くなら別にいいのではないかと思えた。
仮面が惜しかったのだ。
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088 工人の妻
「これは僕が貰ったんだよ、トード」
「そんなはずはございません。それはいつもトードとの勝負に賭けられていたものです」
信じがたいがトードは面を寄越せと言っていた。王族である自分から、工人が物を横取りしようとは、そんな事があって良いのか。
一瞬、呻きそうになったが、スィグルは皆に無言で見られ、我慢した。
富裕で聞こえるアンフィバロウ家の者が、仮面の一枚や二枚を惜しむようでは、ケチ臭いではないか。求めに応じるべきだ。
でも父上がくれたのに……。
そう思いながら、スィグルは内心苦渋の思いで、ギリスが持っている仮面を下げ渡すようにと頷いて見せた。
ギリスが直に持っていこうとしたが、客座に控えていたサリスファーが進み出て、取り継ぎをした。
そういう作法は彼らには日常茶飯事のようだった。
さも当たり前のようにサリスファーが部屋の途中まで仮面を持って行ってやり、膝行して仮面を受け取ったトードリーズが深々と平伏していた。
スィグルはそれを首座から眺めるしかなかったが、受け取ったトードリーズは嬉しそうだった。
いつも先に弁当を食われていたのだから、今回は先に勝利の前借りをトードがしても良いということなのか。
「大変な名誉」
面を崇めるように押しいただいて、それでもトードは微笑む女面を自分の質素な長衣の懐に入れた。
そんなところに仕舞うなよと思ったが、スィグルは不問にした。
父はトードが欲しがっていた勝利を褒美に与えたのかもしれなかった。
本当に飢えている時に食い物をくれたのがトードだったら、自分だって仮面の一枚ぐらい惜しまず喜んでくれてやるだろう。
「どうぞお伝えください。いただいた仮面は家宝にいたしますと。勝負には、お呼びいただいたらいつでも参上します」
「では明日の昼飯時に」
ギリスが横からすかさず口を挟んだ。
明日とは、いくらなんでも急ではないのか。
「トードの家では、ついさっき子供が生まれたところなんだよ?」
遠慮しろというつもりでスィグルは言った。しかしギリスは何も分かっていない顔だった。
「こいつが産んだわけじゃないだろ」
「確かに、妻が産みました。もはや心配はないかと。我が子の誕生祝いに、この仮面を頂戴しに参りましょう」
「いいのか、トード」
スィグルが困って尋ねると、工人の男はにこにこして頷いていた。
「殿下、それ……お似合いでございますね」
自分の額を指差して、トードリーズは面白そうに言った。
スィグルの額に貼ってある、偽物の竜の涙の玩具のことだろう。
スィグルは気恥ずかしくて、自分の顔を隠したかったが、顔を顰めて耐えた。
「王子が来るわけにいかないって、こいつが言うんだよ」
ギリスのせいだと顎で示して、スィグルは言い訳した。
トードにこれが自分の考えだと思われたくなかった。
工人だろうと粉屋だろうと、会う必要があれば、スィグルは会うつもりだった。その時に自分の身分を隠したりはしない。
自分の臣民に王族が会ってはならぬ、どんな理由があるというのか。
もともとは皆が同じ奴隷の身の上で、森から逃れてきた者の子孫なのだ。
それが今さら貴賎を言うのは、実を言えばおかしい。
トードリーズは笑って、変装した王子の気まずい膨れっ面を見ていた。
「そうでしょうね。ここは王族がお越しになるような場所では……。イェズラム様もそう仰せでした。こちらにお越しになった折に」
「来たの⁉︎ イェズが⁉︎」
魂消た様子でギリスが尋ね、その素っ頓狂な声に、トードリーズは笑いを堪えているように見えた。
「お越しになりました。お一人で」
思い出し笑いのように、トードリーズはうっふっふと笑っている。
「一人で来たの……?」
それが何を意味しているのかと、ギリスは悩むように、連れてきた一同を見回していた。
「恐らく聞く耳の少ないほうが良いお話だったのでしょうね。当時はトードはこの広い家に一人で住んでおりましたもので」
広いと言われて、そういうものかと、スィグルは英雄たちとトードの家の客間を見回した。
この屋敷の広さがどのくらいか分からないが、王宮と比べられるものではなかった。
恐らく広いのだろう。庶民が住むものとしては。
「こんな屋敷を与えられましても、トードは王宮勤めの身、宿下りの休みを頂いても、この家で特にすることもなく、待つ者がいる訳でも……と申し上げましたら、イェズラム様が、では妻を遣わすと仰せに」
スィグルはトードリーズの話をちゃんと聞いていたが、なぜそうなるのかよく分からない話だった。
トードもそう思うのか、噛み殺したような苦笑の顔だった。
「その日のうちに妻が来ました。良い女です。王宮の女官だったそうで……とにかく、良い妻であることは間違いありません。トードはそれで不満はございませんが」
言葉の通り不満は無さそうな顔で、でもトードは苦笑していた。
「ですが、それはリューズ様のご命令ですか? トードは褒美は要りません。この屋敷は工人の親方が住むものでして、トードは自分の才覚でここに辿り着くつもりでした。それが工人の本懐というもの」
淡々と語るトードリーズの話を、スィグルは首座で小さくなって聞いた。
トードリーズほどの匠ともなると、自力で工人の親方の一人になれただろう。
それが、父が褒美を遣わしたせいで、何かの褒賞でこの家と地位を得た者ということになったのだ。
それは……むしろ不名誉だったのではないか。トードリーズにとっては。
「ごめんね、トード。でも父上は、感謝の証として、この家と財産をお前に贈ったんだ。そう仰せだった」
「世間知らずなのです、殿下のお父上は」
眉間に皺を寄せて、トードリーズは急に鋭く厳しい声で言った。
客座の英雄たちがビクッとするのが感じられた。
これは、言ってはならぬ事ではないか。もしや、無礼を咎めて叛逆を問う必要があるのではと、まだ年若い英雄たちがゾッとしたようなのをスィグルは感じた。
彼らはまだ戦線に出た事がないと言っている。敵と戦ったことはなく、もちろん同族を殺した事もないだろう。
人を害するのは気力のいることだ。
生まれついての英雄でもそうなのだ。
そうだと知って、スィグルは少しほっとした。彼らが平気でトードを斬るようだと、何かが居た堪れなかった。
「トード。今のは聞こえなかった。僕にお前の首を王宮に持って帰らせないでくれ」
スィグルが許すと、トードは淡い笑みだった。いつぞやトルレッキオへの旅の途中にも見たような、寛いだ笑みだ。
「ご随意に。でも心配ご無用でございます。もしトードめに叛意があれば、恐らく妻が何とかするでしょう。良き妻ですが、イェズラム様がお遣わしになった女です。必要の際には殿下のお手を煩わせる事はないでしょう」
「そんな相手、どうして断らなかったの、トード」
トードリーズは妻が自分を監視しており、必要があれば殺すだろうと言っているのだ。そんな女と結婚したい者がいるだろうか。
知らずに婚姻したのだろうか。スィグルはその可能性も考えたが、世の中は王宮の殿下が思うより複雑らしかった。
「断ったところで別の女が来るだけですよ。工人の妻といえば、大抵はいつの間にか決まっているもので、親や親方が連れてきて娶せるものです。それが玉座の間の女になるなら、悪くない話です。皆が驚くほど美しい妻なんですよ」
真面目に言っているらしいトードリーズに、スィグルは絶句した。
なぜかは分からないが、自分は衝撃を受けたらしかった。
王族や貴人と違って、庶民は好きな相手と婚姻しているのかと思っていた。
昔話に出てくるような、愛し愛される恋人同士が結ばれるものかと。
違うのか。
自分はそういう顔をしたのか。
トードリーズが急に、あははと笑った。
「惚気てすみません」
「惚気てんのかそれは」
全く分からないという険しい顔で、ギリスが問いただしてくれた。
自分も聞きたかったので、スィグルは射手の機転に珍しく感謝していた。
「お慈悲でございますよね。大英雄の。工人風情の一人や二人、言ってはまずい話があるなら、始末なさるのがお楽では?」
答える代わりにトードリーズはギリスに尋ねた。
「分かってるなら黙ってろ」
「喋りすぎましたでしょうか?」
悪びれぬふうにトードリーズはギリスに尋ねたが、スィグルにはトードがわざと話しているようにしか見えなかった。
ずっと黙っていたのだ。随行の旅の間には、トードリーズは自分の妻の話などスィグルにはしなかったし、大英雄イェズラムと面識があったことも、全く態度には出していなかった。二人は初対面に見えたのだ。
イェズラムは、まさかトードリーズに妻を与えた張本人には見えなかった。
それでもトードはイェズラムの見ている前で、父と会ったことがあるという話をしてきた。あれは、大丈夫だったのか。トードはその時、父リューズ・スィノニムに再び謁見したいと言っていた。
ただの思い出話なのかと思ったが、イェズラムに頼んでいたのだろう。もう一度会わせて欲しいと。
でも、イェズラムはダメだと答えた。
「ここにいる者に話すのはいい。でも他所で話すな」
ギリスは厳しい声でトードリーズに命じていた。
それにトードは淡い笑みで頷いた。
「話しておりません。一度も誰にも。正直に申しまして、時が経つほど夢か幻だったかと思うほどです」
トードリーズは自分の懐にある仮面を衣服の上から押さえ、それが間違いなくそこにあるのを確かめたようだった。
「今日、殿下がお持ちくだされたこの仮面を見て、トードめにも、やっと確信が湧きました。あれが本当にリューズ様だったんですね」
今さらのような事をトードリーズは言った。
あれが、というのが、トードリーズが見たという、どんな人物だったのか、スィグルには分からなかった。
「明日、必ず王宮に戻っております。是非ともお目通りを」
「なぜ父上に会いたいんだ」
会ってどうするのかと、スィグルは不思議になった。トードは懐かしいから会いたいのだろうか。
「殿下は将棋はなさいませんね」
トードはスィグルが学院への旅の間に、将棋を指さなかったのは知っていた。
これから死にに行く身で、そんな気分になれなかったのもあったが、そもそもあまり将棋はしない。相手もいなかった。
「殿下のお父上にも将棋を指す相手がおいででないでしょう。トードにもおりませんのでお察しいたします」
トードリーズはいかにも、父リューズ・スィノニムのことが良く分かっているふうに言っていた。
スィグルはそれを黙って見つめた。
一体どんな縁があれば、一介の庶民であるトードが、玉座に座した父とそこまで通じ合えるのか、スィグルには分からなかった。
それが民の声を聞くということか?
父にはできて、自分にはまだ無いものだ。
「シャンタル・メイヨウやハルペグ・オルロイが撤兵した今、殿下のお父上と対局する相手が誰もおりませぬ。トードがお相手いたしたく」
にこやかなトードに軽く唖然として、スィグルはすぐには返事ができなかった。
「トード……お前、本気で言ってるのか?」
「リューズ様よりお強い棋士に、それ以前もそれ以後も、出会ったためしがありませぬ。トードはリューズ様と戦いたいのです」
「イカレてるよ、お前。玉座の君がお前の将棋友達か?」
ギリスでさえ呆れるのか、のんびりと言ってきた。
それにトードは頷いて満足げだった。
「そういう事でございましょうか。出会った時には御即位前で、トードは知らなかったのでございます。ただの腹ぺこの役者かと。それにしては馬鹿みたいにお強うございましたよね」
にやりとして、トードリーズは嬉しそうだった。
やっぱりトードは頭がおかしいのではないかと、スィグルは久々に思った。
少なくとも他のありきたりの者たちとは全然違う男だ。
「殿下のお引き合わせのお陰にて、感謝いたしております」
深々と叩頭し、トードリーズはスィグルに感謝していた。
トードと初めて会ったのは、トルレッキオへの随行の旅の時だ。
トードは志願したのだと言っていた。
敵地へ行くのだし危険な旅だっただろう。
トードリーズにはその時、妻も子もあり、堅実な仕事もあったのだ。
それを全て投げ打ちトルレッキオへ。それもなぜだったのか、そういえば聞いていない。
たまたまだろうと思っていた。誰もが嫌がる役目を優しいトードリーズが引き受けてくれたのだと。
そうではなかったのかもしれない。
敵地へ捨てられる王子とは言え、工人が壁も幕も隔てず王族と会える、ごく限られた機会だったのだ。
トードはリューズ・スィノニムの息子スィグル・レイラスに会うために随行団に加わったのかもしれない。
そして、お前の父を知っていると伝えてきた。即位が決まったと言って突然別れ、それっきりだったと。
そのせいで、まだ勝敗のつかないままの勝負があった。お会いしたい。
それがトードリーズの用件だったのだ。
アンフィバロウ家の王子を伝令に使うとは、大したものだ。
僕がまともな王子だったら、たぶんもうトードの首を刎ねてる。
「将棋ってそんなに良いものか、トードリーズ」
命を賭けるほどか?
スィグルは疑わしく思い、心の底から尋ねた。
トードは苦笑していた。
「それがお分かりにならない、殿下がおかしいのです」
恐ろしく不敬な気がしたが、スィグルは聞き流した。この程度でいちいち首を切っていては、トードリーズとは話せない。
たぶん父もそうだったのだろう。
この工人を父と会わせるのが自分の仕事だ。
うまくいきそうだった。
それに深いため息が漏れて、スィグルはふと茶の匂いに気づいた。
この家の者たちらしい質素な衣服の女たちが、客間におずおずと茶器を持ってきていた。
立派な品だった。彩色された磁器の器に、紋様の蝶が飛んでいる。
平伏してから、給仕をしようとする女を見て、トードリーズが驚いていた。
「妻です」
そうスィグルに教えてきたきり、トードは幽霊でも見たように青ざめ、唖然としていた。
「なぜ降りてきた。寝ていろ」
客に給仕をする妻に、トードリーズは鋭い小声で言った。
産声を聞いたのは、つい先刻だ。のんびり話してしまったが、でも女は礼服を着ていた。まさか産褥から急ぎ着替えてきたというのか。
女の顔色は悪く、憔悴して見えたが、トードリーズの言葉通り、驚くほどの美女だった。
枯れ谷氏族だ。
まさか王族ではないだろうが、王宮の女官にはこの系統の者もいる。
スィグルは言葉もなかった。なんと言って良いかもわからない。
「ようこそ当家へ。光栄でございます。ごゆるりと」
工人の家の女主人の叩頭に合わせて、茶器を運ぶために付き従っていた二人の女たちも、深々と平伏した。
王宮の儀礼だった。工人区の妻女や使用人がするにしては、あたかも玉座の間の晩餐を思わせるような完璧な作法だ。
来客の顔ぶれを聞いて、産んだばかりの赤子を置いて接待に現れたのだろうか。
殿下や英雄が来たのに寝ていては、無礼を咎められると思ったのだろうか。
王宮とは、そういう場所だっただろうか。そうかもしれなかった。
「忠義だった。ありがとう。もう休んでいて欲しい。見送りは無用だ」
スィグルはそう頼んで、振る舞われた熱い茶を飲んだ。
甘く爽やかな匂いがした。特徴的な。他の客に出された茶と違う。
これは『新星昇る』だ。間違えようがない。昨夜の晩餐で飲まされたばかりだ。
横でギリス達が飲んでいる茶の匂いにも覚えがあった。銘は『英雄来たる』だろう。
この女たちはエレンディラが遣わしたのだ。エル・イェズラムではなく。この者たちの主人は今も王宮の、長老会の部屋にいる。
来る前に知らせようが、無断で来ようが、結果は同じだったのだ。どうせ女英雄の知るところとなる。
イェズラムはトードのことを父上に黙っていたそうだが、エレンディラもだった。
そして、その事実をこちらに隠してもいない。そういうことなのか。
「帰ろう、ギリス。いい勉強になったよ」
小さな茶器を受け皿に戻して、スィグルは去るつもりだった。
器に描かれた蝶の意匠は、即位前の、まだ殿下だった頃の父の紋章と同じだ。
偶然と思うのは難しかった。
「殿下はお父上には少しも似ておられませんね」
もう去るという間際に、トードリーズは急にそう言った。スィグルの顔を眺め。
容貌が似ていないと言っているのだろう。
突然言われて、スィグルは返答できなかった。
それは自分の弱点だ。本当のところを言えば、ずっと気にしていることだ。
朝議の席で図らずも顔を突き合わせることになった第一王子などは、面差しも声もスィグルよりは父と似ていた。
民も廷臣たちも、そういった父の写身の王子を求めているのではないか?
自分はそこから遠いのではないか。
耳を傾けぬようにはしてきたが、スィグルやスフィルのことを、容貌が似ていないことを理由に、父の胤ではないのではないかと悪口を言う者もいるのだ。
名君の血筋を示すのは殿下の義務で、自分はそれを怠っているということなのだろう。
だが、そう言われても、努力で自分の姿形を変えられるものではない。
明らかに自分の弱点だった。
それに答えずにいるこちらを見て、トードリーズはにこにこしていた。
「名君のお血筋ではありませぬ」
にこやかに言う工人の男に、客間にいる誰もが驚いていた。慄いていたと言うべきか。
トードの脇に悄然と控えていた妻も、まるで血が通っていない死霊のように青ざめ、悲しい顔をした。
トードに叛意があれば始末する役目を負っている女だ。それが悲壮な顔になるのを、スィグルは気の毒に思った。
ついさっき、この男の子供を産んだのに、もし今日にもトードを始末することになれば、やはり辛いのだろう。
「やめてよ、トード。どういうつもりだ。皆びっくりしてる」
「トードの首をお切りになりますか?」
面白そうにトードリーズが聞いてきた。
スィグルはそれに苦笑した。
「切らないよ。お前の首を取れるのは父上だけなんだろ? それにお前を将棋盤のところまで連れて行くのが僕の役目なんだ。ここで首を切ったら将棋が指せない」
「はい、左様で」
にこにこと上機嫌に頷き、トードは納得したようだった。
「それでこそ、殿下。そこがリューズ様によく似ておいでです。御顔など……これで十分」
懐から仮面を取り出して、トードリーズは自分の顔にその女面を翳して見せた。
枯れ谷氏族の女だ。王家の顔だと言われている。
「我々のような工人風情に見えるのは、殿下の御顔ではありませぬ。リューズ様が被っておられる名君の仮面を、次は殿下が引き継いでくだされば、それで十分。そう申し上げます、明日」
約束する口調で言って、トードリーズはまた仮面を大事そうに懐に仕舞った。
そして深々と平伏し、青ざめた妻もそれに遅れて倣った。
それは別れの挨拶で、英雄に化けた王子は、工人の家を去ることになったのだった。
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089 詩作
馬車の車輪が石畳の上を走る音が、うるさく車内に聞こえていた。
工人区の喧騒はもう遠ざかり、荷運びの砂牛たちが唸る悲しげな声も、すでに聞こえなくなっていた。
揺れる馬車の中で、来る時と同じ配席に座った英雄たちは皆、無言だった。
ギリスはそれを眺め、自分も特に言うべきこともなく、スィグル・レイラスの隣に座っていた。
黙り込む殿下はまだ、その白い額に玩具の石を貼り付けて、まるで英雄のような横顔だったが、官僚馬車の質素な床板をじっと睨んでいる黄金の目は、明らかに玉座に座す一族の色をしていた。
「どうするんだよ」
ギリスがその横顔を眺めていると、急に重たい声でスィグル・レイラスが言った。こちらを見もせずに。
独り言なのかと思えるような、殿下のその暗い声を、ギリスは首を傾げて聞いた。
誰に言っているのか。
殿下の声を聞いてもなお、車内の連中は重く押し黙っており、フューメンティーナも、いつもの威勢がないようだった。
どうしたの皆、と、ギリスは額にそれぞれの色の石のある暗い顔たちを見回した。
「どうするんだよってお前に聞いてるんだよ、ギリス」
少し苛立ったような声で、スィグルが再び言った。
馬車が王都タンジールを縦に貫く螺旋貫道を下り始め、専用の轍に乗る音がした。
王都を走る馬車の轍は全て同じ幅をしており、走る場所も決められている。
「えっ。俺?」
びっくりしてギリスは尋ねた。
殿下はじろりと暗い穴の奥底から睨んでくるように、ギリスを横目に見上げてきた。
「そうだよ。お前はさっきトードリーズと、明日、父上と対局させるって約束してきたよな。そんなもの、後一日でどうやって手配するつもりなんだ」
それがとても難しいことというように、スィグルは重々しく尋ねてきた。
でもまるで、それがギリスにできると思っているような、問いかける目をしている。
「はぁ? 俺が手配するのか? お前がするんだろ……」
驚いてギリスは声を上げた。
勝負の手配は族長がスィグルに命じたのだ。そうだったはずだ。
それなのにスィグルは、どうしようもない馬鹿を見るような顔で、こちらを見てきた。
「するわけないだろ。お前が勝手に明日だって言ったんだ。何か考えがあったんじゃないのか」
「考えって……ないよ。そんなもん必要か? 族長はお前の親だろ。居室にいって、トードと約束したから明日来いって伝えてこいよ」
そんなの至極簡単なことだと、ギリスは思っていた。
同じ王宮に住んでいて、いと高き玉座の君とはいえ、族長は生身の男だ。何も天使に会えと言ってるわけじゃない。
その天使にだって即座に鷹通信を飛ばせる殿下が、そこらにいる相手に言えないことなんかあるだろうか。
それなのに、スィグルは考えるだけで気が滅入るのか、しおれて肩を落としていた。
「無理だよ。いいか。殿下はほいほい族長の居室を訪ねたりしないものなんだ。余程の理由がなければ、一人抜け駆けして父上に会ったりできないんだよ。何か企んでると思われて、王族同士で揉めるだろう。痛くもない腹を探られるじゃないか!」
スィグルは本気でそう思っているらしく、唸るような声で最後のあたりを怒鳴った。
それに皆は神妙な面持ちだった。サリスファーも、その相棒のジェルなんとかも、エル・フューメンティーナもだ。
誰も意外そうにはしていない。
まさか納得してるのか、殿下の言い分に?
ギリスは軽く喘ぐように呼吸したが、やはり誰も何も言わなかった。
仕方なく、揺れる馬車の中でギリスは言葉を選んだ。
「あのさ……スィグル。俺たち、余程の理由があるし、何か企んでるよ。いい機会じゃないか。お前が族長に格別に気に入られてて、次の族長位に一番近い存在なんだって玉座の間に示す、絶好の機会だ」
「昨夜、父上から、しばらく自重しろと言われたばかりだろ。晩餐の後に。忘れたのか」
それが絶対の命令だというように、スィグルは反論してきた。
それが正しいんだと信じてる目だ。
ギリスはそれにも唖然とした。
「えっ、お前……馬鹿じゃない?」
ギリスは思ったことを口にしてから、サリスファーがうっと息を飲む音を聞いた。
フューメも殿下の向こうの席でうつむき、ひらひらの薄い袖で口元を覆ってギリスを見ていた。
「なんだと……」
スィグルがこちらを見て、またあの、いつぞや殴りかかってきた時の目をした。
ぎらぎら底光りする王家の黄金の目だ。
こいつの、こういう時の面構えは、いかにもアンフィバロウの子孫らしい。
美しいが、恐ろしい。平気で首を刎ねてくるような目だ。
できれば殿下には、いつもこの顔をしていてほしいが、それだと、こちらは常に殴られていることになりそうだった。
それとも、こいつも親父に似て、殴る程度では済ませずに、平気で斬首を命じるのかもしれない。
自分がそういう死に方をするとは、ギリスは想定していなかった。
だが、その時はその時だ。あてにならぬ星に仕えた身の不運だったと思うしかない。
ギリスはため息をつき、腹の底に力が入る気分で答えた。
「売り込めよ、自分を。お前は玉座の間では、かなり出遅れてるんだ。もう、いないも同然だと皆に思われてる。むしろ嫌われてると言ってもいい。それじゃ玉座に座れない。たまには遅れを取り戻したっていいだろ? 死にたくないんだったらさ……」
ギリスの話を聞くスィグル・レイラスの顔は見る間に青ざめたが、不思議とそれが弱々しくは見えなかった。
たぶん、顔色を失うほど怒っているのだ。
そういう顔をしていた。
「悪かったな! いないも同然の嫌われ者で!」
震える拳を膝の上で握り、スィグルが堪えたふうに怒鳴っていた。
どうも殴りたいのを堪えているようだが、なぜ堪えているのか分からない。
「殿下に失礼よ、エル・ギリス」
顰めた小声で、フューメが鋭く嗜めてきた。
「エル・ギリスをお許しください殿下……言葉が過ぎます」
心配げに目を向けてくるフューメンティーナに、スィグルは顔を背けている。
そうすると止むを得ずギリスのほうを向くこととなり、スィグルは辛そうな顔を見せて押し黙っていた。
何かを堪えるように。
たぶん、癇癪を堪えているんだろうなと、ギリスは思った。
それは王家の気質だ。
代々の悪癖ではあるが、族長リューズもひどい癇癪を起こすとイェズラムが言っていた。
ギリスは玉座の男のそんな姿を見たことはないが、養父が嘘をつくはずはない。
その性質は、アンフィバロウ家の者が血の中に持っている傷なのだという。
味方には慈悲深い名君でも、敵には容赦がない。
そして誰が味方で誰が敵なのかは、もちろん王族たちが決める。
「怖がらせて済まない、エル・フューメンティーナ。大丈夫だよ」
スィグルは静かな声で女英雄に詫びていた。
だがギリスには、フューメが何かを怖がっているようには見えなかった。
それでもフューメは頷いてやっていた。幼い弟妹を労る姉のように。
「殿下がお怒りになるのも、もっともです。とても無礼ですもの、この男」
意地悪そうな咎める目でギリスを見てきて、フューメは嫌味ったらしく言っていた。
そうやって殿下と話すフューメは、殿下に仕える女官か何かのようで、優しげに見えた。薄絹の袖がよく似合う。
まるで女みたいだと、ギリスは辟易した。
それが悪いとは言わないが、やりにくいことこの上ない。
「まったくだよ。こいつには何度も頭に来る。僕は君の姉上の提案を、もっとよく考えるべきなんだろうね。骨の馬みたいな黒い衣は脱いで、別の色に着替えるべきか?」
スィグルは暗く笑って、フューメに冗談を言ったようだった。
フューメは曖昧な微笑だった。少し困っているようにも見えた。
その意味はギリスには分からない。
星園閥でスィグルと女英雄どもの間にどんなやりとりがあったのか。
スィグル・レイラスはわざと、ギリスが知らない話をしているようだった。
「そんなに怒んなくても、よくない? 本当のことを言っただけだろ。まさか王宮でモテてるつもりだったのか?」
ギリスは不思議で、そう尋ねた。
それにスィグルは目を細め、また剣呑な表情だった。
そして、いきなりギリスの足を踏んできた。強く。どんと床が鳴るほどだった。
それが案外、素早い攻撃だったので、ギリスは驚いたが、避けなかった。
いつものことで、痛みは無かった。それでも熱い痺れが革の靴を履いた左足を包んだ。
スィグルはじっと間近にこちらの目を見てきて、足を退ける気配はなかった。
「痛くないの!?」
びくっとして、フューメが聞いてきた。
まるで自分が足を踏まれているような顔だ。
ギリスの代わりに、スィグル・レイラスが首を横に振っていた。
「大丈夫、ギリスは痛くないんだ。安心して。でも、僕はこんなことしないほうが良かったな。普通の者なら痛いだろうしさ」
やっと足を退けて、スィグルは長いため息をついていた。
もう怒ってはいないようだった。足を踏んだ程度で気が済んだのか。凶暴な殿下だった。
ギリスはぽかんとして、反省して項垂れているふうな殿下を眺めた。
「悪かったよ、ギリス。乱暴な殿下で。やっぱり僕の射手はお前にしておこう。僕が癇癪を起こして、他の誰かを殴ったら大変だもんな。お前を食うかも?」
スィグルは暗い顔でそう言っていた。
そこまでの事態になるかもしれないとは、ギリスは考えたことがなかった。現族長リューズ・スィノニムの斬首を上回る物凄さだ。過去に家臣や英雄を食った族長がいるかどうか、そんな話は聞いたこともない。
「そこは治らない予定なのか?」
ギリスは呆れて聞いた。スィグルは考え込む顔をしていた。
「僕も努力はしてるんだよ。お前ほど無礼じゃなければ、僕は誰も傷つけたりしないとは思うけど。でも、どうだか分からないだろ?」
なんで俺は傷つけていいと思ってるんだよ。ギリスは疑問だったが、黙っていた。
足の骨が折れてないといいが、なかなか容赦ない踏み方だった。鍛えれば体術もいけるんじゃないのか。
他の殿下にそういった、粗暴なところがあるとは聞かない。癇癪を起こすとも。
そこは王家に相応しからぬ一面として、周囲に隠されているのかもしれなかった。
しかしギリスはヤンファールの戦場で、族長リューズが敵の首を自ら切り落とすところを見たことがある。
玉座に座す時には優しげで、特に屈強というふうにも見えぬのに、族長は戦場では別の男のようだ。
敵の使者の侮辱に激昂し、一刀で森エルフの金髪の頭を胴から切り離していた。
それに陣営は沸き、敵の返り血を浴びた族長リューズに軍は歓呼したのだ。
時と場合による。王家のその激情も。
使い所が正しければ、民にはひたすら好ましいのだ。
スィグル・レイラスもそうに違いない。日頃は優しげで気が弱そうでも、怒れば魔法戦士に平気で喧嘩を売ってくるのだから、族長リューズの激情の血を受け継いでいるに違いない。
しかしギリスはこの殿下をどうしていいか分からなかった。
こちらも本気になれば、スィグル・レイラスを伸すのは容易い。
ギリスの魔法をもってすれば、どんな相手も凍った肉塊となる。
しかし、それは王朝への反逆で、ギリスはそんなことをしたいのではないのだ。
この新しい星を天に打ち上げたいだけなのに、その星を傷つけるわけにはいかないではないか。
妙なことになった。殴り返せばいいような相手ではない。
だが困っていても仕方がなかった。
「分かった。トードリーズの件、族長には俺が話す。それでいいか」
何をどうやって話すのか、ギリスはまだ思いついていなかったが、主人がやれと言うなら何とかするしかない。
スィグルは小さく頷いただけで、何も言わなかった。
いかにもギリスがやって当然という顔だ。さすがは王族と言うべきか。
「僕に従わないんなら、お前なんかいらないんだからな、ギリス。他にも英雄はいる。もっと聡明で礼儀正しい者たちが」
スィグル・レイラスは自分の隣にいるフューメンティーナを顎で示して、じっとりと言った。本気としか思えない面だ。
殿下に示されて、フューメは複雑な顔をしていた。喜んでいるわけではないが、微笑まないといけないのかというような、曖昧な表情だった。
ギリスは肩をすくめて頷いた。殿下が言いたいのは、手腕を見せろということだろう。
人使いが荒いところが、父親とそっくりだった。
「エル……なんだっけお前。歌がうまいの」
サリスファーの隣で平気そうに見ていた念話者に、ギリスは声をかけた。
そいつがなんだか一人だけ退屈そうに見えたのだ。
皆が暗い顔で緊張する中、そいつは一人、淡い笑みだった。
「はい。エル・カーリマーです、兄者。カーリマー」
言って聞かせるように、エル・カーリマーがくどくどと名乗った。悪戯っぽい目が輝いて見える。
「カーリマー。今夜、晩餐の席で族長に謁見しろ。お前の歌を聞かせる」
「えぇー」
とぼけた声でカーリマーが驚いて見せた。
人のことは言えないが、こいつも少々変なのではないかとギリスは疑った。
「サリス、お前、詩が作れるんだろ? さっきのことを詩にしろ。族長が絶対に将棋を指しに来たくなるような、面白いのにしろよ?」
すぐ横にいた弟にそう命じると、サリスファーはさっと青ざめた。
「えっ……晩餐までにですか? 今夜の? 晩餐までに!?」
サリスファーが怯えた顔で、同じことを二度聞いた。
人は青ざめた時、普通、こんなふうにビビって見えるものだ。
しかしスィグルは青ざめるほどに、まるで悪鬼のような凄みがあった。
一体何が違うんだろうな。サリスファーと。
もはやムッとして黙っているスィグル・レイラスを、ギリスは横目に眺めた。
「殿下も一緒に行かないか。今夜。族長に歌を聞かせるだけだ」
「いや、行かない。髑髏馬と親しすぎると思われたくない。今夜はエル・フューメンティーナと話す。また僕の席に来てくれるか?」
スィグルは親しげに女英雄に話しかけていた。
「もちろんでございます殿下。お許しいただけますのでしたら、フューメはいつも殿下のお側に」
頷いて、フューメンティーナはやっと安堵したような笑顔になった。
こいつも姉上から殿下に張り付くように命じられたのだ。望むところだろうとギリスは思った。
「何があったんだよ、女英雄どもと第十八魔洞で」
首を揉んで、ギリスは困った。
これまでは髑髏馬と喜んで親しんでいたくせに、急につれない態度だ。
にやにやしているのは、ひらひらした袖の女だけだった。
「ご聡明な殿下は、我が姉上とのお話で、ご自身の可能性にお気づきになっただけよ」
フューメンティーナがもっともらしく口を挟んできた。
「ロクな話じゃなさそう」
ギリスは肩をすくめ、まだぱくぱくしているサリスの顔を見た。
こいつも第十八魔洞で話を聞いていたはずだ。後で問いただしてみることにしよう。
「詩は無理です、兄者……もう、もう晩餐まで何時間もないです。許してください」
一人で困り顔だったサリスファーが、泣き言を言っている。
「お前の特技だろ?」
ギリスは気弱な弟に尋ねた。
「いいえ特技じゃないです! 嗜む程度って言ったでしょう!」
サリスも十分、キレて怒鳴っているようには見えたが、一切恐ろしくなかった。子犬が吠えているようなものだ。
やはりスィグル・レイラスの竜が地の底で唸るような気迫は、この殿下に独特のものだ。
恐ろしいという感覚がどういうものか、鈍いギリスには分かりかねたが、怒る殿下を見ると血がざわざわした。
かつてヤンファール平原で、最初の守護生物の巨大な銀の目と見つめ合った時と似ている。
それが恐怖というものなら、ギリスは恐怖が好きだった。
恐ろしいな、スィグル・レイラス。これが新しい星の光輝というものか。
ギリスには全く分からなかったが、今もあの時も、撤退する気にはなれなかった。
一か八か、突撃あるのみだ。
「帰ったら正装に着替えてさ、一番乗りで謁見だ。いいな、カーリマー」
「はい兄者」
嬉しげな返事で、エル・カーリマーが答えてきた。
自慢の喉を玉座の間で披露するのが嬉しいのかもしれなかった。
「なんで一番乗りなんですか! もっと詩作のための時間をください兄者……待って」
サリスファーがおろおろと帯に吊るした矢立を弄りながら言っていた。
もう作るつもりなのか、鷹通信に使うような薄紙の巻物と細筆を矢立から取り出してきて、揺れる馬車の中で書き始めている。
揺れで腰が定まらないせいで、蚯蚓がのたくったような字だった。
よい詩なのかどうか、書きつけたものを見ても、ギリスには全く分からない。
「どうしようジェルダイン、どうしよう……」
泣き出しそうな面で、サリスファーが友の名を呼んでいた。
その向かいの席で、名を呼ばれた長身の透視術師は、困ったように苦笑していた。
「一緒に考えるよ、サリスファー。別に詩殿に石碑が建つような名作でなくてもいいんだ。何とかなる」
ジェルダインは肝が据わっているようだった。
ああでもないこうでもないと弟たちは車中で相談して、詩のようなものを作り始めた。
それを聞くともなく聞きながら、ギリスは考えた。将棋盤はどこから借りたらいいのだろうかと。
それを相談しようかとスィグル・レイラスの横顔を見たが、殿下はもう仕事を終えたように取り澄まして沈黙していた。
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090 将棋盤
スィグル・レイラス殿下を黄金の扉で閉ざされた居室に送り届けた後、ギリスは共に付き従った英雄たちと王宮の通路で向き合った。
弟たちは一様に疲れた顔をしていた。
詩作を言いつけたサリスファーなどは、今も必死で何かを考えている青ざめた顔をしている。
ギリスはそれを眺めてから、一人、尊大なふうに立っている、ふわふわした薄物の袖の女英雄に目を戻した。
「じゃ、また晩餐でな」
ギリスは宮廷生活で板についた会釈で、エル・フューメンティーナに挨拶をした。
英雄たちは自分より年下の者には尊大だが、同輩より年上の者には礼儀を尽くすものだ。
フューメも嫌々のようにギリスに軽く目礼してきた。
「今夜の晩餐で、殿下のお席に、あなたの座る場所があるのかしらね、エル・ギリス。殿下は随分お怒りのようだったけど」
恭しい口調で嫌味ったらしくフューメは言った。さも心配げに。
フューメもまだ少女なりに、彼女の姉たちと似て、まるで女みたいだった。
「あるよ。殿下がそう言ってたじゃないか。やっぱり僕の射手はお前にしておこう、って。俺が射手だ。おぼえとけ」
ギリスが念押しをすると、フューメは華奢な肩をすくめた。
「なぜそんなことをおっしゃるのかしら」
「あいつ頭がいいんだよ」
「我が姉上から殿下のお人柄を見るようにと言われているの。レイラス殿下は難しいお方よね」
フューメは気が重そうな表情で、ギリスにぼやいた。
可愛げがない割に、思っていることは筒抜けの女だった。
「殿下はあの通りのお人柄だよ。乱暴でわがまま。しかも人を食うんだぜ、あの可愛い面で」
ギリスが脅す口調で言うと、フューメは不愉快そうにした。でも怖がっているようには見えない。
侍女たちがビビっているようには、女英雄たちは殿下を恐れてはいないらしかった。
「あなた、どうしてあの殿下に肩入れしてるの」
聞けばギリスが答えると思っている顔で、フューメが尋ねてきた。
それがなぜか可笑しい気がして、ギリスは思わず微笑みの顔になった。
しばらく同じ馬車に乗った程度で、フューメはこちらに打ち解けたらしかった。
「どうしてなのか俺も知りたい。お前も撤退するなら今のうちだけど、帰還式までは付き合ってくれ。人数が欲しいんだ」
「それは女長のご命令よ。あなたに言われたからじゃない」
きっぱりと答え、フューメは自分の長衣の腿のあたりの布地を指で摘んだ。歩き出すせいだ。
宮廷用に仕立てられた豪奢な絹の裾は重く、足に絡む。だから皆、歩き出す前に、長衣の布地を指で引っ張って捌くのだ。そうしたほうが歩きやすい。
ほとんど無意識の動作だが、子供のころに皆、宮廷らしい美しい立居振る舞いとして躾けられる。
フューメもあの角のある姉に、そう躾けられたのだろう。
さっき工人の家にいた、亀の妻だという女も、座礼から立ち上がって歩き始める時、同じことをしていた。その工人の妻に付き従う婢女たちも同様だ。
妻はともかく、工人の親方の妻の世話をする婢女までが、宮廷人らしく裾を引くとは思えなかった。
今日見た限りでは、あの第四層には、そんな優雅な者は見かけていない。
だから、トードリーズのした話は事実である可能性がある。あの女は玉座の間から遣わされたのだ。
ギリスは同じように楚々と歩くフューメンティーナを見送った。優雅ではあるが、凛と顎を上げて流れるように歩くその後ろ姿は、堂々として見えた。
同じ女とはいえ、英雄には英雄の、女官には女官の歩き方がある。
男子として帯刀を許され、女が着る長い裳裾ではなく、長衣の重い裾を蹴って歩く女英雄たちには、独特の所作がある。
女英雄は男とも女とも違う。
トードリーズの妻は、控え目で楚々としていたが、歩き方はフューメと似ていた。
つまり、あの女は、宮廷の女官だった者ではないのだ。
問いただせば教えてくれるのだろうか。エル・エレンディラは。
あの女は誰なのか。
そんなことを聞くべきか、ギリスには見当がつかなかった。
エレンディラは長老会の女長かもしれぬが、ギリスの長ではなかった。
今や、自分は誰に命じられて動けばよいのか、そういう相手がいないのだ。
ギリスは殿下を工人の家に案内する前、長老会の鈍色の部屋を訪ね、エレンディラに会った。
殿下がトードリーズなる工人に会いに行くと言っている。族長の遣いで。
会わせていいのか。
エレンディラにそう聞くしかなく、ギリスは遣いにきた子供のように、そのまま尋ねたが、エレンディラは微笑んで答えた。
さあ、どうかしら。イェズラムなら駄目だと言うのかしら。そなたはどう思いますか。
聞き返されてギリスは動揺した。
養父なら、駄目だと言ったのかもしれなかった。
イェズラムが族長をあの工人から遠ざけていたのは、おそらく間違いない。
理由はあるだろう、何か。
しかしエレンディラはギリスにおもちゃの竜の涙の石を与え、殿下のお供で、あなたも行ってらっしゃいな、と許した。
行けば亡き養父に反くことになるのではないか。
だが、これは、族長命令なのだ。
「兄者……あのう、僕らもそろそろ、失礼します。夜までに詩作をしなくてはいけないので」
弱った子犬が鳴くような声で、サリスファーがギリスに語りかけてきた。
ギリスは寄り集まって立っている弟たちの群れを眺めた。
「星園閥は殿下になにを話したんだ?」
ギリスはサリスファーに尋ねた。
「髑髏馬閥から星園に乗り換えるようにと」
サリスは気まずそうに青い顔で話した。
恐らくそんなところなのだろうと見当がついており、ギリスは驚きはしなかった。
しかし、星園閥があの傷ものの殿下に肩入れする気になったというのは驚きだ。
星園は押しも押されぬ大派閥という訳ではないが、主に念動術師を抱える中堅派閥で、変わり者が多い。他の大派閥には馴染まぬ女英雄たちが、あそこで屯しているのだ。
派閥こそ違うが、今は実質的にエル・エレンディラの配下のはずだ。あの女長はとにかく各所に顔がきく。
エレンディラは、あの新星を見込みのあるものと見て、髑髏馬から奪い取る気なのかもしれなかった。 星園にそう命じてあるのだろう。
「でも、殿下はそんなことなさらないと思います。兄者のほうをお選びに」
サリスはスィグル・レイラス殿下を庇うように言った。
一体なんの忠誠なのか。ちょっと目を離した隙に、殿下がサリスと何を話したのか知らないが、この弟はえらく殿下に親しんだようだった。
それをギリスが疑わしく見ていると、サリスは呆れたような顔になった。
「さっき、馬車の中で殿下がそうおっしゃてたじゃないですか。兄者を射手にするって。エル・フューメンティーナではなく。あれはそういう意味ですよね?」
「お前な。英雄譚ばっかり紐解いてるからそうなるんじゃないか?」
ギリスは弟に教えるつもりで答えた。
「殿下はな、両方選んだんだ。どっちかを選ぶ必要はない。俺もフューメも近習させて、両方働かせるつもりだ。でもフューメには派閥がついてるんだ。髑髏馬は派閥を上げて、殿下や俺に従うと思うか?」
「い……いいえ」
喉に胡桃でも詰まっているみたいな、絞り出す声でサリスは答えた。言いづらかったらしい。
でも正直な答えだ。派閥の年長者たちの様子を知っているのであれば、髑髏馬が喜んで殿下に従うとは、どんなに楽観的な弟であっても思いようがないだろう。
星園閥から色良い話があったが、今のところは髑髏馬を選ぼう。だがお前の代わりはいくらでもいるんだぞと、殿下はそう仰せだ。
もっといい話を持ってこいと言いたいのだろう。星園を蹴るのだから、殿下が髑髏馬にそれ以上の厚遇を求めるのは、もっともな話だ。
しかし現状はどうだろうか。
かつて殿下を敵地に送り出した出立式の行列に、髑髏馬の英雄たちがこぞって参加したのを殿下は忘れていないだろうが、それと比べて帰還式ではどうか。
その列に居並ぶのが星園閥の女英雄ばかりでは、格好がつかない。
ギリス一人が付き従ったところで、髑髏馬の名の知れた英雄が他に誰もいなければ、見るものは皆、殿下の側近の派閥がもはや髑髏馬ではないと思うだろう。
しかもそれは、事実でもある。
「しょうがない。まずは髑髏馬の派閥長にならなきゃな」
ギリスは当然の答えとして、そう呟いた。
自分に言い聞かせただけで、弟たちに言ったつもりはなかったが、聞いた者たちは六人が六人それぞれの面持ちで、無理だとギリスに訴えてきた。
そんなことはギリスにも分かっている。
すぐには無理だろう。今はまだ、年齢も戦歴も足りない。
戦歴に至っては、今後増やせる目処もない。
でも、それは皆も同様で、それでも自分には既にヤンファールの勲がある。
養父がよもや、その戦い限りで天使が戦を止めると知っていたわけではないだろうが、今になってみれば、あのヤンファールの戦いが、ギリスが守護生物殺しの英雄としての戦功をあげることができる最後の戦だったのかもしれないのだ。
ギリスと同年代の英雄で、ギリスを上回る戦功を挙げた者はいないだろう。皆、まだ出撃命令を受ける年頃ではなかったのだから。
そして多くの戦果を持つ英雄譚持ちの兄たちは、いずれ死ぬ。おそらく、この十年のうちに、大半は。
その時に生き残っているのは、この真っ白な面の罪穢れない弟どもだけなのだ。
だから不可能な話ではない。自分が英雄譚に謳われる英雄として、髑髏馬の派閥長になるのは。
それがギリスの読みだった。
「施療院に行きますか、兄者……」
心配しきった青い顔で、サリスファーが尋ねてきた。
気が狂ったと思われたらしい。
「サリス。お前らの他にも髑髏馬の新入りがいるだろ。仲良くしろ。兄はいずれ死ぬ」
髑髏馬の広間にいた兄たちの様子を思い出しながら、ギリスは弟たちに命じた。あの広間は、いずれ空っぽになるのだ。
「そんな……」
嘆くような顔で、サリスが答えてきたが、不思議なことに、嘆いて見えるのはサリスだけだった。
弟たちは皆、黙っていた。
「兄が死に絶えるのを待つ」
ギリスがそう伝えると、弟たちは黙り込んで俯いていた。
「お前たちは、できるだけ長生きして、俺に従え」
「それってもう決まっているんですか?」
深刻そうに俯く弟たちの中で、歌の上手いやつがひょいと顔を上げてギリスに尋ねた。
「いいや。決まってない。お前らが決めるんだ」
「エル・カーリマーです」
聞いてないのに弟が名乗った。
「聞いてないだろ。カーリマー」
「サリスだけ憶えられてて羨ましいんですよ」
ごねる口調で言うカーリマーは、少し癖のあるよれよれの髪をしていた。きちんと結ってあるのに、何となくだらしなさそうに見える。
「俺ね、兄者、今お仕えしている兄上がいいんです。だからサリスみたいにギリスの兄者に鞍替えはできないんですけど、それでもいいですか?」
「お前の兄上て誰だよ」
ギリスが尋ねると、カーリマーはギリスの知らない名を口にした。
髑髏馬の英雄なのだろうが、とにかく知らない。
それでギリスが顔をしかめていると、カーリマーは呆れたようだった。
「本当に誰も知らないんですね。自分の派閥なのに。うちの兄上は、あの戦場詩人エル・ビスカリスの弟だったお方ですよ」
さも有名そうに、カーリマーはその名を口にしていた。
「それ、聞いたことある。エル・ビスカリス」
ギリスの答えに、カーリマーはしばらく答えに詰まったようだった。
「そりゃ知ってるでしょう。知らなきゃおかしいですよ。エル・ビスカリスは族長の側近の英雄で、エル・イェズラムの直属の弟だったお方です。だからギリスの兄者にも直接の兄上にあたるお方でしょう」
「ややこしいんだよ!」
ギリスは心底からそう言った。
エル・なんとかが誰それの兄で、あるいは弟で、そのまた弟で、さらにその同輩の兄で、そのまた同輩で……。そういう話になると、いつも考えることを頭が拒否してくる。
「憶えてください! 基本です」
エル・カーリマーが怒鳴っていた。
「お前が憶えろ」
「俺は憶えてますよ」
さらに呆れた顔になるカーリマーに、ギリスはさすがに面目なかった。
今まで、派閥に誰がいるかなど、本当に興味がなかったのだ。
派閥長であるイェズラムに付き従っていれば、それで十分だった。
自分の仕事は、敵の守護生物を大魔法で撃破することだ。突撃、撃破、また突撃だ。
その他のことなど、一切何も考えずに自分は生きてきたのだ。
そんな奴が髑髏馬の派閥長になろうなどとは、実は無茶なことだろうか。
そうかもしれなかった。
「もっと知り合ったほうがいいんじゃないですか、派閥の兄たちとも。エル・フューメンティーナ、向こうの派閥の姉たちに、めちゃくちゃ可愛がられていますよ」
強く勧める口調で、エル・カーリマーが言った。
「俺は兄に殴られてるのにか」
「名前も憶えてないせいじゃないですか?」
そんなことがありうるのか。
カーリマーは真剣に言っているようだったが、名前や顔を憶えていない程度で殴られるような事があるのだろうか。
ギリスは今までそれについて考えたことがなかった。
そもそも、派閥には誰がいるのか。
さっぱり分からぬ。
ジェレフと、英明なる紺碧の何とかと……透視術師の兄、エル・ダー……なんとかだ。
そこまで考え、ギリスは自分の今までの周りへの興味のなさに自分で驚愕した。
髑髏馬に誰がいるのかも知らずに、その派閥を率いたりできるわけがない。
「どうしよう?」
ギリスは目の前にいたカーリマーに尋ねた。
「えぇー!? 知りませんよ、俺は。この状態で兄上たちが死に絶えたら、俺ら終わりじゃないですか?」
的確な分析だった。
「大丈夫だ、まだ時はある。お前らの兄は、今すぐ死ぬわけじゃない」
ギリスは苦々しい気持ちで弟たちを慰めた。
イェズラムは死んだが、ジェレフや、エル・ダーなんとかはまだ元気そうだ。
サリスの兄はもう長くないという話だったが、派閥の宴席で怒鳴っているのを見た限りでは、そう素早く死にそうには見えない。
まだ時を残してくれているはずだ。髑髏馬に乗って駆ける兄たちは。
それが力尽きる前に、自分たちが成長していればいいのだ。
「そんな先のことより、明日使う将棋盤をどうするかなんだけど」
ギリスは弟たちを見回して、どれかの顔が、将棋盤なら持っていますというのを期待した。
だが弟たちはギリスをじっと見るだけで、そういった発言をしそうになかった。
「明日なんですよね、将棋」
サリスファーがじっとりと暗い顔で尋ねてきた。
「そうだよ」
「なんで兄者は、計画してから話をしないんですか? 将棋盤の手配はどうしようかな、とか、明日で間に合うだろうかって、決める前になぜ考えないんですか」
サリスは真面目に聞いているようだったが、ギリスには答えがなかった。
「なんでかって?」
どこを見ていいか分からなくなり、ギリスは王宮の廊下を埋めている、絨毯の複雑な織柄を見つめた。
しかし、それを見て考えたところで、ギリスには自分でも自分がよく分からなかった。
「あのな……そういうことは早い方がいいんだ、サリス。族長は待ってる。将棋盤なんてどこからでも持って来られるだろ?」
「どこからですか」
サリスは不思議そうに尋ねてきた。
将棋を嗜む者がそこらへんにいるはずだ。それを探して借りてくればいいんだ。
案外、髑髏馬閥にだって一人ぐらいは、いるんじゃないのか。
そういうつもりでギリスは適当に考えていたのだ。
「兄者……あの……」
サリスの隣で黙っていた長身の弟が、控えめに口を挟んできた。
「俺の兄上、エル・ダージフが将棋盤をお持ちです。お願いしたら貸してくださると思います」
「よし、お前がそれを借りてこい」
ギリスは満足して、長身の弟ににっこりしてみせた。
こいつはジェルダインだ。確かそういう名だった。知識の晶洞に潜った時、役に立った奴だ。
「兄者からエル・ダージフに事情をお話ししたほうがいいと思います。何のご相談もせず、将棋盤だけお借りするのは無理です」
「どうして?」
ギリスは不思議に思って聞いた。それにジェルダインは困った顔をした。
「由緒ある将棋盤で、エル・ダージフの亡き兄上が遺されたものだからです。兄はとても大切にされています」
「ちょっと借りるだけだ」
皆が昼飯を食う間だけのことだ。おそらく。族長にはそれ以上の時間はない。
そう思ってギリスが答えると、兄に忠実らしいエル・ジェルダインは難しい顔になった。
「では、俺にその長煙管を、何も聞かずに貸してくださいますか。ちょっとだけですので」
ジェルダインが視線で示す先を、ギリスも見下ろした。
自分の帯に下げた煙管入れに挿さっている銀の長煙管を。
イェズラムの遺品だ。
ギリスはジェルダインと向き合って、顔をしかめた。貸したくなかったからだ。
ため息をついて、ギリスは答えた。
「わかったよ。お前の兄に叩頭して頼めって言うんだろ」
「そうしてください」
頷いて言うジェルダインに、ギリスは参った。
まだ新入りのくせに、ずいぶん見どころのある弟だった。
こつらがもっとデカければ、髑髏馬閥も安泰なのかもしれない。
その日がいずれは来るのかもしれないが、それまでどうやって派閥の権勢を守るのか。
戦のない今の宮廷で、激戦区の突撃部隊だった髑髏馬が、今後どうやって英雄譚を稼げるのか、見当もつかない。
それを誰に相談したものか、派閥長だったイェズラムも、もういないのだ。
自分たちしかいない。
どうしたらいいのかと、自分はそれを、まずは髑髏馬の兄たちに問うべきなのかもしれなかった。
「エル・ダージフに会いたい」
ギリスは長身の弟、ジェルダインにそう求めた。
「お供します」
ジェルダインは頷いて答えたが、その横でサリスファーがぎょっとしていた。
「え、詩作はどうするんだよジェルダイン。手伝ってくれるんじゃないのか」
それが余程のことなのか、唖然とする友に、ジェルダインが苦笑していた。
──つづく──
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